カシスの川
十六才になった西浦樹には、忘れがたい過去の光景が二つある。一つは氾濫した河の光景である。樹の住むS県T市には街の下半分を横切って、流れる河がある。D河といい河幅も広く、水の流れる速度も速く、一言で言ってしまえば、化け物のような河である。そうして、街でなにがしかの理由で、自殺したくなった人達はほぼ例外なくこの河に飛び込み自殺する。河が氾濫していない時には、街の少年や青年達にとっては、度胸だめしのかっこうの場所になる。
かつて樹の友人のBがこの河に飛び込んだことがある。そうしてそれっきり彼は帰ってこなかった。樹は今でも覚えている。暑い日のなか、ひどく陽気な顔をして、彼は河に飛び込んだのだ。「大丈夫」と言って。その後彼は必死にあがいたが、その河に囚われ死んでしまったのである。
そんなことがあってからは、この河では、遊泳が一切禁止になった。
もう一つの光景は幼い少女との記憶である。誰かはわからないが、幼くかわいらしい少女である。色も白く、眼が青い。西洋人である。 樹はいつから自分がこんな光景を記憶するようになったかわからない。その光景のことを父にも母にも言ったことはない。そうして、その少女は樹の身近にはいないのである。居るのは幼馴染の美咲だけである。美咲は夢見がちな眼を持った、樹と同学年の少女である。眼鏡をしていて、長い黒髪を持っている。そうして樹と彼女は昔馴染みながら、付き合っているわけではなく友達以上、恋人未満なのだった。小学校、中学校と樹は、美咲や友人たちに囲まれ育った。小学校の校庭でサッカーをしたり、放課後に自転車で遠くに行ってみたり、美咲と河沿いを散歩したりして彼は人生を送ってきたのだ。それはまだ幼く、喜びも悲しみも知らない短い少年時代だった。
樹は高校生になった。放課後は、友人たちと過ごすにはうってつけの時間である。樹も例外なく、友人たちと話したり、ゲームセンターに行ってゲームをしたり、考え付くいろいろな遊びをしてその時間を過ごす。
ところが、その日は勝手が違っていた。樹の友人のひとりに陸という生徒がいる。樹とは、互いに同学年で、放課後で遊ぶときも、彼はほとんどといっていいほど、樹とつるむ。
その彼が、その日美咲に、告白したのである。樹にとっては、当然、気になることであった。彼は友人たちと共に、陸と美咲が喫茶店で話すところを見に行った。しかし様子は分かっても話している内容は分からない。遠目で見ると陸は少し、落ち込んでいるような様子だった。
二人は十五分ほど、話すと、喫茶店を出て別れた。樹達もその日は解散した。ある日の放課後、樹は美咲にその時の会話を聞いてみた。
「たいしたことじゃないの」
そう彼女は樹に言った。
「彼が私と付き合いたいというから、困ったわ。だって私、樹とどうするかもまだ決めてないんだから」
そう彼女は言った。それを聞くと、樹は複雑な気持ちになった。
樹は美咲を好いている。でもそれは、昔馴染みとしての感情だ。ときどき樹は、こう感じることがある。彼女ではなく、もっと別のひりつくような相手と恋できたら。そうして、その相手も自分を好きでいてくれたら。そうなればどんなに自分は幸せだろう。しかし他方こう考えることもあった。美咲も離しがたい、彼女とのこの関係をいつまでも続けていきたい。そう考えると彼は、選択を決めかねるのだった。そうしてそんなことを考えると、ふいに彼は小さいころに見たあの青い目のことを思い出すのだった。
樹はある日の放課後、美咲と帰ることになった。それも、彼女にせがまれてのことである。つまりは、話をするためである。そうして二人はD河のそばに来た。話したいことは、美咲のほうにあった。
「長いこと一緒にいるから、私の気持ち、わかるでしょう?付き合うなら付き合うではっきりして欲しいの。このままじゃ私はいや。付き合う気がないなら、他の人と付き合うことになるかもしれないわ」
そう言ったが、実際のところ、彼女には樹としか、付き合う気は無かった。しかし彼女はそう嘘をついた。そうでもしなければ、樹の気持ちを決めることができないと思ったのである。二人は道草をくいD河の近くを歩いていた。
