幕末異聞録3 ~歴史への挑戦者~ 黄塵万丈編
仲間が窮地にある時、貴方ならいかなる決断を下しますか?
この問いを考えながら読んでいただければ、作者としては幸いです。
登場人物紹介
登場人物紹介
・直江三成
現代からタイムスリップしてきた高校生。豊富な知識と冷静さを武器に、同志と共に激動の歴史に挑戦を挑む。軍師として慶喜を補佐しつつ、幕府歩兵奉行として暗躍する。
・一橋(徳川)慶喜
経世済民の志を胸に秘めた伏龍。三成を中心とした仲間たちに全幅の信頼を置き、その理想の実現のために邁進する。将軍後見職として、京で朝廷や尊攘派対策に当たっている。
・平岡円四郎
三成と並ぶ慶喜の側近。慶喜の雑務を手伝う一方で、三成の軍事・政治活動を補佐して裏の仕事も共にこなす。仲間たちからの信頼も厚い、姉御肌の女性。
・松平容保
会津藩主にして生粋の佐幕派。京都守護職として京の治安維持に当たり、仲間たちから全幅の信頼を置かれている。 三成に好意を寄せており、公私共に協力を惜しまない。
・土方歳三
新撰組『鬼の副長』。厳しさと優しさを併せ持った女傑で、和泉守兼定を使い新撰組として、武士として行動する。三成とは互いを深く知り合い、信頼し合う程の仲。
・松平慶永
越前福井藩主で、慶喜と三成の最大の理解者。政治総裁として、江戸で幕府の改革を進めつつ幕閣の動きを抑え、二人と仲間たちの活動を後方から全力で支援する。
・松平定敬
桑名藩主にして容保の実の妹。姉同様に生粋の佐幕派で、三成を兄の様に慕っている。
・久坂玄瑞
長州藩の藩士にして、同藩きっての切れ者。尊攘過激派の指導者で、恐ろしい程の自信家。尊攘過激派を率いて、慶喜と三成に戦いを挑む。
胎動する天下
胎動する天下
『乾杯!』
それぞれが手にした盃を掲げ、ほぼ同時に盃を空にする。
その場にいる誰の顔にも、大仕事をやりきった事への満足感と充実感が満ち溢れている。
「無事、上様の上洛も終わりました」
三成は落ち着いた様子で、
「これで、まずは一安心ですね・・・・・・」
円四郎は相変わらず単純に、
「しかし、我々の役目は、まだ終わってなどいない。むしろ、これからいよいよ我々の本来の仕事が始まる。我々の仕事はこれまでにもまして忙しくなるぞ、平岡殿」
そして容保は、すかさずそれに釘をさす。
三者三様の異なる態度だったが、それらはどこか微笑ましい。傍から見ている私自身も、この光景には胸が温まるものを感じる。それは多忙のため、私が久しく感じていないものだった。
そのためか、非常に心地よく感じる。
容保からの鋭い視線を向けられ、さしもの円四郎も先程までとは態度を改める。
改めたとは言っても、少しばかり態度がましになっただけで、極端に改めたわけではない。本当に、申し訳と言った程度に態度を改めただけに過ぎない。しかし、細やかでこそあるものの宴の席であり、そう細かく指摘する者はいない。
「そ、それくらいの事は、いくら私でも分かってますよ~~、容保様」
細かく指摘する者はいないものの、容保を前にしてはさしもの円四郎も形無しだ。
その証拠に、円四郎は顔に脂汗を浮かべつつ、目を逸らし、作り笑いをして、誤魔化そうとしている。
だが、そうは問屋がおろしはしない。
なし崩しは世の常。
「貴女だから言われるのですよ、円四郎」
俺も、容保の忠告を全面的に支持する。
容保と俺の二人から釘を刺され、さしもの円四郎も、満座で小さくなっている。豪放磊落を絵に描いた様な、姉御肌の円四郎にとっては、その対象に位置する俺たちにこうまで言われては、小さくなるしかないのだろう。
(円四郎にとっては、いい薬になるだろう)
しかし、その状態もすぐに終わり、一同は酒を酌み交わしつつ、互いにその苦労を労い合った。
(しかし、確かにこれで一安心だ)
円四郎を注意した手前、声にこそ出しはしなかったが・・・・・・。
杯を傾けながら、俺も多少はそう思わずにはいられなかった。
将軍徳川家茂公の上洛は、京都守護職や京都所司代、伏見奉行所、一橋慶喜麾下の葵隊、そして壬生浪士組等の密接な連携による厳戒な警備体制の下で実施された。その厳戒な警備体制は鼠一匹、蟻一匹通さない程の厳重さであり、徳川の長い歴史上に類がない程のものであった。それは裏を返せば将軍の、徳川幕府の権威の衰えを示すものだった。
事実、将軍上洛の影では様々な事が起こっていた。
将軍の上洛に伴い、京に潜伏していた尊攘過激派の活動が活発化。それに伴い尊攘過激派による将軍暗殺計画、攘夷実施日の確約要求等の様々な難題が、立て続けに次々と起こされた。
慶喜と容保、そして俺は、これらの難題の解決のため、各々の全力を注いだ。
とりわけ、攘夷実施日の確約要求では、朝廷等の公式の場では慶喜が、それ以外の場では俺が、攘夷拒否・開国の立場を鮮明にして、強固に主張し続けた。頑迷固陋な尊攘派公卿に対しては、俺が葵隊の武力や公卿どもの醜聞等での脅迫、贈賄での切り崩し等、ありとあらゆる強硬手段・切り崩しを断行した。
その成果もあってか、攘夷実施の確約はなされず、攘夷否定派がその発言力を大きく伸ばした。
朝廷では、中下級公卿らを中心とする尊攘派と、上級公家や皇族を中心とする公武合体派が勢力を二分。両勢力は一歩も引かず、朝廷はさながら小田原評定状態に陥る。
分裂状態に陥った朝廷が最終決定を下すなど、できる筈もなかった。そのため、慶喜や江戸の慶永様の工作もあり、朝廷は将軍家茂公の江戸帰還を認めざるを得なくなった。将軍上洛中、慶喜と俺はこれら一連の尊攘派対策や朝廷工作、その後の将軍江戸帰還工作に忙殺され続けた。
だがその激務も、家茂公の江戸帰還によって、漸く終わりを告げた。
それに伴い、活発化した尊攘過激派の活動も下火になり、京には束の間の平穏が戻ってきた。
その結果、俺たち同様に激務を終えた容保と円四郎を加えて、現在の細やかな酒宴に至っている。
「それにしても、此度の上洛中での働き、一橋卿と三成に勝る者はないな」
酒が入ったためもあるのか、容保には珍しく、顔を赤らめて上機嫌で呟く。
そして、私もそれに続く。
「いや、三成の働きこそ、此度は一番と言えるであろう」
「慶喜様、私はそれ程の事は・・・・・・」
三成は、すぐさまそれを否定し、他者を称賛する。
幕府歩兵奉行に栄達した今でも、三成のこうした態度は、まるで変わっていない。
「三成~~、謙遜も過ぎると嫌味よ~~」
「そうだぞ、三成。今回のお前の働きは、誰もが認めている。素直に褒められておけ」
容保と円四郎は、相も変わらず三成を褒め殺している。二人が、三成に極めて好意的だという事を考慮に入れたとしても、二人のその称賛は適当なものだろう。
事実、今回の三成の働きは、それ程苦労が多く卓越したものだった。
三成は、種々の工作と並行する形で、警備体制と連絡体制の構築に加えてその指揮、上洛する将軍と幕臣たちの宿舎の割り当て、食料の確保と搬入等、多くの裏仕事をほぼ一人で進めた。円四郎も、その補佐には当たってはいた。しかし、それらの実現が三成の手腕と苦労に負っていた事は、誰もが否定できない事実だ。
しかも、三成の仕事にはまるで破綻がなかった。
警備体制に連絡体制、食糧の供給網その全てが、最後まで何の問題を起こす事なく、正常に機能し続けた。そのため、私たちだけでなく、上様の上洛につき従った幕閣や幕府役人までが、三成の手腕に驚嘆した程だった。
完璧
三成の手腕は、まさにその一言に尽きた。
もっとも、当の本人は自身の手腕や功績、評価などは、まるで興味がないらしい。
現に三成は、先程から自身の事にはまるで触れようとしない。それどころか、自身は一歩引いて容保や円四郎の働きに話題を転じ、二人の働きを誉めそやしている。それも上辺だけの態度や褒め言葉ではなく、本心からそう思っているらしい。そのためか、三成の態度には、幕閣や一般の幕府役人の様な卑屈さの類はまるでない。
そうした三成は、私にとっても誇らしかった。
「今回の上様の上洛において、三成に勝る者はいない。よって、大幅に加増しよう」
私に誇らしいと思わせた三成の働きは、それに値するに相応しいもの。
私もこれ程までにうれしい加増はなかった。
「お言葉は嬉しく思いますが・・・・・・。謹んでご辞退させていただきます」
三成の発言に、その場にいた全ての者が、驚きを隠せずにいる。
借上や半地借り上げを断るならともかく、加増を断る者など誰もが初めてだった。
「私が惹かれたのは、禄になどではありません。慶喜様の志とお人柄、ですので・・・・・・」
いつも通りの涼しげな仏頂面で、さらりと答える。
そして、何事もなかったかのように盃の酒を飲み干す。
私も含めた全員が、唖然とするしかなかった。
(欲のない男だ)
かつての人事案でもそうだったが・・・・・・。
三成は、出世や金銭に対し、全くと言っていい程興味がないらしい。
幕府歩兵奉行になっても、賄賂は一文も受け取っていない。そればかりか、京の町民たちからの寄付金も、全て報告して一橋家の資金として管理されるようにしている。自身の生活も、幕府の役人と言うのに、極めて質素だ。
未来の人間とは、皆がこうなのか?
それとも、これは三成特別なのか?
私がその様な事を考えていると、三成は再び言葉を紡ぐ。
「それよりも、慶喜様」
先程までとは異なり、三成の目に光と鋭さが宿る。
「私に加増する余裕があるのであれば、それを葵隊の増強にお使い下さい」
三成の言葉に、この場にいる誰もが耳を傾ける。
部屋は静けさと熱さに、ユックリと呑み込まれていく。
三成はユックリと息を吸い、私たちを待正面に据え、姿勢を正す。しかし、三成の表情や身体は強張る事はなく、酒宴での柔らかな態度をそのまま保っている。そのため、私も含めた全員は圧倒される様な感覚を受けなかった。むしろ、温かく包み込まれる様な感覚を覚えた。
「現在の葵隊は、二十三隊二百三十人新式銃百二十挺、榴弾砲三門を保有しています。しかし、尊攘派と長州が本格的に動けば、現部隊のみでは、対応が不十分になります。
今回の上様の上洛で、幕府と尊攘派の路線対立は決定的なものになりました。尊攘派の巨頭である長州は、近い将来必ずや幕府と、慶喜様と衝突します!その戦いに勝つためにも、葵隊の増強は必要不可欠です」
三成の熱弁に私だけでなく、容保や円四郎までもが聞き入っている。
普段の冷静さをまるで感じさせない熱弁は、それだけで聞く者の心を強く掴んだ。
この場にいる誰もが、三成の熱弁により心を掴まれ、胸を昂ぶらせている。
「また、有能な指揮官の獲得・育成も目下の急務です。
葵隊には、人見勝太郎や伊庭八郎、渋沢成一郎ら有能な隊長がいます。小隊を指揮する小隊長にも有能な人材が育ち始めてはいます。しかし、数隊規模の指揮をする隊長が、不足しています。特に、人見殿や伊庭殿の様に、最前線で戦術規模の指揮ができる大隊長並の人材が不足しています。
最前線で戦術規模の指揮ができる隊長の確保は、現在の葵隊の最大の急務です」
指揮官の不足。
それも、最前線で部隊を率いて戦う指揮官の不足。
確かにこれは、三成の言う通り急務だ。
総督である三成が優秀でも、その命令に応じ、遂行できる指揮官がいなければ、十分な実力は出せない。
少なくとも、それが私の知る『軍』と言うものだ。
「それで、当面の対策は?」
ささやかな酒宴の場が、いつの間にやら、会議の場へと変わっていた。
「小隊長に、気になる人材が何人かいます。その者たちを隊長に昇進させ、当面の間経験を積ませ、様子を見ます。それと同時に人見、伊庭の両隊長を大隊長に昇進させた上で、小隊長らの教育に当たらせて、人材育成を計ります」
まず、適当かつ長期的な方策だろう。
人材育成は、短兵急にできるものではない。
人材というものは、雑草の様にすぐ育つわけではない。大木の様に、時間をかけてゆっくりと育つ。そしてその間、経験や学習と言う手入れを受ける事でより見事に、より大きく、より強く育つ。
そうでなければ、有能な人材は育たない。
三成は、人間というものをよく理解していると言えるだろう。
「また、円四郎を一度江戸に戻し、隊士の募集と慶永様への報告をさせます。その一方で、隊長候補を探し、推薦させます」
「え・・・・・・?あたしが?」
全員の視線が、一斉に円四郎へと集まる。
急激な話題転換に、私の前に座る当の円四郎は、その流れの変化についていけずにいる。そのためか、まるで真昼に幽霊でも見た様な顔をしている。
俺の突然の提案のせいか、はたまたあまりに急激な話題転換のためなのか、慶喜も含めた全員の顔に困惑が浮かんでいる。
先程まで賑やかだった酒宴の場も、今や葬儀場の様に静まり返っている。
「三成、大丈夫なのか?」
沈黙を最初に破ったのは、円四郎の身を心配する慶喜だった。
「ご安心を・・・・・・。円四郎の護衛には、葵隊の精鋭一隊を付けます。以前の様な事になっても、大丈夫です」
すると、慶喜は呆れた様な表情をする。
それを見て、円四郎が溜息をつきながら、俺の肩を掴む。
「三成・・・・・・。姫様の聞きたい事は、それじゃないよ」
心なしかその声には、慶喜同様の呆れと少しばかりの非難が感じられる。
「姫様は、あたしに人を見る目があるか、という事を心配しているのよ」
あぁ、なるほど。
そう言う事か・・・・・・。
考えもしていなかった。
「それについては、心配ないでしょう。円四郎も、山流しや工作活動等を経験して、多くの者を見てきています。
それらの豊かな経験は、人物鑑定のよい肥やしになっている筈です。円四郎には、人材の本物と偽物を見抜くだけの眼力が、自然と身につけている事でしょう」
俺は自身を以て、円四郎に太鼓判を押した。
(たしかに、三成の言う事にも一理ある)
円四郎は、武家社会のどん底から裏側まで、その目で嫌という程に見てきた。その人生経験は、十分過ぎる程に豊富だ。その十分過ぎる人生経験は、円四郎を大きく成長させている。
三成の言う通り、人材を判別する目はもっているだろう。
(しかし、なぜ円四郎にその役目を任せる?)
隊長候補の推薦などは、本来は葵隊の総督である三成の権限に属する事だ。仮に、葵隊の隊長に多様な人材を集めるためだとしても、それでは今一つ理由が弱い。
三成がする事には、必ず表の目的と裏の目的がある。そして、その目的に見合った理由もまた、必ず存在する。
では、今回の裏の目的と理由は何だ?
(ん・・・・・・、そう言えば・・・・・・)
三成の話には、少し矛盾がある。
隊長が不足しているとは言った。しかし、人材が不足しているとは、言ってはいない。
この微妙な矛盾は、一体何か?
『現部隊のみでは、対応が不十分になります』
不意に、先程までの三成の言葉が、私の脳裏に浮かぶ。
「・・・・・・・・・⁉」
葵隊は、増強が必要。
だが、葵隊のみでは、非常の時の対応が十分ではない。
ならばどうするか?
葵隊の増強と同時に、葵隊とは異なる部隊を新たに編成する。。そして、新たに編成する部隊は、円四郎を中心にして編成する。そのために、円四郎自身を江戸に下らせ、その部隊の隊士を集めさせる。
実に、単純明快なやり方だ。
(三成め、相変わらず布石に抜かりがない)
すると、私の顔から何か読み取ったのか、三成は私に向かって微笑を見せる。
その顔は、それまでの仏頂面とは異なり、普段私だけに見せる策士の顔だった。
「ひ、姫様?」
「三成の進言、採用しよう。円四郎、すぐに江戸に行け」
「しょ、承知いたしました!」
本人は今はまだ理解していない様だが、京を立つまでに、三成が耳打ちするだろう。
あの三成に、抜かりがある筈はない。
その後、酒宴は円四郎の送別ともなり、四人でただひたすら酒を傾けあった。
酒宴は、円四郎が酔い潰れるまで続けられた。酔い潰れた円四郎を、三成が小言を言いつつも、寝所へと抱きかかえて行った。抱きかかえていく三成は、不本意な事この上ない素振りだったが、その表情は満更なものではなかった。
酒宴が終わった時は、すでに夜が明ける刻限だったが、日が差す事はなかった。
日が差す代わりに、激しい雷雨が、私たちに朝の訪れを告げた。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
将軍徳川家茂公の上洛は、尊攘派にとって無意味な形で終わりを告げた。
一橋慶喜らとの政争に敗北した事で、尊攘派の巨頭長州の京における影響力は著しく低下。それに対し、慶喜の京における影響力が上昇し、長州のそれを大きく凌いだ。
これにより、京の政局は、優勢な慶喜と劣勢な長州に二分されるかに思われた。
だが、京の都に新たなる第三勢力が現れた。
薩摩。
それが、新たなる勢力の名だった。
薩摩は京に現れるや、瞬く間に第三勢力としての地位を築き上げた。影響力自体は、既存の二勢力に及ばはしなかったが、落日の長州に迫る勢力へと台頭しつつあった。
慶喜
長州
薩摩
三大勢力のいずれもが、政局の主導権を握ろうと蠢動するが、決定打を得られずにいた。
ここに、三大勢力が鼎立する奇妙な均衡状態が成立した。
三大勢力が鼎立する事により、京には辛うじて平和が保たれていた。
―京都所司代役所―
「この度は、京都所司代の御就任おめでとうございます」
俺は型通りの挨拶を告げ、頭を下げる。
「面をお上げください、三成殿。非才の妾では、迷惑をかける様な事もあるだろうが、宜しくご指導願いたいのじゃ」
あまりにも丁寧過ぎるあいさつを受け、非礼にならぬように声の主へと顔を向ける。
俺の正面には愛くるしい顔をした、小柄な少女がチョコンと正座をして座っていた。小さい体に見合わず、少女の声は意外に大きく、とても澄んでいた。そのためか、少女が見た目よりも少し大人びて見える。
少女は、視線を向ける俺に可愛らしい笑みで応じる。
少女の名は、松平定敬。
桑名藩の藩主にして、新しい京都所司代。
そして、京都守護職である松平容保の妹でもある。
(容保とは、いろいろと違うな・・・・・・)
姉の容保は、長身の上に腰まである豊かな黒髪を蓄えている。しかし、その一方で容保は凛とした武人、将としての重く硬い雰囲気をその身に纏っている。その両者が、容保の大人の女性としての魅力を形作っていた。
それに対し、定敬殿は小柄で、髪も肩までギリギリあるかないかと言った程度しか蓄えていない。定敬殿が纏っている雰囲気も容保とは違い、正義感や芯の強さを感じさせる。しかし、不思議と硬さはなく、むしろ、柔らかさを感じさせる。
(もっとも、定敬殿の体格の場合、髪が腰まであれば動きにくくて仕方がないだろう)
失礼な言い方だが、服の中に定敬殿が入っている。
それが定敬殿の姿を見ての、俺の第一印象だ。
予備知識がない者が見れば、何故この少女が京都所司代に就任したのだ、と思う事だろう。
「それで三成殿。京の情勢はどうなのじゃ?」
定敬殿の目の色が変わる。
先程までとは異なり、幼いながら定敬殿の目は政治家の目をしていた。
「すでにご存じのとおり、三大勢力の鼎立状態が続いております。当面の間は、この均衡が続くと思われます」
「状況を打開する方策はないか?」
「・・・・・・難しいですね。
現状では、一方を潰せば終わり、という状況ではありません。いずれの勢力にも、二つの勢力を相手にできる程の力はありません。その上、一方だけを潰そうとすれば、潰されそうになった勢力が、残りの勢力と手を結びかねません。
それが結果として、三大勢力の鼎立を継続させています。
それに・・・・・・」
「薩摩は一橋卿と長州を争わせても、自らは争いに加わろうとはしない、というわけじゃな」
俺の言わんとする政治情勢を、定敬殿は京に入って早くもその肌で理解しているようだ。
さすがわ、容保の妹。
状況把握と頭の回転においては、容保以上に早い。
「仰る通りです。薩摩は、我々と長州を争わせる事により、漁夫の利を得ようとしております。今、我々が長州と争う事は、薩摩の思う壺です。我々は当面の間、行動を慎むべきです」
「そうじゃな・・・・・・。今は、ただひたすら力を蓄える時じゃな。さもなくば、幕府をさらに傾ける事になるのじゃ」
幕府を絶対と信じ込まない現実主義者。
それに加え、現状に対する適切な認識力。
いずれも、これまでの幕府役人に欠けていたものだ。
(慶永様も、よい人材を選ばれた)
俺は改めて、政治総裁職として江戸で辣腕をふるう、松平慶永という女性の凄さを思い知らされた。
慶喜と幕閣の信頼・友好関係の構築に加えて、こうした適切な人事を行う。
俺の脳裏に、温和な笑顔を浮かべる慶永様の姿が思い浮かぶ。
(人は見かけによらない、とは言うが・・・・・・)
その言葉を、慶永様ほど見事に体現している方は、まずいないだろう。
「ところでじゃ、三成殿」
京の政治情勢に関する一通りの説明が終わると、定敬殿は突如として俺に話を振ってくる。
「何でございましょうか?」
「三成殿の事を、『兄さま』と呼んでもよいじゃろうか?」
その場の空気が、一瞬にして凍りつく。
空気だけではない。
時間すら凍りついた様な錯覚に襲われる。
「定敬殿。それは、どういった意味でしょうか?」
「言葉の意味そのものじゃが?」
その一言に、辛うじて保たれていた冷静さが、一挙に失われる。
「いや・・・・・・。それはどう考えても、おかし過ぎるだろう⁉」
普段、人前で着けている仮面すら、脆くも崩れ去る。
(仮面が崩されるとは・・・・・・)
これまで、どちらか一方を崩す事はあっても、両方を崩す事はなかった。
唯一の例外は、慶喜だった。しかし、その場合でも、『崩す』のであって、『崩される』のではなかった。それもあくまで、俺自身の意思によるものだった。
(だが今回は、完全に崩された)
それも、この愛くるしい少女に・・・・・・。
この少女に対する、一応の情報は頭にいれていた。それでも、こうした事態が発生するとは、全くの予想外だった。
どうやら俺は、この少女の事を過小評価していたようだ。
俺が思考を乱しに乱す中、定敬殿は相変わらずだ。いや、むしろ、水を得た魚の様に得意満面な顔で、先程にもまして無邪気に話しかけてくる。そんな定敬殿の前に、俺は無力な事この上なかった。
「それが地か、兄さま」
「待て!俺はまだ、いいとは言っ・・・・・・」
「ダメか、兄さま?」
涙を浮かべ目で、定敬殿は俺を見つめる。
その愛くるしい姿は、俺から思考能力と拒否意欲を奪い取る。
「い、いや・・・・・・。別に拒絶するという事では・・・・・・、ないが・・・・・・」
条件反射の如く、口からその言葉が漏れ出してしまう。
そして、それがマズかった。
「なら、いいという事だな。兄さま!」
無意識に漏らした言葉が、俺自身をさらに追い詰める。そして、武士としての、年長者としてのプライドが、唯一俺の前に残されてた退路をユックリと塞いでいく。全ての退路を塞がれ、俺が採れる手段はただ一つしかなかった。
「・・・・・・そう言う事だ」
俺は、目の前の少女松平定敬に、白旗を振るしかなかった。
(俺と言う男は・・・・・・)
かつて自分自身で言った言葉を、再び訂正する。
俺は、美女の言う事を断れないようにできているのではない。
俺は、女性と言う生き物からの願いを、断れないようにできているのだ。
天下の激動が静かに近づくなか・・・・・・。
俺の身に、その前兆(?)ともいうべき激震が訪れた。
そしてその結果、俺に妹ができた。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
定敬殿が、俺の事を『兄さま』と呼ぶようになった頃。
京の都に激震が走った。
京でそれまで続いていた三大勢力の鼎立が、突如として崩れ去ったのだ。長州、薩摩がその勢力を大きく後退させ、その政治的発言力・影響力を著しく弱めた。それにより、佐幕派の慶喜の勢力が相対的に強まる事となった。
長州、薩摩が勢力を後退させる中、従来の勢力を維持・拡大していた慶喜は、勢力のさらなる強化を図り、これを成功させる。これにより、三大勢力の中で、慶喜の勢力が一頭地抜きんでる状況から、両勢力を圧倒する状況へと事態が移行。
京における政局の主導権は、慶喜がその手に握る事となった。
三大勢力の鼎立状態崩壊
慶喜の主導権掌握
だがそれは、皮肉にも外国によってもたらされた結果だった。
三大勢力の鼎立状態崩壊の少し前。
長州は、幕府(正確には慶喜)の攘夷拒否の姿勢に猛反発し、独自の攘夷実施に踏み切った。
長州は、下関を通過する全ての外国船に対して、容赦のない砲撃を加えた。通告なしの不意打ちで、軍戦・商船を区別しない砲撃だった事もあり、多数の外国船に甚大なる被害をあたえた。しかし、アメリカ・フランスの両艦隊が報復攻撃のために来襲。両国の攻撃により、長州が苦心の末に築き、誇る亀山砲台はあっけなく破壊。亀山砲台と並ぶ前田砲台も制圧・破壊された。そればかりか、長州が心血を注いで育て上げた海軍も全滅。
下関の外国船砲撃に始まった戦いは、長州の一方的な敗北、完全敗北と言う形で終わりを告げた。
この戦いで、長州の軍事力と財力は大幅に低下。
長州の指導部もその大敗のため大混乱に陥り、完全な麻痺状態に陥っていた。
一方の薩摩は、かつてイギリス人を殺傷する事件を起こした。
世に言う『生麦事件』である。
イギリスは、この事件の犯人の引き渡しと賠償金支払いを求め、鹿児島に艦隊を派遣。薩摩は、イギリスの全要求を一方的に拒否し、全面対決へと舵を切った。こうした薩摩の態度を受け、イギリスも武力行使を決断。
これにより、薩摩とイギリスによる全面戦争、『薩英戦争』が始まった。
薩摩は、折からの暴風雨や鹿児島湾の地の利、イギリス側の戦術的失態にも助けられ、信じられない程の大善戦を見せた。しかし、最新装備のイギリス艦隊の前に、善戦虚しく敗北。多数の砲台を破壊され、城下町の三分の二を戦火により失う大損害を受ける。
薩摩は幕府の仲介で、イギリスと和睦。
そして、賠償金の四分の一を幕府から借りる事により、多額の賠償金を支払った。
長州・薩摩の両勢力は、攘夷の実施とその後の敗戦による大損害により、それまでの余力を完全に失った。両勢力にとって、軍事力と財政の立て直しに加え、精神面での立て直しが最大の急務となった。これにより、両勢力は京で活動する事はおろか、目を向けるだけの余裕すら失った。
こうした事情により、両勢力は京における慶喜の一強化を許す事になった。それどころか、勢力の維持さえもままならず、退勢にまるで歯止めがかからないでいた。
それより、勢力温存に努めた慶喜が、漁夫の利を得る事となったのである。
勢力の拡大・強化に成功した慶喜
攘夷により、その勢力を大きく衰退させた長州と薩摩
天下は、この三勢力を中心に新たなる動きを見せようとしていた。
龍、飛翔せり
龍、飛翔せり
「・・・・・・分かった。引き続き、監視を続けてくれ」
「承知いたしました」
そう答えると、黒い影は寺内の闇へと消えていった。
冷たい静寂と深い闇のみが、周囲に残る。
(火種は大和に起こりし、か・・・・・・)
各地からの状況報告を受ける中、大和からは看過できない報告がもたらされた。
現在の状況とこれまでの情報を冷静に判断すれば、最初の火種は大和で起こると結論づけるほかなかった。
長州と薩摩は、いまだ攘夷の敗戦から立ち直れていない。
物心両面で受けた傷があまりにも深く、現在は漸く混乱が収まり、軍事・財政面での立て直しが始まったところだ。両勢力は嫌でも、当面の間は内に力を向けざるを得ない状況にある。
両勢力が、京での活動を以前と同様のものにするには、かなりの時間がかかると予想される。そのおかげで、慶喜は京での勢力を揺るぎないものにしつつある。しかし両勢力、特に長州の力が弱体化した事で、各地の尊攘派を纏める勢力がなくなった事も事実だった。それにより、統制を失った尊攘派が過激派へと転じ、各地で暴走を始めつつあった。
そして、大和では早くも暴走が表面化し、火種へと転じようとしていた。
「慶喜様、起きておられますか?」
「三成か、どうした」
「大至急、お耳にお入れしたい事があります」
「分かった。入ってくれ」
威儀を正し、障子を開ける。
部屋では、慶喜が寝間着姿で、書見台を横に片付けていた。
「報告とは、尊攘過激派に関してか?」
「さすが慶喜。相変わらず鋭いな」
「茶化すな。普段の言動を見ていれば、おおよその事は分かる」
「・・・・・・・・・・・・」
この人は、自分がさりげなく誤解発言をしているのに、全く気付いていない。
俺だからいいようなものの、他の者だったら誤解して受け取られかねないだろう。
(もっとも、今さらとも思うが・・・・・・)
慶喜の様な天才は、俺の様な凡人とは違いどこか抜けている面があるらしい。
たとえば、今の様に妖艶な寝間着姿で、男である俺の前に姿を現す。これまでも何度かあり、その度に注意してきた。悲しいかな、一向に改める気配がない。俺が意識し過ぎだと言われれば、それまでの話ではある。しかし、俺も一応は男である以上、慶喜にもそれなりの配慮というものがあって、然るべきだろう。
また、慶喜は時々、俺に自分の髪を平気で手入れさせたりもする。古来より、髪は女の命と言われ、気品の一つでもあるため、通常は親しい男であっても触らせていいものではない。
(もっとも、男と見られているかは甚だ疑問だ)
これらの慶喜の態度からは、俺を男として見ているとは、到底思えない。男としては複雑な事この上ないのだが、思い悩むのが馬鹿らしいので、今はもう色々と諦めている。
完全に納得した、というわけではないが・・・・・・。
呆れた様な顔をした三成は、溜息をしつつ私の居室へと入る。しかし、私と向き合う形で座るなり、その表情はそれまでとは一変する。それこそ、先程までとは別人の様に・・・・・・。
そして、膝を私に寄せ、その口を開く。
「最初の火種は、大和で燃え上がる。配下の『烏組』からの報告だ。間違いはない」
「烏組?」
「俺子飼いの隠密組織だ」
相変わらず、抜け目のない奴だ・・・・・・。
隠密集団など、一体いつの間に作り上げたのだ?
