赤い雨
雨は一ヶ月前から降り続き、雪の季節になっても空から落ちてくるのは水の塊だけだった。連日の曇り空に「快晴の空を忘れた人も多いでしょう」とニュースキャスターが冗談っぽく笑う。実際空には灰色の雲が掛かったままで、少なくとも彩矢は青い空を忘れかけていた。
広げられた傘が雨と一緒に光も遮る。誰も彼もが下を向いて歩いた。街灯は午後になる前から点きっぱなしだ。外に出たくなくても仕事や学校がある以上、街から人が消えることはない。人工灯が照らすコンクリート地面を彩矢は歩いている。
彩矢の下校時間にはいつも寄り道途中の子供や買い物途中の主婦で賑わっているはずだった。しかし、ショーウィンドウや扉の隙間から漏れる光の明るさが際立つくらいに、商店街全体が薄暗い。道を歩く人の姿も疎らである。誰もかれもが急ぎ足で前に進んでいる。活性化に成功したはずの商店街が再びシャッター街になるのもそう遠くないのだろう。どこもかしこも賑やかさを忘れていた。
「……」
彩矢の歩調が早くなる。すれ違う人々を避けるように蛇行しながら、顔を覆うように傘を前に傾けた。背中に雨がかかっても、やや前屈みの姿勢のまま進んでいく。
足元では雨が跳ねていた。水溜まりに片足を突っ込むと思いの外底が深くて、水が染み込んだ革靴と靴下の不快感に彩矢の眉間に皺が寄る。が、それでも彩矢は自宅まで少しでも早く帰ろうと最短ルートを進み続けた。
「……私だって、見たいよ」
彩矢の呟きは雨音の中に溶けていく。このまま全部融解してしまえばいいのに、と言葉を続けても誰も彩矢に気付かない。否、気付かれたとしても無視されるだけだ。最悪、「そのまま死ね、死神が」と唾を吐き掛けられて罵倒される。
早く帰りたい。何も見たくない。
彩矢の足取りが速くなる。走らないのは他人の目を引きたくないからだ。地面を叩く雨の音に混じって革靴の音が響く。雨音だけでは彩矢を隠しきれない。
しかし、やましい気持ちがないからこそ彩矢はいつもの通学路を通る。人が多くても、人気のない道を選んでしまったら「悪いのは自分です」と自白しているみたいで嫌だったのだ。
私は犯人じゃない。彩矢がそう叫んだところで何も変わらない。テレビの内外で知らない人に指を差される毎日だ。
止まない雨に隠れて歩く中、彩矢は思い出す。
「雨の日にはね、花が咲くの」
幼馴染みの例え話だった。詩人ぶった恥ずかしい言葉だと思いながらも、彩矢はなかなか忘れられずにいる。
「広げた全身で大粒の雨を弾き返しながら、下に隠れる人間を守っている。そんな色彩鮮やかな傘の群れは花に似ているの。壊れていなくても捨てられるところも、壊れてしまっても大事にされることもあることも。誰かにされるがままなところもまたそっくり」
その時、幼馴染みの視線の先にはポリバケツに投げ込まれたビニール傘があった。骨が一本曲がっているが、捨てなければならないほど朽ちているわけではない。しかし、その場しのぎのために買われた物なら仕方無いようにも見えた。
「ちょっとミスっちゃったんだね」
誰の物だったかわからない壊れかけの傘を、幼馴染みは結局家へ持ち帰った。幼馴染みはそれほど手先が器用ではなかったが、ガムテープやボンドで繕えばそれなりの物になった。勿論見栄えは悪い。しかし、幼馴染みは好んでその傘を使い続けていた。最終的にそれは二ヶ月後に台風の勢いに負けて全壊したが、幼馴染みを無事家まで送り届けた。
散り場所を見付けられたのだ、と彩矢は思う。
「……」
彩矢はまだ死にたくなかった。社会的にも、物理的にも、精神的にも。こんな場所で、こんな中途半端なまま終わりたくない。だから、どんな誹謗中傷にも絶えてきた。
「今日は見ないよね、死体……」
曇っているのは空だけではない。
一ヶ月前から続く連続殺人事件によって、街は沈んでいた。逃走中の犯人は未だ正体不明のまま、今日も街が平和でなかった事が漠然とニュースで流れている。
ただ、この事件で一つだけ確定していることがあった。報道規制されているにも関わらず、主婦の口コミやSNSによる拡散で広まった、嘘みたいな話。
その事件はいつも決まって同じ人物によって発見される――。
それが嘘でないことは彩矢が一番良く知っていたし、ひと月の間に街では真実へと昇華されていた。中には彩矢を犯人だと言う人もいて、警察も既に保護ではなく疑いの眼差しを向けている。彩矢が振り向けば、尾行中の警察官と目が合うかもしれない。
彩矢は完全に死神扱いだった。
街に出来た大きな膿。
一度や二度ならまだ庇う余地があっただろうが、彩矢は完全に社会から孤立している。社会からいらないと拒絶されて、弾き出された状態だ。
本当に悪い奴は私じゃない。
彩矢が犯人を呪っても、ニュースキャスターは淡々と事実を述べるだけ。第一発見者のA氏を遠回しに犯人呼ばわりするコメンテーターも増えてきた。それを止める動きも少なくなってきた。