「僕は・・・・」
そう樹が言いかけた時だった。手前の道から若い女性が歩いてくる。それも白人で、美しい女性である。一瞬、彼は彼女を見て、言葉を失った。
「何?」そう美咲は問うた。しかし言葉は返って来なかった。
結局、その日は結論が出ぬままに二人の散歩は終わってしまった。無言になった帰り道、樹は河沿いの道からD河を見た。河は相変わらず、とうとうと流れ、燃えるような真っ赤な陽をその河に映すのであった。そうして彼はすれ違った女性を思い出した。彼女も青い目をしていた。樹が小さいころに見た、あの青い目をしていたのだった。
それから数日後のことである。樹は放課後、例のD河のそばにやって来た。そこで、再び例の白人の女性を見たのである。彼女は、河べりに座り、河の風景を写生しているところだった。
傾く陽に彩られ、彼女の横顔のなんと美しかったことだろう。樹は自然と引っ張られるように彼女の隣に座った。
しばらくの間、彼は黙っていた。そうするのが、礼儀ように、彼は黙って彼女の写生を見続けていた。
やがて彼女の方から彼に声を掛けてきた。
「写生がそんなに珍しいの?」
それはアクセントのない流暢な日本語だった。
彼は「はい」といい、彼女の顔を見た。そうして目があった瞬間、彼は何かを直観した。
それは、彼女が自分というものを解き明かしてくれる鍵なのだという直観であり、彼女なくしては自分の人生も完結しないのではないという直観だった。
「僕は西浦樹と言います。あなたは?」
「クレア。クレア・ウォーカー。私に何か用?」
「いや、用という訳じゃないんですが、あなたがあまり美しいから」
そう言うと、彼女は笑った。
「まるで、アメリカ人みたいな、ストレートなこというのね。日本人にしては。どこの学校なの?」
「松浦高校です。あなたは、なんの職業なんですか?」
「私も学生よ、大学生。ここからすぐ近くのY大に通ってるわ」
そう言うと、再び彼女は写生を始めた。そうして沈黙が辺りを支配した
「なんの色が一番、好きですか?僕は青です」そう言って彼は立ち上がった。
「それも夏の暑いころのあの空の青さです。あなたの瞳もきれいですね。とっても青くて」
「そう、でも私はあなたの黒い目も好きよ。
子供みたいで」といい彼女は言葉を切った。
樹は再び黙った。そうして彼女もまた沈黙を破らなかった。夕陽が出ていた。河の上流の方に陽は沈み、河を赤く染めていた。それが、彼が初めて彼女に会ったある日の放課後だった。
そうしてまたあくる日になると二人は同じ場所で出会うのだった。
「僕を絵のモデルにしてくれませんか?」
樹はそう切り出してみた。
樹にとっては彼女と会うかっこうの口実である。
「そうねえ」と言い彼女は樹を見た。
「じゃあ今度Y大まで来てくれる?連絡先を教えるから」
そう言って、二人は連絡先のメールアドレスと電話番号を交換した。そうして、写生を続ける彼女を残し、樹は帰った。その胸には大きな期待とわすかな不安と少しの憧れとが残っていた。クレア、クレア・ウォーカー。青い目のクレア。樹は幸福な気持ちでその名前を反芻した。夜のベッドの上でも彼はその名前を反芻したのだった。
数日たって、二人はまた出会った。それもまた同じくD河の河原だった。彼女は相変わらず彼女だった。金髪の青い目をした彼女だった。そうして彼もまだ数日まえの彼だった。恋を知った時の彼のままだった。
「まだ僕をスケッチには呼んでくれないんですね」そう樹が言うと、
「だってまだ、この河原のスケッチが終わってないんだもの。終わったら呼ぶから」
「この河がそんなに描きたいんですか?他にもっといい景色があると思うんですけど」
「そう?この河原だっていいじゃない。昼間はそれほどでもないけど、夕暮れのこの河の景色、とっても素敵だわ」そう彼女は言って
筆を置いた。
「残念だけど、あなたを呼ぶのはもう一週間くらいかかるかもしれないわ」それを聞くと、樹は、待ち遠しい気持ちでいっぱいになるのだった。
