さくら

四月の頭のことです。私は一人夜行列車にのっておりました。
「はい明日の夜には着きますよ。」 二軒目への公衆電話を切る。そうして夜行列車に乗ったのでした。
私の住むあの大都会を出たのは、午後十時ごろでしょうか。
点々と明かりが灯る・・・片田舎の田圃道が見えては消え、見えては消えを繰り返す。
そうして、私は母の住む街へ向かっているのでした。

少し補足しますと母の住む街に私は言ったことがありません。
故郷ではないのです。私が家を出て以来母は叔母と叔母の街で暮らしていました。

私は実に十八年ぶりに、母に会うのです。
最後に会ったのは高校を卒業して家を出るための見送りでした。駅のホームだったと思います。元より孝行者とは言えない私でしたが、三十も半ばを過ぎたことと結婚したこと子供ができたこと・・それから、今の私の状況を考えて
私は母に会いに行こうと重い腰を上げたのです。
十八年も会ってないと、実の母でも緊張するものです。こうして夜行列車で向かっている間も・・少し会いたくないのです。
我ながら寂しいものです。
しかし、十八年もたったひとりの家族に会いたくても会えなかった母の方がよっぽど寂しかったという事に
先ほどの電話での声を聞いてわかりました。
申し訳ありません・・・
それから暫らく母の思い出を辿りました。
思い返してみれば父にも振り回され、息子はこの通りです。母はよく最後まで父に連れ添ったと思います。
そう思い返しているうちに私は、眠ってしまいました。

朝です。下車しました。
この日私は、母の住む街へ行く前に旧友の家を久しぶりに訪ねました。
彼の住むこの町が、私は好きでした。以前来たときは、彼の結婚式に参加するためでありました。
彼は若くして結婚しましたから、もう随分昔になりますが。
駅から出てしばらく歩くと私はほっとしました。この町は何も変わっていなかったのです。
しかし、それと同時に悲しくなりました。気持ちの問題なのでしょうか。私は以前のようにこの田舎町の風景に何も感動しなかったのです。
そして、釈然としない心のまま彼の年賀状に書かれた住所を訊ねて行きました。
途中廃れても、栄えてもいない商店街を抜けたとき奇妙な光景を目にしました。
桜の木です。ポツポツと生えているのですがおかしいのです。
私はしばらく茫然と立ち尽くして考えました。これも、気持ちの問題なのだろうか?だとしたら私は相当参ってしまっている。
ハッと気づいて、再び歩き始めました。こんな道の真ん中で立ち尽くしていたので、人の目が気になったのです。
そして、妙な不安と好奇心を抱えたまま再び歩き始めました。
川沿いの煙草屋の前で私はまたハッとしました。
桜の木は関係ありませんでした。
私は自分がタイムスリップしたような妙な錯覚に陥りました。
これを書いている今はバカバカしいのですがとにかく当時は、心臓を抉られるような不安が増していきました。
私がそんなバカバカしい感覚に陥ったのも無理はなかったのです。
煙草屋の前の自販機に、二十数年前の旧友がいるからです。正確に言うと彼によく似た少年でした。少年は短髪で、額がせまく眉が十時十分を指しているように険しい表情をしており服装は、だぼだぼのジャージを着ていました。年のころは十三、四歳でしょうか。姿形だけではなく仕草もそっくりでした。彼はボーとしていると無意識に指を鳴らす癖があったのですが、
その少年も同じでした。
近づくたびに自分がどうかしているんじゃないだろうかと不安に思いながらも、私は勇気をもって少年に話しかけました。
この時私の頭の中には少しばかりの確信がありましたから、そのような大胆な行動をとれたのだと思います。
「あの、ちょっと・・・」私がそう口を開くや否や少年は、キッとこちらを見据え小さく威嚇するように「何?」と突っぱねたのです。
私も、気が動転していたため気付かなかったのですが、彼は煙草を買っていたのです。
十三、四の少年に怯えるとは、恥ずかしいのですが私は言葉に詰まりました。
何から話せばいいものか?そう考えているうちに少年は
「おっさん余所もんだな?」と言いました。この一言がさらに私を動転させました。
沈黙時間にして二分くらいでしょうか、どうにも逃げ出したくなった私はさっと彼から来た年賀状を少年に渡しました。
少年はしばらくセブンスターを片手に考えているようでした。
そして短く「父さんの友達?
」と言って少年は私を家まで案内してやるというらしく「ついてきな」と言わんばかりに前を歩き始めました。
お気づきでしょうが少年は、彼の息子でした。
この事実を知り私はやはりどうかしていると何度も思いました。
緩い坂を上り山の中腹にあるさみしい公園を通り越し、穏やかな川の流れている近くの住宅街に彼は住んでいました。道中十五分位沈黙です。私は桜の事や彼の事少年の事いろいろ聞きたかったのですが。
無理でした。弱り切った私は少年に口を聞くこともできなかったのです。
そうこうしているうちに彼の家に着きました。
私はまた臆病な考えに支配されていました。少年は、私の事を大人としてだめな人間だと思ってはいないか。
それを父である彼に言うのではないか、彼はそれを聞いて自分をどう思うのだろうか・・
そんな臆病な考えを巡らせているうちに、私の目の前には彼がいました。

土曜の昼だというのに彼は忙しそうでした。私は少し申し訳なく思いながらも彼の好意に甘えて彼にお土産を渡すと家に上がりました。
私はしばらく忙しく家事をする彼と家の中を見て、ある程度の事が理解できました。
あぁ彼も大変なんだ。人間いつでも何らかの問題を抱えているものなんだ。私だけじゃないんだと少し気持ちが楽になりました。
食器を洗い終わった彼は、お土産のお茶菓子を持ってきてにこやかに「久し振りだなぁ」と感慨深そうにつぶやきました。
私は彼に、「突然どうしたんだ?お前が訪ねてくるなんて、昨日電話が来てから今まで信じられなかったよ。」と
私はこれから母に会いに行くついでだと簡単に話しました。
彼は年齢の割に少し白髪が多く数十分前に彼の息子に見た面影は薄れていました。
そのうち身の上話が始まりました。それは、私たちの少年時代の思い出から自分たちの近況、世間話そんなことを話している時
電話が鳴りました。彼は電話に出るなり先ほどまでの楽しい口調を止め、現実に戻されたかのようにハッとして「すぐにいきます。えぇはい、お願いします。」
と電話を切るなり私に「すまん、どうしても外せない用が出来たんだ。息子に駅まで送らせるから、またお母さんの家に行った帰りにでもよってくれ。」と
慌ただしく言うと、二階にいる息子を呼んで出て行きました。私はついに自分が彼に会いにきた理由を言えないままでした。
それは、とても心残りでしたがそれよりも桜の木の事を聞けなかったことが心残りでした。
少年は、ボーとする私に
「駅まで俺もついてかなきゃだめ?」と聞いてきました。
当時の私ならなるべく他人に迷惑をかけないように「一人で大丈夫。」と言うはずでしたが、桜の木の事がどうしても聞きたかったので少年に
申し訳ないと思いつつもお願いすることにしました。

少年はしばらくポケットに手を突っ込み不貞腐れたように歩いていました。
先ほど少年に彼の家まで案内してもらった時より、話しかけづらくもうどうにもできませんでした。
緩い下り坂を下っている途中私は、ついに匙を投げました。
話を切り出そうと考えることをやめたのでした。
この時私は、現実から逃げるように外の田舎の匂いを吸い込みただただ景色を見ていました。
こうなれば、楽なものでした。
そんな、私の様子を察したのか少年はチラッとこちらを振り向き煙草に火をつけました。
少年は、しばらく煙草をふかしていました。
私も少年も黙って歩いていました。
少年は、煙草の火を電柱にこすりつけて消すとおもむろに
「商店街は通った?」と私に聞きました。
私は突然この心地いい沈黙が破られたことにびっくりし「何?」とか細い声で答えました。
少年は「桜は見た?」と質問を確信に移し替えました。
「桜・・・見たよ。その桜の事なんだけどさ。」
私の言葉を遮って少年は「驚いただろあれ。」
と少年は変わらず歩きながら、この先に見えてくるであろう、桜の木の方を睨みながら言いました。私は願ってもないことを、少年が聞いてきたので嬉しくなりました。こんな思い通りに、事が進むのも久しぶりだったので、それも相まって、幾らか浮かれていました。
ところが、少年はその後なかなか話しだしません。
彼は、ぼうっと夕焼け空を見ながら、覚束ない足取りで一歩一歩踏みしめるように歩くばかりでした。
私は初め少年のその様子から、確かに何かを察しました。それは、今の私も抱えている問題でした。少年の父私の旧友、彼に私が会いにきた理由を私が、言えなかったように少年もまた、私に桜の事を言えないように見えました。
しかし私は、身勝手な好奇心から、とうとう少年に尋ねました。
「桜の木だけどさ、あれは誰かがやったものなの?それとも何かほかの・・」
少年はしばらく遠くを見つめて、ポケットに手を突っ込んだり出したり落ち着かない様子でした。
ただ風と街の雑音がBGMのように流れ続けていました。
この沈黙時間にして数分。私にはたった数秒のように感じました。
それはジェットコースターの頂上から、一気に下に下るような興奮と恐怖が入り混じった数分間でした。
そして少年は特に意気込みもせず急に
「母さんだよ。俺の母さんだよ。桜に馬鹿みたいにペンキを塗ったりしたのは!」
と声を張り上げ放り投げるように言い捨てました。
「母さん気が狂っちまったんだとよ。誰のせいだかしらねぇけど・・・」少年は言葉を選ぶように、何かを思い出すよう空を見つめていました。
「何年か前からおかしくなっちゃって。今年に入ってからは少し大人しくなったと思ってたんだけどなぁ。」
「先週、商店街の自転車屋に置いてあった。」息を大きく吸って続けます。
「ペンキをさ。」
「ペンキを使って桜も母さんもおしまいさ。」
少年は息を切らせ、言い終わると早足で歩きながら、見えてきた商店街の桜を指さしながら
「意外と見慣れれば悪くないだろう。青い桜もさ。」と皮肉を込めた言い方で付け加えました。私は自分の想像以上の事態が、少年を襲っていたことと、妙な罪悪感そして少年と旧友とその妻への同情、さまざまな感情が入り乱れてこの時は、臆病な気持ちからではなくただ唖然とするばかりで。何も喋れませんでした。

