落とし穴
転載作品です。
特に『小説家になろう』サイトにて定期的に更新し、順次こちらでも更新していく予定です。
俺の妹の人生は、ある日を境に一変する...。
落とし穴。はまったら最後。
抜け出せない。抜け出せなかった。
助けたい。でも、ダメだ。ダメだった。
俺は、差し伸べた手を引く。
彼女は、諦めたように目をつむる。
俺は、顔をそむけ、つぶやく。
さようなら。
1
朝のホームルームを終え、一時間目の授業の準備をしていると、教科書を忘れたことに気が付く。俺は冷や汗を拭いながら懸命にカバンの中身を確かめる。その時、
「お兄ちゃん」
甲高い声が教室に響く。一瞬、水を打ったように教室が静かになる。俺は手を止め、皆が注目しているほうに顔を向ける。教室のすぐ外で、妹の瑞希が俺の教科書を抱えて立っていた。
「教科書、忘れてたでしょ。」
「ありがとう」
「うん、どういたしまして。」
瑞希は白い頬に笑みを浮かべてそう言うと、ショートカットの黒髪をひるがえして自分の教室に戻って行く。俺は教科書片手にぼんやりとその後ろ姿を見送る。
「しっかりしてよね。お兄ちゃん」
背後で男子生徒が茶化すように言うと、風船が割れたような笑いが起こる。俺は、教科書が見つかった安堵感と、妹に教科書を届けてもらった恥ずかしさとで頭が混乱し、笑いの余韻が残る教室で一人、自分の席に座ってうつむく。と、前の男子生徒がギイとイスの音を立てて振り向く。
「よぅ、お兄ちゃん。これで今週何度目だい?」
「うるさい」
俺はぶっきらぼうにそう言うと、届けてもらった日本史の教科書のページを意味もなくめくってみる。
「昨日はリコーダーだろう。おとといは体操着。その前は筆箱。その前は…。」
俺は目の前で指折り数える同級生の手を払いのける。すると、今度はその手で俺の学ランの肩を叩きながら、
「可愛い妹じゃないか。中学生にもなってお兄ちゃんの忘れ物を教室まで届けに来てくれるなんて。俺の妹なんか、自分のお兄ちゃんをお前呼ばわりするんだぜ。『おい、お前』とか、『お前うるさい』とか。まったく、自分のお兄ちゃんのことをなんだと思っているんだ!」
一人で熱くなっている同級生を無視して、俺は授業の準備をする。先生が教室に入ってくると、たむろしていた生徒たちは駆け足で自分の席に戻り、慌てて授業の教科書を机の中から引っ張り出す。
チャイムが鳴り、先生に挨拶をして授業が始まる。
授業中、俺は窓の外に広がる灰色の空を見つめながら、さっきの同級生の言葉を思い出す。
彼が言う通り、確かに、俺にとって瑞希は良い妹だと思う。それに、俺と瑞希は他の兄妹に比べて仲が良かった。普通、中学生にもなれば兄妹同士で口も利かなくなったり、けんかしたりするものだろうけれど、俺と瑞希は普通に話もするし、家ではゲームやトランプをして遊んだりもする。今となっては恥ずかしい話だが、瑞希が中学生になるまでは一緒にお風呂にも入っていた。それはさすがにマズイと思ったことは、俺が微妙な年頃になってきた証拠だろう。しかし、そのことを除けば俺たち兄弟の仲に昔から特に変わったことはなかった。放課後、俺は部活を終え、帰り道にコンビニに寄って小遣いでアイスを買って帰った。家で夕飯の支度の手伝いをしていた瑞希に今日の教科書のお礼と言って渡すと、瑞希は顔に満面の笑みを浮かべて喜んだ。
「どうしたの?それ」
台所で味噌汁の味見をしていた母さんが振り向くと、俺は、帰り道で食べたアイスが当たってもう一本もらえたんだと答え、すぐ隣で瑞希もアイスの棒を握り締めながらうなずく。母さんがよかったわねとだけ応えてまた味噌汁を作り始めると、俺たちは互いに向き合って忍び笑いを浮かべた。瑞希は、俺が今日教科書を忘れたことを口に出さなかった。夕食後、瑞希は何も知らないふりをして俺があげたアイスをなめている。言わずとも、俺たちの意思疎通は完璧だった。例えば、俺が定期テストで酷い点を取った時、
「純也、あなたはもう中学三年生でしょう?これから受験も控えているんだから、しっかり勉強しないと。」
赤い字で点数が書かれた答案用紙を真ん中に俺が怒られていると、横から瑞希が俺の答案用紙を覗き込んで、
「この理科のテストすごく難しくて、由美ちゃんのお兄ちゃんがひどい点数を取ったって言ってた。平均点も随分低かったみたいだよ。」
瑞希がそう付け加えると、母さんは一瞬、言葉に詰まり、でも、お兄ちゃんは受験生なんだからと再び念を押すように言うが、結局、瑞希が出した助け舟のおかげで俺の説教は思いのほか早く終わった。続いて瑞希がテーブルの上にテストの答案用紙を広げ、よし今度は俺が助ける番だと張り切って瑞希の答案用紙を覗き込むが、どれも目を見張るような高得点ばかり並んでいて、俺はただそばで腕組みをしてうなずいているしかなった。
「社会が少し低かったわね。」
「うん、勉強不足だね。次は頑張るよ。」
母さんも一応、文句をつけてみるが、他に特に言うこともないので、この調子で頑張りなさいと言って話はすぐに終わってしまった。
「さすがだなぁ、瑞希」
俺は瑞希と一緒にテレビのクイズ番組を眺めながら言う。瑞希はテレビ画面を食い入るように見つめながら、
「私はまだ一年生だから。三年生の勉強は大変そうだね。私もしっかり勉強しないと。」
そう言って振り向くと、白い頬にえくぼを浮かべて笑う。俺は、苦笑いを浮かべて単語帳のページをぱらぱらとめくる。受験生はいつも持って歩くものだと学校で先生に言われて買ってはみたが、長いアルファベットが羅列したページを眺めただけで気分が悪くなり、とても本腰を入れて勉強する気にはなれなかった。目の前で、瑞希はクイズ番組のクイズに答えるのに夢中になっている。
瑞希なら、こんな単語もすぐに覚えて、高校受験でも大学受験でも良い点数を取って良い高校、大学に入って、将来は良い会社に勤めて素敵な男性の素敵なお嫁さんになるだろう。瑞希はすべてが俺と正反対で、よくできる妹だ。クラスでは俺を茶化そうとする同級生たちが俺を「お兄ちゃん」とか、「瑞希ちゃんのお兄ちゃん」とか呼んで俺をからかう。同級生たちは、教科書を忘れたり、テストで酷い点を取る俺に比べて、妹の瑞希のほうが勉強が出来て、可愛くて、お兄ちゃん思いであることを引き合いにして俺を笑いものにする。
「お兄ちゃん、忘れ物はない?」
「お兄ちゃん、しっかりしてよね。」
「お兄ちゃん、勉強教えてあげようか?」
クラスメイトの笑いの種にされている間、俺は言い返しもせず、いつまでも苦笑いを浮かべていた。俺は、自分の能力の限界を知っていた。俺はからかわれてばっかりいて、瑞希のように勉強もできないし、気も利かないし、人に優しくもない。俺はダメだけれど、瑞希は俺の自慢の妹だ。俺は瑞希の為なら何でもしてやりたいと思うし、瑞希には幸せになって欲しいと思っている。いや、俺がそんな心配をしなくとも、瑞希は一人で努力して、幸せになるだろう…。
2
曇り空の下、観光客がひしめくお土産屋の狭い通路で、俺は母親から与えられた5000円札を入れた財布を握り締めて、棚やテーブルに並ぶ名産のお菓子やらおもちゃやらを眺めて考え込む。このときが、二泊三日の修学旅行に来てもっとも楽しいと思える時間だ。
せっかく修学旅行に来ても、大半の浅学な中学生たちにとっては、風情のある街並みも、歴史を感じさせる建造物も、ただ退屈なだけであり、引率の先生たちがしきりにカメラのシャッターを切っている傍らで、生徒たちは口に手を当ててあくびをしたり、道端の小石を蹴って遊んでいる。俺も有名な寺をめぐるツアーに行ってもらったパンフレットをぱらぱらとめくってみるが、小難しい歴史の話は一向に面白くない。こういう時、普段から勉強している歴史の知識が生かされることはほとんどなく、むしろ、古い建造物や有名な人物の名前を聞くと、修学旅行に来てまで勉強をさせられているような気がして気分が悪かった。
俺はお土産の品を眺めながら、大金の入った財布を汗ばんだ手の平で握り締める。普段は一か月1000円のお小遣いでやりくりしている中学生にとって、5000円というのは大変な金額だ。いつも計算機と家計簿を見比べて嘆いている俺の母親も、修学旅行の前日には俺に多めの小遣いを持たせて、いつになく優しい声で俺を見送ってくれる。俺もこの時ばかりは悪い点数を取るたびに俺を怒る母親に対して優しい感情を抱く。
家族に買って帰るお土産を選んでいると、近くにいた同級生が乱暴な調子で肩を叩いてくる。
「おい、純也。可愛い妹のお土産は買ったか?」
「買ってないよ」
そう言って俺は手に取りかけた小さなキーホルダーを元に戻す。
「買う訳ないじゃん。てか俺、シスコンとかじゃないから。」
「え、そうなの?」
そう言うと、同級生はわざと驚いたように目を丸くする。
「一緒にお風呂入ってるのに?」
その声を聞いて近くにいた生徒たちがこちらを振り向く。女子生徒たちは口に手を当てて笑いをこらえている。
「もう入ってないよ。」
「もうってことは、つい最近まで入ってたんだろ?」
「いや…。」
俺は上げ足を取られて言葉に詰まり、思わず顔を赤くする。それを見て同級生たちはここぞとばかりに騒ぎ立てる。もう女子生徒たちもこちらを見ておかしそうに笑っている。俺は耳の端まで赤くなっているのを感じる。もうただ苦笑いを浮かべて、嵐が去るのを待つしかなかった。
帰りの新幹線の中、同級生たちはみんな疲れて寝てしまっている。俺は一人こっそりとお土産の袋の中から瑞希のために買った小さなキーホルダーを取り出して眺める。お土産屋で見た時は輝いていたキーホルダーが、俺の手の中に入ると何だか小さくさびれて見える。しかし、これをもらって喜ぶ瑞希の無邪気な笑顔を想像すると、自然に口元がほころんでしまう。やっぱり俺は、シスコンなのだろうか。
窓の外の景色は左から右へと流れていき、やがて遠くに見慣れた街の風景が見えてくる。新幹線が向かう先にはオレンジ色の夕日を背景に高層ビルがいくつも立ち並び、その上空には黒い雲が広がりつつあった。
家に着き、玄関の前に立ったところで、俺はいくつかの異変に気が付く。
まず、玄関横にある車庫に車がなかった。そして、いつもは三台止まっている筈の自転車が二台しか止まっていない。無いのは瑞希の自転車だ。今日は日曜日だ。まだ学校で部活をやっているのだろうか。それとも、どこかへ遊びに行っているのだろうか。こんな時間まで?腕時計の針は午後七時過ぎを示しており、あたりは暗く、目の前の道をライトを点けた乗用車が通り過ぎていく。
鍵を開けて家に入ると、中は真っ暗で誰もいない。人気のない部屋は妙にがらんとしていて、六月だと言うのに肌寒くすら感じられる。静寂をさらに深めるように、時計の針の音が空っぽの部屋に生々しく響く。まるで、無人島に一人取り残されたような気分になる。
家中を一通り確かめてみてから、ポケットから携帯電話を取り出すと、着信履歴と受信メールが無いことを確認して、母に電話をかける。耳元でしばらく呼び出し音が鳴った後に、受話器の向こうから母の声が聞こえる。
「母さん」
「…あ、純也」
母は拍子抜けしたような高い声で応える。まるで、急に俺の存在を思い出したかのような母の調子に、俺は少し苛立ちを覚えた。
「家に誰もいないけど、母さん、今どこにいるんだ。」
俺は少し強い口調で問う。すると母は、
「母さんね、今、病院にいるの。」
「病院?」
どういうことだ。俺は携帯を強く耳に押し付けて次の言葉に耳を澄ます。
「瑞希が…、交通事故に遭ったの。」
母は、動揺した感情を押し殺すような低い声で告げる。
交通事故。
あまりにも唐突な出来事に、俺は言葉を失う。頭が混乱し、状況をうまく理解することができない。
「交通事故って、どこで」
自分の声が強張っているのが分かる。
「今、父さんと隣町のS病院に居るの。でも、こっちは大丈夫だから、あなたは家で待ってて。」
そう言うと、母はこちらの答えも聞かずに電話を切ってしまった。
暗い部屋に再び沈黙が流れる。壁に掛けられた時計は午後七時四十分を差している。
待っていてと言われても、家にはご飯もないし、風呂だって湧いていない。いつも見ているテレビ番組も、もうすぐエンディングの時間だ。こういう時、まったくどうでも良いことが走馬灯のように次々と頭をよぎる。何気なくズボンのポケットをまさぐった時、指先に堅い感触があった。それを取り出すと、修学旅行先で瑞希の為に買ったお土産のキーホルダーだった。俺ははっとする。瑞希は交通事故に遭ったのだ。俺は初めてその事実を確信する。これは夢なんかじゃない。瑞希はどうしているだろうか。そう考えた時には既に身体が家を飛び出して、自転車に飛び乗り隣町にあるS病院に向かっていた。
「石原瑞希の病室はどこですか?」
俺はほとんど怒鳴るように受付の女性に問う。瑞希が居る病室の番号を聞き、面会用紙に自分の名前を殴り書き、差し出された面会の札をふんだくるようにして受け取ると、人目もはばからず病院の白い廊下を瑞希が居る病室を目指して駆けぬける。
「迷惑な子ね」
女性の蔑むような声も今は耳に入らなかった。俺はほとんど滑り込むように瑞希の病室に駆け込む。
「お兄ちゃん」
ベッドで上半身を起こした瑞希がびっくりした顔で俺を見つめる。俺は激しく鼓動する心臓を手で押さえて荒れた呼吸を整える。
「お兄ちゃん、すごく疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
瑞希は心配そうにこちらを見つめる。俺は膝に軽く手をつきながら、病人である筈の瑞希に心配されている自分が急におかしく思えた。
「瑞希」
俺はようやく声を出す。
「お前、交通事故に遭ったんだろう?」
「うん」
瑞希は照れ臭そうに右頬についた絆創膏を手で撫でる。
「そうみたいだね。」
瑞希はまるで知らないことを口にしたような言い方をする。その時、席を外していた両親が病室に戻ってくる。
「あら、純也。来てたの?」
母はアイスコーヒーの入った紙コップを両手に挟んで言う。俺は今来たところだと答える。母の背後から父は、無言のままポケットから小銭を取り出して俺に自分の飲み物を買ってくるよう勧める。しかし、俺はそれを無視するように、
「瑞希が交通事故に遭ったって…。」
「ええ」
母はベッドの手すりに手をかけながら応える。瑞希はベッドの上で少し戸惑ったような表情を浮かべてじっとしている。その瑞希に向かって、母はぎこちない笑みを浮かべる。父は、向かい側のイスに腰掛けて何も言わず無表情を保っている。何だか奇妙な光景に思えた。
「喉乾いたでしょう?何か飲み物でも買ってきなさい。」
母はいつになく優しい声でそう言った。しかし俺は頑なに首を横に振ると、
「怪我はどうなの?」
「とりあえず落ち着いたから、大丈夫よ。」
「落ち着いたって、何が?どこを怪我したの?もう大丈夫って、痛くないの?後遺症は」
「純也」
向かいから父が抑揚のない低い声で俺を制する。取り乱したことに気付いた俺は、その場で黙り込む。すると母が、
「とりあえず、何か飲み物を買っておいで。話はそれから」
いたわるように言う母の横から、瑞希が不安そうな表情でこちらを伺う。一体、どうなっているのだろう。うまく考えをまとめられないまま俺は病室を出て、病院内にある自動販売機に向かう。
俺が戻ると、一旦、瑞希を病室に残して、母と父と同じ棟にある休憩所に移動した。
「脳挫傷?」
俺はそのグロテスクな言葉の響きに、思わず体が震えるのを感じた。
「ええ、瑞希が自転車で本屋に行く途中で、近所の交差点で横から来た車とぶつかって」
母は言いにくそうにその時の状況を説明した。
「幸い命に別状はなかったんだけど」
そこで母は言葉を切る。隣の席で父は黙ったまま窓の外の景色に目をやっている。空を覆う雲は石炭のようにどす黒く、降ってきた雨粒が窓に幾筋もの線を刻む。俺の手の中で炭酸ジュースが入ったアルミ缶が冷たい水滴を垂らす。母は意を決したように口を開く。
「何かしらの後遺症が残るだろうって。」
俺は身体の芯に強い電気が流れたような衝撃を感じた。
「後遺症って、どんな」
「それはこれから詳しく検査してみないとわからないそうよ。ただ、今の瑞希に事故当時の記憶が失われていることも、後遺症の一種なんだって。そういう記憶障害とか、慢性的な頭痛とかが後遺症として残るかもしれないんだって。最悪、半身不随なんてことも…。」
母は消え入りそうな声で言うと、涙を見せまいとうつむき、すすり泣いた。幾筋もの雨粒が音を立てて窓にたたきつける。父が大きな手のひらで母の肩をしっかりとつかみ、そして二重の大きな目でまっすぐに俺を見つめて、
「純也。瑞希のことは心配するな。お前は今、自分が出来ることをしっかりやるんだ。」
父の重みのある言葉に、母も両手で顔を覆いながら同調する。俺は黙ったまま、うなずいたが、正直、不安で仕方がなかった。
「もう帰るの?」
瑞希は、父に似た大きな目を丸くして不安そうにつぶやいた。
「明日また来るからね。」
母は小さな子供に言い聞かせるような声色で言った。母の目にもう涙はない。強張った顔で懸命に笑顔を見せようとしている。元来無口な父は、大きな手のひらで瑞希の小さな頭をごしごしと撫でる。隣で俺は何と言っていいかわからずに黙っていた。こんな時、かける言葉も見つからない自分の無力さを痛いほど感じた。何かできないかと考えた時、ふと思いついて、修学旅行先で買ってきたキーホルダーを取り出して、瑞希が腰掛けるベッドの手すりの部分にくくり付けた。
「頑張れ」
そう言うのが精いっぱいだった。瑞希は俺がつけたキーホルダーに手を触れると、嬉しそうにはにかんだ。その目の端にうっすら涙が浮かんでいることに気付いて、俺は慌てて目をそらした。前を向け、と自分に言い聞かせても、身体は勝手に瑞希に背を向けて病室の出口の方に向かっていた。
「純也」
病室を出て前を歩く俺に、母は優しく声をかけた。
「あなたは優しいお兄さんね。」
俺は、目頭が熱くなるのを感じた。瑞希が今、どんなに寂しい思いをしているのかと思うと、悲しい気持ちで胸が押しつぶされてしまうような気がした。この事故によって、瑞希の身体には何かしらの後遺症が残る。一体、どんな後遺症が残ると言うのか。この先、瑞希はどうなってしまうのだろうか。そう考えると、自分の身体が暗く深い穴に落ちていくような恐怖が全身を貫いて、もう居ても立っても居られない様な気がした。
チャイムが鳴る。俺は一時間目の授業の準備をしている時、ふと教科書を忘れたことに気が付く。そのまましばらくぼんやりとしていると、先生が教室に入ってきて、クラスメイト達は慌ただしく席に着き、立礼をして、授業が始まる。
彫刻のように彫の深い顔の先生は、黒板にチョークで書き始めた手を止め、ギョロッとした目で俺のほうを見つめた。
「石原」
すると、教室中の視線が俺一点に集まる。俺は、脇に冷たい汗が滴るのを感じる。
「お前、教科書はどうした?」
いつも俺をからかう同級生たちは、好奇心のこもった目でこちらを見つめている。俺は一応、机の中を手でまさぐってみる。そして、その場で立ち上がると、
「すみません、忘れました。」
「まったく」
先生はわざとらしい大きなため息をつくと、隣の女子生徒に教科書を見せてもらうよう指示して黒板の字に向きなおった。
「珍しいね」
隣の女子生徒は、教科書を見せながら声を潜めて言った。その口調に皮肉な感情が混じっているような気がして、俺は苦笑いを浮かべた。
「お前、遂に妹にも見捨てられたか。」
授業が終わった途端、席の周りに集まってきた同級生たちはそう言って俺の脇腹をつつく。中の一人が、変な高い声を出して瑞希の口真似をすると、教室中が笑いに包まれる。俺は何も言わず、笑いの渦の中でただ苦笑いを浮かべていた。
授業が終わると、俺は一人、教室を飛び出して瑞希が入院しているS病院に向かった。幸い、部活動は既に引退していたので、放課後、俺は毎日のように瑞希の病室を訪れた。瑞希の居る病室に向かう途中で、俺は病院内にある売店に寄り、見舞いの品を一つ買った。見舞いの品とは言っても、月1000円の小遣いと少ない貯金で買える物は限られていて、安いお菓子や飲み物、本などを買って病室に向かった。
六人収容の病室の一番奥に瑞希のベッドがある。患者の居るベッドの周りは閉められたカーテンで隔てられていて、瑞希が居るベッドのカーテンが少し膨らんでいる。そのあたりからひそひそと何かを話し合っている声がする。俺はお土産のチョコレートを手にそろりと外から覗き込むと、瑞希が居るベッドを隔てて先客の青年が顔を赤くしてこちらを見つめた。
「こんにちは」
瑞希のクラスメイトだというその青年は、その場で立ち上がると律儀に頭を下げた。そして、瑞希に一言いたわりの言葉をかけると、俺に場所を譲るように病室を後にした。
「杉浦君、今日も来てくれたの。」
瑞希は俺の方に向き直ると、無邪気な笑みを浮かべてそう言った。俺はそうか、とだけ言うと、お土産のチョコレートを瑞希に手渡した。
「優しい奴だな。」
俺はそう言った自分の声に、杉浦という青年に対する皮肉と嫉妬の感情が混じっているのを感じた。彼は瑞希のクラスの学級委員らしく、入院直後にクラスを代表して瑞希の為に千羽鶴を持って見舞いにやってきた。中学一年生にしては背が高く、真面目で大人びた雰囲気の杉浦は、初めは俺に好印象を抱かせたが、やがて彼が毎日のように瑞希の病室に訪れるようになると、彼が瑞希に対して単にクラスメイトとしてではなく、異性として好意を持っていることに気づき、途端に俺は杉浦に対して嫌な印象を覚えた。
「明日は何を買ってきてほしい?」
俺は美味しそうにチョコレートを頬張る瑞希に優しく問う。すると瑞希は、
「でも、お兄ちゃん。そんなにお金使って大変でしょう?」
「平気さ。貯金だってまだまだあるし。」
本当は、貯金箱の中身は既に底を尽きかけていた。それでもお土産を買うのは、杉浦に対する俺の対抗意識なのかもしれない。いや、俺は瑞希の兄であって、こうしてそばにいる以上のことは求めていないし、それに、瑞希だって恋愛の一つや二つは経験しても良い年ごろだろう。杉浦の手によって俺が瑞希から遠ざけられるわけではない。それなのに、俺が妙な対抗意識を燃やしているのは、杉浦が自分よりもずっと好青年であるからなのだろう。俺はいつの間にか、二つも年下の杉浦に対して劣等感を覚えるようになっていた。俺は今日、教科書を忘れたと気付いたとき、無意識に、瑞希が教科書を持って来てくれるだろうと思い込んでいた。そんなだらしない感覚が身に付いてしまっていると気付いて、俺は自分が情けなく思えた。それに引き替え、杉浦は俺より二つ年下だというのに礼儀をわきまえていて、杉浦と話している時、瑞希は俺が見たことがないような大人びた笑みを見せるのだ。俺にはそれが悔しくて仕方がなかった。
俺にとって幸いだったのは、瑞希の症状が思ったよりも悪くなかったことだ。まだ検査中だが、医者も瑞希の回復は奇跡的だと言う。瑞希と同様の例には、半身不随になる患者や、酷ければ死に至ることもあるそうだ。初め、俺は瑞希の症状を聞いてゾッとしたものだったが、それも取り越し苦労だったのかもしれない。
「よし、明日は漫画を買って来てやるよ。」
俺は帰り際に瑞希にそう言った。その時、窓の外から低い雷鳴が聞こえてきた。
ありがとう、と言って瑞希は微笑んだ。頬にえくぼが浮かぶ可愛らしい笑顔。その笑顔に一瞬、何の前触れもなくさっと、不安の表情がよぎったのを俺は見逃さなかった。
低い雷鳴は不規則なリズムを刻みながら、徐々にこちらに近づいていた。
どうやら、俺は少々、事を甘く考え過ぎていたようだ。
いや、俺だけではなく、俺の父も、母も、瑞希のクラスメイトの杉浦も、以前と変わらず愛らしい笑顔を浮かべる瑞希の身体に、あのような異変が起こるとは思いもしなかっただろう。
ある日の登校中、俺はいつも通る通学路を遮るようにしてできた人だかりを見て、不思議に思い、自転車を降りた。
そばに寄ってみると、中の一人が、誰かに心配そうに声をかけている。事故だろうか。俺は周りを囲むやじ馬たちの後ろから背伸びをするように現場を覗き込む。集団の真ん中で、アスファルトの地面に座り込んだ少女が、身体を支えられながら苦しそうに何かを訴えている。少女はうちの中学校の制服を着ていた。すぐそばで作業服姿の男性は、少女の訴えに必死に耳を傾けるが、よく聞き取れないらしい。
「誰か救急車を!」
男性がそう叫んで振り向くと、苦悶の表情を浮かべる少女の白い顔が見えた。
「瑞希!」
俺は反射的に叫んだ。俺は周りを取り巻く集団を強引にかき分け、作業服の男性からほとんどふんだくるようにして瑞希の細い身体を抱き起した。歯を食いしばって苦しむ瑞希は、涙の溜まった目をうっすら開くと、目の前の俺を見て何か言おうとするが、微かに唇を動かすだけで、内容を聞き取ることは出来ない。
「あんた、この娘の知り合いか?」
「俺の妹です」
男性は俺と瑞希の顔を見比べると、
「よくわからないけど、苦しんでいるから、あまり動かさないほうがいい。」
男性は俺の肩をつかんでそう言ったが、俺は首を横に振って瑞希の身体を離さない。そばには俺が上げたキーホルダーが付いた瑞希のバックが落ちている。俺の腕の中で、瑞希は相変わらず眉と眉の間に深いしわを寄せて苦悶の表情を浮かべている。
「瑞希、大丈夫か?」
「…お兄ちゃん」
俺は瑞希の絞り出すような声をやっと聞きとることが出来る。
「どこが痛いんだ?」
そう言って俺は、微かに動く瑞希の薄い唇に耳を近づける。
「頭…」
瑞希は目から大粒の涙を流し、まるで御産に耐えるように必死に歯を食いしばる。俺は瑞希の頭を右腕で抱えるようにして必死に声をかける。
「瑞希、大丈夫だからな。もうすぐ痛くなくなるから。絶対に大丈夫…。」
俺は必死に叫ぶが、瑞希はほんの微かに首を縦に動かしただけで、相変わらず苦悶の表情を浮かべ、白い額は大量の汗で光っていた。
その時、俺の頭の中に最悪の光景が浮かんだ。俺は、自分の手の中で瑞希の体温が少しずつ失われていくような気がした。苦しそうにあえぐ瑞希の息が弱くなっているような気がした。混乱した俺は周りを見回して必死に何かを叫んだが、やじ馬たちは驚いた表情を浮かべて身じろぐだけで、誰も何もしてくれなかった。瑞希は身をよじらせて苦痛に耐えている。俺はふと、人の最期ってこんな感じなのかなと思った。そして、人の最期を看取る気持ちもまたこのようなものなのかなと思った。退院の日、嬉しそうにはしゃぎながら病室を出た瑞希の姿が、今はまるで嘘のように思えた。考えてみると、あの事故の日から今日までの時間は、わずかに与えられた猶予期間だったのではないか。あの事故で死ぬはずだった瑞希は、残りわずかな時間を生きるための命を与えられた。誰が?何の為に?考えようとしても、混乱した俺の頭ではそれ以上考えることが出来なかった。
遠くから救急車のサイレンの音が近づいてくる。作業服の男性が大手を振って場所を知らせる。しかし、瑞希を救うはずのその音は、むしろ俺には、瑞希をあの世に引きずり込もうとする叫び声のように思えた。
「後遺症の一種です。」
独特のにおいがこもる診察室で、瑞希の担当医はこともなげに告げる。
「瑞希さんのような例の患者さんは、事故後に慢性的な頭痛が後遺症として残るケースが多いです。」
「それは今後、治るんですか?」
母は哀願するように問う。隣で俺は汗ばんだ手の平で制服のズボンを握り締める。縁の無い眼鏡をかけた医師は、
「おそらく」
そう言いかけて少し間を置いたが、答えは明らかだった。
「一生の付き合いになるでしょう。」
そう告げると、医師は机に向かってカルテを書き、やってきた看護婦に渡す。隣で母は呆然としたまま、口もきけない。瑞希は診察室の外で俺たちを待っている。俺は、瑞希の人生がひしゃげた木のように大きく捻じ曲げられたような気がした。アスファルトの地面に突っ伏した瑞希は、目の端に涙をためて必死に痛みをこらえていた。あんなことが今後、瑞希の人生に何度も起こるのかと思うと、あまりに可愛そうに思えた。
「どうだった?」
診察室から出てきた俺と母を、瑞希は不安そうな目で見上げる。俺は何も言えず黙っていると、隣から母が
「大丈夫だってお医者さんがおっしゃってたわ。ただ、少しの間は毎日薬を飲むことになるかもしれない。でも、お医者さんの言う通りにしていれば、絶対に良くなるから。」
母がそう告げると、瑞希は釈然としない表情を浮かべたが、静かにうなずいた。もしかすると、瑞希はもう分かっているのかもしれない。わざと陽気を装う母は、瑞希を気遣うと言うよりは、自分が受けたショックを必死に慰めようとしているように思えた。
その日、夜遅くに帰ってきた父は、手に掛けた上着と一緒にお土産のケーキを食卓のテーブルに置いた。なぜ、このタイミングでこんなものを買ってきたのだろう。家族四人でテーブルを囲んでケーキを食べながら俺はぼんやり考える。
「おいしいね」
瑞希がショートケーキを頬張りながら無邪気な笑みを浮かべる。俺も母も無理に笑みを浮かべて応えようとするが、なぜか顔の筋肉が強張ってうまくいかない。父は相変わらず無言のまま機械的な動きでケーキを口に運んでいる。ぎこちない空気の中で、俺たちは黙々とケーキを食べ続ける。俺は居心地の悪さを感じ、その場から逃げ出したい気分になった。
次の日、瑞希は学校を休んだ。
瑞希本人は大丈夫だと言うが、母は念のためと言って学校に欠席の連絡をする。
「明日からまた行けばいいさ。」
俺は落ち込んだ表情を浮かべる瑞希を見下ろして言う。昨日はあんな状態だったんだ。今日一日は安静にしておかなければならない。しかし、昨日のようなことがこれからいつ、どれくらい起こるのかと考えると、何だか気が遠くなるような気がした。その度に瑞希は学校を休まなければならないのか。瑞希はまだ中学一年生で、これからが大事だと言うのに。瑞希の将来のことを考えると、深く暗い穴の底に目を凝らすような気分になり、そんな不安を振り払うように俺は学校へ行き、これから大詰めを迎える受験勉強に熱中した。
「石原」
放課後、担任の先生は帰ろうとする俺を背後から引き留めた。
「お前、この間の模試の成績、良かったぞ。」
先生は俺の模試の結果を片手に一人で興奮したように話し続ける。
「この調子なら、S大付属高も狙えなくもないかもしれない。」
S大付属高とは、ここらの地域では比較的にレベルの高い高校で、大学付属の高校と言うこともあって人気の学校だ。俺も模試の志望校欄の一つにこの高校を書いていたが、それが今回の模擬テストの結果で初めて合格可能レベルに達したのだ。
「私立高校だから、入学後は色々と費用も掛かるだろうけれど、先生からお前の親御さんに話をしてやるから、お前はこの調子で頑張りなさい。」
そう告げると、先生はまるで大事な任務を果たしたように意気揚々とした足取りで教室を出て行った。
「母さん」
俺は得意な気分で食卓に模試の結果を広げて母に見せる。教育熱心な母は、俺の成績を見て喜んだが、すぐに複雑な表情を浮かべた。それを察した俺は、
「ところで、事故の裁判のほうは順調なの?」
俺の問いに、母は自信なさげにうなずく。実は今、瑞希の事故の件で、損害賠償を巡って相手の保険会社と互いに弁護士を立てて裁判にまで発展していた。詳しいことはよくわからないが、この裁判の結果次第で、もらえる賠償額や、瑞希の治療費の負担額に影響が出るそうで、深夜、母は食卓に向かって一人、電卓をたたいてはその額を眺めて深いため息をついていた。
「このことではあなたに迷惑をかけないようにするから、今の調子で頑張りなさい。」
そう言って母は優しく微笑んだが、その笑みはどこか弱々しく見えた。
『必勝!S大付属高合格』
俺は自分の部屋の壁にそう書いた紙を張り付けて、それを見る度に受験勉強のモチベーションを高めた。
「S大付属高って、頭良いんでしょう?」
俺の部屋のベッドに腰掛けた瑞希は、壁紙を見つめてそう言った。俺は手にしたペンをくるくると回しながら、受験勉強への熱意を語ると、瑞希はまるで遠い物でも見るような目で俺を見つめて、
「すごいね」
そう言って部屋を後にした。出て行く瑞希の線の細い背中が、妙に寂しげに見えた。あれから瑞希は頻繁に学校を休むようになった。行ったとしても、頭痛を訴えて学校にいる一日のほとんどを保健室で過ごすようになり、結果、授業を受けないため、定期試験の成績が悪くなった。事故当時のショックで、能の記憶能力に影響が出始めたのか、漢字一つ覚えるのにも時間がかかり、さらに、よく忘れ物をするようになり、今では俺が瑞希の教室に忘れ物を届けるようになった。
瑞希が家に忘れた物の中でも特に驚いたのが、ある日、瑞希は制服のリボンをつけ忘れて学校に登校したのだ。
「瑞希、忘れ物」
俺が教室の前に立って手渡すと、瑞希は受け取りもせずきょとんとした表情で俺の手の中のリボンに目を落としていた。まるで、自分がリボンを忘れたことに自分自身で驚いているようだった。それを脇から見ていた男子生徒が他のクラスメイト達に言いふらし、やがて教室中が笑いに包まれた。俺は急に自分が悪いことをしたような気がして、
「ごめん」
そう言ったが、瑞希は俺の手からリボンをふんだくって教室の外へ駆けだしてしまった。クラスメイト達の笑い声はやまない。俺は、今の瑞希の気持ちが痛いほどわかった。なのに、俺は廊下を駆けて行く瑞希の背中を追うことが出来なかった。
「石原さん、何か変わったよね。」
薄ら笑いを浮かべてこそこそとしゃべる瑞希のクラスメイトたちの声を聞き、俺は、ひどく傷ついた。その声を聞いて俺は、事故後、瑞希がクラスメイトからどのような目で見られていたかをうすうす感じ取ることができた。そんなクラスメイト達の目に耐えていた瑞希の気持ちも理解できなかった自分が愚かに思えて、ただただ悔しかった。
その後、俺は瑞希の機嫌を取るように頻繁にお菓子や漫画等を買って渡したが、その度に、瑞希は表面上では嬉しそうな笑みを浮かべるが、実際には、俺と瑞希の間には少しずつ小さな溝が広がりつつあった。俺に限らず、瑞希は多くの人と自分の間に溝を作り始め、やがて、一か月に一度学校に行くか行かないかという状態になった時には、あれほど可愛らしく魅力的だった大きな瞳にふと、暗い憂いの光が浮かぶようになった。夕方、俺が学校から家に帰ってくると、寝巻き姿で家のリビングに寝そべっている瑞希の姿を見て、俺は瑞希が暗い穴の底に落ちていくような気がしてひどくつらい気持ちになった。
こうなったのも決して瑞希のせいではなく、おそらく仕方のないことなのだろう。そう考えると、毎日を無気力に生きる瑞希に対して強く言うことは出来なかった。父は相変わらず何も言わないし、母のほうも、子供をあやすような甘い声で瑞希に話しかけるばかりで、決して瑞希の目に宿る深く暗い部分に手を触れようとはしなかった。
そんな瑞希が今でも唯一心を開ける相手が、杉浦だった。
杉浦は、瑞希が不登校になった後も、度々うちを訪れては、テレビも付けず、瑞希と向かい合って熱心に話をした。例えば、今日学校では何があったとか、最近のドラマは面白いだとか、そんな他愛のない話の一つ一つを味わうように瑞希は相槌を打ち、薄桃色に染まった頬には自然と笑みがこぼれた。杉浦が今の瑞希の心の支えになっていることは明らかだった。
そんな杉浦に対して、以前の俺は劣等感や、ライバル意識のようなものを感じていたが、今は、杉浦が瑞希の一生のパートナーになってはくれないかと思うようになった。まだ中学一年生の男女を見てそんなことを思うのはやや大げさかもしれないが、実際、杉浦は今の瑞希が心を開ける唯一の存在であり、それに俺や両親がいつまでも瑞希の世話をする訳にはいかないのだ。
「頼んだよ」
瑞希が席を外し、リビングで杉浦と二人きりになった時、俺はふとつぶやいた。格好つけた台詞を言ったような気がして我ながら恥ずかしかったが、それが今の俺の正直な気持ちだった。杉浦は少し驚いたような表情を浮かべたが、唇を一の字に結んで小さく律儀に頭を下げた。
その後、俺が漠然と抱いていた不安は薄れ、自然と受験勉強にも精が出るようになった。成績も順調に伸び、バラつきのあった模試の結果は高い位置で安定し、念願のS大付属高も叶わぬ夢ではなくなってきた。
本番の入試前最後の三者面談。俺は担任の先生と母の前ではっきりとS大付属高を受験したい意思を告げた。先生も今の俺なら合格可能な位置にいると言って母を説得してくれた。交渉は順調に進むかに思えた。
が、俺の熱意にもかかわらず、母は答えを渋るばかりで、決して首を縦には降らなかった。それどころか、
「地元の、公立高校でも良いのでは」
母は消え入りそうな声で担任の先生に向かってつぶやいた。その時、俺は瑞希の事故の裁判の状況が思わしくないことを初めて悟った。妹の瑞希に多くの費用を割かなければならない今、長男の俺が私立高校へ入学して高い授業料を両親に払わせるわけにはいかないのだ。そう悟った時、俺の受験に対する熱意は冷や水を浴びせられたように冷め、結局、俺は地元の公立高校を受験することに決めた。
「ごめんね」
学校からの帰り道、母は足元に視線を落としたままつぶやいた。長い黒髪が顔を覆っていて見えなかったが、母は泣いているようだった。俺は母から視線をそらすように横を向いて黙っていた。結局、俺は瑞希の為に自分の夢を一つ犠牲にしなければならなくなった。俺は巻き込まれた。でも、仕方のないことだ。これは決して誰が悪い訳でもないのだ。もしもこの状況の責任者がどこかにいるのなら、俺はそいつを力の限りぶん殴ってやりたいと思う。俺を、瑞希を、俺の父を母を、こんなことに巻き込んだ奴が居れば、俺の気持ちはどんなに楽になったことか。しかし、実際にそんな奴は存在せず、俺たちはただ、この状況にひたすら耐えなければならない。
「お帰りなさい」
玄関で俺と母を迎えた瑞希は、いつもより幾分機嫌が良いようだった。奥から制服姿の杉浦が出てきて、俺と母に向かって律儀に頭を下げた。
「いらっしゃい。今、お菓子とお茶を出すわね。」
母は気を取り直したように明るい声でそう言った。
俺は玄関の扉を閉め、三人の後を追うようにリビングに入る。
その時、不意に運命が、俺や瑞希、父、母、そして杉浦の人生をも巻き込み、飲み込もうとしているように思えた。
結局、俺は第一志望の私立高校を諦め、地元の平凡な公立高校に進学した。
入学後、新しい学校生活の中で不意に、今頃自分が第一志望の高校に入学していたらどうだっただろうかと、ふと考える時があるが、だからと言って俺は、今の環境に特に不満があるという訳でもなく、友人関係や部活動に没頭していくうちにそのような夢想にふけることも徐々になくなっていった。
俺は高校に入って友人が出来、恋人が出来た。勉強はそこそこに取り組み、放課後は部活動に熱中した。100点満点ではないにしても、自分はそれなりに高校生としての生活を楽しんでいた。ぼんやりとだが、自分は今、「青春」という一時期に居るのだと実感することが出来た。
だからこそ、部活動を終えて家に帰り、薄暗い部屋の中でソファに寝転んでいる瑞希の姿を目にするとき、俺は悲哀に似た感情を覚えた。俺が部屋に入っても、瑞希は鈍い光を宿した目でちらとこちらを一瞥するだけで、何も言わない。瑞希は一日の大半をこの薄暗い部屋の中で過ごしている。俺や両親が居ない間、何をして過ごしているのかは知らない。ただ、瑞希は世間の同い年の子が過ごしているような時間や世界とは別の場所に居た。俺にはまるで、あの日を境に瑞希の中から大切な何かが抜け落ちてしまったような、そんな気さえする。あの後、瑞希はめっきり学校に行かなくなり、追試験や先生との面談を繰り返して何とか中学校は卒業したが、その後、高校には進学せず、通信制の学校に入学して毎週自宅に送られてくる教材で勉強をするようになった。
勉強とは言っても、瑞希は必ずしも真剣に取り組んでいる訳ではなかった。机に向かって書きかけのノートを枕に眠りこけている瑞希の姿を俺は何度も目にしていたし、いざ勉強を始めても、うまくはかどらずに頭を抱えるばかりで、十分も経たないうちに鉛筆を投げ出してしまう。俺が隣に座って根気強く教えても、一つの単語を覚えるのにもかなりの時間を費やし、何でもない問題にもつまずき、しまいには気持ちが折れて泣き出してしまう。俺はそんな瑞希を見下ろしながら、俺の知っている瑞希が音を立てて壊れていくような気がした。瑞希自身も、言うことを聞かない自分の身体に戸惑っていた。
一番苦しんでいるのは瑞希自身だ。そう考えると、やはり強く言うことが出来なかった。
そのせいなのだろうか。ある日、新たな異変が起きた。
瑞希はリビングの机に鉛筆と教科書を放り出して眠りこけていた。そばで俺は黙っていたが、見かねた母がさすがに口を開いた。
「瑞希、勉強中なんでしょう?」