世間が彩矢を悪だと決めつけようとしている。情報はあちこちから溢れ落ちて、点と点を結び付けるには十分だった。悪に形を付けて、自分達でもなんとか出来るものだと思い込もうとしているに違いない。
この世でただ一人、彩矢は自分が無実であることを知っている。
無実を信じてくれる友達は、昨日までいた。
「雅、雅……」
昨日の死体は幼馴染みだった。彩矢がクラス中から疎まれても、「彩矢は何にも悪くない」と最後まで付き合ってくれていた唯一の友人。変人奇人と言われながらも彩矢と肩を並べてくれていた、彩矢にとって掛け替えのない存在。
コンビニ近くのポリバケツに頭から突っ込まれたその死体は、右腕の骨が一本折れていた。あの日捨てられそうになっていたビニール傘の代わりだと言わんばかりに。
死体を見慣れてしまった彩矢だが、泣きながら絶叫したのはその時が初めてだった。
幼馴染みは戻らない。彩矢が大事に持ち帰って、ガムテープやボンドで補強しても、これ以上動けない。
駆けつけた警官に連れていかれる寸前に見た幼馴染みは、胸元から真っ赤に染まった制服を着ていた。赤い花が咲いているみたいで、まるで彼岸花のようだと思った。
「……」
彩矢がまっすぐ家に帰ったとしても、家に引き籠っていたとしても、必ず死体は現れる。死体は彩矢に見付けてもらいたがって、街の至るところで彼女を待っているのだ。
事件が始まってから少し経つと、警察は怨恨を疑い始めた。被害者に共通点がない以上、発見者の彩矢に目を付けるのは当然だ。親族や友人だけでなく、名前どころか顔も覚えていない人まで。事件の規模が規模だから、とだけ告げて、個人情報を漁っていた。
しかし、それでも犯人は見付からない。完全犯罪が繰り返される度に犯人像が不鮮明になっていく。懸命な捜査で生まれたのは、彩矢の家族の崩壊ぐらいだ。世間の誰もが望む結果は得られていない。
透明な犯人が彩矢を殺そうとしている。
透明な理由で彩矢を殺そうとしている。
透明な何かが彩矢を殺そうとしている。
唯一の拠り所を失って、彩矢の足元は崩壊寸前だった。
ただ「死にたくない」という生存本能だけで身体が動いていた。心はわからない。
もう家は目の前だった。彩矢の家は住宅街の中でも比較的商店街に近い場所にあり、学校からもそれほど遠くなかった。
家の回りを見回す。塀には下品な落書きがあったが、それよりも死体が落ちていないか必死に確認する。
学校のある日は必ず帰宅するまでに死体と出会うのだ。夜にこっそり遊びにくる幼馴染みももういないので、帰宅してから玄関や窓を開ける機会は完全になくなる。家族の誰かが死なない限り、家の中に死体があるはずがないのだ。
「……よかった。ない」
仮に街中に死体が落ちていたとしても、彩矢が見付けなければそれで良い。が、自宅に死体があっては困る。本当に彩矢が犯人だと疑われてしまうし、何より家族が死んでしまったら嫌だった。
傘を閉じて、玄関の鍵を開ける。
「……?」
鍵穴に差し込んだ鍵が回せない。用心深い母親はにしては珍しく、既に解錠されていた。
「お母さーん」
扉を開けて中に入る。玄関から伸びる廊下に明かりは無く、暗い。
「ただいま、お母さ――」
扉のガラスから光が零れているリビングに入ったその時だった。
「――え?」
視界いっぱいに母親の顔が広がった次の瞬間、彩矢のお腹に痛みと熱が広がった。
「え、あ……ぁ、れ?」
糸が切れた操り人形のように地面に崩れ落ちる。
「なんで、なんで……」
上に見えるのは包丁を持った母親の姿。刃先からは赤い液体がぽたぽたとリビングのフローリングに向かって落ちていく。
「あんたのせいで……あんたのせいで私はこんな目に!」
忙しなく肩を上下させる母親の息は荒く、血走った目が彩矢を睨み付けていた。
「……」
死ぬ。
そう思った時、彩矢は安堵した。
惨めに死にたくないと思っていたのに、あっさり諦めることが出来た。
「もう……みなくていいんだ……」
急速に体温が失われ、身体が瓦解し始める。心臓から遠い場所からぼろぼろと、彩矢が壊れていく。
「……わたしは……」
ふと、頬に何かが落ちて来る。
水滴だった。
雨が降ってきた。
「ごめんね、ごめんね彩矢……でも、お母さんもう、耐えられない……」
玄関の扉が荒々しく開かれ、「容疑者を確保しろ!」と誰かの怒号が飛び交う。
顔のすぐ近くに何かがガシャンと音を立てて落ちて来る。
腹部に何かが宛がわれ、周囲のどこからか「しっかり気を保って!」と呼び掛けられる。
「……」
私はまだ生きるのだろうか。
明日も死体を見て、誰かに蔑まれるだけの人生。
「……」
雨が止むまで、彩矢は目を閉じていようと思った。
もう何も見なくて済むよう、瞼の裏で笑ってくれている幼馴染みの姿だけを見ようと思った。
願わくば、幼馴染みと同じ場所に行けるように。
そう願いながら意識を手放した。
赤い雨
雨と死体の組合せが好きです。
ホラー系は書いていて楽しいです。