一人寸劇
今日もあいつが泣いている。
目の前で泣くあいつの声が煩くて、俺は思わずあいつの首を絞めた。そうすれば解放される気がして、捩じ切る勢いで両手に力を込めた。耳の奥が痛くて、消したかった。
でも、音は消えない。声は止まない。
手の中で、首が潰れていた。紙をぐしゃぐしゃに丸めるみたいな容易さで、その細い棒はあっさりと壊れてくれた。
なのに、音は消えない。声は止まない。
声を出す器官が破壊されたにも関わらず、あいつは今も俺の前で泣き続けている。「痛いよ、苦しいよ」等と不合理な言葉を俺に投げ付けるのを止めてくれない。俺を傷付けるのを止めようしない。
鼓膜を突き破り、頭の中で反響を続けるそれらが鬱陶しくて、俺はもう一度首を絞めた。柔らかくて温かいそれに爪を食い込ませ、両手が生臭く潤うまで絞め続ける。
俺の両手は真っ赤だった。あいつも真っ赤だった。俺も真っ赤だった。
耳鳴りが止まない。あいつがまだ泣いている。全部潰したのに音が消えない。視界が揺れる。あいつの顔は血と涙でぐちゃぐちゃだ。そこにぽたぽたと塩水が落ちていき、更にわけがわからなくなる。
「痛いよ、痛いよ、助けてよ」
あいつは我が儘だ。どうしようもなく我が儘で、自分の事しか考えていない。あいつの骨も皮も肉も脳味噌も心臓も、心でさえも、それらは全て他の誰かのものであって自分だけのものではないというのに、あいつは独占を望んでいる。
「息が出来ない。痛いよ、痛いよ」
潰れた喉で喚くあいつを見ていると頭が痛くなる。見ていたくないのに視線を奪われて、否応なしにあいつと向き合わされる。
泣き虫のあいつが大嫌いだ。
大人しい俺が大好きだ。
俺はあいつの口の中に指を差し込み、ざらついた感触のそいつを思い切り引き抜いた。
喋ったところで無駄だ。もう何も言わなくていい。言う必要はない。舌なんていらない。もう全部意味がないんだ。
そう言い聞かせながら俺は、引きちぎれたそれを投げ捨て、赤い水が止めどなく溢れるそこを両手で塞いだ。あいつの口から何かが出てくるのが嫌だった。言葉も、息も、感情も、何もかも、心臓の中に押し止めておくべきそれらが出てくることが腹正しかった。
手の甲へ落ちる塩水が針のような鋭い痛みを伴って訴え掛けるのだ。意味なんてないのだと。
俺達はいつだって無価値だった。代替の効くどうでもいい存在。いてもいなくても問題ない空気。誰にも必要とされないゴミでしかない人生。零グラムの魂。
俺は両手を離さない。周囲には水溜まりが出来ていた。爪が剥がれていた。耳が破けていた。喉が熱かった。頭が痛かった。
「痛いよ、痛いよ、死にたいよ」
あいつは喋るのをやめない。死んでしまった身体で永遠と話し続ける。俺が殺した身体で話し続ける。俺が殺したはずの身体で話し続ける。
俺は耳を塞いだ。べとべとに汚れた手で耳をもぎ取る勢いで掴み、穴を塞ぐ。三半規管が汚れた。水の音がする。
それでも、声は聞こえる。聞きたくない言葉が、流れ込んでくる。
「どうして僕は生きていなくちゃならないの?」
俺を生んでくれた両親のため。俺を必要としてくれる誰かのため。そんな建前の後ろには、死にたくないという単純な願いが隠れている。誰だって痛いのは嫌だ。死にたくないと思うのは、生きている人間の特権であり、義務であり、本能であるはずだ。
そうに違いない。
そうに違いない。
そうでなければ困る。
それが真実でなければ、"俺"は一体なんだというのか。
「死にたいよ、消えたいよ、殺してよ」
今日もあいつが泣いている。どれだけきつく耳を塞いでも聞こえてくる煩いノイズ音。俺の耳は壊れている。生まれた時から死んでいた。
いつまでも音が止まないのはあいつのせいだった。あいつは死なない。俺にはあいつを殺せない。あいつが死んだ日には、俺もどこかに消えてしまう。
コインの裏と表なんかじゃない。代替物が本物のふりをして闊歩するのが当たり前になっただけの話。
俺はあいつであって、あいつではない。
両手で口を塞いだ。
嗚呼、やっと音が小さくなった。
体内の酸素濃度が低下し、脳が次第に回らなくなる。息苦しさに感じたのは危機感ではなく幸福感。揺れる世界の中で、俺はあいつと重なっている。
でも、きっと俺は死ねない。
俺達はどうしようもない弱虫で、自分ではない誰かに逃げてしまうのだから、そんな奴が終わりを自ら引き寄せられるはずがないのだ。
今日が終わる。
今日も終わる。
あいつが泣いて、俺が無視をして。
ただひたすら汚いものを俺があいつの代わりに直視して、あいつの代わりに無色の言葉を発し、濁った空気を吸って生きていく。
僕は生きたかった。
でも、誰もそれを許してくれない。
だから、俺が代わりに生きていく。
僕が、俺になって、生きていく。
僕は誰よりも天才的なピエロで、俺は誰よりも滑稽なピエロだった。
一人寸劇
サイトから引っ越してきた掌編小説。
心の中でぐるぐる考えているところを書いてみたかった一作です。