硝子壜 ガラスビン

 一九歳の夏、そしてボクが浪人生だった夏。
 夏になると駅の売店にはなぜかビンのラムネが並ぶようになった。初めはどこのなく田舎っぽく、そして子供っぽい感じがしてか好きになれなかったけれど、ことさらに暑かった日に一度買ってみると、それが驚くほどにしっくりと来てしまった。
プラットホームで中のビー玉を落として電車に乗り込む。冷房の効いた車内で暑さに渇ききったノドにソーダの甘さがはじけた。それからというもの、毎日一本買っては予備校に行くはずの電車の中で特にすることもなく、ちびちび飲むのが常となってしまった。ソーダを飲むときの炭酸のはじける音、そして青みがかったガラスビンとその中を転がるビー玉が立てるカチカチという音が好きだった。その涼しげな音を聞くときだけは、身体にまとわりつく暑さとけだるさがどこかに消えるような、そんな気がした。そして、また窓から外を眺めてはどこか遠くに行きたいものだなんて考えていた。
 窓から外を眺めるのは好きだったけれど、電車の中、とりわけ乗客の姿を見るのは好きじゃなかった。観光客、家族連れ、ビジネスマン、学生。とにかく、皆それぞれが誰かであった。そんな人たちがボクという誰でもない存在を浮き彫りにされるような感覚がとにかくいやだった。漠然と人のためになるような仕事につきたいとか、そういった志はあった。だから、その時に成績では到底手の届くはずもない医学部を受けて当然落ちた。その結果が今のボクだった。だというのに予備校での勉強はどこか思っていたものとも、求めていたものとも違ったなんて言って、よく予備校を抜け出してはどことなしにぶらぶらするような日々だった。
 その日もよく陽が照って暑い日だった。いつもより少し早目に家を出て、どこか遠くにでも行ってやろうかと家から駅までの道すがら考えながらの結局いつもとかわらない通学だった。そして、改札をくぐっていつもの通りに一本のラムネを買った。特に最近は物欲を刺激する何かにも出会わなかったし、せいぜい買い物といえば本ぐらいだったけれど、それでも毎日のラムネの代金とぶらぶらと歩き回るときの浪費が財布を軽くしていた。
 プラットホームのコンクリートは陽に照らされて焼けるようだった。駅のベンチで、もうビー玉を落としたラムネビンを片手に電車を待つ。
 程なくして電車は来た。先に乗客が下りるのを待つときに視線を落とすと。電車とホームの間にできる隙間に目を奪われた。
 いつだったか、たぶん八歳かそこらの頃だった。その隙間に足を踏み外してはまったことがあった。うしろに並んでいた誰かがとっさに引き上げてくれたおかげで大事には至らなかったはずなのだが、どんな人に助けてもらったのかが全く思い出せなかった。なにか、とっさにお礼だけ言って電車に飛び乗るのが当時のボクの精一杯だったのだ。
 そんなことを思い出していると、電車を下りる客も途切れた。そこで、電車に乗り込もうとしたそのとき、慌てて電車を飛び下りてきた客にぶつかった。すみません、と一言残して彼はそのまま行ってしまったのだが、ボクの方はというとその衝撃で飲みかけのラムネのビンを落としてしまったのだ。
 ラムネのビンはそのまま、まっすぐにその電車とホームの隙間の闇に吸い込まれるように落ちていった。ガラスの割れるような鋭い音。
 その後、すぐに電車の扉は閉まって、ついにボクはビンがどうなったかを知らないまま、電車が走り出した。気まずさに周りの乗客を見渡したけれど、幸いにも電車はそれほど混んでおらず、誰も気に留める素振りはしていなかった。そして、ボク自身もいかにも気にしていないような風をよそおいながら、それでもあのラムネビンのことを思った。ビンがきらりと反射して、そして隙間に吸い込まれる一瞬の光景がずっと頭の中で繰り返されていた。あのビンが割れてしまったであろうことはあの鋭い音からもほぼ確実だろうが、あの鋭い音は、好きだったあの涼しげなビンがビー玉とぶつかってなる音とはあまりにもかけ離れていて、ラムネのビンからあんな音も出るのかと意外だった。そして、その鋭い音も気に入ってしまったのだ。
 あのビンの結末、割れた姿を見に引き返すという考えがかすめた。幸いにも各駅停車だったから時間のロスなんて、それこそぶらぶらしている身には何の問題もないはずだった。
しかし、実際にわざわざたかだかビンを見に戻る自分を想像してしまうと恥ずかしい気がして結局電車に乗り続けた。
 結局、その日も行く宛てなんてなくて、ただ街をふらふらさまよううちにビンのことは忘れていた。
 だいたい予備校の終わる時間に合わせて帰宅する。とっくに日は沈んでいた。家に帰ったところで何も変わらない。特に会話もない。たまたま開けた冷蔵庫に、普段かっているラムネのような甘さのないソーダが何本か入っているのを見つけた。父親が割り材にでも使うために買ってきたのだろう。そのソーダを見たとき、ふいにあのラムネのビンのことを思い出した。
 ジャージにつっかけという姿で家を出て、駅に向かう。最近は夜、寝る前に少し歩くこともあってこの時間に家を出ても何も言われなかった。何度も引き返そうかと思いながら駅まで来てしまった。ほどんど人の少ない駅に明かりは乏しく、線路脇は影がかかってあまりよく見えないし、何よりまじまじと探すこともはばかられたせいで、結局ビンは見つからなかった。
 馬鹿なことをしたものだと後悔しながら家まで引き返した。夜でも蒸し暑かったせいで汗もかいたし、ノドも渇いた。時間も、労力も無駄にした気がして、とてもいい気分にはなれそうもない。思いつきで飲んだ冷蔵庫のソーダはただただ苦くて何の味もしなかった。きっと大人になったら、これにアルコールを足して何かの味を味わえるようになるのかもしれないけれど、十九歳のボクには知る由もなかった。勝手に飲んだソーダの飲み残しをすこしの罪悪感とともに冷蔵庫に入れて、蓋をしてしまえば、いつもの夜に戻っていた。そろそろ寝る時間だった。


