町田くんに貸した千円が、なかなか返ってこない理由

 完結です。
 ちょっと長くなりました。
 一万字くらいの予定でしたが、すこし増えてしまいました。
 ですので、想定より、退屈をかなりともなうものになってしまいました。
 あしからず。 
 退屈を苦にされず、おひまなかたに、ご一読頂けたら幸いです。 
 
 

 町田くんに貸した千円が、なかなか返りそうにない、という話。

 久し振りに、朝早く起きて自転車をこぐ。
 こころなしか、ペダルが重い。 
 運動不足? 
 私が太ったのではないことを、祈るばかりだ。
 それにしても、何だって学校が、坂の上にあるのだろう? 私に対する嫌がらせ?
 大体、まだ夏休みのはずなのに、油蝉だってやかましく鳴いているのに、全員参加の補習授業って、何なんだ。これだから、中途半端な進学校って嫌いだ。
 息を切らし、やっとで坂を上り切ると、正門が見える。
 幸い、教師の姿はないし、信号も青。
 私は自転車横断帯を渡り、正門を潜って駐輪場へ向かった。
 三組の駐輪場は、すでに自転車がこれでもかとばかりに詰め込まれていて、もはや私の自転車の置くところがなかった。
 要するに、私は遅刻していた。 
 仕方なく、クラスメイトの自転車を一台ずつ、左へ左へと寄せて行くと、あと四、五台置けるスペースが出来た。
 そこに悠々と私の自転車を停めてから、左に目白押しにされた自転車を眺め、これは取り出すのが大変だろうなあ、なんて無責任に思う。
「お、停められる」
 その、ちょっと嬉しそうな声のした方を見遣ると、町田くんだった。
「ちょ、ちょっと――」
 反射的に、私は町田くんを制してしまった。
「はい?」
 怪訝そうな顔をする町田くんに――そのスペースは、私が苦労して生み出したものであって、それを君が私に断りもなく、自転車を停めようとするのは頂けない。停めたくば、まずは私に、感謝なり労いの言葉をかけなさい――なんてことを、思わず言いそうになったけど、もとより町田くんも三組の生徒なのだから、彼が三組の駐輪場に自転車を停めることを、どうして私が止められようか? 
 しかし、しかし私は何だかやりきれない。
「で、なに?」と、町田くん。ちょっといらついている。
「か、かご」
「かご?」
「そ、そう、カゴよ、カゴ。自転車のカゴにカバンを入れちゃ、駄目でしょ、校則違反。カバンは、後ろの荷台にロープで固定しないと」
「ああ、まあ、そうだね」
 とっさの指摘だったけど、意外に効いたようで、町田くんは、
「その、遅刻しそうで、時間がなかったから、つい……」と、言葉を濁す。
「以後、気を付けてよね」
 何だか、風紀委員みたいな口振りで、我ながら、おかしく思った。
「分かった、以後気を付けます。で――」と、自転車を停めながら町田くんは、私を見た。
「で?」
「君は、どうなの?」
「どう、なのって?」
「なんでこんな時間に駐輪場にいるのかってこと」
「う」
「もしかして、そっちも遅刻?」
「お、同じにしないでよね。私は、チャイムがなる前には、ちゃんと正門を潜ってました。ただ、自転車が一杯で、停めるところがなくて、それを作っていたら(と、暗に私の苦労を示す。が、町田くんは気付かない)チャイムが鳴って、今に至る」と、思わず私は嘘を吐く。
「はあ、そうですか」と、言って、自転車のカゴからカバンを取り出す町田くんは、見透かすように笑っていた。その視線の先を目で追うと、しっかり校舎の時計を見ていた。
 九時四十五分。
 ホームルームはおろか、とっくに一時間目も始まっている。
「あ」と、声を漏らす私。
「次は何?」
「あさがお」
「え?」
「町田くんの自転車のカゴの中に、朝顔が一輪、咲いてる?」 
 おかしな話だが、確かに、青紫色の朝顔の花が一輪、カゴの中に咲いていた。
「ああ」
 けれども町田くんは、さもありなんというような顔をして、
「実は、こいつのせいで遅刻したんだ」
 そう言うと、朝顔を摘み取り、親指と人差し指とでくるくると回して見せた。
「どういうこと?」
 私の質問を無視して、
「朝顔って、長日植物? それとも短日?」
 不意に町田くんが、生物の問題を出して来た。
「な、なに突然」
「正解したら、話してあげる」と、町田くんはいたずらっぽく笑う。
「え、えええっと……」
 右頬に手を添えて、考え始めた私を、しかし町田くんは、無視するようにすたすた歩き始めた。
「って、おい!」
 慌てて私は町田くんを呼び止める。
「答えは?」と、振り返って町田くん。
 何か、釈然としないが、
「……たん、じつ?」
 私は恐る恐る、答えた。
「……正解」
 町田くんは、ハアーと溜め息を吐き、
「話せば長くなるんだけどなあ」と、面倒くさそうに言った。
「話してくれないと、気持ち悪いよお」
 とりあえず、甘えるように言ってみた。
 けれど町田くんは、
「遅刻する」と、真顔で言う。  
 忘れてしまいたい現実を突き付けてくる。どっと滅入ったが、
「もう、充分遅刻してるから」
 私が、苦笑い交じりにそう言うと、町田くんも、苦笑して、
「歩きながら、話そうか」と、歩き出しながら言った。
 私も歩き出して、同意を示す。

