球体間接人形

堂海 夢子:十八歳の少女
堂海 水月;異母姉妹。ジャパニーズイタリアン
美琴     夢子の球体間接人形
堂海 聖 ;姉妹の父。娘たちとともにイタリアに在住。
藤倉 綺羅:夢子の母。アメリカでモノクロ女優の露草夕子。
堂海カロライン;水月の母。イタリア人。別居している。イタリア在住。

一、夢誘の調べ (1)

一、夢誘の調べ (1)

 暗い室内。
 恐ろしい夢に(さいな)まれていた。
 堂海(どうかい)夢子(ゆめこ)は夜の天井に爪を引っ掛けるかのように指間接をぎしぎしといわせた。何も掠めることはないがぎこちない骨と骨のそれはだんだんと固まっていくかのようだ。日々の夢の内に。
 球体間接人形……。
 それになって動けなくなっていくという悪夢が毎晩、一晩ずつ進んでいくという得体の知れない恐怖。足の指先、そして唇、膝、首……と。だんだんと日を追って、ぎこちなくなって行く。ただただ震え見つめる暗がりの天井は助けを呼ぼうにも遠く、近く、不確かに思えて。
「ああ!」
 自身の声で体の強張りが取れ、視線をきょろつかせる。手は布団を握っており、その間接はなめらかなほどにやわらかい皮膚に覆われていた。
 体は大丈夫だった。なんとも無い。
「また……あの夢?」
 夢子は体を起こすと額に手を当て長い髪が下がる。この数ヶ月間、その夢は彼女を悩ませた。夜の眠りを妨げる。過去、何一つ夢にうなされなかったわけでは無いが、この手の悪夢に覚えは無い。
 彼女は腕を見下ろし、肘を押さえた。寝ているうちも力が入ったのだろう、やはり少し動かそうとするとぎこちなかったが、それもすぐに元に戻ってため息とともに(まぶた)を伏せる。今に、本当に人形になってしまうのではないかと思ってしまう。
 ベッドを離れると静かに歩いた。レースカーテンの先の明るい夜は安堵をもたらしてくれる。
「ああ、よかった……。夢で」
 しばらくは心が落ち着くまでを窓辺で過ごす。
 レトロなレースを使用してあつらえられたドレスを(まと)った球体間接人形がアームチェアに座らされている。今はそちらへ夢子は意識を向けることなくいた。妖しげな唇をしたその人形は、どこか夢子に似ている。

 姉の水月(みつき)は水色の瞳を向け、妹夢子を見た。姉と夢子とは異母姉妹であり、水月は白人の母の瞳の色を受け継いだ。細面な顔立ちの夢子は父に似て、柔らかな印象を母から受け継いだ。水月ははっきりした目鼻立ちが白人の母に似た。長い黒髪を巻いている水月と、肩までの髪をふわっとさせた夢子はそれぞれ印象やシルエットが異なる。
 父がヨーロッパへ仕事へ向かっていた若い時代に水月が生まれて婚姻を結んだが、仕事の多忙さで別居に至った。そして父は日本への帰国時に夢子の母に出会って夢子が生まれた。だがそれを知った父の家族は夢子の母と別れる様に攻め立て水月の母の元に戻りともに生活をしていたが、夢子の母が五年前に日本を離れることになり女優の仕事のためにアメリカへ渡った。なので当時十三歳だった夢子は父に預けられるべく、父と水月の元へ来たのだったが、元より別居をしていた水月の母には夢子の話が通っているのみで会ったことは無い。水月の場合は自分で会いに向かうらしい。
 球体間接人形は唯一日本から夢子が大切に持ち運んだ宝物だった。当時、女優で忙しい母は家にいることは無く、愛人の子として父もいなく寂しい思いをしてきた夢子だったが、何も父も手を施さなかったわけでは無く、女親子が生活できるようにしてくれていた。二年に一度だけ父が日本に帰ってきた際に親子で会うこともあった。その球体間接人形はそんなめったに無いお食事のとき、料理店から手で街を出歩いていた親子の目に留まったものだった。レトロな雰囲気の店のショーウインドウに飾られたそれは、とても寂しげな顔をしていた。夢子は美しいその人形に見惚れ、初めてわがままを言った。あの人形が欲しいです。と。普段寂しい思いをさせていると不憫に思った父はうなづき、それを購入してあげた。父子家庭である水月にも与える愛情をしっかりと夢子にも与えていた。
 十歳の頃、その人形が彼女の部屋にやってきた。美しいクラシックに乗せたモノクロ映画女優である母は、日常でもエレガントなモノトーンを愛する女性だ。その際立つ紅のルージュがなんとも魅惑的な。どこか人形は彼女にも似ていた。それでもその衣装はモノトーンでは無かった。優しげな生成り色をして、唇は印象が優しく、頬は薔薇色の……。彼女は横に大きな鏡を置き、いつでも人形に話しかけた。自身も椅子に座って向かい合い、鏡に映る姿も合わせて三人で会話ごっこをしていた。鏡に映った人形はスクリーンで観る母のように思えた。目の前の人形は静かな顔立ちをしていた。
 母が家に帰ってくると時々リビングで白ワインを飲んでいるようだった。ハープのレコードをかけ、すでに眠っているだろ娘を起こさないように部屋にくることは無かった。だが、夢子は起きていた。蝋燭を灯し、人形や鏡と語り合っていた。時々聴こえたレコードの幻想曲と、それに母が確認の為に流している映画で話す女優、露草(つゆくさ)夕子(ゆうこ)の声は鏡から語りかけてくる人形の声となった。そのとき夢子はうれしくなって、やわらかな微笑みが頬に広がり灯に照らされた。朝になれば母は仕事のことは一切出さずに夢子を美しい微笑で迎えた。何があったのかを語り合うことは好きだが、人形遊びを今までいったことはなかった。
 その母が五年前に本格的に事務所を移し移転することとなり、夢子のことも連れて行くと言っていた。だが、まだただでさえ慣れない環境で女優業をすることとなり、普段は家を留守にして日本語しか話せない若い娘一人になるのは危険としか言いようが無かった。なので、母は夫に相談をして娘を異母姉妹もいる彼の家に預けたのだった。
 水月は夢子の顔を覗き込む。
「あなた、昨日の夜、窓から外を見ていたわね」
 水月はイタリア語以外には日本語も話せるので夢子はこちらへ来ることにも安心していた。
「まあ、お姉さんも起きていたの?」
 水月は現在二十五の年齢である。十八の夢子からみればとても頼りになるしっかりした姉だ。彼女からはイタリア語も習っている。
 夢子はしばらく静かの水色の空を見つめていたが、うなづきながら姉を見た。
「夢。ちょっとね……最近、怖い夢を見るの」
「夢子さん」
 水月の手が重なって腕が伸びてきて、最近さらに細くなった夢子の頬を指がなでた。
「イタリアに来たばかりの頃はまだ中学も慣れなくて大変だったけれど、ここ数年は安心してばかりいて気づいてやれなかったわ。ごめんなさい」
「まあ、お姉さん、いいの。お姉さんは毎日とても良くしてくれるじゃない」
「何でも言って。あたしたち、姉妹じゃない」
「どうもありがとう、お姉さん」
 夢子は夢のことを話し始めた。
「あの球体間接人形に?」
「もしかしたら、寂しがっているのかもしれないと思って母の出る映画を流してみせることもしたの。五年前に話した様に、いつでも人形と会話をして過ごして来た時の様に」
 ホームシックにかかった時期はよく姉の水月に慰められてきた。そのときに人形の話をしても水月は少しも変な顔はしなかったし、優しく微笑んで抱きしめてくれた。
 水月自身も父が仕事で忙しい時期は家で一人で過ごしたり、友人たちと過ごしたりはしてきたが、時々会う母にさえ言えない悩みを抱えた時はぬいぐるみに話しかけていたものだ。
「お部屋に伺っても?」
「ええ……」
 部屋に来ると昼の明るさに包まれていた。どこからかいつもの様に子供たちの笑い声や話し声が聞こえる。路地で遊んでいるのだ。今ではずいぶんとイタリア語も慣れて何て言っているのかもわかるようになってきた。それでもあまりに早く喋られるとわからないのだが。特に子供の話す言葉と大人の話す言葉は速さや内容も変わってくる。今はサッカーの話に盛り上がっているみたいで駆け回る足音が聞こえる。
 夢子は微笑みながら歩いていき、心地よく部屋にも響いてくる声に安心した。
 水月も入ってくると奥へ向かう。
「あら。可愛らしい花。マウントシャスタね」
 それは白い薔薇の品種だ。彼女は毎週花を買ってきて生ける。
「ええ。今週はね……」
 その花の先に、球体間接人形はあった。昼の明るい内は甘い微笑を称えて見える。優雅なまなざしは誰をも受け入れる風を帯び、そして響く声によろこんでいるみたいなのだ。だから時々夢子もうれしくなる。
 人形は名前が日本人の名前だった。見かけは金髪で顔の彫りも濃いので西洋人顔の人形なのだが。
美琴(みこと)はね、時々路地で奏でられる竪琴やハープが古典楽器の旋律に包まれるとこうやって柔らかな表情になって思えるの」
「ええ。良い表情」
 二人は微笑み合って人形を見た。