それはまるで子供をあやすような甘い声だった。そんな言い方ではだめだ。俺がそう思った時、目の前の瑞希が突然、まるで何かに打たれたように立ち上がると、叫んだ。
「うるせぇな!」
瑞希は白い頬を赤く染め、まるで目の前の敵を威嚇するように充血した目を大きく見開いて叫んだ。俺と母は突然、胸を射抜かれたようにその場で凍り付き、黙り込んだ。俺は今、何が起こったのか、瞬時に理解することが出来なかった。
瑞希は少しすると落ち着いたのか、顔の血の気は引き、そして、
「トイレ」
そう言い残すと、何事もなかったようにリビングを出て行った。
ドスン、という鈍い音がする。その場で母が膝から床に崩れ落ちた。母は呆然としてりリビングの床をじっと見下ろしている。俺の耳の奥で、ドスン、という音が幾度も繰り返し鳴り、その音は徐々にこちらに近づいてきているような気がした。
瑞希も年頃だから、初めは俺も両親も思春期の女子がとりがちな反抗的な態度の一種ぐらいに思っていたが、やがて瑞希の行動はエスカレートし、さすがに異変を感じた母が、月に一回の脳外科の日に、瑞希が居ないタイミングでこの話を切り出した。
すると、瑞希の担当医から返ってきたのは、いつかどこかで聞いたこのある台詞だった。
「後遺症の一種です。」
医師がこともなげに言って目の前の机に向きなおると、錆びた丸椅子が嫌な音を立てて鳴る。俺は医師の話をまるで他人事のようにぼんやりと聞いていた。瑞希と症状の似た患者で、事故後、家族に暴言を吐くようになったケースは多いと言う。これもまた後遺症の一種で、特に珍しいケースではなく、このような患者の症状は、周りの人間にとっても一生の付き合いになるそうだ。
瑞希はこれからどうなってしまうのだろうか。考えるだけで気が遠くなりそうだった。
「瑞希のことは心配ないから。あなたは自分のやるべきことをしっかりやりなさい。」
帰り道、母は俺にそう言い聞かせたが、その声はどこか頼りなげで、むしろ、俺はこれから瑞希の人生の中にずるずると引きずり込まれていくような気がした。
瑞希は虚ろな瞳でどこか一点を見つめていたかと思うと、突然、怒りだして俺や両親に向かって信じられないような罵詈雑言を浴びせかけ、そして一度気持ちが落ち着くと、まったく何事もなかったかのように平然としている。まるで、見えない何かが瑞希の身体に埋め込まれたスイッチをONにしたりOFFにしたりしているようだった。
「そうなんですか?」
俺からその話を聞くと、杉浦はまるで信じられないという風に驚いた。彼が驚くのも最もで、杉浦の前では瑞希の中のスイッチはOFF状態になるのか、杉浦と一緒に居る時、瑞希は、昔のような笑顔の絶えない可愛らしい少女に戻るのだ。
杉浦は戸惑った表情を浮かべて唇を噛んだ。杉浦も高校生になり、瑞希がそのような状態であることの意味を薄々感じ取っているようだった。しかし、俺はあえて今の瑞希の現状をありのまま杉浦に伝えた。俺は、杉浦と瑞希の関係が単なる友人関係ではないことを知っていたし、何より俺は杉浦の人格を認めていたからこそ、彼には瑞希のありのままの姿を受け止めてほしかった。
「くたばれクソ親父!」
瑞希はぶたれた頬を抑えながら叫んだ。ある日、瑞希の態度に耐えかねた父が、思わず手を上げてしまった。そばで母は両手で顔を覆って泣き崩れ、父は床に倒れた瑞希を見下ろしたまま呆然としていた。俺はその場で見ているだけで、何もすることが出来ない。瑞希と父をなだめることも、場を和ませるジョークの一つも言うことが出来ない。俺は、俺たち家族に限界が近づいているのを感じた。
この頃のストレスのせいか、数年後、母はひどい認知症にかかり、それは自分の子供である俺や瑞希の顔も忘れてしまう程だった。定年後の父がしばらく母の面倒を見ていたが、数々の妄言や徘徊を繰り返す母を次第に持て余すようになり、結局、成人した俺が資金を援助して母を介護施設へ入居させたが、それから数年も経たないうちに母は亡くなった。
棺桶の中に横たわる母のやつれた身体を見下ろしたとき、不意に、母は瑞希の為に自らの生命を削ったのだなと思った。そう思った時、俺は、生まれて初めて瑞希に対してかすかな怒りを覚えた。お前があんな事故に遭わなければ、母がこんな悲惨な死に方をしなくても済んだだろうに、と。
出棺の時、いつも無口でめったに自分の感情を表に出さなかった父が、この時は人目もはばからず声を上げて泣き、係員の手で霊柩車に運ばれる母の棺桶にしがみついて離れなかった。その時の父の背中は、俺が今までに見たことがないほど痩せて、みじめなものだった。あまりに悲痛な光景に、俺は思わず目をそらせた。その時、霊柩車を囲む集団の外で一人、瑞希が虚ろな目でじっと遠くの空を見つめていた。
3
高校卒業後、俺は奨学金制度を利用して、一応、都心にある平凡な私立大学に入学した。しかし、入学後は奨学金を返すために始めたアルバイトに追われ、アルバイトのシフトは必然的に授業日と被り、家に帰ると真っ先に布団に入って寝てしまう毎日の中で、本業である勉強にはほとんど手がつかなかった。それでも学期末には課題のレポートを出し、期限直前になって慌てて書いた卒業論文を提出した結果、何とか取得単位ギリギリで大学を卒業することが出来た。
俺の四年間の大学生活を要約すると、大体こんなものだった。何とか卒業した俺に残ったものは、奨学金を返し終えて残ったわずかな給料と、大卒という肩書くらいなものだった。卒業は出来たが、学校生活の後半はアルバイトと授業に追われ、ろくに就職活動もせずにいた結果、俺は就職先を見つけられないまま卒業式の日を迎えた。
卒業式を終え、友人たちと軽い挨拶を交わして別れる。涙をぬぐう振袖姿の女子生徒たちの間を縫って大学の門を出る時、俺は不意に後ろを振り返ったが、四年間でほとんど訪れることのなかった校舎を目にしても寂しさを感じることはあまりなかった。
帰りのバスを待っている時、ポケットの中で携帯電話が鳴る。
「もしもし、純也?」
電話を取ると、携帯の向こうから不機嫌そうな女の声が聞こえる。
「麻紀」
俺は相手の名前を呼ぶ。
「卒業式の日にお別れの言葉もないの?」
麻紀の言葉に俺は曖昧な返事をしながら、この携帯の向こうで神経質そうな表情を浮かべる麻紀の白い端正な顔を思い浮かべる。俺は今、四年間付き合った彼女に挨拶の一つもせず帰ろうとしていた。麻紀はそんな無神経な俺を咎める言葉を二言三言つぶやいた後、俺にいつものファミレスに来るよう命じて電話を切った。
いつものファミレスとは、大学の近くにあるチェーン店のファミレスで、奨学金の返済に追われて金欠だった俺がよく麻紀にご飯を食べさせてもらっていた場所だ。俺は切れた携帯電話を見つめながら不意に不思議な気持ちになった。俺は確かに麻紀と付き合っていたが、滅多に学校を訪れなかった俺は、麻紀と会う機会もそれほど多くはなかったし、正直、麻紀とは学校を卒業してしまえば自然に解消するくらいの仲だと思っていた。それが、卒業式後に麻紀はこうして改めて俺に会いたいと言ってきた。不意に押し寄せる波のような動悸が俺の胸を打った。
「純也」
ファミレスのテーブルを挟んで麻紀と俺は向かい合った。なぜか俺は緊張して、手のひらの汗をしきりにスーツのズボンにこすりつける。つい先ほどまで卒業式があったのに、いつ着替えたのか麻紀は私服姿で店に現れた。
「挨拶はしようと思ってたんだ。連絡を取ろうと思ったら、先に君から電話が来た。」
俺は麻紀の顔色を伺いながら自分なりの言い分を述べた。麻紀は唇をきゅっと一の字に結んだまま俺の話を黙って聞いていた。そして俺が話し終えると、麻紀は決心したような重々しい表情で口を開いた。
「あなたは、今後のことをどう考えているのかしら?」
「今後って?」
「だから…」
麻紀は苛立ちの色を顔に浮かべ、細い指でテーブルをコツコツとたたく。俺は訳が分からないまま、とりあえず麻紀の機嫌を取ろうと詫びの言葉を述べた。
「挨拶もしなかったことは謝るよ。ごめん」
「そんなことはどうでもいいの!」
麻紀は俺がびっくりするような声を出した。周りの席の客が密かにこちらを盗み見る。
「私たちの、今後をどう考えているのか聞いているの。」
麻紀はそう言うと、ぷいと横を向いて黙ってしまった。俺は、その白い端正な横顔に麻紀の女としての本心を見た。俺が今まで付き合った女の中でもとりわけ美人という訳でもないこの女と、もしどこかの街ですれ違ったとしても俺は気にも留めなかっただろう。都内の中小企業で社長を務める男の一人娘である麻紀は、俺に無垢な少女のような印象を与えたが、決して俺は強く惹かれてこの女と付き合った訳ではなかった。そんな麻紀が、今、俺の人生の中に突然、強い存在感を放って姿を現した。
結局、俺は麻紀と結婚することになった。そして、俺は麻紀の父が経営する小さな会社に就職することになった。
俺の就職が決まった時、俺の両親はとても喜んだ。一年で通信制の高校を辞めてしまった瑞希が居る家に、俺までがニートになって居座る訳にはいかなかった。俺は麻紀と結婚して就職も決まり、麻紀との生活にも徐々に慣れてくると、再び瑞希の将来について考えるようになった。
俺は不安だった。
瑞希は二十歳になっていた。瑞希の胸や腰回りはふっくらとしてすっかり大人の女性の体になっているのが一目でわかる。しかし、瑞希は二十歳の女性とは思えないような幼稚なしゃべり方をし、気に入らないことがあれば子供の様に駄々をこね、頑として動こうとはしない。急速な身体の発育に比べ、瑞希の精神はあの事故の日から少しも成長してはいなかった。一日のほとんどを両親の居る家で過ごし、外の世界に足を踏み出そうとしない瑞希は、当然の如く世間から置いてきぼりを食った。
結婚前、俺が麻紀を両親に紹介するために家に連れて来た時、瑞希は挨拶もせず、両親の陰に隠れるようにしてじっと麻紀の様子を伺っていた。麻紀が話しかけても、瑞希はわずかに首を縦に振るだけで、それ以上の関係を持とうとはしなかった。
「具合でも悪かったのかな?」
車で駅に向かう途中、麻紀は不意にそう言った。俺は少し迷ったが、結婚する前にまず、瑞希のことについて麻紀に理解してもらう必要があると思った。俺は瑞希の事故のことや、その後の経緯についても麻紀に説明した。
「そうだったの…。」
話を聞くと、麻紀は気まずそうに黙り込んだ。俺は麻紀の様子を伺いながら話を進める。
「今は実家で暮らしているが、うちの両親がいつまでも生きている訳じゃないから、もしかすると君に迷惑をかけることにもなるかも…。」
そう言って麻紀の顔色を伺った時、麻紀の顔に一瞬、不安の色が浮かんだのを俺は見逃さなかった。俺はすかさずフォローを入れる。
「まぁ、あくまで可能性の話だから。ああ見えて瑞希には信頼できる彼氏がいるから、きっと彼が瑞希の面倒を見てくれるだろう。」
俺がそう言うと、麻紀は笑ったが、その笑顔は引きつっているように見えた。そんな麻紀の様子を察して、俺は、少し前から密かに考えていた瑞希と麻紀と三人で暮らすという計画が絶対にかなわないことを悟った。
その後すぐに母が認知症になり、介護施設に入居させることになると、俺は麻紀の父でもある会社の社長に頭を下げて金を借り、わずかな貯金も切り崩し、それに父の老後の保険も加えてようやく母を介護施設に入居させたが、それから数年後、母は亡くなった。
母の死後、俺はまるで抜け殻のようになった父の姿を見た時、不意に、父の命はもう長くはないだろうと思った。相変わらず瑞希は父と二人で実家に住み、アルバイトの一つもせず、月に一回俺が送るわずかな仕送りを頼りに毎日を過ごしていた。これからそう遠くはない将来、父が亡くなった時、瑞希はどう生きていくのだろうか。俺は、何とかしなければならないと思った。
頼みの綱は、杉浦だった。
今の瑞希にとって杉浦は、外の世界とつながる唯一の存在だった。瑞希の事情を知った後も、杉浦は変わらず瑞希の元を訪れていた。瑞希が外へは出たがらないので、デートの一つも出来ないが、それでもお互いを思う気持ちに変わりはないようだった。
数年後、父が亡くなると、俺は杉浦に瑞希との同棲を勧めた。
「瑞希を頼む。」
俺はそう言って杉浦に頭を下げた。渾身の思いだった。俺は頭を下げながら、これが兄として瑞希にしてやれる最後の行為だと思った。杉浦なら、瑞希のことを任せられる。杉浦は、二つ返事で応えてくれた。
その後も俺は暇があれば杉浦と会って瑞希との同棲の様子を聞いた。杉浦は何の問題もないと言って笑ってくれるので、その度に俺は胸をなでおろし、付き合ってくれたお礼に昼ご飯をご馳走した。
「ご馳走様でした。」
杉浦は律儀に頭を下げてお礼を述べる。俺と杉浦は最寄駅まで一緒に歩き、駅に着くと挨拶を交わして別れる。俺と麻紀が住むマンションと、杉浦と瑞希が住むアパートは電車で二駅の距離にあった。改札に向かって歩き出したとき、俺は不意に後ろを振り返る。反対側の改札に向かって去って行く杉浦の背中はとても頼もしく見えた。これで大丈夫。そう思っていた…。
瑞希が同棲を始めて以来、俺と瑞希が会う機会はほとんどなかった。だが、俺は杉浦を通して今の瑞希の大体の様子を知ることが出来た。
実家にいた頃は、ほとんど外出もせず家に引きこもっていた瑞希だが、最近では杉浦に付き添われて近所を散歩するようになり、気分が良ければ二人で買い物に出かけることもあるそうだ。今は洋服や料理にも興味があると言う。
ある日曜日の日、俺は麻紀と一緒に隣町にあるデパートまで買い物に出かけることになり、日曜日のデパートの駐車場は混むという麻紀の忠告を聞いて、俺たちは電車で四駅先の隣町まで出かけた。その帰り道、俺は服や食料品など大量の荷物を抱えながら電車に揺られていると、ワンブロック先の座席で肩を寄せ合って座る杉浦と瑞希の姿を見つけた。
「あれ、瑞希さんじゃない?」
隣から麻紀がそう言って荷物でふさがった俺の手に軽く触れる。瑞希は隣に座る杉浦にちらと眼をやると、何も言わず嬉しそうにはにかんだ。うすく化粧を施した瑞希の顔は、透き通るように美しく、魅力的だった。気付いた杉浦は振り向くと、杉浦もその凛々しい顔を緩めて笑みを返す。俺は、二人のそんな様子を見て何だか恥ずかしくなり、思わず目をそらせた。
麻紀は俺に話しかけなくていいのかと聞くが、俺は首を横に振る。今の二人の間には、俺が割って入る余地は無いように思えた。それは兄として悔しく思うのと同時に、瑞希が俺や両親の手から完全に自立したという喜びを感じ、あの二人の幸せな雰囲気をいつまでもこうして遠くから見ていたいという思いになった。
やはり、俺の選択は間違っていなかった。今ほどこう思える時はなかった。やがて、二人は結婚し、子供を作り、そして、幸せな家庭を築くだろう。平凡だけど、幸せな生活。これから瑞希と杉浦の物語は始まり、俺と瑞希の物語は幕を下ろす。俺の頭の中で、終わりを告げる悲しげなエンディングテーマが流れ、俺は思わず目頭が熱くなるのを感じた。
すべてがうまく運んでいると思っていた。
ある日、俺はいつものように近所のファミレスに杉浦を招いて食事をしながら瑞希との生活の様子を聞いた。
「順調ですよ。」
そう言った杉浦の口元に、一瞬、皮肉な笑みが浮かんだのを俺は見逃さなかった。精悍な顔つきだから、かえってそのような変化は目立って俺の目に映った。杉浦の話の内容はいつもと変わらなかった。瑞希が最近、料理を始めたことや、ペットを飼いたがっていること、昼にはよくワイドショーを見ていること等、どれも兄である俺にとっては微笑ましい話ばかりだが、瑞希のことを語る杉浦の口調はどこか空虚で他人事のような印象を受けた。
仮に杉浦が瑞希に対して多少の不満を持ち始めたとしても、それは同棲を始めた男女なら誰もが経験するズレのようなものであり、俺が取り立てて心配するようなことではないだろう。つい最近には俺も、歯磨き粉の使い方などという些細なことで麻紀と喧嘩になった(結局、俺が負けたが)。既婚者から言わせれば、このようなズレは同じ屋根の下に住む男女にとっては日常茶飯事のことであり、これを我慢してこそ一人前だぞと声をかけたい。しかし、瑞希にとっては別の話のような気がした。視界の端を黒いカラスがかすめたように、不意に、言い知れぬ不安が俺の胸にこみあげてきて、それからは杉浦の話もあまり耳には入ってこなかった。
「ご馳走様でした。」
杉浦はいつものように頭を下げて礼を述べる。俺はその肩を叩いてもう一度念を押すように、「頼んだぞ」と声をかける。杉浦は俺の顔を見上げて静かにうなずくと、俺とは逆の方向の改札に向かって去って行く。今度は杉浦の表情に不穏な影は見られなかったが、生真面目なその表情が、かえって俺の疑惑を駆り立てた。
「本当に、大丈夫だろうか。」
俺はぬるくなったビールに口を付けながらつぶやく。麻紀は、つまみの枝豆を頬張りながら俺の話に適当に相槌を打つ。
「男女の仲なんて、そんなものよ。」
麻紀はそう言って立ち上がると、風呂に入ると言って部屋を出て行った。リビングで一人、俺は酒を飲みながら考える。麻紀の言葉には経験者の重みがあった。卒業式の日、俺に対する激しい想いを垣間見せた麻紀は、今では毎晩会社から帰ってくる俺をまるで関心のないような目で見るようになった。最初は俺も戸惑った。でも、時間が経てば結婚とはそんなものだと受け入れられるようになった。まさに麻紀の言う通り、男女の仲などとはそんなものなのだ。しかし、あの二人がこのような現実に直面したとき、瑞希は一体どう思うのだろうか?このことを正面から受け止めることが出来るのだろうか?俺は、まるで気違いのように怒鳴り声を上げ、わがままを言う瑞希の姿を思い浮かべる。瑞希はこみ上げる感情を抑えきれず、思い通りにならなければまるで赤ん坊のように声を上げて泣いた。家に引きこもるようになり、時間が止まった生活の中で世間とのつながりを失っていった瑞希を、俺は哀れな想いで見下ろすことしかできなかった。杉浦ならどうするだろうか?こんな瑞希の姿に直面したとき、杉浦は、これをどう解決するだろうか?今の俺にはとてもこの解決法を見出すことが出来ないように思えた。
ある平日の夜。俺はリビングで一人、風呂上りの一杯をやっていたところ、突然、電話のベルが鳴った。
時計は既に午前0時を回っていた。こんな時間に電話をしてくる常識のない知人は俺の覚えにない。しばらく鳴るままにしていると、寝ていた麻紀が眠い目をこすりながら寝室から出てくる。
「誰よ。こんな時間に」
麻紀は気味悪そうに細めた目を鳴りっぱなしの電話に向ける。そして、
「何かあったのかしら。」
俺は妙な胸騒ぎを感じた。気味が悪かったが、仕方なく受話器を手に取る。
『もしもし、石原さんのお宅ですか?』
受話器の向こうから聞こえてきた男の声に聞き覚えはなかった。妙にハキハキとした声だと思った。俺はいぶかしく思い、
「そうですが、どなたですか?」
『F駅前交番の者です。夜分遅くに失礼します。』
「交番?」
不安が胸をかすめる。俺の声を聞いた麻紀が不安そうにこちらを見つめる。
「何の御用ですか?」
『実は、こちらで石原瑞希さんと言う女性を保護しているのですが、ご本人からお宅の電話番号をお聞きしまして、迎えに来ていただいてもよろしいでしょうか?』
俺はすぐに返事をして受話器を切ると、事情の分からない麻紀の制止を無視して自宅のマンションを飛び出した。外は霧のような細かい雨が降っていた。F駅はここから歩いて20分ほどの距離にある。俺は車に乗り、霧で視界が悪い道をF駅まで向かった。
既に終電の時間が過ぎ、真っ暗になった駅前のロータリーで、交番の明かりだけがポツンと寂しげに点いていた。
「瑞希」
交番に入ると、俺は制止する警官に免許証を見せながら呼んだ。瑞希は、交番内の丸椅子に座ったまま何も言わない。身に付けたパーカーの端からは水滴がぽたぽた垂れていた。
「このお嬢さんとのご関係は?」
若い警官は瑞希のことを「お嬢さん」と呼んだ。俺は瑞希の兄だと答えると、警官はいぶかしげに目を細め、無遠慮に俺の全身を眺めまわした。確かに、結婚してから俺は幾分老けたし、瑞希は短い髪のせいか二十歳を超えた女性とは思えない程に幼く見えた。
「どうしたんだ。瑞希」
俺の問いに、瑞希は応えるどころか、目の前の壁をじっと見つめたまま目も合わせようとはしない。瑞希の濡れた肩に手を置くと、手のひらに雨の湿った感触を感じた。俺が促しても瑞希は頑として動こうとはしなかったので、背後から向けられる警官の目が痛いほど感じられた。
やっと瑞希を連れ出して車に乗り込むと、ポケットの中で携帯電話が鳴った。
『どうしたの?急に飛び出したりして。今どこにいるの?』
「麻紀。悪いけど、風呂を沸かしておいてくれないか?」
俺は麻紀にそう告げると、相手の返事も待たずに携帯電話を切る。車が走り出した後も、瑞希は助手席の窓ガラスに額を押し付けたまま、俺とは一切、口を聞こうとはしない。
「杉浦と何かあったのか?」
ハンドルを操作しながら俺は無意識に杉浦の名前を口にした。しかし、瑞希は俺の問いを黙殺する。ずぶぬれになった瑞希の背中が、俺の問いを頑として拒んでいるようだった。
「ただいま」
「ちょっと一体、どうしたの?言われた通りにお風呂は沸かしたけど」
玄関で迎えた麻紀は、俺の背後にいるずぶぬれの瑞希を見ると、事態をうまく飲み込めないようで、不審そうに眉をひそめると黙り込んでしまった。
「とりあえず、風呂に入っておいで。」
俺は瑞希を促すと、不信感を隠せない様子の麻紀を連れてリビングに戻る。
「今日一晩だけ部屋に泊めてやってほしい。」
俺の言葉に不信感をあらわにする麻紀に、俺は間髪入れず続ける。
「一晩だけだよ。明日になったら家に帰すから。」
俺がそう言って頭を下げると、麻紀は仕方ないと言う風にため息をついて、そばに掛けてあるバスタオルを手に風呂場に向かった。
「ここにあるタオル使ってね。」
麻紀の優しげな声が聞こえてくる。返事は聞こえない。帰ってきた麻紀は俺を見つめると、
「布団を用意してくるわね。」
そう言って再び部屋を出て行った。
俺は、遂に麻紀にまで迷惑をかけたかと思うと、憂鬱な気持ちになった。一晩で帰すとは言ったが、交番の丸椅子に座っていた強情な瑞希の姿を思い出すと、正直、そんなに簡単にいくとは思えなかった。
次の日、俺は会社に遅刻の連絡を入れてから瑞希を車に乗せて自宅まで送り届けた。杉浦は既に出勤してしまったようで、瑞希に鍵を開けさせて部屋の中に入れた。
「じゃあ、俺は会社に行くから。」
俺がそう言うと、瑞希は視線を下に落としたまま静かにうなずいた。瑞希の顔は蒼白で、血の気が失せているように見えた。
「大丈夫か?」
俺が問うと、瑞希は少し間を置いてからかすかにうなずいた。そして顔を上げた瑞希は、まるで遠くを見るような目で俺を見つめた。その目はどこか頼りなく、寂しげで、俺はもう少しそばにいてやりたいと思ったが、時間がそれを許さなかった。
俺が手を上げて別れを告げると、瑞希は身をひそめるように静かに扉を閉める。静まり返ったアパートの廊下に、ガチャンという無機質な音が響く。その音を聞きながら、俺は、このままでは終わらないだろうなと思った。
俺の勘は当たっていた。
その後も瑞希は幾度となく家出を繰り返し、その度に夜も更けた頃にうちの部屋のインターホンを鳴らして俺と麻紀を驚かせた。
「難しい時期なのよ。」
初めはそう言っていた麻紀も、同じことが幾度も繰り返されるうちに、段々ただ事ではないと感じるようになり、やがて週に一度は訪れるようになった瑞希を困った目で見るようになった。
「どうにかならないの?」
ある日の夜、麻紀は不快感をあらわにして声を潜めた。隣の部屋にはついさっきやってきた瑞希が居る。麻紀はその方向にちらと眼をやると、俺に訴えるようにわざとらしくため息をつく。俺は、瑞希のことを悪く言われるのは嫌だった。が、麻紀が今の状況を不快に思うのも最もだった。俺は、どうにかしなければならないと思った。
俺は玄関に出ると、携帯電話を取り出して杉浦に電話をかけた。
しばらく呼び出し音が鳴った後に杉浦の声がすると、俺は瑞希に聴こえないよう声を潜めて、
「もしもし、純也です。夜遅くにすみません。」
俺が出ると、携帯電話の向こうで杉浦は慌てた調子で挨拶を述べる。
「実は今、うちに瑞希が来ているんだけど。」
俺がいかにも困ったような口調でそう伝えると、杉浦は恐縮して何度もお詫びの言葉を述べた。俺が、近頃瑞希が何度もうちに訪れていることを告げると、杉浦はまるで尋問でも受けているみたいに、はい、はいと返事をして、俺の話が終わった後も、杉浦は何度も詫びの言葉を述べるので、俺は急に可愛そうな気持ちになり、最後はいいんだと言って杉浦を気遣ったが、結局、今晩は瑞希をうちに泊めてやることになった。
「まぁ、色々あるとは思うけど、頼んだよ。」
「…はい。」
終わり際に杉浦がした返事の調子に、俺は、杉浦が今まで俺に見せたことのない強情さを垣間見たような気がした。杉浦は、既に何かを決心しているのではないか。不意に俺はそう思った。表面上では真面目を装っていても、実はもう決断を一人で下しているのではないか。そう考えると、俺は遠くの空に雨雲を見つけたような不安に駆られた。
俺は麻紀がいるリビングに戻り、話の内容を伝える。
「で、結論はどうなったの?」
麻紀は詰め寄るような口調でそう言った。俺は、大丈夫だろうと言って言葉を濁す。
「今晩が最後だ。瑞希にはそう伝える。」
俺が約束すると、麻紀は皮肉な笑いを顔に浮かべた。そして、
「あなたは優しすぎるのよ。」
そう言い捨てると、リビングを出て行ってしまった。静まり返った部屋の中で一人、俺は飲みかけの酒に口を付ける。あなたは優しすぎるのよ。麻紀の言葉が、俺の胸を鋭くえぐる。薄暗い部屋を包む静寂が、俺に懺悔を求めているような気がした。俺は、優しすぎるのだろうか?一人ではとても、この問いに答えを出すことはできなかった。
次の日も、俺は会社に遅刻の連絡を入れてから瑞希を自宅のアパートまで送り届ける。
別れ際、俺は寂しそうにこちらを振り向く瑞希をじっと見つめる。その時、昨夜の麻紀の言葉が俺の脳裏をかすめる。このままではいけない。俺は心を決めて口を開く。
「お前…。」
そう言いかけた時、瑞希の目から大きな涙の粒がこぼれ堕ちた。それはまるで捨てられた子犬のように哀れで、悲しい涙だった。俺は、言葉を失った。もうそれ以上、何も言うことが出来なかった。何でだろう。一度は決心したのに、それでも心を鬼にしきれない自分が恨めしかった。麻紀の言う通りだった。俺はあまりに優しすぎた。そして、俺や、俺の両親の優しさが、この瑞希の甘えを生みだしたのだ。瑞希をこのような社会不適合者に成り下がらせたのだ。
「また、来るよ。」
俺は瑞希にそう告げると、自分をあざけるような卑屈な笑みを浮かべて部屋を出た。さびれたアパートの廊下を歩きながら、俺はこの問題の解決策を考えた。
残る希望はただ一つ。
後日、俺は半ば強引に杉浦をいつものファミレスに呼び出した。店に現れた杉浦は、表面上はいつもの礼儀正し振る舞いを忘れなかったが、その口元には常に皮肉な笑みが浮かんでいるような気がしてならなかった。
「急に呼び出したりして、ごめん。」
俺は机に両手をついて謝る。もはや藁をもすがる思いだった。杉浦は首を横に振ると、瑞希とは順調だといったような社交辞令を述べ始めるが、俺はそれを遮るようにはっきりと、
