失態失明

自殺と家族のある一幕です。

「あれ……?」
 目玉――何か黒い部分と、濁った白地――上下左右に、とりあえず敏速に動いた。とりあえず。
「なんだ……?」
 何も無い。
「目が……、見えねぇ」
 もう最後まで。
 おそらく最後までは大した時間は残されてないだろう。
 最後までのわずかな時間。
 何時間か。数時間か。
 姿、形はもちろん。自分が存在しているであろう事実以外は、一切何も見えやしない。

      *

 ほんの少しだけ渦を巻いた風に、三枚ほどの木の葉が嬉々として、巻き上げられようかと反応した。
「なんなんだ……? 一体どうなったんだ? 俺、死んでないよな……? 生きてるよな?」
 だが渦巻くのをやめた風はそのまま跡形もなく消滅し、踊らされただけに終わった木の葉は何やら欲求不満を感じているらしい。
「心臓は……、動いてる。肌の温もり……、柔らかさも。完全に生きてるじゃねぇか……」
 その傍で、鬱蒼と生い茂る木々の間をすり抜けていく風達は、無人のサーキットで自由にマシンを乗り回すレーサーのように悠々と、そして技巧をふんだんに披露している。 
「なのになんで何も見えないんだ……? さっきは全然明るかったじゃねぇか? 気でも失って、その間に夜になっちまったっていうのか!?」
 サナギから脱皮しようとしている者もいる。ヒクヒクと殻を揺らし始め、ピリッと裂けたサナギの隙間から頭を出そうともがいている。 
「それでもなんなんだよ、この真っ暗な闇は? 太陽はおろか、光の筋一つ見当たらねぇぞ……。曇ってんのか? なんなんだ? なんで光がねぇんだよ! おい! おいいいいい!」
 後ろの風達は順番待ちをしているようだ。随分と穏やかで行儀が良い。空が開けたちょっとした広場の中を、競馬のパドックを回る馬のように、ゆったりとした動きでその時を待っている。
 鳥も犬も猫も虫も、木も山も風も湖も人も、見渡す限りの息吹は概ね予定通りに育んでいるようだ。

      *

 おい。
 木漏れ日が淡く照らしてくれるのは、そこにお前がいるからじゃなく、そこにお前しかいないからだ。
 風が優しく頬を撫でてくれるのも、雨の日の雨だって、そこにお前しかいないからお前を打つのさ。
 今この瞬間でこそ、一面に敷き詰められた枯葉の絨毯をお前は一人歩くことが出来るわけだが、樹海は万人の誰の為にだって開かれてるのさ。
 意識を持った肉の塊が自分の為だけに蠢いていても、鳥達は特段騒ぎ立てたりはしないさ。
 お前は富士の急所を突き、消し去ることは出来ないが、こっちの世界に来れば、それを叶える可能性が少しは増えるかもしれない。
 自在に操れる夢の中で、富士を消したことのあるお前だとしても、この富士の麓にいるのは偶然にすぎない。
 現にお前はその夢を覚えちゃいない。
 いずれにせよ、夢との因果関係は皆無と言ってもいいだろう。
 そんなものは。
 そんなものは、その日そこにお前しかいなかったから、そんな夢を見ただけさ。

      *

「うわあああああ!」
 うるせえ!
 ――てかまぁ焦るか、そりゃ。
 首吊ろうとしたら枝が折れて失敗して、次の瞬間から目の前が闇なんだから。
 俺もそんな奴は初めて見るわ。
 神経の構造のどこがどういう風に作用してそうなったのかはわからんが意味不明だわな。まぁ確かに訳がわからん。――で、パニックってやつか。
「見えねぇ! 見えねぇよぉぉぉ!」

 見苦しい。
 でも残念だったな、死ねなくて。一大決心して頑張って首吊ったのにな。あんたが今まで生きてきた中でおそらく一番頑張ったんじゃねぇか?
 人生におけるエネルギーの最高到達点とも言うべき沸点が自殺なんだから、今まであんたが抱いてきた希望達もびっくりだな。
 過去に成し遂げてきた全ての努力や辛抱は自殺に凌駕された。
 今まで見てきたどんな夢や希望も自殺超えならず、か。
 想像力が敗北した瞬間だ。傑作だな。でもきっと新しいストーリーはこういうところから生まれるんだ。
 現にお前は死を達成出来ず、精神が錯乱した単なる生命体としてただのたうちまわっている。

 でもこのケースは不幸中の幸いと言えるのかね。命拾いはしたが、その拾った命は失明のオプション付きで、おそらく治る見込みのなさそうなもの。それはとてもじゃないが神からの情けだとは呼べるようなものじゃない。神はさらなる厳しさをもって、より深い不幸を被せてきた。慈悲による再チャンスだなんてとんでもない。
 絶望――おそらくはだが――の果てに自殺を試みたが完遂出来ず、拍子抜けしたと思ったら視界が全て闇に包まれた。
 何回瞬きしてみても、頭をいくら叩こうが、どれだけ眉間をマッサージしてみたところで同じことだ。残念ながらもう二度とその目は見えるようにならない。
 とどめをくらったようなもんだろう。

 でもこの男は果たして、万が一にも救われたというような恩寵を感じて、生き続けようという選択肢を選ぶことがあるのかね。生きる気力のない人間が、樹海のど真ん中で失明という新たな困難まで背負わされて、この先の生を編むことが出来るのか。
 ――そんなことは知らんしわからん。

