沼

 ここ五、六年、あれほど好きだった釣りに行ってなかった。

 何度も通った近場の淵に、いい加減飽きてきたことと、新たに秘密の場所を開拓する程の暇が取れなくなっていたせいもある。



 今、私が向っているのは、十年以上前に一度行ったことのある沼だ。

 その頃住んでいた町からは、二時間もあれば辿り着ける場所だったが、結婚して越してきた今住んでいる町からは、高速道路を併用しても、三時間以上かかる距離になってしまっていた。



 何故、忙しい合間にそんなところに行こうと思ったかと言うと、《一度行ったことのある》というのは正しくはなく、《一度行ったが結局辿り着けなかった》のであって、その沼に未練が残っていたからだ。

 ある程度の釣果が見込めるとはいえ、久しぶりの釣行にあてた時間を、近所の川で潰してしまうのは面白くない。



 だから、今こうしてハンドルを握って、その沼を目指しているのだ。



 その沼を知ったのはローカルテレビの番組の一シーンからだった。

 鮎釣りで有名な川の上流にある、地図によっては記載されているかいないかといった、それほど小さく、名前もない沼で、なぜかヤマメやニジマスが釣れまくっていたのだ。

 釣りをメインとした番組でもなく、現地コーディネーターが知っていたというだけの場所で、番組中の絵としてほんの数分ほど流されただけだったが、たったそれだけでも釣り好きの想像を掻き立てるには十分だった。



 場所もすぐわかるような気がしていた。



 もうすぐ高速道路の降り口に着く。

 インターを出てすぐ左手に曲がると、その沼のある村への峠道に入れる。

 以前来た時は、沼の大体の場所を掴んだ気でいたので、半日も使えば突き止められると高をくくり、また意気込みもあったのだが、まずこの峠越えで意気込みの大半をそがれた。

 明るくなる間際の「朝まずめ」から釣りをしたくて、夜中に走ったのだが、それまで滅多にないほど星々が良く見えて澄み渡っていた空気が、峠に入った途端、車のボンネット先数メートルも見えないほどの霧に包まれてしまったのだ。

 車を停めて霧が晴れるのを待ちたかったが、狭い峠道ではその方が危険かと思い、まさに歩くようなスピードでなんとか峠を越えたのだった。

 あの時は峠越えに何時間かかったのだったか。



 ショップの団体ツーリングで、バイクで走ったこともあるが、あの時は三十分もかからなかった筈だ。

 いろいろと思い出しながらインターを出る。

 そして左手に曲がると、以前は何も無かった場所にコンビニエンス・ストアが出来ていた。

 深夜二時を回り、小腹も空いてきたので寄ることにする。

 ついで、峠の天気がわかるか店員に聞いたところ、その店員は峠を越えた先の村から通っているということだった。

 彼が出勤の為に通った時間には、峠は晴れていたという。

 何時間か経ってはいるが、今夜は急な天候の変化は無いと思うとの言葉を受け、私は車を出した。



 幾つものうねるような道を抜け、峠も頂上に差し掛かる頃、見通しの聞かないカーブの向こうに突然霧が現れた。

 その霧は、まるで壁のように見える。車を停めて降りてみると、まさにここから霧が始まっているのが見えるのだ。



 あの時も今も、私は行くなと言われているのか、それとも危険を冒してでも来いと呼ばれているのか。

 不意にそんな考えが過ぎったが、無理を押して進むことにする。

 私は、この世には全く説明のつかない現象があることを信じる。

 だが、ここで引き返すわけにも行かない。何せここまで二時間以上かけて、高速料金まで払って来ているのだ。

 その沼のある村までの迂回路があるにはあるが、いくら夜中で道路が空いていても、ここから更に二時間近く走ることになる。



 ヘッドライトを消し、スモールとフォグランプだけを点けて、低速で走る。

 高度にして何十メートルか高くなったあたりで、ふいに霧が晴れた。

 山の中腹だけにかかっていた霧だったのだろう。拒まれているなどというのは考え過ぎというものだ。

 それでも、峠を越えるのに一時間以上かかった。夜はうっすらと明けてきている。



 峠を越えると、そこは昔と全く変わりが無い田園風景が広がっていた。

 コンビニで買ったおにぎりを食べる為にエンジンを止めると、人工的な音は何も聞こえない。

 おにぎりをほお張りながら地図を広げ、現在地と沼の目星をつけたあたりを確認する。

 とにかく、大体の場所はわかっているのだ。どこを曲がってどの道を行けば良いかは見当がついている。

 ただ、道がとにかく荒れていて、前に来た時の車は後輪駆動のセダンだったので、先に進むことが出来なかった。

 時間切れも相まって、その時は諦めたのだが、今回は時間もあり、車は小回りの利く四輪駆動のジープタイプだ。



 必ず見つけ出してやる。



 舗装された県道を数キロ進んでから、農道へ入る。

 以前は舗装されていなかったが、見事なまでに舗装されている。

 沼に続くと思われる林道へ入る目印の電柱を見つける。

 目印に覚えていた『○○スキー場まで5km←』の看板がついているので間違いない。



 林道は相変わらず両脇に草が生い茂っている。

 車高の低いセダンだと視界を狭められているようで、走るのが怖かった。

 しかし今回の車は車高も、もちろん視線も高く、まだ薄暗い今時間でも景色を広く見渡せて怖さは無い。

 怖さは無いのだが……私は今、何かを思い出しかけている。



 確かに、以前通ったことのある道だ。だから既視感に似たものを感じているのだろうか。

 あれから何年経とうとも、このどこへ続くともわからぬ林道沿いが、木々の伸び具合以外変わるわけも無く、ほとんど何も変わっていないからだろうか。

 ここ一帯には、私以外、誰もいない筈だ。前に来た時もそうだった。

 農道に入ってから他の車とすれ違うことも無く、もう明るい時間でも地元の人の農作業をしている姿すら見かけなかった。

 林道を進むにつれて、以前来た時に見た景色が、フラッシュバックのように視界に重なる。



 この林道は車がすれ違うことの出来ない細さだ。

 小川の上にかかる橋を過ぎたところで、車の切返しの為の空き地を見つける。

 以前はここで引き返したのだが、今回はまだまだ先へ進めそうだ。

 時刻は四時。空はもう明るくなっている。

 木々の向こうに、ぽっかりと更に明るい場所が見える。その開けた空の下に、お目当ての沼があるかもしれない。



 勘が当たった。

 道の左側が突然開け、そこに沼があった。

 しかし、どうもテレビで見た景色とは違っている。木々や下草が伸びているからだろうか。

 手入れする者もいないだろうから、それは仕方が無い。

 道は程なくして行き止まりのように草が生い茂っている。

 そして、これ以上進めさせない為なのか、コンクリートのポッドのようなものが道の真ん中に転がっている。



 私は車を切り返せる場所を見つけ、もと来た方へフロント側を向けて、車を停めた。

 山の向こうから登り始めた太陽が、沼と車を照りつける。今日は暑くなりそうだ。

 ポッドのようなものの辺りが、具合の良さそうな日陰だったので、その近くへ車を下げた。

 車から降り、後方のゲートへまわる時、ポッドを何気なく見た私は、一瞬凍りついた。



 それは、コンクリのポッドではなく、ただの大きな石でもない。

 何と書いてあるのか読めない文字が彫られた碑だった。日本語であろうが全く読めない。

 それにしてもこんな山中の沼のほとりに碑とは……曰く付きの場所なのだろうか。

 確かに、下草の手入れこそしていなくとも、ここまでの道が消えていないことから、この碑まで誰かが何度も出入りしていることには違いない。



 何かを思い出しそうな気がする。だが以前はここまで辿り着いてはいない。

 途中で引き返しているのだから、気のせいだろう。



 道具を出して釣りの用意をしよう。

 餌釣り、そしてフライとルアーの道具を持ってきてある。

 餌釣りの竿には浮きをつけて竿立てに立てておこう。

 それに魚がヒットするのを待ちながら、フライかルアーを投げて遊ぼう。



 一応、ゴム製のカヤックと、フロートを持って来ていたが、曰く付きとなれば、そんな得体の知れない沼に浮かぶ気はしない。

 岸から投げて遊ぶだけにしておこう。

 いや、やはり以前にもここに良く似た場所で、こうして釣り道具をいじっていた記憶があるのだ。

 振り出し竿に浮きを通した仕掛けを結びつけ、餌のミミズを付け、投げて立てておく。



 後ろにフライを振る空間はあるが、先ずルアーで遊んでみよう。

 車に戻ってルアーロッドの支度をし、ミノープラグ(小魚に似せた疑似餌)から試してみるかと小型のルアーボックスを出そうとしたが、ボックスの蓋のロックが甘く、中身を地面にぶちまけてしまった。

