反転世界

死んだように生きる私は、今日も現実を見る。

  その少女を見付けるのは案外簡単な事だった。淀んだ暗い空の下を歩いているのは私よりも年老いたろくでなしばかりで、小学生のように小柄な彼女の身体は酷く目立っていた。純正の日本人には滅多に見られない金糸の髪を波打たせて、彼女は舞台で跳び跳ねるバレリーナのような軽い足取りで夜の街を徘徊する。初めて訪れる場所に興奮し、赤い頬を隠そうともせず、ただ回りの光景を瞳に写し、脳に記憶を刷り込んでいる。
 私が彼女の名前を音にするよりも先に、彼女の方から手招きをされた。どちらが最初にお互いの姿を見つけたのかは不明だが、私は疑問を捨てて誘われるまま彼女の元へ駆け寄った。それほど離れた場所にいたわけではないはずなのに、視界が彼女で埋まるまでとても時間がかかったような気がした。
「おはよう、春途。夢は見れた?」
 くるりと丸くて大きな黒の瞳が私を捉える。その顔立ちは身長と同じく、あどけなさを嫌でも感じざる酷い童顔だった。時間に置いていかれたのだ、きっと。私も置いてけぼりを喰らった仲間だから、よくわかる。
 同じ高校生だというのに身長差が激しい私と彼女だが、話す時は必ず視線の高さを合わせることにしていた。周囲に彼女が登れるような丁度良い高さの台がないものだから、今日は私が地面に両膝を付かなければならない。
 地面は薄汚れていた。私の膝も汚れていて、彼女の白いドレスが少し羨ましかった。でも、私の服は何度も洗濯機で洗ったおかげで草臥れてしまっていて、今更白く染めても無意味であった。
「聞かないでよ。思い出したくないんだから」
「あらあら、それは可愛そうに。悲しい時には泣かないと」
 夢を見たのは私の方だというのに、何故か彼女は突然涙を溢し始めた。半透明の丸いビーズ玉がぽろぽろと彼女の瞳から溢れてくる。バケツの中の水をひっくり返した様な氾濫だった。まるで彼女の頭上にだけ雨が降ったかのように、地面に小さな水溜まりが出来てしまった。
 私はその綺麗な水に手を伸ばし、両手を洗った。手の汚れがあっという間に何処かへ消えてしまった。綺麗な物で洗ったのだから、当然の結果だ。私は少しだけ綺麗になれた。
 一時間ほど泣いて満足した後、彼女は私の手を取って歩き始めた。じんわりと温かい彼女の温度が皮膚を通して肉を通して私の中に流れ込む。心臓に直接カイロを当てた様な気分だった。生きている様な気持ちになれた。
「街を歩きましょう。歩きましょう」
 小さな身体が私を連れて闇夜を行く。灯りは常にぼやけていて、はっきりと街を照らす光明はどこにもない。夢の中と同じだ。目の前が滲んで、歪んでいる。
 大気は常に冷たい。冬の風が流れている。防寒具をいくら身に付けたところで、その寒さを完全に凌ぐことは出来ない。風は私の身体をすり抜けて、臓器だけでなく心を直接刺激するのだ。
 裸足の私の足は既に悴んで赤くなっていた。靴を何処かに忘れてきた。何処へ行くつもりもないのだから、どうでもいいことだ。
「寒い時には暖めなければならないの」
 ふと立ち止まった彼女は何処からともなくマフラーを取り出し、私を手招いた。糸の切れた人形の様な素早さで地面に両膝を打ち付けて目線の高さを合わせると、その天使の羽で編み込んだ様な純白の布をふわりと優しく私の首にかけた。ぐるぐるとただ巻き付けるだけの簡易的な巻き方だった。だけど、それは確実に風を塞いでくれて、私の体内温度は一気に上昇した。
 私はお返しに、ポケットに入っていた飴をあげた。血の様に真っ赤な色がとても綺麗なそれは、兄や私が小さい頃から食べ続けてきた馴染みの味だった。いつの間にか持っていたし、いつも持っている。欲しくなくても持っていた。
 ビー玉程度の大きさの飴は彼女の小さな両の手の上でころんころんと何度も左右に転がった。地面に落ちてしまわないか心配である一方、いっそ誰かに踏まれて砕けてしまえばいいとも思ってしまう。包みなんてない裸の血の玉がもしかしたら兄の物であるならば、突然の雨の中で融解され、水と一緒に消えていくのだろう。
「相変わらず綺麗な色ね」
 中を透かそうと電柱に向かって飴を掲げる彼女だが、中身を考察する間もなく自身の口に飴玉を放り込んでしまった。
