変身願望
白い花はもう話さない。
花の散る様子を人間の死に例える事が多々ある。
有限の人生の縮小図として花に例える事が多々ある。
しかし、私は花に嫉妬していた。
花は美しいからだ。ほんの一時だけでも美しいから。最後が醜くても、花と言うだけでその人生が輝きに満ちていたかのように評価してもらえるから。
だから、私の夢にはいつも花がある。
なりたい理想像であると同時に、永遠に手の届かない空想。高嶺の花。
今日、ついに花が話しかけてきた。
全身を純白の花で飾り、無垢な白服姿で、純粋な笑顔で笑いかける。
奴は私の姿をしていた。
「こんにちは、私。もう来ないのだと思ってた」
「眠ったら夢を見るのが当たり前なんだから諦めてよ。夢も見ずに眠れるほど疲れてないし、人生を楽しめてないの」
「でも、夢を見れないほど現実に飽きてもいないんでしょうに」
「そうね。どっち付かず。良くも悪くも、50点みたいな人生だわ」
私達が歩いているのはどこかの庭園だった。見渡す限りの花畑で、生け垣や花壇以外に家財はない。ただどこまでも花ばかりが植えられていて、テラスや豪邸などは添えられていない。昔テレビで見た外国の庭園がほぼそのままコピー&ペーストされているが、私以外の人間の跡が抹消されているのが唯一の違いだった。
奴は、奴が纏う花はあまりにも美しく、眩しい。庭園のどの花よりも鮮やかに咲き誇り、他の追従を一切受け付けない。高見の見物に臨む女王の風格すら感じた。
そんな異物と隣り合っているものだから、私は酷く惨めな気持ちでいっぱいになる。理想と現実の埋められない差を見せ付けられて、涙が出ないわけがない。この庭園の水やり係りは私だった。
もしも、と思うのだ。もしも私と同じように夢の中で理想の自分と遭遇した人物がいるのなら、その人は夢にどう向き合っているのか。私のように毎日決まって同じ夢を見て、唯一の幻想空間でもプライドを傷付けられて、それでもなお夢を見続ける理由は何なのかと問い掛けたい。
「桜はもう散った?」
「私の近くはもう葉桜だよ」
「蝉と同じで本当に短い人生ね」
「まるで女の寿命みたい」
「言わない約束よ、それ」
花のように笑う、という言葉がある。花咲みとも花笑みとも書く。奴が笑うと生け垣の中の蕾がぱっと突然花を開かせ、甘い香りを放つ。花が笑っているのだから「ように」と比喩表現を使うのはおかしいが、奴が私の身体を勝手に真似ているから間違いとも言い切れない。
私も望めばこのように笑えるのだろうか。また憧れが増える。積み重なる。塵も積もれば山となると誰かが言ったように、私の妬みは既に自身の身長を追い越して巨大な山を形成している。細かい粒で出来ているくせに、全力で体当たりをしてもなかなか崩れそうになかった。
夢の中での日課は庭園内を時間をかけて一周することで、奴と何気ない話を交わしながら歩き続けていると橙色の空に紺色が混じり始めていることにもなかなか気付けない。私は散策に夢中だった。隣に並んでいる限り自尊心の損傷から逃れられないというのに、自ら進んで奴と歩幅を合わせようと努力する。痛みが快楽になりつつあるのだから、私はマゾヒストなのたう。陶酔は悪いことではない。
庭園内をぐるぐると回り続け、全ての花に水分が供給された頃、奴は突然立ち止まった。奴が纏う色と同じ、白い花で彩られた一画である。中でも一際目を奪われるのは白薔薇だった。いや、そもそも薔薇しかないのだから仕方無い。ここは私が思う最も綺麗な場所なのだ。奴が済む場所、高嶺の花の生息地。何故か白い花は薔薇しかなかった。
なんとなく今まで避け続けてきた場所に来て、少し私は怖くなっていた。奴に導かれでもしなければ、ここは一生手付かずのままだった。
「私はいつも手前で回れ右をする。こんなにも綺麗に咲いているというのに、近くで愛でてくれない。酷い話だわ」
「いつも見ていたよ。見ていなかったわけじゃない」
「遠くからでしょうに。触れてくれないなら無視と同じよ」
私が触れなかったからこそ、この白い花は純潔の美しさを保ち続けているのではないだろうか。混じりけのない、本当に綺麗な物だけ吸って生きているから。失敗例の私なんて知らないで生きてきたから、この花(わたし)は思わず殺したくなるほど幸せに咲いている。
