謡(うたい)

謡(うたい)

原案 田代 裕(未完のX680x0用同人サウンドノベル『謡』より)

※ この物語はフィクションです。実在の人物、地名、団体等とは一切関係ありません。作中の猿楽『紫桜(しざくら)』も架空の演目です。

 

そもそも、花と云ふに、萬木千草(ばんぼくせんそう)において、四季(折節(おりふし))に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に、(もてあそ)ぶなり。申楽(さるがく)も、人の心に珍しきと知る所、即ち面白き心なり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散る故によりて、咲く(ころ)あれば、珍しきなり。能も(ぢゅう)する所なきを、()づ、花と知るべし。

          ──世阿弥『風姿花伝』花傳第七 別紙口傳より

プロローグ

『伝統の猿楽継承──岩代(いわしろ)錦美町(にしみまち)深津地区』

 岩代市(いわしろし)錦美町(にしみまち)で七年ぶりの奉納(ほうのう)となる猿楽(さるがく)紫桜(しざくら)」の合同(ごうどう)練習(れんしゅう)が二八日、錦美町の深津(ふかつ)公民館(こうみんかん)(おこな)われた。この日は宇侘川(うたがわ)猿楽保存会(ほぞんかい)有志(ゆうし)二〇人あまりが(あつ)まった。奉納される「紫桜(しざくら)」は戦国時代(せんごくじだい)沓掛(くつかけ)合戦(かっせん)題材(だいざい)()ったもので、合戦で父を()くした(ひめ)悲劇(ひげき)(えが)いた物語(ものがたり)(えん)じる()によって(こと)なる物語が(つた)わるという。保存会代表(だいひょう)松岡(まつおか)寄与志(きよし)さん(六九)は、「神楽(かぐら)(さか)んな中国山地(ちゅうごくさんち)で、猿楽が民間(みんかん)伝承(でんしょう)されているのはここだけではないか。非常(ひじょう)(めずら)しい伝統(でんとう)芸能(げいのう)なので、()やさないように努力(どりょく)していきたい」と(はな)していた。猿楽「紫桜」は本年(ほんねん)一〇月一八日、一九日の両夜(りょうや)、錦美町深津地区(ちく)宇侘(うた)八幡宮(はちまんぐう)で奉納される予定(よてい)

(二〇一×年四月二九日付 西國新聞朝刊地方面(さいごくしんぶんちょうかんちほうめん)より)

第一章 桐葉荘(とうようそう) 〈一〉

 終点(しゅうてん)()げるアナウンスが(なが)(はじ)めたと(おも)ったら、列車(れっしゃ)はまたトンネルの中に入った。
 これで何本目だろうか。()ってからしばらくは(かぞ)えていたが、あまりに本数が(おお)いので途中(とちゅう)(かぞ)えるのをやめてしまった。
 始発駅(しはつえき)を出てから一時間(じかん)少々(しょうしょう)、一(りょう)だけのディーゼルカーは川を(さかのぼ)るようにゆるゆると山間(やまあい)をぬって(すす)んできた。
 単線(たんせん)だから、途中(とちゅう)()(ちが)いの列車を()ちながらの、のんびりした(たび)だ。
 本当(ほんとう)()たんだな、と(ぼく)(あらた)めて(かん)じた。
 偏差値(へんさち)だけで()めた広島(ひろしま)の大学に入ってからほぼ一年(はん)、僕はこれといって(とく)にやりたいことも()たないまま()ごしてきた。
 もともと(なに)目指(めざ)すものなんてなかったし、文系(ぶんけい)理系(りけい)選択(せんたく)にしても数学(すうがく)苦手(にがて)だったから文系を選択しただけ。受験(じゅけん)はそれなりにがんばったけれど、結局(けっきょく)はこれも「何となく」で()めてしまった。
 だから学業(がくぎょう)()()んできたわけでもないし、サークルに入って直接(ちょくせつ)友人関係(ゆうじんかんけい)をひろげてきたわけでもない。講義(こうぎ)をさぼったりすることはなかったが、だからといって(けっ)して熱心(ねっしん)な学生ではなかったと、自分(じぶん)でも(おも)う。
 そんな僕が、講義を一週間(しゅうかん)(ちか)くほったらかして(たび)に出ることにした。こんなことは(いま)までになかったことだ。
 (くら)くなった車窓(しゃそう)に、車内(しゃない)蛍光灯(けいこうとう)()らされた僕のぼんやりした(かお)(うつ)っている。
 モラトリアムのモラトリアムだよな、と僕は内心(ないしん)苦笑(くしょう)した。
 トンネルを()けたら、列車はすぐさま鉄橋(てっきょう)(わた)る。
 川面(かわも)(あき)(やわ)らかな日差(ひざ)しを()けてきらめいている。紅葉(こうよう)にはまだ少し早いが、景色(けしき)輪郭(りんかく)がくっきりとしていて、秋の()えた空気(くうき)(かん)じさせる。
 これから()り立つ町の景色(けしき)も見えた。山に(かこ)まれた小さな町だ。
 列車は鉄橋を渡り()えると、一本しかないホームにゆっくりと入って()まった。数人(すうにん)しかいない乗客(じょうきゃく)が降りていく。みな高齢者(こうれいしゃ)ばかり。僕もそれに(つづ)いてホームに降りた。
 (だい)三セクター山代鉄道(やましろてつどう)清流(せいりゅう)錦美川(にしみがわ)線の終点・尋瀬(ひろせ)(えき)は、岩代市(いわしろし)北東部(ほくとうぶ)錦美町(にしみまち)中心部(ちゅうしんぶ)にある。
 平成(へいせい)大合併(がっぺい)(ほか)の五(ちょう)(そん)とともに岩代(いわしろ)市と合併した錦美町(にしみまち)は、中国山地西部(ちゅうごくさんちせいぶ)源流(げんりゅう)()県内(けんない)屈指(くっし)の清流・錦美川流域(にしみがわりゅういき)位置(いち)し、いくつかの限界(げんかい)集落(しゅうらく)(かか)える過疎(かそ)の町である──とネットで調(しら)べて()った。
 ほんの少し(まえ)まで、僕はこの町の存在(そんざい)すら知らなかった。その僕が、今こうしてこの町に立っている。(かんが)えてみると不思議(ふしぎ)なことだ。
 僕はコンクリートの階段(かいだん)を下りて改札(かいさつ)駅員(えきいん)切符(きっぷ)を渡した。
 (せま)駅舎(えきしゃ)の左(がわ)には土産物(みやげもの)販売(はんばい)するスペースがあり、割烹着姿(かっぽうぎすがた)店番(みせばん)のおばさんがヒマそうにしている。年齢(ねんれい)は五〇代後半(だいこうはん)から六〇(だい)ぐらいで、白髪(しらが)()じりの(かみ)素気(そっけ)なく(うし)ろで(たば)ねた、小太(こぶと)りの女性(じょせい)だ。
「あのー、深津峡温泉(ふかつきょうおんせん)まではどれぐらいかかりますか?」
「あれ、今バスが出たとこじゃが!」
 僕が(たず)ねると、彼女(かのじょ)はすっとんきょうな大声(おおごえ)を上げた。
「あーあ、今日(きょう)は乗る人おらんよ()うたとこじゃのに、あんたがおったんかいね!」
 目的地(もくてきち)の深津峡まで一日(すう)本のバスが(とお)っているのは事前(じぜん)に調べて知っていたが、()(わる)いことに乗りそこねてしまったらしい。
(ある)いたらどれくらいかかります?」
「わや(無茶(むちゃ)()うちゃいけん、一時間(はん)はかかるいね。やめちょきんさい」
 おばさんがあまりに大声でしゃべるので、駅員がなにごとかとこっちを見ている。なんだか()ずかしい。
「青ちゃん、青ちゃん!」
 おばさんは僕を()いたまま(そと)に出て(だれ)かを大声で()ぶ。
 僕もそれに続いて駅舎を出た。
 木曜日(もくようび)午後(ごご)ということもあって、駅(まえ)はひっそりと(しず)まり(かえ)っている。住宅地(じゅうたくち)の中、こぢんまりとした広場(ひろば)があり、白色のタクシーが一(だい)だけ停まっている。左手に(いろ)()せた中華(ちゅうか)そばののぼりが立った古びた食堂(しょくどう)が一(けん)あるだけで、商店(しょうてん)らしきものはほかに見()たらない。
 キジバトが二()(なに)かをついばみながらうろうろとしている。
 まるで(とき)(なが)れから()(のこ)されたような、本当に小さな町だ。
 おばさんはタクシーの運転手(うんてんしゅ)に何やら(はな)している。
 運転(せき)からおじさんが(かお)を出して僕に()う。
「あんた、深津峡温泉まで行くんて?」
「はあ、バスに乗りそこねたので歩いていこうと(おも)うんですが」
「あー、あんたぁ(わか)いけえ()かれんこたぁなかろうが、知らん土地(とち)で歩くんは結構(けっこう)えらい(きつい)よ」
 なんだか人のよさそうな運転手のおじさんは年齢が六十歳くらい、見事(みごと)禿()げ上がった(あたま)太陽(たいよう)反射(はんしゃ)してまぶしい。丸顔にかけた黒縁眼鏡(くろぶちめがね)(おく)から小さな目がこっちを見ている。
 夏休(なつやす)みにバイトである程度(ていど)()めたとはいえ、所詮(しょせん)は学生なので金があるわけではない、できればムダづかいは()けたい。一時間半ならまだ(あか)るいうちに()くことができそうだ。
 おばさんはにこやかに僕の荷物(にもつ)()()る。
「まぁま、お(にい)さん、遠慮(えんりょ)せんと乗っていきんさい、うちがサービスさすけえ。な、青ちゃん」
「おいおい、勝手(かって)()めなや」
「ええじゃないの、ほれ、お兄さん乗って乗って!」
「じゃあ、お願いします」
 結局(けっきょく)おばさんになかば()()まれるように、僕はタクシーに乗った。
 運転手は苦笑(にがわら)いをしながら車をスタートさせた。
「やれやれじゃね……おたく学生さん?」
「そうです」
「若い人がわざわざここに来るたあ(めずら)しい、どうしたんかね?」
 タクシーメーターに運転手氏名(しめい)(かか)げられている。青笹(あおざさ)繁徳(しげのり)というらしい。見た目の雰囲気(ふんいき)とつり合わない重々(おもおも)しい名前がなんだかおかしい。
「七年に一()猿楽(さるがく)()に来たんですよ」
「ほおー、よう()っちょるねえ!」
 青笹さんが感心(かんしん)したような声を上げた。
地元(じもと)でもえっと(よく)知らん(もん)もおるのにから、(たい)したもんじゃ」
(はる)ごろに新聞(しんぶん)練習(れんしゅう)記事(きじ)が出たのを見たんです」
「それでわざに? あんたもなかなか酔狂(すいきょう)じゃねえ」
 青笹さんは(わら)いながら言った。
 タクシーは(むかし)商店街(しょうてんがい)だったと思われる(とお)りを()けて、先ほど渡った列車の鉄橋の下をくぐり、川沿()いを進んでいく。両側(りょうがわ)(するど)く切り立った山肌(やまはだ)(せま)ってくるようだ。
「ま、日本中どこを(さが)してもここでしか観られん、珍しい猿楽じゃ。わしも出るんよ、地謡方(じうたいかた)でな」
 青笹さんはうれしそうに(つづ)けた。
 猿楽『紫桜(しざくら)』は、七年に一()だけ、地元(じもと)有志(ゆうし)によって宇侘八幡宮(うたはちまんぐう)奉納(ほうのう)される伝統芸能(でんとうげいのう)だ。
 猿楽というのはいわゆる能楽(のうがく)のことだが、能楽と()ばれるようになったのは明治時代(めいじじだい)になってかららしい。ここでは旧来(きゅうらい)からの呼び名がそのまま残っているようだ。
 そもそも中国山地西部(せいぶ)神楽舞(かぐらまい)(さか)んで、秋になるとあちらこちらで上演(じょうえん)されている。
 実際(じっさい)、大学で知り合った地元の山間部(さんかんぶ)出身(しゅっしん)同級生(どうきゅうせい)は、小学校の(ころ)から神楽の上演者(じょうえんしゃ)だったといい、(ふえ)()を聞くと無条件(むじょうけん)()(さわ)ぐと言っていた。去年(きょねん)の秋、一度だけ(かれ)につきあって神楽を観に行ったことがあるが、きらびやかな衣装(いしょう)(はげ)しい(うご)きの舞いを展開(てんかい)し、演目(えんもく)によっては花火(はなび)使(つか)った演出(えんしゅつ)を取り入れたりしていて、実際(じっさい)にその()で観ると興奮(こうふん)した。
 しかし、ここ錦美町では勇壮(ゆうそう)な神楽ではなく、幽玄(ゆうげん)な猿楽が上演されるのだ。
「なんか気になったんですよね」
「ふーん、まあなんにせよ関心(かんしん)持ってもらうっちゅうのは、(わり)ぃ気はせんね、()る側の人間としちゃあ」
 タクシーはいったん国道(こくどう)に出て道の駅のそばを通り()ぎると、錦美川(にしみがわ)支流(しりゅう)宇侘川(うたがわ)沿()いを(さかのぼ)っていく。
「ここいらは、山と川のほかは何もないようなとこじゃからなあ」
 タクシーの(まど)からは青々(あおあお)とした山()みと、(かたむ)(はじ)めた()()けて光るせせらぎが見えた。V字に(きざ)まれた斜面が折りたたまれるように延々(えんえん)と続いている。
 道端(みちばた)観光看板(かんこうかんばん)に「山紫水明(さんしすいめい)(さと)」などという言葉(ことば)が見えたが、実際に()らすとなると苦労(くろう)も多いのだろう。
「あんた、│()まりはどこにしたんね?」
「えっと、桐葉荘(とうようそう)というところです」
「お、桐島(きりしま)のネンコーさんとこか。あすこはええ宿(やど)じゃ」
「せっかくない金使(つか)うんですから、ちょっとは背伸(せの)びしようと思って」
「はは、そらええ。(いのち)洗濯(せんたく)っちゅうやつじゃな。桐葉荘(とうようそう)のネンコーさんにはわしもずいぶん世話(せわ)んなってのう、恩返(おんがえ)しもようせん(できない)うちに()うなってしもうたけえ、わしゃあ、あすこの女将(おかみ)さんにゃあ頭が上がらんのんじゃ」
「ネンコーさんって、もう()くなられたんですか?」
「はあ五年になるかねえ、まだ(わこ)うてから、よいよ()しいことじゃった。これから、いうところじゃったのに」
 青笹さんは(こころ)から残念(ざんねん)そうにつぶやいた。
 タクシーは民家が立ち(なら)ぶ集落を抜けて県道(けんどう)に入り、川を右手に見ながら(おく)へと進んでいく。()()りの終わった田んぼの中を(ゆる)やかなカーブが続き、右に左に(たく)みにハンドルを切りながら彼は話を続けた。
「ネンコーさんには(むすめ)が三人おってな、みな微妙(びみょう)年頃(としごろ)いね。わしじゃったら()んでも死にきれんな」
「ネンコーさんの娘さんって何歳ぐらいなんですか」
「一(ばん)下の子が今年(ことし)高校(こうこう)に入った言うたかの。(のこ)された女将さんもあれこれ苦労(くろう)してじゃが、そがあな様子(ようす)はいっそも見せんけえ、(たい)したもんいね」
 右手に見えている川が大きく右に()(えが)くのに合わせて道路(どうろ)もカーブし、僕の(からだ)遠心力(えんしんりょく)で左に()られたと思ったらすぐに(ぎゃく)のカーブで右に振られた。
「──とか言いよったら()いたのう」
 そうつぶやくと青笹さんはボタンを()してメーターを「精算(せいさん)」にした。
 右側には深津郷(ふかつきょう)温泉(おんせん)宇侘川(うたがわ)パレスホテルという看板の(おく)に大きな建物(たてもの)が見えている。あらかじめ調べたときに桐葉荘とどちらにしようか(まよ)った宿だ。
「桐葉荘はもうちょい入ったとこじゃが、ここからは一応(いちおう)サービスな」
 タクシーは右手の(ほそ)山道(やまみち)に入った。
 (きゅう)斜面(しゃめん)をぐいぐいと(のぼ)り、左右の林をかき()けるようにして進んだと思ったら、少し空間(くうかん)(ひら)け、車は()まった。ちょうど木造(もくぞう)(もん)の前だ。
「じゃあ学生さん、またの」
 精算を終えて僕が降りると、青笹さんが右手を上げてあいさつしたので、僕も会釈(えしゃく)を返した。

 タクシーを降りると、ひんやりとした空気(くうき)が僕を(つつ)んだ。尋瀬(ひろせ)駅で降りた時よりもさらに少しだけ気温(きおん)(ひく)いようだ。
 (ふか)(いき)()()むと、すがすがしい気持(きも)ちになる。
 桐葉荘(とうようそう)(みどり)(かこ)まれた、(しず)かなたたずまいの宿(やど)だった。
 門をくぐると、(こけ)むした(いけ)中心(ちゅうしん)とした和庭園(わていえん)の向こうから、木造黒瓦葺(もくぞうくろかわらぶき)平屋建(ひらやだ)てのこぢんまりとした建物が僕を出迎(でむか)えた。(ちく)年数はそれなりにありそうで、歴史(れきし)を感じさせる建物だが、大がかりなリノベーションがされているらしく清潔(せいけつ)感が感じられる。玄関(げんかん)(わき)には若葉色(わかばいろ)に「桐葉荘」という(ふで)文字が白()きされた日よけが()けられている。
 建物のすぐ右手に斜面が(せま)り、時おり(とり)の声が聞こえるぐらいのとても静かな場所だ。
「まあ、(とお)いところようおいでました。ご予約(よやく)の、森崎(もりさき)浩司(こうじ)(さま)ですね?」
 宿の玄関(げんかん)から(ふじ)色((あわ)い青()(むらさき)色)の和服姿(わふくすがた)小柄(こがら)女性(じょせい)(むか)えに出てきた。
 年のころ三十()ぎぐらいだろうか、髪を後ろできちっとまとめ、上品(じょうひん)印象(いんしょう)(はっ)しながらも黒目(くろめ)がちな大きな目がくるくるとよく(うご)く、チャーミングな女性だ。
「あんまり山奥でからびっくりされちゃったでしょう?」
「いえ、なんか()()きますよ」
「ふふ、山と川しかないところですよ」
 女性が(ほが)らかな声で笑いながら青笹さんと同じことを言った。
「桐葉荘の女将(おかみ)桐島(きりしま)(らん)(もう)します。本日(ほんじつ)(とお)いところ本当にようおいでました」
 女将さんが深々(ふかぶか)一礼(いちれい)した。
「こちらこそよろしくお(ねが)いします」
 そういうのに()れていない僕は、少しどぎまぎしながら会釈を返した。
「では、ご案内(あんない)いたします」
 そう言うと、女将さんは自然(しぜん)所作(しょさ)で僕の荷物を持つと、玄関に僕を(まね)き入れた。
 宿帳(やどちょう)記入(きにゅう)()んで案内された部屋(へや)は、『(さくら)()』と名()けられた十二(じょう)和室(わしつ)だった。
 桐葉荘には四部屋しかなく、それぞれ少しずつ造作(ぞうさ)(こと)なるのだと、女将さんが説明(せつめい)してくれた。
 落ち着いた内装(ないそう)で、(とこ)()には()(じく)(かざ)られ、一輪差(いちりんざ)しに花が()けられている。窓からは石庭(せきてい)(はさ)んでまだ青々とした木々が見え、その向こうには峡谷(きょうこく)の山並みとよく()れた空を見渡(みわた)すことができる。僕一人で使うにはもったいない部屋だ。
紅葉(こうよう)のシーズンには(まど)からよう見えますよ。このあたりは時期(じき)(おそ)いので、半月ぐらい先になりますけどね」
 女将さんがそう言いながら僕の荷物を()いてくれた。
「でも、この時期にこんな若い(かた)の、それもおひとりのお客様(きゃくさま)なんてめったにないです」
猿楽(さるがく)紫桜(しざくら)』を観に来たんです」
「ああ、そうでしたか! 『紫桜(しざくら)』、私も一回だけ観たことあります。(かな)しいお(はなし)なんですよね。それにしても森崎様、ようご存知(ぞんじ)ですね」
西國(さいごく)新聞(しんぶん)()んだんですよ。なんか珍しいなと思って、一度観てみたくなったんです」
「ふふ、なかなか奇特(きとく)な方ですね、そんなに有名じゃないのにわざわざ観に来られるなんて。でも、(たし)かに珍しいらしいんですよ。おんなじ主人公なのに、別々(べつべつ)結末(けつまつ)になるなんですから」
 女将さんはそう言いながらお茶を()れてくれた。
 そういえば、タクシーの青笹さんによれば、女将さんはネンコーさんの奥さんで、ネンコーさん亡きあと女手(おんなで)一つで三人の娘さんを育てているはずだが、今僕の目の前にいる女性は、とてもそんな(ふう)には見えない。
「あの、とても失礼(しつれい)なんですけど……」
 僕はおずおずと()いてみた。
「女将さんって、今おいくつなんですか?」
 女性に年齢の話をするのはちょっと気が引けるのだが、好奇心(こうきしん)の方が()ってしまった。
「はい?」
 女将さんが少し怪訝(けげん)な顔をした。やっぱりまずかっただろうか。
「あ、いやー、タクシーの運転手さんから色々と聞いて……高校生の娘さんがいらっしゃるとか」
 僕が弁解(べんかい)めいた言葉を(かさ)ねると、女将さんはちょっとふくれた顔をする。
「あー、青ちゃんじゃね! まったくもう、あいかわらずおしゃべりなんじゃけえ!」
「すいません」
(べつ)秘密(ひみつ)でもなんでもないんですよ。来月で四三歳になります」
「えー?!」
 僕の(おどろ)いた顔を見て女将さんはいたずらっぽい笑顔(えがお)を見せた。
全然(ぜんぜん)見えません」
 正直(しょうじき)感想(かんそう)だ。
「よく言われます♪」
 女将さんの声は小躍(こおど)りしそうに(はず)んでいる。
「そうそう森崎様、お食事(しょくじ)はいかがされますか? お部屋でも()し上がっていただけますが、お座敷(ざしき)をお(すす)めいたしますよ。お()まりの(ほか)のお客様と交流(こうりゅう)していただけますし、いかがでしょうか?」
「じゃあ、そうします」
 普段(ふだん)なら見ず知らずの人と一緒(いっしょ)に食事をするのは少し気が引けるところだが、旅先の気安(きやす)さから、いつもの僕なら絶対(ぜったい)にしないような選択をした。
「お風呂(ふろ)廊下(ろうか)をつきあたって右の手前(てまえ)でございます。当日(とうじつ)午前零時(ごぜんれいじ)まで、翌朝(よくあさ)は午前五時から十時までご利用(りよう)いただけます。小さいですが、露天風呂(ろてんぶろ)もございますので、ぜひゆっくりとおくつろぎくださいませ」
 女将さんはそう言うと一礼して部屋から出ていった。
「んー」
 僕は声に出して背伸びをした。
 お茶を一口すすってから、ふと思い出して荷物から 携帯電話(けいたいでんわ)を取り出してみると「圏外(けんがい)」の表示。今どき珍しいが、僕にとってはちょうどいいかもしれない。
 僕はぱくんと音を立てて片手(かたて)で携帯を()じた。
 夕食にはまだだいぶ早いし、風呂に入る気分でもなかった。
 少し宿の(まわ)りを歩いてみよう、そう思いついて、僕は(ふたた)(くつ)()いた。

第一章 桐葉荘(とうようそう) 〈二〉

「あら、おでかけですか?」
 女将(おかみ)さんが出かけようとする(ぼく)に気づいて(こえ)をかけてくれた。
「ちょっと(ちか)くを散歩(さんぽ)してきます」
「ではお気をつけて。夕食(ゆうしょく)は六()ごろになりますから、それまでにはお(もど)りください」
「ありがとうございます」
 僕が玄関(げんかん)を出ると、それに(おどろ)いたヒヨドリがキーッキーッと(するど)()き声を上げながら()び立っていった。木々(きぎ)()ずれの音がかすかに聞こえている。本当(ほんとう)(しず)かな場所(ばしょ)だ。
 木々の(あいだ)から、先ほどタクシーで(とお)った県道(けんどう)がだいぶ下に見える。車だったのでよくわからなかったが、かなり上がっていたようだ。
 ふと、僕は(だれ)かの視線(しせん)(かん)じた。
 (あた)りを見(まわ)すと、いつからいたのか、少し(はな)れた生垣(いけがき)(はし)少女(しょうじょ)が立って、僕をじっと見つめていた。
 僕は驚いてあやうく声を上げそうになった。
 白い着物姿(きものすがた)色白(いろじろ)(はだ)(こし)まで(とど)きそうな(なが)くつややかな黒髪(くろかみ)感情(かんじょう)()()れない能面(のうめん)のような顔立(かおだ)ち。なんだかこの()のものとは(おも)えない雰囲気(ふんいき)だ。
 その無表情(むひょうじょう)のせいで年齢(ねんれい)がわかりにくいが、たぶん十(だい)後半(こうはん)ぐらいだろう。
 見つめる目の力が(つよ)く、()()まれてしまいそうだ。魅入(みい)られるように僕も彼女(かのじょ)を見つめると、彼女はひとつまばたきをした。
(きみ)は……?」
 僕はおそるおそる声をかけたが、彼女は何も(こた)えない。顔色(かおいろ)一つ()えずに(きびす)(かえ)すと、生垣の(かげ)姿(すがた)()した。
 少女の黒目(くろめ)がちな目は、少し女将さんに()ているような気がする。三人の(むすめ)さんの一人なのだろうか。
 (あた)りはなにごともなかったかのようにひっそりと静まり(かえ)っていた。

 僕はさっきタクシーで上がってきた(きゅう)坂道(さかみち)(ある)いて下っていった。(たに)(ふか)いため、日は(すで)斜面(しゃめん)(かく)(はじ)めている。
 県道に出ると川のせせらぎが(ちか)くに聞こえる。
 目の前には深津(ふかつ)温泉(おんせん)(きょう)宇侘川(うたがわ)パレスホテルの看板(かんばん)がある。
 ホテル、といってもこちらもそんなに大きな建物(たてもの)ではない。斜面を利用(りよう)して()てられた変形三階建(へんけいさんがいだて)、黒い瓦葺(かわらぶき)屋根(やね)重厚(じゅうこう)気配(けはい)(かも)し出している。
 ここまで下りてくれば携帯(けいたい)もつながるようだ。
 県道を宇侘川(うたがわ)上流(じょうりゅう)()かって少し歩いてみた。「深津峡入口」と大書(たいしょ)された古いトタンの看板が、なんだか時代(じだい)を感じさせる。
 宇侘川は日本の清流(せいりゅう)百選(せん)にも(えら)ばれたことがあり、温泉のある深津峡のほかにも、寂水(じゃくすい)峡・乙女淵(おとめぶち)など、いくつかの峡谷(きょうこく)があり、(けっ)して有名(ゆうめい)ではないが、(かく)れた景勝地(けいしょうち)だ。
 もっとも、僕が()知識(ちしき)はすべてインターネットで見たものばかり。実際(じっさい)にこうして歩いてみると、なんだかとてもさびしい(かん)じがする、などということはネットには()っていない。
 女将さんもタクシーの青笹(あおざさ)さんも「山と川しかない」と言っていたが、実際ここには(ほか)に何もなかった。温泉郷といっても、歓楽街(かんらくがい)があるわけでもなく、入浴施設(にゅうよくしせつ)桐葉荘(とうようそう)を入れて四(けん)だけ、そのうち宿泊(しゅくはく)できるのは桐葉荘(とうようそう)と宇侘川パレスホテルの二軒だ。ネットで調(しら)べると最寄(もよ)りのコンビニまでは直線距離(ちょくせんきょり)で約一五キロ、スーパーも尋瀬(ひろせ)駅の近くまで行かないとないから、一〇キロは(はな)れている。
 このあたりの人は一体(いったい)どうやって生活(せいかつ)しているんだろう、と(おも)う。
 僕が()んでいるアパートから一(ばん)(ちか)いコンビニまでは二〇〇メートルぐらいだし、スーパーだって一キロ以内(いない)にはある。一人暮(ひとりぐ)らしにはコンビニは必須条件(ひっすじょうけん)だ。コンビニのない()らしなど僕には想像(そうぞう)もつかない。
 まあ、僕の暮らしなんて大学のキャンパスと自宅(じたく)自転車(じてんしゃ)往復(おうふく)する(あいだ)にコンビニに立ち()るぐらいでしかない。
 そんな(せま)世界(せかい)()()められた気になったからこそ、僕は思い切って(たび)に出たんだ。
 ()()(おお)われた(ほそ)(みち)(とお)って川のそばまで下りてみたら、深津峡の由緒(ゆいしょ)(しめ)す古い立て看板があったが、文字(もじ)はほとんど()えかけていて()むことができない。川のそばには放棄(ほうき)されたあずまやが枯葉(かれは)になかば()もれかけている。
 透明度(とうめいど)の高い水が(なが)れる(こけ)むした岩場(いわば)周囲(しゅうい)には(さくら)の木が()えられていて、(はる)には峡谷(きょうこく)(いろど)るのだろうが、今は(はな)やかさも感じられない。せせらぎの音だけがずっと(つづ)いている。
 一体(いったい)、僕は何のためにここに来たのだろう。
 自分(じぶん)孤独(こどく)であることを(たし)かめに来たような、ひどくみじめな気持ちになる。

 空はまだ青いが、ほんのわずかな間にも日がどんどん落ちていくのがわかる。
 (すこ)しずつ冷気(れいき)(しの)()ってくるのを感じ、僕は宿(やど)に戻ることにした。
 桐葉荘のひかえめな木製(もくせい)の看板が()かった入口から上り坂に入ると、少し先の方に自転車(じてんしゃ)()して歩いている制服姿(せいふくすがた)の少女が見えた。
 背中(せなか)に大きなリュックサックを背負(せお)い、黒のブレザー、ひざ上に(みじか)くしたスカートに(こん)のハイソックスとローファー、セミロングの(かみ)をまとめたポニーテールが左右に()れている。いかにも「女子高生(じょしこうせい)」、という感じの子だ。
 僕が坂道を(のぼ)ろうとしているのに気づくが早いか、彼女は大げさに手招(てまね)きをしながら大声で僕を()んだ。
「お兄さんお兄さん、うちとこのお客さんじゃろ? 早よ来て来て!」
 僕がなにごとかと思いながらも彼女に(ちか)づくと、彼女は満面(まんめん)()みとともに自転車を()しつけてきた。
「なーなー、これ押して上がってくれん? ええじゃろ?」
 僕がうんとも言わないうちに押しつけておいて勝手(かって)だなとちょっとムッとしながらも、僕は仕方(しかた)なく自転車を押して上がることになった。
 (まえ)かごにはついさっきまで彼女が背負っていたリュックが()っているのでずしりと重い。
「うちは果林(かりん)。き・り・し・ま・か・り・ん。結果(けっか)の果に(はやし)で、果林。お兄さん名前は?」
森崎(もりさき)浩司(こうじ)だけど」
「コージさんか、へー、なんでうちとこ()まろう思うたん? うちとこ、ぶち(すごく)不便(ふべん)じゃろ? 駅からは(とい)いし、ケータイも入らんし、こんな急坂上がらんといけんし。はあ、毎日(まいにち)ここ上がるだけでぶちせんない(面倒(めんどう)くさい)けえ、そりゃ足も(ふと)うなるいね、あはは」
 こちらが(こた)えるより先に果林ちゃんは方言(ほうげん)(つぎ)から次へとまくし立てる。足が太いと言うが(けっ)してそんなことはなく、すらっとしたきれいな足だし、しかも上目(うわめ)づかいで見上げられると思わずドキッとするほどかわいい。
 ただ、方言と合わせて出る大げさな()ぶり手ぶりのおかげで、なんだかコミカルな印象(いんしょう)だ。
 どうやら彼女が桐島()の一(ばん)下の娘さんらしい。
 小柄(こがら)体格(たいかく)(ほが)らかな声、くるくるとよく(うご)く大きな目は、女将さんに本当によく()ている。
「果林ちゃんは女将さんにそっくりだね」
「じゃろー? 似すぎとってこわいっちゃ。うちの(かあ)さん年齢(ねんれい)不詳(ふしょう)じゃろー? こないだうちが高校入学した時も、勝手にブレザー()てからコスプレしようとしちょったんじゃけえね! ちったぁ(とし)(かんが)えりゃあええのに! うちもそのうちあんなになるんかねー?」
 けらけらとよく(わら)い、よくしゃべる(あか)るい子だ。少々(しょうしょう)おしゃべりが()ぎるみたいだけど。
 上り坂は結構(けっこう)きつく、僕は(かる)(あせ)をかき(はじ)めた。まだだいぶ登らなければいけないから(いき)()れそうだ。
「毎日この坂上り下りしてるの?」
()たり(まえ)じゃあ? うちん()からどっか行こうと思うたら、絶対(ぜったい)ここを通らんといけんのじゃもん、小学校ん時からずっとよ! ほんと、なんでこんなとこに()むかねえ、(ふゆ)(ゆき)がぶち()もるし」
 果林ちゃんはそう言ってまた笑う。
友達(ともだち)らあも、うちとこだけは絶対(だれ)も来たがらんのよね。坂()がるんがえらい((つか)れる)けえありえんとか言うて。毎日毎日上がりよるうちはどうなるんかっちゃ! もう、マジ(はら)立つー!」
 果林ちゃんはものすごい(いきお)いでしゃべりまくるが、僕はそろそろ息が切れてきた。背中に汗が(つた)うのを感じながら彼女を見ると、(すず)しい顔をしている。
「それにしても、よく、しゃべる、ねえ」
 僕は切れ切れの息でやっとそれだけ(かえ)した。
「えー、いっそ(ぜんぜん)しゃべっちょらんよぉ!」
 オーバーなリアクションが返ってくる。
(からだ)は疲れても口だけは疲れんのよねー、なんでかねー?」
 僕はもう返事(へんじ)を返す気力(きりょく)もなかった。
 (かた)で息をしながらどうにか坂を上り続けると、左に入る目立たない脇道(わきみち)があった。
「こっちこっち」
 果林ちゃんに(みちび)かれるままにそちらに入ると、木立(こだち)の中に(かく)れるように平屋(ひらや)()ての(いえ)(あらわ)れた。手前(てまえ)にカーポートがあり、ボンネットに若葉(わかば)色で『桐葉荘(とうようそう)』のロゴが入った白い流線型(りゅうせんけい)のミニバンが()まっている。
「自転車はそこに()いちょって。でも、まさかホントに押して上がってくれるとは思わんかった、ありがとー」
 果林ちゃんは「が」にアクセントをつけてお(れい)を言うと、ぴょこんとお辞儀(じぎ)をした。ポニーテールがやっぱりぴょこんと揺れる。
 僕は肩で息をし、汗まみれのまま何も言えずに()っ立っているしかなかった。
荷物(にもつ)置いてくるけえ、ちょっとそこで()っちょって」
 彼女は制服のスカートをふわりと(ひるがえ)すと、()ねるように家の方へ消えた。
 待つも何もしばらく動けません、とは声にならなかった。
 しかし、なんだか笑える。(ほお)がゆるんでいるのが自分でもわかる。
 四~五歳も年下の女の子にいいようにこき使(つか)われて汗だくになっている自分が、なぜだか(みょう)にうれしかった。
 冷たい空気が肌に心地(ここち)いい。
 少し待っていると、ようやく息も落ち着いてきた。
「お・待・たー♪」
 制服のままポニーテールをほどいて、果林ちゃんが(もど)ってきた。
近道(ちかみち)案内(あんない)するけえ、ついてきて」
 果林ちゃんは(たの)しそうにぴょこぴょこと(はず)むように歩く。その後ろ姿がやっぱりなんだかおかしくて、僕はついにやにやしてしまう。
 家の裏手(うらて)に回ると、コンクリート()ちっぱなしの簡単(かんたん)階段(かいだん)が上に続いていた。僕は果林ちゃんに続いて階段を上る。
 木立から落ちた葉が階段を(おお)っていて、()むたびにカサカサと(かわ)いた音を立てる。
「なーなー、ユージさんて大学生?」
「浩司! 今わざと間違(まちが)えたろ!」
「あー、ごめんごめん。うち、人の名前(おぼ)えるん苦手(にがて)なんよねー」
「今大学二年だよ。ちょっと休んで猿楽(さるがく)()に来たんだ」
「へー、七年に一()っていうアレ? えっと(そんなに)有名じゃなあのに? コージさんてマニアックぅ」
「マニアックで(わる)いかよ」
「あはは、(おこ)った怒った」
 階段をのぼりながら、いつの()にか僕は果林ちゃんと普通(ふつう)に会話していることに気づいた。まともに女の子とつきあったこともない僕が? 自分で自分に驚く。
「果林ちゃんは観たことあるの、猿楽?」
「あー、どうなんじゃろ、観たんかな? 七年前はまだ子どもじゃったから、ようわからんわ」
「女将さんは(かな)しい話だって言ってたけど」
「ふーん、そうなんかねえ?」
 果林ちゃんはまるで興味(きょうみ)なさそうだ。
 まあ、郷土芸能(きょうどげいのう)なんてそんなものなのかもしれない。(めずら)しがるのは僕みたいなよそ者ばかりだろう。
 階段は二回()()がって斜面(しゃめん)を登り、桐葉荘の門前(もんぜん)に出た。出かけた時とくらべると、だいぶ日が落ちている。
 ふと、出がけに会った白い着物の少女のことを思い出した。そういえば彼女の背恰好(せかっこう)はちょうど果林ちゃんと同じぐらいだ。
「そういえば、さっきそこで不思議(ふしぎ)な女の子を見たよ」
「え、どこでどこで?」
 果林ちゃんが聞き返す。
「そこ。生垣の端のとこに立ってた」
「もしかして、白い着物じゃった?」
「そうそう、白い着物で、長い黒髪の、無表情な子」
「えー、コージさん、きぃねえちゃんに()うたんじゃあ!」
 果林ちゃんが目を(まる)くする。
「きぃねえちゃん?」
「うちの年子(としご)(ねえ)ちゃん。桔梗(ききょう)って名前じゃけえ、こまい(ちいさい)(ころ)からきぃねえちゃんて言うとるんよ。きぃねえちゃん、めったと外に出らんのにから、どうしたんじゃろ? コージさん、ぶちラッキーじゃねえ!」
 果林ちゃんが(みょう)興奮(こうふん)している。
「桔梗さんて家からあまり出ないの?」
「うん、それにいっそしゃべらんくなったんよ。母さんとみず(ねえ)心配(しんぱい)してからお医者(いしゃ)()したり、カウンセラーに()れてったりしたけど、いけんじゃった。うちもいろいろ話しかけるんじゃけどね。前はうちとぶち仲良しじゃったのに……」
 果林ちゃんは少し(うれ)いを()びた表情を見せた。
 僕はかける言葉(ことば)がなくて、(だま)るほかなくなる。
 なんだか気づまりになってちょっと彼女から視線(しせん)(はず)すと、左手(おく)にある駐車(ちゅうしゃ)スペースにシルバーのSUVが一(だい)()まっているのに気づいた。(たし)か僕が出かけたときにはなかったはずだ。前部(ぜんぶ)ドアに「Free Photographer Yusuke S.」という文字をデザインしたけばけばしいステッカーが()られている。
 果林ちゃんも車に気づいたようだ。
「あ、夕介来ちょるじゃあ!」
「ユースケ?」
「うちとこの常連(じょうれん)。何がええんか知らんけど、半年にいっぺんは()よるよ。コージさんとおんなじ、マニアックなモノズキさん♪」
 果林ちゃんがにまにましながらそう言った。

第一章 桐葉荘(とうようそう) 〈三〉

 玄関(げんかん)を入ると、帳場(ちょうば)(まえ)にあるロビーで女将(おかみ)さんと三十(だい)(なか)ばぐらいの男が立ち(ばなし)をしていた。
 (すこ)(くせ)のある長髪(ちょうはつ)細身(ほそみ)()(たか)く、タイトなデニムに柄物(がらもの)のTシャツ、黒のレザージャケットを羽織(はお)っていて、(くや)しいことにこれがなかなかのイケメンだ。(ととの)えられたあごひげがこれまたイラッとさせる。
 女将さんがこちらに気づいて(こえ)をかけてくれた。
「あ、森崎様(もりさきさま)おかえりなさいませ──て、なんで果林(かりん)までおるんかね?」
「コージさんにチャリ()してもろうたんよー」
「あんた、またお(きゃく)様にそんなことさしてから……(もう)(わけ)ございません、ご迷惑(めいわく)でしたでしょう?」
「いえ、いい運動(うんどう)でしたよ」
「どーせ果林にいいようにこき使われたんだろ?」
 (ぼく)が女将さんと話しているところにいきなり男の方が話に()()んできた。
 ぶしつけな(やつ)だとちょっとムッとしてそいつをにらむと、そいつは左手の親指(おやゆび)をデニムのポケットにつっこんで(はす)(かま)え、にやにやしながら僕のことを(なが)めている。
「果林は天然(てんねん)ものの小悪魔(こあくま)女だからな、ぼんやりしてると(たましい)()かれるぞ」
 そいつはくくっと(わら)いながら僕を小ばかにしたような目で見下ろしてくる。
「うちは小悪魔じゃないよぉ!」
 果林ちゃんは口をとがらせて反論(はんろん)した。
「本人が気づいてないからこそ天然ものなのさ。小悪魔だなんて自称(じしょう)してるヤツはみんな養殖(ようしょく)ものだ」
 男はあいかわらずにやにやしながら果林ちゃんに言った。なれなれしい奴だ。
 果林ちゃんは納得(なっとく)がいかないらしく、何やらぶつぶつ言いながら(うで)()んでむくれているが、その様子(ようす)(たし)かにかわいい。
 魂抜かれる、というのも本当(ほんとう)かもしれないと一瞬(いっしゅん)(おも)う……いやいや、そういう問題(もんだい)じゃない。
「あのー、どちらさん?」
 男があまりになれなれしいものだからこちらもつい無愛想(ぶあいそう)な言い方をしてしまう。
(おれ)妹尾(せのお)夕介(ゆうすけ)。フリーの写真家(しゃしんか)だ」
 夕介と名乗(なの)った男は片手(かたて)無造作(むぞうさ)名刺(めいし)()し出してきた。車に()ってあったのと同じロゴが印刷(いんさつ)された、派手(はで)な名刺だ。
 あまり趣味(しゅみ)がいいとは思えない。どうひかえめに見ても胡散(うさん)くささ全開(ぜんかい)だ。
「ここにはずいぶん(なが)いこと世話(せわ)になってるんでね、何かわからないことがあったらまず俺に聞いてくれ」
 いちいち言うことがむかつく。正直(しょうじき)、一番苦手(にがて)なタイプ。
「そういうわけで、ひとつヨロシク」
森崎(もりさき)浩司(こうじ)です。こちらこそどうも」
 夕介が握手(あくしゅ)(もと)めてきたので、しかたなく僕もそれに(おう)じた。
 夕介はガタイもでかいが態度(たいど)はそれ以上(いじょう)にでかいな、と僕は内心(ないしん)苦々(にがにが)しく思う。
「なーなー、夕介は今日(きょう)座敷(ざしき)でご(はん)にするんじゃろ?」
「ああ、もちろん。いつもそうしてるだろ?」
 それを聞いて、僕は自分(じぶん)(かる)はずみな選択(せんたく)後悔(こうかい)した。晩飯(ばんめし)までこんなイヤな男と一緒(いっしょ)になるのかと思うと、どんよりとした気持(きも)ちになる。
「コージさんも?」
「そうだよ」
 僕はできるだけ本音(ほんね)を顔に出さないように(つと)めながら答えた。
「じゃったらうちらも一緒に食べたーい。なー、(かあ)さんええじゃろ?」
 果林ちゃんは(あま)えた声で女将さんにねだる。
「もう、果林! お客様に失礼(しつれい)でしょうがね!」
「えー、じゃって夕介だけが()まる(とき)はいつもそうしよるじゃあ? 何でだめなん? コージさんがおるけえ?」
「もう、ええかげんにしんさい。だめなものはだめ!」
 女将さんは果林ちゃんを(かる)くにらんだが、僕からしてみれば地獄(じごく)(ほとけ)だ。
「女将さん、まあいいじゃないですか。にぎやかな方が(たの)しいですから。僕からもお(ねが)いします」
 本当は夕介とサシになるのがいやだからだけど、果林ちゃんが一緒なら確かに楽しくなりそうだ。
「よろしいんですか、森崎様?」
 よろしいも何も大歓迎(かんげい)です、とまでは言わなかったが、僕は大きくうなずいた。
 夕介も何も言わずにニタニタしている。つくづくいけすかない奴だ。
「しょうがない、じゃったら果林、支度(したく)手伝(てつだ)いんさい」
「はーい」
水菜(みずな)にもメールしときんさいよ、あの子すぐはぶてる(()ねる)から」
「うん!」
 果林ちゃんはさっそく帳場のパソコンに()かってメールを()(はじ)めた。そうか、携帯(けいたい)が入らないからか。
「なーなー母さん、コージさんて、きぃねえちゃんに()うたんて」
 パソコンの画面(がめん)をにらみながら果林ちゃんが女将さんに()げる。
桔梗(ききょう)に? 本当ですか?」
「ええ、さっき出るときに、そこで」
「へえ、どういうめぐりあわせですかねえ!」
 僕がそう言うと、女将さんは少し(おどろ)いた顔を見せた。
「ふん、そんなこともあるんだな」
 夕介は腕を組んで左手であごひげを()でながら、珍獣(ちんじゅう)でも見るような目つきで僕の方を見ている。
「びっくりされんじゃったですか、森崎さん。白い着物(きもの)じゃったでしょう?」
「ええ、ちょっと驚きました」
「桔梗はうちの次女(じじょ)ですが、主人(しゅじん)()くなった(あと)、ものを言わんようになってしまって。ずっとあの白い長襦袢(ながじゅばん)()ごしているんです。医者(いしゃ)によると、声が出なくなるある(しゅ)失声症(しっせいしょう)じゃないかって言うんですが、何が原因(げんいん)なのかは結局(けっきょく)わからんかったんです」
 まずいことに()れたかな、と思ったが、女将さんは事情(じじょう)淡々(たんたん)と話してくれた。
「ちょっと()わった子に見えるかもわかりませんが、もしまた見かけたら、話しかけてやっていただけませんか?」
「はい、もちろん」
 僕は(ふか)くうなずいた。
 女将さんはすっと(いき)()うと、ぱんぱんと二回手を打った。
「さあ、それはそれとして。夕食(ゆうしょく)までまだ少しありますから、お二人ともご一緒にお風呂(ふろ)(たび)(つか)れを(いや)してくださいね」
『コイツと?!』
 僕と夕介が同時(どうじ)に声を上げた。
「お前先に入れよ、自転車押して(あせ)かいたんだろ?」
「アンタこそ、先に行けば?」
(ゆず)り合っても仕方(しかた)ないですよ。どうぞ、ゆ~っくりと、おくつろぎくださいね♪」
 女将さんはそう言っていたずらっぽく(わら)うと、ぱたぱたと厨房(ちゅうぼう)の方へ()えた。
「まったく、かなわないな、あの人には」
 夕介が(あたま)をかきながらぼそりとつぶやいた。

 深津峡(ふかつきょう)温泉(おんせん)源泉(げんせん)地下(ちか)千メートルから自噴(じふん)する天然ラドン温泉です。
 泉質(せんしつ)(じゃく)アルカリ(せい)で、美肌(びはだ)効果(こうか)(たか)いとされています。
 放射能泉(ほうしゃのうせん)分類(ぶんるい)されるラドン泉は、()から気化(きか)したラドンの(はな)放射線(ほうしゃせん)によって、体内(たいない)潜在(せんざい)している治癒能力(ちゆのうりょく)が高まる効果があるとされており、療養(りょうよう)温泉として活用(かつよう)されています。
 国内(こくない)のラドン泉としては鳥取県(とっとりけん)三朝(みささ)温泉、兵庫(ひょうご)県の有馬(ありま)温泉などが有名(ゆうめい)ですが、ここ深津峡温泉の源泉は昭和(しょうわ)四六年に開湯(かいとう)して以来(いらい)(かく)れた名湯(めいとう)となっています。

 さっきから湯船(ゆぶね)につかったまま二十(かい)()(かえ)()んだので、壁面(へきめん)掲出(けいしゅつ)されている温泉の説明文(せつめいぶん)(おぼ)えてしまいそうだ。
 何も()きこのんで読んでいるわけじゃない。夕介と顔を合わせないようにするためにそうしているだけだ。
 ぬるめの湯だが、長く()かっているとだんだんと(からだ)(しん)から(あたた)まってくる感覚(かんかく)がする。これが温泉の効能(こうのう)ってやつなのだろうか。
 露天(ろてん)風呂を楽しもうかと思っていたが、気が()ってとてもそんな気分(きぶん)ではない。
「お前ずっとそんなのにらんでて()きないかー?」
 夕介がのんきな声でからかってくる。まったく、いい気なもんだ。
「お前、『紫桜(しざくら)』を()に来たんだってな」
 夕介が不意(ふい)に僕にそう言った。僕は思わず(やつ)の方を見た。夕介は例によってにやりとして続けた。
「実は俺もそうなんだ」
「え?」
 意外(いがい)だった。(たん)にこの宿(やど)、というよりは女将さんに()れて(かよ)()めているだけかと思っていたからだ。
「もっとも、俺は仕事(しごと)だがな。お前みたいな暇人(ひまじん)とは(ちが)うんだよ」
 やっぱりいちいちひっかかる奴だ。
 しかし、こいつがなぜ『紫桜(しざくら)』を観に来たのかは気になる。
 夕介は少し真顔(まがお)になって何かをじっと考えているようだったが、湯をすくって顔をすすぎ、黙って湯船から上がっていった。
 夕介が出ると、浴室(よくしつ)(きゅう)に静まりかえったような気がする。お湯が(そそ)がれる音だけがやけに大きい。
 僕もそろそろ出ることにした。

第一章 桐葉荘(とうようそう) 〈四〉

「えー、浩司(こうじ)さん(えき)からここまで(ある)くつもりじゃったん?」
 果林(かりん)ちゃんがだしぬけに大きな(こえ)を上げる。
「どう(かんが)えても無謀(むぼう)だろ、バッカじゃないのか、お(まえ)
 夕介(ゆうすけ)もことさら見(くだ)したような声を出す。
「まさかこんなに大変(たいへん)なところだとは(おも)わなかったんだよ!」
 (ぼく)もムキになって反論(はんろん)した。
「ご連絡(れんらく)いただければ、車でお(むか)えに(まい)りましたのに」
 女将(おかみ)さんが残念(ざんねん)そうに()う。
「そんなサービスあるんですか、しまったなあ」
「浩司さん、まぬけー」
 僕が(あたま)をかいたのを見て果林ちゃんがけらけらと(わら)った。
「歩いてたら今頃(いまごろ)寝込(ねこ)んでるな、お前」
「~~~っ!」
 (くや)しいが夕介の言葉(ことば)にはぐうの()も出ない。その様子(ようす)を見て女将さんまで()き出す。
「そんなに笑わないでくださいよ~」
 ちょっとバツは(わる)いが、同時(どうじ)に僕はなんだかほっとしていた。
 みんな今日(きょう)(はじ)めて()った人たちだということを(わす)れてしまいそうだ。夕介がいなければもっと気分がいいのだが。

 座敷(ざしき)での夕食(ゆうしょく)予想通(よそうどお)りにぎやかになった。
 僕と夕介の食事(しょくじ)はちょっとした懐石料理(かいせきりょうり)だ。
 前菜(ぜんさい)のごま豆腐(どうふ)から(はじ)まって、新鮮(しんせん)刺身(さしみ)鍋物(なべもの)にはふぐちり(!)、ミニサイズの和牛(わぎゅう)のステーキ、白身魚(しろみざかな)天婦羅(てんぷら)茶碗蒸(ちゃわんむし)……と(つづ)いて、最後(さいご)にはちゃんとデザートも()く。
 普段(ふだん)はコンビニ弁当(べんとう)ばかりの僕の胃袋(いぶくろ)が、ビックリしてひっくり(かえ)りそうな内容(ないよう)だ。
 女将さんが(つく)ったのかと(たず)ねると、ちゃんと板前(いたまえ)さんがいるとの(こた)え。そりゃまあそうか。宿泊料(しゅくはくりょう)は夕食朝食(ちょうしょく)()みだから、値段(ねだん)のわりに豪華(ごうか)だと(おも)う。
 僕みたいな「(しつ)より(りょう)」な学生が()べるにはもったいないんじゃないだろうか。ちゃんと(あじ)がわかっているのか不安(ふあん)だ。
 果林ちゃんは当然(とうぜん)僕らとは(ちが)うものを食べている。
 さんまの塩焼(しおや)きに大根(だいこん)おろし、みそ(しる)里芋(さといも)()付け、ひじき煮。王道(おうどう)の日本の(ばん)ごはんだ。こちらは女将さんの手作り。
 僕の方がぜいたくなものを食べているはずなのに、果林ちゃんが(となり)で食べているのを見ると、なんだか(みょう)美味(おい)しそうに見える。
 夕介はビール片手(かたて)に料理をつついている。
 コイツには懐石よりも()(とり)(ほう)絶対(ぜったい)似合(にあ)うと思う。
 アルコールは別料金(べつりょうきん)になるので、金欠(きんけつ)の僕はぐっとがまんだ。
「ただいまー」
 (すず)()るような(かろ)やかな声とともに座敷のふすまが()いて、長身(ちょうしん)女性(じょせい)姿(すがた)(あらわ)した。おかえりー、と果林ちゃんが返す。
 白い開襟(かいきん)長袖(ながそで)ブラウスの上に(ふか)いグレーのチェック(がら)のベスト、黒のタイトスカート──どこかの制服(せいふく)だろうか。(ひか)えめな色に()めたストレートの(なが)(かみ)をバレッタでまとめて(ひたい)を出している。意志(いし)(つよ)そうな(まゆ)の下に少し目じりが下がり気味(ぎみ)(すず)やかな目。顔立(かおだ)ちがはっきりとしいて、左目の下の()きぼくろが印象的(いんしょうてき)美人(びじん)だ。
「あれ、夕介さんだけじゃないの?」
 彼女は僕に気づくと果林ちゃんに(たず)ねた。
「浩司さんも一緒(いっしょ)だよー」
「メールには(ほか)のお客様(きゃくさま)がいらっしゃるなんて、一言(ひとこと)()いてなかったじゃない」
「書くん(わす)れたー」
「もう、それならそうと書いてよね、わたしにだって(こころ)準備(じゅんび)ってものがあるんだから」
 どうやらこの人が桐島家(きりしまけ)長女(ちょうじょ)水菜(みずな)さんらしい。果林ちゃんと違って、きれいな標準語(ひょうじゅんご)で話す。
「ほら水菜、ごあいさつ」
「あ、大変(たいへん)失礼(しつれい)いたしました。はじめまして、長女の水菜です」
 女将さんがうながすと、水菜さんははっとした(かお)をして(うつく)しい所作(しょさ)(すわ)り、僕に(あらた)めてあいさつした。
「森崎浩司です、はじめまして」
(おれ)にはあいさつはー?」
 向こうで夕介が何やら言っているが、水菜さんは華麗(かれい)にスルーした。
「果林が何か失礼をしませんでしたか?」
「あんなー、チャリ()してもらったんよー」
「果林には聞いてないでしょ!」
 水菜さんはすかさず果林ちゃんに反撃(はんげき)し、僕も華麗にスルーされてしまった。
「森崎さんは夕介さんのお知り合いですか?」
 水菜さんが僕に()(なお)って聞いてくる。不意(ふい)にふわっといい(かお)りが鼻腔(びこう)をくすぐる。
 見つめられて僕は思わずどきどきした。
「いえっ、ぜんっぜん! ついさっき()ったばっかりです」
「水菜ぁ、俺にこんなイケてない()()いがいるわけないだろ」
 夕介がまたよけいな(こと)を言う。
「うっさいなー、ちょっと(だま)っててくれよ」
「さっき会ったばかりの(わり)には、ずいぶんと()ちとけてらっしゃいますよね?」
「打ちとけてなんかないですよ!」
「えー、どう見ても仲良(なかよ)しですよぉ?」
 水菜さんは(おく)ゆかしくくすくすと笑う。果林ちゃんとはまったくタイプの違う女性だ。
「コイツと一緒にすんな、コイツと」
 夕介がいちいちからんでくるのが面倒(めんどう)くさい。
「うちが見てもぶち仲良しっちゃ。二人でお笑いコンビでも()んだらええじゃ? ユースケコージ♪」
 果林ちゃんが()にも(おそろ)ろしい提案(ていあん)をする。
(だれ)がこんな(やつ)とコンビなんか組むか!」
「それは僕のせりふだ!」
 僕はかみつかんばかりの(いきお)いで夕介をにらんでやった。その様子がツボに入ったらしく、水菜さんは笑いが止まらない。
「はい、水菜の(ぶん)仕事(しごと)、どうだった?」
 女将さんが水菜さんの夕食(ゆうしょく)をお(ぜん)()せて(はこ)んできた。
「んー、(いま)時期(じき)は割とひまかな、来月(らいげつ)ぐらいになると少し(いそが)しくなるけど」
 水菜さんは(かる)合掌(がっしょう)してから(はし)を手にとって食事を始めた。所作がひとつひとつ美しいのに感心(かんしん)する。
「水菜さんはどこに(つと)めてるんですか?」
岩代市役所(いわしろしやくしょ)受付(うけつけ)をしています」
 なるほど、水菜さんなら受付が似合(にあ)いそうだ。
「車で一時間(じかん)もかけて(かよ)ってるんですよ、もっと職場(しょくば)(ちか)くに住めばええのにから」
 女将さんが少し不満(ふまん)そうに言う。
「いいの、わたし運転(うんてん)()きだし」
「でも一時間はちょっと大変ですね。一人暮(ひとりぐ)らしとか、しないんですか?」
「わたしは(うち)が好きなんですっ」
 僕の()いかけに(たい)して、水菜さんは少しムキになって(こた)えた。何もそこまでムキになることもないと思うけど。
 水菜さんは座布団(ざぶとん)の上に正座(せいざ)したまま食事を続ける。
 果林ちゃんはもうだいぶリラックスして、足を()げ出して座っているから、なんだか対照的(たいしょうてき)だ。
「果林はあいかわらず(さかな)食べるのヘタだよね」
 水菜さんが果林ちゃんのお膳を見ながら言う。
 確かに、果林ちゃんの食べた(あと)(さら)にはサンマの()がぼろぼろに(くず)れて(のこ)っていた。水菜さんの皿を見ると、(すで)(ほね)と身がきれいに()けられている。
「うち、みず(ねえ)みたく器用(きよう)じゃないもん」
「ちょっとコツを(おぼ)えればいいだけじゃない」
「それがむつかしいんじゃもん!」
「大人になってからもそれだと、()ずかしいよ」
「う~~、みず姉って(かあ)さんよりも(きび)しいんよねー」
 果林ちゃんが(たす)けを(もと)めるような目で僕と夕介を交互(こうご)に見る。
「まあまあ、そんぐらいにしといてやれよ、水菜」
「だって、結局(けっきょく)(はじ)かくのは果林なんだよ」
 夕介がなだめたが、水菜さんはきっちり反論(はんろん)してからご(はん)を口に(はこ)ぶ。
 それにしても、水菜さんは(たし)かに少しばかりきついかもしれない。
 女将さんは所作はきちっとしているけど、鷹揚(おうよう)(あたたか)かみがある。一方の水菜さんは、標準語のせいもあって、なんだか(かた)印象(いんしょう)(はっ)してしまうことがあるようだ。
「なーなー浩司さん、みず姉って何(さい)に見える?」
 少し考え込んでいた僕に、果林ちゃんが危険(きけん)質問(しつもん)仕掛(しか)けてきた。
 そういえば、水菜さんの年齢(ねんれい)については(まった)予備情報(よびじょうほう)がない。
 水菜さんの()()きぶりは僕よりずっと年上(としうえ)……そうだな、二七歳ぐらいに見える。しかし、女将さんは今四二歳だから、そこまで(わか)(ころ)の子どもということはないだろうし、判断(はんだん)(むずか)しい。
 果林ちゃんは目をキラキラさせながら僕の回答(かいとう)()っているし、水菜さんも興味深(きょうみぶか)そうに僕のことを見つめてくる。女将さんや夕介までが僕を見ている。
 ここはひとつ慎重(しんちょう)に判断しなければ気まずいことになりそうだ。
「え、えーと……そうだな、二四……くらいですか?」
 僕がそう答えた瞬間(しゅんかん)、果林ちゃんと夕介が爆笑(ばくしょう)した。
 女将さんまでもが(よこ)を向いてぷっと吹き出している。
 水菜さんは何か言いたいのをがまんしているような顔だ。
 まさか、僕は地雷(じらい)()んでしまったのか?
「みず姉、また年上に見られちょる!」
 果林ちゃんが(はら)(かか)えて笑い(ころ)げている。
「え? もしかして、僕やっちまった?」
「今年の夏でハタチになったところです!」
 心なしか水菜さんの声に(とげ)があるように感じられる。
「マジで? 僕と同級(どうきゅう)? あ、その……すいません、すごく落ち着いて見えるから」
「よく言われます……」
 水菜さんが(ひく)い声でぼそっとつぶやいた。
「みず姉の()け顔マジはんぱない、ぶちウケる!」
「もー、老け顔って言うな!」
 果林ちゃんが茶々(ちゃちゃ)を入れると水菜さんはすぐムキになる。言い合いばかりしているようだが、この二人、仲が(わる)いわけではないようだ。
「水菜は子どもの頃から結構(けっこう)マセてたからな」
 夕介が聞き()てならないことを言う。
 僕はさっきからもやもやしていた疑問(ぎもん)をぶつけることにした。
「アンタ、一体(いったい)ここの家族(かぞく)とどういう関係(かんけい)なんだよ? さっきから聞いてればずいぶん古い知り合いみたいなこと言ってるけど」
「夕介さんは(むかし)(わたし)(おっと)部下(ぶか)だったんです」
 夕介の()わりに女将さんが答えた。
「一〇年ほど前に私どもがこちらを開業(かいぎょう)した時からのお客様なんですよ」
(らん)さんの旦那(だんな)年光(としみつ)さんがIターンで開業したんだ、この宿(やど)は」
 僕は驚いた。
 桐葉荘(とうようそう)はもう何十年も続く老舗(しにせ)温泉宿(おんせんやど)だろうと勝手(かって)に思っていたからだ。

第一章 桐葉荘(とうようそう) 〈五〉

 夕介(ゆうすけ)女将(おかみ)さんの(はなし)によれば、女将さんの(おっと)である桐島(きりしま)年光(としみつ)さんはもともと関東(かんとう)の人で、たまたま(おとず)れたここ・深津峡(ふかつきょう)温泉(おんせん)をいたく気に入り、都会(とかい)での仕事(しごと)()めて家族(かぞく)でこちらに(うつ)()んできたのだという。それが(いま)から(やく)一〇年前(ねんまえ)のこと。
 夕介にとっては、新入社員(しんにゅうしゃいん)として会社(かいしゃ)に入ったときの最初(さいしょ)上司(じょうし)が年光さんだったのだという。
「カッコよかったなあ、年光さんは。仕事は絶対(ぜったい)に手を()かなかったし、スタッフはもちろん、クライアントの信頼(しんらい)(あつ)かった。オンのときには(あつ)情熱(じょうねつ)的確(てきかく)判断(はんだん)でみんなを()()るし、オフのときには一緒(いっしょ)になってバカ話もできる。本当(ほんとう)に、しびれるくらいカッコよかった」
 夕介が興奮気味(こうふんぎみ)表情(ひょうじょう)()かべている。他人(たにん)()めることなんて絶対なさそうな夕介がそこまで言うとなると、相当(そうとう)できる人だったのだろう。
「それが、ある日いきなり会社辞めるって()いだすんだから、(おれ)(おどろ)いた」
(わたし)も、年光の計画(けいかく)(はじ)めて聞いた(とき)冗談(じょうだん)だろうと(おも)いましたよ」
 女将さんはそう言ってふふっと思い出し(わら)いをした。
 年光さんは会社(づと)めのかたわらじっくりと計画を()っていたらしい。
 何度(なんど)も深津峡を(おとず)れ、バブル崩壊後(ほうかいご)廃業(はいぎょう)して()()になっていた旅館(りょかん)建物(たてもの)……つまり今の桐葉荘(とうようそう)を見つけた。これを()()ってリノベーションし、源泉利用権(げんせんりようけん)について行政(ぎょうせい)同業者(どうぎょうしゃ)折衝(せっしょう)し、銀行(ぎんこう)とやりとりしながら資金繰(しきんぐ)りや経営(けいえい)計画にある程度(ていど)目鼻(めはな)をつけたうえで、(えん)もゆかりもない土地(とち)に家族でやってきて商売(しょうばい)(はじ)めた。
 これが並大抵(なみたいてい)でないことぐらいは、いくら世間(せけん)()らずの(ぼく)でもわかる。
 十年()った今でもこの宿(やど)がちゃんと(つづ)いているということは、年光さんと女将さんが相当(そうとう)努力(どりょく)をしてきたってことだろう。
(ゆめ)なんだとはよく言ってましたけど、本当に始めるだなんて思ってもみませんでしたよ」
 女将さんが(なつ)かしそうな表情で言う。
基本的(きほんてき)には現実的(げんじつてき)な人でしたけど、時々(ときどき)人をびっくりさせるようなことを、いきなり思いつくんですよね」
(たし)かに。あの突拍子(とっぴょうし)もない発想(はっそう)(だれ)にもまねできなかったな。俺の知ってる中で、(ほか)にこんな人はいないね」
 夕介は完全(かんぜん)に年光さんに心酔(しんすい)している様子(ようす)だ。
「突拍子もなく()んじゃいましたけどね」
 女将さんが(すこ)しさびしそうにつぶやいた。
「五年前に、病気(びょうき)でな。わかってから()くなるまで、本当にあっという()だった。あと少しで四二(さい)になるとこだったのに」
 夕介が(くや)しそうに続けた。
「ちょうど(さくら)満開(まんかい)(ころ)でした。こんなに早くあの人と(わか)れることになるなんて思いもしなかったから、なんだか実感(じっかん)がわかなくて。お葬式(そうしき)の時も、何をどうしたのかよく(おぼ)えてないんです。ただ、桜がすごくきれいだったことだけは印象(いんしょう)(のこ)ってます」
 僕はじっと押()(だま)るしかなかった。
 こんな時にどんな言葉(ことば)()ければいいのかわからない自分(じぶん)が、ひどくもどかしい。
「年光さんにはせめてあと二十年は生きててほしかった。まだまだ(おし)えてもらいたいことが山ほどあったのに」
 夕介がそんなことをぽつりと言ったきり、あとは誰も言葉を(はっ)しなかった。
 みんなが黙ってしまうと、(にわ)()いている虫の()(きゅう)に耳に入ってくる。
 僕はなんだか気づまりになって、座敷(ざしき)の大きな(まど)から見える(いけ)をぼんやりと(なが)めた。

 ずっと女将さんと夕介が話す年光さんの話に夢中(むちゅう)になっていたので気づかなかったが、水菜(みずな)さんと果林(かりん)ちゃんはいつの間にかいなくなっていた。お(ぜん)が下げられているから、きっと後片(あとかた)づけをしているのだろう。
(らん)さん、ビール……いや、日本酒(にほんしゅ)もらえますか」
 夕介が追加(ついか)注文(ちゅうもん)をする。
「今日は夕介さんがお好きな『獺祭(だっさい)』、入ってますよ」
「じゃ『獺祭』、()やでお(ねが)いします」
 夕介はやけに神妙(しんみょう)(かお)をしている。少し()っているのだろうか。
「おい、お前もなんか()めよ」
「僕はいいよ」
 ムダづかい禁止(きんし)、ムダづかい禁止……と僕は(こころ)の中で(とな)える。
「ケチってんじゃねーよ、金がねえなら俺がおごってやるから飲め!」
 どういう(かぜ)()きまわしか、夕介がやけに寛大(かんだい)提案(ていあん)をしてくる。
 一瞬(いっしゅん)、コイツに()りを作っても大丈夫(だいじょうぶ)かな、という(かんが)えが頭をかすめたが、さっきから(うま)そうに飲んでいる夕介を見ていると、僕もなんだか無性(むしょう)に飲みたくなってきた。
 まあいいや、タダ(ざけ)万歳(ばんざい)だ。
「じゃあ、ビール」
「蘭さーん、コイツにもビール持ってきてやって」
 かしこまりましたー、と厨房(ちゅうぼう)の方から女将さんの声が(かえ)ってくる。
「お前、『紫桜(しざくら)』が目的(もくてき)でここに来たんだろ? 奉納(ほうのう)明後日(あさって)からなのに、なんでこんなに早く来たんだよ?」
(べつ)にいいだろ、アンタに関係(かんけい)ないし」
 (じつ)を言うと、『紫桜(しざくら)』については事前(じぜん)にネットで調(しら)べたが、思ったような情報(じょうほう)()ることができなかった。現地(げんち)に行けば何かわかるだろうとタカをくくって、明日(あした)図書館(としょかん)にでも行って調べるつもりでいたが、別にはっきりとした予定(よてい)を立てているわけでもなかった。
「お()たせしました、どうぞ」
 女将さんが酒とビールを()ってきてくれた。プレミアムの金ラベルがまぶしい。やっぱりこういうところで出るビールは(ちが)う。
 夕介は早速(さっそく)『獺祭』を一口(ふく)むと、(じつ)に旨そうに目をつぶってうなっている。
 僕は女将さんがグラスに(そそ)いでくれる黄金(こがね)色の液体(えきたい)を見つめながら、明日どうするかを考えていた。
「お二人とも、明日はどのようにされるんですか?」
 まるで僕の心を見()かしたかのように女将さんが(たず)ねてくる。
 動揺(どうよう)(おもて)に出さないように気持ちを()()けようと(つと)めながら、僕はグラスのビールに口をつけた。
 一口でホップのいい(かお)りが口中に(ひろ)がり、(にが)みとともに炭酸(たんさん)心地(ここち)よい刺激(しげき)がのどを下りていく。
「俺はいくつか取材(しゅざい)をします。今回(こんかい)月刊誌(げっかんし)に八ページのグラビアをもらってるんで、猿楽(さるがく)『紫桜』を紹介(しょうかい)するんですよ」
「夕介さんってそんな仕事もされてるんですね」
「よくある紀行(きこう)グラビアです。普通(ふつう)はライターと()んでやるんですが、今回は予定(よてい)の合うヤツがいなくて俺一人です」
 夕介はドヤ顔でそんなことを言う。
「てことは、アンタが文章(ぶんしょう)()くの?」
()たり前だろ」
 どう見ても夕介は文章を書くようなタイプには見えないが。
「森崎さんは?」
「僕はちょっと調べ物でもしようかと……」
 僕は語尾(ごび)をごにょごにょとごまかした。
 特に何も考えていないなどとは、夕介の前では絶対に言えない。
「どうせ何も考えてないんだろ?」
 夕介がにやにやと笑いながら(いた)いところを()いてくる。
 僕はちょっといらだって、グラスに(のこ)っていたビールを一気(いっき)に飲み()した。
「調べものと言っても、この町には大きな図書館はないですしねえ」
 女将さんが僕のグラスに二杯目を注ぎながら言う。
 この時点(じてん)で僕の目論見(もくろみ)(もろ)くも(くず)()った。
「でも何か資料(しりょう)ぐらいはあるでしょう?」
 僕は女将さんに尋ねた。
尋瀬(ひろせ)公民館(こうみんかん)の二(かい)に図書(しつ)がありますから、そこには町史(ちょうし)なんかも()いてあると思いますけど」
「で、どうやってそこまで行く気だよ?」
 夕介に指摘(してき)されて僕は(はじ)めて気づいた。
 そうだった、僕には足がない。いや、文字通(もじどお)り自分の足しかない。
 何時間かに一本のバスではとても自由(じゆう)には行動(こうどう)できないし、だからと言ってタクシーは論外(ろんがい)、こんなところで使(つか)ったら完全(かんぜん)赤字(あかじ)だ。
 つまり、どこに行くにもあの急坂(きゅうざか)を下りて、てくてく歩いていく他ないのだ。
 行ったらもちろん、(かえ)って来なければならない。最後(さいご)のトドメにあの急坂。
 考えただけでくらくらする。
「どこまでも(あさ)はかな(やつ)だなあ」
 考え込んでいる僕を見て夕介が思いっきりバカにする。
「時間があれば私どもの方で車を出して()し上げたいのですが、あいにく明日は予定がございまして」
 女将さんが(もう)(わけ)なさそうに言うが、むしろ(あやま)るべきは(あま)い考えだった僕の方だ。
「しゃーねえなあ」
 夕介はあぐらをかいたまま後ろにふんぞり返ると、右手の人()(ゆび)を前に突き出して僕に言った。
「お前、俺のアシスタントやれよ」
「はあ? なんで僕がアンタのアシスタントなんかしなきゃなんないんだよ?」
「お前『紫桜』について調べたいんだろ? だったら、俺の取材を手伝(てつだ)えばおのずとわかるだろーが。俺はそのためにここに来たんだからな」
 夕介があごひげを()でながら()(ほこ)ったような顔で僕に言う。
「ああ、それは確かに名案(めいあん)ですねぇ!」
 女将さんまでが手をたたいて夕介に賛成(さんせい)する。
「ま、お前みたいなダメ学生が一匹(いっぴき)ついてきたところでどうせクソの(やく)にも立たんだろうが、せいぜいがんばりな」
「ちょ……ちょっと()てよ、まだ手伝うなんて言ってないだろ」
 僕は少しあせった。だが、確かに他に手はなさそうだ。
 ここで(ことわ)れば明日は日がな一日、ひたすら歩き続けるか、ぼんやり無為(むい)()ごすかのどちらかだ。
「タダで、とは言わん。そうだな、()まってる間の酒代(さかだい)ぐらいは俺が出してやるよ」
 バイト(りょう)にしては(やす)すぎる気もするが、プレミアムの誘惑(ゆうわく)に、僕は()けた。
「わかった、じゃあ手伝うよ」
「よし、()まりだ。明日(あさ)八時にここを出るぞ」
 夕介は一方(いっぽう)的にスケジュールを決めてしまった。
 八時に出るってことは、(おそ)くとも七時には()きておかなければならない。
「せめて九時にならないか?」
「ぬるいこと言ってんじゃねーぞ、このタコ!」
 夕介が僕の(あたま)を思いっきりはたいた。
「なにすんだ、このやろう!」
 僕は少しオーバーにわめきたてる。
「あらあら、コンビ結成(けっせい)ですね! ユースケコージ♪」
 僕らのやり取りを見ていた女将さんが手をたたきながら茶化(ちゃか)した。
 僕と夕介は(たが)いの顔をにらんだ(あと)一呼吸(ひとこきゅう)()いて同時(どうじ)(さけ)んだ。
『コンビじゃねえ!』


〈第一章終わり〉

第二章 桜姫(おうひめ) 〈一〉

 目が()めた時、自分(じぶん)がどこにいるのかを(わす)れていた。
 いつものアパートの白い天井(てんじょう)が見えるものと(おも)って目を()けると、まだ薄暗(うすぐら)視界(しかい)木目(もくめ)がぼんやりと()かんきて、(ぼく)一瞬(いっしゅん)あわてた。
 ああそうか、僕は(たび)に出てたんだよな、と思い出したら(きゅう)に目が()えてしまった。
 時計(とけい)を見ると、時刻(じこく)午前(ごぜん)()になる(すこ)(まえ)(そと)はようやく(あか)るくなり(はじ)めたところのようだ。昨夜(さくや)夕介(ゆうすけ)()めた出発時刻(しゅっぱつじこく)まではまだ二時間(じかん)ぐらいある。
 あの(あと)、僕らは十時(ちか)くまで座敷(ざしき)()んでいた。(かた)づけの()んだ水菜(みずな)さんと果林(かりん)ちゃんも一緒(いっしょ)になってしばらく談笑(だんしょう)した。
「コンビ結成(けっせい)」は(おお)いにネタにされたが、僕も夕介も(がん)として(みと)めなかった。それがよけいにウケたのはなんだか納得(なっとく)いかないが、()り上がったからよしとしよう。
 姉妹(しまい)は二一時(はん)ごろに母屋(おもや)(ほう)(もど)り、さすがに夕介と二人で飲む気はしなかったので、そこでお(ひら)きにしたんだった。
 部屋(へや)に戻ると急に眠気(ねむけ)(おそ)ってきてそのまま()たから、睡眠(すいみん)時間は(やく)八時間。(けっ)して睡眠不足(ぶそく)ではない。そう思ったら、なんだか寝ているのがもったいない気がする。
 僕は布団(ふとん)から()け出して(つめ)たい水で(かお)(あら)うと、浴衣(ゆかた)から着替(きが)えて廊下(ろうか)に出た。
 厨房(ちゅうぼう)の方から()かりがもれている。朝食(ちょうしょく)仕込(しこ)みが始まっているのだろう。
 僕はそのまま玄関(げんかん)の外へ出た。まだ明るくなり始めたばかりで、外の空気(くうき)は冷たかった。
 十月のなかばだからまだ(いき)が白くなるほどの()()みではないが、僕は思わず身震(みぶる)いした。
 (ふか)(いき)()い込むと、真新(まあたら)しい空気で(はい)()たされる。
 木々(きぎ)(あいだ)から見える空からは(すで)(ほし)()え、(ひがし)から中天(ちゅうてん)にかけて(うつく)しいグラデーションが(えが)き出されていた。(みなみ)の空には(ほそ)い月がかかったままだ。
 僕は明るくなり始めた(にわ)(なが)めながら(もん)をくぐった。
 どこからか、さくっさくっという規則(きそく)正しい音が近づいてくる。何だろうと耳を()ますと、()()()みしめる音だとわかった。
 母屋(おもや)の方から(だれ)かが上がってきているようだ。
 ほどなくして僕の前に(あらわ)れたのは、白い長襦袢(ながじゅばん)少女(しょうじょ)
桔梗(ききょう)……さん?」
 僕が(こえ)をかけると、彼女(かのじょ)は僕の前で一()足を()めた。
「あ、あの……おはよう」
 僕はあいさつをしたが、桔梗さんは無言(むごん)のまま僕を一瞥(いちべつ)すると、そのまま(あゆ)みを(すす)めて僕の前を横切(よこぎ)っていった。
「桔梗さん、どこ()くの?」
 (ふたた)び僕が声をかけると、彼女は歩みを止めてもう一度僕を見た。そのまま今度(こんど)は顔を桐葉荘(とうようそう)屋根(やね)()こう(がわ)に向け、また(ある)き始める。
 屋根の向こう、と言ってもそこには山の斜面(しゃめん)があるだけだ。
「ちょっと()って」
 彼女は僕の言葉(ことば)無視(むし)して生垣(いけがき)(すみ)にある小さな木戸(きど)を開け、その向こうに消えた。
 僕はなんだか気になって彼女を()いかけることにした。
 木戸の向こうには桐葉荘(とうようそう)勝手口(かってぐち)が見え、その向こうに足踏(あしぶ)(みち)(つづ)いていた。
 かなり明るくなっているとはいえ、()(しげ)る木々で(かげ)になって、足元(あしもと)は見えにくい。少し先に彼女の白い(かげ)がぼんやり見える。
 僕は見(うしな)わないようにあわてて彼女を()った。
 落ち葉で(おお)われた足踏み道はちょっと油断(ゆだん)すると(すべ)って(ころ)びそうになるが、桔梗さんは着物(きもの)にもかかわらず()れた足取(あしど)りですいすいと(のぼ)っていった。
 僕の方は悪戦苦闘(あくせんくとう)しながらどうにか彼女についていく。
 何度か右に左に()()がりながら三(ぷん)も歩くと、僕の息は早くも(あら)くなった。いつの()にか桔梗さんの姿(すがた)も見失った。
 本当(ほんとう)に彼女はいたのだろうか、といぶかりそうになったところで、ようやく少し(ひら)けた場所(ばしょ)に出た。
 桔梗さんは息一つ(みだ)れることなく、じっと東の空を見つめて立っている。
 そこは尾根(おね)途中(とちゅう)(おど)り場のような場所だった。
 石(づく)りの小さな(ほこら)(まつ)ってあり、周囲(しゅうい)の木々が(ひく)いため、東の空がよく見える。少し下の方に桐葉荘の(かわら)屋根が見えた。
 僕が息を(ととの)えているうちに、周囲の明るさはどんどん()していく。
 桔梗さんは()じろぎひとつせずに東の空を見つめていた。
 僕も彼女の見ている方向(ほうこう)を見ようと顔を上げると、まさにその瞬間(しゅんかん)太陽(たいよう)(のぼ)り始めた。
 山()みが一(まい)の影となり、金色(こんじき)縁取(ふちど)られた複雑(ふくざつ)輪郭線(りんかくせん)を描いている。
 太陽は力強く昇り、すべてのものを光に(つつ)み込む。
 象牙色(ぞうげいろ)だった東の空は一気に黄金(おうごん)()まり、地平(ちへい)付近(ふきん)(くも)が太陽の(ひかり)()けて(あかね)色の(かがや)きを(はな)った。
 すぐ(となり)にいる桔梗さんの(なが)黒髪(くろかみ)がきらきらと陽光(ようこう)(かえ)す。
 (なが)いまつげの下で、(ひとみ)がかすかに()れている。
 色白(いろじろ)(ほお)には赤みが()し、彼女の呼吸(こきゅう)鼓動(こどう)までが僕に(つた)わってくる。
 (はじ)めて見かけた時にはどこか現実感(げんじつかん)(とぼ)しい印象(いんしょう)だったが、いま僕のそばにいる彼女は生命感(せいめいかん)にあふれていて、僕は思わず息を()んだ。
 表情(ひょうじょう)()ぎ落とした横顔(よこがお)彫刻(ちょうこく)のように美しいが、彼女はまぎれもなく生きているんだと実感(じっかん)する。
 空は僕らが見ている間にも表情を刻々(こっこく)()えていった。
 金色に輝いた東の空は、太陽が山々の輪郭線から(はな)れると、徐々(じょじょ)(あざ)やかな青色へと変化(へんか)していく。
 僕は何を言えばいいのかわからず、ただじっと(だま)っていた。
 心は大きく揺さぶられ、得体(えたい)()れない大きな感動(かんどう)に満たされていたが、今どんな言葉を(はっ)しても僕の心を正しくは(あらわ)せないような気がした。
 僕も桔梗さんも、ずっと黙ったまま東の空を見続けた。
 桔梗さんはいつもこうして朝日を眺めているのだろうか。
 彼女は何も言わないが、彼女の無表情な横顔の(おく)には、(いの)りに()真剣(しんけん)さがあるような気がした。
 すっかり周囲が明るくなったと思ったら、桔梗さんは来た時と(おな)じように何も言わずに斜面を下り始めた。
 僕も黙ってそれに続くことにした。
 桔梗さんは慣れた足取りで足踏み道を下りていく。
 登る時ほどは苦労(くろう)せずに済んだが、それでも僕は何度か転びそうになった。彼女は毎日(まいにち)のようにこの道を歩いているのだろう。
 桐葉荘の門前(もんぜん)に戻ると、桔梗さんは立ち止まって僕を見た。
 あいからず無表情で、彼女が何を(かんが)え、何を感じているのか、(まった)()からない。
 僕も桔梗さんを見つめ返すと、彼女は(かる)くうなずいた。いや、もしかしたら彼女なりの会釈(えしゃく)なのかもしれない。
 あっけにとられている僕を()いて、桔梗さんは母屋の方へ下りていった。