「あの朝顔は、もともと妹が学校から持って帰った鉢植えのなんだ。夏休みだから――ほら、小学生の時、持って帰っただろ?」
 私は、無言で頷く。私たちは、授業の行われている校舎内の階段を上っていた。三組の教室は三階にある。
「それがむやみやたらに生長し、僕の自転車に、それはみごとに巻き付いていた――その事実に気付いたのが、今朝だった」
「今朝? 朝顔って一日やそこらで、そんなメチャクチャに伸びるものだっけ?」と、私は素直な疑問を呈する。
「実はしばらく、母親の実家に行っていて――妹は部活があるとか言って行かなかったんだけど――戻ったのが昨日の夜だったんだ。だから、まさか僕の自転車がそんなとんでもないことになっていようとは、夢にも思わなかった」 
「それは大変、だったね」と、私はとりあえず同情し、
「でも、妹さんも、わざとやったわけじゃないんでしょ?」と、これもとりあえず言ってみた。
「いや、わざとやったんだ」
 町田くんは、苦々しげな顔をしてそう言った。
「そりゃまたなんで?」と、私は気軽な調子で聞く。
「朝顔の観察日記。夏休みの自由研究だよ。でもそれだけじゃあまりにベタだからって、自転車に絡めたんだ」
「そう、なんだあ……」としか言えなかった。
「まさか、そのまま乗って来るわけにも行かないだろう。それで引き千切ろうとしたところを、妹に――」
「妹さんに?」
「どつかれた」
「……ど、どつかれた?」
「うん、みぞおちに一発ね」
「みぞおち……」
「全く、しばらく呼吸が出来なくて、身動きとれなくなったよ」
「もしかして、それで遅刻?」
「いや、動けるようになってから、とりあえず自転車に巻き付いていた朝顔を丁寧にほぐして――それを丁寧に妹の自転車に絡めていたら、遅刻した」
「……あ、そう」と、相槌打ったところで、ちょうど三階。
 三組の教室は、もうそこである。

