インダストリアル・レボリューション,スタンド・バイ・ミー
1.
『きぃ、きぃ、きぃ! なう、ふぇあうぇる、あでゅー!』
籠の中で、紅いインコが鳴きはじめた。
私は、ハッとなって思わず顔を上げる。執務室のデスクの上で。
『きぃ、きぃ、きぃ!』
部屋の隅で、インコが鳴き続けている。鳴き始めると止まらなくて厄介なんだよなあ、こいつは。
私が飼っているこの妙な鳥は、ベニインコという種名の通り、その体を覆う羽毛のほとんどが鮮明な紅色であるのにもかかわらず、「グリーン」という、不適切な名前を持っていた。
……あれ、どうしてだっけ。
私はグリーンの籠を見つめながら、思い出そうとする。
えっと、確かこいつを輸入して、飼い始めたのも名付けたのも私だったと思うんだけどな。そういえば、どうしてこんな名前にしたんだっけ。完全に忘れてしまった。
考える私に構わず、グリーンは鳴き続ける。ちなみにオスである。
『きぃ、きぃ、きぃ! なう、ふぇあうぇる、あでゅー!』
――おいおい、静かにしなさいってば。
私は彼をなだめようと、席から立ち上がった。
少し焦ったので、杖の操作を誤る。右脚の古傷に鈍痛が走った。いってて。
「グリーン。静かになさい。ね」
万全とは言えない足取りで部屋を横切り、私は籠に左手の指を添えてやる。すると、紅いインコのグリーンは頭をきょろきょろと巡らせ、何かを思案したような挙動を見せる。そして、私の指を弱くつつき始めた。
よし、これで大丈夫。グリーンは、見かけよりも賢い奴なのだ。
「グッドマン工場長」
私を呼ぶ声が扉ごしに聞こえたのは、籠の中のグリーンをぼんやりと眺めていた時だった。
ああ、言い忘れてた。
私の名前は、ウィリアム・グッドマン。年齢は四十一歳。独身だ。
この部屋は、小さな町外れにある小さな工場の二階にある執務室。私はとりあえず、この「グッドマン紡績工場」の長という立場なのだ。この時代に、私のような人物が小さいとはいえ工場を持つのは結構大変だったのだけれど、今はその話は、まっ、いっか。
ドアに向けて、私は返答した。
「ちょっと待ってて」
扉の先の相手は分かっているけど、うたたねしていたようだし、身だしなみが気になる。
私は、鳥籠の隣に掛けられた姿見に視線を移した。
見えるのは、もちろん私の姿だった――頭の黒のトップハットはずれていない。糊の利いたシャツにダークブラウンのベストを羽織り、下は動きやすいグレーのコールズボン。外出の際にはいつもモーニングのコートを身に付ける。チャームポイントは、黒い蝶ネクタイと、左右に伸ばし手入れされたお洒落な口髭だ。くるり、と右手のオークのステッキを回す。
普段着にはちょっと格好付けすぎのような気もするけれど、普段からこの姿でいるのが一番落ち着くからいいのだ。
「いいよー、入って」
私が声を掛けると、ドアを開いて、部下のバーモンド君が現れた。艶やかな黒髪を左右にハッキリと分けた長身の男だ。年齢は私の一周り下。私の補佐役であり、実直で仕事がよくできる。
「グッドマンさん。私を呼ばれた理由は……」
「ああ、それはねえ」
……えっと、なんだっけ。
私は要件を思い出すために、口髭を指で触りながら考え始めてしまう。バーモンド君をこの部屋に呼んだこと自体は覚えているんだけど。……やれやれ、歳を取るのは嫌だね。忘れっぽくなって。
あ、思い出した。
「そう、そう。なんか閃いたんだよ」
私は愛用の黒杖に体重を乗せながら、自分のデスクの方へと戻る。
「さっきね、今日の新聞のこの記事を読んでてさあ……この……なんだっけ? 蒸気の……」
「蒸気機関、の実験ですね。失敗した」
「そうそうそれ」
私のごちゃごちゃとした机の上に、一部の新聞が折り畳まれている。
一七六九年、七月二日号。
言うまでもなく、本日の西イングランド新聞だ。
その端に、小さな記事が存在していた。
見出しは「新技術実験、騒動のうえ失敗に終わる」。
記事によれば、大学教授か誰かがマンチェスター郊外の河原に巨大な機械を設置して、“石炭を燃やした蒸気の力で重量物を引っ張る”旨の実験を試みたけど、装置から蒸気が漏れ出して大変な騒ぎになったらしい。
私はこの記事を見て、妙に惹かれるものを感じた。
――我ながら、変に思うほどに。
異常に、気になったのだ。
言わば……『直感』のような、実に奇妙な感覚だった。
新聞記事をとんとんと指でつつき、私はバーモント君に示した。
「これだよ。この実験、すごく面白くない? 蒸気だよ、蒸気。蒸気でものを引っ張るなんて、変なことを考える人がいるもんだよなあって」
「え、ええ……?」
私の言葉の真意を図りかねたらしく、バーモンド君は少し困ったような様子を見せていた。
だから私は、素直に考えたことを言った。
「『工場の動力に使えないかなあ』って、なんとなく思った」
「いえ、工場長」
私の言葉を制して、バーモンド君は博識を披露した。この辺り、私には学がないから助かっている。
「お言葉ですが、その提案は現実的ではありませんよ。蒸気動力については、聞いたことがあります。初歩的な蒸気機関による井戸汲み装置は五十年ほど前に発明されたそうですが、不安定かつ危険であり、通常の使用にはとても適さない代物だったそうです。これもその類でしょう」
「うーん……」
なんだか、ここは押さなければならないような気がしたので、私は食らいついた。
「でも、この研究者を呼んでみるくらい、いいんじゃないの? 記事によれば、マンチェスターの大学にいるって。近所だし」
「……え、ええ。いいですけど……」
バーモンド君はかなり戸惑っている様子だ。私の言っていることが、あまりに思いがけないことだからなんだろうか。
確かに私も半ばそう思ってるんだけど、率直に思ったことを言っているだけなんだよね。
「……それでは。工場長の名義で、この研究者に招待状を送ってみます」
「よろしくね!」
◆
――思えば、あれが最初の『直感』だったのだ。
現在の私を、私が有する組織を、この状況を作り出した、すべての始まり。
私は、薄暗い部屋の中、独りで息を潜めている。
この館の周囲にごった返す人々の、絶叫じみた罵声が、彼らを抑える警官隊の号令が、閉められたカーテン越しに聞こえてくる。
一七六九年。
あれから二十年が過ぎた、今。
この私、ウィリアム・グッドマンは、混沌のただ中にある。
◆
私は、蒸気機関なる技術の研究者を招いて、その話を聞いた。それからすぐに、彼の所属する大学に赴いて、実際に蒸気機関のプロトタイプや研究資料を見せてもらった。
私は研究者に、自分の紡績工場にこの技術を応用したいと申し出た。しかし、彼は首を横に振った。この技術はまだ開発途上の段階であり、工場での運用には研究開発が必要です、と。
研究者も乗り気ではなかったし、もういいでしょう、と補佐役のバーモンド君が何度も私を抑えようとした。
正直に言って、機械工学の分野に疎い私には、研究者の話も彼の見せた蒸気機関の試作品も資料の内容も、ほとんど分からなかった。
だが、“この技術を産業に利用しなければならない”という猛烈な意思は常に湧いていた。その感情は我ながら無根拠で、異様とさえ呼べるものだった。
そう――『直感』的な、考えだった。
私は研究者に、研究資金を提供したいと申し出た。私の工場の敷地で自由に研究して構いません、技術面で必要なことがあれば我が社が全力でサポートします、と告げた。
それは言わば、蒸気機関という新技術への投資だった。当時の我が社の資産全体から考えるとその額は小さな割合ではなく、会計担当でもあったバーモンド君は頭を抱えた。
私からの強烈な、しつこいほどの推薦が功を奏して――私の工場の隣、メドロック川のほとりで、蒸気機関の研究開発が始まった。
最初は失敗が続いたが、私は諦めなかった。諦めるつもりなどさらさらなかった。自らの『直感』に従って新たに技術者を招聘し、問題解決に向けての試行錯誤を続けてもらった。
――私は、『直感』の力、とでも言うべきものが芽生え始めたのをその頃に自覚した。それまでの人生には覚えのない奇妙な感覚だった。『直感』は、まるで私を導くかのように、“これを使えばいい、この人に頼るといい”というような考えを私に与えてくれるのだった。そして、私がそれに従うと、まるで冗談のように問題が解決していった。
この『直感』の力で呼び出した技術者に任せることで、思いもがけない偶然のような形で開発中の大きな課題が解決された。その糸口を作った私は研究者たちに感謝されたが、いえいえあなたたちの力ですよ、と答えた。
開発開始からおよそ二年後、ついに実用可能な一連の蒸気機関装置が完成した。この新たな生産・輸送システムは、私自身が驚くほどの生産効率性の上昇を工場にもたらした。こうして蒸気機関への投資は大成功を収めた。
一挙に利益が増大し、工場の経営に余裕が生まれた。しかし私はそれに飽きたらず、今度は技術者に更なる改良、そして「人も高速で陸上輸送できる蒸気機関装置」の開発を急がせた。船への蒸気機関の導入も提案した。他工場からの需要大に伴い、蒸気機関そのものの量産体制も構築した。
この一連の流れは、目覚ましいまでの変化だった。以前までは、自分の小さな工場を安定的に運用し、規模を維持さえできればそれでいいという程度の考えで、私は工場を経営していた。不要な危険を渡るべきではない、と。しかし、今の私はまったく違う。新技術への投資やその生産への活用を繰り返し、可能な限り速やかに我が社の規模を拡大すべきだと感じていた。これも、『直感』に支えられた意思決定だった。
一七七〇年代中頃。単なる紡績工場という殻を早々に脱ぎ捨てて、我が社はその事業体制の拡張を開始した。
蒸気機関は単なる始まりに過ぎなかった。この世界には、優れた発明家や技術者、科学者たちが存在した。彼らの取り込みと研究開発への投資は常に欠かさなかった。中には実現性に欠ける技術や、虚偽を触れ回る者さえ存在したが、私の『直感』は見事にそれらの不純物を選別してくれた。私は的確な技術投資を行い、それを生産に活かし、また製品として社会に普及させていった。
英国中、更にはヨーロッパの企業さえ、我が社が次々と生み出す革新的な新技術に注目し、そして模倣し始めた。私はその状況を歓迎した。新たな技術や製品が世界中に普及すれば、それは産業全体の進展に繋がり、更なる新技術を普及させる土壌が生まれる。そして結果的に我が社の規模拡大の効率性を高めると考えられたからだった。何よりも、彼ら競合他社に私が追い越せるはずがない。我が社は常にその遥か前方を進んでいるのだから。
一七六〇年台には小規模な会社組織に過ぎなかったグッドマン紡績工場は、その組織規模と着手事業の爆発的な拡大を背景として、一七八〇年台には「グッドマン・インダストリー」へとその名称と組織体制を変えていった。その流れに伴って、私は王都ロンドンへの影響力を発揮し始めていた。政界・社交界への進出である。
といっても、別に私は政治とか社交とかいうものに興味があった訳ではない。というか、ない。ただ私の会社を更に拡大・発展させるためには、この国家の中央を構成する人々とのコネクションの構築や、産業発展を阻害するだけでしかない邪魔な法制度の『改善』が必要だと強く感じたのだ。そう、ここでも『直感』にもとづいて私は行動方針を決定している。
私は自在に影響力を行使できる議員群を編成し、強力な支援団体をその背後に構築することで、法制度の変更を中心として積極的に政治介入を行っていった。もちろん最初は抵抗もあったけど、すぐに仲間も増えて、英国議会も思うがままになった。そして英国の産業界はほぼ私の独断で動かせるようになった。すごいね。これも『直感』の力だった。
法制度の改善にともなって、私の組織は以前よりも遥かに機敏かつ柔軟な存在になっていった。その変化にはひとつの大きな目的があった。労働力の効率的運用だ。生産力の向上には生産設備の技術革新が不可欠だが、その生産設備を実際に動かしているのはもちろん労働力にほかならない。産業発展の下支えをするのは労働力の存在なのだ。グッドマン・インダストリーの発展を目的とする私にとって、配下の労働力を合理的に増加させ、より効率的に運用したいと願うのは当然のことだった。生産に伴う労働力になるのであれば、どのような手段を用いてでもシステムに組み込みたいと思った。それが我が企業、ひいては産業全体の発展と拡大に寄与するのだから。
もちろん思想的な介入も行った。性別はもちろん、幼児期でも、そして高齢でも、病気でも、皆が額に汗して労働に寄与するのは自身や社会にとって良いことなのだと、積極的に宣伝を展開した。私は信心深い人間とは言えないけれども、この時に宗教を利用するのが非常に効果が高いと分かった時には驚いた。働き者であればあるほど天国に行きやすいということにしてもらった。いつでも必ず存在するなまくら牧師さんたちに経済的・政治的な取引を行い、そういった「聖書解釈」を広めてもらったのだ。信仰に応じて右往左往する人々を、その顔を眺めながら、私は楽しいなあと思った。
私に宿る素晴らしい『直感』は、同時に経済学を勧めてくれた。私は組織をコントロールする傍ら、書物を次々と読み進め、学者の講義も受けた。それらは無学な私にはとても為になった。経済理論の中には、私のような立場の者がどのようにして産業資本を効率的に拡大するのかを理論的に解説したものがあって、それは非常に役立った。単純な例を挙げるなら、賃金は労働力が維持できる限界まで引き下げることで、その差分をより設備投資に回せる、というような話だ。そうした施策はとっくにやっていたけれど、私はその傾向を更に強くした。経済や産業にまつわる学問は、組織の行動の理論的な下支えをしてくれた。