 ころりころりと、舌で飴を撫でる音がする。どれだけ時間が経っても噛み砕く音は聞こえなかった。
「苦い味。酷い味だわ。何故泣かないの?」
 そう言って彼女はまた泣き始めた。今度は嗚咽混じりの声をあげて、空に向かって感情を吐き出した。彼女が泣いても虹は掛からない。そんな小さな雨では何も変えられない。だけど、私は嬉しくて仕方なかった。まるで私の代わりに泣いているかのような彼女の仕草に、私のために文句を言ってくれているかのような彼女の言葉に、私の痛みを受け入れてくれたかのような彼女の涙に、心が熱を取り戻す。そんな気がした。
 私は彼女の涙で綺麗になった手で、彼女の手を握った。「歩こう、街を歩こう」と、泣きじゃくる彼女を誘う。
「綺麗なところに行きたいの」
「ここには沢山あるわ」
「夢の中には一つもないの」
「それは悲しいことだわ」
「涙が勿体無いよ」
「それは貴女が思う以上に寂しいことだわ」
 街の中をさ迷う私達だが、先頭はやはり彼女だった。人目も憚らずに永遠と泣き続けているが、周りの誰もが気にしないので歩きやすい。腫れ物を扱う時のように私達から遠退いて、そのくせ近くから視線を走らせてくるのだから、質は悪かった。
 涙で視界が歪んでいる彼女は一見当てもなく暗い街を歩き回っているように見えるだろうが、私にしてみれば遠回りに遠回りを重ねて目的地に向かっているに過ぎない。周りの人間と違って、彼女の目は節穴ではない。見ているようで見ていない、見ているフリをして実は何も見ていない。そんな飾りとは訳が違う。
 私を連れて行ってくれる彼女の世界は輝いているに違いない。光で満ち溢れて、その中でも大事なものが一際大きく輝いているから、決して見失わない。
 私の空はいつまでも陰ったままだった。本当は夜ではなく朝なのかもしれないし、昼かもしれない。だけど、黒くて分厚い雲が光を遮り、本当がなんだったのかを隠してしまっている。
 歩く路地が細くなる度に視界から光が減っていき、街灯の明かりが届かないくらい見通しの悪い場所に入ってしまえば、私の世界は完全に常世の闇と化す。
 でも、彼女が手を握っていれくれるから、何も恐れる必要はない。廃棄油に片足を突っ込んでも、釘を踏みつけても、壁にぶつかって腕を擦っても、何をしても、彼女がそこにいるなら問題はない。
 この目は所詮、飾りなのだ。
 汚いものばかり写す、飾りだ。
 本物の光が目の前にあるのだから、本物が「正しい」と行った場所に居るのだから、私が疑問を抱く必要は何処にもない。
 私は私の「正しい」に従って、歩いていく。
「迷わないね」
「迷うはずがないわ」
「貴女はいつも正しい」
「私は常に間違えないの。私は世界に勝ったから、私はいつも綺麗なの」
「じゃあ、私が汚いのは負けたから?」
「諦めてしまったからに違いないでしょう」
「こうやって目を瞑って?」
「そう。そうやって目を瞑って」
 瞼を閉じても閉じなくても同じなのは言うまでもないことだ。だから、私は目を閉じたまま足を動かすことにした。眠ってしまわないよう気を付けながら、彼女を頼りに歩いていく。
 路地を曲がったのはこれで何回目だろうか。いいや、何十回目だろうか。私達は漸く大きな通りに出た。通りの真ん中には雨が降っていないのに水溜まりが出来ていて、そこが今日初めて私と彼女が出会った場所だとすぐに理解出来た。
「嗚呼、もうすぐそこね」
 彼女が指差した先にある一軒の洋菓子店。その中にいた人物を見て初めて彼女は泣き止み、笑顔を作った。
「お兄ちゃん」
 自動ドアを抜けた先で、彼は片手を降りながら私達に微笑みかけた。お客と従業員を隔てるように鎮座しているショーウィンドウは彼女よりも少し背が高い。中に並んでいるのは種類こそ豊富だが全て抹茶を使ったお菓子ばかりで、私は兄が「秋にしか抹茶のお菓子がないのはおかしい」と憤慨していたことを思い出した。
「こんにちは、妹よ」
「ここにはイチゴのショートケーキがないよ」
「モンブランもないのね」
「好きなものばかり並べているんだ」
「あなたの好きなものばかりね」
「そうだよ。だって、ここは僕の店だから」
「僕の店だから?」
「僕の店だから?」
