馬鹿犬

馬鹿犬
                               唯希 響

  お前は馬鹿な犬みたいだなあ。


 彼女はいつも僕にそう呟きます。それが彼女の愛であり同時に刃物であったと、今の僕は思うのです。


 小さい頃から僕は、いや、小さい頃は違ったかもしれませんが、周りに比べて少し劣った人間でありました。仕事を与えられてもどう頑張ったって人の何倍も時間がかかって、朝起きるのも人の何倍も時間がかかって、夜寝るのも人の何倍も時間がかかって、他人の言葉の意味を汲み取るのだって人の何倍も時間がかかってしまうのです。
 じゃあ、やることなすこと全て人の何倍も時間がかかる僕は一体なんなんでしょうか。その表現は「お前は人ではない」と言われているようで、悲しくなると同時に少し安心してしまいます。ああ、自分はこの喧噪の中を同じような顔をして歩いているこの腕が2本あって、2本の足で立って、意思を通わす為に言葉を喋る、猿から進化した生命体の中の仲間の1人ではなく、もっと劣った下等生物なのではないか、という希望が生まれるからです。希望、と表現するのは少し不適切でしょうか、でも僕にとってはそう思えてしまうのです。

 大学生になって最近、僕はとても生きやすい、と感じるようになりました。この大学という場所は多くの人間が自分に興味を持たないでいてくれるので。人ではない僕でも毎日のように通い、誰とも会話をせずに帰れる。たまに話す講師も僕が其処ら辺で野垂れ死のうが人を殺そうがどうとでもいいような顔で話してくれるのです。  
 地獄のようであった、小学、中学、高校。とはうってかわって、僕は毎日それはもう、歩く幽霊のように生きることが出来るので、自分が人間であったことも忘れていき、次第にそれを心地よく感じていたのです。
 何も持っていなくて、誰かから何かを奪う事も出来なくて、優しくも冷たくもない。黒でも白でもなくて無色、透明の僕もただ、一つだけ。

 そう、一つだけ手に余るものがありました。そう、それが彼女、名前を出すのは憚れるので仮にKとしましょうか。Kは幼馴染みでいつも近くで、時には遠くから、僕という存在を認識し、興味を持ち続け、優しい声を掛けてくれるのでした。僕には年を取るごとに周りの人間が減っていき、それを受け入れ続けていたのですが、Kだけはいつも僕から見える距離に、ただ朝に日が昇るように、冬に夜が長くなるように、当たり前のようにそこに存在していてくれたのでした。もちろん僕は、Kには感謝をしていましたし、それを人の何倍も時間をかけて言葉にしてきたつもりでした。
 しかしながら僕と彼女は異性交遊の仲になる事はありませんでした。僕にとってKはそんな陳腐で世俗的な存在では無いしKにとっての僕もまた、そんなくだらないものでは無かったのでしょう。2人はただお互いの存在そのものだけに興味を抱いてそれを体現してきたのだと思います。
 それに、僕には人が持ち合わせている「恋」という概念が一体どういう物なのかさっぱり見当がつかないのです。ただ遠い祖先が生み出した子孫を残す事だけが目的の行為に、今更になってそこに恋だの、愛だのいって後付けの価値観をベタベタ貼付けて、幸せだの、悲しいだの、形の無いだけではなく、何の信用も信頼も無い物に陶酔し気持ちよくなっているだけのように見えて、酷く寒気がしてしまうのです。だからこそ僕は、Kをそんな目で見る事は無かったし、そんな愚かな事はしたくなかったのです。Kと必要以上近付くことはしませんでしたし、ただこの一定の距離を保つことだけに神経を注いできました。


 そうやって、今まで日々を生きてきました。そう、今日までは。


 今朝、見た夢は僕にとって信じられないほど不快な物でした。
 

 夢の中で僕はKと身を寄せ、手を繋ぎ、キスをし、甘い言葉吐き、性行為をしていたのです。目がさめると同時に、僕は無意識に、無自覚に、自らの首を両の腕で力一杯締めていました。自分の中の自分が大きな音を立てて崩れていき、自分が汚らわしい下品な正真正銘の「人間」になってしまったような恐怖に塗れて、今にも消えてしまいたくなりました。
 言うまでもなく目覚めは最悪、体の調子まで悪くなり熱が出て、その日は一日中布団の上で過ごしました。

 わかってはいたのですが、一睡もできませんでした。


 それでも日は僕の事など無視して登ってしまうわけで、次の日になりました。まだ体は本調子ではありませんでしたが、熱はだいぶ下がってきていたので、このまま二日間も無断で学校へ行かないわけにもいかず、気だるい身体を無理やり起こし学校へ向かいました。いつもより街の雑踏が大きく感じ、すぐにまた調子が悪くなりそうでしたので、いつもよりiPodの音量を大きくして電車に乗りました。イヤフォンから聴こえてくる音楽だけが僕を肯定してくれている気がしました。