 だが生きてる以上は何かしら選択しなきゃいけない。
 どうすんだ? 
 て、泣いてやがる。
 シクシクシクシクシクシクシクシク。
 まぁ辛いわな。
 これ以上ないくらいの最悪な結果だもんな。死ねなかったわ、目は見えなくなるわ、でな。
 この美しい富士の麓で、日本を代表する偉大な生命力の象徴を背にして、文字通りの背信行為だ。この樹海を漂流し、溺れ、息を引き取る。数々のドラマが生まれてきた想像力の海。そういう意味では樹海は最高の舞台なのかもしれない。密集する木々は大人しく観劇する冷静で行儀の良いお客達とも取れるし、もしくは執拗に延々と追いかけてくる怨念の権化のようにも取れる。うねうねとあらぬ方向に伸びる幹や所々で地表に飛び出して剥き出しになっている根も、呪いを具現化したように見えなくもない。
 なるほどその種の人間にとっては彷徨い甲斐がある場所と言えるわな。陶酔しやすい環境だわ。
 ざっ、ざっ、ざっ、と木の葉を踏みしめて奥深くへと歩を進める感じってのはどういう気分なんだろうねぇ。
 死刑囚が首吊り台の階段を一歩一歩上っていくような感覚か?
 いいねぇ、テレビやら映画で見たことあるわ。まさに最後は自分を主人公に仕立て上げて自己演出するわけだ。
 楽しいねぇ。オレもそういう時あるよ。
 で、方向感覚も無くなっていよいよ帰り道がわからなくなった時はどんな気分だった?
 それともあれか、死に向かって突き進んでるわけだから、振り返ったりしないのか。
 よくわからんが凄まじい推進力なんだねぇ。
 だが、失敗して、結果失明。
 絶命じゃなくて失明。
 今のあんたには観客も富士も何も見えない。
 絶体絶命ではなく失態失明といったところか。
 まさにピエロだ。
 観客達は非常に良い日に当たった。ラッキーデーだ。
 今のところは素晴らしい劇じゃないか。
 傑作だ。

 目の前で人間が失明した瞬間に立ち会えたんだ。
 確かにこの男のリアクションはありきたりなお粗末なもので、期待していた何か新しいストーリーとは違って興醒めかもしれんが、そこは今から死のうとした人間なんだから許してやってくれ。いかんせん準備不足だったんだろう。
 でも失明するってどんな気分なんだ?
 どんな演技が相応しいんだよ。 
 吃驚するでしょう、そりゃ。半端なく。まぁこれからも生きていく予定の人間にとっては、ということになるかもしれんが。
 そうだな、俺だったらどうするかな。もし俺が同じような状況だったら……。思い直し生き続けるとして、障害者登録とか出来たら国から援助金みたいなのも出るんじゃねぇの。そしたら少しは生活の足しになるだろ。悠々自適とまではいかねぇが、新しい人生は待ってるさ。なんか趣味でも探してさ。余生を使ってとことんそれを追求しまくるとか。でも自殺未遂者にまで援助は適用されるのかな。
 どういう事情で自殺にまで踏み切ったのかはわからねぇが、何者かに追いかけられてたりとかで立場が危ないんだったら保護申請とかも出来るんじゃねぇの? 詳しくはわからんが。
 あとはここからどうやって脱出するかだよな。こんな奥深くまで入って来ちゃったら、どれだけ叫んでも誰かの耳には届かんだろう。他の自殺志願者も他人を助けることにまで神経は及ばんよ。だからといって失明したまま当ても無くヨタヨタ歩いてても体力を消耗するだけだしね。そこが問題だわな。

 ――まぁこんなところかな。もういいや、俺は行くわ。どこの馬の骨かもわからない、いつ泣き止むのかもわからない、誰にも届くことのない、届けるつもりもないそんな涙に、執着するつもりもなければヒマも愛情も何もない。
 俺もなんでこんなとこに居合わせちまったのかはわからないが、首吊りに失敗しての失明ってとこにはまぁまぁ驚いた。
 そこはネタとして頂いとくわ。
 ――でもな、もう一回死のうとするんならきっちり死ねよ。
 しっかりした木の幹を選んだら、失明したままでも一度ぶらさがって思いっきり体を揺さぶってみて強度を確かめろ。確認したら手探りでロープを探り当て、器用にしっかりと結び直せ。いいか、しっかりとだぞ。それくらいは光が無くても出来るだろ。

 次は失敗するなよ、じゃないと秋の樹海で失明したお前に残された死に方は飢え死にくらいのもんだ。凍死なんて安らかなものは今の季節では期待出来ない。

 野犬に襲われるって可能性もあるか。
 どっちにしてもあんたの性根じゃ耐え難いものばかりだろう。首吊りのほうがずっと楽だと思うぜ。
「うわああああああ! うわああああああ!」
 泣きやめよ。もうどうしようもないんだから。
「くそ! くそ! くそ!」
 うん、確かにツキがなかったわな。
「死んでやる! 死んでやる! 死んでやる!」
 お、その意気だ。
「何度でも死んでやる!」
 そうそう。
「ロープ……! ロープはどこだ!」
 足下にあるよ、うるせーな。
「ない! ない! ひいいいい!」
 そのうち見つかんだろ。
「ないいいい! ああああああ!」
 あるよ!! って叫んでも聞こえるわけないんだが。
「ない! ない! ない!」
 死ぬまでやってろ。
「うわああああああ!」
 もういい。じゃぁね。俺は消えるわ。
 空高くへと、舞い上がるわ。

      一

「もしもし……」
 ん? ものすごく声が暗い……。だが、姉だ。 
「もしもし、どうしたのよ?」
 凛亜は電車が通りすぎた直後の代々木駅の改札前で、財布を取り出そうとしたまま固まった。
「……おどろかないでね?」姉の未来亜は慎重になりすぎてるのか、もはや言葉が続きそうな気配がない。凛亜の目は行き場を失うと不本意にも泳ぎ始め、自然とムッとした表情になる。

 ちょうど電車が通りすぎたタイミングが耳にもたらす喪失感と、夕方にしては不自然に閑散とした改札口付近と、電灯が点く前の少し薄暗い時間帯らが状況として確認を促すように覆い被さってきた後、蓮亜の頭の中に不吉な脳波が溢れんばかりに噴き出し始めた。
 そしてそのまま導かれるように、今から自分に降り掛かるおそらく邪悪であろうニュースはとても重要なことで、とても運命的なことになるんだろうと直感した。

「私は大丈夫だよ……。どうした?」
 言い終わると同時に電話の向こう側の世界が崩壊し始める。大地震でも起きたかのように。落雷が直撃でもしたかのように。
 ひどい嗚咽と共にぐしゃぐしゃに崩れ落ち、おそらく未来亜はひざまずき、ビリビリと嫌なノイズが耳に障る。

「未来亜ぁ、泣いてたらわかんないじゃん。はっきり言ってよ?」

「お父さんが……。お父さんがね……。遺書残して出ていっちゃった……」

「警察は?」蓮亜は乾いた声で冷静に返したが、向こう側の嗚咽は止まりそうにない。

「警察には連絡したのかって聞いてんだよ!」

「まだ……。これから……」ぜえぜえと吐き出される暴力的な空気音の中で、それらの言葉は辛うじて型取られた。

「連絡出来るか?」

「頑張る……。凛亜ぁ、早く帰ってきて……」

「すぐ帰るから、しっかりして。警察にだけ、お願いだよ」そう言って凛亜は携帯を切った。
 街は凛亜が話し終えるのを待っていたかのように、止めていた活動を再び取り戻し、いつもの喧騒を撒き散らし始めた。
 集団で歩く専門学校帰りの女の子達の笑い声、電車が通り過ぎる音や後方の道路から聞こえるクラクション、全てがわざとらしくわずらわしく重なった。

 凛亜は急いで改札を通り抜け、エスカレーターに乗り、手に持ったままの携帯をもう一度見つめた。

 正直言って心当たりはあったし、父の今朝の様子も少し変だった。
 バイトに出かける凛亜を玄関で呼び止めて、心配かけて申し訳ないというようなことを口にした。
 歯切れが悪く、尻つぼみでフェイドアウトするように押し出された弱々しい言葉は、生気を搾り取られた魂の最後の残りかすのようにも思えた。

 不穏な空気に少しだけ嫌な予感はしたが、まさかと思い直し、元気づけてあげられるようにと願いを込めて、大丈夫だよと精一杯の笑顔を手向けた。

 父は一ヶ月ほど前、勤めていた会社をリストラされてしまい、しばらくは再就職先を探してはいたものの、極度のストレスからか元々悪くしていた肝臓をさらに悪化させてしまい、食欲が減退し、体調も安定しなくなって、ここひと月の間で顔面は何かただならぬ邪悪な相に豹変し、肉体からは刺激臭を伴う酷い臭いを漂わせ始めた。

 男手一つで二人の娘を育て上げてくれた父は幼い頃の私をいつも抱っこしてくれていたが、昔から嗅ぎ慣れた父の臭いは現在のものとは大きくかけ離れてしまい、親子という血縁を持ってしてでも、それは近寄りがたい悪臭だった。
 父の体臭はお風呂に入っても食生活を改善しても治まるような気配は一向に感じられなかった。私と未来亜は気にしないように努め、何気ないそぶりで普段通りの生活を送っていたが、父自身が精神的に病んでしまい、人間不信のようなものに陥って自室に籠もるようになり、次第に私達のほうが距離を置かれるような形になってしまった。
 そして医者から飲むなと言われていたお酒に溺れ少しの間荒れたりもしたが、父として、人間としての尊厳で感情を抑えたというよりかは、生命力が衰弱してこれから活動を終える星のように、内側に空洞を抱きかかえ自然消滅していくような、見守ることしか出来ないような、独りよがりで心苦しい容体だった。発したい言葉も表したい感情も無いという風で、一人言をぼそぼそと呟いてはどこかへ出かけてしまい、次第に私達の前に姿を現さなくなっていった。
 そんな父が久しぶりに姿を見せたのが今朝だった。
 父はいつの間にか家の中にいた。

 姿を見せなくなって四日ほど経っていたので、さすがにおかしいということになり、昨夜から徹夜で未来亜と相談しながら頭を悩ませていたのだが、朝になるとトイレから水が流れる音がしたので二人で顔を合わせて驚いた。
 父は何と声をかけても、何を聞いても「すまん、すまん」と、かすれた声で小さく返答するだけで、そのままフラフラと階段を昇っていき、二階にある自室に入っていった。