 さっと朝風呂(あさぶろ)()びてから座敷に顔を出すと、まだ浴衣姿の夕介がもう先に(すわ)っていた。
「なんだ、昨日(きのう)グズった(わり)には早起(はやお)きだな」
 寝癖頭(ねぐせあたま)の夕介が皮肉(ひにく)をぶつけてきた。
「アンタこそ、二日酔(ふつかよ)いにならなくてよかったな」
 僕も遠慮(えんりょ)なく反撃(はんげき)することにする。
 少なくとも今日(きょう)は一日お伴(とも)をするんだ、我慢(がまん)してたらとても身がもたない。
 夕介はあいかわらずのにやにや(わら)いを返してきた。
「おはようございます、お二人ともよく(ねむ)れましたか?」
 女将(おかみ)さんの(ほが)らかな声が(ひび)く。
「おかげさまでぐっすりでした」
「寝()ぎて目が(くさ)ったんじゃないか?」
「それはアンタの方だろ」
「うふふ、ネタ合わせですね」
 早速(さっそく)女将さんに笑われてしまった。
 てきぱきとお(ぜん)(はこ)びこまれ、朝食が始まった。
 ご(はん)()(ざかな)、いくつかの小鉢(こばち)とみそ(しる)漬物(つけもの)がついた、模範的(もはんてき)な朝ご(はん)だ。
 僕は普段(ふだん)(みだ)れた食生活(しょくせいかつ)反省(はんせい)した。一ヶ月もここで生活したらきっと(おどろ)くほど健康(けんこう)になるに(ちが)いない。
「今日は(いそが)しくなるぞ」
 茶碗(ちゃわん)片手(かたて)に夕介が言った。
確認(かくにん)しておきたいことがあるから、午前中(ごぜんちゅう)岩代市役所(いわしろしやくしょ)本庁舎(ほんちょうしゃ)に行く。観光協会(かんこうきょうかい)にはアポを()ってから午後(ごご)イチで訪問(ほうもん)だ。その後、市立図書館(しりつとしょかん)資料(しりょう)(あつ)めて、日が落ちないうちに荷駄町(にだまち)沓掛山(くつかけやま)にも足を()ばす。夕方(ゆうがた)こっちに戻ったら、保存会(ほぞんかい)松岡会長(まつおかかいちょう)にインタビューだ。昨日みたいにぬるいことぬかしやがったら置いてくからな」
(のぞ)むところだ」
 僕も焼き魚を口に運びながら(こた)えた。
 何か(はじ)めてすることに(たい)して、僕はいつも(こし)()けて億劫(おっくう)がるのだが、なぜだか今日はわくわくしている。
 夕介という一番苦手(にがて)なタイプの人間と一緒(いっしょ)行動(こうどう)するということに対しても、むしろ、やってやろうじゃないかという気分(きぶん)だ。
 いよいよ戦闘開始(せんとうかいし)、という高揚(こうよう)感が僕の全身(ぜんしん)にみなぎっていた。
「市役所に行くってことは、仕事中(しごとちゅう)の水菜さんに()うことになるかな」
 僕は水菜さんの大人(おとな)びた顔を思い浮かべながら言った。
「お前、よからぬ下心(したごころ)出すなよ」
 夕介が(くぎ)()してくる。
初日(しょにち)から美女(びじょ)美少女(びしょうじょ)(かこ)まれたからって、(はな)の下()ばして浮かれてんじゃねえぞ! 偶然(ぐうぜん)知り合った女と仲良(なかよ)くなる、なんてのはアニメの中だけだからな」
「わかってるよ!」
 少しだけ図星(ずぼし)だったので僕はムッとしたが、(たし)かに夕介の言うとおり、現実(げんじつ)はそんなに(あま)くはないだろう。今現在(げんざい)確実(かくじつ)に僕を()ちうけている現実は、「男二人の珍道中(ちんどうちゅう)」だ。
「ああ、なんてむさくるしい現実!」
「やかましい(やつ)だなぁ」
 夕介が手間(てま)のかかる生き(もの)でも見るような目で僕を見ながら言った。
 女将さんが僕の(うし)ろでくすくすと笑っていた。

 錦美町(にしみまち)から岩代(いわしろ)市の中心部(ちゅうしんぶ)までは約四〇キロ、車でもたっぷり一時間はかかる距離(きょり)だ。
 僕は夕介が運転(うんてん)するSUVの助手席(じょしゅせき)()し黙っていた。
 車は錦美川(にしみがわ)左岸(さがん)(はし)国道(こくどう)を右に左に何度もカーブしながら下っていく。川の両岸(りょうがん)には山肌(やまはだ)間近(まぢか)(せま)り、対岸(たいがん)には昨日乗ってきた山代鉄道(やましろてつどう)線路(せんろ)が走っている。
 谷間(たにま)のわずかな隙間(すきま)時折(ときおり)集落(しゅうらく)が現れては途切(とぎ)れ、そうかと思えば突然(とつぜん)斜面の途中に一軒家(いっけんや)がぽつんと()っていたりする。
 よくこんな場所に()むよなあと、僕はよそ(もの)ならではの勝手(かって)感想(かんそう)(いだ)きながら車に揺られていた。
「おい、なんかしゃべれよ」
 夕介が声をかけてきたが、しゃべることなんか何もないと思って黙っていた。運転のためにかけたサングラスのおかげで、横顔がどこかのチンピラみたいに見える。
 僕が黙ったままなので夕介は戦術(せんじゅつ)変更(へんこう)し、僕に質問(しつもん)をしてきた。
「お前、そもそもなんで『紫桜(しざくら)』を()ようと思ったんだよ?」
 質問されたら答えないわけにもいかない。
「なんとなく、かな」
「なんとなくでわざわざ()い金使(つか)って三(ぱく)も四泊もするか、普通(ふつう)?」
 確かにそうだ。ただ僕自身(じしん)、『紫桜(しざくら)』の何に心惹(こころひ)かれているのかがうまく説明(せつめい)できない。
「だいたい、地元(じもと)でもそんなに知られてないのに、どこで『紫桜』のことを知ったんだよ?」
(はる)ごろに、西國(さいごく)新聞(しんぶん)に小さな記事(きじ)が出てたんだよ」
「そんな記事あったか? どんな内容(ないよう)だ?」
 夕介はステアリングを(かる)(ゆび)(たた)きながら僕に(たず)ねる。
「七年に一度の猿楽(さるがく)練習(れんしゅう)が始まったって内容。合戦(かっせん)で父を()くした(ひめ)悲劇(ひげき)で、いくつかの(こと)なる物語(ものがたり)(つた)わっている、って()いてあったと思う」
「で、その内容についてはまだ知らないわけか、お前は」
「そういうこと」
 キイワード『紫桜(しざくら)』でウェブ検索(けんさく)しても、出てくるのは(さくら)園芸(えんげい)品種(ひんしゅ)の一種・ムラサキザクラばかり、しかもこれは猿楽『紫桜』とはまったく無関係(むかんけい)なようだ。上演(じょうえん)模様(もよう)撮影(さつえい)した写真(しゃしん)などにも行き()たらなかった。だからこそ(ぎゃく)興味(きょうみ)をかき立てられたのかもしれない。
予備知識(よびちしき)なしで観たところで、何が何だかちんぷんかんぷんだろうし」
「まあ、そうだろうな。猿楽ってか、能楽(のうがく)理解(りかい)するのにある程度(ていど)素養(そよう)()るからな」
「せめてあらすじだけでもわかればなあ」
「どうせお前、ネットで検索しただけなんだろ?」
「そうだよ」
「これだから平成(へいせい)生まれは」
 夕介がおっさんくさいことを言う。
「本当に大事(だいじ)なことはネットにはなかなか落ちてねーんだよ」
 夕介は(えら)そうに(むね)()った。
「自分が本当に知りたいことは、足で(かせ)ぐ! なんでもネットに(たよ)ってんじゃねーぞ!」
「はいはい、お説教(せっきょう)でしたらまた今度(こんど)聞きます」
 僕は(ほお)づえをついてテキトーに(なが)した。
年光(としみつ)さんの口癖(くちぐせ)だったんだよ、足で稼ぐってのは」
 夕介は(なつ)かしそうに続けた。
(おれ)新入社員(しんにゅうしゃいん)だった(ころ)、しょっちゅう年光さんに(しか)られたんだ。現場(げんば)にどんだけ足を運んだか、相手(あいて)とどれだけひざづめで(はな)せたかって。仕事(しごと)はデスクの上だけでするもんじゃないぞって散々(さんざん)言われた」
 夕介が(むかし)サラリーマンだったというのはなんだか想像(そうぞう)がつかない。
 しかし、こんな軽薄(けいはく)な新入社員がいたら、叱り()ばしたくなる気持ちはわかるような気がする。年光さんはさぞかし苦労したに違いない。
「アンタ昔何の仕事してたんだよ」
広告代理店(こうこくだいりてん)
 ウソだろ、と僕は内心(ないしん)(どく)づいた。
「その顔は信用(しんよう)してないな」
「当たり前だろ」
「ふん、どうとでも言え。ま、俺のような才能(さいのう)ある人間は、どんな仕事に()いてもサマになるがな」
 夕介は鼻息(はないき)(あら)くドヤ顔を僕に向けてきた。まったく、コイツの根拠(こんきょ)のない自信(じしん)はどこから来るんだろうと僕はなかばあきれた。
 車はあいかわらず川沿()いの風景(ふうけい)の中を走っている。ずっと同じような景色(けしき)が続いているので、どこまで進んだのかいまいちわからない。
「ところで、アンタは『紫桜』がどんな話なのか知ってるのかよ?」
 僕は話題(わだい)を戻すことにした。
「ああ、七年前に一度観てるからな」
「だったら(おし)えてくれよ」
「自分で調(しら)べればいいだろ」
「なんだよケチだな」
「足で稼げ、足で」
「その足がないからこうしてアンタのアシやってるんだろ」
 夕介がくくっと笑った。
「お前うまいこと言うな」
「お()めいただきまして(まこと)光栄(こうえい)です」
 僕は思いっきり慇懃無礼(いんぎんぶれい)調子(ちょうし)で返した。
「よし。いいだろう、どうせ()くまで時間はたっぷりある。昔話のはじまりだ」
 やや芝居(しばい)がかった口調(くちょう)でそう言うと、夕介は(かた)り始めた。

第二章 桜姫(おうひめ) 〈二〉

 (とき)戦国時代(せんごくじだい)室町幕府末期(むろまちばくふまっき)弘治(こうじ)元年(がんねん)(一五五五年)十一月。
 前月(ぜんげつ)厳島(いつくしま)合戦(かっせん)陶晴賢(すえはるかた)撃破(げきは)した毛利氏(もうりし)は、さらに西進(せいしん)していよいよ防長(ぼうちょう)(こく)への侵攻(しんこう)開始(かいし)した。()()う『防長経略(ぼうちょうけいりゃく)』である。
 防長二国の守護(しゅご)大内(おおうち)氏は陶晴賢の反逆(はんぎゃく)によってすでにほぼ壊滅(かいめつ)()()まれており、毛利氏はこの好機(こうき)(のが)さなかった。
 西(にし)()かう街道筋(かいどうすじ)荷駄(にだ)盆地(ぼんち)(おさ)め、大内()有力(ゆうりょく)家臣(かしん)でもあった杉山泰隆(すぎやまやすたか)は、一旦(いったん)毛利への恭順(きょうじゅん)()(しめ)したが、その(うら)では侵攻を()()めるべく、大内に援軍(えんぐん)(もと)める密書(みっしょ)(おく)ろうと(こころ)みた。すでに滅亡(めつぼう)(ふち)にあるとはいえ、山陰(さんいん)()めに(さい)しては毛利を支援(しえん)したこともある大内に(たい)する毛利の()()いはあまりに非礼(ひれい)であり、杉山泰隆はどうしてもこれを(ゆる)すことができなかったのである。
 しかし、(ふる)くから杉山氏と対立(たいりつ)関係(かんけい)にあり、すでに毛利(がた)についていた近隣(きんりん)豪族(ごうぞく)緒方(おがた)氏が周辺(しゅうへん)道筋(みちすじ)(へい)配置(はいち)して警戒(けいかい)していたため、大内への使者(ししゃ)(とら)えられ、この(はかりごと)は毛利方に露見(ろけん)するに(いた)った。
 (どう)月一〇日、毛利(ぐん)機先(きせん)(せい)して杉山氏の居城(きょじょう)沓掛(くつかけ)城の攻撃(こうげき)開始(かいし)、杉山氏は籠城戦(ろうじょうせん)でこれに抵抗(ていこう)した。
 ()せ手の毛利方は地元(じもと)連歌山(れんかさん)城主(じょうしゅ)檜森高安(ひのもりたかやす)田背(たせ)城主・緒方基安(もとやす)軍勢(ぐんぜい)()わせておよそ七千。対する沓掛(くつかけ)籠城軍は城主・杉山泰隆及びその父・入道宗瑚(にゅうどうそうこ)以下(いか)二千六百()
 開戦(かいせん)より三日間小競(こぜ)り合いが(つづ)いたが、籠城する杉山氏は善戦(ぜんせん)し、毛利方攻城(こうじょう)軍を(おお)いに苦戦(くせん)させた。
 毛利方は正面突破(しょうめんとっぱ)による攻略(こうりゃく)困難(こんなん)と見て、沓掛城の(きた)に居城・連歌山城を(かま)える檜森高安の先導(せんどう)により、夜陰(よかげ)にまぎれて沓掛城の搦手(からめて)(しろ)裏門(うらもん))に(まわ)り、払暁(ふつぎょう)奇襲(きしゅう)攻撃を仕掛(しか)けた。
 (りょう)軍は壮絶(そうぜつ)死闘(しとう)()(ひろ)げたがやはり多勢(たぜい)無勢(ぶぜい)、先に二の(まる)()ち、杉山宗瑚は戦死(せんし)。城主・杉山泰隆も、奮闘(ふんとう)(むな)しくついに緒方基安によって()()られる。
 沓掛城の将兵(しょうへい)約半数(やくはんすう)である千三百余が壮絶(そうぜつ)な討ち(じに)()げたと言われる。
 これが沓掛合戦の概要(がいよう)である。

「で、これがどう『紫桜(しざくら)』に(むす)びつくのか、イマイチわからないんだけど」
「いいからよく聞け、ここからが本筋(ほんすじ)だ」
 討ち取られた杉山泰隆には鶴若丸(つるわかまる)亀寿丸(かめじゅまる)という(おさな)い二人の男子(だんし)があり、大内氏の人質(ひとじち)になっていたため生き(のこ)ったそうなのだが、(じつ)(かれ)らにはもう一人、(あね)があったのだという。
「それが『紫桜(しざくら)』の主人公(しゅじんこう)桜姫(おうひめ)だ。(さくら)()いて『おう』と()む」
 物語(ものがたり)桜姫(おうひめ)落城(らくじょう)直前(ちょくぜん)(しろ)(のが)れ、山代郡(やましろぐん)、つまり(いま)錦美町(にしみまち)へと落ち()びた、という設定(せってい)となっている。
「ところが、いずれも桜姫が主人公なんだが、結末(けつまつ)はどれも(ちが)うんだ」
「どういうことだよ?」
(おな)じ主人公でも、それぞれの()(えん)じる一幕(ひとまく)ごとに、全然(ぜんぜん)違うパラレルなストーリーが展開(てんかい)するんだ。ひとつずつ(おし)えてやろう」

 まずは(だい)一幕、区別(くべつ)のために別名(べつめい)桜堤(さくらづつみ)』と()ばれている。
 宇侘川(うたがわ)(つつみ)()山桜(やまざくら)旅人(たびびと)(こころ)(うば)われていると、(うつく)しい乙女(おとめ)(あらわ)れ、その桜の由来(ゆらい)(かた)(はじ)める。
 山代に落ち延びた桜姫(おうひめ)は、(みやこ)()らしにあこがれながらも、戦死した父の菩提(ぼだい)(とむら)いつつこの()でひっそりと()らすことを(えら)んでいた。
 しかし、豪雨(ごうう)(たび)氾濫(はんらん)()(かえ)宇侘川(うたがわ)治水(ちすい)のために領主(りょうしゅ)が堤の造営(ぞうえい)決定(けってい)すると、桜姫は(みずか)人柱(ひとばしら)になることを(のぞ)み、和歌(わか)()んで堤の(いしずえ)となって()えた。
 数年(すうねん)()て堤は完成(かんせい)し、かたわらに山桜が()えられた。すると、山桜は(つぎ)(はる)から七年にわたって(あざ)やかな紫色(むらさきいろ)の花をつけたといわれる。
 旅人が(われ)に返ると、乙女は()え、ただ山桜の花が()うばかりであった。乙女は桜姫の幽霊(ゆうれい)だったのだ。

「なるほど、それで『紫桜(しざくら)』──紫の桜なのか。それにしても、女将(おかみ)さんの言ったとおり、(かな)しい(はなし)なんだな。ところで、人柱って(なに)?」
「お(まえ)本当(ほんとう)に何も()らねーんだな」
 また夕介(ゆうすけ)にバカにされた。
(はし)(つつみ)──今でいう堤防(ていぼう)だな──を建設(けんせつ)する時に、川の(かみ)(しず)めるために()し出す生贄(いけにえ)のことだよ。人身御供(ひとみごくう)とも言う。生娘(きむすめ)が選ばれて、生きたまま()められるんだ。城の石垣(いしがき)(きず)くときなんかにも埋められたらしいぞ」
「なんか残酷(ざんこく)だな」
「まあな。今の感覚(かんかく)判断(はんだん)するわけにはいかんが、日本全国(ぜんこく)あちこちに人柱にまつわる伝説(でんせつ)は残ってる。それだけ日本の自然(しぜん)(きび)しかったってことだろうな」
 地震(じしん)洪水(こうずい)をはじめとする数々(かずかず)天変地妖(てんぺんんちよう)(むかし)から日本列島(れっとう)()人々(ひとびと)は、自然災害(さいがい)(つね)()き合いながら、それでもたくましく生き()いてきたんだ、と夕介は言った。
「それにしても、(せつ)ない物語だな」
「まだまだ、あと二つの話も()けず(おと)らずだ」
 夕介はそう言うと話を続けた。

 続く第二幕は通称(つうしょう)寂水(じゃくすい)』と呼ばれている。
 山代(やましろ)に人()いの(おに)が出るようになったと聞き、ある武者(むしゃ)退治(たいじ)()って出た。
 宇侘川(うたがわ)(さかのぼ)り、寂水(じゃくすい)(きょう)でついに鬼にまみえ、激闘(げきとう)(すえ)、武者はこれを成敗(せいばい)する。
 (さと)(もど)った武者は美しい娘の夢を見た。
 自分(じぶん)はあなたに()たれた鬼であると言う。
 復讐(ふくしゅう)(くる)った挙句(あげく)、父を討ち取った(かたき)惨殺(ざんさつ)し、桜姫(おうひめ)は鬼と()したのだ。
 (おのれ)のことも父のことも(わす)()て、ひたすら人を喰らいつつ山代まで(なが)れてきたが、今、あなたに討たれてようやくかつての記憶(きおく)を取り戻した。(おお)くの(つみ)もない(いのち)を喰らい、堕地獄(だじごく)必定(ひつじょう)自分(じぶん)だが、父の(とむら)いもせずに今生(こんじょう)()るわけにはいかぬとさめざめと()く。
 武者は姫を(あわ)れに思い、宇侘八幡宮(うたはちまんぐう)一隅(いちぐう)に桜姫とその父の供養塚(くようづか)寄進(きしん)し、その(れい)(ねんごろ)ろに弔った。その(つか)のかたわらにあった山桜は、その()七年にわたって(むらさき)の花をつけたといわれる。

「鬼になって討たれるって……悲惨(ひさん)
 僕はひどく(おも)気分(きぶん)になる。
(のう)には女の妖変(ようへん)をモチーフにした物語がいくつもある。超有名(ちょうゆうめい)な『道成寺(どうじょうじ)』や、『源氏(げんじ)物語』を典拠(てんきょ)とした『葵上(あおいのうえ)』なんかはその典型(てんけい)だが、(うら)みや嫉妬(しっと)といったマイナスな感情(かんじょう)が、女を人ではないものに()えてしまうんだ」
「でも、それって普通(ふつう)(だれ)でも()ってる感情だと(おも)うけど」
「だからこそ、それを(おさ)えないと大変(たいへん)なことになるぞっていう警告(けいこく)かもしれないな。シテ(主役(しゅやく)を演じる役者(やくしゃ))は鬼になる時に『般若(はんにゃ)』の(おもて)()けるんだが、『般若』ってのはもともとは仏教用語(ぶっきょうようご)で『智慧(ちえ)』という意味(いみ)だ。面の名前の由来(ゆらい)は仏教用語の『般若』とは無関係(むかんけい)らしいが、『智慧』をまとったものが『人ではない』ってのは相当(そうとう)皮肉(ひにく)だな」
 それにしても、夕介は資料(しりょう)も見ずに(つぎ)から次へとよくしゃべる。
 本業(ほんぎょう)写真家(しゃしんか)のはずだが、一体(いったい)どこでこんな知識(ちしき)仕入(しい)れたのだろう。

 最後(さいご)の第三幕は『乙女淵(おとめぶち)』と呼ばれる。
 石見国(いわみのくに)目指(めざ)す旅の(そう)乙女淵(おとめぶち)のほとりの廃寺(はいじ)で美しい娘・桜姫(おうひめ)出会(であ)った。
 桜姫は自分の凶兆(きょうちょう)言葉(ことば)合戦(かっせん)()こし、父や千人の将兵(しょうへい)の命を(うば)ったのだと(みずか)らを()め、僧に自分を(たす)けてほしいと()う。
 僧は姫を(すく)うため読経(どっきょう)するが、桜姫は読経を聞くうちに自分の(のろ)われた運命(うんめい)から逃れるには自ら命を()つほかないと思い(さだ)め、僧の制止(せいし)()りきって乙女淵から()()げてしまう。
 彼女の命を救えなかったことを(くや)やんだ僧は、この()にとどまって桜姫とその父らの菩提(ぼだい)を弔おうと決意(けつい)した。
 しばらくのち、僧の夢枕(ゆめまくら)に桜姫が立って(かた)る。
 自らの命を()った桜姫の(たましい)は、僧の回向(えこう)によって乙女淵のかたわらに立つ桜の木に宿(やど)った。
 僧が彼女の(れい)のために読経すると乙女淵には(むらさき)の桜が()き、桜姫は僧に感謝(かんしゃ)()べて姿(すがた)を消した。

「うーん……」
 僕は思わず(うで)()んでうなってしまった。
「なんか、どの話も救いがないなあ」
 どれも不条理(ふじょうり)といえば不条理な物語で、なんとも後味(あとあじ)(わる)い。桜姫がそんな苛烈(かれつ)な運命に翻弄(ほんろう)されなければならないような(わる)いことをしたとは、僕には思えない。
(たし)かに救いはないな。能にはこの世ならざるものが頻繁(ひんぱん)登場(とうじょう)するが、いずれも非業(ひごう)の死を()げた(もの)たちなんだ。だから、能舞台(のうぶたい)ってのはこの世とあの世の境目(さかいめ)(まじ)わり、死者(ししゃ)生者(せいしゃ)にその思いを()げる場所(ばしょ)だとも言えるな。ま、どのような(かたち)にせよ、桜姫は非業の死を遂げ、その命を()()ぐかのように紫の桜が咲くってところはどの話も同じだ」
 紫色の桜の花ってもし実際に見たら不気味(ぶきみ)だろうな、と僕は想像(そうぞう)した。
「でも、桜姫が死んでしまう理由(りゆう)は、全部(ぜんぶ)違うんだな。本当のところはどうなんだろう?」
「そこだ。猿楽(さるがく)はもともと神に(ささ)げた(まい)原型(げんけい)だと言われている。大抵(たいてい)は『源氏物語』『伊勢(いせ)物語』『平家(へいけ)物語』なんかの有名な物語を典拠として(きょく)創作(そうさく)されているんだが、『紫桜』についてはほぼ完全(かんぜん)なオリジナルと言っていいだろう。(たん)に非業の死を遂げた桜姫を鎮魂(ちんこん)、あるいは追善(ついぜん)するための舞だとしたら、それぞれの座がわざわざ結末の違うストーリーを演じる理由がわからない。そもそも、能楽(のうがく)では通常(つうじょう)狂言(きょうげん)も取り()ぜて複数(ふくすう)曲目(きょくもく)が上演されるのが一般的(いっぱんてき)だが、ここでは狂言を(はさ)まず、パラレルなストーリーを()つ曲すべてを合わせて『紫桜』と呼んでいるからややこしい。何か(べつ)意図(いと)があったと見るのが自然だろうが、残念(ざんねん)ながら今となってはもう(だれ)にもわからない。猿楽『紫桜』の最大(さいだい)(なぞ)はそこであり、そして魅力(みりょく)でもあるわけだ」
「ふーん……」

 気がついてみると、錦美川(にしみがわ)の川(はば)もだいぶ(ひろ)がり、周囲(しゅうい)に立ち(なら)民家(みんか)(かず)()えてきた。だいぶ岩代市(いわしろし)市街地(しがいち)(ちか)づいてきたようだ。
「それにしても、水菜(みずな)毎日(まいにち)この(みち)運転(うんてん)してるんだから、まったく(たい)したもんだよ」
 夕介がつぶやいた。国道(こくどう)とはいえ(きゅう)カーブが連続(れんぞく)する谷間(たにま)の道だから、運転するのは(けっ)して(らく)ではなさそうだ。
「運転が()きだって言ってたなあ、水菜さん」
 僕は昨晩(さくばん)の水菜さんの言葉を思い出した。思い出すだけで(すこ)(ほお)がゆるむ。
「なんだ、お前水菜がタイプか?」
「そんなんじゃないよ」
 (じつ)図星(ずぼし)だが、夕介にわざわざそんなことを言う必要(ひつよう)はない。(おく)ゆかしくて、上品(じょうひん)で、きれいで。あんな彼女(かのじょ)がいたらいいだろうな、と僕は妄想(もうそう)した。
「あいつはだいぶこじらせてるからなあ、気をつけた方がいいぞ」
 夕介が苦笑(くしょう)しながら言った。
「高校の三年間で三〇人の男子(だんし)から告白(こくはく)されて、その全員(ぜんいん)をことごとくふっちまった(おそ)ろしい女だぞ、水菜は」
「ええ?!」
 水菜さんは美人(びじん)だからきっとモテるだろうとは思っていたが、それにしても全員をふってしまうってどういうことだ? あの水菜さんに、本当にそんな高飛車(たかびしゃ)一面(いちめん)があるとは、にわかに(しん)じがたい。
「うそだと思うなら果林(かりん)に聞いてみな。今でも水菜には彼氏(かれし)はいないはずだ。女友達(ともだち)も少ないんじゃないか?」
 僕は酸欠(さんけつ)金魚(きんぎょ)のように口をぱくぱくさせた。何も言葉にならない。
(おどろ)いたか?」
 夕介はさも面白(おもしろ)そうに(ふく)(わら)いをしながら僕に言った。
「お前、少しは女を見る()(みが)いといた方がいいぞ」
「アンタに言われたくはないよ」
 僕はそれだけ返すのがやっとだった。

第二章 桜姫(おうひめ) 〈三〉

 合併後(がっぺいご)()てられたという岩代市(いわしろし)市役所(しやくしょ)は、ガラスをふんだんに使用(しよう)した六(かい)()ての近代的(きんだいてき)建物(たてもの)だった。
 玄関(げんかん)から二階まで()()けのロビーに入ると、さんさんと()(ひかり)()(そそ)ぎ、正面(しょうめん)公園(こうえん)()えられた大きなクスノキがよく見える。開放感(かいほうかん)のある、なかなか気持(きも)ちのいい空間(くうかん)だ。
 (ぼく)は、つい受付(うけつけ)水菜(みずな)さんの姿(すがた)(さが)してしまった。
 予想(よそう)どおり制服(せいふく)姿の水菜さんを見つけると、なぜだかほっとした気持ちになる。水菜さんも僕と夕介(ゆうすけ)を見つけると、微笑(びしょう)しながら小さく手を()ってくれた。
 身長(しんちょう)が一七〇センチはある水菜さんは(とお)くからでもよく目立つが、それは(たん)長身(ちょうしん)だからというだけでなく、彼女(かのじょ)(はな)(はな)やいだオーラのせいもあるような気がする。
 さっき車の中で夕介が()ったことが本当(ほんとう)なのか、彼女を(まえ)にするとやっぱり(うたが)わしい。夕介にからかわれているだけかもしれない。
 夕介は遠慮(えんりょ)なしにずかずかと受付に(ちか)づくと、サングラスを(ひたい)にずらしたままでカウンターに(かた)ひじをついてにやにやしながら水菜さんに(はな)しかけた。まったく、なれなれしいにも(ほど)がある。
「よ、水菜」
「夕介さんに、森崎(もりさき)さん! どうしてここに?」
 水菜さんが微笑を(くず)さずに(こた)える。
 夕介がファーストネームで()ばれたのに僕は名字(みょうじ)で呼ばれ、内心(ないしん)なんだか面白(おもしろ)くない。
「市の無形文化財(むけいぶんかざい)登録(とうろく)のことで、確認(かくにん)しておきたいことがあってな」
「では、市民(しみん)生活部(せいかつぶ)文化振興課(ぶんかしんこうか)の方へどうぞ。この建物の四階になります。あちらのエレベーターで四階まで上がっていただきまして、右手(おく)になります」
 水菜さんは間髪(かんぱつ)いれずにてきぱきと答えた。
「サンキュ、ちゃんと仕事(しごと)しろよ」
「もう、ちゃんとしてますよ! じゃまするなら()い出しますよ!」
 水菜さんが夕介をしっしっと手で追い(はら)った。ざまあ見ろだ。
「森崎さんも、アシスタント、がんばってくださいね」
「ありがとうございます」
 水菜さんが僕を見てほほ()んでくれたので思わず(ほお)がゆるむ。
「お前、耳まで赤くなってるぞ」
 夕介がにやにや(わら)いながらよけいなことを言う。
「うるさい、()くぞ!」
 僕はごまかそうと(おも)って大きな(こえ)を上げた。
「いってらっしゃい」
 水菜さんが笑顔(えがお)で見(おく)ってくれた。
 エレベーターの(とびら)()まった瞬間(しゅんかん)、夕介がぼそりと言った。
「あーあ、これだから女ってこわいこわい」

「お(いそが)しいところ大変(たいへん)手数(てすう)をおかけします」
 夕介は市役所の職員(しょくいん)(たい)して(おそ)ろしくていねいに事情(じじょう)説明(せつめい)している。僕に対する乱暴(らんぼう)態度(たいど)とはえらい(ちが)いだ。
 夕介が確認しておきたいことというのは、奉納(ほうのう)猿楽(さるがく)紫桜(しざくら)』が、岩代(いわしろ)市の無形文化財に再登録(さいとうろく)された経緯(けいい)だという。
「合併時に(きゅう)錦美町(にしみまち)からの無形文化財指定(してい)がうまく()()がれず、合併後に再登録されたと聞きましたもので、取材(しゅざい)のために事実(じじつ)関係(かんけい)をぜひ確認しておきたいのですよ」
「あー、どうですかねえ。私はその時は違う部署(ぶしょ)におりましたけえ、そのへんの(くわ)しい事情は、ちょっと」
 夕介の相手(あいて)をしているのは小太(こぶと)りで(かみ)(うす)い、人のよさそうな中年(ちゅうねん)男性(だんせい)職員だ。
 やたらと(あせ)をかいていて、ハンカチでしきりに汗を()いている。そんなに(あつ)いわけでもないからその様子(ようす)がなんだか滑稽(こっけい)で、僕は笑いを必死(ひっし)でこらえていた。
「再登録の(さい)提出(ていしゅつ)された書類(しょるい)拝見(はいけん)するわけにはまいりませんか?」
「そしたら、(さが)してみましょう。少々(しょうしょう)()ちいただけますか」
 市職員は仕事とはいえちゃんと丁寧(ていねい)応対(おうたい)してくれている。
「なんでわざわざここまで出向(でむ)いて調(しら)べる必要(ひつよう)があるんだよ? このくらいならメールとか電話(でんわ)取材で()むんじゃないか?」
 僕は夕介に(たず)ねた。
「さっきも言ったろ、足で(かせ)げって。現地(げんち)()なきゃわからないこともあるんだよ」
 夕介は鼻歌(はなうた)でも口ずさみそうな雰囲気(ふんいき)でくつろいでいる。そんなもんだろうかと僕は思う。情報(じょうほう)なんてどこでどうやって見たって(おな)じじゃないだろうか。
 そんな(こと)(かんが)えながら、僕は事務室(じむしつ)(はたら)いている職員の(うご)きを(なが)めていた。
 パソコンに向かって一心不乱(いっしんふらん)に何かを()()んでいる人、電話で笑いながら話をしている人、そうかと思えば何やら(むずか)しい(かお)をして考え込んでいる人……。
 その様子を見ながら、「働く」ってどういうことなんだろうと僕は考えた。
 僕はまだ、何者(なにもの)でもない。
 それだからだろうか、「働く」ということに対して、どこか(しり)ごみする気持ちがあるのは(たし)かだ。
「働く」ということは、社会(しゃかい)の中で一定(いってい)位置(いち)()める「何者かになる」ということだと思う。それは、自分自身(じぶんじしん)というものを確立(かくりつ)するために必要(ひつよう)なことだと(あたま)ではわかっているが、一方(いっぽう)で自分の可能性(かのうせい)がひどく限定(げんてい)されてしまうような気がする。
 何かを(えら)ぶということは、(べつ)の何かを()()てることでもあり、その(とき)に選ばなかったものには、もう二()となれないということだ。
 僕はそのことをとてもこわいことのように感じている。
 一年半後(はんご)には、僕は就職(しゅうしょく)活動(かつどう)開始(かいし)して、選ぶこと、そして選ばれることに直面(ちょくめん)することになる。でも、一体(いったい)何を基準(きじゅん)にしたらいいのだろう?
 僕は今回(こんかい)旅行(りょこう)のために、夏休(なつやす)みにお中元(ちゅうげん)詰合(つめあ)わせを作るアルバイトをした。物流倉庫(ぶつりゅうそうこ)の中で、洗濯用洗剤(せんたくようせんざい)食用油(しょくようあぶら)、コーヒーといった商品(しょうひん)を、ひたすら指示(しじ)(どお)りに化粧箱(けしょうばこ)に入れていく。
 僕でなくても、(だれ)でもできる作業(さぎょう)だ。
 その単純(たんじゅん)作業の報酬(ほうしゅう)として、僕はいくらかのお金を手にした。
 でも、これは「作業」であって「仕事」じゃない。だから僕が手に入れたのは、あくまでその作業に見合っただけの賃金(ちんぎん)でしかない。
 うまく説明(せつめい)はできないが、「仕事」というのは、それとはもう少し違うもののような気がする。
 そういえば、水菜さんはもう(すで)に選んだ(がわ)の人なんだよな、僕と(おな)(とし)なのに。
 彼女は何を思って市役所の仕事を選んだのだろう。
「いやー、大変お待たせいたしました」
 汗をかきかき職員が(もど)ってきた。
「えーと、宇侘川(うたがわ)猿楽保存会(ほぞんかい)の無形文化財申請(しんせい)平成(へいせい)一×年四月ですね。この前年(ぜんねん)当市(とうし)は合併しておりますから、確かに合併の混乱(こんらん)でうやむやになっちょったんでしょう。(とく)にこのぶんは式年(しきねん)が七年と(なが)いですけえね」
(おそ)れ入ります、では拝見します」
 夕介は職員が()し出したねずみ色のフラットファイルを()()った。
 その瞬間(しゅんかん)、書類の間から何かがふわりと(ゆか)()ちる。
「おっと」
 僕は(つくえ)の下にかがんで、落ちた物を(ひろ)って机の上に()いた。
 それは一(まい)名刺(めいし)だった。
 落ち()いた若葉色(わかばいろ)(かみ)で、和紙(わし)()せた(こま)かなエンボス加工(かこう)(ほどこ)されており、縦書(たてが)きで(すみ)色の明朝体(みんちょうたい)文字(もじ)が入った、(ひん)のあるデザインだ。

   深津峡温泉(ふかつきょうおんせん) 桐葉荘(とうようそう)
        桐島(きりしま) 年光(としみつ)

 名刺には確かにそうあった。僕は思わず(となり)の夕介の顔を見た。
 夕介も一瞬(いっしゅん)僕の方を見てにやりとしたが、すぐに(わた)された書類に目を落とした。
 なんでこんなところで年光さんの名刺が出てくるのだろう?
 夕介は一通り書類に目を(とお)した(あと)手帳(てちょう)にいくつかメモを取ると、年光さんの名刺をゼムクリップで書類に(はさ)んでフラットファイルごと職員に返した。
「ありがとうございます、大変(たす)かりました」
「お役に立ちましたか?」
「ええ、十分(じゅうぶん)に。お世話(せわ)になりました」
「こちらこそ、どういたしまして」
 夕介は立ち上がると職員に丁寧に頭を下げた。僕もあわてて立って、汗かきの市職員に会釈(えしゃく)した。
「な、現地に来なきゃわからないだろ?」
 エレベーターに向かいながら夕介は僕に言った。
「何がだよ?」
「年光さんが、『紫桜(しざくら)』の無形文化財再登録申請に(かか)わっていたことさ。書類の申請者は猿楽保存会の会長(かいちょう)松岡(まつおか)さんになっているし、関連(かんれん)する書類にも、年光さんの名前は一切(いっさい)なかった。にもかかわらず、あの名刺だ」
「それってどういうこと?」
 エレベーターに乗り込んでから僕は尋ねた。
「年光さんが松岡会長の()わりに(おもて)に立って、申請手続(てつづ)きを代行(だいこう)したんだろう。行政との折衝(せっしょう)ってのはとにかく面倒だからな。無形文化財登録されていないと市からの補助金(ほじょきん)()けられないから、前回(ぜんかい)の奉納の時、『紫桜』は財政上(ざいせいじょう)のピンチだったはずだ」
「つまり、年光さんがそのピンチを(すく)ったってこと?」
「ま、お前みたいなバカにもわかりやすいように言うなら、そういうことだ」
 バカは余計(よけい)だが、何となく僕にも納得(なっとく)できた。
 しかし、年光さんは何故(なぜ)そんな面倒(めんどう)なことをわざわざ()って出たのだろう?
 エレベーターが一階に着き、夕介が先に降りた。
「よし、(つぎ)観光(かんこう)協会(きょうかい)だ」
 そう言うと、夕介はスマートフォンを取り出して電話をかけ始めた。

第二章 桜姫(おうひめ) 〈四〉

「あー、腹立(はらた)つ! (なん)なんだよ、あのやる気の()さっ!」
 (ぼく)は車の助手席(じょしゅせき)()()むなり、やり()のない(いきどお)りを(おも)わず(こえ)に出した。
「ま、そう言うな。たいていはこんなもんだ」
 苦笑(にがわら)いしながらそう言って夕介(ゆうすけ)が僕をなだめる。あれだけコケにされてなんでこんなに平然(へいぜん)としていられるのか、僕にはまったく理解(りかい)できない。
 市役所(しやくしょ)での調(しら)べものが予想(よそう)より早く()わったので、(ひる)イチの予定(よてい)だった観光協会(かんこうきょうかい)訪問(ほうもん)午前中(ごぜんちゅう)()り上げたまではよかったのだが、そこで予想外(よそうがい)展開(てんかい)遭遇(そうぐう)した。
 観光協会は(はなし)もそこそこに、僕らを()(かえ)したのだ。
「せっかく地元(じもと)観光資源(しげん)雑誌(ざっし)()り上げられるのに、あのリアクションの(うす)さは何? やる気まったくないだろ、あいつら!」
(わか)いなー、お(まえ)
 夕介は右手を後頭部(こうとうぶ)にあててあいかわらず苦笑いを()かべている。
()()いて(かんが)えてみろ、七年ぶりの猿楽(さるがく)奉納(ほうのう)が雑誌で紹介(しょうかい)されたからって、(つぎ)にやるのは七年()だろ。奉納前ならいざ()らず、事後(じご)に紹介されてもまったく客寄(きゃくよ)せにはならんさ」
「それでも、(すこ)しは地元(じもと)知名度(ちめいど)アップには貢献(こうけん)するんじゃないのか?」
「さあ、それはどうかな? 今回(こんかい)ページをもらった月刊誌(げっかんし)(たび)グラビアは、観光資源を取り上げるタイプのページじゃないしな。ひとまず(おれ)としては記事(きじ)()ることをアナウンスすることが目的(もくてき)だったから、これで十分(じゅうぶん)だ」
「アンタ、自分(じぶん)仕事(しごと)なのになんでそんなに冷静(れいせい)なんだよ?」
「自分の仕事だからだよ。俺は多少(たしょう)なりとも自分の仕事に影響力(えいきょうりょく)があることを知ってるからな」
 僕にはどうも納得(なっとく)がいかない。
 夕介は(わる)意味(いみ)でもいい意味でも、自分の仕事にはプライドを()っていると(おも)っていたが、そうじゃないのだろうか。
 夕介はあからさまに不満(ふまん)そうな(かお)をしている僕に言った。
「どうでもいいところではけんかしない主義(しゅぎ)なんだ、俺は。お前も仕事をするようになればわかるさ。自分の思いだけじゃ、仕事にはならねーんだよ」
「それも年光(としみつ)さんからの()()りか?」
 僕はちょっといじわるな気分(きぶん)になって夕介に(たず)ねてみた。
「いや、数々(かずかず)経験(けいけん)から(みちび)き出されたとりあえずの結論(けつろん)、てヤツだ。まあ、(たし)かに年光さんも(おな)じようなことは言ってたがな。結局(けっきょく)、自分であれこれ経験するまでは、俺もわからなかった」
 それを聞いても僕にはどうしても()に落ちなかった。それは僕がまだそういう経験をしていないからなのかもしれない。
「何でも、やってみなきゃわからないだろ?」
 夕介はそう言うと車のエンジンをかけた。
「これも、年光さんの口癖(くちぐせ)だがな」

 昼飯(ひるめし)は夕介がおごってくれた。
 と言っても、ファストフードの牛丼(ぎゅうどん)だ。
 僕も普段(ふだん)から時々(ときどき)世話(せわ)になる、全国(ぜんこく)チェーン(てん)の、全国共通(きょうつう)(あじ)(けっ)して不味(まず)くはないけど、いつでもどこでも(おな)じ味だから(おどろ)きもない。
 たいていの(きゃく)(みせ)に入ってから出るまで二〇分以内(いない)(はや)さと(やす)さこそが取り()の、偉大(いだい)なる(われ)金欠(きんけつ)味方(みかた)
 昼のピークを少し()ぎた時間帯(じかんたい)だったが、(みせ)の中には営業(えいぎょう)途中(とちゅう)()ったと思われるサラリーマンや、建設(けんせつ)作業員(さぎょういん)と思われる人の姿(すがた)(おお)かった。多忙(たぼう)(はたら)く人の味方、でもあるのかもしれない。
 それにしても、たかだかワンコインで一日(じゅう)()きずり(まわ)されるんじゃとても(わり)に合わない。
 僕は、この(ぶん)を取り返すためにも、今晩(こんばん)晩酌(ばんしゃく)はとびきり豪勢(ごうせい)にしようと(かた)(こころ)(ちか)った。
 市の中央(ちゅうおう)図書館(としょかん)()いたのは一三時半ごろだった。
 岩代(いわしろ)市の中心(ちゅうしん)市街地(しがいち)から車で一〇分(ほど)(はな)れた住宅街(じゅうたくち)の中に図書館はあった。平日(へいじつ)だというのに駐車場(ちゅうしゃじょう)はなかなか()みあっている。
岩代(いわしろ)市は図書館の利用者数(りようしゃすう)県内(けんない)でも有数(ゆうすう)らしいぞ」
 どこで仕入(しい)れたのか知らないが、夕介がそんなことを言う。
 まったく、一体どこでそんなどうでもいい情報(じょうほう)(ひろ)うのだろうか。
「ここでは何をするんだよ?」
 僕は夕介に(たず)ねた。
「まずは(きゅう)錦美町(にしみまち)町史(ちょうし)から猿楽(さるがく)紫桜(しざくら)』に(かん)する記述(きじゅつ)を拾う。地元の郷土史家(きょうどしか)が『紫桜(しざくら)』に関して何か研究(けんきゅう)している可能性(かのうせい)もあるから、関連(かんれん)しそうな書籍(しょせき)確認(かくにん)する。それと、沓掛合戦(くつかけかっせん)に関する周辺(しゅうへん)資料(しりょう)収集(しゅうしゅう)、てとこだな。とりあえず、お前はコピー要員(よういん)な」
 つまり、夕介が指定(してい)したページをひたすらコピーする作業(さぎょう)をしろってことか。
時間(じかん)がないからタラタラやってんじゃねえぞ」
「わかってるよ」
 夕介は(かなら)一言(ひとこと)(おお)い。
 資料のコピーなんて(だれ)だってできるに()まってる。バカにするのもたいがいにしろと言いたいのを僕はぐっとこらえた。
 だが作業を(はじ)めてすぐに、たいがいにしなければならないのは僕の方だということを(さと)ることになった。
「おい、なにモタモタしてんだよ?」
 夕介は猛烈(もうれつ)速度(そくど)で資料を(えら)んでは、僕に(つぎ)から次へと矢継(やつ)(ばや)にコピーの指示(しじ)を出してきた。この本の何ページから何ページ、こっちは何ページの図表(ずひょう)と何ページの写真(しゃしん)、これは何ページから何ページ……僕の処理速度(しょりそくど)はたちまち限界(げんかい)(むか)えた。
「ちょっと()てよ、(いま)やってるから」
「タラタラやるなって言っただろうが」
「うっさいなあ、ちょっと(だま)っててくれる?」
 夕介はイライラしながら僕の作業を見ている。おかげでこっちは(みょう)緊張(きんちょう)してよけいにモタついてしまう。
 (いそ)いだせいで間違(まちが)えて枚数(まいすう)ボタンを()したまま印刷(いんさつ)をかけてしまった。次々に(かみ)がはき出される。あわててストップボタンを()す。
「へったくそな(やつ)だな、ちょっとは(あたま)使(つか)え、頭を」
 夕介は(つくえ)(ふち)(ゆび)でせわしなくたたいている。
「こっちの指示を全部(ぜんぶ)(おぼ)えてやろうとするな。メモぐらい取っとけ」
「だったらリストぐらいくれてもいいだろ!」
「自分が半端(はんぱ)なくせに人のせいにするな! だからダメなんだ、お前は」
 さすがにこれには反論(はんろん)できない。
「コピーもロクにできないのか、ったく」
 夕介が僕に聞こえるように舌打(したう)ちする。(くや)しいが(たし)かに夕介の言うとおりだ。
 僕のわずかばかりのプライドは粉々(こなごな)()(くだ)かれた。
 夕介は指定した資料のページをさっとメモしてリストにまとめると、僕に手渡(てわた)した。
「ほらよ。お前、このままだと社会(しゃかい)に出てからだいぶ苦労(くろう)するぞ」
 僕は(なさ)けなくて、半分(はんぶん)()きそうになりながらコピーを(つづ)けた。
 夕介が図書館職員(しょくいん)にコピー(だい)支払(しはら)っている(うし)姿(すがた)を見ながら、僕はいたたまれない気持(きも)ちになっていた。
 結局(けっきょく)僕は口先(くちさき)だけで、実際(じっさい)には何もできない人間(にんげん)なんだということを、いやというほど思い知らされた。
「ったく、使(つか)えねー奴だな」
 悪態(あくたい)をつきながら夕介が(もど)ってきた。僕は反撃(はんげき)する気力(きりょく)もなくじっと(だま)っていた。
「なんだ、お前(へこ)んだのか?」
「……」
 夕介と目を合わせることができず、僕は下を()いた。ついと押されでもしたら(なみだ)がこぼれそうなぐらい(くや)しい。
(さき)()ってろ」
 そう言って夕介は僕に車の(かぎ)を渡した。
 図書館の(そと)へ出ると、僕の気分(きぶん)とは裏腹(うらはら)に、さわやかな(たか)い空一面(いちめん)にいわし(ぐも)が出ている。
 どこからか下校(げこう)途中(とちゅう)の小学生がはしゃぐにぎやかな(こえ)が聞こえてくる中、僕はとぼとぼと駐車場を(ある)いた。原色(げんしょく)のド派手(はで)なステッカーが()ってある夕介のSUVは(とお)くからでもよく目立つ。
「はあぁ……」
 車の助手席(じょしゅせき)(すわ)ると、思わず大きなため(いき)が出た。こんなところで、僕は一体(いったい)何をやってるんだろう?
「ほらよ」
 夕介が(つめ)たい(かん)コーヒーを二本()って車に戻ってきた。片方(かたほう)を僕に手渡すとシートベルトを()け、すぐに車をスタートさせた。
 僕は両手(りょうて)で缶コーヒーを(にぎ)りしめたまま(だま)っていた。手のひらに缶コーヒーの冷たさがじんわりと(つた)わってくる。
 夕介はステアリングを(にぎ)りながら右手だけで器用(きよう)にプルタブを()け、一口()んだ。
「飲めよ」
 夕介は素気(そっけ)なくそう言うとしばらく黙ってステアリングを握っていた。
 僕もプルタブを開けて缶コーヒーを一口(ふく)んだ。
 少しぬるくなった缶コーヒーは、微糖(びとう)のはずなのに(にが)みしか(かん)じなかった。

第二章 桜姫(おうひめ) 〈五〉

 車は西(にし)へと()かって(はし)(つづ)けた。目的地(もくてきち)岩代市(いわしろし)荷駄町(にだまち)にある戦国時代(せんごくじだい)古戦場(こせんじょう)沓掛山(くつかけやま)だ。
紫桜(しざくら)』のヒロイン・桜姫(おうひめ)(ちち)である杉山泰隆(すぎやまやすたか)がその(いのち)()らした場所(ばしょ)
 荷駄盆地(ぼんち)旧山陽道(きゅうさんようどう)(とお)古代(こだい)からの交通(こうつう)要衝(ようしょう)で、現在(げんざい)でも国道(こくどう)新幹線(しんかんせん)高速道路(こうそくどうろ)が盆地を横切(よこぎ)っている。
 図書館(としょかん)を出てから二〇分ほど走って(とうげ)()えるトンネルを()けると、視界(しかい)(ひら)けた。里山(さとやま)(かこ)まれたのどかな田園風景(でんえんふうけい)が目の(まえ)(ひろ)がる。
日暮(ひぐ)れ前に()に合うな」
 夕介がつぶやいた。
 車は荷駄(にだ)町の中心部(ちゅうしんぶ)に入ると、中学校のそばを抜けて住宅街(じゅうたくがい)(せま)(みち)に入った。
「車がどっか()められねえかな……」
 道端(みちばた)に『沓掛(くつかけ)登山道(とざんどう)』と()かれた立て看板(かんばん)が見えた。
駐車場(ちゅうしゃじょう)町民(ちょうみん)グラウンド西(がわ)利用(りよう)のことって書いてあるぞ」
「じゃあ、さっきのとこか」
 (ぼく)()み上げたら、夕介(ゆうすけ)は狭い交差点(こうさてん)何度(なんど)()(かえ)して車をUターンさせた。
 車から()りると、夕介はトランクからアルミ(せい)のケースを()り出す。
「そういえば、アンタってカメラマンだったっけ」
 すっかり(わす)れていたが、夕介がカメラを取り出したのを(はじ)めて見た僕は、(おも)わず感嘆(かんたん)(こえ)を上げた。
「なんだ、そんなに(おどろ)くことはねえだろ。()くぞ」
 夕介はカメラを二(だい)()げて(ある)(はじ)めた。僕もそれに(つづ)いた。
 沓掛山は下から見上げるとおわんを()せたような(かたち)の小さな山だ。盆地の中で、沓掛山だけは(ほか)の山々からぐっとせり出している。
 標高(ひょうこう)二四〇メートル、山頂(さんちょう)までは(やく)六五〇メートルと立て看板にある。
 住宅の(あいだ)を抜け、民家(みんか)庭先(にわさき)(とお)っていよいよ山道(やまみち)に入ると(きゅう)勾配(こうばい)がきつくなった。一面(いちめん)()()(おお)われた山道はかなり歩きづらい。それでも、一キロもない距離(きょり)だし、なんてことないだろうと思って歩き始めたが、これがとんでもなかった。
「ちょ……ちょっと、()ってくれ」
「なんだ、また休憩(きゅうけい)か?」
 これで三(かい)目の休憩だ。
 僕は全身(ぜんしん)(あせ)だくになって(かた)(いき)をしているが、夕介は(すず)しい(かお)だ。
 カメラを二台ぶら下げた三〇代(なか)ばのおっさんに体力(たいりょく)でも()けているんだから(なさ)けない。この(たび)()わったら絶対(ぜったい)に何か運動(うんどう)を始めよう、と僕は思った。
 時々(ときどき)新幹線の通過(つうか)する音が聞こえてくるが、それ以外(いがい)(とり)のさえずりが聞こえるぐらいの(しず)かな場所だ。
 四五〇年あまり前、ここで合戦(かっせん)(おこな)われて千三百人もの人が()んだとは思えない、のどかな風景(ふうけい)
「ほら、あと少しだから行くぞ」
 夕介にうながされて、僕は何とか(こし)を上げた。
 しばらく歩くと、勾配が少し(ゆる)やかになった。
 少し先に石碑(せきひ)が立っている。夕介はさっとカメラを(かま)えて写真(しゃしん)(おさ)めた。
 石碑には『古戦場沓懸城址』と(きざ)まれている。
「ここが二の(まる)(あと)らしいな」
 城主(じょうしゅ)杉山泰隆の父・杉山宗瑚(そうこ)戦死(せんし)したと(つた)えられている二の丸だ。
 本丸(ほんまる)があった山頂まではもう少しある。僕は言うことをきかない(からだ)鞭打(むちう)ちながら、どうにか夕介についていった。
 山頂には丸太造(まるたづく)りの展望台(てんぼうだい)(しつら)えられており、沓掛合戦の顛末(てんまつ)(しる)した看板がひっそりと立っているだけだった。
 展望台もおよそ四メートル四方(しほう)の小さなもので、天守(てんしゅ)はもちろん石垣(いしがき)もなく、看板がなければここが(しろ)だったとは(だれ)も思わないだろう。
「何も、ないんだな」
 僕はまだ(あら)い息でつぶやいた。
 体力的(たいりょくてき)にはかなりきつい(かん)じだが、時間的には休み休みでも二〇分少々(しょうしょう)(のぼ)ってしまえたことになる。
「城と言うよりは(とりで)と言った方がイメージに合うだろう」
 夕介がカメラを構えながら返した。
 ここからは荷駄盆地が一望(いちぼう)にできる。僕は展望台に登ってみた。
 下の方にさっきそばを通った中学校のグラウンドが見える。野球部(やきゅうぶ)生徒達(せいとたち)練習(れんしゅう)しているのが小さく見えた。(とお)くの方には高速道路が見える。
「あれが連歌山(れんかさん)毛利氏(もうりし)協力(きょうりょく)して杉山氏を()めた、檜森高安(ひのもりたかやす)居城(きょじょう)があったところだ」
 夕介が盆地とは反対(はんたい)方角(ほうがく)(ゆび)さした。
 木々(きぎ)の間から、こちらよりも少し(たか)い山が見える。トビが一()、そのさらに上空(じょうくう)()(えが)いている。
()こうからはこっち(がわ)がよく見えそうだな」
「檜森氏はいち早く毛利(がた)について、このあたりの地理(ちり)不案内(ふあんない)な毛利(ぐん)の道案内をしたわけだ」
 僕は杉山泰隆になったつもりで、甲冑(かっちゅう)をつけた敵兵(てきへい)が毛利の旗指物(はたさしもの)()になびかせながら沓掛山を包囲(ほうい)している様子(ようす)想像(そうぞう)した。
 味方(みかた)はわずか二千六百に(たい)し、敵方(てきがた)諸説(しょせつ)あるが約七千の軍勢(ぐんぜい)。ざっと三倍弱(ばいじゃく)だ。
 この急峻(きゅうしゅん)山肌(やまはだ)だけが唯一(ゆいいつ)防衛(ぼうえい)線で、しかも敵方の居城はすぐ目の前に見える。そんなに高い山ではないから、包囲されている様子は手に取るようにわかったはずだ。
 大内(おおうち)への使者(ししゃ)(すで)(とら)えられたから援軍(えんぐん)()るはずはないし、補給路(ほきゅうろ)もない。
 多勢(たぜい)無勢(ぶぜい)普通(ふつう)(かんが)えればとても()ち目のない(いくさ)になるのは目に見えている。
 自分(じぶん)意志(いし)(つらぬ)いたのか、それとも周囲の状況(じょうきょう)変化(へんか)によってそう()()まれてしまったのか。
 (かれ)にとって命を()けてまで(まも)るべきものって、一体(いったい)何だったのだろう。
「それにしても、あの(おも)そうな甲冑を()につけた上でさらにこの斜面(しゃめん)を登って()り合いするんだから、(むかし)の人ってすごいよな」
 僕が素朴(そぼく)体感(たいかん)を言うと、夕介は可笑(おか)しそうに(わら)った。
(たし)かに、お前じゃ絶対に無理(むり)だな」
 僕も思わずつられて笑った。
「さっき図書館でざっと(ひろ)った資料(しりょう)によれば、荷駄町では毎年(まいとし)十一月に沓掛合戦を(しの)んで(まつり)(おこな)われているそうだ。武者行列(むしゃぎょうれつ)なんかも行われるらしい」
「じゃあ、地元(じもと)じゃよく()られたエピソードなんだな、この合戦は」
「だな。(ふもと)にはひっそりとだが戦死者(せんししゃ)埋葬(まいそう)した『千人塚(せんにんづか)』も(のこ)っている。しかし不思議(ふしぎ)なことに、荷駄町には桜姫(おうひめ)(かん)する(はなし)は何一つないらしい。杉山氏の菩提寺(ぼだいじ)に残る過去帳(かこちょう)にも記載(きさい)はないらしいからな」
「じゃあ、『紫桜(しざくら)』って本当にいたのかどうかもわからない人の物語(ものがたり)なのか?」
桜姫(おうひめ)存在自体(そんざいじたい)、まったくの創作(そうさく)って可能性(かのうせい)もあるな」
「ふーん……」
 桜姫が実在(じつざい)していなかったのなら、『紫桜(しざくら)』の作者(さくしゃ)はなぜわざわざこんな(かな)しい物語を創作して残したんだろう?
 桜姫がもし実在していたとしても、三本の(こと)なる物語にはいずれも真実(しんじつ)(ふく)まれていないのかもしれない。
「不思議ついでにもう一つ。お前おかしいと思わないか?」
「え? 何が?」
「なぜ『紫桜』がわざわざ(あき)奉納(ほうのう)されるのか。普通(ふつう)に考えたら、(さくら)の物語なんだから(はる)()るのが自然(しぜん)だろ?」
「確かに、そういえば」
舞台装置(ぶたいそうち)として使(つか)われる『(つく)(もの)』も、本物(ほんもの)(さくら)(えだ)から()を取って、和紙(わし)で作った花を一つ一つ()()けて作るんだそうだ。何のためにそこまでして秋に奉納するのか、それも(まった)くの(なぞ)らしい」
「へえ……なんかますます『紫桜』に興味(きょうみ)がわいたよ」
 僕がそう言うと、夕介はふふっと笑った。
(おれ)もだ。まったく、()甲斐(がい)がある。(かえ)ったら資料の()()みだ」
「アンタ、本業(ほんぎょう)写真家(しゃしんか)だろ?」
「ああ、そうだった」
 僕と夕介は(かお)を見合わせて笑った。

 (かえ)りの車の中で、だんだんと夕闇(ゆうやみ)(しず)錦美川(にしみがわ)景色(けしき)(なが)めながら、僕はじっと考えていた。
 たった一日の中で、ずいぶんと色々(いろいろ)なことを僕は感じた。
 僕が自分で思っている以上(いじょう)に何もできない人間(にんげん)であることを思い知らされたし、桔梗(ききょう)さんの(うつく)しい横顔(よこがお)心揺(こころゆ)さぶられたり、沓掛山で絶望的(ぜつぼうてき)籠城(ろうじょう)戦に(いど)んだ杉山泰隆の心情(しんじょう)(しの)んだりもした。
 (おな)じことを()り返しているだけの毎日(まいにち)では、絶対に経験(けいけん)できなかったことだ。
 ふと、夕介が言った「何でも、やってみなきゃわからないだろ?」という年光(としみつ)さんの口癖(くちぐせ)()かんだ。
 確かに、わざわざ足を(はこ)んだからこそ僕はこうして色々なことを感じたわけだ。もちろん、いいことばかりじゃないけど。
「何でもやってみなきゃわからない、か」
 僕は思わずつぶやいた。(となり)で夕介が笑う。
「どうした? 年光さんの口癖なんかつぶやいて」
「いや、ちょっとだけその意味(いみ)がわかったような気がしてさ」
「ほう」
 ステアリングを(にぎ)ったまま夕介が感心(かんしん)した顔でちらりと僕を見た。
「知ってるのと実際(じっさい)にやってみるのとじゃ、ぜんぜん(ちが)うのかなって」
 今日(きょう)一日の僕の正直(しょうじき)実感(じっかん)だ。
 僕は、自分の人生(じんせい)ではまだ何もやっていないも同然(どうぜん)だ。あれこれ聞きかじって知った気になっていただけ。
 何者でもないことで、僕はまだこれから何にでもなれるようなつもりでいた。
 しかし、気づいていなかっただけで、僕はもう自分の人生を(えら)びはじめているんだ。
 だからと言って、これから何を選べばいいのかはまだぜんぜんわからない。
「だから、実際に来てみてよかったと思うよ」
「な、言ったろ。足で(かせ)げって」
 夕介はドヤ(がお)で言うかと思ったが、意外(いがい)にも真顔(まがお)だった。
「年光さんは俺の人生を()えた人なんだ。俺がフリーの写真家になったのも、年光さんのおかげだ」
 夕介が広告代理店(こうこくだいりてん)で年光さんと一緒(いっしょ)仕事(しごと)をしたのはわずか二年だという。
「年光さんは桐葉荘(とうようそう)(はじ)めるために会社(かいしゃ)()めちまったからな」
 夕介は年光さんが退職(たいしょく)した(あと)個人(こじん)的に親交(しんこう)を続けた。それぐらい年光さんには影響力(えいきょうりょく)があったのだという。
「だから開業当初(かいぎょうとうしょ)から桐葉荘(とうようそう)に来てたのか」
「そうだ。あれだけ仕事がバリバリできて、それなりの地位(ちい)もあったのに、それを()しげもなく()てて自分の(ゆめ)実現(じつげん)させちまう年光さんのエネルギーに、俺はあこがれてたのかもな」
 夕介はその後も二年間ほど広告代理店の仕事を続けたが、四年目の(ふゆ)転職(てんしょく)した。
「お前知ってるか? 学校イベントの写真撮影(さつえい)()()う会社があるんだ」
「それって運動会(うんどうかい)とか学芸(がくげい)会とかの写真を()るってこと?」
「そうだ、入学式(にゅうがくしき)とか卒業式(そつぎょうしき)もだ。ちゃんと一人一人の子どもが主役(しゅやく)になるように、数人(すうにん)のカメラマンで()んで、ひたすら撮りまくる。俺が転職したのはそういう会社だ」
「へえ、そんな仕事があるんだ」
「今でもたまに手伝(てつだ)うこともある。同時(どうじ)に、有名(ゆうめい)なカメラマンのアシスタントも始めた。年光さんと出会っていなければ、俺は多分(たぶん)転職までは考えなかったな」
 高校時代(じだい)は写真()所属(しょぞく)していて、プロの写真家になるのが夢だったという夕介だが、大学時代に自分の才能(さいのう)限界(げんかい)を感じて写真家になる夢をいったん(あきら)めたのだという。
「今思えば、写真家を諦めなきゃならない理由なんてどこにもなかった。ただ、こわかったんだろうな、俺は」
「こわいって、何が?」
「本当に自分にそんな力があるのか、それでやっていけるのか。どこかに所属している方が安心(あんしん)できる、その時の俺はそう思ってた」
「それは、なんかわかるような気がする」
 僕には夢らしい夢すらろくにないから、仕事を選ぶということは所属先を選ぶことだと思っていた。でも確かに、年光さんや夕介のように、自分の力で生きていく選択肢(せんたくし)だってあるんだ。
「でも、年光さんはそういうのを全部(ぜんぶ)かなぐり捨てて自分の夢を()った。カッコいいと思わないか?」
「確かに、カッコいい」
 僕はうなずいた。
「転職の前に年光さんに相談(そうだん)に行ったことがある。一応(いちおう)自分で()めたことなんだが、本当にそれで()っていけるか、正直不安(ふあん)の方が大きかったからな。年光さんは俺の話を最後(さいご)まで全部聞いて、いつものように言ってくれたんだ。『何でも、やってみなきゃわからないだろ』って。お前の思うように思いっきりやってみればいいって背中(せなか)()してくれた」
「それで転職したんだ」
「ああ。収入(しゅうにゅう)はガタ()りしたが、後悔(こうかい)はなかった」
 夕介の顔は満足(まんぞく)げだ。
「去年、その会社も()めてフリーとして独立(どくりつ)したが、その(とき)はもう(まよ)わなかった」
「なんでだよ?」
「年光さんはもうこの()にはいないが、こんな時に年光さんならどう言うか、俺なりにつかんでたからな」
「ふーん……」
 僕にはなんだか夕介がまぶしく(うつ)った。
 ちょっとうらやましかったし、ただの軽薄(けいはく)(やつ)じゃなかったんだとちょっと見直(みなお)した。
「僕はまだ自分が何をしたいのか、自分に何ができるのかがわからない」
 僕は夕介に言った。
「年光さんなら、こんな僕になんて言うかな?」
 夕介はちょっと考えてから僕に答えた。
「それは、自分で考えるしかないな」
「だよな」
 予想通(よそうどお)りだったけど僕は少しだけがっかりした。
「ただ」
 夕介が続ける。
「何でも──」
「やってみなきゃわからない、だろ?」
 その続きは僕の方が先取(さきど)りしてやった。
「わからないならわからないなりにやってみるよ、僕も」
「そうだな。お前にも(かなら)ず何か見つかるさ」
 サングラスの隙間(すきま)から、夕介がなんだかうれしそうに目を(ほそ)めたのがちらりと見えた。


〈第二章終わり〉

第三章 ネンコーさん 〈一〉

 錦美町(にしみまち)(もど)(ころ)にはすっかり(くら)くなっていた。
 宇侘川(うたがわ)猿楽(さるがく)保存会(ほぞんかい)会長(かいちょう)松岡(まつおか)寄与志(きよし)さんの自宅(じたく)は、桐葉荘(とうようそう)の入口から宇侘川(うたがわ)をさらにもう(すこ)(さかのぼ)った(あた)りにあった。
 大きな古民家(こみんか)玄関(げんかん)出迎(でむか)えてくれたのは、七〇(さい)ぐらいの小柄(こがら)ながらも(こえ)の大きな作業服姿(さぎょうふくすがた)男性(だんせい)。この人が松岡会長本人(ほんにん)だった。
「やー、ようおいでましたのぅた、(とお)いところどうもどうもご苦労(くろう)さまです」
「こちらこそお時間(じかん)(つく)っていただきまして、本当(ほんとう)にありがとうございます。はじめまして、写真家(しゃしんか)妹尾(せのお)夕介(ゆうすけ)です」
電話(でんわ)では(なん)べんも(はな)しよったが、実際(じっさい)()うたらなかなかのええ男じゃねえ」
 まず夕介が名刺(めいし)(わた)し、満面(まんめん)()みで迎える松岡さんと握手(あくしゅ)をした。
 (つづ)いて(ぼく)も松岡さんと握手を()わした。松岡さんのがっしりした手が、僕のふにゃふにゃな手をしっかりと(つつ)みこむ。
「まあ(きたな)いとこじゃが、どうぞ上がってつかあさい」
 僕らは(ふと)い木の(はり)堂々(どうどう)たる雰囲気(ふんいき)(かも)し出している客間(きゃくま)(まね)き入れられた。
 大きな古木(こぼく)で作られた座卓(ざたく)(はさ)んで松岡さんに正対(せいたい)する(かたち)で夕介が(すわ)り、僕もその(となり)に座った。
 (おく)さんがお(ちゃ)とお菓子(かし)()いてくれ、僕は緊張(きんちょう)恐縮(きょうしゅく)で、()りてきた(ねこ)みたいに(かた)まっていた。
 松岡さんの隣にはもう一人、メタルフレームの眼鏡(めがね)をかけた三十(だい)ぐらいのおとなしそうな男性が座っている。
今回(こんかい)(はじ)めて舞台(ぶたい)に上がる、稲村君(いなむらくん)じゃ。こちらは写真家の妹尾(せのお)夕介君」
「はじめまして、稲村(のぼる)です。パン()ですが稲村と()います」
 稲村さんがごくごく真面目(まじめ)(かお)でダジャレめいた自己紹介(じこしょうかい)をするのが、なんだか面白(おもしろ)い。
「妹尾夕介です。よろしく」
 稲村さんは座卓()しに夕介と握手を交わし、続いて僕にも握手を(もと)めてきた。
森崎浩司(もりさきこうじ)と言います」
 少し緊張しながら握った稲村さんの手は、やわらかで繊細(せんさい)そうな手だった。同世代(どうせだい)の夕介とは全然(ぜんぜん)(ちが)い、もの(しず)かで実直(じっちょく)印象(いんしょう)の男性。
「さっきまで稽古(けいこ)をしよったもんでな、同席(どうせき)してもらうが、えかろう?」
「ええ、もちろん」
「それにしても、ようこねえな辺鄙(へんぴ)なとこまで取材(しゅざい)()ちゃったですのう」
(むかし)桐葉荘(とうようそう)桐島(きりしま)年光(としみつ)さんとご(えん)がありまして」
「はー、それかね!」
 夕介の(こた)えに松岡さんが相好(そうこう)(くず)した。
「一〇年前、桐葉荘がこちらに開業(かいぎょう)された(とき)から、ずっと懇意(こんい)にさせていただいております。『紫桜(しざくら)』のことも、以前(いぜん)桐島さんに(おし)えていただいたんです」
 夕介はあくまで低姿勢(ていしせい)で松岡さんに(せっ)する。市役所(しやくしょ)の時といい、松岡さんに(たい)する態度(たいど)といい、普段(ふだん)とあまりに違いすぎて(わら)えるくらいなのだが、さすがにそんなことは言えない。
 夕介の言葉(ことば)に、松岡さんは(なつ)かしそうな()みを()かべた。
「はあ(もう)一〇年も前になるんかねえ。桐島のネンコーさんは、なかなかの()わり(もん)じゃったなあ。だいたい、いきなりこんな何もなあ田舎(いなか)に来てから温泉宿(おんせんやど)(はじ)めるなんぞ、そうそうできることじゃなあでの。何者(なにもん)じゃろうか言うてから、わしらも最初(さいしょ)はおそるおそる見よったいね。じゃが、実際(じっさい)()()うてみると、つくづく面白い男じゃった!」
 松岡さんはそう言って呵呵大笑(かかたいしょう)した。
「ネンコーさんがおらんだったら、『紫桜(しざくら)』はとうに途絶(とだ)えとったかもわからん。ネンコーさんにゃあずいぶん(たす)けてもろうてな、役所に行って書類(しょるい)の手続きやらなんやら、わしらが往生(おうじょう)する((こま)る)ようなこともみな手合(てご)して(手伝(てつだ)って)くれたいね。その(ころ)はわしもちょうど世話人(せわにん)()けたばっかりでからな、右も左もわからん中じゃったから、ほんに心強(こころづよ)かった。そのネンコーさんに縁のある人が『紫桜』を紹介(しょうかい)してくれてんじゃけえ、ネンコーさんもあの()(よろこ)んでじゃろうて」
 松岡さんは顔じゅうを(しわ)だらけにして(かた)る。
「ネンコーさ──桐島さんには、僕もずいぶんお世話になりました。Iターンの先輩(せんぱい)でしたから」
「稲村さんも移住(いじゅう)でこちらに?」
「ええ、八年ほど前に広島(ひろしま)から。僕は(つま)一緒(いっしょ)にもう少し川上で『ラ・ヴィ・ベル』というベーカリーカフェを(いとな)んでいます。ここは水がきれいですからね、パン作りにはちょうどいいんです。桐島さんは(みせ)経営(けいえい)広報展開(こうほうてんかい)方法(ほうほう)から、こちらでの生活(せいかつ)(いた)るまで、色々(いろいろ)とアドバイスをしてくれました。『パン屋ですが稲村です』というフレーズも、桐島さんの提案(ていあん)ですよ。僕と違ってすごくエネルギッシュで、ちょっと変わった人でしたね」
 稲村さんは少しはにかんだような表情(ひょうじょう)をしながら言う。
「ええ、だいぶ変わった人だったと(おも)いますよ」
 夕介は稲村さんにそう(かえ)して()を見せて(わら)った。
「早くに()くなられたのが、かえすがえすも残念(ざんねん)です」
 稲村さんがぽつりとこぼす。
「そういのー、わしらの後継者(こうけいしゃ)としてネンコーさんほど(たの)もしい者はおらんかったし、山代(やましろ)全体(ぜんたい)を、もっともっと元気(げんき)にできる力を()っちょった。ほんに、残念じゃったなあ。生きとったら今頃(いまごろ)何をしでかしよったか。まだまだやりたいことは、ようけ(たくさん)あったろうになあ」
 松岡さんは(うで)()んでうなった。
「あの……」
 僕はおずおずと松岡さんに(たず)ねた。
「みんな年光さんをネンコーさんって()んでたんですか」
 昨日(きのう)()ったタクシーの青笹(あおささ)さんも、年光さんのことをネンコーさんと呼んでいた。
「ほうよ、としみつを音読(おんよ)みして、ネンコーさん。(だれ)が言い出したんじゃったかの、言いやすいもんじゃけ、猿楽(さるがく)仲間内(なかまうち)じゃ今でもみなネンコーさんいうて呼んどる。本人も気に入っちょったみたいじゃしな」
「みんなに(した)しまれた人だったんですね」
 僕の素朴(そぼく)感想(かんそう)に、松岡さんは大げさなくらいうなずいた。
()の者よりもよっぽどここを()いちょったし、じゃけえ(ねつ)うにあれこれ面白いことを(かんが)えちゃあ、すぐにやってみよったなあ。全部(ぜんぶ)が全部上手(うも)ういったわけじゃなあが、だんだんに本気(ほんき)じゃいうのがわかったけえ、わしらもいつの()にかネンコーさんに()()まれちょった。あねえな者はなかなかおらんて」
 松岡さんはにこにこしながら僕にそう語る。
「僕を猿楽保存会に(さそ)ってくれたのも、ネンコーさんですよ。その方が早く地元(じもと)()け込めるからって」
 稲村さんもうれしそうにつけ(くわ)えた。
「そうじゃったなあ、わしらみたいな年寄(としよ)りだけじゃあ、よう誘わんかったかもわからんな」
「僕、けっこう人見知(ひとみし)りだったんで、誘ってもらえてよかったです。おかげでこの土地(とち)にも早くなじむことができましたし」
 年光さんはよそ者だったのに、色々な人に大きな影響(えいきょう)(あた)えたようだ。エネルギッシュで、積極的(せっきょくてき)で、どんどん人を巻き込んでいく。僕にはない要素(ようそ)ばかりだ。
「ところで、猿楽『紫桜』についてうかがいたいのですが」
 夕介が本題(ほんだい)()り出した。
伝統(でんとう)のある郷土芸能(きょうどげいのう)とうかがっていますが、いつ頃から続いているかは、(じつ)(さだ)かでないとか?」
 松岡さんは腕を組んでうなずいた。
文献(ぶんけん)にゃあ江戸時代(えどじだい)初期(しょき)にはあったと()いてあるらしいがの、誰が何のために(はじ)めたんか、地元でもようわかっちゃおらんのじゃ、これが」

 松岡さんによると、猿楽『紫桜』が奉納(ほうのう)される宇侘八幡宮(うたはちまんぐう)大分(おおいた)宇佐(うさ)八幡に勧請(かんじょう)して分社(ぶんしゃ)したのが十六世紀(せいき)前半(ぜんはん)室町時代後期(むろまちじだいこうき)、ちょうど大内氏(おおうちし)治世(ちせい)だ。
『紫桜』は沓掛合戦(くつかけかっせん)題材(だいざい)になっているから、創作(そうさく)された時期(じき)安土桃山(あづちももやま)時代から江戸初期(しょき)ではないかと推測(すいそく)されているが、誰が何の目的(もくてき)(はじ)めたのかは(まった)くわかっていない。宇侘(うた)八幡宮と杉山(すぎやま)氏にも、直接(ちょくせつ)関係(かんけい)はない。
 この辺りは江戸時代に入ってからは三(まん)五千(ごく)岩代藩(いわしろはん)となり、毛利(もうり)氏の分家(ぶんけ)吉川(きっかわ)氏が(おさ)めていた。
 現在(げんざい)、地元の郷土史家(きょうどしか)(あいだ)(もっと)有力(ゆうりょく)仮説(かせつ)は、かつて敵対(てきたい)した杉山氏に対して、吉川氏がその鎮魂(ちんこん)()を込めて宇侘八幡宮に能装束(のうしょうぞく)を奉納したのが始まりではないかとされている。
 しかし、ではなぜ杉山氏の居城(きょじょう)のあった荷駄盆地(にだぼんち)ではなく、(とお)(はな)れた深津峡(ふかつきょう)の宇侘八幡宮なのか、という説明(せつめい)がつかない。
「だいたい、近辺(きんぺん)じゃあ神楽(かぐら)ばかりじゃしなあ」
 当事者(とうじしゃ)なのに、松岡さんもそう言って(くび)をかしげる。
 猿楽『紫桜』は、舞台上(ぶたいじょう)(うたい)(ふえ)(つづみ)の音に合わせて仮面(かめん)をつけた演者(えんじゃ)()うという基本(きほん)的な形式(けいしき)(おな)じながら、能楽(のうがく)常識(じょうしき)から(はず)れている(てん)がいくつかあるという。
 まず、専門集団(せんもんしゅうだん)による伝承(でんしょう)ではないこと。
 能楽は主役側(しゅやくがわ)()()つシテ(かた)(わき)役側のワキ方、演奏(えんそう)を受け持つ囃子(はやし)方……というように、役割(やくわり)ごとにいくつかの演能流派(えんのうりゅうは)()かれ、それぞれが専門的な技能(ぎのう)集団として伝承を(おこな)っている。
 中世(ちゅうせい)において形成(けいせい)された「()」が現在も形を変えて()()がれているわけだが、『紫桜』は「野良(のら)猿楽」とも言われ、神楽と同様(どうよう)一般(いっぱん)庶民(しょみん)によって伝承されてきた。
 宇侘川猿楽保存会にも形式(けいしき)上三つの「座」と呼ばれる集団があるが、これは役割とは()関係で、三(まく)物語(ものがたり)をそれぞれで(えん)じるためだけに便宜上(べんぎじょう)グループ()されているだけなのだという。
 (たと)えば、ワキ方がシテを演じるということは普通(ふつう)ないのだが、ここではそういう垣根(かきね)もない。事実(じじつ)、稲村さんは今回(こんかい)別々(べつべつ)(きょく)でワキとシテ、両方(りょうほう)を受け持つそうだ。
 番組(ばんぐみ)構成(こうせい)固定(こてい)されていて、『紫桜』というのはこの奉納曲全体(ぜんたい)()題号(だいごう)なのだという。
 現代(げんだい)の能楽では舞囃子(まいばやし)から始まって、曲の()り上がるところだけを舞う仕舞(しまい)を二・三曲、滑稽(こっけい)ものの狂言(きょうげん)(はさ)んでからメインイベントの能を一曲、という番組構成が一般的だそうだ。『紫桜』はすべて(とお)して演じると五時間(じかん)()える大作(たいさく)で、室町時代の上演形態(じょうえんけいたい)(ちか)いとされている。ただ、あまりに(なが)いのでいつの頃からか二日(ふつか)に分けて上演されるようになったらしい。
 題材(だいざい)についても(なぞ)(おお)い。
 夕介が言っていたように、能楽は古典文学(こてんぶんがく)仏教説話(ぶっきょうせつわ)などの著名(ちょめい)な物語から題材が()られることが多いなか、ほとんど()られていない戦国時代の局地戦(きょくちせん)下敷(したじ)きに、一から創作されていることはその中でも最大(さいだい)の謎だ。
 意外(いがい)なことに、能楽には創作(げき)はほとんどないのだそうだ。

不思議(ふしぎ)と言われりゃあ(たし)かに不思議なことじゃが、わしらはずっとこれが()たり前じゃと思うちょったからなあ」
「地元の人以外(いがい)が知る機会(きかい)が、これまであまりなかったからでしょうね」
 それにしても、夕介は松岡さんからするするとこれだけの(はなし)()き出して見せた。
 写真家のくせにインタビューまでこなすとは。
 夕介のやけに自信満々(じしんまんまん)な態度も、あながち根拠(こんきょ)のないものではないのかもしれないとちょっとだけ思った。あくまでちょっとだ。

本日(ほんじつ)は奉納前夜(ぜんや)のお(いそが)しいところ、お時間をいただきありがとうございました。また追加(ついか)でお話をうかがうかもしれませんが、その(さい)にはまたよろしくお(ねが)いします」
 夕介は松岡さんと稲村さんにていねいに取材の(れい)を言い、僕らは(せき)を立った。
明日(あした)は『桜堤(さくらづつみ)』から始まって、『寂水(じゃくすい)』、『乙女淵(おとめぶち)』を()りますでの。明後日(あさって)がお稚児(ちご)舞と『霊山(りょうぜん)』になります」
 玄関(さき)で見(おく)りながら松岡さんがさらりと言ったが、『霊山(りょうぜん)』というのは初耳(はつみみ)だ。僕は思わず声を上げた。
「『紫桜』は三つじゃないんですか?」
「いいや、四つじゃ。初日(しょにち)の三つはめいめい(それぞれ)の座で、『霊山』は(みな)で演るのが『紫桜』の(むかし)からのならわしでな」
「僕はその『霊山』でシテを(つと)めるんですよ」
 松岡さんと稲村さんが意外そうな顔で教えてくれた。
 午前中(ごぜんちゅう)車の中で夕介に教えてもらった物語は三つだ。
 なんで教えてくれなかったんだよ、と僕が夕介を()()めると、夕介もあるのは知っていたが、前回(ぜんかい)の時は仕事(しごと)都合(つごう)()ることができなかったらしい。だから夕介もあらすじを知らない、というわけだ。なんだ、知らないなら知らないと言えばいいのに、カッコつけやがって。
 松岡さんによると、室町時代の猿楽には座ごとに演目(えんもく)出来(でき)(きそ)()う「立合(たちあい)」という風習(ふうしゅう)があったそうで、初日にそれぞれの座で演じるのはその名残(なごり)ではないかという説もあるそうだ。『霊山』では座の垣根を越えて、(とく)(すぐ)れた演者を選抜(せんばつ)して演じるのだという。
「『霊山』は圧巻(あっかん)じゃけえな、今回はじっくり観たってつかあさいや」
 松岡さんがにこやかにそう言って夕介の(かた)をぽんぽんと(かる)くたたいた。
「ええ、(たの)しみにしていますよ」
「はは、こら気合(きあい)入れんといかんの。あとからまた寄合(よりあい)があるけえ、皆にもよう言うちょこう。もっとも、半分(はんぶん)はこれじゃがな」
 そう言って松岡さんは右手で夕介と握手しながら、左手で(さかずき)()けるしぐさをした。夕介もそれに(おう)じてにっと笑った。
「明日は(あさ)から支度(したく)じゃけえ、そんとに()めやせんがね。は、は、は」
 続いて、僕も松岡さんと握手する。松岡さんの手の(あたた)かさがじんわり(つた)わってくる。
「明日の支度って、どんなことがあるんですか?」
 僕は二人に尋ねてみた。
「舞台を(しつら)えたり、装束とか舞台道具(どうぐ)(はこ)び込んだり、(こま)かいところでは掃除(そうじ)とか……やることはいくらでもありますよ」
 稲村さんが丁寧(ていねい)に教えてくれる。まじめそうな風貌(ふうぼう)とメタルフレームの眼鏡のせいもあって、なんだか学校の先生のようだ。
 僕は、一呼吸(ひとこきゅう)置いてから思い切って切り出した。
「あの、僕にも何か手伝えることはないですか?」
 隣で夕介が意外そうな顔をしたが、すぐににやりとした。
「そりゃあ、若いもんがおってくれりゃあ助かるが、あんたぁええんかいの?」
「ぜひやらせてください!」
 僕は即答(そくとう)した。(よこ)から夕介も口を挟む。
「松岡さん、(おれ)からもお(ねが)いします。コイツ、俺の臨時(りんじ)のアシスタントなんですが、まだ半端(はんぱ)者なんで、色々と(きた)えてやっていただけませんか?」
「そしたら、せっかくじゃけえ(たの)もうかの。(あさ)の九時半に宇侘八幡宮集合(しゅうごう)じゃけえ、ひとつよろしゅう頼みます」
 松岡さんは快諾(かいだく)してくれた。
「よろしくお願いします!」
 僕は松岡さんと稲村さんに()かって思い切り(あたま)を下げた。