 次の日、いつもの時間に目が覚めて、そしていつも通りに家を出る。その日、久々にラムネは買わなかった。少し早足で階段を上ってホームに出る。周りの目は気にしつつも昨日ビンを落としたあたりを探したけれど、ビンの破片は見つからなかった。もう少し探そうとしたけれど、電車が来ることを知らせるアナウンスに一度ビン探しを中断して駅のベンチに座る。別にこの電車に乗る必要なんてないのだから。
 電車に乗り降りする客をぼんやりと眺めていると、若い男の駅員が話しかけてきた。
 「何か落とされたのですか」
 昨日落としたラムネのビンを探していると正直に言っても、理解されるはずもないし、そもそもそんなことを言えるわけがない。
 「いえ、大丈夫です。」
 とだけ慌てて答える。
駅から電車が出ると駅員もどこかへといってしまった。もう一度だけと、ホームの縁までいって、線路を見下ろす。
枕木のわきにきらりと光るものが見えた気がした。よくよく見ると、無色で透明のビー玉だった。きっと、いつも飲んでいるあのラムネのビンに入っていたビー玉だ。そうに決まっている。近くで見たかったけれど、線路に下りてそれを拾うわけにもいかないし、そして何よりもそのビー玉をそっとそのままにして置く方がいい気がした。もしかしたら、誰にも気づかれずにそこのビー玉が残り続けるかもしれない。その可能性にボクは救われたのだ。

駅のベンチにもう一度座る。
アナウンスが聞こえた。次の電車が来るいう。きっとボクはその電車に乗るだろう。
二限の授業には間に合うのだから。

硝子壜 ガラスビン

硝子壜 ガラスビン

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-09

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