そうして樹は絵のモデルのことを思うと浮ついた気持ちになるのだった。そうして心のなかで例の名前を呟いてみた。クレア、青い目のクレア。そう呟き、彼は帰り道についた。そうした樹の様子はやがて仲間や美咲たちの知るところとなった。
そうしてある日、彼は美咲から次のことを聞かれた。
「最近、どうしたの?放課後も一人でいて」
「特に何もないよ」
「そんなはずない」
「本当に何もないってば」
「じゃあ、こっちを見て、話して」
そう言われ樹は美咲の目を見た。そこには、相変わらず夢見がちな眼鏡をかけた、黒く美しい彼女の目があった。
「実は、最近、僕はある女の人を知ったんだ。
クレアと言ってハーフか外人かわからないが、きれいな人なんだ」そう樹が言うと、
「じゃあ私のことはもうどうでもいいんだ」
そう樹は美咲に切り返された。
「そんなことはないよ。僕らは以前のまま。友達だよ」
「じゃあ、私が誰かと付き合ってもいいの?」
「それは・・・・そうだね。僕達もいつまでも子供でいるわけじゃないし」
「だったら私、樹のことはもう嫌い!」
そう言われ、彼女はその場を後にした。樹は心のなかで彼女にさよならと呟いた。
そうして、六月も過ぎるころ、樹はクレアの居る大学の美術室に呼ばれた。その日は晴れていた。外には、木々の若葉も茂り、美術室には、デッサン用のきれいなバラの花も咲いていた。
クレアの写生が始まった。樹は学校の制服を着てたったまま、彼女に応じてポーズを変えた。そうして二,三時間が過ぎ、小休止となった。
二人とも若かった。そうして話も弾んだ。樹はクレアがハーフで一人で日本に来ていて暮らしていることを知り、彼女のほうでは、美咲や樹の友達のことを知った。
ふと彼はこんなことを聞いてみた。
「クレア、どうしてあなたの目はそんなに澄んだブルーなんだろう。どうして僕の目は黒いのだろう。そうしてそんな僕達がどうして、こうも会えたのだろう」
「さあ、どうしてかしらね」
そう言って彼女は首をそむけたあと、こんなことを言った。
「あなた、バラの花は好き?そこにあるけれど」
「いや」
樹は彼女の態度に不審を感じたが、彼女が何を隠しているのかは、気づかずじまいだった。そうしてその日、二人は別れた。帰り際の真っ赤な夕陽が、樹の目には、印象深かった。
そうして一月が経ち二月が流れた。彼らはもはや愛し合うようになっていった。樹の学校が終わり、クレアの都合がつくようになると彼らは外で会いデートをした。そうしてある日、樹は彼女にこう言った。
「クレア、僕は初めて君に出会ったときから、こうなることを知っていた、いや知っていたわけじゃない。けれど心の奥深くでわかっていたんだ。クレア、初めて君が僕の名前を呼んでくれたときから、僕はわかっていた。ひりつくような僕のこころを、僕の心の空洞を埋められるのは君しかいないって。僕は君が好きだ。だからこれからもずっと一緒に居てほしい」
それに対し彼女はこう言うのだった。
「私もあなたのことは好きよ。だからまた一緒にデートしましょう」そう彼女は言った。
それからまた月日が流れた。樹は彼女に夢中になった。彼女と共に居ることがなによりの楽しみになった。そうして彼は彼女と最後の一線を越えようとした。しかし、その度に彼女の冷たい拒絶にあった。樹は不満だった。まだ自分は、子供としてしか、彼女の目に映っていないのだ。そう思うと彼は最後の一線を越えさせてくれない彼女を憎んだ。しかし昼間のデートになると彼女の優しい態度に接して彼はなんの不満を抱かなくなるのだった。
そんな彼女の態度に樹は疑惑を持つようになった。考えてみれば、例の美術室で首をそむけたことも樹には不自然に思われるのだった。
何かあるに違いない。樹はそう直感した。そうして彼はクレアにその事を告げた。しかし彼女は言を左右するだけだった。
「どうして、僕と寝てくれないの?僕のことは好きなんでしょう?」
そうクレアに問いてみても無駄だった。彼女は言を左右するだけだった。
そうして行き詰ったとき、樹は河原を散歩して、河を眺めるのだった。河は相変わらずゆうゆうと流れていた。そうして彼はいつかこの河に飛び込んで死んだBのことを思い出すのだった。
