シガレット・スメル
愛煙家だったことはよく覚えている。
あの人が白に青の縦線が入っている箱から煙草を一本取り出す度に、
母は少し嫌な顔をした。
私は喜んであの人のまっさらな白いシャツに顔をうずめるのだった。
あの人が煙草を吸っているのを見るのが大好きで、
あの人が吸う煙草の匂いが大好きだった。
母はそんな私も少し嫌な顔で眺めた。
あの人は…父はそんな私をいつでもぎゅっと強く抱きしめてくれた。
大きな、温かい手で。
1. おもかげ
今でも時々思い出す。
父と過ごしたたった6年間。
九州の小さな島で過ごした日々。
私と父と母と祖母の4人暮らし。
毎日が幸せだった。
しかし、何かがきっかけでその日々は終わりを告げた。
気づけば父と母は毎日のように口論ばかりするようになり、
そんな時私は祖母の背中に隠れてじっと黙り込んでいた。
祖母が『大丈夫よ』と言って私の頭を撫でるたびに、
視界が曇ったのを覚えている。
喧嘩の間私の存在が二人の間から消し去られていることが寂しかったのか、
単に祖母に対する安心感からなのかは分からない。
ただ、祖母なら二人を止められると思って助けを求めたことは確かだった。
母は強し。という言葉があるが、それを幼いながら理解していたのかいなかったのか。
とにかく家族で一番影響力がある人だということは分かっていた。
ある日母に、一番大事なおもちゃを三つまで選ぶように言われた。
嫌な予感を感じ取った。
しかし、もう何日も笑顔を見せていなかった母にそんなことを聞けるはずもなく、そそくさとおもちゃを選んだ。
父から誕生日にもらった動く白い鳥のぬいぐるみにも、バービー人形にも、
祖母が母に内緒で買ってくれたアクセサリーセットにももう二度と会えない気がした。
なんとなく、空気で分かったのだった。
子供とは本当に勘の鋭い生き物だ。
親のことをよく観察している。
母は家を出ていくなんて一言も言わなかった。
父も祖母も何も言わなかった。
母にどっちについていくかというようなことを聞かれたらしいが、あまり良く覚えていない。
たぶん、自分で頭の中から記憶を消し去ったんだと思う。
母曰く私は母側についていくと言ったらしい。
確かにそうだったかもしれない。
父には祖母がいる。更に時々東京から帰ってくる父の妹・カホちゃんがいる。
しかし母には私しかいないと言われた。
そう言われては母についていくしかない。
そう思っての決断だった。
そして誰も、
何も別れの言葉を言わず、
私もまさか本当に家を出ることになるなんて思わず、
無邪気に父と祖母に手を振って元気よく『いってきます!』と言って
母と共に広谷家を出たのだった。
タクシーの中で母が急に泣き出したのを見てからやっと気づいたのだった。
もう父や祖母やカホちゃんには会えないのだと。
会いたいなら帰ろうよ。
分かれるのが辛いのにどうして離れるの?
幼い私の小さな心は、
ぶつけようのない怒りと悲しさでぐちゃぐちゃになっていた。
2、初片思い。
初めて恋心を抱いたのは中学二年生の夏だった。
小学校が一緒で、でも話すようになったのは中学一年で同じクラスになってからだった町田君はみんなの憧れだった。
一年の時はその魅力に気づかなかった。
ミーハーな感じで人を好きになるなんて自分は絶対にそんなことしないと思っていた。
初めて出会った時は自分のかっこよさを理解しているその感じがむしろ気に入らず、どちらかというとその印象は悪く、好きになれないタイプだった。
一年が終わってクラス替えをして、また彼と一緒になった。
何がきっかけというわけでもなく、一年の時は全く興味がなかった彼にたちまち夢中になった。
いや、本当は何かきっかけがあったのかもしれないがよく覚えていない。
しかし意識し始めてからというもの、なんだか気恥ずかしくて彼とは全然話せなくなってしまった。
これが恋の毒かと実感した。
ドキドキと高鳴る鼓動や日々の楽しみと引き換えに、私の行動力を奪う。恥じらいの気持ちを強める。
厄介なものだと思った。
しかし、癖になる感覚だった。
そんなこんなで何も進展などせず、あっという間に私は中学三年生になった。
またしてもクラス替えがあり、このクラス替えで始めて彼と別のクラスになってしまった。
廊下であったり、火曜日の部活で同じグラウンドで練習をしている彼を、遠くから眺めるだけ。
それでも目が合うだけで、『今日は目が合ったよ!!』と友人との交換日記で得意げに報告してみせるのであった。
当時はそれだけで本当に幸せで、
その日の午後の授業が大嫌いな数学でも、
放課後が塾の日でも、
給食が好きな献立じゃない日でも頑張れた。
それくらい、純粋な心だった。
純粋すぎた。
だから結局卒業式にボタンをもらったっきり、私の長い初片思いは終わりを告げたのである。
それで悔いは残らなかった。
もう一度彼に会いたいとは別に思わなかった。
のちに気づいた。これは恋ではなく単なる依存であったのだと。
私は町田君が好きな自分が好きなだけだったのだと悟った。
高校の三年間でも、やはり私は一度も誰かと付き合ったことはないのであった。
いいなと思う人や、あと一歩で付き合うのだろうと実感した人はいた。
しかし結局自分の気持ちが分からくなっては去っていくを繰り返し、つまりは中学生時代の淡い気持ちのままで何も成長していないのであった。
こうして私は、人を好きになるってどういうことなんだろう?といった思春期の少女ならではの難問にぶつかったのであった。
3、おもかげ。
その人に出会ったのは高校2年生の春だった。
始業式の日、着慣れていない様子のスーツ姿にさっぱりと短く切った爽やかな髪型という出で立ちで彼は体育館の壇上で挨拶をした。
毎年始業式の日になると決まって新しくやってきた教師が壇上で挨拶をするが、生徒はというと新しいクラスのことでソワソワして、誰も教師たちの挨拶など聞かない。
話を聞く時があったとしても、変わり者だったり熱血っぽかったりする教師に対して必ずと言っていいほど、『この高校の何を知ってるんだコイツは。』だとか、臆病者らしい教師に対しては『こんなので教師が務まるのかよ?』というような冷やかしの声がそこかしこで聞こえるのである。
私はどうでもいいと思っていた。
その時も、まさか自分がその人に心惹かれるだなんて思っているはずもなく、
ただ体育館の窓から差し込むじんわりとした春の日差しにもたれかかるのであった。
始業式から数日経ったある日の授業。
シガレット・スメル