第三章 ネンコーさん 〈二〉

「どうしたんだよ、お(まえ)。ヤケにはりきってるじゃねえか」
 湯船(ゆぶね)につかった夕介(ゆうすけ)がにやにやしながら(ぼく)(たず)ねてくる。
(べつ)にいいだろ。何でもいいからなんかやってみたくなったんだよ」
 僕は(からだ)(あら)いながら(こた)えた。
年光(としみつ)さんの、何でもやってみなけりゃわからない、を実践(じっせん)しようと(おも)っただけ」
「ふふん、いい(こころ)がけだな」
 どうしてこう夕介が何か()うと上から目線(めせん)になるのか。もう(すこ)(ほか)の言い(かた)だってあるだろうに、これはもうある(しゅ)才能(さいのう)かもしれない。
 僕はシャワーで(あわ)を洗い(なが)した(あと)、手(おけ)にはった湯を(あたま)からがばっとかぶった。
「ふー」
 ()れた(かみ)(うし)ろに流しながら思わず(こえ)が出る。
 今日(きょう)一日であちこちに行って、何人もの人と()って、ちょっと(つか)れたのは(たし)かだが、なんだか心地(ここち)いい。
「今日こそは露天風呂(ろてんぶろ)堪能(たんのう)するぞー!」
 僕は雄叫(おたけ)びをあげると、()()()けて(そと)へ出た。
 (あたた)まった体にひんやりした夜風(よかぜ)()たって気持(きも)ちいい。
 女将(おかみ)さんが言っていた(とお)り、(けっ)して(ひろ)いわけではないが、大きさの(ちが)天然石(てんねんせき)()み合わせた湯船に、(たけ)で組まれたあずまやが一部(いちぶ)(おお)う露天風呂は、なかなか()った(つく)りだ。
 小さな石庭(せきてい)()こうには手入れされた竹林(ちくりん)が見える。(あか)るければ(とお)くの山々(やまやま)もよく見えるだろう。
 僕は思い()開放的(かいほうてき)気分(きぶん)になる。
「おー、スゲエ!」
 僕は単純(たんじゅん)きわまりない感想(かんそう)を口にした。
「まったく、(ほか)言葉(ことば)はないのかよ、発想(はっそう)(まず)しい(やつ)だな」
 ()なくてもいいのに夕介も露天風呂にやってきて余計(よけい)なことを()く。
「いいじゃないか、思ったことを素直(すなお)に口にしただけだよ」
 せっかくのいい気分も一気(いっき)半減(はんげん)だ。
 が、湯船につかればそんなことはどうでもよくなる。
 しばらくそのまま空を(なが)めていると、日中(にっちゅう)の疲れがじんわりと湯に()け出していくようだ。
 夕介もタオルを頭に()せ、目をつぶっている。
「な、(だれ)もおらんじゃろ?」
 カラカラと引き戸が開く音がして、(かべ)(へだ)てた向こう(がわ)……つまり女湯の方から声がした。
「にひひ、ちゃあんと宿帳(やどちょう)確認(かくにん)しちょいたんじゃけ! ぬかりないじゃろー、うち?」
「そうね、ほんとに、こういうことにだけは知恵(ちえ)(はたら)くんだから」
 もう一人の声もする。どちらも聞き(おぼ)えのある声だ。
「あー、やっぱ(うち)の風呂とはちがうわあ、足()ばせるんが最高(さいこう)!」
 この声の(ぬし)果林(かりん)ちゃんだ。
「ふふ、ちっちゃい果林でもそんな(ふう)に思うんだ」
 こっちは水菜(みずな)さん。
「ちっちゃいはよけいじゃろー! みず(ねえ)ってスタイルはええかもしれんけど、性格(せいかく)はほんっとにサイアクよね」
「そんなことないでしょ? こんなに(やさ)しいお姉さん、なかなかいないよぉ?」
「あはは、自分(じぶん)でそんとなこと言うかねー?」
 僕は思わず声を上げそうになったが、夕介がにやつきながら人()(ゆび)を口に当てて(だま)ってろというジェスチャーを(おく)ってくる。
 (ぬす)み聞きは僕の趣味(しゅみ)じゃないが、しかたなしに僕は黙っていることにした。
「なーなー、みず姉はなんでカレシ作らんの?」
「だって(べつ)()しくないもん」
「えー、なんでー? せっかくキレイに生まれたんじゃけえ、もっと(たの)しく生きりゃあええのにから。もしうちがみず姉じゃったら、もうウハウハじゃけどなあ」
「果林て、時々(ときどき)おっさんみたいだよね」
「おっさんじゃなーい! 現役(げんえき)女子高生ですぅー」
「いーや、中身(なかみ)絶対(ぜったい)おっさん! 純粋(じゅんすい)にエロでできたおっさん!」
「こーんなかわいい美少女(びしょうじょ)をおっさんだなんて、みず姉ひどいー!」
「あはは、ひどくなんかないよぉ、真実(しんじつ)指摘(してき)してるだけ」
「むー、みず姉処女(しょじょ)のくせに!」
「処女は関係(かんけい)ないでしょ! 果林だって処女じゃない!」
「でも、うちはカレシおるもーん! ぼっちのみず姉に言われたくないですぅ!」
 こっちで男二人が聞き耳を立てているとも知らずに、姉妹(しまい)はあけすけなガールズトークを全面(ぜんめん)展開(てんかい)している。
「なーなー、浩司(こうじ)さんとかはどんな? 見た感じ、けっこうええんじゃないん?」
 僕は思わず全身(ぜんしん)を耳にする。
「えー、森崎(もりさき)さん? んー、そうだな、ちょっと(たよ)りなさそうかな。頭はいいかもしれないけど、わたしはあんまりタイプじゃないなぁ」
 あっさりと一蹴(いっしゅう)されて、がっくり力が()ける僕。
 いや、ちょっとでも期待(きたい)した僕がアホだった。そもそも水菜さんみたいにきれいな人が、僕みたいな男を相手(あいて)にするわけがない。
 夕介が声を立てないようにして(わら)っている。くそ、なんて残酷(ざんこく)現実(げんじつ)
「そうやって()(ごの)みするけえ、ハタチ()ぎてもぼっちなんよぉ! ()よ処女卒業(そつぎょう)しんさいや」
「だから、わたしはそういうのはいいの!」
「にひひ、こんなに美乳(びにゅう)なのにねえ……」
「ちょ、果林! どこさわってんの!」
「う~ん、キレイな美乳じゃけど、どっちかっちゃあ、こまい(小さい)方の微乳(びにゅう)かも♪」
「コラ、この! そっちなんか貧乳(ひんにゅう)のくせに!」
「ひゃっ、こそばい(くすぐったい)! あはは、ちょ、やめ……みず姉! あひゃひゃ!」
 壁の向こうからぱちゃぱちゃとお湯のはねる音が聞こえる。
 僕は壁の向こうで()り広げられているであろう光景(こうけい)妄想(もうそう)した瞬間(しゅんかん)、えーと、諸事情(しょじじょう)により湯船から出ることができなくなった。
「おーい、全部(ぜんぶ)聞こえてるぞー」
 ここで夕介がいかにもおかしそうに声を上げた。
「げ、夕介!」
 果林ちゃんが(さけ)ぶ。
(おれ)だけじゃない、森崎もいるぜ」
「森崎さんも、聞いてたんですか?」
 水菜さんが()え入りそうな声を上げた。
「……すいません」
 僕も消え入りそうな声で(こた)えた。
「えー、いつから聞いとったん? もう、(しん)じれーん!」
最初(さいしょ)っから全部」
「ぎゃー、おっさんサイテー、ヘンタイ、セクハラー!」
「セクハラも何も、お前らが勝手(かって)にペラペラしゃべったんだろーが」
 夕介が果林ちゃんに反論(はんろん)する。
 いや()て、僕にまで黙ってろって指図(さしず)したのはアンタだ!
「あー、セクハラしたくせにうちらのせいにしよる! エロ夕介のバカぁ!」
 果林ちゃんが大声で夕介をなじる。夕介はあいかわらずにやにやしている。
「あっ、コラ! お前、何そんなとこよじ(のぼ)ってんだよ! やめろって」
 突然、夕介が(みょう)なことを言いだした。僕は諸事情により湯船から出ることができないっつーの!
「うぎゃー、浩司さんがのぞきに来るぅ! みず姉、浩司さんにそのキレイなカラダ見したげんさいや!」
「ちょっと、果林! なに言って……」
 果林ちゃんはムチャクチャなことを言ってけたけたと(わら)(つづ)け、水菜さんの声はだんだん小さくなって途中(とちゅう)途切(とぎ)れてしまった。
「おい、何いいかげんなこと言ってんだよ! 登ってねえって!」
 僕は湯船に身を沈めたまま叫んだ。
 あー、僕の諸事情は、うー、(まった)改善(かいぜん)される兆候(ちょうこう)がない。マッタク、男ってヤツはなんでこうなんだろう。
「コラ! 水菜、果林!」
 突然(とつぜん)引き戸がガラッと開く音がして、女将さんの声が(ひび)いた。
「げ、(かあ)さん!」
 果林ちゃんが悲鳴(ひめい)を上げた。
「もう、あんたたちは! こっちのお風呂には入るなってあれだけ言ってるのに!」
「ふええ、ごめんなさいっ! でも母さん、なんでわかったの?」
 水菜さんも小さくなっているようだ。
「ふっふっふー、(はは)をナメたら、いかんぜよっ!」
 女将さんがそう言うやいなや、壁の向こうからは水が(いきお)いよく()き出す音が聞こえた。
()やっ! マジ冷やっ! あわわ、母さん反則(はんそく)! 水は反則っ!」
「あっはっはー、これでもくらえー♪」
(つめ)たっ、風邪(かぜ)ひく! 母さんやめてぇ!」
「やめませーん♪」
 どうやら女将さんはホースで水をまいているらしい。
 女将さんの声は(あき)らかに面白(おもしろ)がっている。
「あれだけぎゃーぎゃー(さわ)いでればわかるだろ、フツー」
 夕介が苦笑(くしょう)している。
 僕はもう、(かお)全体(ぜんたい)(あつ)くて何も言えなかった。

第三章 ネンコーさん 〈三〉

 座敷(ざしき)(かお)を出すと、(すで)(べつ)宿泊客(しゅくはくきゃく)食事(しょくじ)をしていた。
「こんばんは」
「あ、どうも、こんばんは」
 七〇(だい)ぐらいの白髪(はくはつ)上品(じょうひん)なご婦人(ふじん)(ぼく)にあいさつをしてくれたので、僕もそれに(こた)えた。(となり)(すわ)同年代(どうねんだい)のロマンスグレーの男性(だんせい)会釈(えしゃく)()けてくれた。
 どうやらご夫婦(ふうふ)らしい。
「こんばんはー」
 (おく)れて入ってきた夕介(ゆうすけ)もあいさつをした。
「こんばんは。おやおや、今日(きょう)(わか)い人が二人も()まってるのか」
 今度(こんど)はご主人(しゅじん)の方が(こえ)を上げた。
「それでなんだかにぎやかなんですねえ」
 (おく)さんが(おだ)やかな笑顔(えがお)で夕介を見ながら言った。
「すみません、(さわ)がしかったですか?」
 夕介は(あたま)をかきながら(たず)ねた。
「いいえ、騒いでたのは果林(かりん)ちゃんと水菜(みずな)ちゃんでしょ。さっきちょっと顔見せてくれたけど、あの子たちもずいぶん大きくなったものねえ」
「若い人たちはいいね、元気(げんき)があって」
 (ろう)夫婦はにこにこしながら(はな)してくれる。
「あなたがたは観光(かんこう)で?」
 奥さんが夕介に質問(しつもん)した。
「いえ、(おれ)仕事(しごと)です。コイツはただの(ひま)つぶしですが」
「暇つぶしってなんだよ!」
「うふふ、ほんとに元気ねえ」
 僕らのやり()りを見て奥さんが穏やかに(わら)う。
「お仕事は何を?」
 ご主人が興味深(きょうみぶか)そうに夕介に(たず)ねた。
写真家(しゃしんか)です。明日(あした)の夕方から、宇侘八幡宮(うたはちまんぐう)猿楽(さるがく)紫桜(しざくら)』という(めずら)しい郷土芸能(きょうどげいのう)奉納(ほうのう)されるので、それを取材(しゅざい)に来ました」
「僕もそれを()に来たんです。暇つぶしなんかじゃありません」
 僕もがんばって会話(かいわ)(くわ)わる。
「ほう、そんなのがあるのか。だったら一日ずらせばよかったな」
「お二人は観光ですか?」
 夕介がご主人に尋ねた。
「そうだね、僕らは観光というよりは湯治(とうじ)みたいなもんかな。毎年(まいとし)(かい)はここに泊まりに来ることにしててね」
「今年でもう七回目ですかね。いつもよくしてくださるから、ゆっくりさせてもらうのよ」
「僕の(ふる)友人(ゆうじん)が、いい宿(やど)だから是非(ぜひ)()行ってみるよう(すす)めてくれてね。それからずっとファンになったんだよ」
 ご夫婦の話を聞いていると、女将(おかみ)さんともう一人、四十代(なか)ばから五十代ぐらいのふくよかな仲居(なかい)さんが座敷に入ってきて、僕らの食事の準備(じゅんび)(はじ)めてくれた。
 仲居さんは二時間(にじかん)サスペンスによく出演(しゅつえん)している個性派女優(こせいはじょゆう)にどことなく雰囲気(ふんいき)()ている。
鈴木様(すずきさま)、先ほどは大変(たいへん)失礼(しつれい)しました。どうもお騒がせをいたしまして」
「いやいや、にぎやかなのもいいもんですよ」
「そうそう、家庭的(かていてき)な雰囲気がこちらのいいところですからね」
 女将さんがお()びを言ったが、鈴木夫妻(ふさい)はずっとにこにこしている。
(もう)(わけ)ございません、本当(ほんとう)恐縮(きょうしゅく)です」
「とか言いながら、(らん)さんもけっこう(たの)しそうでしたよ」
 夕介がいらない茶々(ちゃちゃ)を入れた。
「うふふ、そうでしたか? でも、(ぬす)み聞きはあまりいい趣味(しゅみ)じゃないですね、夕介さん」
 ぴしゃりと逆襲(ぎゃくしゅう)する女将さん。さすがだ。
「まいったな……」
 夕介はばつの(わる)い顔で(あたま)をかいている。あれだけ口の悪い夕介だが、女将さんに(たい)しては絶対(ぜったい)乱暴(らんぼう)なことは言わない。
 手際(てぎわ)よくお(ぜん)()えられ、僕らも食事を始めた。
「今日は猪肉(ししにく)が入りましたので、ぼたん(なべ)でございますよー。(ぶた)肉よりも弾力(だんりょく)がありますが、風味(ふうみ)抜群(ばつぐん)ですのでお楽しみください」
 仲居さんがお膳の上に()かれた簡易(かんい)コンロの固形燃料(こけいねんりょう)に火をつけながら説明(せつめい)してくれた。
「おおー!」
 僕は(おも)わず声を上げた。
「なんかぜいたく()ぎて、僕みたいのにはもったいないです」
「だな、お(まえ)には牛丼(ぎゅうどん)の方がお似合(にあ)いだ」
「よけいなお世話(せわ)だ! アンタだって()(とり)の方がお似合いじゃないか」
 僕らのやりとりを見て女将さんも仲居さんも、鈴木夫妻までもがくすくすと笑っている。
「お()み物はいかがいたしますか?」
「じゃ、ビールを」
「僕も!」
 そうそう、今日一日分はきっちりいただかないと。
「では桑田(くわた)さん、ビールを二本、お(ねが)いしますね」
「はい、すぐにお持ちします」
 桑田さんと()ばれた仲居さんがいったん厨房(ちゅうぼう)(もど)る。
 ビールが来て金色(きんいろ)液体(えきたい)を一口(ふく)むと、文字通(もじどお)身体中(からだじゅう)()みるようなうまさ!
 僕は今日一日何をしたわけでもなく、ただ夕介にくっついて(まわ)っただけだが、やっぱり仕事の(あと)のビールは格別(かくべつ)だ。
「くーっ!」
 思わず声が出る。
「お前、半人(はんにん)前のくせに()み方だけはいっちょ前だな」
 また夕介にバカにされたが、この(さい)そんなのどうでもいい。
森崎(もりさき)さん、本当(ほんとう)美味(おい)しそうに()し上がりますね。見ているこちらまでうれしくなります」
 女将さんがうれしいことを言ってくれる。
 僕はヒラメの刺身(さしみ)から(はし)をつけた。
 上品(じょうひん)(あじ)が弾力ある食感(しょっかん)とともに口の中に広がる。
 学生の僕にはちょっとぜいたくすぎる気がするが、やっぱり美味(うま)いものは美味い。
「うちらの若い(ころ)は、ビールはイッキ飲みが当たり前じゃったですけど、今の若い人らはそんとなことせんでしょう?」
 桑田さんが僕に尋ねたが、僕は「イッキ飲み」というのがどんなものなのか、よくわからない。
「イッキ飲みって、何ですか?」
「ふえー、ショック! その言葉(ことば)自体(じたい)がわからんの? 女将さん、どう思います?」
「ふふ、しょうがないよね、私たちとは時代(じだい)(ちが)うもん」
 女将さんは桑田さんにほほ()んだ。
「あー、でもなんかぶち年()ったみたいで、ショックじゃわー」
 桑田さんは(りょう)手を(ほお)()てて顔を(くも)らせる。
 その様子(ようす)を見ていた鈴木の奥さんが声を立てて笑った。
「うふふ、だいじょうぶよ、桑田さん! 私たちよりは全然(ぜんぜん)若いんだから!」
 その一言で座敷にみんなの笑いが(はじ)けた。

「そういえば、今日は市役所(しやくしょ)でちょっと意外(いがい)出会(であ)いがありましたよ」
 夕介が女将さんにそう言ってからビールを口に含んだ。
「出会い、ですか?」
年光(としみつ)さんの名刺(めいし)が出てきたんですよ」
「年光の?」
 女将さんが一瞬(いっしゅん)(とお)い目をした。
「猿楽『紫桜(しざくら)』の無形文化財登録(むけいぶんかざいとうろく)の時の書類(しょるい)を見せてもらったんです。その時に、書類の(あいだ)から、ぽろっと」
「あら、(なつ)かしい。(わたし)たちもいただいいたわね、その名刺」
「ああ、あの若葉色(わかばいろ)の名刺か。うん、なかなか()った名刺だったね。珍しいから僕もよく覚えてるよ」
 鈴木夫妻もうなずいている。
(たし)かに、一回見たら(わす)れられないデザインですよね」
 僕だってそんなにたくさんの名刺を見たことがあるわけではないが、個性的でセンスのある名刺だということぐらいはわかる。
「そういえばあの名刺、出来上がるまで大変だったんですよ」
 夕介の三杯目(ばいめ)のビールを(そそ)ぎながら女将さんは思い出し笑いをしている。
「何回も何回も試作(しさく)を重ねて、それでも年光はなかなかうんと言わんのです。あの人、(へん)なとこ頑固(がんこ)でしたから。やれ、色が気に入らないだの、エンボス加工(かこう)はもっとこうしろだの。あんまり年光の注文(ちゅうもん)(こま)かいもんじゃから、最後(さいご)には印刷屋(いんさつや)さんも、もうこれで勘弁(かんべん)してくれ~って()を上げて」
 女将さんは印刷屋の声色(こわいろ)まで真似(まね)して(かた)る。
()(しょう)じゃったですからね、あの人」
「あー、確かに。時々ついていけんことがありましたねー」
 桑田さんも女将さんに同調(どうちょう)する。
「なんでそこまでこだわるのか、私には全然わからんようなところに、(みょう)にしつこかったりするの。そのくせ無頓着(むとんちゃく)なとこは本当に無頓着で、若い頃はそれでようけんかしたんですよ」
「ええ? 女将さんでもけんかなんかするんですか?」
 にこにこしながらそんなことを言う女将さんはとてもそうは見えなくて、僕は思わず聞いた。
「夫婦と言っても、所詮(しょせん)他人(たにん)ですもの。色々ありますよ」
「そうそう、そんなもんなのよ。ね、あなた」
 鈴木の奥さんが隣に座っているご主人をちらりと見ながら僕に言う。ご主人の方も苦笑(にがわら)いしながらうなずいている。
 夫婦ってそんなもんなのだろうか。奥さんどころか彼女(カノジョ)すらいない僕には、いまいちピンとこない。
「今は、私も(おな)じデザインの名刺を使(つこ)うてます。年光のこだわったものって、不思議(ふしぎ)と人の印象(いんしょう)(のこ)るんですよ、なんだか(くや)しいですけどね。ほんとに、つくづく変な人でした」
 女将さんは茶目(ちゃめ)っけたっぷりにそう言った。
「そういえば、年光さんにとっては、『変な人』っていうのは()め言葉だったなあ」
 夕介はビールの(あわ)を見つめながらしみじみと言う。
「変な人って言われて(よろこ)んでる時点(じてん)で、既に変な人ですよね」
 ふふっと女将さんが笑う。
 年光さんはそれだけ個性的な人だったということなのかもしれない。
「あの、女将さん」
 僕はいったん箸を休めて女将さんに聞いた。
「年光さんの写真ってありますか?」
「ありますよ。ご(らん)になりますか、森崎さん?」
「見たいです。なんだか色々と話を聞いてるうちに、年光さんって一体どんな人なのか、すごく興味がわきました」
「じゃったら()ってきますね。ちょっとお()ちください」
 そう言うと女将さんはすっと立ち上がって座敷から出ていった。
「はは、桐島君(きりしまくん)()んでからもモテるなあ」
 鈴木さんのご主人がいかにも楽しそうに笑った。
「そうね、私たちも(はじ)めてお会いしてすぐに桐島さんのファンになったものね」
老若男女(ろうにゃくなんにょ)()わず、年光さんのファンは(おお)かったですよ、会社(かいしゃ)(づと)めの頃から。俺だってその一人かもしれません」
「お客様にも、()くなられたことを()らんといらしてから、びっくりされる方が、今でも時々おられます。本当にファンの(おい)いかたでした」
 夕介たちの会話を聞きながら、僕はなんだか不思議な気分(きぶん)だった。年光さんは五年も前に死んでしまったから、僕が今から年光さんに会うことなんてできないのに、なぜだかすごく身近(みぢか)(かん)じる。
「お待たせしました」
 女将さんが小さな写真立てを持って戻ってきた。
「これが私の主人、桐島年光です」
 黒縁(くろぶち)の写真立ての中から精悍(せいかん)中年(ちゅうねん)の男性が、満面(まんめん)の笑みで僕を見つめていた。
 この人が年光さんか。
 カッコいいおじさんという印象だが、(すこ)し下がり気味(ぎみ)の目じりのおかげで(やさ)しい雰囲気(ふんいき)(はな)っている。ああそうか、この目は水菜(みずな)さんと一緒(いっしょ)なんだ。
「いつもカウンターの内側(うちがわ)()いちょるんです。すごくいい笑顔(えがお)でしょ? こう見えてもこれ、遺影(いえい)なんですよ」
 女将さんが笑いながら僕に言った。
生前(せいぜん)に年光が自分で(えら)んだんです、これがいいって。遺影にするんだからもっと真面目(まじめ)な顔の写真にすればええのにってその時は思ったんですけど、やっぱり、これでえかったんじゃなあと、今は思います。あんまりにもあの人らしいけえ」
 女将さんが少しさびしげな微笑(びしょう)()かべた。
「なんだかすごく優しそうな人ですね、話に聞いているとおりだと思います」
 僕は写真から()けた印象を素直(すなお)に言葉にした。
「うふふ、一緒におるとあんまりそうは思わんかったですよ。むしろわがままな子どもみたいな人で」
 女将さんはいたずらっぽくほほ笑んで続けた。
「だからこそ、いつもわくわくどきどきさせてくれたんですけどね」
 僕はもう一度年光さんの遺影を見つめた。
 広告代理店(こうこくだいりてん)第一線(だいいっせん)でバリバリと仕事をしていたのに、突然(とつぜん)それをなげうって温泉宿(おんせんやど)(はじ)めてしまう破天荒(はてんこう)人物(じんぶつ)
 (ゆめ)(かた)るだけじゃなくて、それを(ねば)(づよ)実現(じつげん)する強い意志(いし)を持った男。
 なぜか色々な人から()かれ、周囲(しゅうい)の人をあっと言わせつつも、いつの()にか自分のペースに()()んでしまう、不思議な魅力(みりょく)を持った人。
 これから自分(じぶん)がどこに()かえばいいのかわからず(みち)(まよ)っている僕には、年光さんの笑顔がとてもまぶしく見える。
「カッコいいよな……」
 僕は思わずつぶやいた。

第三章 ネンコーさん 〈四〉

 部屋(へや)(もど)ってからも、(ぼく)はしばらく年光(としみつ)さんのことが(あたま)から(はな)れなかった。
 夕介(ゆうすけ)は部屋に戻って昼間(ひるま)(あつ)た資料(しりょう)()()むというし、鈴木(すずき)夫妻(ふさい)も部屋に戻ってゆっくりされるということだったから僕も自分(じぶん)の部屋に戻ったが、やることがない。
 テレビもつけず、布団(ふとん)の上にごろりと仰向(あおむ)けになって天井(てんじょう)蛍光灯(けいこうとう)をにらむ。
 僕は、満面(まんめん)()みをたたえた年光さんの遺影(いえい)(おも)い出しながら、これまで聞いた年光さんのことを思い(かえ)してみた。
 夕介から見た仕事(しごと)先輩(せんぱい)人生(じんせい)の先輩としての年光さん。
 女将(おかみ)さんから見た(おっと)としての年光さん、桑田(くわた)さんから見た経営者(けいえいしゃ)としての年光さん。
 保存会(ほぞんかい)松岡(まつおか)さんから見た移住者(いじゅうしゃ)として、そして稲村(いなむら)さんから見た移住の先輩としてのネンコーさん。
 鈴木夫妻や昨日(きのう)()ったタクシーの青笹(あおささ)さんだって、(いま)でも(つよ)印象(いんしょう)()(つづ)けている。
 そういう僕だって、年光さんには一()()ったこともないのに、夕介から(おし)えてもらった「何でもやってみなきゃわからないだろ?」という(かれ)口癖(くちぐせ)が、(みょう)(こころ)()っかかっている。
 たくさんの人たちに、たくさんの影響(えいきょう)(のこ)して、四一(さい)という(わか)さで(かぜ)のようにこの()()った年光さん。
「でも、どうやったらそんな(ふう)に生きられるんだ?」
 僕は思わず(こえ)に出して言った。
 年光さんは(たし)かにすごいけど、なんだか(とお)世界(せかい)の人のような気がする。
 あこがれはしても、社会(しゃかい)に出る手前(てまえ)でうろたえている僕にはとてもそんな生き方はまねできそうにない。

 突然(とつぜん)、部屋の(とびら)をノックする音がした。
「あの、森崎(もりさき)さん?」
 (そと)から女性(じょせい)の声がした。水菜(みずな)さんだ。
 僕はあわてて扉を()けに行った。
「どうしたんですか、水菜さん?」
「ごめんなさい、(すこ)しお(はなし)したくて……今、いいですか?」
「ええ、いいですけど」
 水菜さんは前髪(まえがみ)を下ろし、黒縁(くろぶち)眼鏡(めがね)をかけていた。水(いろ)のパジャマの上に(あわ)いオレンジ色のカーディガンを羽織(はお)っていて、ほのかにいい(かお)りがする。最初(さいしょ)の印象とずいぶん(ちが)うので僕は少しどぎまぎした。
 何気(なにげ)なく水菜さんの(むね)のふくらみに目をやりかけて、はっと気づいてあわてて目をそらす。
 さっきの微乳(びにゅう)の話がまだ強烈(きょうれつ)(あたま)に残っているんだ。くそ、これだから男ってやつは。
「森崎さん、ロビーでお話ししませんか?」
 なんだ、僕の部屋でじゃないのか、と僕は少しがっかりする。

 水菜さんはロビーに出ると、ソファに(こし)かけた。
 正面(しょうめん)()き合うのもなんだか()れくさいし、隣同士(となりどうし)じゃなれなれしすぎる。
 ちょっと(かんが)えて、僕は水菜さんと直角(ちょっかく)に向き合う位置(いち)に座った。
 間接照明(かんせつしょうめい)のやわらかな(ひかり)(つつ)まれた水菜さんは、どことなく(つや)っぽく見える。何もないとわかっていても、それでもどこかで期待(きたい)してしまう自分が、どうにも面倒(めんどう)くさい。
 水菜さんはちょっと()をおいてから話を(はじ)めた。
「あの、さっきはごめんなさい、すごく失礼(しつれい)なこと言っちゃって。まさか森崎さんが聞いてるなんて思いもしなくて……。ちゃんと(あやま)っとかなきゃって思ったんです」
「いや、(だま)って聞いてた僕らも(わる)いですから。水菜さんは全然(ぜんぜん)気にしないでください」
 と口では言ったが、全面的(ぜんめんてき)に悪いのは夕介だと僕は内心(ないしん)(さけ)んでいた。
 まったく、あのおっさんのおかげでろくなことがない。
「あの、森崎さん」
 水菜さんは僕の(ほう)にぐっと()を乗り出すと、じっと僕の目を見つめて、はっきりとした口調(くちょう)で言った。
「わたしを、どこか(とお)くに()れてってくれませんか?」
「え──」
 僕は(おどろ)いて言葉(ことば)(うしな)った。彼女(かのじょ)(いき)づかいを目の前に(かん)じ、(きゅう)心臓(しんぞう)鼓動(こどう)が早まる。
 どこか遠く──どこか遠くって、でも一体(いったい)どこに?
 眼鏡の向こうから、水菜さんが真剣(しんけん)なまなざしで僕の(かお)を見つめている。
 僕はその視線(しせん)()えきれずに目をそらしてしまった。
 すると、水菜さんもすぐに目をそらして下を向いて(わら)った。
「ふふ、なんてね。うそうそ、冗談(じょうだん)ですよ。ちょっと言ってみただけです」
 いや、あわてて(つく)り笑いで冗談めかしてごまかしてはいるが、あれは間違(まちが)いなく本気(ほんき)の目つきだった。
 僕には水菜さんが一体何を考えているのかがさっぱりわからない。
 気まずい空気(くうき)(なが)れる。
 水菜さんは下を向いたまま何かを考えているようだ。
 お(たが)いしばらく沈黙(ちんもく)が続いたが、不意(ふい)に水菜さんが僕に(たず)ねた。
「あの、森崎さん、私のことどう思います?」
「どうって言われても……」
 正直(しょうじき)唐突(とうとつ)すぎて返答(へんとう)(こま)る。
 僕は自分のボキャブラリを総動員(そうどういん)して考えた。
「えーと……、そうだな、きれいな人だなって思いますよ。(やさ)しそうだし、もしもこんな人が彼女だったらいいなー、なんて」
 総動員したわりには(われ)ながら気の()かない(こた)えだなと思いながら、僕は答えた。
 水菜さんは両手(りょうて)をひざの上に()いて(くび)(よこ)()る。(なが)(かみ)がさらりと左右に()らぐ。
「わたし、全然優しくなんかないですよ。高校の(ころ)告白(こくはく)してきた男子を全員(ぜんいん)ふっちゃったんですから」
 午前中(ごぜんちゅう)夕介から聞いた話はうそじゃなかった。しかし、まさか水菜さん本人(ほんにん)からそれを聞くことになるとは思わなかった。僕はぎょっとしてまじまじと水菜さんのことを見つめたが、彼女は僕のことをちらりとも見ようとしない。
「わたし、学校の成績(せいせき)だけはよかったので、岩代(いわしろ)進学校(しんがくこう)(かよ)ったんです。先輩とか、同級生(どうきゅうせい)とか、たくさんの男子(だんし)から告白されたけど、(ちち)()くなってすぐだったから、ぜんぜんそんな気になれなくて。それに、『男子とつきあう』ってことが、なんかよくわかんなかったし」
 水菜さんは右手を自分の胸元(むなもと)に置き、おさえたトーンで話を続ける。
「告白してきた男子は、みんな森崎さんとおんなじこと言ったんですよ。きれいで、優しそうだって。でも、ほんとのわたしはきれいなんかじゃないし、優しくなんかもない」
「そんなことないですよ!」
 僕はあわてて否定(ひてい)したが、水菜さんはかぶりを振った。
「わたしをきれいだなんて言う人は、わたしの外見(がいけん)しか見てないでしょ? 『()()えのいい彼女』っていうアクセサリーが()しいだけなんじゃないですか、違います?
 わたしのことは、わたしが一(ばん)よくわかってます。わたしなんて、本当は(みにく)くて、卑屈(ひくつ)で、臆病(おくびょう)で。ほんとに、果林(かりん)の言うとおり性格(せいかく)最悪(さいあく)。人を(きず)つけてばかりだし。
 どれだけ見栄えよくしても、結局(けっきょく)外面(そとづら)だけなんです、わたしなんて」
 水菜さんは(するど)い口調で一気にそう言った。
 僕は圧倒(あっとう)されて何も返すことができない。
「わたしは、そんな自分がどうしても()きになれないの。だから、何も()らないくせにわたしのことを好きだなんて言う人のこと、わたしは絶対(ぜったい)信用(しんよう)できません」
 水菜さんはそこまで言い()わると、(ふたた)び下を向いた。
 ズキンと胸が(いた)む言葉だ。
「でも、水菜さんは桔梗(ききょう)さんのためにも色々したんでしょう? 十分(じゅうぶん)優しいじゃないですか」
「森崎さんは、桔梗のことも知ってるんですね──でも、わたしは長女(ちょうじょ)ですから、(いもうと)のためにあれこれするのは()たり(まえ)じゃないですか。父を亡くして一人でがんばってる(はは)負担(ふたん)かけたくなかったし、ここにいれば母を手伝(てつだ)うこともできる。
──だから、あえて進学しないで地元(じもと)就職(しゅうしょく)するって自分で()めたんです。母は進学を(すす)めてくれたけど、市役所(しやくしょ)なら試験(しけん)で入れるから」
 なるほど、水菜さんが市役所に就職したのには、そういう背景(はいけい)があったのか。
 進学校からあえて就職を(えら)ぶというのもかなり思い切った選択(せんたく)だ。そういう意味(いみ)では、水菜さんは相当(そうとう)意志(いし)が強いのだろう。
 でも、水菜さん自身(じしん)希望(きぼう)はどうなんだろう?
 水菜さんは本当にそれを(のぞ)んでいたのだろうか?
 僕がそう言いかけたら、水菜さんは右手を胸元に当てて天井を(あお)いだ。
「父がこんなところに()して来なければ、早く()んだりしなきゃ、わたしも普通(ふつう)に大学に行ってたのかも──」
 僕の背筋(せすじ)一瞬(いっしゅん)(つめ)たいものが(はし)る。
 もしかしたら彼女の本音(ほんね)は、そこにあるのかもしれない。
「水菜さんって、こっちに()っ越してきたとき何(さい)だったんですか?」
「一〇歳でした、小学四年のときです。(なか)のいい向こうの友達(ともだち)(わか)れたくなくて、めちゃくちゃ()いたんですよ」
 僕は(だま)ってうなずきながら水菜さんの話を聞く。
「こっちに来てみたらものすごく小さな学校で、全校(ぜんこう)生徒(せいと)(かぞ)えるほどしかいなくて、何もかもが前いたところと違って、わたし、また泣いてしまって。こんなとこイヤ、友達がいっぱいいた前の学校に(かえ)りたいって。しばらくは前の学校の友達と手紙(てがみ)をやりとりしてたけど、だんだんと少なくなって、いつの間にか途切(とぎ)れちゃいました。(あたら)しく友達を作ることもなんだかうまくできなくて。──その小学校も、わたしが卒業(そつぎょう)した年には休校(きゅうこう)になっちゃったし」
 水菜さんは両手をひざに置いて下を向いている。
「いつかはあっちに帰りたいってずっと思っているうちに、父が死んでしまって、それもできなくなっちゃいました」
 そう言ったきり、しばらく水菜さんは黙ってしまった。
 僕の方も、なんだかいたたまれない気持(きも)ちでいっぱいになって、何も言えずにいた。
 周囲(しゅうい)の人たちからあれだけ好かれた年光さんが、(じつ)(むすめ)からはむしろ(うら)まれている。
 彼自身は(ゆめ)実現(じつげん)し、(みじか)いながらも充実(じゅうじつ)した人生を(あゆ)んだのかもしれないが、少なくとも水菜さんは、こっちに越してくることを望んではいなかった。水菜さんが十年()らしてもこっちの方言(ほうげん)一切(いっさい)使(つか)わないのは、もしかしたらそれも理由(りゆう)なのかもしれない。
 しかし、進学や就職をきっかけにして、ここを出ることを選ぶこともできたはずなのに、それでも彼女はあえて外に出ないことを選んだ。一体なぜ?
「ごめん、水菜さん。その、何と言ったらいいのか──」
 僕は、何とか水菜さんをなぐさめられそうな言葉を(さが)したが、残念(ざんねん)なことに何も思い()かばなかった。どうでもいい言葉ばかり知っているくせに、肝心(かんじん)な時に言いたい言葉が見つからない。
「いいえ、わたしの方こそごめんなさい。こんな話、森崎さんなんかにしてもしかたないって、わたし自身が一番よくわかってるのに。あーあ、何やってんだろ、わたし。バカみたい」
 彼女は僕から目をそらしたまま自嘲(じちょう)的につぶやく。
「あの、森崎さんにはきっと、わたしなんかよりもっとずっとお似合(にあ)いの人がいますよ」
 水菜さんはやっと顔を上げて僕にそう言った。
 年光さん(ゆず)りの彼女の優しそうな目からは、無理矢理(むりやり)にほほ()んでいるのがわかって、なんだか痛々(いたいた)しかった。
「ごめんなさい、森崎さん。おやすみなさい」
 水菜さんはすっとソファから立ち上がって僕に会釈(えしゃく)すると、振り返りもせずに母屋(おもや)に戻っていった。
 僕はしばらくソファから立ち上がれなかった。
 何だろう、この圧倒(あっとう)的な敗北(はいぼく)感。
 謝られたのは僕の方のはずなのに、ひどく心が(おも)い。
 ()てよ、これってもしかして、告白もしないうちにふられてしまったということじゃないのか?
 昼間(ひるま)夕介が言った、「あいつはだいぶこじらせてるからなあ」という言葉が、今ごろになってじわじわ()いてきた。

第三章 ネンコーさん 〈五〉

 身体(からだ)(つか)れているのに(ねむ)れない。
 布団(ふとん)の中で右に左に()きを()えるが、目は()えたままで、まったく眠れる気がしない。
「あー」
 布団の上に両腕(りょううで)を出して(ぼく)(こえ)を出した。
 無理(むり)だ、眠れない。
 今日(きょう)だけで色々(いろいろ)なことがありすぎて興奮(こうふん)しているのだろう。
 (とく)に、水菜(みずな)さんの(はなし)強烈(きょうれつ)すぎた。
 だいたい、水菜さんは昨日(きのう)今日()ったばかりの僕に、なんであんな話をしたんだろう。普通(ふつう)は会ったばかりの人にする話ではないだろう。
 それによく(かんが)えてみると、彼女(かのじょ)自己否定(じこひてい)しているだけでなく、それを(とお)して僕のことも否定している気がする。
 あなたはわたしの表面(ひょうめん)しか見ていない、あなただって(から)っぽのくせに。
 言葉(ことば)にこそ出さなかったけれど、彼女は僕の正体(しょうたい)(するど)()いた。
 水菜さんが指摘(してき)したような(うす)っぺらな願望(がんぼう)が僕の中にあったのも(たし)かだし、十(だい)からずっと僕に彼女がいないのも、結局(けっきょく)は僕に中身(なかみ)がないからなんだと思う。
 どれだけきれいだ、(やさ)しそうだ、なんて表面だけちやほやされても、彼女の(こころ)(けっ)して()たされない。彼女が本当(ほんとう)(みと)めてほしいのはきっと、そんな外面(そとづら)じゃなくて、()の彼女自身(じしん)
 中身がないのは僕だって(おな)じことだ。いや、僕の場合(ばあい)、水菜さんとは(ちが)って外面すらないから、さらに(すく)いがない。
 だからこそ、僕には水菜さんの言葉が(いた)かった。
 それでも。
 自分を()きだと言ってくれる人のことを信用(しんよう)できないだなんて、あまりにも(かな)しすぎる。僕や水菜さんの空っぽの心は、一体(いったい)どうしたら満たすことができるのだろう。
 時計(とけい)を見ると午前(ごぜん)()(すこ)(まわ)ったところだ。
 どうせ眠れないのなら、眠くなるまで()きておこう。
 僕は布団を()け出した。

 ちょっと気分(きぶん)転換(てんかん)をしようと(おも)って、僕は浴衣(ゆかた)の上にパーカーという珍妙(ちんみょう)ないでたちで外に出た。時間が時間だから(だれ)かに見られるということもないだろうと思っていたが、玄関(げんかん)を出たところで僕は(おどろ)いて思わず声を上げた。
桔梗(ききょう)さん!」
 (もん)のところに、(あさ)と同じ白い着物姿(きものすがた)の桔梗さんが立っていた。
 常夜灯(じょうやとう)(ひかり)青白(あおじろ)()かび上がった彼女の姿は、どこか非現実的(ひげんじつてき)で、この()ならざるものを(かん)じさせる。彼女のつややかな黒髪(くろかみ)が、光をかすかに(かえ)して、やわらかく光っている。
 桔梗さんは僕の方を見ると、すっと音もなく(あゆ)()ってきた。
 線香(せんこう)のような(かお)りが僕の鼻腔(びこう)(とど)く。
「あなたは、誰?」
 か(ぼそ)い声で桔梗さんが僕に(たず)ねてきた。
 僕はまた驚いた。
 (たし)か、果林(かりん)ちゃんの話では桔梗さんは一切(いっさい)しゃべらなくなっていたはずだ。実際(じっさい)今朝(けさ)いっしょに日の出を(なが)めた時も、彼女は一言(ひとこと)(はっ)しなかった。
 彼女の黒目(くろめ)がちな(ひとみ)が、まばたきもせずにまっすぐに僕の()射抜(いぬ)いている。
「桔梗さん、しゃべれるの?」
 彼女はゆっくりとうなずいて、(ふたた)び口を(ひら)いた。
「あなたは、誰?」
 今度(こんど)はさっきよりもはっきりと聞こえた。
「僕は、森崎(もりさき)浩司(こうじ)。学生だよ」
 僕は自己紹介(じこしょうかい)したが、なんとなく彼女が尋ねているのはそんなことではないような気がする。しかし、(ほか)(こた)えようもない。
「こんな時間にどうしたの? (さむ)くない?」
 僕が()うと、彼女はふっと目を()せて(くび)(よこ)()る。
「会えるような、気がした」
 表情(ひょうじょう)はまったく()わらないままだが、この一言(ひとこと)になんだか僕はほっとした。
「ひとまず中に入ろうか、()えるから」
 僕がそう言うと、彼女は(だま)ってうなずいた。

 玄関を入ると、夕介(ゆうすけ)()まっている(うめ)()から()かりがもれているのが見えた。夕介はまだ資料(しりょう)()()んでいるのか、それともそのまま()てしまったのだろうか。
 桔梗さんにソファに(すわ)るよう(うなが)すと、彼女はソファに(あさ)(こし)かけて僕を見た。
 こうして(あらた)めて桔梗さんと向き合うと、やっぱり彼女も女将(おかみ)さんとよく()ていることがよくわかる。
 黒目(くろめ)がちな大きな目は一番(いちばん)特徴(とくちょう)だ。じっと見ていると()い込まれそうな、神秘(しんぴ)的な光をたたえている。
 桔梗さんは果林(かりん)ちゃんの一つ上だから、一六(さい)か一七歳。普通なら高校二年生だ。
 果林ちゃんと同じようにちゃん()けで()んでもおかしくない年齢(ねんれい)だが、何と言うか、彼女のまとっている雰囲気(ふんいき)がそれを(こば)んでいる気がする。
 彼女の白い(かお)は、間接照明(かんせつしょうめい)のやわらかな明かりのもとでは本当(ほんとう)能面(のうめん)のようだ。
 能面の表情(ひょうじょう)のことを中間(ちゅうかん)表情と言うそうだが、喜怒哀楽(きどあいらく)のどれでもないから、(ぎゃく)雄弁(ゆうべん)感情(かんじょう)表現(ひょうげん)することができると、どこかで聞いたことがある。
 桔梗さんも、その無表情の(おく)から何かを僕に(かた)りかけようとしている気がする。
 だが、鈍感(どんかん)な僕はそんな気がするだけで、残念(ざんねん)ながら彼女が何を語りかけようとしているのか、まったくわからない。
 しかたがないから、言葉で尋ねるほかない。
「なんで、僕に会えるような気がしたの?」
 (われ)ながら見当(けんとう)はずれな質問(しつもん)だなと思いながら、僕は桔梗さんに尋ねた。
「わたしが、会いたいと、言ったから」
 桔梗さんは僕をじっと見つめたまま小さくそう答えた。
 なんだか奇妙(きみょう)な答えだ。
 会いたいと言ったから会えるなんて、そうそう都合(つごう)のいいことがあるはずがない。
 彼女は少しも僕から視線(しせん)(はず)さずにじっと座っている。
 ()らぐことのないその(ひとみ)に、僕は少したじろいだ。
 が、不思議(ふしぎ)と彼女から威圧感(いあつかん)を感じることはない。
何故(なぜ)……、あなたは、ここに、来たの?」
 桔梗さんは、一言ずつゆっくりと、自分の言葉を確かめるように僕に尋ねた。
「あ、えーと、猿楽(さるがく)紫桜(しざくら)』を()に来たんだ。明日(あした)からあるんだけど、()ってるかな?」
 桔梗さんは小さくうなずいた。
「で、何となくそれに興味(きょうみ)がわいて、実際(じっさい)に観てみたくなってここに来たんだ」
 桔梗さんは表情を()えずにじっと僕の(はなし)を聞いている。いや、うなずきもしないから、本当(ほんとう)に聞いているのかどうか、少し不安(ふあん)になる。
「この『紫桜(しざくら)』には、いくつも不思議な(てん)があってね、主人公(しゅじんこう)(おな)じなのに四つも違う物語(ものがたり)があるらしいんだ。結末(けつまつ)全部(ぜんぶ)違って、どれが本当かわからないし、主人公の桜姫(おうひめ)という人が本当にいたかどうかもわからないんだって。どの話も桜姫(おうひめ)(かな)しい最期(さいご)(むか)えるみたいなんだけど、合戦(かっせん)でお(とう)さんが()んだ──」
 と、ここまで話したところで、桔梗さんが一瞬(いっしゅん)身体を(ふる)わせた。
 しまった、調子(ちょうし)()ってしゃべりすぎた。彼女にショックを(あた)えてしまったかもしれない。
 彼女は父親(ちちおや)死後(しご)にしゃべらなくなったというんだから、何か関係(かんけい)があるのは間違(まちが)いないだろう。
 もう少し慎重(しんちょう)になるべきだった──と反省(はんせい)しても、もう(おそ)い。
「ごめん、(つら)いこと思い出させちゃったかな?」
 僕はおそるおそる桔梗さんに尋ねた。
 彼女は首をゆっくりと横に振る。
 僕は少しほっとした。
「話を変えよっか。桔梗さんはいつもああして朝日(あさひ)(なが)めてるの?」
 僕は朝から気になっていたことを尋ねてみた。
 桔梗さんはゆっくりとうなずいた。
「どうして朝日を見るようになったの?」
「……生まれ、変わるの」
 桔梗さんはすっと(とお)くを見るような目をして(つづ)けた。
未来(みらい)王国(おうこく)。青い、こども。あけぼの。わたしが、()ってきたもの──」
 何だろう? (なぞ)かけのような言葉だ。
 その先に何か言葉が続くような気がして、僕はしばらくじっと待っていたが、彼女がそれ以上(いじょう)言葉を()ぐことはなかった。
「そっか、生まれ変わるのか」
 よくわからないまま、僕は彼女の言葉を()り返したが、僕の(あたま)の中は疑問符(ぎもんふ)でいっぱいになった。
 彼女の言葉はあまりにも断片的(だんぺんてき)すぎる。何か大事(だいじ)なことを(しめ)そうとしていることだけはわかるが、具体(ぐたい)的に何を()し示そうとしているのかがよくわからない。
 それにしても。桔梗さんはなぜ、見ず知らずの僕と話す気になったのだろう?
 彼女はやっぱり表情のないまま僕をじっと見ている──いや、もしかして微笑(びしょう)しているのではないか?
 一瞬の光の加減(かげん)のせいかもしれないけれど、僕はそう感じた。
 僕がそれを口にしようとすると突然(とつぜん)、桔梗さんはすっと立ち上がった。
「どうしたの?」
「ありがとう」
 桔梗さんはゆっくりとそう言うと、(かる)く頭を下げた。
 彼女は玄関まで(ある)いていくと、そのまま外へ出てしまった。
 あっけに取られた僕は、立ち上がることも(わす)れ、彼女を目だけで見(おく)った。
「一体、なんだったんだろう?」
 声に出してそう言ってみた。
 やけにリアリティのある(ゆめ)を見て目覚(めざ)めた後の、現実(げんじつ)と夢との区別(くべつ)がつかない奇妙な感覚(かんかく)と、よく似ている。ロビーに自分の声が(むな)しく(ひび)くのを聞いて、とりあえず夢ではないということはわかった。
 桔梗さんが僕に何を(つた)えたかったのかは、結局(けっきょく)何ひとつわからない。
 でも、僕は何となく安心(あんしん)していた。
 少なくとも、僕は彼女から(こば)まれたわけではないようだ。もちろん、変わった子だなとは思うけど。
 しばらくソファに座ったままぽかんとしていたが、僕は自分の部屋(へや)(もど)ることにした。時計を見るとちょうど午前二時だ。
「ふあ……」
 さすがにあくびが出てくる。
 今度(こんど)はどうにか眠れそうだ。
 僕はパーカーを()いで蛍光灯(けいこうとう)()すと、そのまま布団の中にもぐりこんだ。
 何かを(かんが)える間もなく、僕はすぐに眠りの(そこ)()ちた。


〈第三章終わり〉

第四章 呪い 〈一〉

第四章 呪い 〈一〉

「おう、学生さん、(つぎ)はこっちじゃ」
「はい!」
「こいつ()さえちょれ」
了解(りょうかい)です」
 (ぼく)伊藤(いとう)さんに指示(しじ)された(とお)り、青竹(あおだけ)(かか)えて(うご)かないように押さえた。その(あいだ)に伊藤さんがあらかじめ地面(じめん)()たれた(くい)に青竹をひもで(かた)(むす)びつけ、しっかりと固定(こてい)する。
 空は(くも)ひとつない快晴(かいせい)で、十月もなかばだというのに気温(きおん)もぐんぐん上がっている。(ひたい)(あせ)()かぶのを(かん)じる。
 青竹を押さえたまま、僕は空を(あお)いだ。ここだけ木々(きぎ)()れて(ひら)けているから、(はる)上空(じょうくう)でトンビがのんびりと()(えが)いているのが見える。
「おし、次こっちな」
「はい!」
 僕が押さえた青竹は舞台(ぶたい)四隅(よすみ)(はしら)のように立つようだ。
 ()(つち)の上に()まれた板敷(いたじき)の舞台の上では、松岡(まつおか)さんたち数人(すうにん)男性(だんせい)()き上げの作業(さぎょう)をしている。
 猿楽(さるがく)紫桜(しざくら)』は薪能(たきぎのう)として屋外(おくがい)(おこな)われるのだという。
 地域(ちいき)人々(ひとびと)に僕も(くわ)わって作業すること二時間(じかん)、僕はただ指図(さしず)された(とお)りに(もの)(はこ)んだり()いたりしただけだが、最初(さいしょ)はただ盛り土があるだけで、まるで相撲(すもう)土俵(どひょう)のようだった場所(ばしょ)が、板敷きがされ、宇侘八幡宮(うたはちまんぐう)(もん)の入った白い(まく)()られ、みるみるうちに舞台としての姿(すがた)(ととの)えていく。
(あと)篝火(かがりび)()かれりゃあ、ぐっと雰囲気(ふんいき)も出るぞ」
 伊藤さんは僕にそう言ってニッと(わら)った。
 今朝(けさ)からずっと、僕はこの伊藤さんについて作業している。
 四十代後半(だいこうはん)ぐらいだろうか、普段(ふだん)森林組合(しんりんくみあい)(つとめ)めているという伊藤さんは、(みじか)()()まれた(かみ)赤黒(あかぐろ)く日に()けた(はだ)で、(うで)胸板(むないた)もたくましく盛り上がっている。僕の(たよ)りない身体(からだ)とは根本的(こんぽんてき)につくりが(ちが)うとしか(おも)えない。
 でも、幻想(げんそう)的な猿楽のイメージと目の前の武骨(ぶこつ)な伊藤さんのイメージとがどうしても(むす)びつかなくて、なんだか笑える。
「なんか不思議(ふしぎ)ですねえ」
 僕は伊藤さんに()った。
「何もなかったところが、あっという()に舞台に()わっていくのが面白(おもしろ)いです」
「じゃろう? 七年に一()、ここでしか()られん、(まぼろし)の舞台じゃ」
 伊藤さんは(ほこ)らしげに言うとまたニッと白い()を見せた。

 宇侘(うた)八幡宮は鬱蒼(うっそう)とした杉林(すぎばやし)の中にひっそりとたたずんでいる。
 (こけ)むした石垣(いしがき)の上に()(いま)本殿(ほんでん)江戸時代(えどじだい)中期(ちゅうき)に建てられたものらしいから、(ちく)三百年ぐらいのはずだ。
 樹齢(じゅれい)が数百年はありそうな大きな杉の木が何本もあり、自然(しぜん)背筋(せすじ)()びるような(りん)とした空気(くうき)(なが)れている。
 猿楽『紫桜(しざくら)』が(えん)じられる舞台は、宇侘八幡宮の本殿から一(だん)下がった参道脇(さんどうわき)の、普段(ふだん)は何もない広場(ひろば)のような空間(くうかん)だ。
 (たか)さ五〇センチ程度(ていど)の盛り土の上に組まれた舞台は、本殿に()かって正面(しょうめん)となるように(しつら)えられている。投光器(とうこうき)発電機(はつでんき)なども運び()まれ、今、舞台の(まわ)りは活気(かっき)()ちている。
 (さき)ほど()()けた四本の青竹は、三(けん)(やく)六メートル)四方(しほう)本舞台(ほんぶたい)区切(くぎ)目印(めじるし)なのだ、と伊藤さんが(おし)えてくれた。
 舞台に向かって左手前(てまえ)目付柱(めつけばしら)、その(おく)がシテ柱、右手前はワキ柱、その奥を(ふえ)柱と()ぶらしい。(おもて)をつけた演者(えんじゃ)にとっては、舞台の距離感(きょりかん)(はか)大事(だいじ)な目印になる。
 本舞台向かって右(がわ)地謡方(じうたいかた)(すわ)地謡座(じうたいざ)、奥には囃子方(はやしかた)後見(こうけん)が座るアト座と呼ばれる空間がある。
 アト座の背後(はいご)には、元々(もともと)()えられている(えだ)ぶりの見事(みごと)(ふる)(まつ)の木が見え、その向こう側には杉の林が広がっている。
 アト座から左奥に向かって伸びている通路(つうろ)のような空間は橋掛(はしがか)りと呼ばれ、(たん)なる入退場(にゅうたいじょう)のための通路というだけではなく、本舞台とは(べつ)演技(えんぎ)空間でもあるらしい。盛り土がないところに架台(かだい)を立てた上に、本舞台と同じ高さに板敷きが設置(せっち)されている。
 橋掛りの手前には三本の若松(わかまつ)等間隔(とうかんかく)で立てられていて、舞台に(ちか)い方から(じゅん)に一の松、二の松、三の松と呼ばれる。演者にとっては距離感を測る目印であり、演目(えんもく)によっては時間や距離(きょり)(あらわ)すこともあるそうだ。
 橋掛りの奥には幕で仕切(しき)られた(かがみ)()()かれる。
 鏡の間と言っても、『深津(ふかつ)小学校』という文字(もじ)の入った天幕(てんまく)()った周囲(しゅうい)を白い幕で(かこ)ってたたみを入れただけで、これはいわば楽屋(がくや)にあたる空間だ。
 中には大きな姿見(すがたみ)が置かれた。それで鏡の間と呼ばれる。
 (むかし)奉納(ほうのう)の時だけ掘立小屋(ほったてごや)を建てたんじゃ、と伊藤さんが教えてくれた。
 鏡の間の出入り口には揚幕(あげまく)という五(しき)の幕が()かり、演者が橋掛りを出入りする(さい)には素早(すば)()ち上げられるようになっている。
 舞台全体(ぜんたい)でも十数メートル四方、(けっ)して(ひろ)い空間ではない。
 この小さな空間でどのような物語(ものがたり)展開(てんかい)されるのか、だんだんとわくわくしてくる。
「あんたぁ観るのは(はじ)めてじゃろうがね?」
「はい、そうです」
「じゃったら、正面の一(ばん)(うし)ろのあの(あた)りから観いや。あんまり舞台の(ちか)くじゃと火の()はかかるし、(くび)(いと)うなるし、はっきり()うてええことがないけえな。正面後ろからじゃったら舞台の全体がよう見える」
 伊藤さんはそう言ってにやっと笑った。
「伊藤さんも出演(しゅつえん)するんですよね?」
「おお、わしゃあ『寂水(じゃくすい)』の大鼓(おおつづみ)方じゃ。そらあ、観るより()る方が何(ばい)も面白い」
 かかか、と伊藤さんは豪快(ごうかい)に笑った。
 やっぱりどうもイメージが結びつかない。
勲君(いさおくん)よ、そろそろ休憩(きゅうけい)にしようかいの」
「お、ええな。学生さん、一休(ひとやす)みじゃ」
 作業服姿(さぎょうふくすがた)の松岡さんが僕らに近づいて声をかけてきた。「いさお」の「さ」にアクセントがついているのがこの辺りの方言(ほうげん)特徴(とくちょう)
「ネンコーさんがおらんようなって、若手(わかて)がますます少のうなったなあ」
「いやいや、学生さんがおるぞ。のう、学生さん」
 伊藤さんはそう言って笑いながら僕の背中(せなか)をポンと(たた)いた。僕は思わずよろけてしまう。
「はっはっ、もうちぃと()わにゃあ力が出まあ!」
 伊藤さんがよろめいた僕を見て豪快に笑う。
「勲君よ、ちったぁ手加減(てかげん)しちゃれや……学生さん、相方(あいかた)妹尾(せのお)君は今日どうしよるんかいね?」
 松岡さんが苦笑(にがわら)いをしながら僕に(たず)ねた。
「なんか今日は寂水峡(じゃくみずきょう)とか乙女淵(おとめぶち)写真(しゃしん)()ってくるらしいです。徹夜(てつや)資料(しりょう)()()んだっていばってました」
 相方なんて言われるとますますお笑いコンビみたいでなんかいやだ。
「ははあ、熱心(ねっしん)なことじゃなあ。さすがはネンコーさんの有縁(うえん)じゃのう」
 松岡さんは(かお)をほころばせる。
「こりゃあ、わしらも()けんようにしっかりやらにゃあ」
()たり(まえ)じゃ、わしらはいつじゃって全力投球(ぜんりょくとうきゅう)じゃろう」
 伊藤さんが熱血(ねっけつ)ドラマのようなセリフを言うが、僕からすると幽玄(ゆうげん)な猿楽には場違(ばちが)いな気がしてしょうがない。
「僕も(たの)しみにしてます」
「はは、なかなかのプレッシャーじゃなあ」
 そう言って笑う松岡さんは、『乙女淵(おとめぶち)』でシテの桜姫(おうひめ)(つと)めるのだという。
 目の前の白髪(しらが)()じりの松岡さんが少女(しょうじょ)を演じるなんて、やっぱり想像(そうぞう)がつかない。
「こんちはー、お(つか)(さま)でーす! ()し入れっすよー!」
 境内(けいだい)によく(とお)元気(げんき)な女の子の声が(ひび)いた。果林(かりん)ちゃんだ。
「おー、果林ちゃんか! いっつも元気じゃなあ!」
 松岡さんが(まご)でも見るように目を(ほそ)めた。
 果林ちゃんは仕出(しだ)()使(つか)うような大きな白いプラスチックケースを両手(りょうて)(かか)えてこっちに()けてくる。
 少し大きめの薄手(うすで)黄色(きいろ)いパーカーの下に白のTシャツ、デニムのショートパンツで、(かみ)(はじ)めて出会(であ)ったときと(おな)じようにポニーテールにしている。かわいいんだけど()が小さいせいか、なんだか小学生みたいに見える。
 少し(おく)れて水菜(みずな)さんも同じようにケースを抱えて境内に入ってきた。
 上品(じょうひん)なふわっとした白い長袖(ながそで)のワンピースに、レースのショールをまとった水菜さんは私服(しふく)でも(はな)やかなオーラを(はな)っている。
 でも、昨晩(さくばん)彼女(かのじょ)のこじらせぶりを()ってしまった僕としては、なんだか複雑(ふくざつ)だ。そんな(ふう)には(まった)く見えないのになあ。
 果林ちゃんはケースを抱えたまま松岡さんと立ち(ばなし)をしている。
(かあ)さんに言われておにぎり()ってきたよ。みんなで(にぎ)ったんじゃけど、うちのもちょっと()じっとる」
「はは、見りゃあすぐわかる。この不細工(ぶさいく)なぶんじゃろ?」
「えー、なんでわかるん?」
「わかるいね、果林ちゃんのことなら何でもわかる」
 こうして見ていると本当に祖父(そふ)と孫のようだ。
「あのすいません、どこに置きましょうか?」
 水菜さんが松岡さんに尋ねた。
「本殿のそばに天幕を立てちょるから、そこに持ってってくれるかいね?」
「わかりました」
「あ、僕も運ぶの手伝いますよ」
 僕は水菜さんに声をかけた。
「じゃあ、お(ねが)いできますか? 車は(うら)駐車場(ちゅうしゃじょう)()めてますから」
「わかりました」
 水菜さんは先に奥の方へ()えたが、果林ちゃんはケースを持ったまま僕に話しかける。
浩司(こうじ)さん、みず(ねえ)にふられたんじゃろ?」
 果林ちゃんは僕に近寄(ちかよ)るとにひひ、と笑いながら耳打(みみう)ちした。
「な、何もないよ! ふられるも何も、そんなんじゃないし!」
「ふーん、そうなんじゃー。がんばってねー♪」
 果林ちゃんは(ふたた)びにひひと笑うと、スキップでもするように本殿の方へ()ねていった。

 本殿の裏手(うらて)(まわ)ると、後部(こうぶ)ハッチが()(はな)たれた背の(ひく)軽自動車(けいじどうしゃ)が見えた。水色と白のツートンカラーで、かわいらしいデザインだ。水菜さんらしいな、と思う。
 僕はトランクルームからケースを一つ()り出すと両手で抱えた。中にはおにぎりが三つずつ()った紙皿(かみざら)がいくつも入っている。
 車を(はな)れると正面から水菜さんが(ある)いてきた。
「どうもすいません、森崎(もりさき)さん」
「いえいえ、どうってことないですよ」
 と言葉(ことば)()わしたところで、ぱたっと会話(かいわ)()まってしまう。
「あ、あの、いい天気(てんき)ですよね」
 気づまりなので何か言おうと思って無理矢理(むりやり)に言葉をひねり出したが、よりにもよって天気の話か、と僕は自分が(なさ)けなくなる。
「そうですねー、(あつ)いくらい。でも、(ひる)からはだんだん(くだ)(ざか)みたいですよ。全然(ぜんぜん)そうは見えませんけど」
 水菜さんは空を見上げながら普段(ふだん)()わりない調子(ちょうし)でしゃべっている。微笑(びしょう)まで()かべて、昨晩のことなどすっかり(わす)れてしまったかのようだ。
「舞台の準備(じゅんび)はどうですか?」
「え、あ、大丈夫(だいじょうぶ)です」
 何が大丈夫なんだトンチンカンなこと言いやがって、と僕は(こころ)の中で自分自身(じぶんじしん)(どく)づいた。
 水菜さんは微笑を(くず)さない。
「こらー、手伝う言うちょってサボるんじゃなーい!」
 いきなり背後(はいご)から果林ちゃんに怒鳴(どな)られ、僕はビックリして思わず背中を(まる)めた。
「んもー、なにしよるん?」
 果林ちゃんがぷりぷり(おこ)りながらこっちに近づいてくる。
「どうせみず姉に見とれてからぽけーっとしとったんじゃろー?」
 果林ちゃんがにまにましながら言う。
「そ、そんなことないよ」
 僕は果林ちゃんと目を合わさないようにするが、果林ちゃんは回り込んで僕の顔をのぞきこもうとする。
「あやしーなあ、なんかビミョーな空気じゃったよ?」
「なんでもないって!」
「そうよ、果林。森崎さんに失礼(しつれい)じゃない」
 水菜さんは微笑したまま果林ちゃんをたしなめた。まるで微笑の(めん)()けているようだ。
「ま、いっか。ほら、みな()っちょるよ」
「ごめんごめん」
 僕がその場を(はな)れると、背後から果林ちゃんと水菜さんの会話が聞こえてくる。
「で、どうなん、みず姉?」
「何が?」
「浩司さんに(コク)られたん?」
 気になって思わず立ち止まって聞き入りたくなるが、僕はぐっとこらえてケースを抱えたまま(はし)りだした。
 額に軽く汗が浮くのを感じた。

第四章 呪い 〈二〉

 日陰(ひかげ)になっている本殿脇(ほんでんわき)各自(かくじ)昼食(ちゅうしょく)となった。
 総勢(そうぜい)ざっと五十人ぐらい、各地区(かくちく)からの有志(ゆうし)が総出で準備(じゅんび)に来ているのだが、半分(はんぶん)ぐらいが六十代以上(だいいじょう)の人たちで、三十代より(わか)い人は稲村(いなむら)さんを(ふく)めて片手(かたて)(かぞ)えられるほどだ。
 (ぼく)みたいなよそ(もの)はなんだか居場所(いばしょ)がなくて、(すみ)っこの(ほう)(ひか)え目に()べることにした。
 水菜(みずな)さんと果林(かりん)ちゃんもここで昼食にするらしい。
「しかし、つくづく思うが、(むかし)(くら)べてもずいぶんと人数(にんずう)()ったもんよなあ」
 (すこ)(はな)れたところで、松岡(まつおか)さんと数人の男性(だんせい)がおにぎり片手に(はな)し合っている。
「この(ぶん)じゃ、七年()はできるかどうかわからんのう」
 松岡さんが残念(ざんねん)そうにつぶやいた。
「わしもはぁ年じゃけなあ、七年後は生きちょるかどうか」
「はは、そねえなことを()いよる(もん)(かぎ)ってけっこう(なが)生きしよるぞ」
 僕と一緒(いっしょ)作業(さぎょう)した伊藤(いとう)さんが松岡さんにつっこむと、どっと(わら)いが()きた。
「しかしまさか、ネンコーさんの方がわしらより(さき)()きよるとは(おも)わんかったなあ」
 松岡さんがそう言うと、少ししんみりした空気(くうき)(なが)れた。
「それいね、ほんまに残念じゃった」
 そう言ったのは、あの(ひか)(かがや)(あたま)のタクシー運転手(うんてんしゅ)青笹(あおざさ)さんだ。
「青ちゃんはネンコーさんに仕事(しごと)世話(せわ)までしてもろうたんじゃけえなあ、足()けて()られまあ」
「はは、まあな」
 松岡さんがそう言うと、青笹さんは(かみ)のない頭をかいた。
稲村君(いなむらくん)も、ネンコーさんが生きちょったらうかうかでけんかったな。どっちが舞台(ぶたい)に上がるか()っとったかもわからん」
「いやー、僕なんかまだまだですよ。ネンコーさんは熱中(ねっちゅう)するとすごかったですし、きっといい()い手になってますよ」
 伊藤さんがにやにやしながら少し離れたところに(すわ)っていた稲村さんに(こえ)をかけると、(かれ)は少しはにかんだ様子(ようす)で伊藤さんに(こた)えた。
「はは、まあ世阿弥(ぜあみ)さんも言うとるが、猿楽(さるがく)にこれでええいうこたぁないけえの。しかし、あんたがよそから来たたあ、はあ思えんのう」
 松岡さんが目を(ほそ)めながら稲村さんを見ている。
「いやあ、うれしいです。いつも(よめ)さんにもっと積極的(せっきょくてき)になりんさいって(しり)たたかれてる僕がそう言ってもらえるのも、ネンコーさんが(さそ)ってくれたおかげですね」
 稲村さんはにこにこしながら松岡さんに(かえ)した。
「のう、もしネンコーさんが生きとったら、何をやらすかいの?」
 松岡さんがみんなに(たず)ねる。
「そらあ、(こま)かいことによう気づいてじゃったけえ、後見(こうけん)じゃろうじゃ」
 青笹さんが即答(そくとう)した。
 後見というのはシテの装束(しょうぞく)(みだ)れを(なお)したり、()(もの)の出し入れをするなど、舞台(ぶたい)進行(しんこう)補助(ほじょ)する役割(やくわり)のことだ。
小鼓(こつづみ)なんかも似合(にあ)いそうですね」
 稲村さんが松岡さんに返す。
「いやいや、ええ(こえ)じゃったけえ、地謡(じうたい)じゃろう」
 これは武骨漢(ぶこつかん)・伊藤さんの意見(いけん)
「ああ、そう言やあネンコーさんはええ声しとったなあ。(たし)かに地謡にもってこいじゃったかもしれん」
 青笹さんも伊藤さんに同意(どうい)した。
「よう(とお)(ふと)い声じゃった。あれじゃったら、(おもて)()けても(うた)えたのう」
「なんじゃ、会長(かいちょう)はネンコーさんをシテにしたかったんか?」
 伊藤さんが尋ねると松岡さんは大きくうなずいた。
「ほうよ。なんちゅーても、ネンコーさんはわしの一番弟子(でし)じゃからの」
「おいおい会長、ネンコーさんに何も(おし)えちゃおらんくせに、いつの()にか弟子にした気になっちょるぞ」
 伊藤さんがつっこむと(ふたた)びどっと笑いが起きた。
 年光(としみつ)さんは()くなって五年の月日が()っても、まだみんなの話題(わだい)中心(ちゅうしん)にいる。
「そうそう、そういえば学生さんもなかなかええ声しちょるよなあ」
 突然、伊藤さんが僕を見ながら言った。
 いきなり話が(まわ)ってきたので、()みこみかけたおにぎりがのどにつかえてせき()んでしまった。
「まあ、見た目は(よわ)げなじゃが、意外(いがい)に声は太いな」
 松岡さんが伊藤さんに同意した。青笹さんも(うで)()んでうなずいている。
「のう、会長よ、学生さんに(うたい)を教えるか。七年も(きた)えりゃあ、そこそこモノになろうて」
 伊藤さんが笑いながら松岡さんに言う。
「そりゃあええな、(いま)から早速(さっそく)仕込(しこ)んでみるか。なんなら今日(きょう)の舞台に上げちゃろうや」
 松岡さんはもっと無理(むり)なことを言って(おう)じる。
「ちょ、ちょっとマジっすか。僕みたいな素人(しろうと)、ぜんぜんダメっすよ」
 僕はあわてて(ことわ)った。
「はは、会長、学生さん本気(ほんき)にしよるぞ」
「ちぃとからかい()ぎたかの、(いさお)君よ」
 二人がそう言うとまた笑いが起きた。
「しかし、(あらた)めて聞くと、学生さんの声はネンコーさんとよう似ちょうのう」
 松岡さんは少し真顔(まがお)になって僕の顔をまじまじと見た。
「そうですか?」
「わしら謡をやるけえ、声にはちいとうるさいでな。話し方は全然(ぜんぜん)(ちが)うが、声(しつ)はよう似ちょる。水菜ちゃんは、どう思うね?」
 松岡さんが水菜さんに尋ねた。
「えー、わたしですか?」
「そらあ、(じつ)(むすめ)に聞くんがいちばんえかろう。ほれ学生さん、何か言うてみんさい」
 松岡さんが無茶(むちゃ)ぶりしてきたので僕はあわてた。
「何かって、何言えばいいんですか」
本日(ほんじつ)晴天(せいてん)なりでも何でもええから。ほれ、立って立って」
 しかたなく僕はその()に立ち上がった。なんだか(へん)緊張(きんちょう)する。
「あーあー、本日は晴天なり、本日は晴天なり」
 緊張で声が裏返(うらがえ)らないか心配(しんぱい)だったが、とりあえず大丈夫(だいじょうぶ)だった。
 水菜さんは目を()じて僕の声を聞いている。一体(いったい)どう(かん)じているんだろう?
「どうかね?」
 青笹さんが水菜さんに尋ねた。
 みんなが固唾(かたず)()んでその答えを()つ。
「確かに森崎(もりさき)さんの声は(ちち)に似てますね、(かお)は全然似てないですけど。声だけ聞いたらよく似てると思います」
 一瞬(いっしゅん)どよめきが起きた。
 なんだか不思議(ふしぎ)気分(きぶん)だ。一()()ったことのない人に声が似ていると言われても、(よろこ)んでいいのかどうかよくわからない。
「果林ちゃんはどねえかね?」
 伊藤さんが今度は水菜さんの(となり)に座っている果林ちゃんに尋ねた。
「えー? うち、えっと(よく)(おぼ)えちょらんけ、ようわからん」
 果林ちゃんはあっけらかんと言い(はな)った。
 いくら亡くなってから五年が()つとはいえ、自分(じぶん)父親(ちちおや)の声をそんなに簡単(かんたん)(わす)れてしまうものだろうか?
「まぁたまた、なんぼなんでもそんとなこたあなかろう?」
「うーん……やっぱよう思い出さん」
 伊藤さんにそう言われても、果林ちゃんは腕を組んで(くび)をかしげている。本当に忘れてしまっているのだろうか。
「果林はいつもそうね、すぐに忘れるんだから」
 水菜さんが少し()めるような調子(ちょうし)で言った。
「だって、忘れたもんは忘れたんじゃもん。しょーがないじゃあ?」
 果林ちゃんがけだるそうにそう言うと、突然(とつぜん)水菜さんが立ち上がった。
(とう)さんに一番(あま)えたくせに、なんでそんな簡単に父さんのこと忘れられるの?」
 水菜さんは果林ちゃんに()(なお)ると(はげ)しい調子でなじり(はじ)めた。
「思い出だっていっぱいあるでしょ、果林はこっちに来てからの方が(なが)いんだから。父さんにいっぱい(あそ)んでもらったじゃない! わたしが小さい(ころ)は、父さん(いそが)しくてほとんどうちにいなかったから、あまり遊んでもらったことないのに。運動会(うんどうかい)だってほとんど来たことないんだよ!」
 水菜さんは大きな声でまくし立てると、(きび)しい目つきで果林ちゃんをにらみつけた。
「それなのに……それなのに、なんでそんな簡単に父さんのこと忘れられるの!」
 水菜さんは傲然(ごうぜん)と果林ちゃんを見下ろしている。(にぎ)りしめたこぶしが小さく(ふる)えている。
「なんでなんでって言われても、うちだってようわからんよ!」
 果林ちゃんは座ったまま、(なみだ)をいっぱいにためて水菜さんをにらみ返していた。
「果林のバカ! 薄情者(はくじょうもの)! あんたなんて何もかも全部(ぜんぶ)忘れちゃえばいい!」
 突然のことにあっけに()られて(だれ)も何も言えず、激しくまくし立てる水菜さんの声だけが境内(けいだい)(ひび)いた。
「まあまあ、水菜ちゃん。けんかせんと」
 松岡さんがあわてて()()ってなだめたが、水菜さんは果林ちゃんをぐっとにらんだままだ。
「わたし(かえ)ります」
 水菜さんは(つめ)たく言い(はな)って(きびす)を返すと、ふりかえりもせずに(ある)いていった。
「なんなんよ、わけわからん! 勝手(かって)にわあわあ(おこ)ってから! みず(ねえ)のばかぁ!」
 果林ちゃんがその背中(せなか)に向かって思いきり(さけ)んだ。

「なーなー、浩司(こうじ)さん、うちって薄情なんかねえ?」
 隣でうつむきがちに座っている果林ちゃんが力なく僕に尋ねた。
「うちは毎日(まいにち)(たの)しいけえ、本当にそれだけでいっぱいいっぱいなんよね。昔のこととか思い出したりする暇ないくらい楽しいもん。それってみず姉が言ったみたいに薄情なんかなあ?」
(べつ)に薄情ってわけじゃないと思うけど……」
 そう言いながらも、僕は違和感(いわかん)をぬぐえずにいる。
「父さんがどんな声でどんなふうにしゃべりよったかなんて、今はいっそ思い出せん。顔じゃって、なんかぼんやりとしか思い出せんし」
「写真があるじゃない」
「えー、そんなん普段(ふだん)見んもん。思い出っても、なんか楽しかったような記憶(きおく)はあるけど、何がどうとか、(くわ)しいことはようわからんし……うち、やっぱ薄情なんじゃろうか?」
「うーん、そんなことないと思うけどなあ」
 僕は何と返したらいいのか(こま)ってしまった。
 果林ちゃんは本当に年光さんのことを断片(だんぺん)的にしか(おぼ)えていないようなのだ。
 年光さんが亡くなった時、果林ちゃんは一〇歳だったはずだから、何も覚えていないほど(おさな)かったというわけではない。なんだか不自然(ふしぜん)な気もするが、僕にはうまく言葉にできない。
 (ぎゃく)に、水菜さんは父親である年光さんに(たい)するこだわりがとても(つよ)いようだ。
 昨晩の話からしても、愛憎(あいぞう)相半(あいなか)ばするというか、簡単に一言では言えないような複雑(ふくざつ)感情(かんじょう)(いだ)いているのは間違いないだろう。
「やっぱり年光さんの存在(そんざい)って大きかったんだろうなあ」
 そういえば桔梗(ききょう)さんも、年光さんが亡くなった(あと)に何も言わなくなったんだ。年光さんが早くにこの()()ったことが、今でも姉妹(しまい)三人に大きな影響(えいきょう)(あた)えているのかもしれない。
「──でも、なんで桔梗さんは僕に話しかける気になったんだろ」
「えー! マジで? きぃねえちゃんがしゃべったん?! いつ?!」
 僕はひとりごとのつもりで何気(なにげ)なく口にしたが、隣の果林ちゃんは大声を上げた。
 その声にビックリして僕は思わずひっくり返りそうになった。
 果林ちゃんは目を(まる)くして僕の顔を見ている。
 (まわ)りにいた人たちが、なにごとかという目つきで僕らの方を見る。
「あ、ああ、昨日(きのう)真夜中(まよなか)偶然(ぐうぜん)会って。少しだけだったけど、確かに話をしたよ」
「ウソじゃろー、誰が何言うても絶対(ぜったい)にしゃべらんかったんじゃけえ! 筆談(ひつだん)もしようとせんかったんよ! なんで浩司さんにだけしゃべるんよ?」
 果林ちゃんは(うたが)いの目で僕を見る。
 そう言われても、僕だってさっぱりわからない。
「なんでかはわからないけど、とにかくウソじゃないって。昨日の(あさ)に会ったときは何も言わなかったけど、夜中に会ったときは確かに会話(かいわ)したんだ」
「えー、昨日の朝にも()うたん?! いつの間に?」
 そうか、この話もまだ誰にもしていなかった。
「たまたま早()きしたら出会ったんだ。桔梗さんはいつも朝日を(なが)めるために(そと)に出ているみたいだよ」
「いっそ()らんかった。うち、いっつもギリギリまで()ちょるし」
「だろうね」
「なんよー、浩司さんうちのことバカにしちょるじゃろう!」
「そんなことないよ」
「んーにゃ、なんか(てい)レベルな生き物見るみたいな目しちょった!」
 果林ちゃんは少しむくれながら僕を上目(うわめ)づかいで見た。
 僕が思わず()き出すと、果林ちゃんも屈託(くったく)なく笑った。
「んー、(かんが)えてもようわからん! うち、みず姉みたく頭よくないもん。毎日(まいんち)(はん)がおいしゅう()べれたら、それでええや」
「そうだね、果林ちゃんには(なや)んでる姿(すがた)は似合わないよ」
「それってつまり、ぱっぱらぱーってことじゃろ! やっぱり浩司さんうちのことバカにしちょるー!」
 果林ちゃんは(ほお)をふくらませて僕の頭をぽかぽかたたいた。
 僕も両手で頭を(かか)えて()げ回るポーズを()る。
 どちらからともなく笑いがもれた。
「みず姉もきぃねえちゃんも、またみんなで(なか)よくできたら、ええな」
 ふっと()()いた後に果林ちゃんがぽつりとつぶやいた。
 もうひとつ、果林ちゃんが年光さんのことをちゃんと思い出せるようになるといいな、と僕は(こころ)の中でつけ(くわ)えた。

第四章 呪い 〈三〉

 休憩(きゅうけい)()けて見所(けんじょ)にパイプ椅子(いす)(なら)べていると、夕介(ゆうすけ)がカメラをぶら下げてやってきた。
「おー、もうほぼ()み上がってるのか、早いな」
 夕介が感嘆(かんたん)(こえ)を上げる。
「ったく(おそ)いよ。何もないところにだんだん舞台(ぶたい)が組み上げられる様子(ようす)面白(おもしろ)かったのに。()しいことしたよな」
「ふん、(えら)そうなこと()いやがって」
 (ぼく)が言うと夕介は(れい)によってにやにや(わら)いで(かえ)してきた。
「ちょうどえかった、なー夕介、(あと)でええけえ、(うち)まで(おく)ってくれん? みず(ねえ)勝手(かって)(おこ)って(かえ)ったけえ、おにぎり()ってきたケースが持って帰れんで(こま)っとったんよね」
 果林(かりん)ちゃんが夕介のジャケットの(すそ)()いて(あま)えた声を出す。
「なんだよ、(かお)()わせて早々(そうそう)。ま、しゃーねえ、取材(しゅざい)()んだら送ってやるよ」
 夕介はそう言うと(おく)(ある)いていった。
(わす)れんことよー!」
 果林ちゃんがその背中(せなか)に声をかけると、夕介は()り返りもせずに左手をポケットに()っこんだまま右手を上げて(こた)えた。
「もう、ほんま横着(おうちゃく)なんじゃけえ」
 果林ちゃんが(となり)(うで)()んで(ほお)をぷっとふくらませているのがなんだかおかしかった。

 一四時前(じまえ)には舞台周辺(しゅうへん)設営(せつえい)はすべて()わった。
 松岡(まつおか)さんたち出演者(しゅつえんしゃ)(あつ)まって上演(じょうえん)()ち合わせを(はじ)めた。舞台の(まわ)りには(すこ)しずつ緊張感(きんちょうかん)(ただ)い始めた。
 一六時半から(さき)神事(しんじ)(おこな)われ、開演(かいえん)日没(にちぼつ)時刻(じこく)とほぼ(おな)じ、一七時三〇分(ころ)らしい。
「おーう、そろそろいったん引き()げるか」
 夕介が(もど)ってきて能天気(のうてんき)に声をかけてきた。
「うん! じゃあ浩司(こうじ)さん、よろしく!」
 果林ちゃんが(から)になったケースを(ゆび)さす。
「なんで僕が持つんだよ?」
()たり前じゃあ、かよわい美少女(びしょうじょ)にこんなん持たすん?」
「かよわい?」
「か・よ・わ・い。なー、おねがーいっ!」
 彼女(かのじょ)両手(りょうて)を合わせて僕を(おが)むようなポーズをとり、合わせた手の(うし)ろから顔を出すとぺろっと(した)を見せた。
 か……かわいい。
「しょうがないなあ」
 と僕が言い終わるやいなや、果林ちゃんはケースを僕に持たせると、上に一つずつ(かさ)ねていく。
 果林ちゃんは()(ひく)いから、最後(さいご)の方は僕が中腰(ちゅうごし)になって重ねること全部(ぜんぶ)で五(だん)
「さっすが、やっぱり(たよ)りになるわあ♪」
 全部重ね終わった果林ちゃんは上機嫌(じょうきげん)な声でそう言うと、さっさと前を(ある)いていく。
 僕は()み重なったケースを両手で(かか)えてよろよろと車まで歩いた。
 顔の前まで積み重なったケースで足元(あしもと)(まった)く見えないから、そろそろと歩く。
 駐車場(ちゅうしゃじょう)までこんなに(とお)かったっけ?
 前から夕介の声がする。
「くくっ、お前また果林にこき使(つか)われてるのか?」
「うっさいなあ、積むの手伝(てつだ)ってくれよ。手がふさがってて何もできないんだよ」
 夕介は車のトランクを()けるとカメラが入ったアルミケースをいくつか後部座席(こうぶざせき)(うつ)してスペースを(つく)った。
 何とかそのスペースにケースを()ろすと僕の両(うで)はやっと解放(かいほう)された。
「ありがとー、おかげでいっぺんで()んだわあ♪ うちじゃったらようせんよぉ」
 果林ちゃんは両手を組んで目をキラキラさせている。
「やれやれだな、ご苦労(くろう)さん」
 夕介が僕の(かた)に手を()いて言った。
「まったくだよ。果林ちゃんが『天然(てんねん)ものの小悪魔(こあくま)女』っていう意味(いみ)、ちょっとわかった」
「だろ?」
「えー、なんでー? どこがー?」
 果林ちゃんは平然(へいぜん)と言い(はな)つ。
『そーゆーとこだよ!』
 僕と夕介は同時(どうじ)につっこんだ。
 果林ちゃんはきょとんとしている。
 おねだり上手(じょうず)、甘え上手、なのに自覚(じかく)ゼロ。だから「天然もの」なんだ。

