新作狂言/米盗人
【 館の主人登場】
〈主人〉 「この辺りのものでござる。当屋敷に昨夜、米盗人が入り、米蔵の米を
すべて、持ち去ったによって、一族郎党はおろか、己自身も空腹に
耐えかね、難渋しておる始末、なんぞ良い思案がないものかと
想い悩んでいたところでござる。こんな折は、それ三人寄れば
文殊の知恵とか、これより太郎冠者、次郎冠者両名を呼び寄せ相談いたそうと
存ずる。やいやい、次郎冠者、太朗冠者は居るか、これにでませい。」
【太朗冠者、次郎冠者登場】
〈両冠者、ともに〉「これに控え居りまする。」
〈 主人〉 「汝らを呼んだは他でもない。昨夜米盗人が当家に
押し入り、米蔵の米をすべて持ち去ったによって、食うにも 事欠く
始末、なんぞ良い思案はないものか尋ねんがため 呼びいだいた。
〈太朗冠者〉「それならば、良い考えがござりまする。」
〈主人〉 「おお、さようか。なら述べてみるがよかろう。」
〈太朗冠者〉「まず、館の警護のために、屈強なる者求むる旨、書き記した立札を
辻つじに立てまする。」
〈主人〉 「なに、立札を立てよとな。」
〈太朗冠者〉 「いかにも。但し、雇う数に限りがあるによって、屋敷内で相撲の
試合を執り行い勝ち抜いた数名の者のみ雇う、と書き加えなされませ。」
〈主人〉 「愚かなことをいうものかな。従者を雇えば禄を与えねばなるまいに、
米蔵が空でなんとする。」
〈太朗冠者〉「さればでござる。米一俵を持参するものに限り、相撲を取らせるのが
よろしいかと存ずる。」
〈主人〉 「なに、米一俵を持参せよとな。」
〈太朗冠者〉「いかにも。さすれば、自と米蔵に米が戻って参りまするによって
従者に禄を与えることができまする。さらにその者に米蔵を守らせれば
米盗人を防ぐことも出来るというもの。」
〈主人〉 「しかし、果たして、それで米蔵が元のように米で満たされるのか、ちと心もとないが。」
〈次郎冠者〉「それには、良い思案がござりまする。」
〈主人〉 「おお、然らばとんと述べるがよかろう。」
〈次郎冠者〉「されば、相撲を取らせるに合わせて、今、巷で評判の女踊りの一座を
呼び寄せなされませ。」
〈主人〉「その噂なら、聞き及んでおる。して呼び寄せてなんとする。」
〈次郎冠者〉「人は元来見世物好きなもの、相撲に、色を添える女踊りを合わせれば一段と
見物人が押し寄せましょう。その者たちより、門前にて、一人につき米一升の
見物料を徴収するのでございます。さすれば一段と米が増えましょう。」
〈主人〉「なるほど、それなれば合点がゆく。」
〈太朗冠者〉「それにも増して、良い思案がござりまする。」
〈主人〉「何、それにも増して良い思案とな。つらつらと述べてみるがよかろう。」
〈太朗冠者〉「されば、楽しみ事は眼で見、耳で聞き、舌で味わうもの。米は盗まれども、幸いにして酒蔵は
無事なれば、見物衆に酒蔵の酒を振る舞い 飲み代を徴収いたせば、如何でございましょう。
相撲や歌舞音曲を楽しむにはやはり酒が無うては始まりませぬ。]
〈主人〉「なるほど、よき思案かな。汝の大酒飲みには手を焼いておったが、この思案は酒飲みでのうては思いつかぬ。」
〈太朗冠者〉「恐れ入ってござりまする。」
〈主人〉「善は急げとか。では早速、両名共に力をあわせ、そのように取り計らうべし。みどもは今より山一つあなたの
舅殿の館に出かけるによって、帰るまでに万事怠りなく頼むぞ。」
〈両冠者〉「心得ました。心得ました。」
〈主人〉「しかと頼みくぞ。」
〈両冠者〉「心得ました。心得ました。」
【主人退場】
〈次郎冠者〉「頼うだお方はあのように機嫌よう出向かれたが、果たして思うように事が勧むものか
わごりょはどう思う。」
〈太朗冠者〉「案ずるより産むが易し、というではないか。まず試みるべし。為らねばまた次の手を考えようほどに。」
〈次郎冠者〉「わごりょの申すに一理あり。まず試みるべし。」
【両者顔を見合わせ頷く】
〈太朗冠者〉「そうじゃ、見物衆に酒を振る舞うとなると酒蔵の酒が少のうてはいささか心元ない。直ちに酒蔵に入りて
見届けて参るといたそう。」
〈次郎冠者〉「それがよかろう。」
【両連れ添うて舞台を一回りして後】
〈太朗冠者〉「しかし、こうして酒蔵の入り口に立つと、中から良い酒の匂いがするではないか。」
〈次郎冠者〉「いかにも、良い匂いが漂ってござる。」
〈太朗冠者〉「いざ、入ろうぞ、入ろうぞ。」
〈次郎冠者〉「いざ、入ろうぞ、入ろうぞ。」
〈太朗冠者〉「おお、あるある。見事に酒樽が積まれてござる。」
〈次郎冠者〉「いかにも見事に積まれてござる。」
〈太朗冠者〉「ところで、わごりょは何処の地酒が好みでござるか。」
〈次郎冠者〉「それは何と申しても、我が在所、伏見の酒を上げ申す。いくら天下の酒どころを
見まわしても、これに勝るものはございますまい。まさに味といい香りといい
まさに、天下一に相違ござりませぬ。」
〈太朗冠者〉「これは、聞き捨て為らぬ事を言うものかな。酒といえば天下に名高い灘 の生一本、我が在所の
灘の酒こそが、誰もが認めむる天下一の名酒でござる。」
〈次郎冠者〉「いやいや、そうではござらぬ。ほら此処にござる酒樽にも天下一の名酒、《伏見桜》と書かれて
ござる。とくとご覧あれ。」
〈太朗冠者〉「いやいや、そうではござらぬ。ほれ、この酒樽の此処に天下一の美酒、《富士の峰雪》とあるのが
眼に入らぬはずはあるまい。」
〈次郎冠者〉「いや、わごりょがなんと言われようとも、我が在所、伏見の酒が天下一に相違ござらぬ。」
〈太朗冠者〉「いや、そこもとがなんと言われようとも、我が在所、灘の酒こそが天下一に間違いござらぬ。」
〈次郎冠者〉「何と強情な、伏見が天下一というに。」
〈太朗冠者〉「そっちこそ、負けを惜しみて言うものかな。」
〈次郎冠者〉「伏見でござる!」
〈太朗冠者〉「灘だと言うに!」
〈次郎冠者〉「伏見!」
〈太朗冠者〉「灘!」
【両者とも同時に肩を落としため息をつき、お互いを振り向きざまに】
〈両者口を揃えて〉「ならば、此処で聞き酒をして比べようではないか!」
〈次郎冠者〉「初めて言い分が相申した。」
〈太朗冠者〉「いかにも、相申した。」
〈次郎冠者〉「いくら、論じても埒があかぬによって。」
〈太朗冠者〉「これはもう、聞き酒以外に手立てがないと。」
〈両者口を揃えて〉「互いに思うにいたりしとは。はあっはっはっはっ・・・。」
〈次郎冠者〉「なれど、勝手に酒樽を開けては、頼うだお方の咎めを受けずには
おくまい。」
〈太朗冠者〉「それならば、不味い酒を振る舞えば当家の恥と、念には念を入れて、振る舞う
酒の味をも調べおき申したと言い訳すればよかろう。それに一樽ならともかくも
たった 一口ならば大事なかろう。」
〈次郎冠者〉「わごりょの言う通り、たった一口ならば大事なかろう。ならば、まずは我が在所
伏見の樽から開けようぞ。」
