夕暮れ時に泥む空
高校生の夕は家族の誰とも視線を合わせる事が出来なかった。
大好きな夕焼けを眺めながら、起伏の少ない平和な日常の中にいる。
しかし、人は変わらずにいられない。
とある日曜日。何気ない外出。
それが全ての始まりだった。
1話
日が暮れる。夕日が傾く。東から西にゆっくりと首を傾げ、最後には夜に飲み込まれる。朝と夜のつなぎ目でしかないというのに、その橙色はほんの僅かな時間にだけ一際強い輝きを放つ。これを滑稽と言わずになんといえばいいのか。あまりに痛々しく彼が輝くものだから、私は思わず目を背けてしまう。が、すぐに視線は彼の元へ戻っていく。これの繰り返し。
私と同じ字を持った球体が消えゆく様を、私は自室の窓から眺めていた。ベッド上のデジタル時計は午後五時を示している。バイトのない日は学校からすぐに帰宅するので、大抵夕日が出ている間に帰宅している。しかし家に直帰してもこれと言ってやることはなかった。学校に用事がないから家に戻っただけの私にとって、短い逡巡の後にカーテンを開き、夜に消え入るまで彼の姿を眺めることが日課だった。
天体に興味があるわけではない。ただなんとなく、他に見るものがなかったからそちらを向いただけ。帰路の途中で見かけても何とも思わない癖に、自室の窓からだと何故か心惹かれてしまう空の色と、そこに浮かぶ丸い球。冬が近付くにつれて、彼の出勤時間は短くなっていく。
ゆっくりと、しかし確実に地平線の中へ消えていく夕日。段々と窓の外が暗くなるにつれて、私の姿が見え辛くなっていく。夕日を見ている時はいつも部屋の明かりを消していた。ガラス板二枚分の四角い窓から差し込む光を目一杯楽しみたいから。それに、人工的な光はあまり好きではない。
壁を背にベッドの上に座り、時々携帯のボタンや雑誌のページを捲る。常に夕日に視線を向けているわけではないが、私の傍らには常に彼が坐していた。一人きりの寂しい部屋でも、彼がいる間は不思議と不安を抱くことがなかった。小学校の頃から鍵っ子だった私にとって、彼はかけがえのない存在なのである。
携帯が震える。三回の振動の後に動きを停止したので、届いたのはメールの方だろう。昼休みに文音が皆に週末の予定を聞いていたことを思い出す。陽光を左半身に受けながらメール画面を開くと、案の定文音から遊びの誘致メールだった。親戚から遊園地の割引チケットを貰ったからみんなで行かないか、と。
私はすぐに返信を返した。「了解」と二文字だけの短すぎる文章に申し訳程度の顔文字を添えて、送信ボタンを押す。紫杏は返信が遅いので、再び全員に連絡が来るのは日付が変わる頃に違いない。
用済みになった携帯をベッドの脇に放り投げ、読みかけの雑誌も閉じてベッドの下に落とす。棚や机の周りは片付いているのにベッドの周りに物が溢れているのは、ついベッドの近くに物を置いてしまうこの習性が原因なのだとつくづく思う。が、思うだけで治そうとまでは思わない。良い癖が見付からない一方で、悪い癖ばかりが身体に染み付いていく。出来の悪い私はこうして完成するのだ。
嗚呼、今日も部屋が橙色に染まっている。病院を連想させる白い壁も、パイプ製の簡素なベッドも、小学校の頃から使い続けている学習机も、私も、何もかもが夕日に染まっている。ここはとても居心地が良い。猫が日向で眠るのを好むように、私は彼の腕の中で眠るのが好きだ。母親の温もりを忘れてしまった私にとって、夕日は私を無条件で受け入れてくれる唯一の存在だった。
夕日が住宅街の中へ沈んでいく。私もその後を追うように身体をベッドに横たえる。が、そこで未だ自分が制服姿でいたことを思い出す。これもいつものことだった。夕日にばかり関心が向けられ、気付けば彼の行動を真似ている。そしてその最中に「制服に皺がついてしまう」と僅かに焦燥を募らせるのだ。
私は大きくベッドの空いたスペースに制服を脱ぎ捨て、クローゼットの中から取り出した部屋着に袖を通す。アイドルの追っかけに忙しい梓が行く先々で『ご当地Tシャツ』なるものを土産に買ってきてくれるので、私はズボンを一枚用意すればいいだけ。服には困らない。勿論家の中での話だが。
着替え終わったところで、夕日は半身だけ地平線から顔を覗かせていた。いや、実際私の部屋からは住宅の屋根に埋もれかけている彼の姿しか見えないので、正確には異なるのだろう。まだ全身が海の上にあるかもしれないし、実はもう足の先が僅かに見えるだけなのかもしれない。
昨日より早いお帰りだ。デジタル時計の表示はいつの間にか六時を回っていた。時間の流れとは残酷だ。一人で夕日を見るようになってから既に十年も経ってしまっていた。
小学生の頃はもう少し純粋な気持ちだったに違いない。
何年経っても同じ光景が続く橙色の世界を前に、私はまたそんなことを思ってしまった。思うだけ無駄だというのに、誰かが部屋の扉をノックするまで私は過去の自分と睨み合いを続けていた。
「夕、入るぞ」
二回のノックの後、扉を開けて部屋に入ってきたのは兄だった。綺麗な兄。同じ両親から生まれたというのに、髪も瞳も顔も、目元以外の全てが異なる兄。まだ入っていいと返事をしていないのに、夜見は勝手に私の部屋に入り込む。
「おかえり、お兄ちゃん」
反射的に部屋の奥、窓の傍に後退りながら文句の代わりに定型文を口にすると、兄は私との距離を詰めながら「ただいま」と笑顔を作ってそう応えた。
夜の文字を名前に含んでいるというのに、兄はいつも眩しい。父譲りの端正な顔立ちと色素の薄い茶色の髪。服のセンスも悪くない。細身の体型とすらりと長い手足。特に指はピアニストのように細く長い。家庭教師よりも雑誌の専属モデルの方が似合いそうな外見だ。自慢の兄ではある。
「へぇ……今日は森鴎外か。お前の友達、中々趣味が良いな」
文音に説明されるまで服にプリントされた文字の意味が分からなかった私に、兄は私の胸元の『エリス』という文字を見つめながら感嘆の言葉を漏らす。
この兄は外見だけでなく、頭も良い。「下宿したくないから」という理由から拒否したが、兄の成績なら都心の有名大学への進学も夢ではなかったと父から聞いている。実際家に持ち帰られる兄のテスト用紙はたいてい満点かその一歩手前だった。勤勉な性格は容姿と同じく父譲りの物に違いない。だって、母親似の私にはない物だから。
「ちょっと本を読む量が人より多いだけ。それだけ。何も特別じゃない。読書量ならお兄ちゃんの方がずっと上だよ」
友達が褒められて嬉しくないわけがない。文音は私の友達の中で一番の読書家だ。気に入った作家の本しか読まないが、それでも私よりは何倍も本を読んでいる。けれど、兄と父に比べれば確かに凡人だった。それは私が一番よく知っている。
「俺は洋書専門なんだ。夕も読んでみるといい。ドストエフスキーの『罪と罰』なら手に取りやすいし、あとで部屋からもってきてやる」
「いらない。きっとまた読破出来ないから」
「そう言うなって。とりあえず手に取ってみろ。話はそれからだ」
兄と私では頭の出来が違うというのに、兄は未だにそれを理解してくれない。いや、違うとわかっていても努力すれば差が埋まると思い込んでいるに違いないのだ。生まれ持った才能を確かに努力で埋めることは可能かもしれないけど、私の努力と兄の努力では質が違いすぎて、追い付くことなんて出来やしない。
私のベッドに大の字で寝転がる兄を横目に私はカーテンを閉めて、照明の電源スイッチを押した。兄はどうにも暗い部屋が苦手らしく、兄が来たら部屋の電気を点けることになっていた。所謂暗黙の了解と言うやつである。
二十歳にもなって明かりがないと眠れないなんて、兄じゃなければ私も馬鹿にしていただろう。しかし、兄の場合は仕方ない。兄の暗闇に対する恐怖はお母さんが死んだあの日から始まったのだから、馬鹿にしていいはずがないのだ。母親の死に痛みを覚えない私と違って、兄の心はまともなのだから。
「で、何の用事。今日の食事当番はお兄ちゃんなのに、なんで台所にいないの」
携帯をスボンのポケットに仕舞い、私もベッドの端に座った。兄の顔が見えないよう、彼の足の当りに浅く腰掛ける。自分のベッドの上で何故窮屈な思いをしなければならないのだろうか。言葉にはしなくても、きっと不満は顔に表れているに違いない。
「料理はもう終わってる。あとはパイが焼けるのを待つだけ。妹と会話したいから頑張って早く終わらせたんだ。菓子なんて初めてだったから予定より時間食ったけどな。褒めてくれていいんだぞ」
「凄いね、お兄ちゃん」
それは決して嫌味ではなく、私は純粋に兄を褒めていた。心から素直に言葉を口にした。
「凄いね、お兄ちゃん」
兄は凄い。何でも卒無くこなしてしまう天才型。勿論その陰に兄の努力があることは知っているが、それでも無難に物事をやり過ごす事が出来る兄は私の誇りだ。自慢すべき兄。敬愛すべき対象。
「凄いね、お兄ちゃん」
「何度も言うなって。照れる。おおぅ、なんか恥ずかしい……妹の純粋な言葉に俺の心臓は串刺しにされてしまったらしい……」
舞台上の演劇役者のようなわざとらしさで胸を抑えて悶え苦しむ兄の姿も、ここが私の部屋でなければ、場所が私のベッドの上でなければ様になるに違いない。私は贅沢をしている。両手から水が溢れ出ている。
兄はたまに私の言葉を疑うが、基本的に家族には思ったことを素直に伝えている。それを真偽のどちらで捉えられようが構いやしない。疑念に塗れている私が言える義理ではなかった。
少し顔を動かせば兄を見下す事が出来たが、私の視線は常に両膝の上に向けられている。メンズ雑誌の一面を飾れるような美しい光景が真横に広がっているとは言え、見たくないものは見たくなかった。美術品はいくらでも鑑賞可能だというのに、兄と父の姿だけはあまり直視出来なかった。気が付くと視線が別の方向にズレてしまっているのだ。
呼吸をする以外、ベッドの上で一切動かない兄と私。兄が面白がるような話題を私は持っていないし、どの情報が兄のツボを突くのか未だによくわかっていない。故に、私はいつも自分から家族に話しかけないでいる。興味本位で話しかけて相手を不快にさせたくないし、浅知恵が露呈するのもあまり気持ちがいいものではない。母が死ぬ前から、私は母以外の家族との距離を掴み損ねていた。
「学校、今日はどうだったんだ」
それは妹の日常を心配する言葉のように聞こえる。実際兄もそう思って言っているのだろう。視線だけ横に動かせば、私の顔をじっと見つめる兄の栗色の瞳と目が合った。兄の長い睫が瞬きを何度か繰り返す。
でも、そこに在るのは本当に親切心だけなのだろうか。私の猜疑心は特に兄と父の言葉には良く反応する。出来損ないの妹の行動をつまみに、優越感に浸りながら酒を飲みたいだけなのかもしれない。兄としての義務的な質問、家庭崩壊を未然に防ぐための最低限のコミュニケーションの一環か。優しい言葉を吐きながら、本当は私のことが大嫌いなのではないか。妹思いの言動は所謂世間体のための演技で、欠陥だらけの私のことなんて内心嫌っているに違いない。私は捻くれ者だった。
だから返答も自然と業務連絡のような定型文となってしまう。授業の様子と友達との会話を、必要以上に話を盛り上げることなく、淡々と事実だけを述べるだけ。初めのうちは自分の意見を交えていたような気もするが、今では友達のプライバシーを侵害しない程度に語った後、兄が「そうか」と相槌を打ったら口を閉じるのが当たり前となっていた。
味気のない会話。自分でもそう思う。つまらなさに満ちた会話。充実感なんてまるでない。どうして兄が未だに私に構ってくれるのか不思議で仕方なかった。でも、構ってくれるのは嬉しい。
「土日は友達と出掛ける予定。晩御飯も外で食べて来るから、門限までには帰ってこないと思う」
