緋色の迷宮
第九十八話
水瀬は、リビングのソファーに座って、考え事をしていた。
昨夜、また自分を抑えられなくて、暴走してしまった。
いつも、セーブしなければと思うのに、できた試しがない。
参ったなー
何か方法を考えないと、本当にあの娘を壊してしまうー
さっきだってー
水瀬が声をかけたとき、苑美は驚いて飛び起きた。
自分が一糸纏わぬ姿なのを、忘れていたのだろう。
カーテンが引かれていても、外からの光で、部屋の中は十分に明るい。
女らしい曲線を描く、滑らかな白い肌が、ハッキリ見えた。
そして、形のいい胸の先端を彩る、艶やかなローズピンクの乳首がー
水瀬の目は、釘付けになった。
意志の弱い男なら、その場で彼女を押し倒していただろう。
水瀬は、意志を総動員して、苑美の裸体から、目を逸らさなければならなかった。
股間は、即座に硬く反応し始めたが、敢えて無視して。
全く、あの程度でー
水瀬は顔をしかめて、自分に舌打ちした。
幸い、若い苑美の肉体(からだ)に支障はなさそうだった。
水瀬を寝室から追い払ったとき、苑美は上掛けに、スッポリ潜ったままだった。
ちょっと、からかい過ぎたかなー
上掛けの中で、真っ赤になっていただろう、苑美を思い浮かべて、水瀬の口の端に笑みが浮かぶ。
初々しい娘だ。
こんな関係になっても、いつまでも恥じらいを忘れない。
いやー
水瀬は、顔を曇らせて口元を結んだ。
単に恥ずかしがりなだけではない。
苑美は、自分に自信がないのだ。
だから、いつも陰に隠れて、表に出て来たがらない。
どうしてなのだろう。
あの娘は、十分人目を引く程美しいのに、全く自分でそう思っていないようだ。
自分は、人より劣っていると思い込んでいる節がある。
底に潜んでいる魂は、確かに『彼女』なのに、誰にも物怖じせず、気圧されず、凛としたソニアとは、まるで違う。
環境のせいだろうか。
水瀬は、何度も転生している。
ソニアといた時代以外の記憶は朧気だが、いろいろな経験は心に刻まれている。
環境が性格を作る事も、知っていた。
苑美自身、そういう自覚はあるようだが、自分からは話したくないようだ。
水瀬は、苑美の家庭や家族について、何も知らない。
水瀬に必要なのは、苑美だけだった。
『彼女』だけが欲しかった。
元々、水瀬は他人に対して興味が薄かった。
ソニアを失った時代の影響が濃いからだろうか。
血と殺戮ー
そして腐敗した人間を、嫌という程見てきたー
ソニアの存在以外、前世にロクな思い出はない。
思い出す度、嫌な気分になる。
水瀬は頭を振って、前世(かこ)の記憶を振り払った。
しかし、苑美の家族については、知っておいた方がいいなー
第九十九話
苑美が何故、あんなに自分を過小評価するのか、何が原因か知りたかった。
苑美は、普通の家庭に育った筈だから、原因は家庭環境にあるのだろうと、水瀬は推測した。
何かするとき、苑美は必要以上に、人の顔色を伺う癖があるようだ。
頼りなげな大きな瞳で、訴えるように、懇願するように、覗き込むように人を見る。
そうされると、水瀬は何だか、胸が疼くような気分になる。
それはそれで、男の保護欲をそそって、守ってやりたいと思う気持ちを、かきたてる。
ある意味、とても魅力的で、心惹かれるものがある。
まあ、要は好みの話で、弱々しい女が苦手な男もいるが。
水瀬としては、どっちでもよかった。
『彼女』でありさえすればー
ソニアは、どちらかというと、苑美とは逆の性格で、言いたい事はハッキリ言ったし、聞きたい事もハッキリ聞くタイプだった。
苑美にしても、気が弱くて自分で何もできない訳ではない。
唯、自信の無さが、苑美の言動を狭めているー
水瀬は、顔を曇らせた。
苑美に自信を持たせてやりたい。
苑美は、自分で思っているより、何倍も美しくて魅力溢れる娘なのだから。
だが、余り魅力的になって、男が寄ってくるのも困るなー
ふいに、及川の顔が頭に浮かんで、水瀬はひどく、面白くない気分になった。
あんな青二才に、何人も出てこられちゃたまらない。
自分でそう考えて、水瀬は渋い顔になった。
青二才”なんて言葉が出る事自体、歳を取った証拠だと言う
水瀬は改めて、苑美との現世(いま)の歳の差を考えた。
今まで、気にした事もなかったが、苑美とは一回り以上違うのだ。
探し続けた恋人の生まれ変わりー
苑美を、漸く見つけ出し、すれ違う魂(こころ)に苦しみ悩んで、やっと心を通い合わせる事が、できたところだ。
年齢の差など、くだらない事にしか過ぎず、そんな事に構っていられる心境ではなかった。
実際、今までは、考えた事もない。
だが、苑美は今、自分の腕の中にいる。
人間、心が落ち着きを取り戻してくると、そういう些細な事が、気になってくるものらしい。
そういえば、苑美は自分の年齢を、知らないのではないか?
そんな事を、とりとめなく考えていた水瀬は、ふと気付いて時計を見た。
さっき、寝室を出てから、一時間近く経っている。
まだ、シャワーを浴びているのだろうか?
水瀬は、眉をひそめた。
女は、長風呂が多いものだが、苑美の性格からいって、水瀬を待たせたまま、ゆっくり入っているものだろうか?
バスルームで、何かあったのかもしれない。
心配になった水瀬が、腰を浮かせかけたとき、浴室のドアが開く音がした。
パタパタと、寝室に駆け込む音がする。
水瀬は、ホッとして腰を降ろした。
どうも、苑美の事になると、神経過敏になっているらしい。
水瀬は、苦笑いした。
第百話
苑美の事になると、見境がないのは、自分でも解っている。
それは前世で、あんな形でソニアを失ったからだという事もー
些細な事でも、そのまま『彼女』を失うのではないかと不安で、つい神経質になってしまう。
こんな事に、いちいち神経を尖らせてたんじゃ、苑美に鬱陶しく思われるし、俺だって身がもたないぞー
解ってはいても、制御できない。
水瀬は最近、自分をもて余し気味だった。
失うのが怖い。
離れているのが怖い。
自分の疑心暗鬼が、一番怖い。
誰の目にも触れないように、自分の住み処の奥深く、閉じ込めてしまいたいー
自分以外、見えないようにー
苑美と巡り逢えた頃にも、同じ事を切望した。
あのときとはまた違う意味で、水瀬はそう願っていた。
全く、人間(ひと)の願望にはキリがないなー
一つ叶えば、また一つ先を望む。
苑美に巡り逢う前の渇望をー出逢った頃の苦悩を思えば、十分過ぎる程、幸せな筈なのに。
水瀬は、また苦笑した。
バタン!
ドアが開いて、苑美が飛び込んできた。
その勢いに、水瀬は目をしばたいた。
「ごっ、ごめんなさい!
