林檎・スター

 ヘンリー・オーギュストの仕事(に近いもの)は、評価されなかったしがない絵に林檎を描き加えることである。
 それを始めたきっかけは、実に簡単なことだった。彼は突然林檎を加えたくなった、ただそれだけである。本当にふと描きたくなったのだ。
 そしてオーギュストは仕事に追われながらもヒマな時間を見つけて、北新宿一丁目(そこは楽器と韓国の街大久保である)の画廊に寄って、商品にならないらしい油絵やら版画やらをたくさん買い、またある日にはウインズ新宿を過ぎ、バルト9のすぐ隣の世界堂で、油絵具の赤と白黒だけと、安っぽい筆一本と、木製のパレットと、腰ほどの高さもある白い三角イーゼルと、モデル用の模倣品の林檎とを買い揃えた。そして仕事をやめ、その日に半地下の、道路際(部屋の中では天井際に当たる)に張られた窓から光がうっすらと差し込む、周りを新品の洗濯機のように無愛想なコンクリの壁で囲まれた天井の高い部屋に、ほとんど荷物を持ち込まずに引っ越し、そしてそこをアトリエとした。
 オーギュストは林檎を描き加えたいとは思わずとも、何かを描くのはとても好きだった。彼のそれなりにすんなりとした人生の中で、描くことが影響したことは一度もなかったが、しかし彼はいつだって何かを描いていた。その折々、彼が向かった書類には必ず落書きがあった。だが彼はそこに意義を見出していたわけではないし、それを求めていたわけでもない。彼は描くことで引きこもったりすることはなく、いつも周りの人々からの愛情を喜んだ。どちらかといえば社交的なほうだった。彼は何かを描くことは好きだったが、それを仕事にしようだとかそれだけに熱意を傾けるようなことは決してなかった。
 そして2009年、それはピッツバーグスティーラーズが最後のスーパーボウル優勝を決めた年だったが、オーギュストは深夜カージナルスとのスーパーボウルを暗い部屋でみながら、何の前触れもなく、何か描いてみたいとふと思った。それもイチから描くのではなく、描き加えたい、と。そしてそれならば、林檎、そう、林檎を描き加えてみたい、と。ただそれだけに情熱を捧げ、それだけをする生活がしたい、と。
 彼は半地下の部屋に引っ越して早々、世界堂で買ってきた三脚イーゼルをそのとき部屋の光が差し込んでいた部屋の真ん中あたりに置き、そして部屋の隅っこに置かれたダンボールに病院のカルテみたいに敷き詰められた絵のうち一番手前のを取り出して、三脚イーゼルに掛けた。その光景はとても魅力的で、陽の光は温かみを帯びていて、これだけでも僕は満足だった。しかし絵は三脚イーゼルの一部になったみたいに存在感がなく、もしかしたらこの部屋の光景のほうが魅力的かもしれないくらいだった。ひととおり部屋を見渡して満足してから、少ない持ってきたもののうちの一つである少し小さめの木椅子を三脚イーゼルの前に置き、座った。椅子の横に置いておいた世界堂の紙袋から、安っぽい筆、木のパレットと、赤と白黒の油絵具を出し、油絵具を切れかけのケチャップみたいにパレットに絞った。そして彼はそれを筆に取り、絵の中心にせっかく買った模倣品の林檎も見ずに、中学生の絵画クラブぐらいの上手さで林檎を描き上げた。その時の彼のなんとしあわせなことか。それは今までに経験したことの無い、想像を絶するほどのしあわせだった。林檎が描き加えられた絵以外はぼやけ、そこにはしあわせが詰まっているように感じた。彼はしばらく出来上がった作品を見つめ続けた。そこには、まるで女性のような人を惹きつける魔力が潜んでいた。
 オーギュストが林檎を描くペースは様々で、最初の時の夏の通り雨の過ぎ去る時間ほどの短さで書き加える時もあれば、まるでひらひらと舞う雪の落ちる間のように遅い時もあったが、しかし彼は多くの絵にモデルなしで林檎を書き加え続けた。彼はその度に作品をじっと見つめ、感傷に浸った。彼は自分の多くの作品を見ていくにつれて、その中に自分の渇望しているもの、そしてそれが孤独であることに気づいていった。
彼にとって、絵は、それも特にしがないそれは、一般性・多面性を常に帯びていて、それによって生み出される自身の価値観の差異はとても面白くないものだった。しかし林檎が描かれると、絵はその林檎との関連性において語られるようになり、そこには結論のある具体的な関連性は絶対に見当たらないが、だがその無関係らしさはだれが見てもきっと感じるところであり、その無関係らしさのわかりやすさこそが、その絵からの価値観を一つにしていると彼は感じ、彼が実際に人生で経験したことの無い、お互いが同じところに存在していながら両者の間には無関係さしかないという両者の孤独、がそれだと気づいた。そしてそれは、彼の渇望していたものだった。
彼はその渇望に気づいてから、なおさら林檎を書き加えることにしあわせを感じるようになった。絵の中でのみ満たされる渇望は、その内容がどうであろうと、どんな願いを叶えた時よりしあわせだった。
彼はピッツバーグスティーラーズが次にスーパーボウル出場を決めた2011年には、それはそれは多くの林檎を絵に描いた。彼はその仕事を休みなどしなかった。