〈太朗冠者〉「それがよかろう。」
【次郎冠者、蓋を開ける動作】
〈次郎冠者〉「おお、あるある。なみなみと入ってござる。」
〈太朗冠者〉「どれどれ、おお、なみなみと入ってござる。蓋を取ると
さすが天下一と銘打つだけあって、得も言われぬ良い香りが
するではないか。」
〈次郎冠者〉「わごりょの言う通り、得も言われぬ良い香りがするものかな。
では早速、みどもから一口飲むといたそう。」
〈太朗冠者〉「それがよかろう、これに盃がござる。これにて飲むがよかろう。」
〈次郎冠者〉「さすがは大酒のみとの異名をとるだけあって、わごりょの何と手回しのよいことか。
心得たり。心得たり。」
【次郎冠者、太朗冠者が懐より取りだしたる盃を樽に入れて、酒を掬い取り飲む】
〈次郎冠者〉「・・・ああ、何と旨い酒じゃあ・・・。このような旨い酒に出会ったのは生まれて
初めてのこと。まさにこの酒こそ、天下一の名に相応しい。わごりょも飲んでみよ。」
〈太朗冠者〉「心得た。心得た。」
【太朗冠者、次郎冠者より受け取った盃にて樽の酒を掬い取り、飲む。】
〈太朗冠者〉「・・・おおなるほど、わごりょの言う通り、今だかつてこのような旨い酒を
飲んだ覚えがない。まさに天下一と銘打つだけのことはある。」
〈次郎冠者〉「ならば続いて、わごりょの在所、灘の生一本とやらを味おうてみようでは
ないか。」
〈太朗冠者〉「心得た、心得た。」
【太朗冠者、蓋を開ける動作】
〈太朗冠者〉「おお、あるある、なみなみと入ってござる。」
〈次郎冠者〉「なるほど、あるある、なみなみと入ってござる。この度はわごりょから
飲むがよかろう。」
〈太朗冠者〉「心得た、心得た。」
【太朗冠者、樽の酒を掬って飲む動作】
〈太朗冠者〉「・・・ああ、何と旨い酒じゃあ。灘の生一本と言われる中でも、選りすぐられたる名酒、
まさに日の元一の山、富士の峰雪と銘打つだけのことは確かにござる。ささ、わごりょも
味おうてみるべし。」
〈太朗冠者〉「心得た、心得た。」
【次郎冠者、太朗冠者選り受け取りし盃にて、樽酒を掬い取り飲む】
〈次郎冠者〉「・・・おお、なるほど・・・。確かに天下に名高き灘の生一本。わごりょの言う通り、
さすがに日の元一の富士の峰雪と銘打つだけあって、これほどの味を醸し出すとは
見事な技と言う他になし。」
〈太朗冠者〉「これで、両在所の酒を味おうてはみたものの、それぞれがあまりにも名酒ゆえか、
先に飲んだ味を忘れ、このままでは甲乙付け難し。何か良い思案はないものか。」
〈次郎冠者〉「女御もたった一夜の契りだけでは不十分、逢瀬を重ねてこそ、その女御の良し悪しが
分かるというもの、酒も同じく、杯を重ねてこそ良し悪しを知ることができるのではと存ずる。」
〈太朗冠者〉「さすが色男との異名を取る、わごりょにしてこそ言えることかな。なれど一理あり。されば
もう少し、杯を重ねてみようではござらぬか。」
〈次郎冠者〉「それが、よかろう。では再び我が在所、伏見の樽から飲むといたそう。」
【次郎冠者盃にて樽酒を酌み飲む】
〈次郎冠者〉「・・・ああ、先ほどよりも一段と味が冴て、何という旨さじゃ。しかもこのほろ酔い気分ときては・・つい浮かれて
体がひとりでに踊りだしそうにおもえる。どうじゃ、この名酒を愛でて一さし舞うと言うのは。」
〈太朗冠者〉「それはおもしろや。舞うがよかろう。みどもは盃を傾けながらながら見物をしようほどに。」