 ロクに食事も摂ってないのは一目瞭然だったので、未来亜と一緒に急いで豚汁を作った。
 今日は土曜日でファミレスのバイトが午前中からの日だったが、衰弱した父の様子を見ていると休むべきかどうかギリギリまで迷った。

 でも未来亜は行くように勧めてきた。

 確かに、父からの収入を頼りに出来ない今、未来亜の家庭教師のバイトの給料と私の分を足さなければ親子三人が生活していくのはとてもじゃないが無理だった。

 迷ってる暇はない。

 先行きが不透明だからこそやるべき事はクリアに浮かび上がり、それは高校生の私にでもわかる単純明解なものだった。

 洋服を着替えて準備を済ませた後、今日は休みの未来亜に父を見守るようお願いした。

 そして二階へと繋がる階段を下から見上げて、正面に突き当たる壁に向かって声をかけた。

 いつものいってきますに、職探しは焦らなくても大丈夫だよと付け足したが、父からの返答は何も無かった。

 玄関に座ってスニーカーの靴紐を結んでいると、父はいつの間にか背後に立っていた。

 私は少し驚いたが、振り返ると同時に特有の悪臭が鼻に突き刺さってきた。

 父はそんな私の瞬間の表情を見抜いたのか、後ずさりしながら、心配かけちゃってゴメンなとだけ言って、また力なく階段を上っていった。

 弱気で情けない顔。

 今となればその表情が父の最後の顔になるかもしれない……。
 最後の最後で、父が見せた一番素直な表情……。

 なぜ私は不器用な同情なんかしてしまったんだろう。 
 なぜいつもの私らしく父を怒鳴りつけてあげられなかったんだろう。
 なぜ笑い飛ばしたり、悪態ついたりしてあげられなかったんだろう……。
 
 ぱーんという電車の警笛が聞こえたと同時に、曲がっていた背筋が少しだけ正される。大勢の客が降りた後もすぐには電車に乗ることが出来ず、ホームに残ったまま少しの間体が動かなかった。
 誰も悪くない。誰も悪くないのに。
 車掌さんが笛を吹いたのを聞いてから、ゆっくりと車内に滑り込む。
 温和な雰囲気が好きなのに悪いフリとかして、でも料理だけはいつもすごく褒めてくれて……、近所の人達にはすぐに頭を下げて、ジャニーズが嫌いで、でもウチらの友達にはすごく優しくて、若い子の歌を一生懸命覚えて……。

 電車の中なのに、人がいっぱいいるのに、くやしくて涙が頬を伝った。

      *

「いつ出ていったの?」
 警察官が事情を聞いて帰った後、俯いたままずっと泣き止まない未来亜に向かって尋ねてみたが、わからないという風に首を横に振っただけで正確な答えは返ってこなかった。
 未来亜のそばには、父が昔紙に書いて壁に貼り付けてあったボロボロの緊急連絡先一覧表が無造作に落ちていた。元々貼り付けてあった場所には生き生きした壁の色がくっきりと昔のままの状態で残っており、周りの壁は長い年月と父が吸うタバコのヤニなどで黒ずんでいて、相対的に浮かび上がったかつての断片からは、私達が幼い頃によく見られた父の優しく微笑んでる顔がぼんやりと思い出された。
 静けさはとても自然で、それ自体に不安を煽られるようなこともなく、壁に掛かった時計の秒針の音は素直で、やっぱり何も、誰も悪くはなかった。
 そしていつまでも泣き止むことの出来ない姉を見ていると、不思議に冷静でいられている自分がいた。
 父の行く先に心当たりはない。
 遺書まで残して去ったのに、親戚や知人を頼って身を寄せるようなことはないように思えたが、念のため叔父には連絡しておくことにする。
 だが携帯を拾い上げてメモリーを辿り始めたものの、途中で指を止めてしまった。
 叔父には随分長い間連絡を取っていない。五年ほど前までは、正月に電話口だけで新年の挨拶を交わす程度の交流はあったが、どういうわけかそういったこともいつの間にか無くなっていた。
 父方は祖父、祖母共に亡くなっていて、連絡出来るのは思い当たるところで父の弟である叔父だけということになる。
 母方の親族は、十三年前に母が家を出ていったきり連絡は皆無だ。記憶では祖母に一度だけ会ったことがあるような気がする。両親が離婚する前に母の出身地である岩手県の山の中に会いに行った微かな思い出がある。
 でもそれっきりで今となっては連絡先すらわからない。
 こうやって思えば、随分疎遠な立場に置かれていた事に気付く。もし父がこのまま帰ってこないようなことになれば、私達二人は完全に孤立することになるかもしれない。……いや、なるんだろう。ご近所で仲良くさせてもらっている人達もたくさんいるが、もちろん頼りすぎるわけにもいかない。
 簡素な遺書一枚で姿を消した父。これから私達が置かれようとしている状況よりも、父が自分の死をわがままに優先させたことをどうやって納得すればいいのかがまだわからなかった。
 叔父の自宅の番号に合わせ発信ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
 家の前の道を軽トラックが通り抜ける。
 着陸態勢に入った飛行機が、近くの空を低空で轟音を立てながら横切る。
 近所の子供達がキャッキャッと笑いながら追いかけっこをしている。
 町は止めていた動きを再び取り戻したように活動を再開し始めたが、それらは普段通りの慣れ親しんだ家族のような音だった。わざとらしく重なってくれたことが、どこかありがたく思えた。
 数回コール音を鳴らしても誰も出ない。今の時刻は夕方の五時を少し過ぎたところ。外は次第に日が落ちていた。
 土曜日も仕事に出ているのかもしれない。
 奥さんも出かけてるんだろうか。子供は確かいなかったと思う。紹介を受けたこともないし、父との間でそんな話題が上ったこともなかった。
 後でもう一度掛けることにしよう。
 取り立てて連絡を急ぐようなところは叔父の家くらいだろう。近所の人達に相談するべきかどうか迷ったが、今はまだ未来亜と二人で自宅にいたほうが良いと思った。
 未来亜は泣き止みはしたものの、一向に顔を上げそうな気配がない。未来亜も未来亜で自分の責任だと重く受け止めているんだろう。
 でもあんただけじゃない。私もこんなことになるなんて思わなかったんだ。何もしてあげることが出来なかったんだ。