ある晴れた日の日曜日、樹はひさしぶりに美咲と会うことになった。樹の方から彼女にメールをして、その日のうちに返事が来た。
そうして会う美咲は以前とは違った。話を聞くと今、付き合っている人が居ると言う。彼女は、溌剌として見えた。そんな彼女の様子が彼には羨ましかった。
「どうしてそんな暗い顔してるの?」
そう彼女は樹に問うた。樹には言えなかった。
クレアと付き合っていることは、もう美咲に言ってあった。だが、彼女が最後の一線を越えてくれないことは言いづらかった。
美咲が寝てくれるなら、いっそ彼女にそう言ってみようか。そんなことも樹は考えた。
「どうしたの?」
「美咲、もし僕がお願いしたら、僕と寝てくれる?」そうストレートに彼は聞いてみた。
美咲は黙った。そうして注文していた、オレンジジュースを口にした。
「一回ならいいよ。それで気が済むのなら」
そうしてその日、彼らは別れた。樹は真剣に悩んでいた。美咲と寝ればクレアを裏切りことになる。だが、彼と寝てくれないクレアも悪いのだ。そう考えて彼は美咲と寝ることを決心した。
そうしてその日が来た。樹は放課後になると美咲と共に、彼女の家にやってきた。帰るまでの道が長かった。樹の心臓は震えていた。これから起こることを考えると彼は期待と不安のない交ぜになった感情になるのだった。その日、彼女の家には誰も居なかった。父親は仕事だし、母親はとうに家を出ている。そういった彼女の家庭の事情には樹は口を出さなかった。
そうしてその日、彼は美咲と寝た。期待していたほどの快美は彼には無かった。しかしこれで一人前の男になったと思うと彼にはなぜかしらさびしかった。
そうして彼はあの青い目のクレアと美咲と同時に付き合うようになった。そうしてそうすることは、彼に快美をもたらした。美咲とは、寝ることが多かった。そして青い目のクレアとは、デートをして、外で会うことが多かった。そんな風にして夏が過ぎ秋になった。 青い目のクレアは、樹が二股をかけていることに気付かずに居た。美咲は当然知っていた。しかし美咲はあまり、そのことを非難しなかった。なぜなら、樹が青い目のクレアとは、デートはしても、寝ることはしなかったからである。
そんな時はふいにある出来事が起きた。クレアと美咲がD河の近くで会ったのである。美咲は彼女のことを知っていた。そうして白人で青い目をしている女性が写生をしているところを見たのである。美咲は青い目のクレアをからかうつもりだった。そうしてこんな言葉で声を掛けた。
「クレアさんですか?」
そう言われクレアは驚いた。
「なぜ私の名前を・・・」
「私、樹の友達の美咲です。クレアさんのことは樹からよく聞いています」
「そうなの」そう言って彼女は顔をほころばせた。
「写生ですか?」
「ええ」
「いい風景ですね」
「ええ」
「私、樹から聞いているんですが、なんで樹と寝ようとしないんですか?」そう美咲は笑っていった。
それを聞いたクレアは驚いた顔をした。
「なんでそんなことまで知っているの?」
「だから言ったじゃないですか。樹から聞いたって。実は私、樹と付き合っているんです。寝たりもします。だからクレアさんのことはよくわかっているんです」
「なんでそんなことを!」
そうクレアは怒って言った。
「別に。あなたが悪いんですよ。樹と寝ようとしないから。だからそれが不満で樹は私と寝るようになったんです」そう言うと彼女はその場を去ろうとした。しかしクレアが引き留めた。
「もっと樹の話をして!」彼女は泣きそうな顔をしていた。
「すいません。もう十分すぎるほど言っちゃいましたから。もう終わりです」そう言って彼女は走って逃げた。そうしてひとりクレアだけが残された。彼女は泣いていた。一人、河原で。そうして自分と樹との運命を呪うのだった。
その次の日、樹は学校に居る時にクレアから連絡を受けた。学校を早引けしてもいいから、とにかく早く話がしたい旨がメールには書かれてあった。樹は例の件だと思った。すなわち彼と美咲との関係がバレたのだと思った。それ以外に彼女がこんな連絡をしてくる理由がなかった。しかしなぜバレたのだろう。それを不思議に思いながら、彼は学校を早引けした。そうして待ち合わせの場所であるY大の食堂に向かったのである。