「何をしてもいいんだ」
 そう言って、彼は手にしたボウルの中身を泡立て器で掻き混ぜ始めた。彼女には見えないが私にはその中身がやはり抹茶の何かであることがよくわかった。
 少し長めの黒い髪を特に縛ることもなく、パティシエらしいコック姿でいることもなく、愛用のジャージで陽気に鼻唄を歌う。味見にとボウルに突っ込んだ指は消毒しているのだろうか。彼はボウルを床に置いて、ショーウィンドウの中から手掴みで抹茶のケーキを二つ取り出した。
「自由って素晴らしいね」
 形は不揃いだが、精一杯心を込めて作ったことだけはよくわかった。
「ケーキより飴が欲しいよ」
「飴はもうないの?」
「もう僕には作れないんだ」
「お兄ちゃんも諦めたの?」
「お兄ちゃんも諦めたから」
「僕にはもう作れない。何もかも」
 私と彼女は店を出た。彼は何も言わず、ただ手を降っていた。それは激励にも見えたし、愛情とも感じられた。だけど、彼の顔が全く笑っていないので、私も笑うのを止めた。汚い泥の固まりとなって崩れていく兄の姿に、私は掛ける言葉が今回も見つからなかった。
 兄が綺麗に慣れなかったのは諦めたからではない。逃げたからだ。私との違いはただその一点だけ。思想のために武器を持ったはずなのに、最後はその戦うための武器に殺されてしまった。武器のために死んだのか、武器を棄てて逃げたのかは、もうわからない。ただ、私の兄に対する評価は変わることがなかった。
 始めからそこには誰もいなかったと言わんばかりに兄が店ごと姿を消した後、彼女は人の波の中で急に立ち止まり、私の方へ振り返った。大きな黒い瞳には私しか写っていない。
「いい夢は見れそう?」
 彼女がそう切り出した時が、終わりの時間になる。幕を開けるのも閉めるのも、全て彼女の役目だった。
 人間は必ず眠らなければならない。どんなに夢見が悪くても、悪夢ばかりでも、眠らなければならない。身体を休める必要があるのだ。心はいつまでも疲れたままだが。
「私の飴をあげるわ。ほら」
 私の手の中に捩じ込まれたそれは、涙の様な限りなく透明に近い色をしていた。舐めると塩辛くて、痛くて、苦くて、しかしそれでも嫌いにはなれない味だった。宝物として取っておきたくなる、輝く物だった。
「私はこれから夢を見る。とても汚い夢だよ」
「ここも汚いわ。現実だって泥塗れよ」
「でも、春途は輝いている」
「えぇ、私は輝いている。だって、戦うことを諦めなかったから」
 彼女は自身に満ち溢れた顔をしている。例え世界中の人から「間違っている」と指摘されても「私はこう思っているの」と胸を張って言い返せる。言い返して、自分の主張通りに生きることが出来る。辛くなって途中で逃げたりしない。兄のように中途半端に戦って死ぬことなく、誇らしい姿でそこに存在し続けている。
「私達は春の途中に生まれた子供。始まりでも終わりでもなく、その間の何処か。戦い続かなければならない原因は名前のせいかもしれない。春途はそう思ったことがあるかしら?」
「いや、実に私らしい名前だと思う」
「どうして?」
「中途半端だから」
「春でもなく夏でもない貴女には確かにお似合いね」
「完璧な春途には似合わないよ」
「そうかしら? 私は好きよ。成長途中で、まだまだ延伸び続けられる気がして」
「……」
「貴女が居る限り私は永遠に輝き続けるわ。貴女が望むだけ完璧になる。汚い貴女に代わって綺麗になるのよ」
 彼女は背伸びをして、私の胸にキスをした。一番汚れている部分に、天使がキスをした。
「おやすみなさい、春途。貴女が中途半端であることすらやめてしまうまで、私はずっとここで戦うわ。どうか私を殺さないで」
「おやすみ、春途。大丈夫、私は名前の通りに一生を終えるから、目が覚めたらまた話をしよう。私を見捨てないで」
 別れの挨拶はいつも大体似通った物で、何もかもが昨日と変わっていないことを痛感しながら私は目を閉じた。そして、身体を両足で支えることを放棄し、後ろへ倒れ混む。背中や頭にコンクリートの固さを感じることはなかった。水の中に落ちた時の様な、柔らかい何かで包まれる奇妙な感覚が私を襲う。
 夢見はいつも最悪だった。
 私は兄の気持ちがわからなくもない。