以上のような政策を並列的に続けることにより、安定的に、大規模かつ強固な一連の産業構造が、グッドマン・インダストリーという姿で存在を続けた。一七八〇年台も中頃になるとそれはもはや英国内に留まる勢いを知らず、ヨーロッパやインド、南北米大陸に拠点を持つ関係組織も含め、一つの巨大システムとして確立されつつあった。私はそれを頂点からコントロールし、時に『直感』に従って変化させ、改善し、次々に新技術を導入して、より洗練されたものへと推し進めていった。すべてが順調に行っていた。
事件が起きるまでは。
◆
一七八九年のことだった。
マンチェスターにある私の屋敷を、人々が取り囲んでいる。
溢れ返るような数の群衆は、怒号を上げながら、屋敷を守る警官隊と対峙していた。
私は薄暗い自室の椅子に腰掛けて、嫌でも耳に入るその音響に包まれていた。
「グッドマン社長。無事ですか」
扉を開けて、部屋に入ってきた人物がいた。
バーモンド君だった。この二十年余、私の補佐を続けてくれた人物だ。かつての黒髪は、灰色に変わりつつあった。
私は杖を使って立ち上がり、カーテンを開けて明るくしようと思ったけど、ふと手を止める。そういえば、この部屋に私がいると知られたら群衆を刺激するらしい。
やってきたバーモンド君の前まで歩み寄り、私は笑顔で迎えた。
「えっと、外の人たちは、何を訴えているんだっけ? というか誰だっけ?」
尋ねた私に、彼はなんとも微妙な表情を見せた。ごめんね。でも本当にどうでもいいことなので、覚えてないんだよ。
社長補佐役のバーモンド君は、やや疲れ気味の声音で、言った。
「……労働者たちと、その家族などの関係者です。彼らは、我が社の関連組織を含め、英国中の、更には全世界的な労働環境が加速度的に悪化しており、その元凶が、グッドマン・インダストリーとあなた個人にあると訴えています」
思い出した。労働力への思想コントロールが不完全だった問題だ。参ったなあ。
「私が外に出て行って、どうにかなるものじゃないよね?」
「彼らの怒りに触れ、暴徒化を加速させるだけでしょうね」
「じゃあ警察の皆さんに任せておけばいいんだね。犯罪者だし。そのうち、収まるでしょ」
「……そうですね」
妙な沈黙が、暗い部屋に降りた。
バーモンド君の様子が、少し変に見える――何かを諦めたような、それでいて、どこか吹っ切れたような。
この騒ぎで疲れているんだろうなあ。お疲れ様。
そのバーモンド君が、無言でコートの懐から何かを取り出して、私に見せてきた。
赤ん坊の写真だった。写真は私の会社が普及させた新技術の一つだ。
「私の、娘です」
「へえ。今、何歳だっけ?」
私の何気ない質問に、何故かバーモンド君が妙な反応をした。
言葉を詰まらせて、歯を食いしばり、頭をうなだれさせた。急にどうしたの。
苦しげに、彼は答えた。
「……三歳、でした」
「でした――って、亡くなったの?」
バーモンド君は、耐えられなくなったように、体を震わせ始めた。
「……おととい、坑道内の輸送作業中に、落盤事故に遭って……」
私は、心の底から思ったことを、彼に伝えた。
「残念だね。システムに寄与できる労働力が減って」
良く分からないけど、その言葉がまた彼を刺激してしまったらしい。
「う、ううっ……」
彼は更に頭を垂れて、それを両の手で覆うようにした。全身の震えが一層強くなっている。
沈黙を挟み、バーモンド君は妙なことを言い出した。
「グッドマンさん。……あなたは、変わった」
彼が、下げていた頭を戻して、目の前の私に向けてその顔を見せた。
バーモンド君は、泣いていた。
大粒の涙を、ぽろぽろと零していた。
流れる涙に一切構わず、彼は私に、まるで訊くような語調で告げる。
「……あなたは、こんな人じゃなかった。あなたは、もっと周囲に優しい人だったじゃないですか。いい人だったのに。一体、何があったんですか? 本当に、あなたは変わってしまった……」
いや。
私は、特に変わったつもりもないけど。まあ直感は冴えたよね。
バーモンド君が、涙を流しながら、言葉を続けた。
「……私を雇ってくれた時のことを、覚えていますか。務めていた海運商社に詐欺の疑いを押し付けられ、路頭に迷っていた私を、あなたは拾ってくれたじゃないですか。グッドマンさん。……あなたは、あ、あなたは……!」
「ごめん、覚えてない」
私が、そう答えるや否や。
バーモンド君が、唐突に隠し持っていた「何か」を、私に繰り出した。
私のみぞおちに、それが突き刺さった。
訳が分からず、私は間抜けな声を漏らした。
「……え?」
バーモンド君が両手を離したのは、大型の狩猟用ナイフだった。磨かれたそれは、深々と私の胴体にめり込んでいる。
いっ。
い、痛い、じゃないか……。
全身から力が抜けるようだった。足腰がふらついた。右脚が悪いのもあって、私は見事に転倒してしまった。
「バ、バーモンド君、助けて……」
まさか助けてくれるとも思わなかったけど、この部屋には彼しかいなかったので、とりあえず呼びかけてみた。
そんな私を、バーモンド君は物言わず見下ろしている――涙に濡れた、様々な感情でぐしゃぐしゃになってしまった顔で。
熱い液体が傷口から漏れて、床に黒い染みを作り始めていた。
体が思う通りに全然動いてくれない。部屋の空気が異常に冷たい。血流の音が妙に大きく感じられる。外では群衆が、相変わらず私に向けて罵声を浴びせていた。
……これで、私も終わりか。
でも。
「まっ、いっか」程度に、私は考えていた。
私は自分の会社をそれなりに大きくすることができたし、きっとグッドマン・インダストリーは今後も続いていくのだろう。それが残せれば何よりだった。
……視界が霞み、意識が薄らいでいくのを感じながら。
私は、私の残した産業システムのことを考えていた。
そして、ほんの少し、籠に残したままのインコのグリーンを思ったりもした。
2.
――大きなベッドの中で、私は目を覚ました。
視界に、見覚えのない天井が見える。
……あれ。
ここは、どこだろう。
ベッドから起き上がり、寝室と思われる部屋を見回す。夜のようだ。月明かりの射す暗い部屋に、私の他には誰もいない。
見知らぬ場所だった。来た覚えもない。
混乱するのも無理はなかった。
私はバーモンド君に刺されて、死んでしまったはずだ。あの後、誰かが手当てしてくれたのだろうか。それにしては、あまりにもあの傷は深く、『死への実感』があったのだけれど……。
ふと、刺された場所を手で触る。
あるはずの傷が、跡形もなかった。痛みさえない。
何だ、これは。
何が起きているんだ。
ベッドの脇にあるランプを灯して、私はこの不思議な状況について考えるために、ベッドを抜け出ようとした。
あれ。
私は焦った。愛用の杖がないのだ。普段はベッドの横に立てかけてあるので、ほとんど意識もしていないのだけれど、杖がないと非常に困る。
しかし、すぐに気が付いた――右脚の古傷の痛みも消失していることに。
これなら杖がなくても、自在に歩ける。
部屋の床の上で、一歩、二歩と足を進めながら、私はそれを実感した。杖なしで歩くのは、十代以来だ。実に久しぶりの感覚だった。
ふと、私は自分の手を良く見てみる。
まるで別人の手だった。肌が若く、血色もいい。私は六十一歳なのに。
まさか。
ある想定を抱いて、私は寝室の角に置かれていた姿見に歩み寄る。
――鏡の中にいたのは、私ではなかった。
◆
事態を要約すると。
私は、「ポール・グッドマン」という人間に“なっていた”。
ポールは、本来の私であるウィリアム・グッドマンの兄の息子、つまり甥に当たる。そういえば以前に、赤ん坊の顔を見た覚えがある。
何故こんなことが起きたのかさっぱり分からないが、私ことウィリアム・グッドマンの精神が、そのポールの肉体に入り込んでしまったのだった。
これはつまり、伝承や神話で語られる『生まれ変わり』という現象に当たるのだろうか。なんだか違うような気もするけど。私がお邪魔するまで、ポールは彼自身の精神で動いていたのだろうし。
そういえば、そのポール自身の精神はどこに行ってしまったのだろうか。私の心は自覚する限り私のままで、殺されるまでの記憶も引き継いでいた。
謎だらけだった。
ただ、とにかく私はここに生きている。その事実も確かだった。
ポールは、グッドマン・インダストリーの社長に就任していた。つまり私は社長として死に、その後継の社長として復活したことになる。
本来の私ことウィリアム・グッドマンが殺されてから、十二年の時間が過ぎていたことにも驚かされた。
時は一八〇一年。ちょっと死んでいる間に、一九世紀になっていた。
創業者だった私の不在により、グッドマン・インダストリーの規模拡大の勢いはやや弱まっていたものの、経営は順調に続いていた。
周囲の人々の話や書類の情報を整理すると、どうやら私が殺された後、しばらく社長の名目上の権利を私の兄が相続していたが、先日、学問に長けていた息子のポールにその座を譲ったらしい。つまり、今の私に。
……さて。
ポールの肉体に生まれ変わったのにあたって、私はとりあえず、私の邸宅や執務室を改装することにした。どうやらポールは、かなり古風な趣味の持ち主だったらしい。特に嫌だったのが、執務室の壁に掛けられた変な画だった。肖像画か何かだと思うが詳しくは知らない。大きなキャンバスの中で、白いローブを着た女が森の中に佇んでいた。なんだか気味が悪く、邪魔だったので撤去してもらった。
身の回りの整頓をしながら、私は、“これから自分がどう振る舞うべきなのか”について考えを巡らせていた。
正直に「実は私は初代の社長なんです。乗り移ったんです」と宣言したところで、不信感を買ってしまうだけだだろう。私自身にさえ訳が分からないのだから。
私は、とりあえず事態を隠しながら、グッドマン社の経営を進めることにした。体や名前が違えど、地位そのものが同じだったのは助かった。
ポール・グッドマンの肉体は健常そのもので、以前の私より三十歳も若かったこともあり、私はより精力的に業務に専念することができた。
『直感』の力は、生まれ変わっても健在だった。私はそれに従い、次々に我が社の拡大のための施策を推し進めていった。
前の私――ウィリアム・グッドマンの最大の失策は、労働力の効率的回収を優先しすぎてしまったことにあると言える。その末に、恨みを買って殺されてしまった。あのような体制を堅持し続けていれば、もし私が生きていても組織は長くは保たなかっただろう。労働力は人間であり、過度な労務を科せば反発を招くのは当然のことだった。やりすぎた。少し反省しなければならないなあ、と思った。
とはいえ、技術革新により生産性が増したとしても、十分な労働力ももちろん必要だ。労働量とその対価に対しての、人々の心理的な満足感や不足感。その微妙なバランスを設定して維持しなければならないと感じた。
訳の分からない転生をしたとはいえ、私の業務は先代のグッドマンとさして変わりはなかった。発明家や科学者の発掘による新技術の開発と、その我が社への貢献だ。この点については、前のグッドマンの時代よりも急激と呼べたかもしれない。一九世紀には非常に多くの発明や科学的業績が生まれ、我が社の主導によりそれらの技術と製品は世界中に普及していった。
一つの転換点があったのは一八三〇年代だろう。必中の『直感』に支えられた私の方針によって爆発的な成長を際限なく続ける内に、我がグッドマン・インダストリーは、言わば世界産業全体への意思決定能力を保有し始めたのだ。商工業や金融、更には各国家の政治や文化、宗教への、直接的あるいは間接的な干渉。それが自在に可能となっていった。邪魔な外敵を的確に排除し、有益なものを貪欲に取り込むことにより、組織は全世界のあらゆる産業をまたがる一連の巨大システムへと成長した。それを媒介として、私という頂点の決定により、人類社会の全体が動き始めたのだ。これは非常に興味深い現象だった。
私に宿る『直感』の力は、我が社を大きくすることが目的ではなかったのだ、と私は理解した。この地球における、全人類の管理とその規模の拡大を目指しているのだった。
◆
ポール・グッドマンは、一八四三年、七十四歳でその生涯を閉じた。天寿を全うした、と言っていいだろう。部下に殺されるようなこともなかったし。
そして。
なんとなく、そうなるだろうとは感じていたけど。
私の意識は、再び別に人間に転移して――『三代目』となった。
二代目のポールは、本来の私であるウィリアム・グッドマンの甥だったが、今度はまったく親族ではない我が社の幹部の一人だった。どうやら血縁は関係なく、私はグッドマン・インダストリーの支配権を持ちうる立場の者として復活するらしい。
新たな姿となった私は、『直感』を駆使して後継者争いに勝利し、速やかに次のグッドマン社代表となり、規模拡大のための施策を今まで通りに進めた。
どうやら私は、一人の人間としての死が訪れても、別の人間に意識が移るようだった。
私は、この奇妙な力を、『直感』と並び『転生』と名付けることにした。
この力が意味するのは、私という存在そのものが絶対に死なないということなのだろうか。私は、『転生』の能力を快く歓迎した。私の組織がどうなるのか、それを何代にも渡って見続け、指揮することができるのだから。
力の正体は不明だったが、数をこなす内に、ある程度の傾向や特性は掴めてきた。『転生先』の人間の体や地位はもちろんのこと、有していた記憶も私が吸収する形で引き継ぐらしい。
私は自分が他者の肉体を奪っていることを知られないように、『転生』直後は本来の人物のように振舞い、時間の経過次第、私自身の性格を表していく――という方法を採用することにした。最初は戸惑ったし難しいと感じたが、繰り返す内に、それにも慣れていった。
代替わりしても、やることに変わりはない。技術革新とその産業への活用。他企業体の吸収とコントロール。政治・文化等を介した全世界の人々への介入。その他の、様々なこと。
一八世紀半ばに最初の私――ウィリアム・グッドマンが立ち上げた「グッドマン紡績工場」が前身だったグッドマン・インダストリーは、劇的な規模拡大を続けた結果、前述の通り、ある種の巨大産業連関システムと表現できるような存在へと変化していった。名称も次々に変わっていったが、その本質は一貫していた。
一九世紀の中頃に私が活動した『三代目』の時からはもう、事実上私が全人類の頂点に立っているような状況だった。人々には周知されていない裏方の立場ではあったものの、それは明白だった。
例えば、ある人物の上にその命令者がいて、更にそいつを管理できる命令者がいて……という構図があったとしよう。そういったはしごをどんどん登って行くと、どんな位置から始めても最終的に辿り着くのが、この私、みたいな感じになってしまっていた。私は、人類の究極の命令者であり管理者だった。
私は今まで通り『直感』に従って、『組織』を動かし、人類全体を管理した。そうしていると、まるで数十億人という人類全体がひとつの機械であるように感じられた。その機械は、大体のことは私の想定通りに動作した。
人類が月に到達した一九世紀末、私が管理する一連の産業連関システムは、もはや明確な名称もないような超巨大組織に成長していた。一方で、その巨大さによるデメリットが問題に感じられるようにもなってきた。
私は『直感』の力を借りて、産業システムの再構築を行うことにした。
もちろん巨大な組織を単に分散させるのではいけない。各産業・部門ごとに、外観的にはシステム全体を分割し、しかし同時にそれらを裏側から統率する機構を新たに構築した。その指揮のもとで、散らばった各組織体を適度に協調させたり、時には対決させたりすることにした。
そのような、言わば表裏構造を世界中に成立させることで、各部門の独立性が高く、競争的に発展するシステムを人類全体という巨視的な思考から管理することが可能となり、かつ、私が背後からそれらの大まかな動向を操ることによって、独立組織の無根拠な暴走といった非効率的要素のない安定的な統治も容易となる。
すぐ後に、その構造は産業や企業体に限らず応用できることが分かった。つまり、宗教、民族、国家といった集団についても、この仕組みを用いることが可能だと考えたのだ。『機構』による影からの支配。全体の効率性を目指した適度な協調と対立。人口、思想、文化のコントロール。私はそれらすべての統率権を有していた。これはより柔軟かつ強固に人類文明を発展させるための、最適なストラクチャーと呼べた。
このようなプランに基づき、私は肥大化した組織の分割の一部を、“民主的に決定させた”。新たな世界のシステムは想定通りに動作し、素晴らしいパフォーマンスを発揮した。一見非効率に見えるイベントが勃発したりもするが、その全ては人類全体としては理にかなっていた。非常にうまくいった。
◆
一九三〇年代。月面基地への移住実験が順調に進んでいた頃。
そんな時代の、ある夜。
某都市の高級バーの席で、『五代目』の私は、グラスに好みのワインを注いでは飲みを遠慮なく繰り返していた。
私の隣では、スーツを纏った知的な美女が、カクテルを傾けている。
今の私の秘書を務めるリザだった。とても優秀な女性で、我が『機構』に入り次第、とんとん拍子にこの私の部下まで上り詰めた。彼女は常に理性的で、完璧以上に仕事をこなし、時にはその意見も参考になった。もちろんボスである私とも良好な関係を維持していた。いや業務的な意味で。
今夜は珍しく彼女の誘いで、二人で杯を交わすことになったのだ。暇だったので、私は快諾した。
バーには、他に誰もいない。彼女の手配で貸し切りにしているそうだった。そこまで気を使ってもらわなくてもいいのになあ。嬉しいけどね。
「そういえば、私に話したいことがあるそうだね。何だい」
私は上機嫌でリザに尋ねた。もうワインを一本飲み干している。
オリジナルの「ウィリアム・グッドマン」は、アルコールに強いタイプとは言えなかったけど、この『五代目』の肉体はかなり酒に強い体質だったので、私はどんどん好みのワインを飲みまくっていた。
「…………」
隣のリザは、どこか心ここにあらず、といった様子だった。
楽しんでいる私の顔を、視線で一瞬伺ってから、すぐに前に戻す。
――妙だなあ。冷静な彼女らしくない。
「どうしたの? もったいぶらないで、話してよ」
私が軽く尋ねても、やはり前を向いたままだ。
しかしやがて、何かしらの決意を固めたのか――彼女は唇を閉じて、私に向き直った。
そして、私の現在の名を呼んで。
リザは、告げた。
「……あなたは、死にます。先程からあなたが飲まれているワインには、ストリキニーネが含まれています」
へえ。
素直に気になったので、私は彼女に訊いた。
「何ミリグラム?」
「私が仕込んだのは、三千ミリ。……あなたは、そのほぼ全てを飲み干しました」
「うわあ、完全に致死量だ」
リザは、私の反応にやや狼狽しているようだった。私の性格を知っているとは言え、あまりにもあっけらかんとしているので意表を突かれたのだろう。
「……驚かれないのですか」
「いや別に、もう飲んじゃったし」
私を見るリザは、その目の隅に、透明の液体を浮かべていた。泣いていた。どうしたんだい、一体。
「それにしても、訊きたいのは私の方だよ。どうしてまた、暗殺なんか」
毒が効き始めるまで十分くらいは時間があるだろうし、私は彼女の話を聞いてみることにした。私に毒を盛り、涙を浮かべている彼女に、殺されつつある私がその訳を問うなんて、我ながらなんとも奇妙な光景だけど。
「この十五年間。私はあなたのことをずっと探り続けていました」
――リザは、語り始めた。
良く分からないけど、彼女はどうしても弟の死が納得できなかったそうだった。
彼女の弟さんは二十年ほど前の、さるヨーロッパの紛争で若くして命を落とした。
大学で国際政治学や多国間戦争の発生構造を学んでいた彼女は、その紛争について調査し、それが一般的な争いではないという『不自然さ』に行き当たったそうだ。何か背後に強大な存在がいて、それが仕組んだ戦いだった――と、彼女は結論づけた。
そして人生の目的を決めた。
弟を殺したのは争いそのものであり、またそれを仕組んだ何者かだ。
『そいつ』に復讐すること。
その為に、彼女は他の全てを投げ打って歩み、ついに『そいつ』に近付くことができた。秘書という立場で。
そして今、復讐を実行した。
……とのことだった。
「……私は、ずっとこの夜を待っていたんです。あなたを殺す、その時を」
「なるほど、ねえ」
リザの火照った横顔が見える。その瞳は、話の間も涙が消えなかった。
確かに、あの紛争を仕組んだのは他でもない私だ。確か、重要な新技術の情報を移転させるための目眩ましとして起こしたんだっけかなあ。よく覚えてないけど。
それにしても、リザはすごいなあと思った。この私に近づいて殺すなんて。誰にもできることじゃないよ。
前のカウンターに向けて、呟くようにして、彼女は言葉を漏らした。
「これで、あの子も……ショーンも、少しは、報われる……」
私には彼女が、酷く傷ついているように見えた。そういうのを見るのは、あまり気分的によろしくない。
どうしたものかなあ。
とりあえず私は、彼女を慰めようとした。
「でもねえ、そんなに怒られても困るよ、リザ。君の弟は、間接的ではあれど、私が管理する人類文明の発展に寄与したんだから、問題ないじゃないか。別に家族といってもただ一人が失われたに過ぎないし、それに……」
「あなたは」
私の言葉を遮って、彼女は私を睨み。
訳の分からないことを、言った。
「あなたは、人の皮を被った悪魔」
訳が分からなかったので、私はごく普通の返答をした。
「いや、私は人間だよ」
――と言い終えた瞬間、毒が効き始めた。
私は椅子から床に転げ落ちて、作用が体をあらぬ方向に捻らせる。
全身の筋肉が痙攣し、呼吸が不自由になり、内蔵が内部から引き裂かれるような激痛が走る。
うわあ。これは強烈だ。
ストリキニーネ中毒で死ぬなんて貴重な体験だから、よく覚えておこう、と私は思った。
リザが、死にゆく私を、憎悪の視線で見つめている。
そんな彼女を見て、最初の私――ウィリアム・グッドマンが、バーモンド君に殺された時を思い出した。なんてこった。五回の人生の内、二回も部下に殺されるなんて。運が悪いなあと思う。
それにしても、可哀想なのは彼女だ。殺人犯だし、殺した相手がこの私である以上、『機構』によって超法規的に闇へと葬られてしまうだろう。
優秀だと思っていたのになあ。
くだらない感傷に囚われて、意味のないことをしてしまった。
こんなことをしても私は死なないのに。
私は永遠に生き続けるのに。
……次は組織の誰に『転生』するのかな、と思いながら、『五人目』の私は死んでいった。
3.
――そんなトラブルもあったけど、私は元気です。
全人類を影から統治する『組織』の頂点として、私は『転生』を続け、順調に拡大と発展を継続させていった。
あの後リザがどうなったのかは知らない。あんなことは二度とごめんなので、とりあえず私は部下に対する警戒を強めるようにした。
◆
『直感』の導きにより、私が積極的に働きかけを行った結果、人類は続々と宇宙という新たな舞台に進出した。
二十世紀末には火星への大規模移民船が出発し、その二百年後には地球外人口が地球人口を超えた。
二十四世紀にもなると、太陽系の広い範囲に人類が移住するようになった。
初の地球外生命体の発見は、初歩的な超光速移動が実現した二十五世紀のことだった。外星系への調査隊が水の海のある惑星から採ってきた。白く小さなエビのような生き物で、私は焼いて食べてみた。柔らかかったけど、別においしくはなかった。
そうこうしている内に、私が『転生』した回数も二十回を超えた。何度も転生を繰り返すうちに、私が死んだ後に『転生』する対象には一定の傾向があることも見えてきた。『転生先』はヒト社会における重要職ばかりだったけれど、時の大国の宰相とか、元首とか、そういう存在になることはまずなかった。そういう表立った人間として転生すると、私が、本来の私の役割――『人類史に裏から介入して文明を発展させる』ことを効率的に果たせなくなるからだと推測できた。
私の能力の正体は未だに分からなかったけど、力のもたらす、そういった『配慮』が、私にはとても嬉しかった。簡潔に言えば、私は「縁の下の力持ち」って奴を任されているわけだ。なんとも大変な立場だよ。楽しいけどね。
かつて、一九世紀後半に活動した『四代目』の時に、有り余る財力と権力の一部を用いて、密かにある調査を命じたことがある。
『私のような者』が、この世界の他にいるのかどうか、について。
『転生』と『直感』の力を、あるいはそれに近い特殊能力を有する者だ。
私は自分の能力に単純に興味があったし、もしそういった人間が存在するのであれば、お茶でも飲みながらお話でもしようと思った。
しかし、心躍るような解答は得られなかった。世界中から収集された大量の情報の中に、そういった『奇妙な事例』が皆無だったという訳ではない。しかし、いずれも私よりもずっと微弱で、確証もできないようなものばかりだった。
つまり、私のような存在は、どうやらこの世界で私だけしかいないのだった。
そうなると、当然の疑問が湧き上がる。
――どうして、私が選ばれたのだろう。
この、他にない『直感』と『転生』の力は、何故この私のみに宿ったのだろう。
隠れた『何者か』が私に力を植えつけたのだとしたら、『そいつ』は誰なのか、何故こんなことをしているのか。私は決して信心深くはない人間だが、『そいつ』は、多くの人々が唱える神という概念なのだろうか。
私自身も単に不思議だったし、一時はそれなりに考えて調査したりもした。けれど、最終的には、「まっ、いっか」と思った。
私に力を与えた存在の正体にはさほど興味もないし、『そいつ』はこの私を介して人類文明を大きく進展させようとしているのは明白で、私もそれを望んでいるのだ。つまり我々の目的は一致している。
なんといっても、私はこの状況がとても面白かった。だから二十二世紀頃からは、ほとんど調べるようなこともしなくなった。この調子で人類の技術が発達して、私が『転生』を繰り返せば、その内分かるだろう、位の心持ちになっていった。
もしかしたら、こういう私の鈍感なところが、『そいつ』の選考基準になったのかもしれない。
◆
人類が初めて地球外知的生命体と呼べる種族とコンタクトを取ったのは三十三世紀ごろ、資源獲得を主な目的とした超光速移動が頻繁に行われ、人類による太陽系支配が確立された辺りだった。
彼らの唯一の言語における『我ら』という表現に合わせて、私たちは彼らを「レトト星人」と呼ぶことにした。彼らは宇宙から来たエイリアンである我々に興味を注がないわけではなかったけれど、自分たちの文明を維持することの方がずっと大切のようだった。職人気質というか、ストイックな方々だった。
レトト星は全面が水の海に覆われており、彼らはその海中深くに住む種族だった。外見は地球の生物で言うとタコとかイカに似ている。まさか本当に初接触した知的生命体がタコのような姿だとは思わなかったので少し笑った。身体のほぼ中央にある脳を介して七本の発達した脚を器用に動かすことができる。彼らの星の海中生物たちは皆が単性生殖形態で、じゃあどうやって進化するのかというと、低レベルの記憶情報が遺伝情報物質と一部を共有するみたいで……その辺は、まっ、いっか。
彼らの建造物や街は複雑な海流に合わせて常に動いている。その為、レトト星人の世界には私たちの知るような地図は存在しなかった。流動的な世界に対応して彼らの脳は発達しており、次やその次に、どの『地域』と自らの住む『地域』がどのような形で接続されるのかを容易に把握できるらしい。また、彼らは海底の鉱石や火山を用いた単純なエネルギー機関を有していた。初歩的な電波通信も開始しており、我々はそれをキャッチして彼らを発見したのだった。そういったレトト星人の文明形態に対してとてもユニークだと私は驚いたものだけど、後から考えてみると別にそうでもないや。
彼らはとても信心深い種族で、上部の海面周辺及びその先の大気空間に挑むことは、『暗黒の神』の怒りに触れる――という信仰に基づいて、海中世界から出ようとしなかった。故に、レトト星人の文明はそこでストップを余儀なくされていたのだ。私は、もったいないなあと思った。私たち人間のように神を殺す気概が彼らにもあればよかったのに。もっと効率が良かったのに。
私たちは、とりあえずレトト星人に仲間になってくれと告げた。彼らの文明は人類より遅れていて、それほどめぼしいものがある訳でもなかったし、かといって滅亡させるメリットもなかったので、穏便な形を選んだのだ。彼らは無関心気味にそれに応じた。
そして、私たち人類とレトト星人にとっての、初の他星系種族間知的生命体同盟が成立した。
◆
レトト星人を皮切りに、人類は銀河系内の知的生命体と接触していった。
レトト星人のように簡単に行くケースばかりだったら良かったんだけど、そうでもないことも多々あった。そういった残念な場合は、局面に合わせて対応を考えて実行していった。私が一番『直感』を駆使したのがこの時期かもしれない。
ヒトが宇宙に出てから二千年が経過した。人類文明が順調に発展していくと同時に、銀河系における私たちの『同盟』は、少しずつ拡大していった。
◆
銀河系は広いなあ、と思った。
我々が作った同盟の他にも、他の星系種族やそれらを束ねたグループが、天の川銀河には無数に存在していた。それらとコンタクトした際には、時には戦争して叩き潰したり、時には和解して合流したりした。そして徐々地球人類を含む知的生命体の集合体は更にその版図を広げていった。その途中で興味深い現象が起こる星や、稀少資源が大量に得られる星も見つかり、調査したり支配したりした。そして私たちの技術は更に進展した。
人類文明でいうところの五十世紀代初頭には、他の銀河にも簡単に行けるようになった。それらにはやはりユニークな星や生命体が存在したが、天の川銀河を進めるのと特に変わりはなかった。ということで、同じような感じで叩き潰したり合流したりして同盟を進展させていった。そのうち、『同盟』は『銀河複合体連盟』へと名を変えた。『全宇宙知的生命体ネットワーク』と表現されることもあり、後に正確性からそちらが主流になった。
私は、『転生』を繰り返して時の連盟の支配者の座を維持しながら、なるべく地球人類が生き延びる道を探って管理を進めていった。種として比較的脆かったこともあって、宇宙の多くの種族に触れるにつれて人類への興味が薄れていったのは確かだけど、せっかく私が昔から伸ばしてきた文明だから滅ぶのはもったいないと思ったのだ。あと故郷だし。
『直感』は、はっきりしている時もあれば曖昧な時もあり、総合的にはかなり不安定な存在に思えたけど、それでも何らかの指向性が内在しているのは間違いないように思えた。私はそれに従い、知的生命体ネットワークの管理を進めていった。
◆
宇宙中の無数の銀河に存在する無数の知的生命体種族の管理を執り行う組織。そしてそれを影から支配する組織。そしてその長である、私。
訪れる一個体としての死と、新たなる管理者への『転生』。
知的生命体ネットワークの拡大。技術と文明の進展。『直感』が導く、私の管理者としての力の行使。
それを延々と繰り返しながら、私は今までどおりに管理を続けていた。おおむね、順調に進んでいた。
地球人類の宇宙への進出や、レトト星人とのファースト・コンタクトから、人類の表現でおよそ二十万年が経った頃だった。ここでちょっとしたイベントが発生した。
人類が滅んだのだ。
細かく言えば、地球を元星とする哺乳網霊長類ホモ・サピエンスのことだ。私が影から支配している銀河複合体連盟において、いくつかの星系に分散し生き延びていた知的生命体種族の一つである。
それが、一個体残らず絶滅したという情報が入ったのだ。
入力されたそのデータを認識した、私の反応は。
――まっ、いっか。
という程度のものだった。
ここで改めて感じたのは、私は、地球人類という種に対して、さほど強い感情は抱いていなかったのだなあ――ということだ。それなりに守ろうとしていた時期もあったけど、いつのまにかその思いも失せてしまった。忘れてしまった。
この広い銀河には、地球人類よりも遥かに美しい種族も、賢い種族も存在する。なにしろ今の『私』自身も、そういった種族の一個体として『転生』しているのだ。何度も。
その事実は、私に宿る『転生』の力が、地球人類に限らず、宇宙に存在するあらゆる知的生命体の管理を私に任せようとしていることを意味していた。
人類の終わり。それは一つの弱い種族が、宇宙というフィールドにおける生存競争を突破できなかった。それだけの話だった。
もちろん、少し残念だなあという印象は否めない。私自身のオリジナルである『ウィリアム・グッドマン』には結構思い入れはあるし。最近は、等身大の像を作ってたまに眺めたりしている。
人類が発生してから五十万年くらいになるのかな。意外に長く保ったような気がするし、そうでもないような感じでもある。
ついでに言うと、地球自体は太陽系を含めて既に銀河間戦争のとばっちりで消滅してる。その時も、「まっ、いっか」と思ったんだっけ……もう、忘れちゃった。
◆
宇宙には、沢山のユニークな知的生命体が存在した。
その中でもとりわけユニークと言えるのが、地球を出てから地球単位で六百八十万年ほどが経過した時に私が出会った、「ニャントコ星人」という星系種族だろう。会った時はびっくりしたな。
ニャントコ星人は丸っこい姿形の二足歩行種だった。個体によって様々な色の体毛に覆われていて、頭の上の大きな耳と臀部から生えた二本の尾が特徴的だった。懐かしの地球人類の感性で見るなら、「可愛い」という感情を抱くんじゃないかなあ。確か地球の「ネコ」っていう種に似ていたような気がするけど、よく思い出せないや。
私はその時、ある宇宙基地の部屋の椅子に座って、透明素材の向こうで繰り広げられる小規模な銀河間戦争を眺めていた。全感覚レベルで遠方の現象を認識する技術はありふれているけど、やっぱり直接見るのが一番楽しいと思うんだよね。
宇宙の暗黒を背景として、時折きらきらとしたものが溢れたかと思うと、それらはすべて虚空へと消えていった。NL爆弾かな。やってるなあ。
この時私は、『ウィリアム・グッドマン』の外装を装着していた。工場長だった一人目の、いわばオリジナルの容姿だ。二百万年ほど前から、なんだかんだでこれが一番落ち着くなあと思って、必要のない時以外はこの姿を維持するようになっていた。中身は全然違うし、様々な環境で正常に動作するための特性を加えているけれど。服装はもちろん、右脚の怪我も再現してるし、杖も持ってるよ。
ニャントコ星人は、天体ショーを眺めていた私の背中に、彼ら独自の言語で語りかけてきた。
「えっと、はじめまして」
一瞬で言語分析は終了し、私の情報処理臓器にインプリントされていた。私は振り返り、彼らの言葉で語りかけた。へえ、音声言語なんだ。
私の前に、三名のニャントコ星人がいた。皆、私より背丈はかなり小さい。
灰色の体毛の個体が前に出ていて、私に話しかけてきた。
「我々はニャントコ星人です。私はその代表のシベリです。あなたが銀河複合体連盟の影の支配者であるグッドマンさんですね」
「はい、そうです」
……それにしても、おかしいな。私がそう思いながら部屋を見回していると、シベリは冷静な口調で教えてくれた。
「どうやってこの部屋に我々が入ったのか、という疑問があるのですね。回答します。我々の目的を第一義とし、この基地とその周囲に存在する防衛装置及び、あなた以外の生命体は全て排除しました」
「なるほどー」
へえ。面白いなあ、と私は思った。『こういう態度』で接触する種族は久しぶりだったからだ。
「ところであなたたちの目的は? 私の誘拐?」
「はい」
とシベリは即答し、続けて、私にあることを伝えた。
それには、流石に私もびっくりした。
灰色のシベリは、
「実はあなたという存在は、あなたの故郷である地球単位における約六百八十万年の間、我々ニャントコ星人が操っていたのです」
――と、言ったのだった。
私はニャントコ星人三名に連れられて、基地のドックに停まっている彼らの船まで移動した。
道中、シベリは、私がかつて『ウィリアム・グッドマン』というヒトの一個体だったこと、『転生』を繰り返しながら『直感』に従って裏から人類文明を推し進め、様々な宇宙の知的生命体種族を管理し、結果的に銀河複合体連盟の影の支配者となった――という事実を告げた。私は素直に驚いた。
「私の力のことは過去を遡ってもほとんど誰も知らないのに。よく知ってるなあ」
「操っていましたから」
シベリは当然のように答えると、私の肩の上にいる紅い機構生命体を見る。
「これはなんですか」
「私の服装の一部だよ」
「そうですか。入ってください」
うーん。分かっているのかいないのか、どうでもいいのかな。
私は、自分の左肩に『グリーン』を止めていた。かつて地球に存在した鳥類の一種、紅いインコ――の姿を模した、機構生命体だった。オリジナル・グッドマンはこういう生物を飼っていたよなあと思い出して、私も飼うことにしたのだ。ただ、今は籠には入れていない。籠には勝手に移動されると困るから入れていたのであり、自在にコントロールできる今はこうして肩に止めたりしている。ある程度のランダマイズド行動もするように設計していた。そういうのがないと面白くないし。多少の言語発声能力があったことは覚えているので、私に情報を教えるナビゲーション役にもしている。
『キィ、キィ、危険度、タカイ。ワカッテル、ウィル?』
「うん、判ってるよ」
私が指先を添えると、グリーンは頭部を六百度ほど回転させた。確かオリジナルの私たちもこんな感じでコミュニケーションしていたと思うので、導入した機能だった。
ニャントコ星にはすぐに到着して、観光する間もなく私は『手術室』なる場所に連行された。
「ウィリアム・グッドマン。あなたという存在は、銀河複合体連盟のような組織を効率的に発展させ維持するために我々が造り出したものです。そして今、その期限が来ました。これより、私たちが与えたあなたの『直感』と『転生』の能力を完全に消去し、連盟の支配権は我々が引き継ぎます」
「あ、そう。どうも」
私はシベリたちに言いながら、丸っこい手術室を二つの目で見回していた。部屋も中の装置も、ニャントコ星人には大きすぎるサイズだ。私に合わせて作ってくれたのだろう。ありがたいものだ。
私の体がちょうど収まる装置を見てから、シベリは告げた。
「この装置により、あなたの脳に適切な処置を施します。それであなたという存在に固有の特殊能力は消失し、あなたは完全に絶命します」
早速、私は装置へと導かれた。私を固定するための手枷と足枷がある。自分で付けるから大丈夫だよと彼らに告げて、私は足を進めた。
割と大胆な装置だった。前にある金属の回転刃を操作して、動けなくなった私の頭部を直接切り開くらしい。
「それにしても、すごいねえ。君たちのそれ」
と、抹殺装置の手枷を自分の左手首に付けながら、私は言った。
「……?」
ニャントコ星人の一団は、憮然としている。
言葉の意味が分からないようだったので、私は続けた。
「すごいリーディング能力だよね。会ったこともない私に気付かれることもなく、遠方から記憶を読み取るなんて。私は宇宙の色んな種族に会ったし、そういう特殊能力を持つ者も大勢見たけれど、君たちの力はその中でも一抜けている。興味深い進化をしたものだ」
(……どうして、それを)
私は、目の前のシベリが考えたことを、そのまま声に出してみた。
「どうして、それを、って思ったね」
シベリが、眼を一回瞬いた。
(なぜだ。どうして、心が読めない)
「なぜだ。どうして、心が読めない、って思ったね。心理障壁のレベルを一つ上げたことにも気付かないなんて。それは怠慢だと思う」
ニャントコ星人たちは、明確に狼狽し始めた。黒い眼をぱちくりさせながら、手術室の仲間たちと顔を合わせる。おいおい、可愛らしい反応だなあ。
私を殺す予定だった装置の足枷を自分で嵌めながら、彼らに言った。
「君たちの計画はさっきからバレてるよ。私の力を取り去ることなんて最初から君たちには不可能だから、私を意思のない人形にして君たちが連盟の主導権を握るみたいだけど、それは無理だろうね。連盟の管理は君たちが思うより難しいんだよ」
(……ど、どうして、貴様が我らの心を読める)
ニャントコ星人が必死で疑問に思っていたので、私は淡々と答えた。
「えっと。今言ったように、私はリーディング能力を持つ種族にも沢山会ったけど、彼らのそれは君たちニャントコ星人が生来から持ってるほどの力ではなかった。でも、彼らの力を解析してモジュール化、こうして私の道具として用いることは容易だ。サイコシールドとかもね。さて、問題です。その道具はどこにあるでしょうか?」
(そこか!)