すると、私の顔から何を読み取ったのか、三成は微笑みながら呟く。
「蛇の道は蛇、という事だ」
それから三成は、詳細な資料を見せ、報告を告げる。
三成の報告と資料によれば、事態は少し厄介な事になっている。
朝廷では、長州ら尊攘派が勢力挽回のため、帝の大和行幸を強引に推し進めようとしている。それに歩調を合わせ、尊攘過激派の一部が、大和へと集結しつつあるらしい。
大方、帝の大和行幸に合わせ蜂起する、との腹積もりなのだろう。これに関しては、三成も私と全く同じ読みをしていた。そして、それに対する認識も、私と同様のものだった。
「行幸に合わせた、大和での決起か・・・・・・。たしかに、少し厄介だ」
鎮圧するのは簡単だが、行幸中に蜂起されると、色々と面倒になる。
「こうなれば行幸の前に、大和の過激派を抑えるべきだな」
「先んずれば人を制す、とも言う。先手を取るという事に関しては、俺としても賛成だ」
「では、すぐに大和の代官や周辺諸藩に出陣の命を下そう」
そうすれば、すぐに鎮圧できるだろう。
雑草は、芽の間に取り除くにかぎる。
「勝兵は勝ちて然る後戦いを求め、敗兵は戦いて然る後勝ちを求むる」
「孫子の一節か・・・・・・」
こうした三成の反応は、私の考えに暗に反対を示している時のものだ。
どうやら、三成には私とは異なる考えがあるらしい。
「三成、何か策があるのか?」
「鼠は、巣穴を潰しても再び現れるものだ」
なるほど。
不十分な鎮圧では、鼠の巣穴を潰す事はできても、鼠そのものを根絶やしにする事はできない。それを防ぐためにも、巣穴だけではなく鼠そのものを叩け、という事か。
今後の事を考えれば、たしかに鼠そのものを叩く事の意味は大きい。
「大和周辺の諸藩に使者を送り、それと同時に出陣の準備を秘密裏に整えよう。大和の代官には、全てが整い次第使者を送る事にしよう」
「・・・・・・賢明な判断だ」
相変わらずの仏頂面だが、口元に微かな笑みが浮かんでいる。
これで漸く私の考えに、全面的賛成という事か。
話し合い(?)が纏まりを見せると、すでに外では闇が薄らぎを見せていた。
苦笑いを浮かべた顔を、三成の方へと向ける。苦笑を浮かべた顔に肩を竦める事で、三成はそれに応じる。三成も私と同様、時間のうつろいにまるで気づかなかったらしい。
どうやら、互いに話に熱中し過ぎていたようだ。
「俺は葵隊全軍を、いつでも動かせる状態にしておく」
「頼む。私も、容保や定敬らと出陣準備や臨時体制について、急ぎ纏めておく」
すると、三成は懐から紙の束を取り出し、私に差し出す。
「葵隊出陣中の臨時体制案だ。最終案の決定の参考程度にはなると思う。目を通しておいてくれ」
その案には、京の各地域の警備担当から人数配置に至るまでの、極めて詳細なものだった。さらには、警備担当や人数配置の、大まかな理由までが、一つずつ丁寧に朱で書き込まれていた。その全ては、実に理にかなうものだった。
その完璧さには、ただただ舌を巻くしかない。
(これ程の案は、絶対あるまい)
この案をそのまま採用しても、誰も文句を言わない。
そう思える程に、この案は優れていた。
何より素晴らしいのは、警備に当たる会津や桑名、浪士組の状態をもとにしている、という点だ。この案ならば、各自の能力を十分に引き出す事ができる。
「よく、これ程の案を作ったな」
「進言する以上、それ相応の策を用意するのは、進言者の義務だ」
三成は、至極当然と言った顔をしている。
たしかに、進言する以上は、それに見合った具体的考えを用意するのは当然だ。
しかし・・・・・・。
(これ程の案を用意する者などいまい)
三成の言う当然は、時として私たちが考える当然の範囲を優に超えている。三成にとっての当然の基準は、本人が口にしない事もあり、私には分からない。しかし、強いて言えば、それは参考以上であり十分に通用するもの、と言える。
責任が人の形になった、と言うべき存在が三成だ。
これを当然と言ってしまえば、それは確かに当然だろう。
だが・・・・・・。
「三成」
「何だ?」
部屋から立ち去ろうとした三成は、少しだけ首をこちらに向ける。部屋から立ち去ろうとした三成の後ろ姿からは、先程までの態度とは異なり、疲れが滲み出ていた。
「あまり無理するな。三成の身体は、三成だけのものではない・・・・・・」
「・・・・・・分かっている」
三成の返答は、相変わらず至極平然としている。その返答からは、まるで疲れというものが感じられない。しかし、疲れの滲み出る後ろ姿を見た私には、その返答を聞くのがとても辛かった。辛く、苦しく、そして悲しかった。
それと同時に、三成に言葉しかかけられない自分が、ひどく無力に感じられた。
「慶喜の言葉、胸に刻み付けておく」
私の思いとは裏腹に、三成は相変わらずだった。
そうした三成に対し、私の思いは複雑だった。
(三成は、どこまでも三成か・・・・・・)
多少変わったとはいえ、人の性格・姿勢が根本から変わる事はまずない。
それは母斉昭を見てきた私自身が、一番よく知っている。
それに、私は三成のこうした性格が嫌いではない。むしろ、権力に群がる様な者たちの卑しい心根に比べれば、遥かに好意が持てる。また、、三成は人付き合いが下手なだけで、その心根は極めて純粋だ。
それを知っているからこそ、三成のこうした態度を、私は否定的に見たりはしない。
だが、言葉以上に理解しようとはしない三成のこうした態度は、私には少し悲しい。
「・・・・・・ありがとう、慶喜」
今、何か言った?
私の耳に異常がなければ、今、三成が何か言ったように聞こえたが・・・・・・。
私が、再び意識を三成にやると、三成はすでに部屋にはいなかった。
部屋の外からは、服と床が擦れる音が、慌ただしく続く。
静かな空間に、その擦れる音のみが響く。
そして、その音のみが他の音よりも異様に大きく聞こえた。
まるで、それ以外の音がこの世に存在しないかの如く―。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―大和国五条代官所―
「敵襲~~!」
数多の銃声と共に代官所各所から、絹を切り裂いた様な役人たちの叫び声が発せられた。それに少し遅れ、金属同士が激しくぶつかる高い音が、外から代官所内部へと急速に広がっていく。それに伴い、代官所は役人たちの仕事場から、鮮血に染まり知のにおいが充満する地獄絵図へと、その姿を変えていった。
役人たちにとって、その光景は悪夢そのものだった。
代官所の役人たちも、将軍後見職の慶喜から急報を受けてはいた。そのため、警戒を強化して厳戒態勢を敷いてはいた。しかし、夜半にもなれば、いかに厳戒態勢を敷いていても、日中に比べてその警戒レベルは嫌でも落ちざるを得ない。それに加え、警戒の者以外は仕事をしているか寝ているため、多くの者は十分な武装をしていない。また、警戒こそしているが、死ぬ覚悟までしている者は、皆無に近い。
それに対して、攻め込んで来る敵は具足で身を固め、十分過ぎる程に武装をしている。しかも、敵は代官所に攻め込むという幕府に対する反逆、反乱行動をしている事もあり、すでに死を覚悟している。厄介な事に、その士気も極めて高い。
これだけで、すでに勝敗は明らかだった。
だが、代官所の役人は、不十分な武装ながら、攻め込む敵を懸命に防ぐ。代官自らも、寝間着姿に刀のみと言う姿で、部下である役人たちの指揮を執る。そのため、不意打ちを受けたにも拘らず、代官所の役人たちは、予想外の善戦ぶりを見せる。
幕府の役人としての誇りか、はたまた武士としての誇りが為せるものなのか。
いずれにせよ、その姿は、本能寺の変で主君織田信長を守ろうと戦った小姓や馬廻たちもかくや、と見る者に思わさせるものがあった。
だが、役人たちの孤軍奮闘もそれまでだった。
指揮を執っていた代官が、敵の銃撃を受け負傷し、その後の斬り合いで戦死。
代官が倒れた事で、役人たちは完全に士気を喪失。
生き残った役人たちは、代官所を捨て、敗走せざるを得なかった。
不幸中の幸いは、敵襲を受けた直後、代官が慶喜やその命を受けた諸藩に対し、急を知らせる使者を送っていた事だった。それに加え、攻め込んで敵も、準備不足での蜂起、襲撃時の損害が大きかった等の要素を抱えており、迅速な行動をとる事ができないでいた。
こうした適切な判断、思いもよらない敵の不幸も重なった事は、全て幸いに作用する事になった。周辺諸藩が動き、火種が大和から周囲に拡大する事を防ぐ事ができたからだ。
これにより、混乱は拡大する事なく、その余波も大きなものではなかった。
『大和にて、尊攘過激派挙兵す』
その報せは、それほどの時を置かず、京の慶喜と俺の下へと知らされた。
情報を受け取った慶喜と俺は、すぐさま軍議を招集した。
「大方、京の尊攘過激派どもが、大和の者どもに自分たちの状況と情報を伝え、挙兵を唆したのだろう」
慶喜は至極落ち着いた態度で、
「葵隊が、露払いとして大和に入る。これは、誰もが知りうる情報だから、な」
容保は顔に微笑を浮かべつつ、
「妾も、一橋卿や姉上と同じ意見じゃ!」
定敬は威勢よく、自身の考えと思いを呟く。
そして、俺もその例外ではない。
「おそらく、久坂玄瑞か真木和泉の差し金ではないか、と考えられます。ですが、現時点での挙兵など、時期を著しく誤った愚挙、としか言えません」
一橋慶喜
松平容保
松平定敬
京における最大勢力の首脳陣が集まり、大和で起こった尊攘過激派の蜂起について、話し合っている。部屋を閉め切っての話し合いではあるが、誰もが熱さを忘れている。
かく言う俺自身も、話し合い進行役を務める内に完全に熱さを忘れていた。
「私の配下『烏組』からの報告によると、大和で蜂起した尊攘過激派は、天誅組を名乗っているとの事です。
天誅組は、大和五条の代官所を制圧。現在は代官所を拠点として、倒幕の挙兵を盛んに呼び掛け、周辺の一部浪士たちがそれに呼応。その浪士たちが次々と大和に入国し、天誅組に合流しています」
俺の報告に、その場の三人はさして驚く様子もない。
誰もが、尊皇攘夷の行き着く先は倒幕になると考え、予想していたからだ。
そして、この場にいる誰もが、慶喜の声を待っていた。
「・・・・・・三成、葵隊の出陣準備は?」
「葵隊全二十四隊二百四十名、いつでも出陣できます」
「相分かった・・・・・・」
慶喜はゆっくりと深く息を吸い、落ち着いた態度をまるで崩していない。
その姿は、まさしく将そのものだった。
「・・・・・・三成、葵隊全軍を出陣させろ!」
雷鳴が落ちるが如く、激烈な言葉が発せられる。
その姿は、烈公徳川斉昭を彷彿とさせ、重なるものがあった。
「承知いたしました」
「此度の戦いには、私自らも出陣する。総指揮は、三成に任せる」
慶喜のその発言に、俺も含めた全員が驚きを隠せずにいる。しかし、慶喜は俺たちそうした反応を無視し、なおも言葉を紡ぐ。
「此度の戦いは、ただ勝てばよい、というものではない。勝つというだけでは、意味がないのだ。
一橋慶喜自らが出陣し、その器を日ノ本六十余州にあまねく知らしめす。それこそが、この戦いにおける真の意味なのだ。
この意味、しかと心に刻み込め!」
『ハッ』
自然とその場に平伏する。
強制されたわけでもなく、体が自然とそう反応する。しかし、それは決して不愉快さを伴うものではない。それどころか、体の奥底から血をたぎらせる何かがあった。
武士の血をたぎらせる何かが・・・・・・。
(俺の目に、狂いはなかったな)
慶喜には、日本を背負う器がある。
慶喜ならば、日本の歴史を、未来を変えられる。
徳川幕府に、慶喜の様な人物がいるなら、まだまだ捨てた物ではない。
俺の本能が、そう告げていた。
「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧の久しきを見ず。これより、総力を挙げ、大和に向け出陣する!」
慶喜の号令の下、各自が己のなすべき事をなすため、部屋を去っていく。
慶喜の号令から三日後。
葵隊二百四十、会津兵百、桑名兵百、幕府兵百五十が合流し、六百余りの軍勢が、一路大和に向け出陣した。
総大将一橋慶喜、副将兼参謀直江三成。
それが俺たち主従の初陣だった――。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
「総督、前方に異常ありません!」
「分かりました。引き続き、厳重な偵察を続けて下さい」
「ハッ!」
再び命を下すと、その葵隊の隊士は馬首を返し、再度の偵察に向かう。
これと同様な事を、もう何度も、会津兵や桑名兵らに対しても繰り返していた。
烏組の報告では、天誅組は周辺の一部農民を、強制的に参加させている。それにより、その兵力は二百二、三十程度まで増強されていると考えた方がいい。しかし、こちらとの兵力差は依然として大きい。最低でも二倍の兵力差はあるといっても、過言ではないだろう。
そこから導き出される結論は、一つだ。
(天誅組は、ゲリラ戦でくる・・・・・・)
大和で蜂起を計画していた以上、天誅組は大和の地利にはそれなりには明るい筈だ。それに加え、現地の農民を強制的ではあるが、多数味方に引き入れている。それをさらに考慮に入れれば、天誅組はこちら以上に地理に明るい事になる。そして、大和国は森林が多い。
これらの諸条件をもとに、より冷静に考えれば、天誅組がゲリラ戦に出る可能性は百パーセントに近くなる。
ゲリラ戦に勝利する方法は、大きく分けて二つ。
圧倒的な兵力を最大限に生かす事による、絨毯爆撃式の侵攻。これに加えて、補給を徹底的に断つ焦土作戦を断行する。これら二つの平行で、敵の戦闘継続能力を無力化する方法。
索敵を強化しての対応力の強化。それにより、ゲリラ戦の効果を低下させ、なおかつ打撃を与える。そして最終的に、疲弊した敵を追い詰め、その核を潰す方法。
しかし、現状でこちらが選択できるのは、後者のみ。
となれば、俺たちにできるのは、偵察を増やして索敵能力を強化し、先手を打ち続ける。
それが、軍師たる俺が導き出した勝利の方程式だ。
「・・・・・・総督」
背後からかけられたその声は、とても静かで、感情というものをまるで感じさせない。しかし、声の主の気配はとても澄んだもので、実体のない影の如く、そこに静かに控えていた。
「烏組局長たる大蛇が、自ら来たか・・・・・・」
「ご迷惑でございましょうか?」
「そんな事はない。それだけ重要な情報を持ってきた、という事だろう?」
「御意」
背後に控えた大蛇は、口を覆う布をユックリと動かす。すると、布の下からは日に焼けて浅黒くなった肌と、健康そうな白い歯が露わになる。また、その目は、忍びである事を忘れさせる程の光を宿していた。
大蛇、本名は服部大蛇。
東照大権現、徳川家康に仕えた服部半蔵の末裔にして、伊賀の流れを汲むくノ一。
今ではすっかり衰えた一族ではあるが、その諜報能力は今なお侮れないものがある。そのため、三顧の礼をもって、俺は彼女の協力を仰ぎ、懐刀として迎え入れた。
彼女が中心になり組織した『烏組』は、諜報活動における俺の手足となり、大きな功績を上げた。烏組の中で大蛇は、慶喜失脚の前後から現在にかけては、俺の汚れ仕事にも深く関わり、必要不可欠な存在となっている。
大蛇は軍師三成の半身、と言っても過言ではない。
大蛇の背後に、人の気配が二、三集まり、それまで微かだった大蛇の気配が少し濃くなる。それはまるで、分裂していた『何か』が再び一つにでもなった様な印象だった。
大蛇はそれを待っていたのか、それまで閉じていた口を開き、報告を始める。
「少し先の森林に、九十名余りの敵が伏せております」
「装備と兵力構成は?」
「志士が三十名余りで、残りは彼らを積極的に支持する農民や猟師等です。装備は、旧式の火縄銃やゲベール銃、刀槍等が中心です」
「戦力の核である志士たちを三十も割くとは・・・・・・。最初から敵は本気のようだな」
おそらく、鎮圧に向かった我が軍を初戦にて破り、出鼻を挫くつもりだろう。それと同時に、初戦に勝利する事で、天誅組の求心力を高めなおかつ勢いをつける事を目的としている。それにより、兵力における劣勢を補い、周囲からの支持・支援を取り付け、勢力の拡大を図る。
(いかにも、教科書通りの戦術だな・・・・・・)
だが、考えが浅く中途半端で、何の大胆さもない。それどころか、敵情を知ろうともせず、自分たちの実情も十分に理解できていない。先の事はそれなりに見えても、足元の事はまるで見えていない。
どうやら、天誅組の指導者は、軍事にはあまり聡くないようだ。
「配下に引き続き監視を続けさせろ。大蛇は、指示があるまで俺の傍にいろ」
「御意」
俺は進軍を中止し、兵たちに休息を取らせた。
俺はその休息の間に人見、伊庭両大隊長を密かに呼び寄せ、策を与えた。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
休息が終わり、再び進軍が始まった。
兵たちに疲労の色はないが、誰もが気を昂らせている。敵地に入り、いつどこにどれ程の敵が現れるかも分からない。その緊張感が、嫌でも兵たちの気を昂ぶらせる。その昂ぶりは、兵たちの息遣いや表情、視線を通して、私にも伝わってくる。
だが、私に伝わってくるのは、気の昂ぶりだけではない。昂ぶりと同様に、初めての戦いに臨む兵たちの恐怖や不安が、濁流の様な勢いで伝わってくる。兵士たちの異なる二つの思いが、同時に流れ込んでいた。
(だが、私に心配や恐れはない)
気持ち自体は、かつてない程に昂ってはいる。しかし、少なくとも今は、恐怖や不安といった類の気持ちは、全くと言っていい程に存在しなかった。
三成が育てた兵を、三成が指揮する。
それに対する全面的な信頼と安心。
それが、驚く程に私を落ち着かせていた。
「慶喜、敵が現れた・・・・・・」
三成の声が、私を現実へと連れ戻す。
「そうか・・・・・・。それで敵は?」
「前方の森林は分かるか?」
三成が指さす方へと目をやる。
そこには、確かに森林があった。
「敵は、そこで待ち伏せしている。待ち伏せしている敵の兵力自体は、決して多くはない。しかし、奇襲されると少しばかり厄介だな」
三成は、世間話の様に平然と話す。
その態度からは、まるで昂ぶりや不安と言った類が感じられない。
私と同様これが初陣だとは、まるで思えない。いや、それどころか、これから戦に臨む者だとすら感じられない。今まさに起ころうとしている事が、平時の事でもある様に落ち着いている。
「俺は、最前線で指揮を執る。慶喜、一人でも平気か?」
「私の心配は無用だ。三成なら、必ず私を勝たせる。そう信じている」
「それはまた、責任重大な事この上ないな」
やはり、普段通りの言葉と態度でそれに応じる。
そこには、力みはまるでない。
「三成なら・・・・・・、余裕だろ?」
三成の顔は、笑っていた。
それを見て、私も笑う。
「安心した。総大将が、これ程までに落ち着いていれば、万が一にも負ける事はない。兵たちが浮足立つような事もない。
俺も、安心して指揮をとれる」
「三成、死ぬなよ」
「当然だ。この様な場所で死ぬ気など、俺には更々ない」
そう言うと、三成は軍の先頭へと馬を走らせていった。
馬を駈けさせ、軍の先頭に向かっていると、兵たちの放っている殺気がヒシヒシと肌で感じられる。その殺気は、先頭に向かえば向かう程に強くなり、より鋭さを増していく。戦いは始まってこそいないが、戦場特有の異質な空気が漂い、兵士たちは精神面で早くも戦いに入っていた。
軍の先頭近くまで来ると、昂揚感を抑えた様子の伊庭大隊長が、俺を待っていた。
「伊庭、現状を報告せよ」
「敵に目立った動きは見られません。念のため、周囲を何度も偵察させましたが、敵は発見できません。
敵は、前方の森林のみと思われます」
「こちらの状況は?」
「すでに、通達は完了済みです。全部隊、いつでも戦闘に移れます」
伊庭殿からの報告を受け、思わず胸をなでおろす。
(今のところ、全て策通りに進んでいる)
俺が指揮する最初の戦い。
休息の間、俺はただひたすら地図を見続け、改めて大和の地利や戦場の地形を頭に叩き込んだ。その上で、事前に収集した情報に基づいてあらゆる事態を想定し、今回の策を練りに練った。すでに、打つべき手も全て打ち尽くし、仕込みも十分過ぎる程に整っている。
まさに人事を尽くし、天命を待つのみ。
(練りに練った策が、破れる筈がない)
自身に何度もそう言い聞かせるが、恐怖が頭から消える事はない。
それどころか、恐怖はさらに高まる。
その恐怖に耐える事で、今の俺は精一杯だった。
(後もう少し・・・・・・)
もう少しで、俺の策の命運が決まる。
成功か、失敗か。
結果は、二つに一つで中間はない。
学生服に、何度も手を擦り付けては、手の汗を拭う。しかし、拭えど拭えど手から汗が消える事はない。それどころか、手はさらに汗に塗れていく。心臓の鼓動も早まり、喉は痛みを覚える程に乾き切っている。
叫びたい。
思い切り叫ぶ事で、この苦しみから解放されたい。
俺はその思いに、ただひたすら耐える。戦いの指揮を任された者として、慶喜の軍師としての責任感だけが、今の俺を耐えさせている全てだった。しかし、この耐えの時間は、今まで俺が経験した中で、最も辛く厳しい瞬間だった。いつまで耐えきる事ができるのか、俺自身にも全くもって予想がつかない。
そんな間にも、策の命運が決まる瞬間が刻一刻と近づいて来る。
森林まで、残り約二百五十メートル。
二百四十・・・・・・、三十五・・・・・・、三十・・・・・・、二十五・・・・・・。
距離はユックリとではあるが、確実に縮んでいく。それ程でもない距離であるにも拘らず、俺にとってその距離は、万里の長城にさえ匹敵する様に感じられた。いや、それ以上にさえも感じられた。
そして・・・・・・、二百!