 薄暗くなり始めた部屋と共に気持ちを沈めるわけにはいかないという思いと、自然の流れの中で運命的な今の状況にふさわしい雰囲気に身を置いたほうがいいのかという思いが、単調に刻む秒針の音の下で交錯する。
 私は真っ暗になるまで待つことにした。
 ふと、真っ暗になってしまえばいいと思った。
 それは、顔を上げようとしない未来亜に対してのあてつけであるのかもしれなかったし、ただ単に飲み込まれてしまっただけなのかもしれなかった。

      二

「ロープ……、ロープ……」
 尻餅をついたまま、足を使ってガサガサとロープを探す。
 夕暮れの森は柔らかく影を落とし始めた。
 富士はスムーズに色付き始め、紅潮した地肌を厳かに晒している。
「ロープはどこだよおおお!」
 数少ない若木はまだ訝しんだ様子で、男から発せられた叫び声を受け入れようとはしなかったが、数多の老木達が無残に吸収したため反響は驚くほど小さかった。
 男の頭上を羽化したばかりのアゲハが急ぐように踊る。そのリズムで、その意思で、その身体的構造が織りなす鼓動で、躍動する。あまりに緩やかに流れる悠久の景観とは対照的に、進化しきった最新のアゲハは微動する。細かい旋律がプログラムされているように、パタパタパタと、フリフリフリと。

「あった……、あった。はあはあ」
 男は足に絡み付けたロープを手繰り寄せて、ぐっと握りしめた。
 自分の荒い息づかいだけがやかましく耳に響く。
 頬に何かが触れたような気がして、慌てて両手で振り払う。
 空を切った腕がやけに軽く感じて、腕や足が自分の元から離れてしまったような錯覚に陥った。指先の末端の神経だけが、本体から離れて浮遊しているような。ちょうどペンライトの先端の光が残光の余韻を糸引きながら素早く振られるような感覚で、当人を驚かせる。
 男はロープを握り直して、頭の整理がつかないまま、次に何をすべきかを考えようと努めた。

 とにかくもう一度首を吊らねばならない。
 今は前進するしかない。自分の身に何が起ころうと、どんな災いが振りかかろうとも関係ない。
 傍にある太い木を手で伝いながら幹を確認すればいい。しっかりと体重をかけて強度を念入りに確かめる。それくらいは目が見えなくてもやれるはずだ。出来るだけ幹の根本の方を選んで、また折れるようなことがないように気をつけなければならない。
 もう後戻りは出来ない。死ぬしかない。死ぬしかないんだよ。
 四日ほど睡眠を摂っていない脳は、不穏な信号を不正確に乱発し、不吉な信条を不安定な意識へと送り届ける。心臓は暴発しそうな鼓動を強いられ、その能力の範囲で過酷に虐げられる。
 男は呼吸を深く重く意識して、ゆったりとしたリズムに整えようとした。
 重く、ゆっくり、深く。静かに、静かに。
 呼吸以外に何も無い。ここにはそれ以外に何も無い。
 見渡す限りの夥しい数の木々も消え、富士も消えた。枯葉も、空も、自分の手足すら見えやしない。
 何がどうなってしまったのか、未だ心の底から信じることなど到底出来ないが、両の目があの当たり前の映像を映し出してくれない。
 ふと、広大な樹海の深淵から包囲するように襲ってくる一切の静寂に溺れ息が詰まりそうになる。今、貶められた場所は盲目も手伝って樹海の中でも深海部にまで到達し、もはや光が届くことはない。
 男は胸ポケットから覚醒剤が入った小さな袋と注射器を取り出した。
 小袋を落とさないようにしっかりと握り締め、注射器は前方に向けて思い切り放り投げた。
 一本の細い若木に命中し、儚い音を立てて粉々に砕け散る。
 図らずも呼吸は荒さがぶり返してくる。小袋のチャックを開けて、唾で湿らせた震える指を慎重に突っ込んだ。指の先端に砕かれた結晶がざらつく。そして、そのまま口元にそーっと運び、豪快に指の根本までくわえ、舐めまわす。独特の苦味が舌をギスギスと刺激した。男は同じ動作を数回繰り返す。消え入りそうな呪いに薪をくべるように、大事に大事に舐めまわす。
 注射器ほどの威力はない。だが少しずつ全身が粟立っていく戦慄を感じる。脂汗が背中一面に植物の芽のように生えてくる。肩が震えたのは寒さのせいじゃなさそうだ。何かが何かの水準にまで到達したのかもしれない。
 ささやかな気休めを獲得すると、丁寧に小袋のチャックを閉めて胸ポケットにしまい、腹筋に力を込め、男はゆっくりゆっくりと後方に身を倒した。
 そして目をカッと見開いて、見えない夕暮れの空を描いた。
 一番星を見つけた。キラキラと、燦然と光り輝いている。二つ目の星、三つ目の星。次から次へと見つけることが出来た。
 覚醒剤のせいか、体からの悪臭がいつもより増して強くなる。
 目に染みるほどの刺激臭。危険を感じたのか、涙腺が咄嗟に反応し、涙が網膜を薄く覆った。
 このままここで、このままの状態で、腐っていくような死に方もいい。放置された廃棄物のように風化していければいい。意識を保ったままなら尚ありがたい。悠久の壮大な変遷を感じながら、そこら辺に転がる岩のように。
 執拗な喉の渇きに襲われたが、持ち込んだペットボトルを探そうとはしなかった。ダラリと力の抜けた全身で味わう多幸感と脂汗で、初秋の肌寒い空気を跳ね返すことが出来た。
 いつの間にか夜空は隅々まで星がちりばめられ、満天の輝きで溢れかえる。
 今まで拝んだことのない鮮やかな星空。
 真二はもうそれだけで十分だという風に、少しだけ微笑んで、気絶するように眠りに落ちた。

