落魄の友

 十九年前の夏のある日、田端で飲んだビールは苦いだけだった。その日、アパートの部屋に男二人と女四人がいた。なぜ四人も女がいるのか、バランスが取れないではないか――と坂下康夫は困惑した。
 最初の話では中谷和弘がここに会社のマドンナと友達を招くことになっていた。友達というのは美人ではないけれど、そこそこの顔立ちをしていて、頭のよさを誇っていた。坂下は遊ぶのに「手頃だな」と期待していた。この四人でイチゴのショートケーキを食べながら雑談した。そのころ何といっても某宗教団体のテロ事件が話題になった。彼らは世界最終戦争を起こそうとしたが失敗した。
「日本が全滅しなくて、よかったわね」マドンナが安堵した表情。
「こんなことでは滅びないわよ」頭のいい女が苦笑した。
「でも、日本は遠からず衰退していくよ」
「それは、言えているわね」
「日本はそんな風になるの、どうやって生きていくのよ」
 普段から寡黙な中谷は黙って聞いていた。どことなく上の空で何かに耐えているような趣があった。もともと、社会問題などに関心の薄い男だ。テーブルの上には、赤いグロリオサが飾ってある。優雅だが大げさで、中谷にはおよそ不似合いだ。その時、バタバタと足音がして、厚化粧の女が二人現れた。坂下は予想外の出来事に唖然とした。訪問者もシナリオにないことなので驚いたことだろう。だが仕事柄場慣れしていて、まあ、お奇麗な方たちね、服装のセンスがいいわ、などと讃辞を惜しまなかった。中谷がこちらの女性は……後からきた女性を池袋のホステスさんだと紹介した――物事はそこから始まった。中谷はそのうちのお気に入りを指して、
「この人は沢山アヤカみたいな美人でしょう」
 持ち上げた。アヤカはアメリカ人の血が混じったハーフの女優である。女達は笑みを浮かべながら白けた。不器量なもう一人のホステスがガラガラした声でこう言った。
「中谷さんは前から、彼女を絶賛しているのよ」
「あなた方、お二人をお目当てに通っているわけね」
 マドンナの顔は皮肉を帯びていた。
「そうみたいね。坂下さんは、こちらかしら」
 頭のいい女が中年の不美人のホステスに手を向けた。いいようのない憤怒を覚えていた坂下は、表情が歪みそうになった。けれども、ここでは無理してでも笑うしかなかった。
 私たちはお邪魔じゃないかしらん、マドンナと友達がわざとらしく、顔を見合わせた。その間、中谷は冷蔵庫から五百ミリと三百五十ミリの缶ビールと、刺身の盛り合わせをテーブルに並べた。やがて乾杯して飲み始めた。女達を捌くのは坂下の役目だが、どんな言葉を発していいのか、戸惑うばかりだった。中谷の奴、何故こんな設定をしたのか、腹立たしくてならなかった。
「中谷さんは本を読んでいるわね」
 不美人が室内に目を向けた。部屋は本棚に囲まれて、しかもベッドがおかれているので、六畳の部屋は窮屈この上もない。六人はノアの方舟にいるような気分で座っていた。
「中谷さんは英文科出身だから英会話もできるのよ」
 マドンナは感心したような面持ち。中谷はマドンナを好いていた。また彼が言うところのアヤカ風のホステスにも強く引かれていた。二十九歳になるので彼女と結婚してもいいと考えている。けれど、年上の子持ちで建築関係の男と付き合っているから、到底無理だろう。美系といっても生活にくたぶれて、やつれており、華が感じられない。彼は美化して沢山アヤカ風に見立てているけれど、一人合点もはなはだしい。
 飲んで食べながら六人は噛み合わず、何かとちぐはぐだった。一時間ほどで散会した。二組の女たちが前後して帰ってから一悶着が起きた。
「どうして、ホステスまで招いたんだ」
 坂下は詰問した。中谷は返事に窮しながら本音を喋った。
「正直言って《沢山アヤカ》を二人に見せたかったんだ」
「その神経がよく分からない」
「きっと、感心したと思うな」
「誰が感心するものか、きみは雰囲気を壊しただけだ」
 完全な演出のミスである。初歩的なドラマツルギーすら心得ていない。愚かなことをしたものだと、坂下は激しく憎んだ。上背があり、顔立ちが整った中谷がひどく醜く見えた。こうなったのも彼の自己顕示欲のせいだ。
「ったく、しようがないなあ」
 坂下は苦虫を噛みつぶしたように言った。その時、救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎた。中谷は立ち上がり、窓を開けた。
「また、事故があったんじゃないかな」
 白々しい。先日も八十三歳の婆さんが衝突して命を落したという話をした。彼は窓辺から離れず、時間を稼いでいる。
「芝居はいい加減にしろよ」
「気分を悪くしたみたいだな」
「胸糞が悪いぜ」
 あーあ、頭のいい女とやり損ねたなあ……坂下は癪に障りながら帰る支度をした。

 二人は秋葉原のデザイン会社に勤めていて、ここではカタログや小冊子やチラシなどを製作していた。坂下は編集や文案を考えたりする仕事だが、中谷は総務課である。坂下は、中谷が森島という社員と親しいのが気に入らなかった。ソリが合わず相応で歪み合っていた。前は自主映画の助監督をやっていたとかで、入社したての頃は「助監」とつづめて言っていた。ジョカン、ジョカンと、耳にする度に女官にしか聞こえなかった。陰気臭い顔つきをしていて、さかんに駄洒落を口にして注目を引こうとした。
 社員の欠員が生じ、募集することになった。中谷が知っている人を紹介したいと申し出たが、主任の坂下は反対した。森島の友人だからである。森島は信用がないので中谷に頼んだ。係長の浦辺は会ってもいいと言う。
「森島の知り合いなんて、碌なのはいませんよ」
「それは憶測だろう」
「いや、間違いないです」
「森島くんだって、そうひどくない」
「えっ! そんな認識なんですか。彼は飲んだくれています。乱れきっています」
「ハハハ、よっぽど嫌っているんだなあ」
 浦辺は何か意図があるのか取り合わず、面接してみようということになった。
 一週間後、社の近くの喫茶店に赴いた。応募者は森島に付き添われて待っていた。二十三歳にしては妙に老成していて、バリヤーを張り巡らしており、あまりいい感じはしなかった。
「どんな本を読んでいますか」
 浦辺が牛山という男に質問した。
「ガルシア・マルケスの本なんかです」
「難解な本だね」と浦辺係長。「理解できますか」
「何となく分かります」
「それで、いいですよ」
 浦辺は感心したが、坂下は首をふった。どことなく気取っていて、シタリ顔をして物を言うからだ。三十分ほどで終わると、森島が牛山を送っていった。社に戻ると係長と話し合いをした。浦辺は牛山を買っていた。思考は独善的なところがあるけど、進行係だから差し支えないし、仕事はできると見ている。坂下はどうしたって賛成できなかった。好かない社員がさらに一人増えて、力関係に影響を及ぼすかもしれない。二対一、いや総務課の中谷を含めると三対一になり、それを老獪な浦辺が意のままに操作しそうである。下手すると孤立しかねない。
「私はやっぱり反対です」
「一応は考慮する。時間をくれよ」
 けれども牛山は採用された。やはり彼らはトリオを結成した。森島は勢いづいたのか、虚勢を張るようになった。目立ちたがり屋だけに突出していた。それでいて独自性はなく、いい加減なことしか言えなかった。中谷は鷹揚なのか、無批判に許容している。坂下は新入りの牛山も鼻についてならず、話し方も顔つきも嫌悪していた。彼が披露した繁華街のスナックで飲んでいる時のエピソードも胡散臭い。隣に座っていた女客がシナダレかかってきたとかで、牛山は「女らしく振る舞え」と注意したと言うのだ。
「男なら対応すべきだ」と誰かが反論した。
「ナンパしろと言うの」
「そうだよ」
「私はみっともないことはしない。そんな遊びは認めないね。男は矜持を貫くべきです」
 その時、坂下は口をはさんだ。
「矜持もクソもあるか。相手の女がもし、やりたいと言うなら、知らない女でも応じるべきだ」
「私は聞く耳を持ちません」
「今は性道徳も変わってきたんだから、行きずりのセックスもよしだ。男女が出会う機会が少ないんだから、仕方ないだろう」
「私はその手法は認めません。それでは日本人はますます劣化するばかりです。我が国は内的に滅びつつあります」
 彼はもっともらしいモラルを主張したが、しかしクオリティーは低く、その存在から下品さが漂っているのは否めなかった。

 秋の慰安旅行の前日で、仕事のピッチをあげていた。夕方近く、始めて見る女性の訪問客があった。彼女は端に座っている牛山に一礼して尋ねた。
「恐れ入りますが、浦辺係長はいらっしゃいますか」
 浦辺は人に会いにいっていて留守である。牛山は客をまともに見ようともせず、坂下にこう伝えた。
「主任、オネイチャンがきましたぜ」
 ドキリとした。気位の高そうな女性は眉間に皺を寄せた。彼は立ち上がり、「おい、失礼じゃないか」客に聞こえるように叱った。それから訪問者は自分の名前を名乗り、島田というコピーライターの代理人で原稿を持参したと告げた。
「遅くなって、申しわけありません」
「いいえ、とんでもありません。間に合いますから大丈夫です」
 坂下のほうが恐縮した。一目見て父親に似ていることが分かる。背がすらりとして、グレーのスカートが映えている。原稿の受け渡しが終わると、彼女はゆっくりと牛山に体を向けた。
「あなた、オネイチャンはないですよ。これでもれっきとした人の妻ですわ。ひどいですよ」
 島田の娘は歯切れのいい口調で抗議したのだった。牛山はどんよりした顔つきで相手を見上げた。
「牛山、謝れよ。無礼じゃないか」
 坂下は黙っていられなかった。だが彼は抵抗するかのように押し黙っている。他の社員たちは思いがけない出来事に好奇心で眺めた。
「お前の言い方はなっていないぞ」
 さらになじった。牛山は依然として沈黙している。
「主任さん、もういいですよ」
 彼女はすぐに気持ちを切り替えた。ドアまで送っていった。牛山は馬のように顔をふって人差し指で鼻の下をこすった。これは具合の悪い時にする彼の醜い癖だ。兄貴格の森島が「頭を冷やしてこいよ」とフォローした。にわかピエロはみんなの視線を浴びながら、しきりに首をふり、鼻を鳴らして、部屋から出ていく。彼がいなくなってから、
「森島が教育してやらないから、あのざまだ」
「今のは魔がさしただけで、普段は違うよ」
「奴の根底には男尊女卑がある。それでいて、スキゾとかパラノとか喋っているけど、バカか」
「アンバランスは認めます」
「お前もなっていない」矛先を森島に向けた。
「急に何ですか。八つ当たりしないでよ」
「きみは自分のことが分かっているのか、落ちこぼれの精神構造なんだぞ。それだけに、いつだって自分が優位に立つことばかり考えている。相手の弱点やアラを探して卑劣な戦法でくらいついてくる。ぐちゃぐちゃ理屈を並べ立てて容易に後にひかない……」
「ちょっと待ってよ」
「黙れ!」
 次々と欠点を並べ立てると、回りから笑いが起こった。賛同の拍手をする者がいた。また、うるさそうな顔をする者もいた。森島は気押されて口をつぐんだ。そこへ総務課の中谷が顔を出した。
「森島くん、元気にしている」
 間が抜けている。
「ああ、俺はこの通り、パワフルだよ」
「そう来なくちゃ嘘だ」
 事情を知らないとはいえ、その鈍感ぶりは比類を見ない。神経質なくせにデリカシーを欠いていて、空気が読めない。森島とのやりとりはウヤムヤになり、本人はどこかにいってしまった。
 翌日は社員旅行で伊香保温泉。宴会の前に同僚の一人と風呂につかりにいくと、浦辺係長がいた。彼は片手で泳ぐ真似をして近づいてきた。牛山のことは島田さんにお詫びしておいたと伝え、まだ若いから見守ってやってほしいと補足した。若いといっても中年のように分別臭い。紹介した森島に至っては問題外である。しかも、係長がこの二人を無批判に受け入れているのが許せなかった。森島は社長の肝いりで入社した社員だから遠慮しているのだろうか。それとも別に狙いがあるのだろう。早く課長のポストに着きたがっているという噂を聞く。それには統括している製作部に不祥事が発生しないようにしなければならない。
「多少のことは寛大になってよ」
「あんなクズ共に我慢しろと言うのですか」
「クズはないよ」
「クズでなければゴミです。場合によっては解雇したほうがいいじゃないですか。社長にも責任がありますが」
 社長は履歴書の森島の写真を見て、これは無骨な顔しているから、仕事はよくやるだろうと判断した。しかし見事にはずれた。格好ばかりに気を使い、タレント並みの派手な服装をして、ネックレスやブレスレットまでして出勤する。無内容な実体を隠蔽しているだけだ。仕事以外では夜遊びに励み、人のボトルを片っ端から飲んで回っている――浦辺はボッとしていて、まるで空想に耽っているような顔つきだ。話を聞いているとは思えない。
「どうなんですか」
「私からも言うけど、あんたも注意してやってよ」
「焼け石に水です」
「そう言わずに……」
 能面のような顔に薄笑いを浮かべた。それから立ち上がると、のぼせたからと岩の上に登った。タオルで隠そうともしない。誇示しているのが見え見えである。一緒の同僚がさっそく、
「立派ですね」
 揶揄した。浦辺ははにかんだように笑った。これで三十八歳の分別盛りである。そこへ何人かの社員がバチャバチャと湯に入ってきた。依然として立ちつくしている。
「ギリシャ彫刻みたいですね」
「ちょっとしたダビデだよ」
「駅前の銅像にしたら、凄いっすよ」
 浦辺は何か言われたからと言って、取り合うこともなく、むしろ楽しんでいる。その時、ライバルの課長候補が嗄れ声で一突きした。
「チビッ子にしては、でかいなあ」
 どっと笑い声が浴場に響いた。上背のない浦辺は体のことを言われるのを極度に嫌っていた。
「何を!」
「ジョークだよ」
 争いになるほどのことはなかった。が、小ダビデは不快そうに黙りこくって、湯船の縁に身を寄せていた。

 暮のある日、日暮里のスナックに飲みにいった。この町は中谷が住んでいて、店は最近オープンしたばかりらしい。若い夫婦がやっていて、初々しいけれど、ディスプレーは如何にも安手だった。二人はカウンターに座ってビールを飲んだ。
「日本はどこを見ても、オタクばかりだねえ」と坂下。
「ああ、逃げ出したいね」坂下は溜息をついた。
「どこに?」
「世界の果てがいいね」
「日本にいい所があるよ。沖縄本島の近くの与那国島と言うんだけど、どうだい。ここはコンビニも銀行も火葬場もないそうだ。時代と隔絶しているんだ」
「そういう土地をぶらぶらするのも悪くないな」
 話していたら、中谷が用を果たしてくるからと、一旦家に戻った。何分かして人が入ってきた。
「あれッ」
 客が一声放った。客ではなくなんと森島だった。坂下は興ざめした。中谷が仕掛けたのだろう。彼は離れた椅子に座ると、酎ハイをオーダーした。二人とも言葉が出てこず、無言でグラスを傾けた。社では隣同士というのに、こんな凍てついた光景はない。中谷の子供じみた悪戯を恨んだ。あらかじめ電話しておいたに違いない。無論坂下の名前を伏せて。さぞかし、この思いつきに悦にいっていることだろう。彼は坂下が森島を心から嫌っていることに気がついていない。薄々知っているが、アイデアを優先させたのか。こんな迷惑はない。
 間もなくして中谷が姿を見せた。彼は二人が離れているのを見ながら、スツールに座った。彼はきょときょと見回しながら言った。
「俺、いけないことをしたのかな」
「中谷くんは人間関係の機微が読めないね」と坂下。
「ニブいんだよな」森島も気分を害している。
「どうも膠着状態になっているようだね。ここを突破するには、どうしたらいいかだね。逆転の発想がほしいね。心を閉じていては思考は動かないよ」
 中谷はいい気なものである。
「何を言っているんだ」森島は言葉を叩きつけた。
「坂下くん、どう思うかね。対話をしよう」と中谷が聞く。
「さあ、どうかな。それは無意味だね。森島くんは知的世界がないから、何を基準にして考えていいのか、よく分からない人だからさ」
「何だと、馬鹿にするのか!」森島がカッとした。
「事実だろうが」
「表に出てもいいよ」
「やるか」
 坂下はビール瓶を手にして外に出ようとした。中谷は二人の間に割って入り、三人で仲よく飲もうとなだめた。表向きはなんとか収まった。坂下は以前にホステスを招いた時のことを思い出し、あれの二の舞じゃないかと非難した。
「しかし、後になって、いいことがあった」
「何だい、いいことって」
「いいことなんだ」
「勿体ぶらないで言えよ」
 森島が急かした。
「じゃあ、打ち明ける」
 中谷はあの中の一人と結婚すると言うのだ。子持ちの『沢山アヤカ』と呼んでいる志保である。信じがたいが、二人は愛し合っているようだ。きっとセックスがしたくて結婚したにちがいない。何しろ彼の欲求は並外れていて、いつも頭の中はエロでいっぱいだ。
「今まで何故隠していたのかね」
 志保を見ていない森島だが、不満そうに口をはさんだ。
「相手は資産でも持っているのかね」
「そんなものはない、俺たちは深い愛で結ばれているんだ」
「俺は血の繋がらないいガキを育てるのはご免だ」
「それは森島くんの考えだ」
 中谷はただならぬ雰囲気の中で、緩和策として話題を提供したのだろう。喧嘩沙汰は取り合えず沈静化した。三ヵ月後に中谷と志保は所帯を持った。式に招かれた坂下はマドンナの橋田美和と結ばれた。さらに連鎖して森島はマドンナの友人の桑野あさみと交際し出した。あさみは手頃ではなく、主体性のあるしっかりした女だった。けれども男を見る目はなく、半年で森島の下から去った。当初からあさみが森島と結婚したのが理解できなかった。離婚した時、二人は諸手をあげて賛成した。坂下夫婦は一子を儲け、杉並区のマンションを買って落ち着いた。

 あれから十九年が過ぎ、四十九歳になった。フリーのライターの仕事をし、美和はスーパーのレジ係として家計を助けている。生活はどうにか成り立っているが、仕事上ではマンネリに陥っていた。いつも現状から抜け出したいと考えている。
「この行き詰まり感は、どうにもならないよ」
 彼は妻にぼやいた。
「限界内で頑張っていけばいいのよ」
「俺って、どこに存在しているのか、分からなくなることがある」
「たまには、仕事以外の人と付き合ったら」
「それもいいね」
「中谷さんなんか、どうしているのかしらん」
「分からないね。もう長い間、ご無沙汰しているから」
「連絡してみたら、いいのに」
「俺も考えているよ」
 中谷と会ったら、何かヒントになるものがあるかもしれない。彼は訳が分からないところがあるけど、いい奴だ。思い切って電話をかけた。昼になる前で、細君の志保が出た。礼儀をわきまえた口ぶりで、すぐに中谷に変わり、お互いに近況を吐露し合った。彼もライター稼業をしていて、息子は社会に出て働いている。真っ先にデザイン会社の同僚の話になった。
「牛山って奴を覚えている? 彼は電車で痴漢をして捕まったよ」
「へえー。笑えるね」
「人間って、こんなもんよ」
「浦辺さんは部長になったと聞いたけど、森島はどうしている?」
「工場に勤めながら、一人暮らしをしている。常に忿懣を抱いていてね。 アジアの一等国だった日本が、いつかは、その他大勢の国に転落しそうだとかね、危機感を感じているようなことをほざくんだ」
「彼でも、そんな心配をするのかね」
「元来、右翼的なんだよ」
 その一方で酒を食らってばかりいる。新宿で酔っぱらいと議論して戦争賛成を唱えて、喧嘩になり、殴られて、顎を骨折した。
「日本は潜在的に戦争を認める国民が沢山出てきたな」
「森島は戦争の話ばかりするな」
「あんたは、どうなの」
「俺は日本が戦争するのは許せない」
「どうだい、たまに飲まないか」
「それもいいね」
 中谷はいくらか言い淀んだものの、オーケーした。中谷の提案した国立市の飲屋に決めた。約束の日は三月十六日である。それから三日後、中谷から電話があった。
「変なことを聞くけど、坂下くんは人を募集している会社を知らないかね」
「急に言われてもなあ」
「俺、探しているんだ」
「心がけておくよ」
 坂下は当てのないまま答えた。中谷は携帯で歩きながらかけているとかで、すぐに切った。話した後、切羽詰まっている感じが心に残った。
 その日、国立駅を降りた。富士見通りを十分以上直進して、付属の音楽高校の前にあった。店の前にある楠が目安だ。開店の六時頃に入り、カウンターに座って日本酒を頼んだ。店内の壁には、いたるところに写真が張りつけてある。個展を開いていて、それは釜ヶ崎を写したものだった。
「どうぞ、ご覧になって下さい」
 マスターに勧められて一巡した。非現実の世界がリアルで新鮮に見えた。生々しくて心にくい込んできた。見終わってからゴーヤチャンプルをつつきながら飲んだ。中谷はなかなか現れない。二十分ほどして彼の自宅に電話をした。コールサインが長々と鳴るばかりだった。間をおいて二度かけたが梨のつぶてだ。急に仕事が入ったのか、それとも何かあったのか。一時間ほどいて店を出た。
 特に失望したわけではない。来られない訳があったに違いない。
 一年後、謝罪の電話をかけてよこした。
「あの時は金欠状態で気持ちに余裕がもてなかった」
 言い訳した。声は明るくはずんでいた。彼はざっくばらんに話した。細君の志保は新宿の熟年専門のキャバクラで働くようになった。中谷は警備員の仕事をして生活費を稼いでいる。
「森島はアルコール依存症で、崩壊寸前にあるよ」坂下が苦笑した。
「ハハハ、彼はそういう運命だね」
「誰か不幸を引き受ける奴がいてもいいよね」
「そういうことかな」
「世の中は楽しいね」
「これから、もっと楽しくなるよ」
 二人は笑い合った。

落魄の友

落魄の友

19年後友達に連絡したら・・・・・?

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-05

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