紫煙の街
液を吸って膨れたようになった瞼が開いた隙間からは影が踊るのが見えた。人型の影が隣から隣へ跳躍し移っていく。幾つかの〼目のあるサークルの位置を占めてはそこを移り占めてはそこを移っていくように影たちは跳躍した。黒く塗り潰したようなインクを溢したような影は時折千切れてその断片は空間に飲み込まれたように細く収束して消えていってしまう。
ひらりひらりと躍るその影の数は確かめられない。酷く目が乾いているし喉も水分を奪われきっている。乾いた風が目に入り込む度に濃くどろりとした涙が溜まる。雫は重みを次第に増し耐えきれなくなると粘つくように乾いた頬を伝い落ちていく。
砂漠の風に吹き曝されると手足に涼しさが走る。縊られた腕はもはや感覚を失いつつあるように思われたが風だけは涼しく通りすぎていった。こんなにも風が心地良かったことが遠いあの街に暮らしていた頃にあっただろうかと思う。もはやあの街の記憶も薄れつつある。照りつけている感覚だけがある頭上の太陽とどこまでも落ちていくことのできそうな青い青い空。そして時折吹き抜ける風。砂漠の風は乾ききっているがゆえに涼やかに吹くのだ。
腕を縊られ磔にされた僕の目は今にも乾いて表面が剥がれ落ちてしまいそうだ。その目が影の舞うのを眺める。空と砂の大地の境界が判然としない視界の中で影だけが扁平で鮮明な黒さをゆらめかせて躍っている。
人型の影は僕を挑発するように舞う。その身ぶりの度に影は前景に押し出され僕の意識に鮮明さを増して入り込んでくる。一体そんな素ぶりになんの意味があるのだと僕の中の微かな声は問うのだがもはやその問いすら意味のないように思えて僕はひりついた喉を乾いた風に晒したままにしておく。
ともすれば消えてしまいそうな意識の向こう側で微かにあの街の記憶が像を結ぶ。
あの街は夜も眠らない街だった。夕方の街の巨大な遠景が立ち上り像を結んだ。無数の明滅する灯が音もなく空を紫色に光らせた。街は巨大は機関であり灯はその無音の呼吸だった。目を凝らして息を止めてようやく気づかれるほどに潜められた鈍い呼吸。
砂の丘の上から大河を挟んで眺めるその街の景色こそが僕の朦朧とした意識の中に浮かび上がる原像だった。
懐かしくも憎くもなかった。思い起こされた街の記憶は僕が街から十分に離れたことを伝えるものに他ならなかったからだ。思わず笑みが溢れた。口元はかろうじて動いただろうか。目の端からは押し潰された涙が細く伝い落ちた。影はなおも動きを止めずに僕を笑うように躍る。
瞼が自然と降りてくる。扁平な影の黒さよりも遥かに黒い暗闇が温かく僕を迎える。眼球を掻いた微かな痛みも無かったことにして飲み込んで暗闇は僕の全意識を包み込んだ。
紫煙の街