パーン
乾いた音が森に響く。
そして、それに続くようにして同じ様な音が、銃声が連続して鳴り響く。
前方の森林から、こちらでも分かる程大きな騒めきが巻き起こる。森林に伏せていた敵は、自分たちの身に何が起こったのか、理解できていないようだ。やがて、騒めきは悲鳴へと変わり、悲鳴は恐慌へと変わっていった。
その瞬間、それまで俺にのしかかっていた重圧が、霧の様に消える。
(我が計成れり!)
森林の裏に回り込んだ、人見たちの部隊が奇襲に成功したのだ。
休息中、密かに先行していた人見大隊長率いる小隊二隊は、見事奇襲に成功した。待ち伏せによる奇襲を考えていた敵は、逆に自分たちが奇襲を受けた。その衝撃の大きさは、先程の様子で十分過ぎる程に想像がつく。
「先頭部隊は散開。敵に向け銃撃せよ!」
俺の指示を受け、先頭にいた葵隊六隊余りが、部隊ごとに散開。前方の森林に向け、葵隊士たちが一斉に射撃を開始する。
おそらく、この射撃の命中率はかなり低い。五分の一も敵に当たってはいないだろう。
だが、それでいい。
「敵は挟撃を受け、混乱している。この機を逃すな!前進せよ‼」
俺の号令に続き、伊庭大隊長もまた命令を発する。
「前軍は、先頭部隊を援護。味方の進撃を助けなさい」
今の射撃は、敵を狙ったものではない。敵に挟撃の恐怖を与え、混乱させる事こそが、目的である。一度混乱状態に陥った軍は、いかなる名将をもってしても立て直す事はできない。そして、混乱した軍は、最早ただの烏合の衆に過ぎなくなる。
烏合の衆と化した軍に、組織だった抵抗をさせる事は、両手両足を縛った状態で木登りする事よりも難しい。
「私に続け!敵を一挙に突き崩す‼」
先程までの重圧がまるで嘘の様に、信じられない程に周囲が、戦場全体がハッキリと見える。森林の中にいる敵影さえ、しっかりと視界に入っていた。自分でも信じられない程に、全神経がかつてない程に研ぎ澄まされていた。
馬を駆り、敵影に向け一気に駆け抜ける。
すると、バラバラではあるが、敵も一応の射撃を始める。
「怯むな!敵の銃では、我々まで銃弾が届く事はない。まして、命中させる事など不可能だ‼」
その言葉を聞き、味方の前進速度が一気に上がる。
(戦場では、嘘も一種の戦術だ)
先程の俺の言葉は、全てが事実ではない。
敵の大半が、骨董品の火縄銃を装備し、使用しているのは事実だ。しかし、数こそ少ないが、敵の一部は旧式のゲベール銃を装備し、使用している。火縄銃の射程は五十メートル程度に過ぎないが、ゲベール銃の射程は三百メートル程度はある。単純な飛距離計算では、一応は味方まで銃弾が届く事になる。
だが、それはあくまでも単純な飛距離計算。
(命中率は、またそれとは別だ・・・・・・)
火縄銃に関してはすでに論外だが、ゲベール銃の命中率も論外にならない程度に過ぎない。二百メートル先に対する命中率は、最大でも三十パーセント未満。それを考慮すれば、俺の言葉も強ち嘘というわけではない。
葵隊が装備しているスペンサー銃、スナイドル銃と比べれば、それこそ天と地程の開きがある。
後方から人見率いる部隊に攻められ続け、敵の一部が森林の外へと押し出される。押し出された敵は、前進する味方と援護する味方の射撃によって、次々と倒れていく。実戦経験に乏しく、訓練も不十分な事もあり、その光景を目の当たりにした敵は、たちまち戦意を喪失する。
俺が斬り込んだ時には、すでに敵の大半は武器を捨て、敗走を始めていた。不幸にも戦い続けた者(大半は天誅組の志士)は、俺に斬られるか、味方に射撃又は斬られ、全滅した。
こうして、幕府軍はこの大和における最初の戦闘にて、圧倒的な勝利を収めた。
その後も天誅組による多少の抵抗こそあったが、幕府軍はその全てを一蹴。戦いの勢いを得た幕府軍は、その余勢を駆り快進撃を続けた。その快進撃に、幕府軍を指揮する俺は驕りこそしなかったが、勝利の味を十分に噛みしめていた。
幕府軍の快進撃の前に、天誅組はゲリラ戦を諦め、残存戦力を代官所へと結集。籠城戦にて幕府軍を迎え撃ち、徹底抗戦をする構えを見せていた。
大和での戦いは、ついに最終局面に入ろうとしていた。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
「総督!先行した幕府兵は、四十名余りが死傷。会津、桑名兵と交代したよ」
大隊長たる人見の報告に、本陣が騒めく。
本陣の誰もが、窮鼠に手を噛まれた、との思いを同じくする。
「会津、桑名兵の損害は?」
「双方合わせて、十名余りの死傷者が出ているみたい」
「突撃は一旦中止。適当な距離を取り、応戦するに止めさせよ」
三成は落ち着いた様子で指示を下し、伝令を最前線へと向かわせる。
平然とした態度の三成とは裏腹に、本陣の私や容保、定敬等の諸将は苛立ちを隠せずにいた。
天誅組を大和五条代官所へと籠城するまでに追い詰めたが、私たちは代官所攻略で思いもよらぬ苦戦を強いられていた。
先行した幕府兵、それと交代した会津・桑名藩兵は、正攻法で正門から攻め寄せた。
これに対し、天誅組は正門内に大砲を置き、門を開いては撃ち、砲撃準備が整えばまた門を開いては撃つという事を繰り返した。それにより、味方は打撃を受け、戦術の転換を余儀なくされていた。
「・・・・・・埒が明かない」
普段は決して弱音など吐かぬ隊長の渋沢までが、弱音を吐く。
本陣全体に、重く暗い空気が漂う。
葬儀の場でも、今の本陣よりは活気がある事だろう。
「代官所後方の、伊庭大隊長の部隊を正面に回せ・・・・・・」
本陣の視線が、三成一人に集まる。本陣にいる誰もが、三成の一挙手一投足を見逃すまい、口にする一言一句を聞き逃すまいと、緊張した面持ちで見守っている。しかし、それを無視するかの様に、三成は落ち着いた態度で、ユックリと指示を出し続ける。
「後方の兵力を極限まで減らし、余った兵力は全て正面に回せ」
三成の指示を受け、伝令が慌ただしく、本陣から走り去っていく。
走り去っていく伝令の後姿がまだ消えいらぬ間に、三成はさらに続けて指示を出す。
「春日小隊長を呼べ、一つ策を頼みたい」
三成の求めに応じ、本陣に控える兵の一人が、春日小隊長を呼びに行く。
「お呼びでしょうか、総督!」
暫くすると、白髪の痩せた女性がやってきた。
それは、私の知らない者だった。
「春日小隊長、君は正門の正面に二隊を率いて布陣。開門時の隙を突いて一斉射撃。正門を制圧し、味方のために突破口を開け」
「分かりました。自分にお任せ下さい!」
「人見、伊庭両大隊長は、春日小隊長の援護。春日小隊長らを攻撃する敵、正門制圧を阻止しようとする敵を排除。絶対に邪魔立てさせるな。
会津、桑名藩兵には、正門制圧と同時に代官所に突入するように指示を出せ!
幕府兵と渋沢隊長率いる葵隊は、私と共に代官所後方に秘密裏に移動。私が裏門を開けるまで待機しろ」
「・・・・・・・・・⁉」
「・・・・・・・・・!」
三成の言葉に、私も含めた誰もが驚きを隠せないでいる。
全軍の指揮を執る実質的総大将が、自ら敵陣に斬り込む。その行動は、あまりに衝撃的であり、驚異的であった。それを口にしたのが三成でなければ、この本陣にいる誰もが一笑に付すか、気が狂ったかと思った事だろう。
「総督、御自ら出陣なさるとは・・・・・・」
「三成、何もお前自らが出向く事などはあるまい」
私は三成を押し止めようと、
「戦の指揮を執る三成が、死地に身を晒す必要はない。代わりに私が行く」
容保は三成の代わりに志願し、
「一橋卿や姉上の仰る通りなのじゃ」
定敬は私たちを支持する。
言葉や態度こそそれぞれ異なっているが、三成の出陣を押し止めようとの目的は、誰もが同じだ。
しかし・・・・・・。
「部下にだけに危険な思いをさせ、後方に坐している事はできません!」
その言葉に、本陣にいる誰もが、自らの浅慮を恥じた。それと同時に、三成の部下に対する思いの深さ、将としての見識の深さに感動を禁じ得なかった。
静まり返る諸将を前に、三成はさらに指示を下していく。
「渋沢、貴女の一隊は私に続きなさい。他の隊は、人見、伊庭両大隊長の指揮を受け、敵の注意を正面に引き付けろ!」
『承知‼』
戦場に出向く三成の背中は、まさに将のものだった。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
「放て!」
正門が開いた瞬間、春日左衛門率いる葵隊二隊が、一斉射撃で銃弾の雨を浴びせる。大砲の周囲にいた敵は、その一斉射撃を受け、まるで人形の様にバタバタと倒れる。多くの敵が銃弾に倒れた事で、正門の周囲に無人空間が一時的に発生した。僅かに生き残った敵は、急ぎ門を閉めようと試みる。
だが、春日小隊長はその一瞬の隙を見逃さず、正門に突入。
正門付近の残敵を掃討し、瞬く間に正門を制圧。味方の侵入口を確保する。それにより、会津、桑名藩兵が代官所へと突入。正門を奪還しようとする天誅組との間で、戦いが始まる。
ここを突破されれば、代官所内部まで一気に雪崩込まれ、敗北しかない。それが火を見るより明らかなだけに、天誅組も死に物狂いで交戦する。正門付近の戦いは、一進一退の泥沼状態へと陥った。
―代官所/裏門―
「春日君の方は、上手くいったようだ」
「(コクコク)」
味方の正門制圧にともない、天誅組の戦力の大半は、正門付近へと集中させられていた。そのお蔭で、裏門の守備に当たる兵力は、極めて手薄になっていた。
もっとも、正門制圧の前には、裏門からは逃走を阻止する規模以上の兵力は撤収させてあった。そのため、天誅組がそれ程多くの兵力を裏門に割く筈はない。
要するに、現段階では俺の策は極めて順調に進んでいるという事だ。
「・・・・・・渋沢、そろそろ私たちも奇襲をかけるぞ」
「・・・・・・でも、どうやって?」
渋沢隊長は、首を傾げて尋ねる。
普通なら、それはある意味もっともな質問だ。
「すでに手は打ってある」
代官所の壁に近づき、指を鳴らす。
カラカラカラ
すると、壁の上から縄梯子が下ろされる。渋沢隊長や葵隊隊士、幕府兵が壁の上を見上げると、そこには黒装束を身に纏った者が三人。三人の内二人の手には、血の滴る小太刀が握られていた。
「・・・・・・総督」
「大蛇、相変わらず手際が良いな」
俺が壁の上にいる一人に向けて、称賛の言葉を送る。
それに応えるが如く、壁の上では大蛇が血の滴る小太刀を拭い、俺に頭を下げる。
「恐縮にございます・・・・・・」
大蛇は、布越しにも分かる程、顔を赤く染める。
俺の言葉が、余程うれしいらしい。
俺たちは代官所内に入り、裏門を開ける。
すると、裏門付近で待機していた幕府兵と渋沢隊長率いる葵隊が、一斉に静かに代官所へと雪崩込む。大蛇が、ほぼ全ての見張りを始末していた事もあり、天誅組は侵入された事に全く気付かない。裏門から侵入した別動隊は、一度の戦闘も経ず、一人の脱落者も出さず、代官所内部への侵入を成功させる。
「・・・・・・一橋慶喜が軍師、直江三成。いざ、参る!」
叫びにも似た名乗りを上げ、出会い頭の敵を問答無用で斬り捨てる。
それが呼び水となって、代官所内部でも戦闘が始まる。代官所の内部全体に血と硝煙の香りが充満し、悲痛な叫び声と肉を切り裂く鈍い音、金属音、そして銃声が交錯して響き合う。それらに敵味方の区別はなく、両者が絶え間なく上げ続けていた。
何の前触れもなく、突如として背後からの奇襲を受け、天誅組は大混乱に陥った。内部での戦闘のほぼ大半が遭遇戦だった事もあり、戦闘は極めて一方的なものだった。一方的に斬られて、一方的に撃たれて、そして死んでいく。天誅組の大半は、突然の戦闘に十分な覚悟や抵抗もできずに、一方的に倒されていく。
それは戦闘と言うよりも、殺戮に近かった。
正面からは味方の主力部隊に攻め込まれ、裏からは一方的に攻め込まれる。
この戦況に、善戦を続けていた天誅組もついに崩壊。強制参加させられた百姓らは、すぐに逃亡または投降した。各地から加わった尊攘過激派の志士たちは、その大半が討死。代官所からの逃走を図った者も、そのほとんどが捕縛された。
天誅組の主要幹部、吉村寅太郎や藤本鉄石らは戦死。天誅組が盟主とした、公家の中山忠光は、数人の志士たちに護衛されて囲みを破り、長州への逃亡を図った。しかし、国境周辺を固めていた大和周辺の藩兵らによって捕縛。
厳重な警備のもとで、京へと送還された。
『天誅組の乱』と呼ばれたこの大和での戦いは、天誅組の潰滅と多数の尊攘過激派志士の死によって、その幕を閉じた。
この戦いは、尊攘過激派による最初の蜂起であると同時に、洋式陸軍による初めての戦いでもあった。
この戦いを機に、洋式陸軍“葵隊”の精強さは一気に知れ渡った。それに伴い、幕府や会津、桑名等の佐幕派諸藩は、洋式軍隊編成の必要性を痛感。幕府、会津、少し遅れて桑名が、早くも洋式陸軍の本格的編成を開始する。
その一方で、葵隊を有する慶喜の政治的発言力と影響力は、さらに拡大していった。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―京/東本願寺―
「勝った・・・・・・、な・・・・・・」
夜空に盃を傾けつつ、俺は仲間たちと共に勝ち取った勝利を、強く噛みしめていた。
戦いの前の恐怖は完全に消え、勝利の昂揚感が、俺の身体を包み込む。
俺が一人感傷に浸っていると、ユックリと足音が近づいてくる。
足音の方へ顔を向けると、そこには慶喜がいた。
「三成、こんな所にいたのか」
「慶喜・・・・・・」
「宴の席から主役が抜け出るとは、いただけんな」
その言い方は、本気とも冗談とも受け取れる。その言い方には、正直言ってどう反応すればよいか、判断に困る。
「この戦いの主役は、戦った者全てだ。それでもなお、主役を選ぶならば、春日小隊長を置いて他にはいない」
反応に窮した俺は、慶喜の逆鱗に触れないように正論を述べる。
事実、春日小隊長が正門を制圧し、味方に突破口を開かなければ、今回の大勝利はなかった。勝利できたとしても、より多くの死傷者を出す事になった筈だ。そうなれば、とてもではないが大勝利などと言えなかった。
それを考えれば、今の俺の返答は極めて正論だ。
もっとも、今回の戦いを本当に大勝利と考えればの話だが・・・・・・。
「だがそれも、三成の策あればこそだ。三成の策がなければ、此度の大勝利は得られなかった」
「買い被り過ぎだ。あの程度の策なら、多少の戦術眼があれば立てられる。
あの場にいた人見殿か伊庭殿でも、もう少し時間があれば同じ策を立てた」
慶喜の高評価には感謝する。しかし、とてもではないが、俺にはその評価を受ける資格はない。いや、それどころか、代官所での戦いは、軍師として落第点を取るほどのものだ。
指揮を執る者として、あの策の立案は遅きに逸した、と言っても言い過ぎではない。十分な冷静さがあれば、より早い段階であの策を立てる事ができた筈だ。
だから、俺には高評価や賛辞を受ける資格などはない。
「三成、お前は何者だ?」
私からの突然の問いに、三成は戸惑う。
この様な問いをする、私の真意を計りかねているのだろう。
「三成は、未来の者であり、幕府歩兵奉行であり、私の軍師でもある」
「・・・・・・・・・・・・」
「しかし、それ以前に直江三成であり、一人の人だ。人が一人できる事など、たかが知れている」
「・・・・・・・・・・・・」
「三成は確かに優秀だ。優秀過ぎると言っても、過言ではないだろう。
しかし、自責の思い、自身への束縛があまりにも強過ぎる。もう少し、己に優しくなれ、甘くなれ・・・・・・」
月明かりに照らされた三成の顔は、女の私が見ても美しかった。
三成の苦悩と月明かりが、本来の美しさとは異なる、別の美しさを引き出していた。
「三成には、さしたる欠点はない。だが、強いて言えば、欠点のなさが三成の欠点とも言える」
すると、三成は目を丸くして私を見る。
私が行った言葉に、驚いているようだ。
「欠点が・・・・・・、ない?この俺が?」
「少なくとも、私たち凡人からは、そうとしか見えん」
「俺がどれほど欠点だらけの人間か、話し出したら夜が明けるぞ・・・・・・」
三成は、呆れた様な顔をして、私に言葉を返す。しかし、その言葉からは、先程までの苦悩や暗さは、全くと言っていい程に感じられない。完全に、普段通りの三成に戻っていた。
その様子に、私は多少の安心を覚える。
「慶喜、また二人で一杯やるか・・・・・・」
「そうだな・・・・・・。宴会に戻るよりも、その方がいいだろう、な」
「慶喜は、騒がしいのが、本当に嫌いだからな・・・・・・」
三成は、からかい口調で、軽口をたたく。
今の三成は本当に、心の底から楽しそうだった。
(好いた者と、酒を飲めるとは幸せだな)
口には出せないが、戦に勝利した思いよりも、三成と水入らずで酒を飲める幸せ。その思いの方が、私の中では遥かに大きかった。
不謹慎だとは思いつつも、その思いは私の胸の内で、いつまでも消えなかった。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―京/長州藩邸―
「天誅組が敗れるとは・・・・・・」
「我らの勢力さえ、昔日のものであれば、天誅組の同志たちを十分に支援できた!悔やんでも悔やみきれぬ!」
老人と若い女性は、散っていった同志たちに思いを馳せ、涙を流す。
その二人を横目に、彼女はただ目を瞑る。傍から見れば、その姿は二人を無視しているようでもあり、涙を流す二人のその態度を否定しているようにも見える。いずれにせよ、彼女からは、散っていった天誅組の志士たちへの哀惜の念は、さして感じられはしない。
「真木殿も桂も、悲嘆に暮れている時間はないぞ。悲嘆に暮れる時間があるならば、眼前の策に全力を注げ・・・・・・」
訂正する。
彼女は、同志でもあった天誅組の潰滅に、全く哀惜の念を感じていない。
彼女の頭脳は、現在進行中の策の事で、飽和状態に陥っているらしい。
なおも悲嘆に暮れる二人に対し、彼女は苛立ちをまるで隠さない。隠すどころか、二人が悲嘆に暮れる事自体を理解しようとはしなかった。彼女からすれば、勝手に挙兵して勝手に壊滅した天誅組など、計画の邪魔でしかなかったのかもしれない。
二人が多少の落ち着きを取り戻すのを待ち、彼女は再び口を開く。
「帝の大和行幸さえ実現すれば、大勢の挽回はなる。そうなれば、長州が再び主導権を握る事ができる。そうすれば、天誅組の犬死にも多少の価値は出る」
彼女の考えは、どこまでも冷静そのものだった。いや、冷静と言うよりも、氷の様に冷たく、冷徹そのものだった。その考え方は、計画の遂行者としては、素晴らしいものだった。
計画の遂行者として、は。
「久坂、その言い方はない!天誅組は、私たちの同胞ではないか・・・・・・」
久坂玄瑞は、その言葉に薄ら笑いを浮かべる。同胞という理想的な言葉が、計画の遂行者たる久坂玄瑞という策士には、滑稽な事この上ないらしい。あるいは、その言葉に皮肉を感じたようだ。
久坂のその態度に、その女性は憤りを隠そうともしなかった。
「桂殿、落ち着かれよ。たしかに、久坂殿の考えにも一理ある。
天誅組は同志ではあるが、同胞ではない。多少の同情は必要だが、それ以上はいらぬ」
「真木殿、しかし・・・・・・」
熱血女の桂小五郎を、完全に冷静さを取り戻したもう一人の策士、真木和泉が重々しい口調で宥める。桂はなおも憤りを募らせ、久坂に言葉をぶつけようとする。しかし、初老の策士である真木和泉は、それを見事に抑え込む。
桂より遥かに齢を重ねた真木は、感情は豊かでもそれをアッサリ捨てる冷酷さもあった。
憤りの収まらない桂を無視して、久坂は真木への質問で話を再開させる。
「真木殿、策の仕込みは?」
「すでに、江戸にいる同志たちとも繋ぎを取ってある。行幸中の襲撃と討幕の旗揚げに関しても、十分過ぎる程に準備は整っておる」
真木は、自身の策に絶対の自信を抱いているようだった。その自信と興奮のためか、老人とは思えぬ程、その顔は若々しかった。その顔に刻まれた幾つもの皺も、今は勲章の様に光輝ている。
「尊皇攘夷の盟主である長州は、異敵との戦いで深い傷を負った。しかし、その傷も癒えつつある・・・・・・」
「今こそ、尊皇攘夷の盟主たる長州が、幕府を倒し、長州を中心に挙国一致で攘夷を行う時じゃ!」
「・・・・・・・・・・・・」
気勢を上げる久坂玄瑞、真木和泉を横目にして、桂小五郎は気勢を上げられずにいた。
理由は、自分自身にも分からない。
先程まで、あれ程熱くなれていたのに、今は全く熱くなれずにいた。それどころか、目の前で気勢を上げる二人とは逆に、桂は深い失望と不安を直感的に感じていた。
(今の我らで、大望が叶うのか・・・・・・)
桂は、あまりにも冷めた目で、久坂と真木の策を眺めていた。
そして、眺めれば眺める程、言葉にならない矛盾と蟠りに、その身を苛まれた。
その正体が一体何なのか?
