マダムKの随筆(
マダムKの随筆をお楽しみください。
マダムKの随筆((美しく生きる)
私が毎月家をオープンハウスにしているティータイムの時間に、先月は88歳の女性が参加してくれた。彼女は標高1200メートルの八千穂の別荘地に住んでいる。真冬は零下20度近くなるところだ。
その彼女が、我が家の玄関の上がり框が30センチもある高さのところをひょいと上がったからびっくりした。88歳の彼女が足を上げた瞬間に、私は手を出そうとしたのだが、忍者のごとく上がっていたのには驚いた。足が悪い方の為に、段差をつけようかと思っているが、夫は反対だ。理由は、我が家の上がり框で、足の健康測定をしてもらえればという。足が上がるか上がらないかを我が家に来た時に、その上がり框で測定とは、なんともはや・・・
「これは、上がり框測定器です。どうぞ、お試しを」とでも書いておいた方が、励みにもなるかなと半分冗談、半分本気で考えた。
先月のティータイムのタイトルは「美しく生きる」だった。私はその88歳の女性が今日までどのようにして生きて来たのか興味があった。先達の生き方を参考にするのは、私たち後輩に与えられた課題である。
「まず、どんな御結婚生活だったのですか」と切り出したら、彼女は、開口一番、「悲しい結婚でした」と言われたので、みんなして体が前のめりになった。昔の話をする時、人間はどんなに悲惨な経験をしていても、客観的に話が出来るものらしい。更に、面白おかしく脚色さえつけることが出来るのだから、年月とはなんと素晴らしいものか。
彼女は実の姉の旦那さんになる人と、結婚したという。実のお姉さんが、結婚式の前日に姿を眩ませ、妹の彼女が姉の身代わりになったというから、事実は小説より奇なりとはまさしくこのことだ。
その後の苦労は如何ばかりだったか。民生委員を40年務めあげ、功労賞ももらわれている。話は理路整然とされ、好奇心旺盛、正義心が強く,趣味も広い。更に健康だというからそれに勝るものはない。かかり付けの医者からは、耳も目も全く問題ないというから、驚くばかりである。健康の秘訣は、「晩酌を楽しんで、一日一日を感謝するだけですよ」とさらっと言われる。
なるほど…毎日をささやかに楽しみながら、感謝するとは、やはり先達の経験は参考になる。
3時間の楽しいティータイムが終わり、88歳の女性が運転してきた車の駐車場まで行った。バックして車を出すのに、みなさん一苦労される駐車場だ。
けれど、88歳の彼女は、思い切りよく一気にハンドルを切ってバックをした。
さすがお見事だった!
マダムKの随筆「父のあかんねん」
私の父は衣装持ちだった。洋服箪笥の中にはぎっしり背広がぶら下がっており、箪笥の上にもテイラーで仕立てた服の箱が天井までぎっしり積んであった。
私や二人の姉の服は、父がすべて用意した。私が小学校4年生になった時、父はポケットにバンビの絵が編み込みになっている真っ白のカーディーガンと、グレーのフラノ地のプリーツスカートを買って来た。その服を着て、秋の遠足に行けというのだ。10歳くらいの女の子にとって、白のカーディガンはお姫様になった気分にさせてくれたものだ。
私が小学校6年生の時、父はお正月に着る服だと言って、毛皮のコートを買ってくれた。本物の毛皮ではないが、とても豪華なグレーの毛がふさふさしたコートだった。きらきらするブローチまでついていて、大人が穿くような真っ赤な手袋をすると、背伸びをしているませた12歳の女の子になった。
そんな父の影響でいつしか私も服選びにうるさくなった。小学6年生の修学旅行で行く、伊勢奈良には、チェック柄のベストとスカートと決めていた。ベストから見える白のブラウスはフリルがあふれんばかりに見えるものでないといけなかった。そのイメージ通りのブラウスが見つかるまで足が棒になってでも、父と捜し歩いた。
母はそんな私と父に呆れ果てていたが、お洒落がわかる父は、私のイメージ通りのブラウスが見つかるまで付き合ってくれた。
私より6歳上の姉が、高校を卒業した時、父は姉の為に、何着ものスーツを仕立て屋さんに頼んだ。その気品ある美しいスーツを見て、私にも父は用意してくれるものだと思っていた。
それが、私が高校を卒業するころには、テイラーより既製品の方が品数も多くなり、父が私の為に服を仕立ててくれることは一度もなかった。
父が私の為に仕立ててくれたのは、お振袖だけだった。
14歳の夏休み、父は私と弟を一週間の九州旅行に連れていってくれた。私は目の覚めるようなオレンジ色のモスリンの生地のワンピースを百貨店のショーウインドーで見つけて買った。それに、白の網タイツのストッキングを組み合わせたのだ。父はそれを見た途端、「その靴下はあかんねん」と言い放った。何が「あかんねん」か、わからない私だったが、父の言葉は絶対だった。反発は出来なかった。
私はしぶしぶその靴下を脱いで、九州旅行に行った。今、考えると、その白の網タイツは父にとったらダンサーのイメージだったのかもしれない。
父は雨の日に着るコートとして、リバーシブルのレインコートも用意してくれた。それに合うグレーのベレー帽もいつしか買ってあった。そのレインコートの下に着るスカートは、赤と緑のスコットランドタータンチェックと決まっていた。父がいつ、そんなお洒落な組み合わせを知っていたのか、いまだにわからない。
高校生になって、合成皮の茶色のコートを父は私に買ってくれた、そのコートに合うブーツを父と一緒に選びに行ったら、父は「編み上げブーツはあかんねん」とまたもや言い放った。
何故だか理由は言わなかった。父の「あかんねん」は絶対的なので、またもや私はそれに従った。友達は真っ白の合成皮のコートに白の編み上げブーツを着て、神戸三ノ宮を闊歩し、私は茶の皮のコートに黒のフォーマルなブーツで闊歩した。だから今でも編み上げブーツに対するあこがれはとても強い。
私が19歳の頃、石津健介のVAN(アイビールック)が流行っていた。百貨店にあるVANコーナーに行って、好きなブレザーやスカートなどをツケで買ったものだ。当時は「外商回し」と言っていた。
自分では払えない額なので、父に払ってもらう為だ。今考えたらなんと恐ろしいことをやってのけていたのだと思う。父と百貨店に行くと買い物はすべて外商回しにしていたので、それが当然と思っていたのかもしれない。
ある日、百貨店から来た請求書を見た父が、「誰が来ないに服をこうてんねん(買うのかという意味)」と母に話したらしい。それを私は間接的に聞き、「しまった!」思ったものだ。
調子に乗って、買い物をしていたのだ。
父は62歳を目前に他界した。私が見舞いに病院へ行くと、「今日のあーちゃん(私のニックネーム)の服はええな」と褒めてくれた。そんな時の服は赤のセーターに赤と白のタータンチェックのミニスカートだったりした。それらの服はみんな、外商回しで、百貨店で買った服だった。私は褒められるたびに首がすくんだものだった。
病気の父が最後に、私に勧めてくれた服は、新聞で出ていた編み込みのセーターだった。色鮮やかで何色もの色が使われた暖かそうなそれでいて、華やかなセーターだった。父は病気で辛いのにも関わらず、「この新聞、切り抜いときな。あーちゃんにこのセーター、ものすごう似合うで!」と言った。それが父が私に勧めてくれた最後の服だった。
お正月になると、父が私に唯一仕立ててくれたお振袖を座敷に飾る。そして、父が私に言った「あかんねん」を思いだすのである。
マダムKの随筆(