「わかった。でも、いつものバイト終わりの時間ぐらいまでには帰って来い」
「うん」
それは純粋に私の身を案じてくれているのか、それともご近所に妹が夜遊びしていると勘違いされたくない故の言葉なのか。私はまた懐疑する。見えない兄の心の形を捉えようとして、自分で首を絞めながらもがき苦しむ。
私はいつからこんな私になってしまったのだろうか。母が死んだあの日が変化のきっかけだったのか、それとも生まれた時から愚か者だったのか、その答えは神様にしかわからない。
兄はベッドの上からぐるりと部屋の中を見回し、漫画ばかりが詰まった本棚を見ていくつか不満を漏らした後、「あと五分で夕食な」と一言を残して部屋から去って行った。パイが焼き上がったのかもしれない。
兄が焼いたのはアップルパイなのか、それともピーチパイなのか、レモンパイなのか。今になって疑問を抱く。こんな小さな疑問さえ見つける事が出来なかった自分の愚かさに、私は嘆く他にない。
今日は金曜日。仕事で忙しい父が私たちと一緒に食事取る唯一の日。部屋の明かりを消そうと立ち上がった私の足は重い。一歩歩くたびに足の裏の皮膚がフローリングにへばり付く。誰かが瞬間接着剤で私をその場に引き止めようとしているのだ。足を上げろと脳から命令を発信しても、身体の動きはスムーズどころかより一層スロウになっていく。
でも、私は這い蹲ってでも部屋の外に出なければならない。下のリビングで二人が待っている。
合いたくないし、会話もしたくない。
けれど私が顔を出さなければ家族に不具合が生じる。
父や兄が私をどう思っているかは知らない。
でも、その胸中はどうであれ兄と父が仲の良い家族を演出しようとしているのなら、私は彼らに大人しく従う。両手を上げて、無い尻尾を大きく振り、首を折る勢いで縦に振る。
私も平和が望みだった。愛されてなくてもいいから、表面上だけの取り繕った愛でもいいから、家族でいたかった。家族ごっこに興じていたかった。
私は家族が好きだ。この感情は本物だ。しかし、同時に完璧な彼らに複雑な思いを抱いている。所謂コンプレックスと言う、私がどうしようもない劣った人間故に抱いてしまった感情を。
私は父にも兄にも追い付けず、彼らの背中を見つめ、後ろをただ必死についていくだけ。
疑心暗鬼の中をさ迷い歩き、都合のよい解釈だけを頼りに生きていく。
自分の欠点はわかっていた。
それでも変われないのは、やはり私がどうしようもないクズだからに違いないのだ。
「おーい、早く降りて来いよー。父さんもう帰ってくるぞー」
開けっ放しの扉の向こうから聞こえる兄の催促の声。
それに応えようと私は口を開くが、それよりも先に玄関の扉が開いた。
「……」
たった数秒しかない扉の開閉。開けて、中に入って、閉める。その音を耳が聞き取った瞬間、私の足が急に前に進まなくなったのは言うまでもない事。苦手な食べ物を目の前にした子供が取るような拒否反応だが、ここで止まることは許されない。扉を閉めて引き籠るなんて選択肢は初めから存在しない。
思わず停止しそうになった重い両足を引き摺りやっとの思いで廊下に出て来た私と、玄関先で雨に濡れた傘を持つあの人はほぼ同時にお互いに視線を向け、そして私が先に視線を逸らし、定型文を吐き出した。
「おかえりなさい、お父さん」
「……帰った」
必死に視線を父に向け直すと、もう父の目は私を見ていなかった。
to be next...
2話
日曜日。兄には予定があると告げたが、実際は全くやることがない暇な一日。本当なら今日か昨日のどちらかに友達と遊びに行く予定だったこの日に、私を除く全員が急に都合が悪くなるという不運がぶち当たり、結果遊びの企画は来週に持ち越しとなってしまったのだ。
元々予定がなかったとはいえ外出するつもりだった私は、とりあえず兄から借りた『罪と罰』を手に家を出て、電車を乗り継いで隣県まで来ていた。家で過ごすという選択肢は無いに等しい。
図書館と映画館のどちらかで少し迷って、財布に野口英世が二人いることを確認してから、駅前の商店街から少し離れた場所にある映画館に向かうことにした。
縁のない隣県だが、街を歩く私の足は地元を歩く時よりもしっかりしている。地図を探さなくても目的地へ真っ直ぐ、少し寄り道する余裕すら持って歩いていく。
正直言って、私は地元が嫌いだった。土地の不便さとかそういう問題ではなく、単純に知り合いと遭遇する可能性が高いから嫌いだった。家にも地元にも居たくないのだから、私の遊び場所は自然と遠く離れた場所に限定され、わざわざ高い運賃を払ってまでして県外脱出をしなければならなくなっていた。
しかし、特段それを不便だと思ったことはない。むしろ、知らない人だらけの街で気儘に羽を伸ばせることが楽しかった。特に今来ている雨月町は何度も足を運んでいるせいか愛着があり、高校に進学してバイトをし始めてからは大抵この第二の故郷に私の足は自然と向いていた。
既に見慣れた街並みではあるが飽きることはない。むしろ、その変わらない平和ぶりに私の心は常に感心させられっぱなしだった。檀家制度が根強く残るこの街は時代にそぐう外見をしているが、一方その内側で今も昔の名残を留めている。所謂二面性と言うものが私には感じられた。常に妙な懐かしさを感じるのは、この街特有の見えない昔の姿が原因なのかもしれない。
そんな風に思案していると、意識を現実に戻した時には既に目的地が目と鼻の先に存在していた。
わざと古びた建物風にデザインされた映画館『シネマドーリム館』は上映映画に偏りがあるため土日であっても利用客が少ない。だが、逆に普通の映画館ではなかなか上映されないコアな作品を主に取り扱っているため、県内外に固定の客を持っている。また学生の自主製作映画の上映が可能と言うこともあり、学生団体からも人気があると、兄から聞いたことがあった。
大きな硝子戸を開けて中に入り、入り口近くに立ててある看板で今日の上映スケジュールを確認する。ラブロマンス、SF、コメディ、アニメ(大きなお兄ちゃん向け)、アニメ(大きなお姉ちゃん向け)、自主製作映画。アニメと自主製作以外は全て洋画で、吹き替え版はやはりなかった。館主の意向はまだ変わっていないらしい。壁に貼られたポスターによれば今日の自主製作映画は全台詞がフランス語のミュージカルとのこと。こちらは字幕すらないようだ。
特に見たい映画はないが、どうせなら人が少ない方が良かったので自主製作映画の半券を購入した。実は自主製作映画は全て五百円で見る事が出来るので、財布にも優しい結果となった。シアターに入る前に館内の自動販売機で缶ジュースを買ったが、それでも野口英世の消失は一人までに抑える事が出来た。
受付で案内されたシアターに入ると、そこには予想通りの光景が広がっていた。数あるシアターの中でも最も小さいこの七番シアターに収容されているのは、私を含めて九人だけだった。更にそのうちの五人が大学生らしき集団で、入ってきたばかりの私の姿を見るなり「お客だ!」「四人目来たぞ!」「あと一人で十人だ!」と獲物を見つけたハイエナのような様相で駆け寄ってきた。
「君、高校生だよね。字幕無しの全仏語だってのに、よく入ってくれたね。ありがとう」
「いえ……あの、ミュージカルって中々見れないから、面白そうだなって思って……」
咄嗟に返した言葉だったが、興味があるというのはあながち嘘ではなかった。自主製作映画にはピンからキリまであるが、粗削りながらもプロとは異なる趣があり、私は結構気に入っていた。元々映画好きだったのもあるし、チケットを通じて投資するならこちらの方がなんだか有意義なような気がするのだ。
監督らしき学生から無料のパンフレットを受け取り、映画の簡単な説明を受けてから漸く座席に座る。「高校生のお客さんって初めてだから」と団員の人がポップコーンを買ってきてくれたので、それを食べながら上映を待つことにした。私の好きなバター風味だった。朝食も食べずに朝早く家を出て来た私は無我夢中でそれを頬張り、上映開始を告げるブザー音が鳴った時には既に残りは半分以下になっていた。
一瞬劇場内が暗くなり、すぐに目の前の大スクリーンに映像が映し出される。劇場内のスピーカーから重みのあるクラッシック音楽が流れ始め、しばらくして映像内の役者が喋り始めた。
演目は『傲慢な王女様』。フランス革命中に刑死したマリー・アントワネットを題材に独自解釈を加えた九十分一幕構成。歌とダンスは別のサークルや音楽学校の監修の元、アマチュアの力を総結集して政策している。しかし人数不足だけはどうすることも出来ず、大抵の役者が一人で何役も演じるノーボディーをしなければならなかった。と言うのが、先程受けた説明である。
オーストリアからフランスに嫁いできた美しい王女。享楽的な性格で向こう見ずな浪費家として描かれた王大太子妃時代と王妃時代は、一般にイメージされるマリー・アントワネット像と見事に一致している。が、なにも彼女の悪い面ばかりが前に出ていたわけではない。飢餓に苦しむ子供たちの為に宮廷費を削って寄付したり、他の貴族から寄付金を募るなど、王女が少なからず国民を大切にしていたという描写。我が子に世話を焼く母親としての一面。一見創作シーンの様に見えるが、「マリー・アントワネットが諸悪の根源だと誰が言った?」と兄が豆知識を披露してくれたおかげで、私は内容に違和感得ることはなかった。人には良いところも悪いところもあるということのわかりやすい例が彼女だったのだ。
慌ただしく舞台の中を駆け回る役者の中には先程の五人の学生の姿もあった。中世風のデザインの煌びやかなドレスやタキシードに身を包む役者は皆日本人、もしくアジア系の顔立ちをしている。が、まるで本物のフランス人が声を当てているみたいに流暢なフランス語が彼らの口から飛び出してきた。ダンスのステップにも、声楽の響きにも、所々に素人っぽさが見えていたが、逆にそれが学生らしくていい。
舞台が変わる一瞬の間に、一度だけぐるりと周りを見回した。私以外の三人の客は皆顔だけは画面に向けながら、夢の世界に旅立っていた。通常の映画と同じ大音量で音が流れているというのに器用なことだ。前列周辺で食い入るように自分たちの映画を眺めている五人には悪いが、まともな客は私しかいないようだ。私はちゃんと起きている。
演劇開始から約五十分は王女の輝く半生を豪奢に彩っていた。革命が始まってから画面に灰色が混じるようになったが、塔に幽閉されてもなお、王女を覆う全てが黒に呑まれることはなかった。衣服や壁紙がどれほど薄汚れても、王女の顔に影が落ちることはない。夫との死別の時でさえ、王女は笑っていた。「そんなことで私は堕ちたりしない」とでも言いたげに、どのシーンでも必ず王女は笑う。
舞台が黒一色に染まったのは処刑を目前に控えた王女の夢の中で王女の次男であるルイ・シャルルが死亡するシーンだった。ありとあらゆる病を身体に取り込み、誰にも看取られずに苦しみの中この世を去ってしまった若き王子。夢とは言え、我が子の未来を暗示するかのような悪夢に初めて涙する王女。
この演劇で唯一のオリジナルシーンだけが無理矢理切って繋いだかのように異質で、尺も一番長かった。何があろうと笑みを絶やさなかった王女が初めて涙し、嗚咽を堪えながらその内に抱いていた恐怖を初めて吐露する。その相手は鏡に映った自分自身。否、何も知らずに傲慢だった頃の自分と向き合い、ただただ言葉を零していく。
「……」
長い、長い、女の台詞。お互いがお互いに言葉を投げつける。
途中から存在すら忘れていたポップコーンに漸く手を伸ばす。
一人で物思いに耽っていたくてここに来たというのに、私はいつの間にか目の前の演劇に夢中になっていた。画面の明かりを手掛かりにパンフレットを読み漁り、わからないところは役者の演技から連想して補った。フランス語なんてMerci(ありがとう)くらいしか知らない私でも、目で物語を追っているとなんとなくだが台詞の意味が分かるような気がした。
「『パンがなければお菓子を食べればいいじゃない』と言うのは彼女を妬んだ人たちによる作り話だそうだ。マリーが実際にそれを口にしたという根拠は何処にもないんだよ。全く、人の妬みとは恐ろしいものだ。七つの大罪にカウントされることだけはある」
罵倒、悲嘆、愛憎入り混じった言葉の繰り返しに女の鳴き声が掠れ、女が鏡を叩く音ばかりが聞こえるようになったその時、隣に座っていた彼がここぞとばかりに話しかけてきた。
「……先輩も見に来ていたんですね」
いつの間にか埋まっていた左隣の席。一瞬だけ視線を横にずらすと、休日なのに制服を着ている高校生と目が合った。烏羽色の美しい黒髪と、名前と同じ青色の瞳。やや中性的でありながら凛と大人びた、整った顔立ち。必要な時しか着用しない黒淵眼鏡。
「あえて補足するなら、君の兄もここに来ている。今は隣でラブロマンスを見ているところだ。なんでも、最近できた彼女とデートだそうだ」
最初からそこにいたかのような、それともさっき席に着いたばかりなのか、よくわからない。
蒼先輩はそこにいた。
私より一つ年上の人がいた。
私の知らない間に、私の隣に誰かいた。
「ああ、もうすぐ演劇も終わりだ。折角だからどこかに寄って行こう。大丈夫さ。わざわざ彼女とデートなんて建前を作ってまで君の後をつけてきた夜見さんだが、あっちの映画が終わるまであと一時間ある。長編映画を選んだのが間違いだったようだ。尾行したいのなら三十分のコメディを見ればよかったのに」
「はい」
即答だった。本当に行きたいのかと聞かれたら、間違いなく首を横に振るだろう。しかし、私は先輩の申し出を断れるほどの重大な要件も理由も何も持っていなかった。ただ一人でいたいだけの私は、人に嫌われたくないという打算的でかつ最低な思惑で返事を返してしまった。条件反射で言葉が出たと言っても過言ではない。私は基本的に他人の頼みを断れない人間だった。
「ほら、見て。マリーが死ぬところだ。処刑台までよく作ってあるね。刃が本物みたいに光っている。恐怖に引き攣った役者の顔なんて最高じゃないか。本当に殺されるとでも思っているのか、先程の泣き演技よりも感情が籠っている。観衆の声で彼女の声がけされているのが残念でならない。きっと素晴らしい演技だったに違いないだろう」
民衆役のエキストラの間を掻き分け、処刑台に向かう王女の顔は確かに青く、恐怖に歪んでいた。しかし顔はしっかりと前を見据え、自分の未来から目を背けるようなことはしなかった。これが本当に演技であるのなら、彼女は将来女優として名を全国に轟かせるに違いない。小刻みに身体を震わせながらも足を動かし続ける彼女の口端が一瞬狂気に歪んだように見えた。
「知っているかい? この演劇に登場する役者の殆どがノーバディだが、マリーの役だけはずっと同じなんだ。そして彼女はマリーしか演じていない。彼女は最初から最後までマリーでいるつもりなんだ」
兄ほどではないが先輩も頭が良い優等生だから、私は先輩の言って居ることがいまいち理解出来なかった。凡人にはわからない高尚な何かがこの劇にはあるのだろう。劣った私は演劇の表面的な意味しか理解出来ないが、先輩は先輩で楽しそうだったので、「そうですか」と適当に相槌を打っておいた。
「あのギロチンは間違いなく彼女を殺すだろうね。本物がどうかは関係ない。彼女が本当にマリーを演じているのなら、彼女はここで死ななければならないのだから。周りがそれを許すかどうかなんて関係ない」
王女は歩く。
薄汚れたドレスと短い灰色の髪を連れて。
前へ前へと自らの意志で歩いていく。
夫の亡霊を後ろに連れて。
処刑のシーンになって、彼女が口を開いたのは一度きり。
王女は誤って死刑執行人の足を踏んでしまい、彼に対してこう言った。
とても優しい口調で、今から死に逝く人の台詞とは思えない慈愛に満ちた言葉で。
『ごめんなさいね。わざとではありませんのよ。でも、靴が汚れなくてよかった』
私は言えるだろうか。
汚い面しか持たない私に、こんな台詞を言うことなんて出来るのだろうか。
知っているよ。
出来ないに決まっているって。
――さようなら――
私は目を閉じる。
真っ暗な世界の中、何かがごとりと地面に落ちる音。
それが私の首であったらいいのに。
そんな根暗な私の想いを打ち消すように、誰かの手が私の左手を握った。
指を絡ませ、深く食い込むように。
私を繋いでくれている。
to be next...
3話
「まさか君も『傲慢なお王女様』を見ていたとは驚きだ。君はあまり芸術方面には興味がないと夜見さんから聞いていたんだが、どうやら違ったようだ。いや、それよりも妹好きの夜見さんを騙すとは、君もなかなかやるもんだ」
映画館からそう遠くない喫茶店『千日茶屋』で、どういうわけか私は褒められている。嬉しい事だが、世辞の類いに違いないことはわかっていた。先輩の様に完璧に近い人間から賞賛されるほど、私は良い人間ではない。
映画の上映が終わった後、先輩に付き添って私は雨月町をふらりふらりと歩いて回った。今度こそ行く当てもなく、少し前を歩く先輩任せに歩を進めていく。人は決して多くないが、それでもはぐれることはないだろう。映画の上映中から私と手を繋いだまま、先輩は一向に手を離そうとしない。
先輩はあまり地元から離れないらしく、物珍しそうに街の中を見て回り、時々店内に入って色々物色したりした。雨月町は下手な寺社よりも歴史が古い街だから、探せば過去の遺産がいくつか見つかるのだ。この街の象徴でもある雨月神社を筆頭に、新築住宅の中に投棄や染物などの伝統工芸品を扱う店が点々と存在する。何故ここが観光名所になっていないか不思議でならない。喧しいことだけが取り柄の私の地元より余程見所があるはずなのに、この街は『賑わい』と言う言葉を未だ忘れたままである。
私にとっては既に見慣れた光景であっても、先輩にとっては写真の中でしか見たことがないような不思議の塊があちこちに落ちているように見えるのかもしれない。宝箱を目の前にした冒険者とは皆、先輩と同じ表情をしているのだろうか。目新しい何かを見つけるたびに先輩の青い瞳がキラキラと輝きを放ち、私は眩しすぎるそれを暇潰しに見ていた。
それが約五分前までの話。兄の見ている映画が終わるまで残り二十分を切ると、先輩は映画館がギリギリ見える近場の喫茶店で休憩しようと言った。「入ろうか」と言うそれは同意を求めない言葉であって、私の返事を聞くよりも先に先輩は扉を開き、さっさと席に着いてしまう。私はただ手を引かれるままその後に続き、四人掛けのテーブル席だというのに先輩と並んで座ることになった。中身の軽い鞄を膝に乗せて、少しスペースが余る程度の余裕。メニューを取るために漸く先輩が手を離してくれたので、私は急いで反対側に移動した。
水を持ってきた店員の「彼女さんですか?」という質問に全力で首を横に振り、とりあえず紅茶を頼んでおく。財布の中身はそう多くないし、要らぬ出費は避けなければならない。かと言って何も頼まなければ先輩に気を遣わせてしまうので、一番手頃な値段の商品を頼んでおく。先輩は抹茶パフェを頼んでいた。
注文から程無くしてやってきた紅茶を啜りながら、私は先輩と会話した。さっき見た映画の話や街の話。時折学校の話題も混じってくる。生徒会長をしているせいか、先輩は結構な情報通だ。雑学だけの男ではない。その上話し上手なものだから、先輩のペースにさえ合わせていれば会話が不自然に途切れるようなことはなかった。私はただ相槌を打ち、適度に情報を流すことに徹した。意表を突くように突然褒められても、「ありがとうございます」「そんなことありませんよ」の二言でさらりと流してしまう。しかし、いつまで経っても先輩は口を閉じようとしないので、無難な回答を続けるのも決して楽ではなかった。
「夜見さん、凄く心配していたよ。妹が休みになるといつも何処かに出掛けてしまうって。本当に用事があって出掛けているのか、とか無駄に心配性なんだ。お金払って雇っているのに夜見さんは君の話ばかりしている」
「……ごめんなさい」
「嫌じゃないからいいんだ。話しながらでも勉強は見てくれるし、夜見さんのお陰で欲しかった推薦も手に入った。高三の僕がこうして君とのんびりお茶が出来るのだって君のお兄さんのお陰だ。雑談含めて感謝している。勿論君にも。君の話を聞くのがいい気分転換になった」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると……助かります」
運ばれてきた抹茶パフェに手をつけず、抹茶アイスが少しずつ溶けていくことも気に留めず、話し続ける先輩。話の微妙な切れ目に「溶けますよ」と一声掛けても「そう」と短く返すだけで、一口も食べやしない。食べないのなら何故頼んだのだろうか。液体化したアイスがガラスの容器を伝い、テーブルの上に水溜まりを作り始めた。
私は紅茶に砂糖とミルクを入れ、早く冷めるようスプーンで中身を掻き混ぜる。兄が出てくるまでにこの場を一人で立ち去りたいと願いながら、ぐるぐるとスプーンを回す。
兄が私を尾行しているなんて、全く気が付かなかった。思うままにふらりふらりと街を歩く私の後ろをずっと着いてきたのだろうか。無意味な私の徘徊を追ってこんなところまでやってくるとは、兄も酔狂なものだ。
しかし、私が心配させたせいで兄の貴重な休みが潰れたのだ。後をつけられるのはあまり気分が良くないが、心配してくれる兄の気持ちは嬉しかった。
これからは一ヶ月に一度は家にいることにしよう。部屋に籠りきりで、宿題とか予習とか、とにかく何かをして時間を潰そう。元々真っ白で予定の無いスケジュールを僅かに改変する。
先輩は付けっぱなしのラジオの様に永遠と話を続けているが、内容はあまり頭に入らない。考え事の方に夢中になってしまって、私の相槌は徐々に減っていった。
私の悪い癖だった。同時に二つのことが出来ない単純な思考回路。自覚しているのなら片方に集中すればいいというのに、私は何度も同じミスを繰り返してしまう。
「聞き流してくれていいんだ。僕としてはね、誰かと一緒に休日を過ごせるかどうかが重要なのであって、会話の盛り上がりなんてどうでもいいんだ。だから、やりたい放題の僕に対して君もやりたい放題で返してくれると嬉しい」
緑の海の中に隠れた多重層にスプーンを侵入させ、くるりと一回転。アイスやクリーム等で汚れたカスタードが採掘され、先輩の口の中に消えた。
私は味のしない冷めた紅茶を最後まで飲み干し、苺パフェを追加注文の先輩と一緒にもう一杯紅茶を頼んだ。程なくして運ばれてきた冷えたアイスティーをストレートでイッキ飲みする。
喉から気管を流れた水が、まるで冷水に浸かったかのような急速さで身体から熱を奪っていく。寒い。膝に乗せていたコートを掻き抱くが、それでも大きく体がぶるりと震えてしまう。
この寒さは咽下した飲み物だけが原因ではなかった。背後から感じる強烈な視線。悪意に満ちたそれに、私の体は急激に熱を失っていく。元々高くない体温でも、下がれば寒い。
あの人は今日も変わらないな、と殺人的破壊力を持つこの視線に覚えがある私は今日も感心させられていたが、先輩は話すことに夢中で気付いていない。けれど、呆れるくらい自由で自分のペースを崩そうとしない先輩の態度は、間違いなく美点だった。
「先輩、お付き合いしている人がいますよね」
財布から最後の野口英世を引き抜き、伝票が丸めて入れられている小さな筒に入れておく。多少多目の出費だが、誘ってくれたお礼と思えば安いものだ。
「ああ、それなりに交友関係は広いと思う。友達は多いにこしたことはない。八方美人は決して悪いことではない。だが、友人が揃って受験中なんだ。下級生の君くらいしかまともに僕の話に付き合ってくれない」
「先輩は皆に慕われています。一声掛ければすぐに人が集まります。男女関係だって、いくらでも高望み出来るでしょう」
「だろうね。だが、それがどうした」
「彼女を大切にしてあげてください、ということです。お先に失礼します。誘ってくれてありがとうございました」
先輩が反論するよりも先に席を立ち、大急ぎでレジに向かう。すると、私の動きに合わせたかのような絶妙のタイミングで彼女が店に入ってきた。
流行のナチュラルメイクと長い茶髪が似合う背の高い女性。大学生が来ているような大人っぽい服装だが、その長い脚を見せつけるための短いスカートはいつにも増して丈が短い。ちょっと歩いただけで下着が見えてしまいそうで、正気を疑う。ピンヒールばかり履く彼女に私はいつも見下されるばかりだ。嬉しくない。兄や先輩なら気にならないのだから、きっと私はこの人が嫌いなのだろう。
店の入り口から私を睨み付けていた彼女は、すれ違い様に「あら失礼!」とヒールの踵を私の足に突き刺してから店内に入って行った。ヒールの凶悪さを感じつつ、レジで微妙な顔の店員に金を払っていると、店の奥から「先輩ぱぁい、こんなところで偶然ですねぇ。あ、これってまさか運命かなぁ」と愛嬌たっぷりの猫なで声が聞こえた。が、無視して私は店を後にした。
彼女は所謂関わってはいけない人物だ。先輩の強烈なファンで、自分のこそが先輩に相応しいのだと信じて止まない狂信者。私を目の敵にし、様々な幼稚的嫌がらせを武器に私の学園生活を破綻寸前まで追い込んだ人物。こんなのがクラスメイトだなんて、私は本当に運がない。
今日も先輩を尾行し、偶然を装って近付こうと考えていたのだろう。彼女はストーカーであって、恋人ではない。知っている。だが、「私は誰よりも先輩を愛してる」と豪語出来る彼女ほど『恋人』が似合う人物はそういないだろう。足は痛いが先輩に話し相手を残して席を立てたので良しとする。感謝はしない。
私がいなくなったそこで、二人は苺パフェを食べながら砂糖菓子よりも甘ったるい恋の話をするのだろう。店の前を通り過ぎるほんの一瞬、先輩が外へ視線を向けているように見えた。兄を探しているに違いない。私も釣られて映画館へ顔を向けたが、待ち人の姿はなかった。
携帯のディスプレイによると、もうすぐ兄が彼女を連れて出てくる時間だった。私は慌てて映画館から離れ、人気の少なさに定評がある神社の方にやってきた。神社は長い石段を登った先にあるので、正確には神社へ続く長い石階段の前に、だ。
商店街を横切って住宅街の更に奥にある神社まで全力で走ったおかげで、体育の時間以外では身体を滅多に動かさない私の身体は悲鳴を上げ、忙しなく肩が上下し続ける。流石に石段を全部登りきるつもりも自信もなかった。
いつ来ても掃除が行き届いている石段に腰掛け、息を吐く。それは酸素を求めるものだったかもしれないし、溜め息かもしれないし、呆れの一息だったかもしれない。色々な事が重なって、私の頭は多少混乱気味だった。
本でも読んで落ち着こうと思っても鞄の中の『罪と罰』には手を出し辛くて。いっそがむしゃらに石段を駆け上がろうかと腰を上げても背後の長い長い階段は果てしなく続いていて。ゴールの場所なんて検討もつかない。
結局私は石段の一段目に座し、両脚を支えに頬杖をついて無意味に世界を見渡すことにした。
ただ青いだけの空とただ白いだけの雲が存在するそこを見ていると気分が悪い。やっぱり私が好きなのは夕暮れ時の橙色だけだった。真黒な夜も嫌い。夕日以外の下では、常に私は不安と共に在る。
早く日が落ちないかな。
暗くなる前に家に帰らなければならないというのに、そんな馬鹿な願いが頭の中に浮かんでしまう。
嗚呼、私は帰りたくない。帰りたくない。
義務と願望が相反することなんて日常茶飯事で、どっちを優先すればいいのかも理解しているのに、何故だろう。ぐるり、ぐるりと回り続けて決まらない。いっそ何も決まらないまま停滞し続けていたいとさえ思えてしまう。
この神社に来ると思考が鈍る。当たり前のようにこなしていたことが急に出来なくなって、普段思い付きもしない考えご頭に浮かぶ。神を前に、自分の感情に素直になっているのかもしれない。
反復を繰り返す。
問答を繰り返す。
回る、回る。
廻り巡ってこんにちは。
そこにいたのは、どんな私か――
「やあ。逃げた幸せの分、お守りでも買ってみるのはどうだ?」
終わりの見えない無限ループを打ち切るように私の頬に冷えた缶を押し付けてきたのは、神社の神主さんだった。いや、本当に神主かは知らない。この人がいつも和服姿で神社の境内にいるものだから、私が勝手に神主と呼んでいるだけだ。空色の羽織を肩に掛け、彼はいつだって柔和な笑みを浮かべている。
「はい。今さっき逃げた分の幸運」
神主さんに手渡されたのは最近発売したばかりのピーチティーだった。CMがキチガイ染みている割に味は普通に美味しいとクラスでも評判で、一度飲んでみたいと思っていた所だ。
「ありがとうございます。久々に走ってたから、ちょうど何か飲みたかったんです」
「そうか。それはよかった」
神主さんは私の隣に腰を下ろし、持っていたビニール袋を膝の上に置いた。中身は日本酒のビンが何本も入っていて、「何に使うんですか?」と思わず尋ねてしまった。神主さんは「転売かな」と笑って答えたが、どういう意味なのか全くわからないので、気にせず私はピーチティーに意識を向ける。
缶を開けると、僅かに桃の香りがした。喫茶店で売っている本格品には流石に負けるが、安物の大量生産品にしては良い香りだ。味も下手なティーパックよりも断然良い。クラスの女子が無駄に騒ぐのにも納得がいく。
「これ、凄く美味しいです。何処に売ってたんですか? 私の地元では品薄で手に入らないから、是非買って帰りたいです」
「駅前のコンビニに入荷してある。人気らしいから、ちょっと頑張って仕入れてみたんだ。まだ沢山在庫があるはすだし、まぁなくなったらすぐに仕入れてくるから、好きなだけ買っていくといい」
「ありがとうございます。じゃあ、帰りに寄っていきます」
財布は薄くなるばかりだというのに、悪い気はしない。むしろ、飲みたがっている友達に持っていってあげることが出来て嬉しい。私はいつの間にか上機嫌になっていた。
「これも幸運の一環ですか?」
「さあ、どうだろう」
長い長い黒髪の奥で悪戯っぽく笑う神主さん。夜見とは違う綺麗な顔だ。華やかな夜見とは異なる飾り気のない顔立ち。掴み所のない雲のような不確かさは儚いと形容すればいいのだろうか。哀愁とまではいかないが、妙な寂しさを感じる。
神主さんが持つ現実味のない幽玄美に、私は何故か安堵する。同じ人間と話しているはずなのに、夜見や先輩と話すときよりも多弁になるのだ。遠慮を忘れて飛び出す言葉。まるで神に向かって懺悔しているような、形のない誰かに向かって話している気分。それが酷く心地良い。
「日が暮れるまでどうしましょう。暮れても帰りたくないけど帰らないとダメだから、せめてもう少しこの街にいたいです」
きっと兄が探している。私を監視しに来た兄が、私を探している。彼女と先輩が一緒に歩いている。苦手と嫌いが街を闊歩し、私を探している。
今は誰とも会いたくない。元々一人になりたくて遠出してきたのだ。休む日と書いて休日なのだと言うのに疲労が蓄積されるばかりで、これでは平日と何ら変わりない。逃げてきた意味がない。
爪先で石を転がす。使い古したスニーカーに飾り気などなく、薄汚れたこいつは私にお似合いだ。彼女の派手派手しさと正反対。安物のTシャツとスカート、鞄、中身。どれを取っても私は先輩と釣り合わない。水と油が交わらないように、ただぐちゃぐちゃと気持ちの悪い関係に陥るだけ。私はもう一度石を蹴った。力任せに遠くに飛ばして、すぐに見えなくなった。
「帰りたくないなぁ……」
段々と影を帯びていく空。いつも窓から眺める景色。冬に近付くにつれて夕方(わたし)の時間が短くなっていく。段々私の居場所がなくなっていくような奇妙な喪失感に、私は思わず神主さんの手を掴んでしまいそうになった。
「暇なら境内の方まで来てみるか? おみくじでも引いてみるといい。俺のはよく当たると評判だ」
羽織を直しながらそう言った神主さんは、不自然に伸ばされた私の手を見て少しだけ笑った。「ちゃんと触れるよ」と私の手を握ってくれた神主さんの両手は温かく、私は夜見に手を引かれて歩いた昔の事を思い出した。私より少しだけ大きな手が絶対に離すまいと痛いくらいに強く私の手を握って、先へ先へと歩いていく。寂しい記憶だった。
「当たるおみくじで凶引いちゃったら救いようがないじゃないですか。占いは半信半疑だから効果があるんです」
頭の中で流れる過去の映像を打ち消すように言葉を吐き出し、思考を別方向へと走らせる。
良かったら信じて、悪かったら嘘にする。そんな都合の良い解釈方法が通じるからこそ、私は生きていける。占いに限った話ではなかった。嫌なことには目を瞑り、折り合いを適当につけていく。上手な世間の渡り方。私の生き方。前の向き方。兄はきっと、もっと綺麗に生きている。
「今日はもう疲れたんです。これ以上ややこしい話はいらない。私、神主さんと話していたいです」
正に、藁にもすがる思いというやつだった。私はきっと、誰かに引き留めて欲しかったに違いない。「まだ帰らなくていいよ」「もう少しここにいてもいいんだよ」と、そんな甘い言葉を期待している。そして、それを神主さんも知っている。
「もうすぐ冬か」
日の傾き具合を見ながら神主さんはそう言った。何故かお酒の入った袋を置いたまま立ち上がり、服についた砂を払って草履を履き直す。私も釣られて席を立った。
「映画でも観に行こうかな」
「もう観に行きました」
「じゃあ、境内でおみくじとお祓いでもしようか」
「さっきからそればっかりですね」
「なら、家に帰るか自分で街を徘徊するかのどちらかだな」
後ろを向いた神主さんはそのまま階段を登っていく。置いていかれたくなくて、急いでその後を追おうとしたが、神主さんが残していったお酒の袋を持とうと屈んだほんの一瞬の間に、神主さんは私の視界から消えてしまった。初めから誰もいなかったかのように景色の中に溶け込み、赤い鳥居の向こうに隠れてしまう。
神隠し。
神に隠される。
いや、神が隠す。
誰を隠すのか。
隠してくれるのか。
赤い色が私を誘っている。
触れてみたいと思った。
あそこに行きたいと思った。
見えない神主さんの姿。
消えてしまったその背中に着いていけば何もかもが解決するのではないか、という馬鹿げた楽観的思考。
自分を罵るよりも先に、身体は動いていた。
少しずつ階段を登り、鳥居を目指すその足取りに迷いはなかった。
一段、また一段と足を進める度に鳥居が大きくなっていく。夕陽色に光る石段が綺麗だ。鳥居の赤も少し橙色っぽく見えてしまって、私の歩調はますます速くなる。
この向こうに行けば、望んだ所に行けるのだろうか。
いらない子を捨てるゴミ箱に。
生まれてくるべきではなかった屑が還るべき場所に。
神主さんが待っていてくれている気がして、私は残りの石段を駆け上がった。がらがらと瓶のぶつかり合う音ばかりが耳に響いく。息を吸うことも忘れて、ただひたすら鳥居を目指すのだ。行くべき場所へ、走っていく。走って、走って、目指す。憧れの場所へ――
「夕!」
あと一段。あと一歩で一番上に辿り着けた。そんな時だった。背後から名前を呼ばれ、強く腕を引かれたのは。
to be next...