「一応、聞いてやる。遅刻の理由を言ってみろ」
 居丈高に、先生から言われても仕方ないくらい、私達は遅刻していた。
 私と町田くん、目を交わし、互いに譲り合って、結局、
「町田から」と、眉間にしわを寄せる先生のご指名で、町田くんからとなる。
 さて、町田くんは、なんと言い訳するのやら? 
 まさか、妹さんの朝顔の話を持ち出すことはないだろう。ここは穏便に、寝坊あたりで手を打つんじゃなかろうか、と漠然と私は思った。
「実は、妹の朝顔がですね――」
 おい――っと危うく口に出してツッコミそうになった。
 町田くんは、さっき私にしてくれた通りの話を、そのまま先生に、仕切ってみせた。それも、証拠として、さっきの朝顔を見せながら。
 先生は、はっきり困惑受け取れる表情で、少し寂しい後頭部をぼりぼりかきながら、
「町田なあ、そんな言い訳が通用すると思っているのか? 吐くんなら、もう少しましな嘘を吐け」
 それに対し、町田くんは変に意気込んだ感じで、
「お言葉ですが、僕は言い訳した覚えはありません。先生は、僕に遅刻の理由をたずねられた。僕はただ、それに真摯に答えただけです」と、反論した。
 先生は、ため息を一つ吐き、
「……そうかあ……」
「そうです」
「で、青山。お前は?」と、町田くんには匙を投げ、妙に優しい口調で私に聞く。
「ああ、青山」
 不意に、ポツリ、早口で町田くんが私の名前を呟いて――私は愕然とした。
 町田くんは、私の名前を知らなかったのだ! 
 いや、ひょっとすると、私が今朝三組の駐輪場の前に立っていなければ、私をクラスメイトであるとすら認識しなかった可能性もある!
「青山?」 
「……寝坊です。寝坊でいいです」と、私は投げやりに答える。
「……なんだ、ずいぶん投げやりだな。まあいい、とりあえずお前たち二人は遅刻の罰として、補習期間中教室掃除な」
「二人で、ですか?」
 町田くんが、言った。あからさまに、嫌そうな響きがある。
 たった二人で掃除するのが嫌なのか、それとも、つい今しがた名前を知った、路傍の石のごとき存在の、どうでもいいクラスメイトの女子の私と二人で掃除するのが嫌なのか、それともその両方なのか――でも、もう、どうでもいい。
「ま、翌日以降、他の誰か遅刻すれば三人四人と増えるかもしれないが、とりあえず今日のところはお前ら二人で掃除しろ」
「……分かりました」
「……はい」
「じゃあ二人とも席に着け」と、言ったところで一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「……委員長、号令」と、苦々しく先生。


 

 放課後である。 
 補習の授業は三時間お昼前に終了した。
 さて、教室には、私と町田くんの二人きり。
「えっと、黒板消すのと、床掃くのだけど、机と椅子はどうしよう? 二人じゃちょっと大変だし……」
「別に動かさなくてもいいでしょう、間を適当に掃いてったら」
「そうだね」
「とりあえず、黒板消しか床掃き、手分けしてやろう。どっちする?」
「……届かないよ」
「は?」
「……黒板の上の方、届かない」
 町田くんは、私を見下ろして、
「ああ」と、納得したような声を漏らす。それから私に背を向けて、黒板へと向かう。黒板には、ぎっしりと漢文の書き下し文が書かれていた。
 私はロッカーから箒を取り出して、床を掃き始める。
 しばらく、お互い黙々と掃除していたが、
「ちなみに、身長何センチ?」
 不意に町田くんが聞いてきた。 
「それ、ふつう、聞く?」