奴は白薔薇を一つ首元で手折り、私に差し出した。花弁にそっと触れると、奴が嬉しそうに笑う。
「嗚呼、やっと会えた」
さっきから一緒にいるというのに、この花はおかしな事を言う。だが、悪い気はしなかった。
奴は首だけの花を私の左胸に添えた。金具も付いていないのに、その花はぴたりと服に貼り付いて離れない。寄生されている、とは思わなかった。温かいとは思えた。
「求められて、受け入れられて、花冥利に尽きるわ」
「もう来ないと思うよ。手を引かれでもしない限り、自分から会いにこないよ」
「いいえ、もう私は手を伸ばしたもの。触れようとした。触れたいと思ったから、ここまで歩いて来た。だから、何度でも私は会いに来るわ」
「会いに来たいとは思ったよ。嘘は吐いてない。でも明日はわからない」
「大丈夫。花になるイメージを抱いた私なら、そんな私に花を与えられて受け入れた私なら、毎日会える」
瞼が重い。眠たくなる。終わりの合図だ。
全身から力が抜け、土の地面に倒れ混む。受け身も取れずに、糸の切れた操り人形の様な滑稽さで前のめりに、地面とキスをする。
鼻の頭をぶつけても痛みがないのは夢の中だからだろう等と考えていると、側に誰かが腰を下ろした。横転した世界の中で白い花弁が雪の様に舞い降り、頬に落ちた一枚が優しく私を撫でてくれる。
「頑張れ、私」
祝福のつもりか、頭を覆い隠す様に大量の花が溢れ落ちてくる。どれもこれも人肌の様な温もりで私を包み、眠りを誘う。
視界が花弁だらけになるに連れて段々瞼の重みも増し、どれだけ力を込めても目が開けていられなくなる。瞼の裏は対照的に黒色だった。私みたいだと思った。
だけど、見えない己の身体がずっと欲しかったものに包まれていると思うと、いつもの様な陰鬱な気持ちが薄くなる。現実に帰ると思うと気が滅入るのだ。どっち付かずの現実に嫌気が差してしまう。昨日までそうだった。
「頑張れ、私」
私と同じ声で囁く高嶺の花。
最後に言葉を発したのはどっちだったのか、よく覚えていない。覚える間もなく意識が途切れてしまった。
*****
夢を見ても奴に会うことはもうなかった。正確には私の身体をした奴に遭遇することがないだけで、白い花には毎日触れている。
私は今日もまた庭園内をぐるぐると回り、水をやる。気付けば夕方だった。白い花の一画に辿り着く頃には空の大半が暗い色をして、満天の星空を演出している。一枚布を貼ったような昔の空に比べれば随分と楽しい空になったと思う。余裕があるからこそ現実の空もこれくらい輝けばいいのにと感じることが出来るのだろう。
歩く度に花弁が溢れ落ち、白い道を作っている。左胸の薔薇は今日も満開で、私が笑うと吊られて花弁を開いて笑みを溢す。まだ綺麗に咲いていた。
実は、新しい花が庭園にやってきたのだ。桜なので花と言うより樹と表現すべきだろうか。種類は私の家の近くの並木道で咲いていたソメイヨシノだと思うが確証はないし、花があることが重要なので種類なんてどうでもいい。
元々花だらけだった庭園が更に花で溢れかえって大変だ。単純に数が増えたものもあるし、色が増えたりもした。桜の様に新しい花も無造作に増えた。しかし、夜になるまでに水やりは終わるので問題ない。どの花もきちんと見ることが出来るし、どの場所からも白い花が見えるならそれで構わない。
花弁に水滴を乗せて咲みを見せる白薔薇。相変わらず白い花は薔薇しかない。白は薔薇が一番綺麗だと私が思い続ける限り、ここには薔薇しか咲かないのだろう。
白い花に向かって話し掛ける。花弁を指先で弾きながら今日の出来事を話す。現実の誰にも話せないことまで吐き出してしまうのだ。
白い花は無言で全てを受け止めてくれる。花が喋るわけがないので、当たり前のことである。しかし、それでも受け止めてくれる存在があることは本当に嬉しかった。
「頑張れ、私」
自分に向かってそう呟く。
「頑張れ、私」
白い花はもう話さない。
だって、私自身が白い花になってしまったから、話す場所も必要性もない。
高嶺の花はもうどこにも存在しない。
私が理想の自分でいることを諦めるまで、彼女はただひたすら咲き誇る。
枯れない花があってもいいじゃないかと言わんばかりに、強く強く咲いている。
変身願望
サイトから引っ越してきた掌編小説。
望みさえすれば届く距離だけども、それに気付くのは中々難しい。