夏の夜の夢
夏の夜はさみしい。そんな思いからできた作品です。
夏の夜の夢
「また、寂しい季節がきた…。」
誰かの溜息が聞こえた。そのどこか投げやりな声を、私は知っている気がする。どこで聞いたものなのか記憶を掘り起こす。頭に浮かぶ姿には靄がかかっていて、その曖昧さを払おうとする度に激しい頭痛がする。もう少しで姿が鮮明になるところで私の世界は黒く染まった。
目が覚めた時には私は浴衣を身に纏い、暗い一本道にいた。ここは何処なのだろうか。ひとり暗闇に取り残される孤独に不安を感じる。冷静になって耳を澄ますと、がやがやと人の声がした。その方向を見れば、光があった。縋るような気持ちで私はその光に駆けていく。
光が密集するそこはまるで夢の国だ。ソースのいい匂いがしたり、友人とはしゃぐ高校生がいたり、水風船の浮かぶ箱の前にしゃがむ恋人同士がいたり。各々でお祭りを楽しむその姿はまるで、甘い香りに誘われ綺麗な花に集まる蝶みたいだ。蝶たちが花畑をひらひら舞う中、私はひたすら足を進めていた。お祭りを楽しみたいが、私は他に行くべきところがある気がする。いや、行かねばならないのだ。よくわからない何かに導かれるように私は早足に歩いた。
お祭りが行われていたところから少し離れたところで足を止めた。ここが来なければならない場所。目の前には大きな川が広がっていた。水面をゆらゆら流れるぼんやりとしたオレンジ色を見るとなんだか寂しくて、それでいて懐かしい気持ちになる。この腑に落ちない感じはなんなのだろうか。さっきからもう訳が分からない。
一人嘆いているとき、男の子の声が聞こえた。
「この日にいつもしていることがあるんだ。」
十七、十八くらいの男の子が、隣にいる女の子に言った。女の子は首を傾げて、しゃがみ込む男の子を見ていた。男の子は水の上に灯籠を浮かべた。音も立てずに静かに流れていく灯籠は他の灯籠と集い下流へ流れていく。オレンジ色の光の集まりが闇に映える。
「わぁ…綺麗だね。」
女の子はその光景をみて詠嘆した。男の子は女の子にまた来年一緒に来ようねと約束を取り付けていた。
ちりん。
鈴の音がした方を向くと、今度は二十代の女性が川を見つめていた。
「ねぇ、灯籠流しって寂しいね……」
彼女は遠ざかるオレンジの光をみながら隣に立つ彼に言う。彼女と同い年、もしくは年上に見える彼は苦笑した。
「死者の魂を弔ってお盆のお供え物を流す行事だからね。でも、僕はこうやって母に届くのなら嬉しいなって思っているよ。」
彼の言葉に彼女は応えなかった。ただずっと流れる灯籠を見つめていた。
ちりん、ちりん。
「おかあさん、あれ、なあに?」
5歳くらいの男の子は母親の手を引っ張りながら川に浮かぶオレンジを指差した。母親は子供の手を包むように握った。指でさしたらダメだと優しく諭しているようだ。
「あれは灯籠って言ってね、死んだ人を想い流すものなの。」
「とうろう?」
母親の言葉を復唱する子供。母親は小さく笑った。
「ほら、お父さんが持っているのが灯籠だぞ。」
灯籠を持った父親が、子供と同じ高さになるように屈む。「一緒に流そうか。」という父親に寄り添って三人は灯籠を川に放っていた。
ちりん、ちりん、ちりん。
また振り返るとそこには七十くらいのお婆さんが一人立っていた。ゆっくりとした動作で腰を下ろし、他の人と同様に灯籠を浮かべた。お婆さんは消えていく灯籠を眺めながら優しく微笑んでいた。死者を弔う行事には似合わないような嬉しそうな笑顔だった。
ちりん。
鈴が鳴ると同時に世界はまた暗闇に包まれた。はじめと同じような何もない真っ暗な世界。さっきまでいた人たちは消えていた。
私はあの人たちを知っていた。あの女の子達も、女性も、家族も、お婆さんも。あれは全部、私。そしてその隣にいた男の子、男性、父親こそが私の恋人だ。
高校生の時から付き合い始めた幼馴染とずっと生涯を共に過ごしたいと願った。そしてその願いは叶ったのだ。私たちは子を授かった。幸せだった。大好きな人といれて愛する子を孕め、一人の女として幸せだった。そして産んだ子は成長し、新しい命をつくった。私はお婆さんになった。
幸せだったのだ。生涯好きな人といれて。いつも隣には彼がいて。私がお婆さんになっても隣に……あれ?お婆さんになった時に彼は隣にいなかった。いつから私はひとりだった?いつから隣にいた彼は居なくなった?