 

一、夢誘の調べ (2)

 堂海(どうかい)(ひじり)は香水のビンを置くと、痩身を返して小首をかしげた。いきなりドアが開けられたのだ。
「どうした。誰だ? 水月(みつき)か、夢子(ゆめこ)か」
 もう一つドアが開けられ、次女の夢子が入ってきた。
「夢子」
 彼女は駆け寄ってくると青ざめていて、触れた腕は冷たかった。
「どうしたんだい。そんなに慌てて、ここに座るといい」
 ベンチソファに座らせるとがたがた震えた夢子は床の一点を見ていた。
 いつもは姉の水月にかけよって行くというのに。
「さっき、さっき人形が動いたの」
「え?」
 彼は腕を抱える娘の固くなる手を見た。それはあまりに腕を強く掴みすぎて紅くなっている。離してやろうにも間接が固まってでもいるのか離れない。若い娘の腕に痕でもついたら可哀想だ。
「君に贈ったあのBJDの」
「立ち上がって、ゆらゆらとベッドの横まで来て、それで見下ろしてきて髪が頬にかかって、それで何か言っていた。声は聞こえなかったけれど、そんなこと初めてで」
 夢を見ていたのではないかと思うが、夢子がこうも怯えているのでは……。聖は肩に暖かいロングカーディガンを掛けてあげると共に歩いて言った。きっと、夜の暗がりではあの精巧な人形も本物の人間に見えて少し怖かったのかもしれない。基本的に空け放たれている夢子の部屋のドアだが、稀に聖でもドキッとする程リアルな人形がそこには座っている。それも等身大なのだから余計思うだろう。しかし、それまで娘はその人形と十分時を共に過ごして来たはずだ。
「もしかしたら、こんばんはと言いに来たのかな。夜は薔薇がまた薫るんだ。いつもありがとうと言いにね」
 軽快な風で言ってあげて、夢子は「ふふ。パパったら」と少し笑った。
 長女の水月は確かにもう眠っている時刻だ。あの子はいつも十時に眠りにつくので、この十二時の時間に起きているわけもなかった。聖自身は今から妻のカロラインに会いに行く予定だったので、準備をしていた。彼女とは二週間に一度は会うようになっていた。彼女自身も彼女の仕事があって都合を見て会うようにしている。
「出掛ける所だったの?」
「ああ、ちょっと、カロラインにね」
「ごめんなさい……」
「少しぐらい大丈夫さ」
 聖が暗がりの部屋をのぞくと、すでに昼見る人形とは印象を変えた夜の人形が、ベッドにもたれかかり横たわっている。持ち上げられないほど重いわけでは無いし、十分運ぶ事は出来るし上にのしかかってこようがそこまで重くは無い人形だが、ひとりでに動くような原動力は物質的には無い。間接が滑らかに動くようになっているので、こうやって傍目から見れば少女が目を開きしなだれているかの様だ。今に息でもして唇が柔らかく、そして感情もうかがえず動き出しそうなほど。
「あ、ああ……腕が」
 聖が振り返ると、夢子が肘を抑えて見下ろしていた。ギギ、というぎこちなさで間接を曲げ、その先の白く浮く手指がまるで球体間接人形かのように固まって震えている。何かを得る人形の方とは相反するかのように。
 今になって気づいたが、ハープのレコードが極小さなボリュームで部屋には旋律となって響いていた。それは夢子の母である綺羅(きら)が女優、露草(つゆくさ)夕子(ゆうこ)として演じた女流画家の主演作品で流れた曲でも合って、綺羅自身がよく若い頃から好きだったと述べていたレコードだ。
「大丈夫か」
 肘の部分をなでてあげてどうにか気を落ち着かせてあげる。やはり、母に会いたがっているのだろう。それも当然だ。
 あの夢子の優しい母である綺羅とはメールで毎日やりとりを交わす仲だ。夢子のことについて聞かせたり、家族でしっかりやっていることを伝えたり、綺羅自身の活躍や日々の悩みも話し合っている。日本人としての母と、そしてカロラインから得られるイタリア人としての母の言葉はそれぞれやはり違うのだ。
「ママもあたしに会いたがっているのかしら……」
 肘を押さえながら、人形のもたれかかる横に座った夢子がつぶやいた。その睫に視線を落とすと涙がこぼれた。
「あたしも人形になってあげればいいのかしら。きっと寂しがっているのよ。だから来てくれたんだわ。あたしが眠る横まで」
「夢子?」
 夢子は聖を見上げると言った。
「ママに会いにアメリカに行ってもいい?」
「………」
 聖はしばらくまっすぐと見てくる夢子の目を見た。
「一週間、いいえ。三日間でいいわ。お願い。この子も連れて」
 人形を見る。そのベッドに頬を乗せる手と横顔はやはり静かな風情で動かないままだ。カーブにそって穏やかな影が入り、今は本当に寂しそうな顔に見える。あの時、別れを告げてきた綺羅とそこはかとなく似て思えた。軽率な行動と言うわけではなかった。酒に酔っただけでもなかった。元々憧れていた露草夕子と偶然出会ったバーでの一夜もその後の幾度と無く見かけてつい声を掛け合ってしまったカフェや店舗での再会も何らかの必然、極自然なことにおもえていた。まるで流れてきたものをふっと掬いあげるべくして掬いあげ一生使い切る何かの手放せない必需品かのようにな感覚だった。
「分かったよ。きっと君の母もよろこぶことだろう。国は離れていても、 今までの様に家族で食事をする機会を作ってあげればよかったね」
「ありがとう。無理を言ってしまってごめんなさい」
「謝ることなんて無いさ」
 聖はそっと人形を抱き上げると間接が動いて重力に従って四肢と首、それに長い金髪が揺れてドレスが影を作った。椅子にそっと座らせて四肢や姿勢、髪やドレスの裾を整えると振り返る。夢子は人形の足元をただただ向こうから見つめていて、手首を押さえている。
「動かないのかい?」
「大分緊張もほぐれたみたいだわ……。もう動くの」
「良かったよ。蒸したタオルを持ってこよう。待っていなさい」
 聖は部屋を後にして廊下を歩いて行った。台所へくると妻に連絡を入れる。
「まあ。それはいけないわね。今日はそれなら会うのはやめて、次にしましょう。夢子と共にいてあげてちょうだい。彼女は大丈夫?」
「ああ。申し訳ないね。今は落ち着いているみたいだよ」
 電話口のカロラインは相槌を打った声を出した
「最近思うのよ。五年間夢子に気を使ってって言い方もなんだけれど、離れていたけれどあたしがいた方がいろいろ家事も楽になるんじゃないかって。一番大事な時期にいなかったのも申し訳ないけれど」
 カロラインもやはり思春期の夢子が本妻がいたのでは生活しづらかったり、自分の父親と自分の母親ではない女が共にいる状況には気を使わせるだろうし、遠くにいる綺羅にも引け目を感じて、彼女たちからは離れていたこともあったのだが、戻ってやりたいと日々思うこともあった。仕事が互いに忙しいことに変わりは無いし、共にいるとあらぬべき差異も感じることがあって結局は別居を選んできたわけだが。
「夢子自身もいろいろな折り合いはつき始めている頃だろうとは思っているんだ。もしかしたら、話し合うことを始めてもいいのかもしれない」
 蒸し器のお湯が沸き始める。細く高い音が響いた。まるでそれが合図に鳴ったかのように互いが長年に何らかの感慨の息がふっと漏れた。
 カロラインは娘に会えず寂しがる綺羅の居場所である夢子の横まで取ってしまうことを遠慮していたのだ。ただ、綺羅も自分の夢を選んで子供を彼に任せた以上、カロラインが家族で楽しく過ごすことを反対する女性では無く、自分たちの都合ではなく、悩みを打ち明けられる相手として若い娘たちのよき理解者としてカロラインは姉妹にいてあげたほうが絶対に良いのではと言ってくれていたのだ。
「時間がたてばまたいい方向へ向かうわ」
「ああ。どうもありがとう。カロライン」
「あたしも夢子のこと、話してくれてうれしかったわ。早く彼女のところに行って上げて」
「うん」
「水月は元気?」
「ああ。今日も見かけた朝は軽快に歌っていたよ」
「ふふ。あの子らしい」
 軽く挨拶をし合ってから受話器を置き、火を切ってから蓋を空けて蒸しタオルを出した。鍋に残ったお湯は湯たんぽに注いでほかのタオルにくるみ持っていく。
 部屋に来ると、疲れたのだろう、夢子は横たわっていた。聖は微笑み静かに歩いて行くと体勢を整えてあげ、腕にタオルを当ててあげて案の定冷えた足の下に湯たんぽを入れると布団をかけた。髪を正して微笑み「安心してゆっくりおやすみ」と言った。
 背を伸ばして立ち上がると、背後に座る人形を見る。レコードは未だかかったまま、人形は床を見つめうつむいている。

一、夢誘の調べ (3)

 夢子(ゆめこ)は目を閉じていた。自分が硬質の椅子に腰掛けているのだと、おぼろげに分かり始める。
 椅子のアームに手を置いている。
 それはすぐに球体間接人形、美琴(みこと)の情景に繋がった。
 あたしは美琴の体に入っているのかしら……?
 それは、このどれぐらいか悩まされてきた夢の欠片など思い浮かばない程に怖くなど感じなかった。人形自体が静謐な存在なのだ……と、夢子は感じた。耳からはあの幼い頃から聴いてきたハープのレコードの旋律……きれいに、とても綺麗に響いている。
 透明感のある闇にまるでクリスタルの音符が滑らかに流れていくかのようだ。清流を行くそれらは夢の先を何処へ向かうのだろうか? 分からないけれど、ここまで安堵とする音だとは知らなかった。
 そっと目を開いた。ぼんやりと見えてくる視野は暗がりで、影色に染まる丹念なレースが折り重なって見える。それは膝を包むスカートだった。動かない手腕、手指、そして首。つま先さえ人形なので動かない。ああ、動けたなら、いつも話しかけてきてくれる女の子に御機嫌ようと挨拶にいけるのに。
 夢子は脳裏に楽しい会話や軽快な笑い声、素敵な恋の話をする記憶が飛んでいるのを思い出していた。ああ、分かったわ……。
 夢子は少し、理解した。人形は窓から聴こえる声の楽しい時間に感謝をしていたのだ。動きたい、と切に思って感動していたのだ……。
 そして、夜は一緒に自分といたかったのだろう。
 はっきりとしてきた視野はだんだんと揺らいで行き、ふっと(まぶた)を伏せて目を空けると、天井が見えた。
「………」
 夢子は起き上がると、足元があたたかった。血行が良くなってどこも間接にぎこちない所は無い。
 明るいので体を起こして見回すと、やはり朝なのだと分かった。
 足元の湯たんぽに感謝して、きっとパパが用意してくれたのだろうと思って微笑んだ。立ち上がって歩いていく。
 球体間接人形は朝の陽に当たって表情が滑らかだ。夢で感じたあの安心感。
「ママに会いに行けるのよ。あなた、また元気を得られるわ。大丈夫」
 美琴の頬に手を添えて、微笑んだ。

二、霧が惑わすほどの花の薫り (1)

二、霧が惑わすほどの花の薫り (1)

 中世、丹念な生成りのレースドレスを(まと)ったエデル・ハネッケンは石畳を馬を急ぎ走らせていた。
 その美しくも凛とした顔は、美琴(みこと)、と名づけられた球体間接人形の顔立ちと同じだった。そして、その纏っているドレスのレースも。
 彼女はその上から細い腰に黒革のビスチェで絞り上げ、黒い革の手袋で手綱を掴みブーツの脚で鞍に跨り走らせていた。
 今日こそは急がなければ、急がなければと思いながらも金髪の細かい波うちがあとを引く。
 ダダッダダッダダッダダと、低い蹄の音がこだましていく。
 首から提げたそのネックレスが幾度も彼女の胴を振動毎に軽く打ってくる。
「エデル!」
 市場になっている広場まで来ると彼女は息を切らして声のする方を見渡した。青年が大きく手を振っており、笑顔で彼女を迎える。
「今日は間に合うぞ」
「良かったわ」
 馬から降り立ち、市場の間を颯爽と通り抜けて行く。その先にある建物で競売が行われているのだ。
 エデルはSperior Otto(スペリオール・オット)の収集家であり、それらを探し求めて生きていた。彼女の首から下がるペンダントはそれを示している。八つのモチーフから成るその芸術品は多く世に出回っており本物にめぐり合える確立は少ない。何もほかの物が偽物というのでは無く、質が格段に異なる領域なのだ。
 父の時代から集められているそれはま一つしか揃ってはおらず、その内の『薔薇』の称号が与えられたものが手に入れられればたいしたものだった。現在彼女が持つものは『アザミ』だった。その他の称号は『百合』『アネモネ』『アイリス』『エーデルワイス』『ジャスミン』『スズラン』がある。
 百年前にウルオネダン・ガボルという装飾職人がおり、八組のスペリオールオットと呼ばれるパリュールが作り出された。生涯をかけての装飾品の工芸家だった彼は貴婦人たちの為に数多くのパリュールを手がけ、世に出回ることになったが、スペリオール・オットというのが彼が唯一愛した一人の女性のために作られ贈られたものだった。出会ってから八年間、誕生日に必ず一組のパリュールを彼女に贈り続け、そして『永遠の愛』を象徴する『薔薇』のパリュールを贈った年に婚姻を結んだと共にその女性は突如として彼の前から姿をくらませてしまった。その理由も分からないまま、彼は迷走をしはじめ装飾品はだんだんと様相を変え悪魔的になっていきモチーフは黒くなっていった。カラスや蜘蛛(くも)、蛇、蝙蝠(こうもり)、果ては人間の瞳……。
 薔薇を最後としたSperior Ottoの時代は彼の最高傑作とされ『愛の時代』と名づけられていた。愛する女性を失った後の黒い時代の作品は『魔の宿った時代』と呼ばれ、その名の通り、裏のコレクター達からは人気があるのだが、晩年ガボル自身がはまっていったと言われる悪魔崇拝の儀式を現行で行いその装飾品で着飾り行われていると言われている。
 闇に出回ったスペリオール・オットは何もその女性がガボルを騙して闇に売ったのでは無い。彼女の亡くなった後に闇に入って行ったのだ。それまでを彼女は愛を信じひっそりと静かに過ごしていた後年は何にも侵食されがたい神(ひじり)な光に充たされ生きて行った。愛の時代と呼ばれたそれが生涯で引き継がれたように。愛のためガルボの下を去るほか無かったことを彼は知らない。
 当時彼を用達して特に気に入っていた貴族の女がいた。後に彼に悪魔崇拝へ思うままに向かわせた張本人だが、その女が彼女に裏から身を引かせる様に言ったのだ。それでなければ儀式の生贄として捧げると。その頃からガボルの才能に惚れ込みその先を見出していた女は、自己の行う儀式に悪魔的な美しさを要求しそれを彼に託そうとしていた。そして愛を失った男は完璧なる黒を求め始め、パリュールが作られて行った。それは次第にパリュールの枠を超え、黒硝子と(いぶ)した銀器の悪魔的装飾の用品にまで及んで行った。
 競売館。
 『愛の時代』が紡がれた花のパリュールを求めてエデルは颯爽と進む。
 黒いビロードカーテンをまくると、競りの会場になっている。彼らは進んだ。
 ここで注意しなければならない点は、ガボル展は闇の時代のパリュールを欲するコレクターも集まるという所だ。彼らは一様に裏で危ない儀式を行っていることも同然だった。また、ガボルのその時代を投影して自身さえも身を捧げて儀式に挙げられたいと思う者さえおり、その人間の場合は今の時代のガボル闇派の装飾職人によって目玉を装飾品に変えられている。いずれも劣らぬ美点はあるが、やはり本物のガボルの装飾品の纏う雰囲気は尋常では無い。
「座りましょう」
「ああ」
 エデルは並べられた椅子に座り、下ろされた幕を見る。
 横に座る紳士は首に鎖で繋がれ黒い眼帯をはめられた青年を連れていた。その青年は静かな横顔の口元は閉ざされ、人ではない座り方をしている。エデルは口の片端を下げてしまわないように視野的に見ただけで前を見る。きっと、眼帯の下は噂通りに装飾品にされたのだろう。ちらりと鋭い顔つきの男の首から下げられた物を見る。まるでそれが所持品である青年の主だという様に、同じ色の目玉の装飾品が下げられている。
 彼女はふと見てきた男の視線を見て、ひんやりとするその瞳に視線を外した。
「ふ」
 男は一度低く笑み、向き直る。ここは居心地が悪い。男が彼女の美しい色の瞳を一瞬で射抜いた時の眼力は、あの静寂の態からは想像打にしない程のものだった。
 『狙われる……』直感として思った彼女は唇を結び、そして男の存在をただただ無視し続けた。これ以上目を合わせたらだめだ。
 張りのある一声にはっとして、上がっていく垂れ幕を見る。男が舞台横に現れ、紹介が始まる。
 競りが始まったのだ。
「本日皆様にガボル展の競売にお集まりいただきまことに光栄でございます。本日の展示物といたしましては……」
 それらの声は横にいる男の研ぎ澄まされたような気配によって今にも気が遠のきかけてぐわんぐわんと意識が揺らぎ聴こえ始め、エデルは一度目をぎゅっと閉じてから、意識的に開けられなくなっていた。微かに視野に入るあの青年でさえ、自分の首下に今にも襲い噛みついてきそうにも思える。
「薔薇のパリュール」
 バッと冷や汗と共にエデルは瞳を開く。
 舞台に光り輝く薔薇色の……それは実に愛らしくも麗しいパリュール……。エナメル装飾の施された可憐な装飾品だった。
「あのパリュール……私が君に贈って差し上げよう」
「………」
 低く渋い声が心地よく彼女の小さな耳に響き、そろそろと横目で男を見た。猛禽類の様な冷静な目元は舞台を見たまま、微笑む口元だった。
「『薔薇』に限らず……私は『アネモネ』を所持していてね」
 エデルはまともに男を見た。こちらを見た男は思った以上に、邪ではあるが精悍な顔立ちをしており正直エデルは頬を染めてうつむいた。
 男は上半身を起こし、アームに手をかけエデルは顔をふと上げた。
「な、」
 競売の紹介を聞いていたエデルの仲間は驚いて横を見て、いきなりエデルの唇をそっと奪って行った男を見た。すでに男は背を背もたれに落ち着かせ、エデルは悪魔との契約が果たされでもしたかのように真っ白だ。それは暗がりでも分かる程に白く浮いているが、それでもその瞳だけは濡れ光り輝いていた。
「おいエデル」
 正気を取り戻させる為に腕を揺らし、見るからに『愛のガボル』側では無い男に警戒しながらも彼女を立たせ、背を低くして会場の隅へと避難させた。
「大丈夫か。きっと混乱させて薔薇を手に入れさせない手段だ。あれは相当のものだからな」
「ええ……」
 エデルは何度も頷き、戻ることは避けてその場から競売に参加を始めた。
 きっと、あの男はエデルも敵わない程の額を出してあの『薔薇』を手に入れるつもりだろう……。

