ぼくと養父
ぼくを引き取ってくれたのは、ちょっと稼ぎの良い独身の男だった。まだ三十代初めだという彼がどうやって孤児院からぼくを引き取ったのか、ぼくはよく知らない。ただ髪も短く小奇麗な様子だったのもあって、里親として認められたのかもしれない。
ぼくに初めて会いに来た日、彼はさらりとした茶色い前髪を横に流しダークスーツを着て、いかにも会社員といった格好で、ぼくに自己紹介した。
「私はクリス。よろしく」
そのとき握手を交わした彼の掌が、冷たいのにちょっと汗ばんでいたのが印象的だ。
その日の彼はあまり話そうとせず、ぼくの言葉に相槌を打ったり、ときどき投げかけた質問にも短く返すだけだった。ぼくが初対面の男から受けた印象は、無口、無表情、でも無関心な感じは不思議としない、そしてやっぱり小奇麗。という感じだった。
いくらか慣れてもその印象は変わらず、ただ、いつも持ってくる高そうなお菓子から、身入りの良い人なんだろうと言うふうに、想像した。同時に“彼女”にはいくらお金を使っているんだろうかと不思議に思った。孤児院の女の子たちの間で、あしながおじさんの近代版みたいな本が流行っていたのだ。彼女がいるなら、きっとこんな孤児院に高級菓子を持ってきている場合ではないだろう。まさか、本物のあしながおじさんと言うわけもあるまい。ある日ぼくは彼に、孤児院に来る理由について聞いてみた。彼の答えはこうだった。
「子どもを育てるのが夢だったんだ。でも女は苦手でな」
前半だけ聞けばごくごくまっとうな理由だった。ぼくは色々想像していた分、度肝を抜かれ、「そりゃそうだ」と返事してしまった。
しかし後になって、言葉を吟味してみると、もしかしたらゲイなのかもしれないという疑惑をもったが、養父クリスと住んで五年、いまのところ彼氏を紹介された事はない。
ぼくがクリスに引き取られたのは十一歳のとき。子どもを育てるのが夢だというわりに、クリスは学校なんかの手続きが終わった途端に仕事を追い始め、平日は朝と夜しか家に居なかった。会話は「おはよう」と「おやすみ」くらい。
ぼくとしては、既に分別をわきまえた年齢だったし、半分くらいは家事手伝いとしてこの家に置かれたのだろうと思った。なので彼に面倒を掛けぬよう、言われる前から自分で買い物に行き、毎日彼の分まで食事を作っていた。最初のうちは、クリスもたぶん遠慮して、ぼくの買ってきたものを黙って食べていたが、一週間もすると、お茶だけは自分で買ってくるようになった。
そんな風に距離を測りながら一ヶ月ほどたったころだろうか。クリスがめずらしく仕事を早く切り上げ、アップルパイとバニラアイスを買ってきた。
まだ夕飯を作り始める前だったが、クリスが、「パイが冷める」と急かすので、ぼくは家の主人に従い、夕飯を後回しにして皿とフォークを並べた。
クリスが適当な皿にパイをのせて、「アイスいるか?」と聞く。ぼくはパイの横を指差すが、クリスはなんとパイの上にアイスを乗っけてしまった。これではせっかくのパイがぐじゅぐじゅになってしまう。そういう文句をぼくは呑み込んだが顔は隠せなかった。
「早く食ってみろ。絶対にうまい。うまいから!」
そう強く言ってクリスがアイスを乗せたパイを頬張ってみせる。ぼくも嫌々ながら養父に習い、息を止めてパイを口に運んだ。
口の中で生地がサクサクと鳴って、バニラアイスは熱いリンゴジャムと混ざりすっと溶ける。想像した食感と全然違ったために感想が出てこず、ぼくはもう一口パイを食べた。食えると思った。一口食べるごとになんだか癖になる。
パイが冷める前に、アイスが溶ける前にと、ぼくたちはそれを夢中でほおばり、食べ終わった後はなんとなく目があってにやりと笑顔を交わした。
「どうだお前、うまかったろ?」
クリスが口周りをナプキンで拭いてから、どうだといった顔をした。
「ああ!あんたは正しかった!」
それはぼくたちが初めてお互い笑顔で交わした会話だった。
*
あの事は本当にいい思い出だ。
しかし、ぼくは十六歳になった。今は、お互いの存在に慣れたという事もあるのだろう、やれ勉強しろだの夜は早く寝ろだの、クリスの小言が妙に増えて、そのために喧嘩も増えた。初めて会った頃の無口はどこへ行ったのか、いや、今でも変わらないのだ。ただ、口を開けば小言が出てくると言うだけで……。そのうえにクリスは、相変わらずパイとアイスでぼくの機嫌をとれると思ってるのが、よっぽどいただけなかった。
「ベン!友達と遊ぶ時は、メールでも良いから一言言えと言ってるだろう!」
「いいかげん言い飽きたね、クリス!ぼくは家事だってあんたの分までしてる。自分の管理は自分でできるんだよ!」
「別に家事なんてしなくても良いと言ってる……、そういう事じゃない!問題をすりかえるな!」
今日もまた喧嘩だ。
「すり替えて無いさ!仕事以外自分の身の回りのこと、ほとんどできないようなやつに、ぼくの身の回りの事をとやかく言われたくないね!」
「……!とにかく!俺は今から会社に行くが早めに帰ってくるから、その時きっちり話をするぞ!」
それだけ言い残して奴はバタンと戸を閉めた。
言い訳もできなかったくせに、まだ何を言おうっていうんだろう。わざわざ言われたとおり待ってやる義理もないが、学校のあと誰もつかまらなかったので、大人しく家に帰ることにした。
クリスはもう帰っていた。
「本当に早かったんだね。」
「…まぁくえ。」
テーブルには木の実の入ったパウンドケーキ。
「アップルパイは流石に飽きたかと思ってな。今朝は、その、悪かったよ。おれも頭に血が上っててな。ただ最近は、本当に物騒だから、お前には、その、なんだ、安全に楽しく暮らして欲しいと思ってるんだ。」
「それで、仲直りのしるしが、パウンドケーキ?」
「ベンっ!」
「……わかったよ!メールくらいするよ、忘れなかったら!」
口にほうり込んだパウンドケーキはちょっとぽそぽそした。
「いつもケーキばっか買って来てさ、太らせる気かよ。こんなこと、繰り返した先に何があるってんだ。」
「何だお前、変な事言うな。……そうだな、その先に、お前からの信頼と俺の幸せがあると、信じてやまないんだ。」
「……あんた、“親子”に夢みすぎだよ。」
ぼくは高級な香りのするお茶でパウンドケーキを流しこんだ。
ぼくと養父