思い浮かんだのは四十歳後半の彼だった。病院で横たわってやせ細っている姿が鮮明になる。真っ白なシーツが赤く染まったことを思い出した。
ああ、あの時彼は死んでいたのか。最初は受け入れたくなくて嘆いた。でも、灯籠流しをする度に彼に会えた気になれるから寂しくなんてなかった。お婆さんになった今、現実と向き合うなんて滑稽だな…他人事のように思う。ついでにもう一個思い出した。私は死んだ。
何十年も彼を想い続けひとり、灯籠を流し続けた人生が終わったのだ。もう疲れていた。一人で生きることも、居ない誰かを想うことも。最後はボケてしまって、よく覚えてないが、私の生涯には悔いはないはずだ。
一人の人間としての夢や希望を追う人生ではなかったし、野望を持つこともなかった。人は私の人生をつまらないと言うだろう。だが、私は一人の女として生きることができたこの生涯を嬉しく思う。輪廻転生があるというのなら、また次も人間の女に生まれたい。そして彼ともう一度出会って、また恋をしよう。
ああ、もうそろそろ終わりかな。ぼーっとして何も考えられない。このまま身を任せて堕ちていこうか。さようなら。
心音が途絶える音は無機質だ。無数の機械の管に繋がれた彼女は逝ってしまった。もともと体の弱い人だった。僕と彼女は幼馴染だった。家が隣の所謂腐れ縁というやつだ。幼稚園も小学校も一緒で僕たちはいつも一緒に登校していた。彼女が僕の隣を歩かなくなったのは小学校四年生が終わるころだ。母親に、入院したと聞かされた時には驚いた。寂しがりやの彼女が、ひとりで病院にいる姿をなんとなく想像した。僕はその日から毎日欠かさず彼女のいる病院に通った。今日は先生に怒られただの、道草に生えている花が奇麗だっただの、くだらない事を毎日話しに行った。彼女は病院から出ることはなかったが毎日笑顔で僕の話を聞いてくれた。そんな彼女に僕は年を重ねるたびに惹かれていった。僕たちが恋人同士になるのには長い時間を要した。高校生になってやっと僕と彼女は付き合いだした。付き合っても僕と彼女の関係はあまり変らなかった。僕は彼女にいろんな話をした。季節の移ろいを感じられるもの全てを話して彼女に外の世界を教えた。その中で彼女が興味を示したのは、夏のお祭りと灯籠流しだ。
彼女には小学生の時に事故で亡くなったお母さんがいた。お母さんの事を想って灯籠を流したいと言ったので、僕は彼女の代わりに毎年灯籠を流しにいくと約束した。そして未来の話をたくさんした。退院したら一緒に灯籠流しにいくこと。三十になったら子供ができて、幸せな家庭を築くこと。四十後半で僕が君より先に逝くこと。その時は、僕のことを想って灯籠を流してほしいということ。絶対に私の方が先に逝くよ…と弱音を吐く彼女に、先に逝って待っていてやると言った。実際には僕が逝く前に彼女が先に消えてしまった。
彼女は幸せだったのだろうか。こんな病室に十数年と閉じ込められて、二十前半で生涯を終えて…幸せだったのだろうか。ふと、横たわっている彼女に目をやると穏やかに微笑んでいた。最後にいい夢でも見られたのだろうか。僕にはなにも分からない。
ただ一つ分かることはもうこの世に彼女がいないということだ。
病院の窓から見える夜空に一輪の白い花が咲いた。
今日は花火大会だったか。彼女の為に灯籠を流しにいかなくては。
「夏は寂しくなんてないよ。皆楽しそうに笑っているもの。思い出話とかも多いし、楽しい季節だよ。」
いつしか彼女が僕に言った言葉を思い出す。僕は夏が来る度に「寂しい季節が来た」と言うと彼女は反対した。だけど、僕の考えは変わらない。
やはり夏は寂しい。儚すぎるのだ。蝉の鳴き声も、花火も灯籠もすぐに消えてしまう。そして僕はひとり、取り残される。「生きる」という希望を死者に託されたまま僕は灯籠を手に暗闇へ消えていく。
(了)
夏の夜の夢
拙い文章を読んでくださりありがとうございました。