シベリが思考したと同時に、私の左肩で何かが弾ける音がした。肩に止めたままだったインコのグリーンが爆散したのだ。彼もなるべくオリジナルの姿に近づけて造っていた。機構生命体の赤黒い擬似血液が、私の服やら顔やらに付着した。
……あれ。
少し、腹が立つな。
「ぶぶー。間違い。正解は亜空間だよ。君たちはサイコキネシスも持ってるんだねえ」
私は、部屋の隅に置かれた杖を、私のサイコキネシスで右手に引き寄せて。
ニャントコ星人どもに告げた。
「では死ね」
三回。
こん、こん、こん。
と、私は杖の底で手術室の床を叩いた。
次の瞬間には、その信号に反応、宇宙における連盟の支配領域に張り巡らされた端末群が同時に、ニャントコ星とその系列星の全てに対してある種の負荷を掛けた。それは通常惑星にとっては強すぎるものだったので、中心核を異常状態にしてしまう。
ニャントコ星人の住まう星たちは同時に核から爆発し、塵となって消滅した。
「やれやれ。困っちゃうなあ」
私は両足と左腕に付いた枷を眺めながら、呟いた。枷だけ残している。
宇宙空間だった。私が監禁されたニャントコ星から三光年ほど離れた位置に転移している。崩壊した星たちの仄かな煙じみた残滓が、宇宙の暗黒の中で良く映えた。
私の左手は二本の尻尾を掴んでいる。シベリだった。とても苦しげに蠢いている。ニャントコ星人の肉体は宇宙空間に適応できるものではなかったけど、私の肉声が聞こえる程度に周囲の環境を変化させている。
「君たちニャントコ星人は」
私はシベリに言った。発狂したのか、変な思念波が彼から漏れている。聞こえているかなあ。私は続けた。
「類稀な特殊能力を自然的に獲得していて、それなりに高レベルな文明も築くことができた。しかし、そこで満足してしまった。それが君たちという種の限界だった。“脆い”よ。君たちの管理システムは『不足感』のコントロールはしていなかったの? 文明を発展させる最低条件だよ。私の座を乗っ取るなんて、虫が良すぎる。――あ、来た」
ニャントコ星人が支配していた領域の周囲に、僅かな生き残りがいることは把握している。私は目を凝らして、彼らが放った超光速ビームの色を見ていた。ああいう系統かあ。
「遅いなあ。精度も悪い」
ビームが私の位置に到達した時には、もう既に私は彼らから完全に逆方向の位置に転移していた。
「さようなら」
右手の黒杖を前に掲げて、ニャントコ星人の残党がいる宇宙空間の景色を、すっ、と横に撫でた。
連盟の支配領域にある端末たちが私の動作と意思にあわせて起動、その辺りに存在するあらゆる物質を完全に消滅させた。
代わり映えのしない宇宙空間の中で。
私は左手に持っていたシベリに向けて、言った。
「戦闘能力もてんで駄目じゃないか。ありふれてるし。もっとユニークなものを期待してたのに。銀河間レベルでの争いにはとても対応できたものじゃない」
シベリの丸い体は、尾を持つ私の左手を軸として浮かんでいる。もうもがくのもやめていた。諦めたのかな。そういえば、これで唯一生き残ったニャントコ星人個体ということになるね。
「興味深い新種を発見、捕獲したよ。極めて高いテレパシー能力を持っている。徹底的に調査して。期限はなし、レベルは最大で」
私は、私が支配する組織の中央ラボに向けて言った。私が意識しているので、その言葉はラボへの通信となる。
次の瞬間、左手に持っていたシベリが跡形もなく消失した。ラボに転送されたのだ。
シベリは、これからラボの研究対象として、死ぬこともなく延々と傷めつけられては再生され実験材料として扱われることになる。光栄に思ってね。私たちの連盟の発展に寄与できるんだから。
『キィッ、キィッ! 少シ、ヤリスギデハ、ウィル?』
「えっと。君は何号だっけ?」
私は、左肩に転送されていた紅いインコの『グリーン』に訊ねた。彼は、独特の声音で回答した。
『ぷろとたいぷモ含メルト、六千三百三十八号ダヨ、ウィル。キィッ』
「そっか」
私は頷いた。お互い、結構転生したものだね。やり方は違えど。
ふと、頬に付着した液体を左手の指先で拭って、見つめる。擬似血液だった。さっきまで生きていた、インコ型機構生命体の。
「前の六千三百三十七号は一緒にいる期間も長かったし、お気に入りだったんだ。代わりがいくらでもいるにしたって、それをああやって殺されると、ちょっと怒っちゃうよ」
私に反応して、六千三百三十八号グリーンは。
思いもがけない、ランダマイズド発言をしてくれた。
『マルデ人間ミタイダネ、ウィル』
そうだねえ、と私は答えた。
◆
改めて思ってみれば、『直感』がニャントコ星人に付いていくことを私に許したのは、私に彼らのような輩の存在を把握させるためだったのだ。
彼らとの接触で、私も少し気を使うようになった。
ニャントコ星人のような、私を騙して利用するのが目的と思われる連中と接触した場合、私は無数の別次元領域に確保した演算装置に相手について計算させる。
敵性を有しているか。虚偽か否か。そうであると解釈可能か。
そして、計算結果として、私の肩の上のグリーンが答えてくれるようにした。
『解釈可能』と。
あとは煮るなり焼くなり好きにすればいいだけの話だった。
何回かそういった手合いが現れ、何回かそういった処理を行った後。
私を騙そうとする生命体も、いなくなった。
◆
およそ二十億年で、私の生まれた一つの宇宙の、私のシステムへの取り込みが完了した。
◆
今まで通り、私は拡大と管理を続けていった。
持続的な研究と改良の結果、もう私の個体が死ぬことも珍しくなった。『転生』と『直感』の力の正体は未だに不明だったが、その特性を計算することは容易だった。『転生先』は、要は知的生命体ネットワークの管理者になりさえすればいいのだ。演算結果として導き出した私の次の『転生先』を大量に生成して亜空間に保管し、私が死んだ場合は同じ位置に転送させるシステムを構築した。これで妙な生命体として転生する可能性は激減した。
私は極力『ウィリアム・グッドマン』の姿でありつづけながら、別次元の宇宙や、並行宇宙にも手を伸ばしていった。
並行宇宙の処理は今までとさほど変わらない。システムに統合し、その生命体たちを管理するだけだ。
不思議だったのは、並行宇宙にも『私』のような存在がいないことだった。残念だった。いると思ったんだけどなあ。『私』が存在しないために、並行宇宙における知的生命体の管理は明らかに効率の面で劣っていた。技術面でも『私のいる宇宙』が最も先行している。なので、それらを統合するのは容易なことだった。
少し変わっているのは別次元だ。五次元時空を超える宇宙にも、もちろん生命体は存在していた。私は彼らの正体を『直感』の力で把握し組織の一部への統合を始めた。まあ、次元の数字が多いからってどうというわけではない。ちょっと認識のパターンを変えるだけで対等になれるし、高次元知的生命体が優勢である面もさほど見られなかった。
高次元時空生物が本質的に内包してしまう弱点として、環境による諸要素が複雑化するほど、生存するための最終的な構造が単調になってしまう傾向が挙げられる。
彼らを御するのは、巨体だけが自慢の宇宙種族をそうするのに似ていた。単純な力任せに誤った進化をしてしまった彼らは、我々が知性と技術を用いれば容易に制圧可能な存在だった。もちろん、高次元宇宙における知的生物のすべてがそのような訳には行かなかったが、全体的な傾向は確かにそうだった。彼らは、自らのいる次元の高さそのものに胡座をかいてのぼせていたのだ。いつも通り、私は着実に高次元世界における版図を広げ、彼らをネットワーク内に組み込んでいった。
後に分かったことなのだが、どうやら我々四次元宇宙生物こそが、もっとも適度な段階に制限された環境において、宇宙中に多種多様な特性を有して出現したことで、結果的に現状のような高度な知的発達を促す環境に置かれているようだった。彼ら高次元生命体からではなく、我々から向こうへの介入が始まったのがその証左と言えるだろう。もちろん私の力もあるけど。
また、同時に進められていた低次元時空とその文明への探索においても、我々の優位性が際立つ形となった。二次元、一次元空間に発生した奇妙な生物たちはその発生原理こそ面白かったが、本質的には知性獲得には程遠い原始的生物と変わりなかった。彼らとその世界を理解し、掌握するのは高次元のそれに比べて実に簡単なことだった。率直に、複雑性に欠けた。そして彼ら低次元時空生命体も、私の管理する知的生命体ネットワークの末端となった。
◆
こうして、軽く六十億年ほどを掛けて、私が観察可能な全ての並行宇宙と別次元空間の知的生命体の管理が可能になった。
一つの宇宙を管理するまでの、それまでの工程よりも簡単だった。
4.
時間軸逆移動システムの素案が完成した。過去の自由な位置に移動できる。
思ったより時間がかかったものだなあ、と私は思った。
オリジナルのウィリアム・グッドマン誕生から、およそ八十億年が経過していた。
私は、システムの確立者であり開発責任者でもある個体を呼び出した。
懐かしの四次元時空にウィリアム・グッドマンの姿で現出した私は黒杖をついて、責任者に近づいた。
「褒めてつかわす」
と私は偉そうに言って、君はすごい発明をしたんだから、できる限りならなんでもプレゼントしてあげるよ、と提案した。
研究者は、もしよろしければ、研究のための資材とスタッフの増加を、と申し出た。なので私はそれを手配してあげた。彼はとても満足した様子で、まるで私を崇めるように感謝した。いやいや、褒められるほどのものでもないって。私は研究者を元の位置に転送した。
そして時間軸逆移動装置は、すぐに完成した。
私は、とりあえず権限を使って、早速使ってみることにした。
現在存在している物質やエネルギーやらの特性や位置から、過去の世界の姿を擬似的に再現する装置はとっくの昔に作られていたけど、それにあくまでも「再現装置」に過ぎなかった。失われた過去をそのまま観察したり、過去の世界に直接行ったりする技術には程遠い代物だ。しかし、今回は本物のそれだ。本当の過去なのだ。
装置が三次元空間上に発生させた時空の裂け目を前にして、いつのどこに行こうかな、と私が考えたのは僅かな間だった。
◆
――あ、私がいる。
私の周囲には、映像が出現していた。私は五感レベルで、その『過去の光景』を観察できるのだった。
現時点での技術レベルでは、この宇宙の過去そのものを観察したり、観察者が過去の世界に入り込み介入することは可能だが、過去に干渉するとその宇宙は並行宇宙として新たに確立されることとなり、今の時点に影響を及ぼす可能性は極めて低い――みたいなことは聞かされている。私は、今後いろいろ試してはみたいけど、今回は観察だけにしよう、と思った。
私の前には木製のデスクがあって、そこに一人の男が座っている。ダークブラウンのベストを羽織り、室内なのに黒いつば付き帽を被っている。机には杖が立てかけられていた。
『彼』は、紛れもなく私だった――私の第一の、原初の姿である、ウィリアム・グッドマンその人だ。彼は、眠そうな目で財務書類とにらめっこしている。
私が「おーい」と言ってみるが、もちろん彼には聞こえない。遥か未来から来た観察者である私は、この過去世界から認識も接触もできない設定にしてあるので当然だった。私は彼をじろじろ眺めながら、今現在の自分自身の姿を、四次元時空レベルにおける生体情報処理臓器の中で思い出してみた――ああ、微妙に間違ってる。
周囲を見回してみる。
この場所は、古ぼけた狭い執務室。十八世紀英国はウィンチェスター郊外ヒューズビーにある「グッドマン紡績工場」の二階に、以前は蜘蛛の巣だらけの物置だった部屋を改造してこしらえた、私の初めての執務室だ。懐かしいなあ。
何か、大気の振動――音が発生している。
『きぃ、きぃ、きぃ!』
その発生源に視線を向けると、私は思わず「おおっ見ろ」と自分の左肩に止まっている機構生命体に告げた。
「あれ、お前のオリジナルだよー。懐かしいなあ」
執務室の隅。吊るされた籠の中に、紅い鳥がいた。ベニインコという種名の通り真っ赤な体なのに、「グリーン」という名前を付けられた鳥だった。言葉を覚えるという話を聞いて気に入り、オセアニアから輸入してきた、これも原初の、第一のグリーンだった。
「そうだ、こんな感じだったなあ……」
肩に止まっているグリーンと、籠の中のそいつを見比べてみる。かなり違う形態をしている。
宇宙に散らばった地球人類はともかく、地球における些細な生命体のデータなどはとっくの昔に消失していたので、私の肩の上のグリーンの外観は当時の環境や私自身の記憶を元に再現したものだった。私はともかく、こっちは相当間違ってるなあと思った。オリジナルのグリーンには紅の他に少し黄色い羽根もあるし、くちばしの形が逆だ。なにせ目の位置がぜんぜん違うじゃないか。
『きぃ、きぃ、きぃ!』
籠の中のオリジナル・グリーンは、また鳴き出した。彼を眺めながら、オリジナルはこんなに頻繁に発声するんだなあと思った。肩の上のグリーンは徐々に物静かに設定していったのだ。参考になるなあ、過去に来てよかったと思った。
その時、だった。
三度、籠の中のグリーンが鳴き出した。
今回は、「続き」も加えて。
『きぃ、きぃ、きぃ! なう、ふぇあうぇる、あでゅー!』
……え。
――私の、多次元時空から三次元空間に折りたたまれた肉体に、激烈な衝撃が走った。
私は、痛む右脚も構わずに執務室をまっすぐ駆けて。
窓際に、身体を乗り出した。
視認できるのは、地平線まで続く草原と森。私の故郷の、ありふれた光景。
その風光明媚の一部として、近くに川が流れている。
マンチェスターの街へと続く、メドロック川。
私は、愕然として、デスクに座る『私』に振り返った。
窓枠に掛けた指が、震えだした。
自分で、自分が信じられなかった。
……どうして、忘れてしまっていたのだろう。
メアリのことを。
◆
私とメアリ・セジウィックは、同じヒューズビー村の生まれだった。私は一七二八年生まれで、メアリは一つ下。
ヒューズビーは小さな村だ。通りを歩けば知り合いと会ってしまう。会いたい人にも、会いたくない人にも。
そしてメアリは私の子供時代の、前者の代表だ。
初恋の相手だった。
メアリは、その小麦色の髪を背中まで伸ばして、耳の辺りの両端をしばしば三つ編みにしていた。私はその髪型が好きだった。淡い赤色の服がよく似合った。
私たちは歳も近かったし、やんちゃな他の子供とは異なり、川辺や森の風景や、そこに住む動物を観察したりするのが好きな質だった。気が合ったのだ。
しばしば、村を穏やかに流れるメドロック川の岸に座って、二人で話をした。季節のこと、風景のこと、動物たちのこと。
メアリは手先が器用な子で、村中に咲いている花を使ってブレスレットやネックレスを作るのが好きだった。彼女が作ったそれらをお互いに被って、二人で笑い合ったりした。彼女の笑顔は魅力的だった。
彼女は歌が上手だった。子供たちが集まる時や、二人で川辺にいる時に民謡を披露してくれた。民謡は祖母から教わったのだという。子供の自分には良くわからない内容の詞で、彼女も多分そうだっただろう。
そうして彼女と過ごしている内に、メアリに対して、当時の自分には計りがたい、独自の感情が芽生えるようになっていった。
『なう、ふぇあうぇる、あでゅー』。
この歌は。
『グリーン・スリーヴス』という歌だ。
メアリが私に教えてくれた民謡だった。
今、私の肩に止まっている、インコ型機構生命体は。
そのオリジナルである、籠の中の『グリーン』は。
私が執務室で教えたその一部を、覚えていたのだ。
そうするように、名付けたのだ。
紅いのに、グリーンと。
忘れないように。
あの時の感情を、忘れないように。
なのに、どうして、忘れてしまっていたのだろう。
メアリのことを。
この八十億年の間、ずっと。
◆
メアリのことを、今やっと、思い出すことができた。
そして、彼女との決別の時についても。
――私の心に重くのしかかる、苦い記憶として。
十五歳の夏だった。
夕陽の差すメドロック川のほとりで、メアリはいつものように、花を編んでいた。
失意を抱えて村を歩いていた私は、彼女を見かけると、微妙な距離を置いて川辺に腰掛けた。そして自然と会話が始まった。これも、普段通り。
はじめは、割と和気藹々と話が進んでいたと思う。村について、他の子供について、そして将来のことについて。
彼女は花を、私は川面を眺めながら、言葉を交わしていた。
しかし、その時、私は内心に苛立ちを溜めていた。三男である私の軍への配属が決定して、村を出ることになったから――だったと思う。それに、あの頃の年齢の人類にありがちな、家族との独特の溝ができていた。感情の拠り所がなかったのだ。
彼女は普段通り、川辺の花を編んで、何かを作っていた。
私が愚痴のような話を終えた時、メアリは「できた」と笑って、私にそれを見せた。白と紫の花で作られた冠だった。
それを眺めながら。
私は何気なく、彼女に言ったのだ。
「いつまで、こんなことをしているつもりだ。花を編んでも、何にもならない」
――といったことを。
メアリは、驚いたような視線で私を見た。その表情には、微かな怒りの色が表れていた。しかし、何故か悲しげにも見えたので、私は自分の言動を悔いた。失敗した、と思った。
川の流れる音が聞こえた。
しばらく、してから。
「ウィル。あなたは、冷たい人になった」
と、メアリは静かに告げて、川辺から通りへと去っていった。
彼女の背中に、どう私が返答したのかは思い出せない。何も言わなかったのかもしれない。当時の私はたった十五歳の不完全な知的生命個体で、何も知らないも同然だったから。
それから数日後。
風の吹く、晩夏の午後。
ヒューズビーの村の埃だった道を、メアリが向こうから荷物を手押し車で運んでいた。
逆方向から歩いていた私は、彼女にふと目を向ける。
メアリは私を、ちら、と見て、再び前を向いた。
すれ違った。
言葉はなかった。
メアリと会った、最後の光景だった。
その後に私は、いわゆるオーストリア継承戦争に英国軍の一兵卒として参加し、遠くカナダまで赴いた。そこで右脚を負傷したりしながらも、なんとか生き残って帰還する。その後に、伯父の遺産と軍からの給金をまとめて、故郷の小さな古工場を買い取り、「グッドマン紡績工場」が誕生したのだ。
海外から故郷に帰ってきた時、メアリ・セジウィックはいなくなっていた。
あの頃は、工場立ち上げとかでごたごたとしていたから、結局彼女がどこに行って、どういう人生を過ごしていったのか、私には判らなかったし、信じられないことにメアリのことを思い出しさえしなかった。オリジナルの私――グッドマン工場長は部下に刺し殺され、『転生』が繰り返されて、ヒトには長い時間が経過する。そして、メアリは忘却の彼方に消え去っていく。
◆
メアリ。
普段通り、全次元・全宇宙の生命体の管理をしながら。
彼女の姿をふと思い出すと、何故だかとても妙な感情が私の中に現出して、私を苛み始めるのだった。故郷の家を抜ける、冷たい隙間風のような何かを。
――メアリは、どうなったんだろう。どこに行ったんだろう。
今なら、簡単に調べられる。
私は情報処理臓器の脳波のようなもので時間軸逆移動装置をコントロールし、私の人生から消え去ったメアリ・セジウィックがどうなったのか、調査しはじめた。
気になったから、だった。
移動演算は瞬く間だった。
メアリという人物が過ごした一生が、私の認識へと刻まれていく。
◆
一七四三年の冬、私が軍に所属した数カ月後、彼女も家族の命でマンチェスターに赴き、家政婦として働き始めていた。
そして三年後、ジョゼフ・オーウェルという木工職人に見初められて、結婚した。
メアリ・オーウェル婦人。
彼女は、四人の子を産み育て、十五人の孫を授かった。
そして一八〇二年、七十三歳で内臓疾患に伴う心不全で亡くなった。
家族に看取られた、幸せな最期だった。
◆
――広くはない部屋に、カーテン越しの夕陽が差していた。
薄紅色のベッドを囲んで。
子供たちが泣いている。孫たちが泣いている。医者がうなだれて、眼を瞑っている。
私は、悲しむ人々でひしめく部屋の中で、観察者として現出していた。
ベッドの前だった。
その中に、老いたひとりの婦人がいた。
年月が経っても、基本的な顔立ちは変わらないのだな、と思った。
メアリだった。
まるで眠っているようだった。
ベッドを囲う人々が泣き続けている。
彼女は、これまでの人生で、沢山の人に愛されたのだな、と私は思った。
医者が、メアリの面影がある息子の男性に、何かを告げている。
それを聞いて私も、子供や孫たちと同じことをしそうになったので。
速やかに、私はその過去から立ち去った。
◆
私は嘘をついている。
もし、各個体の私が死んで悲しむ存在がいても、それは即ち彼らを欺いたことに他ならない。私は、別の個体として再生するのだから。
私は嘘をつき続けている。
私は死なない。
だから、私の死を悼む人もいない。いるはずがない。
メアリは。
多くの人に愛されて世界を去った。
幸せだったのだろうと思う。
そして、それはメアリに限った話ではない。
数多くの個体がそうなのだろうと思う。
私は死なない。
だから、彼女たちに対して。
私は嘘つきだ。
5.
私は、ただの管理者に過ぎないのか。
私は、幸せではないのか。
私は、ここで一体何をしているのか。
メアリ・セジウィック。
愚かな私が、遠い過去に忘れてしまった人。
私は、全宇宙の管理作業を行いながら、彼女が私と共に暮らす光景を思い描くようになった。
不可能だったことを。
今のような宇宙文明の絶対的管理者としてではなく、私自身がヒトとしての人生をメアリと歩み、ヒトとしての一生を過ごすことができれば。
それは、どんなに素晴らしいことだろう、と私は思った。
あの、初歩的な知的生命体である通常のヒトとして生活し、ヒトとして生涯を終えることができれば。それがメアリという人と共にあるならば、どんなに幸せだろう、と。
情報処理駆動体の中で夢想するのは、すぐに飽きてしまった。
私は、その世界を実現させようと考え始めた。
『私とメアリの人生』を、私が作るのだ。
たとえ、その何もかもが嘘であろうと、どうでもいい。
私は、メアリと幸せに暮らす。
全次元・全宇宙の支配者である、この私に、それができないはずがない。
◆
私は、知的生命体ネットワークに蓄積された科学力を用いて、独りでその研究と実験に着手し始めた。
過去の情報が直接採取できるために、生命体としてのメアリのコピーを作り出すことは容易だった。ヒトの組成的構造が単純であることも大きい。
しかし、実際に『再現』を開始してみると、想定していたよりも困難な問題が次々と浮かび上がってきた。
まず、メアリが本来の存在から離れるものであってはならなかった。それはつまり、彼女という存在に対しての不要な介入を極力避けなければならないということだ。生命体としてのコピーは容易だったが、その精神構造や記憶における精緻な構成についての設計には最後まで苦労した。前提として“私と結婚して幸せに生活すること”が不自然でないような形にしなければならなかった。しかしそれは、彼女の再現度を犠牲にすることにほかならない。
その条件に重ねて、メアリ・セジウィックの人生を分析し、私と結ばれるための最適なシナリオを形成しなければならない。いわば脚本の問題がある。
もちろん、私自身のコピーを作ることも必要だった。箱庭の中のメアリと、言うならば『つがい』にするための私だ。特殊能力などない、ごく普通のヒトとしてのウィリアム・グッドマンである。その彼の中にこの私が精神を侵入させることで、限りなく現実に近い形での『私とメアリの一生』が体験できる――というのが計画の簡潔な筋書きだ。だがここにも問題があった。『私が再現する私』は、どのような存在であることが望ましいのか、という疑問が上がったのだ。私は『最適な私』を生み出すための試行錯誤を繰り返し続けた。
更に、舞台装置の問題がある。擬似的な宇宙を作り出し、その中に地球を再現して、徹底的に『あの時代』を構築する必要があった。それらは仮初めのコピーであってはならなかった。その地球には一連の生物史があり、人類史があり、その上で、そのごく一部としての私たち夫婦の生活が存在しなくてはならなかった。そして完璧に再現されたそれらは、無数の実験を通して繰り返されることが可能でなければならない。その環境構築にはかなりの手間が掛かった。
この仕事にのめり込むうち、私は、全宇宙の管理が疎ましく思えるようになっていった。
知的生命体ネットワークの管理システムは、仔細な、どうでもいいような事柄でも私の意識に介入し、その判断を伺った。
それらは、自動判断で済むものばかりだった。
私が必要である局面など、もはやほとんどないのだ。
私の介入がなくても、管理システムの動作は既に完成されている。その自動的な選択により、知的生命体ネットワークに属するあらゆる宇宙の文明は健全に進行するはずだ。
私は、私がやりたいことに専念したい。
私は、管理システムが私を呼び出したり、私に意見を求めたりする「緊急事態」の条件を大きく引き上げた。
そして研究を続けた。
研究を始めてから、およそ十億年が経過した。
時間が経った要因としては、試行回数の多さもあるが、再現度の関係から時の流れの操作が禁じられていたことが大きい。
私の宇宙における本来の時間の流れを利用してシミュレーションを行わなければ、再現率が高い『箱庭』とは言えないからだ。
私は完璧を求めて、研究と実験に没頭した。
……だめだ。
何度でも『箱庭』を自在に構築し、『私とメアリの生活』を再現するための環境を整備することはできた。
しかし、すぐに最大の困難に直面した。
それは巧妙な、しかしごくありふれた問題だった。
“私とメアリの生活が破綻してしまう”のだ。
再現中における直接の要因としては、性格の不一致であるパターンが多い。私たちは衝突し、互いに嫌悪感を募らせた。「どうして私たちは結婚してしまったのか」と両者が思うことも多々あった。私の研究の大前提には『二人が共に暮らすこと』が存在するために、極めて再現度を高くした擬似世界ではその箇所のみが不自然に際立つのだと考えられた。
かといって、無理に性格パラメータなどを変動させても、やはり再現度問題が生じてしまう。メアリが偽物になってしまうのだ。
難解さを引き上げる要素としては、事前予測の困難性も挙げられる。『箱庭』のシミュレーション内では実行者である私自身の意思が常時干渉し、かつ自然形成的な不確定要素が多分に含まれるために、パラメータからの結果予測も極めて難しかった。微妙に条件を変動させるだけで全く異なる結果が発生してしまうバタフライ・エフェクトにも満ちていた。
『箱庭』の再現率への配慮から、二人のどちらかが病死・事故死するケースも多かった。私たち二人だけに不慮の死が起こらない宇宙を作るのは容易だが、それは世界への不自然な干渉となり、完璧な再現には遠くなってしまう。
メアリとの平穏な生活。
それを目指す私の研究は、非常に堅牢な壁の前で立ち往生を続けていた。
突破するためには、実際に繰り返して施行し続け、答えを探る。
地道だが、それしかなかった。
――私は擬似的に記憶を失い、再現された『ウィリアム・グッドマン』として、同様に調整された『メアリ・セジウィック』との出会いや、結婚に至るまでの過程、そして生活の過程を何度も繰り返し、“つつましくも幸せな一生”を完成させようとした。
しかしそれらは全て、平均で八、九年程度、良好なパターンでも二十年程度で破綻してしまった。
繰り返される架空の世界。
その中で、私は糸口を探ろうとした。
時間が過ぎた。
私は、研究と実験を繰り返し続けた。私とメアリを取り巻く『箱庭』のパラメータを僅かに変えながら、何度も。
何度も、何度も。
何度も、何度も、何度も、何度も。
何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も、何度も……。
……そしてそれらは、すべて失敗に終わった。
私は、思わず頭を抱えた。
分からなかった。
どうして、失敗してしまうのだろう。
私は、この世界のすべての力を有していて、それを完璧に使っているのに。
どうして、私とメアリは結ばれないのだろう。
一体、何が問題なのだろう。
◆
延々と試行錯誤を続けながら、私がその失敗要因について根本的な疑問を感じ始めた時、唐突に私の研究は幕を閉じることになる。
ある人物の出現によって。
6.
そのヒトの女性の姿をした存在は、純白のローブを身に纏っていた。髪の色も顔立ちも、メアリ・セジウィックとは似ても似つかない。
最初に彼女を見た時の印象として、地球時代のどこかで見た、何かの肖像画で描かれた人物に良く似ていると感じた。詳しくは思い出せないが。
彼女は、最後まで自らの名を語らなかった。もしかしたら、名など存在しないのかもしれなかった。だから便宜上、このヒトの女性で現出した存在を、白いローブの女、もしくは『肖像画の人』と表現することにする。
「なんだっ!」
叫びながら、私はその三次元空間に現出した。
全宇宙の管理システムから、「緊急事態」として妙な警告が私の意識に流れ始めたので、現状の再現実験を中止せざるを得なかった。
私は苛立っていた。私を突然呼び出した警告情報の不確定な内容もあるが、『箱庭』の失敗が続き、その原因の糸口も掴めない現状にも怒りを感じていた。再現度を上げるために、私の『本体』の情報処理機能も本来のヒトにかなり近づけていたので、精神的なバランスもやや不安定になっていた。
周囲を見回す。
そこは、構築した覚えのない奇妙な空間だった。
白く輝く床が円状に広がり、周囲と上部には半球状の透明素材の壁が展開されている。その先には、広大な宇宙が見えた。さしずめ、宇宙のドームといったところか。
円形の床の中央に、私を呼び出したと思しき原因がいた。
――それが、『肖像画の人』だった。
『ウィリアム・グッドマン』
白いローブの女――『肖像画の人』は、淡々とした口調で、私に言った。奇妙な言葉だった。音声を放っているのに、同時に一種の思考言語としても認知できる。
『あなたに全宇宙管理のための力を与えていたのは、私です』
女は無表情に私を見つめながら、続けた。
『……しかし、あなたは宇宙を滅ぼしてしまった。あなたが管理を放棄したことで、宇宙は文明継続における一種の臨界点に到達しました。あなたの宇宙は、滅びる宿命が決定づけられました。この時点で調査は終了し、あなたはその役割を終え、『直感』と『転生』の力を失いました。私は、それを伝えに来たのです』
ローブの女はヒトの姿をしていたが、この空間は通常のヒトが生存できる環境ではなかった。私に合わせた姿、ということだろう。
この半球状空間も、女が構築したものだということはすぐに分かった。分析結果は無害だったので、問題はない、が。
その言葉には、大いに問題がある。
私は知的生命体ネットワークの管理システムに意識レベルでアクセスし、その莫大な管理情報を取得しながら、女に言った。
「私が、全ての宇宙を滅ぼしただって? 文明も多数存在するし、管理システムも安定的に現存しているじゃないか……それに」
女は、私の言葉を遮った。
『嘘をつくのはやめてください。あなたなら、分かるはずです』
「…………」
私は、黙るしかなかった。
管理システムからの情報群――その無数のパラメータが、異常値を示していた。取得不能のものもあった。
自分でも、信じられなかった。
たった四十億年で、ここまで駄目になってしまったなんて。
宇宙には、まだ私が必要だった。私が『直感』を活用して、管理し続ける必要があったのだ。
なのに、私はメアリとの『箱庭』に夢中で、それを疎かにした。
私の失敗であることは、明らかだった。
ローブの女が言う通りだった。
――私の管理する全次元・全宇宙は、避けられない滅亡へと進みつつあった。
驚愕の余韻が、私の情報処理駆動体を刺激していた。
思わず、自身の口髭を指で触ってしまう。ヒト由来の無意味な習性。
ローブの女を睨む。
……それにしても、である。
目の前のこの女が、私に力を与え、管理者としての能力を調査していた?
失敗した私から、『直感』と『転生』の力を奪った?
そんなことは、ありえない。嘘だ。
……あって、たまるものか。
「ふむ。興味深い話だった」
私は、右手に持った黒杖をくるりと一周りさせてから、白いローブの女に向けて言い放った。内なる焦燥を抑えながら。
「あなたのような存在が私の前に現れるのは、実に久しぶりだ。しかし、越えてはならない一線を越えてしまったことを、あなたは自覚していますか」
この女の素性など、知的生命体ネットワークが保有するデータベースの一端に過ぎないことは明らかだ。そこには全次元全宇宙の知識が網羅されていると断言していい。その言葉から、ニャントコ星人と同様に、虚偽で私の立場を支配しようとする敵性生物であることは確実だ。
認識した直後から、私はこの女の正体の解析を始めていた。しかし私の情報処理駆動体に直接接続されたデータベース内には、ローブの女の詳細情報は存在しなかった。だがそれは不自然なことではない。今の目的のために――メアリのために必要なこと以外は、ほとんど切り離してしまっているから。
そう、私にはやることがあるのだ。
自分が、苛立っているのが自覚できた。
忙しいんだから、邪魔しないでくれ。
手順に沿って、さっさと終わらせよう。
私は、ローブの女に告げた。
「私は自分では寛大なつもりでいるが、私を滅したり支配したりしようとするような愚か者には、それに見合った対処を下すつもりだ」
私は、自分の左肩に止まる紅い鳥――グリーンに向けて、ある特殊命令を下した。
意識した瞬間にグリーンへの命令は完了しているのだけれど、格好良く音声でも命じる。
「グリーン。『判断』しなさい」
本当に、このコマンドを使うのは久しぶりだった。
このグリーンの機体を媒介として、知的生命体ネットワークに累積する全情報の処理を行い、対象存在の敵性や虚偽が算出できるのであれば、そうであることをグリーンが、『解釈可能』という情報で告げる。ニャントコ星人以来の教訓。
ローブの女は、変わらず無言で私を見つめていた。
――準備など必要ない。グリーンから『解釈可能』の情報を受け取り次第、瞬時に滅殺する。
つもりだった。
前例のない異常を感じたのは、命令を下した直後だった。
『…………』
グリーンが、何も答えなかった。
私の特殊コマンドに返答しない。まるで機能停止したかのように、硬直していた。
奇妙で、不愉快だった。
私は思わず、その名を呼んでしまう。
「……グリーン?」
紅いインコは、沈黙を続けている。
なんだ、これは?
バグ? 不具合? ――絶対にありえない。
この擬似自律生命体様演算端末装置は、その実質として連続的に――プランク時間の概念など超越したスパンにおいて、その内部構造がフィクスされ続けているのだ。不具合など起こすものか。この私のペットだ。
どうして、返答しない。『解釈可能』と言わない。
――後から思えば、焦る私の姿は、実に滑稽だ。
真相は実に簡単で、真っ当なことだった。
グリーンが私が戸惑うほどの沈黙を続けていたのは、“私が戸惑うほどの時間、演算が必要だったから”に過ぎない。
……それは、データベースの隅から隅までを睨むような、徹底的で、網羅的で、呆れるほどの大規模演算だったのだろう。
私に向けて、グリーンは、『判断』コマンドに対する回答を告げた。
今までに、聞いたことのないものだった。
『解釈、不能』
思わず、妙な音が、ヒト型制御体の喉から漏れる。
「……はっ」
私は、率直に、動揺していた。『解釈不能』という言葉に。グリーンを介しての、全宇宙知的生命体ネットワークの中央情報処理駆動体からの、その情報に。
ありえないことだったからだ。
このローブの女――『肖像画の人』が、ネットワークの力ではまったく解釈不可能な存在であるということだからだ。
その語る言葉が、真実ということになるからだ。
私の動揺ぶりは、自分で言動しながら、滑稽と感じるほどのものだった。
肩のグリーンとローブの女を交互に見ながら、私は、グリーンに言った。
「……こ、こいつは、敵だ。解釈可能だ。明らかに、敵性を有している。嘘だ。わ、私にでたらめを吹き込んで、騙し、陥れようとしているんだ。愚かなる反逆生命体だぞ。グリーン! もう一度。『判断』しろ。判断を……」
今度の返答は早かった。肩から、紅いインコは告げた。
『解釈、不能』
……私は、制御体の顔面の筋肉を使って、どんな表情をしていたのだろう。
白いローブの女は、今までどおり無表情に、そんな私を見つめている。
どうしよう。
「……うあ、あっ……あ、ああああっ……!」
私の全身が、恐怖で震えていた。
女を見つめながら、足を一歩、二歩とぎこちなく引き下げていく。
状況を考えればそんな行動には何の意味もなかったが、私は再現された本来のヒトの本能に従って、そういう動作をしてしまった。
別次元に存在する私の『本体』の情報処理機能が、あらゆる補整処理を無視して混沌の渦に飲まれている。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
こんなこと、今までに一度もなかった。
目の前にいる、『肖像画の人』。
彼女は、彼女の言っていることは、真実なんだ。
私に力を与えた存在。
事実上私をこの宇宙に不滅とする『転生』と、宇宙の文明を定常的に発達させる『直感』の能力を、管理者としての力を与えた存在。
今まで姿を一度も現さず、しかし私を常に監視し、その行動を伺っていた存在。
この女が。
私を、使っていたのだ。
常に、その手のひらの上にいたのだ。
「あなたは、あなた、は……」
狼狽を隠せない私に向けて、容赦なく、彼女は言った。
『繰り返します。あなたの役割は終わりました。ウィリアム・グッドマン』
『私の目的は、宇宙の管理をどのような生命体に任せるのが適切なのか、それを知ることにあります。調べるには、管理者を実際に動作させるのが望ましい。あなたはその代表の一個体として選ばれ、私が力を与えた存在なのです』
跪いた私に掛けられる、超然とした声。
荒い息を抑える。
ようやく、平静を取り戻すことができそうだった。
私は起き上がり、白いローブの女――『肖像画の人』に改めて向き合った。
彼女の、全ての言葉が真実だと認めよう。
そう思った。
宇宙は私の怠慢により崩壊への臨界点に達し、私に対する『管理者』としての調査が、先ほど、終了したのだ――と。
私の表情を見てから、『肖像画の人』は、告げた。
『私は、あらゆる宇宙に存在する様々な生物の個体を抽出し、あなたのような力を与えることで、宇宙の管理を任せました。あなたの同類の中には、うまく行った者もいれば、そうでない者もいました』
この私は、どちらだったのだろうか――いや、訊くまでもないか。
そういえば。
私は、ふと思い出した。
『この時』が来た際に、答えを知りたかった一つの疑問を。
「どうしても、私では完全に解明できなかったことがある。質問して、いいかな」
『私が答えられる範囲でしたら。どうぞ』
彼女に、この存在に、答えられない質問などあるのだろうか。
「では……どうして」
――それは、私が彼女に最も訊きたかった質問だった。
「どうして、私が『管理者』に選ばれたんだ」
『肖像画の人』は、もったいぶることなく、平然と答えた。
『あなたが所属していた種族の文明は、あの時点がひとつのターニング・ポイントにありました。そしてあなたは紡績工場の経営者だった。時代的条件、地理的条件、社会における一個体としての立場の三条件から、私は『管理者』を選択しています』
……なんだ、それは。
私は、思わず訊き返した。
「……あとは。それだけの条件では、『私一人』を絞り込めないはずだ。他にも、細かい条件要素があるはずだ。性格とか、経験とか、才能とか……あと、なにか……」
『条件は、以上です。無駄な条件設定を課せば、むしろ私の介入が歪んだ結果をもたらしてしまいます。以上の三条件のほかは、偶発的な要素に任せています』
……そっか。
……なんとなく、“そう”だとは、思っていたけど。
実際に話されてみると、また違うものだね。
私は、私が訊きたいことを、『肖像画の人』に要約した。
「つまり、“私である必要はなかった”――と」
『はい。その通りです。ミスター・ウィリアム・グッドマン』
「…………」
私は、絶対的存在を前にして、口を閉じるしかなかった。
様々な感情の流れが、私の思考を渦巻いていた。
◆
――星の見えるドームの中で。
私は、『肖像画の人』に向けて、私があなたを殺すことはできますか、と質問した。
彼女は、不可能です、と答えた。
私は、私が管理していたあらゆる宇宙が存続の臨界点を迎えてしまったことは承知していますが、それらはまだ滅んでしまったわけではない。私はこれから、知的生命体ネットワークに残存する全ての力を用いて、あなたを殺すことを試みます。私は、まだ管理を続けたい。私は、まだ終わりたくない。もし勝ち目のない戦いでも、あなたを打ち倒すことができれば、その力を奪い、宇宙の再生に活用することができるかもしれない。私はこれからあなたを殺そうとするので、あなたはその力を示してくれませんか、私と一度戦ってくれませんか、と尋ねた。
彼女は、了承した。
それであなたが満足するのであれば、と。
◆
凄まじい戦いだった。
私は、百二十億年の管理の内に全次元全宇宙に蓄積されたあらゆる技術を総動員し、考えられるすべての攻撃を全力で繰り出した。それらは徹底的に相手を抹消することを目的としていた。『肖像画の人』は、私の一切容赦無い攻撃を的確に読み、回避し、防御した。そして全く無駄のない反撃を実行した。私はこの世のあらゆるリソースを掌握しているつもりだったが、彼女は完全に未知の箇所から攻撃要素とでもいうべきものを生み出し、繰り出してきた。
攻防の反動で、無数の宇宙が生まれ、消えていった。私たちのそれを二律相反する神々の戦いと勘違いする宇宙もあったろう。
あらゆる事象が変質し、あらゆる概念が消滅していった。
戦いはしばし続いた。
しかし歴史上の全てのそれと同様に、やがて決着を見せた。
◆
負けた。
フットボールで表現するなら、こちらの先制攻撃を完全に防がれ、十点ほど一気にぶち込まれたあと、なんとか防戦して、二点返したけど、そのまま試合終了……みたいな。そんな感じ。
でも、二点返せてよかった、とさえ思う。
強すぎた。
話にならなかった。本来なら攻撃が可能な相手でさえなかったのだけれど、私の宇宙が築き上げた技術も中々大したものだったのだ。それが一番意外だった。
私は十分に戦った。ネットワークの持つ潜在戦闘能力の百%近くまで引き出して戦うことができた。もしかしたら、彼女がそうさせてくれたのかもしれない。後悔のないように。
完敗だった。
◆
二人だけがいる。
その何もない空間には、何もなかった。光も、物質も、もちろん音も。私と『肖像画の人』の全次元全宇宙を股にかけた決戦のあおりで、あらゆるものを崩壊させた後の場所だからだった。一種の概念的な領域と表現できるだろう。
そこに、私と『肖像画の人』がいた。
本来なら何もないその場所で、私たちはヒトの姿に仮想化されている。
『肖像画の人』は、相も変わらず、静かに佇んでいる。その姿には傷ひとつ見られない。無表情に、私を見下ろしていた。
対して、私はひどい有様だった。ぼろぼろの状態で、彼女の前で仰向けに倒れている。体中に傷を負って、自慢の服もずたずたにされていた。悪くない方の脚と左腕は根本からもぎ取れている。トップハットと杖はどこかに行ってしまった。グリーンの残滓である紅い羽が、一枚だけ私の上に落ちている。
あらゆる再生能力や機構は失われていた。こうやってウィリアム・グッドマンの姿でいる時は別次元に『本体』を格納していたのだけど、現在は違う。今の私の体こそが、最後に残された私自身、本体だった。
すべてを費やした戦いだった。
宇宙には、もう、私と彼女しかいなかった。
……そして、その私に残された時間も、残りわずかだった。
傷ついた私を前にして――『肖像画の人』は、尋ねた。
それは、最も私が訊いて欲しかったことなのかもしれない。
『宇宙の管理は、楽しかったですか?』
「…………」
私は、しばらく、今までの色々なことを思い出しながら、考えながら。
正直に、答えた。
「ああ、そうだね……楽しかったよ。私は……他の誰にも、到達できない場所にいた。それも、常に……」
――色々なことを思い出しながら、考えながら。
私は、言葉を続けた。
「……私は、無限の命をもってして、この宇宙のあらゆる時代を観ることができたし、あらゆる文明を識ることができた。それらを一方的に管理し、意図的に進歩させて、時には統制して、あるいは生み出し、気まぐれに破壊することができた。すべて、自由に。……私だけだ。私だけが、その場所にいたんだ。楽しかったよ。最高に、楽しかった……」
『でも、滅ぼしてしまった』
「そうだ。全宇宙の管理よりも、一人の、思い出の中の女性のほうが、大切に思えるようになってしまったから……。馬鹿馬鹿しい話だ。でも、事実だよ。私は、しくじった。メアリに夢中になって、できもしないことをやろうと意気込んで、もちろんだめで……そして、根本的に、しくじった……」
『でも、楽しかった』
「ああ」
私は即答した。
「しかし……私は、管理者失格だったんだね。森羅万象のあらゆる文明をコントロールし、維持するのは、とても面白い仕事だった。でも、その情熱も始めの頃と比べると、徐々に削がれていることも自覚していた。久しぶりだよ。メアリに関しては、本当に夢中になれたんだ。夢中になりすぎて、今まで築き上げた宇宙を壊してしまったことを忘れるくらいに。……だから、この結果に、後悔はないよ」
『それが、あなたの結論ですか』
私は、頷いた。
何もない空間に、沈黙が降りた。
「……このあと」
私は、焼けた喉の痛みを覚えながら、半ば答えが分かっている質問をした。
『肖像画の人』の口から、はっきりさせたかった。
「このあと、私はどうなるの」
仰向けの私を見下ろしながら、『肖像画の人』は淡々と答えた。
『ウィリアム・グッドマン。あなたからは、『直感』と同様に、『転生』の能力も失われました。あなたはもう“他の誰にもなれない”。あなたは、死にます。それは来たるべき、本当の死です』
「……そっか」
少しの間、思いを馳せてから。
「……でも。やっぱり、怖いなあ」
と、私は思った通りのことを正直に言った。
言葉を返さない『肖像画の人』に向けて、私は続ける。
「こんな体でいるとね。“本当に死ねる”連中が羨ましいなあ――って思うようになってきたんだ。もちろん、あなたのくれた『転生』の力は素晴らしかったけどね。……大昔、私が盛大に弔ってもらった葬式に、転生後の体ですぐに赴いたことがある。でっかいホールに、『前の私』の写真が掲げてあってさ。沢山の連中が『前の私』の死を悼み、感情を露わにしていた。ホールを歩き回って、彼らの顔を順繰りに観ながら、私は、ばかだなあ、って思った。本当は死んでないのにね。……前はそうやって茶化してたんだけど、最近は、ね、ありがたかったと思う。ヒトを含む、多くの生命のサイクルにとっては死は必然のもので、残された者は自らに感情的な区切りをつけるために、葬儀とかをしてくれる。弔ってくれる。死は、絶対に来るものだから。そして、その必然から延々と逃れ続けている私は、ある意味では、根本的に間違ってるんじゃないか――って、思ったんだよね。……でも、やっぱり、今、感じた。それもまた、綺麗事なんだって。死ぬのは、怖いよ。怖い」
『多くの生命体が経験することです』
「……そうだね」
私の体内に残された、最後の、最後のエネルギー残量も、空が近づいてきた。
意識レベルは明確に低下している。私の生命維持を第一義として、肉体の不要な箇所の粒子結合構造が自動的に解かれ、周囲の空間に霧散しつつあった。それも、ほんの少しの時間稼ぎにすぎない。
この概念空間における聴覚機能の喪失を自覚しながら、私は『肖像画の人』に向けて、話し続けた。
相手は、聞いてくれているのだろうか。
「あなたがくれた力のおかげで、私は、楽しかった。……だけど、辛いことも、あった」
一本残った脚が霧散し、胴体もそうなりつつある。右腕は指一本動かない。
「……私は、他の誰よりも、この宇宙に生まれた数多くの生命や、その集合体や、その成果を見てきた。そして、同時に、それらの死や破滅も。……知っていた者たち、新たに知った者たち、そしてまだ知らぬ者たち……。時間はひたすらに過ぎて、それらは全て徹底的に滅んで……私だけが、残された」
視界の霞みが、かなりひどくなってきた。
『肖像画の人』と、その周囲の空間の境界がぼやけてゆく。融けてゆく。
「……だから私は、必要であれば生命体の完全なコピーを作って、死を無効化しようとした。メアリにそうしたように……。でも、分かった。それは、やっぱり、嘘だ。……残された者は、あくまでも残された者として、喪失の痛みを抱えながら生き続けるしかない。宇宙がそうであるように、そこにもやはり永遠はない。だから、私は……」
肺と心臓が分解されつつある。頭部も半分が消失しているのが自覚できる。
もうじき、意識も発声機能も失われる。本当の終わりだ。
自分が誰に何を言っているのかさえ、私には良く分からなかった。
「この世界を去っていく、多くの生命体を、羨ましいと思いながら……。私は……辛かった……」
死した宇宙。
私が管理し、その末に死なせてしまった世界。
その空間へと還りながら、私は、最期の一言を発した。
「辛かった……よ……」
7.
晩夏の青空が、夕焼けの色に染まりつつあった。
ヒューズビーの村の、メドロック川のほとりで。
メアリは普段のように、川辺の野原に咲きほこる花を編んでいた。
僕は、微妙な距離を置いて、彼女の隣に腰掛けている。
僕は川面を、メアリは花を見ながら、僕たち二人は会話を続けていた。
――最初は、比較的楽しく言葉が交わされていたと思う。
しかし、僕はふとしたことから、心に抱えていた重荷を、つい口に出してしまった。
「……軍に、行くことになった」
メアリは、花を編む手を休めて――そっけなく、小声で答えた。
「知ってる」
ヒューズビーの村は狭い。広めたくない事柄も、すぐに人々の間に伝わってしまう。
「父さんの、知り合いの軍人さんによれば、今の状況では、西の大陸に赴くことになるだろう――って。父さんは、僕になんて言ったと思う……?」
僕は……言葉が止まらなくなってしまった。メアリには話したくないことだったのに。
内心の焦燥から、逃れられなくなっていた。父さんや兄たちとの関係がぎくしゃくしており、僕は家に居心地の悪さを感じていた。話を聞いてくれる相手が、メアリしかいなかったのだ。
それでも。メアリにはこんなこと、話したくなかったのに。
まるで自分ではないかのように、口をついて出るように、言葉が溢れだした。
夕暮れの中で、僕は穏やかなメドロック川の流れを見ながら、愚痴のような――いや、愚痴そのものの話を続けた。メアリは花を編みながら、それを無言で聞いていた。
……僕のみっともない話に、一区切りがついた頃だった。
「できた」
メアリは軽く口元をほころばせながらそう言って、僕にそれを見せた。
それは、花の冠だった。小さな白と紫の花弁が彩る、丁寧に編まれたティアラ。
彼女は冠を、僕に向けて差し出した。受け取って欲しいらしい。
僕はそれを眺めながら、戸惑いの思いを隠せずに、つい。
「……いいよ」
と、メアリに告げた。
惨めな気持ちに沈んでいる僕なんかに、綺麗な花の冠は似合わないと思ったのだ。彼女からそれを受け取る資格などない、とさえ感じていた。
メアリ、それは君が着けた方がいい――という思いは、言葉にならなかった。ティアラを着けた彼女の姿を、僕は心に描いていた。それはとても可愛らしかった。
メアリが、表情を固くしているのが見えた。
僕のそっけない拒否は、彼女の心をひどく傷つけたのかもしれなかった。
もしかしたらそれは、どうしようもないような、“取り返しの付かないこと”だったのかもしれない……僕の心が、そんな根拠のない恐れに満たされようとしていた。
しかし――メアリは、引き下がらなかった。
「ウィル。いいから、受け取って」
メアリが、ぐっと腕を差し出して、再び僕に花の冠を示した。
彼女は、何か複雑な感情をその瞳に宿していた。
受け取って欲しいらしい。どうしてなのか、僕には分からなかった。
そんなメアリの様子に押される形で――僕はティアラを手にとって、ありがとう、と言った。
メアリは、どういたしまして、と応えて、夕陽の照らすその顔に笑みを浮かべた。
何故だろう。
それは幸せそうでもあり、しかしどこか儚げな表情にも見えた。
花の冠のやり取りから、しばらく僕たちは言葉もなく、夏の橙色に染まる空を眺めながら、川辺の時を過ごしていた。
メアリの作ったティアラを指で感じながら、どこか気恥ずかしかったけれど、不思議と満たされたような気持ちを、僕は覚えていた。
……そういえば。
言いたいことがあるのを、ようやくそこで僕は思い出した。家族についての愚痴なんかよりも、それはずっとメアリに告げたかったことだった。
僕の夢についてのことだ。
「……羊飼いの、フィリップ伯父さんを知ってる?」
「ええ」
フィリップ伯父さんは僕の父の兄で、隣の村に慎ましやかな牧場を持っている。奥さんを不幸な事故で亡くしていたが、たまに赴くと、それを感じさせない明るい笑顔と、数十頭の羊たちが出迎えてくれた。
「この間、伯父さんが、僕に話してくれたんだ。自分が知る中で、僕が一番『見込みがある』って」
メアリは、話す僕の顔を見てくれているようだったが、僕は彼女と視線を合わせるのが恥ずかしくて、川面を向いてしまっていた。
夏の夕方の静かな風を浴びながら、僕は言葉を続けた。
「……伯父さんが、僕に言ってくれた。『お前は、羊を扱うのがとりわけ上手い。お前は兄たちのように腕っ節がいい訳でも、世渡りが上手い訳でもないが、多くの羊を巧みに扱える。ウィル、お前は羊飼いに向いている』って。それを聞いて、とても嬉しかったけど……僕は羊飼いになりたいわけじゃない」
ふと、メアリの顔を見る。彼女は、真剣な面持ちで僕を見つめていた。
彼女が、僕の今の話を聞いてくれていることを喜びながら。
メアリを見ながら。
僕は、心の奥で密かに思っていたことを、打ち明けた。
「……もし、軍務が終わって、無事に村に戻ってこられたら。いつか……工場をやりたいって、思ってるんだ。羊飼いではなくて。羊の代わりに、大勢の人に指揮して、働いてもらえるような……そういうことができたらいいなって、思ってる。もちろん、お金が沢山必要になるだろうし……準備も要る……だろう、けど……」
話しながら。
僕は、いつの間にか、泣いてしまっていた。
どうして。
……どうして、こんなに感情が溢れ出すのか、涙が溢れてしまうのか、僕自身にも分からなかった。メアリが、僕を見ているのに。
掠れた泣き声で、僕は彼女の名を呼んだ。
「メアリ」
僕は今、どんな面持ちで彼女を見ているのだろうか。きっとひどいのだろうと思う。十五にもなって、顔中を涙で濡らして、体を震わせて、嗚咽を漏らして。
それでも、メアリに言いたかった。
「必ず――なんて、とても言えない。でも、きっと、戻ってくるから。……君にまた会いに、ここに戻ってくるから。……だから……もし、君が、それを望んでくれるのならば……」
すべては、晩夏の夕空の下。
涙で霞む視界の中で、僕は、告げた。
「……その時は、僕のそばにいて」
(完)
インダストリアル・レボリューション,スタンド・バイ・ミー