2011年のレギュラーシーズンのピッツバーグスティーラーズは、あまりふるわなかった。けれどもうテレビを持たないオーギュストは、それどころか同じ年のスーパーボウルの出場さえ知らなかった。部屋には相変わらず椅子ぐらいしか家財道具がなかった。
オーギュストは今日もまた一つ、朝起きてから休みもせずに新しく絵に林檎を描き加えた。窓から差し込む光は、イーゼルの所からずっと道路際の所に差し込んでいた。
もともとその絵には岡一面に咲くチューリップが描かれていた。それだけの絵で、加えて技術も無かった。彼ならきっと描くことも躊躇うような絵だった。彼の林檎は、場合によって少しの違いを帯びるのだが、今日出来上がった絵のそれは、黄色いチューリップの過度なまばゆさとのコントラストを意識したのか、少し陰影が深かった。
彼はあまりその出来に満足しなかった。というのも、あまりに下地になった絵が陳腐だったからだ。彼は最近描き加える対象にも質を求めるようになった。それはタバコと同じで、どんなものでも林檎が描き加えられていれば良かったのが、それでは満足できなくなったのだ。彼の場合重症で、それは最早麻薬に手を付けるというところまで来ているような状態だった。
彼はチューリップの絵をところどころ塗装が剥げて木目が見える三脚イーゼルからそれを持ち上げ、しがない絵が入っっているダンボールのある部屋の隅に行き、その横に置いてある満杯になりかけている三番目の完成品用のダンボールにベットされていくコインみたいにその絵を置いた。同じく置かれている絵は前の二つのダンボールに入っている絵ももちろん二度と見られなかった。彼はそそくさと横の未使用のカルテみたいな並びの絵のほうに行き、もちろん一番手前の絵を引き出した。そして彼は最早習慣となった、絵を立て掛けてから林檎を描く準備をするまでの手順をまるでアルゴリズムで見つけられた優れた動きをするロボットのように狂いもなくいつもと同じ動作をした。
林檎を描き加えようとして彼は壁際に差し込んでいた陽の光があまり入ってきていないことにうっすらと気づいていた。おそらく雲でかくれたか、雨になるかだが、彼は何故かいまだかつてない識別できない不安な気持ちに襲われた。彼は天気などに左右される自分の心情を憂き、同時に不思議がった。何故なら、いまだかつてないものだったからだ。
彼の疑念はすぐに晴らされた。それは天気のせいではなかった。彼は視線をどことなく絵に移して気づいた。その絵の不気味さに。それは男だか女だかわからない誰かがそっと木製の椅子に腰かけている絵だった。彼にはその誰かには視線も呼吸も無いように感じれた。陽の光はないというのに、その絵だけが周りからひときわ異彩を放ち、コンクリの壁がどこまでも続き、絵は孤立しているようだった。彼は幾度かその誰かの表情を読み取ろうとしたが無理だった。しかし絵を見るうちに彼は違うことを感じた。その絵の中の誰かがどことなく彼自身に似ているような気がするのを。それは不気味さと共に次第に強くなり、しまいには絵の中の誰かはまるで彼自身の顔のようにさえ感じれた。
彼にはその時林檎を描き加えるのは無理かのように感じれた。林檎を描き加えるのはいつも無意識で、無理だと感じたことは無く、それははじめての経験だった。絵から発される不気味さと林檎を描き加えることが出来ない重圧とが重なりあって彼を次第に痛めつけた。彼は絵の中の彼がじっと彼自身を見つめ、描き加えられるものならやってみろ、というふうに脅しているように感じた。しかし、一片の反骨心を見せた彼は、すっかり埃を被った世界堂の紙袋から模倣品の林檎を取り出した。そして彼は、こいつさえあれば林檎など容易く描き加えられるというふうに高らかと模倣品の林檎を拳上し、とどめだといわんばかりに彼自身に似ている絵の中の誰かを嘲笑いながら林檎を膝の上に置き、今の状況をそっくりそのまま写すだけでも俺は林檎を描き加えられる、と確信と共に筆をとった。彼はさっそく自分の今の状況を写そうと試みた。しかし刹那気づいた。今既に現実に於いて作品が完成されていると。自分は林檎を描き加えられた絵と全く同じ存在なのだと。
既に彼の心から絵からの不気味さは取り除かれていたが、そこにはそれよりも大きくて邪悪な何かが潜んでいた。

そうか、僕は絵と同じで孤独だった。
絵と同じように、孤独という存在に定義された。つまりずっと孤独だったのだ。今まで、僕に限っては孤独ではないと思ってきたが、そんなことはなかった。孤独はずっと潜んでいて、かつての渇望は孤独が片鱗をみせただけだったのだ。

彼はまるで麻薬に冒された者のようにうなだれた。力を失った手から筆とパレットがするりと抜け、コトンと音を立てて床に落ちた。膝に載せていた模倣品の林檎も転がり落ち、パレットの上に着地すると、そこにあった赤い油絵具をべっとりとその実につけ、それはまるで林檎が血を流しているみたいだった。
陽の光が戻ってきた。それはかつて彼が温かみを感じたハズのものだったが、しかし彼がそんな感情を抱くわけもなかった。
彼は陽の光が入ってくる窓のほうを見つめた。太陽に、一羽の鳥が横ぎったように見えた。そう思うことは、その時の彼にとっての唯一の救いだった。
ヘンリー・オーギュストはしっとりと瞼を閉じて、何もかも、忘れようと思った。

林檎・スター

林檎・スター

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted