sweet sorrow
■meet
ファッション雑誌に初めて載ったのは大学四年の時だった。一年の海外留学から帰って、日本での生活に戻って少しした頃だった。街で声をかけられて、写真を撮らせてほしいと言われた。最初は断ったけど、一緒に居た友達が知ってるファッション雑誌だって言うのでOKを出した。街のオシャレな人を集めたスナップコーナーみたいなそのページの六月号だったかな、私の写真が載った。
○○大学四回生、坂口萌恵さん。
名前入りのそれはあっという間に大学内に知れ渡った。その後、何度かそのファッション誌のカメラマンから連絡があり、そのスナップコーナーに写真が載った。別に有名になりたかったわけではない。でもファッションは好きで、それを褒めてもらえるのは素直に嬉しかった。そのせいで、たまたま、ちょっと名前が知れてしまった。知らない人から声をかけられることが増えた。特に男の子からだった。代わりに女友達が減っていった。あのファッション誌のカメラマンに声をかけられた時に一緒に居た友達も、その後自然と離れていった。それでも仲良くしてくれた子もいたけれど、大学の最後の一年は少し孤独だった。知らないうちに、声をかけてくれる男の子にはいい顔をするようになっている自分がいた。彼らさえも離れて行ってしまったら、私は完全に孤独になってしまう。特に、その後付き合った彼にはとても気を使った。好きで一緒に居るのに、あまり安らぎを感じたことはなかった。ただ、好きだと言ってくれるのが、優しく肩を抱いてくれるのが、私は嬉しかったんだ。
「萌恵ちゃん、次は再来週の日曜に、お台場まで来てくれる?」
「わかりました」
お気に入りの私服数枚とメイク用の道具。いろいろ詰まった大きめのトートバッグを肩にかけてスタッフと別れる。撮影は楽しいけれど、帰り道、なんだかいつも寂しい気持ちになる。
実はその後、その雑誌の読者モデルになった。大学を卒業してからの話だ。就活もしたけれど、企業に入りたいと思わなかった。父は、自分の経営する会社への就職を勧めた。だけど、それは避けたかった。最終的に父の仕事を手伝うことになるとしたらそれはイヤではないけれど、それまでに自分で仕事を見つけて働きたかった。だけどやりたいことがあるわけでもない。自然と、私はファッションの仕事に傾き始めていた。正社員登用に向けての、あるアパレルメーカーのショップ店員としてアルバイトを始めた。読者モデルもそのまま続けていた。どちらの仕事も、どちらへものプラスになると思って。
読者モデルの仕事は正直お金にはならない。撮影場所までの交通費も出ないしモデルとしてのお金が出ることもない。少しの謝礼だけ。なので生活のやりくりはすべてショップ店員としてのバイト代だけだった。両親からの援助は受けず、ただ以前家族で住んでいた、今は空き家にやっているマンションに独り暮らしをさせてもらった。住まいはとてもいいところだけど、実際の生活はいつも苦しくて。その頃付き合っていた彼にはよく食事をご馳走してもらっていた。優しい人で、いつもそばに居てほしいって言ってくれた。
だけど知ってしまったんだ。彼は私を好きなわけではなくて、モデルをしているから。ちょっと自慢できるから。優しくすると、なんでも言うことを聞く。使い勝手のいい女だって思っていたんだ。
彼の部屋で、ひとしきり抱き合った後で。ベッドで眠っている私を置いて、彼は玄関の外で電話でそんな話をしていた。相手は誰だか知らないけれど、友達なのか、別の、誰か他の女の人なのか。たまたま目が覚めて居ない彼の姿を探した自分を責めた。目が覚めなければよかった。知りたくなかった。もう三年も、知らずに付き合っていたのに。知れたほうがよかったのかもしれないけれど、ずっと夢を見させて欲しかった。大好きだったのに。
次に誰かを好きになる時には、もっと素直に生きよう。我儘言えるような、そんな恋をしよう。そう思った。
二十四歳の時のこと。大学生の頃から好きで行っていた北欧雑貨のお店があって、そこで買い物をした時にレジのカウンターに置いてあったクーポンが目に入った。
[nuovo]
大きく、可愛い飾り枠のデザインに名前のロゴが描かれたクーポン。何気に手に取って裏を見ると、カットやカラーの料金が書いてあった。ヘアサロンかあ。いつも行ってるお店あるしなあ。そう思ってそのクーポンを元の位置に置こうとした。
「あ、それうちの二階にオープンしたの。旦那がやってるんだ、よかったらよろしく」
その日私が買った陶器で出来たフォトフレームを、丁寧に梱包してくれていた雑貨店のオーナーがそう声をかけた。
「旦那さん、美容師なんですか?」
「そうなの。今まで別の店で働いてたんだけど、ついに自分の店をオープンさせることになって。まだ固定客なんて全然付いてないから、いつでも予約取れるよ」
「へえ」
一度戻したそのクーポンを、私はもう一度手に取った。
雑貨店を出て、何気に二階に目をやる。ゆったりとした螺旋階段がある。こんなところに階段があったんだ?それくらい、あまり気にも付かない。ある意味とてもシンプルなデザインだった。ゆっくりとその階段を上がっていくと、少し広いスペースがある。[nuovo]と書かれた看板と、その横にある小さな椅子のようなデザインの台に[Open]と書かれたボード。奥には小さなテーブルとベンチがあった。ドアの大きなガラスの部分から中を覗くと男性が二人居た。誰も客は居ないみたいで、帰ろうかと思ったら男性の一人と目があった。会釈されて、思わず会釈しかえす。私はその後自然と、ドアを開けていた。
店はそれほど広くない。入るとすぐ左手にソファがあって。右手に受付カウンター。そこから右奥手に広くスペースがあって、大きな鏡とチェアがある。店内は見慣れた雰囲気だった。
あ、下の雑貨店だ。そっか、オーナーの旦那さまって言ってた。
行き慣れたその、一階にある北欧雑貨店で扱っている雑貨があちこちに飾られていた。その空間は自然と笑顔にさせる。好きで通ってるお店の、その雑貨が置いてあるんだもん。普段なかなか買えずに自宅に持ち帰れない、だけど欲しいと思う雑貨がヘアサロンのその空間にはあった。自宅のメイクスペースを少し広くしたみたいな可愛い店内。オシャレなんだけど懐かしい雰囲気。
「どうぞ、今日はどうなさいますか?」
声をかけてくれたのは三十歳前後くらいの男性で。すぐに雑貨店オーナーの旦那さまだとわかった。オーナーと同じ鳥のデザインのネックレスをしていたからだ。背が高くて、笑顔が優しい。
「えっと。下でクーポンを貰って」
さっき手にしたばかりのクーポンを見せた。
「あ、ありがとうございます、それで来てくれたんだ?」
入ったはいいけれど、ヘアスタイルを変える予定もなく。なんとなく目をやったカウンター横の本棚にある雑誌を指さした。数冊、表紙が見えるように置かれていて、人気の女優がそこには写っていた。
「あんな風にしたいんですけど、似合いますかね?」
カウンターの内側に居たもう一人の男性スタッフが、私の指さした先の雑誌を手にした。
「こちらですか?」
「はい」
スタッフはその雑誌をオーナーの旦那さまに渡した。
「ああ、いいじゃない。人気だよね、このヘアスタイル。似合うと思いますよ」
「あ、でも・・・」
「はい?」
「私、読者モデルをしていて、あまり髪を切れないんです。その、肩までだと短すぎるって怒られるかもしれないので、もう少し長めで」
「ああ、じゃあこの女優さんのスタイルのままで長めにカットしてみましょうか?」
「いいですか?」
「もちろん、大丈夫ですよ」
久しぶりにちょっとワクワクしていた。いつも同じヘアサロンで髪の長さをキープしてもらっているだけだったから。ヘアスタイルはたまたま目にした女優さんの、にはなってしまうけど、たまには違うものも新鮮でいいよね。
ひとり勝手に照れくさくなりながら「じゃあ、お願いします」と返事をした。カウンターの中に居たスタッフが傍に寄って、笑顔で覗きこんだ。
「ではお荷物お預かりします。先に髪を流しますのでご案内しますね」
こちらのスタッフは自分に近しい年齢っぽくて、まだ学生みたいな面持だった。今まで通ってたヘアサロンは女性スタッフばかりだったので、これもまた新鮮だった。
ヘアサロンの店長はそれは面白い人で。ひとしきり喋っていた。そんな会話を聞いてもうひとりのスタッフが後ろのほうでクスクス笑ってる。そしたら店長が「そんな笑うか?」なんてツッコんで。「喋ってないでハサミ動かしてください」なんてスタッフがツッコみ返す。「うるさいよおまえ、店長俺だぞ?」ってまた返す。でもちゃんと、そうやって楽しませてくれながら気づいたらヘアスタイルができていた。
「どうでしょう?ちょっと長めで」
「はい、これなら大丈夫」
「ちなみに、読者モデルなんですよね?何の雑誌に載ってるの?」
「"sure cute"です」
「へえ。今度からうちにも置こうかな。柊羽、メモしといて、次の時注文するから」
「はい、わかりました」
ふーん。あのスタッフさんは柊羽って言うんだ。店長のほうは桜木さん、だった。帰りに会員カードを貰って、担当のところに名前が書いてあった。
その後、今までのヘアサロンをやめて、私は[nuovo]に通うようになった。二~三か月に一回、髪をセットしてもらって、それから下の雑貨店で買い物をして帰る。それがちょっとした楽しみだった。
それは、さっき話した、ただモデルと付き合いたかっただけの彼氏と別れて一ヶ月ほどした日のことだった。二十五歳の時。ここからが私の話したい、彼との話。大切な思い出の話。
そろそろ髪を切らなきゃ。痛んで伸びてきた髪が、自分みたいと思った。忙しい日々と、彼氏と別れたこととが重なって、すっかり毎日が楽しくなくなっていた。ショップ店員の仕事も、バイトから社員昇級の試験を受けたところで。読モの仕事も相変わらず朝早くから夜遅くまで、待ち時間も長いし移動はすべて個人で、だし。疲れに疲れていた。おまけにファッション誌の担当の人にしつこくパーティーに誘われていた。あまり好きじゃない男性なんだけど、断るといつ読モの仕事から外されるかもわからない。朝から大きくため息が出た。とりあえず、予約入れてみよう。急には無理かな。そう思いながら[nuovo]に電話を入れた。カットだけならなんとか対応してくれるとのことで、私はその日の午後に予約を入れた。
四ヶ月は来てなかったかもしれない。ということは雑貨店のほうにも足を運べてない。買わなくても、買えなくても、見て帰るだけでも楽しいのに。そういうのができてないのもストレスになってるのかな。疲れ切ってるみたいな自分が悲しかった。
[nuovo]に付くと、すでに一人、店長が髪のセットをしていた。入り口で待っていると奥からもう一人のスタッフが出てきた。そのスタッフから目が、離せなかったんだ。
間違いなくそれは、店長といつも一緒に居るあの柊羽くんで。地味で真面目な印象だった彼が、金髪ヘアになっていた。少し伸びた前髪は目元にかかっていて。その隙間から見える瞳が印象を増していた。
「すみません、お待たせしました。お荷物お預かりします」
「あ、はい」
私はずっと、彼を目で追っていた。自然と、店長に指示されて動き回る彼を、目で追っていた。どうして急に変わったんだろう、この人は。前から素敵な印象はあったけど、どうして急に、こんなに視線が外せないくらい・・・あ、きれい。そう思った。
「どうぞ、奥で先に髪を流しますね」
いつもと変わらない対応なのに、ドキドキした。
「では、倒しますね」
シャンプーチェアに腰かけた私に声をかけると、彼はゆっくりとチェアを倒していく。そんな私をじっと見つめている。正直、見ないでほしかった。照れくさかった。チェアを倒し切ると、シャンプー台との位置を調整するのに私の首元に手をやった。そしてにっこりと笑いかけると、私の表情を隠すかのようにそっとタオルを顔に乗せた。髪に触れられているその動きはいつもと一緒で。だけどシャワーの音と、溜められた水の中で髪を濯ぐちゃぽんって音とが優しかった。この人の手は、こんなにいつも優しかったっけ。
そんなことを思っていたらタオルが顔から避けられた。あ、終わったんだ。視線が自然に半袖のシャツを着ている彼の腕にいって。白くて細いのに男性らしい腕をしていてドキンとした。どうしてこんなにドキドキするんだろう。チェアに寝たままの私の髪をタオルで優しく拭いてくれるたび、動く彼の腕の間から金色の髪が見える。時々うっとおしそうにその前髪を頭を振って避けるようにする。その仕草が、子供っぽくて。そのギャップに少し笑えたりした。
その後店長に髪をカットしてもらっている間も、彼のことが気になって仕方がなかった。店長の会話はあまり頭に入ってこなかった。相槌を打ちながら、電話を受けたり、次に来たお客さんの準備をしている彼のことが気になった。
好きなんだ。
そう思ったのは、次のお客さんに笑いかけて話している時で。嫉妬に近い感情だった気がする。次は私に笑いかけてほしいって思った。自分から誰かを誘ったことなんてないけれど、どうしても彼と話をしてみたかった。ここ、お店じゃなくて、別の場所で逢いたかった。
帰り際、預けていたバッグを受け取ると、彼がレジで精算をしている間にこっそり持っていたメモに携帯番号を書いた。そして店を出る時に彼に渡そうと思った。いつもドアを開けて、店を出るまで見送ってくれるのを知っていたから。店の外に出たタイミングで渡そうと思った。
「今夜、あいてる?」
「え?」
「デート、の誘いなんだけど。早く終われる?」
「ああ・・・。いやあの。俺はそういうのは」
「付き合ってる子が、いるんだ?一途なんだね、残念」
照れくさいくせに。ドキドキしているくせに。大人ぶったふりをして精一杯そう返した。そりゃ、彼女の一人くらい、いるよねきっと。そう思っていたら答えは違った。
「いや、いないですけど」
「だったら、ご飯だけでも」
どうしてだろう。必死だった。ガツガツしてるみたいで恥ずかしいんだけど。どうしても彼と一緒に居たいって思ったの。
携帯番号を書いた紙には、この後読モをやってるファッション誌のスタッフでやるパーティーの場所も書いておいた。そこに来てほしいと誘うとやっぱりあまり乗り気ではない感じで。見た目は印象がすごく変わったのに、彼は初めて見た時と変わらず真面目なままだった。だけどそれが、とても魅力的だった。
次に恋をする時は、もう我慢はしたくないの。想いに素直でいたいの。
そんな気持ちが後押ししてしまったせいかもしれない。店ではない別の場所で逢いたいと我儘を言った。困ったようにメモは受け取ってくれたけど、来てくれる保証はない。だけど期待を込めて私は帰りがけ、彼に伝えた。
「好きになっちゃったかも、しれない」
と。
■know
実はあの日、彼は仕事終わりに電話をくれた。今から行くよって。嘘みたいだった。全然楽しくなかったファッション誌のスタッフが主催したパーティーを、途中で抜ける準備をしながら楽しみで仕方がなかった。パーティー会場になっているフレンチのお店の、ガラス張りの大きなドア越しにずっと外を見ていた。電話で自転車だと言った彼は、言葉の通り、店の前に来るとゆっくりと店の方を見て、自転車を店の脇に止めた。
「あの、私そろそろ失礼します」
「え?萌恵ちゃんもう帰るの?」
「すみません、明日も仕出しで朝早く出勤なんです」
スタッフには嘘をついた。明日は、私は仕事が休み。それよりも、外に見える彼が気になって、慌てて店のドアを開けた。
彼とはそこからすぐの居酒屋に行った。あまり気取ってない、けど、ちょっと落ち着いた居酒屋。その日はグループ客が多くて少し賑やかだったけど。くん付けで呼ばれるのが好きじゃないと言うので、私は彼を柊羽と呼び、同じように彼も私を萌恵って呼ぶ。初めて二人で逢って、初めてそうやって呼び合った。歳は私より一つ下で、敬語はやめようって言ったら、ちょっと考えて小さく頷いた。
私が好きになったかもしれないと言ったことを、ひどく気にしていて。そういうのはやめようと言われて、悪いことをしたみたいな気分だった。だけどそれ以上自分を責めずに済んだのは、彼のおかげかもしれない。
お店で会う時と変わらないくらい真面目で。
「お互いよく知らないのに言うことじゃないかなって」
そう言ってよく冷えたビールをグッと飲んだ。
たしかに、私は柊羽のことを知らない。じゃあ、知れば知るほど、好きになってもいいってことなんだよね?そうやってお互いを知るために、わざと友達でいようとしてくれているように感じるのは、彼があまりにもナチュラルだったから。
かしこまったり、カッコつけたりしない。まるで前からよく知る友人のように、目の前にいる私との距離を作ってくれる。
「何食う?」
テーブルの端に立てかけてあったメニューを、文字がこちらを向くように見せ、自分はそれを覗き込む。
「萌恵の好きなのでいいよ、たださ、貝類と椎茸は俺、無理」
「そうなの?じゃあ・・・」
なんとなく、これは?って聞きながら顔を見ると頷いたりして返事してくれるので、それを注文した。前からなんとなくそうかと思っていたけど、やはり彼は左利きで、器用にサラダを割り箸でつまんで食べた。当たり前なんだろうけど、自分の周りに左利きが居ないので不思議だった。印象だけで言うと、人見知りするタイプなのかなと思っていたのに、意外にも彼から話をフッてくれる。
「普段は、服、売ってんでしょ?」
「うん、そう」
「カリスマ店員、とかみたいな感じ?」
「そんなじゃないよ、でも、雑誌見て来てくれる人は多いかも」
「そうなんだ?やっぱ影響力あんだな、あぁいうのって」
ちょっと口を尖らせ気味に話す、お店に居る時と違うと感じたのが唯一これで。仕事用の口調じゃないってのがわかるから、自然とこちらもどんどん話ができる。気が付いたら、お互い仕事の話で盛り上がっていた。
新しい料理を店員が運んでくると、ちょっと待ってと声をかけ、まだ食べかけの残った料理を慌てて私と自分の取り皿に取り分けると空いた皿を店員に渡す。なので常にテーブルには料理が散乱しない。追加のお酒だって、私と同じタイミングに合わせて飲むと、一緒に注文する。まるで店員に気を使ってでもいるかのように、無駄な動きをさせないのだ。一度に全て済むように。
「その、社員昇級の試験結果ってのは、いつ頃出んの?」
「たぶん、来週くらい?」
「へえ、そしたら雑誌の方はどうすんの?」
「うん、悩んでるんだよね」
「そっか、ジャンルでまとめると似かよってるけど、まったく違う職種だもんな」
自分で言って自分に納得するように頷くと、新しく注文したレモンサワーをグッと飲んだ。少し顔が赤くなってきていて、少し眠そうで。徐に手拭きを取ると、グラスの底とテーブルに残った水滴を軽く拭き取って、それからグラスを置いた。どうやらこれは、癖らしい。一緒に飲んでいる間、何度も見た光景だった。
結局、彼とは二時間ほど、仕事の話を中心に他愛もない話をして、最寄り駅で別れた。送るよと言ってくれたけれど、断った。もちろん、彼は自転車だったし、私よりも酔っていた感じだったし。そして、やっぱり、この二時間で、もっと好きになってしまったから。まだ一緒に居て、これ以上平常を装う自信がなかったんだ。
■job
家に居ると、柊羽のことを思い出す。
仕事に行って、客に服を売って、街を歩いて、友達と話して、できるだけ考えないように時間をつぶすのだけれど、どうしても独りで住むこの家に居る時だけは、柊羽のことを思い出す。どうしてだかそれが耐えられなくて、バイト先へは早くに行って仕出しをしたりした。仕事の依頼もないのに編集社に寄って帰ったり。そんなある日、編集社のスタッフの一人に呼び止められた。
「萌恵ちゃん、いいところにいた」
「あ、伊田さん、こんにちは」
「あのさ、萌恵ちゃん、本格的に事務所に入る気ない?」
「事務所?」
「そうそう、芸能事務所」
「え?どうしてですか?」
「ちょっと知り合いが萌恵ちゃんをイイなって言っててさ、今時間大丈夫だったら、外で話しない?」
よく、わからなかったけど、とりあえず話を聞こうと編集社の近くにあるカフェに行くことになった。四人掛けのテーブルの向かい合わせに座ると、伊田さんはスマホを取り出してある事務所のホームページを開いた。
「ここ、聞いたことない?」
それは、素人でも聞いたことある名前の芸能事務所で、有名な女優さんやタレントの顔写真がずらっと並んでいた。
「ここの片桐ってやつが俺と同級生でさ、うちの雑誌の読モの中から萌恵ちゃんがイイって気に入ったらしいんだよ」
「ほんとですか?」
「嘘ついてどうすんのさ」
「でも、私芸能事務所とかそういうの、よくわからないし何もできないから」
「別に普通でいいんだよ、仕事来たらその時うまく対応すればいいんだから」
二人分、運ばれてきたコーヒーの一つに砂糖を入れると、ティースプーンでかき混ぜながら伊田さんはニコニコ笑う。実はこの笑顔が、苦手なんだ。
「萌恵ちゃんラッキーだよ?ここの事務所に入りたいって子は山ほどいるからさ。俺が片桐と友達でよかったよね」
「まあ、たしかに有名ですよね、ここの事務所」
伊田さんが見せてくれていたホームページにもう一度目をやってスマホを覗こうとしたら、伊田さんはすっと席を立って、私の隣の席に腰かけた。体をそっと寄せてくる。近い・・・。
「俺さ、前から萌恵ちゃんのこといいなって思ってたんだよ、応援したいんだよね」
「はあ・・・」
「ぜったい売れると思うんだよ、片桐もそう言ってるしさ」
「いやぁ、そんなことないと思うんですけど」
「そんなことあるよ、萌恵ちゃんは笑顔がいいからさ」
そう言うと今度は私の肩に手を回して抱き寄せるようにする。
「伊田さん?ちょっと、離してください」
「ねえ?どう?」
「あの、ほんとなんですか?この話」
なんとなく伊田さんから離れようとするけれど、肩に乗せた伊田さんの手のチカラはけっこう強くて動けなかった。
「そうだよ?」
「ちょっと、考えます」
コーヒーは、飲まなかった。飲む気にもなれなかった。事務所の話とかより、伊田さんが怖かった。確かに前から、気に入って下さってる感じはあって。何かと仕事を入れてくれるのには感謝していた。だけど、どうしても信用できなくて、大きく頭を下げると急いでその店を飛び出した。
柊羽のこと忘れたくて編集社に来てたのに、余計思い出すなんて。駅まで早足で歩きながらスマホを取り出すと、あの日登録した番号に電話をかけた。あれ以来、眺めては画面を消してばかりだった彼の名前。呼び出し音が聞こえる。何度も何度も呼んでる。スマホを耳に当てながら、歩いてふと気付く。
「仕事・・・中じゃん、たぶん今って」
泣きそうになりながら電話を切った。
一度電話をかけてしまうと、こうも簡単に電話ってかけられるもんなんだ。まだ一度も繋がってはいないけれど、何度か電話をかけ直した。だけど日付が変わる頃ぐらいになっても、彼は電話に出てくれなかった。かといって折り返してかかってくることもなく、その日は終わった。
次の日はショップでのバイトをしていても、いつもならそれに集中できるのに、余計に彼のことが気になってしまっていた。どうして電話出てくれないんだろう。何かあったのか、それとも無視されているのか。最初は声が聞きたいと単純に思った。伊田さんの話もよくわからない。本当なのか嘘なのか、騙されてるだけなのか。あんな風に肩を抱き寄せられたりしたら、信用なんてできない。どうしたらいいんだろう。ただ、気になったのは、片桐さんという人だった。本当にあの事務所に居るんだろうか。本当に、私を知ってくれているんだろうか。
同じ店員の仲間に、どうしても連絡を取らないといけない用を思い出したと声をかけて、店の奥の部屋でスマホを取り出した。昨日見せられた事務所の、ホームページにかかれた電話番号にかけてみることにした。まず本当にそんな人物が本当にいるのかどうか、事務所の人の対応でわかる。
「あ、もしもし」
事務所の電話はすぐに繋がった。
「私、坂口萌恵と言います。片桐さん、いらっしゃいますか?」
「片桐、ですか?」
「はい」
「少々お待ちください」
え。いるの?片桐さん。
保留音が少しの間聞こえて、ガチャガチャと音がして電話がまた繋がる。
「はい、片桐ですが」
「あ、坂口、萌恵といいます。昨日伊田さんからご紹介を受けて」
「あー、え?伊田だよね?萌恵さんって"sure cute"の読者モデルの?」
「はい」
「私、片桐です。はじめまして。伊田、話してくれたんだ?」
「なんか、事務所にどうの、って、簡単にですけど」
「あいつと少し前にたまたま会ってね、雑誌の担当やってるっていうからどんな雑誌か見てやろうと思ったら、読者モデルけっこう載ってるファッション誌だよね、あれ」
「そう、ですね」
「何人かイイなと思って見てたんだけど、あなたが一番気になって」
「本当ですか?」
「あ、疑ってる?そりゃそうだ、伊田のやつ嘘くさいから」
「え?別に、そういうわけじゃないんですけど」
「もし、興味があるようだったら、一度事務所に来てもらえませんか?きちんとお話させていただきます」
会ってみると、片桐さんという人は、読モを自分のガールフレンドでもあるかのように気軽に扱う伊田さんと違って、何処かの企業の役職を持った上司、みたいな、きちんとした印象の人だった。事務所の中にある八人ほど座れる会議室みたいなところで、お茶を運んでくれた女性のかたも一緒に、三人で話をした。
「読者モデルってことだけど、モデルに興味がある、のかな?」
「そういうわけではないです、ただ、服が好きで、今もショップで店員をしてます」
「そう。見た感じそれほど背は高くないし、私が勝手に思い描いていたあなたの仕事のビジョンなんですけどね?」
「はい」
「簡単に言うと、タレントという感じなんだけど、どちらかというと知性を売りにできればなと思って」
「知性、ですか?」
「有名な大学出られてるでしょ?海外留学も経験されてる。それに、お父様がIT関連の会社の社長をされてるよね?」
「え?どうしてご存知なんですか?」
「ごめんね、伊田に、あなたが読者モデルとして登録されたときに渡した履歴書を見せてもらいました。お住まいも高級マンションだし、もしかして?と思って聞き覚えのあったある会社のサイトを見させてもらいました。そしたら社長が写真付きで載っていて、名前も坂口、だった」
「そうですか」
「こういう仕事をしていると直接関係のない一般企業でも、伸びてる会社ってのはチェックしてたりするんです。企業CMやパンフレットなんかの制作とか企業イメージにどうですか?って売り込みに行くこともあるから。それでたまたま、なんだけど、調べたみたいな感じになって申し訳ない」
「いえ」
「それでね、話を戻すけど。最近は若いタレントがコメンテーターを務めたり、そこそこ顔が売れてきたら番組の司会やドキュメンタリーで世界を紹介したりとかナレーションを担当したりって仕事もできると思うんだ。それにはやっぱり、知的な印象のある新しい女性がうちの事務所にも必要だなって思ってたとこなんだ」
「でも、私それほど頭良くもないです、顔だって何処にでもある顔だし」
「だけど、今現在で、元読者モデルというサポートは付いてるよ、あなたには」
「どういう意味ですか?」
「例えば何かのオーディションで何万人の中の一人に選ばれたとか、そういうのあると印象に残るよね?」
「はい」
「あなたの場合は、まず人気読者モデルだったという経歴がある。アルバイトもしてるんだっけ?渋谷のショップで」
「はい」
「そういうのも、後押ししてくれる。よく買いに来てた常連客とかね、けっこう口コミ付くもんなんだよ」
「そんな簡単なもんなんですか?」
「意外とね、何もなく事務所に入るよりは、強いよ。上手く人気が出ればドラマやCM出演の依頼もあるかもしれない。そして元読者モデルだからね、ファッション誌の依頼は来るだろうね」
「そんなにうまくいくもんでしょうか?」
「あなたの、やりたいって気持ち次第かな」
「やりたい・・・ですか」
「なんだかんだいってやっぱり芸能界という場所は特殊だから、今までの、ちょっと顔が知れてる程度では済まされない。いろんな場面で知らない人がみんな自分のことを知っているという状況も生まれてくる。というより、そうならなくては売れてると言えない。だからね、しっかりと考えて結論出してほしいとは思うけど、ただ、自信持って言えるのは、あなたはきっと人気が出ると思うよ」
「どうしてですか?」
「ちょっと、守ってあげたくなる表情してるんだよ、どの写真見ても。実際に今日お逢いしてみても思った。ファンは、間違いなく付くよ」
そんなの、簡単に信じられない。そりゃ、伊田さんに比べればきちんと話をしてくださって、片桐さんという人は信用できそうだった。事務所だって、本当にあの、有名な事務所で。帰りの電車の中で、貰った名刺をまた取り出して見てみる。本当にあの事務所なんだよね?これって、スカウト、なんだよね?
誰かに相談しようにも、家には誰もいない。両親に話すのはまだやめておこうと思った。バイトの仲間にはちょっと、違う意味で盛り上がられそうで嫌だった。読モ仲間には、ちょっと言いづらい。そしてやっぱり、気づいたらスマホの画面に彼の名前を出していた。
ただ、その日もやっぱり、電話には出てくれなかった。ただ呼び出し音が鳴るだけだった。
「お店、行ってみようかな」
彼との繋がりはお店しかない。何処に住んでるかなんて知らないし、メアドも交換してない。バイトが遅番の日、私は早めに家を出て[nuovo]に向かった。ただ、サロンのある二階に上がっていく勇気はなく、私は一階の雑貨店に入った。
「いらっしゃいませ」
オーナーが笑顔で声をかけてくれる。だけど、それだけ。いつもオーナーは、それ以上声をかけてこない。自由にゆっくり見れるのがこのお店の嬉しいところ。可愛らしい色合いの雑貨がテーブルや棚にたくさんレイアウトされている。
「あ・・・」
目に入ったものがあった。あの日、居酒屋で、自転車を停めて彼がワイヤーロックの鍵を持って店に入った。前はダイヤル式のロックにしてたらしいのだけれど、時間のない時に手間なので鍵式に最近変えたと言っていた。その鍵についていた、スウェーデン国旗デザインのダーラナホースのキーリング。同じものがそこにあった。思わず手に取った。
ここで買ったのかな。
迷う間もなく、それをレジに持って行った。彼の使っているものと同じものを、持っていたいと思った。例え彼が知らなくても、こっそりと、お揃いのものを大事にしたいと思った。懐かしい。学生の頃の、片思いの頃を思い出した。オーナーが小さな紙袋に包装してくれる。それを見ながらなんだか嬉しかった。
店を出て、結局二階には上がれないまま、店を去ろうとした。その時に見えたんだ。店の横の路地のところに停めた自転車。
「柊羽のだ」
あの日彼が乗っていた、きれいなエメラルドグリーンの自転車。スポーツタイプみたいなデザインで、よくパーツで売っているのを組み立てて乗る、みたいな高そうなやつ。
「ありがとうございました、お気をつけて」
え?声がしたのは二階からで。柊羽の声だ。二階から女性が一人階段を降りてくる。さりげなく私は、隣の店の軒下に移動した。二階の入り口のあたりだけ少し見える。二階から降りてきた女性は三歳ぐらいの女の子を抱きかかえていて、そしたらまた声がした。
「ばいばい」
二階のその場所に見えたのは柊羽だった。白い格子の桟の上に体を乗り出して、女性客の抱いた女の子に向かって手を振っていた。その子供に向けた笑顔はまた違う表情をしていて、優しくて泣きそうになる。
「柊羽!ゆっくりしてんなよ、忙しいんだから」
「はい、すみません」
店長と柊羽の声が聞こえたかと思うと、店のドアが閉まる音がした。
元気そうだった。忙しいんだ、お店。それで、電話出てくれないのかな。嫌われたわけじゃないって、思っていいかな。相談してみたいことあったけど、それはやめよう。彼も忙しそうだった。自分のことは、自分で決めなきゃね。
買ったばかりのキーホルダーの入った紙袋をバッグにしまうと、私はバイト先に向かうことにした。もう一度だけ、もう柊羽の見えない二階の店先に目をやってから。
■progress
そのあと少しして、私は読者モデルをやめた。それは、自宅に届いていたある封筒のせいだった。
[社員昇級試験合格通知]
思ってもみなかった。まさか合格するなんて。でもいつまでもバイトでばかりもいられない。もう二十五になっちゃったし。遅すぎるくらいの社員昇級なんだから。今まで試験を受けなかった自分が悪いんだ。せっかくのチャンスだから、きちんとショップの社員店員で仕事をしようと思った。
だけど、強い意志で決めたつもりのそれも、一気に揺らいでしまった。
「勤務先は、福岡になります」
「福岡、ですか?東京じゃないんですか?」
「今まで働いてもらっていた店舗では勉強にならないので、別の店舗から頑張ってもらうことになります」
「でも、せめて関東の店舗は無理なんですか?」
「そういうのは、あまり聞くことはできません。バイトは仕方ないけど、社員となると、全国どの店舗に勤めてもらうかは本社で決めるので」
担当の社員からの電話で、一気に泣きそうになった。勤務先なんて、何処になるかわからない世界なのはわかっていたのに。ソファに深く腰掛けて、通話終了の文字が出たスマートフォンを手にしたまま、鼓動が早くなる自分を感じていた。お昼前の、明るい陽射しが差し込むその先で、きらっと光った。目に入るそれは、一層私の鼓動を早くする。そうか、そうなんだ。
あの、柊羽とお揃いで持っていたかったキーホルダーのダーラナホースが、サイドボードの上でこちらを見ている。手にしたままのスマートフォンをONにすると、そこに必死で彼の名前を探した。通話ボタンを押して、耳に当てる。呼び出し音が聞こえるのに、それは一向に途切れない。
出て。お願い。柊羽・・・。
心で願うけれど、呼び出し音が鳴り続けるだけで、この日も叶わなかった。柊羽に逢えないまま、福岡なんて行けないよ。逢いたいんだもん。だって、好きなんだもん。
だったら、あの事務所に登録してみようか。芸能事務所。それなら、東京に居られる。私は、そのまま続けて事務所に電話をかけた。片桐さんはその時留守で、出先から折り返して電話をくれた。私の返事に喜んでくれて、契約手続きの説明を簡単にしてくれた。あまり内容は覚えてはいなかったけど、明日手続きができればと言ってくれたので、時間をメモして電話を切った。一日で、こんなに勝手に将来を決めていいのかと、いつもの私なら思ったはずなのに。この時に迷いも不安もなかった。ただ、いつでも柊羽の顔を見に行ける場所に私は存在していたかったんだ。
それから半月ほどして、私は[nuovo]に予約を入れた。事務所に入ってから、いきなり何度かテレビにも出た。店長がそれを見ていてくれたようで、予約を入れた時に電話でそんな話をしてくれた。嬉しくて。もしかしたら柊羽も見てくれたかもしれない、なんて思ったりして。[nuovo]に行く日が楽しみだった。
[nuovo]に予約したその日、店に行ってみると店長は不在で。柊羽一人だった。
「なんだよ、俺じゃ不満?」
「そうじゃないけど」
久しぶりに逢う柊羽は変わらず普通だった。私はこんなに緊張してるのに。てっきり、店長がいると思っていたから。なのに、この店に二人きりなんて。スタイリングチェアに座ると柊羽は私の髪を手に取った。
「痛んでるね」
その優しい手の動きが、ドキドキさせるんだ。その日は痛んだ毛先を切りそろえてもらって、今まで長かった前髪を短くカットしてもらった。そう言えば、今までお客さんの髪をカットしているところ、見たことなかったのに。いつの間にか、柊羽もそういうことするようになったんだ。
そう思っていたら、鏡越しに私の顔を見て柊羽が言った。
「やっぱり似合う。可愛い」
え。何?今のは。
じっと鏡越しに私を見つめたまま、時々、切ってもらったばかりの前髪に触れたりする。ちょっと、待ってよ。可愛いとかそうやって髪に触れるのとか、今日はそういうの想定してなかったから。実は髪を洗ってもらう時に、シャンプー台での柊羽との距離に戸惑って少し泣き出してしまって。ただでさえ、ドキドキして、迷惑かけて、困らせて、それでも平静装ってここに座ってるのに。自分でも顔が赤くなってるのがわかった。柊羽には前に好きだと伝えた。今日の私を見たって、おかしいのわかってるのに、それでも普通に接してくれるのは、きっと柊羽が私に興味がないからだ。だけど、もう好きは止められなくて。私以外のお客さんの髪にもこうやって触れて、可愛いって声をかけるのを想像したら、居てもたってもいられなくなった。
「ねえ、柊羽」
「ん?」
「メアド、聞いてもいい?」
「何急に。別にいいけど」
「少し前に事務所にきちんと登録して、今は仕事してて」
「うん、知ってる。店長に聞いた」
「それで、いろんなところに行くの。ロケで。写真とか送ってもいい?」
「写真?何の」
「えっと、きれいな風景だとか、美味しかったお料理とか」
「別に要らないけど」
「いいの、要るの。私が送りたいの」
「何だよそれ」
「あの、あれよ。いつも仕事忙しそうだし。あんまり出かけられないみたいだし。だからいろいろ写真撮って送る。送りたいの。見て、笑顔になってくれたらいいなーとか。それに電話だとタイミング合わないと話せないけど、もし柊羽に何か聴いてほしいこととかあったら送っといてくれたら私いつでも返事入れとくし」
「別にないよ、聴いてほしいことなんか、さ」
そう言いながら、柊羽は手を差し出した。
「貸して、スマホ。入れるから」
「あ、うん」
柊羽が入力してくれたアドレスを登録して、私はすぐにメールを入れた。何も反応がなくて。柊羽の顔を見ると、あぁ、って表情をして店の奥の部屋に歩いて行った。少しして戻ってくる。
「来てるよ」
そう言って見せてくれたスマートフォンの画面には、私が送った言葉が届いていた。
-柊羽のこともっと好きになった 萌恵-
■morning
その日は朝から、待ち合わせた場所へ向かった。前から行きたかった渋谷のお店の、モーニングビュッフェ。友達を誘ってもよかったけれど、柊羽にメールで声をかけた。
-朝は飯食わないよ、俺-
返事はこんな感じだったけど、柊羽のいろんな面を知りたかった私は、どうしても朝から彼に逢いたかった。本当なら柊羽の家に泊まりこんで、朝はどんなで、どんな感じで家を出てnuovoに向かって、どうやって一日を過ごすのか知りたいぐらい。ちょっとしたストーカーみたいになりそうで怖いけど。
-俺、八時半には店に着きたいし-
-大丈夫だよ、ビュッフェは七時からやってるから-
-早いよ-
-じゃあ、渋谷の新南口に六時五十分ね-
-誰が行くって言ったよ?-
-でも待ってるよ-
ちょっと強引に、メールはそれで終わらせた。いつか嫌われるんじゃないかって不安を抱えながら、いつも柊羽には思ったことを言葉にする。だけど不安を吹き飛ばしてくれるのは、なんだかんだ彼が私に合わせてくれるからだ。
六時五十分。時間の少し前に渋谷の南口に行くと、そこにもう柊羽は居た。出勤の人たちの慌ただしい動きとは違い、彼だけが止まっているようだった。エスカレーター脇の壁にもたれて立っていた。腕を組んで、足をクロスにして、俯き気味で、目を、瞑っている感じがする。寝てるのかな。
「柊羽」
声をかけると、ゆっくりと顔を上げながら目を開けた。
「来て、くれたんだ」
「よく言うよ、来るしか選択のないメールの終わり方されたら来るでしょ」
機嫌が悪そうな表情をしながら、壁から背を起こすようにすると柊羽は斜めに私を見た。
「八時までね」
「うん、わかった。急いでるの?」
「バイクを店に置いて電車で来たから」
「電車で?」
「この辺停めとくの嫌だし」
「まあ、たしかに」
「移動時間多めに見て三十分はくれる?」
「了解」
「じゃあ、とっとと行こうぜ」
そうやって、笑顔をくれる。私はこんなに好きだけど、もしかしたら柊羽も私のことを好きなのかもと思ってしまうような笑顔だ。朝から照れる私をよそに、柊羽はエレベーターに乗った。
店に入るとそこそこすでに人が居て、柊羽は窓際に面したソファに座った。二人用の正方形のテーブルを挟んで、自然と、私は向かいの席ということになる。
「そっちのほうがいいでしょ?俺はたぶんずっと座ってるから。それより大丈夫なの?こんなとこウロチョロしてて」
「なんで?」
「仮にもあなた、テレビ出てる人なんだから」
「大丈夫だよ、現に誰も今私のことなんて見てる人いないし。みんなご飯食べに来てるんだもん」
「そりゃそうだけど」
「本当に何も食べないの?」
「コーヒーだけでいいよ」
「せっかくだから何か食べようよ、私取ってくるよ?」
「いいよ」
なんだか、誘わない方がよかったのかもしれないと思えてくる。本当に、朝は食べないんだ・・・。たくさん並んだ料理を、私は一人で取りに行った。パンと、ハムや卵の料理、サラダ、いろいろお皿に盛って席に戻ると、柊羽の前にはホットコーヒー。それと氷の入ったウォーターのグラスが一つ置かれていた、私の席の前に。柊羽は、やっぱり優しい。コーヒーのついでに入れて来てくれたんだ。
「ありがとう、お水」
そう言うと、口を尖らせ気味に小さく頷いた。
柊羽と食事をするのは二回目だ。前は居酒屋だった。今日は、一緒に食事をするというよりは、ただ私が食べるのを柊羽が見ていた。
「あの、柊羽・・・」
「ん?」
「食べづらいんだけど」
「なんで?」
「だってずっと見てるじゃん」
「だって他に見るとこないし」
「何それ。ずっと見られてて食べるって、なんか落ち着かないよ」
そしたら柊羽が、顔を反らしたと思ったら、ひょいっと体をテーブルに乗り出した。左手がそっと伸びてきて、人差し指と親指で私の目の前のお皿に乗ったウインナーをちょんとつまんだ。そして一口で半分を食べた。大きく口を動かして。目が離せない私と視線を合わせたまま、残りの半分もまた口へと入れる。そして自分の指をそっと舐めた。
「美味いな」
「う、ん。・・・もっと食べる?取ってくるよ」
そしたらクスッと笑う。
「ウインナーばっかり?」
「いやいやいや、ううん、何がいる?」
またクスッと笑う。
「いいよ、自分で行くから。たまには食べるか、朝から」
「うん、食べよう。せっかくだもん」
その後柊羽は、軽く食事をお皿に入れて戻ってきた。本当に私と比べると少しだけど。でもなんだか嬉しかった。
店の中はサラリーマンだったり、女性同士のOLっぽい人だったり、いろいろだけど。私と柊羽は今どんな風に見えてるんだろう。フォークを持ったままの手、肘をついたままで時々鼻を触る。これ、柊羽の癖だと思う。前もお箸を持ったままでやってた。お酒の入ったグラスを持ったままでもやってた。肘をついたままフォークでレタスを器用に刺し掬うと口に運んだ。
「なあ」
「なに?」
「ほんっと美味そうに食うね」
「私?」
「他に誰がいんのさ」
「だって美味しいもん」
焼きたてのパンに、ジャムを塗って私は大きく口にほおばった。それを見て、また柊羽はクスッと笑いながら鼻を押さえて下を向いた。そうやって、また私を好きにさせる。
八時過ぎ、柊羽とは店の前で別れることにした。私は東急東横線、柊羽は山手線。それぞれ別の沿線で仕事に向かう。
「今日は我儘聞いてくれてありがとう」
「別に、いいよ。でも・・・」
ん?という表情で私はその続きを待った。
「今度から朝は勘弁して」
そう言われて思いっきり笑った。
「わかった」
そして嬉しかった。また誘ってもいいってことだ。
「私は時間あるけど、柊羽は、仕事までに間に合うかな」
「大丈夫だよ」
腕時計をチラッと見ると、柊羽はそう答えた。
「うん、じゃあ。行ってらっしゃい」
声をかけると、柊羽は私の顔をじっと見て、それから下を向いた。静かに微笑んだのがわかった。とても優しかった。今朝逢った時はあんなに朝早いの、機嫌悪そうだったのに。もう一度私を見ると、柊羽は小さく手を挙げて改札を通った。そして振り向いたんだ、最後に。
「行って来ます」
って言って。
■photograph
その日、メールの返信はなかった。
-今朝は、ごめんね-
短いその文章を打ったのは二十二時過ぎ。明日は早く起きてロケの仕事が入っている。なので準備をすっかり済ませてその時間にはもう部屋着でゆったりくつろいでいた。あとは寝るだけ。だからよけいに時間が長い。何気なしにCDを聴いて、ふと、柊羽はどんな音楽を聴くんだろうって思った。長い夜は、あなたを想ってしまってつらいんだ。
それからどれくらい経っただろう。スマートフォンが静かに振動してふっと明るくなった。メールの受信を知らせた。暗い部屋で、ベッドでウトウトしていた時だ。寝なきゃって思いながらメールを待って、手のひらの上で明るくなったそれを慌てて開いて見る。柊羽だ。日付はとっくに変わっていた。
-なにが?-
なにが?え?それだけ?思わず私はベッドに座り直した。そしてすぐに文字を打った。
-朝から無理に付き合ってもらってごめん。仕事間に合った?-
また、返信はない。ベッドに座ったまま、手を伸ばして部屋のベッドサイドランプを付けた。そしてスマートフォンの画面を見て待つ。一分、二分、・・・五分。ため息をついて、私はまたベッドに横になった。画面の黒くなったスマートフォンは、私に冷たい。返事が来るのか来ないのか、わからない時間を待つのはもどかしい。
「ねえ、何してんの?今」
声に出して呟いてみる。そして目を閉じると、返信を待っていたい気持ちと裏腹に、眠気がふっと襲ってくる。心地いい。たったあれだけの会話なのに、今、柊羽と繋がったっていう安心感だ。
あの日、メアドを交換した日に言われた。
「俺、あんまメール返さないよ?」
スマートフォンに機種変更したくせに使いこなしてないおじさんみたいに、
「連絡にしか使わない」
そう言った。ネットも家でPCで。ゲームも家でテレビで。音楽も、移動中、特にクロスバイクに乗っている時に聴くなんてことはまずしない。そうすると何かをするっていうとほぼ家で。家の中でわざわざスマートフォンで何かをする、なんてこともない。
「友達からメールとか来ないの?」
「来ない。ていうか、たぶん教えてないよ」
そうやって誰とも連絡取らないで、それで、いつもは何してるの?ひとりなの?誰かと一緒なの?今日はあの後仕事に行って、それからどうしてたの?ねえ。
目を閉じて考えていたら、またスマートフォンが振動した。
-仕事は大丈夫。あと、無理に行ってないから-
-よかった。ありがとう。今日は遅かったんだね-
-店長んちで飲んでた-
-そうなんだ。今は家?何してるの?-
また。返信が止まった。ベッドに寝転がったまま、私は目を閉じた。やっぱり、嫌われるよね。彼女でもないのに。部屋の掛け時計が一時を回っていた。柊羽も、明日も仕事なのに。また数分して、スマートフォンが振動する。
-風呂-
次に来た返信を見て、思わず笑ってしまった。あ、だから返信が早かったり遅かったり。小さくクククと声に出して笑いながら、次になんて返信しようかと思った。風呂上がりの姿、見てみたいけど、写メ送ってなんて言えないし。変態かと思われるよね。想像しながらまた笑う。笑いながら、せつなくなる。逢いたいよ。今朝逢ったばかりなのに。仕事をしている時の立ち振る舞いとまた違う、少し面倒くさそうな普段のあなたを、一つ一つ見つけるたびに心が苦しくなる。メール返さないって言ってた人が、どうしてちゃんと返してくれるの?
逢いたいなんてメール、入れられるわけもなくて。私はこぼれそうな涙を拭った。
-明日早いから、私はもう寝るね。おやすみ-
送信すると、ベッドサイドランプを消した。涙も無理やり止めた。そしたらすぐに返信が来た。
-おやすみ-
朝起きると、ひどい顔をしてた。きちんと寝たつもりだったのに、泣きながら寝ていたらしく、少し目が腫れていた。ヘアメイクのスタッフにちょっと怒られたけど、わからないようにメイクをしてもらった。そんな午後。この日は朝から北海道に飛んで、室蘭の地球岬へ来ていた。夕陽がとてもきれいだという事で、ある番組のロケだった。正直リポートするというのはどうも苦手だ。何度かやったけど、うまく言葉が出てこないし、緊張する。この時間でも気持ちいいほどの絶景で、灯台から見える景色に邪魔なものなんて何一つない。
「柊羽と来れたらなあ」
そんなことを思ってしまう。それで私は、この景色を写真に撮ってメールで送った。気持ちいいくらい空も海も青くて、柊羽もここに連れてきてあげたいくらい・・・。メールでそんな文章を打ちながら思った。そっか。リポートは、柊羽に伝えたいと思うこと、そのまま言えばいいんだ。カメラの向こうに、柊羽がいると思って。
夕方までの間に、岬から少し離れたエリアでグラビア写真も撮った。気持ちがとても開放的で、楽しかった。
「萌恵ちゃん、何かいいことあった?」
「えぇ?なんですか?」
「すごく表情いいから」
髪をなおしてくれるスタッフが私に声をかけた。
「なんかすごく楽しくて、今日」
「あんなに寝不足みたいな顔してたのに?さては男だな」
「違いますよ」
大きく風が吹いて、また髪がなびく。
「もう、このままにしません?髪をまとめるほうが大変そう」
私が何気にそう言うと、ピンをいくつか使ってヘアスタイルを作っていたスタッフが私を見て、わざと大袈裟に泣きそうな顔をした。
「そのほうが助かる、この風無理だわ」
「ですよね」
「じゃあ、もう風に全てを任せたつもりで撮るか」
カメラを構えていた手を休めて、カメラマンもそう言った。
ミニのワンピースの裾を大きく揺らしながら、風は私の髪も大きく揺らす。背中まで伸びた髪はきれいにウエーブをつけてもらっていて、それが風に乗るのが自分でも心地よかった。
「あ、いいね」
少し眩しい太陽に微笑みながら、私は柊羽を想った。
夕陽は、それはまた感動するくらいキレイだった。テレビのリポーターなのに半分くらい無言で、海と沈む太陽を眺めていた。プロデューサーが、そのままでいいって。話さなくてもその表情で伝わるからいいってそう言ってくださって。テレビではそんな、ただ海を眺めている私の映像と、少しだけ、柊羽に伝えたいと思ったその感動した思いを、私なりに言葉にした部分が放送された。
-明日ご飯行かない?-
-いいけど、なんで明日?-
-今日は仕事だから-
-だったら明日誘えよ-
-だって早く言っとかなきゃ、柊羽いつメール見てくれるかわかんないもん。仕事終わったら連絡ちょうだい-
-OK-
柊羽に逢ってから約一週間。その間、ちょこっとメールのやりとりはした。仕事が八時頃には終われそうだって明日のスケジュールをマネージャーから聞いて、私はすぐに柊羽にメールを入れた。たったこの六回のやりとりをするのに、半日かかる。お互いの自由時間がズレるから、返信を打つまでにお互いがそれぞれ数時間あく。柊羽との時間は、そんなゆっくりでいいんだって思う。うん、それがいい。
次の日、仕事終わりで、時間がまだあるので渋谷をぶらぶら歩いていた。また可愛い店が増えてる。以前勤めていたショップは行きづらくて、あれからは顔を出してない。好きなブランドだったのになあ。
「あれ、坂口萌恵じゃない?」
聞こえてきた方を振り向くと、女子高生だった。なんとなく愛想よく笑った。読者モデルの頃もたまーにあったけど、やっぱり知られるのってちょっと嬉しい。
「ほら、やっぱりそうだよ」
そう言うと、何気なしに携帯をこちらに向けた。
え?
写真だ。一緒に撮らせてくださいと言われたことはあるけれど、勝手に撮られたのは初めてだった。私の方が、すごく悪いことをしている気持ちになるのはなんでだろう。もう一度笑顔を作ると、私は何故だか逃げるように足早に場所を変えた。
「仮にもあなた、テレビ出てる人なんだから」
この前柊羽に言われた言葉をふいに思い出す。あんまり、外に出たりしないほうがいいんだろうか。しかも今日は柊羽に逢うのに。ひとつにまとめていた髪のヘアゴムを外すと、自然と髪で顔周りを隠し、誰だかわかりづらいようにした。ちょっとした気休めみたいな感じ。これで少しでも気付かれなければいい、そんな程度の。
-何処行けばいい?-
メールは相変わらず単語に近い内容だ。それが柊羽らしくて嬉しい。行ってみたいお店があって、場所とお店の名前を告げると、返事が来た。
-二十分くらいで行くよ。先入ってて-
どうしようかと思った。先に入ってるよう言われたけど、ひとりで待ってて、その間に誰かに気付かれて、さっきみたいに声かけられたら。それほどテレビに出たりしてるつもりないんだけど、知ってくれてる人もいるみたい。そしてそこに柊羽が来たら、柊羽にも迷惑かけちゃうかもしれないし。けどあまり外でうろちょろ待っているわけにもいかない。
店はビルの地下一階に降りたところにある。階段を降りると少し庭みたいになっていて、ガラス張りの店内では食事をするカップルや女性客が多くいた。なんとなく入口を覗くと、店員の一人が気付いて店の外に出てきた。
「坂口、様?」
「へ?」
「坂口萌恵様ですよね?ご予約受けてます」
「わた・・・し、予約は入れてませんけど」
「先程、佐久田くんから」
頭がハテナだらけだ。なんで柊羽が?たぶんそんな不思議そうな顔をしてたんだろう。店員が笑いながら言った。
「nuovo、ご存じですよね?」
「はい」
「店長とわたしが同級生でして、佐久田くんも何度かここに」
「へえ」
「今から坂口萌恵様がいらっしゃるので、と連絡がありました。個室ご用意してますので、そちらへ」
「個室?いいんですか?」
「どうぞ、やっぱり顔を知られてるかたは、そちらをご利用されることが多いので。うちにもいくつか用意させてもらってます」
びっくりだった。通された個室は、六人ほど入れる部屋で、メインのフロアから少し照明を落とした細い廊下を通った先にあった。ドアにも壁にもどこにも窓はなく、完全な個室になる。でもそっか、他人に見られたくない人が利用するんだもんね。おしゃれな茶色い革張りのソファとガラスでできたローテーブル。床にも絨毯が敷かれていて、ちょっと贅沢な、特別な感じがする。天井から吊り下げられたアートなライトが柔らかい光で、そこに一人で座っているのが手持無沙汰で仕方がない。
「もう、来るかな」
スマートフォンをバッグから取り出すと時間を確認する。まだ十分くらいしか経ってない。テーブルに置いてあるメニューを開いているとドアがノックされた。先程の店員だった。
「まだ来ませんね、何か先に飲まれますか?」
「いえ、柊羽が来てからで」
「承知しました。御用があれば、そのベル押してください、すぐ参ります」
「ありがとうございます」
それから少しして、柊羽が来た。いつもと少し違う。
「先にやっててくれてよかったのに」
「うん、とりあえず待ってた」
クロスバイクのキーを徐にテーブルに置いた。あの、ダーラナホースのキーホルダーが今日も可愛く付いてる。柊羽は向かいのソファに体を重そうに投げ出して深く座った。
「マジ疲れた」
頭をソファの背もたれにのけ反るように乗せて、天井を仰いでそう言うと、目を閉じた。いつもと違うと思ったのは、黒い麻のシャツのせいだ。ボタンが二つほど開いた胸元を手でパタパタさせる。あまり印象のない、黒いシャツの姿。Tシャツとか、ラフな服装のイメージなんだ、柊羽は。それにグレーの細身のパンツを今日は合わせていた。足元もスニーカーではなく、革の紐靴で。大人っぽく見える。
「あちーぃ」
そう言って、置いてあった私の分の水を一気に飲んだ。
「あ、どうする?ビール?」
「ビール」
テーブルの隅のベルを押すと、少しして店員がやってきた。そしたら柊羽は素早く立ち上がった。思わず私も一緒に立ち上がった。
「香田さん、お久しぶりです。すみません、無理言って個室・・・」
「いい、いい、坂口萌恵ちゃんに逢えるなんて、俺もラッキー。知り合いだったらもっと早くに紹介しろよな」
「すいません。それで、店長には・・・」
「わかってるよ、言わないよ。あいつ口軽いから」
「ありがとうございます。あそうだ、ビールお願します。それとー」
柊羽はテーブルのメニューを手に取って私に差し出した。
「食べたいものあれば言って。なければ香田さんおすすめコースとかもあるけど」
「うん、おすすめで」
そう言って会釈すると、香田さんは大きくお辞儀をした。
「承知しました」
「それ、香田さん、俺と萌恵との対応の差、ひどくないですか?」
「お前はお前、萌恵ちゃんは萌恵ちゃんだから。ではしばらくお待ちください」
「ひでぇなあ、もお」
香田さんが出ていくと、柊羽はまたドカッとソファに座った。それを見て私もまたソファに座った。
「柊羽の知ってるお店だと思わなくて、びっくりした。こんないい個室使わせてもらって」
「店長と来るといつもここなんだ。騒ぐし、他の客にある意味迷惑になるから、ここじゃないと」
そう言って柊羽は笑った。
「個室ってお金かかるんじゃないの?」
「気にしなくていいよ、この店だったら。とか言うと香田さんに怒られるけど」
少しして、ビールと料理が運ばれてきた。テーブルに置いたままの私のビールのグラスに自分の手にしたビールのグラスをコンと当てると、「お疲れ」と言って柊羽はグッとビールを飲んだ。
「なに、今日おとなしいじゃない」
「そんなことないよ」
確かに、緊張するんだもん、二人きりだと思うと。
「この間見たよ、テレビ。北海道のなんとか岬」
「ほんと?」
「すげえきれいだな、あそこ」
「うん、柊羽も連れてってあげたかった」
「連れてって、って。仕事だろ?」
「そうだけど。あのね、他にも写真あるんだけど、見る?」
「あぁ、いいの?」
「うん、あんまりたくさんメールに添付されても困るかなと思って二枚しか送らなかったでしょ。でもたくさんあるの」
「きれいだった、この前送ってくれたやつ」
スマートフォンを開いて、フォルダを探す。そして柊羽に手渡した。
「いいの?見て」
「うん」
ひとつずつ、画面をスライドさせてはゆっくりと柊羽は写真を見ていた。時々、写真に合わせて画面を横にしたりして。そしてある写真で、柊羽の手が止まった。じっと眺めて、動かなかった。
「何か・・・気になる?」
「いいね、これ」
「どれ?」
すっと立ち上がると、柊羽はスマートフォンを手に画面を見たまま私の隣に動いてくると、腰かけた。そして画面を私に見せた。それは、夕焼けをバックに撮った写真。テレビロケの後、あまりに夕焼けがきれいなので、カメラマンの人に頼んで撮ってもらったものだった。岬の灯台と、オレンジに染まる空と海。そこに、少し俯き気味に立つ私の姿。それは見る人が見れば私とわかる。夕陽からの逆光で黒く影になり、シルエットしかわからないくらい。その夕陽が、私の首元できれいに光っていた。自分でも気に入っている写真だった、アートな感じがして。
「これ、もらっていい?」
「これ?」
「そう」
「いい、けど。なんで?」
「すごいきれい」
「でしょ?」
「送ってよ」
「うん」
柊羽からスマートフォンを受け取ると、メールにそれを添付した。何処かで振動した音がして、柊羽がグレーのパンツの後ろポケットからスマートフォンを取り出した。そして受信したそれをチェックする。
「きれい。けど、萌恵の顔全然写ってないのな」
そう言ってクスッと笑った。
「ひど。そりゃこの夕焼けには負けるけど、私だってきれいに写ってるやつあるんだから。ほら、例えばこれとか」
画面をスライドさせて違う写真を柊羽に見せる。
「ほら、これとかさ」
グラビアのカメラマンに撮ってもらった写真を順に柊羽の目の前に差し出す。
「いいんだけど、それはそれで。けど、これが一番、萌恵がきれい」
自分のスマートフォンに届いたその写真を手にしながら、柊羽は小さな声でそう言った。
「俺には萌恵ってわかるからいいんじゃないの?」
私には、その写真よりも、あの日の夕焼けよりも、今の柊羽の横顔のほうがきれいだよ。少し落ち着いた照明のその部屋で、肩がぴったりとくっつく距離で、画面を見ながら優しく微笑む柊羽の横顔が一番きれいだよ。
スマートフォンをOFFにして急に振り向いた柊羽は、顔が近くて。一瞬目が離せなくてどうしようかと思った。写真を見せようと私が完全に柊羽の肩に寄り掛かるようになっていて、目を反らして私はソファに座り直した。
「また、何処か行ったら写真送ってよ」
別に要らないけど、って前に言ったくせに。
「うん、わかった」
返事を聞くと、ニッコリ笑って柊羽はまたビールを飲んだ。そしてフォークを手に取ると、目の前の料理を口に運んだ。もと居た向かいのソファには戻らず、ずっと私の隣で。
■sweet sorrow
「暑い」
玄関を入ると家の中は蒸し蒸しとしている。リビングのソファにバッグを置くと、まず最初に壁に設置されているエアコンのスイッチを押した。ピッと音が鳴ると、天井に埋め込まれたエアコンが作動する。そのままキッチンに向かうと、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを手に取った。ごくごくと数口飲むと、ペットボトルにキャップをする。
ずっと、家に帰るまでずっと、胸がドキドキしたままだった。少し俯くと、サラッと髪が頬を隠した。
「萌恵、髪伸びたな」
「そう?」
「俺が前髪作った時、もうちょっと短かった」
「長いと変かな?」
「んー、まとめるにはこれくらいあるほうがアレンジしやすいけどね」
他愛もない会話をしながらお酒を飲んで、料理を食べて、一時間くらいしたころ。何の迷いもなく柊羽は、私のサイドの髪を手に取った。目の高さくらいまで持ち上げると、パラパラと落とすように髪を遊ばせる。その隙間から見える柊羽の視線は、間違いなく私の髪にあるのだけれど、目が合っている時よりもずっと、ドキドキした。
柊羽の手から滑り落ちた髪をもう一度掬い上げると、ニヤッと笑って今度は髪をいじりだした。私の左側に座っている柊羽は、完全に私の方に体を向けて、私の左サイドの髪を大きく編み込んでいる感じで。感覚だけだから、何してるのかわからない。
「何してんの?」
「この長さとウエーブ活かしたら可愛くアレンジできるかな、と思って」
少し無言のまま、柊羽が何か私の髪をいじっているのはわかっている。
「ちょっと、向こう向いて」
言われるまま、柊羽に背を向けた。右サイドの髪もふわっと柊羽の指が掬い上げていった。首元がスッと涼しくなってるのを感じる。
「やっぱいいな、可愛いなこれ」
「どれ?」
「うなじってやっぱいいよね」
「なに?もぉ」
「浴衣とかに合いそう、今度、店でやろう」
「どんなの?どれ?」
見えるわけがない自分の後姿をどうにか見たいと思ってちょっと顔を柊羽の方に向けると、柊羽は髪を束ねていた手を離した。一気に、まとめられていた髪がパラッと背中に戻ってくる。
「終わり」
「え?」
完全に柊羽の方を見ると、顔を斜めにして柊羽は私を見ていた。
「いいよね、女の子は。髪だけでもいろいろ変われる」
「そ、そうかな・・・」
「その見本みたいなもんでしょ。モデルとか、芸能人って。それを仕事にしてんだもんな、萌恵は」
「見本になんて、ならないよ。柊羽みたいにやってくれる人がいるから、メイクもヘアスタイルも」
「俺はそんな、大きな仕事してないからさ」
少し前に新しく運ばれてきた新しいカクテルを、柊羽は手に取ると一口飲んだ。もう耳は赤くなっていて。やっぱりあんまりお酒は強くないんだ。
「じゃあ・・・」
私が言いかけると、柊羽は私を見たまま、カクテルをもう一口飲んだ。
「じゃあ今度、柊羽がやってよ」
「何を?」
「メイクもヘアスタイルも」
「なんで?」
「柊羽だったら、私をどんな風にするのか見てみたい」
「へえ」
首を傾げて、柊羽は私をじっと覗きこんだ。真剣な表情で、何も言わずに。柊羽はただ見ているだけで、私も何も言えなくて、ただ見られているだけで。間が持たなくなって、私は飲みかけの、柊羽と同じカクテルのグラスを手に取った。口に運ぼうとしたら、柊羽の手がすっと伸びてきた。手にしたグラスは口まで辿り着くことなく、私は胸のあたりでじっと持っているしかできなかった。
「髪の色変えない?」
柊羽の指が、私の髪をすっとかき分けて、私の頬で止まった。そろそろと親指が私の頬を撫でる。私はそれから逃れることができなくて、動けなくて。柊羽の顔も見れずに目を反らした。
「ベージュピンクを少し入れたら、印象変わるかも」
そう言って微笑むと、柊羽は私の頬から手を離した。その手は、私ではなくフォークを手に取った。残っていたチキンの料理を口に運ぶ。
「あぁ、うま」
息ができないくらい、心臓が飛び出しそうなくらい、想いがこみ上げて今にも泣きそうな気持を隠すように私はカクテルを一気に飲んだ。触れられた頬が熱い。その日私は、まったく酔えなかった。
店を出る頃には店内の客数も減っていて、香川さんに見送られて階段を上がった。上がってすぐの道路脇に、目につく柊羽のクロスバイク。そうか、柊羽とは店を出たらすぐお別れなんだ。
「んじゃ、気を付けて」
「うん、柊羽も」
心地よく酔っぱらっている感じの柊羽は、そのままホワンと消えてしまいそうで、私は思わずその腕を掴んだ。
「どした?」
「あの、えと・・・」
「なんだよ」
「また、来たいな、ここ」
「言ってくれたら、香川さんに個室押さえといてもらうよ」
「ほんと?」
「あんま、外、出にくいでしょ?」
「え?」
「あなた思ってる以上にメディア出てるよ。少しは自覚したら?」
「そう・・・かな」
「こういうのも、よくないし」
そう言うと、柊羽の腕に添えた私の手を顎で指すようにした。それで私は慌てて手を、下ろした。
「ちょっと、酔いすぎたかも。帰るわ」
「大丈夫?」
「平気」
「またメールしてもいい?」
柊羽は、私の顔を見てただ頷いた。
そんなことを思い出しながらミネラルウォーターを冷蔵庫に戻すと、私はメイクを落とそうと洗面所に向かった。鏡を見ながら、髪に触れてみる。頬に触れた感触がずっと離れなくて、涙が溢れてきた。
「柊羽は、私のことどう思ってんの」
聞きたくても聞けない台詞を、私はこんな場所でしか声に出せない。
「遊ばれてんのかな。私が好きって言ったから」
涙は一度溢れ出すと止まらなかった。
「でも、だったらなんで抱かないの?そういうんじゃないの?それとも私の反応を見て楽しんでんの?」
鏡の中の私に問いかけても答えはない。
「ただの友達?それとももう付き合ってんの?」
わからないんだけど・・・。
その日の涙は、とても切なくて、でも大事にしたいくらい愛おしかった。
■lips
朝ってどうして来るんだろう。
起きていきなりそんなことを思った。昨夜の余韻なんて感じている暇はないほど、太陽が差し込んでいた。起きたのはお昼前。昨夜あまり眠れなくて、また家で独りビールを飲んで、夜も更けたころに眠りについた。朝、スマホの画面を見ると表示が現れた。柊羽のメールが入っていることも気づかないくらいぐっすりと眠っていたらしい。ベッドで体を起こすと、慌ててメールの内容を確認する。
-おはよう。昨日はちょっと飲み過ぎて、あまり覚えてない。変なことしてなかった?俺-
午前八時過ぎの時刻表示。きっと、仕事行く前に入れてくれたんだ。変なこと・・・。してたよ。勝手に私の髪を束ねだしたり、頬に手をやったり。私のこと好きなのかもと思わせるようなことばっかり、してたよ。
・・・酔ってたのかあ、やっぱり。
酔っぱらうと誰にでもあんなことするのかな。私以外の人にもあぁやって触れるのかな。真面目なふりして、実はすごいプレイボーイなんじゃないの?でも、滅多に外には、出ないんだよね?たしか柊羽って。
そう思うと、自分だけ特別感を持とうとしてしまう。だけどたぶん違う。首を振って、私は返信を打った。
-こんにちは。普通だったよ。二日酔いにはなってない?仕事がんばってね-
少し前からマネージャーがついた。三十過ぎの優しい男性の人で、すごく女性目線でフォローしてくださる人だ。名前は小野田さん。学生の頃にバスケットボールをしていたとのことで、とても背が高い。いつも見上げなきゃいけない私に気を使ってか、話をするときは少し体を縮めるように視線を合わせようとしてくれる。
「彼はうちの女性陣、特に女優にかなりしごかれてるから、よく気が付くいいやつだよ。なんでも、相談とかにものってくれると思う」
片桐さんのお墨付きのマネージャー。ただ、すごく気が付く人で、私の心を読まれているみたいに声をかけてくる。
「昨日遅かったんじゃない?ちょっと疲れてるみたい。何かドリンク剤とか見てこようか?自販機にあったかな。先にクローク入ってて」
「すみません、ありがとうございます」
あまり自分の感情で無理をすると、こうやってすぐバレる。別にそれを怒るわけでも、否定するわけでもなく、良くしようとフォローしてくれるだけなのに、もっとしっかりしなきゃと思わされる。きっとそれが有能マネージャーってことなんだろう。きちんとスーツを着て、自動販売機のあるフロアに向かって歩いていくその後姿は頼もしい。しっかりお仕事しなきゃ。長い廊下の一角にかけられた鏡にふと自分が映って、私は一瞬足を止めた。
「髪の色変えない?ベージュピンクを少し入れたら、印象変わるかも」
そこに映るのは、家を出る時にまとめただけの髪の私。簡単にメイクはしたけれど、どうせすべてやり直されてしまうし、そう思って手を抜いた今日の私。束ねた髪の毛先を手に取って、また柊羽を思い出した。痛んでるって怒らなかったな、昨日は。
「あれ?坂口さん、どうした?あったよ、ドリンク」
小野田さんが後ろから小走りに追いかけて来ていた。
「あぁ、ありがとうございます。あの、小野田さん」
「なに?」
「髪の色って変えたら片桐さんに怒られちゃうかな」
「どんな色?」
「ちょっとピンクベージュを入れたいの」
「ピンクベージュ?」
「うん、ちょっと優しい色にしたいの」
「わかった、片桐さんに聞いとくよ」
テレビ番組の収録が終わって、戻ると小野田さんがすぐに声をかけてくれた。
「いいってよ、髪の色」
「え?」
「ピンクベージュでしょ?その代り頼みたい仕事があるって」
「仕事ですか?」
「グラビア」
「グラビア?」
「できるだけ僕もファッション誌系の仕事を受けるようにしてたんだけど、どうしても一度、週刊誌のグラビアやってほしいって。目に触れられる機会が多いから、たしかにね、知ってもらうにはいい仕事なんだけど。ただ、ちょっと肌の露出多いから。坂口さんは読モ出身だしね、グラビアアイドルってわけでもないからと僕も思いたくて、避けてたんだけど」
「そうなんですか」
「正直、坂口さんの年齢からの出発だと、やっぱりインパクトが欲しいって、片桐さんが」
ちょっと、迷った。交換条件、かあ。
「あのね、全部脱ぐってわけじゃないから」
「わかってますよ」
「いやだったら、断るよ。髪の色の件は別で話してみるし」
「いえ、一度、やってみます」
「ほんとに?」
「それも経験になりますよね」
「まあ、たしかに。じゃあ、OKで返事入れてもいい?」
「はい、がんばります」
「もしやるなら、逆に髪の色はピンクベージュがいいって片桐さんが。空いてる時間にテレビ局のヘアメイクにでもやってもらう?」
「そんな急ぐんですか?」
「できれば早いほうがいいって」
[nuovo]、行きたかったのになあ。髪の色変えてもらうなら、柊羽にお願いしたかったのに。そんなことは柊羽には伝えることもできず、私は次の日髪の色を変えた。たぶん、髪の色の話をしたことなんて、覚えてない。きっと柊羽は。
-二日酔いは免れたよ-
短い返事が、ひとつだけ入ってた。ひどい時間差だ。二日後のこと。そのメールを柊羽が入れてくれた時間より遅れて私が見た、というのもあるのだけれど。とにかく、時間が合わない。テレビの収録は深夜が多いし。柊羽が仕事に出かける朝にやっと眠れる日も多い。届いたそのメールをじっと見ては悩む。これ、なんて返信入れたらいいのよ。こうなると会話は一旦終了する。何かまた、違うメールを入れなきゃと話題を考えると、どうも何も思いつかなくて、結局ロケ先での写真を送るだけのメールになってしまう。
その日はあのグラビア撮影の日で、東京からほど近いある島に船で移動していた。船上で小野田さんに撮ってもらった写真を送った。
-これから撮影で今船の上だよ。海気持ちいい-
そんな言葉を添えて送った。有名なカメラマンのかたが撮ってくれるので、片桐さんも同行していた。スタッフは、いつもの雑誌撮影より数段多い。島民が何人かすれ違うのんびりした島で、機材を運ぶスタッフや、スタイリストの女性スタッフと何気ない会話をしながら移動した。
「こちらになります」
雑誌のスタッフが大きく手を差し伸べた先はきれいなビーチだった。誰もいないビーチで、この島の人しか利用しないらしいそこは、人工的なビーチとは違ってとても優しかった。
「きれい」
私はスマートフォンを取り出すとビーチの写真を数枚撮った。
のんびりできたのはここまでだった。カメラマンはとても厳しい人だった。グラビアって全部がこうじゃないとは思うのだけど、私にはとても怖かった。出来上がった雑誌を見て後からわかったんだ。私は世間からこういう風に求められているのだと。珍しいと思う。グラビア写真で泣いているって。白いビキニ姿の私が、カメラに向かって泣いていた。メイクによって大きく艶の出た私の唇をメインで映したその表紙ページには、助けてって言ってるみたいな私の涙が印象的だと片桐さんは言った。ビキニの紐を外されて、背中があらわになった私の後姿を、かき分けたピンクベージュの髪が柔らかく覆う。別に何をされたわけでもないのに。襲われているみたいな感覚で撮影したそれは、添えられた言葉で全く違うテイストになっていた。
[守りたくなる唇]
たしかに、写真は綺麗だった。青い空と青い海と白いビーチと白いビキニの私。艶やかだった。反応もたしかに大きくて、バラエティ番組に出ると、ネタとしてグラビア見たよ、とテレビの中で司会のかたが言ってくれる。ただ、これを柊羽を見たのかがとても怖くて聞けなかった。
-船は無理、酔うから。でも海気持ちよさそうだな。髪の色いいよ、やっぱり、似合う-
柊羽からのメールはグラビア撮影の日にあったそれだけで、私から何も送らないからか、特にその後も連絡もなかった。でも、髪の色の話をあの日したことを覚えてくれていたんだってことはわかった。少しだけ気持ちが楽になって、久々にメールを見て笑った気がする、私。
-最近テレビとか雑誌とか見た?-
勇気を出して送ったこのメールには、けっこう早く返事が来た。
-見てない-
-なにも?-
-何かあるの?ヘアメイクの講習会あってそういうの全然見てない-
そっか。そうなんだ。
-グラビアだったら店長が喜んで見てたよ-
え?えええ?知ってるんじゃん!!!でもそれ以上の反応はなかった。やっぱり、私のことより仕事が好きなんだな、柊羽は。当たり前か。
あまりに私が元気がないと言って、小野田さんはそれ以降グラビアの仕事を入れなかった。
「たしかに話題にはなったけど、坂口さんはそんなのしなくてもイケるから」
そう言って笑ってくれた。やっぱり、私って顔に出ちゃうのかな、悩みとかそういうのが。それとも小野田さんが天才なんだろうか。それ以来、仕事は増えたけど、私が泣くような仕事は一切なかった。今日は仕事が夕方で終わり。そしてそこから3日ほど、ゆっくりできるお休みを入れてくれた。
-今度、メイク教えてくれる?-
ソファにゴロンと横になってメールを入れた。そろそろ仕事終わる頃かなあと思って。でも時間なんて読めない、柊羽の仕事も。返事の期待は今日もなく、スマートフォンを手にしたまま目を閉じた。少しして、着信の音がした。え?見てみると柊羽だった。
-いいけど?なんで?-
-ちょっと、勉強しようかと思って。いつもメイクさんにお願いしてばかりだから-
-わかった-
やった。メイク教えてもらうんなら、柊羽の仕事の邪魔してる気があまりしない。逆に私が実験台になってもいいし。テストしてみたいことあるならやってもらってもいいし。私も本当に勉強になるし。いつかそれで雑誌とかでページ持てたらいいな。よくあるよね、人気のメイクアーティストがメイクポイントとかちょっとした技を教えてくれるような。そこに柊羽と一緒に載れたらいいのに。・・・なんて一人で想像して盛り上がっていた。そしたらまたメールが入った。
-今、電話できる?-
電話?なんだろう。
-大丈夫だよ-
返信を入れると、柊羽から電話がかかってきた。メールの返信が早いから仕事中じゃないのかなと思って、と柊羽は言った。柊羽は仕事が終わったとこだって言った。家でくつろいでたことを告げると、それでか、と笑ってた。少し、たどたどしい会話が続いて、私は思い切って聞いた。
「うち、来る?」
■long kiss
柊羽と初めて肌を合わせたのはその日、私の家でだった。戸惑いながらうちに来た柊羽を家の中に招き入れて、最初から私は悪い子だった。
いろんなものが私を焦らせていた。仕事は楽しい。だけど正直気持ちがついていかない。辛いのを隠すように、流した涙をなかったことにして毎日笑顔で他人の前に立つ。柊羽が私のことをそれほど好きでないこともわかってる。だけど柊羽が居なきゃダメな私はここに存在する。
「逢いたい」
私の言葉はいつもストレートだと柊羽は言った。だって本当だもの。いつだって逢いたいんだもの。片思いなんて言葉を使いたくない。私は柊羽のものになりたいんだもの。
短いスカートを穿いたのはわざとだった。
ソファに座って上目づかいで柊羽を見上げたのもわざとだった。
顔を近づけた柊羽の首筋に手を回して、頬に口づけたのもわざとだった。
私からではなく、柊羽からのキスが欲しかったんだ。そうやって少しずつあなたを私の腕の中に招き入れたかったの。唇も首筋も耳たぶもあなたから触れたいと思わせたかったんだ。そんな罠にかかるようにあなたは私は抱いた。少し伸びてきた金色の髪の根本が黒く視界に入って。そんな髪をくしゃっと抱きしめるようにすると柊羽は私の胸に顔を埋めた。
「柊羽のこと、好き」
「うん、知ってる」
それだけで、私は満足だと思っていた。
-この間はごめん-
私からではなく、柊羽からメールが入るのは珍しい。
-何が?-
-あんなつもりで行ったわけじゃないんだ-
柊羽のごめんが辛かった。私から誘ったのに。望んでいたのに。
-私はそんなつもりだったから、謝られると辛い-
-ごめん-
メールってのは冷たい。言葉を凍らせる。まだ、電話の方がよかったと、とても思った。かけようかと思ったけど、かけたところで何を話せばいいかわからない。深夜のメール。たぶんいつもなら柊羽はもう寝てる時間。気になって入れてくれたんであろう、そんなメール。
-もう、萌恵の家には行かないよ-
-なんで?-
-外でだったら会おう。香川さんとこの店とか-
-嫌だ。うちがいい-
そしたら電話が入った。柊羽から。
「何言ってんの?萌恵」
「柊羽こそ、たしかにこの間のは私も悪かったけど、なかったことにするようなそういうの、ひどい」
「だからごめんって」
「何がごめんなの?やったこと?それともなかったことにしようとしてること?」
「違うよ、なんていうか・・・」
柊羽は静かだった。イライラしているのは私だけで、柊羽は落ち着いていた。
「あのね萌恵」
「うん」
「そういうの目的で会ってると、まず思わないでほしいんだ」
「どういう意味?」
「萌恵は、大切な友達なんだよ」
「友達?」
「萌恵が俺のこと好きって言ってくれたのはちゃんと覚えてるよ、わかってるよ」
「うん」
「ただね、よくわからないんだ、どうしたいのか。中途半端に答えたくない」
「それって気を待たしてるだけじゃない」
「そう言われても仕方ないと思ってるよ」
「なにそれ」
「でもね・・・」
そこからの柊羽は、我儘を言う子供をなだめる親みたいだった。
「俺は、萌恵のことを応援してるし、何かあったら話だって聞く。大変な仕事してんだからさ、がんばってるの知ってるから。そんな萌恵が俺のこと好きって言ってくれてるのは本当に、素直に嬉しいんだ。だけど、俺はそれに見合う男じゃないとも自分でも思う。仕事しても中途半端だし。萌恵にメイク教えてって言われてさ、嬉しかったんだ。俺がこういう仕事してるからこそできることでしょう?」
「うん」
「そうやってゆっくり見てみたいんだ、萌恵のこと。それじゃ、だめ?ごめん、話すの苦手だからこんな風にしか言えないんだけど」
また、私は涙を隠した。小田野さんに目が腫れてるって怒られるのを承知で。ボロボロ涙が流れ出ていたのに、柊羽には聞こえないように、電話越しで伝わらないように、ゆっくり深呼吸をした。
「メイクは、教えてくれるの?」
「いいよ、約束したでしょうよ」
「うちでじゃ、だめ?」
「だめっていうか、もう誘わない?」
「え?」
「萌恵の気持ち伝わりすぎるくらい届くんだよ、二人で居ると」
「そんなことないでしょ?」
「嘘ばっかり」
「・・・うん、嘘」
「え・・・」
「誘ったのはほんと」
「萌恵?」
「もうしないから。うちでもいい?」
「あなたさ、自覚ないんだろうと思うけど。普通にしてても好きとか言われてなくても、手、出したくなるからね。そんなオーラ出してるからね。普段から気を付けたほうがいいよ」
「な・・・私のせい?柊羽が理性失ってるだけじゃない」
「俺はあるよ」
「ないじゃん。じゃあなんでこの間手出したのよ」
「手出す・・・とか、そういう言い方するか?」
すっかり、涙は止まってた。柊羽のリズムに乗せられてた。あっさりと。楽しかった。やっぱり、楽しい。嬉しい。愛しい。あなたとの時間は私に元気をくれる。
「でもそれでも柊羽が私を襲ったらそれは柊羽のせいだからね」
「そんなこと言うなら萌恵んちは行かないつってんだろが」
「ごめん、嘘だから」
「嘘ばっかだな」
そう言って柊羽は笑った。
「ただ、誰にでもそんなことしないよ、私」
「わかってるよ」
そう言うと、少し間を置いて柊羽は言った。
「襲う時は俺の責任で襲うから。覚悟して」
柊羽は、私の時間の合う日には、うちに来るようになった。柊羽に聞いて買ったメイク道具は私の宝物で、仕事場にも持っていくようになった。今までメイクを全て頼んでいたけれど、柊羽のアドバイスで、出来る範囲で自分でするようになった。
「なんかきれいになったね」
周りのスタッフにそう言われると照れくさくなる。全部柊羽のおかげなんだ。
雑誌の撮影が終わって、小野田さんに車で送ってもらおうと車に乗り込んだ。最近は取材や雑誌撮影の日は早めに終われるようにスケジュールを組んでくれる。その日ももうこれで終わりだった。
「坂口さん、悪いんだけど今日これからちょっと事務所寄ってもらっていい?」
「はい、大丈夫です」
小野田さんは運転席に座ると、シートベルトをしながら私に声をかけた。なんだろう。
事務所に立ち寄るのは久しぶりだった。事務所までは撮影スタジオからすぐで、事務所には片桐さんが居た。片桐さんに会うのは、実はあのグラビア撮影以来だった。
「萌恵ちゃん、お疲れさま、悪いね寄ってもらって」
「いえ、何ですか?」
「実はね、あんまりいい話じゃないんだ、中入ってもらっていいかな」
片桐さんに言われて、小野田さんと共に打ち合わせ室に入った。手を差し出して座ってと言う表情を片桐さんにされて、何も言わずに小さく頷いて片桐さんの向かいに座った。小野田さんは私の後ろ側に立ったままだった。
「実はね、ネット上にちょっとした映像が流れてて」
「映像?何のですか?」
「萌恵ちゃんのね、スマホか何かで録ったっぽい映像なんだけど」
「なんですか?それ」
「もう映像の削除を依頼してあって話はつけてあるからネット上からは消えてるんだけど、けっこう反響あったみたいでね。Twitterとかでは話題になってたりするんだよね。映像自体は入手してあるから見ることできるけど、見る?」
「いい、んですか?」
「いやじゃないんだったら、気味悪くなったらあれかなと思って」
「いえ、自分の目で確認したいです」
片桐さんは、打ち合わせ室に持って入っていたノートパソコンを開くと少し操作をし、画面をこちらに向けた。
「え・・・これ」
それは、あきらかに私だった。家の傍のコンビニとかスーパーとか、道端で立ち止まってスマートフォンをいじっている姿とか、マンションに入っていく姿などが映されていた。どれもだいたい夜に録ったもので、店に居る時や、暗いけれど電灯の下を歩いている時なんかは私だとすぐにわかる。いつもの、メガネとキャップをかぶっている私の見慣れた姿だった。
「それがね、実に残念なんだけど」
「なんですか?」
「メディアにはこの情報は流してないんだけど、犯人はわかってるんだ」
「誰なんですか?」
「伊田、だよ」
「伊田、さん? sure cuteの?」
「本人も認めてる。公にしないということで話をつけて、彼はもうあの事務所を辞めることになるだろう。法的にも処分をお願いしようと思ってる。俺と萌恵ちゃんとを引き合わせてくれた、しかも古い知り合いだったから私も残念でね」
びっくりだった。たしかにちょっと、思い入れられてた感はあったけど。
「ほんとに好きだったみたいだよ、萌恵ちゃんのこと。でもやり方がまずいよね」
「そうなんですか・・・伊田さんが」
「思った以上に映像を見た人が多くてね。そういうのに詳しい人なら映像を保存してる人もいるかもしれない。マンションもなんとなく近所の人だとわかるだろうし。もちろん送り迎えは今まで通り小野田くんにしっかりやってもらうけれど、萌恵ちゃんも行動は気をつけて。伊田以外にも何かしてくる人がいるかもしれないから」
「わかりました・・・」
「今日はそれだけ。悪いね、あまりいい話じゃなくて」
「いえ」
「それと」
「なんですか?」
「この間のグラビア、申し訳なかったね」
「え?どうして、ですか?何か悪いところありましたか?」
「精神的につらい思いをさせてしまったかな、と思って。売り出すためにいいかと思った判断だったんだけど、小田野からちょっとそういう意見を聞いたもんだから」
「いえ、いい勉強になりましたから」
「でも本当にいい写真だったよ、自信をもってあなたを事務所に誘ってよかったと思った」
小野田さんに車でマンションまで送ってもらうと、メディアのカメラが数台待ち構えていた。この日は片桐さんも一緒に車で来てくれて、私はふたりに守られるようにサラリとマンションに入った。テレビで見たことのある芸能人の何かの報道の映像みたいだった。悪いことしてないのに悪いことしてるみたいな。
「あなた思ってる以上にメディア出てるよ。少しは自覚したら?」
いつでも、耳に届くのは柊羽の言葉だ。これも、前に柊羽に言われてた。そっか、自覚が足りないんだ。普通でいちゃだめなのかな。そしたら急に怖くなった。録られていた映像はもうネット上にはない、んだよね。伊田さんも何かしらの処分をされているんだろうし。そしたらもう大丈夫なのかな。でも、もしまた違う人が同じようなことしたらどうしよう。私はもう家から出られないのかな。小野田さんの車がないと何処にも出かけられなくて・・・。そんなことを考えていると、エレベーターが止まった。ドアが開くと、見慣れた風景だ。自宅のある階の廊下を見て涙が出たのは初めてだ。一気にドアの前まで走ると私は鍵を開けて家に入った。ドアを閉めるとそこに座り込んでメールを打った。
-柊羽、逢いたい-
返事は少しして来た。
-どした?-
-逢いたい、今すぐ逢いたい-
-何かあったの?-
-逢いたい-
-まだ仕事終わらないから、遅くなってもいい?-
-何時でもいい-
-わかった、仕事終わったら連絡するよ-
柊羽からのメールを見てまた涙が溢れてきた。早く逢いたい。我儘言えないのはわかってるけど、早く逢いたい。よかった、きっとたまたまメール見れたんだ。仕事中に返信くれることなんて滅多にないのに。救われたみたいな気分だった。
食欲もなくて、部屋の電気も付けずにただソファにもたれるように座り込んでいた。何も考えたくなくて。でも柊羽のことは考えたくて。逢いたい。それしか思いつかなかった。
もうすぐ仕事が終われそうと連絡があったのが十時過ぎで、片付けと明日の準備で十一時にはなると言われたけど、それでもいいから逢いたいと無理を言った。言われたくらいの時間にチャイムが鳴った。慌ててモニターを見に行くと、柊羽の顔が映った。マンションのオートロックを解除すると私はまた座り込んでしまった。何もしてなかったのにひどい疲労感で。また涙が溢れてくる。ゆっくり立ち上がって玄関のほうに向かおうとすると、またチャイムが鳴った。鍵を開けるとドアをそっと開ける。そこには待っていた柊羽が居た。柊羽はなんとなく覗き込む感じで私を見ると、ドアに手をかけて大きく開いた。
「どしたの?真っ暗じゃん」
柊羽だ。柊羽の声だ。そう思うと涙がますます止まらなくなった。私は柊羽の背に手を回して抱きついた。
「ちょ、ちょっと萌恵。やめろって」
「ごめん、ちょっとだけ」
「待って、中入っていい?」
そう言われて、少し体を離した。柊羽はドアをゆっくり閉めると、手を伸ばして玄関の電気を付けた。
「何かあった?」
俯く私の顔をぐっと持ち上げるようにして柊羽は私を覗きこんで確認しようとする。見られたくなかった。涙は溢れてくるけど、泣いてる姿を。柊羽を突き放して家の中に先に入ると、私は洗面所に向かった。タオルを手に取って一気に涙を拭った。
「萌恵?入るよ?」
玄関から声がして、ゆっくりと柊羽の存在が音として聞こえてくる。廊下を通って、その後リビングでまた電気を付ける。真っ暗だった部屋が明るくなる。その明かりは洗面所にもふんわりと届いてきた。
「萌恵?」
私は、泣いてない。泣いてないから。言い聞かせるように両手で顔を抑えて、洗面所から出た。
「ごめん、ちょっと」
「ちょっと、じゃないよ。びっくりするでしょうが。真っ暗だし。泣いてた?」
「ううん」
「思い切り泣いた顔してんじゃん。何よ?どうした?」
「逢いたかったの」
「は?」
「柊羽に逢いたかったの!」
大きな声で、叫ぶように言った。そしてもう一度、顔を埋めるようにして柊羽に抱きついた。
「萌恵?そういうことするんだったら俺帰るよ?前に言ったよね」
「ごめん、今だけ許して」
「ほんとに、どうした?」
「すぐ、すぐだから。いつもの私に戻れるから、少しだけこうさせて?」
「言いたくないことだったらいいけどさ」
「逢いたかっただけ」
「・・・うん」
納得してないような返事で、柊羽は私をそのまま抱きしめた。時々頭を撫でながら、背中をトントンと優しく撫でながら。私の呼吸が落ち着くまで。それまででいいから。柊羽の香りが安心させてくれるから。
「逢いたかったの」
「うん、わかったから」
「ほんとに逢いたかったの」
「萌恵?」
「逢いたか・・・」
次の言葉は最後まで言わせてもらえなかった。急に私の頬に手をやって、柊羽の唇に止められてしまった。それはとてもとても長いキスだった。
■His injury
「すぐに手を出す男の人って信用できないよね」
「けどさ、ずっと一緒に居るのに手を出してくれない人もどうかと思わない?なんか女として見てもらえてないのかなって思えてくる」
読モをしてたころ、数名の読モで恋愛について、トークを載せる特集があってそんな会話をした。私はたしかこう答えた。
「好きって言葉も嬉しいけど、触れてくれると安心する。愛されてる感じがするから。SEXだけなら男の人って誰とでもしそうな気がするけど、キスとかは、それ以上に愛されてる感じがする」
そんな本音トークを雑誌の特集とはいえできたのは、大学を卒業していたからだと思う。在学中は、それなりにいい子でがんばってた。だけど卒業してからは、何よりも私は、女の子でいたかったんだ。たぶんその頃からだ、ショップで店に立っていても、雑誌見ましたって声をかけられることが増えたのは。そんなトークをしている裏で、私は恋愛が下手だった。今度の恋はどうなんだろう。
柊羽との長いキスの間、そんなことを考えていた。
次に抱き合うことがあれば、それは柊羽の責任。その日の夜は、私が悪い子だったわけじゃない。柊羽に全てを任せたんだから。涙の流れた跡を、拭うように柊羽の唇がたくさん触れた。柊羽の心のうちは知らないけれど、愛されてる感じがするから。私は今この瞬間、愛されてるって思えるから。それだけでたくさん抱え込んでいた思いがふっと和らぐ気がした。体は熱いのに、心はゆっくり落ち着いていた。一緒にシャワーを浴びたのも初めてだ。背中がとてもきれいだった。そっと触れると、私の体についた泡を流しながらまたキスをしてくれる。そしてそのまま、同じベッドで朝を迎えた。
「今日が月曜でよかった」
「お休みだね」
「萌恵は仕事でしょ?ごめん、もう帰るよ」
「いいよ、ゆっくり休んでってよ。私はもうすぐ出かけるけど。予備の鍵を持って出るから鍵閉めといてくれればそれで」
幸せな朝だと思ってた。だけど今でも後悔する。私はどうしてこの時に全てを話しておかなかったんだろう。映像流出のこと。相談でもしていれば、彼も何か気を付けることが出来たのかもしれないのに。
その後柊羽とは一度メールで話した。撮影に行った山間で撮った写真を添付した。いつものこと、いつもと同じようなメール。だけど、その後柊羽から帰ってきたメールにはあのことが書いてあった。
-ネットで記事見たよ-
柊羽は実家に戻ったほうがいいと言った。大したことないよって、そんなことよくある話。事務所の先輩にそう聞かされていたから、あまり不安はなかった。勝手に映像を録ってネットに載せるなんて許せないけど、もう犯人は捕まってるわけだし。もう勝手に解決したと思っていた。
-大丈夫-
私の返信に、柊羽はそれ以上強く何も言わなかった。それが、メールの最後。連絡が途絶えた最後。
話をいろいろ考えてみるけれど、メールの内容になるものが浮かばなくって、こちらからもメールは送れずにいた。また、逢いたい、なんて入れられないし。
小野田さんが車で迎えに来てくれて、家と仕事場とを往復する毎日。ここ数日、外食さえもできてなかった。昼はスタジオの食堂で、とか。友達とも会えてない。なんだか息苦しいと感じる中で、小野田さんから聞いた話だった。いつもみたいに、助手席ではなく後ろの座席で、うつろうつろと寝そうになっていた時だった。
「坂口さん、ちょっと話しておきたいこと、あるんだけど」
「なんでしょうか」
「坂口さんの住んでるマンションの入り口で、一昨日、だったかな、喧嘩があったんだ」
「喧嘩?」
「うん、マンションの住人ではなさそうとのことでね。どうやら坂口さんのファン同士の揉め事みたいで」
「私のファンですか?」
「男性三人。二人組と、一人の人とで殴り合いの喧嘩になって。二人組がどうやら悪いみたいで警察が事情聴取をしてるみたいんだんだけど、もう一人の人がさ、ちょっと気になって」
「なんですか?」
「片桐さんには言ってないんだけど、坂口さん、時々男性と会ってるでしょ?」
「え?」
「金髪の・・・おしゃれな感じの」
「あ・・・え、えと」
「いいんだ、そりゃ好きな人ぐらいいるよね」
「あ、あの、すみません」
「そのね、喧嘩してた一人の子が金髪の子だったそうでさ、もしかしたら彼じゃないかなとちょっと思ったから。そんなこと、言ってなかった?その・・・彼氏?」
「彼氏ってわけじゃないんですけど、でもあの、少し前に逢って、その時は元気でしたけど、その後はメールで話したくらいで。でも何も言ってませんでしたけど」
「そう、じゃあ、人違いかな。ごめん、要らないこと言って」
「いえ・・・」
「ただ、そういうファン同士のいざこざとかあるとこちらもほおっておけないっていうか。第一発見者もマンションの住人らしいし。問題になる前にマンションを変わるか、実家でもいいんだけど、引っ越したほうがいいかもしれないなと思ってはいるんだけど」
「そう・・・ですか」
ファン同士の喧嘩なんて聞きたくなかった。ましてや一人が金髪の人だなんて気になって仕方がない。だけど喧嘩をした?なんて聞けるはずもなかった。
「あ、小野田さん、ちょっとだけ寄り道してもいいですか?」
車を、ちょっと遠回りだけど回してもらった。今日はもう仕事ないから。無理を言って、nuovoまで。店のそばに車を停めて待ってもらって、急いでnuovoの前まで来た。見慣れた店へと続く螺旋階段をゆっくりと上がった。見つからないように、と何故だか思っていた。悪いことをしているわけではないのに悪いことしてる気分で。コンクリートにタイルを敷き詰めた可愛い階段をこんな気分で上がってくのは初めてだ。ただ、私は階段を上がり切らなかった。ドアの大きなガラス部分に目を凝らす。いつもきれいに磨かれたガラスのドアは店内をすっきり見渡せる。お客さんは二人いた。だけど、そこで行ったり来たり動き回っているのは店長一人だけだった。階段を少しだけ降りて、私は携帯を手に取った。選んだのはnuovoの店の番号だった。少しして、電話が繋がる。
「はい、お電話ありがとうございます。nuovo桜木でございます」
「あ、あの、坂口、萌恵です」
「あぁ、萌恵ちゃん」
「あの、カットの予約入れたいんですけど、急には無理ですか?柊羽くんにお願いしたいんですけど」
「あぁ、柊羽は当面休むから予約受け付けられないよ」
「あ、もしかして、怪我そんなにひどいんですか?」
柊羽があの喧嘩をした一人かなんてわかりもしないのに、わたしはわざとそう答えた。
「なんだ、萌恵ちゃん怪我のこと知ってたの?骨やっちゃってるからさ、当分は無理だろうね、仕事に入るのは。あんま詳しく聞いてないの?」
「怪我したぐらいしか知らなくて、骨、って」
「骨折、指をやったみたいだね、ありゃ使い物にならないよね、ハサミ持てないんだから。あぁ、どうする?俺だったら受けられるけど、希望の日時にOKだせるかはわからないけど」
「あ、じゃあ、ちょっと予定見てからまた決めます」
「そう?悪いね」
「いえ、失礼します」
電話を切って、またドア越しに中を覗くと、店長はお客さんに頭を下げながらまた忙しそうに動いていた。 骨折・・・してるの?柊羽が?指、って言った?ハサミを持てないって。ていうことは利き手?左の指なのかな。喧嘩したのってやっぱり柊羽なのかな。なんで喧嘩なんてしたんだろう。ファン同士の喧嘩、って、どういうことなんだろう。頭の中がパニックだった。けどその場にずっといるわけにもいかずに、私は小野田さんの車に戻った。どうすることもできずに。
■Last kiss
柊羽からもう逢わないと言われたのはそれから2日後のことだ。直接逢ってだった。携帯で簡単に伝えられるようなことなのに、わざわざ家に来てくれた。
マンションの下で喧嘩があって、それからは本当に制限されたような生活が続いている。危険だからと気にしてくれる事務所の言い分もわかるけれど、息が詰まるようだった。仕事で出た先でインタビューを受けたり誰かと接することだけが唯一のゆとり時間みたいだった。家に帰ってもひとり。ひとりには慣れてるつもりなのに、人恋しくなる。柊羽に逢いたくなる。だけど、自分から怪我のことを私に言わなかった柊羽を思うと、逢いたいなんて我儘を言わなくてよかったのかも知れないと後から思った。
家に来る前に電話が入って、マンションのすぐ下にいると言うので上がってもらうことにした。喧嘩があってから、彼がうちに来たのはこれが初めてだ。少しして玄関のチャイムが鳴った。インターホン越しに開いてるよって返事をしたら、ドアの開く音がした。柊羽だ。嬉しくてすぐに玄関へと向かった。だけどそこには疲れた顔の柊羽がいた。面倒くさいとか言いながら、結局彼は美容師で。いつもそれなりに髪をセットしている。服装だって、店の印象に合ったシンプルで清楚な、でもおしゃれなものを選んでいる。だけど今日は違った。ただ乾かしただけの髪、着こまれたTシャツにフードの付いたパーカを着ていた。パーカの前の部分に着いたポケットに手を突っ込んで。きっとそれは、指の怪我を隠してるんだ。瞬時にそう思った。
「あのさ、今日はここで」
「え?ここ、って?」
「玄関で」
柊羽は無表情でそう言った。別に私に逢いたくて来たわけじゃないんだ。そんな気がした。
「話だけしたらすぐ、帰るから」
「話って、よくない話?」
「そう、かもしれない」
柊羽の声は小さくて、申し訳なさそうに小さくて。目を合わせてくれないまま、大きく息をした。
「もう、逢うのやめようと思うんだ」
長く伸びた金色の柊羽の前髪が少しだけ揺れていた。同じように柊羽の視線も揺れていた。
「誰か他に好きな人、いるの?」
何かを考えているような、言葉を選んでいるような、その視線は私と全く合わなくて。ただ、私のこの質問の答えを言う柊羽は、完全に私と視線が合っていた。
「いないよ」
さっきまでと違うはっきりとした大きな声で柊羽はそう言った。嬉しかった。違うんだ。好きな人ができたわけじゃないんだ。でも、好きな人ができてくれたそのほうが、救われたかもしれない。ただ単純に、フラれたほうが。
「いつまで、とかじゃなくて、ずっともう逢わないの?」
「ずっと」
もう決めた。そんな声だった。私は逢いたいのに。私の気持ちは?いろんな思いがこみ上げてきて。私は自分の思っていることを彼に話した。
私は恋をするのが下手だ。学生の頃からずっと。好きになる人はいつも自分勝手に私を翻弄する。それが嫌じゃなかった。その人に染まるのが好きだった。それで何度となく辛い思いもした。勝手に恋に恋をしているだけの、そんな恋愛経験しかない。それでも今度は、柊羽との恋だけは違うものにしたかった。それくらい、好きになったんだもん。
「柊羽に怪我をさせた原因が私だから?」
「なんでそれ」
後悔ってこういうことなんだろうなって思う。柊羽が怪我してること、知らないフリを続ければよかった。もう逢わない理由を、話したくないと言った柊羽が、その後少しずつ、思ってることを話しだした。
それはなんだかとても難しい。言ってることが、ちゃんと聞いているのに耳に入ってこなくて。どういう意味?って聞き返したくなるくらい、だけどもう聞きたくない。逃げたいと思った。だけど玄関のドアは、目の前に居る柊羽のその向こうにあって。出ていけるわけがない。部屋の中に逃げたって、柊羽はきっとそのままこの話の続きをするんだろう。今私はこの場から逃げることもできなくて。座り込んだそこで、怒りを感じた。
「意味わかんない!」
「なんだよ。言いたいことあるなら言えよ。もう我慢しないんだろ?」
そう。私は思ったことも言えずに別れた彼氏たちにはずっと遠慮して付き合ってきた。でも今回は違う。だから逢ってすぐに思ってることを口にした。柊羽に。あなたのこと好きになったって。
好きなのに。こんなに好きなのに。
「最低。くそ真面目で融通きかなくて。自分勝手でいくじなし」
「そんで?他には?」
柊羽の目が怖かった。私から視線をひとつも外さずに。今日ここに来てすぐの柊羽とは別人だった。ぎゅっとしまった口元が、何か言いたそうで。だけど、そこに居るのはやっぱり、柊羽なんだよ。
涙が出てきたのは自分でもわかった。パーカのポケットから出された柊羽の怪我をした手に、私はそっと触れた。
「好き。柊羽のこと」
柊羽の唇がゆっくりと和らいだ気がする。その視線がまた、揺れた気がする。掴んだ柊羽の手の指が、少し動いた気がする。
「だから好きなの。それが柊羽なの。だから一緒にいたいと思ったの」
真面目で融通がきかない。仕事に打ち込んでいる時は、何度携帯を鳴らしても気づかない。メールの返事も来ない。自分自身が納得できたらやっと、連絡が付く。自分勝手だ。マメでもないし、面倒くさがりだ。だけど、それで私を無下に扱うわけでもない。だからこそ、たまに逢う柊羽はとても優しい。私のこと面倒くさいんだろうなって思っていた不安が一気になくなる。どれだけ好きだと伝えても友達でしかいてくれないくせに、そんな時だけ女の子扱いする。大事にしてくれる。思いがいっぱい溢れだして涙が止まらなくなってしまった。
「萌恵?」
柊羽は手を離さなかった。私が掴んだその手を握り返してくれていた。怪我をしたその手で。そして今度は別のほうの手が私の頬に触れた。涙を拭った。私の髪をかき上げながら、俯く私の顔を覗き込もうとする。いつも泣かないようにしていたから。柊羽の前ではできるだけ。どうしても隠そうとしてしまう。なのに柊羽は涙でぐしゃぐしゃの私の顔を自分のほうに向けさせるようにすると、小さくキスをした。
「萌恵?」
なんでキスなんかするのよ。涙が余計止まらなくなるよ。なのに柊羽は、そんな私の気持ちを知らずか、壁に私を押し付けた。斜めに覗き込むその視線はとても優しくて。柊羽の前髪が私の鼻に触れたかと思ったら、また彼の唇が私の唇に触れる。さっきよりも長く、深く。向きを変えるたびに音がする。愛しい音。あなたの指が私をなぞる。首筋も腕も、ゆっくりとなぞる。柊羽を離したくないと思った。自然と私は彼を両手で抱きしめていた。
「って!」
急に、柊羽が唇を離して声にならない声を出した。まだ、触れていたいのに。抱きしめていた私の両腕はほどかれた。体を離した柊羽は、怪我をした指を胸のあたりで包み込んでいた。大丈夫?そう言いたかったのに、言えなかった。一気に現実に返る。そうだ。もう逢わないって話をしていたんだ。それを思い出させるかのように優しい笑顔で柊羽は言った。
「俺みたいな自分勝手な我儘なやつじゃなくて、優しい男見つけな。ね?」
「柊羽は?それで平気なの?」
「平気じゃないよ、好きだったから」
「え?」
「萌恵のこと、大好きだからさ」
柊羽は。もう逢わないと言いに来た最後の日に、そんな日に。初めて私に好きだと言った。
■Lover
意外にも、柊羽への想いを胸にしまうのに時間はかからなかった。あんなにあの日柊羽の前で泣いたのに、その後普通に仕事に行って、普通にバラエティ番組の収録をした。柊羽は帰り際、私に声をかけてから帰って行った。いかにも仕事が大好きな柊羽らしい言葉だ。涙がやっと止まって、けどひどい泣き顔になっていた私を見て言った。その日していたブルーのアイシャドーが似合わないと。
「それ、どうにかしろよ」
「それ?」
「ブルーのアイシャドウあんまり似合わない」
「え?」
「前髪切ってから印象変わったから、ピンクとベージュのグラデーションのほうがいいと思う。逆にチークはピンクじゃなくて、サーモンピンクくらいの柔らかいのがいい。リップはベージュでも淡いピンクでも、服によっては案外レッドでもいい。ちょっと変えてみ?」
鏡を見てみると、たしかに泣き顔にいっそうブルーの色が残念に映って見える。
「ひどい顔してるね。今、私」
「仕事行く前に一度温かいタオルで目のあたりだけ抑えるようにして。メイクし直す時はさっき言った色がいい。持ってないなら仕方ないけど」
「たぶん、ある」
「じゃあそうしなよ。萌恵はその方が似合うよ。可愛い、ぜったい」
不思議だったけど、そんな会話をしている時にはもう私の俯いていた顔は上を向いていた。さよならをしにきたくせに、私の背中を柊羽は押した。
そのあと言葉少なに出て行った柊羽を見送って、私は洗面所に向かった。メイクを落として、言われた通り温めたタオルで目のあたりを抑えるようにしながらソファに座って天を仰いだ。
もし、もしあの時。初めて柊羽に声をかけたあの日。私が柊羽に好きだと言わなかったら。普通に友達で、たまに一緒にご飯を食べて。いつもnuovoに髪を切りに行く。柊羽にヘアスタイルを相談しながら。冗談を言って。店長と三人で笑って。もしかしたら、いつかはテレビや雑誌の仕事の時も、柊羽にヘアメイクをお願いしたりして。そうやって少しずつ同じ時間を過ごして。焦らず。ゆっくりと同じ時間を過ごして。そうしていたら、もっと友達で、ううん、恋人同士になれたのかな。
いや、それでもきっと、恋人同士にはならなかった気がする。片思いでよかったんだ。無理をし過ぎたんだ。今度の恋は素直になろうって、我儘も言おうって、いろいろ考えていたのに何一つできなかった。素直になってるつもりだったけど、自分の想いを押し付けてるだけだった。思わせぶりな柊羽に、甘えてるつもりが甘えることもできなかった。好きだと最後に言ってくれたのに。もう逢わない選択をさせてしまったんだから。
タオルを外すと、温まった目のあたりが柔らかい感じがした。これから仕事なのに、きちんとしなきゃ。そういう仕事を選んだんだから。柊羽には負けてらんない。部屋に戻ってメイクをし直した。柊羽の言ったとおりのメイクで。今日は自分でやったメイクでテレビに出よう。鏡に向かって笑顔を作ってみる。そして私は声に出した。
「柊羽のばか・・・さよなら」
柊羽を好きだと思っていた頃には、柊羽以外に好きな人なんてできないと思っていたけれど、そんなことはなかった。父に紹介された人を好きになった。一番無いと思っていたパターンだった、親の紹介なんて。父の会社の取引先の息子さんだった。聞いたことのある会社だった。歳だって十一も上だし、ぜったい無いと思っていた。だけど会ってみたら年齢の差を感じさせない人だった。スーツを着ている時は紳士って感じだけれど普段はフランクで、会う前から私のことをテレビ越しで知っていたと話した。
「あれ、面白かったよ」
「あれ?って・・・」
「ちょっと前に、テレビに出てるの見てたんだけど」
「はい」
「今日失恋しました!って言ってたよね」
「え?」
・・・あった。ありました。そう、あの日あのあとテレビの収録先に行って、トークテーマがあるので自由に話してくださいって言われていたので、恋愛に関してのテーマの時に言った。
「今日失恋したんですよ、ここに来る前」
「ここに来る前?マジで?いいの?そんな話テレビでして」
「だって本当ですもん」
「なんでフラれたの?付き合ってた人?」
「違います、片思い。っていうか勝手に付き合ってるのかもって思ってて、私。超格好悪くて」
「それは格好悪いな、でもフラれたってことは好きって言ったんだ?」
「言いましたよ、好きだったから。でももう逢わないって言われちゃって。どうしたらいいですか?」
司会の男性とそんなやりとりをして。共演している他の芸能人の人とも会話をした。
「フラれて超最悪なんで、今一番どん底なんで、今日は怖い物無しなんです。どうしたらいい恋できますかね?」
そう言った私の言葉を覚えていたそうで、父の紹介で会ったその人は今回の話が決まった時に間違いなく私を好きになると思ったと言った。
「私を好きに?」
「ええ、好きですよ、萌恵さんのこと」
「今日初めて会ったのに?」
「会ったのは初めてだけど、会ってみたらテレビのあの時のまんまだった。やっぱりこの人のこと好きだって思った」
そう言われて懐かしい気持ちになった。初めて柊羽に声をかけた日の自分みたいだった。
「好きになっちゃったかも、しれない」
あの日の自分を思い出したのと、この人のことを私も好きになるかもしれないっていうのとで、思わず笑ってしまった。
「どうかしました?」
「いえ。嬉しいな、と思って」
父の紹介とはいえ、断るつもりで会いに行ったのに、結果その後付き合うことになった。
「で?あの時あなたのことをフッた人の話を聞いてもいい?」
「え?どうしてですか?」
「どんな人か気になるでしょ?」
「えぇ?男の人ってそういうのあんまり気にしないって聞きますけど」
「はは、じゃあ俺は女々しいのかな。いや、ちょっと違うか。ヤキモチ妬いてんのかな、あなたをフッた人に」
「ヤキモチですか?」
「どちらにせよ、今までもあなたをテレビで見たことはあったけど、殻を破らせてくれたのは彼だよね、きっと」
「どういう意味ですか?」
「今までお嬢さんってイメージのタレントさんだなって思ってたけど、本来のあなたの姿が出るようになったんじゃない?あのあと」
たしかに、仕事の内容は少し変わったかもしれない。気に入ってくれる大物の人も増えたし、可愛がってもらえるようになった。
「ねえ、彼の名前はなんていうの?」
「柊羽、です。佐久田柊羽」
柊羽の話はたくさんした。もちろん、話せない内容もあるけれど。
「いい腕の美容師さんなんだね、きっと」
そう言いながら話を聞いてくれる。
「けど、今はあなたは俺の彼女だから」
そして甘えさせてくれる。我儘にもさせてくれる。素直にならせてくれる。居心地のいいその場所はこれまでにない心の落ち着く場所で、きっとこれが最後の恋になると思った。だけどそれでも一度だけ、柊羽を思い出して泣いたことがある。仕事で読むように言われて手にした、シェイクスピアのロミオとジュリエット。その一節だった。
Parting is such sweet sorrow.
別れはあまりに甘い悲しみだ。※1
新しい生活が始まっても、ふと思い出すことがある。過去に付き合った人なんて、なんとなくの思い出でしかなかったのに、柊羽だけは違った。ふと思い出して、笑顔にさせてくれる。元気でいるのかなって思いながら、自分もがんばれる。そんな風に過ごして数年経ったある日、一枚のハガキが届いた。とても驚いた。けどそれ以上にテンションの上がっていたのは彼だった。
「ほんとに?柊羽くんから?」
「うん、柊羽の働いてるお店。新しい店舗出すみたいで店長になったって」
「すごいね、やっぱりいい腕の美容師さんなんだよ」
「ほんとに、すごいよね、うん・・・すごいよ柊羽」
「会いに行ってみたら?」
「え?」
「だって、ほら、ぜひいらしてくださいって書いてある」
「でも・・・」
「会うの怖い?それとも俺に遠慮してる?」
「どっちも、ちょっと」
「俺は大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「いや、ちょっと嘘」
彼は小さくそう言って笑った。
「髪、切ってもらってこようかな」
「うん、そうしたら?」
「予約入れなきゃ無理なのかな。でも、ちょっと突然行って驚かしたい気持ちもあるんだけどなあ」
「いいね、それ」
「一度お店に行くだけ行ってみようかな、ほら、カフェスペースあるって書いてあるし」
「ほんとだ」
「その時に、会ってみて平気そうだったら予約入れようかな」
「保険かけてるみたいだね、それ」
「まぁ、間違いじゃないけど。あ、カフェ一緒に行こうよ」
「いや、俺はやめとくよ。一人で会ってきな?」
「なんで?」
「そのほうがいい」
「そう?」
次の休みに、私は久しぶりに懐かしい名前のお店のドアを開けた。[nuovo]。場所も店の雰囲気も違うけど、そこには懐かしいあの人がいた。
-Fin-
※1 シェイクスピア ロミオとジュリエットより
sweet sorrow