二、霧が惑わすほどの花の薫り (2)

 エデルは目を覚ますとそこは寝台だったので痛い頭を抑えながらもまた枕に沈んだ。
「………」
 自身の横にはあの男がいて、眠っていた。鋭い(まぶた)を閉ざして。
 エデルは自身を罵り、歯を剥いて悔しがった。きっと、夜半にでも浚われたのだろう。酒で酷く酔ったかの様な頭痛が微かに残っている。
 彼女は辺りを見回し、布団を引きながら上半身を起こすとサイドテーブルにかかった衣服を急いで(まと)う為に離れることにした。
 振り返り、会場とは違い黒髪が降りていて顔全体までは見えない男が目覚めていないことを願ってそろそろと布団から完全に出て行った。
ガシッ
「きゃっ」
 思わず叫び、恐い目の男を見る。切り抜かれたように鋭い目で、ラテン系の相手は痩身な見かけよりも体格が整っていた。手首を掴んでくる力も強い。エデルは男を睨んだ。
「ふ。勇ましい」
 男は細長い指で髪をかきあげベッドから上がり歩いて行き彼女は顔を反らした。
「『薔薇』のパリュールは約束通り、お前にあげよう」
 エデルは男を見た。
「『アネモネ』もな。あれらの美しい装飾品はよく似合う。私はそれらを探し求める者たちの人格も探してきていてね。愛を纏ったその輝く瞳は素晴らしい……ふさわしい強い目をしているよ」
 ゆっくり歩いてきてエデルの髪に手を差し入れた。
「今までは薔薇を想像して、洗練されたスペインとはまた違う、イタリアの美しくも可愛らしい女達の黒髪とこげ茶色の瞳に合うだろうと思ってきていたが、あのパリュールを見て核心を持った。あれらはやはりガボルの愛したという女と同様に金髪の女に似合うものだ。今まで多くの美意識のある女を会場で見てきたが、それだけでは無かった。お前は自然の美しさがある。花が太陽に照らされることと同じで……芳しい」
 瞼が閉ざされて行き、静かな口付けが交わされた。
「お前のためになら、他のパリュール……愛の花たちも集めよう」
 男は微笑し、きびすを返し歩いて行った。
 エデルは床に視線を落とし、目を閉じた。歯をかみ締める。
「あなたの力など借りないわ。それにあたしをまるで娼婦のように会ったすぐの日にこういう手で扱わないで!」
 きっと男を睨み、男は思いのほか悲しい目をして振り返り彼女を見た。
「………」
 エデルは口をきゅっとつぐみ、男って言う生き物はずるい、と思った。あんな顔をするなんて。それでも許せなかった。もちろん油断した自分も情けなくて飽きれて来るのだが。
「別に軽い気持ちでなど扱ってはいない」
 エデルは顔を反らして壁を睨んだ。
「私はあなたの手持ちの装飾品を付け替えて楽しませるための人形なのでは無いわ」
「これはこれは。全く、近頃の若者は跳ね返りが多いものだ。まあ、いい。どちらにしろ出られるものでもない」
「逃げようとすればあの青年の様に私や目を儀式に挙げようとでも?」
「さあ。どうかな。君のその瞳ははまっていてこそ美しい。その目で花を愛で、私を見ていてもらいたいのだ。愛し合う時も、森を歩く時も」
 男が窓際に向かうと、カーテンを引きそれが昼時だったので相当のんびり寝ていたのだと分かった。彼女もそちらへ行くと、用意周到なことに彼女の愛馬も下にいた。どこかの城か屋敷なのか、見渡す限り深い森が広がり続いている。何処なのかは不明だ。もしかして男の母国ではないかと思われるスペインだろうか。
「あなた、スペイン人?」
「ああ」
 陽に透かして見る男の瞳はエキゾチックで、自分たちには無い最大の魅力を感じた。
 男もまた同じ様にエデルの透き通った水色の瞳を見ていた。まるでそれは澄み渡った空や白い浜の海、森にさやけし泉、そして瑠璃の鳥の様だ。金糸の髪も柔らかく指にまとわりついてくる。
「愛さえ知れば、儀式など忘れるのでしょう」
 男はその指先でもてあそぶ金髪から彼女の瞳を見た。
「ガボルは愛を見失ったからこそ何も信じられなくなったけれど、その本当の愛情と言うものは決して失われることなど彼の心からも無かったことだわ。だからこそ絶望し、悲しみ続け、そしてだからこそ彼の場合は足を浸してしまった。愛こそに抜けられなかった。愛は簡単に無くなるものでもないし、一度でも知ればそれは何時までも続くものだから」
「………」
 男はエデルが手を取って唇を寄せた指輪を見た。
「あたしはあなたを変えるわ。美しい光りのある方向に」
 指輪はガボルが悲しみに暮れた儀式の時代の指輪だったが、彼女が口付ければその黒い石の光りは強く太陽の光りを反射するたゆまなき一途な物を纏って思えた。装飾品……それは、確かに誰かの為につくられたもの。愛がこめられどんな形だろうが魅力を引き出す。
 賢いカラスや美しい巣を作り上げる蜘蛛(くも)、毒を持ってしても鋭い蛇に、闇を制覇する機敏な蝙蝠(こうもり)、どれもが自然世界で輝き生きているそれらの雄大な力を持ってモチーフとして選ばれ、地から生きていく力を本当は得たかったのかもしれない。目の前から愛は失っても。ただただ信じて、自然界で地道に生きる彼らの様に強く。だからガボルはその雄大な摂理の一部に惹かれていたのだと、エデルを見ていると分かった気がする。
 女に騙されながらも愛を知っていたガボルはきっと邪悪に染まりきることは無かったのではないだろうか。一度愛を知ったなら……。だからこそ、誰の心をも魅了し続けているのだ。きっと、自分もその一人なのだろう。だからエデルに魅了され、そして本質の美しさの誇る『愛の時代』に触れたくなったのかもしれない。
 エデルは強く微笑み、その瞳は黒い石と同じぐらい純粋にまっすぐと光った。

三、澄んだ空を映したような (1)