4話
「……夜見?」
首だけ振り返った先で肩で息をしているのは、間違いなく兄だった。流行りの服をさらりと着こなし、僅かに女物の香水の匂いを纏い、いかにもデートの後といった風貌の兄が何故か私の腕を掴んでいる。
「おい、返事くらいしろよ! さっきから何回も呼んでるのに何で無視するんだ!」
「……え」
声なんて聞こえなかった。あの時私の世界に確かに有ったのは、興奮した私の息と足音と高鳴る鼓動、それに神主さんが残していったお酒の衝突音だけ。完全に一人の世界だった。本当に他に何も聞こえなかった。
「ごめんなさい」
聞きたいことは山程有った。しかし、私の口から最初に出てきたのは謝罪の言葉だった。友達と目が合ったら「おはよう」と声を掛けるのと同じような感覚で、私は条件反射で言葉を返した。兄に言い訳など通じるはすがないのだから、いつものようにまず謝ることから始めなければならないと、本能的に悟っての行動だったに違いない。
兄は、怒っているようだった。私が兄を無視したから。私が兄を呼び捨てにしてしまったから。私が行き先も告げずに歩き回っていたから。怒りの原因はいくらでもある。両手の指の数ではとても足りないし、両足を加えてもまだ足りない。
「ごめんなさい、お兄ちゃん」
本当は「どうしてここにいるの?」と尋ねたかったのに、私の口は同じ言葉を繰り返した。自分でも驚くほど自然に出たそれに、本音はこっちなのだと再認識させられる。
夜見に嫌われたくなかった。
いや、もう嫌われているかもしれないけど、上部だけの家族ごっこすら拒否されるほど夜見を怒らせてしまったのかと思うと、いっそこの場で泣き出してしまいたかった。「嫌いにならないで」と聞き分けのない子供の様に喚き散らしてしまいたいのに、私は反復する。
「ごめんなさい、ごめんなさい、お兄ちゃん……」
「……」
何も言い返してくれない兄が怖くて、「一緒にいるはずの彼女は何故いないの?」と音を作ろうとしているにも関わらず、口から漏れるのは赦しを求める言葉ばかり。それが状況を更に悪化させているのではないかと危惧することは出来ても、焦る私の頭には他に掛けるべき良い言葉が何一つ思い浮かばなかった。
今まで何度か兄妹で争ったことはあったが、その度に関係を修復してきたはすだ。強情な私を兄が説得しておしまい。素直に謝ればどんな時でも兄は許してくれた。私の間違いを正してくれた。
嗚呼、そう言えば最近は喧嘩らしい喧嘩をしていなかった。最後に言い争ったのはいつだったか。声を荒げて暴力に訴えるような醜い争いをしたのは小学校一年生のあの日が最後だったはずだ。お母さんが死んだ日に初めて兄に殴られて、一方的な暴力の中で初めて死にたいと思ったあの日が境目だった。それからの私は穏やかで在ろうと務めてきたのだから、無意味な争いが起こる道理なんてあるはずがなかった。
「……帰るぞ」
「あ……」
肩から腕をもぎ取る勢いで手を引かれ、抵抗する間もなく私の体は石段を駆け降りることを余儀無くされた。でも、心はまだあの鳥居の傍だった。本当はあそこに行くべきだったのに、神主さんが待っていてくれるから行かないといけないのに、と後悔の言葉が止めどなく溢れてくる。それでも足を止めなかったのは、大好きな兄に逆らうことに躊躇してしまったからに違いない。
石段の下には兄の彼女が待っている。足を踏み外さないよう下を見るのに必死な私に、初対面の人にどんな顔をすればいいのか対処する余裕はない。でも、情けない顔だけはしたくなかった。
今日は彼女と楽しいデートだったはずなのに、よりにもよって私が兄を不機嫌にしてしまった。その事への罪悪感が私を圧迫する。
やっぱり私は不出来な子だ。いない方がいい。消えたい。
私は後ろへ振り返った。そして、危ういステップを踏みながら赤い鳥居へ、その向こうへ心だけでも届けようと手を伸ばす。必死に叫べば誰かが助けてくれるような気がして、更に手を伸ばす。
「夕!」
とても怖い音がした。
だから聞こえなかったふりをして、私は足を止める。針と糸があれば足を地面に縫い付けてしまいたい。裁ち鋏があれば足脚を切ってしまいたい。身体(あし)なんてなくても行けるような気がしたから、要らないと思った。
けれど、私がどんなに停滞を願っても私の身体の落下は止まらない。強い力に引かれるまま、下に向かって落ちていく。まるであの夕焼けのように。抗えない力で地平線の中へ引き込まれていく。
靴越しに砂のざらついた感触を得たその時、ほんの数瞬だけ神主さんの姿が見えたような気がした。赤い鳥居の横で長い髪を揺らすあの人が、私を見てくれていたらいいな、と思ってしまった。
「あ、夜見さんお帰りなさい。夕も、お帰り」
そんならしくもない思考に至るほど自分の世界に完全に引き籠っていた私を現実に連れ戻したのは、石段の一番下で私達を待っていたらしい先輩の言葉だった。「おかえり」は家族の中で一番帰りが早い私専用の言葉でもあり、お母さんの口癖でもあった。外で嫌なことがあっても、お母さんに「おかえり」と声をかけてもらうだけで元気が出た。私の「おかえり」にはそんな癒しの効果はないかもしれないが、久しく聞いていないお母さんのあの言葉は、間違いなく魔法の言葉だった。
だから、私は思わず返してしまう。
「ただいま……先輩」
応じる必要はなかったはずだし、実際兄は不機嫌そうに眉を顰めるだけだった。先輩だけが愉快そうに笑って、私の腕から兄の手を放してくれた。
「先輩、彼女と一緒じゃないんですか?」
私と入れ替わりで先輩の前に座ったストーカーの姿はぐるりと辺りを見回しても見つけられなかった。背中に突き刺さるあの痛い視線も今は感じない。いや、それどころか兄の彼女らしき女性の姿すら見えないのは一体何故だろうか。
「あぁ、あの子なら夜見さんに預けておいた。ほら、夜見さんは面倒見がいいから、女の子が一人や二人増えたところで関係ないと思ったんだ」
「蒼の空気の読めなさは昔から知っているが、まさかデート中に知らない女を押し付けられるとは流石に思わなかった。まぁ、その子には蒼の隠し撮り写真を渡してさっさと帰ってもらったけどな」
「夜見さんって本当に容赦ないですよね。こんな大人にだけはなりたくないって、いつもいい反面教師にさせてもらっています。ありがとうございます」
「恩を仇で返すって言葉、お前が作ったんじゃねぇの?」
「僕、貴方の教え子ですから。親がお金払ってくれている以上、家庭教師の貴方から色々学ばないと」
喧嘩するほど仲が良いという言葉はきっと二人のために存在するのだろう。兄と先輩のやり取りを少し離れた場所で傍観しながら、そう思った。出来ることなら今すぐこの場から立ち去って、可能ならもう一度神社の境内を目指してみたいとも望んでみたけれど、兄と先輩の両方から逃げれる自信なんて微塵もない私は、畑の真ん中に立つ案山子のようにじっとその場に立っていた。いや、案山子は畑を守れる力があるから、木偶の坊の私と比較しては可哀そうだ。
「そもそも夜見さんに彼女なんていなかったでしょう。妹のことが心配だからってわざわざこさえてきたんですね。嗚呼、美しき兄妹愛。ここまで来るとストーカーの領域であるような気もしますが、僕は恩人がどんな性癖の持ち主でもちゃんと尊敬し続けてあげますよ」
「お前の知らない昨日の間に大恋愛があったんだ。お前の方こそ理由もなく夕の後付けてきて来たんだろう。変質度合ならお前の方が断然上だ。何で夕の行く先々にお前が居るんだ」
「偶然ですよ、偶然。夜見さんってば、何を言っているんでしょう。今度良い精神科医を紹介してあげますから、今日はもう帰りましょう。あ、でも夜見さんは大恋愛で手に入れた彼女がいるんでしたよね。妹さんは僕と一緒に帰りますから、夜見さんはどうぞ夜の営みでも頑張ってください」
「お前の辞書に尊敬の文字がないことだけはよくわかった。帰るぞ、夕」
「え、ちょっと……待って……」
兄の腕が再び私を掴み、強引に前へと連れて行く。神社とは反対側。商店街や駅が並ぶ煩雑な場所に速足で向かう兄の後ろを、歩幅が違う私が少し走りながら付いて行き、その後ろを先輩が少し遅れて追ってくる。
後ろを振り返ると先輩が、その後ろに神社の赤い鳥居が見えた。空はもう夜が始まりかけている。段々と遠ざかっていく鳥居の姿も、そのうち夜の中に消えていった。飲み込まれて、消えていった。
もう焦がれはなかった。
焦りも失意も希望も、さっきまで外に出ていた私を構成する要素たちが一斉に鳴りを潜める。
私の時間はもうすぐ終わりだった。
お酒が入った袋はいつの間にか手からなくなっていた。何処で失くしたのか、何処で落としたのか。曖昧なんて優しいものではなかった。本当に思い出せない。最初からそんなものはなかったと言わんばかりの完璧な消失。羨ましい。もしあの鳥居を潜っていたら、私もこんな風に綺麗に消えることが出来たのだろうか。
そう思うと、兄に尋ねずにはいられなかった。「ねぇ、何で追いかけてきたの?」と、相手を咎める様な酷い口調で疑問を投げ掛けて、真意を問う。無意味に感情的になったのは十年ぶりではないだろうか。口論という行為も、それを自分から始めることも、何もかもが久しぶりだった。だから、少し怖くなった。引き際を見極められるのかと、怖くなった。
「ねぇ、なんで?」
家路につく人々で騒がしい駅のホームで電車を待ちながら、未だに私から手を離そうとしない兄。
千載一遇の私のチャンスを奪った兄は、前を向いたまま答えた。
兄は私を見てくれない。一番見て欲しい時に限って見てくれない。兄の顔はいつでも私よりも上にあった。私より高い位置で、私には見えない景色を見ている。夜見に私が見えているはずがない。
「ここにいろ。誰もいらないなんて言ってない」
繋いだその手だけが二人を結ぶ最後の糸のような気がして怖くなる。もし私から離れたら、兄は私を追ってきてくれるだろうか。家族とか、そんな形だけのつまらないものを守るためだとしても、追ってきてくれるだろうか。
「いなくなりたいとか、思わないでほしい」
「思ってないよ」
「夕は昔より嘘が上手くなったから、簡単に信用出来ない」
出来ないのなら、最初からしなければよいのではないか。
していないのなら、最初から言わなければよいのではないか。
「私はお兄ちゃんを信じてるよ」
心にもない言葉を並べて、私は高い所にいる兄に向かって笑いかける。糊だらけの顔が気持ち悪いと思うよりも先に、笑顔を作ってみる。
私は家族が大好きで、兄を尊敬している。ここは本当だ。一パーセントの疑念が混じっていたとしても、九十九パーセントは信じている。これは逆だ。でも、私は家族を愛している。ここは本当だ。
兄はほんの僅かに首を動かして私を見たが、視線が交わった途端視線が明後日の方向へ飛んでいった。やはり、と思った。兄は私なんか見たくないのだと、出来損ないの妹なんて視界に入れたくないのだと、そう思っているに違いない。
「……」
電車がホームにやってくるまで沈黙は続いた。どう切り出せばよいのか悩んでいるというよりも、これ以上話すことがないから自然と口が閉じた。少なくとも私はそうであった。ここが引き際だと信じて、早く何かが、誰かが来ることを祈る。
母が死んでから、私は大好きな兄の瞳が何色であったか忘れてしまっていた。茶色い私とは異なる綺麗な黒をしていたことだけ覚えている。どちらも進んで目を合わせようとしないのだから、兄も私の顔を忘れているのかもしれない。
先輩は、私を知っているだろうか。母にばかり似て、今や家族の誰とも外見的な共通点を持たない私の事を、先輩は知っているだろうか。見てくれているだろうか。
何も言わなくなった夜見から視線を外し、売店の方へ向ける。先輩はまだ何を買うかで迷っている様子だった。お茶を買うところまではすぐに決めていたのに、いざショーウインドウを前にして、その豊富な種類に頭を悩ませているらしい。どうせ今日も一滴も飲まずに捨てるだろうに、何故迷っているのか。右へ左へ忙しなく揺れるその背中に「あれにしましょう」と思わず声を掛けたくなる。
「選ぶ権利があるというのは確かに贅沢なことではあるけども、一つに決めるのはやはり難しいね。結局決断出来ずに終わってしまった」
出発前の電車に駆け込んできた先輩の腕にはお茶のペットボトルが三本抱えられていた。迷った末、全部買ってしまえば問題ないと割り切ったらしい。そのうちの一本を兄が貰って、私はキャップに付いていたオマケを三つ貰った。知らないキャラクターのグッズだが、先輩に悪意はないのだろう。
「夜見さん、顔が青いですよ。折角の美形が台無しだ」
「……顔色が悪いのは俺じゃないだろう」
「夜見さんはきっと目が悪いんでしょうね。夕ならもう元通りですよ。隣にいるのにそんなこともわからないんですか」
「……いや、そんなことは……」
「夕はもう元通りだよねー?」
「ねー」
「……そうか」
兄が私を見下ろす気配がしたが、今度は私から視線を外していたため、かち合わない。いつもの調子に戻っていた。先輩の指摘通り、もう元通りだ。
橙色が無くなった夜の世界を車窓越しに見つめながら、先輩の笑顔に恐怖する。大丈夫と言わない、「もう」と繰り返す先輩は、私の嫌なところを知っているのだろう。私の弱いところを知っていて、フォローしてくれる。
そんな優しい先輩だからこそ、私は無意識に甘えてしまうに違いないのだ。自分には不釣り合いな素晴らしい人間だとわかっていても、知り合いでいることを止められない。嗚呼、私はまた贅沢をしてしまっている。
学校帰りの学生で少し騒がしい車内で、私達はどうでもいい話をした。大学のこととか、進路のこととか、今時の受験生のこととか、明日は曇りだとか、好きな作家だとか。半分以上は先輩と兄が喋っていて、話についていけない私は相槌の製造機械になっていた。二人が楽しければそれでいいので問題ない。たまに話を振られたら返す程度の頻度の会話だが、言葉を選ぶのが難しくて口を開きたくなかった。
「ねぇ、あの人たち格好いいよね」
「兄弟とかかな?」
「それにしては似てないよ。普通に友達なんじゃない?」
「似てないって言えば、隣にいるあの女の子もだよね。どっちかの彼女とか?」
「ないない。あれじゃ不釣り合いじゃん!」
「いやいや、それあんたの勝手な嫉妬だって。嫉妬乙、みたいな」
「いいなー、あの子。私も男前にかこまれたいわ」
「むしろ、私はあの子を嫁にしたい」
「うっぜうっぜ」
口が動かない分耳が働いているらしく、余計な音ばかりを拾ってくる。近くで屯している女子高生は声を潜めているつもりだろうが、全部聞こえている。どうでもいいことで永遠と盛り上がることが出来るのは女子高生の特権だろうか。学校でもよく耳にするそのやり取りに、思わず溜め息が漏れてしまいそうになる。
車内の人口密度は残りの停車駅が減ることに比例して低下していった。喧しい学生の殆どは娯楽街のある大きな駅で降りてしまって、大人だらけになった車内には電車の走行音ばかりが響いている。それは乗り継いだ先の電車でも同じだった。誰もが死人の様な静けさを保ち、無言で椅子に身体を埋めている。
兄と先輩も空気を読んだのか、それとも疲れているだけなのか、最後の乗り継ぎ電車では大人しくしていた。ただ、一人分だけ空いていた席に誰が座るかを決める時にはしっかり討論していたが。
「おい、ここは普通女である夕が座るべきだろ。なんで男のお前が率先して座りに行ってるんだ」
「座った方が夕の顔が下からよく見えるからに決まっているでしょう。そんなこともわからないなんて、夜見さんの頭も遂に捨て時になったということなのでしょうか……」
「お前程狂ってないから安心しろ。そして席を代われ。何なら今すぐ降車して歩いて帰ってもいいんだぞ」
「夜見さんの趣味が教え子虐めだとは知りませんでした。これはすぐにでも警察に通報すべき由々しき事態です」
降車駅までたった二駅だというのに、この人達は何を揉めているのだろうか。吊革二つ分の間を空けた場所で傍観者に徹していしたが、先輩が「なら、僕の膝の上に夕が座れば万事解決ですよね」という恐ろしい発言で兄の眉間の皺を増やすものだから、正直不安で仕方なかった。次の駅で席が空かなければ、兄のストレスは限界に達していたのかもしれない。
無事に交通機関から脱した時には、既に空が黒一色に染まっていた。小さな星屑の輝きと月の淡い光に照らされた世界はとても綺麗だ。駅や街は人工的な明るさに満ちているが、そこを抜けて住宅街まで歩けば世界は再び美しく彩られていく。
蒼先輩とは住宅街に入ったところで別れた。学校は同じでも家が離れているのは当たり前である。方向が逆であるだけでなくそれなりに距離が離れているため、兄はバイトに行き辛いと愚痴を溢し、先輩もまた一緒に登下校が云々と愚痴を溢す。私にとってはどうだもいい距離だ。
街灯が等間隔に並んでいるが、一人でどんどん歩を進める先輩の後ろ姿はあっという間に闇に溶けてしまい、アスファルトを叩く靴の音さえ聞こえなくなった。本当に先輩が自宅は戻れているのか気になるところではあったが、兄が再び私の手を引いて歩き出すものだから、従う他にない。
私は兄の後を歩いた。手を繋いで、子供の時のように。今も子供だが。
「夕」
兄は私を見てくれない。
兄は私を見ようとしない。
兄は私を見たくない。
嗚呼、兄は私が嫌いなんだ。
「あの事は……もう忘れろ。いつまでもうじうじ悩んでいたら、母さんに笑われるだろ」
「うん」
「あれは事故だったんだ。誰の目から見ても間違いなく、事故だった」
背中に目が付いていたならば、その瞳はぐらぐらと揺れているだろうか。
「うん、そうだね、お兄ちゃん」
兄は嘘を吐くのが下手だった。年々それは酷くなって、私にすら看破されてしまう。
本当に気にしていないのなら、今話題に出すはずがない。
兄は未だに母の死を引きずっている。私も、父も、皆引きずっている。
兄はお母さんっ子だったので、仕方ないことだ。皆お母さんのことが好きだったから、仕方ないことだ。
「お兄ちゃんとお父さんがいるから、私は平気だよ。愛してくれてありがとう」
私は兄を見ていない。
私は兄を見ようとしない。
私は兄を見たくない。
コンプレックスとかそんな物以前に、合わせる顔がどこにもないから。
「大好き、お兄ちゃん」
本当のことを話しているのに嘘臭く聞こえてしまうのは、私がどうしょうもないクズであるからに違いない。この耳や鼓膜は単なる肉で、飾りだ。
「夕、俺は……」
皆が大好きだった優しいお母さんを殺した私に、兄はこれ以上何を言うのだろうか。
引き際を見極められなかった私を助けたのは、ほんの数メートル先に現れた一軒家だった。窓やベランダから零れる灯りは他のどの家よりも明るくて、鬱陶しさすら感じる。
ややオレンジ色がかかったようなその色を夕陽のように愛せないのは、夜を邪魔しているからに違いない。私はあの人工色が嫌いだった。
あともう少しで目的地に辿り着く。父が待つあの家へ。母がいないあの家へ。
「怒ってるかな、父さん」
「怒ってないよ。夜見は何も悪いことなんてしてないから」
「そういうお前は門限を思い切り破ってるけどな」
「うん。でも、きっとお父さんは怒らないと思うよ」
常習犯だから、と胸を張って力説すれば、兄は笑ってくれた。優しい兄が私の嘘を信じて笑ってくれている。これで本当に元通りだ。
鍵を差し込み、扉を開けて家の中に入る。私を先に中へ押し込み、まるで通せんぼをするみたいに私と扉の間に兄が立つので、大人しく靴を脱いでしまう。
リビングへは先に兄が入った。私が「着替えたい」とか適当な理由で一度部屋に戻ろうと画策する間も無く、そこへ行くのが当たり前といった顔をして、扉を開いてしまったのだ。
兄の背中越しに見える父は食事の乗ったダイニングテーブルで本を読んでいた。兄が好むような分厚いハードカバーの本だ。タイトルが全くわからないのは洋書だからに違いない。
そして、父の視線は私達が帰ってきたことを知ってもなお本の文字に向けられている。
父が見ないのは一体誰なのか。
父が見ようとしないのは一体誰なのか。
父が見たくないのは一体誰なのか。
そんなことは考える間もなくわかりきったことだった。
「ただいま、父さん」
「ただいま、お父さん」
「……あぁ」
父は私を怒らない。
お母さんが死んだあの日から、父は私を一度も怒ってくれなかった。
to be next...
5話
私立高校であるにも関わらずアルバイトが公認されている理由は所謂社会経験が得られるからだと梓が言っていた。
「所詮は大学生の真似事だと思うけどさ、正直ありがたいよねぇ。きちんと働きさえすれば欲しい物が買えるわけだし」
アイドルの追っかけに年中忙しい梓は今日も目の下に隈を作って登校してきた。身体は不健康だが心はとても健康そうだ。不健全かはさて置き。
「私は堂々と実家の仕事を有償で手伝えるので助かっていますよ。まぁ、もう日課みたいなのものですから本当は無償でいいのですが」
「はぁ……結菜ちゃんの隠し財産が気になる今日この頃。お前の通帳見せろやー!」
地元で有名な和菓子屋を営む結菜の家は今日も順調に売り上げを伸ばしているようだ。部活に入らずに学校が終わるとすぐに家業を手伝っている結菜の給料がどの程度のものなのか、同じアルバイト仲間としては確かに気になるところだ。七瀬が結菜の通帳を強奪出来た時には一緒に見せてもらおう。今のところそんな予定が立つとは思えないが、考えるだけなら自由である。
「それにしても、まぁなんというか、今日も世界は真っ暗だよねぇ」
周囲をぐるりと見回すまでもなくそう言い切った梓に、私達三人から異論が飛ぶことはなかった。
日曜明けの月曜日の教室内は大抵お葬式場のような悲愴さを孕んでいる。月曜日なんて来なければ良い、と誰もが一度は思ったことがあるだろう。今日は六限目に英語の小テストがあるため、クラスメイトの誰も彼もが暗い雰囲気を醸し出している。これでも朝よりはマシだった。
私達が週明け前と同じ調子で会話出来るのは、単に梓のお陰だった。活動資金調達のため休日返上で働く梓にとって日曜なんてものは無きに等しく、一週間のどの日においても大体同じ調子なのである。梓曰く「紫杏きゅんが毎日画面の向こう側から癒してくれるから問題ない」とのことだが、精神面で問題があるような気がしてならないのは恐らく私だけではないだろう。
女子バスケ部に所属の七瀬は遠征によって休日が潰れることが多いが、それを苦にしている風ではない。四人の中で一番憂鬱そうなのは、連日新作の和菓子作りに勤しんでいた結菜の方である。試食品の持ち込みがない事から、まだレシピの考案段階で詰まっている様子だ。
「女子高生の私に高齢者向けのお菓子を作れだなんて、お母さんは一体何を考えているのでしょうか。自分の方が年を重ねているというのに。あの人は化粧の層を重ねる前に自分のシワの数を数えるべきでしょう」
目元に酷い隈を作り今にも眠ってしまいそうな結菜だが、文句を言いながらも今日も放課後に近所の老人会へ情報を集めに行くそうだ。情報がなければ何も始まらないと言うが、あったところで解決が約束されるわけではないのに。
どんな課題にも熱心に取り組む真面目さが結菜の美点である。そんな結菜だからこそ、無理難題を投げ付けられている。周囲の期待の高さは間違いではない。
「まぁ、結菜の新作菓子が出来たらまた三人で味見しに行くし、頑張りなよ」
「勿論です。やるからには最高を目指しますよ」
「結菜ちゃん格好いい! まさに職人って感じだね」
「和菓子にパティシエは合わないけど、女の子に職人ってのはなんか変な感じ」
「かと言って他に形容する言葉もないのですが」
「うーん、やっぱり難しいね、日本語。ねぇ、夕ちゃんもそう思わない?」
「難しいけど綺麗だから、私は好きだよ」
会話から外れてデザートの杏仁豆腐を頬張っていた私は何となくそう言葉を返した。難しいとは常々考えてはいるけども、綺麗とは中々感じたことはない。何も考えずにそう返してしまった辺り、言葉の軽重ばかり気にする一方で文学的な美しさを無意識に感じ取っていたのだろうか。読書家でもないのに。
「夕ちゃんはバイトどう? カフェでバイトしてるんだよね? 忙しい?」
結菜から貰った昨日の売れ残りである葛餅を頬に詰めつつ七瀬が話題を振ってくる。リスのような可愛らしさを伴いながら疑問符に合わせて小首を傾げてくるものだから、思わず頭を撫でたくなっても仕方無い。
身長160㎝でバスケ部員としては小柄な七瀬に促されて、記憶の中から先日のアルバイトの事を引っ張り出す。
一番近い記憶は土曜日の夕方の事だった。特別なことは何もなく、馴染みの駅前の喫茶店で食品を運んでいた。自然をイメージしつつ若い女性向けに整えられた内装は確かに喫茶店と言うよりカフェと呼んだ方が似合いそうだし、客だけでなく店員も殆どそういう認識だ。しかし酒類を扱っていないので正確には喫茶店である。よく「カフェ飯作れるの?」と聞かれるが、私がここで学んだのは珈琲と紅茶の淹れ方だけである。
「うん。ホールだから早く動かないと駄目で、お皿運ぶのがまだちょっと苦手かな。オーダーの種類もどんどん増えるし……」
「大きなミスしてないなら上々だよ。仕事してれば誰だって失敗する。バイト自体が嫌じゃなければそれで良し」
「でももう二年目だし、もうちょっとテキパキ動けるようになりたいな」
「クビにされてないのですから、気長に覚えればいいと思いますよ。一年ちょっとでプロになれるのなら、私はとっくの昔に一人前になっていますから」
「それも、そうだね。うん、頑張ってみるよ」
何をどう頑張れば良くなるのかわからないまま、私も葛餅を一つもらって頬張った。ペットボトルのキャップくらいの大きさのそれをそのまま口の中に入れて、喋れなくする。
私が話題を切ってしまうと、七瀬がまた別の話題を持ち出して会話を続けた。昨日放送のドラマの話だった。ストーリーがイマイチだとか、あの俳優が格好いいだとか、とりあえず七瀬は思ったことを口に出す。そこへ透かさず「私の紫杏きゅんの方が格好いいに決まってんだろ馬鹿か貴様」と梓がツッコミを入れ、「ドルオタのクセに彼氏溺愛とか、私には理解不能です」と結菜が溜め息を吐く。いつものパターンだった。
食べている間は無理に喋らなくて良いから、私は長い時間をかけて口の中の物を咀嚼する。首だけ縦か横に振って会話に混じり、言葉を使わない。
話をすることが嫌いというわけではなかった。友達と話すことは楽しい。一人は寂しいから、私に構ってくれたら凄く嬉しい。
忌避するのは墓穴を掘ることだった。隠したいことが多すぎて、多弁になることに臆病になっていた。特にアルバイトの事は触れてほしくない。都合の良いことだけ話したかった。私は兄のように話せない。
予鈴が鳴って自分の席に戻った後、本鈴が鳴るまでのほんの少しの間に前の席の梓がこっそり話し掛けてきた。身体を後ろへ捻っているので、小さい声とは裏腹に全く潜めていない。
「夕はさ、」
四人の中でなんとなくリーダー役になっている梓は、彼女が追いかけているどのアイドルよりも綺麗だった。花の様に可愛いのではなく、凛とした態度と切れ長の黒い瞳が際立って美しい。背が高くモデルの様な程よい凹凸のある身体は羨望の的だ。異性だけでなく同性までも惹き付けてしまうその容姿のおかげで、彼女の下駄箱は常に満杯だ。
そんな彼女の隣に並ぶと、まるで兄と並んでいるような気分になる。コンプレックスで泣きたくなる時もあった。しかし、それ以上に私を側に置いてくれることに喜びを感じていて、隣にいることを許されている様な錯覚に陥る事が出来て幸せだった。私は友達と話しているつもりなのに、気付けば兄の事を考えてしまっている。
自分が誰かと重ねられて、まるで代用品の様な扱いを受けているなんて全く知らない梓。隈があっても彼女の笑顔はとても綺麗だ。
「なんというかさ、そろそろ彼氏とか作ってみたら?」
「相手がいないよ」
「いるじゃん。葵の上」
「釣り合わないよ」
「六波羅様が怖いだけじゃないかなぁ」
「この前足が呪われたよ。ピンヒールでグサッてやられた」
「……あの人冗談抜きで怖いわ、本当」
隣のクラスのボスこと神原夏子に纏わる噂話は約八割が悪評だ。悪意を持ってか、伝播する内に自然とそうなったのか、現実味のない誇張された話も存在する。
しかし、一度執着したモノは絶対離さない事や敵には一切容赦せず攻撃を仕掛ける事は私が本当だと証明しよう。神原さんは入学した日その日に蒼先輩に一目惚れし、蒼先輩近付く女は年上だろうが年下だろうが関係無く排除していった。肉体的にこの世から排除された人は流石にいないが、壮絶な虐めの末に退学や休学まで追い込み社会的に排除した例は存在する。
そんな自己中心的な神原さんが何故クラスのボスとして一定の地位を保てているのかと言えば、彼女が生粋のストーカー体質であっても独占主義者(ジャイアニズム)ではないからだ。神原さんは化粧が濃くてもそれなりに美人で、梓には負けるが体型も良い。意地は悪いが自分を慕う人には優しくて、自分と取り巻きの利益を死守する。成績は悪くても機転の利く頭だからいざという時に頼りになるし、それなりに人徳があるのだろう。私にはわからない魅力だが。
去年の春から既に悪評が流れ始めていたので、当然私は神原さんを避けていたし、神原さんも特に接点のない私を攻撃する事はなかった。お互いに良い距離関係を築いていたのだ。
それが崩れたのは、蒼先輩が私を見付けてしまった去年の冬だった。珍しく地面に積もる程雪が降っていて、私は雪景色の中で一人暖かく光る夕日をぼぅっと窓から見ていた。廊下から聞こえる足音が一人分でなくても特に気にせず、梓から貰ったご当地Tシャツとジーンズ姿でベッドの上から動かない。地平線の向こうに夕日が消えてしまったら勉強でも始めて、兄に呼ばれたらリビングに降りようと思っていた。
しかし、私の部屋の扉を開いたのは兄ではなく蒼先輩で、「蒼!」と慌てて止めようとした兄を振り切って遠慮も無く部屋の中に入ってきたのだ。
その時の私は蒼先輩の事なんて全く知らなくて、突然割り込んできた見知らぬ男性に心底驚いた。同じ学校の制服を着ていたが、それだけで安心出来るほど簡単な頭をしていない。しかもその人物は私が何か言うよりも先にベッドの前までやって来て、「ふぅん、君が夜見さんの妹か。面白いくらい似てないな。連れ子か養女?」と笑いかけてきたのだから、言葉が見付からなかった。
ただ、綺麗な人だなぁ、と思った。両目の青い光彩が明け方の夜が滲んだ空の様な色をしていて、明るい場所で見ればきっと晴天の空の様な透き通った色をしてくれるに違いない。夕焼けに照らされたら仄かに橙色を混ぜて、本物の空の様に色を変えるのだろう。根拠もないのにそう思って、確信までしていた。
私が妄想に耽って返答に困っている間に「ふざけんなっ!」と兄が全力で先輩を殴っていて、床に倒れた先輩に馬乗りになって「あいつは俺の妹だ! お前もあいつを馬鹿にするのか!」と右手の拳を固めたまま掴み掛かっていた。
どうして私ではなく兄が怒っているのかよくわからないが、今の先輩と同じ台詞で一時期私は虐められていた。小学校の時の話だ。あまりにも外見が似ていなくて、当時クラスのボスであった女の子に「夕ちゃんは嘘吐き! 本当は兄妹じゃないのにいっつも夜見さんといてズルい! 嘘吐きは死んじゃえ!」と罵倒されたことが切っ掛けで、卒業までの二年間教科書隠しやクラス全員で無視などの扱いを受けた。友達だと思っていた皆がまるで汚い物を見るかのように私を避けて、面白がった人達が楽しそうに私の尊厳を踏み躙る毎日だった。
私は自分でも兄とも父とも似ていないと思っていたし、これは私への『罰』なんだと思って、全て受け入れていた。虐めが止んだ時私は始めて許されるのだ、と子供ながらに勘定で罪の重さについて考えていた。当然兄や父には虐めについて告げなかったし、父兄参観の手紙は全て破り捨てた。
しかし先に卒業していた兄がどこかでその噂を聞き付けたらしく、何故か大勢の大人達を連れて小学校に抗議に来たことで自体は一気に沈静化した。兄は自分の担任だけでなく友達の親達にも相談を持ち掛け、一人でも多く自分の味方を手に入れてから行動したらしい。中学生なのに恐ろしい行動力だ。これを二日でやって見せたのだから、やはり兄は凄い人だ。
兄は「気付けなくてごめん!」と何度も謝ってくれたが、私は泣きたくて仕方なかった。兄に心配させてしまった事や今まで隠していた事に対する罪悪感と、贖罪の絶好の機会を失ってしまった絶望とで、心がいっぱいだった。これからどうすれば良いのか皆目検討がつかない。
解決したように見えて実は何も終わらなかったあの一件を兄は私よりも強く意識している。「似ていない」と指摘されることすら嫌がっている様に見えるのだ。
先輩が「冗談にしてはやり過ぎました。すみません。でも、本当に似ていないですよね」と事実をありのまま伝えると、無言で腫れている左頬をもう一度殴った。「言うな」と強い口調で言い放ったその言葉には怒りと、焦りがあった気がする。兄は何を恐れているのだろうか。
別の日に先輩は言っていた。「夜見さんは『似ていない』が自分と夕を引き裂くナイフの様に思えて怯えているのだ」と。よくわからない。
ぼぅとしている間に兄が先輩をずるずると引き摺って部屋から出ていった。「大丈夫ですか?」と声を掛ける暇も無く、何故見知らぬ人間が自宅に存在するかも不明なままで、先輩が帰った後の遅い晩御飯の際に兄が「忘れろ」と言ったのでとりあえず全部無かったことにしようと努めた。
しかし、右半分が真っ赤に腫れた先輩の顔を私がすぐに忘れられなかったように、先輩も驚きの余り開いた口が塞がらず間抜けな顔をしていた私を覚えていたらしい。でなければ、翌日学校で話し掛けられたりしないだろう。
放課後に私達の教室に現れた先輩。私は一度先輩の方を見たが、「せんぱぁい、まさか夏子に会いに来てくれたんですかぁ?」と狂喜乱舞しながら出迎える神原さんが怖くて無視した。普段の下品な笑い方からは想像もつかない猫撫で声と甘えた口調に思わず多重人格を疑ってしまうような豹変ぶりを見て、絶対に関わりたくないと思った。
それは先輩も同じだった様で、神原さんの可愛い子アピールを完全に右から左に流して、「ねぇ、桐山さんはいるかな? 出席番号が十番の桐山夕って名前の子」と私を呼び出した。私は名前も知らなかったのに、先輩は私の名前もクラスも出席番号も知っていた。
その突然の出来事に、残っていたクラスメイト全員に寒気が走ったことだろう。私は三階建ての校舎の窓から飛び降りたい衝動に駆られた。恐らくこちらを振り向いたであろう神原さんから、間に割って入ってくれた梓が私を隠してくれた。「神原さん顔怖すぎ……後で紫杏きゅんに慰めてもらおう、性的に」と呟く梓の頬を冷や汗が一滴伝い落ちる。
梓の後ろで「うわぁ、昼ドラ展開乙ですね」「いやいや、諦めないで助けて欲しいな」「これが所謂無理ゲーですね」「神原さんの現在は?」「包丁が似合う殺人鬼です」「盾になってよ」「梓と紫杏君、性別が逆なら本当に良かったと思いませんか?」「ですよねー」と私と結菜が困惑している間にも先輩は教室の中を進み、私の席の前で立ち止まった。そして私の机から鞄を取ると、「さぁ、一緒に帰ろうか」と腕を強引に引いて教室から出て行こうとしたのだ。
慌てて梓が「ひ、人違いですよー」と惚けて見せるが、先輩は聞く耳を持たずに「ばっちり本物だから心配無い。昨日見たから覚えている」と火に油を注ぎ、倍増した神原さんの額の青筋の数に目もくれず立ち去ってしまう。下駄箱で「折角同じ学校なのだから、仲良くしないと勿体無い」と先輩は楽しそうに笑っていたが、私は明日の事を思うと頭が痛くて仕方無かった。
そして、予想した通りに翌日の学校で神原さんから開口一番に「私の先輩に近付くなよブス」と罵声を浴びせられ、朝のHRが始まるまでのたった十分の間に「死ね」と何度も言われた。思っていたより神原さんは馬鹿だった。幼稚と言うべきかもしれない。
偶然その日は体育等の移動教室がなかったので、席を外している間に物がなくなるような事件は起こらなかった。授業の合間に梓がずっと付いてくれていたので過剰な暴力に遭うこともなく、平和であった。
梓の提案と仲介でその日の放課後に神原さんと話し合い、「自分は蒼先輩に全く興味が無く、恋心なんて抱いていない事」を必死にアピールし、「金輪際自分から先輩に関わろうとしない事」を固く誓うと約束した結果、なんとか神原さんの怒りを解く事が出来た。神原さんにも一応血と涙が存在したらしい。
その日以降絵に描いたような虐めは受けていないが、彼女のサンドバック要員として私は認識されている。と言うのも、蒼先輩がけっこうな頻度で話し掛けに来るため、その度神原さんの怒りを買うからである。
「しっかし、蒼先輩はなんで夕にちょっかい出し始めたんだろうねぇ。こっちは神原さんが怖くて先輩ごと避けていたのにさ。夕は心当たりある?」
「どうだろう。わかんないよ」
蒼先輩にとっての私の価値は『夜見さんの妹』でしかない。それ以上の深い関係が私達の間に在っただろうか。先輩が家に来た日、私は結局自室に引き籠ったままで、いつ先輩が帰ったかもわからない。私にとっての蒼先輩は台風だった。
普段は先輩の家で教えているらしく、あの日以降夜見は先輩を家に連れて来ない。その代わり、先輩は私の教室までやって来るようになった。生徒会の用事がない日は「一緒に帰ろう」と迎えに来てくれて、自然と二人で下校するようになった。正確にはストーキング中の神原さんを含めた三人であったが。
「夕は自分にもっと自信持つべきなんだよ」
電子のチャイム音が教室に鳴り響き、扉が開いて次の授業の先生が入ってくる前に生徒達が急いで自分の席に戻っていく。後ろの方の席で馬鹿笑いしていた神原さん達のグループもそれぞれ散っていき、教室内の喧騒が一気に沈静化する。
そんな中で、梓はもう少しだけ言葉を続けた。
「確かに夜見さんは完璧人間かもしれないけど、夕だって十分平均越えているんだからさ。比べられたとしても、気にしなくて大丈夫。自信持って蒼先輩と肩並べなよ」
「いやいや、そんなことないって、冗談キツいよもう」
「いやいやいやいや、そんな事あるある。この世で一番可愛いのは私の紫杏きゅんだけど、夕も結構可愛いさ!」
「……梓は本当に紫杏君が好きだね」
「勿論! 一生大事に育て続ける所存」
「普通逆じゃないかな?」
「え?」
「え?」
「私の嫁なんだから、私が養うのが当然」
「え、え、あ、はい」
いつか結菜が言っていた通り、何故梓と紫杏君は性別が逆でないのだろうか。一つ下の後輩は確かに細身で女の子の様な可愛い顔をしている。中身まで女の子というわけではないが典型的な文系の内気な少年で、二人が一緒にいるとどうしても梓の方が頼り甲斐のある人物に思えてしまう。
それは私達四人で固まっている時にも当て嵌まる事だ。梓は私達の誰よりも思慮深い。視野が広くて、周りの気持ちに敏感だ。私なんかよりもずっと早い。
時々、時々だ。梓は妙に説教臭くなる。誰も相談に乗って欲しいと頼んでいないのに、その人が求めている言葉を与えてくれる。本人は無自覚にやっているのかもしれない。会話の中にさらりと交えてくる。しかし、だからこそ梓の周りには人が集まるのだろう。梓はそういった感情計算は苦手に違いない。
兄と梓ならお似合いだろう。どうせ顔が似ていないのだから、梓が『桐山夕』と名乗っても誰も文句を言わないし、むしろ「その方が相応しい」と歓迎する。お母さんも死ななかった。
私が兄や梓の様に完璧であったなら、お母さんは今でも家の台所で包丁を握っていられただろう。私が駆け足で家に帰ると「ただいま」と声を掛けてくれて、温かいご飯を与えてくれるに違いない。夕日ばかり眺めてぼうっとしていると「勉強しないとお兄ちゃんみたいになれないわよ」と膨れっ面をして、でもすぐに「夜見は夜見で、夕は夕だから、焦らなくても良いのよね。ごめんね」と笑ってくれるはずだ。
私の中のコンプレックスは時間を掛けて大きくなっていく。劣等感と、嫉妬と、罪悪感と、後悔と、殺意が幾重にも折り重なり積み重なり堆積を繰り返し、ぐるりと大きなスプーンで掻き混ぜられて、黒く濁っている。
「今日も一緒に帰るんだし、たまに夕から誘いに行きなよ」
下り坂を転がろうとした心を引き留めるように梓が声を掛けてくれて、そこで初めて自分が俯いていた事に気付く。
慌てて顔を上げた先で、梓は笑っていた。少し大人びた表情で、子供をあやす親の様な優しい笑顔で、ちょんっと私の鼻頭を人差し指で軽く押す。
「六波羅様に呪い殺されろと仰せですか」
「え、あー……うん、そうだなぁ、それはそうだけども」
「逆に断ったら六波羅様は喜んでくれるかな」
「自由気儘な蒼先輩が簡単に引き下がるとは思えないけどねぇ」
「中間はしんどいです……」
「そのトライアングルにだけは混じりたくないわ」
ガラガラっと扉が開いて先生が入ってくると梓は前へ向き直り、私も壇上の方を向いた。女子に人気の若い教師が古典の教科書を開いているところだったが、彼は笑顔を作ると不意に教科書を閉じてしまう。
「さて、じゃあテストするぞ」
不意打ちは嫌いだ。私が知らなかっただけだとしても、不意打ちは嫌いだ。
to be next...
夕暮れ時に泥む空