 果林ちゃんを助手席(じょしゅせき)(すわ)らせ、機材(きざい)が置かれたせいで(せま)くなった後部座席に僕が()()むと、夕介はゆっくりと車をスタートさせた。
「なー夕介、浩司さんの声って(とう)さんに()ちょると(おも)う?」
 果林ちゃんは運転席(うんてんせき)の夕介に(たず)ねた。
「は? (だれ)がそんなこと言った?」
 夕介は怪訝(けげん)な声で()い返す。
「みな言いよったよ、松岡さんとか伊藤(いとう)さんとか。みず姉も似ちょるって言うた」
「そうそう、僕もなんか(へん)気分(きぶん)なんだけど」
 僕も後部座席から()を乗り出して言った。
「んー、しゃべり方が全然(ぜんぜん)(ちが)うからなあ」
 (あん)(じょう)、夕介はあまり(みと)めたくなさそうだ。
「しゃべり方とかじゃのうて声! みず姉も顔は全然似ちょらんって言うたもん」
「くくっ、そりゃ傑作(けっさく)だ」
「うっさいなあ」
 夕介が面白(おもしろ)そうに(わら)う。まったく、いちいちシャクにさわることを言う男だ。
「ま、言われてみれば(たし)かに声(しつ)は似てるかもしれないな、俺は絶対(ぜったい)認めんがな」
「アンタのことだから多分(たぶん)そう言うと思ったよ」
 車は参道(さんどう)から県道(けんどう)に出た。
 (あさ)()るときには二〇分くらい歩いた(みち)だが、車だと五分もかからない距離(きょり)だ。
「うちはよう(おぼ)えちょらんけえわからんて言うたら、みず姉いきなりぶち怒りだして、勝手にキレて帰ったんよ。もー、意味(いみ)わからん」
「うわー」
 夕介は左手を(ひたい)に当てている。
相当(そうとう)重症(じゅうしょう)だな、両方(りょうほう)とも」
 (うし)ろからだから表情(ひょうじょう)はよくわからないが、苦々(にがにが)しそうに夕介は言う。
「でな、でな、浩司さんきぃねえちゃんと(はな)したんて」
「おい、マジかよ! あいつ絶対に誰とも口きかなかったのに!」
「きゃっ!」
「わあ! 前()けよ、前!」
 夕介が僕の顔を見ようと振り返ったから、車が一瞬(いっしゅん)よろめいた。
 果林ちゃんの悲鳴(ひめい)であわててステアリングを(にぎ)(なお)した夕介は、それでもルームミラー()しに僕の目を見る。
本当(ほんとう)か? ガセじゃないだろうな?」
(うそ)じゃないって。昨日(きのう)(ばん)、ちゃんと会話(かいわ)したんだ」
 なんだかかみ合ってはいなかったが、会話したのは事実(じじつ)だ。
 とはいえ、僕自身(じしん)もいまだに半信半疑(はんしんはんぎ)なのだが。
「なー、すごいじゃろ? 浩司さんて魔法(まほう)かなんか使(つこ)うたんじゃないん?」
「確かに(しん)じられんな、あの桔梗(ききょう)言葉(ことば)()り戻すなんて」
 夕介は少し興奮気味(こうふんぎみ)の声だ。僕をからかう余裕(よゆう)すらないようだ。
「アンタも桔梗さんと話そうとしたことはあるんだ?」
「ああ、何度(なんど)もな。何度やってもダメだった。それにしても、なんでよりにもよってお前なんだよ?」
「僕が知るわけないだろ」
「そりゃ、まあそうか」
 夕介はじっと(だま)って(かんが)()んでいるようだ。
 車は宇侘川(うたがわ)パレスホテルの入り口の手前から左に()がっておなじみの急坂(きゅうざか)に入った。
 初日(しょにち)(いき)()らして(のぼ)った坂も、車だとあっという()だ。
「ありがとー、夕介が来てくれたおかげで(たす)かった♪」
「あ、ああ──」
 果林ちゃんがお(れい)を言ったが、夕介はどこか(うわ)の空だった。
 僕と果林ちゃんが手()けして車からケースを()ろしている(あいだ)も、夕介はぼんやりと()っ立ったまま何かを考えているようだった。腕を組んで左手でずっとあごひげを()でまわしている。
「お(つか)れさまでしたね、準備(じゅんび)の方はもうええんですか?」
 女将(おかみ)さんが僕らに気づいて(おもて)に出て来た。
「もう準備万端(ばんたん)みたいですよ。何もなかったところにあっという間に立派(りっぱ)な舞台ができて、だんだんわくわくしてきました」
「そうですか、いよいよですね。(たの)しんできて下さいね」
「はい」
「夕介さん、わざわざありがとうございました、おかげで助かりました。水菜(みずな)が勝手に帰ってしまったとかで、ご迷惑(めいわく)をおかけしました」
 女将さんは夕介に向かってそう言ったが、夕介の方は(こころ)ここにあらずで、あいかわらず突っ立ったままだ。
「夕介さん? ……夕介さん!」
「え、あっハイ!」
 夕介があわてて返事(へんじ)をする。
「もう、どうしたんです、ぼーっとして?」
「すんません、ちょっと」
「何かあったんですか?」
「あの、(らん)さん。コイツの声って年光(としみつ)さんに似てると思いますか?」
 夕介はだしぬけに僕を(ゆび)さすと、いつになく真剣(しんけん)な顔で女将さんに尋ねた。
「え? なんですか、いきなり」
「どうですか、似てますか、似てませんか?」
「そんなこと言われても──」
 女将さんは困惑(こんわく)した表情(ひょうじょう)()かべた。
 夕介がなぜいきなりそこにこだわるのか、僕も事情(じじょう)()み込めない。
「おい森崎(もりさき)、お前蘭さんの名前(なまえ)()んでみろ。そうだな、さんづけせずに、呼び()てで呼ぶんだ。蘭、って」
「は? なんでそんなこと──」
「いいからやってみろ!」
 夕介はものすごい剣幕(けんまく)怒鳴(どな)ると僕をにらんだ。
 女将さんのことを呼び捨てにするのはどうも抵抗(ていこう)があるが、僕は夕介の迫力(はくりょく)に押されておそるおそる呼んでみた。
「え……と、蘭?」
「もっと大きな声で!」
「蘭」
「まだだ!」
「蘭!」
 最後(さいご)にはなかば(さけ)ぶように蘭さんの名前を呼んだ。
 ふと見ると、目を閉じて僕の声を聞いていた蘭さんが、両手で口(もと)(おお)って僕のことを見ている。
「もう……いいです、森崎さん。ありがとう」
 蘭さんが(ふる)える声で言った。
「やっぱりそうか」
 夕介がつぶやく。
(わか)(ころ)の年光とそっくりです。一瞬(いっしゅん)、あの人が私を呼びよるのかと思いました」
 蘭さんは僕をじっと見つめながら言う。
 夕介が蘭さんの言葉にうなずきながら続けた。
(じつ)はコイツ、桔梗と話したそうなんです」
「本当ですか? 誰が何をしても、口を()ざしたままだったのに」
「僕もまだ信じられないけど、本当なんです」
 僕はかいつまんで顛末(てんまつ)を話した。
 昨日の早朝(そうちょう)偶然(ぐうぜん)に桔梗さんと出会(であ)って一緒(いっしょ)に朝日を(なが)めたこと、真夜中(まよなか)(ふたた)び会って不思議(ふしぎ)な会話を()わしたこと。
「もしかするとコイツなら、桔梗の()まった(とき)を、(うご)かせるかもしれない」
 夕介はそう言うが、僕にはどうしたらいいのかまったく見当(けんとう)がつかない。
「蘭さん、これはあくまで(おれ)の思いつきなんですが、今晩(こんばん)明日(あした)の『紫桜(しざくら)』、家族(かぞく)みんなで()に行きませんか?」
「え? それはちょっと──今日はこれからさらに二組(ふたくみ)のお客様(きゃくさま)がお見えになりますし」
「だったら、子どもたちだけでも。何かが()わるような予感(よかん)がするんです」
 夕介の言っていることには何の根拠(こんきょ)もないのだが、僕も不思議とそんな気がする。
「うちも行きたい!」
 不意(ふい)背後(はいご)から果林ちゃんの声がした。
「うちも『紫桜(しざくら)』観たい。夕介、()れてって」
 果林ちゃんは夕介の目をじっと見て言う。いつになく真剣(しんけん)な表情だ。
途中(とちゅう)()るなよ」
 そう言うと夕介は果林ちゃんの(あたま)をくしゃくしゃと無造作(むぞうさ)に撫でた。
「わかった!」
 果林ちゃんが大きくうなずく。
「では、水菜と桔梗も(さそ)ってやっていただけませんか?」
 その様子(ようす)を見ていた蘭さんが夕介に(つた)えると、夕介はうなずいて続けた。
「もし明日、時間が取れるようなら、その時はぜひ、蘭さんも一緒に」
 夕介は蘭さんの目をじっと見つめて返事を()っている。
「ええですよ、明日のご宿泊(しゅくはく)は今のところお二人だけですから。桑田(くわた)さんに留守番(るすばん)(たの)んでみましょう」
「よし」
 蘭さんが答えると夕介は小さくガッツポーズをとった。
「なんか楽しみー」
 果林ちゃんは無邪気(むじゃき)にはしゃいでいる。
 蘭さんは右手を口元に当ててじっと何か考え込んでいるような様子だった。

第四章 呪い 〈四〉

 けんかした(あと)って、なんであんなに気まずいんだろう。
 (ぼく)はけんかした後に(あやま)ることがどうにも苦手(にがて)だ。
 (あき)らかに自分(じぶん)(ほう)(わる)いとわかっている場合(ばあい)でも、いや、だからこそ、よけいにごめんとは()い出すことができない。そうして言い出すタイミングを一()(うしな)ってしまうと、ますます言えなくなってしまう。
 自己嫌悪(じこけんお)とつまらない意地(いじ)とがぐちゃぐちゃになって、ええいもういいや()っとけ、という()(ばち)気持(きも)ち。
 きっと(いま)水菜(みずな)さんもそうだろうな、と僕は(かんが)えていた。
 一人になって冷静(れいせい)さを()(もど)した今、自己嫌悪に(しず)んでいるんじゃないだろうか。
 感情(かんじょう)にまかせて大勢(おおぜい)の人の(まえ)で大きな(こえ)果林(かりん)ちゃんを(ののし)ったこと、()めに入ってくれた松岡(まつおか)さんを無視(むし)したこと、あとさき考えずに勝手(かって)(かえ)ったこと──
 そのひとつひとつが(こころ)(おく)(とげ)のように()さっているんだと(おも)う。
 なんであんなことしたんだろうって後悔(こうかい)しながら、でも自分は間違(まちが)ったことは言ってないとも思っているから、自分から(さき)に謝ることもできない。
 こんなときは、どこにも出かけたくないし、(だれ)とも()いたくないはずだ。それは、僕がそうだからそう思うだけだけど。
 果林ちゃんに案内(あんない)してもらって、僕と夕介(ゆうすけ)母屋(おもや)に入った。
 木立(こだち)の中に(かく)れるように()っているせいで、平屋建(ひらやだ)ての母屋の中は昼間(ひるま)でも(すこ)薄暗(うすぐら)い感じがする。
「車があるけえ、おると思うけどなあ、みず(ねえ)
 果林ちゃんがそう言いながら部屋(へや)のドアをノックした。
「なーなー、みず姉、おる?」
 中からは何も返事(へんじ)がない。
「おい水菜、つまんねー意地()ってないで出てこいよ」
 夕介が無造作(むぞうさ)()びかける。つくづくデリカシーのない男だ。
「そんな言い(かた)じゃ、出てきたくても出てこれないだろ?」
 僕は夕介を(せい)して、ドアの()こうにゆっくりと(かた)りかけた。
「あの、水菜さん? そのまま聞いてください」
 僕はいったん言葉(ことば)()って部屋からの反応(はんのう)をうかがった。
 しかし、何も(かえ)ってこない。
 僕は(つと)めてゆっくりと言葉を()いだ。
今晩(こんばん)の『紫桜(しざくら)』、みんなで一緒(いっしょ)()()きませんか? 年光(としみつ)さんが必死(ひっし)存続(そんぞく)させようとしたんです。きっと年光さんの思いも(あらわ)れてると思います。夕方(ゆうがた)時半(じはん)開演(かいえん)です。あの、みんなで()ってますから」
 ドアの向こうからはやっぱり何も反応はなかった。
「みず姉、ほんとにおるんかねえ?」
「いるよ、間違いなく」
 果林ちゃんは(くび)をかしげたが、僕は水菜さんが部屋の中で僕の言葉をじっと聞いていたと確信(かくしん)していた。根拠(こんきょ)は何もないけど。
「ま、あとはあいつ次第(しだい)、だろうな」
 夕介がぼそりとつぶやいた。

 桔梗(ききょう)さんは、年光さんが生前(せいぜん)書斎(しょさい)として使(つか)っていた部屋でいつも()ごしているのだと果林ちゃんが(おし)えてくれた。
「きぃねえちゃん? 果林じゃけど」
 果林ちゃんが扉越(とびらご)しに声をかけると、桔梗さんはすぐに部屋の扉を()けてくれた。
 いつもの白い着物姿(きものすがた)で、やはり表情(ひょうじょう)()けたままだ。
 部屋はそんなに(ひろ)くはないが、(かべ)一面(いちめん)本棚(ほんだな)になっていて、隙間(すきま)なく本が(なら)んでいるのが見えた。
「なーなーきぃねえちゃん、浩司(こうじ)さんにはしゃべったんて?」
 果林ちゃんはまったく遠慮(えんりょ)なしに桔梗さんに(たず)ねた。果林ちゃんの遠慮のなさはある(しゅ)才能(さいのう)じゃないかと僕は感心(かんしん)する。
 果林ちゃんの質問(しつもん)に桔梗さんは│(だま)ったままうなずいた。
「えー、ほんまに! うそじゃなかったんじゃ?」
 桔梗さんは(ふたた)びうなずく。
 夕介は(だま)って(うで)()んだままじっと二人(ふたり)様子(ようす)を見ている。
「なー、なんでうちにはしゃべってくれんの? 前みたいにいろいろ(はなし)しようやあ」
 果林ちゃんは両手(りょうて)で桔梗さんの手を()って話しかけたが、桔梗さんは今度(こんど)はゆっくりと首を(よこ)()った。
 その様子に、断乎(だんこ)とした意志(いし)のようなものを僕は感じた。
 桔梗さんは病気(びょうき)ではなくて、(みずか)らの意志で言葉を(はっ)しないことを(えら)んでいるのではないだろうか。
「もしかして、桔梗さんはしゃべれないんじゃなくて、自分からしゃべらないようにしてるのかな?」
 少し(まよ)いながらも僕がそう尋ねると、彼女(かのじょ)一瞬(いっしゅん)だけ僕から視線(しせん)(はず)した。
 ややためらったようにも見えたが、桔梗さんはゆっくりとうなずいた。
「おい、そろそろ本題(ほんだい)に行こうぜ」
 ここで夕介が口を(はさ)んだ。果林ちゃんがうなずいて桔梗さんに話し(はじ)める。
「なーなーきぃねえちゃん、今日(きょう)(ばん)明日(あした)の晩にな、『紫桜(しざくら)』っていうのをやるんて。でな、でな、みず姉も(さそ)うちょるんじゃけど、うちとみず姉、さっきけんかしたばっかりなんよ。うちが(とう)さんのことよう思い出さん(思い出せない)て言うたら、いきなりキレだしてな。もう、マジ腹立(はらた)つー。さっきもな、せっかく誘い行ったのに、はぶてて(()ねて)から返事もせんのんよ、ヒドいじゃろう? なーどう思う、きぃねえちゃん?」
「おいおい果林、話がずれてるぞ」
 夕介があきれ(がお)で言った。
 仕方(しかた)がないので僕が(あらた)めて桔梗さんに説明(せつめい)する。
「桔梗さん、あの、僕らといっしょに猿楽(さるがく)『紫桜』を観に行きませんか? きっと何かが()わるような気がするんです。果林ちゃんも夕介も、僕もついてますから、心配(しんぱい)いりません」
 桔梗さんはじっと僕の顔を見つめた。
 僕も彼女から目をそらさないようにして彼女の反応を待った。少し鼓動(こどう)が早まるのを感じる。
 夕介も黙ったまま桔梗さんの答えをじっと待っている。
 (となり)で果林ちゃんがごくりとのどを()らした。
 少し()()いてから、桔梗さんはゆっくりとうなずいた。
「行くんじゃ! 浩司さん、見た? きぃねえちゃん行くって!」
 果林ちゃんが興奮(こうふん)して(さけ)んだ。
 僕も思わず夕介の顔を見上げると、夕介は僕に目配(めくば)せをした。予想通(よそうどお)りだということか。
「すごい! きぃねえちゃんが(そと)に出るん、ほんっとに(ひさ)しぶりじゃ! えかったー!」
 桔梗さんの手を取ったまま無邪気(むじゃき)()び上がって(よろこ)ぶ果林ちゃんを見ていると、僕も少しほっとした気持ちになった。
 桔梗さんもそんな果林ちゃんの様子をじっと見ている。
 その横顔が、ほほ()んでいるように見えた。

 僕と夕介はロビーで(らん)さんの()れてくれたコーヒーを()みながら時間をつぶしていた。
 ロビーにはさっきからいい(かお)りが(ただよ)っている。(ひん)のいい珈琲(こーひー)茶碗(ちゃわん)で出されたコーヒーに、僕は砂糖(さとう)とミルクを入れ、夕介はブラックのままで飲んでいる。果林ちゃんと桔梗さんとは一六時前に(おもて)駐車場(ちゅうしゃじょう)()()予定(よてい)だから、まだ一時間近くある。
「さっき、一体(いったい)何を考えてたんだよ?」
 僕は夕介に尋ねた。
「んー?」
 夕介は面倒(めんどう)くさそうに生返事(なまへんじ)を返す。
「ほら、ここに(もど)ってきた時だよ。ぼーっと()っ立って、何か考えてただろ?」
「ああ、あれか。桔梗のことを考えてた」
 夕介は一口コーヒーを(ふく)むと(つづ)けた。
「なんで桔梗がお前にだけしゃべったのか、それがずっと気になってな」
「僕も不思議(ふしぎ)なんだよ、なんで僕なんだろう? さっきだって結局(けっきょく)一言(ひとこと)も言わなかったし」
 夕介はソファに()を沈めて(あし)を組んだ。
「声だ。お前の声が、あいつの心の(かぎ)を開けたんだろう」
「僕の声が年光さんとよく似てるから……か?」
多分(たぶん)な。本人が何も言わないから(たし)かなことはわからんが──お前、桔梗と会った時にあいつの名前呼ばなかったか?」
 僕は桔梗さんと会ったときのことを思い出したが、名前を呼んだかどうかまではよく(おぼ)えていない。
「うーん、正直(しょうじき)よく覚えてないなあ」
「名前を呼ばれるってのは、特別(とくべつ)なんだ。しゃべり方の違いで普段(ふだん)は気づかなくても、声そのものが表に出る」
 夕介はソファから身を()こすと、再び珈琲茶碗を手にとって口に運ぶ。
「おそらく、桔梗は(おどろ)いたんだ。()んだはずの父親(ちちおや)に呼ばれた、と」
 夕介はそう言って僕の顔を見た。
「あくまで(おれ)想像(そうぞう)だが、あながち(はず)れてもいないはずだ」
 夕介はいつになく真剣(しんけん)だ。僕をからかったりバカにしたりする様子がまったくないから、(ぎゃく)違和感(いわかん)を覚える。
「なんでそこまでマジなんだよ? 確かにアンタにとって年光さんは大恩人(だいおんじん)なのかもしれないけど、よその家庭(かてい)にそこまで深入(ふかい)りすることもないんじゃないのか?」
「お前には関係(かんけい)ない」
 夕介は少し不機嫌(ふきげん)な様子で言い()てた。
 僕もそれ以上(いじょう)何も言えず、しばらくお(たが)いに黙っていた。
「──お前、ここの│三姉妹(さんしまい)のこと、どう思う?」
 夕介が(まど)の外に見える(にわ)(なが)めながらぽつりと僕に尋ねた。
「どうって……うまくは言えないけど、なんだか複雑(ふくざつ)かなって」
 僕も庭の方を見ながら答えた。
 外は少し(くも)が出始めたのか、さっきまであれだけくっきりしていた木々(きぎ)(かげ)が、ぼんやりと輪郭(りんかく)(うしな)っていた。
「複雑どころか、水菜はあれこれこじらせてるし、桔梗は│白装束(しろしょうぞく)で何も言わない、果林は健忘症(けんぼうしょう)ときたもんだ。まったく、(のろ)われてるとしか言いようがないな」
 夕介は外を眺めたままつぶやいた。
 呪われてる、という言葉に僕はどきりとした。
 僕は()めかけたコーヒーをすすってから夕介に()い返す。
「呪われてるって?」
「あいつらのかかってる呪いは、あいつら自身(じしん)がかけた呪いだ」
 夕介は(けわ)しい顔で言った。
 左手であごひげを()でながら夕介は続ける。
「桔梗はあいかわらず俺たちには何も言わないから(かく)たることは言えないが、水菜と果林については間違いなくそうだ」
「どういうこと?」
 僕が尋ねると、夕介は身を()り出して逆に僕に質問(しつもん)してきた。
「お前、水菜にどこか(とお)くに()れて行ってくれって言われなかったか?」
「な……なんで()ってるんだよ?」
 僕は動揺(どうよう)した。昨晩の会話(かいわ)を夕介に聞かれていたのだろうか。
「俺も前に言われたことがあるからだよ。あいつ、本当(ほんとう)はここにはいたくないんだ。ここから出してくれるなら(だれ)でもいいと、無意識(むいしき)に思ってる」
 夕介は再びソファに身を沈めると、両手を(あたま)(うし)ろに組んで天井(てんじょう)を見上げた。
「にもかかわらず、あいつは自分でここから出ない選択(せんたく)をした。蘭さんは水菜を進学(しんがく)させる気でいたし、あいつさえその気なら、いくらでもここから出ることはできたのにな」
 僕は水菜さんの話を思い出しながら夕介の話を聞いていた。
 確かに水菜さんは蘭さんから進学を(すす)められたと言っていた。なのに、それを(ことわ)って自分で市役所(しやくしょ)就職(しゅうしょく)()めたとも。
「でも、そうはしなかった。本当はここから出たくて仕方ないくせに、(へん)義務感(ぎむかん)()られて自分で勝手にここに(のこ)る選択をしたんだ。自分で()()めておいて出られないって(なげ)いてるんだから、つくづくめんどくさい(やつ)だよ、あいつは」
 僕はなんだか(かな)しい気持ちで夕介の言葉を聞いていた。
「果林にしてもそうだ。あいつは年光さんのことを思い出せないんじゃない、思い出したくないんだ」
「でも、それは毎日(まいにち)(たの)しいからって──」
「違うな。果林は三人の中でも特に年光さんに(あま)えた父親っ子だった。多分(たぶん)大好(だいす)きだった父親がいなくなったという現実(げんじつ)を見たくないんだろう」
 僕は腕を組んだまま絶句(ぜっく)してしまった。
「さっきの様子じゃ、桔梗も多分そうだ。自分の意志で言葉を発しないようにしているらしいからな」
 僕もうなずいた。何が理由(りゆう)なのかはわからないが、桔梗さんは自らの意志で、(けっ)して言葉を発しないことを選んだんだ。
「桔梗が今みたいになった原因(げんいん)がわかれば、この家族(かぞく)はきっと変わる」
 夕介がきっぱりと言った。その目には(つよ)い意志が感じられた。
 お互いしばらく黙ったまま庭を眺める。
 キジバトが一()(いけ)(まわ)りをうろついているのを、僕はぼんやりと目で()っていた。
「ところでお前、水菜にはもう(コク)ったのか?」
 唐突(とうとつ)にそう聞いてきた夕介は、もういつものにやにや(わら)いを()かべている。
「な……なんなんだよっ、いきなり!」
「まったく、あんなめんどくさい女がタイプとは、お前も苦労(くろう)するな」
「うっさいなあ、よけいなお世話(せわ)だよ!」
「で、どうなんだ?」
「──まだ何も。その前に拒絶(きょぜつ)された」
 夕介があきれた顔で言う。
「なんだそりゃあ? お前ほんとにあいつのこと好きなのか?」
「そりゃあ、まあ、そうなんだけど──」
 僕は思わずごにょごにょとごまかした。
 正直、自分が水菜さんを本当に好きだと言い切れるのか、今のところ自信(じしん)がない。
 確かに僕と同じような部分を持っている彼女のことが気にはなっているが、それを好意(こうい)と呼んでいいのだろうか?
「なんだ、はっきりしろよ。正面(しょうめん)からぶつからないと、(うご)くものも動かないだろうが」
「わかってるよ!」
 まったく、夕介は他人事(たにんごと)だと思って勝手なことを言う。
 が、ここでふと僕の頭に一つの仮説(かせつ)がひらめいた。もしかしたら。
「じゃ、そう言うアンタの方はどうなんだよ?」
 夕介の左手薬指(くすりゆび)指輪(ゆびわ)はない。この男、そこそこ(あそ)んでいるかもしれないが、家庭のにおいはどこからも感じられない。
 僕はカマをかけてみることにした。
「アンタ、蘭さんのこと(おも)ってるんだろ?」
 僕がそう言うと夕介は一瞬ぎくりとした顔をした。
 思ったとおり。いつも虚勢(きょせい)を張ってるくせに、意外(いがい)にリアクションがわかりやすい男だ。
「ああ、そうだ」
 ちょっとだけ考えるような間の後、夕介はあっさりと(みと)めた。
 夕介はそのまま(なか)(ひら)(なお)ったように続ける。
(べつ)問題(もんだい)ないだろう? お互い大人で、一人の男と一人の女だ」
「ふーん、それでなんだな」
 今度は僕がにやにや笑いをする(ばん)だ。
「どうりでやけにマジなわけだ。で、もうプロポーズはした?」
「お前に話す義務(ぎむ)はないな」
 夕介は憮然(ぶぜん)とした表情で返す。一応(いちおう)平静(へいせい)(よそお)ってはいるが、内心(ないしん)はどうだか。
「俺はお前みたいな半人前(はんにんまえ)と違ってデキる大人だからな、山積(さんせき)する問題を解決できるメドがついたら、そこでケリをつける」
 むだにカッコつけて言うが、(よう)するにプロポーズはまだしてないってことらしい。
「ふーんそうか、これからなんだ。ま、がんばってな」
 僕はにやにやしながら言った。
「なんでこの俺がお前なんぞにがんばってなんて言われなきゃならないんだ!」
 夕介はソファにふんぞり返って腕を組む。明らかに面白(おもしろ)くないという表情だ。
 僕はここぞとばかりに言ってやった。
「これまでのお返しだよ、お互い様だろ?」
「クソ、なんかムカつく! 納得(なっとく)いかん!」
 夕介は顔をしかめた。が、すぐに()えきれずに()き出した。
 つられて僕も笑った。
 僕も夕介も、しばらく笑いが止まらなかった。

第四章 呪い 〈五〉

 (そと)に出ると、午前中(ごぜんちゅう)とはうって()わって空はすっかり分厚(ぶあつ)(くも)(おお)われていた。
天気(てんき)大丈夫(だいじょうぶ)かなあ」
 (ぼく)は空を見上げながら(おも)わず(こえ)に出した。
(ひる)予報(よほう)だと夜半(やはん)から雨だって言ってたな。なんとかもてばいいんだが」
 夕介(ゆうすけ)心配(しんぱい)そうな(かお)で雲をにらんだ。
 (もん)(まえ)果林(かりん)ちゃんと桔梗(ききょう)さんが母屋(おもや)から上がってくるのを()っていると、(らん)さんが(おもて)へ出てきた。
「そろそろおでかけですか?」
 蘭さんが夕介に(たず)ねた。
「ええ、いよいよです」
 夕介は蘭さんの(ひとみ)をじっと見つめて言った。
 どこからかトンビが長鳴(ながな)きをしているのが聞こえる。
 下から()()()む音が(ちか)づいて、すぐに果林ちゃんと桔梗さんが姿(すがた)(あらわ)した。
「桔梗、大丈夫?」
 蘭さんが尋ねると桔梗さんはゆっくりとうなずいた。
水菜(みずな)さんは?」
「もっぺん声かけたけど、やっぱり返事(へんじ)もせん。よいよ、へんくう(気難(きむずか)())なんじゃけえ」
 僕が尋ねると果林ちゃんが口をとがらせながら(こた)えた。
 蘭さんが思わず()き出す。
「ふふ、水菜のそういうとこは(とう)さん(ゆず)りね。ほんと、どうでもええところばっかり()てから」
 蘭さんはそう言いながらもどこかうれしそうだ。
「心配せんと先に行きんさい。大丈夫、あの子はちゃんと(あと)から来るから」
「そうかねえ?」
「そうよ、(かあ)さんにはわかるんよ」
 蘭さんはそう言って果林ちゃんにウインクした。

 桔梗さんと果林ちゃんには後部座席(こうぶざせき)(すわ)ってもらい、僕が助手席(じょしゅせき)に座ることになった。
 夕介のSUVはステップがやや(たか)位置(いち)にあって、()(ひく)い桔梗さんは着物(きもの)(すそ)邪魔(じゃま)してうまく()()めない。
 夕介が手を()えて、ようやく座席に座ることができた。
「きぃねえちゃん(ひさ)しぶりの外じゃもん、もし事故(じこ)ったら承知(しょうち)せんけえね!」
 果林ちゃんが(うし)ろから夕介に(くぎ)()す。
「わかってるって、心配するな」
 そう言いながら夕介はエンジンをかけた。
 (ひく)いうなりを上げるエンジン音を(ひび)かせながら車は坂道(さかみち)を下る。あっという()県道(けんどう)に出ると、(さき)(ほう)には「奉献(ほうけん) 宇侘八幡宮(うたはちまんぐう)」と()()かれた大きな(のぼり)点々(てんてん)(つづ)いている。
 僕は助手席から()(かえ)って桔梗さんの様子(ようす)(たし)かめた。彼女(かのじょ)はじっと(まど)から(なが)れる景色(けしき)(なが)めている。
 車はさっきの(みち)(ぎゃく)にたどってゆっくりと宇侘(うた)八幡宮の参道(さんどう)に入り、正面(しょうめん)鳥居(とりい)を見ながら大きな石灯籠(いしどうろう)(あいだ)通過(つうか)したあと、左に()がって杉林(すぎばやし)の中の(せま)い道を(のぼ)って境内(けいだい)裏手(うらて)に出た。(いま)時間帯(じかんたい)、この駐車場(ちゅうしゃじょう)関係者(かんけいしゃ)以外(いがい)駐車禁止(きんし)だが、夕介は猿楽(さるがく)保存会(ほぞんかい)から許可証(きょかしょう)をもらっているから堂々(どうどう)()めることができる。
「おっと、そうそう、これが()るんだった」
 いったん車から()りた夕介はグローブボックスを()けると、緑色(みどりいろ)腕章(わんしょう)()りだした。腕章には白抜きで「報道(ほうどう)」の文字(もじ)が入っている。
「なるほど、アンタはプレス(あつか)いなんだな」
「ほかには今のところ地元(じもと)のケーブルテレビと西國(さいごく)新聞(しんぶん)地域(ちいき)新聞の日刊(にっかん)いわしろが入るらしい。さっき松岡(まつおか)さんに聞いた」
 夕介はジャケットの左腕(うで)に腕章を()きつけながら言う。
「なーなー、テレビのニュースにはならんの?」
 果林ちゃんが夕介の腕章をしげしげと眺めながら尋ねる。
「さあ、どうだか。それでも、報道各社(かくしゃ)へのプレスリリースをするようになったのは、前回(ぜんかい)年光(としみつ)さんが提案(ていあん)してからだそうだ」
「さすが元広告(もとこうこく)代理店(だいりてん)!」
 僕は感心(かんしん)して声を上げた。
「ほかにも年光さんの提案でいろいろと()わった部分(ぶぶん)があるらしい」
「へー、そうなんだ」
 夕介はトランクルームを開けると三脚(さんきゃく)を二(だい)、アルミ(せい)小型(こがた)脚立(きゃたつ)、それにアルミケースを二つ取り出した。
 アルミケースを二()(かつ)いだ夕介が先頭(せんとう)(ある)き、僕も脚立を左(かた)()け、三脚を両手に(つづ)いた。

 舞台(ぶたい)周辺(しゅうへん)見所(けんじょ)観客(かんきゃく)席)には(すで)に一五人ほどが場所(ばしょ)取りをしていた。それぞれ思い思いの場所でのんびりとくつろいだ様子(ようす)開演(かいえん)()っている。中にはお弁当(べんとう)持参(じさん)の人もいて、なんだかピクニックのようだ。
 テキヤが出ていないから(まつ)りに特有(とくゆう)活気(かっき)はないが、(しず)かな杉林に(かこ)まれた境内の()んだ空気(くうき)が、(なご)やかな中にも神聖(しんせい)な時間を感じさせている。
 夕介はアルミケースからカメラを取り出し、レンズを選択(せんたく)している。二台のカメラにそれぞれ長さの違うレンズを選んだ。
「おー、夕介ってなんかプロみたい!」
 その様子を見て果林ちゃんが感嘆(かんたん)の声を上げる。
「みたい、じゃなくてプロなんだっつーの」
 夕介が苦笑(にがわら)いしながら(かえ)す。
 桔梗さんが夕介の手元をもの(めずら)しそうにじっと見つめている。
「さて、どこに(かま)えるかな」
 夕介はファインダー()しに舞台を見ながら、カメラをどこに()えるかを(かんが)えている。
全体(ぜんたい)(とら)えるなら正面の(うし)ろの方がいいらしいよ。さっき(おし)えてもらったんだ」
「ふん、なるほど」
 まだ火は入っていないが、篝火(かがりび)が舞台の前で既に大きな存在(そんざい)感を(はな)っている。
「よし、一台はここに()えてくれ」
 僕は三脚の(あし)()ばすと夕介が指示(しじ)した(あた)りに()いた。
 夕介は手(ばや)く三脚にカメラを取り付けると、画面(がめん)でフレームを確認(かくにん)しながら微調整(びちょうせい)している。
 この位置(いち)からだと(たし)かに本舞台(ほんぶたい)から橋掛(はしがか)りまで、舞台全体(ぜんたい)状況(じょうきょう)がよくわかる。伊藤(いとう)さんが教えてくれた(とお)りだ。
 場所が()まると果林ちゃんはさっさとパイプ椅子(いす)に座りこんでしまった。
 桔梗さんはじっと立ったまま舞台の方を見つめている。
 白い長襦袢(ながじゅばん)姿の桔梗さんはそれだけで(つよ)印象(いんしょう)を放つ。
 時々(ときどき)周囲(しゅうい)の人の視線(しせん)を感じるが、彼女はまったく()(かい)していないようだ。
「なーなー、うちらもお弁当かおやつ、持ってくればえかったね」
「なんだ果林、もう(はら)()ったのか?」
 夕介がからかう。
「違うもん、なんか(たの)しそうじゃあ? その方が」
「確かに、なんだかピクニックみたいだね」
 薪能(たきぎのう)といとなんだか()ずまいを正して()ないといけないような気がするが、今のところリラックスした空気が流れている。
「まあ、長丁場(ながちょうば)になるからな。今日は三時間くらいか。全部(ぜんぶ)()わるのは九時ごろになるはずだ」
「えー、そんなに(なが)いん? もしかしたらうち()るかもー」
 夕介がもう一台のカメラの調整をしながら果林ちゃんに言うと、果林ちゃんは(かる)く肩をすくめて(した)を出した。
浩司(こうじ)さん、うちが寝よったら()こしてよ」
「でも、僕も寝るかもよ?」
「あはは、じゃったらわざわざ何しに来たん? 寝たらいっそ意味(いみ)ないじゃあ!」
 果林ちゃんは(わら)いながら(よこ)に立っている僕の足をばしばしとたたく。
「そうだ、お前ちょっと参道の方に行ってくれよ」
 夕介が参道の方に顔を()けながら僕に言った。
「何だよ?」
「観客向けにパンフレットを(くば)ってるはずだ、人数分(にんずうぶん)持って来てくれないか。台詞(せりふ)内容(ないよう)装束(しょうぞく)・舞台背景(はいけい)なんかの豆知識(まめちしき)をわかりやすいようにまとめてあるらしい。謡本(うたいぼん)もついてるから、観る時に参考(さんこう)になるだろう」
「もしかして、これも年光さんのアイデア?」
「よくわかったな。(うたい)にしろ(まい)にしろ、(えん)じる(もの)(たが)いに批評(ひひょう)し合うために観賞(かんしょう)する側面(そくめん)もある。より高度(こうど)な観賞ができるのはもちろんそういう観客だろうが、それじゃあ一般人(いっぱんじん)からはどんどん(とお)ざかってしまう。(むかし)言葉(ことば)でもあるし、素人(しろうと)はただ聞いただけじゃわからないことだらけだ。(のう)一見(いっけん)とっつきにくいのには、そういう理由(りゆう)もあるだろうな」
 確かに、台詞(せりふ)所作(しょさ)意味(いみ)、舞台背景などがわかれば、僕みたいなずぶの素人(しろうと)でも、ある程度(ていど)物語(ものがたり)理解(りかい)することができそうだ。
「それで、初心者(しょしんしゃ)でもわかるように色々(いろいろ)工夫(くふう)(かんが)えたそうだ。アイデア(だお)れに終わったが、モニターで字幕(じまく)(なが)すことも考えたらしいぞ」
「年光さんは(ふる)くからの伝統(でんとう)(あたら)しいものを(くわ)えようとしたんだな」
 僕がそう言うと夕介はにっと(わら)った。
「『人の(こころ)(めづら)しきと知る(ところ)(すなわ)面白(おもしろ)き心なり』(註一)だな。珍しく新しいものだからこそ、人の心に面白いと(うつ)るって意味だ」
「なんだよそれ?」
世阿弥(ぜあみ)だよ、世阿弥。『風姿花伝(ふうしかでん)』で猿楽(さるがく)基礎(きそ)形作(かたちづく)ったおっさん。(つね)に何か新しいものが入らなければ、どんなものでも惰性(だせい)(おちい)って、やがては(ほろ)ぶ」
「そういえば日本史(にほんし)教科書(きょうかしょ)で出てきたな、世阿弥の『風姿花伝』」
「あんなもん、テストのために(おぼ)えただけじゃ面白くもなんともないだろうが? 現場(げんば)のダイナミズムの中でこそ、ただの知識(ちしき)だったものが()となり(にく)となって本当に生きたものになる、てのが年光さんの持論(じろん)だった」
「つまり、『何でもやってみなきゃわからない』ってことか」
「そういうことだ。知ってるだけなら何の価値(かち)もない。知識は実践(じっせん)の中でこそ価値が出るんだ。ま、俺のも所詮(しょせん)一夜漬(いちやづ)けじゃあるがな」
 そう言って夕介は笑った。
 夕介が自分の知識が一夜漬けだとバラしたのが僕には少し意外(いがい)だった。(だま)っていればわからなかったのに。
「じゃ、ちょっともらってくるよ」
「ああ、(たの)む」
 僕は参道の方へ向って歩き始めた。
 参道からは三々五々(さんさんごご)観客が流れてくる。
 大半(たいはん)普段着(ふだんぎ)のままふらっと来たような地元(じもと)の人たち。
 スーツ姿(すがた)中年(ちゅうねん)男性(だんせい)和服(わふく)姿の年配(ねんぱい)の女性も見える。中には車椅子(くるまいす)に乗ったり、介添(かいぞ)えの家族(かぞく)に手を()かれた八十(だい)・九十代と思われる高齢(こうれい)の人もいる。
 ごった返すというほどではないが、人のざわめきが少しずつ境内を()たし始めていた。

 パンフレットをもらって(もど)ると、夕介が神事(しんじ)の前に松岡(まつおか)さんに取材(しゅざい)に行くと言うから僕もついていくことにした。果林ちゃんは場所取りをしておいてくれるというので(のこ)ることになったが、意外にも桔梗さんが一緒(いっしょ)に行く意思(いし)(しめ)した。
 出演者(しゅつえんしゃ)たちは(かがみ)()(じゅん)紋付(もんつき)羽織袴(はおりはかま)着替(きが)えている。
 松岡さんは鏡の間の(わき)に立って、僕らを出迎(でむか)えてくれた。
 普段(ふだん)小柄(こがら)平凡(へいぼん)なおじさんにしか見えない松岡さんが、今はぐっと引き()まった表情(ひょうじょう)になっている。(まげ)()っているわけではないけれど、時代劇(じだいげき)からそのまま()け出てきたかのような雰囲気(ふんいき)だ。
 夕介はさっそく了解(りょうかい)を取って紋付姿の松岡さんを撮影(さつえい)する。
妹尾(せのお)(くん)、撮影の準備(じゅんび)はもうええんかね?」
 緊張感は高まってきているが、松岡さんは気さくに(はな)してくれた。
「ええ、おかげさまで。徐々(じょじょ)に観客も(あつ)まってきていますね」
「そっちの子は?」
 松岡さんが桔梗さんに気づいて(たず)ねた。
 夕介が紹介(しょうかい)する。
「年光さんの次女(じじょ)の、桔梗さんです」
「ああ、七年前に稚児頭(ちごがしら)(つと)めた桔梗ちゃんかね、大きゅうになってから」
 桔梗さんは目を(ほそ)めている松岡さんに()かって(あたま)を下げた。
 松岡さんは桔梗さんのいでたちには一言(ひとこと)()れず、すぐに話題(わだい)()えた。
「天気が若干(じゃっかん)心配(しんぱい)じゃが、まあ何とかなるじゃろうて」
「もつといいんですが。どうですか、やっぱり緊張しますか?」
「そらあ、緊張するいね。じゃが、ええ緊張感じゃな」
 松岡さんは夕介にそう言ってから舞台を(なが)めると、ふっと笑った。
 その表情は、これから(たたか)いに(おもむ)こうとする老侍(ろうざむらい)のようにも見えた。
「あの、もし雨が()りだしたらどうなるんですか?」
 僕は気になっていたことを尋ねてみた。
「シテは(おもて)()けちょるから、降り出してもすぐにはわからん。後見(こうけん)(うご)いて、シテに知らせるんじゃ。演目(えんもく)(すす)具合(ぐあい)にもよるが、そのまま中止(ちゅうし)にするか、演目を()()んで(みじ)こうするかは、後見が判断(はんだん)する」
「後見って舞台を補助(ほじょ)するだけじゃないんですね」
「ああ、全部(ぜんぶ)段取(だんど)りがわかっとらにゃいけんけえ、なかなかやねこい(複雑(ふくざつ)な)んじゃ。ネンコーさんはその(てん)、のみこみがえかったからなあ」
 またもや年光さんだ。
 僕は満面(まんめん)()みをたたえた年光さんの遺影(いえい)を思い出した。凛々(りり)しい顔立(かおだ)ちだから、紋付がよく似合(にあ)いそうな気がする。
「ネンコーさんは()れ男じゃったけえ、雨が降らんよう、あの()から(たす)けてくれりゃあええが」
 松岡さんはそう言って天を(あお)いだ。
 (おも)そうな灰色(はいいろ)(くも)が空を(おお)っている。
「そういえば、松岡さんは年光さんとはどういうきっかけで知り合われたんです?」
 夕介が質問(しつもん)する。確かにそれは僕も気になるところだ。
「もともとは商工会(しょうこうかい)で知り()うたんよ。わしも建具屋(たてぐや)をやりよるからな。都会(とかい)から来た、わけわからん若造(わかぞう)か、と最初(さいしょ)は思うた」
 松岡さんは苦笑(にがわら)いを(まじ)えながら(つづ)けた。
「よそから来たばっかりで若いのにから、こっちのやり方にあれやこれや口を出すもんじゃけ、何じゃこいつはと思うて、最初は商工会でもいっそ相手にせんかった」
無視(むし)、ですか?」
 夕介が遠慮(えんりょ)がちに尋ねる。
「ま、そういうとこじゃな。今思うたらネンコーさんには(わり)いことしたのう。ただ、そん時はそれまでのこっちのやり方が否定(ひてい)されたような気がしてから、面白うなかったんも確かじゃ」
 松岡さんは正直(しょうじき)な人だと思う。ネガティブな感情(かんじょう)(つつ)(かく)さず話してくれる。
「しかしまあ、半年(はんとし)以上(いじょう)毎月(まいつき)のように商工会で顔合わせちょるうちに、こいつはちっと(ちが)うかもわからんなと思いだした。無視されようが何しようが、ネンコーさんはあいかわらずああやこうや言い続けちょったからの。深津峡(ふかつきょう)……いうか、この山代(やましろ)のことを、こねえに(ねつ)うに(かた)れる(もん)が、わしらのうちにおるか言うたら、わしも(ふく)めて(だれ)もおらだった。若い者がおらんいうんじゃない、(ねつ)い者がおらんかったんよ」
 松岡さんは少し顔を紅潮(こうちょう)させながら語り続ける。
「わしら()の者が(ねつ)うにならんで何の故郷(ふるさと)か。じゃから、ネンコーさんが本物(ほんもの)かどうか知りとうて、わしの方から保存会(ほぞんかい)(さそ)うた」
「年光さんの熱意(ねつい)を、(ため)してみようと思われたんですね」
 夕介の言葉に松岡さんは(ふか)くうなずいた。
「まあ、考えてみりゃあ失礼(しつれい)な話じゃな、この深津峡を気に入ってわざわざ(うつ)()んだ者を試すような真似(まね)をしたんじゃけ。じゃが、ネンコーさんは正真正銘(しょうしんしょうめい)、本物じゃった」
 松岡さんは(なつ)かしそうに目を細める。
桐葉荘(とうようそう)経営(けいえい)軌道(きどう)に乗ったんは、ようやっと三年が()ぎてからじゃ。前回(ぜんかい)奉納(ほうのう)の準備を(はじ)めた(ころ)はまだその前じゃったから、ネンコーさんも(けっ)して(らく)じゃなかったはずじゃが、稲村(いなむら)君と一緒に一歩(いっぽ)退()かんと裏方(うらかた)(てっ)してくれた。こまごましたことやらなんやら、それこそ市役所(しやくしょ)とのやりとりやら、やねこい(煩雑(はんざつ)な)ことばっかりじゃったのにな。ああ、こいつは本物じゃと思うた。うれしかったちゅうもんじゃない」
 夕介が何度もうなずいている。
「そん時から、今年の『紫桜(しざくら)』にはネンコーさんにも舞台に上がってもらうつもりじゃった。思いもよらず(はよ)うに()うなってしもうたけえそれは(かな)わんが……、わしは今でもネンコーさんがそこにおるような気がする」
 松岡さんはそう言って再び舞台の方に顔を向けた。
 僕もまだ誰もいない舞台を見た。
 (おだ)やかな(かぜ)が、舞台の四隅(よすみ)に立つ青竹(あおだけ)(むす)ばれた注連飾(しめかざ)りを()らしている。
「今回の『紫桜(しざくら)』は、ネンコーさんの(とむら)合戦(がっせん)じゃ。わしも精一杯(せいいっぱい)舞う。しかと見届(みとど)けてくれ」
 松岡さんは力(づよ)くそう言った。
 僕らに、というよりは、今そばにいる年光さんに直接(ちょくせつ)語りかけるような口調(くちょう)だった。
 桔梗さんは、そんな松岡さんの言葉に、じっと聞き入っているようだった。

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註一 花傳第七 別紙口傳より(引用は岩波文庫『風姿花伝』野上豊一郎・西尾実校訂から。字体は新字体に改めた)

第四章 呪い 〈六〉

 本殿(ほんでん)での神事(しんじ)関係者(かんけいしゃ)のみで(おこな)われるため、(ぼく)桔梗(ききょう)さんは見所(けんじょ)果林(かりん)ちゃんのところへ(もど)った。夕介(ゆうすけ)()(つづ)き本殿で神事を取材中(しゅざいちゅう)だ。
 見所にはだんだんと()いた椅子(いす)(すく)なくなってきている。
 もともとそんなに(ひろ)場所(ばしょ)ではないが、ざっと一五〇人ぐらいの人だろうか、みんなそれぞれに談笑(だんしょう)したり何かを()べたりしてのんびりと開演(かいえん)()っている。
 (しず)かだった境内(けいだい)(いま)はざわめきで()たされている。昂揚感(こうようかん)ではないし、かといって緊張(きんちょう)感とも少し(ちが)う、うまく言えないが独特(どくとく)空気(くうき)(あた)りに(なが)れている。
 果林ちゃんは(すわ)ったままスマートフォンを一心(いっしん)に見つめている。
 僕も彼女の一(れつ)(うし)ろに(こし)を下ろした。
 桔梗さんは座らずに立ったまま舞台(ぶたい)の方を(なが)めている。
「あ、おかえりー。どうじゃったー?」
「うん、松岡(まつおか)さんから年光(としみつ)さんの(はなし)を聞いてきたよ」
「ふーん」
 果林ちゃんはスマートフォンの画面(がめん)から目を(はな)さず、興味(きょうみ)なさそうに生返事(なまへんじ)をする。
「果林ちゃんスマホ()ってるんだ。(いえ)じゃ電波(でんぱ)(とど)かないんじゃないの?」
「うん、圏外(けんがい)。いちおーWiFi(ワイファイ)あるからネットはできるんよ。通話(つうわ)はアプリでするしー」
「なるほどね」
「なーなー、浩司(こうじ)さんはなんかSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)とかしとらんの?」
 果林ちゃんはまだ画面から目を離さずに僕に()いた。
「してないよ、ガラケーだし」
「えー、いまどきガラケー? ウケるー! なー、なんでなんで?」
 果林ちゃんはやっとスマホから(かお)を上げて()(かえ)り、古代生物(こだいせいぶつ)にでも遭遇(そうぐう)したような目で僕を見た。
(まえ)はスマホだったけど、いろいろあってさ。面倒(めんどう)になってガラケーに()えたんだ」
「ふーん、そうなんじゃー。えー、いろいろって何があったん?」
 果林ちゃんは()もたれに手を()せ、座席(ざせき)の上にひざ立ちになって僕に()う。
 まいったな、正直(しょうじき)(おも)い出したくない(にが)い思い出なんだけど。
 桔梗さんもいつの()にか座って僕のことをじっと見ている。どうやら興味を持たれているようだ。
「あんま言いたくはないんだけど」
「そんな(ふう)に言われたらよけい気になるじゃあ? 聞きたい聞きたい! なー、なになに?」
 果林ちゃんはますます目を(かがや)かせる。どうやら僕に黙秘権(もくひけん)行使(こうし)する機会(きかい)はないらしい。
 僕は観念(かんねん)して白状(はくじょう)することにした。
「──(じつ)は、炎上(えんじょう)させたんだ」
「エンジョー?」
 果林ちゃんが怪訝(けげん)な顔で僕の言葉(ことば)()り返した。

 高校で友達(ともだち)が少なかった僕は、大学ではどうにかしてそれを克服(こくふく)しようと躍起(やっき)になっていた。
 大学に合格(ごうかく)するとすぐ、いくつかのSNSを駆使(くし)して(おな)じ大学の合格(しゃ)とつながって、何とか友達を()やそうと悪戦苦闘(あくせんくとう)した。その甲斐(かい)あって、SNSを(つう)じた「友達」は(すう)十人を(かぞ)え、僕はその維持(いじ)のための足あと(のこ)しやコメントに忙殺(ぼうさつ)されることになった。それはそれで(たの)しいつもりでいたし、ここまでは思惑(おもわく)(どお)り。
 でも、所詮(しょせん)はリアルな友達ではないから、だんだんとボロが出た。
 適当(てきとう)にごまかしながら続けていたが、ある(とき)突然(とつぜん)、それは()きた。
「友達」になった(ちが)学部(がくぶ)男子(だんし)との(あいだ)で、些細(ささい)なきっかけでコメントの応酬(おうしゅう)(はじ)まり、あっという間にそれが(ほか)の「友達」にまで広がってしまったのだ。
 僕は(かれ)徹底的(てっていてき)論争(ろんそう)する気でいたから、色々(いろいろ)なところで彼の言い分の(あやま)りを指摘(してき)し、自分(じぶん)正当性(せいとうせい)主張(しゅちょう)した。しかし、それが逆効果(ぎゃくこうか)だと気づいた時にはもう手遅(ておく)れだった。タイムラインが僕に(たい)する否定(ひてい)的なコメントで一気(いっき)()()くされたと思ったら、(しお)()くようにそれもなくなった。
 大半(たいはん)の「友達」から僕のIDはブロックされたのだ。
 学部の同級生(どうきゅうせい)の中にも彼の「友達」は少なくなかったため、僕はオンラインだけでなくリアルでも孤立(こりつ)することになった。
 気づいてみたらひとりぼっち。
 友達を増やしたくてSNSを始めたのに、逆に一人も友達がいなくなってしまうという皮肉(ひにく)状況(じょうきょう)だ。
 さすがに反省(はんせい)した僕はすべてのSNSを退会(たいかい)し、スマートフォンを手放(てばな)してガラケーに変えた。それで(うしな)ったものが戻ってくるわけでもないけれど、自分の中でのけじめのつもりだった。
 今年(ことし)春先(はるさき)のことだ。

「な、(わら)えるだろ?」
「なんか浩司さんかわいそー」
 果林ちゃんが(あわ)れみの目で僕を見る。同情(どうじょう)されるとなんだかよけいにみじめな気分(きぶん)になる。
「ま、しょうがないよ、自業自得(じごうじとく)だ」
 僕は自嘲気味(じちょうぎみ)につぶやいた。
「だから僕はガラケーなんだ。ちょっと不便(ふべん)だけど、まあ、これぐらいの方が僕にはちょうどいいや」
「ふーん、なるほどねー。浩司さんもみず(ねえ)と一緒で、友達おらん人なんじゃ」
 果林ちゃんがにやにやしながら言う。(いた)いところを()かれてムッとするが、(たし)かにその通りだから仕方(しかた)ない。
「うちはすぐ友達できるけえ、そういうのいっそわからんなあ。みず姉も浩司さんも、(むつか)しゅうに考えすぎなんじゃないん?」
 果林ちゃんは椅子の上に(さか)さまに座りこんだまま、背もたれの両手(りょうて)の上に顔を載せて僕に言った。

「──一切の事は、()はれを道としてこそ、
 (よろづ)風情(ふぜい)にはなるべき(ことわり)なれ。
 ()はれを現はすは、言葉なり──」(註二)

 何の前()れもなくその言葉は(はっ)せられ、ふっとざわめきの中に()けた。
「え? 今の、もしかして──」
 果林ちゃんがそう言って桔梗さんの顔を見た。
 桔梗さんはすっと背筋(せすじ)()ばして舞台の方を向いている。
 (とお)くを見るような目で何かを回想(かいそう)しているようにも見えるし、少し(けわ)しい顔にも見える。
 あまりに突然(とつぜん)のことに、果林ちゃんは(こえ)が声にならず、口をぱくぱくさせるばかりだ。
「え? え? 今のきぃねえちゃん……よね?」
間違(まちが)いないよ、桔梗さんの声だ!」
 僕も少し興奮(こうふん)気味の声を上げた。
「桔梗が、しゃべったんですか?」
 いきなり僕の頭の上から、予想外(よそうがい)の声が()ってきた。
水菜(みずな)さん!」
 振り返ると、水菜さんが立っていた。
 (かさ)を五本も(かか)え、(とう)のバスケットまで(たずさ)えている。
本当(ほんとう)ですか、森崎(もりさき)さん? 本当に桔梗が……?」
「うちも聞いた! きぃねえちゃんがしゃべった! しゃべったんよ、みず姉!」
 果林ちゃんは興奮して立ち上がった。
 (とう)の桔梗さんは、何事(なにごと)もなかったように座ったまま舞台をじっと見つめている。
(しん)じられない……なんで?」
 水菜さんは(おどろ)いた顔で桔梗さんを見つめながら立ち()くしている。
「水菜さん、来てくれたんですね!」
 僕も立ち上がると、茫然(ぼうぜん)としたままの水菜さんから傘を()()って、(かたわ)らに()いた。
「え、ええ。これを──」
 水菜さんはそう言ってバスケットを()し出す。
 果林ちゃんがバスケットの上に()けられたふきんを取ってのぞきこむ。
「おおー、サンドイッチじゃ! さっすがみず姉、気が()くぅ!」
「わたしが作ったんじゃないよ、(かあ)さんに持って行くよう(たの)まれたの。わたしは持ってきただけ」
 水菜さんは少しぶっきらぼうにそう言った。
 (らん)さんはすべてお見通(みとお)しで、そんな水菜さんをここに()れ出すためにわざと(あと)から頼んだのだろう。
「いただき!」
 果林ちゃんはサンドイッチを一()れ取り出すとさっそくパクついた。
「あ、こら! まだ()べていいなんて言ってないでしょ!」
「まあええじゃあ、どうせ食べるために持ってきたんじゃけえ♪」
「もう、食い意地(いじ)()ってるんだから」
 そう言いながらも、水菜さんはやっと(かた)表情(ひょうじょう)(くず)した。
「それより、さっきの話本当ですか? 桔梗がしゃべったって」
 水菜さんは僕との間の椅子にバスケットを置いて座りながら僕に尋ねる。
「うん、間違いなあよ。言葉がどうとかって言うた」
 僕の前に座っている果林ちゃんが口をもごもごと(うご)かしながら答えた。
昨日(きのう)の晩には、僕と会話(かいわ)もしたんです」
「何があったの? 今まで何があっても絶対(ぜったい)に口を(ひら)こうとしなかったのに……」
 水菜さんは桔梗さんに問いかけたが、桔梗さんは舞台の方をじっと見つめたまま、()じろぎひとつしなかった。
 宮司(ぐうじ)と火入れ奉仕者(ほうししゃ)入場(にゅうじょう)するとアナウンスが流れた。
 本殿の方を見ると、白い装束(しょうぞく)神職(しんしょく)に続いて、羽織袴姿(はおりはかますがた)の男たちが一(れつ)になって火のついた松明(たいまつ)を持って()りてくる。
 舞台正面(しょうめん)に神職が立ち、男たちはそれぞれの篝火(かがりび)(わき)(ひか)えた。
 一同(いちどう)起立(きりつ)(うなが)すアナウンスがあり、僕らもそれに(したが)った。神職が祝詞(のりと)()べ、奉献(ほうけん)儀式(ぎしき)を行う間、観客はみな(かる)(こうべ)()れてそれを聞いている。
 続いて火入れの()となり、神職の合図(あいず)により見所(けんじょ)篝火(かがりび)同時(どうじ)に火が入った。見所全体(ぜんたい)(さざなみ)のようにざわめき、()いで自然(しぜん)拍手(はくしゅ)()き起こる。
 いよいよ、猿楽(さるがく)紫桜(しざくら)』の(まく)が上がる。


〈第四章終わり〉
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註二 花傳第六 花修云(クワシュにいはく)より(引用は岩波文庫『風姿花伝』野上豊一郎・西尾実校訂から。字体は新字体に改めた)

第五章 紫桜(しざくら) 〈一〉

 どこからか(ふえ)()(ほそ)(ひび)くと、(なみ)(しず)まるように見所(けんじょ)から徐々(じょじょ)にざわめきが()いていく。「調(しら)べ」と()ばれる、(かがみ)()(おこな)われる音合(おとあ)わせ(けん)前奏曲(ぜんそうきょく)のようなものらしい。(つづみ)の音も聞こえてくる。
「いよいよ(はじ)まるな」
 (ぼく)の左(どなり)通路(つうろ)でカメラを(かか)えて立っている夕介(ゆうすけ)が僕に()げた。
「うん、(すこ)緊張(きんちょう)してきた」
「なんでお(まえ)が緊張すんだよ?」
 夕介が小声(こごえ)(わら)うが、そう言う夕介だって少し表情(ひょうじょう)がこわばっている。
 (いま)はまだ()かりがなくても十分(じゅうぶん)舞台(ぶたい)様子(ようす)がわかるが、今日(きょう)はどんよりと(くも)っているから、(あた)りはあっという()(よる)(やみ)(つつ)まれてしまうだろう。(すで)に見所の後方(こうほう)から投光機(とうこうき)が舞台に()かって(ひかり)()けている。
 気の早い虫が()く声が聞こえ、篝火(かがりび)からは火の()のはぜる音が耳に(とど)く。(うし)ろの方からは発電機(はつでんき)(ひく)いうなりも聞こえる。
 最初(さいしょ)()(まく)半分(はんぶん)(ひら)いて、囃子方(はやしかた)橋掛(はしがか)りを(ある)いて本舞台(ほんぶたい)に上がる。
 (つづ)いて舞台後方(こうほう)のアト()右手から、次々(つぎつぎ)紋付姿(もんつきすがた)男性(だんせい)たちが舞台に上がり(はじ)めた。
 舞台は僕たちの見ている場所(ばしょ)から一五メートルは(はな)れているはずだが、板敷(いたじ)きを()む音までが聞こえてくる。
 最初にアト座に上がった男性は、(たけ)()まれた枠型(わくがた)台座(だいざ)()えられた(さくら)(えだ)(つく)(もの)(ささ)げ持っていた。
 桜の枝には満開(まんかい)の花。
「よくできてるな、ここからだと本物(ほんもの)に見える」
 夕介がつぶやいた。
 和紙(わし)で作られているという桜の花は、夕介の言うとおり本物に見える。本物と(おな)薄紅色(うすべにいろ)で、簡素(かんそ)なつくりながらも素朴(そぼく)(うつく)しさがある。
 桜の作り物は舞台の正面(しょうめん)見所()りに()かれた。
 舞台上には男性が十人上がった。
 (さき)ほど作り物を据えた男性は僕から見てアト座の左(すみ)……つまり橋掛り(がわ)(すわ)ったから、この人がどうやら後見(こうけん)らしい。
 後見の手前には囃子方(はやしかた)が正面を向いて(なら)んで座る。
 向かって左から太鼓(たいこ)大鼓(おおつづみ)小鼓(こつづみ)、一(ばん)右に笛の(じゅん)だ。
 太鼓はかなり小ぶりな大きさで、座った状態(じょうたい)(だい)に据えられたものを二本の(ばち)(たた)くようだ。
 大小の鼓方(つづみかた)はそれぞれ合引(あいびき)と呼ばれる床几(しょうぎ)に座った。
 舞台右手の地謡座(じうたいざ)には地謡方(じうたいかた)が五人、脇正面(わきしょうめん)……僕らから見て左の方向(ほうこう)を向いて板敷きにじかに正座(せいざ)する。
 夕介じゃないが、僕もさっきパンフレットを見て(おぼ)えたばかりの配置(はいち)だ。
 よく見ると、地謡座に見覚(みおぼ)えのある(かお)……というより(あたま)があった。タクシーの運転手(うんてんしゅ)青笹(あおざさ)さんだ。黒縁眼鏡(くろぶちめがね)をしていなくてもあの頭ですぐわかる。普段(ふだん)温和(おんわ)(かん)じだが、今は緊張からか少しこわい表情(ひょうじょう)に見える。小さな目が脇正面の空間(くうかん)(するど)くにらんでいる。
 舞台に上がった全員(ぜんいん)昼間(ひるま)一緒(いっしょ)作業(さぎょう)した気のいいおじさんたちのはずだが、羽織袴(はおりはかま)()けているため今は威厳(いげん)のある雰囲気(ふんいき)をまとっていて、みんなまるで別人(べつじん)のようだ。
 後見と笛が目配(めくば)せをしたと思ったら、一呼吸(ひとこきゅう)置いて笛が(かな)しげな細い音で(うた)い始めた。
「始まった」
 夕介が(みじか)くつぶやくとカメラを(かま)えた。
 これから始まる悲劇(ひげき)予感(よかん)させるように、哀調(あいちょう)()びた笛の音が杉林(すぎばやし)の中に(ひび)いては()えていく。
 ふっと笛の音が()むと、見所の観客(かんきゃく)の目が一斉(いっせい)に橋掛りの方へ向いた。
 揚げ幕がさっと上げられ、いよいよ演者(えんじゃ)登場(とうじょう)する。
 最初に登場したのは主役(しゅやく)相手(あいて)役となるワキだ。
 ワキは(おもて)を着けない直面(ひためん)(えん)じる。しかし、面を着けずに演じるといっても、あえて表情をつけることはなく、(みずか)らの顔を面として演じるのだと夕介が(おし)えてくれた。
 きちっと着付(きつ)けた着物(きもの)の上に茶渋(ちゃしぶ)色の水衣(みずころも)と呼ばれる(うす)(きぬ)上着(うわぎ)を着けていて、旅装(りょそう)であることを(あらわ)(つえ)(たずさ)えている。こちらはパンフレットから()情報(じょうほう)

(はる)雲路(くもぢ)旅衣(たびごろも) 春の雲路の旅衣
宇侘(うた)早瀬(はやせ)の (さき)(いそ)がん

 ワキは(うた)いながら(じつ)にゆっくりとした摺足(すりあし)で橋掛りを(すす)んでくる。足を前に(はこ)ぶのだが、何かがそれを()(とど)めようとしているかのような、(おさ)えた動作(どうさ)
 橋掛りから本舞台に上がったところで、ワキは正面を向いて(ふし)を付けない台詞(せりふ)自己紹介(じこしょうかい)を始めた。

これは 石見(いわみ)(くに)より()でたる(なにがし)にて(そうろう)
(あきな)ひにて(いそ)(まい)(つかま)らんとて
宇侘川(うたがわ)をくだり候間(そうろうあいだ) (うつく)しき(さくら)(つつみ)にあへり

 普段(ふだん)会話(かいわ)の声とは発声(はっせい)(まった)(ちが)う。(けっ)して大声(おおごえ)()り上げているわけではないのに、周囲(しゅうい)にはっきりと響く、力(づよ)い発声だ。
 (だい)(まく)桜堤(さくらづつみ)』は、石見の国の(なにがし)という商人(しょうにん)(つつみ)()えられた見事(みごと)山桜(やまざくら)()める場面(ばめん)から始まった。
 某は優雅(ゆうが)所作(しょさ)(おうぎ)を広げ、大小の(つづみ)の音に合わせて桜の作り物の周囲をゆっくりと()(うた)い、桜の名所(めいしょ)吉野(よしの)もこのような情景(じょうけい)であろうか、と讃嘆(さんたん)する。
 今は(あき)なのに、舞台(じょう)だけはうららかな春の日だ。
 小鼓(こつづみ)はポンとやわらかな音を()き出し、大鼓(おおつづみ)はカッという(するど)い音を立てる。
 大鼓の奏者(そうしゃ)がとる所作がカッコいい。()け声を発しながらすっと右手を(よこ)()ばしたかと(おも)うとすばやく(てのひら)(かえ)り、(つぎ)瞬間(しゅんかん)には左(わき)(かか)えた(つづみ)をもう()っている。一連(いちれん)の所作が空気(くうき)()くような鋭い音を()む。
 一方(いっぽう)、小鼓は奏者の左(かた)()せられ、打ち方次第(しだい)様々(さまざま)表情(ひょうじょう)の音を出す。むしろリズムを主導(しゅどう)するのは小鼓の方だ。
 大小の鼓が独特(どくとく)のリズムを作り出し、某は満開の桜を(たの)しむかのようにゆったりと舞う。
 やがてワキは舞台向かって右側、地謡方の前方(ぜんぽう)(ひか)え、橋掛りの方を向いた。自然(しぜん)と僕らの目も(ふたた)び橋掛りの方へ誘導(ゆうどう)される。
 そのタイミングを(はか)ったように揚げ幕がさっと上がり、鏡の間から主役(しゅやく)であるシテが登場した。
「きれい──」
 水菜(みずな)さんが思わずためいきを()らすのが聞こえた。
 見所には一瞬(いっしゅん)(いき)をのむような空気が流れる。
 シテは(わか)(むすめ)(おもて)を着け、唐織(からおり)という(はな)やかな小袖(こそで)を、ワンピースのようにきちんと着付けた着流(きなが)しの出立(いでたち)で登場した。唐織には赤い色がふんだんに使(つか)われていて、見た目にも(あざ)やかだ。まるで錦秋(きんしゅう)(えが)いた日本画(にほんが)を見るような、繊細(せんさい)な美しさ。
 パンフレットによれば、(くれない)色の入った唐織は「紅入(いろいり)」と呼ばれ、未婚(みこん)の若い女性(じょせい)(あらわ)しているのだそうだ。
 シテは笛の音が流れる中、橋掛りをゆっくりとした摺足でしずしずと進んでいく。
 鮮やかな色づかいの装束(しょうぞく)の中で、白い足袋(たび)だけがすっすっと動いていくので(ぎゃく)印象的(いんしょうてき)だ。
 演者(えんじゃ)は男性のはずだが、橋掛りの上には確かに女性のまとう空気が流れている。
 時間の流れまでがゆっくりになったかのような悠然(ゆうぜん)とした、しかし(けっ)して緩慢(かんまん)ではない独特の所作で、いよいよシテが本舞台に上がった。
 ワキが声をかける。

いかにこれなる人に (たず)(もう)(こと)(そうろう)
げにも美事(みごと)なる桜にて候ぞ さても名にし()ふ桜にてや あらんずらん
この桜の()われ もし存知(ぞんぢ)なれば お(をし)(そうら)

 前シテは里女(さとおんな)、つまり地元(じもと)の若い娘という設定(せってい)だ。
 石見の某は、この見事な桜のいわれを知っているなら教えてほしい、と女に()うた。
 里女は桜の作り物の脇に立つと、それに(こた)えて堤の桜の由来(ゆらい)(かた)り始める。

人の()は 早瀬(はやせ)(ごと)く うつろひて
 (しづ)める花は ()かぶ世もなし

 里女は最初に哀調のこもった調子(ちょうし)和歌(わか)(うた)った。
 (おもて)()けていてもシテの声は(あた)りに朗々(ろうろう)(ひび)く。
 男性の声であることは(あき)らかなのに、調子の付け方がワキとは違ってどこか優美(ゆうび)で、確かに女性らしさを感じさせる(うた)い方だ。(ふえ)(つづみ)がそれに(かさ)なっていく。
 もはや(だれ)もが(わす)れたが、その(むかし)沓懸(くつかけ)の山で(ほろ)びた武将(ぶしょう)があった。主君(しゅくん)への忠義(ちゅうぎ)(つらぬ)いて敗北(はいぼく)の明らかな(たたか)いに(のぞ)み、(つい)(むな)しくなったますらおの、その娘がここに(しず)んでいるのだと。
 里女はゆっくりと舞台の前方に移動(いどう)し、優雅な所作で舞扇(まいおうぎ)を広げた。金色の()に満開の花をつけた桜の古木(こぼく)と流れる川が描かれた(がら)が目を引く。
 隣の水菜さんが、はっと(いき)()むのがわかった。
 水菜さんは魅入(みい)られたように舞台をじっと見つめている。僕が彼女(かのじょ)の横顔を見ていることにまったく気づいていない。ものすごい集中力(しゅうちゅうりょく)だ。
 里女はそのままゆっくりと舞い始めた。
 (いくさ)(のが)れて山代(やましろ)へ流れ着いた娘は、身分(みぶん)(かく)して(てら)()をひそめ、戦死(せんし)した(ちち)菩提(ぼだい)(とむら)っていた。
 ところが、翌年(よくとし)の夏に宇侘川(うたがわ)豪雨(ごうう)により氾濫(はんらん)(おお)くの被害(ひがい)が出たため、領主(りょうしゅ)(つつみ)(つく)ることを()め、人柱(ひとはしら)となる生娘(きむすめ)(つの)った。
 しかし、誰もが顔を見合わせるばかり。
 その様子を見ていた娘は、(みずか)ら人柱に名乗(なの)り出た。

(もと)より甲斐(かひ)なき(いのち)なれ
この身を(ささ)げて もろともに
(いわお)となりて ()が命
世の(ため)使(つか)ふこそ
いみじく浄土(じょうど)弄引(ろういん)なるべし

 元々(もともと)どうするあてもなかった自分(じぶん)の命、世のために捧げれば、極楽(ごくらく)浄土に往生(おうじょう)できるだろう、と地謡方が謡う。
 堤は数年を()完成(かんせい)し、堤に沿()って植えられた山桜こそが、目の前の桜である、と里女は旅人(たびびと)に告げた。
 堤の(いしずえ)となって身を沈めた娘の名は、桜姫(おうひめ)
 ここで里女はふっと舞うのを()めた。某が不審(ふしん)に思って顔を上げる。

人の世は 早瀬の如く うつろひて
 沈める花は 浮かぶ世もなし

 里女が再び最初の和歌を(うた)った。
 (つぎ)瞬間(しゅんかん)(するど)空気(くうき)()()くような高音(こうおん)(ふえ)哀切(あいせつ)(きわ)まる調子で(うた)い始めた。
 動きを止めていた里女が今度(こんど)(はげ)しく舞い始め、裂帛(れっぱく)()け声とともに大小の(つづみ)()()らされる。
 里女は舞台を(なな)めに移動(いどう)し、数度(すうど)足踏(あしぶ)みを()(かえ)す。
 何かを(うった)えかけるような所作(しょさ)だ。
 広げた扇を両手(りょうて)で持ってかざしたまま、今度(こんど)は舞台を横切(よこぎ)るように移動する。
 ()ちる花びらを扇で()けるような仕草(しぐさ)をしたかと思えば、(かろ)やかに()(えが)き、すっと身を沈める。
 舞台上には何もないのに、辺りは桜吹雪(さくらふぶき)(つつ)まれているかのように錯覚(さっかく)する。
 (せつ)なくも美しい舞。
 やがて里女は(ふたた)び舞台を斜めに移動し、後見(こうけん)の手前で立ち止まると、観客に()を向けたまま扇をたたんだ。
 地謡方が斉唱(せいしょう)する。

はや花風(はなかぜ)にて舞いたると 思うほどに
花曇(はなぐも)にかき(みだ)れて
(あと)も見せずなりにけり 跡も見せずになりにけり

 石見(いわみ)(なにがし)見守(みまも)る中、里女はそのままつっと橋掛(はしがか)りを(わた)り、()(まく)の向こうに()えてしまった。
 花吹雪(はなふぶき)にまぎれて里女の姿はかき消えてしまったのだ。
 舞台の上にはあっけにとられた某が立ち()くしている。
 舞台がいったん(しず)まると、辺りが(すで)夕闇(ゆうやみ)に沈んでいることに気づいた。辺りに白い(こな)のようなものが(ただよ)っていると思ったら、篝火(かがりび)から流れてきた(たきぎ)(はい)だった。
 不思議(ふしぎ)なことに、舞台上で物語(ものがたり)展開(てんかい)されている間は周囲(しゅうい)の音は一切(いっさい)耳に入らない。
 舞台の上には面をつけない(べつ)役者(やくしゃ)が橋掛りから登場(とうじょう)した。ワキとは違って少し大げさな所作で、酒瓶(さかびん)(ささ)げ持って橋掛りを歩く。

このあたりの(もの)でござる
宇侘八幡(うたはちまん)勧進(かんじん)に 神酒(みき)(たてまつ)らんとて
(いそ)(まい)(ところ)にて(そうろう)

 通常(つうじょう)狂言方(きょうげんがた)、つまり狂言を演じる者が(つと)める、アイという役回りだ。宇侘八幡宮(うたはちまんぐう)ではアイのみを演じるのでアイ方と呼んでいるらしい。アイは基本(きほん)的に地元の住人(じゅうにん)で、(たび)の者であるワキにその土地(とち)伝承(でんしょう)(くわ)しく語って聞かせることで、前場(まえば)でシテが展開(てんかい)した物語が伝承の(とお)りであることを(つた)える(やく)だ。
 某がその姿を(みと)め、呼び止めた。
 先ほど里女にこの地の桜の由来を尋ねたところ、さる武将の娘が人柱となった堤に植えられた山桜であると教えられたが、里女の姿は桜吹雪にまぎれてかき消えてしまった。この話はまことであろうか、と。
 ワキの()いかけに答えてアイが言う。
 仔細(しさい)(ぞん)ぜぬが、いかにもこの桜堤(さくらづつみ)沓掛山(くつかけやま)無念(むねん)の戦死を()げた武将の娘・桜姫(おうひめ)が人柱となって造営(ぞうえい)されたものである、と。
 堤が出来上がってから七年が間、堤の桜は(むらさき)の花をつけたと言われているが、御身(おんみ)存知(ぞんじ)であるか、と(ぎゃく)に問う。
 某は今初めて聞く話だと(おどろ)いて言う。
 紫桜(しざくら)とはさても(めずら)しいことだ、自分も見てみたいものだと某は(きょう)をそそられる。
 しかしアイは、桜姫(おうひめ)の無念が紫桜(しざくら)()かせたのだ、と言う。
 この世を()りがたい姫の魂魄(こんぱく)が、御身の前に里女の姿となって(あらわ)れたのだろう、(ねんご)ろに(とむら)うがよろしいと思う、と告げて彼は去っていった。
 某はいったん旅を(とど)め、堤の脇で野宿(のじゅく)することにする。
 (よる)になり、満開(まんかい)の桜が(あや)しく咲き(ほこ)っている様子を地謡方が謡う。
 再び、笛が哀切な旋律(せんりつ)(かな)で始めた。
 揚げ幕が上がり、(のち)シテが登場する。
 後シテは前場(まえば)のあでやかな衣装(いしょう)からうって()わって、地味(じみ)小袖(こそで)の上に白い水衣(みずころも)で橋掛りに現れた。(おもて)は前場とは違い、苦悶(くもん)表情(ひょうじょう)()かべた顔立(かおだ)ちのものに()えられている。
 僕は思わず白装束(しろしょうぞく)桔梗(ききょう)さんを連想(れんそう)して彼女(かのじょ)の方を見た。
 桔梗さんは、(ととの)った顔立ちをじっと舞台に向けている。(なが)睫毛(まつげ)の下の(ひとみ)が、白い装束(しょうぞく)をまとった(のち)シテをまっすぐに射抜(いぬ)いている。
 水菜さんも同じことを連想したらしい、桔梗さんを一瞥(いちべつ)したがすぐにまた舞台に目を(もど)した。
 一方(いっぽう)、桔梗さんの左隣に座っている果林(かりん)ちゃんはかくん、かくんと(くび)が落ち始めている。
「果林ちゃん、果林ちゃん」
 僕は(うし)ろから小声(こごえ)で声をかけ、(かる)(かた)をたたいた。
「ほえ? ──いけんいけん、()よった」
 果林ちゃんは目をこすりながら僕の方を振り返った。
「なんでこんなに(ねむ)とうなるんじゃろ?」
「いいから舞台見て」
 僕は小声で正面を(ゆび)さした。
 ちょうど後シテが橋掛りから本舞台に()()かったところだった。
 (ふた)()(のう)という構成(こうせい)(したが)い、中入(なかい)りを()て前シテの里女から装束を変えて登場した(のち)シテは、桜姫(おうひめ)幽霊(ゆうれい)だ。
 二ツ切り能とは物語を前後(ぜんご)二つに()け、前半(ぜんはん)現実界(げんじつかい)に現れた(まえ)シテから言い伝えを聞いたワキが、後半(こうはん)(ゆめ)(まぼろし)世界(せかい)(まよ)()み、その中で言い伝えの当事者(とうじしゃ)(たいていの場合(ばあい)は幽霊だが)である(のち)シテと(かた)らうという構成のことだ。観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)親子(おやこ)によって()み出された能の黄金(おうごん)パターンで、複式夢幻能(ふくしきむげんのう)とも言うらしい。もちろん、これもパンフレットに()いてあることそのままだ。

何時(いつ)まで(くさ)(かげ) (こけ)の下には(うずも)れん
さらば(うずも)れも()てずして (くる)しみはなおも(はな)れず
あら閻浮(えんぶ)(こひ)しや 閻浮恋しや

閻浮(えんぶ)」とは仏教用語(ぶっきょうようご)閻浮提(えんぶだい)のことで、(よう)するに「この()」のことらしい。
 (みずか)らの意志(いし)人柱(ひとばしら)になったにもかかわらず、桜姫(おうひめ)(れい)は苦しみが離れることはなく、この世が(こい)しいと(なげ)いている。
 桜姫は(なにがし)()いかける。

御身(おんみ) わらはを
何処(いづこ)彼方(かなた)
()()(そうら)

 僕はどきりとして隣の水菜さんを見た。
 昨夜(さくや)聞いた「わたしを、どこか(とお)くに連れてってくれませんか?」という彼女の声が(よみがえ)る。
 水菜さんは両手を口元(くちもと)()て、目を見(ひら)いて舞台を見つめている。
 桜姫の霊は続けて語る。
 話に聞く(みやこ)は長い戦乱(せんらん)()れたとはいえ、なおも美しいところが(おお)いと聞く、自分もそのようなところに()まいたかったと。(ひな)にない美しいものを見て、和歌を()んで(みやび)()らせればと(ねが)っていたが、(いくさ)で父が()に、それも(はかな)(ゆめ)となった。
 世の(ため)になろうと人柱となることを願い出たが、それすらも(とが)となって自分を苦しめる、一体(いったい)どうすればよかったのかと切々(せつせつ)(うった)える。
 某がうめくように桜姫に返す。
 自分が(そう)であれば神通力(じんつうりき)であなたを成仏(じょうぶつ)せしめ、その苦しみを(のぞ)くこともできようが、(いや)しき()ゆえそれも(かな)わぬ、と。
 桜姫は某の思いに感謝(かんしゃ)(あたま)を下げると、ゆっくりと()い始めた。
 (ふえ)哀切(あいせつ)(きわ)まる旋律(せんりつ)(かな)で、前場(まえば)では演奏(えんそう)されなかった太鼓(たいこ)(くわ)わって重苦(おもくる)しい雰囲気(ふんいき)(かも)し出す。
 前場の(かろ)やかな舞とは違い、この世を()りがたく、しかしあの世にも行けぬ苦しみを(あらわ)しているような苦しげな舞だ。
 水菜さんがその舞をじっと見つめている。
 父の菩提(ぼだい)(とむら)うこともできなくなり、(みずか)らも苦しみに沈んで、この世に戻ることもあの世に行くこともできない、と(うた)う桜姫。
 せめて父の無念(むねん)(なぐさ)めようと七年の間紫桜(しざくら)を咲かせたが、最早(もはや)自分にはその力もないと(かた)を落とす。
 やがて桜姫の霊は舞うのを止めた。
 笛が(かな)しげな旋律を奏でる中、ゆっくりと橋掛りを歩いていく。
 その背中(せなか)に向かって地謡方が謡う。

姿形(すがたかたち)(おぼろ)となり()けば いよいよ(おも)ひは ()()えと
見えつ(かく)れつする(ほど)に 東雲(しののめ)の空も ほのぼのと
()け行けば(あと)もなく ただ(さくら)の花の舞うばかりとこそ
(あわ)れなりけれ 哀れなりけれ

 最後(さいご)にひときわ高音で笛の音が()き、桜姫は揚げ幕の向こうに消えた。
 見所には切ない余韻(よいん)(のこ)って、水を()ったように(しず)まり返ったままだ。(きゅう)に虫の音が大きく聞こえてくる。
 ふと隣の水菜さんを見ると、彼女は静かに(なみだ)を流していた。
 何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、僕は(だま)って顔をそむけた。

「なーなー、どういうことなん? いっそわからん。誰か説明(せつめい)して」
 果林ちゃんが大声で話しかけてくる。
 舞台から演者(えんじゃ)退場(たいじょう)()わると見所(けんじょ)から自然に拍手(はくしゅ)()こり、緊張も()けて(なご)やかな空気が(もど)った。。
「やっぱり果林には(むずか)しすぎたか」
 夕介が左手であごひげを()でながら言う。
「なんでみず(ねえ)()いたん? どーゆー(はなし)なん? もう、さっぱりわからん」
「わたし泣いてなんかないもん」
 水菜さんは(つよ)がってそう言うが、涙の(あと)(かく)せていない。
「めちゃくちゃ簡単(かんたん)に言えば、自分から(すす)んで生贄(いけにえ)になって()んだ(むすめ)が、成仏(じょうぶつ)できずにこの世とあの世の間をさまよってる話だ」
「えー、ヒドい! かわいそすぎる!」
 果林ちゃんは口をとがらせて夕介に抗議(こうぎ)する。(たし)かに大ざっぱに言えば夕介がまとめたとおりの物語だ。桜姫の霊は明け方と共に姿を消しただけだから、成仏できないまま。石見(いわみ)(なにがし)も、何ひとつできない無力(むりょく)さに()ちひしがれていた。カタルシスもなければ希望(きぼう)もないエンディング。
「なんか納得(なっとく)できん! なんでハッピーエンドじゃないん? せめて成仏ぐらいさせたげればええのに! かわいそすぎるよ!」
 果林ちゃんはまだ夕介に()い下がっている。
「うーん……それは()げ出すためだったからじゃない?」
 僕はなんとなく自分の(かん)じたことを口にした。
「世のため人のためっていうのも確かにあったかもしれないけど、本当は桜姫は色々(いろいろ)といやなことばかりのこの世から、逃げたかっただけなんじゃないかな」
 言ってしまってから、ずいぶんと自分のことを(たな)に上げた発言(はつげん)だと気づいた。僕だっていやなことだらけの生活(せいかつ)から逃げ出してここに来たんじゃないか。
 水菜さんが(すこ)(きび)しい表情(ひょうじょう)で僕をにらんだ。
「そんなことないと思います。わたしは、彼女は彼女なりに一生懸命(いっしょうけんめい)(かんが)えて、自分の命を()かす方法(ほうほう)(えら)んだんだと思います」
 彼女は右手を自分の胸元(むなもと)()てながら反駁(はんばく)した。
「もう(たよ)れる人はいない、生きていてもしかたのない自分の命が、少しでも誰かの(やく)に立つならそれでいいって、本気(ほんき)で思ったんじゃないですか?」
 水菜さんがあまりに真剣(しんけん)に桜姫を擁護(ようご)するので、僕は一瞬(いっしゅん)たじろいでしまった。
「いや、森崎(もりさき)の言うことの方が正しいだろう。厭離穢土(えんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)って聞いたことあるか? この娑婆世界(しゃばせかい)を穢(けが)れた場所として(いと)い、清浄(せいじょう)な世界を(こいねが)うって意味(いみ)だ。『桜堤(さくらづつみ)』にはこの思想(しそう)色濃(いろこ)く出ているな。元々都に(あこが)れてた桜姫は父の戦死(せんし)で世を(はかな)んで、人々のために人柱になることで浄土──そうだな、ここではないどこかへ行くことを(ねが)ったのかもしれないが、結果(けっか)としては間接的(かんせつてき)に自分で自分を(ころ)したのと(おな)じだ。不殺生戒(ふせっしょうかい)──つまり殺すなかれという戒律(かいりつ)(おか)したことになる。成仏はできなくて当然(とうぜん)だ」
「そんな──」
 夕介の解釈(かいしゃく)を聞いて、水菜さんは言葉(ことば)(うしな)ってしまった。
「なーなー、きぃねえちゃんはどう思う?」
 果林ちゃんがじっと僕らの会話(かいわ)を聞いている桔梗さんにも尋ねたが、彼女は何も言わずに(くび)(よこ)()っただけだった。

第五章 紫桜(しざくら) 〈二〉

 (かがみ)()から(ふえ)()が聞こえ、見所(けんじょ)(ふたた)(しず)まりはじめた。アト()背後(はいご)には演者(えんじゃ)(あつま)まっている。
 そろそろ(だい)(まく)寂水(じゃくすい)』が(はじ)まるようだ。
 舞台(ぶたい)の上には(さき)ほどの『桜堤(さくらづつみ)』の時に()えられた(さくら)(つく)(もの)が、アト座に下げられたまま(のこ)っている。
 先ほどと(おな)じように、囃子方(はやしかた)橋掛(はしがか)りから入場(にゅうじょう)を始め、それに(つづ)いてアト座から後見(こうけん)地謡方(じうたいかた)が舞台に上がり始めた。
 大鼓(おおつづみ)(かか)えているのは、昼間(ひるま)一緒(いっしょ)作業(さぎょう)した武骨漢(ぶこつかん)伊藤(いとう)さんだ。昼間はどうしても幽玄(ゆうげん)猿楽(さるがく)のイメージと()わないような気がしていたが、こうして紋付姿(もんつきすがた)で舞台に上がっているのを見ると、全然(ぜんぜん)そんなことはない。適度(てきど)に力を()きながら、(こま)やかに身体(からだ)(りっ)して(ある)いているのがわかる。
 全員(ぜんいん)が舞台に上がり着座(ちゃくざ)すると、一気(いっき)緊張感(きんちょうかん)(みなぎ)る。
 ()りつめた空気(くうき)の中、笛の音が(なが)れ始めた。さっきとは調子(ちょうし)(ちが)い、どこか禍々(まがまが)しさを(かん)じさせる旋律(せんりつ)
 笛の音が()んで()げ幕の()こうから登場(とうじょう)したのはワキである武者(むしゃ)と、ワキツレ(ワキに(したが)助演(じょえん)者)の従者(じゅうしゃ)。ワキを(えん)じているのはあの大人(おとな)しそうな稲村(いなむら)さんだが、眼鏡(めがね)(はず)してぴんと背筋(せすじ)()ばして橋掛りを歩く姿は堂々(どうどう)たるものだ。
 武者は(おもて)()けない直面(ひためん)で、黒い侍烏帽子(さむらいえぼし)()せている。(こし)には太刀(たち)(たずさ)え、(すそ)が大きく(ひろ)がった大口袴(おおぐちばかま)の上に直垂(ひたたれ)を着けた武人(ぶじん)出立(いでたち)で、重々(おもおも)しく橋掛りを進んでいく。
 これから始まるのは(おに)退治(たいじ)物語(ものがたり)だから、第一幕の『桜堤(さくらづつみ)』とは(まった)雰囲気(ふんいき)(こと)なる。狂言(きょうげん)(はさ)まずに上演(じょうえん)する上で、観客(かんきゃく)()きさせない工夫(くふう)のひとつなのかもしれない。

これは 國中(くにぢゅう)第一の武者(もののふ)
阿山(あやま)三郎(さぶろう)次郎(じろう)左衛門(ざえもん)にて(そうろう)
近頃(ちかごろ)山代(やましろ)に (おに)()でて 人を()らう(よし)(うけたまは)りて
村々(むらむら)人々(ひとびと)より 鬼の退治(たいぢ)を (おゝ)せつかり(そうろう)

 ワキが雄々(おお)しく名乗(なの)りを上げた。普段(ふだん)の稲村さんからは想像(そうぞう)もつかない、凛々(りり)しい()りのある(こえ)だ。
「おー、なかなかのイケメンじゃあ♪」
 果林(かりん)ちゃんがはしゃいだ声を上げた。
「さっきは()てたくせに、イケメンだところっと態度(たいど)()わるんだ」
 (ぼく)(うし)ろから小声(こごえ)でからかうと、果林ちゃんは()(かえ)ってにまにましながら言う。
「そりゃそうよ。目の保養(ほよう)目の保養」
彼氏(カレシ)いるんだろ?」
「それとこれとは(べつ)ー♪」
 両目(りょうめ)をハートマークにしている果林ちゃんには何を言ってもムダなようだ。
 舞台上では、武者が鬼を(さが)して山の奥深(おくふか)くへと()け入っていく様子(ようす)(うた)われている。
 ワキは墨絵(すみえ)(とら)(えが)かれた銀色(ぎんいろ)(おうぎ)をかざして力(づよ)く舞う。山の奥へ奥へと分け入る(さま)(あらわ)しているようだ。
 大小の(つづみ)(おさ)えた音で緊張感を演出(えんしゅつ)する。
 大鼓(おおつづみ)の伊藤さんの所作(しょさ)はきびきびとしていて、見ていてすがすがしい。力強い()け声といい、(するど)音色(ねいろ)といい、大鼓は伊藤さんにぴったりだ。

さても はや寂水峡(ぢゃくすいきょう)まで(いた)(そうろう)
いまだ物怪(もののけ)には (まみ)えず
さてさて いづ方にぞ (ひそ)みたりけるや

 従者が寂水(じゃくすい)峡に到着(とうちゃく)したことを()げると、武者はワキ(ばしら)の手前で一()立ち止まり、すっと中腰(ちゅうごし)姿勢(しせい)をとって扇をかざして橋掛りの奥の方を向いた。従者がその(わき)(ひか)え、同じように橋掛りの方を向く。
 武者が、あれこそ人()いの(おに)かと(さけ)ぶと、それを合図(あいず)に揚げ幕の奥から派手(はで)装束(しょうぞく)()(つつ)んだ(まえ)シテが登場した。
 赤頭(あかがしら)()ばれる(あざ)やかな赤い(かつら)を着け、(おもて)(ひたい)両隅(りょうすみ)(つの)()え、かっと目を見(ひら)き口を大きく()けた(はげ)しい表情(ひょうじょう)の白い般若(はんにゃ)。手には()(づえ)を持ち、上半身(じょうはんしん)に身につけている三角形(さんかっけい)連続模様(れんぞくもよう)(はく)(ほどこ)された鱗摺箔(うろこすりはく)という独特(どくとく)衣装(いしょう)がぎらぎらと(ひかり)を返し、鬼神(きしん)異様(いよう)さを演出している。
 鬼は禍々(まがまが)しい空気を振りまきながらじりじりと橋掛りを進み、本舞台に上がった。
 武者は一度身を(ひるがえ)して(あらた)めて鬼と対峙(たいじ)する。
 果林ちゃんが(いき)()めて舞台を見つめている。居眠(いねむ)りする(ひま)もないほど舞台に()()まれているようだ。
 水菜(みずな)さんも僕の隣で舞台を見つめているが、僕が彼女を見ていることに気づくと彼女(かのじょ)はふっとほほ()んだ。
「なんだか緊張しますね」
 水菜さんは小声でそう言うとまた舞台を見る。
 先に仕掛(しか)けたのは武者の方だ。
 太刀を()くと上段(じょうだん)から鬼に()りかかった。
 笛が鬼の()え声のように(するど)()り、大小の(つづみ)戦闘(せんとう)緊迫(きんぱく)感を表現(ひょうげん)するように激しく()ち合う。伊藤さんの力強い掛け声が武者の気迫(きはく)一体(いったい)になったかのように舞台の上に(ひび)く。
 鋭い鼓の音は剣戟(けんげき)の音のようにも聞こえる。
 神楽(かぐら)(はげ)しい(うご)きを(ともな)った演出とは(こと)なるが、様式(ようしき)的な所作(しょさ)の中にも、(いのち)のやりとりをしている緊迫感が(ただよ)う。
 両者(りょうしゃ)はわずか三(けん)四方(しほう)の舞台上を移動(いどう)しながら死闘(しとう)()(ひろ)げる。
 武者は鬼の力に圧倒(あっとう)され気味(ぎみ)で、ついに橋掛りの手前にまで()い込まれた。

(つひ)(いわお)(みぎわ)に 追はれ(たま)ふが
南無(なむ)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と (こころ)(ねん)
(つるぎ)(かま)へて ()ちかけ(たま)へば
従者(じゅしゃ) 鬼神の()より ()ちかかりて
振り向きたるを 切り(はら)い給ふ

 絶体絶命(ぜったいぜつめい)のピンチに従者が機転(きてん)()かせて鬼に背後(はいご)から打ちかかり、注意(ちゅうい)をそらした。
 その瞬間(しゅんかん)、身を(ひるがえ)して武者が振り上げた太刀(たち)を思い切り()りおろす。
 数歩(すうほ)よろめく鬼神(きしん)
 ()みとどまろうと足()みをひとつするが、武者はそこを(ふたた)び下から(はら)い上げた。
 勝負(しょうぶ)あった。
 鬼神は本舞台から下りて橋掛りをじりじりと(あと)ずさりしていく。
 武者は手ごたえを確信(かくしん)し、太刀を横に(かま)えて本舞台から鬼をにらみすえている。

十方(じっぽう)に (ひび)鬼神(きしん)の声()へて
(たか)(いわお)(みぎわ)より (なが)逆巻(さかま)寂水(ぢゃくすい)
水のうちへとどうと()
()姿形(すがたかたち)は 白波(しらなみ)
(かげ)()まれて()せにけり 影に呑まれて失せにけり

 鬼は(いわ)から寂水峡(じゃくすいきょう)()ち、姿が見えなくなったと地謡方(じうたいかた)(うた)い、前シテはもんどり打つように揚げ幕の向こうへ()えた。
 パンフレットによれば、前場(まえば)でこのようにいきなり立ち合いを(おこな)演目(えんもく)(すく)ないらしく、これも特殊(とくしゅ)構成(こうせい)らしい。
()った勝った♪」
 果林ちゃんが小さくはしゃいでいる。確かにこういう演目ならわかりやすい。
 舞台上にはワキツレの従者と交代(こうたい)するようにしてアイの村長(むらおさ)が登場し、武者を称賛(しょうさん)している。
 村長は、さすがは国中第一の武者である、これで山代(やましろ)(もの)安心(あんしん)して()らすことができ、その武功(ぶこう)千金(せんきん)にも(あたい)するであろう、と美辞麗句(びじれいく)(なら)べた。
 しかし、鬼の首級(しゅきゅう)を持ち(かえ)ることのできなかった武者はどうもすっきりしていないようだ。
 (すす)めによりしばらくこの()逗留(とうりゅう)することになった武者は、ワキ座に(ひか)えるような(かたち)(すわ)った。
 後見(こうけん)が、アト座に下げられていた(さくら)の作り物を(あらた)めて舞台正面(しょうめん)中央(ちゅうおう)()える。
 場面(ばめん)が武者の(ゆめ)の中へと(うつ)ったのだ。
 揚げ幕から(あらわ)れたのは、(うつく)しい娘姿(むすめすがた)(のち)シテだ。
桜堤(さくらづつみ)』の前シテの時のような紅入(いろいり)唐織(からおり)だが、色柄(いろがら)(こと)なり、出立(いでたち)も「脱下(ぬぎさ)げ」と呼ばれる右(そで)()いだ形になっている。これは(こころ)(みだ)狂女(きょうじょ)(よそお)いだとパンフレットにはある。
 果林ちゃんが少し怪訝(けげん)(かお)で振り返って僕に(たず)ねた。
「なーなー、どういうこと?」
「鬼の正体(しょうたい)復讐(ふくしゅう)(くる)った桜姫(おうひめ)だったってことだよ。(いま)からその(へん)がわかると思うよ」
「じゃったら(よこ)解説(かいせつ)して」
 果林ちゃんは小声で僕を手(まね)きする。
 仕方(しかた)なく僕は果林ちゃんの左隣に移動した。
 舞台上では武者が夢の中に(あらわ)れた女に、あなたは(だれ)かと()うている。

これは 沓懸(くつかけ)の山にて (むな)しくなりける もののふが(むすめ)
桜姫(おうひめ)なり
(さき)寂水(ぢゃくすい)にて 御身(おんみ)に うち(ほろ)ぼされたる()なり

 桜姫(おうひめ)(みずか)らの出自(しゅつじ)名乗(なの)り、(わたし)は寂水峡であなたに()たれた身であると告げた。
 武者は(おどろ)き、あの鬼神(きしん)はあなたであったのかと問いなおし、桜姫はいかにもその(とお)りだと(こた)えた。
「は? どゆこと? 桜姫ってイケニエになって()んだんじゃないん?」
 果林ちゃんが僕に小声で尋ねてくる。
 あまりの(ちか)さに少しどぎまぎしながら僕は答えた。
「『紫桜(しざくら)』はパラレルな物語(ものがたり)なんだよ。(おな)主人公(しゅじんこう)なのに、それぞれ全然(ぜんぜん)(ちが)う物語が展開(てんかい)するんだ」
「え~、そんなのありなん?」
 果林ちゃんの声が段々(だんだん)大きくなるので僕はあわてて人()(ゆび)自分(じぶん)の口の前に立てた。
 果林ちゃんはあわてて自分の口を()さえる。
「とにかく、しばらく様子(ようす)を見てみようよ」
 僕はそう言って果林ちゃんの意識(いしき)(ふたた)び舞台に向かわせた。
 舞台上では桜姫がゆっくりと()いながら自分の身の上を(うた)っている。
 (から)くも(いくさ)(のが)れた桜姫は、父を()きものとした二人の武将(ぶしょう)復讐心(ふくしゅうしん)()やしていた。
 この身を滅ぼすことになっても、父の(かたき)()()たさずには、死んでも死にきれぬと(ねが)(つづ)けた彼女は、ある時正気(しょうき)(うしな)ってしまう。
 彼女(かのじょ)が正気を()(もど)したとき、目の前には男の(むくろ)(ころ)がっていた。その無惨(むざん)死体(したい)は、間違(まちが)いなく彼女が(にく)み続けた仇の一人。
 (りょう)(てのひら)(なが)めるしぐさをしたシテの目線(めせん)の先には何もない。しかし、小さくわななく様子で、骸を前にした恐怖(きょうふ)(つた)わってくる。
 仇の()(よご)れた(みずか)らの手を見て、彼女は目の前の男をひねり(ころ)したのは自分であるに違いないと確信(かくしん)した。
 あれほど仇を討つことを願い続けていたというのに、いざそれを()()たりにすると、底知(そこし)れぬ力が自分を()り立てていることに、桜姫は戦慄(せんりつ)する。
 しかし、彼女は再び正気を失ってしまい、そのまま鬼神として(くる)い回ることになってしまったのだ。
 太鼓(たいこ)規則(きそく)的なリズムを(きざ)み、それに合わせて桜姫は桜の作り物の前をゆっくりと横切る。
 ここでは桜の作り物は現実(げんじつ)の桜ではなく、夢の中であることを表している。

(ゆめ)(うつゝ)か はやも異類(いるい)となれる()
(おも)罪科(ざいくゎ)は 徒波(あだなみ)
寄辺(よるべ)()き身 (にご)(こゝろ)逆巻(さかま)きて 
(した)ひた父も ()(こと)も ()しや(おも)()でじ
()てはみな(わす)れて(くる)ひけり みな忘れて狂ひけり

 地謡方が斉唱(せいしょう)する中、桜姫は座り()むと、うつむいて左手を顔の前にさしかけるシオリという所作(しょさ)をとった。
 父のことはおろか、自分のことすら忘れて狂ってしまったと()いているのだ。
 自分はあなたに(おに)として()たれたことでようやく私が何者(なにもの)であったかを思い出した、しかし(すで)にすべてが(おそ)すぎた、と桜姫は告白(こくはく)する。
 隣の果林ちゃんがさっきからじっと(だま)ってしまっている。少し顔色(かおいろ)(わる)いようだ。
大丈夫(だいじょうぶ)?」
 僕が声をかけると果林ちゃんは小さくうなずいたが、(くちびる)をかんでじっと舞台上の桜姫を見つめている。
 武者は桜姫を(あわ)れに思い、その供養(くよう)約束(やくそく)した。
 すると桜姫は、自分は異類(いるい)(人ではないもの)となって(つみ)もない者の命を(うば)っては()らい続けた(おも)罪科(ざいか)があり、堕地獄(だじごく)必定(ひつじょう)であると思い(さだ)めている、と言う。
 三途(さんず)の川を(わた)る前に、あなたに(たの)みたいことがある、そのために私はあなたの夢に出たのだ、と彼女は告げた。
 何なりと(もう)()ける、と武者が(こた)えると、桜姫は深々(ふかぶか)一礼(いちれい)して続けた。
 されば(おそ)れながら、沓懸山(くつかけやま)(はかな)くも()った我が父の供養(くよう)をお頼み(もう)したい、と。
 私には最早(もはや)父の供養などできようもない、あなたがわが父を(まつ)(つか)(つく)り、そこに山桜(やまざくら)()えたならば、その礼として七年の(あいだ)(むらさき)の花を()かせよう、と桜姫は(かれ)約束(やくそく)する。
 武者は桜姫の(かた)物語(ものがたり)を聞いてもらい泣きし、(よろこ)んでその()()いたい(むね)を告げた。
 笛が(ほそ)(うた)いはじめた。
 悲哀(ひあい)()ちた音色(ねいろ)(するど)杉林(すぎばやし)の中に()い込まれていく。
 大小の(つづみ)太鼓(たいこ)がそれに()して続く。
 桜姫はゆっくりと舞を舞いはじめた。
 父の供養を約束してくれた武者に対する感謝(かんしゃ)の舞だろうか、ひとしきり舞うと、桜姫は再び正面に(なお)った。
 (せつ)なくも美しい、(みじか)い舞だった。
 舞いを()えた桜姫は武者に背を向け、橋掛りをゆっくりと退場していく。
 これから三途の川を渡り、地獄(じごく)()()一身(いっしん)()ける覚悟(かくご)とともに、()やんでも悔やみきれない後悔(こうかい)をにじませた、(あわ)れな後ろ姿だ。
 桜姫は三の(まつ)のところで一()立ち止まって正面に向き、(あらた)めて一礼した。
 僕にはそれがこの()への(わか)れのあいさつのように見えた。
 隣に座っている果林ちゃんが、青ざめた顔で()りゆく桜姫を凝視(ぎょうし)している。

()(がた)きと見ゆるも 無間獄(むけんごく)への道行(みちゆき)
(こゝろ)(かた)(すす)みけり 心も堅く進みけり

 桜姫は決心(けっしん)して地獄(じごく)への道行を進んでいった、と地謡方(じうたいかた)が謡い、桜姫は(しず)かに()(まく)の向こうへ()えた。
 桜の作り物がアト座に下げられ、舞台に(のこ)った武者が立ちあがる。
 桜姫との約束通りに宇侘八幡宮(うたはちまんぐう)の一(ぐう)に塚を寄進(きしん)し、そのかたわらに山桜を植えたところ、彼女が約した通り桜は七年の間紫色の花を付けたと語ると、武者は静かに橋掛りを歩いて退場(たいじょう)していった。
 隣に座っている果林ちゃんが小さく(ふる)えている。
「果林、大丈夫?」
 後ろから水菜さんが心配(しんぱい)そうに声をかけたが、果林ちゃんはひざを(かか)()んで顔を()せたまま、何も答えない。
 すると、果林ちゃんを(はさ)んで僕の反対側(はんたいがわ)に座っていた桔梗さんが、果林ちゃんの(かた)()()せた。
「大丈夫、果林は(おに)にはならない」
 桔梗さんがそっと(ささや)くと、果林ちゃんは肩を震わせ、嗚咽(おえつ)をもらした。

 (あた)りはすっかり(よる)(やみ)(つつ)まれてしまい、杉林の間から見える空は分厚(ぶあつ)(くも)にふたをされてしまったかのように見える。
 幕間(まくあい)のざわめきの中で、果林ちゃんはしばらく()き続けた。その間、桔梗さんがずっとそばで肩を抱いていた。
 水菜さんはそんな二人のことを(むずか)しい顔でじっと見(まも)っている。
 僕はどうしたらいいかわからず、うろたえた顔で夕介を見上げたが、夕介も(うで)()んだまま何も言わない。
「うち、やっぱり鬼なんかもしれん。あの鬼は、うちなんよ……」
 少し()()いてきた果林ちゃんがようやくぽつりとそう言った。
「どうしたの? 果林は鬼なんかじゃないよ」
 水菜さんが(つと)めて(やさ)しく声をかけたが、果林ちゃんは(くび)(よこ)()った。
「みず(ねえ)昼間(ひるま)言ったじゃあ? なんで父さんのこと(わす)れるんかって」
 果林ちゃんは泣きはらした目で水菜さんのことを見る。
「うちは毎日(まいにち)(たの)しいからそれでええやって思いよったけど、それってあの鬼と一緒(いっしょ)なんかもしれん。自分(じぶん)のこともわからんようになって、いつの()にか(くる)いよるんじゃ……」
 そう言われた水菜さんはかける言葉(ことば)(うしな)ってしまった。
「果林ちゃんは桜姫とは違うよ、復讐(ふくしゅう)()えてるわけじゃないし」
 僕は何とか言葉をひねり出したが、果林ちゃんは再びかぶりを振る。
「父さんが死んだとき、うちは父さんのこと絶対(ぜったい)忘れまあと思うたんよ? なのに、いつの間にか声も思い出せんようになって、顔もなんかぼんやりして。みず姉が言うとおり、思い出じゃってようけ(いっぱい)あったはずなのに、いっそも思い出せん。うち、このまま父さんのこと何も思い出せんようになるかもしれん。じゃったらあの鬼と一緒じゃないん?」
 果林ちゃんは真っ赤にした目に再び(なみだ)をためている。
「こわいんよっ、自分が何か違うものになりよるような気がして!」
 彼女は何かに(おび)えたような顔で声を(しぼ)り出した。
「確かに、自分を自分と確認(かくにん)できるのは、記憶(きおく)だけだからな。記憶を()くしてしまったら、あの鬼と同じかもしれない」
 夕介がそうつぶやくと、いきなり桔梗さんが振り返って夕介をにらんだ。
「果林は、鬼じゃない。鬼になんかさせない」
 桔梗さんは強い調子(ちょうし)ではっきりと言った。(するど)い目で夕介を見()えている。
「あ……スマン、言葉が()ぎた」
 突然(とつぜん)のことに夕介はややたじろいだ様子で桔梗さんに()びた。
 水菜さんがじっと桔梗さんのことを見つめている。
本当(ほんとう)に、しゃべれたんだね」
 桔梗さんはそう言った水菜さんを見て小さくうなずいた。
「きぃねえちゃん、ありがと」
 果林ちゃんが桔梗さんにしがみつくようにしてつぶやいた。
「なんか、きぃねえちゃんのこと守らんといけんってずっと思いよったけど、本当は守られとるの、うちの方じゃったんじゃね」
 僕は、その様子をただ見守ることしかできない。
 周囲(しゅうい)の杉林が(かぜ)(ひく)くざわめき続けている。
「ねえ、母さんのサンドイッチ()べようよ。せっかく作ってくれたんだし」
 (しず)んでしまった空気(くうき)を振り(はら)うように、水菜さんが無理(むり)(あか)るい声を出して言った。
「そうだな」
 夕介がそれに同意(どうい)すると、水菜さんはバスケットの中から紙皿(かみざら)を取り出してサンドイッチを取り()け始めた。
(かあ)さんのたまごサンド、絶品(ぜっぴん)なんですよぉ」
 水菜さんはそう言ってほほ()みながら、まずは僕に(わた)してくれた。
「あ、すいません。いただきます」
 二(まく)()えて今は二〇時前、ちょうどおなかがすいた頃合(ころあ)いだ。
 (らん)さんのたまごサンドは、口に入れるとふんわりと優しい(あじ)がする。
「ほら、果林。食べたら元気(げんき)出して。めそめそしてるのって果林らしくないよ」
 水菜さんはそう言って果林ちゃんにサンドイッチを渡してほほ笑む。
「うん、みず姉ごめんね」
「ううん、わたしの方こそ昼間ひどいこと言っちゃった。ごめんね」
 そう言うと水菜さんは果林ちゃんに頭を下げた。果林ちゃんも赤く泣きはらした目のままこくりとうなずいた。
 境内(けいだい)()きわたる風が少し変わってきた。生暖(なまあたた)かく、湿(しめ)()(ふく)んだ(おも)い風だ。風は時折(ときおり)強くなって篝火(かがりび)()らめかせ、周囲に火の()をまき()らす。鏡の間に()られた幕もばたばたと音を立ててはためいている。
「なんか今にも()り出しそうな(かん)じだね」
「ああ、何とか最後(さいご)までもってほしいんだが」
 僕が夕介に言うと、夕介も腕を組んだままうなずいた。
 桔梗さんを見ると、彼女は風に揺らめく篝火(かがりび)(ほのお)をじっと見つめている。
 風が、彼女の長い(かみ)を揺らしていた。

第五章 紫桜(しざくら) 〈三〉

 なんだか(むな)(さわ)ぎがする。
 それが(なん)なのかははっきりしないが、何かがもやもやと(ぼく)(むね)(おく)渦巻(うずま)いている。
 舞台(ぶたい)では三幕目(まくめ)乙女淵(おとめぶち)』の準備(じゅんび)(ととの)いつつある。
 (さくら)(つく)(もの)はアト()に下げられ、(べつ)の作り物が舞台の上に上げられた。ちょうど人が入るぐらいの(たか)さに()まれた(やく)一メートル四方(しほう)竹枠(たけわく)の上に板葺屋根(いたぶきやね)がついていて、どうやら質素(しっそ)(いおり)(あらわ)しているようだ。
 演者(えんじゃ)たちが所定(しょてい)位置(いち)着座(ちゃくざ)()えた。
乙女淵(おとめぶち)』のシテを(つと)めるのは松岡(まつおか)さんだ。
 松岡さんはこの舞台を「ネンコーさんの(とむら)合戦(がっせん)」だと言っていた。一体(いったい)どのような舞台になるのだろう。
 これまでの二幕と同じように、(ふえ)が舞台の幕()けを()(はじ)めた。その(するど)音色(ねいろ)(よる)(やみ)()けていく。『桜堤(さくらづつみ)』の哀調(あいちょう)とも『寂水(じゃくすい)』の禍々(まがまが)しさとも(ちが)う、不安定(ふあんてい)(こころ)をざわつかせる旋律(せんりつ)だ。
 (かぜ)(ひく)くざわめいている周囲(しゅうい)杉林(すぎばやし)が、まるで通奏低音(つうそうていおん)(かな)でているようにも聞こえる。
 最初(さいしょ)()げ幕から登場(とうじょう)したのはワキである(たび)(そう)
 直面(ひためん)で質素な(こん)(ころも)()(つつ)み、橋掛(はしがか)りを(すす)みながら旅僧が(うた)う。

花も()し 月も憂しと ()つる()
(ひな)旅路(たびぢ)墨衣(すみごろも) 鄙の旅路の墨衣

 本舞台(ほんぶたい)に上がった旅僧は、自分(じぶん)出家(しゅっけ)して石見(いわみ)(くに)へと(うつ)(もの)であると名乗(なの)る。
 (もと)戦場(せんじょう)(おお)くの武勲(ぶくん)を上げた武士(ぶし)であったが、世を捨ててこれまで自分が(うば)ったすべての(いのち)追善供養(ついぜんくよう)をして余生(よせい)(しず)かに()らすつもりであると告げた。
 僧は旅の途中(とちゅう)、乙女淵のほとりにある小さな廃寺(はいじ)に立ち()った。
 (すで)に日も()れて(くら)くなり、旅を進めることはできない。
 僧はこの廃寺で一晩(ひとばん)宿(やど)ることにした。
 (ふたた)び笛が不安な旋律を奏で始め、(おさ)えた()(ごえ)(とも)に大小の(つづみ)()()らされる。
 揚げ幕が上がり、(まえ)シテが姿(すがた)を現した。『桜堤(さくらづつみ)』の(のち)シテと同様(どうよう)の、白い水衣(みずころも)。しかし、その下に()()けている小袖(こそで)も、(かつら)の上から(むす)鬘帯(かづらおび)も、そしてもちろん足袋(たび)までもが、すべて白で統一(とういつ)されている。
 僕は(おも)わずぎょっとして桔梗(ききょう)さんを見た。
「きぃねえちゃん……」
 果林(かりん)ちゃんもそうつぶやいて(となり)の桔梗さんを見る。
 水菜(みずな)さんも夕介(ゆうすけ)(おな)じことを思ったらしい、全員(ぜんいん)視線(しせん)が桔梗さんに(そそ)がれた。
 桔梗さんは僕らの視線などまったく()(かい)さず、ぐっと目を見(ひら)いて橋掛りを進む前シテを目で()っている。
 何かがわかりかけたような気がするが、はっきりと言葉(ことば)にできなくてもどかしい。
 しかし、これが本当(ほんとう)にあの松岡さんだろうか。
 指先(ゆびさき)まですっぽりと装束(しょうぞく)(すそ)(かく)し、背筋(せすじ)()ばしてゆったりとした足運(あしはこ)びで進む姿(すがた)は、とても七〇(さい)(ちか)いとは思えない。身体(からだ)隅々(すみずみ)にまで神経(しんけい)()(とど)いた、抑制(よくせい)された(うご)きだ。
 (おもて)はこれまでのシテと同様(どうよう)(わか)(むすめ)だが、よく見ると口が()じられている。宇侘八幡(うたはちまん)だけで(もち)いられている『(つぐみ)』という小面(こおもて)だと、パンフレットにはある。きわめて(めずら)しいものらしい。
 白装束(しょうぞく)の娘は橋掛りをまっすぐに歩いて本舞台に上がると、そのまま(いおり)の作り物の中に身を(うつ)した。
 旅僧は白装束で(あらわ)れた娘を不審(ふしん)に思い、庵に()かって()いかける。

さても 奇異(きい)なるかな
こなたは 何の(ゆゑ)
死人(しびと)の装束にて (そうら)ひけるか

 娘は問いかけに(こた)えない。答えられないのか、答えようとしないのか。
 僧は、自分は旅の者で、夜露(よつゆ)をしのぐために一晩(のき)()りたいと娘に(もう)し出るが、娘はやはり答えない。
 ()(はら)わないということは(ゆる)したものとみなして、僧は庵の軒先(のきさき)に一晩宿(やど)ることにする。
 夜半(やはん)になって、娘が庵から(そと)へ出てきた。
 登場してから一言(ひとこと)(はっ)していなかった前シテがようやく声を発する。

あら()しや あら憂しや わが(ことば)
人の(いのち)も (うば)ひけり
父をも(むな)しうさせ(そうら)ひけり
()むべきかな (のろ)ふべきかな

 娘は夜の(やみ)に向かって一人(うた)う。松岡さんの(ふと)い声が朗々(ろうろう)(あた)りに(ひび)く。
 自分(じぶん)言葉(ことば)が人の命も、父の命をも奪ってしまった、(いま)わしい呪わしい、と(なげ)いている。
 (ねむ)っていた僧がその声に目を()まし、立ち上がって娘に問いかける。
 あなたの身の上に何があったのか、もしよければ拙僧(せっそう)にお聞かせくださらぬか、自分は修行中(しゅぎょうちゅう)とはいえ(ほとけ)(つか)える身、何かあなたの力になれるかも()れぬ、と僧は()げた。
 娘はつっと庵から数歩(すうほ)(ある)くと僧に向き(なお)った。

わらはが(ことば)は 奪命(だつみょう)の詞なり
聞かぬが 御僧(おそう)(ため)
(おそ)るべし 畏るべし

 (わたし)の言葉は人の命を(うば)う、聞かない方があなたのためだ、と娘は言い(はな)ち、(ふたた)び正面を向いた。
 僧は一歩前に出ると、娘の()(かた)りかける。
 自分は既に世を捨てた者である、まして多くの命を奪ってきた罪深(つみぶか)い者でもあるから、もしもここで自分の命が白露(はくろ)()えても何の()いもない、是非(ぜひ)に是非にお聞かせ(ねが)いたい、と(かさ)ねて(もと)めた。
 娘はしばらく(だま)っていたが、やがて正面を向いたままゆっくりと(かた)り始めた。

ありがたきかな 御僧(おそう)
されば ()がこと (かた)(もう)()かせ(そうろう)べし
これは 沓懸(くつかけ)山に(むな)しうなりける もののふが(むすめ)
桜姫(おうひめ)なり

 娘は自分が沓懸山で()んだ武将(ぶしょう)の娘、桜姫(おうひめ)であることを()かした。
 (いくさ)(のが)れて身分(みぶん)(かく)してこの山代(やましろ)()まい、父や祖父(そふ)一緒(いっしょ)(たたか)って()んだ将兵(しょうへい)たちの菩提(ぼだい)(とむら)おうと思ってひっそりと暮らしているのだ、と彼女(かのじょ)は言う。

されば こなたは何ゆゑに 死人(しびと)装束(しょうぞく)にてや(そうら)ひけるか
道理(どうり)なれば (かみ)()ぎ 仏門(ぶつもん)()るべきにてや(そうろう)らん

 僧は、それではあなたはなぜ死装束(しにしょうぞく)でいるのか、と桜姫に尋ねる。父らの菩提を弔うのであれば髪を()として仏門に入るのが道理ではないか、と。
 桜姫はしばらく答えない。

わらはが(ことば)(ゆゑ)なり
わらはが奪命(だつみょう)の詞の故なり

 少し()をおいて、彼女は自分の物語(ものがたり)を語り始めた。
 予言(よげん)なのか、(のろ)いなのか、(おさな)いころから彼女が口にしたことは(かなら)実現(じつげん)する。それも吉兆(きっちょう)だけではなく、凶兆(きょうちょう)も。周囲(しゅうい)人々(ひとびと)は桜姫を不吉(ふきつ)な子として(おそ)れたが、父は()(かい)する様子(ようす)はなかった。
 しかし、沓懸山が(ひがし)より()められるだろうと桜姫が口にしたわずか半年後(はんとしご)、予言は現実(げんじつ)のものとなり、合戦(かっせん)()こった。
 父や祖父をはじめ、千人もの(つわもの)がそのために()んだのだ、と彼女は僧に語った。
 地謡方(じうたいかた)がシテに()して斉唱(せいしょう)する。

()むべきは ()(ことば)
(おそ)るべきは 我が詞
わらはにかかわる人は (みな) (ことごと)(むな)しうなりける(あいだ)
如何(いか)にしてか 如何にしてか ()悪業(あくごう)より(のが)るべき
ただただ口を(つぐ)み 死人(しびと)として生きんのみ

 口を噤んで死人として生きる──ずっと僕の(むね)の中で渦巻(うずま)いていた(いや)(かん)じの正体(しょうたい)がわかったと思った瞬間(しゅんかん)(となり)の水菜さんも「あ……」と小さく声を上げた。
 自然(しぜん)と僕と水菜さんは顔を見合わせ、そして桔梗さんに視線が行った。
 背筋(せすじ)(つめ)たい(あせ)(なが)れるのを感じる。
 昨日(きのう)夕介が(おし)えてくれたあらすじでは、桜姫はこの(あと)乙女淵(おとめぶち)()()げてしまうことになっている。
 桔梗さんも桜姫と同じように、自分の命を(いと)わしく思っているのだとしたら──。
 桔梗さんは(まゆ)一つ動かさずにじっと舞台を凝視(ぎょうし)し続けている。
 彼女の隣に(すわ)っている果林ちゃんは、桔梗さんの長襦袢(ながじゅばん)(そで)両手(りょうて)でぎゅっとつかんでいる。
 白装束(しょうぞく)の桜姫が舞扇(まいおうぎ)(ひろ)げてゆっくりと舞い始めた。舞扇には満開(まんかい)の花をつけた(さくら)の木と赤い日輪(にちりん)(えが)かれている。
 桜姫は小鼓(こつづみ)が作るゆったりとしたリズムに合わせて舞う。
 湿(しめ)()(ふく)んだ(おも)(かぜ)が白い装束の(すそ)をはためかせ、鬘帯(かづらおび)が風にたなびいて(なが)れている。
 (ふえ)が高い音で()き始めた。
 大小の(つづみ)()(ごえ)(つよ)め、徐々(じょじょ)にリズムを早めていく。

御僧(おそう) わらはを(たす)(たま)
奪命(だつみょう)(ことば)から 如何(いか)(のが)れんや 如何に逃れんや

 桜姫が(くる)しみに(あえ)ぐように(うた)()う。
 僧はその()(すわ)って数珠(じゅず)を手に掛けて合掌(がっしょう)し、桜姫が呪われた運命(うんめい)から逃れられるよう一心(いっしん)(いの)っている。
 桜姫は僧の周囲(しゅうい)で舞うが、彼女の心は一向(いっこう)()れない。僧の読経(どっきょう)()きながら、右へ左へとゆらゆらと歩いては止まり、止まっては歩く所作(しょさ)()(かえ)した。何度もそれを繰り返すうち、次第(しだい)次第に所作がはっきりと一つの方向(ほうこう)(さだ)まっていく。
 桜姫はすっと数歩正面に向かって歩いて立ち止まり、舞うのをやめて僧に告げた。

是非(ぜひ)もなし 是非もなし
わらはのこの()にありて(そうろう)(あいだ)
(おの)(ことば)より(のが)(すべ)はなし
(いのち)()つて 閻浮(えんぶ)()らん

 そう言うと桜姫は(きゅう)に僧に()を向けて(いおり)を立ち去る。
 僧はあわてて立ち上がり、桜姫を()った。
 橋掛りを進んだ桜姫は、三の(まつ)のところで一度立ち止まった。
 彼女を追っていた僧は二の松の(あた)りから言葉をかける。

父君(ちちぎみ)(むな)しくなりけるは (まこと)無念(むねん)にて(そうら)ひけるが
(いくさ)はこなたの(ことば)(ゆゑ)には(そうら)はず
生きて仏門(ぶつもん)()り 父君の菩提(ぼだい)(とぶら)(たま)

 僧は桜姫を何とか思いとどまらせようと必死(ひっし)に呼びかける。
 あなたが()んでしまっては父上の供養(くよう)は一体誰がするのか、死んではならぬ、と繰り返し(さと)すが、桜姫は僧に背を向けたまま振り返ろうともせず、(すで)に死に魅入(みい)られたようにその言葉を(うつ)ろに聞いている。
 桜姫は乙女淵の(みぎわ)に立って(ゆめ)(ごと)くに()れていると地謡方が謡い、桜姫はじりじりと半歩(はんぽ)ずつ前に進んでいく。
 僧がどれだけ言葉を()くしても、桜姫には(とど)かないのか。
 これから桜姫が身を投げるとわかっていても、何とかそれを回避(かいひ)できないものかと僕は必死になって(かんが)えている。
 隣の水菜さんは両手を(かた)(にぎ)りしめ、固唾(かたず)()んでなりゆきを見守っている。
 果林ちゃんは桔梗さんの左腕(ひだりうで)を両手でしっかりとつかまえている。
 空気(くうき)()りつめる。
 桜姫が一つ足踏(あしぶ)みをした、と思ったらさっと()(まく)が上がり、桜姫は()()まれるようにその中に()え、すばやく揚げ幕が()ろされた。
 ずっと桔梗さんの左腕をつかんでいた果林ちゃんが、「あ」と小さく悲鳴(ひめい)を上げる。

(たゞ)真直(ます)一筋(ひとすぢ)()つるに ()(すべ)ぞなく(ふち)(そこ)
さざめく水の黒々(くろぐろ)と いづ(かた)へと()せたるか
目を()らせども 見えず
耳を()ませども (きこ)えず

 僧の目の前で桜姫は一直線(いっちょくせん)に乙女淵へ()ち、黒々とした水に()まれて姿が見えなくなってしまったと地謡方が謡い、(あた)りに笛の高音(こうおん)(ひび)いた。
 橋掛りの上には僧がただ一人取り残された。
 水菜さんも果林ちゃんも、がっかりしたようにうなだれたが、桔梗さんはなおも背筋(せすじ)を伸ばしたままじっと揚げ幕の向こうを見つめている。
 僧は茫然自失(ぼうぜんじしつ)のまま本舞台へと引き返していく。
 目の前のたった一人の命を(すく)えずに何の仏法(ぶっぽう)か、と彼は失意(しつい)()れて(いおり)のそばに(くず)れるように座った。
 やがて白々(しらじら)()()けた。
 僧は一睡(いっすい)もできずに夜明けを(むか)える。
 地謡方がそう謡い、ワキがうつむき加減(かげん)だった顔をゆっくりと上げただけなのに、僕には昨日(きのう)の朝桔梗さんと見た、あの荘厳(そうごん)な日の出の風景(ふうけい)が目の前に見えるように感じる。
 薪能(たきぎのう)では、現代劇(げんだいげき)のように照明(しょうめい)変化(へんか)するわけではないし、舞台装置(そうち)もごく簡単(かんたん)なものばかりだ。だからこそ、()る者が舞台上に見えない部分(ぶぶん)をそれぞれ想像(そうぞう)し、(おぎな)って観ることになる。そう考えると、同時(どうじ)(おな)じ舞台を見ていても、一人一人見えているものが(まった)(ちが)うのかもしれない。
 今、桔梗さんには一体(いったい)何が見えているのだろうか。
 舞台の上では、アイである(さと)の者が登場し、廃寺(はいじ)にいる僧を見とがめて、不審(ふしん)なことだ、御僧(おそう)はこの廃寺で一体何をしているのか、と()う。
 僧が答えて言う。
 昨夜(さくや)白装束の奇妙(きみょう)な娘と出会(であ)い、彼女(かのじょ)を救おうと必死(ひっし)で祈ったが、その甲斐(かい)なく娘は乙女淵に身を投げてしまった。(ほとけ)(つか)える身として()やんでも悔やみきれない、自分は石見(いわみ)(おもむ)くつもりであったがこれを取りやめ、この廃寺で娘とその父らの菩提(ぼだい)(とむら)いたいと。
 里の者は、(あわ)れなことだ、娘は里人(さとびと)との(まじ)わりを()って(だれ)とも言葉を()わすことなく、ただ一人でここに()まっていたのでどこの誰ともわからない、仏縁(ぶつえん)()れたならばせめて後生(ごしょう)安堵(あんど)を祈らずにはおれぬ、と言う。
「後生の安堵」とは安心(あんしん)できる境遇(きょうぐう)に生まれ変わる、という意味(いみ)らしい。
 せめて生まれ変わってから(しあわ)せに、なんて言われても、僕にはなんだか納得(なっとく)がいかない。
 さっきの『桜堤(さくらづつみ)』でもそうだ、死後(しご)の幸せなんて本当にあるのだろうか。死んだらそれきりで後には何も残らないというのが僕のイメージだ。輪廻(りんね)転生(てんしょう)だとか、生まれ変わりだとか、科学的(かがくてき)じゃないし全く根拠(こんきょ)がないと思う。幸せになるなら生きているうちじゃないと意味がないような気がする。
 里の者は、この廃寺は長い間(まも)る者がなかったゆえ、御僧の思うようにされるがよい、と僧に(つた)えて()っていった。

 舞台の上では庵の作り物はそのままに、桜の作り物がまた(あらた)めて中央に()えられた。
 季節(きせつ)(うつ)ろって(はる)(むか)えたのだ。
 僧は廃寺に住みつき、桜姫とその父らの菩提を弔うため、日々読経(どっきょう)をしながら暮らしている。
 そんなある日、僧は(ゆめ)を見た。
 笛の音と(とも)に揚げ幕が上がり、(のち)シテが登場する。
 (はな)やかな緋色(ひいろ)大口袴(おおぐちばかま)清楚(せいそ)な白い長絹(ちょうけん)(ゆる)やかにまとい、ちょうど巫女(みこ)の装束のようだ。明るく(おだ)やかな表情(ひょうじょう)の若い娘の(おもて)()け、薄紅(うすべに)色の鬘帯(かづらおび)(むす)び、(あたま)には白蓮(びゃくれん)天冠(てんがん)()せている。

南無幽霊成等正覚(なむゆうれいじょうとうしょうがく) 出離生死頓證菩提(しゅつりしょうじとんしょうぼだい)
南無幽霊成等正覚 出離生死頓證菩提

 僧にはこれが桜姫の(れい)であるとすぐにわかったようだ。(とむら)いの言葉を二度()(かえ)す。
 後シテは本舞台に上がると、自分は乙女淵(おとめぶち)のほとりに()山桜(やまざくら)(せい)であると名乗り、優雅(ゆうが)所作(しょさ)舞扇(まいおうぎ)を広げると僧の前で謡い舞い始めた。
 舞扇は前場で桜姫が持っていたのと同じ、桜に日輪(にちりん)

(みずか)()()げし(ゆゑ)
地獄(じごく)()()()くべきが
御僧(おそう)回向(えこう)()りて
()かふ七生(しちせう) 人に生まるることは (かな)はじと()へども
生死(しょうじ)(みち)に (もど)るを()たり

 (すで)に人ではなくなった桜姫は、風で装束をはためかせながら小鼓(こつづみ)の音に合わせてゆったりと舞う。
 これから先、七回生まれ変わっても人に生まれることはできないが、僧の回向(えこう)によって地獄の責め苦を(のが)れ、生死(しょうじ)の道に戻ることができたと(うた)う。
 桜の精の白い長絹(ちょうけん)には、よく見るとうっすらと桜の文様(もんよう)()()まれているようだ。
 (のろ)われた自分(じぶん)の言葉から解放(かいほう)された安堵(あんど)からか、桜の精の舞には穏やかさが感じられる。
 その舞に見入っていた僧が、うめくように言葉をもらす。

いかに(もう)し上げ(そうろう)
()(ことば)の こなたに(とど)かざるは ()不徳(ふとく)
こなたの ()()げし所以(ゆゑん)は (われ)にありて(そうろう)

 何ということだろう、今度(こんど)は僧が桜姫を救えなかった自分を責めている。
 合戦(かっせん)が桜姫の言葉のせいではなかったように、桜姫が身を投げたのは(けっ)して僧のせいではない。しかし、僧は桜姫を救えなかったことを(みずか)らの責任(せきにん)ととらえているのだ。
 これでは(のろ)われた言葉が僧に()(うつ)っただけのようだ。

折節(をりふし)()く花に
折節咲く花に ()(ころ)あるは(さだ)めとて
()ほ咲く頃も あるべけれ
咲かずに散るは(あわ)れなり 咲かずに散るは 哀れなり

 地謡方が粛々(しゅくしゅく)斉唱(せいしょう)する中、僧は数珠(じゅず)を手に()けて合掌(がっしょう)した。(かれ)は桜姫を救えなかった苦悩(くのう)(しず)みながらもなお、桜姫とその父らを回向(えこう)する決意(けつい)だ。
 太鼓(たいこ)規則(きそく)的なリズムに大小の(つづみ)(おさ)えた音が乗って読経(どっきょう)表現(ひょうげん)する。
 ふと、(となり)の水菜さんが不安(ふあん)そうな顔で僕の顔を見ていることに気づいた。
「あの、大丈夫(だいじょうぶ)ですよね?」
「はい? 何がですか?」
「いえ、ごめんなさい、何でもないです」
 水菜さんは僕がまぬけな返事(へんじ)を返すとそう言って再び舞台の方を向いたが、その横顔(よこがお)にはありありと不安が見てとれる。

用荘厳法身(ようしょうごんほっしん)
天人所載(てんにんしょざい)仰龍人咸恭敬(ぎょうりゅうにんかんきょうぎょう)
あらありがたやの御経(おきょう)やな

 舞台の上では桜姫……ではなく桜の精が、僧の読経に感謝(かんしゃ)する舞をたおやかに舞っている。
 桜の精の舞を見ているうちに、僕にも水菜さんが何を不安に思ったのかが、だんだんとわかるような気がしてきた。水菜さんはきっと、僕をあの僧に(かさ)ねているんだ。桔梗さんが今の状態(じょうたい)から抜け出すには、あの僧のように僕が身代(みが)わりになる必要(ひつよう)があると思ったんだろう。
 考えてみれば、僕の立場(たちば)は確かにこの僧とよく似ている。
 もの言わぬ少女(しょうじょ)偶然(ぐうぜん)出会い、言葉を交わした旅の男。
 でも、僕に何ができるのだろう?
 そんな事を考えていると、(ひたい)にしずくが()たるのを感じ、僕は空を見上げた。
 とうとう雨が()り出してしまったようだ。
 (うし)ろを振り返って夕介を見ると、両手でカメラを(かか)えたまま(にが)い顔で舞台をにらんでいた。
 舞台の上では桜の精の舞が続いているが、後見(こうけん)がすっと立ち上がってシテの松岡(まつおか)さんに(ちか)づいた。もしかして、ここで中止(ちゅうし)になるのだろうか。
 しかし、後見に耳()ちされた松岡さんは、かまわずに舞を続ける。
 雨が土を打つ(にお)いが徐々(じょじょ)(あた)りにたちこめはじめた。
 後見も元の位置(いち)に下がって座った。最後(さいご)まで演じ切るつもりなんだ。
 舞台を()らし出している投光機(とうこうき)(ひかり)の中には無数(むすう)雨粒(あまつぶ)(こま)かく()かんで見える。
 シテに()して地謡方が謡う。

今この(きょう)徳用(とくよう)にて
今この経の徳用にて あら不思議(ふしぎ)やな
(ふち)()の花()けり
紫の花の七歳(ななとせ)咲けば
生死(しょうじ)大海(たいかい) (めぐ)(わた)りて
御恩(ごおん)(かなら)(ほう)ずべし 御恩を必ず報ずべし

 僧の読経によって不思議なことに淵に紫の桜が咲き、桜の(せい)は七年(むらさき)の桜を咲かせた後、生死(しょうじ)大海(たいかい)をめぐって(かなら)報恩(ほうおん)すると約束(やくそく)したが、僧は何も答えない。
 囃子方(はやしかた)演奏(えんそう)()わり、桜の精は舞扇(まいおうぎ)をたたんでゆっくりと正面から()を向けると、本舞台を降りて橋掛りをゆっくりと歩いて退場(たいじょう)しはじめた。
 次第(しだい)に雨が強くなってきた。桜の精の緋大口(ひおおぐち)がうっすらと()れて(にぶ)く光を返している。
 不意(ふい)に桔梗さんが立ち上がった。何かを言おうとしているようだが、言葉にならない。
 僕がその姿(すがた)に気をとられているうちに、桜の精は()(まく)の向こうに姿を()してしまった。
 僧がゆっくりと立ち上がり、(おも)呵責(かしゃく)背負(せお)いこむように背中を(まる)めて、雨の中を退場していく。
 雨に濡れたせいで、桜の作り物から(にせ)の花びらが()ちて、板敷(いたじ)きの上で雨に打たれていた。

第五章 紫桜(しざくら) 〈四〉

「あーあ、びっしゃになったー」
 果林(かりん)ちゃんがタオルで(かみ)()きながら()った。
「せめてあと少しだけもってくれればなあ」
本当(ほんとう)()しかったですよね」
 (ぼく)がつぶやくと水菜(みずな)さんも同意(どうい)する。
明日(あした)にはやむかな?」
「にひひ、浩司(こうじ)さんが雨男(あめおとこ)じゃなけにゃね」
 果林ちゃんが僕をからかうと桔梗(ききょう)さんがくすりと(わら)った。
 取材(しゅざい)のために(のこ)ると言う夕介(ゆうすけ)(さき)(かえ)ってろと言われた僕は、姉妹(しまい)一緒(いっしょ)に水菜さんの車で桐葉荘(とうようそう)(もど)った。
 (らん)さんがタオルを準備(じゅんび)して()っていてくれたので、今はみんなロビーで(あたま)(ふく)を拭いているところだ。
 結局(けっきょく)舞台(ぶたい)()わるまで(だれ)(かさ)()さなかったので全員(ぜんいん)ずぶ()れだ
 雨のせいで舞台の方は余韻(よいん)も何もあったもんじゃない、終わったと(おも)ったところで観客(かんきゃく)一斉(いっせい)(かえ)(はじ)め、境内(けいだい)はごった(がえ)した。
 水菜さんが()ってきた桐葉荘(とうようそう)のロゴ入り和傘(わがさ)五本は、彼女(かのじょ)が傘のない人に二本ほど()したので一本を夕介に(わた)し、残り二本で果林ちゃんと桔梗さん、僕と水菜さんが相合傘(あいあいがさ)で車まで移動(いどう)した。彼女の(かお)がすぐ(ちか)くにあるのに、僕は()れてしまってまともに見ることもできなかったけど。
森崎(もりさき)さん、よろしかったらお食事(しょくじ)よりも先にお風呂(ふろ)をどうぞ。雨でお身体(からだ)()えたでしょうから」
 蘭さんが拭き終えたタオルを僕から()け取るとそう(すす)めてくれた。
「すいません、そうします」
 僕はその勧めに素直(すなお)(したが)うことにした。
「あなたたちもこっちで入りんさい、今日(きょう)だけは特別(とくべつ)よ」
 蘭さんはそう言って水菜さんにウインクした。
「いいの、(かあ)さん?」
(ひさ)しぶりに三人で入っておいで。たまにはええでしょ?」
 そう言って蘭さんは桔梗さんにほほ()みかけた。
 桔梗さんも(だま)ってうなずく。
「すごーい、三人でお風呂入るのって何年ぶり? 母さんありがとー!」
 果林ちゃんが満面(まんめん)の笑みで蘭さんに()きつく。
「ご(はん)もみんな(そろ)ってお座敷(ざしき)でしようね。さあさあ、風邪(かぜ)ひいたらいけんけえ()よ行っておいで、着替(きが)えも準備しとくから。もしお客様(きゃくさま)出会(であ)ったらちゃんとごあいさつするんよ!」
「はーい!」
 果林ちゃんは返事(へんじ)をするやいなや、ぱたぱたと(おく)()かって()けていった。
「母さん、ずいぶん(あか)るくなったよね」
 水菜さんがその背中(せなか)を見(おく)りながらぽつりと言った。
「ふふ、やっと最近(さいきん)かな、こんな(ふう)(わら)えるようになったの」
 蘭さんは水菜さんを見上げて(やさ)しく笑いかける。
大事(だいじ)なことがわかっちゃったからかも」
「えー、大事なことって何?」
「ひみつー♪ さあさあ、水菜も桔梗も、入った入った!」
 蘭さんはそう言って水菜さんの背中を()した。
 水菜さんは肩越(かたご)しに()り返って苦笑(くしょう)している。
 桔梗さんがそんな二人の様子(ようす)をじっと見つめていた。

 風呂からあがって座敷に行くと、夕介が先に来て(すわ)っていた。早くも手酌(てじゃく)でビールをやっている。
「お(つか)れ、どうだった?」
散々(さんざん)だな。みんな後始末(あとしまつ)でてんやわんや、取材どころじゃねーよ」
 夕介は濡れた髪をかき上げながら僕にそう言った。
「風呂入ればいいのに」
「先に(めし)にするって蘭さんに言った。風呂に入ってからだと、その(ぶん)後片付(あとかたづ)けが(おそ)くなるだろ」
 時間(じかん)はもう二二時(まえ)(たし)かにのんびりしていたら日付(ひづけ)()わってしまう。
「すみません、お()たせしました」
 蘭さんがお(ぜん)を持って座敷に入ってきた。
「こちらこそ、遅い時間にすみません」
 夕介が(かる)く頭を下げる。蘭さんは手際(てぎわ)よく食事の支度(したく)(すす)めながら夕介に言った。
「本当に残念(ざんねん)でしたねー、雨」
「まったくです、あと少しだったんですが。まあ、自然(しぜん)相手(あいて)だから仕方(しかた)ないか」
 夕介は蘭さんにそう(こた)えてグラスのビールを()()す。
「明日にはやむかな?」
「やまないと(こま)る。ここまで来て『霊山(りょうぜん)』を()ずに(かえ)れるか」
「だよなー」
 僕が水を向けると夕介は憤然(ふんぜん)と言った。
 確かに、初日(しょにち)の三(まく)でもあれだけ圧倒(あっとう)されたのに、松岡(まつおか)さんが「圧巻(あっかん)」と表現(ひょうげん)した『霊山(りょうぜん)』がどんなものか観られずに帰るのは(くや)しい。
「蘭さんは七年前に観たんですよね? どんな物語(ものがたり)なんですか?」
 僕はブリの刺身(さしみ)を一切れ(はし)でつまみ上げながら蘭さんに(たず)ねた。
「ええと、結構(けっこう)(なが)い物語でしたよ。おばあさんが(みやこ)から()たお(ぼう)さんに出会って、ちょっといじわるをして。で、(あと)から(わか)娘姿(むすめすがた)登場(とうじょう)して()うんです」
(うば)だな。これまでの三幕とはだいぶ構成(こうせい)(ちが)いそうだ」
「だね。想像(そうぞう)もつかないけど」
 夕介は()いものを口に(はこ)び、僕はつまみ上げたままだった刺身をやっと口に入れた。
「あー、さっぱりしたぁ」
 入口のふすまが()いて果林ちゃんが入ってきた。
 桐葉荘の浴衣(ゆかた)の上に半纏(はんてん)()ているのだが、(くび)にタオルを()けている姿がなんだかおっさんみたいで笑える。
 (つづ)いて水菜さんと桔梗さんも、(おな)じ浴衣に半纏姿で入ってきた。
 桔梗さんはあいかわらず表情(ひょうじょう)()けたままだが、浴衣だといつもの白い長襦袢(ながじゅばん)の時のような人を()せつけない雰囲気(ふんいき)はずいぶんと(やわ)らぐ気がする。
 水菜さんは(あら)(がみ)(うし)ろでまとめていて、白いうなじがのぞいている。
 僕は(おも)わず生唾(なまつば)を飲み()んだ。
「おい、(はな)の下()びてるぞ」
 早速(さっそく)夕介にからかわれてしまった。
「なんか温泉(おんせん)マニアの女子会(じょしかい)五人(ぐみ)と一緒でから、あんましゆっくりできんかったあ」
普段(ふだん)内緒(ないしょ)で入ってるんだから、文句(もんく)言わないの」
 水菜さんが笑いながら果林ちゃんをたしなめる。
「むむ、やはり余罪(よざい)があったか!」
 蘭さんが芝居(しばい)がかった(ひく)(こえ)重々(おもおも)しく言うと、水菜さんと果林ちゃんは顔を見合わせて苦笑(にがわら)いした。

 桐島家(きりしまけ)の今日の夕餉(ゆうげ)鍋焼(なべや)きうどん。
 大きな土鍋(どなべ)()ん中に()えて、蘭さんも一緒にみんなで(かこ)んで()べている。
「なー夕介、お刺身ちょうだい」
(わり)ぃ、たった今最後(さいご)の一切れ()っちまった」
「あー、うちが()ってから食べよる! 夕介のケチ!」
「じゃあ、僕のあげるよ」
「ありがとー浩司さん、(だれ)かさんと違ってやさしー」
「お前優しいんじゃなくて、(じつ)はドМなんだろ?」
「な……何言ってんだよ、誰がドМだ!」
「果林に()り回されて(よろこ)んでるくせに」
「喜んでなんかないって!」
「ふふ、二人とも仲良(なかよ)すぎですよ」
「うわ、やめてくださいよ~水菜さん」
 いつもは一人きりでただ空腹(くうふく)()たすためだけの食事をしているが、こうしてみんなで他愛(たわい)のない会話(かいわ)()わしながらする食事ってやっぱりいいなって思う。
 桔梗さんはみんなの会話にじっと耳を(かたむ)けている。少し遠慮気味(えんりょぎみ)に見えるが、ちゃんと自分(じぶん)の分を自分で()って食べているから心配(しんぱい)なさそうだ。
「そういえば思い出したんだけどさ──」
 水菜さんが少し(あらた)まって切り出した。
「わたしたち、七年前にも『紫桜(しざくら)』観てるよね?」
「そうよー、中身(なかみ)理解(りかい)できたかはわからんけど、あなたたちは(わたし)と一緒に二日ともちゃあんと観たんよ」
「やっぱり。なんか(はじ)めてじゃないような気がしてたんだよね」
 蘭さんが答えると水菜さんはほっとした顔をした。
「そうそう、桔梗と果林は小学生じゃったから、二日目のおちご舞に出たんじゃったね。二人ともかわいかったぁ。(おぼ)えちょる?」
 蘭さんは(なつ)かしそうに言う。
「んー、どうじゃったっけ?」
 果林ちゃんは首をかしげている。
「二人とも巫女(みこ)さんみたいな朱色(しゅいろ)(はかま)でね、桔梗はお(ねえ)さんじゃから、(はす)の花の(かんむり)をかぶせてもらって舞ったんよね」
 桔梗さんが黙ってうなずいた。
「あー、そう言われてみればうちときぃねえちゃんでなんか巫女さんのカッコしたような気がする。確か、一ヶ月ぐらいずっと(おど)りの練習(れんしゅう)したんよ」
 果林ちゃんは少し思い出したようだ。
 蘭さんが右手を口(もと)()てて思い出し笑いをしている。
「桔梗はすぐに舞を(おぼ)えたのに、果林はいつまでたってもなかなか覚えれんかったね。右って言うのに左に(うご)いたりして」
「じゃって、右左ってようわからんもん」
「あはは、だから果林は今でも方向(ほうこう)音痴(おんち)なんだ!」
「こっち、そっちでわかるからええの!」
 水菜さんがからかうと果林ちゃんはぷっと(ほお)をふくらませた。
 桔梗さんがそれを見てくすりと笑っている。
「でも、わたしはもう中学生になってて、おちご舞は見るだけだったから、なんか二人がうらやましかったなあ。おちご舞の衣装(いしょう)、すっごくかわいいんだもん。わたしも()たかったぁ」
 水菜さんは心底(しんそこ)うらやましそうな口調だ。
 僕はつい巫女装束(しょうぞく)姿の水菜さんを想像(そうぞう)してしまった。よく似合(にあ)いそうな気がする。
「そうそう、水菜その時もはぶてた(()ねた)んよね。(とう)さんがでれでれになって二人の写真(しゃしん)()りよったから、父さんに()つ当たりして」
「えー、わたしそんなことしたっけ?」
「したした。父さんはどうせわたしのことなんかどうでもいいんだ、なんて言っちゃったもんだから、父さんその(あと)一週間(いっしゅうかん)ぐらいず~っと(へこ)んでたんよ、水菜に(きら)われた~って。もう、凹んだ時の父さんって、すんごくめんどくさいんだから!」
 蘭さんは笑いながらそう言う。
年光(としみつ)さんでも凹んじゃうことなんてあったんですか?」
 僕は思わず聞いてしまった。
「もう、しょっちゅうでしたよ。家族(かぞく)にはめっぽう(よわ)かったんですから、あの人。(とく)に水菜にちょっと何か言われようもんなら、すぐに『あ~(おれ)はもうダメだぁ』なんて言うんですから、笑っちゃいますよね」
 これまでの年光さんのイメージが一気(いっき)にひっくり返ってしまった。
 どんどん人を()き込みながら面白(おもしろ)がって仕事(しごと)をする、人生(じんせい)達人(たつじん)みたいな人だと思っていたけど、家庭(かてい)の中ではどっちかと言うと(なさ)けないお父さんだったんだ。
「父さんはいっつも水菜に(しか)られてばっかりじゃったね。どっちが(おや)だかわかんない」
「だって父さんだらしないんだもん」
「ねー」
 蘭さんと水菜さんが顔を見合わせて笑う。
「まったく、男は女には絶対(ぜったい)にかなわないようにできてるとしか思えないな」
 夕介が頭をかきながらそんなことをつぶやく。
「ねえねえ、せっかくだから父さんも()ぜてあげようよ。わたし写真(しゃしん)持ってくる」
 水菜さんはそう言っていったん(せき)を立った。
「そういえば、こうやって家族で(そろ)って食事することなんて、父さんが()んでからほとんどなかったね」
 蘭さんがしみじみと言った。
「この五年、ずっと(いそが)しくしよったもんね。ごめんね」
 蘭さんは桔梗さんと果林ちゃんに()びたが、二人とも首を(よこ)に振った。
「母さんすごいもん、仕事も(いえ)のこともちゃんとしてから、いつ()よるんじゃろって思うぐらい」
 果林ちゃんが尊敬(そんけい)のまなざしで蘭さんを見つめながら言う。
大丈夫(だいじょうぶ)、家のことは水菜がやってくれるし、仕事は桑田(くわた)さんがばりばりやってくれるもん。手を()くとこはちゃんと手を抜きよるんよ。あ、お客様の前で言うちゃいけんかった!」
 蘭さんがあわてて口を()さえたので僕は思わず()き出してしまった。
 水菜さんが黒縁(くろぶち)の写真立てを持って(もど)ってきた。昨日(きのう)僕が見せてもらった遺影(いえい)だ。
欠席裁判(けっせきさいばん)じゃ父さんもかわいそうだからね」
 水菜さんはそう言って写真立てを上座(かみざ)()いた。
 年光さんは写真立ての中からにこやかに笑いかけている。
「そうそう、仲間外(なかまはず)れだってすぐはぶてるんじゃけ、ねー」
 蘭さんが早速写真立ての年光さんに向かって文句をぶつける。その口調(くちょう)はあたかも年光さんがここにいるかのようだ。
 果林ちゃんがしげしげと写真立てを(なが)めてつぶやく。
「父さんの写真、久しぶりに見た」
「どう、果林? 父さんの顔、思い出した?」
「うん。父さん、(わす)れちょってごめん」
 果林ちゃんは写真の年光さんに(たい)して(あやま)った。
「あらら、これじゃ父さん完全(かんぜん)に凹んで立ち(なお)れんね。それこそ『あ~、俺はもうダメだぁ』って」
 蘭さんは年光さんの声色(こわいろ)をまねて(ほが)らかに笑う。
「でもさ、父さんって果林には特別(あま)くなかった? よくお菓子(かし)とか内緒で()ってもらってたじゃない?」
「え~そうじゃったかねえ?」
 水菜さんがちょっと意地悪(いじわる)な声で果林ちゃんに(たず)ねたが、(とう)の果林ちゃんは首をかしげている。
全然(ぜんぜん)そんなことないよー、水菜にも桔梗にも完全にめろめろよ。あなたたちを叱るんはいっつも私じゃったでしょ? (いや)役目(やくめ)を私に押しつけといて、自分は甘い顔ばっかり。まったくもう、ずるいんじゃけえ!」
 蘭さんは両手(りょうて)(こし)に当てて憤慨(ふんがい)している。
 年光さんはすっかり立場(たちば)がない(かん)じだ。なんだか写真の年光さんが苦笑(くしょう)しているように見える。
「あ、でも果林は遠慮(えんりょ)せんから、ほかの二人よりは(とく)してるかもわからんね。そう(かんが)えたら果林の甘え上手(じょうず)は、確かに父さんのせいかもしれんよねー」
「あ~、わかる! 果林が『あれして』『これして』ってわがまま言うと、父さんいつも大喜びでやってたよね!」
「うち、そんとにわがままじゃないもん!」
「わがままのかたまりが、何を言う!」
 水菜さんが笑いながら果林ちゃんの(ひたい)を人()(ゆび)(かる)小突(こづ)いた。
「父さんにいっぱいわがまま言って困らせたくせにぃ」
 果林ちゃんはむくれて水菜さんの顔を見ている。
 が、だんだんとその顔がゆがんできた。
「……」
「ん? どうしたの、果林? (いた)かった?」
 水菜さんが果林ちゃんに尋ねると、果林ちゃんは(きゅう)にしゃくりあげながら()き始めた。
「ちょっと……いきなりどうしたの? 大丈夫?」
 水菜さんがあわててなだめたが、果林ちゃんは僕や夕介がいるのもはばからずに、大声を上げて泣く。
 桔梗さんが果林ちゃんにそっと()()うと、彼女は桔梗さんのひざに顔をうずめて(おさな)い子どものように泣きじゃくった。

 しばらくの間、果林ちゃんは泣き続けていた。
「──思い出した」
 少し()()いてから果林ちゃんがぽつりとつぶやいた。
「あんな、母さん。うち、お葬式(そうしき)()わっても、父さんがおらんくなったって、どうしても思えんかったんよ」
 蘭さんが優しくうなずく。
「母さんだって(しん)じれんかったよ。すごく(つら)かった」
 果林ちゃんも(なみだ)をぬぐいながらこくりとうなずくと続けた。
「なんかな、『果林、いい子してたか~』って、フツーに(かえ)って来そうな気がしよった。だけん、さびしーなーとは思ったけどな、(かな)しいとはいっそも思わんかった」
 果林ちゃんが鼻をすする。
 蘭さんはじっと彼女を見つめて(つぎ)言葉(ことば)をゆっくりと()っている。
「学校行ったら友達(ともだち)もおるし、フツーに(たの)しいし。頭では父さんにはもう会えんのんじゃって思っちょっても、なんか実感(じっかん)できんくて。でな、毎日(まいんち)目の前のことばっかり考えよったら、いつの間にか父さんのこと忘れかけよった──」
「もう会えないことを(みと)めたくないから、今の目の前のことだけに意識(いしき)(うば)われてたわけだな」
 夕介が(うで)()んでつぶやく。
「でもな、今日、久しぶりに父さんの写真見て、父さんのことみんなで(はな)して、あー、もう父さんには『あれして』『これして』って絶対(たの)めんのんじゃって、改めて思うたら──」
 果林ちゃんは寄り添っている桔梗さんにしがみつくようにして(さけ)んだ。
「父さんなんで死んだん! なんで? また会いたいよぉ! 父さんに会いたい!」
 水菜さんは泣き叫ぶ果林ちゃんを沈痛(ちんつう)面持(おもも)ちでじっと見つめ、桔梗さんは果林ちゃんの肩を()いたままじっと(くちびる)をかんで聞いている。
「ちゃんと悲しみなさい、果林」
 蘭さんが(しず)かに()げた。
「果林は父さんのこと、大好(だいす)きじゃったもんね。だから、どっかにおらんようになっただけで、いつか帰ってくるって思いたかったんよね?」
 果林ちゃんは蘭さんの一言一言に小さくうなずく。蘭さんは(つつ)み込むようなまなざしで果林ちゃんを見つめている。
「でもね、いくら()っても父さんはもう帰ってこんの。どんなに果林が会いたくても、会えんの。だから、ちゃんと悲しんであげなさい。でないと、父さんも悲しむよ?」
 蘭さんはそう言うと、果林ちゃんのそばに(あゆ)み寄り、彼女をぎゅっと抱きしめた。
 果林ちゃんは蘭さんの(むね)の中で(しず)かに泣いた。
 (かたわ)らに寄り添っていた桔梗さんの目からも、涙が一筋(ひとすじ)(ほお)(つた)ってひざの上に落ちていった。

第五章 紫桜(しざくら) 〈五〉

「わたし、やっぱり性格(せいかく)(わる)いのかな……」
 水菜(みずな)さんがぽつりとつぶやいた。
 果林(かりん)ちゃんは桔梗(ききょう)さんに()()われて母屋(おもや)(もど)り、夕介(ゆうすけ)風呂(ふろ)に行ったので、座敷(ざしき)には(ぼく)と水菜さんと(らん)さんの三人だけが(のこ)っている。
「どうしたの、水菜?」
 食事(しょくじ)後片(あとかた)づけをしながら蘭さんが(たず)ねた。
「だって、わたし果林みたく()けないもん」
 水菜さんはうつむいたままそう言った。その視線(しせん)(さき)には、年光(としみつ)さんの写真(しゃしん)がある。
「あんな(ふう)(おも)()り泣ける果林が、ちょっとうらやましい」
 水菜さんは笑顔(えがお)の年光さんをじっと見つめたままだ。
「水菜は水菜らしくおればええんよ。桜梅桃李(おうばいとうり)(とう)さんが()きじゃった言葉(ことば)のまんまでね」
 蘭さんはそう言って水菜さんにほほ()みかける。
 水菜さんは(かお)を上げて蘭さんに()いかけた。
「わたしらしくって、どういうことなんだろ? 何が『わたしらしい』のかな?」
「『自分(じぶん)らしさ』なんてあわてて(さが)さんでも、いつかはちゃあんとわかるようになっちょるんよ。どうやったって、水菜は水菜なんじゃから」
 蘭さんはそう言いながらお(ぜん)()って立ち上がった。
「水菜はね、真面目(まじめ)すぎるの。あんまり(こん)()めたらいけんよ?」
 蘭さんは(うた)うようにそう言うと、厨房(ちゅうぼう)(もど)っていった。
「あの、『おうばいとうり』ってどういう意味(いみ)ですか?」
 僕は水菜さんに(たず)ねた。
(ちち)生前(せいぜん)好きだった言葉(ことば)です。(さくら)(うめ)(もも)(すもも)。この桐葉荘(とうようそう)の四つの部屋(へや)も、父がこの言葉から()って名づけたんですよ。どの花も、()時期(じき)(ちが)えば、咲く花の(いろ)(かたち)も違うけど、それぞれに個性(こせい)があってすてきでしょって意味です。なんか、そんな歌もありましたよね」
「あー、ありましたねー」
 僕らが小学生の(ころ)国民的(こくみんてき)アイドルグループが歌ってロングヒットした歌を僕は思い出した。
「いづれの花か()らで(のこ)るべき。散る(ゆえ)によりて、咲く(ころ)あれば、(めずら)しきなり。(のう)(じゅう)する(ところ)なきを、()づ、花と()るべし……」(註三)
 水菜さんがいきなり(むずか)しい言葉をすらすらと暗唱(あんしょう)したので僕は(おどろ)いた。
 水菜さんは僕にほほ笑むと(つづ)けた。
「ふふ、世阿弥(ぜあみ)の『風姿花伝(ふうしかでん)』の一(せつ)です。どんな花でも、散らずに残ることがあるだろうか。それぞれに散るからこそ咲く時期もあり、だから珍しいのである。能も、とどまるところなどないことが、まず『花』であると知りなさい──。病床(びょうしょう)の父が、わたしに何()()(かえ)(おし)えた言葉です」
「散るからこそ、咲く時期もある──」
 僕はそうつぶやいて(あらた)めて年光さんの写真を(なが)めた。
 年光さんは自分がこんなに早く散ってしまうことを知っていたのだろうか。
「さっき、『桜堤(さくらづつみ)』の(あと)で、森崎(もりさき)さん言いましたよね? 桜姫(おうひめ)は、色々(いろいろ)といやなことばかりのこの()から、()げ出したかったんじゃないかって」
 僕がうなずくと、水菜さんは僕から目をそらし、ふっと自嘲(じちょう)的な笑みを()かべた。
「あの言葉、ずしん……ときました。わたし、早く散っちゃいたいって思ってたんです。咲かないままでもいいから、早く()えちゃいたかった」
 水菜さんは目を()せたまま(ひく)いトーンの(こえ)で言葉を()ぐ。
「この(いえ)も、この町も、本当(ほんとう)大嫌(だいきら)い。でも、そんなこと(だれ)にも言えないし、どうにもできないし」
 彼女(かのじょ)胸元(むなもと)に右手を()てて一つ(いき)()くと、天井(てんじょう)(あお)いだ。
「何もかも()てて、わたしの知らないどこか(とお)くに、誰か()れてってくれないかなーって、本当はそればっかり(かんが)えてたんです。だから、そんなわたしの(こころ)見透(みす)かされたみたいで」
 水菜さんは(ふたた)び自嘲的な笑みを浮かべて目を伏せた。
「僕だって逃げてきたんですよ、ここに」
 僕の言葉に水菜さんははっと顔を上げた。
 意外(いがい)そうな顔でまじまじと僕を見ている。
「さっき果林ちゃんにも言ったけど、今年(ことし)春先(はるさき)友達(ともだち)関係(かんけい)でいざこざがあって、なんか全部(ぜんぶ)めんどくさくなっちゃって。だから、『紫桜(しざくら)』だって、本当は逃げ出すための口実(こうじつ)だったのかもしれない」
 僕の正直(しょうじき)気持(きも)ちだ。多分(たぶん)、きっかけは何でもよかったのだと思う。
「でも、実際(じっさい)に逃げ出してみて、わかったことがありますよ」
「え? なんですか?」
「どれだけ遠くに逃げても、自分自身(じしん)からは絶対(ぜったい)に逃げられないってこと」
 簡単(かんたん)なコピーも満足(まんぞく)にできないで(へこ)んでしまう僕、体力(たいりょく)がなくてすぐにへたってしまう僕。(みと)めたくはないけど否応(いやおう)なく認めざるを()ない、(なさ)けない僕の姿(すがた)
 ここに来て、夕介に引っぱり回される中で、何となく(かん)じていたことが、水菜さんと(はな)すうちにだんだんと言葉になっていく。
「どこに行っても、自分は自分のまま。環境(かんきょう)()われば何かが変わるような気がしてたけど、全然そんなことない。……でも、もしかしたらそれでいいのかもしれないなって、今はちょっと思います」
「どこに行っても、自分は自分のまま──」
 水菜さんは右手の指先を自分の胸元に当ててそっと僕の言葉を繰り返した。
「何でも、やってみなきゃわからない、ってね」
 僕は、年光さんの言葉を口にした。
「あ、その言葉──」
昨日(きのう)、夕介が(おし)えてくれたんです。年光さんの口癖(くちぐせ)ですよね?」
 水菜さんは(だま)ってうなずいた。
「僕は、逃げ出してここに来たわけだけど、やっぱり来てよかったなって思ってます。普段(ふだん)とは全然違う経験(けいけん)をして、もちろんいいことばっかじゃなかったけど、(たし)かにやってみなきゃ全然わからなかったと思うんですよ。自分がこんなにヘタレだとは思ってなかったし、でも案外(あんがい)(やく)に立てることもあったような気がするし、それに、なんかすごい生き方をした年光さんのことも知ったし」
 水菜さんはぽつぽつと言葉を()きだす僕をじっと見つめている。なんだか照れくさくて、僕は頭をかきながら続けた。
「僕は臆病(おくびょう)面倒(めんどう)くさがりだけど、年光さんのこの口癖、すごくいいなって思います」
 水菜さんは改めて年光さんの写真に目を()とした。
 僕も彼女の視線(しせん)()って写真を眺めた。
 年光さんは写真立ての中から満面(まんめん)()みを水菜さんと僕に(おく)っている。
「どこに行っても、自分は自分のまま──」
 その笑顔をじっと見つめながら、水菜さんはもう一()繰り返した。


〈第五章終わり〉
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註三 花傳第七 別紙口傳より(引用は岩波文庫『風姿花伝』野上豊一郎・西尾実校訂から。字体は新字体に改めた)

第六章 雨 〈一〉

 一夜(いちや)()けても、雨はまだ()(つづ)いていた。
 ()きてから(まど)(そと)(なが)めて、(ぼく)(おも)わずためいきをついた。
 目に見えないほどの(こま)かい雨粒(あまつぶ)が、(まど)から見える(にわ)地面(じめん)(しず)かに()らしている。(とお)くの山()みは(あつ)(くも)(おお)(かく)されてまったく見えない。

 座敷(ざしき)がやけににぎやかだったのでなにごとかと思ったら、五人の女子(じょし)たちが夕介(ゆうすけ)()(かこ)んでいた。どうやら昨日(きのう)果林(かりん)ちゃんが()っていた温泉(おんせん)女子(かい)面々(めんめん)らしい。
「お仕事(しごと)は何されてるんですかぁ?」
「えー、すご~い!」
「なんかフリーってカッコいいですね!」
一匹(いっぴき)(おおかみ)って(かん)じぃ!」
肉食系(にくしょくけい)ですよね~」
「あ~、でもはにかんだ表情(ひょうじょう)意外(いがい)にかわいー!」
「ねーねー、(あと)一緒(いっしょ)写真(しゃしん)()ってもらえませんかぁ?」
 五人ともアラサー世代(せだい)だろう、(あさ)からものすごいエネルギーを()りまいている。
 夕介は僕の姿(すがた)(みと)めると何か言いたそうだったが、女子五人に囲まれてどうにもならないらしく、(うら)めしそうな目で僕をじろりとにらんだだけだった。
 イケメンってのもなかなか大変(たいへん)なんだな、と(すこ)しばかり同情(どうじょう)しながら、僕は夕介から少し(はな)れた(ところ)(すわ)った。
「おはようございます、森崎(もりさき)さん。よくお休みになれましたか?」
 (らん)さんが僕のお(ぜん)()きながら(こえ)をかけてくれた。
「はい。でも雨、まだ降ってますね」
「そうですね。中止(ちゅうし)にならなければいいですけど」
 窓から見える庭を(なが)めながら蘭さんが心配(しんぱい)そうに(こた)えた。
「それにしても夕介、朝から大変だな」
「ふふ、イケメンですからね。この(ぶん)じゃ連絡先(れんらくさき)でも交換(こうかん)しない(かぎ)り、解放(かいほう)してもらえないんじゃないですかね」
 僕が夕介の(ほう)横目(よこめ)で見ながら言うと、蘭さんはいたずらっぽく笑った。
「夕介さんもそこそこいい(とし)だし、ここらで()()くのも、いいんじゃないかなー」
 蘭さんは夕介の思いにはまったく気づいていないようだ。
 そう思うと、あれだけ上から目線(めせん)でイヤな(やつ)だと思っていた夕介が、少しかわいそうに思える。

 食事(しょくじ)が終わっても夕介はなかなか五人の女子から解放されないので、僕は先に部屋(へや)(もど)った。
 やることがないのでぼんやりとテレビを眺めていると、不意(ふい)に部屋の(とびら)がノックされた。
 扉を()けると、()いグレーのスエット姿の果林ちゃんと、デニムのロングスカートの上に白い綿(めん)のシャツを()水菜(みずな)さんが立っていた。水菜さんは眼鏡(めがね)をかけ、(かみ)(うし)ろでまとめている。
「なー浩司(こうじ)さん、今朝(けさ)きぃねえちゃん見んかった?」
 果林ちゃんが真剣(しんけん)なまなざしで僕に聞いた。
「いや、見かけてないけど。桔梗(ききょう)さんがどうかしたの?」
「いないんです、どこかに()ってしまったみたいで」
「え?」
 僕は思わず上ずった声を上げてしまった。
 水菜さんも少しあせっている様子(ようす)だ。
昨日(きのう)な、うちが()られんて言うたら、きぃねえちゃん(だま)ってうちと一緒に寝てくれたんじゃけど、朝起きたらおらんの。いつもの部屋にもおらんし、朝ごはんもそのまんまなんよ」
「蘭さんには聞いてみた?」
「うん。今朝は見ちょらんて」
「夕介には? 僕より早く起きてたみたいだから、何か()ってるかも」
「聞いてみる!」
 果林ちゃんはすぐに(となり)(うめ)()()かった。
「今までこんなことはなかったんですけど……」
 水菜さんが困惑(こんわく)した(かお)をしている。
 僕は、反射的(はんしゃてき)に『乙女淵(おとめぶち)』の桜姫(おうひめ)を思い出した。
「……まさか」
 僕が思わず声に出すと、水菜さんもすぐに僕が何を(かんが)えたのかわかったようだ。
「あの、わたし、車で(さが)しに出ます!」
「いや、それは(おれ)がする」
 後ろから夕介の声がした。
乙女淵(おとめぶち)までは車でも一〇分(ちか)くかかる。もし桔梗が乙女淵に向かったのなら、まだ途中(とちゅう)(つか)まえられるかもしれない。お前らはこの近辺(きんぺん)をあたってくれ」
「わかった、何かあったら連絡(れんらく)する……ってここは圏外(けんがい)だっけ」
「とりあえず俺の携帯(けいたい)(おし)えとくから、固定電話(こていでんわ)で連絡しろ。もし俺のも圏外だったらここのPCで(そく)メールだ、いいな。水菜か果林がわかる」
 夕介はジャケットのポケットから名刺(めいし)を一(まい)僕に()し出した。
了解(りょうかい)
 僕は(みじか)く言って夕介の目を見る。
(たの)んだぞ」
 夕介はそう言うとすぐに玄関(げんかん)から(そと)へ出て行った。
 僕は(ねん)のため、夕介の電話番号(ばんごう)(いそ)いで携帯のメモリに登録(とうろく)した。
「僕らも、手()けして探そう」
「うん、うちは母屋(おもや)(まわ)りを探してみる」
「じゃあ、僕はこの建物(たてもの)の周りを探してみるよ」
「わたしは一()下まで()りてみます。もしも三〇分探しても見つからないようなら、いったんここに戻って夕介さんに連絡しましょう」
 僕はうなずいた。
「それと森崎さん、(はは)にはまだ言わないでください、この時間(じかん)は食事の後片(あとかた)づけとかチェックアウトの準備(じゅんび)(いそが)しいはずですから。あまり心配(しんぱい)かけたくないんです」
「わかりました。じゃあ、また(あと)で」
「うん!」
 僕らはそれぞれに桔梗さんを探し(はじ)めた。

 外に出ると少し肌寒(はだざむ)い。
 あいかわらず(きり)のような細かい雨が音もなく降り続いている。
 庭から斜面(しゃめん)を見上げると、山肌を()うように白い雲がまとわりついている。
 周囲(しゅうい)景色(けしき)からは(いろ)()えて、まるで水墨画(すいぼくが)の中にでも(まよ)()んでしまったようだ。
 この建物の周りと言っても、桐葉荘(とうようそう)自体(じたい)そんなに大きな建物ではない。(かく)れるような場所(ばしょ)があるわけでもないし、桔梗さんの姿はどこにも見えない。
 (もん)を出て駐車(ちゅうしゃ)スペースの方を見ると、普段(ふだん)は母屋のカーポートに()められている桐葉荘(とうようそう)の白のミニバンが雨に濡れている。車の裏側(うらがわ)にも回ってみたが、(べつ)不審(ふしん)な様子はない。
 (かさ)()さなければならないほどの雨ではないが、ちょっと雨に()たれているうちに(ふく)はしっとりと濡れてしまった。
 門の前に戻ると、桔梗さんを(はじ)めて見かけた時のことを思い出した。
 僕はあのとき桔梗さんが立っていた生垣(いけがき)(すみ)に足を(はこ)んだ。
 そこは、一緒に朝日を見た尾根(おね)へと続く足()(みち)の入り口だ。
 何かに()ばれているような気がして、僕は木戸(きど)を開けて木々(きぎ)に覆われた薄暗(うすぐら)い足踏み道に入っていった。
 濡れた()()の青いにおいが(ただよ)っている。
 落ち葉に足を取られて何度か(ころ)びそうになりながら、僕は斜面を一心(いっしん)(のぼ)った。
 (すで)にあちこち(どろ)だらけ、服は雨で濡れたのか(あせ)で濡れたのかもわからない。(くつ)の中もすっかり水(びた)しになっている。木々から落ちてくる(しずく)(つめ)たい。
 僕は(いき)()らしながら、なんとか尾根の上に出た。
 桔梗さんが桐葉荘の浴衣(ゆかた)のまま、傘も差さずに一人で立っていた。
「桔梗さん……」
 僕はほっとして思わずその()にひざを()いてへたり込んでしまった。
 桔梗さんは僕に気づくとへたり込んだ僕のそばに(あゆ)()ってきた。
「どうして、ここに?」
 彼女(かのじょ)は僕に()うた。
 雨に濡れた(なが)黒髪(くろかみ)が彼女の(ほお)にまとわりついている。
「水菜さんと、果林ちゃんが、桔梗さんが、いなくなったって、言うから、探しに来たんだ」
 僕は(かた)で息をしながらなんとか(こた)えた。
「桔梗さんこそ、なんで、こんなところに?」
 桔梗さんは頬にかかった前髪を(ほそ)(ゆび)でゆっくりと(よこ)(はら)った。
(いの)っていたの。雨をやませるために」
「雨──」
 目の前の斜面から(かぜ)(なが)されて白い雲が立ち(のぼ)っていく。その向こうでは山々が薄墨(うすずみ)色に(かす)んでいる。
 桔梗さんはへたり込んでいる僕をじっと見つめた。
 彼女の前髪から雫が()れ落ちていく。
「最後まで、()てほしいと、思った。『紫桜(しざくら)』──」
 そう言うと、桔梗さんは空を(あお)いだ。
 僕も空を見上げると、(かぜ)(なが)されて灰色(はいいろ)の厚い雲が(つぎ)から次へと(おく)り込まれてくる。
 なんだか現実感(げんじつかん)(とぼ)しくて、(ゆめ)の中にでもいるような感覚(かんかく)だ。
 やっと呼吸(こきゅう)が落ち着いた僕は、ゆっくりと立ち上がって桔梗さんに言った。
「桔梗さん、戻ろう。(きゅう)にいなくなったからみんな心配してるよ」
()()げるんじゃないかって?」
 桔梗さんは目を()せて口元だけで(わら)った。
「わたしは、ここにいるよ?」
 そう言ったきり、桔梗さんは雨に(けむ)る山並みを(なが)めたまま何も言わなかった。
 急に雨が(つよ)くなった。
 雨粒(あまつぶ)が地面や木々の葉を打つ音が(あた)りに()ちる。
 僕は泥だらけになった手のひらをぬぐって、桔梗さんの白い手を()った。
 彼女の手は雨で濡れてひんやりと(つめ)たい。
 桔梗さんはその黒目(くろめ)がちな目で僕の顔を静かに見つめる。
(かえ)ろう、みんな()ってるよ」
 僕の言葉(ことば)に、彼女は(だま)ってうなずいた。

第六章 雨 〈二〉

 湯船(ゆぶね)()(しず)めながら、(ぼく)桔梗(ききょう)さんの言葉(ことば)(おも)(かえ)していた。
 何かとても大事(だいじ)なことがわかりかけている気がする。
 足()(みち)を下りて勝手口(かってぐち)からこっそり桐葉荘(とうようそう)に入ろうとしたら、タイミングが(わる)いことに、僕と桔梗さんは(らん)さんにはち()わせしてしまった。
「どうしたんですか、二人(ふたり)ともそんなずぶ()れで!」
 蘭さんがあきれた(こえ)(さけ)び、その声で(もど)ってきていた水菜(みずな)さんが気づいて、夕介(ゆうすけ)に桔梗さんの無事(ぶじ)連絡(れんらく)してくれた。
 僕と桔梗さんは、そのまま蘭さんによって(なか)強制的(きょうせいてき)風呂(ふろ)(おく)られたんだ。
 僕は湯船から両手(りょうて)でお湯をすくって(かお)をすすいだ。
 雨で()えた身体(からだ)が、じんわりと(あたた)められていく。
 桔梗さんは、雨をやませるために(いの)っていたと()った。それも雨の中、わざわざあの尾根(おね)まで(のぼ)って。
 一体(いったい)、何が彼女(かのじょ)をそこまで()り立てたのだろうか?
 どうも自分(じぶん)一人では(かんが)えがうまくまとまらない。
 夕介や水菜さんなら、僕が気づかないことに気づいてくれそうな気がする。

 真新(まあたら)しい浴衣(ゆかた)()て風呂を出ると、女子会(じょしかい)五人(ぐみ)が蘭さんとにぎやかにしゃべりながらチェックアウトの手続(てつづ)きをしていた。
 雨の中、桑田(くわた)さんが(もん)のところに()めたミニバンまで荷物(にもつ)(はこ)んでいるのがガラス()しに見える。
 僕はなんとなく立ち()まってその様子(ようす)(なが)めていた。
女将(おかみ)さん、()~っ(たい)、また来ますね!」
 セミロングの(あか)るい(いろ)(かみ)をふんわりと内巻(うちま)きにカールさせ、ちょっと(はな)にかかったようなかん(だか)い声が特徴(とくちょう)の女子の言葉に、ほかの四人もうなずいた。
「うふふ、それって(じつ)は、イケメン目当(めあ)てなんじゃないですか~?」
 蘭さんが(わら)いながら言うと、女子たち五人は(はじ)けるように笑った。
「あはは、バレた~!」
「ねえねえ、女将さん、あの男の人、よくここに来るんですかぁ?」
「それは個人情報(こじんじょうほう)ですから、お(つた)えできかねます♪」
「ですよね~」
「あ~あ、()しいなあ、もうちょっとで()り合いになれそうだったのにぃ」
 女子たちは(くや)しそうに声を上げた。
大丈夫(だいじょうぶ)()の中にはた~くさんの殿方(とのがた)がいるんですから。がんばってそれぞれいい人(さが)してくださいね! 応援(おうえん)してますよ!」
「あはは~、そうしまーす」
 蘭さんが両手でガッツポーズを作ると、女子たちは(ふたた)び声を立てて笑った。
「この(たび)はまことにありがとうございました。ぜひまたおいでませ」
 蘭さんはカウンターから出て(すこ)(あらた)まった口調(くちょう)でお(れい)を言うと、ていねいに(あたま)を下げた。
「ねえねえ、女将さん女将さん、一緒(いっしょ)写真(しゃしん)いいですかぁ? SNSに()せたいから」
 どうやら最初(さいしょ)のかん高い声の女子がこの五人組のリーダー(かく)のようだ。
「いいですよ、(よろこ)んで。じゃあ、桑田さん、()ってもらってもええですか?」
「はい、お(まか)せください。ふっふっふ、(わたし)こう見えても、プロの指導(しどう)()けちょるんですからね!」
 桑田さんは(かる)(うで)まくりをしながらカメラを()け取ると、にこやかにカメラを(かま)えた。
「じゃあ撮りますよ~、一たす一は~?」
「に~!」
 それぞれ思い思いのポーズで満面(まんめん)()みが(はじ)けた。
 (つづ)けてシャッターが何度(なんど)()される。
(たの)しい思い出になりました~、ありがとー」
 女子たちが笑顔(えがお)で手を()りながらお礼を言う。
 蘭さんも桑田さんもその言葉にうれしそうにうなずいている。桐葉荘(とうようそう)にリピーターが(おお)理由(りゆう)が何となくわかるような気がする。
「じゃったら、桑田さん、(えき)までよろしくお(ねが)いしますね。安全運転(あんぜんうんてん)で」
「はい、もちろんです。それではお(おく)りしますので、どうぞ」
 桑田さんは、女子たちを門の(そと)へ停めたミニバンへと案内(あんない)する。蘭さんも玄関(げんかん)を出て見送りをするようだ。
 (にぎ)やかな声が玄関の外へ出ても続いている。
森崎(もりさき)、森崎!」
 不意(ふい)に、(うし)ろから夕介に小声(こごえ)()ばれた。
 (うめ)()から顔だけ出して僕を手(まね)きしている。
「なんだ、戻ってたのか」
「なんだじゃないだろ、結局(けっきょく)桔梗はどこにいたんだよ?」
「尾根の上だよ。勝手口から上がって行ったところ」
「桔梗はどうした?」
「今風呂に行ってる。もう少ししたら出てくると思うけど」
 それを聞いて夕介はやっとほっとした顔をした。
「まあ、取りこし苦労(ぐろう)()んでよかった」
「だね。『乙女淵(おとめぶち)』みたくなったらどうしようかと思ってあせったよ」
座敷(ざしき)で水菜と果林(かりん)()ってる。ロビーで(はなし)をしよう」
 僕が廊下(ろうか)反対側(はんたいがわ)を振り返ると、座敷の入口から果林ちゃんが顔を出して笑っていた。
「夕介、女子会(かえ)ったね。はあ(かく)れんでもええよ」
「バカ、隠れてたんじゃない、蘭さんの仕事(しごと)邪魔(じゃま)しないようにしてたんだ」
 にひひーと笑う果林ちゃんの後ろから、水菜さんも姿(すがた)を見せた。
「森崎さん、大変(たいへん)でしたね。(よご)れた(ふく)は今洗濯(せんたく)してますから、午後(ごご)には(かわ)きます」
「すいません、(たす)かります」
 彼女のロングスカートの(すそ)がまだ少し湿(しめ)っている。
 それにしても、僕のパンツまで水菜さんが洗濯()(ほう)()んだのかと思うと、僕は赤面(せきめん)してしまった。

「あらあら、みんなお(そろ)いで何の悪だくみ?」
 見送りを()えた蘭さんがロビーに戻ってきて、思い思いの場所(ばしょ)(すわ)っている僕らを見るなり笑った。
「あ、いや、みんなで昨日(きのう)感想(かんそう)でも話し合おうと思って……」
「ふふ、夕介さんは隠しごとが下手(へた)ですね。目が(およ)いでますよ」
 蘭さんが右手の人()(ゆび)を口(もと)に当てていたずらっぽく指摘(してき)すると、夕介は頭をかいた。
「桔梗がいなくなって、みんな大あわてで探してたんでしょ?」
「知ってたんですか?」
 蘭さんがずばりと言い当てたので、僕は思わず声を上げた。
「様子を見てればわかりますよ、(とく)に水菜と果林はね。私の(むすめ)ですもの」
「な~んだ、隠して(そん)したー」
 果林ちゃんは両手を頭の後ろに組んでソファの()もたれに身を(まか)せた。
「母さん、わかってて心配(しんぱい)じゃなかったの?」
 水菜さんが不思議(ふしぎ)そうに(たず)ねたが、蘭さんは水菜さんにほほ笑みかけた。
「桔梗は自分(じぶん)から()んだりはせんよ。あの子も私の子じゃもん、五年間ずっと何も言わんかったにしても、そのぐらいわかるよ」
「そうなの?」
 水菜さんは納得(なっとく)いかないらしく、ちょっと(むずか)しい顔をしている。
「あ、きぃねえちゃん!」
 桔梗さんが桐葉荘の浴衣に身を(つつ)んで姿を(あらわ)すと、果林ちゃんがぱっと立ち上がった。
「んもー、心配したんじゃけえ!」
 果林ちゃんは桔梗さんに()()るといきなり()きついた。桔梗さんは少し困惑(こんわく)したような微笑(びしょう)()かべる。昨日今日と、桔梗さんは少しずつ色々(いろいろ)表情(ひょうじょう)を見せるようになってきた。
「桔梗、あったまった?」
 蘭さんが声をかけると桔梗さんはこくりとうなずいた。
「もう、心配させて……一体どこにいたの、桔梗?」
 水菜さんはソファから立って両腕(りょううで)()むと、少し()めるような口調で尋ねた。
 桔梗さんは(だま)って右手で尾根の方角(ほうかく)を指差す。
「ん? どこなの?」
 水菜さんが不審(ふしん)な顔をする。
「勝手口から少し山の方に登った尾根の上です。おととい、僕もそこで桔梗さんと一緒に朝日を見たんです」
 僕は桔梗さんのかわりに答えた。
「あ、こまい(ころ)によく探検(たんけん)ごっこしたとこ?」
 果林ちゃんが声を上げると、桔梗さんは黙ったままうなずいた。
「えー、わたし知らないよ、そんな場所(ばしょ)
「にひひー、みず(ねえ)には内緒(ないしょ)(とう)さんが(おし)えてくれたんよ。きぃねえちゃんとうちの秘密(ひみつ)の場所!」
「あー、父さんやっぱりわたしより果林や桔梗の方がかわいかったんだ!」
 果林ちゃんの言葉に水菜さんが両手を(こし)に当ててふくれ(つら)をした。水菜さんらしからぬ、子どもっぽい表情だ。
「果林、お前……年光(としみつ)さんのこと、思い出せるようになったのか?」
 夕介がソファから身を()り出して尋ねた。
 両手を前に組んでひざの上にひじを()き、真剣(しんけん)な表情で果林ちゃんの返答(へんとう)()っている。
「あれ、そういえば今うち父さんのこと言うたね? どうなんかな? ようわからん」
 果林ちゃんは肩越(かたご)しに振り返って夕介にほほ笑んだ。
「でも、昨日はぶち()いたけど、父さんがおってくれたけえ今うちがおるんじゃなあって思ったらな、なんか『父さんありがとう』って、思うたんよね。そしたら、今朝(けさ)、なんか父さんの(ゆめ)、見たような気がする」
 果林ちゃんはきれいな笑顔で夕介にそう返した。
「そうか──」
 夕介はそうつぶやくと、腕を組んで再びソファに身を沈め、左手であごひげを()でまわしている。
「ふふ、思い出の(くに)、じゃね」
 果林ちゃんの笑顔を見て蘭さんがうれしそうにつぶやいた。
「なんですか、それ?」
 僕は思わず尋ねた。
「『青い鳥』で、チルチルとミチルが最初(さいしょ)(おとず)れる国です。二人はそこで、()くなったおじいさんおばあさんや小さいうちに死んでしまった弟妹(おとうといもうと)たちと再会(さいかい)するんですよ。桔梗がちっちゃいころ大好(だいす)きじゃったから、よう()んであげたね、『青い鳥』」
 蘭さんがそう言って桔梗さんにほほ笑むと、桔梗さんも少しはにかみながらうなずいた。
 水菜さんがぽんと両手を合わせる。
「あ、わたしもよく二人に読んであげてたから(おぼ)えてるよ。『思い出の国』は()(きり)の向こうにあって、そこでは亡くなった人がずっと(ねむ)ってるの。生きている人がその人のことを思い出した時だけ目が()めるんだよね?」
「そうそう、さすが水菜。よう憶えちょるねぇ。果林は、(ひさ)しぶりに思い出の国の父さんに()いに行ったんじゃね」
「そっか、うちが思い出したから、会えたんじゃ」
 そう言って果林ちゃんは(いきお)いよくソファに()び込んだ。小さな果林ちゃんの身体(からだ)が二・三度スプリングで(はず)む。
 桔梗さんがその様子を見て微笑(びしょう)している。
「でもさー、きぃねえちゃん、雨()っちょるのになんで(そと)に出たん?」
「……内緒」
 果林ちゃんがソファから身を乗り出して桔梗さんに尋ねると、彼女は小さな声でそう答えて(ほお)を少し赤らめた。
「さてと、仕事(しごと)仕事。あなたたち、いつまでそこに座ってる気?」
 蘭さんがいたずらっぽい笑顔で僕らに尋ねる。
 水菜さんが不穏(ふおん)気配(けはい)(さっ)したらしく、あわてて立ち上がった。
「あ、わたしはもう母屋(おもや)(もど)るよ。(あら)いものとかやっとくから。桔梗、早く(あさ)ごはん()べちゃって」
「うちも手伝(てつだ)う!」
「果林はいらない、かえって面倒(めんどう)になるもん」
「えー、なんよーそれ!」
 水菜さんの言葉に果林ちゃんはむくれる。
「じゃったら、果林はこっちの掃除(そうじ)を手伝おっか」
「じゃあそうするー」
「そしたら掃除機(そうじき)()っておいで」
「はーい!」
 果林ちゃんが元気(げんき)()返事(へんじ)をして()けていった。
 水菜さんと桔梗さんも僕らに会釈(えしゃく)をしてロビーを出た。
「このままここに座ってたら掃除機で()われそうだな」
 夕介がにやにやしながら僕に言った。
 蘭さんは両手を腰に当てて満面の笑みで仁王(におう)()ちしている。
「だね」
 僕も夕介に苦笑(にがわら)いを返す。
「お前どうせ(ひま)だろ? 資料(しりょう)整理(せいり)するの手伝え」
「しょうがない、手伝ってやるか」
「クズのくせに(えら)そうに」
「クズとは何だ、クズとは」
「じゃあカスだ」
「うふふ、どっちにしても掃除機が来る前にお部屋(へや)に戻られた方がいいですよ~」
「ハイ!」
「今どきます!」
 蘭さんににこやかににらまれて、僕らは弾かれたように立ち上がった。

第六章 雨 〈三〉

 (ぼく)はおととい図書館(としょかん)でコピーした資料(しりょう)にパンチで(あな)()けては、次々(つぎつぎ)とフラットファイルに()じている。
 資料にはあちこちにふせんが()られ、欄外(らんがい)にはピンク(いろ)蛍光(けいこう)マーカーで何やら()かれているが、何と書いてあるのかはほとんど()()れない。
「よくこんなの読めるな」
「いいんだ、(おれ)がわかれば」
 夕介(ゆうすけ)はモバイルPCを使(つか)って()りためた写真(しゃしん)整理(せいり)をしている。
「へえ、写真で見るとまたちょっと(ちが)って見えるんだな」
光量(こうりょう)(すく)ないから(しぼ)りやシャッタースピードをいろいろ()えてみたんだが、なかなか満足(まんぞく)に撮れたのはないな」
 僕が(うし)ろからのぞき()むと夕介は少し不満(ふまん)そうに()ったが、僕にはどこがどう不満なのかよくわからない。
 画面(がめん)では『寂水(じゃくすい)(まえ)シテの鬼女(きじょ)赤頭(あかがしら)をふり(みだ)しつつ右手を()り上げている。鱗摺箔(うろこすりはく)がギラギラと(ひかり)反射(はんしゃ)し、振り上げた(そで)がぶれて(うつ)っていて、(まい)(はげ)しさを(かん)じさせる。
 画面上(じょう)に次々と(うつ)り変わる写真を見ていると、僕らが()ていたのとは違う角度(かくど)からの写真もたくさんある。いつの()に夕介はこんなにあちこち移動(いどう)していたのだろう。
「ふーん、さすがはプロだな」
「お前に写真の()()しなんかわかるのかよ」
正直(しょうじき)よくわからないけど、雰囲気(ふんいき)はよく(とら)えてると(おも)うよ」
「そりゃどうも」
 夕介は画面から目を(はな)さずに(こた)えた。まったく、()めがいのない男だ。
 画面に『乙女淵(おとめぶち)』の前シテが(あらわ)れると、夕介は画像(がぞう)(おく)るのを()めてその画像に見入った。
 僕も(あらた)めてしげしげとその写真を(なが)めた。
 (かた)く口を()じた(めん)、白い小袖(こそで)の上に白の水衣(みずごろも)鬘帯(かづらおび)まで白……。
 背景(はいけい)(よる)(やみ)(あや)しく()かび上がるような白い装束(しょうぞく)が、強烈(きょうれつ)印象(いんしょう)(はな)っている。
「やっぱり、桔梗(ききょう)だよな」
「うん、僕もそう思う」
 夕介も僕も、画面の桜姫(おうひめ)をじっと見つめた。
 多分(たぶん)旅僧(たびそう)(たい)して自分(じぶん)()の上を(かた)っている場面(ばめん)だろう。
 松岡(まつおか)さんが(えん)じた桜姫(おうひめ)は、(こころ)もち前かがみの姿勢(しせい)虚空(こくう)を見つめて、じっとたたずんでいる。
「もしかしたら、桔梗は『乙女淵(おとめぶち)』の物語(ものがたり)をなぞっているのかもしれないな」
 夕介がぽつりとつぶやく。
 桜姫は自分の(はっ)した言葉(ことば)合戦(かっせん)(まね)き、(ちち)たちを()なせたと思い込んでいた。
 桔梗さんも(だれ)かを死なせた?
「あ!」
 僕は思わず(こえ)を上げた。
 夕介が振り返って僕の(かお)を見る。
「なんだ、いきなり──」
「ちょっと()って!」
 僕は夕介の言葉を(せい)した。何かがつながりそうな気がする。
 僕が(はじ)めて桔梗さんと言葉を()わしたとき、彼女(かのじょ)は僕に()えそうな気がした理由(りゆう)を「わたしが、会いたいと言ったから」と答えた。
 果林(かりん)ちゃんが『寂水(じゃくすい)』の(あと)()いた(とき)には「(おに)になんかさせない」と夕介に(つよ)口調(くちょう)()げた。
 そして今朝(けさ)は、「雨をやませるために」(いの)っていた。
 いずれも彼女の(のぞ)み、いや、意志(いし)(あらわ)したものだ。
「もしかしてだけど……」
 僕は(かんが)えが十分(じゅうぶん)にまとまらないままに言葉を発する。
(たん)になぞっているだけじゃ、ないんじゃないかな」
 僕にも何か確証(かくしょう)があるわけではないが、自分の(おく)の方から勝手(かって)に言葉がわきあがってくるのを感じる。
 夕介がじっと(いき)()んで僕の(つぎ)の言葉を待っている。
「桔梗さんは、桜姫と(おな)じように、自分の『言葉』が年光(としみつ)さんを死なせてしまったと思ってるような気がする」
 言ってみて自分で自分の言葉に(おどろ)く。そう……なのか?
「そうか、奪命(だつみょう)(ことば)か!」
 夕介が興奮気味(こうふんぎみ)(さけ)んだ。
「奪命の詞、だっけ? とにかく桔梗さんは、自分が口にした言葉は現実(げんじつ)になるって思ってるんじゃないかな? 桜姫がそうだったみたいに」
「なるほど、だから五年間(ごねんかん)一言(ひとこと)も発しなかった──」
 夕介はそう言ったきり(うで)()んで(だま)りこんだ。
 僕は(あらた)めて画面の中でたたずんでいる桜姫を眺めた。
 自分の言葉を(いま)わしく(のろ)わしいと(なげ)き、(だれ)ともかかわらずに死人(しにん)として生きようとして(かな)わず、結局(けっきょく)(みずか)(いのち)()つことになる桜姫。
「なんか、似過(にす)ぎててこわいよね」
「ああ。桔梗がいなくなったと聞いて、(おれ)もお前も、すぐに『乙女淵』を連想(れんそう)したぐらいだからな。だが、あいつは()()げなかった。なぜだ?」
「そこまではわからないけど……」
 僕は桔梗さんの(しず)かな(ひとみ)を思い()かべた。
 彼女(かのじょ)は僕に一体(いったい)何を(かた)りかけようとしているのだろう?

 じっと考え込んでいたら、突然(とつぜん)部屋(へや)電話(でんわ)()りだしたので僕も夕介もびっくりして顔を見合わせた。
「おい、お前出ろ」
「なんでだよ、ここアンタの部屋だろ」
「いいから」
 僕はしょうがないなあとぶつぶつ言いながら受話器(じゅわき)()った。
「もしもし?」
『あ、あれ? 森崎(もりさき)さんですか?』
 電話の()こうの声は水菜(みずな)さんだった。
「夕介に出ろって言われて。どうかしましたか?」
『いえあの、二人ともお(ひる)用意(ようい)してないでしょ? うちでごちそうしようかと思って』
 すっかり(わす)れていたが、桐葉荘(とうようそう)は一(ぱく)(しょく)設定(せってい)だから普通(ふつう)なら昼食(ちゅうしょく)は用意されない。
「マジッすか? ぜひぜひ!」
 僕は二つ返事(へんじ)即答(そくとう)した。
『ふふ、二人ともそろそろ和食(わしょく)()きたんじゃないですか? わたしがパスタ(つく)ります。(あと)でまた()びますから、そしたら母屋(おもや)に来てください』
「あざーっす!」
 水菜さんの手料理(てりょうり)()べられると思うと自然(しぜん)とテンションも上がる。僕はうきうきした気分(きぶん)で受話器を()いた。
 夕介が怪訝(けげん)な顔で僕を見ている。
「水菜さんが昼にパスタごちそうしてくれるって!」
「おいおい、どういう(かぜ)()きまわしだ? 今まで俺が何(かい)()まってもこんなこと一()もなかったぞ」
「ふふーん、水菜さんもそろそろ僕の魅力(みりょく)に気づいたのかも」
「いや、それだけはない。()(たい)に」
 夕介は大げさに(くび)(よこ)に振る。
「ま、お前のおめでたい妄想(もうそう)(べつ)にして、何かが変わりつつあるのは(たし)かだな」
 そう言って夕介は左手であごひげを()でた。

第六章 雨 〈四〉

 さっきから果林(かりん)ちゃんが()()かない。
 足を()げ出して椅子(いす)(すわ)ったまま、スマートフォンをにらんでずっとイライラしている。
「あ~もう!」
 果林ちゃんはとげとげしく()()てると、何やら一心(いっしん)()()(はじ)めた。スマホなのにフリック入力(にゅうりょく)使(つか)わずに(ゆび)連打(れんだ)しているのがなんだかおかしいが、とてもそんなことを()えるような雰囲気(ふんいき)ではない。
「おい、何イライラしてんだよ?」
 (うで)()んだまま果林ちゃんの様子(ようす)(なが)めていた夕介(ゆうすけ)面白(おもしろ)くなさそうに(たず)ねる。
「夕介にはカンケーない!」
 果林ちゃんはぎろっと夕介をにらみつけると、また画面(がめん)に目を落としてひたすら打ち込み(つづ)ける。
 夕介は(だま)って(かた)をすくめた。
 (ぼく)と夕介は水菜(みずな)さんのお(まね)きにあずかって、母屋(おもや)のダイニングでパスタを()っているのだが、果林ちゃんは僕らが()(まえ)からずっとスマホで(だれ)かとやりとりを続けている。
 水色(みずいろ)のエプロン姿(すがた)の水菜さんが立つキッチンからは、食欲(しょくよく)(さそ)ういいにおいが(なが)れてくる。
「どうせ彼氏(かれし)とけんかでもしてるんでしょ?」
「みず(ねえ)うるさい!」
 対面(たいめん)キッチンから様子(ようす)を見ていた水菜さんがからかうと、果林ちゃんはものすごい剣幕(けんまく)一喝(いっかつ)した。
「けんかするぐらいなら最初(さいしょ)からつきあわなきゃいいのに」
 水菜さんはそうつぶやくと(かお)をひっこめた。
「あ~もうムリ。(わか)れる!」
 とうとう果林ちゃんはそう言って最後(さいご)のメッセージを打ち込み、ダイニングテーブルの上に電源(でんげん)()ったスマホをぽいと(ほう)()げた。
()わり終わり!」
 えーと、果林ちゃんはどうやら僕らの目の前で彼氏と別れることにしたらしい。
「なんだ、もう終わりか? 今回(こんかい)は何ヶ月続いたんだ?」
「二ヶ月。ようがまんした方じゃと(おも)う」
 そう(こた)えてから果林ちゃんは椅子に座ったまま大きく背伸(せの)びした。
 夕介はなかばあきれ顔だ。
「やれやれ、あいかわらず続かないな」
「だって陽一(よういち)センパイぶち束縛(そくばく)するんじゃもん。ちょっと返事(へんじ)せんかったらようけメッセージ(おく)って来てから、ぶちせんない(めんどくさい)! なのに人のこといっそ(全然(ぜんぜん))わかろうともせんのんよ! 今朝(けさ)うちはきぃねえちゃんのことで(あたま)いっぱいじゃったのにから、よいよわかってくれん!」
「まったく、果林を束縛できるような度胸(どきょう)のある男がいるなら見てみたいもんだ」
 夕介はそう言って苦笑(くしょう)している。
「彼氏と直接(ちょくせつ)(はな)さなくてもいいの?」
「はあええ。学校でも絶対(ぜったい)口きかん!」
 僕も遠慮(えんりょ)がちに尋ねてみたが、果林ちゃんは腕を組んでぷりぷりと(おこ)ったままだ。
「これで五人目だね。みんな果林を(あつか)いかねて、最後は突然(とつぜん)一方的(いっぽうてき)にポイだもん。なんかかわいそー」
 水菜さんが(ふたた)びキッチンから果林ちゃんに茶々(ちゃちゃ)を入れる。
「みず姉だってみーんな拒否(きょひ)ったくせに」
「わたしはつきあう前だもん。とりあえずつきあってみて、()きたら()てちゃう果林の方が、よっぽど残酷(ざんこく)だと思うけどなー」
 水菜さんもなかなか言う。告白(こくはく)してきた三〇人の男子(だんし)たちをことごとくふった水菜さんだってなかなか酷薄(こくはく)だと思うが、さすがにそんなことは言えない。
「イケメンとしてはどう思う?」
 僕は夕介に水を()けてみた。
「告白されたからってホイホイつきあうからこんなことになるんだ。次はつきあう前によーく考えるんだな」
「えー、うちがいけんの? おいしーかどうかは、()べてみんとわからんじゃあ?」
 聞きようによってはかなりキワドイ台詞(せりふ)を、果林ちゃんは無邪気(むじゃき)に投げる。
 夕介はあきれ顔で続けた。
「お前なー、いいかげん自分(じぶん)小悪魔女(こあくまおんな)だって自覚(じかく)しろ。()(まわ)される(まわ)りの男からしてもいい迷惑(めいわく)だ。そもそも、どうでもいい相手(あいて)からちやほやされたってなんにもならないだろ? モテるってのはな、自分が(おも)われたい相手から想われることだ」
「おー、大人(おとな)!」
 夕介がえらく含蓄(がんちく)のある言葉(ことば)を口にするから、僕は感嘆(かんたん)(こえ)を上げた。
「ふふん、お前みたいな()モテには永遠(えいえん)にわからんかもしれんがな」
 夕介はそう言ってドヤ顔を僕に向けた。ムカつく。
「よけいなお世話(せわ)だ! だいたい、その意味(いみ)で言ったらアンタだってモテてない──」
 と、言いかけたところで夕介に口をふさがれた。前言撤回(ぜんげんてっかい)都合(つごう)(わる)くなるとすぐに実力行使(じつりょくこうし)、まるで子どもだ。
「ま、果林は男とつきあったことはあっても、本気(ほんき)(こい)をしたことはないみたいだな」
「えー、なにそれー」
「まだまだお子様(こさま)だってことだ。(くや)しかったら本気で誰かを()きになってみな」
 夕介は一人で()(ほこ)っている。まったく、高校生相手に大人(おとな)げない。
「えー、じゃあ夕介は本気で好きな人おるん? 誰ー?」
「そのうちわかる」
 果林ちゃんはぽかんとして首をかしげている。
 夕介が好きな相手を()っている僕としては、(わら)いをこらえるのに必死(ひっし)だ。
「よし、おっけー♪」
 キッチンタイマーがにぎやかに時間(じかん)()らせると、水菜さんが上機嫌(じょうきげん)な声を上げた。
 火を()めて大きな寸胴(ずんどう)をシンクに返すと、湯気(ゆげ)がもうもうと立ち上って彼女の姿を(かく)す。
「果林、もうすぐできるから(かあ)さんと桔梗(ききょう)()んで」
「んー、わかったー」
 果林ちゃんは椅子から立ち上がると内線(ないせん)(らん)さんを呼び、それから桔梗さんを部屋(へや)まで呼びに行った。
 水菜さんは(かな)ざるで水気(みずけ)を切ったパスタを手際(てぎわ)よくフライパンに(うつ)して、パスタを()でている間に作っていたソースと(から)めている。
「うまいもんだな」
 夕介が感心(かんしん)したようにつぶやいた。
「えへへ、パスタは一(ばん)得意(とくい)料理(りょうり)ですから」
 水菜さんは(さら)にパスタを()()けながら答える。トングを(たく)みに使ってみるみるうちに六皿ものパスタの()りつけを終えた。
「よし、できた!」
 水菜さんが無邪気な声を上げた。
「いいにおいですね! 美味(おい)しそう」
「ふふ、本当(ほんとう)に美味しいかどうかは、食べてみないとわからないですよ?」
 僕が声をかけると、水菜さんは冷蔵庫(れいぞうこ)からサラダボウルを取り出しながら果林ちゃんの言ったことをまねしたので、僕も夕介も顔を見合わせて笑ってしまった。
 果林ちゃんに呼ばれた桔梗さんもやってきて配膳(はいぜん)手伝(てつだ)う。桔梗さんはまだ桐葉荘(とうようそう)浴衣(ゆかた)のままだ。水菜さんはエプロンを()いでていねいにたたんでいる。
 ダイニングテーブルの上は六皿のパスタに(くわ)え、真中(まんなか)に大きなサラダボウルが()かれ、さらにサラダの取り皿ですしづめ状態(じょうたい)
 椅子が五(きゃく)しかないので、水菜さんはキッチンからスツールを持ってきて座った。
「あらあら、なんだかにぎやかねえ」
 ダイニングにやってくるなり蘭さんは(ほが)らかな声で笑った。
「水菜、いつもありがとうね」
「ううん、()たり前のことしてるだけだよ。さ、みんな食べて食べて」
「いただきまーす!」
 果林ちゃんが一番に声を上げてフォークとスプーンを取って食べ始めると、みんなもそれに続いた。
 水菜さんが作ってくれたのは、ベーコンと山菜(さんさい)、シメジの和風(わふう)パスタ。上にかけられた(きざ)海苔(のり)が湯気で(おど)っている。口に入れると醤油(しょうゆ)とバターの(かお)りがふわりと広がる。ベーコンの塩気(しおけ)とシメジの旨味(うまみ)が絡み合った絶妙(ぜつみょう)(あじ)つけだ。
「どうですか?」
 水菜さんがじっと僕の顔を見て()う。
「うまいっす! これだったらいくらでもいけます!」
 僕が口をもごもごさせながら答えると、水菜さんはうれしそうな笑顔(えがお)()かべた。
 少々(しょうしょう)行儀(ぎょうぎ)(わる)いが、それよりもこの感動(かんどう)を早く彼女(かのじょ)(つた)えたかった。
(なつ)かしい味だな、よく年光(としみつ)さんがごちそうしてくれたのを思い出す」
 夕介がふっと()らす。
「ふふ、年光はもてなし好きじゃったですからね。よく会社の人や友達(ともだち)(まね)いてはパスタをふるまってましたね」
 蘭さんもそう言ってほほ()んだ。
「水菜のパスタは(わたし)よりもずっと上手(じょうず)! やっぱり、(とう)さんの直伝(じきでん)じゃもんねー」
「えへへ、母さんにそう言ってもらえるとうれしいな」
 蘭さんが()めると、水菜さんはちょっとはにかむ。
「みず姉、カフェでも(ひら)いたらええんじゃないん? 味はプロ(きゅう)じゃと思うけどなあ」
「そんなことないよ、わたしはただ食べてもらうのが好きなだけだもん」
 果林ちゃんの言葉に、水菜さんは(すこ)(ほお)を赤らめてさらに()れた表情(ひょうじょう)をした。やわらかな、いい表情だな……と僕はちょっとの(あいだ)見とれてしまった。
 ふと気づくと、桔梗さんが食事(しょくじ)の手を()めてじっと僕を見つめている。僕が彼女に視線(しせん)を合わせると、桔梗さんはあわてて目をそらした。じっと下を向いて、いつまでもフォークをくるくると回してパスタを()きつけている。
「そうそう母さん、果林また彼氏と別れたんだよ!」
「あらら、また?」
 水菜さんの言葉に蘭さんが目を(まる)くした。
「だってぶち束縛するんじゃもん。はあ()えれん」
「これで五人目だよ、どう思う、母さん?」
「んふふー、果林はそっちの方は父さんに似ちゃったんだ」
 蘭さんが意味(いみ)ありげな(わら)いを返す。
「えー、それってどういう意味なん?」
 果林ちゃんは両手(りょうて)(あたま)(うし)ろに組んで蘭さんに尋ねた。
「父さん、(わか)(ころ)結構(けっこう)なたらしじゃったんよ。年中(ねんじゅう)ナンパしたりコンパしたりで、(いそが)しかったんじゃけえ」
「えー、なんかヤだなあ」
 水菜さんが軽蔑(けいべつ)したような声を上げる。
「そこそこモテたみたいね。でもねー、やっぱり自分が想われたい人から想われないと、意味がないんよね」
 蘭さんはさっき夕介が言ったのと同じことを言った。
「あの、蘭さんは年光さんとはどんなふうに知り合ったんですか?」
 僕はつい好奇心(こうきしん)で聞いてしまった。
「あー、それわたしも聞きたい! 今まで何回聞いてもいつだってはぐらかして、なかなか(おし)えてくれないんだもん。だいたい、なんでそんなたらしと結婚(けっこん)したの?」
「うちも聞きたい! なー、母さん教えてー」
 水菜さんと果林ちゃんも僕に同調(どうちょう)した。桔梗さんも興味深(きょうみぶか)そうに蘭さんの顔を見つめている。
「えー、今さら()ずかしいなぁ」
 蘭さんは両手を頬に当てて(こま)った顔を見せた。その様子はなんだかかわいらしくて、三人姉妹(しまい)母親(ははおや)であることを(わす)れてしまいそうだ。
「……(おれ)も、聞いてみたいです」
 ずっと(だま)っていた夕介がぼそりと言った。
「聞かせてください、蘭さん。ぜひ」
 夕介はそう言って顔を上げると、蘭さんの目をじっと見つめた。
「しょうがないなあ」
 蘭さんは少し困ったような微笑(びしょう)を浮かべると、少し()をおいて(かた)り始めた。

第六章 雨 〈五〉

 んー、どこから(はな)そっか。
 (わたし)はね、短大(たんだい)出てすぐ、経理部(けいりぶ)事務職(じむしょく)として(とう)さんと(おな)会社(かいしゃ)に入ったんよ。
 ()こうは営業(えいぎょう)部で、二年先輩(せんぱい)
 ええと、私の四つ上じゃからそのとき二四(さい)……じゃったんかな?
 私がハタチ。今の水菜(みずな)とおんなじ(とし)じゃね。
 最初(さいしょ)印象(いんしょう)
 もう最悪(さいあく)
 会社員(かいしゃいん)のくせにラフなかっこうで、いかにもちゃらんぽらんな(にい)ちゃんって(かん)じでね。
 やたらとなれなれしい上に口も(わる)くて、正直(しょうじき)、何コイツって感じじゃったよ。見るからに女グセ悪そうじゃったし。
 あの(ころ)はまだイケイケの時代(じだい)名残(なごり)で、会社も結構(けっこう)ゆるかったんよね。私の同僚(どうりょう)にも、(あき)らかに花ムコ(さが)しが目的(もくてき)の「(こし)かけOL」がおったもん。ふふ、今じゃ死語(しご)じゃね。
 私は真面目(まじめ)じゃったから……ちょっと果林(かりん)、ここ(わら)うとこじゃない。
 とにかく、私は経理事務の仕事(しごと)一生懸命(いっしょうけんめい)(おぼ)えようと(おも)って毎日(まいにち)がんばっちょったけど、父さんの方はたいてい何か(へん)なことして人のこと(こま)らせよったね。書類(しょるい)不備(ふび)(おい)いし、事務(かた)無理(むり)なことばっかり()うし。
 そうそう、コンパの領収(りょうしゅう)経費(けいひ)(まぎ)()ませる常習犯(じょうしゅうはん)じゃったんよ。まーまー、いーじゃん、とか言って。
 同じ経理部の先輩からは、絶対(ぜったい)だまされないように気をつけなさいってしつこく言われた。
 見た目は(わり)とさわやかでカッコええのに、そんなだから事務の女子(じょし)からもとにかく(きら)われちょったね。
 もちろん、私もサイテーな(やつ)って思いよったなあ。
 もう、ほんとに口が悪かったし。
 (こえ)はするけど小さいから見えなかった、なんて、新喜劇(しんきげき)みたいなことも言われたんよ。
 じゃけえ、父さんとはもう毎日のように事務(しつ)でバトルしよった。
 なんの(とき)じゃったか(わす)れたけど、上司(じょうし)でもないあなたに指図(さしず)される覚えはありません! って言い(かえ)したこともあったっけ。
 その時の父さんの(かお)思い出すと(わら)えるけど、今にして思えばかわいくないよねー、私。
 でも、仕事はその当時(とうじ)から出来よったみたいよ、父さんは。
 なんでかわからんけど、お(きゃく)さんウケはよかったなあ。(えら)い人にも気に入られちょったみたいじゃし。
 (あと)本人(ほんにん)から聞いたんじゃけど、その頃は仕事が段々(だんだん)面白(おもしろ)くなってきてて、やればやるほど手(ごた)えがあったって言いよったね。
 ま、とりあえず私としては(だい)一印象があんまりにも悪すぎて、この人だけは絶対に恋愛(れんあい)対象(たいしょう)にはならないって思ってた。
 実際(じっさい)、そのころ(ほか)にあこがれてる先輩がおったもん。もしその先輩とつきあっとったら、今頃ここで女将(おかみ)なんかしとらんかったじゃろうね。
 人生(じんせい)って不思議(ふしぎ)じゃね。

 まあ、最初はそんな感じじゃったから、お(たが)いなんとも思ってなかったんよ。
 だいたい全然(ぜんぜん)真逆(まぎゃく)のタイプじゃったしね、私と父さん。
 父さんはテキトー・無責任(むせきにん)で、私はマジメ。んもー果林、笑わんの。
 んー、その頃の私は水菜(みずな)みたいに……てゆーか、水菜に()をかけてマジメじゃったかもね。
 見た目も、()()みでおさげにして、眼鏡(めがね)もかけちょったから、それこそマンガのイケてない委員長(いいんちょう)キャラみたいじゃったんよ。
 ちょっと、なんでみんな笑うんかね、失礼(しつれい)なねー。
 ところがね、(つぎ)の年が()けたぐらいから(きゅう)姿(すがた)を見んようになったんよ。
 最初は全然気がつかんかったんよね。
 (べつ)に気にもしてなかったんじゃけど、そういえば最近(さいきん)あのうるさい(やつ)見ないなあって思って人事(じんじ)部の先輩に聞いたら、関西(かんさい)出張(しゅっちょう)してたんだって。
 先輩には、あんな悪い意味(いみ)存在感(そんざいかん)のある奴がいないのに、気づくの遅いよって笑われちゃった。私が気づいた時にはもう出張に行って半月(はんつき)(ちか)()ってたからね。
 あの頃の私はほんっとに鈍感(どんかん)で。自分(じぶん)の目の(まえ)のことだけでいつもいっぱいいっぱいだったなあ。
 ま、うるさい奴がいないならいないでせいせいしたって思ってたんだけどね、いないって気づいてみるとなんだかつまんないんだよね。毎日物足(ものた)りないっていうか。
 (かお)見たら絶対けんかになるはずなんだけど、ふと気がついたら、あいつ今関西で何してるんだろって(かんが)えてる。一人で食事(しょくじ)してるときに、あいつは()こうで何()べてるのかなーとか思いよって、自分でびっくりしたりして。
 でね、そんな(ふう)になっちゃった自分にムカついて、同期(どうき)の女の子にそのこと話したら、それって(こい)じゃないのって言われてね。
 げー、やめてって感じ。
 でも、その子は絶対そうだって(ゆず)らないんだよね。
 トレンディードラマの見すぎだよってその時は聞き(なが)したんだけど、やっぱりそう言われちゃうとよけいに気になるよね。
 一〇(だい)二〇代の女子(じょし)って、どうしても恋愛が人生のすべてって感じになっちゃうじゃない?
 水菜(みずな)はわかんない?
 うふふ、案外(あんがい)そういうタイプの方がいざという時どっぷりハマっちゃうかもよ、私みたいに。
 私に(かぎ)ってそんなことは絶対にないって確信(かくしん)してたんだよね。
 こういう言い方したらヤな女って思われるかもしれないけど、私は仕事に生きるって思ってたから。
 でもさあ、自分が思ってたのとは全然(ちが)うことが()きるのが、恋なんだよねー。

 とりあえず、あいつのことは考えないようにしようと思って、(れい)のあこがれの先輩に告白(こくはく)しちゃおうって思ってたところに、三月になってひょっこりあいつが(かえ)ってきて。
 で、帰ってきたあいつが最初になんて言ったと思う?
 ぬけぬけと、あれ、きれいになった? だって。
 私は三つ編みに眼鏡のままだから、見た目()わってないはずだよ?
 もう、頭きて。
 ナンパなら会社の(そと)でやってください! って言ってやったの。
 そしたら、いつもは(にく)まれ口で言い返してくるあいつが、めずらしく(だま)ーってるんだよね。
 あれれ、と思ってたら黙ったまま名刺(めいし)だけ()いてったの。
 見たら、(うら)にレストランの名前と、場所(ばしょ)日時(にちじ)()いてあるんだよ。
 キザなことするでしょ? こっちが()ずかしいよ。
 絶対行ってやるもんかって思ってたんだけど、その日はなんか()()かなかったのかな、経理部の先輩にバレて、白状(はくじょう)させられちゃった。
 で、その先輩が言うのが、(はなし)だけでも聞いてあげなよ、その結果(けっか)(らん)(ことわ)るのは蘭の勝手(かって)だけど、何も聞かないうちに断るのはいくらあの桐島(きりしま)相手(あいて)でもやっぱり失礼(しつれい)だよ、って。
 そりゃまあそうかな、って思って、とりあえず話だけは聞いてやるか、と。
 指定(してい)された日に行ってみたら、あいつが(えら)んだのはすっごくおしゃれなイタリアンレストランでねー、私それまでそんなとこ行ったことなかったから、(みせ)の前でめちゃめちゃ緊張(きんちょう)して。入ろうかどうしようか、十分くらい(まよ)っちゃった。
 でもさ、あいつはこんなところ行き()れてるんだろうなって思うと、なんか(はら)が立ってね。どうせ女の子をとっかえひっかえこんなお店で口説(くど)いてるんだろうって。よーし、女の(てき)をとっちめてやるって思ったの。
 で、思い切って入ってみた。
 あいつ、普段(ふだん)は会社でもめったに()ないスリーピーススーツなんか着て()ってたの。
 来てくれると(しん)じてました、なんてやけに殊勝(しゅしょう)なこと言うんだよ。
 私は何にも考えてなかったから、通勤用(つうきんよう)地味(じみ)なワンピースだし、メイクもちょっと(なお)しただけ。もちろん、三つ編みに眼鏡だよ。
 ひえー間違(まちが)ったー、来るんじゃなかったーって、思いっきり後悔(こうかい)しちゃった。
 ボトルから(そそ)がれる赤ワインもなんか現実感(げんじつかん)なくてね、私こんなとこにいていいの? って思って全然落ち着かなかった。
 あいつが何か言って乾杯(かんぱい)したけど、私は(うわ)の空。ワインもどんな(あじ)だか全然わかんないし。
 最初、あいつは仕事の話から(はじ)めたの。なんやわからんけどめっちゃ元気(げんき)になったわー、なんてにわか仕込(じこ)みの関西(べん)(まじ)えながら。
 案件(あんけん)はうまく行ったみたいで、会社としてもそこそこ(もう)かったみたい。
 仕事が面白くてたまらんねん、ってぎこちない関西弁で笑うの。
 向こうでも女の子ナンパしてたの? って私が聞くと、最初はしてたって言った。
 最初はってどういうことって聞いたら、途中(とちゅう)からやめた、だって。
 当然(とうぜん)、ウソだって思った。
 この生まれながらの女たらしがそんな簡単(かんたん)(なお)るわけがないって。
 でも、ほんとにナンパやめたんだって。
 で、いきなり、(おれ)とつきあってくれないかって言うの。
 あんまりいきなりだから思わず、はい? って聞き返しちゃった。
 なんでそうなるのって思うでしょ?
 もし水菜だったらどうする?
 ……やっぱ断るよねー。
 だいたい、なんで私なの、私のどこがいいのって聞いたの。
 そしたらすんごくマジな顔して、わからないって言うんだよ?
 どこが好きなのかもわからないのに、つきあってくれなんて言う軽薄(けいはく)な人とはつきあえません、って断ったら、やっぱそうだよねって見るからにがっかりするの。
 それまでそんなあいつ見たことないから、なんか(へん)な感じだったな。
 それで、その(あと)ずっとお(たが)い何も言わないで黙って料理(りょうり)食べたの。
 いつも大声でしゃべりまくって、いろんな人からうるさがられてるあいつがさ、()りてきた(ねこ)みたいにじーっと黙ってる。はっきり言ってめちゃめちゃ気まずいよね。
 料理の味なんか全然(おぼ)えてない。

 でもさあ、食後(しょくご)のコーヒーが来たときにね、あいつ角砂糖(かくざとう)を五つも入れて、ミルクもたっぷりの超甘甘(ちょうあまあま)にして()むんだよ? 意外(いがい)でしょ?
 (じつ)は、私もおこちゃまだったから、角砂糖五つのミルクたっぷり。
 なんと、角砂糖の(かず)まで一緒(いっしょ)
 私なんだかおかしくなって、思わず笑っちゃった。
 やっと笑顔(えがお)が見れた、ってあいつも笑った。すっごくうれしそうに、ガッツポーズまでして。
 会社じゃ全然笑ってくれないけど、すごくきれいな笑顔だねって()めてくれた。
 私(だれ)かにそんな褒められ方したことなかったし、()ずかしいからちょっといじわるして、どうせ女の子みんなにそう言ってるんでしょって言ったら、そんなことないよってあわてて否定(ひてい)するの。俺は正直だから本当にきれいだと思った人にしかそんなこと言わないよ、ウソじゃないって、信じてくれ……なんて、(あせ)かきながらしどろもどろで言うの。
 もう、おかしくって。
 ふふ、なんかそのあわてっぷりを見てたら、ふ~って(らく)になってね。
 なーんだ、意外にかわいい奴じゃん、て思えたんだよね。
 そう、それでつきあうことにしたんだ。

 つきあいはじめたら、(かれ)すごく変わったんだよ。私もびっくりした。
 まず事務方とトラブルを()こさなくなったの。
 ちゃんと経費のルールも(まも)るようになったし、書類の不備(ふび)も目に見えて少なくなった。
 ま、私がかなり(きび)しくしつけたからね。
 彼が言うには、俺が好きな人に迷惑(めいわく)かけたくないから、だって。
 でも、人ってこんなに変わることができるんだって、本当にびっくりしちゃった。
 で、私も変わったの。
 ちょっとはおしゃれに気を使(つか)うようになって、三つ編み眼鏡はやめちゃった。コンタクトにして、メイクのやり方も変えてみたし、(ふく)もかわいいの選んだりしてね。
 えへへ、(おく)ればせながら社会人(しゃかいじん)デビュー。
 ちょっとでもがんばると、彼ちゃんと気づいて褒めてくれるんだもん、(うれ)しいよね。
 私、()(ひく)いのがずっとコンプレックスだったけど、彼が、蘭は(へん)なふうに背()びしない方が断然(だんぜん)かわいいよって言ってくれたから、あんまり気にならなくなったな。
 おかげでちょっと自信(じしん)がついたみたい。
 お互い仕事は好きだったから、仕事もはかどるようになったよ。
 彼、(たし)かにかなり個性(こせい)的で、(とが)ってる部分(ぶぶん)があったから、企画(きかく)提案(ていあん)みたいな創造(そうぞう)的な仕事にはすごく向いてたの。
 その(ぶん)(まわ)りとぶつかることも(おお)かったみたいなんだけど、私とつきあうようになってそれがずいぶん少なくなったよ、って言ってくれたことがあったなあ。
 私も数字(すうじ)(よわ)い彼にアドバイスしたり、逆に彼から意外な発想(はっそう)(おし)えてもらったりして、仕事がすごく(たの)しくなった。簿記検定(ぼきけんてい)一級(いっきゅう)も取ったしね。
 会社では二人がつきあってることは秘密(ひみつ)だったから、何があったんだろうって思われたみたい。
 そうなると、二人ともモテるようになってね、困った困った。
 えへへ、自慢(じまん)かな?
 でもね、彼あれだけ女たらしだったのに、きちんと全部(ぜんぶ)断るようになったんだよ。すごくない?
 あ、これなら大丈夫(だいじょうぶ)かもって思った。
 ちゃんと私のこと大事(だいじ)にしてくれてるのがわかったし、私も彼のこと尊敬(そんけい)してた。

 ふふ、さっきの「自分が(おも)われたい人から想われないと意味がない」って、実は彼が言ったんだ。
 関西に行ったときにね、かわるがわるいろんな女の子と(あそ)んでも全然楽しくないのはなんでだろうって思ったら、ふっと私の顔が浮かんだんだって。
 その時に、俺はこの人と一緒にならなきゃダメになるって思ったらしいよ。
 この人から想われたいって思ったら、もうそれからはナンパなんかする気にならなくなったんだって。
 結婚(けっこん)して、ずーっと後になってから教えてくれた。()れてたんだね。

 たった数ヶ月つきあっただけでも、一緒にいてほんとに安心(あんしん)感があったから、彼からプロポーズされたのも、ごく自然に()()めたなあ。
 その年の十一月には(せき)を入れて、翌年(よくとし)の一月に結婚(しき)()げたの。
 会社の人もみんな(おどろ)いてたね。私もこんなに早くお(よめ)さんになるなんて思ってなかったから、なんかびっくりしちゃったけど、うれしかったあ。
 で、式を挙げた年の八月だね、水菜が生まれたのは。
 そっか、彼と出会ってからもう二二年も()つんだ、早いなあ。

第六章 雨 〈六〉

 (らん)さんはそこでふっと(いき)をついた。
 年光(としみつ)さんとの出会(であ)いをまるで昨日(きのう)のことのように(はな)彼女(かのじょ)(かお)は、いきいきと(かがや)いていた。
(かあ)さん、かわいいね」
 水菜(みずな)さんがぽつりとつぶやいた。
「もう水菜、(おや)をからかわんの!」
 蘭さんが()(わら)いをするのを、夕介(ゆうすけ)がまぶしそうな顔でじっと見つめている。
「ねえ、コーヒーでも()れよっか?」
 水菜さんがそう言いながら立ち上がった。
 蘭さんが食器(しょっき)(かた)づけようと立ち上がりかけるのを彼女は(せい)して(つづ)ける。
「いいよ、(あと)片づけはわたしがするから。母さんはゆっくりしてて」
 水菜さんが食器をシンクに(はこ)ぶのを桔梗(ききょう)さんが手伝(てつだ)い、果林(かりん)ちゃんがふきんでテーブルを()いた。
「なんかええなー、うちも母さんみたいな恋愛(れんあい)、してみたいなー」
 果林ちゃんが蘭さんの(うで)()りながら、うらやましそうに言った。
「そういえば(とう)さん、(こい)()ちるもんじゃない、落とすもんだ……なんてことも言ってたなあ。私は父さんに見事(みごと)に落とされちゃった。果林だってその血筋(ちすじ)()()いでるんだから、色々(いろいろ)経験(けいけん)したらええんよ」
 蘭さんは果林ちゃんに()けて(ねこ)がじゃれつくようなしぐさをして笑う。
「えー、うちって、もしかして男たらし?」
 果林ちゃんが(くび)をかしげると、蘭さんは小さく手をたたいて(よろこ)んだ。
「ふふ、男たらし、ええじゃない! 果林は男に(みつ)いだりしちゃいけんよ、しっかり手玉(てだま)に取らんと!」
「あはは、母さん、それって親が言うことじゃないよ!」
 水菜さんが笑いながらキッチンからつっこむ。
「むー、そんなんできるかなー?」
「果林なら大丈夫(だいじょうぶ)!」
 蘭さんから(かる)背中(せなか)をぽんとたたかれた果林ちゃんは、なんだかくすぐったそうな表情(ひょうじょう)()かべた。
 桔梗さんがそんな果林ちゃんの様子(ようす)面映(おもは)ゆそうに見ている。
「でも、もしかすると(わる)い男に(だま)されるかもしれませんよ?」
 夕介が(すこ)心配(しんぱい)そうに蘭さんに()いかけたが、蘭さんはおおらかにほほ()んでいる。
「ま、そういうこともあるかもしれんよね。ただね、自分(じぶん)(こころ)素直(すなお)になった結果(けっか)なら、それは自分で()き受けるしかないからねー。(きび)しいかもしれんけど、それを(つう)じてしかわかれんのなら、それも経験!」
「いや、しかし心配じゃないですか?」
「うーん、(たし)かに心配は心配ですけど、どれだけ心配しても親がそれを()わってやることはできんしねー。それに、どんな経験であれ、(かなら)意味(いみ)は見つけられるんですよ、その(とき)はわからんくてもね」
 キッチンからコーヒーのいい(かお)りが(なが)れてくる。
「だから、水菜も、桔梗も、果林も、思うように生きたらええんよ、自分が『()き』と思ったものを信じて。私は応援(おうえん)してあげることしかできんけど、あなたたちの人生(じんせい)は、あなたたちのものだもん。『ああしなきゃ』『こうあるべき』なんて(かた)ひじ()ってたら、(つか)れちゃう」
 蘭さんが三人の(むすめ)たちの顔をそれぞれ見くらべながら言うと、夕介はなんだか(むずか)しい顔をしてあごひげを()でた。
「でも、蘭さんはどうなんですか? 子どもたちがいずれ巣立(すだ)っていくと──」
最後(さいご)(わたし)が一人、ここに(のこ)るよね」
 きっぱりと夕介に(かえ)した蘭さんの顔に、(まよ)いは見えない。
「この桐葉荘(とうようそう)年光(としみつ)だけの(ゆめ)じゃない。私の夢でもあるんですよ? 私はこれからも、この桐葉荘(とうようそう)で、私の物語(ものがたり)を作っていくの。それが、年光が(のこ)してくれた、一(ばん)のプレゼントだと思ってるんです」
 蘭さんはテーブルにひじを()いて両手(りょうて)()んだ上にあごを()せ、夕介の目をじっと見つめた。夕介も目を(ほそ)めて蘭さんを見つめている。
「でも、わたしはここから出る気はないからね」
 水菜さんがダイニングテーブルに一つずつコーヒーカップを置きながら蘭さんに言った。
「ふふ、じゃあ水菜はいずれ素敵(すてき)なおムコさんをもらって、若女将(わかおかみ)として桐葉荘を()いでくれるのかな?」
「え……、そこまで考えてるわけじゃないけど……」
 蘭さんがにこにことそう(たず)ねると、水菜さんは一瞬(いっしゅん)たじろいで言葉(ことば)(にご)す。
 蘭さんは(きゅう)に少し厳しい表情(ひょうじょう)になって、水菜さんをじっと見()えた。
「水菜、心にもないことは言わないの。あなた、本当(ほんとう)はここから出たいと思ってるんでしょ?」
 水菜さんはぎくりとして蘭さんの顔を見たが、すぐに目をそらした。
 蘭さんは、まっすぐ水菜さんを見つめたまま続ける。
「私は(べつ)に、水菜に桐葉荘を継いでほしいなんて思ってないからね。どこまで続けられるかはわからないけど、行ける所まで行ってみようと思ってるだけ。父さんと一緒に」
 そう言うと蘭さんはコーヒーを口に(はこ)んだ。砂糖(さとう)もミルクも入れず、ブラックのままで。
「あ、砂糖は入れないんですか?」
 (ぼく)(おも)わず蘭さんに尋ねた。
「ふふ、人って()わっていくものなんですよ、森崎(もりさき)さん」
 蘭さんはそう言って僕にほほ()むと、(ふたた)び水菜さんをじっと見つめた。
「水菜にはかわいそうなことしちゃったなって、ずっと思ってたんだよね。父さんも最後(さいご)までずーっと気にしてた。あなたが本当はこっちに来たくなかったのも()ってたし、この町になじめてないのもわかってたんだけどね。色々(いろいろ)なことに(まぎ)れて、ちゃんと話すことができなかったね。ごめんね、水菜」
 蘭さんは水菜さんの目を見て(あやま)ったが、水菜さんは下を()いたまま(だま)っている。
「人はね、だんだんと変わっていくんだよ。超甘甘(ちょうあまあま)にしなきゃ()めなかったコーヒーが、いつの()にかブラックで飲めるようになったりするみたいにね。水菜も、いつまでも今の水菜のままじゃないの。もう大人(おとな)なんだし、(だれ)も気にせんと、思いっきり好きなように生きたらええんよ?」
「でも……」
「私のこと心配してるんでしょ? そんなのよけいなお世話(せわ)だからね! まだまだ娘に心配されるほどもうろくしてません!」
 蘭さんは両手を(こし)()てて(むね)をはった。
「もう、母さんたら!」
 その様子に水菜さんは思わず(かた)い表情を(くず)した。
「なあ水菜、手(はじ)めに一人()らしでもしてみたらどうだ? 職場(しょくば)(ちか)くにアパートでも()りて」
 夕介が腕を組んで()もたれによりかかったまま水菜さんに提案(ていあん)した。
「今すぐには……でも、一応(いちおう)(かんが)えてみます」
 水菜さんがまだ何かわだかまったような表情で夕介に返すのを、桔梗さんがじっと考え()むような顔で見つめていた。

 母屋(おもや)から外へ出ると、雨はいつの間にかやんでいた。
 (くも)()れてその(あいだ)から(あざ)やかな青い空がのぞいている。地面(じめん)(すで)(かわ)きはじめていた。
「おー、本当にやんだ!」
 僕は思わず(こえ)を上げた。
「なんだ、その『本当に』ってのは」
 夕介が怪訝(けげん)な顔で僕に尋ねる。
「へへ、内緒(ないしょ)
 僕が答えると、夕介はなんだ気色(きしょく)(わる)いな、と苦笑(くしょう)しながらつぶやいた。
 空を見上げながら、ひんやりとした(かぜ)(ほお)()でていくのを、僕は(かん)じた。


〈第六章終わり〉

第七章 霊山(りょうぜん) 〈一〉

 日曜日(にちようび)昼間(ひるま)のテレビはどういうわけか面白(おもしろ)くない。
 時間(じかん)をつぶそうと(おも)ってつけたが、ゴルフ、競馬(けいば)囲碁(いご)再放送(さいほうそう)のバラエティ、ゴルフ……結局(けっきょく)退屈(たいくつ)なので()してしまった。
 スマートフォンを使(つか)っていた(ころ)(ひま)つぶしにゲームもしていたが、ガラケーにしてからはそれもやめた。そもそもここは圏外(けんがい)だ。
 文庫本(ぶんこぼん)でも()ってくればよかったかな、と思いながらたたみにごろりと(よこ)になったところ、入口の(とびら)がノックされた。
 扉の()こうに立っていたのは桔梗(ききょう)さんだった。まだ浴衣(ゆかた)半纏姿(はんてんすがた)のままだ。
「桔梗さん?」
「あの、これ──」
 彼女(かのじょ)は左手に持った紙袋(かみぶくろ)()し出した。
 中を見てみると、今朝(けさ)(ぼく)()ていた(ふく)一式(いっしき)がきれいにたたまれて入っていた。
「お(ねえ)ちゃんから」
 水菜(みずな)さんに(たの)まれて持ってきてくれたようだ。
「あ、わざわざありがとう」
 乾燥機(かんそうき)から()り出されたばかりなのか、洗濯物(せんたくもの)はまだ(あたた)かかった。
 桔梗さんが入口の土間(どま)に立ったまま、かばんに洗濯物をしまう僕の様子(ようす)を、じっと見つめている。
「どうしたの桔梗さん、何か用事(ようじ)?」
 僕はなんだか気づまりになって桔梗さんに(たず)ねたが、彼女は両手(りょうて)(うし)ろ手にしたまま(くび)を横に()った。
 うーん、(こま)った。女の子と二人きりの状況(じょうきょう)で、どのようにふるまうべきかを、僕はあまりに()らない。
 しばらく気まずい沈黙(ちんもく)(なが)れる。
「──(はなし)が、あるの」
 桔梗さんは言葉(ことば)(はっ)しようとしてためらい、を何()()(かえ)しながら、最後(さいご)にようやく()(けっ)したように()り出した。
「話って、何?」
「わかったの、わたし」
 そう()って彼女が僕に差し出したのは、使い(ふる)された一(さつ)教科書(きょうかしょ)だった。
(つた)()う言葉、中学国語、三──これって中学の国語の教科書?」
 桔梗さんは小さくうなずく。
 見ると、一ヶ所(かしょ)にふせんが()られている。
 僕はそのページを(ひら)いてみた。
 散文詩(さんぶんし)のような(みじか)文章(ぶんしょう)の下に、山羊(やぎ)みたいな(つの)のある動物(どうぶつ)が立ち上がってだんだんと人に変化(へんか)していく素朴(そぼく)風合(ふうあ)いのイラストが()っている。

魔法(まほう)のことば(金関寿夫 訳/柚木沙弥郎 絵)

 ずっと、ずっと大昔(おおむかし)
 人と動物がともにこの()()んでいたとき
 なりたいと思えば人が動物になれたし
 動物が人にもなれた。
 だから(とき)には人だったり、
 時には動物だったり、
 (たが)いに区別(くべつ)はなかったのだ。
 そしてみんながおなじことばをしゃべっていた。
 その時ことばは、みな魔法のことばで、
 人の(あたま)は、不思議(ふしぎ)な力をもっていた。
 ぐうぜん口をついて出たことばが
 不思議な結果(けっか)をおこすことがあった。
 ことばが(きゅう)生命(いのち)をもちだし
 人が(のぞ)んだことがほんとにおこった──
 したいことを、ただ口に出して言えばよかった。
 なぜそんなことができたのか
 だれにも説明(せつめい)できなかった。
 世界(せかい)はただ、そういうふうになっていたのだ。
(イヌイットの伝説(でんせつ)より)(註四)

「これは?」
 正直(しょうじき)なところ、彼女が何を言いたいのかがわからず、僕は当惑(とうわく)した。
 桔梗さんは僕の目をじっと見て、一言(ひとこと)ずつ言葉を(えら)びながら(かた)(はじ)めた。
「わたし、こわかった。わからなくて──わたしの言葉が、何をするのか」
 想像(そうぞう)したとおり、彼女は自分(じぶん)の言葉を(おそ)れていたんだ。
奪命(だつみょう)(ことば)。自分の言葉が、年光(としみつ)さんを()なせたと思ったんだね?」
 僕が(たし)かめると、桔梗さんは小さくうなずく。
「でも、そうじゃなかった。それが、わかった」
「どういうこと?」
「わたしは、はぐれていたの。わたしの言葉と」
 彼女はそう言って、(べつ)のページを(しめ)し、(こえ)に出して()んだ。

「言葉と自分が一致(いっち)していない人生(じんせい)不幸(ふこう)だ。だから、本当(ほんとう)の自分はどこにいるのかを、(さが)(もと)めることになる。しかし、本当の自分とは、本当の言葉を(かた)る自分でしかない。本当の言葉においてこそ、人は自分と一致する。言葉は道具(どうぐ)なんかではない。言葉は、自分そのものなのだ」(註五)

 女性(じょせい)哲学者(てつがくしゃ)による、『言葉の力』というタイトルのエッセイの一部(いちぶ)だ。
 言葉は、自分そのもの……?
 ここだけではなんのことだかよくわからない。
「わたしは、わたしの言葉を特別(とくべつ)な道具だと思っていたの。『魔法のことば』みたいに、わたしの言葉に、言ったとおりになる不思議な力があって、それがパパを死なせたんだって」
 桔梗さんは(しず)かに(かた)る。
「でも、『言葉の力』って、本当は、そういう意味(いみ)じゃなかった。わたしが、間違(まちが)ってた」
 桔梗さんの目が徐々(じょじょ)(つよ)(ひかり)()びてくるのがわかる。最初は言いよどんでいた言葉にも、だんだんと(ねつ)がこもってきた。
「わたしが言ったから、現実(げんじつ)になるんじゃない。現実は、言葉でできているから、本当の言葉なら、(だれ)の言葉でもそういう力を持っている。伝わるから、言葉は現実になる。伝わるから、不思議なんだ」
 特に(むずか)しい語彙(ごい)を使っているわけでもないのに、僕には彼女の言っていることがよく理解(りかい)できない。
「ちょっと()って、何が何だか──」
 混乱(こんらん)する僕を見て、桔梗さんは()ずかしそうにうつむいた。
「ごめんなさい」
(じゅん)()って(はな)してくれるかな?」
 僕がそう言うと、彼女は少し(ほお)を赤らめながらこくりとうなずいた。

 桔梗さんは(おさな)い頃から(なみ)はずれて読書(どくしょ)()きな少女(しょうじょ)だったのだという。
 小学校四年生の頃には年光さんが読んでいたミステリやビジネス(しょ)なども読みこなし、父親(ちちおや)(たい)して自分の意見(いけん)を言えるほど言葉に早熟(そうじゅく)だったようだ。
 当然(とうぜん)、国語の教科書は持ち(かえ)ったその日にすべて読んでしまい、自分の分だけではあき()らず、中学生だった水菜さんの教科書や副読本(ふくとくほん)なども全部(ぜんぶ)読んでしまうぐらいの活字(かつじ)中毒(ちゅうどく)ぶり。
 そんな桔梗さんにも思春期(ししゅんき)(おとず)れる。
 彼女自身(じしん)にも理由(りゆう)はわからないのに、大好きだった父親・年光さんに嫌悪感(けんおかん)(おぼ)えるようになり、あからさまに年光さんを()けるようになった。一緒(いっしょ)にお風呂(ふろ)に入るのもやめた。
 彼女が五年生になってすぐの頃だ。
 思春期の少女なら、誰もが一()(とお)(みち)
 パパを(いや)がると、パパはすごくさびしそうな(かお)(わら)った、と座卓(ざたく)(はさ)んで僕の向かい(がわ)(すわ)った桔梗さんは言った。
 その(とし)(なつ)、年光さんは余命(よめい)半年(はんとし)という宣告(せんこく)()ける。
 桔梗さんにはそのとき、その意味が本当にはわかっていなかった。
 年光さんが余命宣告を受けたからと言って、桔梗さんの父親への理由なき嫌悪感が()えるわけではなかった。
 ある時、年光さんのささいな言葉に反発(はんぱつ)した桔梗さんは、何も(かんが)えずに「パパなんか()んじゃえばいいのに」と口にした。
 この時、年光さんは「パパは死なないぞ!」と力こぶを(つく)って笑ってみせた。
 ところが、それから(かれ)病状(びょうじょう)急速(きゅうそく)悪化(あっか)した。
 入退院(にゅうたいいん)()り返すうちに年光さんの体重(たいじゅう)激減(げきげん)し、その年の晩秋(ばんしゅう)にはとうとう自力(じりき)()き上がることができなくなってしまった。
 桔梗さんはうろたえた。本気(ほんき)でパパに死んでほしかったわけじゃないのに、なんでこうなるんだろう、と。
 自宅(じたく)最期(さいご)(むか)えたいと希望(きぼう)した年光さんのために、(らん)さんが献身的(けんしんてき)に彼の闘病(とうびょう)(ささ)え、水菜さんが家事(かじ)一手(いって)()()けるようになる中、桔梗さんは誰にも相談(そうだん)できずに一人で葛藤(かっとう)していた。
 年光さんは宣告されていた半年を()えて、なんとか(うめ)の花が()時期(じき)(むか)えることができた。
 このまま(はる)を迎えられたらパパは元気(げんき)になるかもしれない、と桔梗さんはひそかに期待(きたい)した。
 しかし、奇跡(きせき)は起きなかった。
 四月一〇日の早朝(そうちょう)、年光さんは蘭さんに見(まも)られて静かに(いき)()()った。
 満開(まんかい)(さくら)の中、年光さんの葬儀(そうぎ)()(おこな)われた。
 通夜(つや)告別式(こくべつしき)も、(おお)くの会葬者(かいそうしゃ)でごった(がえ)した。蘭さんは気丈(きじょう)喪主(もしゅ)(つと)め、中学三年生の水菜さんも懸命(けんめい)に蘭さんを(ささ)えた。
 しかし、六年生になったばかりの桔梗さんは、年光さんが死去(しきょ)したことを実感(じっかん)できずにいた。
 すべてが(ゆめ)の中の出来事(できごと)のように、どこかよそよそしく感じる。
 葬儀が()わっても、彼女は自分がどこか違う場所(ばしょ)にいるような感覚(かんかく)から()け出ることができなかった。学校で、(いえ)で、目の前で起きる出来事すべてに、以前(いぜん)のような手ごたえを感じることができない。
 それから(のが)れるために、彼女は(むさぼ)るように本を読んだ。
 その中でぶつかったのが、さっきのイヌイットの伝説だった。
「わたしの言った言葉が、魔法みたいに、ほんとうになってしまったんだと、思った」
 桔梗さんは、何か得体(えたい)の知れない力が自分の中に(かく)れていて、それが(ちち)(いのち)(うば)ってしまったのではないかと(ふか)(おそ)れた。(みずか)らの「奪命(だつみょう)(ことば)」を畏れた、桜姫(おうひめ)のように。
 同時(どうじ)に、年光さんにどうしても「死なないで」と言えなかったことに対する(はげ)しい後悔(こうかい)(ねん)もわきあがってきた。
 彼女は次第(しだい)に言葉を(はっ)することを(おそ)れるようになった。
 自分の(はな)った言葉が、自分とかかわった人に(がい)をなしてしまわないか、よからぬことが起きないか。
 注意(ちゅうい)深く言葉を選ぶうちに、彼女はついに一言も発することができなくなってしまう。
「ママにはもちろん、お姉ちゃんにも、果林(かりん)にも言えなかった。自分が思ってもみない言葉をふっと放って、何かよくないことが起こるのが、こわかった」
 桔梗さんはうつむいてそう言った。
「だから、筆談(ひつだん)もしなかったんだ?」
 僕の言葉に彼女はうなずく。
「『青い(とり)』に出てくる、未来(みらい)王国(おうこく)から、わたしは『魔法の言葉』を持って来たんだって、思ってた」
「それって、(はじ)めて話した時の!」
 僕が思わず声を上げると、桔梗さんは僕を見て静かにうなずいた。
 メーテルリンクの『青い鳥』。青い鳥を探してたくさんの(くに)(めぐ)(ある)いたチルチルとミチルが最後に(おとず)れる「未来の王国」は、これからこの()に生まれる、(あたら)しい(いのち)の国。
 そこから「あけぼの」という帆船(はんせん)(はこ)ばれて地上(ちじょう)に生まれていく青いこどもたちは、未来の国から(かなら)ず何かを持って生まれなければならない。地上へ持っていくものは、こどもたちが自分で選ぶ。いいものも、(わる)いものも、それがどんなものかも知らずに。
 桔梗さんは、知らずに自分が選んだものが、とてつもなく(おそ)ろしいものなのではないかとおびえ、深く畏れた。
 だから彼女は(みずか)らの力を(のろ)い、死を(ねが)った。
 自分の言葉が現実になるのなら、自分だけにその言葉を聞かせればそれが(かな)うと(しん)じて。
 そのために朝夕(あさゆう)あの場所(ばしょ)で一人たたずんでいたのだと彼女は言った。
 いつの頃からか(はは)箪笥(たんす)にあった白い長襦袢(ながじゅばん)()()けるようになったのも、いつ死んでもいいようにと思ってのことだった。
「でも、死ななかった。死ねなかった」
 彼女はそこで一度言葉を切って僕を見た。
 黒目(くろめ)がちな(ひとみ)が、じっと僕をのぞきこんでいる。
「だって、わたしの言葉には、そんな特別な力なんて、元々(もともと)なかったんだから」
 桔梗さんは目を()せてふっと息を()いた。
「ずっともやもやしてた。なんで死ねないんだろうって。でも昨日(きのう)、『乙女淵(おとめぶち)』を()て、やっとわかった。『魔法の言葉』も『奪命の詞』も、ない。だって、自分で身を()げないと、桜姫(おうひめ)は死ねなかったでしょ? わたしは全部(ぜんぶ)、七年前に観た『乙女淵(おとめぶち)』を、なぞっていただけだったんだ」
「でも、じゃあ今朝(けさ)、僕に言ったことは?」
 雨を「やませるために」(いの)っていたというあの言葉は、彼女が自らの特別な力を信じていたからではないだろうか?
(ため)してみたの。自分がわかったことが、本当かどうか。雨は、やまなかった」
「やんだじゃない」
 僕の言葉に桔梗さんは首を横に振った。
「ううん、わたしが祈っている(あいだ)には、やまなかった。それに、叶うかどうかも、本当は、どうでもよかった」
 桔梗さんはそう言って僕の顔を見つめた。
「おととい、あなたといっしょに朝日を見たとき、もう死ぬのはやめようと思った」
 少しはにかみながら彼女は言葉を()いだ。
「生まれ()わるの。わたしは、もう一度わたしになる。本当の言葉で」
 そう言った彼女の瞳には、(つよ)(ひかり)宿(やど)っていた。

 桔梗さんが見せてくれた国語の教科書は、水菜さんが使っていたものだという。
 ところどころに小さな字で()きこみがされているのはどうやら水菜さんの字らしい。真面目(まじめ)な水菜さんらしく、一字ずつ几帳面(きちょうめん)に書きこまれているのがわかる。
 僕は、『言葉の力』というエッセイをはじめから読んでみた。
 わかりやすい言葉で、言葉の起源(きげん)の不思議から書き起こされ、聖書(せいしょ)の言葉も引用(いんよう)しながら、言葉が意味を伝えることの不思議さを語っていく。
 (たと)えば、桔梗さんが「水」と言ったら、僕も「水」を思い()かべることができる。しかし、「水」と「水という言葉」が「同じである」と誰もがわかっているのは一体(いったい)なぜか。
 それは誰が()めたのでもない、言葉の意味が、言葉よりも先に(すで)に「あった」からだ。
 毎日(まいにち)のように言葉を使っていながら、言葉なんてものがなぜあるのか、人間(にんげん)にはどうしてもわからない。
 言葉を(たん)なる道具だと思っていると、言葉からのしっぺ返しをくうことになる、とエッセイは(つづ)く。
 言葉を(しん)じていない人は、自分のことも信じていない。
 うそをついてだまされているのは、(じつ)はうそをついている本人(ほんにん)だけ。言葉とは、自分そのものなのだから。

「だからこそ、言葉は大事(だいじ)にしなければならないのだ。言葉を大事にするということが、自分を大事にするということなのだ。自分の語る一言一句(いちごんいっく)が、自分の人格(じんかく)を、自分の人生(じんせい)を、確実(かくじつ)(つく)っているのだと、自覚(じかく)しながら語ることだ。そのようにして生きることだ」(註六)

 読み終えると、僕は深く息を吐いた。
 言葉は言葉、何とでも言えると僕は思っていた。心にもないことでも、言葉だけならいくらでも言える、と。
 (かたち)だけの謝罪(しゃざい)、うわべだけの反省(はんせい)中身(なかみ)のない感謝(かんしゃ)──。
 でも、言葉は、その(おく)(かく)されている本心(ほんしん)までも相手(あいて)に伝えてしまうことがある。うまくだませていると思っているのは、実は表面(ひょうめん)を取りつくろっている自分だけだ。
 SNSでの「友達(ともだち)」とのトラブルは、僕が僕の言葉を信じていなかったから起きた。僕は自分の言葉から復讐(ふくしゅう)されたんだ。
 じっと考え込んでいる僕を、桔梗さんが黙って見つめている。
「自分の語る一言一句が、自分の人格を、自分の人生を、確実に創っているのだと、自覚しながら語ることだ……」
「ふふ、それ、わたしも好きなところ」
 僕が(あらた)めて声に出して読むと、彼女はうれしそうにほほ()んだ。
「イヌイットの言い伝えを、どこで読んだのか探していたら、さっき見つけたの。すごい、そうだったんだ、と思った。わたしは、自分の人生を、創りそびれていたんだ。不思議なの、前に読んだ時には、なんとも思わなかったのに」
 (なが)沈黙(ちんもく)を取り(もど)すように、彼女は一言一言を自分で確かめながら僕に語る。
「わたしはずっと黙っていたから、今から頑張(がんば)って、自分の人生を創らなきゃ。たくさん本を読んで、たくさん言葉を覚えたけれど、それだけじゃ、本当の言葉にはたどり()けない。(とど)けなきゃ、誰かに。わたしの言葉を」
 彼女は黒目がちな目を何度かまばたきさせながらそう言った。その表情(ひょうじょう)は、思慮(しりょ)深く大人(おとな)びているようにも、無邪気(むじゃき)(おさな)いようにも見える。
「でも、なんでこの話を僕に?」
 僕がそう尋ねると、桔梗さんは急に下を向き、両手をひざの上に()いて(かた)をすくめた。長い(かみ)が彼女の顔を(かく)して表情が見えなくなる。
「──知ってほしかったんだ、わたしのことを」
 桔梗さんはかろうじて聞き取れるぎりぎりぐらいの小さな声で答(こた)えた。
「あの、ありがとう!」
 桔梗さんは急に大きな声でそう言うと、あわてて立ち上がって浴衣の(すそ)(みだ)れるのも(かま)わずにばたばたと部屋(へや)から出ていった。
 あまりに急だったので、僕は座ったままその後ろ姿を見送った。
「一体なんだったんだろう……?」
 僕は声に出してつぶやいてみた。自分の(むね)の中に、何かあたたかな感情が()ちているのを感じながら。

────────────────────
註四 池田晶子『死とは何か さて死んだのは誰なのか』(毎日新聞社刊)所収『魔法の言葉』より(初出は『伝え合う言葉 中学国語3』2006年度版 教育出版刊、池田晶子著『言葉の力』と併録された)
註五 池田晶子『死とは何か さて死んだのは誰なのか』(毎日新聞社刊)所収『言葉の力』より(初出は『伝え合う言葉 中学国語3』2006年度版 教育出版刊)
註六 註四に同じ

第七章 霊山(りょうぜん) 〈二〉

 (くも)隙間(すきま)からだいぶ(かたむ)いてきた()()()んでいる。雨上がりの空気(くうき)はひんやりと(つめ)たく、何か上に羽織(はお)るものがないとやや肌寒(はだざむ)(かん)じるぐらいだ。昨日(きのう)昼間(ひるま)とはだいぶ寒暖(かんだん)()がある。
 (ぼく)退屈(たいくつ)をもてあまして、夕介(ゆうすけ)一緒(いっしょ)一足(ひとあし)早めに二日目の開演(かいえん)準備(じゅんび)(すす)められている宇侘八幡宮(うたはちまんぐう)()ていた。
 水たまりは水を()()って(すな)()められ、板敷(いたじ)きは(あらた)めてきれいに()(きよ)められた。
 舞台(ぶたい)四隅(よすみ)の四本の青竹(あおだけ)(わた)された注連飾(しめかざ)りも(あたら)しいものに取り()えられ、今は冷たい(かぜ)()られている。
 夕介が取材(しゅざい)している(あいだ)、僕も()れた椅子(いす)を拭いてまわったりして準備を手伝(てつだ)った。
 気の早い観客(かんきゃく)場所(ばしょ)取りを始めている。僕らも昨日と(おな)(あた)りに(すわ)った。
 準備の進む舞台の(わき)では、体操服姿(たいそうふくすがた)男女(だんじょ)数人(すうにん)の小学生が(あつ)まって松岡(まつおか)さんたちから説明(せつめい)を聞いている。中学年から高学年ぐらいだろうか。その(うし)ろには保護者(ほごしゃ)(おも)われる大人(おとな)の姿も見えた。
 子どもたちはみんな(すこ)緊張気味(きんちょうぎみ)面持(おもも)ちだ。
「二日目は稚児舞(ちごまい)から(はじ)まるんだ。『乙女淵(おとめぶち)』の(のち)シテ・(さくら)(せい)と同じ扮装(ふんそう)で、四人の子どもが()うそうだ。物語(ものがたり)はなく、囃子方(はやしかた)演奏(えんそう)に合わせてお稚児(ちご)さんだけで舞うんだが、もしかしたらこれは神楽舞(かぐらまい)からの影響(えいきょう)かもしれないな。子方(こかた)だけの演目(えんもく)なんて、(ほか)では聞いたこともない」
「男の子もいるけど?」
 夕介の説明に僕は素朴(そぼく)疑問(ぎもん)をぶつけた。
「稚児舞も、元々(もともと)男子(だんし)だけで舞ったらしい。女の子が入るようになったのは、過疎化(かそか)が進んで子どもの(かず)()ったからだ」
「じゃあ、男子の女装(じょそう)が元々の(かたち)ってこと?」
「そういうことだ。猿楽(さるがく)元来(がんらい)、男だけで(おこな)われるものだからな」
「なんだか倒錯(とうさく)的だなあ」
「『紫桜(しざくら)』にはないが、(たと)えば『杜若(かきつばた)』や『井筒(いづつ)』には、男装(だんそう)した女が登場(とうじょう)する場面(ばめん)もある」
 夕介はそう言ってにやにやする。
(むかし)から日本には男色(だんしょく)風習(ふうしゅう)があったからな、猿楽の歴史(れきし)裏側(うらがわ)には色々(いろいろ)あったに(ちが)いない。さすがに(おれ)にそんな趣味(しゅみ)はないがな」
「あったら(こま)るよ」
 僕はオネエみたいにくねくねする夕介の姿を想像(そうぞう)して思わずぞっとした。
 大人たちの説明が()わって、小学生たちが(かがみ)()に入っていくのが見えた。
「そろそろ稚児舞の準備が始まるみたいだね」
「ああ。ところで、お(まえ)幽玄(ゆうげん)』ってどういう意味(いみ)だかわかってるか?」
「え? えーと……」
 夕介に()かれて僕は返答(へんとう)に困った。
 何となくこんなもんかなというイメージはあるが、言葉(ことば)では説明できない。
「言葉じゃうまく説明できないな」
本当(ほんとう)()らないんだろ?」
 (うで)()んでにやにやしながら僕を見(くだ)した目で(なが)めまわす。夕介の(わる)(くせ)だ。
失礼(しつれい)だな! わかるけど、言葉で説明できないだけだ」
「ふん、半分(はんぶん)正解(せいかい)だ。言葉には(あらわ)すことの出来ない(ふか)(おもむき)情緒(じょうちょ)()して『幽玄』と言うんだ」
 夕介はドヤ(がお)(つづ)ける。
「『()ず、童形(どうぎゃう)なれば、何としたるも幽玄(いうげん)なり』(註七)……世阿弥(ぜあみ)は子どもの姿なら何をしても幽玄だと()(のこ)している。で、ここからは俺の勝手(かって)仮説(かせつ)だが、『幽玄』ってのは、今風(いまふう)に言えば『カワイイ』だな。『()え』と言ってもいい」
 ずいぶんと大胆(だいたん)な仮説だ。
「いやー、いくらなんでもそれは飛躍(ひやく)しすぎじゃない?」
 僕は(くび)をかしげて否定(ひてい)したが、夕介は自信満々(じしんまんまん)だ。
「ふふん、かわいいにも色々あるだろ? ブサかわ、キモかわ、コワかわ、何でもあり。『カワイイ』って言うときに、説明なんか不要(ふよう)だ。まして、子どもの姿なら無条件(むじょうけん)で幽玄だってあの世阿弥が言うんだから、間違(まちが)いない」
根拠(こんきょ)がないぞ、根拠が!」
「そんなもん必要(ひつよう)ない、俺は研究者(けんきゅうしゃ)じゃないからな」
 僕が反駁(はんばく)するとそう言って夕介は腕を組んで()を見せて(わら)った。
「ただ、そういう視点(してん)で『紫桜(しざくら)』を()たら、それなりに『カワイイ』要素(ようそ)があるだろう?」
「そうかな?」
 僕は昨日観たいくつかの場面を()(かえ)ってみた。
桜堤(さくらづつみ)』の前シテの舞は(はな)やかだったし、人()(おに)正体(しょうたい)(じつ)美少女(びしょうじょ)だったという『寂水(じゃくすい)』の展開(てんかい)だって、そのギャップがすごい。『乙女淵(おとめぶち)』に(いた)っては、地味(じみ)な少女が華やかな桜の精に大変身(だいへんしん)……なるほど、言われてみれば(たし)かにそうかも。
高尚(こうしょう)なものだと思って身構(みがま)えて(せっ)すると、本質(ほんしつ)見誤(みあやま)ることがある。既成概念(きせいがいねん)から一()(はな)れてみると、案外(あんがい)素直(すなお)理解(りかい)できるかもしれないな」
「うーん、『カワイイ』かあ……」
 納得(なっとく)したような、そうでないような。
 夕介は調子(ちょうし)()ってさらに続ける。
「ついでにもう一つ。猿楽に創作劇(そうさくげき)は少ないって(おし)えたよな?」
「ああ、だから『紫桜』はレアだって」
「創作劇ではないってことは、つまりほとんどの(きょく)二次創作物(にじそうさくぶつ)なわけだ。有名(ゆうめい)物語(ものがたり)のエピソードの一部を、切り取ったり翻案(ほんあん)したりしてそのエッセンスを強調(きょうちょう)する……そういう意味で言えば、猿楽は同人誌(どうじんし)なんかと同じようなもんかもしれん。(べつ)に俺はそっち方面(ほうめん)(くわ)しいわけじゃないが」
 僕はあきれて絶句(ぜっく)した。
 夕介はそんな僕の反応(はんのう)をにやにやしながら眺めまわす。(あき)らかに面白(おもしろ)がっている。
「例えば、能装束(のうしょうぞく)はリアリティーよりもあくまで見た目の(うつく)しさを優先(ゆうせん)している。『乙女淵(おとめぶち)』のワキは元武士(もとぶし)貧乏僧(びんぼうそう)という設定(せってい)だが、()につけているのは高価(こうか)(きぬ)水衣(みずごろも)。それでも観客(かんきゃく)は何の(うたが)いも()たない。装束は過剰(かじょう)なまでに様式的(ようしきてき)かつ装飾(そうしょく)的である一方(いっぽう)、舞台装置(そうち)はごくごく簡素(かんそ)だし、物語もシンプル。美しければ、かわいければ、かっこよければ、リアルでなくても(ゆる)される。あえて言いかえれば、『カワイイ』がすべてに優先(ゆうせん)するデフォルメされた世界(せかい)ってわけだ」
 夕介は左手であごひげを()でながら得意(とくい)げな顔で続ける。
伝統芸能(でんとうげいのう)と言っても、(はじ)まった時から伝統があったわけじゃない、結果(けっか)として(なが)時間(じかん)を生き()びてきたから今は高尚(こうしょう)に見えるだけで、元々のところは庶民(しょみん)娯楽(ごらく)……つまり(ひろ)い意味でのサブカルチャーだったんだ。約束事(やくそくごと)がごちゃごちゃして面倒(めんどう)に見えるのも、その当時(とうじ)とは社会(しゃかい)状況(じょうきょう)()わって、当然(とうぜん)共有(きょうゆう)できていた常識(じょうしき)が変わってしまったからに()ぎない。まあ、猿楽の場合(ばあい)観阿弥(かんあみ)・世阿弥というエポックな人材(じんざい)出現(しゅつげん)して、芸術(げいじゅつ)(いき)にまで(たか)められたわけだが、元をたどれば大衆(たいしゅう)()けのサブカルチャー、そうだな、今でいえば例えばアイドルやアニメなんかと大差(たいさ)ないのかもしれない」
 なんだかむちゃくちゃな気もするが、(みょう)説得力(せっとくりょく)がある。
「猿楽はいわば、六〇〇年前から続く、元祖(がんそ)オタク文化(ぶんか)だ」
 専門家(せんもんか)から(おこ)られそうな結論(けつろん)を、夕介は平然(へいぜん)と言う。
「まさかそれ、記事(きじ)に書くつもり?」
「くくっ、さすがにそれは無理(むり)だな。紙面(しめん)()りない」
 夕介がそう言って笑った、その瞬間(しゅんかん)
「わッ!」
「うわっ!」
「おおっ?!」
 いきなり背後(はいご)から大きな(こえ)がしたので、僕と夕介は思わずびくっと背中(せなか)(まる)めた。振り返ると、果林(かりん)ちゃんが大笑(おおわら)いしている。
「あはははは、二人ともリアクションよすぎー! ウケるぅ!」
 お(なか)(かか)えて笑う果林ちゃんはクリーム(いろ)(こん)色の英字(えいじ)の入ったスタジャンに、ミニ(たけ)のグレーのキュロットスカート、紺のショートソックスにイエローのスニーカーというガーリーなスタイル。キュートだけど、やっぱり小学生みたいに見えてしまう。
「なんだ、果林か。おどかすなよ」
 夕介があわてて平静(へいせい)(よそお)うが、果林ちゃんの笑いは()まらない。
「おおっ?! だって! マジウケる!」
 果林ちゃんにリアクションをマネされた夕介は、腕を組んで憮然(ぶぜん)としている。
「あー、びっくりした。意外(いがい)に早かったね」
「じゃって(うち)におっても退屈なんじゃもん。なーなー、二人(なら)んで仲良(なかよ)く何話しよったん?」
「果林にはとうてい理解(りかい)できないような高度(こうど)な芸術(ろん)だ」
 夕介がにやにやしながら返す。
「あー、夕介またうちのことバカにしよる! うちだってそれぐらいわかるもん!」
「そうか? ま、要約(ようやく)すれば、日本のハイカルチャーはサブカルチャーによる下剋上(げこくじょう)の歴史だ、ってとこだな」
「???」
 にやにやと笑う夕介の言葉に、顔全体(ぜんたい)疑問符(ぎもんふ)にして(くび)をかしげる果林ちゃんの様子(ようす)がおかしくて、僕は思わず笑ってしまった。
「ところで果林、(らん)さんたちは来るんだろうな?」
「うちは荷物(にもつ)があるけえチャリ(自転車(じてんしゃ))で来たけど、みんな(あと)からゆっくり(ある)いて来るよ」
 果林ちゃんはそう言うと、さっさとパイプ椅子(いす)に座りこんだ。
「あとで二人とも(ちょう)びっくりするよ~」
「もう十分(じゅうぶん)びっくりしたけど」
 僕がそう(こた)えると、果林ちゃんはあいかわらずにまにまと笑う。
「にひひ、もっとびっくりするいね。()~っ(たい)、ぶち(おどろ)くけえ」
「なんだよ果林、勿体(もったい)つけずに(おし)えろよ」
「教えーん! いじわるな夕介には絶対教えんもん」
 夕介が(たず)ねると、果林ちゃんはぷっと(ほお)をふくらませた。

 果林ちゃんの()ってきたお菓子(かし)()べているうちに、見所(けんじょ)がだんだんとにぎやかになってきた。
 まだ雲が残る空は、徐々(じょじょ)(あかね)色に()まり始めている。太陽(たいよう)が雲に(かく)れると雲の輪郭(りんかく)がまばゆい黄金(きん)色の(かがや)きを放った。
森崎(もりさき)さん、夕介さん!」
 水菜(みずな)さんの(はず)んだ声がしたので僕は立ち上がってそちらの方を見た。
「水菜さん!」
 僕は彼女(かのじょ)に手を振って答えた。
 ネイビーのスキニーパンツに黒のローファー、白いニットのチュニック、ベージュのショートコートに身を(つつ)んだ水菜さんが胸元(むなもと)で小さく手を振り返してくれた。まるでファッション()のモデルのようだ。
 ()の高い水菜さんの後ろに小柄(こがら)な二人の女性(じょせい)……一人はベージュに黒のラインの入ったひざ下丈のワンピースの上に、薄手(うすで)の黒いトレンチコートを前開(まえびら)きのまま羽織り、ヒールの高い黒のミドルブーツをはいている。(かみ)を下ろしているから一瞬(いっしゅん)わからなかったが、蘭さんだ。髪をなびかせコートのポケットに両手を入れて颯爽(さっそう)と歩く姿は、成人(せいじん)した(むすめ)がいるとはとても思えない。今まで和装(わそう)しか目にしていなかったからとても新鮮(しんせん)(うつ)る。
 蘭さんの後ろに()ずかしそうに(かく)れるようにして歩いてくるのは……こげ(ちゃ)色のローファーに黒のタイツ、ダークブラウンのひざ上丈のフレアスカート、黒のTシャツの上に赤いチェックの厚手(あつで)のシャツをまとい、長い黒髪(くろかみ)をワインレッドのシュシュでポニーテールにした少女。
「え、あれ……?」
 僕は自分の目を(うたが)った。
 僕の(となり)にいる夕介も声を出しかけて言葉を(うしな)っている。
「来た来た!」
 果林ちゃんがうれしそうに()()る。
「きぃねえちゃん、ほらこっちこっち!」
 果林ちゃんは恥ずかしそうにしている少女の手を引いて僕らの前に()れてきた。
「な、びっくりしたじゃろー?」
 満面(まんめん)()みを()かべる果林ちゃんの隣でフレアスカートの(すそ)()さえてはにかんでいるのは……まちがいなく桔梗(ききょう)さんだ!
「そのカッコ──」
 夕介がやっとのことで言葉をしぼり出した。
「うちの()したげたんよ。サイズぴったし! おっぱいだけはきぃねえちゃんの方が大きかったけど。なー、ぶちかわいいじゃろ?」
 果林ちゃんが自慢(じまん)げに言うと桔梗さんは真っ赤になってうつむく。
「桔梗が自分から果林に(たの)んだんです、(ふく)()してほしいって。わたしも一緒(いっしょ)になって(えら)んだんですよ」
 水菜さんがうれしそうに教えてくれた。
 僕も夕介もあ然として桔梗さんの姿を眺めていることしかできない。
「一体何があったんかねえ? どうしたんって聞いても教えてくれんのですよ。せっかく(ひさ)しぶりに(わたし)もおめかししたのに、完全(かんぜん)()けちゃった」
 茶目(ちゃめ)()たっぷりにそう言って蘭さんは意味ありげに僕に微笑(びしょう)した。
「おい森崎、何か言ってやれよ」
 夕介が僕に耳打(みみう)ちする。
「あ……すごくかわいいよ。びっくりした」
 僕がそう言うと、桔梗さんは上目(うわめ)づかいでちらりと僕を見て恥ずかしそうに笑った。

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註七 花傳第一 年来稽古條々 上より(引用は岩波文庫『風姿花伝』野上豊一郎・西尾実校訂から)

第七章 霊山(りょうぜん) 〈三〉

 篝火(かがりび)に火が入ると、見所(けんじょ)(しず)かな緊張感(きんちょうかん)(なが)(はじ)めた。
 西(にし)の空は夕()けですっかり茜色(あかねいろ)()まり、わずかに(のこ)った(はい)色の(くも)(あいだ)(まじ)えながら上空(じょうくう)()かって()(あい)色へと変化(へんか)する(うつく)しいグラデーションを(えが)いている。
 (かがみ)()裏側(うらがわ)から男女(だんじょ)数人(すうにん)大人(おとな)が出て来て脇正面(わきしょうめん)後方(こうほう)(ひか)えた。中にはカメラを(たずさ)えている人もいるから、きっと稚児舞(ちごまい)に出る子どもの(おや)たちだろう。
妹尾君(せのおくん)今日(きょう)もよろしゅう(たの)みます」
 (くろ)のスーツ姿(すがた)男性(だんせい)夕介(ゆうすけ)(こえ)をかけてきたと(おも)ったら松岡(まつおか)さんだった。臙脂(えんじ)色のネクタイを()め、羽織袴(はおりはかま)(とき)とはまた(ちが)った雰囲気(ふんいき)だ。
「いよいよ千秋楽(せんしゅうらく)ですね、(たの)しみです」
 夕介は松岡さんに(わら)いかけた。
 (らん)さんが立ち上がって松岡さんに(あたま)を下げる。
「松岡さん、いつもお世話(せわ)になります」
「いやいや、こちらこそ。ほんに、蘭ちゃんはようやってじゃ、もうすっかり経営者(けいえいしゃ)(かお)じゃね。ネンコーさんもあの()(よろこ)んじょってじゃろうじゃ」
(おそ)れ入ります。松岡さん、今日は出演(しゅつえん)されんのですか?」
「はは、年寄(としよ)りがいつまでもでしゃばっとったらいけんけえな、世代交代(せだいこうたい)ですいね。今日のシテは『寂水(じゃくすい)』でワキを(つと)めた稲村(いなむら)君が務めます」
「ああ、ひとみちゃんのご主人(しゅじん)!」
「そうそう、稲村君もよそから来ちゃったけえ、前回(ぜんかい)はネンコーさんと一緒(いっしょ)裏方(うらかた)じゃったなあ。もしネンコーさんがおったら、どっちがシテを()るか、()り合うとこじゃったろうがなあ」
 松岡さんはそう言って笑った。その横顔(よこがお)はどこかさびしそうにも見える。
年光(としみつ)は目立ちたがりでしたからね、(わか)い稲村さんに主役(しゅやく)()られて(くや)しがってますよ、きっと」
「はは、(たし)かに」
 蘭さんが(おだ)やかにほほ()みながら(こた)えると、松岡さんは声を上げて笑った。
「そういえば、今日は桔梗(ききょう)ちゃんは来とらんのかね?」
 松岡さんが(ぼく)らを見まわして(たず)ねた。
「いいえ、来てますよ。ほら、あなたたちも松岡さんにごあいさつなさい」
 蘭さんにうながされて姉妹(しまい)も立ち上がった。僕だけ(すわ)っているのも(へん)なので、僕も立ち上がる。
「こんにちは松岡さん、昨日(きのう)せっかくけんかを()めてくださったのにごめんなさい」
 最初(さいしょ)水菜(みずな)さんが昨日の非礼(ひれい)()びた。
「いやいや、きょうだいっちゅうのはけんかして()たり(まえ)じゃけなあ、気にせんでええよ水菜ちゃん」
「あんなー、みず(ねえ)あのあと当分(とうぶん)はぶてとったんよ」
「あ、こら果林(かりん)、それ()うな!」
「にひひ、すぐはぶてるもんね、みず姉」
「もう、果林!」
「……お姉ちゃん、またけんかしてる」
 桔梗さんに指摘(してき)されて水菜さんは(きゅう)()ずかしそうに下を向いた。
「ほ、こりゃあたまげた、ははは」
 ポニーテールの少女(しょうじょ)が桔梗さんであることに気づいて、松岡さんは目を白黒させた。
「桔梗ちゃん、昨日とは別人(べつじん)じゃなあ!」
 三人を見(くら)べながら松岡さんは顔をほころばせる。
 桔梗さんはじっと松岡さんの顔を見つめていたが、急にすっと頭を下げた。
「あの、ありがとうございました」
 松岡さんはまじまじと桔梗さんを見(かえ)した。
「わたし、気づいたんです、自分の間違(まちが)いに。昨日の舞台(ぶたい)()て」
「ほう?」
「わたしは、ずっと(しん)()んでた──桜姫(おうひめ)みたいに。自分(じぶん)言葉(ことば)は、『奪命(だつみょう)(ことば)』なんだって。それがパパを()なせたんだって、ずっと、ずっと思い込んでた」
 桔梗さんはそこで一()目を()せた(あと)(あらた)めて顔を上げて松岡さんをまっすぐに見つめて(つづ)けた。
「でも、『奪命の詞』なんて、本当(ほんとう)は、ない。それが、わかったんです。だから、ありがとうございました」
 そう言うと、桔梗さんはもう一度松岡さんに頭を下げた。
 みんなが桔梗さんをじっと見(まも)っている。
 松岡さんは一瞬(いっしゅん)当惑(とうわく)したような表情(ひょうじょう)を見せたが、ちょっと(かんが)えて桔梗さんが何を言おうとしているのかがわかったようだ。
「桔梗ちゃんは(かしこ)い子じゃ。七年前と何も()わっちゃおらんね。おじさんもうれしいよ」
 そう言って松岡さんは桔梗さんの(かた)をぽんぽんと(かる)くたたいた。
 鏡の間から(ほそ)(ふえ)()が流れ始める。
「さ、そろそろ稚児舞が始まる。ゆっくり観ていきんさい」
 松岡さんはそう言って姉妹に手を()ると、鏡の間の方へ(ある)いていった。

 調(しら)べがやむと、()(まく)半分(はんぶん)(ひら)いて囃子方(はやしかた)が三人、ゆっくりと歩いてアト()に上がった。笛、小鼓(こつづみ)、そして大鼓(おおつづみ)小脇(こわき)(かか)えているのはあの武骨漢(ぶこつかん)伊藤(いとう)さんだ。
 おのおのが所定(しょてい)位置(いち)につき、身支度(みじたく)(ととの)()えて一呼吸(ひとこきゅう)()くと、笛が穏やかな旋律(せんりつ)でゆったりと(うた)い始めた。
 揚げ幕が上がり、四人の子どもがしずしずと橋掛(はしがか)りを(すす)み始める。
 四人とも子どもサイズながら『乙女淵(おとめぶち)』の(のち)シテと(おな)じ、(さくら)紋様(もんよう)()り込まれた白の長絹(ちょうけん)緋大口(ひおおぐち)という出立(いでたち)だ。長絹の(たもと)には舞扇(まいおうぎ)()している。
 先頭(せんとう)に立っているのは男の子で、(なが)黒髪(くろかみ)(かつら)白蓮(びゃくれん)天冠(てんがん)()せている。白粉(おしろい)をつけ、(くちびる)(べに)をさした顔は、緊張のためか(かた)くこわばっている。
 (つづ)いて女の子が二人、最後(さいご)にもう一人、同じく長い黒髪の鬘を()けた男の子。(うし)ろの三人は天冠を載せていない。
「あれ、(さくら)(つく)(もの)がない」
 水菜さんが小さくつぶやくのが聞こえる。
「確か、七年前には桜の作り物が()ん中にあったよね?」
 水菜さんが桔梗さんに小声(こごえ)で尋ねると桔梗さんが(だま)ってうなずいた。
 舞台の上では四人の子どもが所定の位置につく。
 先頭の天冠を載せた男の子が正面に立ち、四人は舞台の各辺(かくへん)中点(ちゅうてん)に立った。
 袂に挿していた舞扇を右手で身体(からだ)の正面に()ち、軽く左手を()えている。
 正面の男の子は舞台に上がり始めた時からずっと硬い表情のままだ。だいぶ緊張しているようだ。
 無理(むり)もない、普段(ふだん)()につけない装束(しょうぞく)、それも女の子のかっこうをして大勢(おおぜい)観客(かんきゃく)の前に出るのだから、緊張と恥ずかしさは頂点(ちょうてん)(たっ)しているだろう。
 大小の(つづみ)がやや控えめな()け声と(とも)()()らされ始め、子どもたちは笛の音に合わせてゆったりと()いはじめた。
 いや、正面の男の子が立ち()くしたままだ。
 緊張のあまり頭が真っ白になってしまったのだろうか、ほとんど()きそうな顔だ。
 (ほか)の三人は()じたままの舞扇を前に(ささ)げ持ち、その()で右(まわ)りにゆっくりと回るが、(かれ)だけは身動(みうご)きが取れずにいる。
 急に桔梗さんが立ち上がった。あっけにとられる水菜さん、果林ちゃんの前を横切(よこぎ)って通路(つうろ)に出る。
 桔梗さんは正面の男の子ににっこりとほほ笑みかけると、フレアスカートの(すそ)(ひるがえ)してくるりと舞台に()を向けた。
 そのまま、右手を前にかざす。舞台上の子どもたちと同じ所作(しょさ)だ。
 鼓のリズムに合わせて、桔梗さんはゆっくりと左に向きを変える。(すな)()む音が、僕の耳に(とど)く。
 正面で立ち尽くしていた男の子が、桔梗さんに(なら)ってぎこちない動きで左に向きを変えた。
 桔梗さんはその場でゆっくりと一回りしながら右手を胸元(むなもと)に引き()せ、(もと)の向きに(もど)ると、両腕(りょううで)を大きく横に(ひろ)げた。
 男の子もそれに続く。
 後ろの三人が安心した表情になった。
 桔梗さんは今度(こんど)は右腕を正面に()ばし、左手を添えた。
 舞台上の子どもたちも同じ所作で舞扇を広げ、正面の男の子も少し(おく)れながらもそれに(したが)った。
 四人の金色の扇には、桜の古木(こぼく)に赤い日輪(にちりん)(えが)かれている。『乙女淵(おとめぶち)』のシテが持っていたものと同じ(がら)だ。
 桔梗さんは淡々(たんたん)とした表情のまま、見えない舞扇を広げた(かたち)のまま、摺足(すりあし)で左回りに回る。そうか、直面(ひためん)……自分の顔を(おもて)として(えん)じているんだ。
 右に、左に、ゆったりと、たおやかに。
 僕はただ茫然(ぼうぜん)と桔梗さんを見上げていた。
 間近(まぢか)彼女(かのじょ)の長い呼吸(こきゅう)(かん)じる。
 少し遅れて桔梗さんの動きを()いかけていた男の子の動きが、他の三人と合いはじめた。だんだんと呼吸がつかめてきたようだ。落ち着いてきたのか、表情からも硬さが取れてきた。
 囃子方(はやしかた)演奏(えんそう)徐々(じょじょ)(ねつ)()びる。
 扇をかざして舞台上の桜の(せい)たちは舞う。
 その舞と寸分(すんぶん)のずれもなく桔梗さんも舞う。
 両腕を広げて摺足でゆっくりと数歩(すうほ)前に進んだ後、桜の精たちは両手で舞扇を前に(ささ)げ持って()を描くようにして舞台の中央に(あつ)まった。
 その形のまま、何もない空間(くうかん)中心(ちゅうしん)にして四人が(えん)(えが)く。桔梗さんもその場でゆっくりと一回りした。
 桜の精たちは正面を向くと今度は左手に舞扇を持ちかえて高々(たかだか)(かか)げ、右腕を前に()ばして(うち)から(そと)へくるりと回す。長絹(ちょうけん)の長い(そで)が腕に()き取られたと思ったら、今度はまた(ぎゃく)にくるりと回してすぐに袖をほどいた。
 満開(まんかい)の桜の花の下、思うままに舞う桜の精たち。
 作り物がなくても、舞台の上は(あたた)かな(はる)日差(ひざ)しが差しているように感じられる。
 四人は再び弧を描くようにして元の位置に戻る。
 舞扇を正面に(かま)えて右回りに回った後、左手を添えてゆっくりと扇を()じた。
 笛の音がふっと()み、子どもたちは閉じた扇を右手に持ち、身体の前で左手を添えた最初の形に戻った。同時に桔梗さんも同じ形になって動きを止める。
 長い掛け声の後、小鼓(こつづみ)が舞の()わりを()げるように(みじか)()った。
 桔梗さんは一呼吸置いてから(ふたた)びくるりと舞台の方を向いた。ポニーテールにした彼女の長い髪がはらりと舞う。
 男の子が上気(じょうき)した顔で桔梗さんを見つめると、桔梗さんは小首(こくび)をかしげてにっこりとほほ笑んだ。

「すごーい、きぃねえちゃん(おぼ)えちょったん?」
 幕間(まくあい)に入って、興奮(こうふん)()めやらぬ様子(ようす)で果林ちゃんが桔梗さんに尋ねると、彼女は小さくうなずいた。
 水菜さんがまぶしそうな顔で桔梗さんを見つめている。
「桔梗、(やさ)しいね。あの子にお手本(てほん)を見せてあげたんだよね? わたしだったら、多分(たぶん)思いつかなかったな」
 水菜さんの言葉に桔梗さんは()ずかしそうに下を向いた。堂々(どうどう)と舞っていたさっきまでの様子とはまるで別人(べつじん)のようだ。
「すまんが、桔梗の舞う姿を何枚(まい)()らせてもらった。思うより先に身体が勝手に動いてな。こんなことはめったにない」
 夕介も少し興奮した様子だ。カメラを両手に(かか)えたまま、じっと桔梗さんを見つめている。
「美しかった。他に言葉がない」
 夕介はそれだけ言って天を(あお)いだ。
 僕も何か言いたかったが、言葉が出てこない。ただ、(むね)の中にあたたかな気持(きも)ちがじんわりと()ちているのはわかる。
「心のこもった舞じゃったね。きれいじゃったよ、桔梗」
「なんか、じっとしていられなかったの。あの子がかわいそうで」
 蘭さんがうれしそうにほほ笑むと、桔梗さんは(ほお)()めながら蘭さんにほほ笑み返した。
「やっぱり、桔梗は桔梗じゃね。全然(ぜんぜん)変わってなかった。優しい桔梗のまま」
 蘭さんはそう言って桔梗さんの(かた)()()せた。
 桔梗さんは肩をすくめて一瞬くすぐったそうな顔をしたが、ふっと息を()いて安心(あんしん)した表情を見せた。
「……ごめんね、今まで何もしてあげられんで。(だれ)にも言えんと、長いことずっと一人で(かか)えちょったんじゃね」
「ううん、ママのせいじゃない。もっと早く気づけばよかった……ママ、今までごめんなさい」
 桔梗さんが蘭さんの(うで)の中でつぶやく。
「ええんよ、気づいたんじゃけ。それでもう十分(じゅうぶん)
 そう言うと、蘭さんは目を閉じて桔梗さんを抱きしめる腕の力を(つよ)めた。
「歩きだすのに、(おそ)すぎるいうことはないんじゃから」
「うん……」
 蘭さんの言葉に、桔梗さんはそっとうなずいた。蘭さんの目にはうっすらと(なみだ)(ひか)っていた。

第七章 霊山(りょうぜん) 〈四〉

 (ほそ)(なが)(ふえ)調(しら)べが、最後(さいご)舞台(ぶたい)開幕(かいまく)()(はじ)めた。
 (あた)りはすっかり(よる)(やみ)(おお)われ、投光機(とうこうき)(ひかり)の中、舞台の注連飾(しめかざ)りが(かぜ)でかすかに()(つづ)けている。
 虫の()()じって、時折(ときおり)篝火(かがりび)から火の()のはぜる音が(とど)く。
 見所(けんじょ)は水を()ったように(しず)まり(かえ)って、じっとその時を()っている。
 松岡(まつおか)さんが(かがみ)()(わき)に立って、舞台を見つめている。(かれ)は今、何を(おも)っているのだろう。
 (ぼく)(まえ)には三姉妹(しまい)(らん)さんが仲良(なかよ)(かた)(なら)べて(すわ)っている。右から蘭さん、桔梗(ききょう)さん、果林(かりん)ちゃん、一(ばん)左に(あたま)一つ()けて水菜(みずな)さん。四人の背中(せなか)はなんだかほっこりとしたあたたかさを(かん)じさせる。
 夕介(ゆうすけ)は僕の左(うし)ろの通路(つうろ)に立ち、真剣(しんけん)(かお)でじっと舞台をにらんでいる。
 今、それぞれがそれぞれの思いを(かか)えて、舞台が始まるのを待ち(かま)えているのだろう。
 僕はなんだか不思議(ふしぎ)な思いにとらわれていた。
 ほんの数日(すうじつ)前までは顔も名前も()らなかった人たちが、今は僕にとって(した)しい人たちになっている。
 もしも僕がここに来なければ、桐葉荘(とうようそう)宿(やど)(えら)ばなければ、出会(であ)うことのなかった人たち……本当(ほんとう)に不思議だ。

 調べがやむと、()(まく)半分(はんぶん)(ひら)いて囃子方(はやしかた)橋掛(はしがか)りを(すす)み始めた。
 大鼓(おおつづみ)伊藤(いとう)さんを(ふく)む、稚児舞(ちごまい)演奏(えんそう)した三人に、さらに太鼓(たいこ)(くわ)わっている。
 アト()後方(こうほう)からは後見(こうけん)地謡方(じうたいかた)が舞台に上がる。
 地謡方はこれまでどの舞台でも五人だったが、今回(こんかい)(ばい)の十人が舞台に上がった。中には(かお)なじみの青笹(あおざさ)さんの姿(すがた)も見える。
 地謡方は五人ずつ二(れつ)(なら)んで着座(ちゃくざ)した。
 後見は『乙女淵(おとめぶち)』の時と(おな)じ人が(つと)めるようだ。
 松岡さんが言っていたように、これまでの座の(わく)にとらわれない人選(じんせん)だ。
 舞台の上には何も()かれない。
 夕介によると、(さくら)(つく)(もの)昨夜(さくや)の雨で無残(むざん)な姿になってしまい、一日では修復(しゅうふく)出来ないので、今日(きょう)は作り物を使(つか)わずに舞台を進行(しんこう)することになったそうだ。
 あるはずのものがない舞台が一体(いったい)どのような展開(てんかい)になるのか、僕には想像(そうぞう)もつかない。
 舞台の上に十五人の男たちが上がり、()りつめた空気(くうき)最高潮(さいこうちょう)(むか)える。
 それを(やぶ)っておもむろに小鼓(こつづみ)(おさ)えた()(ごえ)(とも)に打ち始め、伊藤さんの大鼓(おおつづみ)がそれに(つづ)いた。
 揚げ幕が上がり、まずはワキが登場(とうじょう)する。
 紫色(むらさきいろ)水衣(みずごろも)()にまとった僧形(そうぎょう)……つまり身分(みぶん)(たか)僧侶(そうりょ)ということになる。二人の従僧(じゅうそう)をワキツレとして(したが)えるのは、昨日『乙女淵(おとめぶち)』でワキの旅僧(たびそう)(えん)じた男性(だんせい)だ。

桜花(さくらばな) ()()ひくもれ ()いらくの
 ()むといふなる (みち)まがふがに

 在原業平(ありわらのなりひら)が「四十(しじゅう)()」で(うた)ったという和歌(わか)朗々(ろうろう)(うた)いつつ、三人の僧がゆっくりと橋掛(はしがか)りを進んでいく。
 昨日(はじ)めて()たときにはかなり(おそ)(うご)きに感じられたが、僕の方も猿楽(さるがく)悠然(ゆうぜん)としたリズムにだいぶ()れてきた。

これは(みやこ)の僧にて(そうろう)
西國(さいごく)に (むらさき)の桜の花()くありと聞き(およ)び候
一目(ひとめ)見ゆれば 天命(てんめい)()ぶと聞く
(めづら)しきものゆゑ されば(この)目にて(たし)かめんと 西へ(くだ)りて候

 (おな)じ僧でも『乙女淵』の元武士(もとぶし)貧乏(びんぼう)僧とは(ちが)い、こちらは都の高僧(こうそう)だ。
 目にすると寿命(じゅみょう)を延ばすという紫桜(しざくら)のうわさを聞きつけて、自分(じぶん)の目で確かめたいとわざわざ都から下って来たのだと声高(こえたか)らかに()べる。
 ワキツレが続けて、紫桜(しざくら)の咲く場所(ばしょ)仔細(しさい)(たず)ねたが、(さだ)かならぬと述べた。
 ある(もの)桜堤(さくらづつみ)に咲いたといい、ある者は宇侘八幡(うたはちまん)一隅(いちぐう)に咲くという、またある者は乙女淵(おとめぶち)に咲いたと述べたが、いずれがまことかは皆目(かいもく)わからぬ、と。
 (おり)しも満開(まんかい)の桜が咲き(みだ)れる(ころ)だが、だんだんと夕闇(ゆうやみ)(せま)る中、僧たちは紫桜の咲く場所を探しあぐねて途方(とほう)()れてしまった。
 その時、一行(いっこう)は一人の老婆(ろうば)と出会う。
 笛が(おだ)やかに(うた)い、揚げ幕が上がって前シテが橋掛りに姿を(あらわ)した。
 柔和(にゅうわ)顔立(かおだ)ちの老婆(ろうば)(おもて)白髪(はくはつ)(かづら)茶系(ちゃけい)(しぶ)色合(いろあ)いの小袖(こそで)着流(きなが)しにした上にこれまた()()いた色合いの水衣(みずごろも)を合わせ、地味(じみ)だが(ひん)のよい(よそお)いだ。
 シテを(えん)じているのはまだ三十(だい)稲村(いなむら)さんのはずだが、少し(こし)()げてゆっくりと橋掛りを(ある)く姿は老人(ろうじん)そのもの。ものまね(げい)発祥(はっしょう)とする猿楽(さるがく)ならではの表現(ひょうげん)だ。
 老婆は本舞台(ほんぶたい)に上がり、正面(しょうめん)(おく)のシテ(ばしら)のそばに座っている。
 高僧が老婆に気づいて、従僧の一人にあの老女(ろうじょ)に紫桜のことを(たず)ねるよう(めい)じた。

これなる(ひな)の人に 尋ね(もう)すべきことの(そうろう)
これは(みやこ)より遥々(はるばる)下りし(もの)にて候
こなたは 天命を延ぶと()う 珍しき紫桜の
何処(いづこ)に咲けるかを 存知(ぞんぢ)なるか

 従僧のもの言いにはどこか傲慢(ごうまん)調子(ちょうし)()ざっているようだ。大きな声で老婆に尋ねるが、彼女(かのじょ)(こた)えない。

尋ねたきことのあれば
尋ねたき者の 尋ぬるべきにてやあらんずらん

 老婆は従僧には答えず、ひとりごちた。聞きたいことがあるなら聞きたい者が聞くべきだろう、と。
 これを耳にした従僧は(はら)を立てた。
 高僧の(ところ)(もど)ると、気(むずか)しい老婆で聞こえないふりをしている、ここはひとつ狼藉(ろうぜき)してでも聞き出すべきではないか、と奏上(そうじょう)すると、もう一人の従僧もそれに同調(どうちょう)する。
 が、高僧はさすがにそれを()(とど)めた。
 (かり)にも仏法(ぶっぽう)(ほう)ずる者が狼藉などするものではない、聞きたい者が聞けと言うなら私が尋ねてみよう、と(かれ)は立ち上がると老婆のもとに(あゆ)()った。

こなたは紫桜を存知なるか
これは都より紫桜を(もと)め 遥々(はるばる)(ひな)(くだ)(きた)()ゆゑ
存知なれば 是非(ぜひ)に是非にお(おし)(そうら)

 高僧はばかていねいな所作(しょさ)で老婆に尋ねる。
 老婆はちらりと高僧を一瞥(いちべつ)したが、やはり何も言わない。
 老婆の無礼(ぶれい)()()いに高僧は一瞬(いっしゅん)気息(きそく)(みだ)すが、さも()()(はら)ったふうを(よそお)って(かさ)ねて尋ねる。

お教へ(たま)はば
所望(しょもう)のものを とらせ(つかまつ)らん
重ねて重ねて お教え(そうら)

 老婆は、教えてくれれば()きなものをくれてやろうと言う高僧を(あらた)めてちらりと見ると、(かる)くあごを上げた。ふっと(わら)ったように見える。

紫桜とは
(およ)(そうろう)こともなくば
聞き及び候こともなく候
御僧(おそう)の聞き(たが)いにてや あらんずらん

 紫桜など見たことも聞いたこともない、あなたの聞きまちがいではないか、と老婆は言い(はな)った。
 従僧二人があわてて高僧のそばに()()る。
 この老婆、(われ)(ほとけ)(つか)える者を愚弄(ぐろう)すると大きな(ばち)をかぶるぞ、と(おど)すように言いそやすが、老婆は気にも()めていない様子(ようす)だ。
 すっと立ち上がると摺足(すりあし)で舞台正面へと移動(いどう)する。三人の僧はそれを目で()いながら舞台の右(がわ)に移動した。
 老婆は(たもと)()していた舞扇(まいおうぎ)(ひろ)げると、おもむろに()いはじめた。
 舞扇の(がら)は、『桜堤(さくらづつみ)』と同じ、川辺(かわべ)老桜(ろうざくら)
 地謡方(じうたいかた)がそれに()すように(うた)いはじめ、さらに(ふえ)の音が(かさ)なる。
 満開の桜の下で老婆は舞う。
 もちろん地謡方がそう謡っているだけで、桜の作り物もないから、何もないところで舞っているに()ぎない。しかし、舞台の上には()(ぎわ)薄光(はっこう)の中で舞い落ちる桜の花びらが見えるような気がする。
 大小の(つづみ)の音に合わせて老婆はたおやかに舞う。見えない桜の花を()でるかのように、いとおしむかのように。若女(わかおんな)のような(はな)やかさはないが、(おさ)えた動きの中に、長い歳月(さいげつ)を生き()いてきた(しず)かな生命力(せいめいりょく)を感じさせる。
 高僧の一行はあっけにとられた様子で老婆の舞を(なが)めている。
 やがて、老婆は見所(けんじょ)()()けて舞をやめた。
 すっと扇をたたむと、そのまま橋掛りを進んでいく。

かくて鄙人(ひなびと)老姥(をひうば)
舞ひて御前(おまえ)を立つと 見えつるが
()(くも)る 桜木(さくらぎ)
()るかと見せて()せにけり 寄るかと見せて失せにけり

 地謡方が、老婆は桜の木に近寄(ちかよ)ったかと思うと散りゆく桜の花に(まぎ)れて()えてしまったと謡い、前シテは揚げ幕の向こうに消えた。
 なんだか痛快(つうかい)だ。
 どこか傲慢(ごうまん)な振る舞いをする都の高僧らを(けむ)()いて、老婆は(みずか)らの舞を舞ってみせ、ふっと消えてしまった。紫桜(しざくら)なんて、見たことも聞いたこともない、と言い(のこ)して。
 しかし、だとしたら今までの三幕で桜姫(おうひめ)(いのち)()()えに咲いたとされる紫桜は、一体どうなってしまうのだろう?
 なんだか先の展開(てんかい)が見えない。

 舞台の上にはアイがやって来て名乗(なの)りを上げた。
 自分はこの(さと)()まう者である、都から身分の高い僧の一行がこの里にお()しになったと聞き、()()にお(まね)きしようと(さが)しているのだが見()たらぬ、()や日も暮れたゆえ(あきら)めて(かえ)ろうと思う、と里の者は(かた)った。大げさな身ぶりで困惑(こんわく)してみせ、高僧をお()めしたならば自分(じぶん)にも大きな利益(りやく)があるだろうに()しいことだ、などと下世話(げせわ)なこともつぶやいている。
 ちょうど途方(とほう)に暮れていた高僧が(とお)りかかった里の者を見とがめた。魚心(うおごころ)あれば水心(みずごころ)両者(りょうしゃ)思惑(おもわく)合致(がっち)して、高僧らは里の者の家に泊まることになった。
 従僧が里の者に紫桜について尋ねる。
 寿命を延ばすという紫色の桜を求めてこの里に来たが、ついに見つけることができなかった、あなたは()らないだろうか、と。
 里の者は(くび)をかしげて言う。年寄(としよ)りの昔語(むかしがた)りとして聞いたことはあるが、自分は見たことがない、と。
 従僧は、先ほど老婆に尋ねたところそんなものは見たことも聞いたこともない、聞きまちがいではないかと言われたが、まことだろうかと(かさ)ねて問う。
 里の者はやはり首をかしげる。が、(きゅう)に立ち上がって、そういえばあの(あた)りには一人の老婆が何十年と住んでいた、と言う。里の者らとはかかわりを()たず、子どもらは鬼婆(おにばば)ではないかとおそれていたが、どこの(だれ)ともわからぬまま、昨秋(さくしゅう)ひっそりと()んだ。御僧(おそう)が出会ったのは、あの老婆の(れい)ではないだろうか、と里の者は言うが、高僧らは顔を見合わせただけだ。
 (よる)()け、僧らは(ねむ)りについた。
 アイとワキツレ二人は橋掛りを歩いて退場(たいじょう)していった。
 舞台の上には高僧一人が舞扇を(まくら)に見立てて(ひたい)に当て、(すわ)った(かたち)(のこ)っている。
 ここからは高僧の(ゆめ)の中の場面(ばめん)だ。

 小鼓(こつづみ)がゆっくりとしたリズムを(かな)で始めた。そこに伊藤さんの大鼓(おおつづみ)(するど)(かさ)なり、揚げ幕が上がった。
 紅入(いろいり)小袖(こそで)着流(きなが)しにした上に、白い水衣(みずごろも)をまとった(わか)娘姿(むすめすがた)(のち)シテが橋掛りに姿を(あらわ)す。
 これは桜姫(おうひめ)だろうと僕は直感(ちょっかん)した。

もの(おも)ふと ()ぐる月日も 知らぬまに
 年もわが()も 今日(けふ)()きぬる

 娘は橋掛りを進みながら朗々(ろうろう)和歌(わか)(うた)う。今度は『源氏物語(げんじものがたり)』からの引用(いんよう)だ。
 光源氏(ひかるげんじ)が死を前にして詠んだ覚悟(かくご)の和歌らしい。物思(ものおも)いにふけっているうちに知らぬ()に月日は過ぎ()ってしまい、今年も私の命も、もう今日にも尽きてしまうのであろう、といった意味(いみ)だそうだ。
 娘はシテ(ばしら)のかたわらに立って正面を向いた。

さても深業(じんごう)御僧(おそう)かな
天命(てんめい)()べて何とする

 娘は開口(かいこう)一番、やれやれ(ごう)(ふか)(ぼう)さんだ、寿命(じゅみょう)を延ばしてどうしようというのか、と高僧に(たい)して(きび)しい言葉(ことば)()げかける。
 僧は思わず居住(いず)まいを正し、さてはあの世からの(つか)いが年若(としわか)い娘の姿で自分の前に現れたのか、とおそれおののいた。
 娘は舞台の正面に移動し、御僧は沓懸山(くつかけやま)(いくさ)のことを存知(ぞんじ)であるか、と()う。
 私は都から旅をしてきた身である、数多(あまた)あった戦のひとつひとつについて仔細(しさい)を知ることはない、と彼は答えた。
 娘はやや顔を()せて右手を顔の前にさしかけた。
 あれほど(はげ)しい戦であっても、何十年と()てば(おぼ)えている者もなければ()っている者すらもなくなる、(あわ)れなことだ、と彼女は()いた。
 娘が(おうぎ)を広げると、笛が哀しげな旋律(せんりつ)を奏で始めた。

草木(さうもく)(しげ)沓懸(くつがけ)の つはものどもの今生(こんじょう)
残る無念(むねん)は ()みもせず
(すさ)まじき 雨の(おり)
(かす)かに聞こゆ (とき)(こゑ)
(ひるがえ)りゆく 旌旗(せいき)見つ

 地謡方(じうたいかた)が、(つめ)たい雨が()ると敗死(はいし)した将兵(しょうへい)たちの無念が古戦場(こせんじょう)に鬨の声と(ひび)き、(まぼろし)旗指物(はたさしもの)となって翻る、と重々(おもおも)しく(うた)い、娘は舞扇(まいおうぎ)を前に(ささ)げ持ってゆっくりと舞う。
 高僧はじっと娘の言葉に耳を(かたむ)けている。

あらあはれやな
今はこの世に ()(あと)
さても無慙(むざん)や (やぶ)れける
父は草()(しげ)りたる かの(つか)
土の下にこそありてけり

 自分の父は敗死して春の草が生い茂る塚の下にいる、と娘に()して地謡方が謡った。
 高僧が娘の正体(しょうたい)(あや)しんで、あなたはいったい(だれ)なのかと尋ねる。
 娘はしばし口を(つぐ)んだ後、おもむろに、私は沓懸(くつかけ)の山で(ほろ)んだ武将(ぶしょう)の娘・桜姫(おうひめ)であると名乗(なの)った。
 桜姫(おうひめ)は続けて、私は昨秋(さくしゅう)、名もなき老婆として一生を()えたが、御僧に(たの)みたいことがあると()げる。もしもその(ねが)いを聞き()げるのなら、あなたの(のぞ)紫桜(しざくら)を見せて()し上げよう、と。
 高僧は、さてはこの姫は先の老婆の霊かと合点(がてん)して、一も二もなく承諾(しょうだく)した。
 桜姫は、これから一さし舞いつつ物語(ものがた)るので、それを聞き(つた)えるようにと彼に頼んだ。
 高僧は(うけたまわ)ったと返事(へんじ)をし、聞きもらすまいと耳をそばだてる。
 その様子を確かめると、桜姫は舞扇を(かか)げてゆっくりと舞いはじめた。

第七章 霊山(りょうぜん) 〈五〉

 (わたし)(ちち)()(つらぬ)いて(いくさ)(いど)み、
 (むな)しく(たお)れ、草深(くさぶか)(つか)の土となり()てた。
 これより(のち)
 (かぜ)(なび)(あし)(ごと)寄辺(よるべ)のない妾は
 一体(いったい)何を便(よすが)に生きればよいのだろう。
 
 (すで)(はは)()く、
 二人の(おとうと)行方(ゆくえ)()れず、
 (わたし)一人のこの(いのち)、何を()しむことがあろうか。
 空しく生きるぐらいならば、いっそ(いさぎよ)()ればよい、
 (はる)()()桜花(さくらばな)(ごと)くに。
 妾は()()げんとして、(たか)(いわお)(みぎわ)に立った。
 
 しかし、
 (わたし)()んで、何となる?
 父を(うば)った(もの)たちは、所領(しょりょう)(ひろ)げ、春を謳歌(おうか)している。
 父は茫茫(ぼうぼう)()(しげ)る草の下で
 (つめ)たい塚の土となってしまった。
 (あだ)()つ、そのためには(おに)にでもなる、と妾は()めた。

 蛇身(じゃしん)となり()てようとも(かま)わぬ、
 堕地獄(だじごく)をも(おそ)れぬ。
 (わたし)()()して父の仇を討つ()(うかが)う、蛇蠍(だかつ)のごとくに。
 それのみが妾の生きる便(よすが)
 いつしか、
 生きるために妾は(うら)み、
 恨むために妾は生き、
 (つい)には父を(わす)れ果てた。
 狂女(きょうじょ)となった(わたし)は、
 (とら)えられ、(あざけ)られ、
 仇も討ち果たし()なかった。
 
 (わたし)郷里(きょうり)(はな)れた。
 妾の()らぬ(ところ)へ、妾を知らぬ処へ。
 妾は石のごとく(かた)く口を(つぐ)んだ。
 (だれ)にも知られぬように、誰をも知らぬように。
 そうして幾年(いくねん)も、幾年も、私は()ごした。
 誰にも知られぬように、誰をも知らぬように。
 
 (わたし)()ぶのは誰か、
 (なつ)かしい(こえ)で、私を呼ぶのは誰か。
 ああ、その声は、まさに(した)わしい
 ()が父ではないか。
 父は死んでなどいなかった、
 (たし)かに妾を呼ぶではないか。
 そう(おも)ったところで、妾は(うつつ)(かえ)った。
 (ゆめ)であった。
 
 現に還った(わたし)は、幾年かぶりで(おのれ)姿(すがた)を見た。
 花のごとき乙女(おとめ)であった妾は、
 いつ知れず(すすき)のごとく
 みすぼらしい女となり果てていた。
 蛇身(じゃしん)となれず、
 さりとて人として生きることも(かな)わず。
 夢であるなら、(うつつ)になど(かえ)らねばよかったものを。
 いや、(すべ)てが夢であればよかったものを。
 
 生きながらに地獄(じごく)()()()くるがごとく、
 ()()まれてしまうのではないかと思われるほどに
 この()(おも)い。
 このまま地に呑まれた方が、どれほど安楽(あんらく)だろう。
 生きることもできず、死ぬこともできず、
 ただ、(くる)しみ、(へび)のごとくに地を()うのみ。
 
 (わたし)には、地を這う()が姿が見えた。
 その(かたわ)らに、それを見()ろしている男の姿(すがた)が見える、
 ああ、それは()が父ではないか。
 父は(かな)しい(かお)で、悲しむ(わたし)を見ていた。
 父は、悲しむ妾を見て、悲しんでいた。
 
 悲しみが()えることはないが、
 それは(とき)(とも)薄紙(うすがみ)()ぐがごとく()えた。
 それでも、悲しみは不意(ふい)(おそ)(きた)る。
 その(たび)
 父は(わたし)の傍らで、私が悲しむのを悲しんだ。
 
 (わたし)は生きることにした。
 父は(つね)に妾の(かたわ)らにある、
 何を(おそ)れることがあろう。
 名もなき女として生涯(しょうがい)()えればよいと妾は(のぞ)み、
 そして、それは成就(じょうじゅ)した。
 
 所願(しょがん)満足(まんぞく)。(註八)
 皆已(かいい)具足(ぐそく)。(註九)
 
……

 桜姫(おうひめ)(みずか)らの半生(はんせい)(うた)いつつ()った。
 舞いこそが彼女(かのじょ)(ことば)
 言葉(ことば)意味(いみ)はよくわからなくても、桜姫(おうひめ)が何を(かた)りかけているのか、ありありとわかる。
 絶望(ぜつぼう)の舞、(いか)りの舞、(くる)しみの舞……しかし、最後(さいご)に絶望から生きることを(えら)んだ物語(ものがたり)を語り()えた桜姫の(かお)は、()れやかに(かがや)いて見えた。名もなき老婆(ろうば)として一生(いっしょう)()じたことに、(ほこ)らしさすら(かん)じさせるほどに。
 (ぼく)は、全身(ぜんしん)(しず)かな(さざなみ)(はし)るような感覚(かんかく)(おぼ)えた。
 苦労(くろう)(おお)い一生であったのかもしれない。しかし、桜姫が不幸(ふこう)であったとは、僕にはどうしても(おも)えなかった。
 静かに舞をやめた桜姫は、舞扇(まいおうぎ)を閉じると(そう)()()けた。
 僧が、ふと(われ)(かえ)る。

のうのう ()たれ(そうら)
御約束(おんやくそく)にて(そうろう)
紫桜(しざくら)を 紫桜(しざくら)を、御見(おんみ)せ候へ

 桜姫は此岸(しがん)()って彼岸(ひがん)へ行こうとしている。約束が(ちが)う、と(かれ)(いきどお)った。
 しかし、桜姫は僧に背を向けたまま()げる。

(すで)に紫桜は 御身(おんみ)()()たりにて(そうろう)
見むとせざれば 見ゆることなく候

 すでに紫桜はあなたの目の前にあります、見ようとしなければ、見えないのです、と言い(のこ)し桜姫は橋掛(はしがか)りへと(うつ)った。
 去りゆく桜姫と地謡方(じうたいかた)とが()()いをするようにゆっくりと(うた)う。

此岸と()ひ 彼岸と謂ふも
ただ同じ(かは)の 岸辺(きしべ)にて
河の(うを)には 自他彼此(じたひし)なし
(なが)るる河水(くゎすい)の あるのみか
(へだ)てと見つるは 人の(なら)
花もまた ()くのみが花にあらず
()るも花なり
実生(みせう)も花なり

 此岸も彼岸も同じ河の岸辺であり、魚にはただ流れる河の水があるに()ぎず、それを隔てられたものと見るのは人の見方でしかない。花も、咲くだけが花ではなく、散るのも花だし、(たね)から()が出てやがて成長(せいちょう)するのも花である。
 去りゆく桜姫の背中に向かって、十人の地謡方が力(づよ)く謡う。
 僕はその声に()かれて地謡方を一人一人(なが)めた。(こと)なる声が一つに(かさ)なって、舞台(ぶたい)から圧倒的(あっとうてき)な力を(はっ)する。

げに紫桜(しざくら)は 身の(うち)
身の裡にこそ 咲けるなり

 最後(さいご)に、地謡方の後列(こうれつ)(ばん)(おく)(すわ)っている男性(だんせい)に目が()いた。
 青笹(あおざさ)さんの目立つ(あたま)の向こうで(そろ)いの羽織袴(はおりはかま)に身を(つつ)み、少し(かた)をいからせながら脇正面(わきしょうめん)をにらんで謡っているのは……年光(としみつ)さんだ!
 げに紫桜は身の裡にこそ咲けるなり、と地謡方が朗々(ろうろう)()(かえ)す。
 下がり気味(ぎみ)の目に(するど)(ひかり)宿(やど)し、真剣(しんけん)表情(ひょうじょう)で年光さんも謡う。
 地謡方の声が、空気(くうき)(ふる)わせて僕に届く。その声に共鳴(きょうめい)するように僕の身体(からだ)内側(うちがわ)が静かに波立(なみた)つ。
 (ふえ)()()った(たか)()(うた)う。
 舞台上(ぶたいじょう)の僧が立ち上がり、桜姫を()うように一・二()前に進んだが、思いとどまって立ち止まった。
 ()(まく)が上がり、桜姫は静かにその中に消えた。
 地謡方に目を(もど)すと、(たし)かにいたと思った年光さんの姿はなかった。
 まばたきしてもう一()(なお)したが、後列の一番奥に座っているのは青笹さんだった。
 僕は(まぼろし)を見たのだろうか?
 舞台の上で正面を向いて立ち()くす僧のように、僕もしばらく放心(ほうしん)して何も(かんが)えることができなかった。

────────────────────
註八 「願うところは満ち足れり」と読み下す。神仏に対する祈りが具現化すること。
註九 法華経方便品第二「如来方便(にょらいほうべん)知見波羅蜜(ちけんはらみつ)皆已具足(かいいぐそく)。」より。「皆(すで)具足(ぐそく)せり」と読み下す。如来は衆生を導くための方便と智慧(ちえ)とを皆すでに(そな)えている、という意。

第七章 霊山(りょうぜん) 〈六〉

結局(けっきょく)紫桜(しざくら)なんてなかったんだろうな」
 夕介(ゆうすけ)がカメラをアルミケースにしまいながらぽつりとつぶやいた。
 舞台(ぶたい)余韻(よいん)の中、松岡(まつおか)さんのあいさつが()わって、観客(かんきゃく)は三々五々(かえ)(はじ)めている。
「そうかな?」
 (ぼく)はちょっとムッとして夕介に言い(かえ)した。
「見ようとしなきゃ見れないって桜姫(おうひめ)は言ってたじゃないか。何もなかったとは(おも)えないけどな」
「そうですよ、わたしは森崎(もりさき)さんの方が正しいと思います」
 水菜(みずな)さんが僕の味方(みかた)をしてくれる。
「でも、じゃったら紫桜(しざくら)って結局なんじゃったんかね? うちにはようわからんなあ」
 果林(かりん)ちゃんが両手(りょうて)(あたま)(うし)ろに()んで背中(せなか)をそらしながらつぶやいた。
「いのち……」
桔梗(ききょう)さん?」
 桔梗さんは僕をまっすぐに見つめている。
「わたしは、紫桜は、いのちの花だと思う」
「いのちの花──」
 僕は彼女の言葉を()り返した。紫桜は、生命(せいめい)の花──。
 ふと(かお)を上げると、帰り始めた観客の(あいだ)をぬって、体操服姿(たいそうふくすがた)の男の子がこちらに()かって見所(けんじょ)(はし)ってくる。
 男の子は僕らの(まえ)まで来ると、(いき)(はず)ませながら桔梗さんに(いきお)いよく頭を下げた。
「ありがとうございました!」
 (かれ)は二・三(びょう)そのままの姿勢(しせい)でいたが、また勢いよく頭を上げると、顔を()()にして走り()っていった。ちょっとスキップ()じりの、(かろ)やかな足()りで。
「あれ、さっきのおちご(まい)の子だ」
 水菜さんがつぶやく。
「顔、真っ赤だったね」
「うふふ、桔梗が初恋(はつこい)だったりして♪」
 (らん)さんが桔梗さんをからかうと、彼女(かのじょ)()ずかしそうに下を向いた。
「にひひ、きぃねえちゃんかわいー♪」
「んー……」
 調子に乗って果林ちゃんも桔梗さんの(うで)をつつくと、桔梗さんは()をよじってさらに(こま)った顔をする。その表情(ひょうじょう)はもう普通(ふつう)少女(しょうじょ)と何も()わらない。
「蘭さん、(おれ)は松岡さんにあいさつして帰ります。先に(もど)ってください」
「あらら、(つめ)たいこと言うんですね、夕介さん。(わたし)らもつきあいますよ」
 蘭さんは右手の人()(ゆび)を口(もと)()てていたずらっぽく(わら)う。
「そうそう、夕介はいっつも自分勝手(じぶんかって)なんじゃもん!」
「お前にだけは言われたくねーぞ」
 夕介は苦笑(にがわら)いしながら果林ちゃんのおでこを(かる)くつついた。

 松岡さんはスーツ姿のままあちこちに大声(おおごえ)指示(しじ)を出して後片(あとかた)づけの陣頭指揮(じんとうしき)を取っていた。
「松岡さん、お(つか)(さま)です」
「おお、妹尾君(せのおくん)か。おかげさんでなんとか無事(ぶじ)に終えることがでけた。ありがとうな」
圧倒(あっとう)されました。()けないように記事(きじ)にまとめます。色々(いろいろ)とご協力(きょうりょく)ありがとうございました」
 夕介は松岡さんに頭を下げた。僕も(つづ)けて言う。
感動(かんどう)しました。やっぱりわざわざ()に来てよかったです」
「いやあ、学生さんみたいな(わか)(もん)がようけ(たくさん)おりゃあ、猿楽保存会(さるがくほぞんかい)安泰(あんたい)なんじゃがなあ」
 そう言って松岡さんは笑う。夕介も僕もつられて笑った。
 松岡さんは続けて蘭さんに声をかけた。
「のう蘭ちゃん、ネンコーさん、おったねえ」
「ええ、おりましたね。ヘタなのに、必死(ひっし)(うと)うてました」
 蘭さんは松岡さんに答えてふっとほほ()んだ。
「じっとしちゃおられんかったんでしょうね、きっと」
「はは、イベント()きのネンコーさんらしいのう」
 水菜さんと果林ちゃんは二人の会話(かいわ)怪訝(けげん)な顔で聞いている。
「あの、わたしも見ました、パパ」
 桔梗さんが声を上げた。
「パパ、一生懸命(いっしょうけんめい)だった。なんか、うれしかった」
「そうか、桔梗ちゃんも見たか。ネンコーさんも桔梗ちゃんを見て安心(あんしん)したじゃろうて」
「はい」
 松岡さんの言葉(ことば)に桔梗さんは大きくうなずいた。
()んだ(もん)は、おらんようになったわけじゃないけえのう。いつでも、わしらのすぐそばにおるんじゃ。なあ、蘭ちゃん?」
「そうですね、私たちが感じることができれば、いつでも(こた)えてくれますね」
 松岡さんがそう言って(わら)うと、蘭さんも笑顔(えがお)を返す。水菜さんは何かわだかまったような顔で二人の様子(ようす)を見ている。
「では、俺たちはこれで失礼(しつれい)します。掲載(けいさい)()まりましたら、またご連絡(れんらく)()し上げます。本当にありがとうございました」
「そしたら、みな帰り気ぃつけてな。妹尾(せのお)君、学生さん、(えん)がありゃあまた()おうて」
 夕介が(あらた)めて頭を下げると、松岡さんはそう言って手を()った。

「ねえ(かあ)さん、本当(ほんとう)にさっき(とう)さん見たの?」
 先頭を歩いている水菜さんが振り返りながら蘭さんに(たず)ねた。
「んー、見たよ」
 蘭さんはコートのポケットに両手を入れたまま水菜さんに答える。
「えー、幽霊(ゆうれい)? 父さん()けて出たん?」
 自転車(じてんしゃ)()している果林ちゃんが左手を前に出して(うら)めしや~とポーズをとると、蘭さんは思わず()き出した。
「あはは、幽霊っちゃあ幽霊かな。でも、ちょっと(ちが)うよ」
 夕介は一人で先に帰ると言うから、僕はみんなと一緒(いっしょ)にゆっくりと(ある)いて帰ることにした。
 まだいくぶん(くも)(のこ)っているが、月のない空には()ちてきそうなほどの(ほし)がきらめいている。こんな星空はこれまで見たことがない。
「この()未練(みれん)たらたらで居残(いのこ)ってるのが幽霊でしょ? あの人は未練なんていっそも(まったく)残しちゃおらんからね」
 蘭さんは自信(じしん)たっぷりにそう言い()る。
「そうなの? じゃあ、わたしたちのことは?」
 水菜さんが(すこ)不満(ふまん)そうに尋ねた。
「そりゃ、(たし)かにあなたたちのことは(こころ)残りじゃったとは思うけど、あなたたちの人生(じんせい)はあなたたちのものだもん。見届(みとど)けられんのは(くや)しかったかもわからんけど、それにしたって早いか(おそ)いかの(ちが)いでしかないからね」
 蘭さんはそう言って星空を見上げる。
「父さんは、あなたたちを信じてるんだよ、必ずちゃんと歩いて行けるって。きっと幸せになれるって」
 桔梗さんが(だま)って蘭さんの言葉にうなずいた。
 水菜さんはなんだか納得(なっとく)いかない表情を()かべたままだ。
「あの、僕にも見えました、年光(としみつ)さん」
 僕は思い切って切り出した。
「本当ですか、森崎(もりさき)さん?」
 水菜さんが振り返って(おどろ)いた顔で尋ねた。
青笹(あおざさ)さんの(となり)(すわ)って(うた)っているのを、確かに見ました」
「えーずるいー、なんでうちには見えんかったんじゃろ?」
「だいたい、森崎さんて生前(せいぜん)(ちち)に会ったことすらないですよね?」
 果林ちゃんが僕を見上げながら大きな声を上げ、水菜さんは僕に(うたが)いの目を向けている。
「こらこら二人とも、森崎さん(こま)ってるでしょ?」
 蘭さんが笑いながら二人をたしなめる。
「僕、年光さんから色々(いろいろ)(おし)えてもらったような気がしてます。なんか、うまくは言えないですけど」
 僕の言葉に蘭さんはうなずいた。
「年光は、もう森崎さんの心の中に、おるんですね?」
「はい」
「そっか、うれしいな」
 蘭さんは後ろで手を組んで下を向くと、ふっと笑った。
 桔梗さんがそんな蘭さんの様子をじっと見つめている。
「年光は、生きることに本当に一途(いちず)な人でした、若いときからずっと。じゃけえ、(はよ)うに()ってしまったのかも」
 蘭さんは(ふたた)び顔を上げると、僕に()げるというよりも自分に言い聞かせるような口調(くちょう)でそう言った。
 生きることに一途、か。僕もそんな(ふう)に生きてみたいな、と思う。
「……死んだら、どうなるんだろ?」
 水菜さんがぽつりとつぶやいた。
「そんなの、死んでみなきゃわかんないよ」
 蘭さんが苦笑(くしょう)しながら水菜さんに返す。
「わかんないから死ぬのが(こわ)いんだよねー。みんな行きつくとこはそこだって()ってはいても、その先がどうなってるのかは(だれ)も知らんもん」
 蘭さんはコートのポケットに手を入れたまま、少し歩幅(ほはば)(ひろ)げて二・三()()ねるように歩く。ブーツのヒールが(かわ)いた音を立てた。
「今生きてる人は、誰一人(だれひとり)、死んだことがないから」
 桔梗さんが小さくつぶやく。
「そのとおりじゃね、桔梗。でも、その先がわからんでも、せっかく生きてるんだから、生き切らなきゃ。私らだって、いつかはあっちに行くようになるけど、それまで後悔(こうかい)せんようにしっかり生き切らんとね!」
 蘭さんは(あか)るい声でそう言うと、再び星空を見上げた。
 僕も空を見上げる。
 音がしそうなほどに(うつく)しい無数(むすう)の星々が、()えた空気(くうき)の中で(またた)いていた。


〈第七章終わり〉

第八章 はじまりの朝 〈一〉

「おかえりなさいませ。どんなでしたか、森崎様(もりさきさま)?」
 玄関(げんかん)を入ると、桑田(くわた)さんが(あか)るい(こえ)出迎(でむか)えてくれた。
「マジ感動(かんどう)しました。わざわざ来た甲斐(かい)がありました」
「それはえかったです、わけわからんでから()ちょっちゃったらいけん(おも)うて、心配(しんぱい)しよったんですよ」
 桑田さんの言葉(ことば)(ぼく)(おも)わず(わら)ってしまった。
「ありがとうね、桑田さん。おかげで、ええ時間(じかん)()ごせました」
「いえいえ、女将(おかみ)はいつも(いそが)しゅうにしよってんですから、たまにはゆっくりせにゃいけんです。それこそゆっくり温泉(おんせん)にでも()かってから」
「ふふ、温泉宿(やど)の女将が湯治(とうじ)じゃ、カッコつかんね」
 (らん)さんと桑田さんは(かお)を見合わせて笑った。
妹尾(せのお)様は先にお(もど)りになっちょってですよ。お食事(しょくじ)支度(したく)も出来ておりますので、そのままお座敷(ざしき)へどうぞ」
「さっすが桑田さん、(たよ)りになるねー」
「むっふー、おまかせください!」
 蘭さんが桑田さんを()めると彼女(かのじょ)は右手で胸元(むなもと)(かる)くたたいて鼻息(はないき)(あら)(むね)()る。
 その様子(ようす)がおかしくて三姉妹(しまい)も笑った。
 座敷のふすまを()けると、お(ぜん)(なら)べられた()ん中に、ダークスーツでキメた夕介(ゆうすけ)が入口を()いて正座(せいざ)していた。(にぶ)いシルバーのネクタイまで│()めている。
一体(いったい)何事(なにごと)だよ、スーツなんか()て」
「お(まえ)(よう)()い」
 夕介は僕を(はな)であしらう。ムカつく言葉(ことば)だが、夕介が(するど)くにらんだので僕は(つぎ)の言葉をのみこんだ。
 (つづ)いて入ってきた三姉妹も夕介のただならぬ様子に(おどろ)く、というかあきれる。
「あはは、どうしたん? 夕介サラリーマンみたい! いっそ似合(にあ)わん!」
 果林(かりん)ちゃんが夕介を(ゆび)さして笑いながら遠慮(えんりょ)のない感想(かんそう)を言うが、夕介は真剣(しんけん)な顔だ。
 桑田さんは(なべ)固形燃料(こけいねんりょう)に火をつけて(まわ)った(あと)、入口の(ちか)くに(ひか)えて座り、ちょっと意味(いみ)ありげな視線(しせん)を蘭さんに(おく)る。蘭さんも(かる)くうなずいた。
「蘭さん、()()ってお(はなし)があります」
 コートを()いで座った蘭さんに()(なお)ると、夕介は(すこ)しかしこまった調子(ちょうし)で話を切り出した。まさか──
単刀直入(たんとうちょくにゅう)に言います。(おれ)と、結婚(けっこん)前提(ぜんてい)におつきあいしていただけないでしょうか?」
『えー?!』
 先に(こえ)を上げたのは果林ちゃんと水菜(みずな)さんだ。
 二人で手を()り合ってびっくりした顔で夕介のことを見つめている。
 桔梗(ききょう)さんも固唾(かたず)()んで夕介と蘭さんの様子を見(まも)る。
 蘭さんは、真剣に見つめる夕介の目をじっと見つめ返した。
「ねえ夕介君、私と結婚するってどういうことだか、わかってる?」
 彼女は(しず)かに夕介に(たず)ねた。
「もちろんです。俺は、あなたを(しあわ)せにしたい。そのためなら、何だってするつもりです」
 夕介はまばたきもせずに蘭さんの目を見つめたまま返す。
 まさかの公開(こうかい)プロポーズだ。
 僕は思わず生唾(なまつば)()()んだ。
自分(じぶん)()きな仕事(しごと)()ててでもってことかな? 全然(ぜんぜん)わかってないよ、夕介(くん)は」
 蘭さんは一()夕介から視線(しせん)(はず)してふっと(いき)()いた。
「私と結婚するってことは、(きみ)尊敬(そんけい)してやまない年光(としみつ)とも一緒(いっしょ)生活(せいかつ)するってことだよ? (かれ)は、今でもずっと(わたし)のそばにいるんだから。夕介君は、本当(ほんとう)にそれに()えられるの?」
 そう言った蘭さんから見つめられて、夕介は(きょ)()かれたような顔をした。夕介にとって(まった)想定外(そうていがい)のリアクションだったらしい。
「え……と、それは──」
桐島(きりしま)のご両親(りょうしん)にあいさつして、桐島の戸籍(こせき)に入って、子どもたちとは養子縁組(ようしえんぐみ)して……そういうのは(かんが)えてたんでしょ? 桐葉荘(ここ)仕事(しごと)(おぼ)えるつもりだった、(ちが)う?」
「そうです、俺は本気(ほんき)です」
 夕介はなかばムキになって答える。
 蘭さんはそんな夕介から視線を外さずに言葉を()いだ。
「結婚ってさ、なんていうか、そういうことだけじゃないんだよね。普段(ふだん)他愛(たわい)ない会話(かいわ)とか、お(たが)い何も言わないときの()ごし(かた)とか、けんかした後の仲直(なかなお)りの方法(ほうほう)とか。そんな何気(なにげ)ない時間(じかん)()(かさ)ねる方が、(じつ)大変(たいへん)なんだよ? 夕介君は、まだ私のほんの一部分(ぶぶん)しか()らないでしょ?」
「だから、もっと知りたいと思います」
 蘭さんの言葉に()おされてうなずいた夕介だが、()けまいと声を()る。
 夕介の真剣な様子に、蘭さんは右手の人()(ゆび)を口(もと)()ててにっこりとほほ()んだ。
「そっかぁ、でもそうなると、夕介君は年光とライバルになっちゃうね。君は、それでも私を()けるの?」
「……」
 この質問(しつもん)にはさすがの夕介もたじろいだ。(つぎ)の言葉が出てこない。
「えへへ、ちょっといじわるしちゃった。ごめんね夕介君。でも、私と結婚するって、そういうことだからね」
 蘭さんはそう言っていたずらっぽく笑う。
 僕はただ、ぽかんと口を()けてことのなりゆきを見守るほかない。
「私はね、夕介君に幸せにしてもらわなくても、今すっごく幸せなんだー。だから、ごめんね、私には結婚する理由(りゆう)がないの」
 そう言った蘭さんの顔は、(たし)かに幸せそうだった。
 夕介はがっくりと両肩(りょうかた)()とした。
「もちろん、その気持(きも)ちはうれしかったよ、ありがとう」
 蘭さんはそう言って(ふたた)び夕介にほほ笑んだ。
 夕介はうなだれたままで何も返せない。
「ねえ、いつから私のこと(おも)ってくれてたの?」
 蘭さんは笑みを()かべたまま人差し指を口元に立てて夕介に()う。
 夕介が息を呑む。(だま)って顔を上げた夕介はすっかり憔悴(しょうすい)している。
「それは──」
「ふふ、言わなくてもいいよ。だいたいわかってるつもりだから」
 答えようとした夕介を蘭さんが(さえぎ)った。夕介は口を(ひら)きかけたまま(かた)まってしまった。
 蘭さんもなかなか(こく)だ、あの夕介からぐうの()も出ない。
「あー、えかったー!」
 ずっと緊張(きんちょう)した顔で息を()めていた果林ちゃんが、ほっと胸をなでおろした。
「うち、夕介のこと絶対(ぜったい)『お(とう)さん』なんて()えんもん」
「お前、人の(きず)(しお)()り込むようなことを平気(へいき)で言うのな」
 夕介が顔を上げて力なくつぶやいた。
「だって、夕介は夕介じゃあ? 夕介がうちの『お父さん』になるなんて、()~っ(たい)(かんが)えれん! もし(かあ)さんがオッケーしとったら、うちグレたかもしれん」
「ふふ、果林はきっとそう言うと思った。水菜と桔梗はどう思う?」
 蘭さんに水を向けられた水菜さんと桔梗さんは、(たが)いに顔を見合わせた。
「んー、母さんが()めたんなら、わたしは異論(いろん)はないよ。そろそろ再婚(さいこん)してもいいんじゃないかなーとは思うけど、でもその相手(あいて)が夕介さんっていうのは、なんか(ちが)うような気がするなあ」
 水菜さんが夕介の傷をさらにえぐるようなことを言う。
 夕介は(うら)めしそうな顔で水菜さんを見たが、水菜さんは真顔(まがお)だ。桔梗さんも(となり)で小さくうなずいている。
 (じつ)は、僕も内心(ないしん)(おな)じことを感じていた。
 言葉では言い(あらわ)せないとても微妙(びみょう)なところで、蘭さんと夕介の()み合わせはどこかしらしっくりこない気がする。
「あのーみなさん、そろそろお食事を(はじ)めんと、せっかくのお(つく)りがぱさぱさになりますよ? 美味(おい)しいうちにどうぞ」
「それもそうだね、せっかく今日(きょう)はみんなでご馳走(ちそう)()べることにしたんだから」
 入口(ちか)くに控えていた桑田さんが遠慮がちにすすめると、蘭さんが同意(どうい)する。
「うん、いっただきま~す!」
 ()(かま)えていたように果林ちゃんが(はし)を取ると、早速(さっそく)刺身(さしみ)を一()れつまみあげた。
 それを合図(あいず)に、僕らも食事を始めた。
 夕介も仕方(しかた)なしにすごすごと自分(じぶん)(せき)に着いて箸を()る。なんだか気の(どく)なぐらいしょぼくれて見える。
「まあ妹尾(せのお)さん、美味しいもんでも食べて、元気(げんき)出しんさい! 世の中に女の子はよっけ(たくさん)おるんじゃから! あんたみたいなイケメンじゃったら、なんぼでも相手はおるいね!」
 夕介の背中(せなか)を桑田さんがバシバシたたいて激励(げきれい)する。
 いや、今それを言っても逆効果(ぎゃくこうか)なんじゃ、と思うが、面白(おもしろ)いので言わないでおく。
 夕介は黙って汁椀(しるわん)をあおっている。きっと(あじ)なんかしてないだろう。
 でも、夕介の勇気(ゆうき)はすごいな、と僕は感心(かんしん)した。
 僕に同じことができるかと言えば、やっぱり無理(むり)だと思う。本気だったからこそ、みんながいる前で交際(こうさい)(もう)()む気になったんだろうし、それを()げるときの気迫(きはく)(たし)かにすごかった。
 ただ残念(ざんねん)ながら、蘭さんの方が一枚(いちまい)上手(うわて)だっただけだ。

 今日(きょう)桐島家(きりしまけ)も僕らと同じ懐石料理(かいせきりょうり)だ。
 出かけるとなるとさすがに準備(じゅんび)(むずか)しいからお(ねが)いしちゃった、と蘭さんは笑う。
 カレーとかの簡単(かんたん)で作り()きできるのにすればよかったんじゃない、と水菜さんが(たず)ねると、どうせならたまには豪華(ごうか)にしようと思ったんだ、と蘭さん。今日だけの特別(とくべつ)よ、とつけ(くわ)えるのも忘れない。
 おかげで美味しいもんが食べれるー、と果林ちゃんがうれしそうに言うとみんなが笑ったが、夕介は会話に耳を(かたむ)けようともせずに黙々(もくもく)と目の前の物を食べ続けている。
「なー、そういえば全然(ぜんぜん)カンケーないけど、きぃねえちゃん、さっき『紫桜(しざくら)はいのちの花』って言うたじゃあ? あれってどういう意味なん?」
 果林ちゃんは隣に座っている桔梗さんに尋ねながら鍋物のふたを取る。思った以上(いじょう)(あつ)かったらしく、あちちと言いながらあわててふたをお膳の上に置いておしぼりで指を()やしている。
「いのちに(かく)れてる、きらきらしたものかなって、思う。……うまくは言えないけど」
 桔梗さんは()えものの入った小鉢(こばち)を左手に持ったまま答えた。
「それで『いのちの花』かあ、私も賛成(さんせい)。確かに、見ようとせんと見れんものじゃもんね」
 蘭さんはそう言って海老(えび)天婦羅(てんぷら)を口に入れた。サクッという小気味(こきみ)よい音が僕にまで(とど)く。
「でも、私も観れてよかった。今回は前とはぜんぜん違った見え方がしたよ」
「前とは違った見え方って、どういうことですか?」
 僕は汁椀を片手に蘭さんに尋ねた。
 黙々と食べていた夕介も、手を止めて蘭さんを見つめる。
「私はね、桜姫(おうひめ)合戦(かっせん)()んだ武将(ぶしょう)の、(むすめ)じゃなくて、(おく)さんだと思うの」
 蘭さんは『紫桜(しざくら)』の前提(ぜんてい)根底(こんてい)から(くつがえ)すような大胆(だいたん)仮説(かせつ)をさらりと言った。
「えー、全然(ぜんぜん)わかんない。母さんどういうこと?」
 水菜さんはそう言って(たい)の刺身にワサビをたっぷり()せて口に(はこ)ぶ。
 さすがにツンと来たのかすぐに両手で口元を()さえて、んーと声を出しながら目じりに軽く(なみだ)を浮かべている。
「あのさ、最初(さいしょ)絶望(ぜつぼう)して死のうとして、(つぎ)(かたき)()とうと狂気(きょうき)になって、それもできなくて口を()ざして──。『霊山(りょうぜん)』で桜姫(おうひめ)(かた)った物語(ものがたり)には、初日(しょにち)の三(まく)要素(ようそ)全部(ぜんぶ)入ってるでしょ? 桜姫は、前の三幕では人生の途中(とちゅう)で死んじゃうことになるけど、『霊山(りょうぜん)』では寿命(じゅみょう)()きるまで生き切った。前に観たときは、なんとも思わんかったんよね」
 蘭さんはふっと顔を上げ、一つ息を()ってから続けた。
「でも、あの人が死んじゃった今なら、わかる。『紫桜』って、大切(たいせつ)に思っていた人を、思わぬ(かたち)()くした女の物語なんだ、きっと」
「大切に思っていた人を亡くした女の物語──」
 夕介が蘭さんの言葉を繰り返した。じっと蘭さんのことを見つめる。
 しかし、蘭さんの視線(しせん)は夕介の視線とは交差(こうさ)しない。
「私も、同じだから……」
 彼女は、どこか(とお)くを見るような表情(ひょうじょう)でぽつりとそうつぶやいた。

第八章 はじまりの朝 〈二〉

 年光(としみつ)病気(びょうき)がわかったのは、今から六年前の梅雨時(つゆどき)でした。
 今年(ことし)(おれ)本厄(ほんやく)だし、(いそが)しくなる(まえ)人間(にんげん)ドックでも()けてみるか、なんて(かる)いノリで受けたら、それがわかって。
 その一年ぐらい前……ちょうど前回(ぜんかい)の『紫桜(しざくら)』の準備(じゅんび)をしていた(ころ)から、年光はよく息切(いきぎ)れがするとは()ってたけど、それがまさか(いのち)(およ)ぶ病気だなんて、(わたし)(かれ)も、(おも)いもしませんでした。
 こっちに来てからは禁煙(きんえん)したし、一日中忙しいのは()わらなかったけど、()こうにいたときみたいに不摂生(ふせっせい)ではなくなってたから、どうしてって。
 いつの()にか身体中(からだじゅう)転移(てんい)(ひろ)がっていて、(いま)病状(びょうじょう)なら余命(よめい)半年(はんとし)だろうという宣告(せんこく)()けました。
 医師(いし)からは、納得(なっとく)がいくようにとセカンドオピニオンを(すす)められて、いくつか病院を紹介(しょうかい)されたんですけど、受診(じゅしん)(ことわ)られることすらあって。それぐらい彼の病気は気づかないうちに(すす)んでいたようです。
 (べつ)の医師からも、(のこ)された時間(じかん)をどのように使(つか)うかを、お二人でじっくりと(かんが)えてくださいって言われました。