 私は町田くんの背中を睨み付ける。町田くんは、振り返りもせず、黒板を消しながら、
「いや、妹と比べてどうかと思ってね。見た感じ、いい勝負だと思うんだけどなあ」と、笑いながら言う。
「……妹さん、小学生だよね」
「うん、小四」
「小学生と、身長比べられる高校生の気持ちって、どんなか分からない?」
「……もしかして、気を悪くした?」
 町田くんはそう言ったが、相変わらず振り返りもせず黒板を消して行く。
「うん、これで今日、三回目」
「さんかいめ?」
 まだ、振り返らない。
「一度目は、朝の自転車置き場」
「何か、あったけ?」
 まだ、だ。
「……これはまあ、正確には町田くんは悪くないかもしれなくて、何て言えばいいのか、アレなんだけど――町田くん、今朝自転車置き場で、自転車停められるって喜んだでしょ」
「そうだっけ」
「……そう、です。でもあれ、私が一人で自転車寄せてようやく作ったスペースだったんだよ。それをさ、タイミングよく私が寄せ切ったところに現れて、ちゃっかり自転車停めちゃって。何か、トンビに油揚げさらわれちゃったみたいで、釈然としない」
「はは、久しぶりに聞いたよ、その慣用句」
 と、ここで町田くんは振り返る。 
 私は、はっきり、すっごく、ムカついた。
「いや、そこ?」
「いや、ごめん。いや、トンビに油揚げって、普通女子校生が使うかなっと、ちょっとほんと、なんかツボっちゃって――」
「何か私、今すっごく町田くんのこと、殴りたいんですけど」
 事実、私の右手は、握りこぶしになってプルプルと震えている。
 けれど町田くんは笑いながら、 
「いや、ごめん、ほんとごめん。でも、駐輪場の件はさ、僕が別に悪いって訳じゃ――」
「……分かってる。それはあくまでも私の問題。でも二回目は――これは本当に、すっごく傷つけられました。……それが何か、分からない?」
 町田くんは、再び背を向け黒板を消しながら、
「さあ、思い浮かばないなあ」
「……町田くん、私の名前、分かる?」
「なに、突然」
 町田くんの声は明らかにひきつっていた。けれど振り返らない。
「分かんないでしょう」
「あお――きさんだよね?」
 振り返らない。
「青山です」
「ああ、青山」
 町田くんは背を向けたまま呟く。
「五回目。そう言う風に、今朝も教室で呟いたでしょ」
「ああ、そういえば」
「そうそれなのに、放課後になったら、結局忘れちゃって」
「まあ正直、あまり話したことなかったし、それにほら、文系クラスで女子の人数が多いから――て言うか、五回目?」
「傷つけられた回数」
「四回目は?」
 私は言いたくなかったが、
「……トンビ、あぶらあげ」
 ブフっと、町田くんは吹き出して、
「ごめ、これで六回目だね、ははは」と、平気で私の逆鱗に触れる。
「……もしかして、自転車置き場で会った時、私がクラスメイトだってことも分からなかったんじゃない?」
「いやあ、それはさすがに、三組の駐輪場にいたから」
「七回目! 私たち、一年の時も同じクラスだったんだよ」
「ウソ!」
「八回目、今本気で驚いたでしょ!」
「と言うことは、あと二回で十回か」
「おめでとう、今ので九回目」
「じゃあ、今日中に達成出来そうだね――もしかして、今ので達成出来たかな?」
「……はい、出来ました」
「まあ、僕が結構青木さんを傷付けちゃったってことはよくわかったよ。だからとりあえず、掃除、あとは僕がやっとくから、それで許してよ、青木さん」
 十一回目。
――ああ。もう、誰か町田くんを懲らしめてくれないものかしら!?