 十分余り私たちは黙って黙々と歩き、駅の近くの歩道橋を渡っていました。歩道橋を下り始めようとしたとき、私は少し勇気を振り絞り、ポツリポツリと少年に話しかけました。
「私はね。とても臆病なんだ。それはもう人間として、成り立たないくらいに、憶病なんだ。」
「へぇ」と少年
「毎日電車に乗って会社に行くのすら恐ろしくてね。もうどうしようもないと思って会社やめちゃってね。」
「ふーん」と少年
「そんな時私は、十数年ぶりに君のお父さんの事を思い出したんだ。この町の景色を見たいと思って頑張って電車に乗ってやってきたんだ。」
「桜があんなだったから怒ってるって言いたいの?」少年の目にはうっすら涙が浮かんでいました。
「いや、実を言うと駅から降りたとき、私は以前のように、この町の景色を見てもなんとも思わなかったんだ。けどね、あの桜が目に入ったとき、自分がどうかしていると思いながらも、本当に久しぶりに私は感動したんだよ」
少年は黙っていました。
駅はもうすぐそこです。
私は少し考えていました。私の話した話は半分くらい、嘘だったので少年に嘘を見破られたかもしれない、という恐怖心がありました。そしてなぜこんな少年にすら、包み隠さず話すことができないんだろう?と苦々しい思いがしました。
結局最後まで少年には、ダメな大人だと思われたまま、別れることになりそうだと感じていました。
駅の前に来て少年は
「それじゃ気をつけて。」と短い挨拶をしてくれました。
私も「ここまで送ってくれてありがとう元気でね。」と言い私はしばらく少年の去っていく後姿をしばらく見ていました。

私は何とも気恥ずかしいような気持ちを抱えたまま駅に入っていきました。駅の購買でパンとお茶を買って電車を待っていました。
予定より早く彼の家を出たため小一時間待たなければいけませんでした。
思い返します。様々な事を彼との思いで少年時代・・・


私はあまり出来の良い子ではありませんでした。かといって反抗するわけでもなく、周りに流されながらも友達とそれなりに、楽しい日々を過ごしてきました。まぁごく普通の少年と言えばわかりやすいと思います。しかしこれは他人から見た私でしょう。というのも私の家庭は、ごく普通の少年が育つとは思えない環境だったからです。
父は絵に描いたようなろくでなしでした。
私が八歳の時です。学校から帰ると青ざめた母と仏頂面の父そしてひきつった顔の少年がいました。
「どうしたの?」と問いかける私に父は
「お前の兄貴だ。血は一応繋がっている。」と言いました。
当時の私は、戸惑いながらも喜びました。父の言葉の意味をよく理解できなかったのと降って湧いたような遊び相手、そして欲しかった兄弟、こんなうれしいプレゼントは生まれてこのかたもらったことがありませんでした。
しかし、私より五歳年上の腹違いの兄には、そう思えなかったのも当然でした。兄と私はうまくいきませんでした。
思春期の兄にはこんなプレゼントは重荷でしかなかったでしょう。誰だってそうかもしれませんが・・・
兄は自分の名字が変わったことを特に気にしていました。加えて転校、家庭の環境の急激な変化に兄は次第に何かと戦うようにグレていきました。私が中学に上がるころ、私はこの家庭が普通でないことに気づいていました。そして、兄や父母への対応も学んでいました。
父には逆らわないこと極力関わらないこと。
それをしくじると大変な事になるのを、兄を見ていて学びました。
母には当たり障りなく優しくすること。
そうしないと当時の母は、まるで誰かが死んだ様に泣き出すからです。
兄へは一定の距離を保つこと。
今思うとこれが一番奇妙でした。後にも先にもこういった関係はありませんでした。兄への距離というのは、友達未満他人以上そのくせ世間からは仮にも兄弟というこれまた奇妙な関係でした。

そんなある日父と兄の激しい衝突がありました。夜私が自分の部屋で眠っているともの凄い音に眼を覚しました。私は兄がまた父に対してしくじったな。内心馬鹿だなぁと思っていました。以前にも父と兄にはよくこういう事がありましたしうるさいなというくらいにしか思っていませんでした。
しかし、しばらくしても音は鳴りやまずその内今まで聞いたことのない低い重低音が響きました。流石の私もどうしたのか?と様子を覗きに行きました。その前に私は事態の異常さを耳にしました。母の悲鳴です。ただ事ではありませんでした。覗くと父が血を流して倒れていました。それを見た瞬間私はパンドラの箱を開けるとは、この事かと妙に冷静に考えていました。そして、何もせず部屋に戻って悪夢を振り払うように眠りました。

翌日父は入院していました。何でも頭の骨が折れたらしく一命は取り留めたもののというやつです。兄はその後何処かへ連れて行かれたそうです。
そうして遂に一度も戻ってきませんでした。家族への接触を禁じられているのか?
それとも、もう自由の身になったが戻る気がないのか分りませんが、兄とはそれっきりです。
当時の事は幼い私にはショックが大き過ぎてあまり覚えていません。ただ覚えているのが病室でいろんな器具がつけられている父とそれを見つめる母。
そしてその時の母の独り言
「いったい誰が悪いのか・・・もとはと言えばあんたが全部悪い。」
「あんな子をうちに連れてくるなんてどんな神経しているの?」私が目に入らないかのように母は続けます。
「・・・・でも子供に罪はないわね・・あの子もかわいそうにこんなことになって・・・」この独り言はおそらく全て母の本心だったのでしょう。
しかし、当時の私には、最後の一言がなんとも、前の独り言をごまかすように聞こえました。
それが、私が母に対して心を閉ざすきっかけでした。
その後父は、一度意識を取り戻しました。死の数時間前です。
しきりにあの乱暴者だった父が泣きながら兄の名前を呼ぶのです。
そして謝るのです。私は訳が分からなくなりました。
父は物心ついてから死ぬまで私の中では悪者でいて欲しかったのです。その方が分かりやすい。ただでさえ混乱している頭に、追い打ちをかけるように最後の最後で善人ぶる父、いつも母を泣かせてばかりだった父、その最期の姿は、それは惨めでしたが、心は赤ん坊のように純粋できれいにも思えました。

その後、私の中にある大きな恐怖が宿りました。それは、人間の不思議というか、理解できない部分への心への恐怖。あの優しい母が悪魔のような独り言を。あの乱暴者の父が天使のように懺悔する姿・・・・しかし、人間の心というものはそういうものだと少年の私には割り切れる筈もなく。
ただ天敵を避けるように、以来、私は人との関わりを薄く、薄くして以後生きていきました。

そんな私も、少し大人になって、他人との関係で、その恐怖は少しずつ薄れていきました。これは、私にとって大きな進歩でした。
しかし、大きな失敗も同時に犯しました。
社会人になって、家族を持ったことでした。先ほど述べたような家庭でしたからどう家庭で振る舞っていいのか、私にはわからなかったのです。何も気負う事はない、普段道理にと自分に言い聞かせるたび、おかしくなっていくのが、自分でもよくわかりました。
子供ができてからそれは悪化しました。その先には、図らずとも父と同じ家庭不和がまっていました。
そして、現在に至り別居中・・・
こんなはずじゃと私は何度思ったことでしょう・・・
どうして?と考えれば考えるたび、思い返されるのはあの恐怖でした。
克服したと思いこんでいましたが、それは、ほんの枝に過ぎず、根には未だに恐怖で目も当てられない事に気付かされました。その証拠に私は、家を出て以来たった一人の家族にすら、一度も会っていないのです
根を断ち切るためそれが今回の帰郷の目的でした。
そんな事を思い返しているうち時間が来ました。
予定通りの電車に乗り込みました。

田舎のため電車には、人がまばらで私は、一番端の席に腰掛け、向かいの景色を眺めてまた思い返していました。
父・母・兄との思い出がフラッシュバックします。
そのうちこの電車は、何か恐ろしい化け物の口の中に進んでいる。
あぁ自分はどうしたらいいんだ!助かりたい!という気持ちになりました。
奥歯がカチカチとなります。それを電車の音がかき消して少し安心する。そしてまた逃げたいという気持ちがわいてくる。そんな事を繰り返しているうちに向かいの景色に青い桜が写りました。
それは小さくシミのような青そしてその青を囲むように商店街・・・私は知らぬ間にあの少年の事を考えていました。彼は大丈夫だろうか?私のようにならないだろうか?彼の母は大丈夫だろうか?父(旧友)は?そう考えているうちに私は彼らに一体何ができただろうか?と問いかけていました。
そもそも私が彼の家を訪ねたのもなぜだったろうか?それは身勝手な理由でした。
これから、母に会いに行く前の、恐怖と対峙する前の、最終確認であり前哨戦でした。彼に私の現状を話すのは、私にとっては母に会うのに次いで怖いことでした。考えすぎかもしれませんが・・・
ともかく、この程度の恐怖を乗り越えられないようじゃ駄目だと思い
弱い犬がよく吠えるように、勇んで自己満足の戦いを挑んだのです。結果は惨敗でしたが。
そして私は、彼らの事を考えながら、疲れのあまり眠ってしまいました。

あぁこのアナウンスとうとう来てしまった。本当に来てしまった。今ならまだやり過ごすこともできる。そんな思いもよぎりました。しかし、あの少年のことを思うとこんな自分がみじめで情けなくなり、私は立ち上がりました。
なぁに他人じゃあないんだ。生まれた時から知っている実の母親じゃないか。
息を大きく吐き出し深呼吸をしました。
そして、私は意を決し電車をおりました。
私は、初めてやって来た、この駅をじっくり観察し始めました。
売店が多い、それから綺麗なトイレそれから・・・駅から見える外のデパートそれから・・・・・
と、早まる鼓動から気をそらしていたところ母を見つけてしまいました。

私はかつて父に引き取られて来た兄がそうであったように、どうしていいのか分からずひきつった笑顔を見せて口を開けたまま何も言えませんでした。
母はまるで昨日も私に会ったかのように、ほほ笑みかけて
「天気もいいから久しぶりにおかぁさん車に乗ってきたんだよ。」と嬉しそうに話しかけてきました。

私は
「そう。」と一言そして、絶えず話しかけてくる母の言葉を、短く相槌を打ち続け、駐車場まで歩き車に乗り込みました。
母は運転しながらも嬉しそうに話しかけてきます。
「天気が良いといってももう六時だから暗いね。おかぁさん目が悪いからやっぱりタクシーにするべきだったかな。」と言う母に私は
「うん。」と返すだけ。
この時私は、夢でも見ているかのように虚ろでした。
「ところで、あんた元気だったの?」
この問いには答えられず。
そして母も困ったように話さなくなりました。
山間のカーブを曲がったところで、私は薄ぼんやりと、車のライトに照らされる、ピンクの何かを見つけました。
そして、対向車がやって来た時、虚ろな私は、鮮明にはっきりと
ピンクの桜並木を目に焼きつけました。
心臓が、ドクンとひとつ脈打ちました。
不意に現実へ戻された私の頭の中は、これまで書いてきた出来事が、走馬灯のように巡り
そして、はっとして
しゃっくりを上げ泣きじゃくりながら
「ごめん、母さん」と呟きました。
母は
「えぇ?何が?」と笑いかけ。
夜道になれない車を走らせて行きます。
「会いに来てくれてありがとう」とあの日の独り言のように呟いたのでした。

さくら

さくら

物事はなぜ?なに?から探求し、解明され発展していく。 しかし、探求するのが怖かったり、数学のようにこれという答えがない問題のほうが多い。 特に人間の心は不可解だ。 でも、それが素晴らしいと言い切りたい。そんな話です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-02-20

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