やはり、桂にはわからなかった。
尊攘派の巨頭たちは、それぞれの思いを胸に、策が実現するその日を待った。
己の信念を信じて――。
闇夜の政変
闇夜の政変
「兄さま~~~」
「定敬、はしゃぎすぎると怪我をするぞ」
「分かっていますよ、兄さま~~~」
俺の注意にさして耳も貸さず、定敬ははしゃいだままだ。そのはしゃぐ姿は、まるで年頃の少女そのもので、実にシックリくる。
(いや、これこそが本来のあるべき姿か・・・・・・)
京都所司代とは言え、定敬は年頃の少女だ。
時代が時代ならば、こうして無邪気にはしゃぎ、遊んでいる姿の方が普通の筈だ。いかに優秀とはいえ、定敬の様な少女が、幕府の重職たる京都所司代である事の方が異常だ。俺が言うと説得力はないが、少なくともこの様な事は、俺の時代の日本では絶対にありえない。
それを考えると、定敬がはしゃぐのを咎める事は、あまりいい事のようには思えない。
さて、仮にも兄と仰がれている俺は、こんな時どうすべきなのか?
経験がないだけに、すぐには答えが見つからない。
はしゃぎ回る定敬を眺めつつ、俺がぼんやりと思案に耽った。時折、定敬の方へと視線を向けるが、定敬はまるで疲れを見せる事なく、相も変わらずはしゃいでいた。その姿は、どこに出もいる少女そのもので、とても幸せそうに見えた。
そんな定敬を見ていると、俺が思案している事などどうでもよく思える。
「三成・・・・・・?」
声がする方へと振り返ると、そこには思いもよらぬ人物がいた。
「容保、どうして町に‼」
「いつも通り、お前のもとに勉学に来たのだ。しかし、人見大隊長に、三成は不在だ、と言われてな・・・・・・。
仕方がないから、街に出たのだ」
容保は、普段通りの真面目な顔で、さらりと言う。
自分が言っている事に、全く問題を感じていないようだ。
問題発言だと承知しているから、俺は決して口にはしない。決して口にもしなければ、噯にも出さない。
だから、心の中で呟かせてもらう。
(容保は真面目かつ有能ではあるが、馬鹿でもある)
俺は、容保への講義や普段の言動、これまでの付き合いから、そう判断したくなる時が時々ある。
それは、よく言えば自身に無頓着、悪く言えば自己理解が不足又は欠如している、と言い換える事もできる。
もっともこれは、容保だけでなく、妹の定敬についても言える事ではある。しかし、二人を単純に比較して同じ様に言う事は、正しくはないだろう。両者の年齢を考慮に入れれば、これは容保のみに当てはまる事だ。
容保は京都守護職、定敬は京都所司代であり、いずれも幕府の重職に籍を置いている。しかし、それ以上に二人は、慶永様に次ぐ慶喜派の巨頭でもある。そのため、二人は良くも悪くも重要人物となってしまっている。
(二人が、その事を知らない筈はない)
俺としては、そう考えたいのだが・・・・・・。
普段の二人の言動を見ていると、どうしてもそう確信する事ができない。俺自身もその立場からすれば、どちらかと言うとフットワークが軽い部類には入る。しかし、身辺にはそれなりに気を使い、多少の不便は享受している。そんな俺の立場からすると、二人が自分の立場を理解しているとは確信できないし、むしろ疑わしくもなる。
もっとも、二人には烏組の手練れたちを、気づかれない範囲で護衛につけている。
間違っても、最悪の事態にはならない筈だ。
(俺と同じ苦労をした事だろうな・・・・・・)
異なる世界の、遥か昔の俺と同じ立場の先人たちに、俺は自分を重ねずにはいられなかった。
もっとも、その当人たちは、時代が時代なだけに、俺よりも随分と苦労していた事だろうが・・・・・・。
「兄さま、姉上と一緒じゃったのか?」
はしゃぎ回っていた定敬が、俺たちのもとへと駆け寄ってくる。
その声は、相も変わらず無邪気だ。
「定敬、三成の事を『兄さま』、と呼んでいるのか?」
「姉上も、妾が兄を欲しがっていたのは知っていたじゃろ?」
「なるほど。それで三成は『兄さま』、というわけか」
二人の姉と妹は、楽しそうに話している。
その光景は、傍から見ても、本当に心温まるものだった。
(これが姉妹、というものか・・・・・・)
俺には、兄弟や姉妹はいない。しかし、似たような奴の経験があったため、何となくではあるが、そう言ったものは理解できる。
俺は邪魔者にならないように、二人から少しだけ距離を置いた。
俺の前で、何気ない会話を花咲かせる姉妹の姿は、とても美しかった。二人が時折見せる笑顔はとても温かく、束の間ではあるが、今が幕末であるという事を俺に忘れさせる。また、二人の笑顔を見る度に、俺の心が洗われる様な、そんな不思議な感覚になった。
俺がそんな事を思っていると、
「ところで・・・・・・、この場合は、三成と私のどちらが上になるのだ?」
大真面目な顔をして、容保はとんでもない事を尋ねる。
相も変わらず、本人は自分の発言の重大性に、気づいてはいない。
「たしかに、姉上の言う通りなのじゃ・・・・・・」
定敬も、大真面目でそれに賛同する。
(厄介な事態になりそうだな・・・・・・)
三十六計逃げるに如かず。
こうした類の厄介事に巻き込まれると、後々まで尾を引きかねない。それは、生徒会やクラスで嫌と言う程に、俺が目撃させらた事であり、間接的に体験させられた事でもある。そうした経験を踏まえて言えば、俺個人としては、当事者になるのだけは、御免こうむりたい。
ここは自然体で、この場から撤退するのが上策だろう。
大真面目に話し合う二人を残し、俺はこの場からの戦略的撤退を決断した。
そして、話に夢中になる二人に気づかれない様に、ユックリとその場を後にした。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―東本願寺―
「総督!」
「御苦労様です」
門前の警備に当たる葵隊の隊士を労うと、俺はそのまま居室へと向かった。
非番であるとはいえ、やるべき仕事は多々ある。ましてや、今は策の最後の仕込み真最中だ。多少の息抜きは必要だが、それ以上の休息をとるわけにはいかない。いや、今はその休息の時間さえ惜しい。
(策とは、料理に似ている)
これは、軍師という仕事を経験して、俺が率直に感じた事だった。、
料理の仕込みは、最後の一瞬まで気を抜く事はできない。一瞬の気の緩みは、料理の味を大きく変えてしまう。策もまた、最後の仕込みで気を緩めれば、最終的な結果が大きく変わってしまう。
だからこそ、最後の最後まで気を抜く事はできない。
「策の仕込みが一段落したら、久しぶりに腕を振るってみるか・・・・・・」
最近は、政略や謀略に追われ、一橋家家臣たちや葵隊の隊士たちのために、料理を作る事ができなかった。士気の高揚や人間関係の深化、相互理解の視点から考えても、料理を作るのはいいかもしれない。そうした理由を脇に置くとしても、俺個人のストレス解消には十分になる。
いずれにしても、悪い事ではない。
そんな事を考えながら歩いていると、急な鈍痛が頭を襲う。それに少し遅れて、騒がしい事この上ない足音が寺の廊下に響き渡る。そして、その足音は徐々にではあるが、俺のいる場所へと近づいてくる。
その瞬間、俺は嫌な予感を覚えた。
「三成、久しぶり~~~!」
それとほぼ同時に、俺は前へと倒されかけた。
やはり、と言う以外に言いようがなかった。
この様な現れ方をする人物は、俺の知る限りたった一人しかいない。
「・・・・・・いい加減、まともな現れ方はできんのか!平岡円四郎‼」
俺の怒声が、寺全体に響き渡る。
「久しぶりの再会なのに、三成って冷たくない?」
「説教されたいか、円四郎?」
その一言で、円四郎の表情がガラリと変わる。
以前、俺に小一時間説教された事が、余程応えているらしい。
「ほんと、三成は真面目よね~~~」
もっとも、円四郎の普段の態度自体は、以前とまるで変わりない。普段からの態度もそれなりに改めてほしい、と内心では思ってはいるが、馬の耳に念仏と俺はすでに諦めている。
まぁ、話の時にそれなりの態度をとるならば、それで良しとすべきだろう。
「今は、そんな事どうでもいい。それよりも、だ。首尾の方はどうなっている?」
「山流しで知り合った連中が、約四十人ってところね。洋式訓練にも積極的よ」
「銃の装備に抵抗はない、と受け取って構わないか?」
「もちろんよ。全員、あたしの声かけに応じなければ、甲斐の山中の田舎で一生を終える奴らよ。
今回の募集にも、喜んで応じてくれたわ」
円四郎が、これ程までに言うなら、大丈夫だろう。
円四郎は私生活等ではズボラではあるが、仕事に関しては極めて正確だ。だからこそ、円四郎は慶喜の側近を務める事ができ、俺も重要な仕事を安心して任せる事ができる。
その円四郎が連れてきた者たちだ。
万が一にも、間違いはない。
「それにしても、随分早く戻ったな。もう二ヶ月は、時間を要すると思ったが・・・・・・」
新幹線も車も存在しないこの時代、主要な交通手段は馬や徒歩、駕籠等と極めて限られている。そのため、甲斐国から横浜・江戸を経由する円四郎たちが戻るのはどんなに早くても二ヶ月後、と俺は予想していた。
「行きも帰りも、幕府の軍艦、蟠龍を使ったからね。海路のお蔭で、かなり時間を短縮できたのよ」
「・・・・・・幕府海軍。すでに、そこまでの実力を保持していたとは・・・・・・」
歴史の流れが、確実に早まっている。
本来ならば、幕府海軍がそれ程の実力を保持するのは、もう少し先の筈だ。
どうやら、慶喜を中心とする数人が変わった事で、歴史の流れ自体も少しずつ変わり始めているようだ。それも、俺が予想していたより随分と早く、なおかつ大きく。
歴史の変革を目指す俺としては、悪くない流れだ。
「それと、慶永公からの書状と横浜の渋沢栄一郎隊長殿から言伝を頼まれたわよ」
「書状と言伝?」
「渋沢隊長殿の言伝は、
『総督から教えて戴いた~~、「株式」のお蔭で~~、配当金なるものを差し引いても~~、莫大な利益を得られました~~♪
そのお蔭で~~、スペンサー銃五挺に~~、スナイドル銃四十五挺と多数の弾薬を購入できました~~♪すぐそちらに届けさせます~~。少しだ~ ~け、待っていて下さいね~~♪』
だってさ」
「・・・・・・・・・・・・」
円四郎が栄一郎の口調を真似ると、以外な程に違和感がない。それどころか、普段はズボラ過ぎる事この上ない円四郎殿が、信じられない程にかわいく思える。
円四郎に対して、よもやこの様に思う日が来るとは・・・・・・。
上杉謙信が実は女だった、と言われる事以上の驚きを感じる。
「三成、あんた今もの凄く失礼な事考えてなかった?」
なかなか鋭いな。
まぁ、俺との付き合いもそれなりに長いのだから、この程度鋭くなるのはある意味当然の事なのかもしれない。 それに、元々円四郎はそれなりに鋭いところがあった。それも考慮すれば、やはり当然なのかもしれない。
「いいや、お前の考え過ぎだろう」
円四郎の鋭い直感を、俺はサラリと受け流す。
すると、円四郎もそれ以上は追及せず、
「で、これが慶永様からの書状」
声を押し殺し、周囲を警戒して、懐から出した書状を俺に渡す。
甲斐国への下向ないし人集めが、円四郎をさらに成長させた。
今の円四郎の姿を見て、俺はそう感じた。
改めて円四郎の顔を見ると、その顔は幾分かは政治家、慶喜の側近らしい顔つきになっていた。円四郎のその変化が、俺には少し誇らしくて、少し嬉しかった。
「この書状には、かなり重要な情報が書かれているらしいわ。
慶永公からは、
『三成さんに、直接渡して下さいね。いいですか、三成さんに直接渡して下さいね』
と何度も念押しされた上で、直接渡されたわ」
「・・・・・・おおよその見当はつく。全く問題ない」
すると、円四郎は普段通りの様子に戻る。
「それを聞いて安心したわ。姫様のため、頼んだわよ」
「・・・・・・当然だ」
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
『 三成さんへ
夜風が肌に心地よい季節となりました。
京の暑さは、江戸とは比べ物にならないものだと聞き及びます。御身体の具合は、如何でしょうか?三成さんには、少しご無理をなさるところがあるので、私は少し心配しています。くれぐれもご無理をなさらないで下さい。
江戸では近頃、尊攘派の動きが俄かに活発になっております。尊攘派の動きは、今後さらに活発になる事でしょう。全ては、三成さんがかねて予想していた通りです。
尊攘派の目的は、ほぼ確実に三成さんの読み通りでしょう。
すでに手は打ってあります。かねての手筈通り、京とほぼ同時に、尊攘派を一掃できるものと考えられます』
その流麗な文字は、書いた人物の気品と美しさを読み手に伝えてくる。
それどころか、俺の瞼には筆跡の主の顔がありありと浮かんだ。
(本当に、慶永様らしい手紙だ)
一枚目の手紙を読み終え、そう思わずにはいられなかった。
それと同時に、江戸で孤軍奮闘を続ける慶永様の苦労が、痛い程に手紙から伝わってくる。京に仲間たちと共にいる俺とは違い、江戸の慶永様は遥かに過酷な環境で戦っている。それにも拘らず、慶永様は俺の事を気遣う優しさをまるで失っていない。その態度に、俺は言葉にはできない深い感動を覚えた。
気がつけば、俺の頬を涙が流れていた。
俺は涙を拭い、再び手紙に目を落とした。
二枚目の手紙には、慶永様が主導する幕府改革の進展が、詳細に書かれていた。
『幕府では、旧一橋派の幕臣たちが多数登用され、幕政の一端を担うまでに成長しています。幕府の重臣たちも、京における慶喜様たちの活動に、好意的な評価をしています。
また、三成さんが提唱した洋式陸軍の編成も進み、フランスから軍事教官が派遣される事になりました。多少の課題もありますが、比較的順調に進んでいると言えるでしょう。その一方で、幕府がかねてから力を注いでいた幕府海軍の育成も極めて順調に進んでいます。軍事演習などを繰り返す事で、着実に実力をつけています。軍艦の建造も本格的に進められ、横須賀の地では造船所の建設が始められています。
財政の面では、三成さんが強く推薦された小栗上野介が、その辣腕を振るい、立て直しが順調に進んでいます。横浜や長崎、箱館等に、幕府直営の店を置くとの案も採用され、幕府に莫大な利益をもたらしています。
慶喜様の御活躍や三成さんの案により、幕府は少しずつ力を取り戻しております。幕府の力が、かつての様に強力なものとなれば、私たちの理想も必ずや実現する事でしょう。
そして、その日も決して遠くはない事でしょう。
追伸
慶喜様と三成さん。全面的に賛成です。
松平慶永』
「・・・・・・・・・・・・」
最後の一文は黙殺するとしても・・・・・・。
慶永様は俺たちのため、江戸でかなり奮戦してくれているようだ。
・有能な人材の登用
・幕府財政の立て直し
・洋式陸軍と海軍の編成
・幕閣と慶喜の信頼、友好関係の構築
これらの大事業を、慶永様が中心となって、同時に並行して進めている。その苦労は、京で俺がしている苦労など、遥かに及ばない程の苦労であろう。
「慶永様は、本当に強い。慶永様に比べれば・・・・・・、俺の強さなど強さとさえ言えないな」
美しくも御淑やか。
そんな慶永様のどこに、それ程の強さが秘められていたのか。
(これが、雪国人の強さ、か・・・・・・)
雪国の人間は、働き者で忍耐強い。
俺のクラスにいる新潟出身の友人も、雪国人のこの特性を豊富に持ち合わせていた。この時代に来た今となっては、なんとも懐かしくて、遥か昔の事のようにさえ思える。
(まぁ、そんな事はどうでもいい)
雪国の人間、と言えばもう一つ忘れてはならない事がある。
それは、責任感の強さだ。
雪国人は、特に責任感が強い事で有名だ。
しかし、忘れてはならないのは、責任感とは誰に対しても同様に働くわけではない、という事だ。
誰に対しても何事にも責任感が強いとは、誰に対しても何事にも責任感が弱いと同義だ。
責任感が強くなるのは、特定の人物たちに対してのみ。そうであってこそ初めて、責任感が強い、と言う事ができるのだ。そして人は、信頼の強さに応じて、責任感を強くするものだ。互いの間に強固な信頼がなければ、責任感などは生じない。責任感とは、信頼があってはじめて成立するものなのだ。
「・・・・・・俺も、慶永様に応えねば、な。
さもなくば、この刀を渡したあの方が、むこうで怒る」
抜き放たれた水龍の刀身が、空を流れる雲を鏡の様に映し出す。
俺は、そこに大空で見守るあの方の姿を見た。
雲はいつもにも増して早く、大空を駆け抜けていく――。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―東本願寺境内―
「目は最後まで開き、目標から決して目を逸らすな!」
『はっ‼』
境内に威勢のいい声が響き渡る。
その声は心地よく、聞いているこちらまでが清々しい気持ちになる。
葵隊は、『天誅組の乱』後も新兵ないし隊士を順調に増やし、装備を大幅に充実された。葵隊の軍事力は拡充され、中小大名を凌ぐ勢力へと成長した。人材の育成・発掘も順調に進んではいたが、最大の急務である事は今でもさして変わってはいない。それどころか、葵隊が今後さらに成長するためには、有能な人材は喉から手が出る程に必要とされる。
そうした事情もあり、葵隊の訓練は人見・伊庭両大隊長任せにはせず、俺自身も極力参加するようにしていた。
もっとも、俺の訓練は基本的には、戦略や戦術、組織運営等に重点を置いている。そのため、小隊長や隊長、その予備軍が俺の主な対象となってくる。
だが、新米隊士たちへの訓練も重要である事に変わりはない。
そのため、入隊間もなく、まだ正式な隊士となっていない者たちへの訓練は、俺が担当している。人見・伊庭両大隊長がもう少し訓練の経験を積めば、この役目を変わる事もできるだろう。
「三成、精が出るな」
「慶喜様」
声を聞くや否や、訓練に励む新しい葵隊の隊士三十名余りに、整列の命を下す。
隊士たちは、射撃訓練を中断し、指定されていた場所に整列する。その一連の動作には、全く乱れがない。その上、整列までの一連の動作は、速い事この上なかった。さして時間も経たない内に、隊士たちは整然と整列を終える。
声の主は、その様子を感慨深そうに見つめていた。
「大したものだな」
「当然です。ここにいる者は皆、基本動作を修得し、基礎の軍事訓練に取り組む者。この程度はできて当然です」
「基礎の軍事訓練?」
どういう事だ?
総督である三成が、どうしてその程度の訓練に自ら出向くのか?
葵隊には、伊庭、人見両大隊長や、渋沢隊長、春日隊長等がいるというのに・・・・・・。
私には、その理由が分からなかった。
私の表情からそれを察したのか、三成が説明を始める。
「基礎が不十分な者を、最初から経験豊富な者が鍛えても、鍛えられる側ですぐ大成する者は、そう多くはありません」
「なるほど・・・・・・」
「それ以前に、葵隊の隊長たちは、こうした訓練面での経験が多くはありません。そのため、この可能性がさらに強くなる恐れがあります。そればかりか、鍛えられる側はかえって萎縮してしまうものです」
たしかに、三成の言う通りだ。
葵隊では、隊士の訓練の大半を三成が中心に行ってきた。最古参の伊庭、人見両大隊長ですら、訓練面での経験は決して豊富ではない。まして、他の隊長たちはなおさらだ。彼女、彼らの大半は、隊長になってからまだ日が浅く、訓練の経験は両大隊長以上に乏しい。そんな者たちに、重要な訓練を任せるのは、いくらなんでも早過ぎる。
「そこで、私が基礎の軍事訓練で鍛え、一定の水準に達した者を、その者の能力に見合った部隊の隊長に預けます。
一定水準まで鍛えてあるので、訓練に慣れない隊長たちでも、安心して鍛えられます。
この訓練方法ならば、それ程脱落者は出ません。事実、すでに送り出した者たちは、今のところ一人として脱落していません」
(非常に合理的かつ効果的な訓練方法だ)
これならば、ほぼ確実に新兵を鍛え上げられる。そして、一定まで鍛え上げたられた新兵は、預けられる隊長たちの下で、自身の特性をさらに伸ばす事ができる。
隊長たちも、預けられた新兵を鍛える過程で、経験を積む事ができる。そればかりか、新兵の能力を十分に知る事ができる。それは、兵たちを指揮する上で、何にも代えがたい宝となる。
この訓練方法なら、新兵と隊長の両者を並行して鍛え、なおかつ両者が互いを知る事ができる。
「三成、考えたな」
「大和での戦いで失った兵力は、その時鍛えていた隊士で補いました。
その後、この訓練方法により、葵隊の兵力は三十隊、三百名まで増えました」
私の言葉を無視する様に、三成は説明を続ける。
「武器弾薬に関しても、横浜の渋沢栄一郎隊長の手腕により、かなりの量が供給されています。
現在、葵隊が保有する新式銃は、約百七十挺余りです。十分とは言えませんが、その数は確実に増えています」
声こそ抑えているが・・・・・・。
三成の声は、微かに震えていた。
三成にしては珍しく、胸を昂ぶらせているようだ。
「葵隊は、幕府軍の最精鋭にして、日ノ本最強の軍です」
「・・・・・・・・・⁉」
これ程覇気と気力に満ち溢れた三成を、これまで見た事があっただろうか、いや、一度もない。
私には、三成が母上と重なって見えていた。
だが、母上とは決定的に異なるものがあった。
(三成は、母上をも超えたか・・・・・・)
今の三成からは、私の母徳川斉昭をも凌ぐ覇気と気力が溢れ出している。しかし、三成の目は、母の様な野心を宿した目ではなかった。
あまりにも澄み渡り、目を合わせた者を魅了する。
その様な目だった・・・・・・。
それからどれ程の時間が経ったのだろうか?