「なんの理由で呼ばれたかわかってる?」
そう静かな声でクレアは言った。彼女は怒っていた。そうして話す声も少し震えていた。
「美咲と付き合っていたこと?だってそれは寝てくれない君が悪いんじゃないか。クレアがそれをしてくれるなら、僕はすぐに美咲とだって別れるよ。だってもともと寝るってどんなことか知りたくて僕は彼女と寝たんだから」
「私達はそんなことはできないの。これは言うつもりも無かったし、言うべきでないと思っていたんだけど、私達は恋人にもなれないしセックスもできないの、なぜなら」と言い彼女は言葉を切った。
「私たちは異母姉(きょう)弟(だい)なの。私があなたと知り合ったのも、あなたに興味があったから。あなたがよく散歩をすると知っていてわざと私はあの河原で写生をしていたの。あなたから声を掛けてくるとは思わなかったけどね」
そこで彼女は言葉を切った。二人とも黙るしかなかった。食堂は真昼時でたくさんの人が居る。そのざわめきの中に二人とも身を置いていた。
樹は思いもかけない事実を知ってショックを受けた。クレアがこの青い目のクレアが、僕の姉。それが彼には、ひどくショックだった。
「もっと詳しい話をしてくれる?」
そう言うと、彼女は詳しい話を始めた。
「そもそも、あなたは今の両親の本当の子じゃないの。あなたの父は成瀬高志という人でイギリスの商社で財をなした人なの、母親のことはよく知らない。日本人には違いないと思うけどね。私はその成瀬高志とアリス・ウォーカーとの間の娘。最近まであなたのことは知らなかったわ」そこで彼女は口をきった。
「でも今年のことだった。父が死んだの。病名は悪性の癌だった。辛かったわ。そうして父の遺品を探しているときに、あなたの写真が見つかったの。あなたがまだ子供のころの写真だった。父がなんで私達にあなたの居ることを隠したのかは知らない。でも私は幸いに資産があったから、もっとあなたのことを日本の探偵社の人を雇って調べさせたの。それで色々なことがわかった。あなたがまだ高校生だったことや友達や仲のいい女の子がいること、それから、赤の他人の両親の元で暮らしていること。それがわかったから私は日本に来たの。あなたに会いに。大学にもなんとか編入したわ。最初はあったらすぐに別れるつもりだった。でもそれが出来なかったの。私は向こうにも恋人がいるけど、あなたと会ったときから私はあなたに夢中だった。私の父に似たあなたに。どうしても離れることが出来なかった。どうして私とあなたが姉弟なのか呪った日もあった。あなたと姉弟じゃなければ、私たちは結ばれていたでしょうね。そうして私は罪を犯してしまった。あなたを騙してしまった。それが私の言うこと全てよ」そう言うと彼女は黙った。
「じゃあ姉弟だから寝ることが出来なかったの?」
「そうよ」
「じゃあ僕達二人が結ばれることは・・・」
「無いの。永久に」それを言うと二人とも黙った。
しばらくした後、クレアはこう言った。
「これからどうするの?」
「どうするって」
「私達のことよ」
「もう君と寝ることはあきらめるよ。でもそれでもこうして一緒に居たい。こうして君と話をしていたい。一緒に住みたい。美咲とはもう別れるよ」そう言って樹はクレアの手を取った。
「無理なの。それは。私はもうイギリスに帰るわ。それがお互いにとってベストな選択よ」
「日本にはもう来ないの?」
「来ないわ」
「どうかそんなことを言わないでほしい。第一姉弟が付き合っちゃいけないって誰が決めたんだ。僕は納得できない。君が帰ることも君と離れることも、姉弟が結婚できないことも。一度だけでいい。さっきはあんなことを言ったけど。一度だけ僕と結ばれてくれないか。そうして共に死のう」
「わかったわ」
間髪を入れずに彼女は言った。
その日の夜が来た。九月も末(まつ)の木曜日である。運命が訪れたかのように土砂降りの雨が降りはじめ、河は濁り、その水嵩を増したのだった。樹は初めて、クレアの家に上がった。そうして家具のある居間で話をした。
「僕達ってどうしてこんな風になってしまうんだろう」