 学校へ着くといつも通りの日常が戻ってくれると思ったのですが、そうも簡単にはいかず、いつも僕に何も興味を持たない講師が「昨日はどうしたんだ、無断で休むなんて珍しいじゃないか」と顔を合わせ一発目で話しかけられ、それだけではなく、どうも周りの生徒が僕を見る視線もどうもいつもより多く感じて、とてもじゃないですけど耐えられなくなりそうで、初めて「帰りたい」とそう思いました。


 僕はお前らとは違うんだ。僕はただただ息をして、物を食べて、排泄して、それだけのために生きていたいんだ。ほっといてくれ。僕を見ないでくれ、僕を人間だと思わないでくれ。違う、違う。こんなものは、僕じゃない。こんなに気持ちが高ぶることも、こんなに涙が出そうになるもの、こんなに消えたくなるのも、こんなに、こんなに、全部、全部僕じゃない。僕はこんなんじゃない、



 ぼくは、


「おい××。昨日はどうしたんだよ」

 今、一番聞きたくない声が僕の背後で響きました。高く透き通るような綺麗な声で、男のようなその口調を発するのは僕の知る限りKしかありえません。瞬間、吐き気に襲われ、それに抗う余裕なんて今の僕にはありませんでした。意識が飛びそうになり、そのまま倒れこむように教室のど真ん中、嘔吐しました。

「おい! 大丈夫か! おい!」

 周りが一斉に僕を見ます。ああ。この空間にいる全員が僕の存在を認識している。奇怪な目で僕を見ている。たった一度の失敗で、たった一夜の夢で、なんでこんなに全てが崩れ落ちなければいけないのでしょうか。今まで必死で透明でいようと努めてきたのに、誰の人生の中にも、存在しないように努めてきたのに。


 Kは何も言わずに僕を抱え、医務室へ連れて行ってくれました。なのに僕は彼女の顔を見ることさえできませんでした。僕を医務室の職員に受け渡し彼女はすぐに授業へと戻って行きました。
 そのあと誰もいない医務室で2時間ほど過ごし、ようやく歩けるようになってから家に帰りました。
 



『教室片付けといてやったから今度なんか奢れよ あとちゃんと飯食えよ』

 夜になるとKからそうメールが来ました。おそらく僕の嘔吐物をみて昨日の僕の食事の事情を察したのでしょう。


『本当にごめん、ありがとう。回復したらなんか絶対奢るから』
『言ったな、期待しとくわ。笑 あったかくして寝ろよ』
『うん、ありがとう 教室の掃除も……ごめん』
『私の優しさにひれ伏せ。笑 おやすみ』


 そんなやりとりのお陰かどうかわかりませんが、やっと気持ちが落ち着いてきました。なのにどういうわけだか普段通りにはいきません。あいかわらず眠れませんでしたが身体の気だるさは何故か抜けて行きました。
 深夜になりKの言葉を思い出してコンビニでご飯買いに行こうと、財布とケータイを持って立ち上がるとケータイがなりました。ディスプレイに表示されているのはまたしてもKの名前。

『言い忘れたけど、明日も大学休めよ 返信いらない』

 おにぎりを二つとお茶を買って家に帰り、食べ終わった頃には少しだけ睡魔が僕に微笑みかけてきて一時間もすると自然に眠る事ができました。




 朝、インターホンの音に起こされました。連日の寝不足のせいで体がついて行かず、しばらく無視をしていたのですがけたたましく鳴る音に痺れを切らし起き上がりました。

「びっくりしただろ」

 玄関を開けるとそこにはいつもと変わらぬ口調でまるでいたずらをした小学生のように無邪気に笑う彼女が玄関に立っていました。
「おい、お前学校は」
「時計見てみろよ、もう大遅刻だ」
 彼女に促され壁に掛かっている時計をみると表示されていた時刻は昼過ぎ。……しまった、寝過ごしてしまった。
「お前、本当は学校行く気だっただろう」
「そりゃそうだろ! 昨日も早退ちまったし」
「教室であんな醜態晒しといて、翌日に学校行こうとするか? 普通。とにかくお前は普段全く学校サボってないんだから大丈夫だ」
「でもお前は普段からたくさんサボってるじゃないか」
「私はいつも通りだからいいんだよ」
 いや、その理屈はおかしいのではないのだろうか。
「四の五の言ってないで早く部屋あげろよ、寒い」
「いや、……今、散らかってて……」
「いつもだろ、あとお前臭いからシャワー浴びてこい」
 有無を言わさず部屋に上がり込んでくるK、臭いを指摘されて若干傷つきましたが黙って言うことを聞いてシャワーを浴びることにしました。