 リュートの旋律。
 それは石畳の街角によく響き反響していた音だった。吟遊詩人たちが歌いそして爪弾かれる愛の物語……。
夢子(ゆめこ)
 水月(みつき)が夢子の部屋に来るが、開け放たれた室内に妹はいなかった。彼女の部屋は実に簡素で、ベッドと大きな鏡がある他は、球体間接人形の座る椅子と、少し高い座高のスツール、花の生けられた円卓があるのみだ。衣服やメイクボックス、靴、バッグなどは数が少なく衣装タンス一つに納まり、装飾品もインテリア雑貨も他には無い。女優の露草(つゆくさ)夕子(ゆうこ)を知っている限りでもモノクロの印象で実にエレガントなのだが。
 水月の部屋は壁が淡いラベンダーカラーでいろいろな衣服を持っている。D&Bも好きなら最近は大人っぽいドルチェ&ガッバーナもそろえ始めている。ロマンティックなものも好きなのでパステルピンクや藤色のものもあり、メイクも好きだった。さすがにピンクや藤色やサックスブルーを大人っぽく着こなすにはまた彼女なりのセンスの良さもあるのだが。
 彼女は歌いながら部屋を見回していたが、問題の球体間接人形の前に来た。窓からはリュートを奏でている音が聞こえる。時々北欧あたりの異邦人だろう、アンティークな風情の中世の服を着る演奏家が一人街角で奏でていることがあるのだ。リュート以外にも、変わった楽器に出くわすこともある。
「ね。あなた、また飛行機で飛んでくのよ。アメリカにいったらたまげるかもね」
 人形の体を通して《エデル・ハネッケン》は人々の声をよく聞いていた。今日はイタリア語。自身で顔は挙げられないために誰が話しかけてきているかは不明だが、夢子では無い。声は鮮明に聞こえてくるわけではないから日本語ならそれが夢子かその母親かは不明になる。でも、ずっと七年間聴いてきた夢子の口調はよく耳になじんで覚えている。特に、イタリアの子供たちの声は元気で愛らしかった。
 昨夜は二十五年振りに力が使えたらしかった。声で元気をもらって魂が固まってくれたのだろう。
 何も、夫となったあの貴族の男に取って食われたのでは無い。儀式に挙げられたわけでもなく、互いに生は全うした。その際に男は老いた妻エデルの体を保存する為に処理を施し、瞳を特殊加工を施し硝子で固めた。そのための費用にパリュールは王国の保有財産として王家コレクションに入れさせ、これ以上闇に入り『愛の時代』がばらばらになることはなくなった。
 瞳はコレクターの間で回りに回り、ある日人形作家の手に渡ることになる。それは装飾の金属部分から分離され、人形の瞳として収まったのだった。瞳である装飾品、水色の瞳を飾っていた銀装飾のクチナシの腕時計と首飾りと組み合わされていたレースのアンティークドレスを人形の衣装にしたのだった。
 本来、この人形には《クチナシの乙女》という名がつけられていた。実際に首からクチナシの首飾りと腕時計が目玉の無い状態でかけられているが、今でも瞳の取りつけは出来る。
 その人形にはまった瞳を水月が覗き込んだ。エデル・ハネッケンの視野に夢子と仲の良い女の子の顔が現れた。それはよく若い頃の自分の瞳に似た水色をしている。夫がこよなく愛した瞳の色。自分がこうやって後世を見聞きすることになるとは思わなかったが、美しい音楽を聴くとうれしいものだ。夢子もよく自分で聴こえてくるハープの旋律に合わせて歌をつくって歌って聴かせてくれた。彼女の声は小さいから囁くような歌声だが、それも可愛らしいものだった。元々日本語は分からないので何を言っているのかはそこまで分からないが、心で聴いていると少女の寂しさがよく伝わってきた。夢子は日本にいるとき友達を部屋に連れてくることは無かったが、イタリアに来ると彼女の姉の水月の友人がよく来た。エデン自身はイタリア語とスペイン語を夫から教わっていたので分かっていたし、コレクションがイタリアのコレクターに渡ったこともあり、その時は宴で装飾品は使用されいろいろな会場を見たり人間模様を見たものだが、それも今は静かに人形に収まり静かに過ごしている。
 時々力を得ると、身に着ける女性や男性の体を少しは借りて可愛いいたずらをしてみたり散歩をしてみたりとしたものだ。馬を持っているコレクターならば大いに楽しんだものだった。
 この所はまた悪い癖で出てきたくなってしまって夢子に不気味がられてしまった。それに夢で洗脳してみようと思ったら夢子が繊細すぎてしまって悪夢だと勘違いされてしまい、相当恐い思いをさせてしまったようで反省している。とそれらの事を思っているなどと、夢子は露とも思っていないのかもしれないのだが、ずっと寂しがっていた夢子が元気になってくれたことはうれしい。それに、もしかしたらこちらが駄々こねたおかげというか、珍しく遠出を出来るらしいのだから。
 そんな元気いっぱいな事を夢子や優雅な綺羅(きら)にも似た繊細な顔立ちの人形が思っているなどと思われることも無いのだろうが、軽快な口笛を吹く水月はなにやら今日も人形の体を持ち上げて踊り始めた。視界がそれで回転する。そのとき彼女は楽しかった。水月はカンツォーネを歌いながらくるくる回る。
「Non sai che in un fiore      あなたは知らない
 C'è un mondo pieno d'amore.」 花の世界が愛に充ちているということを
 なんてぴったりの歌だろうか。夫に聴かせたいほどに。結果的に彼とはエデルの愛が勝り、光りが勝ったのだ。自然の世界を崇拝し、大切にあがめた。花の世界を愛で、よろこびを幾度分かち合ったことだろうか。計り知らない彼ら自身の愛の時代で。
 球体間接人形は水月とともにくるくる回る……。

三、澄んだ空を映したような (2)

 「あなたが夢子(ゆめこ)ね!」
 思い切り抱きしめられて緊張した面持ちで夢子は驚いて微笑んだ。笑顔でやってきたカロラインは異母姉妹の姉水月(みつき)のイタリア人の母親で、早口で挨拶をしてくる。
「はじめまして。カロラインよ。いつも水月のことかまってくれてどうもありがとう」
「あの、はじめまして」
「美しい子だわ! 五年も同じ国にいたのに会うことも無くて申し訳なかったわね」
 カロラインの瞳は光り輝き、「恐がらないで」と言ってくれているかのような包容力だった。彼女はとてもチャーミングな人で年齢も感じさせないような品のある薔薇色の頬をした人だ。時々イタリア人でもいる瞳の色の淡い系統の水色が水月と同じで、カロラインの横にいる水月はとてもうれしげな顔をしている。いつもしっかりした顔を妹に見せている水月だが、元来はいつでも踊っているような子だ。それを見慣れない夢子は彼女が母の前でうれしくて子供に戻っているのだと微笑ましく見ていた。
「あたしの方がいつもお姉さんにとてもよくしてもらっていて、とても頼りになる人なんです」
「まあ、それはうれしいわ! 珍しいこともあるものね?」
 おちゃめに言い、どうやら早口の人らしく半分ほどなんと言っているのか聞き取れないが陽気な人で安心した。
 今日はまずは仲良くできるようにとホームパーティーを開いたのだが、いつもよりがんばって二人で料理をした。カロラインもいろいろと手作り料理を持ってきてくれたのだ。
「あなたのお母様のことも映画でよく拝見させてもらっているわ。実際会った事は無いけど、素敵なお母様ね」
 夢子は頬を染めてうつむき、こくりとうなずいた。
「どうもありがとうございます……」
「まあ! 恥かしがりやさんなのね。とても可愛いわ」
 食事が始まると、和やかな雰囲気に(ひじり)は安心した。少しでも重い空気が流れたらと危惧していたのだ。まだ互いに気を使い合っていることもあるのだろうが、出だしは良い。
 水月の場合は週に何度も母に会いに行くのが日常だったからいいが、夢子の場合は元からがシャイでそのうえ五年間理解者の母から離れていた分もあり、聖だけではまかなえない部分を水月がよくしてくれていた。この子もいろいろ思うところもあっただろうし、愛人を作った結果になった先の子供だろうと夢子のことを受け入れてくれた。彼女なりの葛藤もやはりあったことだろう。それはもしかしたらカロラインには話したことはあったかもしれないし、本当に純粋な気持ちをもって妹として可愛がってくれているのだとも思う。まるで性格は違っても親友同士の友達のようにも見えた。
 カロライン自身も水月がいつも言って聞かせてくれる様に夢子が聡明な子でうれしかった。確かに一時期は子供のいない所で隠し子を作った夫に対して口論をしたこともあったが、その娘が親子で生きてきてこんなに素直な光りをそっと瞳に宿している子なのだ。仕事をしながらも家事を両立し女手一つで娘を育ててきた綺羅(きら)は素晴らしい女性なのだと分かる。その部分も大きく尊敬した。
「いつかは実際にあなたのお母様とも会って、ぜひ話をさせていただきたいわ」
 夢子はカロラインに頷き、彼女の首から下がるペンダントを差し出した。
 そこにはカラーで五才の頃の夢子と緑のあふれる場所で撮影された笑顔の親子写真が収められていた。まぶしいぐらいに輝く笑顔をしている。草地の先に青い海が臨み、木々が風に揺れていた。彼女たちの髪も、白い衣服も。それは聖が撮影したものだった。ずっと五年間綺羅側の親族から親子に会うことを拒まれてきたが、初めて会う事が許された日の写真で宝物だった。当時に限らず、今でも世間に出回る露草(つゆくさ)夕子(ゆうこ)の写真は白黒のみだ。映画以外でのTVに出る事はまず無い。彼女はブルースを出しているのだが、そのジャケットも白黒だった。澄み切ったその白黒の美しい世界の露草夕子は、まるでそれらの透明感ある色が光りをもって浮かぶかのような美貌を持っている。
「まあ、なんて美しいの……?」
 うれしくて彼女は微笑んだ。
「あたしは将来、自分というものの殻を破るためにも母が歌っているようにブルース歌手になろうと思っているの」
 いつも観客は人形の美琴(みこと)と、鏡に映った人形。
 夜に見た安堵とする夢が人形の本当の感覚なら、自分も安心して美琴に楽しい歌を聞かせて挙げられるように歌手になることが出来る。
「本当に? 歌はあたしも大好きよ!」
 水月が抱きついてきて、食べていたケーキをお皿に盛大に落とした。
「姉妹のデュオよ! あなたの囁き声と、あたしのハミングで」
「あなたたち、人形みたいに可愛いから良いかも知れないわね」
「いいでしょう? パパ、考えてくれても。あたしも仕事をしながらやりたい」
「確かに、それも楽しいかもしれないね。何事も試して見るといい。助言をくれるだろう人もアメリカにいてくれるんだ」
「ありがとうパパ!」
 水月は両頬にキスをしてはしゃいだ。
「あたしも今度会いに行くときにママにも話してみるわ」
「ええ! ね。ミュージックビデオやジャケットにはあたしたち、人形の格好をしてあなたの美琴も一緒に撮影するのが楽しいと思うわ。正当なブルースも素敵だけれど、少し変わった味で売り出すことだっていいんじゃないかしら。日本では可愛い子には旅をさせろって言うんでしょう。美琴もよろこぶわ」
「ミコトって、お友達?」
「いや。僕が贈った人形だよ。精巧な球体間接人形でね」
「ふふ。本当、時々動くんじゃないかって思う程よ。この子の部屋にいるわ」
 と言いながら彼女は庭から夢子の部屋のある窓を見上げた。
 楽しい声で動けていて窓の空を眺めて見ていた美琴人形、エデルは水色の目で二度見して驚いて前だけを見た。
 水月は五度見して驚いて円卓に躍り出たので食べようとしていたフォークの上のケーキを皿に夢子はまた「ああぁ、」と落とした。
 エデル人形はそのままふぁさっと背後に倒れて行って窓からフェードアウトし姿を隠し、上を向いて倒れたまま四肢ですすすすと椅子のある方向まで髪と裾を引きながら進んで行き、窓枠内が外から見えなくなるところまできて四肢の間接でぐらんっと胴体を起き上がらせ、椅子に納まったのだった。
 これで見事に見間違いで済むことだろう。
 人形から見るに水月はすごい顔をしているし、夢子はどうもとろくさそうな感じだとエデルは可笑しく笑いながら見ていたので、エデルは安心して再びそっと床に視線を落とし、人形として戻った。先ほどの怪奇めいた移動法を見せた人形とは思えない程に。
 昼下がりのまどろみの陽がゆらゆらと足元まで流れ始め、彼女もうたたねに入る……水月とその歌を教わり歌い始める夢子の二人の声が掠める……。
「 Non sai che nei miei occhi c'è. あなたは知らない
 Amore per te. 」          私の瞳があなたへの愛で充ちているということを



※ Non sai che in un fiore. C'è un mondo pieno d'amore.
  Non sai che nei miei occhi c'è. Amore per te. /Wilma goich . in un fiore
※パリュール / 基本的にはティアラ、イヤリング、ネックレス、ブレスレット、リングがセットになったもの。
※花言葉
アイリス:恋のメッセージ、雄弁、変わりやすい、吉報、消息、あなたを大切にします
薔薇:情熱、愛情・あなたを愛します、貞節、美、模範的 ・熱烈な恋、私を射止めて
アネモネ:はかない恋、恋の苦しみ、薄れゆく希望、嫉妬のための無実の犠牲
 ※ケシ:「恋の予感」「いたわり」「陽気で優しい」「思いやり」
百合:「威厳」「純潔」「無垢」
ジャスミン:「素直」「可憐」「温情」「気だてのよさ」「愛の通夜」「官能的」「愛らしさ」(黄)「優美」「幸福」
スズラン;「幸福が帰る」「幸福の再来」「意識しない美しさ」「純粋」
アザミ;権威・触れないで・独立・厳格・復讐・満足・安心
エーデルワイス;「尊い思い出」「大切な思い出」「勇気」「忍耐」
クチナシ;「私は幸せ者」「とても幸せです」「優雅」「洗練」「清潔」「喜びを運ぶ」

花言葉は後から調べたため……
『愛の時代』の花言葉としては、ケシがアネモネにも花の様子が似ていて良いのですが、作者がアネモネの妖艶さやアザミの紫が好きなのでそちらを採用しました。ケシの儚げも好きなのですが。
偶然にもアザミに通ずるエデルの独立した部分、その後のアネモネのエデルに惹かれて行った男心も代弁しているように思います。

球体間接人形

八つの花にちなんだパリュール。愛によって生み出され、それは幻の時間となったひとりの男の輝いていたひととき。

球体間接人形

※読み返すごとに誤字脱字を見つけ修正しております。その点、未だ読み辛い部分があると思います。申し訳ございません。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-01

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 一、夢誘の調べ (1)
  2. 一、夢誘の調べ (2)
  3. 一、夢誘の調べ (3)
  4. 二、霧が惑わすほどの花の薫り (1)
  5. 二、霧が惑わすほどの花の薫り (2)
  6. 三、澄んだ空を映したような (1)
  7. 三、澄んだ空を映したような (2)