あの電車の窓は何故開かなかったのか

小さくなっていくあの子の姿を未練がましく引きずって数ヶ月。
窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめながら、握りしめた缶コーヒーを口に運ぶ。ぬるい温度が喉を下っていった。
少し前、夢を追いかけるという名目であの辺鄙な町から抜け出してきた。逃げ出してきたと言った方が正しいのかもしれない。そもそもがあの衝動は本当に「叶えたい夢」のためのものだったのか。本音を言うと、寂れた商店街以外は何もないような地味な場所から、都会に行きたかっただけだった。
だから、あの町を離れる寸前、電車の扉が閉まるほんの数秒前まで、生まれ育った場所に未練なんてこれっぽっちもないはずだった。
後悔が、ひとつ。
胸のつかえが消えないまま、数ヶ月が過ぎた。

あの子と初めて出会ったのは、高校に入ってしばらく経った頃だった。家から一番近い、無人駅で。
珍しくいつもより少しだけ早い電車を待っていると、自分の通う高校の制服を着た女子生徒を見かけた。
なぜか一方的に気まずくなり、暫く辺りをきょろきょろしたり、ポケットに手を突っ込んで下を向いたりしていた。
そっと目線を上げると、同じことを考えていたのか、一瞬目が合ってしまい慌ててそらしたのを覚えている。
後でこっそり目をやると、相手はもうこっちのことは気にもとめていなかったようで、本を読んでいた。
その日以降学校にはいつも遅刻寸前の電車で通っていたため、朝にあの子と会ったのはこれが最初で最後だった。
それから少し経った放課後。
部活を終えて学校前の駅で駄弁っていると、改札からあの子が入ってきた。目的地が特に寂れた駅だから、電車が着く頃には乗客が2人だけになっている事も多く、そのうち一緒に帰るようになった。
テストの点や、先生のくせや、部活のこと、友達のこと。甘いものが好きだ、あれが嫌いだ。よく言う、たわいもない話をしながら、電車が駅に着くまでの時間を過ごした。
学校が早く終わった時には、駅でも話したり、商店街で買った肉まんを一緒に食べたりした。
今思うと、何故この時あの子に恋心を抱いていなかったのか不思議でしょうがない。
これが女友達か、なんて思っていた。
あの子に彼氏が出来た時も、彼氏を不安にさせるから一緒に帰るのはやめようと言われた時も、ただ分かったと頷いただけだった。
それ以来会うことも減って、あっという間に高校最後の冬が来た。
大学に入ってすぐ町を出ると決め、自分は他のやつとひと味違う進路を歩むのだと少しだけ優越感に浸っていた。
そんな時期、人の少ない帰りの電車の中で、あの子を見つけたことが数回あった。髪が伸びて、大人っぽくなっていた印象がある。何だか変わってしまった気がして、一度だけ久しぶり、と言ったきり、たぶんそれほど話をすることは無かった。
大学卒業の日。仲間と別れ、ひとりで電車に乗った。
他に乗客がいなくなると、とてつもなく寂しくて、ただ無機質な電車のタタン、タタンという音が虚しく感じられた。
窓の外を流れていく景色が、まるで走馬灯のように思い出を呼び起こしていった。
不思議と。思い出すのはあの子のことばかりだった。
電車が到着して無人のはずの駅に降り立った後、ベンチにひとりあの子が座っているのに気が付いた。
驚いて声を掛けようと近づいたところで、あの子はあのね、と小さな声で話し始めた。
友達から、この町出て行くって聞いたんだけど、
返答に困って黙っていると急に、いつ、と消えそうな 声で尋ねられた。しばらく呆然としていたがお見送りする、と小さく言われ、慌てて出発日を告げるとあの子は古いベンチから立ち上がり、改札を通って行ってしまった。
もう暗いから送っていこうと後を追って改札を抜けたところで、住所も大学も、あの子について何も知らなかったことに気付き思わず立ち止まった。数秒後我に返って駅から飛び出したが、もうあの子の姿はなかった。
出発の日になって、何事もなく始発の電車に乗り込んだ。朝早いから、家族や仲間に見送りはしなくていいと言ってあった。既に壮大な送別会が開かれ、大量の餞別を受け取っていた。
だから、駅では独りきりだった。
ふとあの子に出発の時間を教えていなかったのを思い出し、来なくても仕方ないと思っていた。
電車がやってきて、適当な位置の座席に座った。

自分の名前が聞こえた気がした。窓の外を見ると駅から少し離れたフェンスの向こう、誰かが走ってくるのが見える。立ち上がって扉へと移動した。
息を切らしながらあの子がホームに入ってきた。すこしの間彼女は膝に手をついて呼吸を整えるようにしたあと、お餞別と言って手に持ったビニール袋を差し出した。
受け取った袋の中にはいつか一緒に食べた肉まんが2つ入っている。
「一緒に食べようと」
思ったんだけど、と彼女は肩で息をしながら言った。
「始発だったなんて思わなくて」
袋からじんわりと暖かさが伝わる。
「もしかしてって思って来てみて、よかった」
何か言いたげな表情をしたあと、彼女は笑った。
「元気、でね!頑張って!」
そう言って、2、3歩扉から遠ざかる。
言い切れない感情が胸に広がった。
あの時間が、気付かなかった思いが、今更浮かび上がってくる。
何で気付かなかった。
云えばよかった。云えばよかった云えばよかった!
口を開きかけたところで、扉が閉まる。
「待って!」
車掌に叫んだが、発車音にかき消されゆっくりと電車が動き出す。
「待って」
彼女の姿が少しずつ遠ざかっていくのが悔しかった。
「待って!!!」
思わず窓を開けようと手をかけた。
固定された透明な板はぴくりともしない。
何も知らないのに。住所も、電話番号もどこに就職するかも何も知らないのに。
「 」
窓の向こうへと思いきり叫んだ。
「 」
遠くなっていく彼女はきょとんとした顔でこちらを見つめている。
窓に開けと念じても、冷たい壁はこの想いを遮るだけだった。
届かないじゃないか。伝わらないじゃないか。
徐々にスピードを上げていく車両。もう駅も見えないほど、彼女との距離は遠くなってしまった。
伝えられない。伝えられなかった。

窓にへばりついて、人が居ないのをいいことに大声で泣いた。

缶を傾ける。すっかり軽くなった筒からはコーヒーが数的落ちてきただけだった。
舌に残った苦味を誤魔化すように伸びをする。ふ、と、前の座席に座った親子が目に入った。
優しそうな母親が窓の下部に手をかける。ゆっくりと窓が開いた。

真新しい空気が流れ込んできた。

辺鄙な街を抜け出した後悔の話

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-05

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