アリアドネの糸

 初稿は最初に載せたもの、改稿はそれを元に手直ししたものです。

初稿

 パンドラの箱と言うのを、ご存じだろうか?

 ギリシャ神話に登場する、罪悪 、疾病、災厄―ーともかくありとあらゆる苦しみが、封じ込めらた箱である。

 これをパンドラが好奇心から開けてしまったがために、それらはあっという間に世界中に拡散し、以来、人類は不幸に見舞われるようになる。

 けれども箱の底には希望が残っていて、故に世界は苦しみに満ち溢れているけれども、常に人類には希望がある。
 
 ――とか言う話は、おそらく誰もが知っているように思われる。

 けれども僕は、ふと、この話は全く反対の解釈がで出来るのに気付いたのだ。

 もしかしたら、これこそ正しい解釈で、真理なのではあるまいか――僕は、憂鬱になった。

 この寓話によれば、そもそも封じ込められていたあらゆる苦しみが、箱の外に出たことで人類はあらゆる苦しみに見舞われるようになった――。

 と言うことは、恐ろしいことになる。

 希望は、未だ箱の底にあるのだから!

 人類にあるのは苦しみだけで、希望なんぞは端からこの世界にはありはしない。
 
 何故って希望は、パンドラの箱の底にあるのだから!


 今日、ありとあらゆる苦しみは、確かに世界中に充ちている。 

 こんな現実を前にして、やはりこの世の中に希望なんてないんじゃないか、僕の解釈が正しいのではないか、そんなことを思ってしまい、僕はますます憂鬱になる。 

 僕はしかしこの話を、友人に、何気なく酒の席で話したところ、この友人から、覚えず僕はアリアドネの糸を授けられたのである。 


 その日は三連休の中日で、僕は友人から、 


 女房は昨日から、旅行に行って留守
 明日の晩にならないと帰らない
 今からウチに来い
 今日はとことん呑むべし 
 

 とか言う、既に出来上がっているのか豪気なメールを、お昼前だというのに頂戴し、僕も、彼に負けじとディオニオスよろしく酒好きなので、いそいそと出掛けることにした。

 
 果たして友人は出来上がっていて、真っ赤な顔で、上機嫌だった……。

 けれど、ちょっと信じられない、僕なら酒を呑むのをためらってしまう光景がそこにあった。
酒気に充ちたこの部屋の片隅に置かれたおもちゃ箱――その傍らで、今年四つになる彼の息子のシュウ君が、無邪気に一人遊びに興じていたのだから。

「や、よく来た。座りたまえ。呑もうじゃないか」
「子供が、居るじゃないか」
「言ったろ、女房は旅行だと」
「いや、そうじゃなくて、子供の前だぜ、みっともない。僕は、まあ構わないが、君は、父親である君が、こんなみっともなく酔っぱらった姿を見せて、いいのかい? 教育上、宜しく無いだろう?」
「いーんだよ、親がだらしのないほうが、かえって子供はよく育つ。これを反面教師という。すなわちこれが我が家の教育方針」
 と言って、彼はぐびぐびと、実にうまそうに酒を呑む。
「いや、やっぱりだめだよ、子供の前で」
「何をいってやがる、口では綺麗事言ってても、見ろ、身体は正直だ、呑みたくってしかたのないようじゃないか」
「え?!」
 
 僕は、恐ろしくなった。僕の右手には、いつのまにか、日本酒の並々と注がれたコップが、ちゃっかりにぎられていたのだから!

「昔から、酒は百薬の長という。たとえ毒でも、信じて呑めば、薬となる。これをプラシーボ効果という。さあ、呑め、我慢はそれこそ身体に毒だ」 

 僕は苦笑し、観念し、それでも説教した手前、最初は、シュウ君を気にしながら、おずおず呑んだ。けれど杯を重ねるにつれ、次第に僕も大胆になり、三十分もせぬうちにシュウ君のことなど、もはやどうでもよくなってしまっている自分が居るのだから、酒呑みとは、全く困った人種である。

 二人、へべれけに酔って、低俗な哲学者に成り下がる。

 僕が、決闘前に遺書をしたためたガロアの愚行を嘲れば、彼も負けじと『僕に画が描けたら俳句はなんぞやってない』と言う正岡子規の言葉を引用し、俳句を下らないと看破して――とにかくお互い好き勝手無責任なことを言い合う始末であった。

 そんな両者酩酊状態のもと、僕は例のパンドラの箱の話を、何気なく彼にした――してしまったのであった。

 彼は大きく一つ溜め息を吐き、
「お前は、またそんな下らないことを考えていたのか。下らない、実に下らないことを考えて、一人憂鬱になっている。全く下らな過ぎて、実にお前らしい。しかしだな、本当にお前が憂鬱であると言うのなら、俺の誘いにのこのこ乗って、昼間っから愉快に酔っていられるはず無いだろうが!」と、僕を怒鳴りつけた。

 図星だった。
 そんなことを考えた刹那、僕は確かに憂鬱だった。
 けれど今現在、僕は全然憂鬱ではなく、むしろ陽気に酔っている。
 既にどうでも良かった。

 この話を、よりにもよって酔っ払った彼を相手にしたこと自体、それを証明していた。

 彼はニヤニヤと、僕の心中見透かすように笑いながら、
「図星だろう? 図星だ。やっぱりそうだ。まあしかし、俺は優しい男だから、お前の偽りの悩みにも、アリアドネの糸を授けてやろう」と言って、今の今まで失念していた彼の息子、シュウ君を指差した。 
「まさか、あの子が俺の希望だなんてことを言って、僕を失望させる気じゃあるまいね?」
「これだからお前は思慮が浅い。まあ黙って見てな」
 そう言うと、彼はシュウ君に向かって叫ぶ。
「ガオー! シュウ、怪獣だぞ怪獣。ガオー!」

 呆気に取られる僕を後目に、彼は大袈裟なジェスチャーを交えて、怪獣を熱演し続ける。

 するとシュウ君は、何やら取り憑かれたかのように、おもちゃ箱のおもちゃを、掴んでは放り投げ、掴んでは放り投げし始めた。

「お、おい、大丈夫なのか? まさか酒の臭いで酔っ払ったんじゃ……」
 慌てる僕に、彼は平気な顔で言う。
 もちろん怪獣の真似を続けながら。
「探しているのさ」
「探す? 探すって何を?」 
「エルピス」
「希望?」
「まあ、見てろ」

 訳が分からないまま、言われるがまま、僕はシュウ君を観察し続けた。

 しばらくシュウ君は、おもちゃ箱のおもちゃを掴んでは放り投げるを繰り返していたが、やがて意中のものを探し当てたのか、こちらを向き直す――その小さな右手には、特撮ヒーローの人形がしっかりと握られていた。

 そうして、その人形を彼――シュウ君の父親の鼻っ柱に突き付けるや、

「必殺光線、ビビビビビー!」と、やたら大声で叫んだ。
「ギャー!」

 彼も負けじと大声で、大袈裟に苦しみの悲鳴をあげながら、バタンと、仰向けに倒れた――その様を見てシュウ君はきゃっきゃと笑う。

 唖然とする僕に、彼は倒れたまま、目だけ僕の方に向け、
「簡単なことじゃないか。そこに希望があるとわかっているのなら、取りに行けば済む話じゃないか」

「あ!」と、僕は思わず声が出た。

 その通りだと思った。

 彼は見事に、僕にアリアドネの糸を授けてくれた。

 けれども――それが酔っ払った彼の口から出た言葉だっただけに、僕はすごく口惜しくて、全然、別なことを言ってやった。

「シュウ君は――」
「うん?」
「――シュウ君は、きっとお前に似て、将来立派な酒呑みになる」

 彼はにっこりと笑い、そのまま眠りに落ちた……。                                                         おわり

改稿 又『そこにあるなら』と改題

 パンドラの箱を、ご存じだろうか?
 ギリシャ神話に登場する、罪悪・疾病・災厄といった、ともかくありとあらゆる苦しみが封じ込められた箱である。これをパンドラが好奇心から開けてしまったがために、それらはあっという間に世界中に拡散し、以来、人類はあらゆる不幸に見舞われるようになる。けれども箱の底をのぞいてみると、ただ一つ希望が残されていた。ゆえに世界は苦しみに充ち溢れているけれど、つねに人類には希望がある――とかいう話は、おそらく誰もが知っているように思われる。
 けれども僕は、この話は全く反対の解釈が出来ることに気付いてしまったのだ。
 この寓話によれば、そもそも封じ込められていたあらゆる苦しみが箱の外に出たことで、人類はそれらに見舞われるようになったわけだ。ということは、恐ろしいことである。なぜって、希望はいまだ箱の底にあるのだから! 箱の中にあっては、それは効力を発しない!
 つまり、人類にあるのはただ苦しみだけ、希望なんぞハナからこの世界にはありはしない――この寓話はそういいたいのではあるまいか?
 戦争・テロ・飢餓・新種の病原菌ウィルス云々――事実、今日ありとあらゆる苦しみは、たしかに世界中に充ちている。こんな希望のカケラすら見つけられないような現実を前にして、僕は憂鬱に、溜め息を一つ吐いた。
 けれど、僕はこの話をふと何気なく、とある酒の席で友人に話してしまったところ――おぼえず僕は、彼から『アリアドネの糸』を授けられることとなる。


 それは、ゴールデンウィーク前半の三連休の中日。お昼前にもかかわらず、僕は彼から次のような豪気なメールをちょうだいした。

  女房は女友達と旅行で留守
  あしたの晩まで帰らない
  今からウチに来るべし
  今日はとことん飲むべし
 
 僕は苦笑した。苦笑しつつも、二人ともディオニソスよろしく大の酒好きだった。というわけで、途中コンビニで酒のつまみを見つくろい、僕はいそいそと彼の家、2DKの賃貸アパートの一室を訪れる。彼は果たして出来上がっていて、真っ赤な顔で上機嫌のようだった。けれど、ちょっと信じられない、僕なら酒を飲むのをためらってしまう光景が、そこにはあった。
 酒気に充ちた、ベランダに面する和室の片隅に置かれたおもちゃ箱――そのかたわらで、四つになる彼の息子のシュウ君が、むじゃきに一人遊びに興じていたのだから。
「や、よく来てくれました。まあ、お座りなさい。駆けつけ一杯、まずは飲もうじゃありませんか」
「おい、シュウ君がいるじゃないか」
「いたらダメですか? ショーシンショーメー、ワタシの子です」
「そうじゃなくて、子供の前だぜ、みっともない。僕は、まあかまわんが、父親である君が、こんなみっともなく酔っぱらった姿を子供に見せて、教育上よろしくないだろう?」
「いーんです、親がだらしのないほうが、かえって子供はよく育つ。これを反面教師という。これすなわち、我が家の教育方針です。いけませんねえ、ヒトサマの家庭への口出しは」とかなんとかいって、彼はぐびぐびと、実にうまそうにコップ酒を飲む。つられて僕は、思わずごくんと生つばを飲む。その音が、何と脳天に響くこと! 危うく酒の臭いにつられそうになるところ、
「い、いや、やっぱりだめだ。大人として、いや人として、子供の前で――」
 僕はぶんぶんと頭を激しく振って、自制心をしぼり出す。しかし彼は、そんな僕の手もとを指差しながらこういった。
「へへ、何をいってやがるのです。口ではキレイごと並べても、ごらんなさい、身体はまったく正直です。飲みたくってしかたのないようじゃありませんか!」
「え?」
 僕は、恐ろしくなった。なぜって僕の右手には、表面張力一杯、いつか並々と日本酒のそそがれたコップが、ちゃっかり握られていたのだから!
「……」
 茫然自失する僕を、
「昔から、酒は百薬の長といいます。たとえ毒でも、信じて飲めば薬となる。これをプラシーボ効果といいます。さあ、飲みましょう、ガマンはそれこそ身体に毒です」と、彼は悪魔のように誘惑してくる。
 僕は苦笑し、観念し、それでもああいってしまった手前、シュウ君を気にしながら、初めはおずおず飲んだ。けれど、一杯一杯復一杯と杯を重ねるにつれ、次第に僕も放胆になっていく。そうして、わずか三十分もせぬうちに、シュウ君のことなど、もはやどうでもよくなってしまっている自分がいるのだから、酒飲みとは、全く困った人種である。
 二人、へべれけに酔っぱらい、低俗な哲学者に成り下がる。僕があたりめしゃぶりつつ、決闘前夜に遺書をしたためたガロアの愚行を嘲れば、彼も煎り豆噛みながら『僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう。』という正岡子規の言葉を引用し、俳句をくだらないと看破してみせ――カンカンガクガク、とにかくお互い好き勝手無責任なことをいい合う始末であった。
 そんな両者メイテイ状態のもと、僕は例のパンドラの箱の話を、何気なく彼にした――してしまったのである。

 彼は大きく、酒臭い息を一つ吐き、
「君は、またそんなくだらないことを考えていたのですか。くだらない、実にくだらないことを考えて、一人憂鬱になっている。まったくくだらな過ぎて、そこが実に君らしい。しかし、です。ホントに君が憂鬱であるというのなら、ワタシの誘いにのこのこ乗って、昼間っからこうしてユカイに酔っばらっていられるはず無いでしょうが!」と、僕を怒鳴りつけた。
 図星、だった。
 そんなことを考えた刹那、僕はたしかに憂鬱だった。けれど今現在、僕は全然憂鬱ではなく、むしろ陽気に酔っている。すでにどうでも良かった。何よりこの話を、よりにもよって酔っぱらった彼を相手にしたことが、それを証明していた。
 彼はニヤニヤと、僕の心中見透かすように笑いながら、
「図星でしょう? 図星だ図星、やっぱりそうだ、あっはっは。はぁー、まあしかし、ワタシは優しい男でありますから、君の偽りの悩みにも、見事な解答――いわゆる『アリアドネの糸』を授けてやるとしましょうか」といって、今の今まで失念していた彼の息子、シュウ君を指差した。
「……まさか、あの子が私の希望だなんて月並みなことをいって、僕を失望させる気じゃあるまいね?」
「やれやれ。これだから君は、思慮が浅い。まあ、黙って見てなさい」というと、彼はシュウ君に向かって相撲のそんきょの姿勢を取ると、両手人差し指で頭上にツノのようなものを作り、
「モー! シュウ、怪獣だぞ怪獣。ミノタウロスだモー!」と、やたら大きな声で叫んだ。
 呆気にとられる僕をしりめに、彼はおおげさなジェスチャーを交えながら、怪獣――ミノタウロスを熱演し続ける。そんな彼を見たシュウ君は、パッと表情輝かせ、それから何かに取り憑かれでもしたかのように、おもちゃ箱のおもちゃを、掴んでは放り投げ、掴んでは放り投げし始めた。
「お、おい、大丈夫なのか? まさか、酒の臭いで酔ったんじゃ……」
 慌てる僕に、彼は平気な顔でいう、もちろんミノタウロスのまねを続けながら。
「探しているんだモー」
「探す? 探すって何を? てか、モー?」
「エルピスだモー、あとミノタウロス語だモー」
「ミノタウロス語? てか、希望?」
「まあ、しばし黙って見てるだモー」
 訳が分からぬまま、そうして彼の取って付けたようなミノタウロス語にイラだちを覚えながらも、僕はいわれるがまま、シュウ君の観察を続けた。
 しばらくシュウ君は、箱の中のおもちゃを掴んでは放り投げるをくり返していたが、やがて意中のものを探し当てたのか、こちらを向き直す――その小さな右てのひらには、特撮ヒーローの人形がしっかりとにぎられていた。
 その人形を、シュウ君は己が父親の鼻っ柱に突き付けるや、
「必殺光線、ビビビビビー!」と、これまたやたら大声で叫んだ。
「ギャー!」
 彼も、さらに負けじと大声で、おおげさに悲鳴をあげながらバタンと畳の上に仰向けに倒れるや、さながら殺虫剤を浴びせられたゴキブリのように、しばし両手足でばたばた中空を掻く。ややあって、それを大の字に開くと、あとはそのまま動かなくなった……。そんな彼のサマを見て、シュウ君はきゃっきゃと笑っている。
 状況全く飲み込めず、困惑するしかない僕に、彼は倒れたまま、目だけこちらにやって、
「簡単なことなんだモー。そこにあるなら、あると分かっているのなら、こっちから取りにいけば済む話だモー?」
 彼からの、アリアドネの糸。
「あ!」と僕は思わず声が出た。
 それだ! それこそ真理だと思った――思ってしまった。けれども、それが他ならぬ彼――酔っぱらいの口から出た言葉だっただけに、僕は口惜しく、気恥ずかしくって、全然別なことをいってやった。
「あの子――」
「うん?」
「シュウ君は、きっとお前に似て、将来リッパな酒飲みになる」
「当然だモー。なんせシュウは、ショーシンショーメー、ワタシの子だモー」
 そういって莞爾と笑うと、赤ら顔のミノタウロスは、そのまま静かに眠りに落ちた。

アリアドネの糸

 改悪になってないか不安です。

アリアドネの糸

ギリシャ神話のパンドラの箱。 この話に全然別の解釈が出来ることに気付いて、憂鬱になる僕。 そんな僕に、友人が覚えずアリアドネの糸を授けてくれる話。 『星空文庫』初掲載作品です。 初稿:3219文字。 改稿:3799文字。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 初稿
  2. 改稿 又『そこにあるなら』と改題