私、シャワーを浴びながら、考え事してたら、つい…」
余りに、真剣な表情(かお)で言うので、水瀬はつい吹き出した。
「何、笑ってるの?」
途端に、苑美がむくれた顔になる。
自分は、焦って駆け込んできたというのに、笑われて気分を害したらしい。
ホントに表情がくるくる変わるー
水瀬は、何だか楽しい気分になった。
そういうところは、ソニアより顕著だ。
ソニアも素直で優しい娘だったが、時代や境遇もあって、誇り高いところがあった。
それが、凛とした核を作っていたが、苑美にはそれがない。
その分、素直で感情豊かな反面、頼りなさも感じさせる。
ソニアといい苑美といい、『彼女』は、境遇に恵まれないらしい。
不思議な事に、それは全く違う性格を作ったようだ。
ソニアは誇り高く、負けず嫌いが前面に出た。
苑美は逆に、自分に自信が持てない為、臆病で陰に隠れていたがるようだ
けれど、どちらも、自分の前では、素直な優しい娘だった。
惜しみなく、愛を注いでくれたー
「聞いてるの?!」
ますます、苑美の声が不機嫌さを増す。
その声で、物思いを打ち破られて、水瀬は我に返った。
女がこういう声を出した後も、放っておいたらどういう事になるかー
ソニアとのときでも、その後の経験でも、嫌という程知っている。
別に、ソニア以外の女には、どう思われようと、どうでもいい事だったが、喚き散らされたり、平手打ちされたり、実害が多かったので、すっかり懲りている。
無論、水瀬が何をした訳でもない。
他の女など一切興味を持たず、期待を持たせる事など、全くしなかったのだが、勝手に熱を上げた女の中には、手に負えない者も、少なくなかった。
第百一話
そういう女達は、自分の感情だけで動く。
相手の気持ちなど、一切お構いない。
水瀬にとっては、迷惑でしかなかったが、仕事上、社交辞令で、相手をしなければならない女も多かった。
ましてや、有力者の手越の関係者となると、無下にもできない。
類は友を呼ぶとは、よく言ったもので、手越の知り合いの『上流階級』とやらの女は、身勝手な人間が多かった。
大抵の女は、水瀬にご執心になるので、水瀬は渋々ながら、そのあしらい方を学ぶ羽目になった訳だ。
苑美が、身勝手な女である訳ではないが、『女』に変わりはない。
大抵の男は、この『女のサイン』を見逃すか、無視して、『災難』に合う訳だ。
おかしなところで、“経験”とは、役立つものだなー
数多の女に鍛えられたお蔭で、水瀬には、苑美のサインがハッキリ見えた。
拗ねた姿も可愛いと思ったが、そのままにしておいたら、本気で怒らせてしまうだろう事が解った。
他の女はどうでもいいが、こんなとるに足りない事で、苑美を怒らせてはたまらない。
こんな場面で、無視したり、どうでもいいという態度や、ウンザリした態度を取ったりしたらどうなるか、水瀬は過去の経験で身に染みていた。
無論、苑美に対しては、そんな態度を取る気は、更々なかったが。
「ーちゃんと聞いてるよ。
あんまり必死に、真剣な表情(かお)で駆け込んでくるから、つい可笑しくなったんだ」
水瀬が、笑いを噛み殺している様子に、苑美は仏頂面をしながらも、頬を染めた。
「だ、だって…随分待たせちゃったかなって…
そうよね、バカみたいに見えたわよね…」
苑美は、不機嫌そうな顔から一変して、青菜に塩のように、シュンとうなだれた。
水瀬は微笑んだ。
他の女に見せる、機嫌を損ねない為の愛想笑いや、社交辞令ではなく、自然にこぼれた、心を写し出したような笑顔だった。
苑美のこういう素直な感性が、今まで周りに群がってきた、下心満載の女逹に比べて、とても可愛く映る。
苑美といると、いつも、渇いた心が潤っていく気がする。
水瀬の微笑に、苑美は思わずドキリとした。
極上の微笑とは、こういう微笑(もの)をいうのだろう。
相手を釘付けにする、魅惑的な微笑ー
こんな笑顔を向けられたら、相手の心は、たちどころに蕩けてしまうだろう。
いったい、何人の女(ひと)に、こんな笑顔向けたのかしらー
苑美は嫉妬混じりに、チラリと思ったが、すぐにその考えを打ち消した。
出逢ったときの、深淵のような暗い瞳と、表情のない顔を思い出す。
この人は、笑う事などあるのだろうかと思ったではないか。
そんな水瀬が、今のような笑顔を、他人に向けたとは思えない。
必要に駆られない限り、愛想笑いもしなかったのではないかー
第百二話
そう思いながら、苑美は水瀬を見ていた。
水瀬はソファーから立ち上がると、苑美に近付いた。
180cmを悠に超える、長身の水瀬と向き合うと、155cmそこそこの小柄な苑美は、勢い水瀬を見上げる、上目使いの形になる。
下心満々の女がやると、媚びてイヤらしい感じになるのだが、苑美が同じ仕種をすると愛らしく見えるから不思議だ。
最も、そうしないと水瀬の顔が見られない為、自然にそうなるだけで、背の低い事も気にしている苑美には、不本意に他ならない。
他意がないから、自然体であどけなく見えるのだろう。
容姿(かお)に惹かれて群がる女には、ウンザリしている水瀬には、それだけでも心が安らいだ。
苑美が『彼女』でよかったー
無論、どんな女でも、水瀬は『彼女』を愛しただろうけれど。
魂が『彼女』である限り、根底は同じなのだから。
唯、性格が違えば、行動も違ったものになる。
長所も欠点も、異なった形で表れる。
苑美の引っ込み思案は、ソニアの凛とした強さとは、真逆の脆さを感じさせる。
苑美の、自分への自信のなさへの、疑問を思い出し、水瀬は眉をひそめて、苑美をまじまじと見つめた。
水瀬の端正な顔に、じっと見つめられて、苑美はどぎまぎした。
この容姿(かお)って、在るだけで、女心の殺傷能力抜群だわねー
苑美は決して、容姿(かお)で人間を決める性格ではないが、それでも、際立つ容姿に恵まれた水瀬に見つめられると、胸がドキドキする。
何度も見ている苑美がそうなのだから、初対面の相手が、のぼせ上がるのも無理はない。
印象的なのは、やはりその瞳ー
黒曜石のように深い煌めきを湛えた、冴え冴えとした黒い瞳。
苑美を見るその瞳には、今、温かい光が宿っている。
初めて逢ったとき、苑美を見たのは、暗黒の闇のような瞳ー
救いようのない、暗い絶望の翳りー
それはもう、瞳(そこ)にはなかった。
それは今、本当の黒曜石(ほうせき)のように、煌めきを秘めている。
光を取り戻した瞳に見つめられて、苑美は胸が熱くなった。
同時に、夢で見た青年の瞳(め)が、脳裡に蘇った。
冷ややかな瞳の奥に、暗い情念が燃えているようなー
苑美は息を呑んだ。
夢の中で、何処かで見たと思ったのも道理、青年の瞳(め)は、出逢ったときの水瀬の瞳(め)にそっくりだった。
これは何の暗号?
単なる偶然なの?
いいえ、そうは思えないー
苑美は困惑した。
夢の中の恋人達ー
水瀬ではない、ソニアの恋人ー
生け贄にされたらしいソニアー
ソニアの恋人と水瀬の相似点ー
全てがバラバラなようで、一点を指しているようにも思える。
苑美は、言葉が見つからず、水瀬を凝視した。
苑美の様子に、水瀬が訝しげな表情(かお)をする。
第百三話
「どうかしたのか?」
水瀬の瞳(め)には、不思議そうな色が宿っている。
苑美は混乱して、何と言っていいのかわからない。
頭の中を、夢のシーンや、あの青年の瞳、ソニアの姿が、ぐるぐる回っている。
どうしようー
思いきって、夢の話をしてみようかー
でもー
話の糸口が見つからない。
沈黙する苑美を、水瀬は不審気な表情(かお)で見ている。
「あの…朝食の用意するわ。
大したものないけど」
苑美は、逃げるように水瀬から離れた。
今は、気持ちを落ち着けて、考える時間が欲しかった。
水瀬は、微かに眉をひそめると、苑美の様子を見ていた。
ベーコンエッグにトースト。
野菜サラダを作りたかったが、生憎サラダにできそうな野菜を切らしていたので、野菜ジュースを出す事にした。
「熱っっ!」
考え事をしながら、ベーコンを炒めていた苑美は、うっかりフライパンに触れて声を上げた。
軽い火傷に、顔をしかめていると、後ろから手首を掴まれて、流水へと導かれた。
「静生さん?」
驚いて顔を後ろに向けると、水瀬は無言のまま、苑美の火傷した手を、水に晒している。
暫く、二人とも無言で、流れる水を眺めていた。
「あの…もう大丈夫よ。
軽い火傷だから」
苑美が水瀬に微笑んでみせると、水瀬は苑美の顔をジッと見ていたが、黙って苑美の手を離した。
「テーブルで待ってて。
すぐ用意するから」
水瀬は頷いて、椅子に腰を降ろしたが、視線は苑美から外さなかった。
どうも様子がおかしいー
そう、感じ取ったものの、苑美は触れてほしくなさそうだ。
苑美の事は、全て知りたい。
何一つ、知らない事がないように、問い詰めたかったが、それは許される限度がある。
伊達に、年齢(とし)は食ってないってかー
水瀬は、皮肉な笑みを浮かべた。
現世(いま)に限った事ではない。
どんなに時代(とき)が流れても、男と女の根本的な事情(こと)は変わらない。
苑美は子供ではない。
自分に劣等感がある分、脆くはあっても、芯に強いものを秘めている。
水瀬は、苑美を信じる事に決めた。
だが、何故そんなに自分を過小評価するのかー
それは知っておきたい。
苑美が、必要以上に自分を卑下する事実は、見過ごしてはいけない事に思える。
苑美は、自分でも気付いているのだろうが、一度刷り込まれた感情は、なかなか消えないものだ。
自分もそうだったようにー
水瀬は、目を伏せた。
かつてソニアと暮らした時代の、自分の『家族』ー
いや、あれは『家族』などと呼べるものではなかった。
父親を筆頭にした『一族』に、苦い思いが胸に蘇る。
あの苦い感情(きおく)は、現世(いま)も心の奥に、痼(しこり)になって残っているー
第百四話
他人(ひと)の事を、どうこう言えた義理じゃない。
自分自身が、前世(むかし)の事に、これだけ拘っているのだから。
結局、ソニアだけでなく、自分も環境に恵まれてはいなかったー
カチャン
自分の目の前に皿が置かれて、水瀬はハッとした。
苑美が、朝食をテーブルに運んでいる。
水瀬は、気持ちを現実に切り替えた。
二人とも、然り気無く朝食を摂りながら、別の事を考えている。
突き詰めれば、結局はお互いの事にはなるのだが。
水瀬は、朝食を口に運びながら、あの娘ー苑美と親しい香織なら、事情を知っているだろうと推察した。
機会を作って、彼女に聞いてみる事にするかー
しかしーあの娘と向かい合うには、かなりの気力を浪費する羽目になるだろうなー
水瀬は、苑美とは正反対の、パワフルでエネルギッシュな香織の姿を思い浮かべ、心の中でゲンナリした。
「今日はこれからー?」
朝食を終えて、そう聞きかけたとき、水瀬のケータイの着信音が鳴った。
メールを確認すると、画材店からだった。
水瀬が注文していた画材が、届いたらしい。
水瀬は、仕上げなければならない作品があるのを思い出した。
使いたい絵の具が切れて、注文していたのだが、なかなか届かず、描きかけのままだった。
注文主からも、何度も催促を受けている。
何より、一番の要の部分で、そこさえ色が入れば完成というところで、肝心の絵の具が切れて、歯痒い思いを残していた作品だった。
早く仕上げてしまいたい。
「やりかけの仕事を仕上げないとならない。
切らしていた絵の具が届いたそうだから、画材店に寄ってから、家に戻るよ」
水瀬は苑美に振り向くと、椅子から立ち上がった。
朝食の皿を片付けている苑美の手が止まった。
「そうなの?」
表面に出ないように努めているが、苑美の声には、明らかにガッカリした響きがあった。
何とも解り易いー
水瀬は、笑いを噛み殺すと同時に、心が熱くなるのを感じた。
離れたくないと思っているのは、自分だけではない。
苑美も同じなのだ。
愛しさが胸に溢れて、言葉が勝手に口を突いて出た。
「一緒に来るか?」
片時も、苑美を離したくない、水瀬の本心が言わせた言葉だったが、言った瞬間、水瀬は後悔した。
人気のない自宅(いえ)で、苑美と二人きりになったら、どうなるかは目に見えている。
また、苑美の肉体(からだ)に、負担をかける事になるのにー
水瀬の誘いに、苑美は目を見張った。
一緒に行きたいー
すぐに頷きそうになる自分を、グッと堪えて、苑美は首を横に振った。
「ダメよ、急ぎの仕事なんでしょう?
私、邪魔になるわ」
水瀬は、顔をしかめた。
確かに、苑美が傍にいたら、仕上げを放り出して、違う事に熱中しそうだ。
第百五話
「それって…仕上げるのに、どの位かかるの?」
苑美が、おずおずと尋ねる。
「え?ああ…
主要な部分が残ってるだけだから、一日もあればー」
苑美は、更にモジモジしながら聞いた。
「じゃあ、あの…
明日…静生さんの家に行ってもいい…?」
何事にも遠慮がちの苑美には、これだけ言うのも、相当勇気が要った。
図々しいと思われないかしらー
水瀬には、苑美の考えが手に取るように解った。
思わず、笑みが口の端に上る。
何度も肉体(からだ)を重ねた仲なのに、苑美の初々しさは、少しも変わらない。
それでいて、他人行儀によそよそしくも感じないのは、苑美が意識していないからなのだろう。
恐らく、この遠慮がちな性格は、環境が作り上げたものなのだ。
水瀬の胸に、可愛いと思う気持ちと不憫さが入り交じる。
「ああ…いいよ。
いつでも来ていい」
水瀬は上着を取り上げると、ポケットを探った。
それから、苑美の手を引き寄せると、その掌に鍵を落とした。
苑美は、瞳(め)を大きく見開く。
「これー?」
水瀬が微笑んだ。
「自宅(ウチ)の鍵だ。
好きなときに来ていい。
アトリエに隠ってると、来ても気付かないときがあるかもしれないからな。
もし、俺がいないときでも、勝手に入って構わない」
苑美は、掌の鍵をジッと見つめていたが、やがて水瀬を見上げた。
「いいのー?」
苑美は頬を染め、嬉しそうに瞳(め)をキラキラ輝かせている。
その素直な輝きが、どれ程人を魅了するか、少しも解っていない。
水瀬は、また愛しい思いを募らせながら頷いた。
「ありがとう」
頬を染め瞳を輝かせながら、苑美が弾んだ声を出す。
水瀬は、胸を突かれた。
『ありがとう、セオ』
ソニアの笑顔が、苑美の笑顔と重なる。
ソニアは、ラピスラズリのイヤリングを贈ったとき、同じように頬を染め、同じように瞳を輝かせてー
今の苑美と全く同じ表情を見せたー
水瀬は胸が塞がる思いがした。
ああー間違いなく『彼女』は、自分の傍らに戻って来たのだー
このとき程、強く実感した事はない。
もう、何も望む事はない。
それだけで十分だー!
水瀬は、苑美を引き寄せて抱きしめた。
「し、静生さ…苦し…」
苑美は、息が止まる程、キツく抱きしめられて、目を白黒させた。
水瀬は、すぐに苑美を離すと、そのままドアへ向かった。
「もう行くよ。
早く、絵を仕上げてしまいたい」
苑美は、しっかり鍵を握りしめているのに気付いて、足早に去ろうとする、水瀬の背中に叫んだ。
「あっ、あの鍵は?」
水瀬が歩みを止める。
可笑しそうな声が、返ってきた。
「スペアがあるよ」
水瀬はそのまま、ドアを開けて出て行った。
第百六話
後には、真っ赤になった苑美が残された。
そっ、そうよねー
バカな事、聞いちゃったわー
私じゃあるまいし、静生さんがそんなマヌケな真似、する筈ないじゃないー
自分の言葉に答えた、水瀬の声音は、さも可笑しそうな響きがあった。
今頃、大笑いしてるわねー
苑美は、自分のマヌケな発言を呪いつつ、シュンとうなだれた。
しかし、握りしめた手に気付いて、掌を広げると、渡された鍵が、燦然と光を放つ。
まるで、勲章だわー
自然に、笑みがこぼれる。
きっと、誰も与えられた事のない、勲章に違いない。
苑美は、水瀬の家を思い浮かべた。
生活感の全くない、必要不可欠なものしかない、簡素な部屋ー
簡素を通り越して、殺風景ささえ感じさせる。
水瀬自身も言っていた通り、女は愚か、ほとんど誰も、足を踏み入れた事もないのだろう。
有吉も、入った事がないかもしれない。
水瀬は、人間が苦手なのだ。
厄介なのは女に限らず、人間全部だと言わんばかりの、態度を取るときがある。
時代劇の侍に似てるかもー
寄らば斬るぞ、みたいな雰囲気があるものー
無論、苑美にはそんな態度は決して取らない。
真逆の態度なら、幾らでも示す。
自分に自信の持てない苑美は、そんな水瀬の態度に、まごつく事が多い。
今も鍵を見つめながら、どうして自分にこんな風に接してくれるのか、不思議だった。
だが、それが水瀬の、本心(こころ)からの行為である事も解る。
それに、水瀬が人間(ひと)を寄せ付けないのは、傲慢だからではない。
過去に人間不信に陥る、何かがあったのだろう。
水瀬は、心に深い傷を負っているー
苑美は、それを敏感に感じ取れた。
唯、それに自分が、密接に関係しているなどとは、想像もつかなかった。
私を真実(ほんとう)に必要としてくれるなら、何にそんなに苦しんでいるのか、話してほしいのにー
もどかしい思いが、苑美の胸を掠める。
それでも、鍵を見つめていると、嬉しさに胸がふくらんだ。
自分だけに与えられた勲章ー
水瀬にとって、自分は特別な存在だと、鍵(それ)は伝えてくれる。
苑美は、鍵に頬寄せて目を閉じた。
早く、明日になるといいのにー
それから、気が付いたように、パッと目を開けた。
スケジュール表を取り出して、講義の日程を調べる。
やっぱりー!
明日、受けなきゃならない講義があるの、忘れるとこだったわー
苑美は胸を撫で下ろした。
水瀬の仕事の邪魔はしたくなかったし、講義が終わってからゆっくり行けば、丁度いい時間になる筈だ。
唯ー
「この講義ー香織も受ける筈だわー」
苑美は、冷たい一陣の風が、背中を吹き渡ったような気がした。
第百七話
パワフルな香織は、いざというときは、この上なく頼もしい存在だが、普段の高いテンションには、苑美がついていけない場合が多い。
香織も、彼でもできれば、こっちへの注意も逸れるんだろうけどなー
苑美は、溜め息を吐いた。
水瀬との事を、根掘り葉掘り聞かれるのは嫌だった。
第一、苑美自身、水瀬についての情報を与えられる程、彼の事を知らないー
もうっっ!
