NEVER

 あと、どれくらいだろうか……。
 ふと、そう思う事がある。いつからだったか、確かな記憶はない。
 三十分程で書いた詩をサイトに投稿し、コンピュータの電源を落とした。
 詩を書き始めたのは、二年ほど前からだ。僕が二年も詩を書き続けてきたなんて信じられなかったが、データは嘘をつかない。
 シャワーを浴びて、ベッドに潜った。(このまま、どこまで行くのだろうか……)言い様のない不安が、彼の頭上に駐在していた。

 目が覚めると、窓の外は白銀の色をしていた。時計を見ると、六時半。アラームよりも先に目覚めてしまったらしい。冬の朝のこの色が、彼は好きだった。けれど、寒いのは苦手なので、もうしばらくベッドに入っていようと思った。
 アラームが鳴ったので、ベッドから出る。顔を洗って、歯を磨く。寝ぐせが付いていたが、一撫でで直ってくれた。トーストとベーコンッグを作り、コーヒーを淹れる。
 朝食は昼食や夕食に比べて、温かさによる恩恵が格段に違うというのが、僕の持論だ。他にも、朝の一分は他の時間に比べて貴重なものだと信じていた。
 スタートが良ければ、幸先も良いという事だろうか。確かに、冷めた朝食や、陰惨なニュースから始まる一日が、良い一日になるイメージは湧かない。めったにテレビを観ない僕にとって、ニュースなんて無縁だけれど。
そんなどうでもいい事を考えている内、出かける時間になった。

 彼女はもう待ち合わせ場所に居た。厚手のコートに、ロングスカートという、いかにも彼女らしい服装だった。
「おはよう。早いね」手を挙げて、挨拶する。
「ああ、貴(たか)悠(ひさ)くん、おはよう」彼女は微笑む。「また会ってくれて嬉しいな」
「お互い様だよ」僕は相槌を打つ。
 自分で言ってから、何がお互い様なのだろう。と思ったが、あまり深く考えない事にした。
 特に行くあても無く、僕らは歩き始めた。彼女が先に歩き出すというのが、僕らの間での、所謂暗黙のルールであった。僕はそれに着いていく。そしてしばらく歩いてから、喫茶店に立ち寄るか、公園に入る。
 僕は彼女の名前を知らない。彼女もまた、僕の名前を知らない。貴悠というのは、詩を投稿する際に使っているペンネームだ。僕は彼女の事を、Rさんと呼んでいる。これもまた、ペンネーム。
 僕より少し前を歩く彼女の歩調は、僕の普段のものよりずっと緩やかだ。彼女は何も言わないが、僕が彼女から離れてしまっても、彼女は僕を追ったりはしないだろう。そして、連絡し合う事も無くなる。僕らのささやかな依存関係は、精巧なガラス細工のように繊細だ。
 僕らは十分間ほど歩いてから、適当な喫茶店に入った。彼女が好きそうな、洋風の意匠が凝らされた店だった。空いていた窓側のテーブル席に座る。ウェイトレスがやってくる。
「ホットコーヒーをふたつ、お願いします」彼女が言った。
「ホットコーヒーをふたつですね、かしこまりました」
 そう言って、ウェイトレスは、そそくさと帰って行った。
「昨日の詩、読んだよ」 彼女が楽しそうに言う。
「え、もう?」僕は驚いてしまった。「昨日投稿したばかりだよ?」
「待ってる間、暇だったからね」冗談っぽく彼女が言う。
「ああ、ごめん。いつも早いよね、Rさん」
「他にする事も無いからね」あははー、と困ったように笑う。「今回の詩も良かったよ」
「ありがとう」
 彼女は目を閉じて、息を整えている。これが彼女の癖だと気付いたのは、前会った時だ。しばらく沈黙が流れた。彼女がそれを破る。
「……ねえ、貴悠くん……。貴悠くんは本当に、あの人じゃないの?」
 確かめるように、彼女が言う。彼女は僕に会うと、必ずこの質問をする。僕には「あの人」と言うのが誰かも解らないし、彼女とは、こうして会うようになる前に会っていた事は無い。
「違うよ」
「……ああ、そうよね、やっぱり……。解ってるんだけどね、つい訊きたくなっちゃって……」
 悲しそうに彼女が笑うので、いつも僕は困ってしまう。僕にとってこの人は赤の他人だけれど、彼女にとって僕は、赤の他人以上の存在なのかもしれない。いや、そう思いたいだけなのかもしれない。どちらにせよ、彼女の純粋な言葉を、何も知らない僕が否定してしまうのは、傲慢のように思えた。
「あなたの書く詩も、顔も、仕草も、そっくりだから……。もう、駄目だね、私。こんな話しても仕方無いって、思ってるのに……」
 彼女の儚い悲哀に惹かれている自分が居る事に、僕は気付き始めていた。それは、僕も彼女と同じだからなのか……。いや、彼女は「あの人」に向かって、一途に恋をしている。人の悲しい美徳。僕と言う代理人を求める程、彼女は「あの人」に焦がれている。それに比べて僕は……。
「おまたせいたしました。ホットコーヒーでございます」
 思考が散漫している。僕は……。僕は何がしたいんだろう? 何故今、ここに居るんだろう? 他に、しなければいけない事があるんじゃないか……。何か……。
「あ、ありがとうございます」
 彼女が慌てて言う。彼女は、いつも、優しそうに声を出す。優しくなりたいのだろうか。それとも、優しい言葉でないと、彼女の心が保てないのだろうか。どちらであっても、共感出来るな。と、僕は思った。
「ねえ、怒った?」僕がずっと黙っているからか、彼女が訊いてきた。
「怒ってないよ」
「そう……。やっぱり優しいね、貴悠くん」
「優しくないよ」
「……やっぱり優しいよ」彼女は微笑んで言った。
 突然、衝撃を受けた。けれど、何からか解らない。落ち着いて、感覚を研ぎ澄ませる。
 店内に流れる歌だ。聞き覚えのある歌声だった。いや、間違いない……。
「ねえ、この歌、歌ってる人知ってる?」気が急いて、早口になってしまった。
「え? ……あぁ、SOLITUDEでしょ? いいよね」
「シンガーソングライター?」
「そうだよ、女性ボーカルの……って、聞いたら分かるね、はは」
「いつから活動し始めたの?」
「うーん、そうだなぁ、一、二年くらい前からかな? 最近では、テレビにも出てるよ」
「そうなんだ……」
 心臓に鎖を巻かれた気分だった。身体から、意識が遠のいていく。自分の手が、まるで彫刻のようだ。
 あぁ、僕は、もう抜け出せないのだろうか。目の前にいるこの人と共に、どこまでも堕ちていけたら、まだ幸せだろうか……。この人は、どう思うだろう。僕を救ってくれるだろうか。
 何もかも、怖くなっていった。手が出せない。僕には届かない。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」彼女が心配した様子で、僕の顔を覗き込む。
「え? あ、あぁ、大丈夫。ちょっと、びっくりしただけ……」心臓の鼓動が重い。
「SOLITUDEがどうかしたの?」
「その、SOLITUDEって、多分、僕のよく知ってる人だよ。昔ずっと一緒に居た人……」
「嘘……。……へぇ、そうなんだ、びっくりだねぇ」
「その人の口癖はね、『君は君にしかなれないんだよ』だったんだ。『だから、何者かになろうとしてはいけない』って。何というか……、割り切って生きている人だった。だからいつも、誰よりも早く、先へ行ってた。そんな姿が好きだったんだけどね」
「? けど?」
「けど、それに着いていく事は出来なかった。気付けば、僕は弱い自分を守るために、その姿を否定し始めていた。青かったんだね、まだ……」
 今も青いけど。と、苦笑しながら言った。ふと我に返って、話し過ぎたと思った。
「その人に……未練があるの?」
 彼女があまりにもあっさり言うものだから、驚いてしまった。けれど、彼女ならそう思って当然かな。と、後で思った。
「……そうかもね。そうなんだと思う」諦めの混じった声だった。
「なら、追いかけるべきだよ」
「いや、もういいんだ。もういい」
「良くないよ。君は、私とは違うんだから」
「一緒だよ。僕だって。君に依存してるんだ」
 駄目だ。また弱い自分を守ろうと、卑怯になってる。
「一緒じゃないよ。貴悠くんは、優しいから……」泣きそうな声で、彼女が言う。「じゃあ、私、今日は帰るね。元気でね」
「え? まだ会ったばかり……」
 僕の声も聞かず、彼女は代金を払いに行った。それから、黙ってドアを開けて、外へ出て行った。
 彼女は、もう僕とは会わないつもりだろう。そう思えた。彼女は自分に負い目を感じているんだ。だから……。
 駄目だ、こんなんじゃ……。また傷が出来る。傷を与えてしまう。彼女は優しいから……。
 何してるんだ!
 僕は、店を出る。彼女を追いかける。駅の方に向かったに違いない。まだ間に合うだろうとは思ったが、時間とともに胸に不安が募っていく。
 彼女がいた。なんと言えばいいのだろう。言うべき言葉、最後の……。
 彼女も僕に気付き、振り向いた。
 目が合った。もう、会う事は出来ないと、予感が確信になった。
「「ありがとう」」
 彼女は涙で瞳を輝かせながら、僕に最初で最後のキスをした。

NEVER

ありがとうございました。

NEVER

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-29

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