 シャワーから上がり、Kを探しているとキッチンでなにやら調理をしている音が聞こえてきました。

「キョロキョロすんなよ、馬鹿な犬みたいだなあ」

 いつもKは僕を何も言わずに助けてくれます。僕は彼女に何か返せているのでしょうか。そんなことを考えるといつも虚しくなります。なのに僕はあんな酷い夢まで見て、彼女を侮辱するにも程があるんじゃないか。そう考えてまたフラフラしてきました。
「座っとけ、もうすぐできるから」
 僕に背中を向けたまま彼女がそういうので黙って言うことを聞きます。
「本当にありがとう、いつも、ごめん」
「いいから、そういうのは」
 彼女は振り返らないまま答えました。その後、簡単なモンしか作れないけど、とおかゆを振舞ってくれました。
「ああー。奢らなきゃいけない立場なのに」
「いいよいいよ、……あ、私焼肉たべたいなあ」
 にやけながらKがそんなことをつぶやきます……。少しだけ、自分の軽率な発言を悔やみました。
「……今度な」
 誤魔化すように、僕はKを見ずにそうつぶやきました。
「ちゃんと飯食えよな、お前が死んだら私、話し相手に困るから」
「そんなんじゃ簡単に人間死なないし、お前友達たくさんいるじゃないか」
「あんさ、いつも言ってるけどお前がいなさすぎるだけで私友達めちゃくちゃすくないからな、話せる人が私以外いないお前が異常なの」
 はたして、そうなのでしょうか。彼女という存在は僕には輝いて見えます。大学で、僕じゃない他の人と話している光景も、自由気ままな時間に欠伸をしながら学校に登校し、僕に対して手を振ってくれる光景も、その全ては、僕とは違うもののように見えます。僕には真似できない、到底辿り着くことの出来ない場所にKは立っています。

「あのさ」
 おかゆを食べている僕の向かいで頬杖をつくKが窓の外を見ながら僕にはしかけてきます。
「ん?」
「返さなきゃいけないものは私、お前に渡してないから、私はあげようとしてるだけ。それでも返そうとするお前は、えらいよ」
 一瞬、なにを言っているのか、理解ができませんでした。
「え?」
「だから、恩なんて感じるなって、いってるの。私に何かをもらってると思うんなら、お前は別の何かを私にいつかくれればいい。あげたものをそのまま返されてもいらねえからお前にやったんだよ、としかいえねえし」

 自分の中で何かが盛大に壊れた音がした気がしました。ガラスが割れるような、雷が落ちるような、銃声のような、大きな音が。

 ああ、かなわないな。かなわないなあ。僕の願いとは裏腹に目の前の景色が滲んでいきます。

「うちにいる猫さ、毎朝、毎晩、餌を用意してるっていうのに一向に私になついてくれないんだよ。メッチャむかつくんだよ。……でもなんか、それはそれでなんか可愛いんだよね」
 笑いながら彼女は続けます。
「それ比べて、昔飼ってた死んじゃった犬は餌とかおやつとかあげるとすぐに尻尾振って飛びついてくるんだよ。いうことも聞いてくれるし、だから私犬派なんだよなあ。なんで猫かってんだよって感じだけどさ。そういや、そいつとお前、なんか似ててさ」
「名前、レクだっけ、小学生の時飼ってたあの大きい犬」
 僕も昔一緒に遊んだことがある記憶が微かに残っているその犬は。長い茶色と白の毛が触り心地が良かったのを覚えています。
「そうそう、散歩するたびに歩きながら周りキョロキョロ見渡してると思ったら肝心な前を見てなくて電柱に顔ぶつけてたりしたんだよなあ」
「それに似てるのか……」
「似てる似てる、どっちもアホみたいな顔してるし」
「おいおい……」

 なんだか、笑ってしまいました。僕と犬ならどっちが彼女の役に立っているのでしょうか。あんまり、いや、かなり自信はありませんが。

「……でもまあ、お前は人間だよ。紛れも無い」

 一番聞きたくない台詞を、一番聞きたくない人から聞いてしまいました。



 ……でも悪くない気分でした。



 翌晩、見た夢はとても僕にとって信じられない物でした。
 
 夢の中で僕はKと身を寄せ、手を繋ぎ、キスをし、甘い言葉吐き、性行為をしていたのです。僕は目覚めながら消えてしまいたくなりました。




 とても、恥ずかしかったので。



                                    終

馬鹿犬

馬鹿犬

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-07

Copyrighted
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