さよならの唄

泥だらけの筆を掴み、筆先をキャンバスに叩き付ける。

 何度塗り直しても、キャンバスは灰色のままだった。黒でもなく白でもない。息苦しさに耐えきれなくなった鮮やかな色彩達は既に逃げ出している。いや、僕らが追い出した。要らないからだ。
 筆を置いて、溜め息を着く。それから空を見上げた。閉じていた目を開け、灰の海を眺める。海よりは幾分か白く、しかし埃のように汚い色をした魚達が呑気に遊泳を楽しんでいた。生憎僕の手に釣竿はなくて、思わず手を伸ばしてみたけど、虚しい感覚だけが僕を貫く。僕の手が短いんじゃない。魚が僕らから逃げていくんだ。
 がらんどうなのは誰だったのか。そう僕はあいつにもう一度問うてみた。しかし返答はなかった。あの頃の僕はまだ井の中の蛙だったが、大海を知ったところで何も変わらない事くらいはわかっていたし、実際そうだった。だがらあいつは今も閉口しているんだ。
 泥だらけの筆を掴み、筆先をキャンバスに叩き付ける。灰色が濃くなった。続けて水が落ちてきて色が薄くなる。薄くなるだけだ。どれだけ濃淡を繰り返しても色彩は戻らない。苛立った僕は上から灰色を重ねた。最早それが何を映していたのかがわからなくなるまで、僕は色を重ねた。
 僕はあいつが嫌いだった。心と体が常に不一致で、僕に地団駄を踏むことばかり強いるあいつが大嫌いだった。前虎後狼なんかじゃなかったことを僕らは知っていたのに、僕らはいつまでも雁字搦めだった。
 それでも僕らは水と油ではなかった。僕らは同じだった。決して赤の他人ではなかった。寄り添うのが当たり前の存在だったはずだった。別れてはいけなかったんだ。
 助けを求めたところで誰も僕らを救ってはくれない。僕があいつを救えないように、あいつが僕を救えないように、救いなんて何処にもありやしない。誰も僕らを救えやしない現実。楽園はまやかし。希望という幻想は僕らを壊す一方で、やがて灰色になった。
 水がぽたぽたと零れ落ちて、キャンバスを濡らす。無駄な足掻きだった。最早僕が灰色を重ねずとも、キャンバスの濁りが揺らぐことはない。止めどない目尻からの落涙。あいつが嗚咽を漏らすたびに僕の肺から空気が奪われ、どうしようもなく頭が痛かった。だから、僕は灰色で涙の痕を消した。あいつの涙が枯れるまで、汚れた絵筆をキャンバスに叩きつける。それが僕に出来る唯一の慰めだった。
 やがてダムから水がなくなって、あいつの嗚咽すら聞こえなくなった。泣くことだけがあいつの唯一の特技だったのに。僕は乾いた頬に灰色の線を二本描いた。それでしか現せなかった。しかし、僕らのSOSは結局誰にも届くことはなかった。
 お互い、もうやることはなかった。やりたいことすら見失っていた。僕らには灰色の世界しか残されていない。迷路の出口など最新から存在しなかった。受け入れたフリをしながらも否定し続けてきた事実に、僕らは声を枯らして叫んだ。やっと僕とあいつが一つになれた瞬間だった。
 歩き続けたあいつは疲れ果てていた。見ていた僕も苦しくて死にそうだった。終わりたいと二人とも願っていた。
 僕らは筆を手に取った。
 そして、最後にキャンバスに赤い色を添えようと決めた僕らは、互いにさよならをした。

さよならの唄

サイトから引っ越してきた掌編小説。
かなり短いですが、個人的には結構お気に入りです。

さよならの唄

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-31

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