私の意識を引き戻したのは、三成の声だった。
「慶喜、大丈夫か?」
地の三成が、私に声をかける。
気がつくと、三成の顔が眼前にまで迫っていた。
「だ、大事ない」
「・・・・・・あまり無理をするなよ。慶喜が倒れれば、俺たちは終わりだ」
耳元で、三成がそっと呟く。
「私は本当に大丈夫だ。それに・・・・・・」
今度は私が、三成の耳元に囁きかける。
「策の決行は明日だ。
それを前にして、体を害する様な事をするほど、私は愚かではない」
その言葉に安心したのか、三成はそれ以上言葉を発する事はしなかった。
その代わりなのか、三成は私の言葉に笑みを返す。
(美しい・・・・・・)
その笑みは、女の私ですらそう思う程に美しかった。
そしてその笑みは、私の知らない、新しい三成の笑みだった―。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―八月十八日(深夜)―
「・・・・・・総督、葵隊配置につきました」
「会津藩、配置完了しました・・・・・・」
「桑名藩も右に同じ・・・・・・」
次々と来る伝令が、主語を変えて同様の報告を繰り返す。
静かに、迅速に、そして確実に、策は進められていく。小さな針の穴に糸を通すが如き繊細さ、絡まる糸を両断するが如き大胆さ。対極に位置する二つの手法によって、策が進められていく。
策が進められるのに伴い、俺の緊張も急速に高まっていく。
その緊張は戦いの緊張とは異なる、政治の駆け引き特有の緊張だった。
「総督、薩摩藩の配置完了しました」
待ちに待った報告が、漸く俺のもとへもたらされた。
これで、全ての藩が配置についた事になる。
策が漸く一段落ついたものの、俺の緊張は解ける事はない。むしろ、策が完成に近づいた事により、緊張はますます高まりをみせ、心臓の鼓動が急速に早くなっていく。戦場で抜き身の刀で向き合うに勝るとも劣らない殺気が、俺の身体を包んでいく。
「公家たちの招集状況はどうなっている」
「招集した公家の四割が、御所に参内を終えました」
予定より、公家どもの招集が遅れている。
事ここに至っても、まだ四割しか招集できていないとは・・・・・・。
「遅れている公家の屋敷に、兵たちを送れ!
最悪、公家どもを引き摺ってでも、御所に参内させろ!」
『ハッ!』
伝令たちが、一斉に走り去る。
(手荒ではあるが・・・・・・、この際やむを得まい)
今回の策には、慶喜と俺たちの運命が懸っている。いや、日本の命運を懸けた策とすら言える。
この策こそ、まさに日本の天王山。
かつての様に、無能な公家どもによって、全てを台無しにされてたまるものか・・・・・・。
「人見大隊長」
人見大隊長は、相変わらずの態度で俺の言葉に応じる。
人見大隊長からは殺気はおろか、緊張さえ感じられない。殺気と緊張が入り乱れるこの異様な状況の中で、その特異な雰囲気にはかえって信用と安心を覚える。
「何ですか、総督?」
「私は各藩兵の視察に向かう。私が戻るまでの間、指揮権を委ねる。
暫くの間、葵隊を頼む」
「承知しました!」
いつにも増した笑顔で俺に答える。
(この笑顔には、本当に癒される)
人見大隊長の笑顔に見送られ、俺は葵隊の一隊を連れて、視察へと向かった。
夏の盛りともなれば、盆地にある京の暑さは想像を絶するものがある。そして、その暑さは日が沈み切った夜でもひく事はない。いや、むしろ、日中に地面や建物に蓄積した暑さが解放され、暑さに疲れ切っている身体には昼以上に暑く感じられる。
それは今夜とて例外ではない。
馬を駆り、視察を続ける俺の額を、まるで滝の様に汗が流れ落ちていく。
もっとも、厳密に言えば、俺が汗を流すのは純粋に暑さのためだけではない。
「特に問題はないな・・・・・・」
「そのようですね、総督」
どこの藩兵も、出陣を間近に控えた様な面持ちをしている。
ある者は緊張のためか、手にする武器を握りしめている。
また、ある者は恐怖のためか、異常なまでに周囲を見回して落ち着きがない。
俺も人見大隊長の前でこそ平静を装っていたが、実際は彼女ら彼らと大差がない。全身を緊張が駆け巡り、策が失敗する事への不安と恐怖が絶えず襲ってくる。許されるのであれば、今この瞬間、この場で力の限りに、声の限りに叫びたい。しかし、首謀者の一人である俺には、その様な事をする権利はない。ただひたすらに、その思いに耐え忍ぶしかない。
異様な空気が、御所と御所の周辺にいる全ての者たちを包み込む中、俺は視察を続けた。
俺にとって唯一の救いは、夜風が時折吹く事だ。夜風が暫し吹くたびに一瞬ではあるが、この京の暑さが和らぐ。ほんの気休めでしかないが、俺にとってはありがたい。
人は苦しい時どんな些細な安らぎであっても欲するというが、どうやらそれは本当らしい。
「ん・・・・・・?」
会津藩の受け持つ一帯では、ただならぬ気配が漂っていた。
それは、以前に大和で経験した戦場の空気に、果てしなく近いものだった。いや、より正確に言えば、戦いが始まる直前、あの異常なまでの殺気と緊張の高まり、そのものだった。
俺の脳裏を最悪の事態がよぎるのに、それ程の時間はかからなかった。
「すまないが、誰か会津藩兵の様子を、見てきてくれ」
「ハッ」
一人の隊士が、会津藩兵の下へと駆け出して行く。
その後ろ姿はすぐに闇にとけ、馬上からでも分からなくなる。
隊士を向かわせてどれ程の時間が過ぎただろうか?
おそらく、まだそれ程時間が過ぎたわけではない。しかし、会津藩の受け持つ一帯から流れ出る殺気と緊張は、その濃度をいよいよ強めている。周辺の空気は、肌を刺す様な鋭さを持つようになっている。先程までは心地よかった夜風も、今となっては濃厚な殺気を送り届ける不快極まりないものと化している。
(これは本当に、最悪の事態を覚悟する必要があるな・・・・・・)
軍師の基本的な役目は、常に最悪の事態を想定し、それに対する対処法を考える事にある。言い換えれば、最悪の事態を考え続けられる人物こそ、軍師の適性があると言える。
(根暗な俺には、軍師の職は天職だな)
改めて、自分には軍師の適性があると感じさせられる。
この状況で、それを実感させられるとは、何とも皮肉な話だ。
「・・・・・・まぁ、それはそれとして。漸く戻った、か」
すると、様子を見に行った隊士が、軽く息を乱して駆け寄ってくる。
隊士の表情から察するに、あまり良くない報告がもたらされそうだ。
「報告します!この先で会津藩兵が、浪士たちと睨み合っています」
「浪士だと・・・・・・?」
俺の脳裏に、最悪の事態とその結末がそれまでの文字から、瞬時に映像化される。
「人見大隊長に、至急伝令を送れ!
急ぎ、葵隊をこちらに回せ、とな」
「ハッ」
「両者が睨み合う場所に向かう。随行の葵隊士たちは、臨戦態勢!」
『承知‼』
兵力は少ないが・・・・・・。
兵の士気
兵の質
装備している武器の性能
実戦経験
これらの諸条件を冷静に考えれば、人見殿が援軍を連れて来るまでならば、十分に持ち堪えられる。
(流血という状況は、できる事ならば避けたかったが・・・・・・)
流血なくして、世を変える事はできない。
遅かれ早かれ、この様な事態は必ず来るものだ。
それが少しばかり早く訪れた。
俺は自身にそう言い聞かせ、必死に自身を納得させようと試みた。しかし、残念ながら俺はそれで納得できるほど軍人としては優秀ではないようだ。事ここに至っても、流血の事態だけは避けたい、との甘さが俺の中では根強く残っている。いや、残っているどころか、その理想論が実現する可能性を頭の隅で計算している。
これまで、さんざん手を血で汚してきた俺が、くだらない事この上ない理想論に執着している。
自分自身がひどく滑稽に見えた。
俺は自分を笑いつつ、馬を必死に走らせた。
「私は、幕府歩兵奉行直江三成である!
帝が住まわれる御所を騒がすとは、一体いかなる了見か!」
俺が現場に駆けつけると、両者は互いに刀を抜き放ち、槍を向け合い、激しく火花を散らせていた。俺が駆けつけるのがもう少し遅れていれば、十中八九この場には血の雨が降っていた事だろう。
まさに、一触即発。
凄惨な殺し合いが始まる直前だった。
「双方、共に武器を収めよ!ここで争う事は、すなわち帝に対し刃を向けるも同じであるぞ‼」
俺の言葉を受け、両者は一時的にではあるが武器を下ろす。しかし、殺気までが消える事はなく、両者がいつ武器を掲げて殺し合いを始めてもまるでおかしくない。もしその様な状況になれば、真っ先に血祭りに挙げられるのは、間違いなく俺だろう。
俺の今置かれた状況こそ、綱渡り、というに相応しいだろう。
「ん・・・・・・?」
浪士たちの中に、見知った顔があった。
深夜とは言え、親友の顔を俺が間違える筈はない。
「土方殿?土方歳三殿ではないか!」
「久しぶりだな、三成殿」
公の場であるため、互いに敬語を付けてはいるが・・・・・・。
目を合わせただけで、俺たちは全てを理解し合っていた。
会津藩兵と浪士たちが睨み合う中、一介の浪士と幕府の歩兵奉行が目と目で語り合っている。
それは何とも異様な光景だった。
「三成殿は、この得体の知れぬ者どもを御存知か?」
睨み合いを続ける、会津藩兵の指揮官らしき初老の男が声をかける。
頑固一徹を絵に描いた様な、なんとも渋い表情をした男だ。
「この者たちは、壬生浪士組。
会津藩お抱えにして、一橋慶喜卿が後見する、幕府麾下の武士たちだ」
初老の男は、なおも疑念に満ちた目を歳さんたちへと向ける。歳さんたちの素性を、いま一つ信用していないようだ。ここまでくるとその態度は、頑固一徹を超え、もはや頑迷固陋と呼ぶに相応しい域に達している。
こうしたタイプは、奸佞邪知や狡知佞弁と共に俺が最も嫌う輩の一つだ。
こうした輩は見せかけだけで、実際は何の役にも立たない。いや、むしろ、存在するだけで味方に害をもたらす。百害あって一利なしとは、こうした輩のためにこそある言葉と言えるだろう。
「壬生浪士組を中に入れよ。
幕府歩兵奉行の権限で許可する!
もう一度言う、壬生浪士組を中に入れよ!」
幕府歩兵奉行の権力まで行使され、頑迷固陋の初老の男も渋々引き下がる。
あまり好ましいやり方ではないが、こうした輩にはこの方法がもっとも有効だ。敢えて気にする事もないだろう。
「三成、すまない・・・・・・」
「・・・・・・気にするな、歳さん」
擦れ違いざまに、目を合わせ、小声で呟き合う。
「人見大隊長のもとに、伝令を送れ。
援軍不要。葵隊は、初期配置に戻り、己が勤めを全うせよ、と」
「ハッ!」
伝令が、葵隊のもとへと駆けてゆく。
空を覆う雲が消え、月がユックリとその顔を現す。
月明かりと薪の火に見守られ、全ての準備が完了した。
長い時間をかけ、漸く策がなった―。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
八月十八日深夜。
帝も交えた緊急の朝議により、京都における勢力図は、一夜にして激変した。
・三条実美ら尊攘派公卿七人の京都追放
・長州藩の御所警護の御役召し上げ
・長州藩の京都即時追放
・一部公卿、武士の参内禁止又は追放
・この朝議以前の全勅命の無効
これらの案が、全会一致で可決され、勅命として発せられた。
寝耳に水のこの勅命に、長州らの尊攘派はかつてない程の衝撃を受けた。そして、久坂玄瑞が中心となり、武装した長州藩兵や多数の尊攘過激派が各門に押し寄せた。それにより、各門を守備する部隊との間で、一触即発の睨み合いが起こっていた。
「そこをどけ!帝に直接対面し、勅命の誤りを訴える!」
「偽りの勅命を乱発した奸臣が、何を言うか!恥を知れ‼」
「黙れ!貴様らこそ、奸臣であろう!」
両者は、互いを罵倒し合い、その罵倒も徐々にエスカレートしていく。
長州藩兵らは銃に火をつけ、門の守備に当たる部隊を威嚇する。
門の守備に当たる部隊もまた、負けじと銃口を向け長州藩兵らを威嚇する。
戦争直前の空気が、御所全てを包み込む。
―御所の一室―
「総督、長州藩兵は一向に各門から引き下がりません!」
「総督、各門の守備隊から対応要請が来ています!」
各門の守備部隊から、切迫した状況を伝える報告が相次いで届けられる。部屋にいる者全員の顔が、徐々にではあるが険しさを増していく。全く見通しが立たない状況が、この場にいる者たちの緊張と不安を昂ぶらせる。
(長州も必死という事か・・・・・・)
朝廷での実権を奪われ、京からの追放される。
それが意味する事。
それは、京における尊攘派の完全敗北、長州の失脚を意味する。
当然、長州が大人しく引き下がる筈がない。
「敵ながら、長州の執念は見事と言えます」
緊張が高まる中、三成は他人事の様に、そう呟く。その態度は、あまりにも冷静で泰然としたものだった。三成のその姿を見た事で、私をはじめとする部屋にいる多くの者たちが、少しばかり落ち着きを取り戻す。
「三成、どう対応する?」
この場にある全ての視線が、三成へと集まる。その視線のどれもが、藁にも縋る様なものだった。
「各門の守備隊に伝令。
長州藩兵に、最後の撤兵勧告を行え。もし、長州が聞き入れなければ・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
この場の時間が止まる。
時間が止まり、御所に満ち溢れる殺気すらも、一時的ではあるが遮断される。
時間軸が、三成を中心に動いているかの様だった。
「全ての責任は、幕府歩兵奉行たる私が負う。各門の守備にあたる全ての部隊に、武力行使をはじめとする、勅命断行のためのあらゆる軍事行動を許可する!」
三成の決断に、その場にいる誰もが驚きを隠せていない。
誰もが、三成の決断を正しいと思い、その決断に敬意の視線を送っている。
『承知‼』
その場にいる誰もが声を発し、三成の決断に応える。
「お前は時に、普段からは予想だにしない事をするな・・・・・・」
「最前線にいる者たちは、俺たちが今こうしている間も命を懸け続けている。
俺たちも、それに見合った覚悟をしなければ不公平だろう?」
部屋にいた者たちが、慌ただしく動き回る中、私と三成はその慌ただしさの外にいた。
「お前の様な者を、英雄と呼ぶのかもしれんな・・・・・・」
「・・・・・・容保殿や定敬殿がこの場にいれば、俺と同じ決断をしただろう。俺は人の上に立つ者として、当然の事をしたに過ぎん」
三成は、相も変らぬ純粋な目で、私の言葉に答える。
「私は、三成のその目と態度が好きなのかもしれんな・・・・・・」
本人には聞こえぬ声で、私は静かに呟いた――。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
『八月十八日の政変』を起こした夜から、早くも数日が過ぎた。
この数日は何事もなく過ぎ、京の町は平穏そのものだった。日本の政局を大きく変える大事件が、ほんの少し前この町を舞台に起こった事がまるで嘘の様だ。それどころか、今この瞬間もこの平穏な町が日本の政局の中心に位置している事さえ、嘘の様に思える。
少なくとも、何も知らない者がこの京の町の様子を見れば、そう思う事だろう。
「あまりにも平和過ぎる」
俺も平和が嫌いなわけではない。むしろ、一刻も早く幕末のこの日本に平和がおとずれ、平穏な日々が送れる時が来る事を切望しているとさえ言っていい。
だが、その条件を満たす要素が何一つない状況下でのこの平穏には、安心よりも不気味さを覚える。
そんな事を感じつつ、俺は書類仕事へと戻った。
気分を切り替え、書類仕事に没頭してからそれなりの時間が過ぎた。しかし、俺は筆を止める事無くただひたすらに書類を一枚、また一枚と片づけていった。
その様に俺が書類仕事に没頭していると、
「総督、土方副長がお見えになっております」
「すぐ、ここに通してくれ」
葵隊の隊士が、親友の訪れを告げる。
俺は手に取っていた書類を適当に片付け、訊ねてきた親友を部屋に迎え入れた。
「よく来てくれた、歳さん」
部屋に入ってきた歳さんは普段身につけている黒の袴の上に、新たに正装となった浅葱色の羽織を着ていた。表情もいつもとは違い、少々硬めになっている。
どうやら、今日俺のもとを訪れたのは、新撰組副長としてでもあるらしい。
「今日は、あの時の礼を言いに来た」
「責任者の一人として、当然の事をしたまでだ」
頭を下げる歳さんに、無機質に言い放つ。
あの場での俺の判断は、責任者としては至極当然の事。礼を言われる程の事ではない。むしろ、最前線にいる兵たちに危険を強いた事を、俺は責任者の一人として謝罪しなければならない。
だが、私的な立場の者としてそれはできても、公的な立場の者としてはそれができない。
そんな自分が、俺は腹立たしかった。
「まったく、礼くらい素直に受け取ったらどうだ」
「俺は、こういう性格なのでな・・・・・・」
俺の言葉を聞き、歳さんは肩をすくめる。
(今の言葉、歳さんにもお返しするよ)
喉まで出かかる言葉を辛うじて抑え、歳さんに視線を返す。
「それにしても・・・・・・。
あの時の決断で、数えきれない多くの命が救われた。
三成には、感謝してもしきれんな」
遠い昔でも思い出すように、歳さんは目を細める。
「繰り返しになるが・・・・・・、俺は指導者の一人として、当然の事をしただけだ。感謝されるいわれなどない」
頭を下げる歳さんから目を逸らす。
だが、ここまでストレートに感謝されると、自分の下した決断が多少の意味を持った事を嬉しく思う。
後世、『八月十八日の政変』と呼ばれる事になる、この佐幕派勢力のクーデター。
その直後、クーデターを起こした佐幕派勢力は、御所に駆け付けた長州藩を中心とする尊攘派勢力と一触即発の緊張状態に陥り、両者一歩も引かぬ睨み合いを続けた。佐幕派勢力は、数でこそ長州藩等を凌いではいた。しかし、葵隊や会津藩、桑名藩、薩摩藩を除けば士気が乏しく、長州一藩にさえ圧倒される状況が続いていた。
クーデターが成功するかは、まさに綱渡り状況だった。
そうした状況の中、勅命断行のためのあらゆる軍事行動が許可。
それにより、佐幕派勢力全体の士気は高まり、根負けした尊攘派勢力は兵を退いた。そして、追放処分を受けた七人の公卿を連れて、長州藩の領国へと落ちて行った。
その結果、このクーデターはさしたる流血も見る事なく、佐幕派勢力の勝利で幕を閉じた。
ちなみに、このクーデターでの流血は、淀藩兵の一人が槍を落とし、それに当たった同藩兵の一人が鼻血を出した。この何とも拍子抜けする出来事が、唯一の流血だった。
「最前線で命を懸けた、歳さんたちがいたからこそ、今回の政変は成功した」
「たしかに、そう言う見方もできる」
歳さんは茶を啜りながら、素直に賛意を示す。普段は素直でない歳さんにしては、恐ろしい程に素直だ。あまりにも素直すぎるので、歳さんが病気か何かではないかと勘繰ってしまう。
もっとも、それが杞憂に過ぎない事は誰の目にも明らかだ。
目の前に座る歳さんは、健康体そのものなのだから。
「そんな事よりも、だ。このたびの新撰組への改組、おめでとう」
「三成のお蔭だ。
壬生浪士組の頃とは異なり、新撰組は幕府直属の組織となった。これなら、今回の様な事はもう起こらん」
歳さんは目を輝かせ、これまで見た事のない程の笑顔を浮かべる。
新撰組への改組が、余程うれしいのだろう。
「幕府直属の組織になった事に加え、指揮系統も三成の下だ。これなら、存分な働きができる」
「確かに、その通りではあるが・・・・・・。
新撰組が、市中警護の役目を続ける以上、その統括者である会津藩の下にもある事を忘れるな」
その必要性はないとは思いつつも、しっかり歳さんに釘をさす。
(好事魔多しとも言うぞ)
その警告の意味も込めて・・・・・・。
「ところで、一橋卿はどこにおられる?」
「慶喜様なら、これまでの経過・詳細報告、幕閣との対面と意思疎通のため、いったん江戸に戻られた。暫くは京には戻られない予定だ」
「なるほど・・・・・・。
それで、それ程の書類の山ができた、というわけか」
「・・・・・・そう言う事だ」
文机にできた四つの書類の山に目をやる。
書類の山は四つもあり、それらを見るだけで頭が痛くなってくる。
(現代の官僚でも、これ程の書類仕事はやるまい)
もっとも、コンピューター社会の現代と幕末を比べるのも、どうかとは思うが・・・・・・。
まぁ、敢えてそこは気にすまい。
「三成、これを・・・・・・」
歳さんは、懐から印籠を取り出し、俺に渡す。印籠は多少の重さがあり、何かが入っている事が分かる。
「疲れをとる薬だ。これを呑めば、多少は疲れがとれる筈だ」
「・・・・・・すまない」
歳さんの行為に、素直に頭を下げる。
「京の佐幕派勢力の要は三成だ。
三成が今倒れれば、我らは行動できなくなる。それを忘れるな」
先程とは打って変わり、今度は俺が釘を刺される。
「歳さんの忠告、ありがたく受け取っておこう。
だが・・・・・・」
視線を外へと向ける。
それに合わせて、歳さんもまた、視線を外へと向ける。
「俺が休む事を、天が許しはしない様だ」
「・・・・・・・・・・・・」
先程までの晴れ渡った空は消え、分厚い黒い雲が空を覆う。
「嵐が来そうだな・・・・・・」
大地を闇で包み、黒い空は不気味な咆哮をあげる――。
龍虎相打つ
龍虎相打つ
『八月十八日の政変』によって長州ら主要な尊攘派は京から追放された。
それにより、三大勢力の一角が崩壊し、慶喜と薩摩の二勢力が、京で向かい合う形になった。しかし、薩摩に従来の力はなく、慶喜の勢力が単独で京を掌握する事になった。
それにより、今日には暫しの平和が訪れた。
だが、その平和は長く続きはしなかった。
尊攘派勢力の盟主長州が失脚した事により、尊攘過激派はその統制を失った。統制という鎖が突如外された事により、各地の尊攘過激派は再び暴走を始めた。それは以前の様な人斬りのテロ行為を超え、武装蜂起という形で激しく燃え上がった。
但馬国生野では、平野国臣が澤宣嘉を盟主として蜂起。
世に言う『生野の変』である。
それ以外にも、土佐の武市半平太率いる土佐勤皇党、水戸藩の藤田小四郎率いる天狗党、その他の尊攘過激派らが相次いで蜂起した。
尊攘過激派の暴走は、ここにその頂点を極めたと言える。
そうした状況の中、慶喜や俺は葵隊や幕府洋式陸軍等を率い、それらの鎮圧に追われる事になった。しかし、いずれの蜂起も十分な計画性と連携がまるでなかった。その上、いずれの蜂起も民衆の支持を得る事ができなかった。それにより、慶喜と俺は各地の尊攘過激派をさして苦戦する事もなく、次々と鎮圧。
結果的に、一連の戦いを通して葵隊の実戦経験は、実に豊かなものとなった。実戦経験を数多く積めた事が、この尊攘過激派蜂起における葵隊の最大の収穫と言えた。またそれに加え、幕府からの資金援助や一部特権をも承認され、葵隊のさらなる増強へと繋がった。
「だが、まだ十分ではない・・・・・・」
葵隊の増強は、まだまだ不十分極まりない。隊士の質は高く、実戦経験も豊富に積み、資金・武器弾薬も潤沢になりつつはある。しかし、葵隊の兵力はいまだ四百にも満たない。いかに幕府軍において最強最精鋭とはいえ、これでは十分な戦力とは言えない。
戦いにおいて、兵の質の高さは勝敗を左右する重大な条件の一つだ。兵の質が高いに越した事はなく、高ければ高いほど良いと言える。しかし、兵の質は勝敗を左右する条件の一つであって、絶対条件ではない。
兵の数もまた、兵の質に勝るとも劣らない勝敗を左右する条件だ。
歴史上、少数精鋭を以て大軍に勝利した事例は数多く存在する。それと同様に、圧倒的な数を以て、質で勝る敵を圧殺した事例もまた数多く存在する。古来より、兵の質と兵の数はいずれも疎かにできる事ではなく、一方に偏る事なく両者のバランスを取る事が重要だ。
葵隊を数の面から補強しなければ、来たるべき戦いに勝つ事はできない。
俺には、確かな確信があった。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
ー東本願寺/境内ー
「人見大隊長、新兵の訓練はどうなっている?」
「う~~ん、新しく訓練に入ったのが、だいたい三十人。訓練を終えた新兵は、すでに配置されてるから~~、全部で百三十人ってところですね」
「となると、現在の葵隊の総兵力は三十九隊、三百九十名というところか・・・・・・」
葵隊の結成時に比べれば、隊士の数は十倍以上にまで増えている。しかも、兵の質をそれ程落とす事もなく、限られた時間の中で、ここまで増強できたのだ。
平時ならば、上出来を通り越し、完璧と言ってもいい出来だろう。
だが、それはあくまでも平時ならば、だ。
(非常時の時は、それでは十分ではない)
今は軍事力が、そのまま権力へと直結する血生臭い時代。
優秀な兵は、喉から手が出るほどに欲せられる。優秀な兵一人の差が、明暗を分ける事さえ珍しくない。ましてや、今は長州との戦いを目前に控えた時だ。優秀な兵は、いくら多くても困らない。
「新兵の訓練と募集を急げ、人見大隊長。私は、一兵でも多く精兵が欲しい」
「全力で総督の要望に応えてみせるわ」
難しい命令であるにも拘らず、人見殿は笑って答える。
(いかにも、人見大隊長らしい・・・・・・)
人見大隊長は、ただ有能なだけの指揮官ではない。有能な指揮官であると同時に、笑顔を絶やす事のない、鷹揚な指揮官でもある。そのため、人間としての魅力があり、深さがある。組織というのは面白いもので、優秀な人材だけでは上手く機能しない。優秀な人材の鋭さと、太陽の様に包み込む温かさがある事で、初めて十分に機能し発展もする。
俺が人見殿を片腕たる大隊長の一人にしたのもそのためだ。
走り去る人見大隊長を見ていると、
「総督」
背後から、涼しげな声が俺を呼ぶ。
「伊庭大隊長、何か用か?」
「はい。横浜の渋沢栄一郎隊長から、武器弾薬の補給と資金が届きました」
その報せに、俺は玩具をもらった子供の様に喜ぶ。
それは俺が待ちに待っていた知らせだったからだ。
「これで、葵隊の保有する新式銃は、二百三十挺になった。まだ十分とは言えないが、これでさらに、戦術に多様性が持たせられる」
「総督・・・・・・。これで、総督が望まれる戦いに、また一歩近づきましたね」
伊庭殿も涼しい笑みを浮かべ、喜びを分かち合ってくれる。
(ん・・・・・・!)
背後から独特の気配を感じ、素早く体を動かす。
その直後、俺がいた場所に人影が倒れ込む。
「なんで避けるのよ~~、三成!」
「毎度毎度、貴女の登場方法につき合うなんて、真っ平ですよ。平岡円四郎殿」
すると、眼前の人は頬を膨らませ、そっぽを向く。
(やれやれ、まるで子供だな・・・・・・)
円四郎の態度に半ば呆れつつも、仕事中であるため、やむなく仕事の話に水を向ける。さすがに、仕事中は公事と私事を混同するわけにはいかない。本当に円四郎と仕事をするのは、面倒くさい事この上ない。
「ところで、甲州隊の方はどうなっているのです?」
円四郎の表情は相変わらずだったが、仕事の話であるため、渋々といった様子で答える。
「三成たちの訓練のお蔭で、漸く形が整ってきたってところね。一応は、軍隊らしくなったわよ」
円四郎がこう言うのなら、まず問題はないだろう。
その性格はともかくとしても、円四郎は仕事に関しては極めて非凡な才能の持ち主だ。少なくとも、仕事に関する話だけならば、十分に信頼するに値する。
「ただ・・・・・・、人数が五十人まで増えた分、新式銃が絶対的に不足してるわ」
先程までとは異なり、円四郎の顔は真剣そのものだった。
「元込式のスペンサー銃が二挺、スナイドル銃が六挺、先込式のミニエー銃が十挺。あとは全て、旧式のゲベール銃よ」
たしかに、甲州隊の新式銃の数は絶対的に不足している。それは、旧式銃のゲベール銃がメイン装備の銃であるという時点で、あまりにも明々白々過ぎる事だ。
しかし・・・・・・。
「円四郎、貴女の言いたい事はよく分かります。しかし、新式銃が優先的に配備される葵隊でさえ、全隊士が装備できてはいないのが現状です。その点も理解していただきたい」
その状況下にも拘わらず、新設部隊の甲州隊にも数こそ少ないが新式銃をまわしている。お世辞にも優れたやり方だとは言えないが、戦力の多様化を図り、なおかつ戦力としての質向上を図るためだ。そのためならば、多少の非合理化とそれに伴うリスクはやむを得ない。
葵隊の増強を急ぎつつも、甲州隊の充実も急がねばならない。
それが俺たちの現実だ。
今以上に新式銃を回すなど、明らかに無理な相談だ。
慶喜の側近を務めるだけあって、円四郎も馬鹿ではない。
俺が言外に言わんとしている事を察したらしく、目で俺を見つめ全く逸らそうとしない。円四郎は目で力強く頷く。
「す、すまないわね。無理を言って・・・・・・」
その直後、円四郎にしては珍しく萎れた声を出す。
その声を聞いたこちらの方が、罪の意識を感じてしまう。
「・・・・・・甲州隊に回す新式銃の数を増やせるよう、可能な限り俺も尽力しよう」
俺としては、そう答えるのが精一杯だった――。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
「以上が、葵隊及び甲州隊の現状だ」
「・・・・・・そうか」
三成からの報告を聞き終えたが、私の関心はそれとは別のところへと向けられていた。いや、三成の報告の最中より前、三成が私の居室に入ってきた瞬間から、私の関心はそれに向けられていた。
(ひどく窶れたな・・・・・・)
頬が痩け、目の下には濃い隈ができている。滲み出る疲労は、三成の憔悴をより一層引き立てる。そして、その変わり果てた三成の中で、二つある目のみが異常なまでの輝きを放っている。
私は今、目の前にいる三成に対し、かける言葉が見つからなかった。
その容貌は、あの政変の夜以来、三成がどれほど奮闘してきたかを想起させるには十分だった。その奮闘は、私の想像など遥かに超え、及びもつかない程のものだろう。
そんな私が一体どんな言葉をかけられる。
私には、私のかける言葉全てが冒涜に思われてならない。
だがそれ以前に、私は涙を押し止めるだけで精一杯だった。
それから、私は何度も言葉を発しようと試みた。
しかし、その度に激しい葛藤が起こり、私の思いが言葉になるのを阻んだ。辛うじて言葉を発せても、それはまるで言葉の体を為していなかった。その後も、同じ様な事の繰り返しが何度となく続いた。
私が漸くまともな言葉をかけられたのは、最初の試みから四半刻程過ぎてからだった。
しかも、苦労の末にその言葉をかけたのは、
「三成、お前は少し休め」
三成が引き続き報告をしている最中だった。
かけた言葉も、あまりにも礼を逸したものだった。
「慶喜、どういう事だ?」
「そのままの意味だ。お前は少し休め」
私は無礼を承知の上で、次の言葉を紡ぐ。
三成は、あまりに働き過ぎている。
これは、私の贔屓目などではない。ましてや、三成の最も嫌う特別扱いでもない。これは、私も含めた全ての者が一人の例外なく抱き、思っている事だ。いや、思わずにはいられない事だ。
このまま働き続ければ、三成は確実に過労で倒れる。
私としては、それだけは避けたい。
佐幕派の者として、三成の主君として、そして何より一橋慶喜個人として・・・・・・。
「三成、近く長州との間で戦が起こるという事は、私にも分かった。未来から来たお前が言うのだ。まず、間違いはないだろう」
事実、これまで三成が起こると言った事は、全て確実に起きている。井伊大老による大弾圧然り、生野での平野国臣らの蜂起然り、水戸での天狗党の蜂起然り、だ。
「しかし、休む事もまた、三成の大切な仕事だ」
三成はなおも、何か言いたげであったが、それは無視して下がらせる。
これで、多少なりとも休息をとってくれればいいのだが・・・・・・。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
ー京の町某所ー
(さて、どうしたものか・・・・・・)
慶喜から、休め、と言われたからやむなく休む事にしてみたものの。仕事がなければ、俺にはとりたててする事がない。ただ、無駄に時間と金があり余っているだけだ。
気分転換に町に出てみたが、思った程の気分転換にもなりはしない。それどころか、逆にやるべき事があまりにもなさ過ぎて、かえって気分が滅入ってくる。そこに盆地の町京都特有の暑さが加わり、ますます気分を滅入らせる。
しかも、
「三成様!」
「三成様だ‼」
先程からずっとこの調子だ。
正直言って、今のこの気分では彼女ら彼らにまともに反応する事さえ、非常に疲れる。
「皆、相変わらず元気なようで何よりだ」
しかし、そこは俺も政治家の端くれ。彼女ら彼らを無下に扱う事などはせずに、こうしていちいち反応している。少し面倒だと思わないでもないが、不思議な事にそれを打ち消す充実感が俺自身を満たしていく。
それがなんとも心地よい。
俺に話しかけてくる町の人々は、上は老人から下は子供まで実に幅広い。
そんな町の人々に共通しているのは、
「三成様のお蔭で、女房もすっかり良くなりました。ありがとうございます」
「三成様、また遊んでよ~~」
「子供たちが、読み書きできるようになったのは、三成様のお蔭です」
「三成様、お茶でも飲んでいってくださいな」
「三成様のお蔭で、日々の糧を得られました。ありがとうございます」
と、非常に親しみをもって話しかけてくる事である。その言葉の端々には、限りない暖かさと優しさが溢れている。少し煩わしいと思わないでもないが、それほど悪いものではない。
やる事もなく時間を持て余していた俺にとって、ほどよい時間潰しにはなる。
とは思うものの、正直言って下手な権謀術数を巡らすより清々しいのもまた事実だ。
「葵隊の隊士が、何か迷惑をかけていませんか?」
そ俺は、社交辞令のつもりで何気なくそう尋ねる。
「とんでもございません‼」
すると、一人の老人が大げさな素振りで俺の言葉を否定する。
「隊士の方々は礼儀正しく、私共が困っていると、力も貸してくれます。町の者は皆、感謝こそすれ、迷惑とは思っていません」
老人の話に、周囲にいる誰もが笑いながら頷いている。頷く彼女ら彼らからは、示し合せ特有の不自然さや違和感などまるで感じられない。どういった意味合いでかは不明だが、少なくとも嘘偽りがあるとは感じられない。
葵隊が人々に受け入れられているのは、どうやら本当のようだ。
(人の和なくして、大業ならず)
古来より、大業を成し遂げるためには天の時、地の利、人の和が必要不可欠とされてきた。しかし、天の時、地の利の二者を味方にする事はできても、人の和を味方にできず道半ばで倒れた者は多い。人の和こそ、大業を志す者の明暗を分けると言っても、過言ではないだろう。いかに崇高な大業であろうと、人の和なくして成し遂げられはしない。
天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。
だからこそ、大業を志す者は常にこの言葉を教訓とせねばならない。
そう考えれば、葵隊が人々に受け入れられたからと慢心する事はできない。もし、俺がそれに慢心し、葵隊設立の目的と意味を見失えば、この感謝は即座に恨みへと変わるだろう。そしてその瞬間、慶喜と俺の大業も終わる。
(この笑顔を護り、応えなくてはな・・・・・・)
幕府歩兵奉行として、一人の武士として、俺は改めて為政者の役目、という重さを実感させられた。
これまで俺は、為政者の為すべき事や義務を本で知り、頭で理解しているだけだった。頭で理解した事に満足し、それで全てを理解したと思いあがっていた。しかし、それは上辺を理解したに過ぎなかったのだ。単なる理論としてではなく、現実として身体で理解しなければならなかったのだ。そうして、はじめてその本質そのものを理解できるのだ。それで漸く、地に足を着ける為政者となるのだ。
「今になって理解するとは、な・・・・・・」
これでは、円四郎の事を冗談でも馬鹿とは言えない。
不本意ではあるが、円四郎の方がある意味では為政者としては上だろう。
だが、今となってはそんな事どうでもいい。
今回の休息は、普段なら見えない多くのものを、俺に見せてくれた。
人々の笑顔が、花の様に咲き乱れている。
この光景こそ、俺たちが守るべきものであり、俺たちの理想の根底になければならない。
「・・・・・・たまには休息も、悪くない」
世の中には、位置を変えなければ見れないものが多くある。
それを見る事で理解を改め、本当に大切な『何か』が見えるようになる事もある。
今日、俺が学んだ事は些細な事かもしれないが、それで一向にかまわない。
その些細な事に気づく事が、本当は一番重要かもしれないのだから――。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―京/池田屋―
「御用改めである!」
「し、新撰組⁉」
「手向かう者は・・・・・・、斬る‼」
その日、京の旅館池田屋を土方歳三らの率いる新撰組が急襲。
池田屋で会合を開いていた尊攘派浪士らとの間で、激しい斬り合いとなった。
世に言う『池田屋事件』である。
この事件で、吉田稔麿や宮部鼎蔵、大橋又二郎ら尊攘派の大物が相次いで撃たれ、京における尊攘派勢力―実態は長州派―は壊滅的な打撃を受ける。これにより、京における尊攘派の政治力は大幅に低下。長州の復権、それに伴う尊攘派の朝廷での勢力回復は、絶望的なものとなる。
尊攘派蜂起の相次ぐ鎮圧。
京における同志たちの死。
それに伴う尊攘派の政治力の大幅な低下。
尊攘派の盟主たる長州の怒りと焦りは、事ここに至り頂点に達する。
長州では久坂玄瑞が中心となり、全国に残存する尊攘派に檄を送り、京に向け進軍を開始する。
長州ら尊攘派のこうした動きに対し、幕府・朝廷(佐幕派)は対決姿勢を鮮明にする。
朝廷は慶喜を禁裏御守衛総督に任命し、幕府は慶喜に対長州戦における総指揮権と諸権限を与え、その全権を委ねた。
慶喜は各地に檄を送り、長州の入京阻止を強く訴えかけた。
この檄に対して、容保や定敬だけでなく、薩摩をはじめとする多くの諸藩が応え、その諸藩の兵が続々と入京を開始。それに加え、江戸にいた慶永様も、越前福井藩兵を率いて上洛。
俺たちの士気は、大いに高まった。
攻め入るは、久坂玄瑞ら率いる長州軍。
迎え撃つは、慶喜を総司令官とする幕府軍。
決戦の時、『禁門の変』来たる――。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―東本願寺の一室―
「慶永様、お久しぶりです」
会う事が長く叶わなかった同志との再会に、俺は万感の思いを禁じえなかった。
そんな俺に応える様に、慶永様はあの優しい笑みを見せる。その笑みは以前とまるで変わらず、それが堪らなく嬉しかった。それと同時に、上洛から今日までの長さを感じずにはいられなかった。
「本当に久しぶりですね、三成さん。久しぶりの再会が、この様な形になるとは、なんとも皮肉ですが・・・・・・」
「それは仕方がありません。なにせ、今はこの様な時代です。こうした形で再会するのも、致し方がない事です。
それよりも今は、こうして再会できた事を喜びましょう」
その後、多忙のため互いに顔を合わせられずにいた慶喜や容保、円四郎も相次いで駆けつけた。そして、戦いの直前ではあるものの、ささやかな酒宴が開かれる事になった。
久しぶりの同志との再会という事もあり、酒宴は各々の立場を忘れての無礼講となった。酒宴に参加する誰もが、無事の再会を喜び合い、これまでの苦労を誇らしげに語り合った。そして、改めて自分たちの夢や理想を時を忘れて語り合った。
「いよいよ、長州との決戦だな・・・・・・」
酒宴たけなわの容保の一言に、皆の手が止まる。
酒宴の場に緊張が走り、暫しの沈黙がその場に立ち込める。
「長州はそれこそ、死に物狂いで攻め込んでくるわね・・・・・・」
「この戦いに勝てば、長州は自身の復権はおろか、大勢そのものを一気に覆せます。しかし、逆に敗北する事になれば、長州は復権どころか今ある全てを失う事になります」
それまでと打って変わり、円四郎や慶永も重々しい口調と真剣な雰囲気で言葉を紡いでいく。私も含めた全員が、飲んだ酒の酔いをすっかり醒ましていた。
「それも・・・・・・、『朝敵』という名のこの上なく素晴らしい恩賞つきで、です」
最後の三成の言葉に、その場にいる四人が真剣な顔で頷く。
誰もが、改めて理解したのだ。
今回の長州ら尊攘派との戦いは、かつてない激しいものになると・・・・・・。
「我が方の兵力は、およそ二万余り。兵力では長州を上回っているとはいえ、油断すれば我が方が敗北する事になるでしょう」
三成が珍しく、士気に障る事を言う。
普段の三成ならば、こんな事は決して口になどしない。
(軍神と呼ばれる三成でさえも、不安を感じているのか・・・・・・)
これまで三成は、私の軍師として、参謀として、いや実質的な司令官として、各地で蜂起した尊攘派と戦い、勝利を重ねてきた。その軍事的手腕には、私や葵隊のみならず、戦いに加わった幕府軍や諸藩からさえも、非常に高く評価されている。
三成はいつしか『軍神』、『上杉謙信の再来』と兵たちから呼ばれ、慕われるようになった。
その三成が口にするだけに、その言葉には他の者にはない重さがあった。
「三成、何か心配でもあるのか?」
「ありますね」
即答だった。
そこには迷いや躊躇は全く感じられない。
それどころか、ある意味清々しさすら感じる。
「会津、桑名、越前福井、そして葵隊。この四者は士気が高いだけでなく、その質と練度も極めて高い。また、越前福井藩を除けば、実戦経験も豊富です。前二者は、洋式訓練がまだ不十分ですが、それ自体はさしたる問題ではありません」
三成は、大きな溜息をつき、盃の酒を一気に飲み干す。
「また、幕府洋式陸軍は実戦経験もあり、十分に訓練も行き届き、さしたる心配はないでしょう。しかし、諸藩の兵はただ士気が高いだけです。長年の泰平になれ、実戦経験は極めて乏しい。そして何よりも、腰が定まっていません。
これでは、死に物狂いで攻め込んで来る長州の前には、一溜りもないでしょう」
三成の危惧―半ば呆れ―は、あまりにも的確に的の中央を射抜いており、誰も反論できない。
「今回の戦いでは、幕会桑福と葵隊が戦闘の核にならなければ、勝てないでしょう」
「三成さんの言う通りでしょうね」
慶永が真っ先に、三成の考えを支持する。
それに続き、他の二人も肯定の意思を示す。
それから私たちは、酒宴を軍議へと変え、策を練った。
ただ、勝利のために――。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
尊攘派の盟主たる長州の京への進軍に、激に応えた各地の尊攘派が相次いで合流。京近郊に近づく頃には、その兵力は三千八百余りにまで膨れ上がっていた。
各地の尊攘派の合流で勢いに乗る長州は、その破竹の勢いで入京。入京を果たした長州軍は、天王山、伏見、天竜寺へと布陣し、三方より京の市街に突入する構えを見せていた。
これに対し、幕府軍は御所に本陣を置き、長州軍の京市街地への突入を断固阻止する構えを見せた。その一方で、武力衝突を回避し、平和的解決を図るべく、長州軍に対して撤退を勧告する最後通牒を提示した。
―幕府軍本陣―
「撤退勧告は拒否された、か・・・・・・」
撤退を断固拒否する意思が、長州より示された。
形ばかりの撤退勧告ではあったものの、それに僅かばかりの淡い希望を抱いていた俺には残念でならなかった。
最後通牒が拒絶された事で、平和的解決の望みは完全に断たれた。今や残された選択肢は、長州との全面戦争による武力的解決の手段のみ。そして、それは同時に京の市街地が戦火に包まれる事を意味していた。
罪なき市民を苦しめる事が、なんとも心苦しい。
「・・・・・・大蛇、長州側の配置と動きは?」
「久坂玄瑞は真木和泉らと共に天王山に、来島又兵衛は天竜寺、大将の福原越後は伏見の長州藩邸に布陣。長州軍は、天王山にその兵力を集結させつつあります」
兵力をある程度は集結させつつも、完全に集結させはせず、いくつかに分けて布陣させる。兵力では劣るにも拘らず、それを承知の上で敢えて兵力を分散させる。
大胆かつ巧妙な用兵だ。
(だが、何か違和感がある)
京の姿勢を考えれば、兵力を分散させる事で長州はその地の利を得て、寡兵の利を最大限に生かす事ができる。
その点を考慮すれば、この長州軍の配置はそれなりに優れたものと言える。しかし、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。教科書の知識を応用した、という程度の印象しかないのだ。
久坂玄瑞という知恵者の人間性や智謀といったものが、この配置からは全く感じられない。
「大蛇、長州側の行動の信憑性は?」
「敵兵が天王山に移動して行く姿、天王山に揚がる旗の数が増えた事。これら二つを、私と配下の者が実際に確かめてございます」
烏組からの、大蛇からの報告に間違いがあった事は、これまで一度としてなかった。そして何より、今回の報告は、大蛇とその配下が慎重にも慎重を重ね、二度も確認している。
その報告に、間違いなどある筈がない。
(だがどうにも、この違和感が拭えない)
この違和感が何によるものなのか、それは俺自体にも分からない。しかし、俺の中にある何か、強いて言えば軍人のカンが、強く違和感を訴えている。
俺は違和感を覚えつつも、事態を見守るしかなかった。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
「撃て!」
その号令の下、長州軍の銃口が第一防衛線の幕府軍へと向けられ、一斉に火を噴く。長州軍の前に立ちはだかる幕府軍大垣藩兵は、戸板でも倒すかの様にバタバタと倒れていく。
「怯むな!こちらも撃ち返せ‼」
それに応じ、幕府軍側も一斉に撃ち返す。
この闇夜での銃撃戦により、『禁門の変』の火ぶたが切って落とされた。
―幕府軍本陣―
「天王山の方面の長州軍が、攻撃を開始。大垣藩兵と戦闘状態に入りました!」
伝令からの報告に、本陣全体に緊張が走る。
「戦況はどうなっている」
「長州軍の士気と勢いいずれも凄まじく、大垣藩兵は苦戦に陥っています」
その報告に対する三成の判断は、実に速かった。
「配置してあった増援部隊を、大至急第一防衛線に向かわせろ。また、周辺にいる遊軍も、大至急援護に向かわせろ」
三成は続けざまに指示を出し、本陣から伝令が相次いで前線へと送られていく。
冷静かつ合理的な判断が下された事で、本陣にいる誰もが、取り乱す事なく冷静さを保っている。
「一橋卿、これが三成の力なのですね」
容保が、眩しそうな目で三成を見つめる。
戦場での三成を見た事がない容保にとって、今目の前で指揮を執る三成の姿全てが新鮮なのだろう。
「さすがわ、妾の兄さまなのじゃ!」
容保の隣では、定敬が妙な事を言いつつ、三成への賛辞を繰り返す。
私たちがその様な話をするのを余所に、三成は次々と指示を出していく。
「それから、第二防衛線に通達。守りを固め、大垣藩兵らをいつでも収容できるようにさせておけ、とな」
「ハッ!」
三成の命を受け、さらに伝令が戦場へと走り去っていく。
最前線が破られる事を想定し、さらなる手を打っておく。戦場という特異な場では、視野や思考は否が応でも狭まる。後方にいる将の役目は、そうした状況下で、広い視野と思考で戦況を見定め、適切な手段を迅速に取る事にある。
今の三成は、戦と兵が求める最高最良の将と言える。
すると、それまで指示を下していた三成が私に向かい合う。
その瞬間、先程までの緊張感が私を包み込み、身体全体が痺れ、引き締まる戦場特有の感覚がおとずれる。それと同時に、私の中を獣の如き興奮が駆け巡る。
「慶喜様、朝廷の公卿対策をお願いします」
「公卿対策?」
私は、三成の要請に違和感を覚えた。
なぜ今、公卿どもの対策が必要なのか、と。
「権威や古い価値観に魂を縛られた公卿どもは、眼前に危険が迫ると十中八九臆病風に吹かれるものです」
「・・・・・・・・・⁉」
そうだ。
それこそが、この日ノ本の歴史が証明している、公卿と言う遺物どもの心だ。
「三成、お前は恐ろしい男だ」
私の言葉に、三成は笑みで答える。
「公卿どもに関しては、私が何とかする。三成は戦の指揮を続けてくれ」
「承知しました」
三成にこの場を任せ、私は公卿どもの下へと向かった。
「大垣藩兵、長州軍に押され後退!第二防衛線の部隊と合流を図っています」
「増援部隊はどうなっている」
「増援部隊も長州軍を阻止できず、大垣藩兵を庇いつつ後退中」
長州軍の勢いの前に、早くも最初の防衛線が突破される。差し向けた増援部隊や遊軍も、破竹の勢いで進軍する長州軍の前には、焼け石に水だったようだ。
(俺が予想していたよりも、少しばかり早いな・・・・・・)
俺の予想していた以上に、長州軍の勢いは凄まじい。怨念や憎悪、復讐に突き動かされる者たちの底力には、通常の計算では推し量れないものがあるようだ。まったくもって、面倒な事この上ない。
だが、この程度の誤算は想定の範囲内だ。誤算の規模に応じて、あらかじめ用意しておいた策を実行すればいい。敵が俺たちと同じ人間である以上、策を巡らし戦術を以て叩き潰せばいい。
(くだらない事この上ない精神論など、俺が打ち砕いてやる)
俺の中で冷たい闘争心が急速に燃え広がり、勝利願望がより強まる。精神論的な強さへの反発と、感情に突き動かされる長州への軽侮が、俺の頭脳をそれまで以上に冴えわたらせる。
「大垣藩兵は、第三防衛陣地まで後退。増援部隊は、第二防衛線の部隊と合流し、長州軍を迎撃。第二防衛線の部隊は、押されれば無理せず後退。絶対にその場に踏み止まらせるな!」
すぐさま、第二防衛陣地へと伝令が飛ぶ。
長州の凄まじい進撃を前にしても、幸いな事に本陣にいる諸将は堂々と対応している。少なくとも、慌てふためく者はおらず、表面上は全く動揺が見られない。
乱は治より生じ、怯は勇より生ず
孫子の兵法にもあるように、いかに堂々としていても、それは一瞬で混乱に代わる可能性を絶えず秘めている。その可能性をを防ぐためにも、ここで確実な手を打っておく必要がある。
戦況を一方的なものにしないための一手を。
「・・・・・・長州軍が、第三防衛線で戦闘状態に陥れば、その戦列は完全に伸び切る。その時点で、防衛陣地周辺の屋敷に潜む烏組は、長州軍に一斉射撃を開始しろ」
戦況に意識を集中する諸将を横目に、俺は傍らに控えていた大蛇に静かに命を下す。大蛇はそれに首肯で答え、音もなく闇の中へと消える。その消え方はあまりに自然で、大蛇が闇に溶け込んだとさえ錯覚させる。
これで、長州軍の勢いは弱まり、その進撃はより早く限界点を迎える事になる。
だが、これではまだ十分ではない。
「容保殿、今貴女の麾下にある新撰組を、私にお貸ししていただきたい」
戦時下ではあるものの、諸将の前という事もあり敬称をつけて呼ぶ。
些細な事に過ぎないが、こうした状況下ではそうした些細な事が以外に重要なのだ。
「それは構わないが・・・・・・。三成、一体何をするつもりだ?」
容保は俺の頼みを了承しつつも、その説明を求める。
この状況下では、至極当然の事だ。
「新撰組を長州軍の側面に回し、腹背に斬り込ませます」
俺の発言に、容保は驚きを隠せないでいる。驚きを隠せないのは何も容保だけでなく、本陣にいる諸将もまた俺の発言に対し、驚きと戸惑いを隠しきれないでいる。
しかし、この状況は予想していたものであるため、俺は全く動揺を感じなかった。
「兄さま、いくらなんでも、それは危険ではないか」
「三成、お前は新撰組の者たちに死ね、と言うのか!」
姉妹は、それぞれの反応を俺に返す。
唯一共通している事は、俺の策が危険なものだ、との認識のみだ。
しかし、俺は二人の反応に冷淡に答える。
「・・・・・・いかにも」
「・・・・・・・・・⁉」
「・・・・・・・・・‼」
(指導者は、決断に際して迷いがあってはならない)
決断の時以前であるのならば、指導者と言えど迷う事は許される。いや、むしろ迷いに迷い抜いた上で、最善の方策を選択するべきだ。 しかし、決断の時が来たならば、もはや指導者に迷う事は許されない。
たとえ、それがいかに非情な決断であっても、指導者は決断しなければならない。
決断は指導者のみが有する特権であり、他の者が行使する事は許されない。指導者はその特権を適切に行使するからこそ、指導者たりえる。行使する覚悟を持たない指導者に、指導者たる資格はない。
だから、俺は躊躇う事無く、非常の決断を下す。
すでに俺は、決断の場に立っているのだから・・・・・・。
「戦いが長引けば、数で劣る長州は必ず京の町に火を放つでしょう。もし、その様な事態になれば、何の罪もなき多くの民たちに無用な被害が出る事になります。それを防ぐためにも、ここで確実に長州を突き崩さねばならない・・・・・・」
喚声と銃撃音、兵たちが駆け回る音が、本陣内に響き渡る。
本陣にいる者は、誰一人声を発しない。
奇妙な静けさが、本陣を包み込む。
「・・・・・・分かった。松平容保は、三成の決断に賛同し、新撰組と待機している会津兵七百の指揮権を、三成に移譲する」
「松平定敬も賛同し、待機している桑名兵四百の指揮権を、兄さまに移譲するのじゃ」
姉妹は、自身が今動かしうる全兵力を俺に委ねた。取り巻きの者たちが、何か発言しようとするも、二人はただ黙ってそれを手で制す。決して、自身が下した決断を覆そうとはしなかった。
俺は二人に、ただ黙って頭を下げる事しかできなかった―。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―第三防衛線―
「銃声を途切れさせてはなりません!何としても、この地を死守するのです‼」
銃弾が飛び交う中、慶永は馬に乗り、最前線で陣頭指揮に当たっていた。
第一防衛線が突破されて間もなく、第二防衛線もまた突破され、長州軍は第三防衛線にまで進撃していた。怒涛の進撃を続ける長州軍を前に、幕府軍は第三防衛線に兵力を集中させ、守りを強化していた。しかし、勢いに乗る長州軍の猛攻により、幕府軍は劣勢に立たされ、第三防衛線もまた突破されるかに思われた。
天王山方面の総指揮を任された慶永は、戦況の悪化を受けて出陣。自ら越前福井藩兵を率いつつ、最前線で陣頭指揮に当たる。慶永の指揮と越前福井藩兵の奮戦に、幕府軍は辛うじて勢いを盛り返し劣勢を挽回。その後は両者一歩も譲らず、一進一退の戦況が続いていた。
「真の武士たちよ、逆賊長州から帝と日ノ本を守るのです!」
なおも先頭に立ち続ける慶永の雄姿は、幕府軍を励まし、その闘争心を大いに燃え上がらせた。
幕府軍の誰もが疲れた体に鞭打ち、矢の如く長州軍へと向かっていく。
(長州軍の勢い、予想以上ですね)
幕府軍を奮い立たせたものの、戦況はいまだ予断を許さない。
陣頭指揮を執る慶永には、長州軍の勢いが嫌と言う程に感じさせられた。その上、細く長い京の道は、数で勝る幕府軍の利点を完全に無効化。そればかりか、数で劣る長州軍に著しく有利に働いていた。
地の利を得て死に物狂いの長州軍の前に、越前福井藩兵を含めた多くの兵が倒れていった。いや、今なお多くの兵が傷つき倒れ、その数は時を追うごとに増え続けている。
「さすがに、このままではキツイですね」
それは、戦場にいる者のみが感じる現実だった。幕府軍は長州軍と互角に戦っているものの、指揮官から一兵卒に至る全員が疲れ、そして傷ついている。このままの戦況が続けば、戦闘の限界点はじきに来る。
そうなれば、数が多く柔軟に動けない幕府軍は、長州軍に一気に突き崩される恐れがある。
慶永はそれが分かっていてもなお、幕府軍を奮い立たせ、前進させつづける。
疲れる兵たちを鞭打ち、奮い立たせ、長州軍へと向かわせる。一歩も後退させる事なく、幕府軍の兵たちを容赦なく長州軍へと向かわせていく。それが鬼の、修羅の所業である事は、慶永自身が誰よりも心得ていた。しかし、それを心得つつもなお、慶永は兵たちを進ませる事を決してやめようとはしない。
「今の私にできる事は、三成さんを信じる事だけです・・・・・・」
慶永は三成を信じていた。三成は、未来に絶望していた自分に希望を見せ、徳川斉昭や松平容保らの堅物を変えた。そして、気がつけば三成の周りには、常に人の輪があった。
慶永は、そうした三成の力を信じていた。
「この戦の勝敗は、三成さん不思議な力にかかっているのかも、しれませんね」
慶永は天に向かって微笑む。
夜空では、月が顔を現していた。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―長州軍側面―
「副長、全員士配置につきました」
その報告を受け、鬼の副長は閉じていた目をゆっくりと開く。
その視線は、目の前を通り抜ける長州軍へと向けられている。
「側面からの銃撃が始まり次第、我々は長州軍の側面に斬り込みをかける。三成殿の期待に応えるためにも、この斬り込みに失敗は許されない。
皆、気を引き締めよ!」
『ハッ‼』
その場にいる全員が、土方の獅子吼に答える。
しかし・・・・・・。
(この反応も、仕方ないか・・・・・・)
獅子吼には応えたものの、その場にいる全員が、顔に笑みを浮かべている。
自分たちに命を下した幕府の重役。その人物は、つい最近まで自分たちの屯所を訪れ、気楽に話していた、直江三成なのだ。三成は自身が幕府重役だと明かした今でも、新撰組に対する姿勢を以前とまるで変えていない。
そんな三成が、いつにない真剣な姿で、自分たちを頼ってきたのだ。
思わず笑みが漏れてしまうのも、無理ない事ではない。
鬼の副長と言われる土方も、隊士たちの思いが理解できるので叱りなどしない。むしろ、彼女ら彼らとさして変わらない思いを抱いていた。いや、この場にいる誰よりそう感じ、同時に三成に応えてやりたいと思っていた。
(これも、三成の人徳か・・・・・・)
良くも悪くも、三成は新撰組に慕われている。
三成には、役人特有の狡さや傲慢さが全くと言っていい程にない。しかし、いざという時には、果断で冷徹な判断ができ、部下を信じきるだけの度量も持ち合わせている。
それが、土方や新撰組隊士たちに慕われる理由だった。
ダーン
ダンダーン
銃声が鳴り響き、それに伴い眼前を横切る長州兵が相次いで倒れる。銃声は八方から途切れる事無く鳴り響き、鉛玉は容赦なく長州兵を襲う。長州兵は、闇夜からの銃撃に成す術もなく、ただ徒に犠牲を出すばかりだった。
長州軍の怒涛の進撃に鈍りが見えてきた。
「そろそろ、頃合いの様だな・・・・・・」
相次いで味方が倒れるのを目のあたりにした長州軍は、進撃が鈍ると同時に明らかな混乱と動揺が起きていた。長州兵たちは戸惑い、その戦意に微かな揺らぎが生じていた。
その僅かな隙を鬼の副長、土方歳三は、決して見逃さなかった。
「我に勝機あり。総員、斬り込め!」
突然の銃撃に加え、強者揃いの新撰組の斬り込みを腹背から受け、長州軍は大混乱に陥った。闇夜に四方から銃撃され、新撰組に相次いで斬り伏せられ、長州軍の混乱はここに極まった。
「敵の戦列は伸び切っている。分断して、各個撃破しろ!」
目の前に立ちはだかる敵を次々と屠り、土方はさらに長州軍の奥深くへと斬り込んでゆく。進撃の鈍り、混乱を経て潰走へと陥った長州軍に、鬼神と化した彼女を阻むだけの力は残されていなかった。
「ん・・・・・・?」
しかし、土方はその状況下で一人胸騒ぎを覚えていた。
最前線で指揮を執る慶永は、長州軍の攻勢の鈍りを肌で感じとっていた。それと同時に、長州軍の足並みが著しく浮足立っている事もまた、その目で確実にとらえていた。
「敵の攻勢が一気に弱まった、何かあったようですね・・・・・・」
それを裏付ける様に、長州軍の攻勢がさらに弱まるのを、慶永は見逃さなかった。彼女のカンは、今が勝機である事を強く彼女自身に訴えかけていた。しかし、攻勢が弱まった原因は不明であり、迂闊に反攻に出る事ができずにいた。
「慶永様、後方より会津、桑名らの増援軍千五百が到着。また、三成様の指示を受け、新撰組が長州軍の腹背に奇襲をかけた、との事です!」
伝令からの報告を受け、慶永の顔に笑みが浮かぶ。
それは、慶永が待ちに待っていた、三成の行動だったからだ。
「これより私たちは、長州軍に対して反攻を開始します。逆賊長州を、一気に押し返すのです!」
慶永の号令の下、防戦一方だった幕府軍の兵たちが、一斉に胸壁を乗り越えていく。刀を抜き、銃を握りしめ、兵たちは吸い込まれる様にして、次々と長州軍の中へと入り込んでいく。
戦いの流れは、先程までとは一変し、幕府軍有利へと変わった。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
「我が軍の反攻を受け、長州軍敗走!」
「我が軍、第一防衛線を奪還!長州軍の追撃に入りました‼」
「長州軍、さらに後退!」
伝令によって相次いでもたらされる吉報は、本陣を大いに湧き返らせた。戦況不利を告げる報告が長かっただけに、戦況好転と有利を告げる報告は何物にも勝る価値があった。本陣にいる誰もが、安堵の声を漏らし、喜びの笑みを漏らしている。安堵のためか、その場に腰を抜かす者まで出る始末だ。
本陣にいる誰もが、この戦いの勝利を確信していた。
ただ一人、俺を除いて。
(やはり、何か違和感がある)
戦いの指揮に忙殺されて、影を潜めていた違和感が、俺の中で再び首をもたげてくる。
それも、最初とは比較にならない程に強さを増して。
(何か重大な事を、忘れている気がする)
だが、それが一体何なのか、俺自身にもよく分からない。
ただ一つ言える事は・・・・・・。
俺が忘れている何かは、この戦いに関する何かである、という事だけだ。根拠があまりにも非論理的かつ具体性に欠けるため、口には出さず、喉元で留めているが、やはりどうにも気になる。それはまるで、魚の小骨が喉に引っ掛かっている様な不快感だ。あまりにも不快なため、顔に出さないようにするのが、この上ない苦痛にさえ感じる。
とは思いつつも、全軍の指揮権を預かっている身である以上、責任感をもってその思いをねじ伏せる
「総督」
違和感と不快感に苛まれる俺は、その声によって戦場に引き戻された。声のする方に顔と意識を向けると、そこには葵隊の小隊長の一人が立っていた。俺は感情を抑え込み、努めて平静を装う。
「どうした、何かあったのか」
「ハッ、新撰組の島田魁という女性が、総督に面会を求めております」
「島田魁、殿が・・・・・・?」
島田魁は、歳さんの側近中の側近、片腕と言っていい程の女性だ。
その島田魁が、歳さんの傍を離れ、本陣まで来るとは、ただ事ではない。
(まさかとは思うが、歳さんの身に何か?)
俺の脳裏を、不安がよぎる。
「分かった。すぐここに通してくれ」
「ハッ」
それから程なくして、本陣に島田魁殿が現れた。
身長は高く、歳さんは当然として、比較的身長の高い部類に入る俺よりも高い。身体つきもなかなかのものだが、威圧や高圧的な雰囲気はまるで感じさせない。歳さんが側近とするだけに、愚直かつ寡黙でなんとも好ましい女性だ。
「島田殿は、私に用があるとか」
俺は極力平静を保ちつつ、島田殿の用件を尋ねる。
それが、俺の予想する報せではない事を祈って・・・・・・。
「新撰組副長、土方歳三の使者として参りました」
「使者?」
どうやら、俺の予感は外れたようだ。
まずは一安心だ。
「使者の用向きは?」
「はい。土方副長は、長州軍の動きに、いくつか妙な点があると・・・・・・」
長州軍の動きに妙な点?
俺の頭脳が、瞬時に切り替わる。
「長州軍の妙な動きとは?」
「土方副長が言われるには、動きがあまりにも素直すぎる、と」
「長州軍は我らの斬り込みに混乱し、幕府軍の反攻に際しては、多少の抵抗をしただけで敗走しました。しかし、その敗走はあまりにも纏まったものでした」
たしかに妙だ。
長州軍の反応はあまりにも素直だ。いや、素直過ぎるとさえいえる。その反応は、あまりにも教科書通りであり、まるでそれをそのまま再現している様でさえある。
しかも、その敗走の仕方は、歳さんが言う通りあまりにも奇妙だ。
「また、旗の数の割には、長州軍の数が少ない、とも土方副長は仰っていました」
旗の数に対し兵力が少ない、だと?
それは、つまり・・・・・・。
「・・・・・・・・・⁉」
俺は急ぎ、床几に広げられている地図へと目をやる。
周囲が奇異の視線を向ける事さえ、今の俺にはまるで気にならなかった。床几に広げられた地図に全神経を向け、目を最大限に開き、視線を必死に動かす。
今はたとえ一秒であっても、時間が惜しい。
焦る気持ちを辛うじて抑え、俺は地図の上で視線を動かし続ける。地図上に書き込まれている、いくつもの部隊名と兵数の中から、目的のものを探す。用のないいくつもの部隊名等を通り過ぎて、俺は漸く、目的のものを見つける。
『蛤門:会津兵三百、桑名兵百五十』
俺の脳裏に、落雷が落ちた。
(これはまさか・・・・・・!)
道が狭く細長い京の町
兵力で劣る長州軍
兵力で勝る幕府軍
天王山、天竜寺、伏見に点在する長州軍
長州軍の素直すぎる反応
天王山方面に集中する幕府軍
そして、旗の数に比べ少ない天王山方面の長州軍
全ての情報に基づいて、冷静かつ合理的に考える。すると、一見何のつながりもない様に見えていたこれら全てが、ある重大なつながりを持つ。そして、全てがつながった時、気づけば俺の背中には冷や汗が流れていた。
(どうすればいいか考えろ、冷静に考えろ)
今俺の双肩には、蛤門の四百五十の会桑兵、御所防衛に当たる二百の会津兵と百五十の桑名兵、そして四百余りの葵隊隊士の命がかかっている。いや、そればかりか、今戦っている全ての者たちの運命がかかっている。
俺の判断が、それら全てを左右する。
判断の遅れは、許されない。
(勝算は五割だが、やってみるか!)
孫子の、そして俺の信条である、勝ってから戦う、との精神には反する。しかし、今はその様な事にかまっている時ではない。戦時において、個人的な感情ほどくだらない事はなく、それに拘るなど愚かの極みだ。
俺は、ただ一人の将として最善の選択をするのみ。
それに、虎穴に入らざれば虎子を得ず、とも言う。
将兵を信じ、運を天に任せるのも悪くはない。
「容保殿、定敬殿、そしてこの場にいる全ての諸将たち。皆の命、俺にくれ‼」
すると、本陣にどっと笑い声が溢れる。
「何を言ってる、私たちの命は、すでに三成に預けてある。三成の思うように使えばいい・・・・・・」
「そうじゃ。この場にいる者全て、兄さまと生死を共にする覚悟なのじゃ!」
姉妹に続き、ある者は黙って頷き、ある物は笑みを返す、またある者は俺に熱い視線を送る。
俺の取るべき道は決まった――。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―天竜寺方面幕府軍陣地―
「ここを抜ければ御所は目と鼻の先、者ども奮起せよ!」
猛将来島又兵衛の号令の下、長州軍は獲物に直走る虎の如き勢いで、幕府軍へと攻め込む。
幕府軍の福岡藩兵も、長州軍に負けじと応戦する。しかし、不意を突かれた上に、鬼の如き形相で意気軒昂な長州軍の猛攻の前に、福岡藩兵は程なくして圧倒される。
福岡藩兵のある者は戦い、ある物は逃げ惑う。
すでに陣地周辺には、福岡藩兵の血によって、大河ができていた。
それから間もなく、福岡藩兵は総崩れとなり敗走。長州軍は堤を破った暴れ水の如く、さらなる勢いに乗り、御所に向かって猛進する。幕府軍の防衛陣地は次々と突破され、進撃阻止を試みた幕府軍の部隊もまた敢え無く粉砕。
勇将の下に弱卒無し。
猛将来島又兵衛率いる長州軍は、その言葉を体現するが如く、一兵卒に至るまでが死を恐れぬ勇者となっていた。
「ここを曲がれば、御所は目前ぞ!皆奮起せよ‼」
その号令が士気をさらに高め、長州兵は勢いに任せて角を曲がる。
長州兵の勢いは、まさに天を突く程であった。
「一斉射撃、放つのじゃ~~~!」
しかし、少女の掛け声が、長州軍の士気に冷や水を浴びせる。勢いに任せて角を曲がった長州兵たちは、冷たい鉛玉をその身に浴び、相次いで倒れる。後ろから進んできた他の長州兵たちもまた、先に曲がった同胞たちと同じ運命を辿る。
それから程なくして、その場に長州兵の死体の山が出来上がる。
それまで長州の猛進を支えた京の細長い道が、今は逆に長州を苦しめている。
何と言う皮肉だろう。
「地の利は妾たちにあるのじゃ!逆賊を狙い撃ち、帝を死守せよ‼」
戦場に立って必死に檄を飛ばす可憐な少女。
その姿は否が応でも、人間の本能を刺激する。ある者は母性本能を目覚めさせ、ある者は父性本能を覚醒し、またある者は保護意識を駆り立てられ、長州に激しい敵意を向ける。大義に裏打ちされ、死への恐怖を忘れ、幕府軍の士気は最高潮に達する。
(兄さまのため、何としても持ち堪える)
采配を振るう少女は、決意を新たに兵たちへと指示を下す。
同じ頃、御所では慶喜が公卿たちを相手に熱弁を振るっていた――。
公卿たちは、震える衣で口元を隠し、身を寄せ合うばかりだった。
中には、落ち着きなく歩き回っている者さえいる。
しかし、私はそれらにかまわず、ただ言葉を振るう。
「我が軍の兵たちは、逆賊を相手に一歩も引かず戦っている。その逆賊と講和を結ぶなど、断じて容認できない!」
私の獅子吼に、臆病公卿どもはますます震え上がる。
三成の懸念した通り、朝廷の公卿どもの大半は、臆病風に吹かれていた。銃声に怯え、喊声に怯え、あろうことか長州との講和を叫び出す始末である。それにも拘らず、態度だけは相変わらず尊大極まりない。
公卿とは、なんとも身勝手な輩だ。
「しかし、銃声はさらに近づいているではないか!」
「そうじゃ、そうじゃ‼ここは長州と講和を結ぶべきじゃ‼」
「講和さえ結べば、麿たちの命は・・・・・・」
「それ以上言えば、私は貴公を・・・・・・斬る」
刀に手をかけ、その発言をした公卿を睨みつける。睨みつけられた公卿は腰を抜かし、顔には恐怖を浮かべている。周囲にいる公卿どもは、腰こそ抜かしていないが、恐怖に顔を引きつらせている。しかし、態度だけは相変わらず尊大なままだ。
それがなんとも腹立たしい。
(今の私は、まさに逆臣そのものだな・・・・・・)
帝の御前に軍装で現れ、今また刀に手をかける。
今の私は、逆臣呼ばわりされたとしても致し方ない。
だが、外で三成や兵たちが命懸けで戦っている以上、私もまたそれに見合う行動をとらなくてはならない。三成や兵たちだけを、危険に晒させるわけにはいかない。
となれば、今の私にできる事はただ一つ。
「外で戦う兵たちを、これ以上愚弄するならば・・・・・・、私にも考えがある」
肩を寄せ合い怯える公卿どもは、顔を蒼くするだけで何も答えない。
私の前にいる公卿どもは、己が身の保身しか考えていない。この様な蛆虫どもをも守るため、三成や兵たちが命を懸けているのかと思うと、悔しさややるせなさを超え、怒りを覚える。
この様な蛆虫どもはすぐ切り捨てるべきだ、としか今の私には思えない。
それが無礼だとの思いは、私の中にはすでにない。
「おやめなさい!」
「・・・・・・・・・⁉」
「・・・・・・・・・‼」
突如として発せられたその言葉に、この場にいる全ての者が驚きを隠せずにいた。
全ての視線が、御簾の向こうに御座す御方へと向けられる。
「長州との講和などもってのほかです。一橋慶喜、これへ」
「ハッ!」
私の身体に稲妻が走り、かつてない程の権威の前に、自然と首が垂れる。
その言葉は、あまりに重く、威厳に満ちていた。
「勅命を伝えます。
御所を死守し、朝敵長州を都から一掃せよ!」
「臣慶喜、勅命謹んで承りました!」
「ついては、節刀をこれに・・・・・・」
その言葉と共に、部屋の外に控えていた公卿が、節刀を押し頂いて私の前へとやってくる。
「その太刀を持って、見事朝敵どもを討ち平らげよ」
その言葉に逆らえる者など、この場にはいなかった―。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
「姫様、これ以上支えるのは無理です。一先ず後退を!」
「ならん!何としても、この場を死守するのじゃ‼」
防衛陣地を左右から挟み撃ちにされ、定敬率いる幕府軍は苦戦を強いられていた。
左からは来島又兵衛率いる長州軍が攻め込み、右からは国司信濃率いる長州軍が攻め込む。幕府軍は来島率いる長州軍の出鼻を挫いたものの、左右からの挟撃に苦戦を強いられていた。その上、迎え撃つ幕府軍の会津・桑名の両兵は、攻め込む長州軍に対して数で劣っていた。その状況下で幕府軍が持ち堪え、互角の戦いを見せているのは、多数配備されていた新式銃を最大限に活用しているからに他ならない。
もし、新式銃が多数配備されず、なおかつ定敬の指導力と戦術眼がなければ、幕府軍は敗走していた事だろう。
「新式銃を持つ者は、新手の長州軍に攻撃を集中!それ以外の者は、これまで通りの役割分担で速射を続けよ‼」
少女は適切な指示を次々下し、部下たちが混乱、動揺する時間を与えない。兵たちを戦いに集中させつつ、最前線で指揮を執り続ける事で、軍の士気を常に高く保っていた。
(兄さま、頼みますぞ・・・・・・)
銃弾が飛び交い、悲鳴と喚声が交錯する戦場で、定敬はただひたすら指揮を執り続ける。
全ては、兄と呼ぶ男を信じるがゆえ・・・・・・。
―御所付近/某所―
「総督、蛤門の長州軍は今なお猛攻を続けています!その勢い、一向に衰える様子がありません」
「・・・・・・引き続き監視を続けさせろ」
「ハッ!」
長州軍の猛攻は激しさを増し、一向に衰えを見せない。出鼻こそ挫く事ができたが、長州軍はそれをものともせず、仲間の屍を乗り越え、御所へと猛進を続けていた。戦闘が始まってから、もうすでにかなりの時間が過ぎている。それにも拘らず、この長州軍の勢いは衰えるどころか、さらに増している。
さすがにこれは、俺でも計算外だった。
(策を一部変更する必要があるな・・・・・・)
これ以上待てば、定敬率いる幕府軍が潰滅する可能性が大きい。
定敬率いる幕府軍の潰滅は、長州軍が御所に雪崩込む事を意味する。
それだけは、防がなければならない。
「総督、意見具申してもいい?」
戦場には似合わない暢気な声が、俺へと向けられる。
声の主が並の者ならば、俺も声を荒げていた事だろう。
「構わないぞ、人見大隊長」
そう、人見大隊長でなければ。
「それじゃ、遠慮なく。
あたしたちは、もう暫くの間ここで待機するべきだと思います」
「・・・・・・・・・⁉」
「・・・・・・・・・!」
「・・・・・・・・・‼」
人見殿の発言に、俺も含めた多くの者が驚き、顔を見合わせる。この場にいる誰一人として、人見大隊長の真意を理解する事ができなかった。理解しようとするどころか、非難の視線を送っている。
目の前の戦局を見れば、策を一刻も早く実行へと移す必要がある事は明白だ。
もし今、策を実行に移さねば、目の前にいる味方が全滅する可能性さえある。
それなのに一体なぜ?
俺もまた、人見大隊長の真意を理解しかねた。
「人見、貴様一体どういうつもりだ!」
人見殿の発言に、普段は冷静な伊庭大隊長が襟首に掴みかかる。
「貴様は、目の前にいる味方を見殺しにしろ、と言うのか‼」
殺気すら滲ませ、怒りの矛先をただひたすら人見に向ける。
理性の堤防が決壊すれば、間違いなく怒りの波が人見を飲み込む事だろう。
「落ち着け、伊庭大隊長。人見大隊長にも、考えがあっての事だろう」
さすがにこの状況は看過できず、俺は伊庭大隊長を強く嗜める。
大隊長二人が言い争うのは、兵たちの士気にも関わる。
「しかし!」
「人見大隊長、構わず続けろ」
俺の決定に、さしもの伊庭大隊長も渋々と言った様子で従う。襟首を開放された人見大隊長は、何度か深呼吸を繰り返し、息を整える。
「戦況があたしたちに有利じゃないのは事実。でも、圧倒的に不利ってわけじゃない。
ならば、あたしたちは味方を信じて、戦機を待つべきだと思うわ」
二人の考えは、どちらも正しい。
二人はそれぞれ自分なりに戦況を分析し、それぞれの結論を導き出した。その結論に私心はなく、それぞれの視点からこの戦いを勝利に導こうとしている。
「・・・・・・どうやら私は、大切な事を忘れていたようだな」
私が為すべき事は、幕府軍を勝利に導き、天皇を守る事。
それこそが、定敬たちが死地で戦い続ける理由なのだ。
「皆、聞いてほしい」
人見・伊庭両大隊長をはじめとする、隊長たちの視線が一斉に俺へと注がれる。
「我々は、今暫くこの場で待機。会津・桑名の同胞を信じ、戦機を待って攻勢に出る!」
戦争でも政治でも、その他の物事であっても、最後にそれを左右するのは人だ。そして、最後まで仲間を信じた者が、最後の勝者となることができる。信じるという行為には、それ相応のリスクが伴う。しかし、そのリスクを恐れ、仲間を信じる事ができなければ、最後の勝者となる事はできない。
人一人ができる事など、たかが知れている。
聞こえのいい言い方をすれば、仲間を信ぜずして大業ならず。
生臭な言い方をするのならば、大局的判断。
言い方こそ違うが、要は定敬たちを一粒の麦にするという事だ。
だが、その非情なる判断をする事こそが、俺の役目だ。その役目を果たせなければ、今も俺たちを信じて死地で戦う定敬たちを裏切る事になる。ここで一時的な感情に流されるわけには、絶対にいかない。
(それを忘れ、部下に教えられるとはな)
我ながら、つくづく情けない話だ。
将として、人として、最も大切な事を忘れるとは、本当に情けない。
(・・・・・・俺もつくづく未熟だな)
これでよく、幕府歩兵奉行が務まったものだ。
「総督!」
自分を皮肉っていた俺は、伝令によって戦場へと引き戻される。
「長州軍が突撃を開始しました!」
「何⁉」
馬鹿な、いくらなんでも早過ぎる。
戦況がそこまで急変するなど、通常では考えられない。とは言うものの、通常では決して起こらない様な事が起こるのが、戦場という空間でもあるのだが。
「味方が敗走したというのか!」
「いえ、定敬様率いる部隊は今なお善戦を続けられておられます」
どういう事だ?
突撃ないし突入は通常、敵がある程度崩れるか、抵抗が急激に弱まった時に行う。敵が健在である内に突撃を行えば、徒な犠牲を出して自軍に無用の出血を強いる事になる。それゆえに、突撃ないし突入は、戦闘の最終局面に行うのが常道。例外も存在しはするが、現状の戦闘はそれには該当しない。長州の戦い方は、その常道に反している。
一体何を企んでいる?
(ん・・・・・・、待てよ)
そんな状況下、俺はある変化に気づいく。
耳を澄ませてみると、蛤門周辺から聞こえてくる銃声が先程までと比べてやけに少なくなっている。喚声にかき消されている事を考慮しても、あまりに少な過ぎる。それも長州軍側からの銃声が、かなり少ない。
これはどういう事だ?
「長州軍の銃撃はどうなっている」
「かなり疎らになっています。銃撃していた兵も、突撃に加わっています」
疎らな銃撃。
常道に反したタイミングでの突撃への移行。
それに伴う、銃撃していた兵も加わった状況。
これらの情報を冷静に分析する事で、俺は一つの事実に達した。
「葵隊全部隊に告ぐ、戦機到来せり。
これより、大反攻を開始する!」
『承知‼』
長州の弾薬が底をつきかけている今こそ、俺たちが反攻に転ずる好機。
(ここが勝負の天王山)
この好機を逃せば、この戦いに勝利する機会は二度と来ないだろう。
俺の軍人としてのカンが、そう告げていた。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
(このままではマズいの・・・・・・)
長州軍からの銃撃が激減した事で、戦況は漸く好転しつつあった。しかし、決死の突撃を繰り返す長州軍は、まるで犠牲をものともしない。銃弾に倒れる仲間の屍を踏み越え、長州兵は御所に向かい突撃を繰り返す。その凄まじい突撃の前に、幕府軍は定敬自らも銃を手に取り、戦わざるを得ない状況に陥っていた。
その上、幕府軍は別の面からも苦境に陥っていた。
「皆、銃撃を絶やしてはならん!銃身を冷やしつつ、射撃を続けるのじゃ‼」
本陣がすぐ近くにある事もあり、幕府軍は十分過ぎる程に弾薬の補給を受けている。しかし、長時間に渡る銃撃戦により、兵士たちの銃はいずれも銃身が熱くなっていた。
運ばせた水で冷やしつつ銃撃しているものの、限界は確実に近づいている。
(兄さまが来るまで、何としても耐え抜く)
自身も手傷を負いつつ、定敬は三成を信じ、ただひたすら戦い続ける。
会津、桑名の両兵たちも指揮官に倣い、ただ愚直に戦い続ける。長州軍との激戦で無数の手傷を負い、顔に疲労を滲ませながらも、誰一人諦める者はいない。 弱音を吐く者など一人としていなかった。
ドーン
戦場に突如として、落雷の如き轟音が響き渡る。
その轟音と共に、戦場全体が大きく揺れる。
その後も轟音は鳴りやまず、戦場各所で長州兵たちが消え、阿鼻叫喚の世界が出現する。轟音はいつ終わるとも知れず、無慈悲なまでに長州兵に降り注ぐ。轟音に続き、高く乾いた音が長州軍へと降り注ぐ。戦場は瞬く間に地獄絵図へと変わり、その中を死に物狂いで突撃していた長州兵が右往左往する。
やがて、轟音は鳴り終わる。
すると、黒い洋装の上から真紅の陣羽織を羽織る騎乗の将が、戦場へと現れる。
「全軍突撃せよ!逆賊を殲滅し、同胞を救い出せ‼」
俺の号令の下、左翼から葵隊が、右翼から甲州隊と幕府洋式陸軍が銃撃をやめ、刀を抜き、それぞれが敵の後ろから一斉に斬り込んで行く。先程の砲撃と銃撃で、長州軍は混乱の極みに達している。その上、兵の疲労は濃く、隊形も著しく乱れ、長州軍は敗走寸前の状況だった。
そんな状態にも拘らず、左翼の長州軍を指揮する将は兵を纏め、戦い続けようとしていた。
「そこの敵将、貴様の首貰い受ける」
長州軍にとどめを刺すべく、指揮を執る将へと俺は馬首を向ける。
その将も俺に気づき、同じく馬首を向け走り出す。
「我こそは来島又兵衛、我が槍の錆となれ!」
その言葉と同時に、十文字槍が空気を切り裂き、凄まじい轟音と共に繰り出される。
だが、時たま立ち会う彼女の剣に比べれば、その一撃はそよ風程度にしか感じられない。槍先を見切るのに、それほどの時間さえ必要とするほどのものではない。
「・・・・・・あまい」
水龍の刀で十文字槍を逸らし、返す刀で咽喉元を一閃する。すると、馬が擦れ違うのに少し遅れて、大地に赤い雨が降り注ぐ。それが止むと同時に、馬上の体が力なく崩れ落ちる。
「敵将来島又兵衛、一橋慶喜が軍師直江三成が討ち取ったり」
戦国時代を思わせるその叫びが、この戦場に終わりを告げた。
来島又兵衛を失った事で、左翼の長州軍は敗走。それにより、右翼の長州軍も甲州隊と幕府洋式陸軍、定敬率いる会桑兵の挟撃を受けてついに敗走を余儀なくされる。それに加えて、慶喜と容保が率いる幕府軍本隊も御所より出陣し、敗走する左右長州軍を追撃。
これより、長州軍別働隊は壊滅。
この戦いの勝敗が、ここに決した。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
―鷹司邸長州本陣―
(私は、一体どこで間違ったというのだ)
兵たちが忙しなく行き交う中、私の周囲だけが別世界の様に静かだった。あまりに静かずぎるためか、私はこの戦について考え、振り返るだけの余裕を持つ事ができた。
私が立てた完璧な策は、開戦当初は十分に機能していた。事実、幕府軍の主力は御所から離れ、今囮である私たちの目の前にいる。これこそ、私の完璧な策が完璧に機能した証だ。後は、長州の別動隊が手薄となった御所へと攻め込み、帝と朝廷を取り戻すだけ。戦の流れは、私の思い描いた通りに流れていた。
だが、別動隊の敗走により、完璧だった私の策は潰えた。
それと同時に、戦の大勢も決した。
完璧な策が潰えた私たちに、大勢を覆すだけの力はなかった。
「国司信濃様、お討ち死にございます!」
「別働隊、薩摩の追撃により被害甚大‼」
「入江九一殿、討死!」
「敵軍、鷹司邸を包囲‼」
伝令たちにより、次々と討死、戦況悪化の報告が伝えられる。
その報告が、辛うじて私を現実に繋ぎ止める。しかし、事ここに至っては、私ににできる事など皆無に近い。戦の大勢が決した以上、いかなる策も無意味でしかないからだ。
「久坂殿、如何いたす?」
冷静な声で、真木和泉殿が私に意見を求める。
その真木殿の声が、絶望に染まる私に僅かな気力を蘇らせる。
「少なくとも、総大将である福原様だけには、落ち延びていただかなくては・・・・・・」
すると、鉢金を巻き、鎧に身を包んだ真木殿が、力強く頷く。
手傷こそ負っているものの、その動作から疲労はまるで感じられない。
「そうじゃ・・・・・・、な。総大将が討たれれば、此度の戦は完全なる負け戦に終わる。それだけは、いかなる事があろうとも避けたい」
真木殿からは、敗軍の将の気配がまるでしなかった。
そんな尊攘派の長老の姿に、私はさらに気力を蘇らせる。
「ですが、問題はこの状況でいかにして落ち延びていただくか・・・・・・、ですね」
「問題はまさにそこじゃ」
鷹司邸は完全に包囲されている。それに加えて、敵の猛攻にも晒されている。その様な状況下で囲みを破り、総大将を落ち延びさせる事など、不可能と言っても過言ではない。
(何か奇策を考えねば・・・・・・)
私と真木殿が策を考えていた、まさにその瞬間。
轟音と共に、屋敷全体が大揺れに揺れる。
「何事だ!」
あまりに突然な事で、現状に対する私の理解が追いつかない。
一体何が起こったというのだ。
「幕府軍がこの屋敷に向け、砲撃を開始しました!」
「馬鹿な、有り得ない」
私は常識的に、その言葉を強く否定する。そのような事、臆病者と時代遅れ集まりである朝廷が許す筈がない。いや、それどころか、帝の逆鱗にも触れかねない前代未聞の事だ。
一橋慶喜、狂ったか!
「未確認の情報ですが・・・・・・。一橋慶喜に対し、長州殲滅の勅命と節刀が下賜された、との情報が伝わっております」
「・・・・・・・・・⁉」
馬鹿な、長州が朝敵にされたというのか。
その上、一橋慶喜に節刀が下賜されただと⁉
一体誰が帝を誑かした。
一体誰が!
「また、事の真偽は不明ですが・・・・・・。
一橋慶喜は、帝の御前で刀に手をかけて公卿たちを叱り、それに感激した帝の鶴の一声で、勅命と節刀が下賜された。
その様な情報も伝わっております」
「なん・・・・・・だ・・・と・・・・・・」
それは、あまりに衝撃的な情報だった。
(私が知る一橋慶喜ではない・・・・・・)
私が知る一橋慶喜は聡明ではあるが、勤皇の思いが過剰で度胸がない、単なる腰抜けだった。帝の御前で刀に手をかけ、公卿どもを叱りつけるなど、絶対にありえない。いや、それ以前に軍装を解かずに帝の御前に姿を現すなど、私の知る一橋慶喜にはありえない行動だ。
だが、今伝え聞く一橋慶喜は、それら全てを覆していた。
私の集めた情報は全て偽りだった、という事なのか!
「門が破壊されました!幕府軍来ます‼」
その声に少し遅れて、大喚声と共に幕府軍が屋敷内へと雪崩込む。圧倒的勢いの幕府軍の前に、味方は次々と倒れていく。幕府軍の砲撃のためか、屋敷からは火の手が上がる。屋敷から上がった火は、折からの強風を受け、瞬く間にその勢いを増し、炎へと変わる。それにより、屋敷内で善戦を続けていた味方も、相次いで崩れ始める。
(孤軍奮闘もこれまでか・・・・・・)
この戦もここまでだ。
これ以上の戦いを続けても、徒に犠牲者を増やすだけで何の益もない。
無念ではあるが、後日の再挙のためにもここは兵を退くべきだろう。
「真木殿、福原様と残存兵を率い長州へ!」
「承知‼」
私は残る理性を叫びに変え、真木殿に撤退を伝えた。撤退を伝え終わると、屋敷内に倒れた味方の姿が目に入ってきた。そこには攘夷当初からの同志もいれば、顔馴染みや友もいた。彼女ら彼らの姿は、敗北という事実をあまりに生々しく伝えていた。
私は叫んだ。
今のあらゆる感情を、言葉にならない叫びに変えて。
そして、燃え上がる屋敷へと入っていった。
迫りくる敵を次々と斬り捨て、私は屋敷の中を直走った。
走って走って、走り続けた。
そして、恥り続けた先であの男と再会した。
「・・・・・・久しぶりだな、久坂玄瑞」
「直江・・・・・・三成・・・か・・・・・・」
それ以上の言葉は、私たちに不要だった。
私たちは、どちらからともなく刀を抜き、斬り結んだ。
「私の策を破ったのは、貴様か?」
刀を交える中、不意にその言葉が私の口から出た。なぜ、そんな事を口にしたのかは、口にした私自身にもよく分からなかった。まるで、それが当然の様に、自然と口から言葉が零れたのだ。
「半分正解で、半分は外れだ。その答えは、な」
刀に加わる力が強まり、腕全体が強張る。
刀に加わる力はあまりに強く、私は抗し切れず後ろに押し戻された。
「私は仲間を、友を信じて、策を立てただけだ」
顔色一つ変えず、それが至極当然とでも言う様に答える。
その瞬間、私は直感した。
尊攘派の、長州の脅威は、幕府などではない。
(私の倒すべき敵は、他にいたのだ)
倒すべき本当の敵は、屋敷に雪崩込む幕府軍や諸藩でもなければ、まして一橋慶喜でもない。
私の倒すべき本当の敵は、直江三成ただ一人なのだ。
直江三成こそが、尊攘派の、長州の最大の脅威なのだ。
「あまい!」
「くっ」
私の刀は弾かれ、三成の刀が頸元へと突き付けられる。
(またも、私の負けか・・・・・・)
戦に次いで、個の戦いでさえも、私は貴様には敵わないのか。
「一つ聞く。なぜ私は貴様に敗れた」
「・・・・・・だから、こそ、だ」
三成は短くそう答える。
私には意味が分からない。
「久坂、お前は俺しか、目の前しか見えていない。だから、俺たちに敗れたのだ」
私が目の前しか見えていない、だと?
何を馬鹿な!
「全てにおいて、お前はそうだった。お前は、自らの前にある事しか見えていなかった。
だから、全てにおいて敗れたのだ」
黙れ。
黙れ黙れ、黙れ‼
私は全てを見ていた。
全てを見通して、それに見合った策を立て続けてきた。現に私の立てた策の多くは、見事に成功したではないか!私の策は、多くの者たちの賛同を得たではないか‼
「私は・・・・・・、間違ってなどいない」
私はそう信じたかった。
そう信じなければ、私の誇りが耐えられなかった。
「そう、お前は間違ってなどいなかった」
三成は私の言葉に、肯定で応じた。
「間違ってはいなかった。しかし、あまりにも正し過ぎたのだ」
正し過ぎる事の何が悪い!
正しい事に勝るものなどないではないか‼
「過ぎた正しさは、時として独善に陥る。そして独善は、悪よりも質が悪い。なにせ、根本的には正しくても、している事は悪と同等か、それ以下なのだからな。これほどまでにたちが悪いものは、他にない」
三成の口調は、相変わらず淡々としている。
まるで、私が眼中にないかの様に。
(私は、一体どこで道を間違えた?)
今私を支配しているのは、その思いだけだった。いくら振り返っても、私がどこで道を踏み間違えたのかは分からない。あるいは、私が駆け抜けてきた道そのものが、そもそも間違っていたというのか?
だが、今となってはそんな事どうでもいいのかもしれない。
私は駆けに抜けた末に、直江三成に敗れた。
今この場に存在している事実は、ただそれだけだ。それ以外には、何も存在しない。
何とも哀れなものだ。
私の誇りは崩れ去り、これまで味わった事のない虚しさだけが後に残った。
その虚しさはあまりにも大きく、何をもっても埋めがたく、癒しがたいものだった。三成に敗北したという事実に加え、私のこれまでの人生全てが否定されたが如き敗北感。それが、この虚しさを生み出し、今なお広げていた。
「久坂玄瑞、俺と共に来い」
「・・・・・・⁉」
「日本には、お前の才能が必要だ。もう一度生きてみる気はないか?」
戯れなどではない。
三成の目は本気だ。
本気で、三成は私を欲している。日本のために、私と私の才を欲している。
(今ならば、全てが理解できる)
一橋慶喜が、なぜあのような行動をとったのか。
なぜ、各地の尊攘派が敗れたのか。
なぜ、私の完璧な策が破られたのか。
そして、私自身が敗北したのか。
その答えは、実に単純明快なものだった。
(直江三成がいたから)
ただそれだけの事だったのだ。
「貴様とはもっと早く、違った形で会いたかった」
私が三成と行く事はできない。
三成と共に行くには、私はあまりにも憎まれ過ぎている。私が共に行けば、三成の今後に重大な支障をきたす事になる。それだけは、避けなくてはならない。
この国の、日ノ本の未来のために。
「三成、頼みがある」
「何だ?」
三成の目は、相変わらず変わらない。
女の私ですら見とれる程に、澄んだ美しい目をしている。
「長州と仲間を滅ぼさないで欲しい」
「・・・・・・尽力しよう」
それは、三成ができる最大限の答えだった。
「・・・・・・すまない。日ノ本を頼む」
言い終えた瞬間、私は自身の首を斜めに動かす。
それからほどなくして冷たさが、次いで熱さが私の首に走る。
それに少し遅れて、私の視界が闇に包まれていった。
闇に包まれるその瞬間まで、私の視界には三成がいた――。
幕末異聞録3 ~歴史への挑戦者~ 黄塵万丈編
仲間が窮地にある時、貴方ならいかなる決断を下しますか?
今回の小説は、この問いをテーマに執筆しました。
当然の事ではありますが、私たちは一人で社会を生き抜く事はできません。必ず誰かとの、仲間との共生・共存が必要不可欠とされる様な仕組みになっています。社会的な生き物である人間にとって、これはある意味しかたのない事です。
そして、そんな人間社会では、仲間が窮地に陥る時も多々あります。
そんな時、私たちは決断を迫られます。
今すぐ仲間を救うか?
己の役目を考え、動くべき時を待つか?
迫られる決断は、究極的にはこの二つに大別できます。
両者は、一方のみが正しく、一方のみが誤りだという事はありません。どちらも正しい決断であり、誤りというものなど存在しません。両者に共通しているのは、決断が難しい、という一点のみなのです。
だからこそ、私たちはこの様な場面に直面すれば、悩み、苦しみ、そして考え抜くのです。
ただ、私は思うのです。
いずれの決断を下すにせよ、それは自らの信念に裏打ちされたものでなくてはならないと。決断を下した以上、迷う事なく、愚直なまでに行動しなければならないと。そして、いかなる結果になろうと、自らの決断に誇りを持ち、後悔をすべきでないと。
私は、そう思うのです。
絆とは何か?
これが、次の小説の問いです。