「そうね。もっと早く会っていれば、でも無駄ね。姉弟だもの」
そうして彼はシャワーを浴びた、つづいてクレアもそれをして下着だけで、樹の前に現れた。樹の心臓ははねた。高校生の美咲とは、まったく違う白人の大人の体がそこにあり、樹を魅了した。やがて二人は最初で最後のキスをして、クレアの寝室に入った。
快楽を越えて、悲しいような喜びを樹は体験した。それは喜びであり悲しみでもあった。美しい青い目のクレアと寝る喜びであり、二度とはこの瞬間(とき)が訪れないための悲しみだった。
樹は行為を終えると彼女と抱き合い少し眠った。親にはなにもいってなかった。明日になれば、二人の行方はわからなくなり、少しの人々が二人の死を悲しむだろう。そう考えても、樹は青い目のクレアと死ぬことに喜びを感じるのだった。
「もういいの?」
そう彼女から問われ、
「もういい」と彼も返した。
二人は共に死ぬべき場所に来た。すなわちD河の河原である。そこで、二人とも死ぬつもりだった。二人ともこの地で生を終え、天国に入り、そこで永遠の生を味わうはずだった。二人ともロープで自分たちの体をつなげた。そうして同時に河に身を投げた。九月のこともあって、水は冷たくなかった。ただ雨で増水した河は容赦なく二人に襲いかかった。クレアもその恐ろしさを感じた。勿論、樹も。
そうしてその後二人は沈むはずだった。しかし樹は河に抵抗した。なんのことは無い。彼は死ぬのが怖くなったのである。しかし勿論生きるつもりもない。クレアが死ぬときが、自分の死ぬときだ。そう考え彼はクレアの行方を探った。クレアも抵抗していた。彼女は何かを言おうとして、言うことが出来なかった。生きたい、まだ生きていたい。そう思い彼女は樹の手を握った。生きていればいい、軽蔑されてもいい。姉弟でもなんでも一緒に居ればいい。誰かの冷たい視線など、二人の愛の前にあっては!なんのこともない・・・・そう思いクレアは樹の手を強く握った。樹は了解した。それから樹はクレアを抱えて必死に足掻いた。「これが最後だなんて冗談じゃない。僕達は生きる。そうして世の中と戦っていく。」そう思い樹は対岸にたどりつこうと必死だった。そこには神の情けがあったのか、二人はなんとか対岸にたどり着くことが出来たのである。
二人とも、激しく息をしていた。そうして勿論びしょ濡れだった。クレアは少し水を飲んでいた。そうしてしばらくして樹はこう言った。
「生きよう。たとえ何があっても。そうして二人で生きていこう。どこか二人を知らない土地にでも行けばいい。この国じゃなくてもいい。イギリスでもアメリカでもいい。この地上で二人出会ったのなら、そのことにも意味があるはずだ。だからこれからも一緒に」
クレアも頷いた。そうして二人は深夜の中をクレアの家へと帰っていった。
それから数年の月日がたった。樹はクレアと共に、アメリカで暮らしていた。この地なら、二人の関係を知るものも居ない。そうして二人は幸せに暮らしていた。あの日から大変だった。樹はアメリカに行けるように両親を説得した。しかし自分が両親の本当の子供でないことは伏せたままだった。そうして二人はこの地で豊かに暮らしている。ある日樹は、青い目のクレアと共にイギリスに行き、父の墓を訪れた。二人とも沈黙を破らなかった。そうして風が吹くなか二人は父親の墓に花をささげた。
「私の人生がこんな物語になるとは思わなかったわ」
「そうか。僕もだよ」
「それで、これからはどんなストーリーを私の人生で作ってくれるの?」
「そうだね」と言い樹は一瞬目を瞑った。そうして今は亡き父親のことを思い浮かべた。
「これから先はきっと安定したつまらない物語になるだろう。青春とは違って幸福な平坦なストーリーにね」
それを言うと、彼女もこう言うのだった。「私、子供が欲しい。誰かから養子をもらおうかしら」
「そうだね。それが」
「僕達の新しい物語の核となるだろう」
そう言って二人はその場所を後にした。風が冷たかった。空には大きな白い雲が浮かんでいた。二人には世界のなにもかもが、これからの生活を祝福してくれるように感じるのだった。
カシスの川