      三

 部屋の電気は未来亜が点けた。
 立ち上がった未来亜は急に落ち着きが無くなり、台所に行って父の為に作った豚汁を温めだした。
 私はいらないと言ったが、未来亜はかすれた声で、食べようと差し出してきた。
 今までと同じように、二人だけで食べる夕食。父が会社に勤めていた頃は、そろそろ帰宅時間の目安を電話してくる時間帯だった。携帯を見つめたまま箸が止まったが、父からはもちろん友人からの電話もメールも迷惑メールさえも、何一つ受信していなかった。
 そしてしばらく無言のまま、二人で豚汁をすすった。
 その後、最初に口を開いたのも未来亜だった。
「叔父さんに連絡しなきゃね」
「さっき電話したけど誰もでなかった。奥さんもいないみたいだったから、後でもう一度電話してみる。他に連絡しなきゃいけないとこある?」
「んーと……、お母さん……は無理だもんね」と聞かれ、私はすぐに首を振った。 
 でも母親を思い浮かべるのは自然だった。
 母が何故家を出ていったのか、父との間に何があったのか、私達は何も聞かされていなかった。
 私は五歳の時、未来亜は七歳の時。
 私は小さすぎてもうほとんど記憶に無いが――忘れようと努めていたからかもしれないが――幼い未来亜はさよならも言わず出ていった母のことを、いつか戻ってくるものだとずっと思い込んで暮らしていたらしい。父が話を濁していたからだろう。父は私達が何を聞いても大丈夫だからの一点張りだった。
 父がこんなことにならなければ、連絡を取るべきなのかどうかということも悩んだりしなかっただろう。思い出そうとさえしなかった。
 別に今さら頼ろうとも思わないし、伝えたいという気持ちもない。でもなんとなく思い出してしまう未来亜の気持ちは理解出来た。
 今頃どこで何をしてるんだろう。
 子供が幼い場合は、離婚しても親権は母親が持つことが多いと何かの本で読んだことがあるが、要するに私達を捨てて出ていったということだ。このことについては一時期真剣に考えたことがあったが、今はもうどうでもいい。私達には父以外の親はいない。
 
「向かいの安田さんとこ、どうする?」と未来亜が聞いてきた。
「まだ帰ってこないと決まったわけじゃないから、もうしばらく様子を見てからにしたほうがいいと思う」
 未来亜は頷いて、ほとんど手をつけていないお椀をテーブルの上に置いた。
 不意に、車のクラクションが家の前で二回、トントンと鳴らされた。
 ん……?
 少し考えようとしたら、すぐに携帯のバイブが震え出した。
 サラだ。
「もしもし」
「凛亜、どこ? 家?」
「あ……、そうだよ。ちょっと待ってて。今出るから」
 未来亜を一瞥してから立ち上がった。
「誰?」
「サラ。ちょっと事情伝えてくる」
 サンダルを履いて玄関の扉を開けると、目の前にサラの水色の軽自動車が停まっていた。
 サラは私を確認すると助手席のウィンドウを開けて笑顔で手を振ってきた。
「連れて来たよ。迅」
 私は約束を何も思い出せずに、呆気に取られて立ち尽くしていた。
 サラはそんな私を見かねて、どうしたの? とでも言いたげに首を傾げた。
「今日、約束してたじゃん。迅連れてご飯行くって。忘れてた?」
 後部座席でチャイルドシートに埋もれた男の子が手をパタパタと上下させている。
 あ……。そういえば今日約束入れてたっけ。でも、頭がうまく働かない。何も思い出せない。
「乗りなよ。何食べるか決めてくれた?」サラは得意そうに助手席をパンパンと叩きながらそう聞いてきた。
「ごめん……」
「ん? どうした? なんかあった?」
「ちょっと……。お父さんが」
「おっちゃん? おっちゃんがどうしたの?」
 私が簡単に経緯を説明し始めると、途中でサラは車を降りてきて、神妙な面持ちで最後まで話を聞いてくれた。
「ごめんね……」
「私は平気だよ。きっとおっちゃん大丈夫だよ。戻ってきてくれるよ。あんなに優しいおっちゃんなんだもん」
 友人に状況を説明することで、事態を反復することで、事の重大さが再認識出来たのか徐々に涙が込み上げてきてるのがわかった。作り話のような、そうじゃないような。自分の話のような、そうじゃないような。自分で話してて、全部が嘘のように思えた。
 今朝まで、数時間前まで父はいたんだ。私が立っているこの空間を通り過ぎたんだ。この平らなコンクリートを踏みしめ、僅かにでも音を立てながら、この目の前の道路を通って行ったんだ。
 サラが抱きしめてくれた時は、もう我慢出来なかった。
 父は本当にいなくなったんだ。本当に死のうとして出ていったんだ。本当にもう会えないかも知れないんだ。
 不意に足の力が入らなくなった。膝からガクンと落ち、サラの腕をすり抜けて、しゃがみこんだまま顔面を両手で覆った。
 獣のような嗚咽が溢れ出た。
 遠吠えのような泣き声に膨れ上がった。
 すぐに家の中から未来亜が出てきて、私を抱きかかえるようにして家に入るように促がした。
「サラちゃん、ごめんね。凛亜、中に入れるね」
 激しい嗚咽の中でサラに振り向くことが出来なかった。
 未来亜は私を玄関に座らせて、しばらく背中をさすってくれていた。私は両手を顔から切り離せないまま、止め処なく流れる涙をどうすればいいのかわからなかった。
 思いがけず、咳き込んだ。
 涙を流しながら、嗚咽を漏らし、咳き込んだ。こんなに泣いたことも、嗚咽を漏らしたことも、咳き込むまで泣いたことも、今まで一回も無かった。何一つ抑えることが出来なかった。
 この家で、生まれた時から住んでるこの家で、幼い頃から毎日何回も出入りしたこの玄関で、こんな姿勢で、こんな風に泣くなんて、ここでこんなに動けなくなるほど泣くことになるなんて思ってもみなかった。
 幼い頃の私が、近所の仲良しの子達と遊びに行く私が、中学校に入って初めて制服を着た照れくさそうな私が、初めて彼氏が出来た時の恥ずかしそうにしてる私が幻影となって私の横を目まぐるしく通り過ぎていく。こっちを見て物珍しそうな表情を浮かべながら、どんどんどんどん通り過ぎていく。
 今の私はこんなところで動けなくなっている。すると思い出が音を立てて崩れていく。暴力的な嗚咽が崩していく。涙を通して飲み込まれていく。
 私だってこんな私を見たことがないんだよ。どうコントロールすればいいのかわからないんだよ。
 
 傍にいた未来亜はスッと立ち上がると居間に入り、シクシクと声を噛み殺していた。

      四

 凛亜はこんなに大きかったっけ?
 未来亜はまだ子供で、小さいよ。
 なんでだろう? 未来亜のほうがお姉さんだったはずだろう? なんでだろうね?
 随分大きなプールだなぁ。野球場くらいの大きさはありそうだよ。こんなプール見たことないよね。
 未来亜も凛亜もまだプールには入らないでね? 家族みんなでお話しているんだから。
 あれ? 四人いるよ? もう一人……、亜子か。久しぶりだな。亜子が来てくれるなんて思ってもみなかった。
 みんな仲が良いね。こんなに広いプールで家族揃ってゆったり出来るなんて最高だね。
 小さな虹が架かっているよ。
 赤、青、黄色、オレンジ色、ピンク色、紫も見えるね。色鮮やかで綺麗な虹。
 よし、じゃあお父さんが浮き輪を膨らましてあげる。
 一生懸命やってみるからね。
 フーフー、フーフー。
 うーん、うまく膨らまないなぁ。
 うわっ、なんだ? 未来亜が急に膨らんできたよ。なんだろう? 顔が大きくなったり、体が大きくなったり、ブヨブヨで、フワフワしてる。
 おかしいなぁ。浮き輪がうまく膨らまないなぁ。一生懸命、吹いてるのになぁ。亜子も手伝ってよ? 
 あれ? 亜子がいない。亜子はどこにいった? あ! 向こうの方でこっちに向かって手を振っているよ。
 あいつ、どっかに行っちゃうのかなぁ。あれ? 未来亜も凛亜も泣いてるよ。
 泣きながら手を振ってるよ。なんで泣いてるの? なんで泣かなきゃいけないの?
 俺もじゃあ泣くね。泣いたら、あいつ喜んでくれるのかなぁ。
 俺もわんわん泣いちゃうね。
 あ、未来亜がお姉さんになった。凛亜は中学生の頃に戻ったんだね。学校の水着を着てるんだね。
 水に入るのが怖いのかい? あれ? お父さんだけじゃないか、ずっと泣いてるの。
 お前らは強くなったなぁ。二人とも泳ぎに行っちゃった。
 お父さんは涙が止まらないんだよ。
 富士山がね、とても綺麗なんだよ。
 こんな近くで富士山を見たの初めてだ。
 こんなに綺麗だと涙が止まらなくなっちゃうね。
 おーい、未来亜ァ、凛亜ァ、早く上がっておいで。
 お父さんはビールを飲むね。
 竹の筒に入ったビール。でも大粒の涙がどんどんビールに溶け込んでいくよ。
 未来亜と凛亜は大丈夫だね。
 立派に育ってくれたんだね。
 遠くの方でクロールしてる。どんどんどんどん遠くなる。
 もう、お前らには会えないんだね。
 富士山もどこかに消えちゃった。
 色鮮やかな富士山。どこかに消えちゃったよ。
 もうすぐ虹が大きな円になるからね、そこに首をかけることにするよ。
 お父さんは涙が止まらないよ。

      *
 
 ひんやりとした空気と森独特の湿気が辺りを覆い尽くしている。
 
 誰もいないわけではない。
 今、樹海の中には生きている人間が数名いる。
 だがそれぞれが近しい場所にいるわけではない。
 樹海においてそれぞれは、それぞれの場所から入水し、それぞれのルートを辿り、それぞれの場所で落ち着く。それぞれは老木たちの念によって霧散され、消えていく。
 ある男は火をおこして米を炊き、缶詰めを開け、酒を飲み、歌を唄った。思い浮かぶ歌を、余すことなく全て唄った。唄い終わると、次は出会った人間の名前を思い出せるだけ唱え始めた。その人間にまつわるエピソードを織り交ぜながらたっぷりと時間を使って、時折涙を飲み込みながら、くどくどと今生を振り返る。それがルールであるかのように。
 ある痩せぎすの男は木にくくったロープを眺めながらもう数時間も動かないでいる。日が沈もうとも、どこかで野犬の遠吠えが響こうとも意に介さずに。三角座りをして、ロープの輪っかに焦点を当て、その中心を揺らぐ空気に不思議な恍惚感を覚えている。
 ある中年の男は眠りについている。眠りながら涙を流している。流れ出る涙の筋に小さな虫がたかる。小さな小さな虫達が、涙を啜っている。この男の眠りは恐ろしく深いようだ。当分の間、目覚めそうにないか。小さな虫達は、ガツガツと、一心不乱に涙を啜っている。
 ある若い男は、テントを張り、ランプに火を灯し、読書をしている。外国の本のようだ。英語を原文のまま、辞書を片手に読み進めている。傍に置かれたラジオから流れる音楽は樹海によって乱れた電波で時々歪められてしまっている。ポットに淹れてきたホットコーヒーを飲みながら快適に樹海の夜を過ごす。明日の朝には愛車のマウンテンバイクで樹海から引き上げるんだろう。柄の長いサバイバルナイフを手の届く位置に置いているのは、何かに対する用心だろうか。だが、呪いの声さえ聞こえてこなければこの男にはここは必要な空間であるようだ。どこかで屍がぶらさがっていようと、どこかで死者が彷徨っていようと、どこかで死者が歌を唄っていようと、どこかで死者がロープを見つめていようと、どこかで死者が眠っていようと、この男には関係ない。ただ静かに本を読み続ける。

      五

 目が覚めたようだ。覚めなくてもいい目が。
 闇の中だが、どうやら目は覚めてるようだ。
 意識が起動したんだ。体温を意識したんだ。鼓動を意識したんだ。呼吸を、唾液を、涙を意識したんだ。そう、俺は眠りから覚め、確かにまだ生きている。この感覚は間違いなく生きている。
 
 どれくらいの時が過ぎたんだ。
  
 今の樹海はおそらく闇なのだから、俺も闇の中でいい。どうせ明かりもないのだから至極当然の闇だと思えばいい。なぜか簡単に諦めがつく。だってそうだろう、もうすぐ俺は死ぬんだ。最後の最後まで呪いのように付き纏ってきた一切の煩わしさともお別れすることが出来る。
 ああ、無限とも言える数の虫達の鳴き声が途切れることなく大音量で突き刺さる。
 ああ、何ということだ! 聴力だけでこの世と繋がる!
 
 試しに音だけの世界を生きてみる。これから、どうせあと少ししたら死ぬんだけど、せっかくだから深く深く陶酔する。
 どの者が何を想い、何のために、何を求めて鳴いているのかなど聞き分けようがない。そんなことは目が見えていても同じ事だ。それでも潜る。その中へと潜っていく。突き進んでいく。一キロ先に音があればその元まで、その元に触れるくらいにまで、聴力が及ぶ全ての範囲が俺の意識の果てとなるまで飛び込み、接触する。
 だが凄まじい虫達の大合唱に頭の中はすぐに満たされ、正気が熱を帯び始め、簡単に高揚してしまう!
 それでもその中に潜る。今までのことを後悔しながら。数時間前に樹海へと足を踏み入れたあの瞬間と同じように。
 だんだんと音量に慣れてくる。樹海で歩を進めることにだんだんと慣れてきたあの感覚と同じように。
 そして意識の果てまでジロリと聞き渡す。ギョロリギョロリと聞き渡す。
 ――ハッとした。
 無限の鳴き声の中から美しいものを見い出した。奥の奥のそのさらに奥の方からやっとの思いで届いてくる。小さくて涼しい音色。
 我の無い、他の虫達を倣って同じものを愛し、同じものを憎むような我の無い美しいそれ。透明感があって、清楚で、弱々しくて、儚くて。
 守ってあげなければならなかった頃の小さくて涼しくて頼りなかった子供達を思い出す。
 自然に泣き始め、自然に泣き止む。自然に走り出して、自然に止まる。自然に飛び跳ねて、自然に休む。自然に怒り始め、自然に眠る。意識的ではないこの大自然と同じリズムで一日を、あるいは一週間を、あるいは一ヶ月を、あるいは一年を、あるいは今この瞬間を、無限ともとれるほど細かく刻まれた旋律のように。
 
                         
                         了

失態失明

失態失明

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted