ましらの如く/出稼ぎ猿蔵忍法帖
【猿回しの旅】
「やあ、猿蔵さん、今から出稼ぎかい。しばらく会えねえが、元気でな・・・。」顔見知りの百姓仲間から声をかけられながら、男は一匹の猿を肩に村を出て行った。猿蔵と呼ばれたこの男は、三年ほど前にこの村に現れ、由紀という子連れ女の家に一緒に住むようになり、秋の稲刈りが終わって来年の田植えの時期までの農閑期に、毎年一匹の猿を伴って全国の神社仏閣の縁日を巡って旅をし、猿の芸を見せては稼いだ金を持って帰る、いわゆる出稼ぎをしていたのである。しかしこの男の出稼ぎは、決して、ただの猿回しの芸だけには、留まらなかった。
【侍の呟き】
さる城下の人でにぎわう通りに面したした竹細工屋の店に、猿を肩に乗せた一人の男が入っていった。「やあ、猿蔵さん。今年も来てくれたのかい。まあ、掛けておくれ、いまお茶でも入れるから・・・。」馴染みの店主は、少し頭の白さが目立ってきてはいるが元気そうだった。「覚えているかい?あんたが家の店の前で猿回しを始めたときやあ、他所でやってくれと文句を言ったが、あんまり芸が面白いので人が大勢集まり、帰りに家の竹籠やら何やらがよく売れて大助かりだったよ。あれからもう何年になるかねえ・・・。」
一息入れて、店先に出て背負い袋から太鼓を取り出し、撥を調子よく叩き出すと、その心地よい響きと猿の滑稽な動きにたちまち人だかりがして、「何だい、何だい、何かあったのかい?」と人が人を呼び一本の撥を握った猿の手によって描かれた、地面の差し渡し二間あまりの輪に沿って出来た車座の真ん中で、猿回しの曲芸が拍手喝さいを浴びながら続いていた。その見物客の中に若い侍が二人、何かを話し合っていた。見物人の歓声の中その声はかき消され聞こえなかったが、二間半余りを隔てていてもそれを間近で聞く如くに分かるものが居た。それも唇の動きを読むことによって、一句、一句、一言も漏らさずに・・・。
【真夜中の訪問者】
城代家老の土上主水丞は寝床に入り、まさに眠りにつこうとしていたその時、障子の向こうの廊下に人の気配を感じ、「誰じゃあ、そこに居るのは。」と声を掛けても答える様子もなく不審に思い障子を開けると、そこには忍び装束に身を固めた小柄な見知らぬ男が座っていた。「何者だ!人の屋敷に断りもなく忍び入るとは無礼な!誰か・・」と、警護の者を呼ぼうとする声を遮り、男は口を開いた。「無駄でござる。この屋敷にて眼を覚ましておられるのは、あなた様一人。」「何!?」「ご心配なく、朝には皆、何事も無かったように目覚めます故。」「うむ・・それで、わしになに用で参った。」「今あなた様が抱えている難題を某が解決して御覧に入れる。それもたった百両というわずか金子にて。」「何を馬鹿な!そのようなこと、貴様のような下賤な忍びごときに解決出来るわけが無い。さがれ!」「ならば、解決して見せた暁には何となさる。」「そんなことはあろうはずが無い、百両とは言わず千両でも二千両でも勝手に持ってゆくがよいわ・・・。」「その言葉、ゆめゆめお忘れなく。」「はっはっはっ・・・面白い奴、ならばその時のために、お主の顔を覚えておかねばなるまい。顔を見せい。」「人に見せる顔では無い故、それだけは平らに。」「構わぬ、苦しゆうない。頭巾を解け。」その言葉に男は、ならばと頭に手を掛け頭巾を脱ぐと、ゆっくりと顔を上げ相手を見つめた。その顔の異様さに主水丞は思わず息を飲んだ。まるで火炎で焼かれたように、赤黒く崩れた醜い顔面に開いた片目だけが爛らんと輝いていたからである。「もうよい。」あまりの醜さに横を向いて、再び振り向くとそこにはもう、その男の姿は無く、もの静かで不気味な声が辺りに響いた。「先ほどのお言葉、ゆめゆめお忘れあるな・・・。」
【後を追う影】
「これはこれは、若君様ご機嫌麗しゅう、この相模屋惣兵衛、胸悦至極に存じ上げ奉りまする・・・。」「堅苦しい挨拶は後じゃ。で、例の物は持参いたしたか。」「はい、今日はそれをお届に上がりました。品物をこれへ・・。」「はい、旦那様。」随行した手代が後ろから、錦の袋に包まれた一振りの刀を主人に手渡した。惣兵衛はそれを受け取り、両手で持ち上げ恭しく頭上に頂いて、「どうぞ、ご覧くださいませ。」といって差し出した。「どれどれ・・・。」源十郎は、それを受け取るとすぐさま紐を解き、袋を脇に投げ捨てるとすらりと抜き放ち、刃の鍔元から切っ先までを食い入るように眺めた後、満足げな笑いを浮かべ、「惣兵衛、ご苦労であった!思った以上の品であった。また良き品手に入れば届けてくれい。金に糸目は付けぬ。」「ありがとうございます。これという品が手に入りましたら、真っ先にお届けにあがります。」「よし、楽しみにしておるぞ!」「ははっ。」その夜のこと、宗十郎頭巾で顔を覆った三人の侍が、城の門を出て行った。その後を音もなく、着かず離れず黒い影が追っていることなどには、全く気付きもせずに・・・。 やがて彼らは町中に入ると、四、五間先に、杖を片手に呼子を吹き鳴らし歩く按摩を目にすると歩みを止めた。互いに顔を見合せ頷くと一人が按摩に近づき、一言二言話し合ったのち彼の片手を引いて連れ戻ってきた。一行は人気のない街はずれまで来ると、辺りを見回し、とある荒れ寺に入っていった。そして裏の墓地に連れ込むと引いていた按摩の手を振り解いた。按摩は不審に思い「ここはまだ御屋敷の外のようで、中で待っていらっしゃるお方のお部屋までご案内くださいまし。」そう声を掛けたが返事が無い。それに周りの匂いに気が付いた。「もし、この花筒の水の臭い、やかすかに残る線香の匂いからしてここはお寺でございまするか。さては、わたくしを御待ちになってるお客様とは、ご住職様までございますね。」「いや、お前を待って居るのは地獄の亡者どもよ。」「えっ?今なんとおっやいました?」その声に振り返った按摩に、後ろに立っていた男が、いきなり素早い鞘走りの音とともに抜き放った刀を一機に振り下ろし、相手の肩口から右わき腹に掛けて袈裟懸けに切り裂いた。「ぎやあああ・・。」という断末魔の叫び声とともに、血しぶきをあげながら按摩はその場に崩れ落ち、やがて息絶えた。懐紙を取り出して刀の血を拭うと三人の侍たちは、足早にその場を立ち去った。先ほどより、その様子の一部始終を楠の樹上から見ていた黒い影も同時に姿を消していた。
【 蜘蛛の糸 】
腰を揉ませていた侍女を遠ざけ、春日井検校は床に入ろうとしていた。そして布団を掛ける手を止め「誰だ。そこにいるのは、答えい。」
そう言って障子の外を伺ったが返事が無い。さらに、「わしは幼きにして病により、眼の光を失ったが、代わって音や匂いに敏となり、そなたが男で、この屋の者でないことはすでに見抜いておる。そなたの落ち着き様や、呼吸に少しの乱れも無い処を見ると、単なる物取りの類とも思われぬ。何用あって、この様な夜更けにわしのもとに参ったのか、訳を申せ。」「さすが、大勢を束ね、琴の名手と名高き春日井検校殿、恐れ入りました。実はお耳に入れたき儀があり、推参ん仕った。聞くところによると春日井殿は、将軍家の御側用人にお目通りが叶う御身分の江戸の鶴橋様と、共に琴を弾じられるほど懇意にされているとか。」「いかにも、鶴橋様は私の琴の師匠であるが、それが何とした。」
「己の立場を考え、少しは自重いたせ・・。」忠臣の通告に、病身の藩主は咽込みながら嫡男源十郎を呼び寄せ、そう叱咤した。「いちいち口うるさく言わずと、早く身罷ればよいものを、ち!」自棄酒をあおり、おおいびきをかいて寝入る源十郎の顔面に、天井より一匹の蜘蛛がするするするっと降りてきたかと思うと、大きく開けた口の上一寸余りでぴたりと静止し、その蜘蛛の糸を伝って天井から水滴のようなものが、つつーとばかりに降りてきて、口の中にぽとりぽとりと落ち始めた。すると源十郎のいびきは止み、やがて静かな寝息が聞こえ始めた。小半時後、天井から音も無く枕元にふわりと降りたった者がいた。あくる朝、城 内は騒然となった。藩主嫡男源十郎の姿が城内から忽然と姿を消していたからである。そしてその枕元には黒々と次のように書かれた懐紙が置かれていた。― 悪行を重ねるものは、例え如何なる者といえども必ず、その報いを受けるべし ―
【 報いの夢 】
源十郎は夢うつつに寒さを感じていた。身に何一つ纏わずに凍えそうになって荒野を彷徨う夢を先ほどから見ていたが、あまりの寒さにふと目覚めた。すると自分が真っ暗な蔵の中に立ってことに気付いた。しかも真っ裸である。慌てて着る物を探そうとしたが、身体の自由が利かない。よく見ると、自分の身体が後ろ手に柱に縛り付けられいることにようやく気が付いた。「ここ、これは一体どうなっているのだ。俺は夢を見ているのか。誰か、誰か来てくれ!おい!誰もいないのか!いたら返事をしろ!おおい!お・・・・。」闇に眼が慣れるに従って、源十郎は、自分の周りに座る無言の人影に気付いた。見回せば七、八名の老若男女が自分を取り囲んでいた。「お前たちは、何者だ!俺を誰だと思っている!俺にこんな辱めを負わせて、唯で済むと思うな。一人残らず打ち首にしてやるから、覚悟しろ!」そう凄んでみてもだれ一人口を開く者はなく無言のままで、自分をじっと見ているだけであった。そのうち、ひとりの女が言った。「まだ、三つだった。笑顔が可愛い母親に似た優しい子だった。夜中に熱を出し、お医者に行った帰り道、母親もろとも切り殺された。」「な、なに!?」後ろから老人の声が続いた。「うちの弥吉は、腕のいい大工で、二日後に嫁を貰うことになっていた。仲間に誘われ、酒に酔った帰り道に、川で用を足しているところを背中から切り殺された。」「うちのお父っつあんは、夜回りで拍子木を毎晩叩いて歩いていた。でももうその音も、およね、今帰ったぞ、という声も聞こえはしない。去年の大晦日の晩、呉服屋の店先で、切り殺された。」「うちのおっかさんは、夜中、急の呼び出しで産気づいた角屋のおかみさんの家に行く途中、柳橋のたもとで切り殺された。角屋のおかみさんは難産のため、おかみさんも、赤ちゃんも、産婆が来ないため死んだ。」「うちのひとは、熱がある身体をおして、あの日も魚を売り歩いた。あたしの薬代を稼ぐために、そしていくら待っても帰ってこなかった。あたしの病を治そうとお百度を踏んだ帰りに地蔵堂の前で切り殺された。」「俺は、お市ちゃんと夫婦の約束をしていた、あの日も八幡様の夜店に一緒に行こうと約束をして、いつもの場所で待っていたが、何時まで待っても来なかった。家に向かいに行く途中、橋の下に切り殺されて浮かんでいた。」
【 約束の金子】
城内から、藩主嫡男源十郎が忽然と姿を消してから三日たったある日、登城しようとした藩士の一人が、東櫓の石垣の下に人らしきものが浮いているのを見つけ引き揚げたところ、源十郎であった。櫓から転落した際に石垣で打ったのか、身体の全身に痣や腫れた跡があり、特に顔は見分けがつかないほどに潰れていた。藩は幕府に対し、藩主嫡男源十郎君は誤って東櫓から濠に転落、打ち所が悪く落命致し候、と報告幕府からは、なんの検分も無くすんなり受理され、江戸家老の裏工作が取り沙汰されたが家老の重衛門にも不可解な結末であった。 土上が登城すると、勘定方を務める藤井十太夫が走り寄り、こう耳打ちした。「御家老、昨夜御金蔵が破られ、このような紙切れが。」開くとその書面にこう書かれていた。 ー 御約束通り金二千両、確かに頂戴仕った ー
春日井が眼を覚ますと、枕元に千両箱が置かれてあり、その上に手紙が添えられていた。開くと、― 春日井検校殿、この度の御口添え
誠に忝のう御座った。約束の千両、確かに御収め申し候 ― とあった。
【 願かけ 】
吉原の一角にある九朗助稲荷の祠に一人の禿が現れ、懐から手紙と小判を一枚取り出すと判を手紙の中に忍ばせ、賽銭箱に入れ鈴を鳴らし、手を合わせ一礼して何処とも無く立ち去った。 住倉屋の厠の中で一人の女が倒れていた。「何?!お咲きが・・。」郭の主人が首筋に手を当てると脈が無かった。そのあくる日のまだ夜が明けきらぬ暗闇の中、男衆たちに引かれた大八車が籠にまかれた遺体を乗せて、吉原の大門を出て行った。
浄困寺の住職が、投げ込まれた遺体を堂内に安置して枕経を唱え席を立ったのち線香の燃え尽きたころを見計らって再び戻ってみると、そこには遺体は無く、籠だけが抜け殻のように残されていた。その日の夕刻、住倉屋に身を置く水蓮太夫が花魁道中の最中、見物客の中に狐の面を着けた者が居るのに気づき目をやると、その狐の面が二度ほど頷いたかに見えた。それを確かめた大夫は満足げに微笑むと、その後何事も無かったように、もとの人形のような無表情の顔に戻り、客の待つ揚屋へと道中を続けた。
【 ご祝儀袋 】
伊勢屋六三郎の貸し切りの宴席で、幇間が声高らかに披露した。「さて御席の皆々様方、この吉原の喜知屋に咲く名花一輪、その名も高き高千穂大夫がこのたび目出度くも、伊勢屋の御大尽のもとへ嫁ぐことと相成りました。この目出度目出度もおお目出度の宴席に、皆様方の御目目を楽しませようと太夫自らの御計らいで、てんてけてんのあのお猿さんの芸をご披露させて頂きます。いざ、年季の入った芸をご覧あれ。」襖が開き、ひょっとこの面を着けた猿回しが肩に乗った烏帽子紋付姿の猿を連れて登場し、様々な息の合った芸を見せて座敷内の拍手喝采を浴びた。猿ともどもお大尽と太夫の席に近づき頭を下げると、高千穂大夫は見事な金の水引細工の祝儀袋を手渡した。それを受け取った猿が猿回しの手を取って、早々に引き上げようとすると座敷内に再び笑い声と盛大な拍手が湧き起こった。
吉原の大門から続く仲之町の大通りに、今年も職人の手で一夜のうちに満開の桜並木が植えられ、内外の見物客で動けぬほどの大賑わい
を呈していた。その入り口近くで若い娘たちが寄って集 ってきゃあきゃあと歓声を上げだした。何事かと見れば、人気役者の市坂彦次郎が今盛田座に掛かっている『浮世絵恋互野身時雨野道行』の鹿次郎の舞台姿で見物に来て居るらしい。屋号のにちなんだ羽子板の紋付の黒の羽二重の着流し姿で、頭に紫の手拭いで顔を隠し高千穂大夫のいる喜知屋の奥座敷へと姿を消した。見物客の多くは高千穂太夫の贔屓役者の鹿次郎が今日を最後の別れの宴席に呼ばれてきたのだろうと口々に噂をしていた。そして今宵の吉原桜の満開の下、最後の花魁道中をするであろう高千穂大夫の見納めの姿を一目見ようと、日が暮れるのを今や遅しと待ちかねていたのである。
【 花魁道中 】
やがて日が暮れ、仲之町の桜並木は両側の提灯の明かりを浴びて夢のような雰囲気を漂わせる中、各店から揚屋に向かう豪華絢爛な衣装に
身を包んだ大夫が勢ぞろいし、花魁道中が始まると夜桜見物は最高潮に達していた。禿 や新造を従え若衆が差し駆ける長い枝の傘の下、黒塗りの三本足の高下駄を外八文字に擦り歩きをしながら、名だたる花魁が見物客の前を次々と通り過ぎて行った。そして、吉原一と評判の喜知屋の高千穂大夫が姿を現すと、「待ってました!日本一!」「喜知屋!」と、芝居見物のような掛け声があちこちから飛び交う中、高千穂大夫だけは、揚屋に寄らず、もとの喜知屋の玄関口に消えた。喜知屋は今日も伊勢屋の貸し切り宴で、座敷には梁に駆けた紅房で飾られた天秤棒が備えられ、片一方にはいくつかの千両箱が掛けられて、もう一方には高千穂大夫が乗るかごが用意されていた。これは、高千穂大夫の身請けの金額を決めるためのものであり、太夫と同じ重さの小判を計るためのものである。したがって喜知屋の店主はできるだけ太夫の体を重くしようと、重い衣装を何枚も重ねた上に、袖や懐、内掛けの裾の中まで金物や砂袋を詰め込んでいた。やがてどんちゃん騒ぎが収まり、いよいよ宴たけなわとなって、体を何人かの男衆に抱えられた高千穂が天秤籠に乗ると、その重さは五千五百両にも達した。大きなどよめきの後、拍手喝采やら羨む宴席の歓声の中、高千穂大夫は重い衣装を着替えるために奥座敷へ運ばれていった。一方喜知屋の玄関先では、高千穂大夫の最後の宴席に呼ばれた役者の市坂彦次郎が、来た時と同じ鹿次郎の紛争で紫の手拭いで顔を隠しながら寄ってくる若い娘たちに揉まれながら、吉原の大門を出て行った。「おい亭主、何時まで待たせるんだい。もう半時以上経つのに、まだ大夫は着替え終わらないのかい。」伊勢屋の催促に、「長い間付き合った周りの連中と、最後の別れを惜しんでるんでしょう。私がちょいと見てきますんで・・・。」そう言って喜知屋伝兵衛が高千穂大夫の入った奥座敷の襖の前で立ち止まり、声を掛けた。「大夫、伊勢屋さんが待ちくたびれていらっしゃるが、」しかし中から返事がない。「大夫、ちょいと開けますよ。」そう言って伝兵衛が襖を空けると、脱ぎ捨てられた衣装だけが畳の上に散乱しており高千穂の姿は何処にも見当たらなかったのである。そして異変は喜知屋だけに留まらなかった。盛田座の人気役者市坂彦次郎も時を同じくしてその楽屋から忽然と姿を消しその行方は妖として知れなかった。ただ人づてに、ここしばらくの間、両者の贔屓客の宴会に何度となく 見慣れぬひょっとこの仮面を被った猿回しが呼ばれていたらしいと、いう噂が流れたが、その真偽は定かではない。
【 老木の影】
「吉右衛門を・・呼べい!」杖を片手によろよろと立ちあがった老藩主は、傍に控える従者に命じた。「大殿がお呼びでござる。」書物を
ひも解いていた養子吉右衛門はうんざり顔で、無言で頷くと登城の支度をすべく部屋を出た。「おお、吉右衛門か。そこもとを呼んだは
他でもない。、先日申し述べたそこもとの屋敷の庭先の桜の木を、城の中庭に移せとのわしの命を、まさか忘れたわけではあるまい
の?」「いえ父上様、決して忘れてなどおりませぬ。」「ならばなぜ、わしの言う通りにしてはくれぬのだ。」「ですから、先日も申し上げましたが、我が城下には、満開近い桜の大木を散らさず移すことができる植木職人はおらず、江戸の手慣れた職人を呼び集めるのに手間取っておりますゆえ、今しばらくの御猶予をと。」「だまらっしゃい!わしは、そこもとと違ってすでに八十を優に超えた年寄り。明日
を知れぬ身だというのが、わからぬのか!」「は・・・。」「わしは、今この目で桜の花を見なければ、明日もうこの世に居ないかもしれぬのだぞ!まさか、お主、引き継ぐ財の出費を惜しんでわざと引き延ばし、わしが早く身罷るのを待っているのではあるまいな!」「いえ
決してそのようなことを望んではおりませぬ。」「ならば、明日にでも直ちに移されい!よいな、これは藩主としての命令である、しかと心得よ!もうよい、さがれ!」「ははっ!・・・。」 その夜、吉右衛門が怒りと屈辱の余り夕餉ものどを通らず、開け放たれた障子の向こうの七分咲きの桜を見つめていると、その縁側にいつの間にか黒い人影が座っているのに気づき、思わず床の間の刀を引き寄せ身構
えた。「何者だ、勝手に当屋敷内に入り込むとは不敵な奴、盗賊の類には見えぬが、何用で参った、返答次第によっては斬って捨てようぞ!」「当藩の次期藩主になられるお方。あなた様の御器量には藩の誰もが一目置いており、早く藩を引き継がれることを望まぬ者など居りますまい。ただ唯一の人物を除いては。」「何!?」「昼日中、城下を歩けば誰の耳にも入る現藩主殿の噂話。すでに老い衰えて、そのお身体のみか、その精神にも狂いが生じておるとか。」「そなた、我が義父を愚弄しに参ったのか。」「いいえ、そうではございませぬ。あなた様に代わって、その源凶を取り除き、新しき名君の世を開くお手助けになればと思い、参上仕りました・・・。」そう言って黒装束の訪問者は、まるで主人に長年従っている下僕の如くに深々と頭を下げ、相手の次の言葉を待った。
【 幻の虫】
「殿、御薬湯のお時間でございます。」若い世話役の小姓が枕元に椀を置き、静々と引き下がった。「そなた、見慣れぬ顔じゃがいつもの新之助は如何いたした。」「はっ、新之助は夏風邪が長引き床に伏せって居りまする。」 老藩主は両手を震わせながら、飲み干そうとした瞬間「わあああっ・・・!」と言って、薬椀を掛け布団の上に放り出した。「ここ!ここの薬椀にムカデが入っておるではないか!!」確かに掛け布団の上を、真っ黒い七、八寸もある大きなムカデが蠢いている。老藩主は両目を手で覆いながら「わ、わしはこの世で、一番ムカデが嫌いなのじゃあ!早く早く何とかしろ!」 するとその小姓の侍は、こう答えた。「殿、ムカデなど、どこにも見当たりませぬが・・・。」「な!なにっを言っておる。ほら、そこに、その布団の上におるではないか!」指さしながらそっと目を開けてみると、今いたはずのムカデが布団の上にはいなかった。「ややっ・・・今ここに蠢いていたのを、お主も見た であろう。」しかし小姓役は怪訝な顔で「いいえ、初めからムカデなど居りませんが・・。」と答えた。「いや、そんなはずはない。この目で確かに見たのじゃあ、見たのじゃあ・・。」そう言いながら、震える手で布団をめくってあちこち探したが、どこにも見当たらない。「はて・・・今のは幻じゃったか・・・。」そう言って、老藩主は力が抜けたように布団の上に尻餅をついた。「殿、御典医をお呼びいたしましょうか?」「いやあよい。もうよい…下がれ。」その言葉に小姓役の侍は部屋を出て行った。その夜から怪異は起こり始めたのである。
まだ春の四月だというのに、その夜は妙に生暖かい南風がひゅうひゅうと音をたてて吹き荒れ、雨戸をがたがたと揺らしていた。老藩主はその音に目を覚まして辺りを見回すと、何か顔に蠢く物を感じて無意識に拭い去ろうとすると 、それが指に絡みつき慌てて振り解いてよく見ると、大きな黒々としたムカデであった。「わあああああ!」と大声で叫び辺りを見回すと、布団の上から畳の上、己の寝間着の上に至るまで、真っ黒に蠢くムカデの大群で埋め尽くされているではないか。「ぎゃああああああ!ぎゃああああああ!」彼は大声で叫びながら、己の身に絡みつくムカデを必死で払いのけ、「誰か!誰か来てくれ!助けてくれ!」と気が狂ったように喚きたてた。その声を聞きつけた従者が、「殿!如何なされました!何をそのように叫んでおられるのですか!」と近寄ると、「このムカデを何とかしろ!この部屋中に蠢いているこの虫どもを早く箒 で掃きだせ!ほらその壁にも!天井にも!お前の身体にも纏わりついている、その毒虫どもをわしの周りから追い出せと言っているのか分からんのか!この愚か者めが!何を、何を致しておる!早く、早くせんか!ほら、ここにも!それ、そこにも!あそこにもムカデじゃあ、夥しい数のムカデがこの部屋中に蠢いておるわ!来るな!わしの傍に来るな!わあああああ・・・。」しかし、その従者はその場を一歩も動こうとはしなかった。ムカデが怖かったからではない。自分の眼には主の言うムカデなどは一匹たりとも見言えず、ただ気が狂ったように喚き狼狽える老藩主の姿に、為す術がなかったのであった。その日を期に、老藩主の狂気じみた行動は昼夜を問わず止むことはなく続き、やがて食う物ものどを通らなくなり、痩せ衰えて二か月後の端午の節句を迎える前に、一度も正気に返ることなく、この世を去った。
藩を引き継いだ若き藩主の枕元に再び現れた黒い影が、口を開いた。「この度は、誠におめでとうございました、これでこの藩の碌を食む者も御城下に暮らす者たちも、さぞ喜んでいることでしょう。」 その言葉に対して藩主はこう答えた。「そなたは、わしが心底 喜んでいると思うてか。」「はあ?」「どうやらお主は、親の情をあまり受けずに育ったと見える。」「・・・。」「わしが、お主を捕らえてその首を斬り落とそうという気を起こす前に、早く立ち去れい。そしてわしの眼の前に、二度と現れるな。」そう言って、布団を被った。そして、その布団の隙間から洩れる嗚咽を聞いてか聞かずか、それまで廊下に座っていた黒い影はいつの間にか煙の如く、忽然とその姿を消していた。 ( つづく )
* この物語は、完全なるフィクションであり、登場する人名、地名その他一切の物事は、実際に存在するものとは一切関係がありません。
(筆者敬白)
ましらの如く/出稼ぎ猿蔵忍法帖