 空調の利いた校舎内にいたせいで忘れていたが、外へ出た途端、茹だるような暑さに襲われて、今が夏だと言うことを、私は否応なく思い出す。
 三組の自転車置き場は、朝とは違ってすでにまばらで、私のと町田くんの自転車とが、右すみに隣どうしに並んで停められているのが、際立って見える。  
 私は、周囲を確認してから、町田くんの自転車を、学校指定のローファーの右爪先で軽く蹴ってやった。
 これが、私に出来る精一杯だった。もちろん、これだけでは全然すっきりしないけど。
 自転車を手で押しながら(本来、校内では自転車に乗ってはいけない)正門を出たところ、
「あの、すみません」と、私は不意に声をかけられる。
 声の主を見て、私は軽く嫉妬した。
 県下で知られた名門女子高――S女の夏服を身に纏うその女子は、背が高く美少女で――何より背が高かった。
「な……なにか?」
 雰囲気に圧倒され、私は思わずどもってしまった。青色の紐タイから、彼女が私と同じ二年だと分かるのに。
「えっと、何年生ですか?」
「……二年ですけど、一応。二年三組」
 本当に、同じ二年だろうかと卑屈なことを思いつつ私が答えると、彼女の表情はパッと晴れやかになり、
「じゃあ、ハルキと同じクラスだ!」と言って、パンと一つ手を叩く。その音は校舎に反響し、思いの外大きな音となる。
「ハルキ?」
 名前から男子だとは分かったが、該当者が直ぐに出てこない。
「あ、ごめんなさい。町田です、町田ハルキ」
「ま、町田、ハルキ?」
 そうだった。彼の名前は町田ハルキだった。名前を呼ぶことなどないものだから、直ぐに思い浮かばなかった。
 それにしても、町田くんを名前で呼ぶ彼女はいったい何者だ?  
「そう、町田ハルキ。三組だから、同じクラスですよね?」
「……まあ、一応、クラスメイトですけど……」
「さっきからずっと待ってるんですけど、全然出てこなくて。もうとっくに補習は終わってる時間なのに……もしかして、もう帰ったとか?」
「……町田くんなら、もう少ししたら出てくるんじゃないですか? 今朝遅刻した罰で、教室の掃除させられていましたから――」
 と言って振り返ると、ちょうど町田くんが、自転車を押しているのが見えた。感心にも、ちゃんと鞄を荷台に留めている。
「――あ、あそこ。町田くんです。ほらあれ」
「あ、本当だ。どうもありがとうございました」
 丁寧に頭を下げる彼女に、
「いいえ」と言って、私は自転車に股がったが、幸い(?)信号は赤で、立ち止まる。
 私は、もちろん耳を澄ます。
「ハルキッ」と、彼女の嬉しそうに弾む声。
 それから町田くんの、
「ああ」と、いかにも気軽で親しげな感動詞。
 教室での『ああ、青山』の時の『ああ』とは全然違う。
「なに、ナツキ。何のよう?」
 彼女はナツキって名前らしい。
 名前で呼び合うってことは、あの二人は、やっぱり――そう言うことなのだろうか? などと思うまもなく、
 ――ドスドスッ
 と、後ろから、鈍く大きな音が轟いた。それは校舎に反響し、かなり大きく轟いた。
 それから何かが倒れる音。 
 驚いて、私は振り返る。
「え?」
 見ると、町田くんが、うつ伏せに倒れている。
 そんな町田くんのサマを、例の彼女――ナツキさんが、何故だか町田くんの自転車に股がって、ほくそ笑みながらスマホで撮っていた。
 これは、いったいなんなんだ?
 事態を、巧く飲み込めない。
「ちょ、ちょっと」
「はい?」
「あ、あなた、町田くんに何したの?」
 恐る恐る、私は尋ねた。
「まず左胸にコークスクリュー」
「はい?」
「崩れたところをみぞおちにアッパーブロー」
 ジェスチャーを交えて、笑顔で説明してくれた。
「じゃ、じゃあ何で町田くんの自転車に股がっている訳?」
 ナツキさんは、少し考えてから、
「戦利品?」と、また笑顔。
「他にご質問は?」と、まだ笑顔。
 おずおずと私は尋ねる。
「……あの、なんでそもそも、町田くんの左胸にコークスクリュー? それからみぞおちにアッパーブローなど……」
 これも、少し考えて、
「確実に仕留めるため」と、真顔で答えられ――非常に、怖い。
「そ、そうじゃなくて、ですね(思わず丁寧語になる私)なんでそんなことを、町田くんを、仕留めなくちゃ、いけなかったんですか?」
 まさか、教室での私の祈りが聞き届けられたって訳ではないだろうけど、町田くんの現状に、私は少なからず責任を感じてしまっていた。
「何か、正当な理由が、あるんですか?」 
「……アキに頼まれたの」
 そう言うナツキさんの表情は、暗かった。
「アキ?」
「アキが、そいつにひどいことされたの。だから――」
「ひどいこと?」
 男子が、女子にするひどいことを私は想像し、赤くなり、すぐさま青ざめた。
「そう、今あなたが思い浮かべたようなことを、この男は――」 

「ちょ、ちょっと待て」
「町田くん」
「黙って聞いてりゃ、好き勝手言いやがって」 
「あら、さすがお兄様。わずか三分二秒で立ち上がるなんて」 
「菊花賞ならレコードタイムってか?」
「残念、菊花賞のレコードタイムは三分一秒よ」
 なに、このやりとり――て、あれ?
「今お兄様って?」
 町田くんは、ナツキさんを、顎で指しながら、
「妹」と言った。
「妹って、今朝の朝顔事件の?」
 私はそう言って、『事件』は大袈裟だな、と思う。
「あなた、何で朝顔事件を知ってるの?」と、目を丸くしてナツキさん。どうも、『事件』で定着してしまいそうだ。
「いや、だって町田くん、先生に遅刻の理由を聞かれて、全部話してたから。クラス全員知ってるし……」
「朝顔事件事件の妹とは別の妹」と、町田くんまで『事件』呼ばわりする。すっかり『事件』で定着してしまった。
「でも紐タイの色、青だから同じ二年ですよね? なのに妹って、おかしくないですか?」と、私は素直な疑問を呈する。
「それは私が義理の妹だからです」と、真顔でナツキさん。
「義理?!」
「嘘」
「で、ですよね」
「ハルキは一年の時に留年してるんです」
「え、町田く――町田先輩、だったんですか?」と敬語になる私。
「違う。ナツキと僕とは双子なの。だから、お互い二年で問題ないの」
 私はナツキさんを見た。ナツキさんは、小さく頷
「じゃあ、さっき出てきたアキってコが、朝顔の妹さん?」
「うーん、必然的にそうなります、かね?」と無駄にナツキさんは、曖昧な返事をする。
 私は町田くんに視線をやって確認を求めると、町田くんは頷いた。 
「ということは、町田くんがアキちゃんにした『ひどいこと』って言うのは、朝顔の?」と、言いつつナツキさんの方に視線を戻すと、すでにナツキさんは、町田くんの自転車で坂を下っていた。それがもう大分小さくなっている……。
「……速い……」
 さて、取り残された私と、町田くん。
 私は、とりあえず町田くんを見た。
「あ」
「何?」
「大変、町田くん、血が出てる!」
「血?」
 町田くんの制服の左胸ポケット――即ちナツキさんからコークスクリューを受けたところが、青く血ににじんでいる。 
 ――うん、青い?
「町田くん、あなた、宇宙人!」
「……なんでそうなる」
「だって、血の色が青いから……」
「ああ、これは血じゃなくて。ほら」と言って、町田くんが左胸のポケットから取り出したのは、ぐちゃぐちゃに潰れた朝顔だった。
「あ、朝顔。見ないと思ってたら、そんなところに入れてたんだ」
「まあ、捨てるに捨てられなくてね。結果このざまだ」と言って、潰れた朝顔を再びポケットに戻す。
「戻すんだ……」
「何?」
「ううん、何でもない。で、町田くん、これからどうするの?」
「どうするって、そりゃ帰るけど」
「でも、自転車……」
「あ、そうか。どうしよう?」
「とりあえず、交通機関を利用しては?」
「財布は、鞄の中」
「はい?」
「だから、財布は鞄の中」
「鞄は?」と、聞いて私ははっとした。
「自転車の荷台にロープで固定している。今朝、誰かさんに指摘されたから」と、町田くんは鬼に首でもとったかのような、得意気な顔をしていった。
「……」
「……」
「……分かりました」
 沈黙に耐えられなくなって、私は自分の財布から、千円札を取り出して、町田くんに差し出す。
「悪いね。なんか催促したみたいで、明日返すから」
 してたでしょと思ったが、
「……気にしないで」と、私は努めて冷静に受け答える。
「じゃあ、私もう行くから。さよなら」
 そう言って、私は町田くんに背を向けて、自転車にまたがった。
「あ、青木さん」
「青山です!」
「ああごめん。でも一度間違えて覚えちゃうと、かえって印象に残って分からなくなることってあるよね」と、町田くんは、悪ぶれもせずに笑いながら言う。
 私は、ムカムカしながら、
「……で、何でしょう?」
「赤だよ。信号」

 翌朝。
 町田くんは、朝のホームルームに遅刻して来た。
 遅刻の理由を問われた町田くんは、昨日と全く同じことを言った。ただ、今回証拠として朝顔を提示しなかったのは、二度めとあって、上手に朝顔をほぐせたからなのだろう。
「お前は、朝顔が枯れるまで、遅刻するつもりか?」
「場合によっては、そうなるかもしれません」と、町田くんは妙に堂々と答える。
「妹さんに謝る気はないか?」
「まさか。僕は兄ですよ?」
「……そうか」
「そうです」
「そうかあ」
 先生は匙を投げて、町田くんを座らせる。
 放課後。
 結局他に遅刻者なしと言うことで、今日も私と町田くんで掃除することとなった。
「はい、昨日の千円」と、財布から千円札を取り出す町田くん。
「利子は?」と私が言うと、
「……じゃあ、今日は僕一人で掃除するよ」
 私は、了承した。

「あの、すみません」
 正門を出た私に声をかけてきたのは、十歳くらいの可愛らしい女の子だった。
「なんでしょう?」
「えっと、何年生の方ですか?」
「二年ですけど。二年三組」
「あ、ハルキと同じクラス!」
 その反応に、私はピンと来て、
「……もしかして、あなたアキちゃん?」と言うと、女の子は、
「ど、どうして私の名前を?」と驚いて、目をぱちくりさせている。
 なんだ、良かった。私より、全然、五センチはちっちゃいじゃないか。
 私は五センチの余裕から、
「今朝も大変だったね、朝顔」と、同情を示してあげると、アキちゃんは目を見開いて、
「あなた、エスパーですか?」と、真顔で言った。何て可愛らしい反応だろう。
 私は、そんな可愛らしいアキちゃんを、優しく諭す。
「あんまり、お兄さんをイジメたらダメですよ」
「……残念ですが、エスパーのお姉ちゃん。それは聞けない相談です」
「え?」
 その、ドスの利いた声に、私は動揺した。
「ハルキ」
「町田くん?」
 振り返ると、自転車に股がった町田くん。今日は、自転車のカゴに鞄を入れていた。
「……アキ」
 苦々しく呟くと、自転車を降りて身構える。
 アキちゃんは、放胆に町田くんに近付くと、まず町田くんの向こうずね、いわゆる弁慶の泣き所を爪先で蹴った。それも瞬時に左右とも。
 それから、町田くんに大外刈を食らわせた。
 受け身もとれず、後頭部を強打した町田くん。そのみぞおちに、アキちゃんは、とどめとばかりに踵を落とす。冷静な解説が出来るのは、既に免疫があるからだろう。
 それからアキちゃんは、町田くんの自転車に股がろうとしたが、残念足が届かない。
 どうするのかと見ていたら、自転車の鍵を抜き取った! 
 次に、自転車のカゴに入った町田くんのカバンを何やら物色し始めたが、意中のものが見つからなかったのか、今度は町田くんに近寄って、その眼前に掌を突き出した。
「な、なんだよ……」
 声が、情けないほど震えている。
「財布」
「え?」
「さ、い、ふ」と言う、アキちゃんの目が怖い。
 町田くんは、屈し、しぶしぶ財布を差し出す。
 アキちゃんは、財布の中身を確認すると、
「ふん」と鼻で笑い、ポケットに差し込むと、そこへ偶然通りかかったタクシーを停め、それに乗って行ってしまった……。
 嵐過ぎ去ってから、
「えっと、大丈夫?」と、私はとりあえず町田くんに確認する。
「……何とかね」と言いながら、町田くんは立ち上がる。
「何か、二日続けてとんでもないものを目撃しちゃった」
「うちではこれが日常だよ」
 何だか、さすがに同情してしまう。
「……はい」
 私は、さっき返してもらった千円を、町田くんに差し出した。
「なんとなくこうなるような気がしたよ」と言って町田くんは私から千円を受け取った。
「私も」
 そう言って、二人して笑って後、
「あ、そう言えばアキちゃん――私のほうが全然身長高かったじゃない。約五センチも!」と、町田くんに苦情を言った。
 けれど町田くんは私の足元を指差して、
「ローファー、靴の厚み」と、ヒドイことを言う。
「千円、やっぱり返してもらおうかしら」
「ごめん、いや本当マジで」と、マジで慌てる町田くん。
「冗談。でも、明日必ず返してよね」
「大丈夫、それは約束する」
「……二度あることはってことはないよね?」
「……妹は、二人だけだから」
「とんでもない二人だよね、ナツキさんに、アキちゃん――うん?」 
 私は、名前の法則に気が付いた。
「町田ハルキ、ナツキ、アキ……フユキ?」と、その名前を口にしたと途端、町田くんは、こっちがビックリするぐらい、ビクついた。
「……」
 どうやら私の貸した千円が戻るのは、もう少し先になりそうだ。  
                                      おわり

町田くんに貸した千円が、なかなか返ってこない理由

 完結です。
 疲れました。
 それにしても、一万字を越えてなお短編扱いとは、愕然です。
 長編を書ける人は、偉大だと思います。

町田くんに貸した千円が、なかなか返ってこない理由

自転車を乗り逃げされた町田くんに、私は千円貸しました。 翌日には返してもらったのですが、町田くん、今度は自転車のカギと、有り金全部を奪われて、その現場を一部始終目撃していた私は、結局、返してもらった千円を、また町田くんに貸してあげるのでした。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1.  町田くんに貸した千円が、なかなか返りそうにない、という話。
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5
  6. 6
  7. 7
  8. 8