     *****



 夢の中での私は制服という服を着て、学校という場所に通う。授業という演説をクラスという小さな箱の中で受けて、クラスメイトという関係者とどうでも良い話をする。夕日が傾けば家という場所に行き、食欲を満たす。風呂というのは嫌いだった。風呂は身体を綺麗にするものだと両親という人が語るが、なんどスポンジで擦っても私は汚いままで、仕舞いには血が滲んで更に汚くなってしまった。
 夢の中の一日はとても早い。全てが流れ作業で、不可をもらわない程度に働けば終わる。淡々と、色も人も流れていく。決められた道を走る列車の様な気分だ。
 しかし、この労働で体力を使い果たすことで私は漸く目を覚ますことが出来る。現実に戻るための対価と思えば、死にたいと思うほどの重労働とまでは感じることはなかった。
 両親という人に自習という学校での勉強の延長の様なことをさせられた後、私は自分の部屋に戻った。が、扉を開ける際に一度隣の部屋を見た。
 そこは兄の部屋だった。夢の中の苦労に堪えきれなくなって、死んでしまった兄の部屋だ。夢が自分の思い通りにならないことが悲しくて、現実に帰って戻ってこなくなった人。夢の中で「偏屈」と罵られて心を挫かれたか、それとも理想とのギャップに流す涙がなくなったからか、兄は現実に逃げ込んだ。
 私は自分の部屋に入り、内側から鍵を掛けた。二重に三重に、誰も私を夢の中に連れ込まないよう厳重に部屋を密室化する。
 ベッドの中に入ると瞼が急に重たくなった。私が目を覚ます五分前だ。私は重力に逆らわずに瞳を閉じた。
 現実に戻るには少し時間がかかるため、私は今日一日のことを反芻することにした。が、彼女に話す内容を考えてみるも、それらは最終的に「下らない」の一言でまとめられてしまった。時間を潰すにはもってこいの、最低な思考だった。
 目を覚まして始めにするべきことは、彼女を見付けること。夜の街で金色の髪を靡かせている少女の姿を探し、共に世界を練り歩く。
 世界は変わらない。
 私が諦めてしまったあの日から、ずっと同じ色をしている。
 私が本物の青空を見ることが出来る日はやってこない。
 だって、私はそんなもの見たくないのだから、見えるはずがない。
 中途半端な場所で、中途半端に生きる。
 兄のように逃げることもせず、彼女のように戦い続けることもせず、迎合して享受して生きていく。

 死んだように生きる私は、今日も現実を見る。

反転世界

サイトから引っ越してきた掌編小説。
どこから夢で現実かがわからなくなってしまった女の子のお話。

反転世界

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted