瞬間
はっきりと覚えているのは、それが、蒸し暑く、蝉の鳴き声がやけに近くで聞こえていた、鬱陶しいほど晴れた午後だったと言うことと、突然、明確な輪郭が実感を伴って、ストン、とあっけないほどの自然さと正確さでもって、私の中に落ちてきた——そしてその数秒後には私の内部の、私自身が認知していなかったところからじわじわと、それが散漫しはじめたような感覚をおぼえた——ということだ。
「あ」と思った。大昔からの記憶がとめどなく流れている遺伝子と呼ばれているものが、体内のあちらこちらで必死に点滅を繰り返し、私の脳へ危険を知らせようとしていた。飲み込まれてはいけないものだということは分かった。けれど、それに抗う方法を、無知な私は知らなかった。みるみるうちに呼吸が苦しくなった。まるで何か気味の悪い物が粘着性を持って、気道を塞いでいるような感覚だった。息を吐き出すことも、吸うこともままならず、それどころかそうしようとすればするほど自分を取り巻く空気が異質なものへと変わっていき、よどんだ、重いそれを私の不完全な身体では持て余してしまい、思い通りにならないもどかしさで胸を掻きむしりながら、朦朧としてきた意識を保つために、なんとか口を開け、必死に、少しでも多くの酸素を吸いこもうと肺に力を込めた。自分の視点が、自分の瞳からのものとは別に、横よりもやや斜め上のほうにあるのに気が付き、しかしそれは決して私だけの視点ではなく、何かそこだけ”個”としての意識を持って存在しているものが、唐突に私と視界を共有しだし、そうしてその私ではない私がじっと自分を見つめているのを、振り返りはしなかったが、しかしざわざわと肌で感じた。不安で沈み込みそうになるのを見透かしたように、自分のものであり自分ではない、虚空に浮かんだその瞳が、ひどくざらつく、耳を塞ぎたくなるような意地の悪い声色で囁きながら嗤っていた。「飲み込まれてはいけない。飲み込まれては、いけなかったのに」と。
そうしているうちにも全身が鉛のような気怠さで重くなっていき、指先から髪の毛の一本一本の先端までが嫌な感じでひんやりと冷たく、煮えたぎっていた。
前を向いているのにも耐えられず、もうほとんど虫の息で助けを求めるような気持ちで下を向くと、ほんの数秒前までは普通に歩いていたコンクリートで舗装された道が、知らぬ間にコンクリートで舗装された道に見えるだけの、なにか未知のような、根本的なものが不可解な物体に変わっていて、急に激しい恐怖をおぼえ、怯え、震えて、気が付いた時には私は歩き方が分からなくなっていた。
本当に、右足を前に出した後に重心をとって体を支えながら次の左足を前へ送り出す、という単純なその動作が、まるっきり分からなくなっていた。あまりにあっという間の出来事なので、歩き方が分からなくなっているということに気が付いて理解するのに少し時間を要した。
ぼんやりとした視界の左右で、他の人達は”何食わぬ顔で空気を吸い込み、吐き出し、すました表情で歩く”という、至難の技を軽々とやってのけていた。どれだけ目を凝らしても、私のように戸惑い、不安がっている臆病な人はいなかった。いま、世界からこんな形で孤立しているのは私だけだという事実が波となって私に覆い被さり、私は呆然として、それから不意に全てを投げ出して——人間としてのプライドだとか、社会的な立場だとか、物事の善悪の判断がつくようでなければならないことだとか、分別をわきまえていなければいけないことだとか、そういうくだらないもの全てを投げ出して———泣き出したい気持ちになった。大声で、どうしようもないくらいに泣きわめいて、通りすがる人という人を罵倒したいと思い、また一方では自分がそんな風な感情で満ちているのに困り果ててしまって、どうしようもなくなってしまい、ひどく孤独なまま、それ以上前に進むことも後ずさりをすることも出来ず、立ちすくんでしまった。
もしも永遠にこのまま、独りぼっちでここにあぶれていなければならなくなってしまったらどうしようと、気が遠くなりそうなほど怯えて、もうほとんど半狂乱なほどに狼狽えきってしまい、咆哮しかけ、そこでふと、自分はいつもこうではなかったかと思い出した。考えれば元々、自分が独りでなかったためしなどなかったじゃないか、それだけではなく人は人である限りは皆そうなのではないだろうかという考えが芽生え、人が独りでない瞬間など存在するだろうか、なんて、なんて傲慢な勘違いをしていたんだろう、まるで自分はほんの少し前まで幸福に満ち溢れていたような気持ちになりきっていて、そんなことが赦されるはずなど無いではないか、そんなのはそれを小指の先ほどだって疑おうとしない厚顔無恥な奴か、そうでなければよほど善行を積み重ねてきた、徳の高い尊い人間だけに許された特権ではなかったか———。
不意に、自分の斜め上で自分を見つめているその瞳が神様のような崇高なもののように思えて、振り返って見上げた。視線が合ったその瞳はつまらなそうな表情を浮かべ、苦々しげな舌打ちとともに、すうっと見えなくなってしまった。その場から消えたのか、それとも透明な成りをしているだけで常にそこに在るのか、真偽の程は私には分からなかったが、気が付くと私は歩き方を思い出していた。はっきりと、まるでそれを忘れていた瞬間など元からありえなかったかのような重さを持って、私の足は右足を前に出し、重心をとって体を支えながら次の左足を前へ送り出していた。その次の歩も、その次の歩も、滞ることなくすました顔で歩けた。恐る恐る息を吸い込んでみると、澄んだ空気が私のちっぽけな肺を満たすのが分かった。何食わぬ顔で何度も、自然な風を装って呼吸することが出来た。
強張っていた身体が次第にほぐれていき、緊迫していたのが嘘のように指先を軽々と持ち上げてみることが出来た。太陽にかざした手のひらはうすく透けた赤でふちどられた輪郭で、ひらひらと私の意思通りに振られていて、重力にしがみついて抵抗する素振りなどまるで欠片も見えなかった。
蒸し暑く、威勢の良い蝉の鳴き声がやけに近くで聞こえていた、鬱陶しいほど晴れた午後だった。私は私に見合った重さを見つけ、コンクリートで舗装された道をゆっくりと踏みしめて、帰路へついた。
瞬間