【次郎冠者頷き、謡い舞う】
咲き誇る 伏見桜の花吹雪 浮く盃を飲み干せば
天にも昇る心地して 飛天の袖に 枕するらん
〈太朗冠者〉「やんややんや、こ度は、みどもが舞うてしんぜよう。」
〈次郎冠者〉「ならばこれにて、盃を傾けながら見物するといたそう。」
【太朗冠者頷き、謡い舞う】
ほろ酔いの 気を例うれば 伏して見る 月の国より舞い降りし
天女の膝に枕して 見る夢心地の 桜見の酒
〈次郎冠者〉「やんややんや 、飲みて後、謡うて舞えば、自ずから酒の良さが分かるというものかな。」
〈太朗冠者〉「いかにも、ならば我が灘の酒も飲みて舞うてみようぞ。」
〈次郎冠者〉「一段とおもしろかろう。」
【太朗冠者頷き、灘の酒を飲みて後、謡うて舞う 】
立春に 富士の高嶺の雪緩 み 天の宮より巌伝い
湧きいだしたる清水もて 醸す美酒あり 灘の蔵ぐら
【次郎冠者立ちあがり共に舞い謡う】
春霞 む 桜の枝を越し見ゆる 富士の高嶺に積もる雪
美保の松原白砂 に 寄せては返す千代波の
黄金の色の波間より 万年亀の顔見せて
沖に見ゆるは七福の 神の乗りたる宝船
弁財天の琵把の音に 舞う鳳凰の羽根の色
美酒の香りにほろ酔いて 謡い踊りて 壽ぐは
子々孫々の御代までも 永遠に栄ゆる日の元の国
【主人登場】
〈主人〉「いやあ、ひどい目に会い申した。門を出でし折は、あんなに陽がさしておったに
峠に差し掛かるや否や、俄かに一天かき曇り、雪が舞いはじめたかと思うと
たちまちのうちに風強まりて、あまりにも吹雪く故に、やむなく山越えを諦め
立ち戻ってござる。 舅殿の館には、いずれ日を改めて訪ねようと存ずる。
やや、奥の酒蔵辺りがあのようにやけに騒がしいが・・・ちと見て参ろうぞ。」
【主人酒蔵に至り、両冠者の舞い踊りたるを見て怒る】
〈主人〉「やい!汝らは主の留守を良いことに、無断で酒蔵に入りて酒に酔い騒ぐとは許し難き所業なり。
両名ともそれになおれ!打ちすえてくれようぞ!」
〈 太朗冠者〉「お待ちくだされい。それは見込み違いでござる。我らはただ見物衆に振る舞う酒の
ただ一口のみ、味見をしただけの事、のう次郎冠者。」
〈次郎冠者〉「その通りでござる。味の落ちし酒を振る舞えばご当家の恥との思いから念には念を入れようと・・。」
〈主人〉「いや聞かぬぞ、聞かぬぞ。ならば舞踊ったは如何なる故ぞ。」
〈太朗冠者〉「それは、酒の味はと問われし場合、飲ませるわけには参らず、舞い謡って示めさんがためでござる。」
〈主人〉「一口ならば、なぜそのような赤ら顔なりや。」
〈次郎冠者〉「舞の工夫に力が入り、身体が火照り申したためでござる。」
〈」主人〉「ならば、なぜそのように眼が虚ろで、足がふらつく。」
〈太朗冠者〉「舞の内に、身体をひねる所作が多き故、眼が回ってござる。」
〈主人〉「ええい!この場に及んで、まだそのような戯言を!汝らの
酒臭きが何よりの証拠。騙されぬぞ、騙されぬぞ。」
【主人に追われ逃げ惑いながら】
〈太朗冠者〉「たった一口、味見をしただけでござるというに。」
〈主人〉「いいや、聞かぬぞ、聞かぬぞ。」
〈次郎冠者〉「見込み違いでござると言うに。」
〈主人〉「いいや、騙されぬぞ、騙されぬぞ。」
【太朗冠者、次郎冠者に次いで主人退場】
〈 完 )
*この物語は、完全なるフィクションであり、登場する人名、地名その他の一切の事物は、実際に存在するものとは、全く関係ありません。〈筆者敬白)
新作狂言/米盗人