香織のせいで、ヤな事思い出しちゃったわ。
苑美は、眉間に深いシワを寄せた。
水瀬は“知っている”のに、自分は知らない。
苑美自身が、一番気にしている事でもあり、水瀬一人が、その重荷(こと)を背負い込んでいる事に、心を痛めている事でもあった。
やっぱり、あの夢の事聞いてみようー
唯の夢とは、到底思えないあの夢ー
水瀬と重なる、セオという青年ー
水瀬が隠している真実が、同調(シンクロ)する。
苑美は今、幾重にも降ろされた帷の前にいる。
そして、今、自分がその固く閉じられた帷に、手をかけようとしている事に、苑美自身はまだ気付いていなかった。
あの夢が、パズルの重要なピースになるという、確信はあったとしても。
水瀬は、大きな画材店の前で車を止めた。
駐車場に車を入れ、店に入ると迷う事なく、真っ直ぐレジに向かう。
レジにいた男の店員が、水瀬の姿を見て、にこやかに微笑んだ。
何度も利用している店だ。
まして、水瀬のように際立つ容姿の持ち主なら、店員が覚えない訳がない。
店員はすぐに、準備してあった紙袋を出して、水瀬に手渡した。
水瀬は、紙袋の中を一瞥して頷いた。
「いや、お待たせして申し訳ありません。
メーカーが在庫切れで、時間がかかりまして」
如才なく対応する店員の言葉を聞きながら、代金を支払うと、水瀬は急いで店を出た。
遠くから、品出ししていた女の店員が、ポ〜ッとして水瀬を見送っている。
駐車場に戻ると、水瀬はすぐに車を発進させた。
車を飛ばして、家まで辿り着くと、そのまま二階のアトリエに向かう。
絵を描くときは、絵の具でかなり汚れる。
水瀬は、アトリエのフックに無造作ににかけてあった、医者が着るような長い白衣を、バサリと羽織った。
そのままボタンも止めず、描きかけのままの絵を探す。
アトリエは、かなり雑然としている。
布をかけたカンバスや、剥き出しのままのカンバスが、イーゼルに、あるいはそのまま床に、無造作に立て掛けてある。
その中から、目当ての絵を探し出すと、水瀬は描き易い場所に、イーゼルを立てた。
買ってきた絵の具を、テーブルにばらまくように出す。
水瀬は、絵の具に目を落とす。
水瀬が最も気に入っている、鮮やかな深い青ー
ソニアの瞳(め)によく似た、紺碧(ラピスラズリ)の色ー
この色なくして、作品の完成はなし得ない。
量産が難しいと説明された、この絵の具は、一旦切らすと、なかなか手に入らない。
第百八話
これ程美しく深い青の濃淡は、他の絵の具では出せない。
ソニアの肖像画もーソニアの瞳とラピスラズリのイヤリングも、この絵の具が彩ったのだ。
ソニアー
水瀬は顔を曇らせた。
そのソニアの肖像画が、苑美を苦しめているー
肖像画(あれ)を処分するのは辛いが、そうするしかあるまいなー
ソニアの記憶を持たない苑美には、ソニアは水瀬の心を占める恋人としてしか映らない。
それは苑美を苦しめ追いつめて、危うく水瀬は『彼女』を失いかけた。
ソニアの肖像画に、深い思い入れがない訳がない。
あれは、愛するソニアの姿を、自分の中に鮮明に残る記憶を頼りに、カンバスに映し出したものだ。
水瀬の心の拠り所でもあり、その姿はいつも、挫けそうになる気持ちを奮い起たせた。
必ずお前を探し出してみせると、水瀬は何度肖像画に誓っただろう。
しかし、如何にあの肖像画(え)に思い入れがあろうと、苑美にー『彼女』以上に大切なものには、なり得る筈もない。
苑美に比べたら、肖像画(あれ)は水瀬が造った単なる『物』に過ぎない。
水瀬は、目を閉じて溜め息を吐いたが、すぐに目を開けると、パレットに絵の具を絞り出した。
ともかく、早くこの絵を仕上げてしまおう。
水瀬は、二重の意味で心が急いた。
やっと、要の色を入れて作品を仕上げられる。
やむを得ず、中断していた絵を、早く完成させたい。
それに、明日は苑美が家(ここ)に来る。
それまでに、絵を仕上げてしまいたい。
絵が仕上がらないままでは、苑美といても落ち着かないだろう。
かといって、苑美を待たせたまま描いても、気が散って納得のいく作品になりそうにない。
まるで、一人前の芸術家みたいだなー
水瀬は、何だか可笑しくなった。
元々、絵を描くのは好きだったが、『彼女』を探すのに、何かと都合のいい職業だったから、選んだのだ。
それが、こんなにのめり込むとは、自分でも思わなかった。
既に、新進画家として、絵(そ)の世界では、高い評価を受けているというのに、水瀬自身には、今一つ現実味がなく、実感が湧かない。
俺には、こういう集中できる仕事が向いてるらしいなー
水瀬の絵は、写実派で写真のように、緻密な表現が得意だった。
前世でも、ラピスラズリのイヤリングを、原石から細工して造り上げたりした。
その方面では、才能があるのだろう。
細かい金細工は、職人顔負けの見事なものだった。
ソニアの為に造った、ラピスラズリのイヤリングー
あのときのソニアの、嬉しそうな笑顔ー
その笑顔に、苑美の笑顔が重なる。
同じ笑顔だった。
顔立ちも、瞳も髪の色も全く違うのに、ソニアと同じー
水瀬の瞳(め)から、一滴(ひとしずく)涙がこぼれた。
第百九話
『彼女』は戻ってきたのだ。
間違いなく、この腕の中にー
もう、それだけでいい。
もう何も望まない。
水瀬は、溢れる想いに、胸が塞がりそうだった。
自分が涙を流すなど、いつ以来の事だろう。
ソニアを失ったあのときから、泣いた覚えなどない。
心は血を流し続けたけれど、感情は凍り付いて、人間らしい感覚が、麻痺してしまったようだった。
ソニアを失ったときの慟哭を、水瀬は忘れない。
涙すら涸れ果てる程の、張り裂ける胸の痛みをー
まるで、昨日の事のように鮮烈にハッキリと思い出せる。
ソニアと交わした一言一句まで、鮮明にー
それこそが、邪神が彼に放った、最高の報復だったのだろう。
愛する者の最期の姿、最期の言葉が、未来永劫薄れる事なく、鮮明に蘇るのだ。
その耐え難い苦悩を封印する為には、感情(こころ)を閉じるしかなかったー
水瀬は、目を閉じて頭を振った。
この涙は、あのとき流したものとは違う。
これは、喜びの涙ー
凍り付いた感情(こころ)を溶かしてくれる、熱い涙だー
水瀬は漸く、前世(かこ)を振り返る事が、できるようになった。
苑美のお蔭だ。
『彼女』を見つけられたからー
それでもー
ソニアの白い腕を伝う、血の色を思い浮かべた水瀬は、吐き気を感じた。
回りが、緋色に包まれるー
どこかで鳥の鳴く声が、静かな空間に響いて、水瀬は我に返った
冷や汗の浮かんだ、額の髪をかきあげて、大きく息を吐き出す。
まだー平気になれないー
あのときの、血塗られた情景だけはー
『彼女』がー苑美が傍にいてくれなければ、自分はまた悪夢に呑み込まれてしまう。
水瀬は、目を閉じ顔を上げて、深呼吸した。
明日になれば、苑美が訪ねてくる。
この腕の中に、『彼女』の確かな息吹きを感じる事ができる。
ふと、水瀬の頭に一抹の不安がよぎった。
歪んだ憎悪に支配された邪神が、自分の邪魔をした人間が、幸福(しあわせ)を掴みかけた姿を、黙って見ているだろうかー?
水瀬は、頭(かぶり)を振って、その考えを追い払った。
あれはもう、遥か昔の事だ。
邪神が支配した湖も、もう存在するかさえ、定かではない。
邪神にパワーを与えた、人々の信仰は最早廃れ、邪神を崇め奉り、繁栄した一族も、歴史の陰に消え去った。
だが、水瀬は何故か胸をよぎった不安を、拭いされなかった。
そもそも、水瀬のした『邪魔』が何なのか、把握しきれていない気がする。
一人の生け贄を奪っただけにしては、邪神の怨恨は、執拗で執念深過ぎるー
水瀬は、初めてその事実と向き合った。
今までは、ソニアを失った悔恨と苦悩だけが心を占めていた。
『彼女』を求め、彷徨い続けた時間(とき)ばかりが永過ぎて、他に何も考える余裕がなかった。
第百十話
水瀬は、また頭を振った。
どうかしている。
今更、こんな事を考えるなんてー
どうも、神経質になっているようだ。
あれから、何百年も経っているというのにー
邪神など、廃れた信仰と共に滅びてしまった筈だ。
唯、その念だけが、未だに自分を縛り続けているー
生き物の命を糧にする、禍々しい人ならぬものー
一族をひれ伏させたその歪んだ力は、確かに強大だった。
もし、あの力が復活したりしたらー
水瀬は、自分の頭を掠めた思いに、眉をひそめた。
バカな…考え過ぎだ。
きっと、現在(いま)が幸福(しあわせ)過ぎるから、こんな事を考えるのだ。
やっと、『彼女』を見つけ出した幸運が信じられず、これは夢で、目覚めたらまた一人ではないかという怯えが、絶えず胸に巣食っている。
だから、こんな被害妄想的な事を考えるのだ。
実際、何度そんな夢を見ただろう。
『彼女』を、この腕に抱きしめる夢をー
目覚めると、彼はやはり一人で、腕の中は空っぽで、歓喜から絶望へ突き落とされるー
水瀬は、キツく目を閉じた。
今回は、夢ではない。
『彼女』は、確かに現実(ここ)にいる。
もう、夢に絶望させられる事はない。
遠くで、また鳥が囀ずった。
その声に、窓の外に目をやって、水瀬は日が大分西に傾いてきたのに気が付いた。
時計を見ると、時刻は午後3時近くになっている。
いろいろ、考え事をしている内に、思わぬ時間を浪費してしまったようだ。
さっき、絞り出した絵の具が、乾いてしまっている。
この色がない為に、中断を余儀なくされた、貴重な絵の具なのに。
水瀬は、舌打ちして、水で絵の具を溶いて伸ばしながら、作品に集中しようとした。
後で、時間があったら、あの湖がどうなったか、調べてみるかー
何となく、まだ心に引っ掛かりがある水瀬は、頭の隅でそんな事を考えていたが、絵に色をのせ始めると、雑念は消え去り、作業に没頭していった。
このときの、水瀬の微かな杞憂は、いみじくも当たっていた。
その魔手は苑美にも及び、二人を巻き込んで、惨劇をもたらすものとなる。
水瀬はそれを、まだ知る由もないー
今は唯、未完成の絵を仕上げる事だけに集中していた。
出したかったの色は、湖面の青。
最初に、青い色をぼかすように全体に塗ると、濃淡をつけていく。
色の強弱を、部分部分で微妙に変え、違う青や緑を混ぜて、絶妙な色合いを作り出していく。
緻密で神秘的な色合いは、水瀬の十八番だった。
湖には、苦く辛い思い出がある。
前世で、手酷く辛酸を舐めさせられた。
だが、それを差し引いても、水瀬は湖が好きだった。
湖というより、水そのものが好きだった。
認めたくないが、水を司った一族の血が、彼にも流れているからだろう。
前世に比べたら、その内なる力は、全く微弱なものにはなっていたけれど。
第百十一話
川や湖、海…水瀬の描く絵は、水辺が入る事が多かった。
水ー特に湖に関わる事は、否応なく前世を思い出す。
だが、思い出したくない気持ちとは裏腹に、幼い頃から水は、水瀬を惹き付けて止まなかった。
自分が、水を司る力を持っていた一族の血を、確かに引いているのを実感する。
道を踏み外し、誤った力の使い方をした、腐敗と堕落にまみれ、狂信が支配した一族ー
たとえ、長の息子の愛する者であろうとも、湖の主の命(めい)ならば、唯々諾々と従い、生け贄に捧げようとしたー
思い出しても、憎しみと怒りが沸き上がる。
だが、どんなに忌み嫌おうとも、自分にもその“一族”の血は、流れているのだ。
水を見ていると、胸を締め付けられるような郷愁に駆られる。
水が、彼を呼ぶのだ。
自分の中の、一族の血が呼応する。
水瀬は、煩悶し葛藤し、苦悩した。
最終的に、彼を救ったのは、ソニアの言葉だった。
『俺には、あの腐った一族の血が流れている』
前世で、吐き捨てるように言った彼を、ソニアは真っ直ぐに、碧瑠璃(ラピスラズリ)の瞳で見つめた。
『どうして、血脈に拘るの?
貴方は全然、一族の人と同じ生き方なんかしていないのに』
ソニアの澄んだ瞳(め)が、闇のような黒水晶の瞳(め)を覗き込む。
『たとえ、一族の人と同じ血を引いていても、全く別個の人間よ。
貴方は、この世に一人しかいない』
それから、そっと呟いた。
『この世に、たった一人の私の愛する男性(ひと)ー』
水瀬は、ハッと目を覚ました。
いつの間にか、眠ってしまったらしい。
時刻は、真夜中の3時を回っている。
あれから、一気に作品を仕上げた水瀬は、集中して張り詰めた気が緩んで、そのまま眠ってしまったようだ。
水瀬は、椅子から立ち上がって、大きく伸びをした。
描き上げたばかりの絵を、もう一度じっくり見直す。
頭に描いた通りの色合いが出せたようだ。
水瀬は、満足そうに頷いて、椅子に腰を降ろした。
さっき、夢を見ていたようだー
そう、ソニアのー
『貴方は貴方よ』
胸の奥で、ソニアの声が木霊する。
同じ血を引いていても、自分は堕落した一族とは違う。
ソニアの言葉は、自分の心を軽くしてくれた。
あれから、水に惹かれる気持ちを、無理に抑えようとする葛藤は無くなった。
水を眺めていると、気持ちが穏やかになれる。
ソニアを失ってからは、尚更だった。
ソニアを失った絶望、哀しみ、怒りー
胸を引き裂かれそうな感情を、水が何もかも、くるんでくれるような気がした。
現実逃避でもいい。
水瀬には、それが必要だった。
そうでなければ、彼はズタズタに心を引き裂かれ、壊れてしまっただろう。
第百十二話
絵を描くようになったのは、現在(ここ)に生まれてからだった。
水のある風景を描く事も、水瀬の癒しになった。
美しい水の青を、紙の上にどうにか移し出そうと夢中になり、何もかも忘れられた。
ほんの一時の事ではあったけれど。
本当の意味での安息は、『彼女』を見つけない限り、訪れはしない。
誰よりも、水瀬の心がそう知っていた。
『貴方が誰であろうと、貴方自身を愛している』
ずっとずっと求めていた。
そう言ってくれる人間をー
“自分自身”を、無条件に愛してくれる女をー
周りに群がる一族の女は、“長の息子”に媚びたかっただけだ。
領主をも凌ぐ権力を持つ、一族の“次期長”の関心を引ければ、将来は約束されたようなものだ。
あわよくば妻の座に収まれれば、栄耀栄華に暮らせるー
そんな打算に満ちた思惑が、女達の間には飛び交っていた。
一族以外の人間は、畏怖と畏敬の目で自分を見た。
ほとんどの人間が恐れに震えながら、自分の前にひれ伏す。
お前は人間ではない、化け物だと、態度で語りながら。
そのくせ、その美貌には心動かされる。
前世でも水瀬は、際立った容姿をしていた。
無論、現世とは違う風貌だったが。
スラリとした長身に、絹糸のように艶やかな、漆黒の長い髪。
光の角度で透明にも見える、不思議な黒水晶のような瞳。
その美貌は、領地内だけでなく、その近隣にも広く知れ渡る程ー
彼を恐れている村娘でさえ、その姿を目の当たりにすると、頬を染めた。
それは逆に、彼の人間不信に輪をかけた。
人間(ひと)は、容姿(みてくれ)がよければ、化け物でも構わないらしい。
人の本質は、時が流れようと変わらないものらしい。
現世(いま)の自分の周囲も、前世(むかし)とたいして変わらないー
水瀬は、苦々しい微笑を浮かべた。
そんな周囲の反応に、冷たく美しい氷を思わせる外見同様、心も凍りつき閉ざされていく。
その冷ややかな、人を寄せ付けない美しさから、人々から“氷の魔性”と呼ばれた。
“氷の魔性”が聞いて呆れる。
唯、人に見えないものが見え、人に聞こえないものが聞こえただけだ。
他に何ができた訳でもない。
水瀬は再び、ほろ苦い微笑を浮かべた。
現世(いま)は、その程度の力さえ、ないに等しい。
一族は、その特性を活かし、自分達には、さも特別な力があるように振る舞った。
彼は、そんな一族を嫌い、一人孤立した。
頑なに心を閉ざした、そんな彼の前に、ソニアは現れた。
自分の全てを受け止め、受け入れてくれた娘ー
凍りついた心を、あっという間に溶かしてしまった、春の煌めく陽射しー
だが、その希望の光は、あっという間に奪われたー
水瀬は、苦し気に顔を歪めた。
第百十三話
目の前に、また緋色の幻影がちらつく。
闇の中から、差し伸べられる白い腕から、滴り落ちる真っ赤な雫ー
水瀬は、テーブルに手をかけると、そのまま膝を折った。
立っていられない。
呼吸(いき)が荒くなる。
幻だ。
あれは、邪神の毒気の残像ー
前世(かこ)の幻影ー
『彼女』は、現世(ここ)にいるー!
水瀬は、苑美の顔を思い浮かべた。
ソニアとは全く違う、あどけない面差しー
だが、それは何の違和感もなく、スゥッとソニアと重なった。
呼吸(いき)が楽になる。
水瀬は、大きく息を吐き出した。
額の汗を拭って、立ち上がる。
もう横になろうー
ちゃんと、眠った方がいい。
明日になれば、苑美が来る。
こんな不安定な頼りない思いも、消えてなくなるー
水瀬は、描き上げた絵に、バサリと布をかけると、アトリエを出た。
苑美は、辺りを見回しながら、抗議室の一番目立たない席に、恐る恐る腰を降ろした。
わざと、ギリギリの時間に来たせいか、香織の姿は見えない。
きっと、もうとうに席に着いているのだろう。
香織は、破天荒なようで、その辺の事はしっかりしているのだ。
席に着くと、すぐ講義が始まって、苑美は胸を撫で下ろした。
別に、香織が悪いんじゃないんだけど、今はあのテンションに付き合える気分じゃないものー
水瀬と、心は通い合っている。
そう信じているものの、何かもうひとつ、二人の間には、閉ざされたものがある。
水瀬だけが知っている何かがー
苑美は、もどかしいような、歯痒いような気持ちを、ずっと抱えている。
そんなもやもやした気分で、香織のパワフルなお喋りを聞く気にはなれなかった。
それに、詮索好きな香織は、きっとまた水瀬の話を持ち出すだろう。
苑美は、頭(かぶり)を振った。
卒業の為には、外せない講義なのだ。
今は、集中しなければ。
苑美は、雑念を振り払い、ノートを取り始めた。
滞りなく講義は終わり、苑美はそそくさと、身の回りを片付けると、ドアに向かって、足早に歩き出そうとした。
「あっれ〜、もう帰るの?」
背後から、明るい声が降ってきた。
苑美の背中が硬直する。
声の主は、勿論香織だ。
いつもの如く、大輪の花のような笑顔を浮かべている。
「え、ええ…あの、用事があって…」
苑美は、猫に捕まった鼠のような気持ちになった。
香織は、ますます艶やかに微笑する。
「ふう〜ん、水瀬さんとの用事があるのね?」
そこで、香織は苑美に顔を寄せて囁いた。
「実は、私もこれからデートなの」
え?!
苑美が驚いて、目を丸くしている姿も、目に入らないように、香織は見るからにウキウキしている。
「ウフフ、付き合い始めたばかりなの〜
その内、ちゃんと紹介するわ。
じゃあね」
第百十四話
香織は、ルンルン気分で、そのまま行きかけたが、途中でピタッと立ち止まると、ケータイを取り出し、クルリと振り向いた。
「写真だけ見せとくわね。
私のカレシ」
要するに、見せびらかしたいのねー
だが、見せられた写真に、苑美は思わず目をパチクリさせた。
写っていたのは、それは可愛い、天使のような少年…
そう、少年だ。
ブレザーの制服といい、どう見ても高校生にしか見えない。
「あ、あの…このカレシって…まさか…」
香織は、事も無げに、サラリといってのける。
「うん、まだ高校生なのよ。
18になったばっかだって。
初々しくて、可愛いでしょ〜?」
香織は、目尻を下げて、語尾にハートマークが10コはつきそうな位、甘〜いはしゃいだ声を出した。
「こ、高校生…」
苑美は、言葉が出てこない。
苑美の様子に、香織は眉を吊り上げた。
「なぁ〜にぃ〜?
今時、歳の差なんか関係ないでしょ!
アンタだって、随分離れてんじゃん」
だからって、女子大生が高校生の男のコ、ひっかけるって、問題だと思うんだけどー
逆ならともかくー
確かに、歳の差カップルなどゴマンといるが、男が上なのと女が上なのとでは、ニュアンスがまるで違う。
しかも相手が高校生では、香織がたぶらかしたと思われるのは、必至だろう。
香織の方は、苑美の様子などまるで気に止めず、時計に目を走らせた。
「ヤバイ、約束に遅れちゃう!
じゃ、水瀬さんによろしくね」
香織は、慌てた様子で、駆け去っていった。
そんな中でも、途中声をかける男子学生に、艶やかな笑みで、挨拶を返しながら。
「相変わらず、キレイだなあ」
男子学生は、ウットリ呟きながら、香織の立ち去る姿に見惚れている。
相変わらず、人を見て態度を使い分けるのが、上手い事ー
モデルより、女優の方が向いてるんじゃないしらー
香織の営業スマイルに、鼻の下を長くしている男子学生を、苑美は何だか、気の毒なような、滑稽なような思いで眺めながら考えた。
知らないって、幸せねー
自分にも、当てはまるのかもしれないー
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
自分は、知らない事を知ろうとして、今の幸福(しあわせ)を、壊してしまおうとしているのではないかー
自分がやろうとしている事は、結果的に全てを失う羽目にになってしまいはしないかー
苑美の心は、不安にかき乱れる。
その一方で、水瀬の口から、全てを知りたいと願う気持ちは、日増しに強くなる。
しかし、自分が、真実(ほんとう)の事を知ろうとする事で、水瀬との今の関係に亀裂が入ったらー?
そう思うと苑美は、心臓に氷をあてられたような思いがする。
第百十五話
それでもーそれでも知りたいのー
あの人を苦しめているのは、私なのよー!
それは、前々から感じていた、確信に近い思いだった。
苑美は、昨日の、血の気の失せた水瀬の顔を思い出す。
真っ青な死人のような顔色ー
全身は、汗でグッショリ濡れていた。
固く閉じられた瞳は、もう開かないのではないかと思った程ー
あんな、苦しそうな表情(かお)は、もう見たくない。
きっと水瀬は、苑美の知らないところで、何度もあんな発作のような症状を、起こしていたに違いない。
いや、おそらくそれは、苑美に出逢うずっと以前からー
苑美の胸は、キリキリと痛んだ。
たぶん、水瀬は自分からは決して話さない。
その事実が、苑美を苦しめるのが、解っているからー
苑美が、自分から聞き出すしかないのだ。
躊躇はあった。
戸惑いもある。
出過ぎた真似かもしれない。
余計な事だと、水瀬に拒絶される恐れも、拭いきれなかった。
それでも、苑美は真実(ほんとう)の事を知りたかった。
いや、知らなければならないのだ。
水瀬が隠し事をしているという事実(こと)が、いつか心を蝕んで、疑心暗鬼を作り出し、二人を引き裂いてしまうかもしれない。
何よりも、水瀬一人が苦しんでいる事が、苑美には耐えられなかった。
自分も真実を知る事で、水瀬の心の負担は、きっと軽くなる筈だ。
苑美は、意を決して歩き出した。
水瀬が目を覚ますと、もう陽は高く昇っていた。
昨夜は、真夜中過ぎまで、絵の仕上げをしていたので、思いの外、疲労が溜まっていたらしい。
軽くシャワーを浴びて、サッパリすると、水瀬はすぐアトリエに向かおうとしたが、思い直してリビングに向かった。
何か、腹に入れておいた方がいいなー
リビングに隣接したキッチンに向かうと、冷蔵庫を開ける。
食に余り関心のない、水瀬の冷蔵庫には、ほとんど食料が入っていない。
酒の肴にでもと買ったチーズや、何となく気紛れで買ったヨーグルト。
パンに塗るのに使うバター。
それに、水のボトルにビールが数本。
ウイスキー類を好む水瀬は、ビールは余り飲まない。
閑散とした水瀬の冷蔵庫を見たら、苑美は呆れて目を丸くしそうだ。
水瀬は苦笑しながら、ヨーグルトを取り出した。
それから、コーヒーを淹れる準備をする。
コーヒーは、昔から好きだった。
深い薫りは、心を落ち着かせてくれる。
仕事柄、自宅にいる事が多い水瀬は、いつしかコーヒーを自分で淹れるのを覚えた。
『彼女』を探し疲れたときも、よくコーヒーを淹れた。
コーヒーを淹れる行動自体が、心を落ち着かせてくれる。
自然、コーヒーを淹れる回数は多くなり、腕に磨きがかかった。
それを味わった者は、誰もいないが。
第百十六話
水瀬は、慣れた手つきで、手際よくコーヒーを淹れる準備を整えた。
食パンを取り出して、トースターに入れる。
辺りに、パンの焼けるいい匂いと、芳しいコーヒーの薫りが充満する。
水瀬はトーストとヨーグルトで、簡素な朝食を済ませた。
苑美が見たら、顔をしかめるだろう。
量も栄養も、全く足りていないと。
多くの男がそうであるように、水瀬も食事の内容には、全く注意を払わない。
好き嫌いがなくて、食に執着のない水瀬は、尚更そうだ。
不味くなくて、空腹を満たしてくれるものなら、何でもいいのだ。
水瀬にしてみれば、苑美と逢ってから、自分なりに、かなり摂生しているつもりだった。
以前は、朝食を抜くなど当たり前だったし、昼や夜も不規則で、食べたり食べなかったりが多かった。
自暴自棄になっていたのかもしれないなー
テーブルの上の、たっぷりコーヒーを注いだマグカップを、両手で抱え込むようにして、立ち上る湯気を見ながら、水瀬は思った。
画家という仕事のせいもあったが、それはほんの欠片(いちぶ)の理由に過ぎない。
探しても探しても、『彼女』を見つけられない。
絶望に蝕まれ、心がジワジワと死んでゆくような感覚。
もう自分など、どうなっても構わないという思いに、囚われていたのだろう。
水瀬はゆっくり、コーヒーを口に含んだ。
芳醇な薫りと舌を刺激するほろ苦さに、水瀬はふぅっと、満足の吐息が出る。
『彼女』を見つけられない、絶望的な日々の中、ほんの僅かな間とはいえ、コーヒーの薫りは、心が落ち着かせるのに役立ってくれた。
今は、以前のように、心を責め苛む苦痛はもうない。
探し求めたものは、今この手の中にある。
しかしー
芳しい薫りに、心地よく身を浸しながら、水瀬は微かに眉をひそめた。
漠然とーそう、心の中に漠然とした、形を成さない不安が消えない。
水瀬は、無理にその思いを振り払った。
考え過ぎだ。
また、『彼女』を失うのではないかという恐れが、不安を引き寄せているのだ。
水瀬は熱い液体を、一息に喉に流し込んだ。
不安を降り切るように、勢いよく、カチャン!とテーブルにカップを置く。
苑美が来たら、出してみようかー
水瀬は、残ったコーヒーを保存しながら、我知らず微笑んだ。
暇に任せて、あるいは心の虚しさや空白を埋める為に、水瀬が自分でコーヒーを淹れた回数は、決して少なくない。
喫茶店のコーヒーにも、味は劣らないだろう気がする。
そんな自信付いても、仕方ないんだがな。
水瀬は苦笑した。
苑美の部屋に、確かインスタントコーヒーが置いてあった。
コーヒーが嫌いではない筈だ。
第百十七話
水瀬が時計に目をやると、時刻は午前11時近く。
苑美は何時に来るだろうか?
ふと気付いて、ケータイを見ると、苑美からメールが入っている。
朝食の準備の音に紛れて、着信音を聞き逃したらしい。
急いでメールを開くと、講義を受けてから行くので、午後になる旨が記してあった。
午後からかー
水瀬は、待ち遠しいような焦れったいような感覚を感じながら、メールを閉じた。
唯、待っているだけというのは、ヤケに時間が長い。
水瀬は、椅子に寄り掛かって目を閉じたが、すぐ目を開いて立ち上がった。
何もしないで、ボンヤリしていると、何か不安な気持ちになる。
うっかり居眠りでもしたら、またあの悪夢の中に引きずり込まれてしまうのではないかー
水瀬は、アトリエに上がっていった。
苑美が来るまでの間、描き上げた作品を、もう一度チェックするつもりだった。
それでも、時間が余るようなら、他の作品に手をつければいい。
昨日仕上げた作品を、日の光の中で、入念にチェックする。
水瀬の得意な風景画だ。
緑の木々の間に、湖が青い水を湛えている。
昨夜、一気に仕上げた作品は、満足する出来ではあったが、光の中だとまた感じが違って見える。
水瀬は、あちこちに手を加え出し、それに没頭した。
色を足したり、濃くしたり薄くしたり、いろいろ手を加え、作品をマジマジと眺めた水瀬は、漸く満足して筆を置いた。
時計を見ると、既に午後1時を回っている。
手直しを繰り返しているいる内に、思ったより時間を食ったようだ。
そろそろ、苑美が来るだろうか?
そう思うと、期待に胸が膨らむ。
こんな風に、ワクワクするような、胸が踊るような気持ちに、心が高揚するのは、いったいどれ位ぶりだろう。
それこそ、ソニアとの逢瀬に胸を焦がした、あの時代(とき)以来だろうか。
ソニアー
仕上げた絵を、日が当たらない場所に移す、水瀬の手が止まった。
視線の先に、布に包まれたソニアの肖像画があるー
水瀬は、表情(かお)を曇らせた。
ハラリ、と掛けられた布が落とされる。
下から、輝くばかりに美しいソニアの姿が現れた。
「ソニアー」
水瀬は指で、ソニアの輪郭をなぞった。
脳裏に焼き付いたソニアの姿を、水瀬がカンバスにそのまま映し出したものー
『彼女』を見つけ出せない、失意の水瀬の支えになってくれた、『彼女』(ソニア)の肖像画。
水瀬にとって、大切なものだった。
だがー
「…処分しなければなるまいな…」
水瀬は、肖像画に手をかけて目を閉じた。
深い溜め息が漏れる。
苑美は、ソニアの事には過敏になっている。
この肖像画はあるだけで、苑美を苦しめてしまう。
第百十八話
ソニアの面影を、処分するのは辛かったが、苑美の為なら仕方がない。
苑美には、解らないのだ。
ソニアが『彼女自分』だという事がー
生身の『彼女』に比べたら、肖像画など、唯の残像ー“絵”に過ぎない。
水瀬にとって、今一番大切なのは、苑美なのだ。
無言で肖像画を見つめていた水瀬は、顔を上げると瞳(め)を閉じた。
やがて瞳(め)を開けた、水瀬の表情(かお)に決意が宿っている。
どうせ、処分しなければならないなら、自分の手でー
絵にかけた水瀬の手に、力が籠る。
苑美は、やっと水瀬の家に辿り着いた。
ホントに、どうしてこんなに遠いのかしらー
苑美は溜め息を吐いた。
水瀬の家は、前にも記したように、まるで山の中の一軒屋のようだ。
隣家からも、遠く離れている。
隠遁生活でもしたいのか、疑いたくなる位だ。
しかも、途中からは一本道になるのだが、そこに辿り着くまでが、幾つもルートがあって、方向音痴の苑美には、まるで迷路のようだった。
漸く、家を見渡せる位置まで来ると、苑美は立ち止まって安堵の息を吐き、額にうっすらかいた汗を拭った。
静生さん、在宅(いる)かしらー?
苑美は、バッグを探って、渡された鍵を取り出した。
自分がいなくても、勝手に入って構わない。
水瀬はそう言った。
苑美だけに、与えられた特権。
鍵はその証明のように、燦然と輝いて見えた。
手の中の鍵の存在に、自ずと笑みがこぼれる。
鍵を握りしめて、玄関に向かって歩き出そうとした苑美は、庭の方から煙が上がっているのに気付いた。
何かしら?
まさかー火事?!
苑美は、慌てて駆け寄って庭を覗いた。
庭には水瀬がいた。
足元で、パチパチと火がはぜている。
何だ、静生さんが焚き火をしてたのねー
ゴミでも燃やしてるのかしら?
苑美は、ホッとしたが、何となく解せないものがあった。
水瀬は、手に持ったものを、ジッと見つめている。
あれはー絵だろうか?
苑美は、ハッと息を呑んだ。
あれはー
ソニアさんの肖像画ー!
胸にズキリと痛みが走り、苑美は思わず目を背けた。
ソニアの事には、どうしても平気になれない。
でも…待って?
どうして、ソニアさんの肖像画(え)を、こんな外(ところ)へ持ち出しているの?
何か不穏な空気を感じ取って、苑美は水瀬を振り返った。
水瀬は、肖像画(え)を火にくべようとしているところだった。
「ダメー!!」
苑美は、思わず叫んで、転がるように駆け寄った。
夢中で、燃える火の中から、素手で肖像画を抱え出す。
その手から、乱暴に肖像画が払い除けられた。
両の手首を、グイと掴まれ、強い力で引き寄せられる。
第百十九話
「バカ、何て事するんだ!!」
水瀬の怒声が響いた。
血相が変わっている。
「火傷は?!」
水瀬は有無を言わせず、、引き寄せた苑美のブラウスの袖を捲り上げ、腕や手を子細に調べた。
特にこれといった火傷もなく、ブラウスが汚れて、生地が多少炙られた感がある位なのが解ると、
水瀬は漸く、肩から力が抜けた。
「よかったー」
苑美の肩を掴んだまま、水瀬は、フゥッと安堵の息を吐くと、目を閉じた。
ホッとすると同時に、苑美の無茶な行動に、怒りが湧いてくる。
「全く何て無茶な事をー
火の中に手を突っ込むなんて!」
水瀬は、険しい顔つきになると、苑美を睨んだ。
肩を掴む手に力が籠り、つい声が荒々しくなる。
「だって…」
水瀬の激しい口調に、苑美は思わずたじろいだ。
その真剣な表情が強く胸を打つ。
痛い程強く、掴まれた肩から、水瀬が自分を案じる思いが、痛い程伝わってくる。
苑美は、項垂れて目を伏せ、小さな声で呟いた。
「ごめんなさい…
でも…」
苑美は、水瀬から目を逸らし、チラリと横を見た。
視線の先には、ソニアの肖像画がある。
それに気付いた、水瀬の手が緩む。
苑美は、スルリと水瀬の手から抜け出ると、肖像画を拾い上げ、汚れを払った。
肖像画は、火にくべられたり、地面に落とされたりしたのに、驚く程無傷だった。
肖像画の中のソニアは、艶然と微笑んでいる。
美しいソニアの姿ー
妬ましい程だ。
水瀬の大切な恋人(ひと)ーなのにー
「どうして…燃やそうなんて…」
苑美の物問いたげな瞳が、水瀬の瞳(め)を捉える。
苑美の、鳶色の大きな瞳で見つめられると、水瀬はいつも、全身が疼くような感覚に襲われる。
精神的にも、肉体的にもー
「あなたにとって、肖像画(これ)は、何よりも大切なものの筈だわ。
なのに、どうして?」
苑美は肖像画を抱えたまま、水瀬から視線を逸らさない。
ソニアの碧瑠璃(ラピスラズリ)の瞳とは、似ても似つかない苑美の瞳ー
なのに、同じ感覚が水瀬の全てを支配する。
「どうしてって…
お前が嫌がっていたから…」
水瀬の呟くような言葉に、苑美の瞳(め)が、大きく見開かれた。
「私…の為…?」
私の為に、この絵を燃やそうとしたのー?
苑美の胸に、熱いものが
込み上げる。
水瀬がどれ程、ソニアを愛していたか、苑美は痛い程知っている。
ソニアを愛していた分、その肖像画が、彼にとってどれだけ大切なものかもー
そして、苑美がその事で、激しい葛藤を抱えている事を、水瀬は知っていたのだ。
だから、肖像画を燃やそうとまでしたのだ。
自分の為にー
第百二十話
私は、この人に愛されているー
水瀬が聞いたら、余りに今更で、呆れて笑い出しそうだが、自分に強い劣等感(コンプレックス)のある苑美には、今一つ実感が湧かなかったのだ。
水瀬の気持ちを疑った事はない。
だが、ソニアに比べて、どれだけ愛されているのかー
苑美には、自信がなかった。
その不安は棘になって、絶えず苑美の胸を、チクチク刺した。
だが、水瀬は苑美の為に、ソニアの肖像画を燃やそうとまでしてくれたー
苑美の瞳(め)から、涙がこぼれ落ちる。
涙は、後から後から溢れて止まらなかった。
「苑美ー」
苑美は、肖像画を抱きしめて、強く頭(かぶり)を振った。
流れる涙が、心の痼(しこり)の一つを、洗い流してゆく。
「いいの、燃やさなくていいのー
そんな事しなくていいー」
肖像画を燃やそうと、そう決断した、水瀬の気持ちが嬉しかった。
それだけで、もう十分だ。
本当にそんな事をしたら、水瀬は後悔に苦しめられるだろう。
それにー
苑美の中にも、ソニアの肖像画を、燃やしてはいけないような思いがあった。
何故なのか、苑美自身にも解らないが。
今は唯、涙が溢れて止まらない。
水瀬は、苑美を肖像画ごと抱きしめた。
水瀬の腕に抱かれていると、苑美の波立った心が、次第に凪いでゆくー
何だろうー
静生さんはいつも、いい匂いがする。
香料なんかじゃなくて、もっと自然な…清々しい匂いー
苑美は目を閉じて、その心地よい匂いの中に、身を委ねた。
どれ位、そうしていたのだろう。
水瀬は、身体に感じる風が、冷たくなったのを感じた。
気付くと、かなり日が傾き始めている。
今の時期は、日中は暖かくても、午後になって日が翳ってくると、急に気温が下がって、冷えてくる。
「屋内(なか)に入ろう」
水瀬は、苑美に囁くと、肩を抱き寄せて、家の中へと促した。
苑美はだいぶ、気持ちが落ち着いたようだ。
涙も治まったようで、水瀬はホッとした。
苑美に泣かれると、どうしていいか解らない。
苑美には、今一つ解っていないようだが、水瀬にとって、他の女とは全く違うのだ。
苑美をソファーに座らせると、水瀬はコーヒーを注いで出した。
芳醇な薫りが、部屋中に広がる。
更に気持ちを落ち着かせてくれる筈だ。
「いい薫りー!」
案の定、苑美が目を輝かせた。
ミルクに砂糖をたっぷり入れる。
これも、水瀬の予想通り。
苑美のイメージにピッタリ過ぎて、水瀬は、口元が綻ぶのを抑えられなかった。
苑美に見られたら、また膨れっ面になりそうなので、水瀬は慌てて、カップを口元に持っていった。
第百二十一話
ミルクも砂糖も、苑美の為に揃えたものだ。
水瀬自身は、ブラックなので必要ない。
「美味しいー!」
一口飲んで、苑美は目を丸くした。
思わず口をついて出た素直な賛辞に、水瀬も自然に笑顔になる。
「そうか、よかった」
苑美は、コーヒーをすすりながら、至福の溜め息を吐いた。
薫り高くほろ苦いコーヒーが、舌と鼻を刺激して、張り詰めた神経が、ゆるりとほぐれてゆく気がした。
お世辞抜きで、水瀬の淹れたコーヒーは美味しかった。
喫茶店で出されたものと、遜色ない。
いや、それ以上かもしれない。
いつも飲んでる、インスタントコーヒーとは、大違いだわ。
当たり前だけどー
「これなら、喫茶店のマスターにだってなれるわ。
ホントに美味しい」
水瀬の意外な才能に、苑美は感心しきりだ。
こう手放しで誉められると、くすぐったい気分になる。
「ー単なる暇潰しで、覚えただけだ」
苑美は、コーヒーを飲む手を一瞬止めた。
その口調に、何か別の意味があるように感じて、水瀬の顔を見直す。
そうー
時間は有り余る程あった。
絵(しごと)に没頭しながら、身体が空けば、あてもなく『彼女』を探して彷徨う日々が続いた。
それでも、何かに時間を費やしている分にはよかった。
ふっと空いた時間には、空虚さが襲ってきて、そんな心の隙に、悪夢は忍び込み、血に染んだ緋色の迷宮に囚われるー
水瀬は、心を蝕む虚しさや、緋色の悪夢から逃れたくて、何かしないでは、いられなかった。
結果、必要なくてもコーヒーを淹れる回数が増えた。
数え切れない程ー
上手くなって当たり前だなー
水瀬が苦笑いしている間に、苑美はコーヒーを飲み干していた。
両手でカップを握りしめて、満足そうに吐息を漏らす。
「落ち着いたみたいだな」
水瀬に声をかけられて、苑美は赤くなった。
さっき、自分が取り乱した姿を思い出したのだろう。
そんな姿を可愛いと思うと同時に、肉体(からだ)の一部が反応する。
水瀬は、自分に舌打ちした。
全く、男の肉体(からだ)というヤツは、単純この上なくできている。
おめでたい位だ。
勿論、誰にでもこんな反応をする訳ではない。
苑美にだけだ。
水瀬が、何となく居心地悪そうなのを感じたのか、苑美が顔を上げた。
目と目がパチッと合って、水瀬は内心うろたえた。
欲望が、ますます膨れ上がるのが解る。
水瀬は、そんな事はおくびにも出さず、表面は冷静さを保っていたが、苑美は何となく不思議そうな瞳(め)の色だ。
「もう一杯飲むか?」
自分の状態を誤魔化したくて、水瀬はさりげなく、苑美に声をかけた。
第百二十二話
そう言われて、空っぽのカップを見ながら、苑美は迷った。
この美味しいコーヒーを、もう一杯飲むというのは、抗い難い誘惑だった。
でも、眠れなくなるかもー
カフェインの効力というのは、広く世間に知られているし、科学で証明もされている。
体質も関係するのだろうが、潜在意識も強く影響するのではないかー
とどのつまりが、コーヒーを飲んで眠れなくなった事実が、苑美には多々あったという事だ。
「苑美?」
悩んでいる苑美を、今度は水瀬が、不思議そうな瞳(め)で見ている。
静生さんは、コーヒーで眠れなくなったりしないのかしら?
視線を水瀬に移した苑美は、その背後が目に入ってハッとした。
ソニアの肖像画が、何気なく、壁に立て掛けてある…
「やっぱり、もう一杯飲みたいわ」
ソニアの肖像画ー
燃やすのを阻止したものの、やはり直に見ると、思いは複雑だった。
だが、それよりもソニアの肖像画を見た瞬間、苑美はあの夢を思い出したのだ。
セオと呼ばれる若者と、ソニアの恋物語ー
おそらくは、悲劇に終わったであろう二人の恋ー
それに、水瀬がどう絡んで、どう交錯(クロス)しているのかー
苑美は、水瀬に直接聞く決心をしてきた。
どんな真実でも、しっかりと受け止めたい。
その為にも、頭をハッキリさせておきたいー
水瀬が、話すのを拒む場合も考えられる。
いずれの場合にしても、冷静さを欠いて、動揺するだけの事態にしたくない。
その為には、今、心を落ち着かせておく必要がある。
コーヒーの力を借りて、気持ちを鎮めたかった。
水瀬が何となく、訝しげな顔をしながら、注いでくれたコーヒーを、苑美は口に含んだ。
芳醇な味わいが、口の中いっぱいに広がる。
こんな場合だというのに、やはりコーヒーは美味しかった。
苑美は思わず、小さな吐息を漏らす。
そんな苑美の様子を、子細に見ながら、水瀬は微かに眉をひそめた。
何だか、様子がおかしい気がする。
心に、何か屈託があるようなー
自分も、二杯目のコーヒーを口に運びながら、水瀬はチラと、ソニアの肖像画に目を走らせた。
やはり、肖像画(あれ)のせいだろうか?
苑美が、ソニアの肖像画を庇うとは、思ってもみなかった。
しかも、火の中に自分の腕を突っ込んでまでー
あんなに、ソニアを嫌っていたのに。
今になって、それを後悔しているのだろうか?
考えながら、水瀬は密かに溜め息を吐いた。
前世(むかし)も現世(いま)も、女心は計り難しー
複雑怪奇なものだ。
二人とも、黙りこくってコーヒーを飲んでいる。
日はすっかり傾いて、目映い陽射しは遠退き、薄暗くなってきた感がある。
苑美は、コーヒーを飲み干したカップを、テーブルに置いた。
暫く、黙ったまま目を伏せていたが、やがて決心したように顔を上げた。
第百二十三話
「私…聞きたい事があるの」
苑美の真剣な口調に、水瀬の黒曜石のような瞳が、訝しげに一瞬キラリと光った。
話を切り出したものの、何をどう聞けばいいのか、まとまらない。
「…セオって誰?」
漸く、口から出た言葉は、それだった。
カシャーン
水瀬の手から、カップが滑り落ちて、床で割れる音が響き渡る。
「何処で、その名前を?!」
水瀬の鋭い声が飛び、指が食い込む程強く、苑美の両肩を掴んだ。
水瀬の顔色は変わっている。
驚く程真剣で厳しいー切迫感さえ感じさせる表情だ。
セオという名前は、間違いなく水瀬が隠している真実(こと)の、核心を突いたのだ。
苑美は、肩に食い込む指の痛みに、思わず顔をしかめた。
水瀬がそれに気付いて、ハッと身を引く。
「すまない、ついー」
苑美は、水瀬の指が食い込んだ部分を、自分の手で押さえてさすった。
きっと痣になるに違いない。
「やっぱり…知ってるのね」
苑美は、真っ直ぐに水瀬を見た。
水瀬は、たじろいだように、目を逸らす。
水瀬の冷めた仮面を剥ぎ取り、我を忘れさせる程の力を、彼(セオ)は持っているー
「私…夢で見たの。
セオという人と、ソニアさんの夢…何度も見たわ」
水瀬は、呆然と目を見張って、鸚鵡返しに繰り返す。
「夢ー?
セオとソニアの夢だってー?」
何故、前世の記憶のない筈の苑美が、そんな夢をー
魂(こころ)の奥底に、深く眠っている記憶が、何かの刺激で浮かび上がるのだろうかー
『彼女(ソニア)』が、夢を見せているのか?
『セオ』を知っている以上、それが唯の夢である筈がなかった。
動揺を隠せない水瀬を、苑美が見上げる。
「ソニアさんは、あなたの恋人でしょう?
なのに、夢の中ではセオという人と恋人同士だった」
二人が愛し合っているのは、誰が見ても明白な事実だった。
日の光に輝く紺碧の海のように、キラキラと輝いていたソニアの瞳が忘れられない。
「お願い、全部話して。
一人で苦しまないで」
苑美の鳶色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
頬に触れられて、水瀬はビクリと身体を震わせた。
ああ、この瞳ー
ソニアと同じ瞳だー
色も見た目も全く違うのに、『彼女』に見つめられると、胸が疼くー
水瀬の心は、激しく乱れ、揺れ動いた。
全てを打ち明けてしまいたい。
お前は、ソニアなのだと告げて、『彼女』を思いきり抱きしめたい。
けれど、一方で心の声が引き止める。
打ち明けて、信じてもらえなかったらどうする?
自分を気味悪がって、離れていってしまったらー
苑美は普通の娘だ。
オカルト好きな人間でもなければ、輪廻転生など素直に信じないだろう。
第百二十四話
苑美は、固唾を呑んで、水瀬の答を待った。
水瀬の心の中で、激しい葛藤が起こっているのが、触れている部分から、苑美に伝わってくる。
「ー言っても、お前は信じない」
苑美から目を逸らしたまま、水瀬は呟いた。
その苦悩と悲哀を含んだ声が、苑美の胸を刺す。
「聞かなければ解らない。
あなたが、何を苦しんでるのか知りたいのー!
教えて」
苑美の瞳(め)から、また大粒の涙がこぼれ落ちる。
「何も知らないままは嫌なの…!
解るの。
どんな理由かは解らないけど、私のせいで苦しんでるんでしょう?」
苑美の指が、水瀬のシャツを握りしめる。
水瀬は、驚いて苑美を見直した。
敏感な苑美は、唯の無邪気で無垢な花ではない。
水瀬の苦しみの根底が、自分にある事を、感じ取っていたのだ。
原因が自分にある事を、苑美は知っているー
このまま、黙っていた方がいいのかもしれないと、そう思っていたが、それは苑美を、余計に苦しめるー
セオの存在を知っている以上、夢の内容は苑美を悩ませ続けるだろう。
緋色の迷宮