 あーあ、と声に出しながら、しゃがんでルアーを拾い集めていた時、後ろから誰かが早足で近づいてきた。



 その《誰か》は強烈な悪意を持っていた。

 そして不思議なヴィジョンを視た。



 ――私は私の後姿を見ている

 ――私は私に迫りつつある

 ――私は今なら私を簡単に殺せる



 ちょっと待て、私は何故、自分で自分を見ているのだ。

 私を見ているのは誰だ。



 ――おまえを憎む

 ――おまえを恨む

 ――おまえを殺してやる

 ――今度こそ殺してやる

 ――おまえ

 ――おまえ

 ――おまえ

 ――おまえを殺し

 ――おまえを殺してやる



 あの感覚をどうやって説明すればいいのか……。

 とにかく私は、罪も無いのに、無残に殺されるヴィジョンを視たのだ。

 鍬のようなものを持った誰かが、私を背後から襲おうとしている。

 しかも私はそれを、その誰かの視線で以て見ている。



 私は叫び声をあげながら立って振り返った。

 いや、振り返ったが腰を抜かしかけていた。

 背後には誰もいなかった。

 誰もいなかったが、碑が私を見おろしていた。

 誰かがいる、この碑の下には《誰か》がいる。

 そう確信した。



 そこで私は全て思い出した。

 私は以前ここに来ている。ただ忘れていただけなのだ。その時、今と同じことがおきた。

 《誰か》は私を呼んでいたのだ。一度、憑き殺し損ねた私を。

 ただの石であろう筈の碑から、憎悪からなる殺意がじくじくと滲み出してきているのがわかる。

 一時停止していただけの、負のルーティンワークが再開されたのだ。



 竿も道具も片付けている暇は無い。

 一分一秒でもここにいてはいけない。

 次に隙が出来た時、今度こそ必ずやられる。

 逃げよう。

 そう思った。



 車を出すには碑に背を向けなければならない。

 だが心の隙さえ与えなければ大丈夫、そんな気もした。

 私は慎重に車を出した。エンストもスリップもせずに、車は動き出した。

 しかし、ミラーに写っているであろう碑を見る勇気は無かった。

 沼が見えなくなる最初のカーブを曲がるまで、私は碑の視線で、逃げ去る私の車を見ていた。



          ※



 もうすぐ、以前来た時に引き返した切り返しのある場所だ。

 今回もあそこで引き返せば良かったと悔やんだ。

 その時、ふと、不自然な木があるのに気が付いた。

 車を停め、外に出てそれを確認した。細い木々と下草の間に、太く真っ直ぐな木が生えている。

 左側を見ると、道と交差した左右対称に同じような気が生えている。

 もしやと思い、上を見上げると、それはただの木が二本生えているのではなく、大きな鳥居だった。



 以前も、今朝も、何故こんな大きな鳥居に気づかなかったのだろう。



 そして鳥居の間には鎖が張ってある。

 私はその鎖にすら気づかなかったのに、なぜこの道へ入れたのか。

 私が通ったあとに村の人や、ここを管理する者がこの鎖を張ったのか。

 いや、そうではないだろう。



 私は無意識にこの鎖を外し、車を通らせてからまた張り直していたのだ。

 あの沼のほとりに鎮められている《誰か》に、私は既に魅入られていたのだ。

 十年前から……いや、もしかしてもっと前からか。



 私は、また、入ってはいけない場所に入ってしまった。

 思えば、あの峠の霧にも意味があったのかもしれない。

 今回のことも、私の中の何かが私を護る為に、この沼に近づけさせないように、それを忘れさせようとするだろう。

 何があったのか思い出さないように、この沼を思い出さないように、しばらく好きな釣りからも遠ざかろうと思う。



 しかし、二度も殺し損ね、逃がしてしまった私を、あの《誰か》は忘れてくれるのだろうか。

 昔あそこで何が起こったのか、あの碑は何の為にあったのかなど、調べる気など無いが、それでも私はまた、呼ばれて来てしまうのではないだろうか。



  了

林道は相変わらず両脇に草が生い茂っている。 車高の低いセダンだと視界を狭められているようで、走るのが怖かった。 しかし今回の車は車高も、もちろん視線も高く、まだ薄暗い今時間でも景色を広く見渡せて怖さは無い。 怖さは無いのだが……私は今、何かを思い出しかけている。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-02

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