「俺は瑞希の兄貴だから、あいつの悪い所はよく知っている。もし君にも思うことがあるなら、はっきり言ってほしい。」
俺がそう告げると、杉浦は社交辞令の笑みを消し、代わりに能面のような無表情を浮かべて沈黙した。それは、俺が今までに見たことのない杉浦の表情だった。そして、お互いの間に沈黙が流れる。通路を挟んで隣の席に座る女子高生らしき集団が、不思議そうにこちらを見つめる。杉浦は閉口したまま相変わらず無表情を保っている。俺は思わず目をそらしてしまいそうになるが、それでも杉浦が口を開くまで俺は懸命に耐えた。そして、
「僕は」
杉浦は、呪いから解放されたように、ゆっくりと口を開いた。
「僕は瑞希が事故に遭う前から彼女のことを知っています。あの事故の前も後も、僕が瑞希と一緒に居たいという気持ちに変わりはありませんでした。それに、僕は瑞希のことが好きでした。13歳の時からずっと。僕は瑞希のことをよく見ていましたし、瑞希のことはよく知っています。知っているつもりでした…。」
そう言いかけて、杉浦は苦しそうに唇を噛むと再び沈黙する。杉浦は、その先の言葉を言うことにためらいを感じているようだった。でも、俺は分かっている。杉浦は俺を気遣っていた。杉浦は、俺の瑞希に対する思いを知っていた。杉浦は、瑞希をけなす言葉を決して口にはしなかった。例え杉浦の瑞希に対する愛情が尽きたとしても、もうその気遣いだけで十分だった。
「じゃあ」
俺は最後にもう一度だけ、微かな希望を求めるように問う。
「もう瑞希を好きになってはもらえないかなぁ。」
俺の声は枯れていた。杉浦は疲れたようにうなだれると、微かに首を横に振る。
「そうか…。」
俺は深い疲れを感じた。初めから答えは分かっていた筈なのに、突然、頬を殴られたような鈍い痛みが俺を襲った。瑞希と杉浦の物語は今、幕を下ろした。俺はもう、何も考えられなかった…。
4
瑞希は杉浦と別れた。
荷物をまとめて自宅のアパートを出た瑞希の行く当ては決まっていた。
「申し訳ない」
俺は、麻紀に向かって深く頭を下げる。麻紀は何も言わない。瑞希は既に隣の部屋にいる。俺は頭を下げながら、ふと、これで何度目だろうかと思ったが、俺はすぐにその考えを意識の外に追いやる。もしうちがダメだとしても、他に瑞希に行く当てがあるとは思えなかった。もうプライドも何もかなぐり捨てて、俺はひたすら麻紀に向かって頭を下げ続けた。
「仕方がないわね。」
遂に麻紀は根負けして、瑞希をうちで受け入れることを認めた。俺が感謝の言葉を述べると、麻紀は優しく微笑んで、
「やっぱり、あなたは優しい人ね。」
そう言って麻紀は俺の頭を優しくなでてくれた。良い歳した男が恥ずかしい話だが、その時、俺は思わず泣きそうになり、もう麻紀の胸に飛び込みたい衝動に駆られた。大袈裟かもしれないが、俺は母を亡くして以来、久しぶりに人の優しさに触れたような気がした。俺たちの結婚生活も二年目に入り、お互いの長所短所も徐々にわかってきて、そろそろ自由が欲しくなるようなこの時期に、麻紀は、俺の妹である瑞希を受け入れてくれた。しかも麻紀は、一人増えて厳しくなった家計のために、今勤めている会社と掛け持ちでアルバイトまで始めた。俺はもう、麻紀に対して頭が上がらなかった。俺は麻紀の行動に目頭が熱くなる思いを感じた。
だが、すべてがうまくいっている訳ではなかった。麻紀の努力にもかかわらず、瑞希はうちに来てからも無気力な毎日を過ごしていた。瑞希は昼も夜も一人で部屋にこもり、俺や麻紀と接する時間と言えば、二人のどちらかが食事を持って部屋を訪れる時くらいだった。その時も、瑞希は食事を受け取ると、無言のままぎこちない会釈をするだけで、すぐに部屋の扉を閉めてしまう。瑞希に悪気がある訳ではないのだろうが、麻紀の瑞希に対する不満は溜まり、毎晩俺が家に帰ると、酒のつまみを噛みしめながら麻紀の愚痴を聞いてやらなければならなかった。
「ただうちに居てもらっては困るわ。」
麻紀は酔いが回って幾分大きな声で言う。
「簡単な用事くらいはしてもらわないと。」
「そうだな」
俺はチューハイをすすりながらうなずいていたが、正直、瑞希に何が出来るか考えると不安だった。
次の日、早速麻紀は瑞希に用事を任せた。麻紀は小銭の入った財布とメモを瑞希に持たせて、近所のスーパーに買い物に行くよう言い渡した。しかし、俺は瑞希が最も苦手としているのが、お金の計算であることを知っていた。まったくできないという訳ではないのだが、とっさに計算しようとすると頭が混乱してしまうようで、俺は心配したが、瑞希は黙ってうなずくので、とりあえず一人で行かせてみることにした。
結果は最悪だった。
俺が仕事から帰ると、リビングのテーブルを挟んで麻紀と瑞希が向かい合って座っていた。
「ねぇ、瑞希ちゃん。」
麻紀は瑞希のことを「瑞希ちゃん」と呼んだ。麻紀の口調は優しかったが、麻紀が能面のような無表情を浮かべているのは、こみ上げる怒りをこらえている証拠だった。瑞希はその麻紀の顔を見まいとしているのか、横の壁の一点を見つめたまま黙っていた。麻紀はまるで獲物を狙うようにすっと目を細めると、
「じゃあ、話を整理しましょう。買い物をしにスーパーには行ったのね?」
麻紀は子供に言い聞かせるような甘い声で話した。その調子が、かえって俺に麻紀の女としての恐ろしさを感じさせた。
「頼んだ品物をかごに入れて、レジの前に立ったの?」
話の内容はこうだった。
瑞希は頼まれた品物を手にレジに向かった。しかし、目の前で値段の計算が行われるうちに、きちんと財布から要求通りの金額を出せるか不安になり、ついその場から逃げ出してしまったのだと言う。
「お札を出してお釣りをもらえば済む話でしょう?」
麻紀の問いかけに、瑞希は黙ってうつむいた。おそらく、値段に対してどのくらいのお札を出せばいいかの計算すら不安だったのだろう。それにしても、瑞希の症状は俺が思っていたよりもはるかに酷かった。
俺がもう少し簡単なことを任せようと言って、次の日は部屋の掃除を頼んだのだが、俺が仕事を終えて部屋に帰ると、掃除をするためにどかした家具や荷物が部屋中に散乱していた。
瑞希は物事を頭の中でうまく整理することが出来なかった。どかしたものを元に戻さなければ、それは散らかっていることになるということが瑞希には理解できなかった。その証拠に、瑞希に貸している部屋の中はひどく散らかっていた。おそらく、出したものを元に戻す習慣がついていないのだろう。
「じゃあ一体、何なら出来るって言うの?」
瑞希が居ないところで、麻紀は長い髪を振り乱して嘆いた。俺も正直、この事態には呆然とするしかなかった。瑞希が実家にいた頃、俺や俺の両親は、ある意味で瑞希を家の一室に閉じ込めていたから、瑞希がこのような状態になっていることに気付かなかったのだ。俺は、今なら瑞希に根を上げた杉浦の気持ちがよくわかるような気がした。
「どうするの?」
麻紀はそう言って俺に詰め寄る。このままではいけない。かと言って、この解決策を思いつくこともなく、俺はただひたすら言葉を濁すしかなかった。
「純也君」
仕事を終え、パソコンの電源を切って帰ろうとしたとき、俺は雇い主であり、麻紀の父親でもある社長に呼び止められた。
「君、これから時間はあるかい?ちょっと一杯やって行かないかね?」
社長は白い口髭を指でいじりながら言う。俺は二つ返事で応えると、急いでパソコンの電源を落として社長の後をついて行く。
酔ったサラリーマンたちの声がこだまする古びた飲み屋のカウンター席で、俺は社長と肩を並べて酒を飲む。社長のグラスが空になると、俺はすかさず手を上げて店員を探すが、社長は日焼けした丸顔に人のいい笑いを浮かべて「気を遣わんでいいよ。」と言う風に手をひらひらと振る。
「ところで、麻紀とはうまくいっているかね?」
社長は俺のおちょこに焼酎を注ぎながら問う。俺はおちょこを両手で抱えながら恐縮し、一言「順調です」とだけ答えて辛い焼酎をすする。
「へぇ、本当かね?」
そう言うと社長はいたずらっぽい笑みを浮かべて俺の顔を覗き込む。社長は、今の会社を一から作り上げた功績を持つ人とは思えない程に快活で、人懐っこい人だった。俺が意表を突かれたように黙り込むと、むしろその反応を見て面白がった。
「あいつは母親に似て気の強い女だからなぁ。そんな女と結婚するともなれば、そりゃあ苦労の一つや二つはあるだろうよ。なぁ、純也君?」
「ええ、まぁ。」
そう言って俺の肩を叩く社長に、俺は苦笑いを浮かべながら応える。その後も、俺は仕事終わりに社長に引き留められて度々飲みに誘われた。初めは陽気な社長のペースに押され気味だった俺も、回数を重ねて付き合ううちにだんだん打ち解けられるようになり、いつしかこの陽気な社長に好感を持つようになった。
「お父さん」
最近、俺は社長をこう呼ぶようになった。それは自分の妻のお父さんという意味もあるが、既に父を亡くした俺の中でいつの間にかこの社長がまるで本物の父親のような存在になっていた。寡黙だった俺の父とは違い、この快活な社長に対して俺は色んなことを腹を割って話すことが出来た。
そうやって打ち解けていくうちに、俺はこの人になら瑞希のことを打ち明けてもいいのではないかと思うようになった。瑞希のことについて、俺は今まで麻紀と杉浦以外の者に話したことはなかった。そのせいで、瑞希がうちに住むようになって間もない頃、隣に住む主婦が、うちから出てきた瑞希の姿を見て、俺が妻とは別の女を部屋に連れ込んでいると思い込み、俺が居ないときにその主婦は恩着せがましく麻紀に俺の浮気について忠告してきたと言う。
「さっき隣の奥さんに言われたわ。」
その時、麻紀は皮肉な笑みを口元に浮かべて俺にそう言った。
最初はこんな話をして社長を笑わせた。
「その主婦には、君の妹が浮気相手の女に見えたと言うのか。」
そう言って、浮かんだ笑い涙を手の甲でこする社長の様子を伺いながら、俺は慎重にタイミングを計る。下手に深刻な雰囲気で話し始めて場の空気を壊したくはなかった。いくら打ち解けたとはいえ、会社の社長であり妻の父親でもある人にこんな私事を話すのはさすがに気が引けた。だが、俺はこのことを誰かに打ち明けたい気持ちに駆られた。そして、俺は機を見て話し始める。
「実は、僕の妹は昔、交通事故に遭いまして。」
「ほう」
すると、社長は先ほどまで浮かべていた人懐っこい笑みを消し、幾分身を乗り出して俺の話に耳を傾けた。真剣な面持ちで俺の話を聞く社長の表情は、やはり娘の麻紀の表情に似ていた。社長の反応に好感を得た俺は、瑞希の後遺症のことから杉浦との交際のことまで、すべてを一気に吐き出すように話した。社長は俺の話の一つ一つに共感するように何度もうなずいて応えてくれた。そして、俺が話し終えると、
「大変だったなぁ、君も。」
そう言って俺の背中を優しくさすってくれた。俺は最初、この話を社長にすることに多少の戸惑いを感じていたが、この時、俺は話して良かったと思えた。話したところで現実的にどうなるという訳ではないのだが、少しでも俺の気持ちを理解してくれる人がいるというだけで、背負った重荷が少しだけ軽くなったような感じがした。すると、
「なぁ、純也君。もしも君や、君の妹が良ければの話なのだが」
突然、社長は口髭をいじりながら俺にあることを提案した。
「君の妹の件を知人に相談して、君の妹にお見合いの機会を設けてあげてもいいのだが、どうだね?」
その時、俺は一筋の希望を見出したような気がした。まるで盲点を突かれたような、新鮮な気持ちだった。俺は今まで、瑞希を養うことや、自立させることばかりを考えてきた。しかし、もしかすると瑞希のすべてを受け入れてくれる「第二の杉浦」のような男性がどこかに存在するかもしれない。その可能性があることを、俺は今までまったく考えもしなかった。
「是非、よろしくお願いします。」
俺は二つ返事で応えた。
このことを話すと麻紀は目を輝かせて俺の提案に同調した。
「良い人が見つかるといいわね。」
麻紀はそう言ったが、内心で麻紀が瑞希の存在をうっとおしく思っているのは明らかだった。
瑞希本人はこの提案に首を振ったが、俺が何度も説得して、最後は半ば強引に承諾させると、すぐに社長に伝えて一回目の縁談に取り付けた。
当日の朝、瑞希は麻紀に手伝ってもらいながら顔に化粧と口紅を施し、いつも着ている地味なパーカーから洒落た洋服とスカートに着替えると、瑞希は見事なまでに魅力的な女性に変身した。
「いいわね」
麻紀も思わず声を漏らした。俺も隣で腕組みをしながら、瑞希の見事な変身ぶりに驚いた。瑞希は、俺と麻紀の視線を感じて恥ずかしそうに目を伏せている。これならうまくいくかもしれない。後は、本人が乗り気にさえなってくれたら。今日のお見合いは、瑞希の為だけでなく、この縁談を持ちかけてくれた社長の顔を潰さないためにも成功させなければならなかった。
「行ってきます。」
俺は瑞希を連れて家を出る。外の天気は雲一つない快晴だった。最寄駅までの道を二人で歩いていると、すれ違いざまにちらとこちらを盗み見る男性の視線を感じて俺は得意になった。俺は、隣で恥ずかしそうに頬を赤らめている瑞希を見て、彼女は俺の妹だぞと声を張り上げたい気持ちになった。
一方で、瑞希本人は相変わらずこの縁談に乗り気ではなかった。電車に揺られている間、瑞希はドアの隅っこに固まるようにして立ち、窓の外の景色を憂鬱な目で見つめていた。
「大丈夫だよ。」
俺がそう言って肩を叩いても、瑞希は窓の外に目を向けたままかすかにうなずくだけだった。
駅に着くと、俺はトイレの鏡に向かってネクタイや髪形に乱れがないか入念にチェックする。自分の見合いではないのに、俺は妙な緊張感からかワイシャツの脇の部分にシミが出来るほどの汗をかいていた。俺は脇に持参したスプレーを当てながら、ふぅと一つ息を吐く。おそらく、今瑞希はもっと緊張していることだろう。俺がこんなことではいけない。
「お待たせ」
トイレを出ると俺は待っていた瑞希に向かって無理やり笑みを浮かべて見せる。瑞希は、目の前の俺を不安そうな目で見上げる。その姿は俺に追いつめられた小動物を思わせた。おそらく瑞希にとっては、ここまで来るだけでも精一杯の思いなのだろう。瑞希は周りを歩く人たちの波に飲み込まれないよう、地面を見つめて懸命に耐えていた。
「行こう」
俺はそう言って瑞希の手を引いた。
都内にある今日の相手の自宅は、その門構えや建物から俺によくテレビなんかで見る高級な和食料亭を思わせ、それは郊外から来た俺たちを威圧しているように見えた。インターホンを押し、いかめしい感じのする門をくぐりながら、俺は社長がなかなかの知人を紹介してくれたものだと思った。
「失礼します。」
俺と瑞希が相手の母親に伴われて部屋に入ると、相手の男性は既に座敷に行儀よく正座して俺たちを待っていた。
「どうも今日はこのような機会を設けていただきまして…。」
俺は額の汗をハンカチでぬぐいながら、相手の母親と一通りの挨拶を交わす。品の良い感じのする母親の隣で、相手の男性は口を一の字に結んで姿勢を正しながらも、視線は目の前の瑞希を上から下まで興味深そうに眺めていた。相手の男性は軽く会釈をするが、瑞希のほうは視線を目の前のテーブルに落としたまま黙り込んでしまい、相手と目も合わせようとはしない。しかし、相手の男性の表情から、少なくとも第一印象では瑞希に好感を持っていることが見て取れた。
相手の男性を含めて話をするが、肝心の瑞希がふさぎ込んでしまって、相手の問いかけに相槌さえ打とうとしない。
「すみません。ちょっと緊張しているようで。」
そう言って俺は手に浮かんだ汗をズボンにこすりつけながら笑う。相手の母親が気遣ってくれたので、俺は出されたお茶を口に含んで一息つくと、隣から瑞希が俺の足を指でつつく。振り返ると、瑞希はもう今にも泣き出しそうな目で俺を見上げていた。
「瑞希さんは、何かご趣味とかはおありですか?」
相手の男性は少し身を乗り出して瑞希に話しかける。自分は乗馬が趣味だと言うその男性は、顔にもしゃべり方にもどこか甘ったれた一人息子の雰囲気が漂っていて、ほとんど反応を示さない瑞希を無視して一人でしゃべり続けていた。男性は私立大学を出て今は都内の区役所に勤めているそうで、その点については文句のつけようがなかったが、俺は瑞希の兄として、こういう温室育ちな雰囲気のする男性と瑞希を付き合わせることに少々抵抗を感じていた。
「それじゃあ、そろそろ」
そう言うと相手の母親は立ち上がって俺に瑞希と男性を残して部屋を出るよう目配せをした。その時、俺は瑞希と男性が部屋で二人きりになることに不安を感じた。いつもは一日のほとんどを部屋で一人きりで過ごしている瑞希が、初対面の男性を相手にどんな話をするのか考えると、とても間が持つとは思えなかった。
部屋を出てふすまを締め切ると、俺は相手の母親に伴われてリビングに行き、改めて出されたお茶を飲みながら話をした。話の中で俺は、瑞希の後遺症についてそれとなく伝えたが、相手の母親は何度かうなずいただけであっさりと次の話題に移ってしまった。話をしながら俺は、この母親もあの息子も含めて、もし結婚したとしても瑞希を受け止めきれないだろうなと思った。そう思うと、微かな絶望感が俺の胸に音もなく広がった。
その時、長い廊下をこちらに駆けてくる音がして俺は振り向いた。突然、リビングに飛び込んできた瑞希は、涙でぬれた顔を俺の胸に強く押し付けながら、子供のように帰りたい、帰りたいと繰り返し叫んだ。その光景をあっけにとられた様子で眺めていた相手の母親に、俺は苦笑いを浮かべて別れの挨拶を述べた。
その後も社長の紹介で何度か縁談を繰り返したが、どれも結果は同じようなもので、中には俺が好感を持った男性もいたのだが、当の本人は一向に首を縦に振ろうとはしなかった。
「ねぇ、瑞希ちゃん。」
麻紀はいつもの子供をあやすような声でそっぽを向く瑞希を諭した。
「これは瑞希ちゃん本人の問題なんだよ?こうしていつまでもうちに居る訳にはいかないでしょ?早くいい人を見つけて、新しい生活を始めなくちゃ…。」
ここまでうまくいかずに俺は焦っていたが、麻紀も必死だった。麻紀はこの縁談にある意味で賭けていたから、未だ乗り気でない瑞希の態度がもどかしく感じられるのだろう。麻紀は瑞希だけでなく、俺にもプレッシャーをかけてきた。と言うのも、最近、夜になると麻紀は寝ている俺の背中をつついたりさすったりしてやたらに俺を誘ってくるようになったのだ。初めは不思議に思っていた俺だが、麻紀が子供を欲しがっていることに気付くと、こちらにすり寄ってくる麻紀を無視しようと俺は毎晩懸命に狸寝入りを決め込んだ。そのせいか、朝になると麻紀は俺を故意的に無視したり、少ししてしゃべってくれたかと思えば、今度はセックスを拒む俺を酷い言葉でののしった。
「あなたは子供が欲しくないの?」
麻紀はそう言って俺に詰め寄る。俺はいくつも言い訳を並べて言葉を濁すが、麻紀はなかなか許してくれない。俺だって、子供が欲しくない訳ではなかった。ただ、瑞希があんな状態の今、この家に家族が一人増える余裕などなかった。俺は会社から帰ると毎晩のようにやってくる麻紀の罵声と誘いを懸命に躱(かわ)さなくてはならなかった。
そんな俺たちの雰囲気を感じ取ったのか、最近、瑞希は一人で外出することが多くなった。朝早く出て行ったかと思うと夕方になるまで帰ってこないので、俺は何をしているのか聞くと、瑞希は曖昧な返事をするだけで部屋の扉を閉めてしまう。
「彼氏でもできたんじゃないの?」
麻紀は俺のコップに酒を注ぎながら言う。だが、俺にはそうとは思えなかった。ずっと一人で部屋に引きこもっている瑞希に、俺が連れて行く縁談以外で外の男性と知り合う機会があるとは思えなかった。最近の瑞希は縁談をすることにさえ頑として首を縦に振らず、もはや連れ出すことは不可能に思えた。そんな瑞希が自分の意志で外に出て行くようになったことはせめてものプラス材料だった。
「何とかなるだろうか。」
そう言って俺がコップに口を付けると、麻紀は相槌を打ちながら俺のコップにすかさず酒を注ぐ。麻紀はこの後、俺をどう寝床に誘い込むかのことで頭がいっぱいになっていたから、俺は麻紀の作戦に乗せられないよう気を付けて酒を飲んだ。
「すみません」
仕事を終え、俺はいつもの飲み屋で社長と肩を並べて酒を飲む。俺はせっかくの縁談の機会を棒に振ったことを謝ったが、社長はいいんだと言う風に笑って俺に酒を勧めてくれた。
「しかし、君も妹想いなお兄さんだ。」
「よく言われます。」
俺の言葉に、社長は人のよさそうな笑みを浮かべる。最近は家で寝る時でさえ神経を使っていたから、社長が浮かべる屈託のない笑みは俺の疲れた心に染み入るようだった。いつものようにくだらない話をして、声を上げて笑う。今の俺にとって、ここが唯一、気の休まる場所であるように思えた。
「ところで、君もそろそろ子供がいてもおかしくない歳になってきたのではないか?」
俺は、突然の社長の言葉に意表を突かれ、苦笑いを浮かべて言葉を濁す。社長の丸顔は酔って赤くなっていたが、目は真剣に何かを訴えているようだった。
「麻紀とは、色々と話をしています。」
俺がそう言うと、社長は腕を組み、何度かうなずく。そして、
「君も亭主として、将来のことを考えなくてはいかんな。」
社長はそう言うと、俺を探るような目で見つめた。その時、俺は、この人が自分ではなく麻紀の父親であることを改めて思い知らされた。麻紀からどんなことを吹き込まれたかは知らないが、社長は麻紀の父親で、娘が幸せになることを心から祈っている良い父親だ。そう思うと、俺は身体にへばりつくようなひどい疲れを感じた。
「君のお父さんに言われたよ。」
俺は麻紀に勧められるままに酒をあおりながら言った。麻紀は酒の瓶を片手に真剣なまなざしで俺を見つめる。その表情を見て、やっぱりよく似た親子だなと思った。
「思えば、君には瑞希のことでたくさん迷惑をかけたな。俺は瑞希のことばかり気にしていて、君とのことについて少しも考えていなかった。」
俺は語りながら、何だか台本のある台詞を言わされているような気がしておかしかった。瑞希はいつものように部屋にこもって出て来ない。酒のせいで頭がぼんやりとした俺は、不意に麻紀のほうに近寄ると、その身体を強く抱きしめる。麻紀も、俺の身体に強くしがみついて離れない。俺はもうろうとした意識の中で、もはや、どうにでもなれという気持ちだった。
「お疲れ様。純也君」
俺がパソコンの電源を切り、疲れた首を回していると、社長はいつもの人のよさそうな笑みを浮かべて歩み寄る。
「悪いね。こう土曜出勤が立て続けに入ってしまって疲れただろう。今日もこれからどうだい?」
そう言うと社長は俺の凝った肩をもむ。恐縮しながら俺は、明日は用事があるからと言って、初めて社長の誘いを断った。すると社長は、思い出したように手を叩いて、
「そう言えば、この前に麻紀が君と出かけると言っていたな。君のほうから誘われるのは初めてだって喜んでいたよ。明日だったのか。」
そう言うと社長はにやにやと笑って俺の脇腹をつつく。俺は改めてそう言われると急に恥ずかしくなり、照れ隠しに頭を掻く。一週間前、俺は麻紀にそれとなく二人で出かけることを提案すると、麻紀はこともなげに「そうね」とだけ言って、その時は特に変わった様子はなかったのだが、このことを社長に嬉しそうに報告している麻紀の姿を思い浮かべると、何だか可愛らしく思えた。
「別に大したことをするつもりはないんです。ただ、たまにはいいかなと思いまして。」
「いや、いい心がけだと思うよ。女っていうのは適度に構って貰えないと怒る生き物だからな。うちの嫁なんか、一度機嫌を損ねるとすぐ私にあたってくるんだから、困ったものだよ。」
そう言って社長はわざとらしく顔をしかめる。俺は笑った。俺にも心当たりがあったので、ああそうだったんだなと思い、そんな経験もこうして笑い飛ばせる社長を見て俺は、さすがは人生の先輩だと感心した。声を上げて笑っていた社長は、不意に真剣な面持ちになると、すっと前を見据えるように俺を見つめて、
「麻紀を、よろしく頼みます。」
そう言って頭を下げた。突然のことに俺は恐縮したが、力を込めて「はい」と応える。俺は、以前の自分がこれと同じ言葉を杉浦に掛けたことを思い出す。そして、あの時の杉浦はきっとこんな感じだったのだろうなと思うと、何だか不思議な気分だった。
「君、お父さんに教えただろう。」
その夜、夕飯のサバをつつきながら俺は不意に告げる。麻紀は俺のコップにビールを注ぎながら、そうだったかしらと言って目をそらせるが、麻紀の両耳は沸騰したみたいに赤くなっていたので、俺はおかしくて思わず笑った。すると麻紀が怒りだしたので、
「別に、何とも思ってないよ。」
そう言って俺は麻紀が振りかざす手を避ける仕草をする。麻紀は早口で言い訳を述べ、それに対して俺が「分かった、分かった」と言う風に手を振ると、麻紀はふて腐れて横を向いてしまった。そんな麻紀の姿を見て、俺は素直に可愛い奴だなと思った。そして、こんな感じはいつ振りだろうかとも思った。
次の日の朝。俺は出かける支度を済ませると、瑞希が居る部屋の扉を軽くノックする。後ろ髪が跳ねて眠そうな目をこすりながら出てきた瑞希に、俺は洗い物と洗濯物干しを命じ、家を出る時は鍵を必ず締めることを念入りに言い聞かせる。いつもは麻紀が子供に言い聞かせるような口調で伝えるのだが、今日は俺が言うと、瑞希は何の感動もないような表情でうなずいた。
「頼んだぞ」
俺は力を込めてそう告げると、部屋の扉を閉める。
玄関では麻紀がブーツに片足を入れながら「太ったかしら」と言って首をかしげているので、俺は関係ないだろうなと思って一人、密かに笑う。
「ブーツなんて久しぶりに履くから。」
そう言って麻紀は照れ臭そうに笑って俺を見上げる。麻紀は、いつもは束ねている長い髪を下ろしていて、甘い香水の匂いが微かに香る。俺は、何だか懐かしい気持ちになった。
「行こうか」
俺は麻紀の手を引く。
俺たちは歩いて駅に向かう。
「どこに行くの?」
駅に着き、切符売り場の路線図を見上げながら麻紀は問うが、俺は何となくうなずいただけで黙っていると、麻紀はもうそれ以上は聞いてこない。今まで二人でデートをするときは、下調べから行き先までもすべて麻紀が決めていたので、初めての俺は、こういった段取りに慣れていなかった。それに最近はテレビを見る暇もなく、流行のスポットもほとんど知らないので、結局、ここから六駅先にある俺と麻紀が通っていた大学がある街に久しぶりに行ってみることにした。
電車に揺られながら窓の外を眺めていると、懐かしい景色が右から左へと流れていく。うちからそう遠くはない場所のはずなのに、毎日会社に通う方向とは逆の電車になるので、大学を卒業してからこちらに来ることはほとんどなかった。
座席に行儀よく座った麻紀は、懐かしい景色を眺めながらその口元は微かに笑っているように見えた。麻紀は俺に見られていることに気付くと、急に口をすぼめて恥ずかしそうにうつむく。朝焼けのように赤く染まる麻紀の頬を見つめながら、俺は胸の底から湧き上がってくる充実感をゆっくりと味わう。こんな感じは一体、いつ振りだろうか?
俺たちは六つ目の駅で降りる。俺はまだ行き先を黙っていたが、麻紀のほうは特に驚く様子もない。俺たちは学生時代を思い出すように改札を抜け、自然と大学があるほうの出口から外に出る。
飲み屋だった建物が進学塾に変わった以外に変化のない駅のロータリーで、俺たちは大学行きのバスに乗り、大学付近のバス停でボタンを押して降りる。バスを降りると俺たちは、スーパーマーケットやゲームセンター、本屋やレンタルビデオショップが立ち並ぶ大学周辺の景色を眺めながら当てもなくぶらぶらと歩く。お世辞にも洒落ているとは言えない街の風景を、俺らは何時までも飽きずに見て回った。お互いに声を出さなくとも、俺たちは無言のうちに学生時代の思い出を共有することが出来た。そして、足は自然と学生時代によく通っていたいつものファミレスに向かっていた。
もう少し歩けば、そこそこ洒落たレストランがあることを俺は知っていたが、俺も麻紀も迷うことなく学生時代に通っていたチェーン店のファミレスに入る。
「今日は俺が払うよ。」
店内に入り、やってきた店員に席と人数を伝えると、このジョークが自然と俺の口をついて出た。奨学金返済の為にアルバイトに明け暮れていた学生時代に、俺はここでよく麻紀にご飯を食べさせてもらっていた。そして、俺が麻紀と初めて会ったのもこの場所だった。俺は一人で食事を終え、会計の時に財布の中を見てお金が足りないことに気づき、とっさにそばの席に座っていた麻紀にお金を貸してもらったのがきっかけだった(そのお金を返した記憶はないが)。その後、麻紀が同じ大学の同じ学部の生徒だと知ると、俺は授業の出席やレポートを頼んだり、テスト期間にはここで一緒に勉強をしたりして過ごすようになった。俺が電話をすると、麻紀は決まって電話の向こうで迷惑そうな声を出したが、なんだかんだと文句を言った後、麻紀は必ず俺の頼みを聞いてくれた。ここで麻紀に見てもらいながらレポートやテスト勉強をしていると、ろくに授業も出ない俺は要領が分からず、俺が諦めてペンを投げ出すと、麻紀はすかさず注意して俺の姿勢を正した。
「ねぇ、純也。これはあなた自身の問題なのよ?」
俺がやる気をなくす度に麻紀は真剣に俺を怒った。当時の俺は、まるで母親を気取っているような麻紀の態度に腹を立て、俺たちは人目もはばからずに怒鳴り合いの喧嘩もした。だが、今考えると、麻紀はあの頃から真剣に俺と付き合ってくれていたのだなと思い、そんな思い出さえ今では微笑ましく思えた。
「ここであなたにおごってもらえるのって、初めてじゃない?」
麻紀は手にしたメニュー越しにいたずらっぽい笑みを浮かべる。俺はそうだっけ、ととぼけて頭を掻く。今の俺たちはこうして夫婦になったが、俺たちの同級生の中にはまだ結婚できていない者は大勢いるし、そんな雰囲気が当たり前の時代に、こうして麻紀と結婚できたことがどんなに幸運だったかを俺は改めて痛感する。それだけでなく、就職や瑞希のことも含めて、今の俺は麻紀の存在なしには有りえなかったと言っても過言ではない。それなのに俺は、瑞希のことばかり気にかけていて、麻紀には迷惑ばかりかけていた。俺は夫として今日まで本当に自分勝手な人間だったと思う。社長のあの一言が、俺を目覚めさせてくれたような気がする。
「瑞希のことで、君には本当に迷惑をかけたな。」
俺は自分のハンバーグを不器用に切り分けながらしみじみと言う。麻紀はパスタをフォークでくるくると巻きながら、
「その台詞、もう何回も聞いたよ?気にしなくていいって言ったじゃない。」
「ああ、そうだっけ。」
俺は苦笑いを浮かべる。でも、それは俺の本心から出た言葉だった。
「君には今まで散々迷惑をかけたし、そのことを俺自身が自覚していなかった。」
俺はじっと前を見据えて言う。麻紀は、まだ続けるのと言う風にあきれた表情を浮かべながらも、ちゃんと俺の目を見て話を聞いてくれる。俺は続ける。
「これから俺は夫として、君との生活について真剣に考えたいと思う。君との子供についても、これから本気で考えていきたいんだ。だから、まだまだダメな俺だけど、君にもっと迷惑をかけるかもしれないけど、一緒についてきてほしいんだ。」
俺は一気に言った。言い終えてから、急に潮が引くように恥ずかしさがこみあげてきて、俺は思わず咳き込む。しかし麻紀は、変わらない笑みを浮かべて俺の言葉を受け止めてくれた。この時、俺は今まで自分から麻紀にプロポーズしたことがなかったことに気付く。俺は恥ずかしさに打ちひしがれるあまり、口に含んだハンバーグの味もわからず、飲み込み方を間違えて激しくむせてしまう。そんな俺に麻紀はハンカチを差し出しながら、まるで母親のような優しい笑みを浮かべて見守っていた。
食事を終え、会計を済ませて店を出る。帰り道、俺たちはお互いに手を握り合うと、バスには乗らずに歩いて駅まで向かった。今の俺たちは、何も語らずともお互いの気持ちを通じ合わせることが出来るような気がした。俺は、遠くのビルの屋上に沈みかけた夕日を見ながら、この時間がいつまでも続けば良いのにと思った。
自宅のマンションに戻ると、部屋の前で外出していた瑞希とばったり会った。
「外に出ていたのか?」
鍵を開けながら俺が問うと、瑞希は黙ってうなずいただけで、すぐに自分の部屋に入って出て来なくなってしまった。部屋を確認すると、洗い物も洗濯物もきちんとやってあったので、感心した麻紀は
「やっぱり、私よりもお兄さんが言ったほうがいいかもね。」
と言った。
その時、不意に俺は今まで自分がどうして瑞希に執着していたのか、不思議に思った。杉浦との同棲を勧め、破局後にはこのうちの一室を与えて泊めてやり、社長を通して縁談の機会を設けてやったが、瑞希は俺の努力に少したりとも応えてくれたことはない。いくら妹とは言え、そんな瑞希に尽くしていたせいで、俺は麻紀を失いかけていた。
俺は意地になっていたのではないか。瑞希を庇(かば)うあまりに俺は意地になって、本当に大切にするべきものを見失ってきたのではないか。麻紀や、麻紀との子供の将来を捨ててまでしても、俺が瑞希を守ってやる必要はあるのだろうか。実際に守ったとして、今後も瑞希は俺の期待を裏切り続けると言うことは出来ないか。
いや、もう考えるのは止そう。瑞希を攻めて何が変わると言うのか。それに、瑞希だって好きであのようになった訳ではないのだから、こんな理屈を瑞希に押し付けるのは筋違いというものだろう。ただ、これからは物事をもっと広くとらえなくてはいけない。今の俺に分かることはそれだけだ。
俺はリビングのソファーに腰を下ろし、ポケットから携帯電話を取り出して何気なく見る。着信が一件、入っていた。「杉浦」という文字が画面に表示された時、俺は、これから事態が好転していく予兆を感じ取った…。
5
近頃、瑞希は頻繁に外出するようになった。平日の日中にもよく外出しているようで、あるとき俺は隣の部屋の主婦に声をかけられた。
「妹さん、近頃よく外に出られてますね。」
取ってつけたような作り笑いを浮かべるこの中年の主婦は、以前、瑞希のことを俺の愛人だか浮気相手だと勘違いして麻紀や周辺の住民に言いふらしたので、俺は一時期、同じマンションの住民たちにあらぬ噂を立てられ、特に女性住民からは廊下ですれ違いざまに白い目で見られたこともあった。今ではこの主婦は、俺を見かけると自分のミスを弁解するように卑屈な笑みを浮かべて俺に頭を下げるのだった。
「よかったですねぇ。彼氏さんに振られてふさぎ込んでいたのが、こんな風に外に出られるようになって。妹さんはまだ若いから、きっとショックが大きかったのでしょうね。」
そう言うと主婦はまるで瑞希の気持ちに同調するように何度もうなずく。一体、この主婦はどこでそんな情報を仕入れてくるのだろうか?人のプライベートにずかずかと土足で踏み込んでくるこの主婦のデリカシーの無さに、あの一件以来、俺も麻紀もうんざりしていた。
「まぁ、頑張ってください。きっといつか、妹さんにもいいことがあるわよ。」
主婦はそう言って自分勝手に話を締めくくると、苦笑いを浮かべる俺の肩を叩いて去って行った。俺はその背中を見送りながらおせっかいな人だなと思いながらも、一方で、その言葉はあながち間違いではないとも思った。
先日、杉浦からの着信を見た俺は、その後すぐに折り返しの電話をかけた。しばらく呼び出し音が鳴った後に杉浦が電話に出ると、俺は久しぶりで緊張したが、お互い電話越しに社交辞令的な挨拶を述べ合った後、杉浦のほうから近々、俺と会って話がしたいと打ち明けてきたのだ。
その言葉を聞いたとき、俺は、杉浦が瑞希とのことについて考え直してくれたのだと思った。俺は一筋の光を見出したような心地だった。正直、社長が取り付けてくれた縁談はすべて不調に終わり、これ以上麻紀に迷惑をかける訳にもいかなかったので、もし杉浦がまた瑞希との仲を取り戻してくれるのなら、瑞希にとっても、俺にとっても、こんなに良い話はなかった。電話越しに聴こえてくる杉浦の声は虚ろで、沈んだ調子だったが、あんな形で瑞希を振っておきながら、また会いたいと電話をかけてくるのだからそりゃあ気まずい気分になるのも当然だろうと俺は考えた。
結局、俺たちは以前に二人でよく会っていたファミレスで落ち合うことになった。
そしてその当日の朝、俺は家を出る間際、瑞希の居る部屋の扉をノックしてそれとなく中の様子を伺う。瑞希は今日も出かけるようで、いつも着ている地味なパーカーの上から黒い厚めのジャンパーを着込んでいた。
「もうちょっとお洒落しても良いんじゃないか?」
俺が言うと、瑞希はいぶかしげに俺を見上げた。瑞希は俺の妙に浮ついた調子を不審に思っているようだった。俺は、ウキウキとした気分を抑えるようにわざと低い声で、「これから杉浦と会うんだ」と告げると、去り際にちらと瑞希の表情を伺う。瑞希は特に感情を表に出さなかったが、一瞬、じっとこちらを見つめていた視線が少しだけ逸れたのを俺は見逃さなかった。大きな反応はしなくとも、瑞希は「杉浦」という言葉を聞いて明らかに動揺していた。玄関に腰掛けて靴ひもを結びながら、俺は心の中で瑞希に話しかける。期待して待っていな。もうすぐ俺が良い知らせを持って帰ってくるから。
「どうしたの?ニヤニヤして」
玄関まで見送りに来た麻紀は、不気味そうに俺を見つめる。俺は慌てて弁解したが、自分の顔の筋肉がほころんでしまうのを抑えることが出来なかった。
「もしかして、女と会うんじゃないでしょうね?」
「まさか」
「私、隣の奥さんから聞いたわよ。あなたが黒髪の女の子をうちに連れ込んでいるって。」
「バレたか」
俺はいたずらっぽい笑みを浮かべる麻紀に向かって、困ったように頭を掻く。和やかな空気が俺たち二人の間に流れる。
「そんなに遅くならないで帰るよ。」
俺はそう言って麻紀の目をじっと見つめる。麻紀は、「気を付けてね」と言って手を振る。
もうすぐ、君に迷惑をかけなくても済むようになるかもしれない。そしたら、また二人で一からやり直そう。
俺は麻紀に見送られて玄関を出る。外の天気は、明るい未来を暗示しているかのような雲一つない快晴だった。
落とし穴