 彼は相当(そうとう)なショックを受けました。もう、(なみだ)も出ないほどに。
 なんで俺が……って。
 やっと桐葉荘(ここ)経営(けいえい)安定(あんてい)(はじ)めたところだし、(むすめ)たちはまだ(そだ)ちざかり。
 なのに、こんなのって残酷(ざんこく)すぎますよね?
 普段(ふだん)前向(まえむ)きで楽天的(らくてんてき)な彼が、(はじ)めて私の前でうろたえました。
 俺、どうしたらいいのか全然(ぜんぜん)わからないって。
 やりたいこともたくさんある、やらなければならないことも山ほどある、なのに俺には時間がない、どうしたらいいんだって。
 私、彼に何も言ってあげられなかった。だって、私だってどうしたらいいかわからなかったから。

 でも、年光は(あきら)めませんでした。

 俺は人(さが)しのプロだからな、とか言いながら、医者(いしゃ)探しに奔走(ほんそう)しました。
 彼、前職(ぜんしょく)では人と人とをつなげるのが得意(とくい)でしたし、あれこれ苦労(くろう)はあったにしても桐葉荘(とうようそう)がなんとかオープンできたのも、結局(けっきょく)は彼の人脈(じんみゃく)作りの力のおかげだったと思うんです。
 たくさんの人の尽力(じんりょく)があって、(なつ)が始まった頃には、私たちは信頼(しんらい)できる医師に(めぐ)りあうことができました。
 治療(ちりょう)(かん)する知見(ちけん)豊富(ほうふ)なだけじゃなくて、私たちのメンタルについてもちゃんと理解(りかい)してくれて。本当(ほんとう)に、本当に、やっと自分(じぶん)たちの気持ちを理解(りかい)してくれる人に巡りあえたって(かん)じて、私も彼もほっとしました。
 丁寧(ていねい)に丁寧に、私たちが疑問(ぎもん)に思うことには何度(なんど)でもきちんと(こた)えてくれました。
 でも同時(どうじ)に、この病気が(なお)るわけではないということも、はっきりと思い()らされたんです。医療(いりょう)でできるのは、()時期(じき)をできるだけ先延(さきの)ばしにすること。早い(おそ)いはあっても、この病気は確実(かくじつ)に彼を(とお)くに()れて行ってしまう──
 その事実(じじつ)を理解したとき、彼はだんだんと、残された時間を何に使うべきなのかを(かんが)えるようになっていきました。()む本も、だんだんと哲学書(てつがくしょ)()えて、自分がこれから死ぬということの意味を考え始めたようです。

 桔梗(ききょう)(おぼ)えちょるよね? 青い鳥を(さが)して巡り(ある)いたチルチルとミチルが、最後(さいご)(おとず)れる「未来(みらい)王国(おうこく)」。
……そう、これから生まれるこどもたちは「未来の王国」からこの()に持っていくものを、自分で(えら)ぶんよね。
 もしかしたら彼は、たくさんの人をつなげる仕事と一緒(いっしょ)に、早く死んでしまう病気を、自分で選んで持ってきていたのかもしれません。
 俺は今までずっと「自分がいつか死ぬ」ということを、遠ざけて生きてきたんだな、と彼がしみじみつぶやいたことがあります。
 たいていの人はそうだと思うよ、と私が言うと、俺は自分の死をきちんと自分で()()けて死にたい、と答えました。全部(ぜんぶ)無理(むり)でも、出来るだけのことはやっておきたい、多分(たぶん)(らん)には苦労(くろう)をかけることになるけど、よろしく(たの)む、と。
 私は、とにかく彼を(ささ)えることに()めました。
 彼に後悔(こうかい)させたくなかったというより、私が後悔したくなかったからでしょうね。

 水菜(みずな)たちには夏休(なつやす)みの()わり(ごろ)まで(とう)さんの病気のことは言わんかったよね。
 父さんは、あなたたちにどう(つた)えればええのか、ずっと(なや)みよったの。
 自分がこんなにも早くあなたたちの前からいなくなることを(もう)(わけ)ないと思いよったみたいじゃし、あなたたちはちょうど(むずか)しい時期に入り始めた頃じゃったからね。
 あの年、夏休みの終わりに、家族(かぞく)みんなで錦美川(にしみがわ)の花火大会(たいかい)に行ったの、憶えちょる?
 直前(ちょくぜん)になって水菜がやっぱり行きたくないって言うたりしたけど、結局みんなで()に行ったよね。
 あれが、家族みんなででかけた最後(さいご)になったね。
 私と父さんの、最後のデート。
 三人とも浴衣(ゆかた)()てね、桔梗と果林(かりん)は、父さんにわたあめ()ってもらって無邪気(むじゃき)にはしゃいじょったね。
 水菜は無理(むり)やり()れて来られたけえかしれんけど、ちょっと不機嫌(ふきげん)で。でも、金魚(きんぎょ)すくいにやたら熱中(ねっちゅう)してたよね。
 父さんは、そんなあなたたちの姿(すがた)を見てずっとにこにこしよった。
 花火が始まって、みんなで空を見上げて。
 その時だけは私も、彼の病気のことなんか(わす)れて、本当にきれいだなって思えた。
 いよいよラストかなって頃に、父さんが私にだけ聞こえるようにぽつりと言ったの。
 俺は、来年(らいねん)今頃(いまごろ)にはもういないんだな、って。
 (おどろ)いて父さんの(かお)を見上げたら、父さん、花火を見上げたまま、涙を(なが)してた。
 私たちの前に仲良(なかよ)(なら)んで花火を見上げてるあなたたちの後姿(うしろすがた)を見て、私も()いた。あなたたちに気づかれないように。
 たくさんの花火が次々(つぎつぎ)に上がって、最後は大きな大きな一尺玉(いっしゃくだま)
 ずしん……と空気が(ふる)えて、空いっぱいに(ひかり)が広がって。まわりから、ひときわ大きな歓声(かんせい)拍手(はくしゅ)()こって。
 父さんも涙を流しながら手をたたいてた。
 泣きながら(わら)って、笑いながら泣いてた。きっと、私もそう。
 歓声の中で、俺も一尺玉になるよ、っていきなり言うの。
 どうせなら大きくきれいに()いてやるさ、って。
 何かが()っ切れたような顔だった。
 私も、涙を()いて、父さんに笑ったの。
 じゃあ、私がちゃんと()ち上げてあげるって。
 お(たが)いそれでやっと、あなたたちに病気のことをきちんと伝える決心(けっしん)ができたんだ。

 夕介君(ゆうすけくん)(とお)くからなのに、病院にも(いえ)にも、何度もお見舞(みま)いに来てくれたよね。
 年光は現場主義(げんばしゅぎ)だったからね、後輩(こうはい)から仕事の(なや)みなんか相談(そうだん)されるとすごく生き生きとして、うれしそうだった。
 だから、夕介君には今でも本当に感謝(かんしゃ)してる。
 いろんな人がお見舞いに来てくれたけど、どっちが病人(びょうにん)なんだかわかんないくらい、彼は来てくれた人を全力(ぜんりょく)(はげ)ましてた。
 なんて言葉(ことば)をかけようかって(くら)い顔で来た人が、(かえ)るときにはほっこりした笑顔(えがお)になって帰っていく。なんだか不思議(ふしぎ)光景(こうけい)だったよ。
 でも夕介君、彼に(おこ)られたことがあったでしょ?
 だってほら、帰り(ぎわ)に「がんばって」なんて言うから。
 お前、俺が死んだあとに蘭にがんばってなんて言ったら、俺は()けて出て(のろ)ってやるからな、ってすごい剣幕(けんまく)で怒る怒る。
 ふふ、いかにも彼らしい怒り方だけど、その頃「がんばって」っていう言葉が、私も年光もすごく負担(ふたん)だったのは(たし)かだよ。二人だけのときにいっぱい泣いた。
 なんて声かけたらいいのかわからなくなって、それでつい「がんばって」なんて言っちゃうんだろうけど、彼も私も、もう既にがんばれることは全部がんばってるんだよね。この上何をどうがんばれって言うの、っていう気持ちになっちゃう。
 彼の(ふる)友人(ゆうじん)でね、最初(さいしょ)と最後にあいさつをしただけで、あとはずっとうなずきながら彼の(はなし)を聞いているだけの人もいたけど、彼はすごくうれしそうだった。
 言いたいことが言葉にならないのなら、無理して言葉にしなくたっていいんだなって、私は思ったの。(だま)ってそこにいてくれるだけでもいいんだ。
 言葉にできなくたって大事(だいじ)な思いはちゃんと伝わるし、(ぎゃく)にどんなに(うつく)しい言葉でも、そこに気持ちがなかったら何も伝わらないの。

 なあ蘭、夕介は俺の(あと)(ねら)ってるぞって、夕介君が帰った後に彼が言ったことがあったな。
 冗談(じょうだん)めかしてはいたけど、目は笑ってなかった。
 俺は蘭のおかげでこうしてちゃんと毎日(まいにち)生きていけてる、ありがとうって言った後にね、俺が死んだ後は、蘭の思うようにしたらいいからな、って真剣(しんけん)な顔して言うの。
 そんなのわかんないよ、って私は答えたの。
 だって、その頃は目の前のことだけで精一杯(せいいっぱい)だったから。先のことなんて全然考えられなかった。

 (あき)(ふか)まり始めた頃には、彼は自宅(じたく)最期(さいご)(むか)えたいという希望(きぼう)を医師に伝えて、在宅(ざいたく)ホスピス医を紹介してもらった。
 看護師(かんごし)さんから(おし)えてもらって、私も日常的(にちじょうてき)介護(かいご)についてはある程度(ていど)こなせるようになった。
 桐葉荘(とうようそう)桑田(くわた)さんたちにお(まか)せでなんとか営業(えいぎょう)して、大事な判断(はんだん)だけは彼と私ですることにしてね。少しずつ、経営(けいえい)(かん)する引継(ひきつ)ぎもしていった。
 その前の年に『紫桜(しざくら)奉納(ほうのう)(いそが)しくしてたのが、なんだか遠い(むかし)のことみたいだったな。
 猿楽(さるがく)仲間(なかま)は、(ふゆ)に入ってからはほとんど毎日(まいにち)のように(だれ)かが入れかわり立ちかわりでお見舞いに来てくれたよ。
 (とく)に、松岡(まつおか)さんと稲村(いなむら)さんはよく来てくれた。
 それぞれ(おく)さんと一緒(いっしょ)に来てくれることも(おお)くてね。だから、私は一人で(かか)()まないで()んだんだ。
 松岡さんの奥さんにはよく愚痴(ぐち)をこぼしたなあ。自分の考えを()しつけないで、ずっとしんぼう(づよ)く聞いてくれるんだ。
 (ぎゃく)にひとみちゃん──稲村さんの奥さんね──には昔からの友達(ともだち)みたいに気楽(きらく)に話ができてストレス解消(かいしょう)になったな。
 ひとみちゃん、私と(ちが)って(わか)い頃はだいぶやんちゃだったらしいけど、それがよかったのかな。遠慮(えんりょ)なしに色々(いろいろ)言ってくれるからいいみたい。
 私よりも六つも下なのにね、今でもすっごい仲良し。

 彼にとって一番の(こころ)残りは、もちろんあなたたちのこと。
 水菜が中学二年生、桔梗は五年生、果林が四年生。
 水菜は気を()かせて私のかわりに家事(かじ)を全部やってくれるし、桔梗は反抗期(はんこうき)に入って気難(きむずか)しくなってたし、果林の無邪気(むじゃき)さはなんか逆に(つら)くて。
 彼は、自分が早く()ってしまうことで、あなたたちの(あゆ)みを邪魔(じゃま)してしまうことをすごく(おそ)れてたの。
 でも、いくら考えてもこればっかりはどうにもできない。
 自分の力で(ある)いていけるようにって私たちがいくら(ねが)っても、あなたたちはそれを受け止めるにはまだ(おさな)なすぎたね。
 ねえ水菜、父さんがしきりに教えてた『風姿花伝(ふうしかでん)』の一(せつ)(おぼえ)えてる?
 ……そう、さすが水菜だね、一言一句(いちごんいっく)間違(まちが)えずに憶えてるんだ。
「いづれの花か()らで残るべき。散る(ゆえ)によりて、()(ころ)あれば、(めづら)しきなり。(のう)(ぢゅう)する(ところ)なきを、()づ、花と()るべし」(註一〇)
 元々(もともと)はね、四季(しき)のうちに色々な花が入れ()わりながら咲くように、色々な(げい)の花を()につけて、あらゆる()対応(たいおう)できるようにしなさい、花はいつか散るからこそ、咲いている(あいだ)がきれいで珍しいように、能にも「これでよし」というところなんかないんだよ、っていうような意味なんだけどね。
 父さんはね、この言葉で命のリレーのことを伝えたかったんだと思うの。
 確かに季節(きせつ)によって咲く花は違うけど、それぞれの花が、それぞれの時期にちゃんと咲くでしょ? だから一年中、花が()える時期はない。
 自分はもう散ってしまうけど、だからこそ次の花──つまりあなたたちが、これから咲こうとしている。
 そうやって命はずっと咲き続けるの。
 とどまるところなんかない、それが「花」。
 だからさっき、桔梗が「紫桜(しざくら)はいのちの花だと思う」って言ってくれたの、すごくうれしかったな。
 ああ、父さんの思いがちゃんと伝わったんだなって思って。
 あなたたちの成長(せいちょう)を見届けることができないのは、彼にとってすごく心残りだったろうけど、それでも彼はあなたたちの(しあわ)せを(しん)じてた。
 あの子たちが咲かないわけがないだろ、俺と蘭の子なんだから。彼はいつもそう言ってた。
 あなたたちは、(かなら)ず自分の花を咲かせる。
 それは、大きくて(あざ)やかな花かもしれないし、ひかえめだけどかわいらしい花かもしれない。早く花(ひら)くかもしれないし、のんびり(おそ)咲きかもしれない。
 でも、それぞれのペースで自分らしく咲けたら、それはきっと幸せなことなんだと、私は思うな。

 あのね、今まであなたたちには内緒(ないしょ)にしてたけど、(じつ)は父さんからあなたたち一人一人に、ビデオレターがあるんだ。それぞれ成人式(せいじんしき)(むか)えたら、その日の(よる)に見せるようにってね。
 ふふ、遺言(ゆいごん)だからまだ見せたげない。
 水菜はもうすぐだしね。
 水菜の()(そで)姿、父さんにも見せてあげようね。

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註一〇 花傳第七 別紙口傳より(引用は岩波文庫「風姿花伝」野上豊一郎・西尾実校訂から。字体は新字体に改めた)

第八章 はじまりの朝 〈三〉

 だんだんとできることが(すく)なくなっていく(かれ)を見るのは、とても(つら)いことだったな。
 ああ、少しずつ旅立(たびだ)ちが近づいているんだなあって(おも)うと、なんだかやりきれなくて。
 彼も少し不安定(ふあんてい)になった。
 憔悴(しょうすい)した(かお)で、やっぱ()にたくはないよなあ、なんて()われちゃうと、私もなんて(かえ)したらいいかわかんないよ。
 (いた)みについては、在宅(ざいたく)ホスピス()の先生と電話(でんわ)相談(そうだん)しながら、(くすり)でかなりこまめにコントロールしてたけど、死ぬことに(たい)する不安(ふあん)って、痛みとはまた(ちが)うところから来るものなんだなあって思った。
 いくら覚悟(かくご)()めてても、やっぱり(こわ)いものは恐いって年光(としみつ)は言ってた。
 こんなに迷惑(めいわく)かけてまで生きたくないって言ってみたり、そうかと(おも)えばみんなに(わす)れられたくないなあって言ってみたり。
 一日のうちでも、死にたいと死にたくないの両極端(りょうきょくたん)を、行ったり来たりするの。
 何でもやってみなきゃわからない、が彼の口癖(くちぐせ)だったけど、自分(じぶん)が死んでいくことについてだけはわかりようがないやって(くや)しそうに言ってた。
 ただ、死の準備(じゅんび)をひとつひとつ(すす)めていく中で、これまで生きてこれたことに(こころ)から感謝(かんしゃ)できるようになった、って言うようになったね。
 (いま)生きてるのは()たり(まえ)のことじゃなくて、本当(ほんとう)綱渡(つなわた)りみたいな奇跡(きせき)の上にあるんだって実感(じっかん)したって。
 (わたし)も、彼の姿(すがた)からそれを(おし)えてもらった気がする。

 自分の葬儀(そうぎ)のことを彼はずっと気にかけてた。
 私にできるだけ負担(ふたん)をかけさせたくなかったみたいで、自分でできるところは自分で仕切(しき)っておこうと思ったみたい。
 葬儀(しゃ)の人に来てもらって()ち合わせをしたんだけど、あの(ころ)はまだ今ほど生前予約(せいぜんよやく)一般的(いっぱんてき)じゃなかったし、何より年光の年齢(ねんれい)でそんなことをする人はいなかったから、()こうもだいぶびっくりしてたね。でも、彼の思いをきちんと()んでくれて、費用(ひよう)(めん)(ふく)めて具体(ぐたい)的な提案(ていあん)をしてくれた。
 私が喪主(もしゅ)(つと)めるから、それでやりやすいように、あらかじめひとつひとつの手順(てじゅん)()めて、私が連絡(れんらく)を入れたらすぐに対応(たいおう)できるように、万全(ばんぜん)態勢(たいせい)(ととの)えてくれたの。
 その()も、何か思いついたらこまめに連絡(れんらく)()り合って、すっかり信頼関係(しんらいかんけい)ができた。
 連絡してほしい人のリストなんかも自分でかっちり作り上げてね。
 会葬礼状(かいそうれいじょう)とか、連絡しても通夜(つや)や葬儀に来れない人のために出すあいさつ状の文面(ぶんめん)なんかも、彼が自分で(かんが)えて、最後(さいご)まで手を入れ(つづ)けたんだよ。
 あの笑顔(えがお)遺影(いえい)(えら)んだのも、その(ころ)だね。
 彼と一緒(いっしょ)にアルバムをめくってたら、彼の写真(しゃしん)ってものすごく少ないんだよね、あなたたちの写真はたくさんあるのに。
 俺は()専門(せんもん)だったんだな、一()夕介(ゆうすけ)に撮ってもらっておけばよかった、って彼は(わら)いながら言ってた。
 ねえ夕介君、私の遺影、撮ってくれる?
……ふふ、冗談(じょうだん)だよ。
 色々(いろいろ)(さが)して、会社(かいしゃ)後輩(こうはい)結婚式(けっこんしき)家族(かぞく)(まね)かれて出席(しゅっせき)した時の写真を選んだの。
 今でも思うけど、本当に、彼の最高(さいこう)の笑顔。

 三月になると、彼はまどろんでいることが(おお)くなって。
 そろそろなのかな、って彼は言って、関東(かんとう)にいる桐島(きりしま)のご両親(りょうしん)に連絡して、わざわざ来てもらったの。春休(はるやす)みだったあなたたちも一緒にいたよね。
 二人とも何も言えなくてね。
 そんな二人に()かって彼は、バイバイ、俺はひとまず先に()くよって。親不孝(おやふこう)(わる)いね、でもこの()(おく)り出してくれて本当(ほんとう)にありがとう、って真顔(まがお)で言った。
 こんな田舎(いなか)()きこもって(おや)より先に逝くなんてお前は本当に親不孝(もの)だ、ってお義父(とう)さんが(こえ)をしぼり出すようにして言ったけど、彼はうなずいただけで何も言わなかった。
 しばらく彼は(だま)ったままだったんだけど、生きているうちにちゃんとありがとうって言っておきたかったんだって、ぽつりと言った。ご両親は何も言えないでただ泣いてた。
 本当は彼、ごめんって言いたかったのかもしれないけど、彼は結局(けっきょく)(だれ)(たい)しても(あやま)らなかった。もちろん、私に対しても。
 かわりに、「ありがとう」ってたくさん言った。
 いくら「()まない」って謝っても()りないから、せめて「ありがとう」ってお(れい)を言ってたんじゃないかな。
 少しずつ、私にもできることは少なくなっていった。

 (さくら)の花を見てから死にたいなあ、ぜいたくかなあって彼が二月頃に言ってたから、桜が()いた時に果林(かりん)(たの)んで、桜の(えだ)()ってきてもらったよね。水菜(みずな)は枝を折るのを(いや)がったし、桔梗(ききょう)(とう)さんの顔見ようともしないし。
 桜の花を見て、あー、これで俺の人生(じんせい)()いはないな、って少しかすれた声で(わら)いながら言うの。
 それまでなら私もきっと笑ってたけど、その時だけは笑えなかった。
 本当に最後(さいご)(ちか)づいてるのがわかったから。

 最後の(よる)、彼ははじめ少し落ち着かなかった。
 あなたたちがおやすみを言った(あと)、ずっとあなたたちのことを気にしてた。
 桔梗は反抗期(はんこうき)になったばかりだから大丈夫(だいじょうぶ)かな、俺がいなくなることをちゃんと()()められるだろうか。
 果林は無邪気(むじゃき)()ぎて、そもそも俺が死んだってことを理解(りかい)できるだろうか。
 水菜はがんばりすぎて無理(むり)しないといいんだがな、俺のわがままにつきあわせてだいぶ(さび)しい思いをさせたしな。
 そんなことをずっと()()れの(いき)でつぶやいてたけど、私は何も(こた)えてあげられなかった。
 ひとしきりあなたたちの心配(しんぱい)をした後、彼がぽつんと言ったんだ。
 でも俺、やっぱり(らん)と一緒になれてよかったって。
 最初(さいしょ)に思った(とお)りだ、蘭と一緒になってなかったら、俺はきっとダメになってた。蘭がどう思ってるかはわからないけど、最後の最後まで俺の()きなようにやらせてくれて、本当にありがとう──蘭のおかげで、俺は最高の人生を送れたよって。
──私、何て言ったらいいかわかんなくて、(だま)ってうなずいた。
 今なら素直(すなお)に、私も一緒になれてよかったよって、(つた)えられそうな気がするんだけどね。その時は、それを言っちゃったら彼がすぐにでも(とお)くに行ってしまうような気がして、どうしても言えなかった。
 ちゃんと言ってあげればよかった、私も(しあわ)せだよって。
 水が()しいって言うから少しだけ()ませてあげて、(くすり)作用(さよう)もあって彼はまたまどろんだの。彼の呼吸(こきゅう)の音だけが、部屋(へや)の中に(ひび)いて。
 私は(ねむ)れなくて、彼の手を取ってそばでずっと(すわ)ってた。
 (あたま)の中でいろんなことがぐるぐる(まわ)るんだけど、不思議(ふしぎ)(なみだ)は出なかった。
 時々(ときどき)彼の手が弱々(よわよわ)しく私の手を(さぐ)るから、大丈夫ここにいるよって言いながら(にぎ)ってあげたら、彼もまた私の手を握り(かえ)してくれる。意識(いしき)があったのかどうかはわからないけど。
 何時間もそうしているうちに、彼の呼吸が、だんだんと不規則(ふきそく)にゆっくりになって。ああ先生が言ってた通りだなって思っているうちに、すうっと電池(でんち)が切れるみたいにふっと止まって。
 彼が、いなくなったのがわかった。手を握っても、もう握り返してくれない。
 お(つか)れさま、よくがんばったね、って彼に声をかけた。
 もう、ここにいないのはわかってたんだけどね。

 そこから後は、なんだか(ゆめ)の中みたい。
 とにかく事前(じぜん)の打ち合わせ(どお)り、死亡診断書(しぼうしんだんしょ)を作ってもらうために在宅ホスピス医の先生に来てもらって、葬儀屋(そうぎや)さんに電話(でんわ)して──
 全部(ぜんぶ)彼の仕切りどおり。
 早朝(そうちょう)()くなったから、その日はずっと彼の作ったリストで連絡して。
 通夜(つや)(つぎ)の日の一九時、葬儀告別式(こくべつしき)はその次の一一時。ちょうど土日にかかって、たくさんの人が来てくれることがわかってね。葬儀社の社長(しゃちょう)さんが、これもご主人(しゅじん)のお人柄(ひとがら)でしょうねって感心(かんしん)してた。
 通夜も告別式も、本当にたくさんの人が来てくれて、ああこの人はこんなにもたくさんの人に()しまれて()くんだなあってぼんやり思った。
 でも、私は喪主(もしゅ)だから、とにかく段取(だんど)りをこなすのに精一杯(せいいっぱい)。彼がお(こつ)になっても、なんだか(しん)じられなかった。
 葬儀が()わっても、本当に色々な手続(てつづ)きがあってね。
 役場(やくば)に行って死亡届(しぼうとどけ)を出して、住民票(じゅうみんひょう)抹消(まっしょう)をして、国民健康保険(こくみんけんこうほけん)の手続きをして……
 一番やっかいな相続(そうぞく)は、彼がいつのまにか公正証書遺言(こうせいしょうしょゆいごん)(のこ)してくれていたけど、それでも彼名義(めいぎ)銀行口座(ぎんこうこうざ)なんかは全部使(つか)えなくなるし、本当に大変(たいへん)
 人が一人亡くなるのって、ものすごく大変なことなんだよね。
 わあっと色々なことが一気(いっき)()()せて来て、それに対応(たいおう)するだけで精一杯。
 四十九日(しじゅうくにち)法要(ほうよう)()わっても、不動産(ふどうさん)とか会社の登記(とうき)やらなんやらで、ずっとばたばたしてた。
 (かな)しんだり不安(ふあん)に思ったりする余裕(よゆう)もないくらい。
 彼が弁護士(べんごし)さんとか税理士(ぜいりし)さんとかにちゃんと(つな)いでくれてたから、それでもスムーズに行った方だとは思うんだけどね、やっぱり大変なものは大変。
 いつまでも臨時休業(りんじきゅうぎょう)ってわけにもいかないから桐葉荘(とうようそう)再開(さいかい)したし、しばらくの(あいだ)弔問(ちょうもん)に来る人も結構(けっこう)いたし。

 で、そういうのが一段落(いちだんらく)したら、一気にがくっときちゃった。
 厨房(ちゅうぼう)から帳場(ちょうば)()かって彼を()ぼうとして、あ、そうか彼はもういないんだって思った瞬間(しゅんかん)、ぼろぼろと(なみだ)が出て来て。
 本当にもう、どうしようもないの。
 彼の桐葉荘(とうようそう)はこうしてちゃんとあるのに、なんで彼だけがいないんだろ、って。
 そのまま私、立ち上がれなくなった。
 (おどろ)いて桑田さんが来てくれたけど、その()(しず)んでしまうんじゃないかと思うぐらい、体が(おも)くて(うご)けなかった。
 桑田さんが何か言ってるんだけど、何を言ってるのかもわからない。(まわ)りのものがみんなぺらぺらの()になったみたいだった。
 桑田さんが松岡(まつおか)さんご夫婦(ふうふ)を呼んでくれてね、泣き続ける私に(おく)さんが何も聞かないで一晩中(ひとばんじゅう)ずっとつき()ってくれた。
 松岡さんのご夫婦は、二〇年ぐらい前にまだ二十(だい)だった息子(むすこ)さんを事故(じこ)で亡くされたんだって。生きてたらちょうど年光と同じくらいの世代(せだい)だよ。
 いっぱい悲しんだ先輩(せんぱい)として、私の悲しみに(しず)かに()り添ってくれたの。

 私の(こころ)の中にはもう悲しみしか残ってないんじゃないかって思うくらい、何も(かん)じることができなくなった。
 何を見ても、すべてが彼の思い出と結びついて(むね)()めつけられる。
 毎日(まいにち)彼のそばにいたのになんでもっと早く病気(びょうき)のことを気づいてあげられなかったんだろうって自分を()めたり、(きゅう)苛立(いらだ)たしくなって何もかも(こわ)してしまいたい気持ちに()られたり。
 何を()べてもおいしくないし、あれだけ(たの)しかった桐葉荘の仕事(しごと)も、全然(ぜんぜん)手につかなくなって。
 あなたたちのために私がしっかりしなきゃ、って無理矢理(むりやり)にでも思おうとするんだけど、身体(からだ)に力が入らない。どうしたらいいのかわからない。
 自分で自分をコントロールできなくて、彼のことを思い出すと涙がぼろぼろ出てくる。
 誰とも会いたくなくなるし、この仕事を続けていけるかどうかも、自信(じしん)なくなっちゃった。
 この時期(じき)は水菜にすごく負担(ふたん)かけちゃったね。
 (いえ)のことは全部やってくれるし、桔梗と果林の面倒(めんどう)も見てくれて、本当に何もかも全部水菜が背負(せお)っちゃったもんね。
 あなたは(かしこ)いから、こんなとき自分がどうしたらいいのか、ちゃんと考えたんだよね? 高校を卒業(そつぎょう)する時も、本当はここから出ていきたかったのに、あえてそうしなかったのは、私を心配(しんぱい)してくれたからだよね?
……ありがとう、(やさ)しい子だね。
 でも、私にあなたの人生(じんせい)をゆがめる権利(けんり)なんてないんだ。
 今さらこんなこと言っても(おそ)いって思うかもしれないけど、あなたの人生は、あなたのもの。
 だから、もっと自分の心に正直(しょうじき)になりなさい。
 水菜の人生は、水菜にしか作れないんだから。
 私なら、もう大丈夫だから。

 桔梗が何も言わなくなっちゃったときは、すごいショックだった。
 なんでって思うよりも先に、ああ、私のせいだって思って。
 私がしっかりしてないから、桔梗のことを何もわかってあげられない。
 もう、死んじゃいたいって思った。
 早く彼のそばに行きたい──それしか考えられないの。
……ううん、桔梗のせいじゃないからね。その時は本当にぎりぎりだったんだと思うな。
 でも、ひとみちゃんにそれを言ったら、なぐさめてくれるどころかめちゃめちゃ(しか)られた。
 蘭ちゃんはそれでよくても、子どもたちはどうなるん、蘭ちゃんはお母さんなんよ、って。逃げとるだけじゃないって言うの。
 私だって言い返した。
 ひとみちゃんには(のぼる)さんがいるじゃない、ちゃんと(ささ)えてくれてるじゃない、私にはもう何もないの、って。
 大声でけんかして、それから二人でぼろぼろ泣いた。
 ひとみちゃんとけんかしたのって、あのときだけ。
──ひとみちゃんに言われたんだ。
 あたしは蘭ちゃんの気持ちを全然わかってあげれんと思う、だってあたしの旦那(だんな)は元気だし、子どもだっておらんし、って。
 しばらく(だま)った(あと)、でも大切(たいせつ)(いのち)(うしな)った悲しみなら、わかるつもりだよってぽつんと言うの。
 私、その言葉を聞いてはっとした。
 そっか、私はひとみちゃんの悲しみをちっともわかってなかったんだ。こんなに悲しい目に()ってるのは自分だけなんだって、思い()んでたんだ。

 ひとみちゃんは、なかなか子どもができんくてね。その前の年の(なつ)、せっかく宿(やど)った命も流産(りゅうざん)しちゃったばかりで。
 一番の仲良(なかよ)しなのに、私、そんなこともわかってあげれてなかった。
 お(ねが)い、何もないなんて言わんで……ってひとみちゃんに言われた。
 あたしの悲しみと蘭ちゃんの悲しみを(くら)べることなんてできんけど、蘭ちゃんにはまだ大事な命が三つもあるんじゃろ、蘭ちゃんがおらんようになったら、(むすめ)さんたちはもっと悲しい思いするんよって。
 それに、もし蘭ちゃんがおらんくなったらあたしも悲しいから、って言ってくれた。
 目が()めたみたいな気持ちだった。
 悲しい気持ちがなくなったわけじゃないけど、ひとみちゃんのおかげで、私は立ち上がろうって思えたんだ。

 彼が(のこ)した桐葉荘を、(つぶ)してしまうわけにはいかない。
 子どもたちも(かなら)ずきちんと(そだ)て上げる。
 それが、残された私の役目(やくめ)
 悲しみは不意(ふい)にやってくるけど、それに()けてなんかいられない。
 私が、(まも)るんだ。
 私は前にも()して、仕事に没頭(ぼっとう)するようになった。
 誰とも会いたくなくなる日もあったけど、そんなときでも、無理矢理お客様(きゃくさま)の前に出るようにした。そうやって女将(おかみ)として仕事をしていれば、立ち止まらずに前に進めてるような気がしたから。
 目の前のことだけを考えよう、私がなすべきことをまっすぐにやるんだ、って呪文(じゅもん)のように何度も()(かえ)してからお客様の前に立つようにした。
 (さいわ)い、お客様は以前(いぜん)()わらず桐葉荘に来てくれた。
 新しいお客様も少しずつ()えて、前と比べてもぐっと(いそが)しくなった。
 仕事に没頭してれば、彼がいない悲しみを(わす)れられる──そう思ってたんだよね。

……でも、そんなことはなかった。
 ふっと一人になった時、つい彼がいてくれたらなあって思ってしまう。
 だめ、今は悲しんでる場合(ばあい)じゃないんだって、自分を叱ってなんとか仕事を続けたけど──やっぱり無理だった。
 一周忌(いっしゅうき)法要(ほうよう)()わった後、(つか)れ切ってふさぎこんじゃった。
 
──なんで?
 私は早く立ち上がりたいのに、なんでできないんだろう。これじゃあ桐葉荘も、子どもたちも、守ることができないじゃない。
 (よる)、一人で()いた。

 そしたら。

 蘭が一人で全部守らなきゃいけないわけじゃないんだよ、って(こえ)が聞こえた。

 彼の声。
 蘭は真面目(まじめ)だからなあ、って笑うの。
 え、と思って私は(かお)を上げた。
 部屋(へや)には誰もいない。でも、(たし)かに彼の声が聞こえた。
 ごめん、私もう限界(げんかい)──ってつぶやいたら、また声がした。
 大丈夫、蘭は一人じゃないんだから、って。
 私の言葉に、彼がちゃんと答えてくれる。
 幻聴(げんちょう)? なんて思う余裕(よゆう)もなかった。
 (むね)がいっぱいになって、私また泣いちゃった。
 あいかわらず泣き虫だな、蘭は、って彼がそばで笑うの。
 だって急に声かけられたら(おどろ)くじゃない、って私は泣いてるのか怒ってるのか笑ってるのかわかんないけど、彼にぶつけた。
 おいおい、そりゃないだろ、って彼は苦笑(にがわら)いしてる。
 (なつ)かしい感じ。
 彼が生きてた時のやりとりと、全然変わらない。
 ああ、なんだ。
 彼はちゃんといるんだってわかった。姿(すがた)は見えなくなったけど、いるんだ。

 それからずっと、彼は私のそばにいるの。なんだか生きてた時よりも(ちか)くに感じられるぐらい。幽霊(ゆうれい)みたいに│不確(ふたし)かなものじゃない。私の心の中に、しっかりと生きてる。
 ねえどうしようって(たず)ねたら、それはこうしたらいいんじゃないかって答えてくれるし、時々私のことをからかったりもする。
 もちろん、さびしくて泣いちゃう時がなくなったわけじゃないけど、そんな時も、しょうがないなあって言いながら、彼がそばで見守ってくれてるのを感じる。
 すぐに立ち上げれたわけじゃないけど、彼のおかげで、ゆっくりと、だんだんと、私は元気(げんき)を取り戻した。
 彼の言うとおり、私は一人じゃなかったしね。
 松岡さんのご夫婦は本当に色々な(めん)で助けてくれたし、ひとみちゃんにも大感謝(だいかんしゃ)
 桐葉荘のスタッフはどこにも負けない実力派(じつりょくは)ぞろいだし、お客様も本当にいい人ばっかり。
 猿楽保存会(さるがくほぞんかい)のみんなは、私たちがここで生まれ育ったみたいに(せっ)してくれる。
 彼が会社にいた頃につながりのあった人が突然(とつぜん)ひょっこり(たず)ねてきたりするし、お世話(せわ)になった主治医(しゅじい)の先生とか、在宅(ざいたく)ホスピス医の先生、それに│葬儀社(そうぎしゃ)の社長さんとも、今でも色々なこと話すんだよ。
 忘れられるどころか、彼は今でも、たくさんの人の中で生きてるの。
 そしてもちろん、あなたたちがいてくれる。
 私は、本当に(しあわ)せ者だなあって思う。
 年光が(むす)んでくれた、たくさんの人の(えん)
 その中で私は生きてる。あなたたちも、その中にいるんだよ。
 私はもう、大丈夫。
 だから今度(こんど)は、あなたたちが幸せになる(ばん)だからね。

第八章 はじまりの朝 〈四〉

 (らん)さんはそう()って(こころ)から(しあわ)せそうな笑顔(えがお)(むすめ)たちに()けた。
 じっと耳を(かたむ)けていた水菜(みずな)さんは、目じりに()かんだ(なみだ)(ゆび)でぬぐっている。桔梗(ききょう)さんは何かを決心(けっしん)したような(かお)で蘭さんの目をじっと見つめ、果林(かりん)ちゃんもいつになく神妙(しんみょう)面持(おもも)ちでうなずいた。
森崎(もりさき)さん、(なが)(はなし)をずっと聞いてくれてどうもありがとう。桔梗がもう一()(ある)きだすことを()めた今日(きょう)、どうしてもこの子たちに(はな)しておかなきゃって(おも)ったから」
 蘭さんは(ぼく)丁寧(ていねい)(あたま)を下げた。
「いえあの、なんて言ったらいいかわかんないけど、こちらこそありがとうございます」
 僕はなんだかとんちんかんな言葉(ことば)(かえ)してしまった。(むね)の中に言いようのない気持(きも)ちが()ちていて、うまく言葉にできなかったからだ。桔梗さんがそんな僕にふっとほほ()みかけてくれている。
夕介君(ゆうすけくん)も、本当(ほんとう)にありがとう」
 蘭さんは()(だま)ったままの夕介にも感謝(かんしゃ)の言葉をかけた。
(ことわ)っといてこんなこと言うのもなんだけど、正直(しょうじき)何度(なんど)かぐらっときたことはあるんだ。でも、(わたし)といる(とき)の夕介君は、どこか無理(むり)してたでしょ? それぐらいわかるんだから。()でいられない人と一緒(いっしょ)にいても、お(たが)(つら)くなるだけだよ。私は、夕介君にも、ちゃんと幸せになってほしい。これは、本当に心からそう思うんだ」
 蘭さんはそう言って夕介のことを真顔(まがお)でじっと見つめた。
 夕介はその言葉に顔を上げると、小さくうなずいた。
 (にわ)から虫の()がかすかに聞こえてくる。
「なーなー、みんなで写真(しゃしん)()らん?」
 突然(とつぜん)、果林ちゃんが蘭さんに提案(ていあん)した。
「いいね、撮ろう撮ろう」
 蘭さんは二つ返事(へんじ)でその提案に│()る。
「なんでいきなりそんなこと思いつくわけ?」
「んー、なんか今日のこと(わす)れんように(のこ)しとかんといけんような気がするけえ。なー夕介、撮って」
 水菜さんの言葉に果林ちゃんは真剣(しんけん)な顔で(こた)えてから、夕介を見た。
「なんで(おれ)が……」
「夕介プロなんじゃろ? どんな状況(じょうきょう)でもちゃんと注文(ちゅうもん)(こた)えんさいや!」
「金(はら)うわけでもないのに(えら)そーに」
文句(もんく)言わんの!」
 果林ちゃんと夕介のやりとりに、蘭さんと水菜さんが顔を見合わせて思わず()き出す。
「よし、じゃあロビーで撮るぞ、カメラ()ってくるからその(あいだ)支度(したく)しろ」
 夕介がいつもの調子(ちょうし)で言うと立ち上がった。
「どうせならスタッフの(みな)さんも一緒に(うつ)りましょう。()んであげてください」
「そうね、じゃあみんなで準備(じゅんび)しよっか」
 ()(かえ)りながら夕介が(こえ)をかけると、蘭さんも立ち上がって言った。

「じゃあ、(かあ)さん()ん中で、(とう)さんの写真持って。きぃねえちゃんとうちがその両側(りょうがわ)に入るけえ。みず(ねえ)はたっぱ(背丈(せたけ))があるけえ、母さんの(うし)ろ! 桑田(くわた)さん、遠慮(えんりょ)せんでええから。にひひ、浩司(こうじ)さんはきぃねえちゃんのそばね! ええから早く! ほら、楠本(くすもと)さんも芦野(よしの)さんも、入って入って!」
 果林ちゃんがてきぱきとみんなの(なら)位置(いち)指示(しじ)する。みんな思い思いのことを言いながら果林ちゃんの指示に(したが)って並んでいく。
 夕介は三脚(さんきゃく)()えたカメラのファインダーをのぞきながらあれこれ調整(ちょうせい)している。
「準備できたかー? よければ撮るぞー」
「だめ、夕介も入るの」
 夕介がやる気なさそうに(たず)ねると、すかさず果林ちゃんがダメ出しをする。
「なんでだよ、(おれ)は今そんな気分(きぶん)じゃ──」
「夕介の気分なんかどうでもええ! セルフタイマーで撮って」
 夕介はなんで俺まで、と不満(ふまん)そうに言いながらセルフタイマーのセットをすると、のそのそと後ろの(れつ)(はし)(くわ)わった。
 僕の左前にいる桔梗さんが振り返って僕を見て、ちょっと()ずかしそうに(わら)う。
「ほら、きぃねえちゃん、ちゃんとカメラ見て!」
 すかさず果林ちゃんの声が()んで桔梗さんは小さく(かた)をすくめた。
 赤い(ひかり)点滅(てんめつ)徐々(じょじょ)(はや)くなって、シャッター音が(ひび)く。
「あー、目つぶってしもうた」
 桑田さんの声にみんなが笑う。
「もう一(かい)!」
 果林ちゃんが夕介に容赦(ようしゃ)なく指示を飛ばす。
 夕介は面倒(めんどう)くさそうにカメラに(もど)り、(あらた)めてセルフタイマーをセットした。
「だいたい、何の記念写真(きねんしゃしん)だよ」
 列に戻った夕介がぶつくさとつぶやくと、果林ちゃんが大声で(こた)える。
「そりゃ、夕介のふられた記念に()まっとるじゃあ?」
 その言葉にみんなが思わず吹き出した、と思ったらシャッターが()れた。
「あらら、グッドタイミング!」
 蘭さんが笑いながら振り()いた。胸元(むなもと)大事(だいじ)そうに()かれた年光(としみつ)さんの写真も、幸せそうな笑顔だ。
 やっぱり似合(にあ)いの夫婦(ふうふ)なんだな、と僕は思った。
「あーあ、夕介さんかわいそ」
 水菜さんも笑いながら夕介に同情(どうじょう)する。
「でも、いい記念になったね」
 水菜さんの言葉に、桔梗さんもほほ笑みながらうなずいた。
「じゃろー? うちって天才(てんさい)かも」
「天才(てき)小悪魔(こあくま)だ」
「だーかーらー、うちは小悪魔じゃないもん!」
 夕介がネクタイをゆるめながら面白(おもしろ)くなさそうに()ぜっ返すのを、蘭さんがにこにこしながら(なが)めている。
「蘭さん、写真は後日(ごじつ)プリントして(おく)りますから」
「ありがとう、夕介君。(たの)しみに()ってるね」
「おい、お前にも送ってやるから住所(じゅうしょ)(おし)えろ」
「わかった、ちょっと()って」
 僕は蘭さんがカウンターから出してくれたメモ用紙(ようし)にアパートの住所を()いて、夕介に(わた)した。
「言っとくが特別(とくべつ)大盤振(おおばんぶ)()いだからな」
「わかってるよ」
 まったく、夕介らしい言い方だ。
「よし、じゃあ(かた)づけよっか。お二人は先にお風呂(ふろ)へどうぞ。さあ、あなたたち、手伝(てつだ)ってよ」
 蘭さんが(あか)るい声で言った。
「なー母さん、今日(きょう)はこっちでお風呂、だめ?」
 果林ちゃんが(あま)えた声を出す。
「ざんねーん、今日は女性(じょせい)のご宿泊(しゅくはく)がないから、女()はお湯を()ってませーん!」
「えー、そんなぁ」
 蘭さんが()(ほこ)ったように声を上げると、果林ちゃんは全身(ぜんしん)残念(ざんねん)がった。
「なんなら俺と一緒に男湯に入るか?」
「わや(滅茶苦茶(めちゃくちゃ))言う! ()(たい)イヤ! セクハラエロ夕介となんか、()んでもイヤ!」
 夕介のからかいに、果林ちゃんは身をよじって思いっきりあかんべーをする。
 その様子(ようす)に、ロビーは(ふたた)び笑いに(つつ)まれた。

「お前、このまま(かえ)るつもりか?」
 夕介が湯船(ゆぶね)()かったまま僕に尋ねる。
「何が?」
「何が、じゃねーだろ。お前も明日(あした)には帰るんだろ、水菜とのことはどうすんだよ?」
 夕介はそう言って左手であごひげを()でた。
 露天風呂(ろてんぶろ)からは黒々(くろぐろ)とした山()みの上に満天(まんてん)(ほし)がまたたいているのが見える。湯船から立ちのぼった湯気(ゆげ)が、星空に向かって()けていく。
 (おだ)やかな(かぜ)周囲(しゅうい)竹林(ちくりん)をかすかにざわめかせ、どこからか虫の()も聞こえてくる。(しず)かな(よる)だ。
 僕は湯船の中で声を出して手足を大きく()ばした。
「もちろん、このまま帰るつもりはないよ」
 明日は月曜日(げつようび)だから、僕がチェックアウトする(ころ)には水菜さんはもう仕事(しごと)に出かけてしまっているだろう。行動(こうどう)()こすなら、今晩(こんばん)しかない。
自分(じぶん)の思いに、自信(じしん)を持つんだな」
 夕介がぼそりと言った。
「あいつがどう思おうが、それはあいつの勝手(かって)だ。お前はただ、お前の思いをあいつにぶつければいい」
 そう言って夕介は湯船のお湯をすくって顔をすすいだ。
「がんばれよ」
「あ……ああ、ありがとう」
 まさか夕介が僕の背中(せなか)を押してくれるとは思わなかった。
 決めた。風呂から出たら、()()ける。その時何を言うかは、自分の(こころ)に聞けばいいんだ。
 夕介は僕に背を向け、黙ったままぼんやりと石庭(せきてい)を眺めている。
「よし!」
 僕は大きく深呼吸(しんこきゅう)をしてから(はら)に力を入れて声を出した。
 そうと決まれば、一刻(いっこく)も早く行動するだけだ。

 僕は浴衣(ゆかた)ではなく、風呂に入る前に()ていた(ふく)をもう一度着た。
 夕介みたいにスーツで、とはいかないが、大事な時に浴衣ではなんだか気合(きあい)が入らない気がしたからだ。
 ロビーは(すで)にメインの照明(しょうめい)()とされて間接(かんせつ)照明になっている。座敷(ざしき)をのぞいてみたが、きれいに片づいた(あと)だった。
 やっぱり厨房(ちゅうぼう)かな、と思って座敷を出ると、ちょうど厨房から桔梗さんが出てきた。
「あ──」
 桔梗さんが小さく声を上げる。
「ちょうどよかった。桔梗さん、水菜さん()らない?」
 僕が桔梗さんに尋ねると、桔梗さんは(すこ)しうろたえたような表情(ひょうじょう)を見せた。
「──お(ねえ)ちゃんなら、まだ、中に」
 一瞬(いっしゅん)言いよどんだ後、彼女は小さな声で(おし)えてくれた。
()んでもらっても、いいかな?」
 僕が(たの)むと、桔梗さんはためらいながらうなずいて、厨房の暖簾(のれん)(おく)()えた。
 中から、森崎(もりさき)さんがわたしに? と聞き返している水菜さんの声が聞こえる。
 僕は鼓動(こどう)が少し早まるのを感じながら、彼女が出てくるのを()った。
「何ですか、森崎さん?」
 暖簾から水菜さんが姿を(あらわ)した。
 彼女のすぐ後ろから桔梗さんと果林ちゃんが僕らの様子(ようす)をうかがっている。
「あの、二人だけでお(はな)ししたいんですが、いいですか?」
「え? いいですけど」
 水菜さんはほほ笑みながら僕に答えた。
「桔梗と果林は先に母屋(おもや)(もど)ってて。(ぬす)み聞きなんかしたら(おこ)るからね!」
 水菜さんは振り返ると、先回(さきまわ)りして二人に(くぎ)()す。
「えー、せっかくおもしろそうなのにぃ」
「もう、だからイヤなの! ほら、早く!」
 水菜さんは果林ちゃんをしっしっと()(はら)う手ぶりをした。
「あーあ、ざーんねん。じゃあ浩司さん、がんばってねー♪ おやすみー」
 果林ちゃんはにひひーといたずらっぽく笑いながらスキップして勝手口(かってぐち)に向かい、ドアから手を振った。桔梗さんも何か言いたそうな顔だったが、おやすみなさい、と小さくつぶやいてから小走(こばし)りに果林ちゃんの後を追った。
「さ、これでジャマ(もの)はいなくなりましたよ」
 そう言って水菜さんは僕にほほ笑みかける。
「すいません、なんか無理言っちゃって。じゃあ、ロビーで話しましょう」
 僕と水菜さんはおとといの夜に座ったのと同じ位置(いち)(すわ)った。
「で、話ってなんですか?」
 水菜さんはすらっとした足を上品(じょうひん)()()げた上に両手を()んで()き、ソファに(あさ)(こし)かけた。背筋(せすじ)を伸ばして僕のことをじっと見つめている。
 心臓(しんぞう)の鼓動がさらに早まる。
「あの、水菜さん」
 僕は大きく(いき)()った。
「……()きです。僕と、つきあってください」
 言えた。
「え……でも、先日言ったでしょう、わたしはそんな気は全然(ぜんぜん)ないって」
「わかってます。それでもいいんです」
 彼女は少し(さぐ)るような目でじっと僕の目を見た。僕も彼女の目を見つめる。
「なんていうのかな、たった何日か一緒に()ごしただけでこんなこと言うのは、なんかばかみたいだなって、僕も思います」
 口の中が(かわ)いてうまくしゃべれない。()ちつけ、と自分に言い聞かせながら、僕は言葉を()ぐ。
「でも、おととい話した後、僕は色々な水菜さんを見ました。果林ちゃんとけんかしたり、『桜堤(さくらづつみ)』の桜姫(おうひめ)(なみだ)したり、年光(としみつ)さんと(らん)さんの思い出話を興味津々(きょうみしんしん)で聞いたり……きっとそれは、()の水菜さんだろうと、僕は思ってます」
 水菜さんは両手をひざの上に置いたまま、僕の言葉をじっと黙って聞いている。
「今日、パスタを作ってくれたときの水菜さんの笑顔、本当にいいなって思いました。やわらかな笑顔でした。水菜さんはおととい、自分には外面(そとづら)しかないなんて言ってたけど、そんなことないと、僕は思います」
 自分の(てのひら)(あせ)ばんでいるのがわかる。(つぎ)に何を言うつもりなのか、自分でもよくわからない。が、とにかく言わないと何も(はじ)まらない。
「ちょっとめんどくさいなって思うところもあるけど、そういうところも(ふく)めて、僕は水菜さんのことが好きです」
 僕はなんとかそこまで言っていったん言葉を切った。
「めんどくさいって、わたしそんなに性格(せいかく)(わる)いですか?」
 水菜さんが少し(きび)しい口調(くちょう)で僕に尋ねた。(うで)を組んで(かる)く僕をにらんでいる。
「あ、いや……そうじゃなくって、その──」
 僕はそのリアクションに(あたま)が一気に()っ白になってしまった。何を言えばいいのか懸命(けんめい)(かんが)えるが、うまく言葉が出てこない。()や汗が出そうだ。
 しどろもどろになっている僕を見て、水菜さんが(きゅう)にふっと表情(ひょうじょう)をゆるめた。
「ふふ、ごめんなさい。ちょっといじわるしちゃった」
 え?
(かあ)さんのいじわるなとこだけは絶対(ぜったい)()たくないって思ってたのに。もう、いやなとこばっかり似ちゃったな」
 水菜さんは組んでいた腕を下ろして笑っている。少しほっとする。
 僕は、(あらた)めて深呼吸をしてから(つづ)けた。
「えっと、すぐに返事(へんじ)がもらえるとは思ってません。僕は明日帰るけど、メールでもいいので、連絡(れんらく)もらえるとうれしいです」
「でも──」
 僕は何か言おうとする彼女の言葉をさえぎって立ち上がった。カウンターからメモ用紙を取って自分のメールアドレスと電話番号(でんわばんごう)を書くと、両手で水菜さんの目の前に()し出す。
「よろしくお(ねが)いします!」
 僕は何とかそれだけ言って頭を下げるのが精一杯(せいいっぱい)
 水菜さんは僕が差し出したメモを、そっと()け取る。
 僕が顔を上げると、水菜さんは黙ってうなずいた。
「果林、桔梗。そこにいるんでしょ?」
 水菜さんが僕の背後(はいご)をにらんで(ひく)い声で()げる。
「げ、バレた!」
 カウンターの(かげ)から果林ちゃんが小声でつぶやくのが聞こえた。
「もう、あんたたちは!」
 水菜さんが立ち上がって二人のところにずかずかと(あゆ)()る。
「やば、きぃねえちゃん()げよ!」
 果林ちゃんと桔梗さんがあわてふためきながら立ち上がって、カウンターの中から逃げ出した。
「ごめんみず(ねえ)! だってみず姉が心配(しんぱい)だったんじゃもん!」
「うそばっかり! (もど)りなさいって言ったのに、もう!」
 水菜さんは顔を真っ赤にしながら果林ちゃんと桔梗さんを()う。口調は怒っているが、顔は笑っている。
 桔梗さんも果林ちゃんも、きゃあきゃあと声をあげながら()をかわしてロビーの中を水菜さんから逃げ回る。
「こら、()ちなさい!」
 水菜さんもソファの(あいだ)をぬって、逃げ回る二人を追いかけ回す。
 僕はぽかんとしてその様子を(なが)めた。
 (つか)まったのは桔梗さん。
 (そで)をつかまれてその()にぺたんと座りこんだ桔梗さんに、水菜さんが両手を回して(おお)いかぶさった。そのまま二人で笑い(ころ)げる。
 そこに果林ちゃんがダイブ!
 三人とも、僕がいることも(わす)れて、まるで(おさな)い子どものように笑っている。
 ふと気づくと、少し(はな)れたところから蘭さんがその様子をうれしそうに見つめていた。

第八章 はじまりの朝 〈五〉

 座敷(ざしき)(まど)からは(あさ)のやわらかい日()しが()()んでいる。(にわ)(みどり)が目にまぶしい。すべてのものが、あらん(かぎ)(みずか)らの生命(せいめい)主張(しゅちょう)しているかのようだ。
 朝食(ちょうしょく)(はこ)ばれてくるのを()っていると、夕介(ゆうすけ)が入ってきた。
 トレードマークのあごひげが、ない。
「おはよう、なんだかやけにすっきりしたね」
「ああ、これか? 今朝(けさ)()った。何年かぶりだ」
 どっかと(こし)を下ろした夕介はそう()ってひげのないあごを左手で()でる。
「ちょっと()()かんが、まあすぐに()れるだろ」
「そっちの(ほう)がいいと(おも)うよ。胡散(うさん)くささがだいぶ(うす)れた」
 (ぼく)がそう言うと夕介は苦笑(にがわら)いで(こた)えた。
「おはようございます。夕介さん、昨日(きのう)(ねむ)れましたか? ……あら、ずいぶんさっぱりされたんですね?」
 (らん)さんがお(ぜん)()って座敷に入ってくるなり、夕介を見て(おどろ)く。
長年(ながねん)重荷(おもに)()ろしたような気分(きぶん)です。(おれ)も、自分(じぶん)でかけた(のろ)いに、(しば)られてたのかもしれません」
 夕介はそう言って蘭さんに()みを(かえ)した。
(つぎ)に来るときは、俺一人じゃ来ませんよ」
「ふふ、じゃあ(たの)しみにしてますね」
 蘭さんはそう言って僕の前にお膳を()いた。
「夕介さんの(ぶん)もすぐにお持ちしますから、少々(しょうしょう)お待ちくださいね」
 二人とも、昨夜(さくや)あんな真剣(しんけん)なやりとりをしたばかりだとは思えないほど普段(ふだん)(どお)りの表情(ひょうじょう)だ。僕も経験(けいけん)(かさ)ねたらこんなふうになれるのだろうか?
 僕は夕介を待たずに食事(しょくじ)(はじ)めた。夕介もそれを気にする様子(ようす)はない。
「お待たせしました」
 声がして座敷の入口を見ると、立っていたのは蘭さんではなかった。
桔梗(ききょう)、お前──」
 夕介が絶句(ぜっく)する。
 桔梗さんは蘭さんと(おな)藤色(ふじいろ)無地(むじ)和服(わふく)に前()けを()け、(なが)黒髪(くろかみ)(うし)ろできちんとまとめている。
「まだ(こえ)がこまい(小さい)ね、桔梗。お客様(きゃくさま)の前に立つんじゃったら、ちゃんと声を出せるようにならんと」
 (あと)(つづ)いて入ってきた蘭さんが指導(しどう)すると、桔梗さんは()()いて小さくうなずいた。
「ちゃんと返事(へんじ)
「はい」
「よろしい」
 蘭さんは(きび)しい口調(くちょう)ながらもちょっとうれしそうだ。
 桔梗さんが夕介のお膳をゆっくりと置く。摺足(すりあし)の立ち()ふるまいは、稚児舞(ちごまい)の時のように(うつく)しい。
「桔梗がここの仕事(しごと)手伝(てつだ)いたいなんて言うとは、思ってもみませんでした。早速(さっそく)今日(きょう)から仲居(なかい)修行(しゅぎょう)です」
 蘭さんの言葉(ことば)に、桔梗さんは少しはにかみながらうなずいた。
「そうそう森崎さん、水菜(みずな)からこれを(あず)かっています」
 そう言って蘭さんが僕に()し出したのは小さな封筒(ふうとう)(あわ)いグリーンの()に四つ()のクローバーが(えが)かれている。
今朝(けさ)出がけに私にことづけたんです。(わた)してもらえばわかるからって」
「ありがとうございます」
 僕は心臓(しんぞう)高鳴(たかな)るのを(かん)じながら封筒を()()った。
 朝食どころではない、あわてて封筒を()ける。
 中には同じく淡いグリーンの一筆箋(いっぴつせん)が一(まい)。そこに手()きの小さな文字で一言(ひとこと)、こう書いてあった。

ごめんなさい。
       みずな

 僕は思わず(かた)()として(いき)()いた。
 桔梗さんが僕の手元に目を()らしている。
 封筒には昨晩(さくばん)僕が書いて渡したメモも入っていた。つまり、そういうことだ。
 僕は一筆箋を封筒に(もど)すとお膳の(わき)に置き、茶碗(ちゃわん)を手に取った。
「どうだ?」
 夕介が僕に(たず)ねる。
「ごめんなさい、だって。多分(たぶん)そうだろうって思ってたけど」
「そうか」
 夕介はそれ以上何も言わなかった。
 座敷の入口に(ひか)えて座った桔梗さんがじっと僕のことを見つめている。
「ご(はん)はおかわりもありますから、必要(ひつよう)でしたら桔梗にお(もう)しつけください」
 蘭さんはすべてを(さっ)した上であえて()れず、座敷から出ていった。
 昨日の()る前には、もし(ことわ)られたらぼろぼろに()くんじゃないかと思ったりもしたが、全然(ぜんぜん)そんなことはなかった。むしろすっきりした気分(きぶん)だ。
「ま、結果(けっか)はどうあれ、お前は一歩(いっぽ)()み出した。それだけでも十分(じゅうぶん)だろ」
 夕介はそう言ってみそ(しる)をすする。僕は黙ってうなずいた。
 座敷の外からばたばた足音が(ちか)づいたと思ったら、入口のふすまが(いきお)いよく()いて果林(かりん)ちゃんが(かお)を出す。
「あーえかった、()に合った! あ、きぃねえちゃんかわいー! なーなー浩司さん、どうじゃったん?」
 ふすまを開けると同時(どうじ)に大声でしゃべる果林ちゃんは、初日(しょにち)(おな)じようにブレザーにポニーテール。ローファーを()ぐのを面倒(めんどう)がって、ひざ立ちで座敷に入ってきた。学校に出かける前にわざわざ顔を出してくれたようだ。
「だめだった」
「あーあ、やっぱり。ごめんね、みず(ねえ)へんくう(気難(きむずか)())じゃけなー」
 果林ちゃんは僕に手を合わせて(あやま)る。
「いや、やっぱり僕じゃ水菜さんにはつりあわないよ。でも、ちゃんと言えてよかった」
「うん、昨日の浩司(こうじ)さん、カッコえかった」
 果林ちゃんは左手をたたみに()いて、僕に向けて右手の親指(おやゆび)をぐっと出した。うれしいことを言ってくれる。
「果林、お前がコイツとつきあえばいいじゃねーか」
 夕介が茶化(ちゃか)す。
「それとこれとは話が(べつ)ーっ!」
 果林ちゃんは夕介に(した)を出した。
「あれ、夕介のひげがない!」
「なんだ、いまごろ気づいたのか。ま、ちょっとしたイメージチェンジだ」
(かあ)さんにふられたけえ?」
「それは関係(かんけい)ない」
 にやにやする果林ちゃんに(たい)して、夕介は(うで)()んで憮然(ぶぜん)としている。
「うちはそっちのがさわやかでカッコええと思うよ」
「そりゃどうも」
 無理(むり)に難しい顔をしている夕介がおかしくて、僕は笑いをこらえるのに必死(ひっし)だ。
「あ、そうだ果林ちゃん」
 僕は果林ちゃんに言おうと思っていたことを思い出した。
元彼(もとカレ)と、きちんと話した方がいいよ。大事(だいじ)なことは、メールとかじゃなくて、やっぱりきちんと(つた)えた方がいいから」
「うん、そうする」
 果林ちゃんは(かる)(かた)をすくめてうなずく。
「次はつきあう『前に』(かんが)えろよ!」
「もー、わかっちょるっちゃ!」
 夕介が(くぎ)()すと、果林ちゃんは夕介に向かって(ふたた)び舌を出した。
「あ、やば! (おく)れるけえ行くね。きぃねえちゃん、がんばって! 二人とも、ありがとね!」
 果林ちゃんは一方的(いっぽうてき)にそれだけ言うと、僕らの返事(へんじ)も聞かずにばたばたとあわただしく出ていった。
「やれやれ、朝から(あらし)みたいなやつだな」
 夕介が苦笑しながらつぶやいた。

 尋瀬駅(ひろせえき)までは夕介が(おく)ってくれることになった。
森崎(もりさき)さん、よろしかったらぜひまたいらしてくださいね」
 チェックアウトの手続(てつづ)きをしながら蘭さんはそう言った。
 桔梗さんは桑田(くわた)さんと一緒(いっしょ)に僕と夕介の荷物(にもつ)を車に(はこ)び入れてくれている。
「なんか、人生(じんせい)()える(たび)になったような気がします」
「ふふ、光栄(こうえい)です。今度(こんど)はかわいい彼女(かのじょ)と一緒に来れるといいですね」
「へへ、だといいですけど」
 蘭さんの言葉に僕は思わず()れ笑いをしてしまった。
「夕介さんも、今度は彼女同伴(どうはん)じゃなかったら、予約(よやく)()()けませんからね」
「ええ、がんばります」
 蘭さんが右手の人()(ゆび)を口(もと)()てていたずらっぽく笑いながら言うと、夕介は(あたま)をかきながら苦笑(にがわら)いを返した。
 カウンターの上から年光(としみつ)さんの写真(しゃしん)が僕に笑いかけてくれている。

お前の人生は、今、ここから本当に(はじ)まるんだ。
やりたいと思ったことは、何でもやってみたらいいさ。

 彼の笑顔(えがお)はそう言って僕を(はげ)ましてくれているような気がする。
「また、年光さんに()いに来ます」
「ええ、いつでもお()ちしていますよ、年光と二人で」
 僕がそう言うと、蘭さんもにっこりとほほ笑んだ。見えないけれど、その(となり)で年光さんが一緒に笑っているのを、(たし)かに(かん)じた。
「この(たび)は、桐葉荘(とうようそう)をご利用(りよう)いただき、本当にありがとうございました。是非(ぜひ)また、おいでませ」
 蘭さんがカウンターから出てていねいに頭を下げた。荷物の積み込みを()えた桑田さんと桔梗さんも玄関脇(げんかんわき)(なら)んで、僕らにお辞儀(じぎ)をする。
「お世話(せわ)になりました」
 僕も精一杯(せいいっぱい)の気持ちを()めて言葉(ことば)を返した。
 ありふれた言葉でもいいから、とにかくなんとか感謝(かんしゃ)の気持ちを(あらわ)したかった。
「よし、じゃあ行くか」
 夕介がどこか()れやかな表情で言った。

 蘭さんと桔梗さん、桑田さんが門の前に整列(せいれつ)して手を()ってくれる。
 夕介が車をゆっくりとスタートさせると、僕は窓を開けて振り返った。
 桔梗さんが二・三歩()けだして僕に大きく手を振る。
「ありがとう!」
 (ほお)を赤く()めた桔梗さんが大きな声で叫んだ。
 僕も手を振ってそれに(こた)えたが、下り(ざか)に入って三人の姿(すがた)はすぐに見えなくなってしまった。
「やれやれ、終わってみれば、ふられ男が二人、か」
 夕介がステアリングを(にぎ)りながらぼそりとつぶやく。
「まあ、いいんじゃない?」
 僕はサングラスをかけた夕介の横顔(よこがお)にそう返した。
「確かに二人ともふられはしたけど、やるべきことはやったんじゃないかな?」
「やるべきこと、か。まあ、確かに俺は後悔(こうかい)してないな」
「僕だって。だからいいんじゃない? 何でもやってみなきゃわかんないわけだし」
「なんだ、年光さんに影響(えいきょう)されたか?」
「ああ、多分(たぶん)。さっき写真の年光さんから『お前の人生はここから本当に始まるんだ』って言われたような気がした」
 僕がそう答えると、夕介はサングラスの下で少し神妙(しんみょう)な目をした。
「まったく、(たい)した人だ。()んでからも人に影響を(あた)えるんだからな。俺なんかじゃ(まった)()が立たないわけだ」
 (くも)ひとつない、いい天気だ。開けたままの窓から入るさわやかな(あき)(かぜ)が頬に心地(ここち)いい。
「さあて、(かえ)ったら締切(しめきり)格闘(かくとう)かあ」
記事(きじ)()るときには(おし)えてくれよ、僕も()むから」
「ふん、お前なんかにわかるのか?」
失礼(しつれい)だな、一応(いちおう)僕だって現場(げんば)()たんだ。それに、アンタの()った写真を見てみたい」
「じゃあ、昨日の写真を送る時にでも(おし)えてやるよ」
 車は朝の陽光(ようこう)を受けてきらきらと(ひか)宇侘川(うたがわ)のせせらぎと並走(へいそう)する。
 ふと、道端(みちばた)()一群(いちぐん)のコスモスが目に入った。来たときには全く気がつかなかった。
 薄紫(うすむらさき)色の花がひとつひとつ、空に向かって力いっぱい()びあがって風に()られている。
 それに気づいた自分が、なんだかうれしい。

 尋瀬駅(ひろせえき)に着いて、自分の荷物をトランクから下ろすと、僕は運転席(うんてんせき)の夕介に声をかけた。
「色々ありがとう、おかげでいい旅になったよ」
 夕介はサングラスを(ひたい)にずらしてにやっと笑う。
「サボったせいで留年(りゅうねん)すんなよ」
 まったく、この男はこの()(およ)んでもこんな(にく)まれ口をたたくんだ。
「そっちこそ、記事落とさないように気をつけろよ」
 僕も()けずに言い返した。
「くくっ、まあもう二度と会うことはないだろうが、せいぜい元気(げんき)でやるんだな」
「ああ、そっちも」
「じゃな」
 夕介は(みじか)く言うと(かる)く右手を上げた。
 夕介のSUVは駅前の広場から道路(どうろ)に出て、すぐに見えなくなった。

第八章 はじまりの朝 〈六〉

 (ぼく)切符(きっぷ)()うと(せま)階段(かいだん)(とお)ってホームに上がった。一(りょう)だけのディーゼルカーの中には数人(すうにん)乗客(じょうきゃく)がまばらに(すわ)っている。
 ボックス(せき)(こし)かけ、荷物(にもつ)(よこ)()いて発車(はっしゃ)()つ。(まど)から日の(ひかり)がさんさんと()(そそ)ぎ、まぶしいくらいだ。
「あの、ここいいですか?」
「あ、あいてます、どうぞ」
 (うし)ろから(わか)女性(じょせい)(こえ)をかけられ、()()いてから僕は(おどろ)いて言葉(ことば)(うしな)った。僕に声をかけたのは、市役所(しやくしょ)制服姿(せいふくすがた)水菜(みずな)さんだ。
「え……なんで? とっくに出たんじゃ?」
 発車を()げる録音(ろうおん)のアナウンスが(なが)れ、ドアが()じる。
「えへへ、職場(しょくば)には途中(とちゅう)で車が故障(こしょう)して清流線(せいりゅうせん)()くから(おく)れるって、うそついちゃいました」
 水菜さんは僕の耳元(みみもと)(かお)()せてささやくと、僕の目の(まえ)に座った。ふわりといい(かお)りが僕の鼻腔(びこう)(のこ)る。
 彼女(かのじょ)が席に()くのを待っていたかのように列車(れっしゃ)がゆっくりと(うご)(はじ)めた。
「やっぱり紙切(かみき)れ一(まい)じゃ失礼(しつれい)かなって(おも)って。仕事(しごと)をずる休みするのって、(はじ)めて。ちょっとどきどきしますね」
 彼女はいたずらっぽい表情(ひょうじょう)で僕に(わら)いかけてくる。
 列車は鉄橋(てっきょう)(わた)るとすぐにトンネルに入った。
「あの、森崎(もりさき)さんに『どこに()っても自分(じぶん)は自分のまま』って()われて、わたしいろいろ(かんが)えたんです。ずっとここから()げたい逃げたいって(おも)ってたけど、なんで逃げたかったんだろう、ここの何が(いや)だったんだろう、って」
 (くら)くなった車窓(しゃそう)に、水菜さんのもの()げな(かお)(うつ)る。
 エンジン(おん)がトンネル(ない)反響(はんきょう)するから、彼女は少し声を大きくした。
「でも、わかったんです。わたし、この町が(きら)いだったわけじゃないんです。嫌いになるほどこの町のこと()らないし。(とう)さんが()きだったこの町を、わたしは見ようともしてなかった」
 水菜さんは一()言葉を切って、右手を胸元(むなもと)に置いた。
「本当は、わたしは自分が(きら)いだっただけ。いつまでも前の学校の友達(ともだち)にこだわって、(あたら)しい友達を作れなかったわたし。父さんの(ゆめ)素直(すなお)応援(おうえん)してあげられなかったわたし。(かあ)さんのため桔梗(ききょう)のためって言い(わけ)して、自分から目をそらしてたわたし。逃げ出したかったのは、本当は、そんなわたしからだったんだって」
 列車はトンネルを()けて(ふたた)(あか)るい()の光の中に(おど)り出た。
 錦美川(にしみがわ)川面(かわも)陽光(ようこう)反射(はんしゃ)して水菜さんの顔を()らし、彼女は少し目を(ほそ)めて窓の(そと)(なが)めた。彼女の細い(かみ)が、陽の光を()けてきらきらと(かがや)く。
「自分から逃げ出すことなんて、できるわけないのにね」
 彼女は右に左に蛇行(だこう)する錦美川(にしみがわ)()()うように並走(へいそう)する国道(こくどう)を、ぼんやりと眺めながらつぶやいた。
「わたし、人柱(ひとばしら)になろうとしてたのかな。(だれ)(たの)まれたわけでもないのに、勝手(かって)に自分を犠牲(ぎせい)にしようとしてたのかも」
 僕は(だま)ってうなずきながら彼女の(はなし)を聞いていた。
 彼女は僕に何を(つた)えたいのだろう?
 録音のアナウンスが車内に流れ、列車はゆっくりと(えき)に入って停車(ていしゃ)する。
「わたしの時間(じかん)は、ずーっと()まっていたんだ。きっと桔梗と一緒(いっしょ)(こころ)(こお)らせてたんだ」
 水菜さんはそこまで言うと、少し(だま)りこんだ。
 小さな無人(むじん)駅のホームに乗客の姿はない。
 ドアの閉まる音がして、列車はエンジン音を上げながらホームを(はな)れた。
「でも、桔梗だって()わることができた。あの子を変えるなんて絶対(ぜったい)無理(むり)って思ってたけど、そんなのわたしの勝手な思い込みだった」
 そう言って水菜さんはじっと僕の目を見つめた。
 僕はわざと彼女から目をそらして、窓の外を眺めた。
 シラサギが一()、錦美川の川面を(すべ)るように()んでいく。
「わたしも、変わろうと思うんだ。すぐにはできないかもしれないけど。今まで逃げてきたわたしと、ちゃんと()き合おうって、()めたの」
 水菜さんはまっすぐ僕を見つめてそう告げた。
「だから、ずる休みしちゃった」
「ええ? なんでそうなる?」
 それまで息を()めて聞いていた僕は、その一言に思わずコケた。
 そんな僕を見て彼女はふふっとほほ()む。
「今までだったら、絶対こんなことしなかったと思うんだ、わたし。自分で言うのも(へん)だけど、わたしマジメだったから。でもそれは、ラクしてただけなんだと思うな」
「ラクしてた?」
「だって、自分で心を(はたら)かせなくていいでしょ? ()の『空気(くうき)』に(したが)ってるだけでいいもん」
 水菜さんは胸元に右手を置いてそう言う。
「マジメな子を(えん)じてたってこと?」
「んー、演じてたんじゃなくて、自分で自分がわかんなくなってたのかな。何が欲しいのかとか、何がしたいのかとか」
 僕には彼女が一体(いったい)何を思ってこんなことを()()けてくるのかがわからない。
「でも、森崎さんがちゃんとまっすぐ好きだって言ってくれたんだから、だめならだめでわたしもちゃんと(こた)えなきゃって思ったら、なんだかじっとしていられなくなって──ごめん、期待(きたい)させちゃったかな?」
 そう言って(かた)をすくめてはにかんだ水菜さんは、(はじ)めて()ったときの()ち着いた印象(いんしょう)とはずいぶん(ちが)う。
「けど、めんどくさいって言ってくれたのはちょっと──ううん、ぶち(すごく)、うれしかった。ちゃんと()のわたしを見てくれたんだなって」
 彼女はぎこちなく方言(ほうげん)(まじ)えてそう言ったが、言った(あと)に自分で()れている。
「でも、僕とはつきあわないんだろ? なんで?」
 僕としては一番(いちばん)確認(かくにん)しておきたいところだ。
 彼女の態度(たいど)はなんだか言っていることとちぐはぐな気がする。せっかく(あきら)めようとしたところなのに、このままでは()ちきれなくなりそうだ。
「だって、恋愛(れんあい)なんかしたことないのに、いきなり遠距離(えんきょり)なんてハードル(たか)すぎだもん」
「そこかよ……」
 彼女の無邪気(むじゃき)な答えに、僕は思わず脱力(だつりょく)した。なんだかあれこれ考えていたのがばからしく思えてくる。
「わたしね、まず友達が()しいと思うんだ。恋愛は難易度(なんいど)高すぎだから。どうしたらいいのかよくわかんないけど」
「そんなこと僕に言われても……僕だって友達いないのに」
 僕がそう答えると、水菜さんはうれしそうに()()り出してくる。
「じゃあさ、わたしたち友達いない同士(どうし)で友達ってことで!」
「なんだよそれー、すっげーネガティブ!」
 水菜さんが満面(まんめん)()みで変なことを言うから、僕も思わず(わら)ってしまった。笑いながら、ずっと心の中でこわばっていた何かがほぐれていくのを(かん)じる。
「今のこのままでいいんじゃないかな? こんな(ふう)に素を出していけば、きっと友達もできると思うよ」
「そっか、そうだよね」
 彼女は僕の言葉に素直にうなずいた。

 水菜さんはそれから小一時間(こいちじかん)たっぷり、いろいろなことを僕にしゃべり(つづ)けた。
 仕事のグチをつぶやいたかと思うと、小さい(ころ)の思い出を話してみたり、突然(とつぜん)好きなタレントの話をしてみたり。
 あっちこっちに話が飛ぶから全体(ぜんたい)として何が言いたいのかはよくわからないけど、しゃべっている彼女は、なんだかとても(たの)しそうだった。
「ごめんね、わたしばっかりしゃべって。わたしって、こんなにしゃべりたい人だったんだなあ」
「いや、いいよ。話聞くのは(べつ)()にならないから」
「父さん以外(いがい)の男の人とこんなに話したの初めてかも。父さんにはいつもたくさん聞いてもらってたんだけどね」
 水菜さんはそう言ってふわりと笑った。
 こんな感じの脈絡(みゃくらく)のない話に毎日(まいにち)のようにつき合ってたんなら、年光(としみつ)さんもなかなか大変(たいへん)だったろうなあと、僕は内心(ないしん)同情(どうじょう)する。
 車内に終点を告げるアナウンスが流れ始めた。
 列車が住宅街(じゅうたくがい)を抜けて建設中(けんせつちゅう)高層(こうそう)マンションをかすめながら左カーブを()がると、前方(ぜんぽう)終点(しゅうてん)岩代(いわしろ)駅が見えてきた。
 僕はここで乗り()え、水菜さんは仕事に向かう。僕の(たび)も、もうすぐ()わりだ。
 列車はゆっくりとホームに入って(しず)かに()まった。
「じゃあ、僕はここで」
「うん、ありがとね」
 立ち上がった僕に、水菜さんは(おな)じように立ち上がって、右手を()し出してきた。
 僕は一瞬(いっしゅん)ためらったけれど、彼女の右手を(かる)(にぎ)った。
「じゃ、また」
「うん」
 僕が告げると、彼女も軽くうなずいた。
 握手した右手はすぐにほどけた。彼女の体温(たいおん)がうっすらと僕の右手に(のこ)る。
 ホームに()りると、僕は乗り換えのために階段に、彼女は改札口(かいさつぐち)に向かう。
 振り(かえ)って彼女を見ると、彼女も僕を見て小さく手を振ってくれた。僕も手を振り返す。
 改札口を出た彼女は、雑踏(ざっとう)の中、背筋(せすじ)()ばして(ある)いていく。
 もう振り返らない。
 僕はまだ彼女の手のぬくもりがかすかに残る右手をちょっと見つめてから、階段を上った。
 こうして、僕の(みじか)(こい)()わった。


〈第八章終わり〉

エピローグ

   ご招待状(しょうたいじょう)

拝啓(はいけい) 花の便(たよ)りがうれしい今日(きょう)このごろ、みなさまにおかれましてはますますご健勝(けんしょう)のこととお(よろこ)(もう)し上げます。
 平素(へいそ)深津峡(ふかつきょう)温泉(おんせん)桐葉荘(とうようそう)格別(かくべつ)のご厚情(こうじょう)(たまわ)り、心より御礼(おんれい)申し上げます。

 さて、早いもので、(わたくし)どもの創業者(そうぎょうしゃ)である()桐島(きりしま)年光(としみつ)がこの()()ってこの四月で六年、本年(ほんねん)七回忌(しちかいき)節目(ふしめ)(むか)えることとなります。
 昨年(さくねん)の創業十(しゅう)年の(おり)には、(とく)にお()らせしなかったにもかかわらず、たくさんの方から数々(かずかず)のお(いわ)いの言葉(ことば)頂戴(ちょうだい)いたしました。
 創業者が(のこ)したこの小さな小さな桐葉荘(とうようそう)が、みなさまにかわいがっていただいていることを(はだ)(かん)じるとともに、従業員(じゅうぎょういん)一同(いちどう)(あらた)めて()()()まる(おも)いでございます。
 そこで、十周年の(さい)の御礼も()ねて、創業者にゆかりのあるみなさまに何かご恩返(おんがえ)しをと思い、この(たび)宇侘川(うたがわ)パレスホテル(さま)にもご協力(きょうりょく)をいただき、『桐葉荘 観桜(かんおう)(うたげ)』を(もよお)すことと相成(あいな)りました。
 何よりこのようなイベントが大()きだった創業者に(なら)い、様々(さまざま)趣向(しゅこう)()らした催しを予定(よてい)しております。
 みなさまにおかれましてはご多用(たよう)中かとは(ぞん)じますが、お時間(じかん)(ゆる)せばぜひ(なご)やかな雰囲気(ふんいき)でゆっくりとお(たの)しみいただければ(さいわ)いです。

 末筆(まっぴつ)ながら、みなさまのご健康(けんこう)とご多幸(たこう)をお(いの)り申し上げ、まずは取り急ぎご案内(あんない)申し上げます。
                             かしこ 

                     平成(へいせい)二×年三月吉日(きちじつ) 
                        桐葉荘 桐島(きりしま) (らん)


 四月の(おだ)やかな錦美川(にしみがわ)沿()いの景色(けしき)の中を(はし)る一(りょう)だけのディーゼルカーに()られながら、(ぼく)(あらた)めて招待状を()(かえ)していた。
 三月にこの招待状が(おく)られてきたときにはびっくりした。
「創業者にゆかりのあるみなさま」に、年光さんに一()()ったことのない僕が(ふく)まれていてもいいのだろうか。
 でも、素直(すなお)にご招待を()けることにしたのは、僕の今の姿(すがた)を蘭さんたちに見てもらいたいと(おも)ったからだ。
 あれからもう、半年が()つ。

 大学生活(せいかつ)(もど)った(つぎ)(しゅう)から、僕は近所(きんじょ)のコンビニでアルバイトを(はじ)めた。
 アルバイト募集(ぼしゅう)のポスターを見て即決(そっけつ)面接(めんせつ)を申し()んだ。今まで短期(たんき)のバイトはいくつかやってきたが、継続的(けいぞくてき)(はたら)くのは(はじ)めてだ。
 それまでは自分(じぶん)には接客(せっきゃく)なんて無理(むり)だと思っていたが、やってみると案外(あんがい)できるもので、店長(てんちょう)からはあいさつの(こえ)がいいと()められた。
 バイト仲間(なかま)たちともだんだんと()ちとけて、今では何人かで時々一緒(いっしょ)()みに()ったりもする。
 中にはちょっと気になっている子もいる。
 (おな)学部(がくぶ)後輩(こうはい)なんだけど、彼女(かのじょ)は一(ろう)してるから同じ(とし)で、でもバイトは彼女の方が半年ばかり先輩(せんぱい)。はっきりとしたもの言いをするので、仕事上(しごとじょう)では全然(ぜんぜん)(あたま)が上がらない。
 口の悪い同僚(どうりょう)からは、あんな気の(つよ)いやつなんかやめとけなんて言われるけど、僕はふとした時に見せる彼女の何気(なにげ)ない表情(ひょうじょう)がかわいいと思うから、(ちか)いうちに絶対(ぜったい)デートに(さそ)おうと思っている。

 夕介(ゆうすけ)からは、一ヶ月ぐらいしてから約束(やくそく)通り写真(しゃしん)(おく)られてきた。
 みんなが笑顔(えがお)の中、夕介だけがそっぽを()いてぶすっとしている写真。思わず(わら)ってしまった。
 お(れい)のメールを送ったが、返事(へんじ)は返ってこなかった。いかにもあいつらしい。
 年末には、あいつの記事(きじ)()った雑誌(ざっし)()った。普段(ふだん)だったら僕が絶対手に()らないような、お(かた)月刊誌(げっかんし)だ。
 あれだけたくさんの写真を()ってたくさんの資料(しりょう)用意(ようい)したのに、記事はたったの八ページ。しかし美麗(びれい)な写真とていねいな文章(ぶんしょう)であの時の感動(かんどう)(よみがえ)る、読みごたえのあるものに仕上(しあ)がっていた。
 (みと)めるのはなんだか(くや)しいが、(たし)かに夕介には才能(さいのう)があると思う。
 記事には稚児舞(ちごまい)の時の桔梗(ききょう)ちゃんの写真も載っていた。小さな写真だったが、(とお)い目で()う彼女の横顔(よこがお)は、すがすがしい(うつく)しさを(はな)っていた。

 (じつ)は、桔梗ちゃんとはあれからずっと文通(ぶんつう)している。
 このIT全盛(ぜんせい)時代(じだい)に、手書(てが)きの手紙(てがみ)をやりとりすること自体(じたい)(めずら)しいのに、「ペンフレンド」なんてほとんど絶滅危惧種(ぜつめつきぐしゅ)だと思うが、十日に一()くらいの割合(わりあい)で彼女から手紙が来るので、僕もせっせと返事を書いている。
 最初(さいしょ)に来た手紙ではたどたどしかった字が、最近(さいきん)はだいぶしっかりしてきた。時々いきなり(むずか)しい言葉(ことば)が出てきたりするから、国語(こくご)辞典(じてん)は手(ばな)せないが、内容(ないよう)十代(じゅうだい)の女の子らしいもの。
 桔梗ちゃんは、水菜(みずな)さんや果林(かりん)ちゃんの近況(きんきょう)()らせてくれる。
 今年一月の成人式(せいじんしき)で中学校時代の同級生(どうきゅうせい)再会(さいかい)した水菜さんは、「(むかし)はなんかとっつきにくかったけど桐島さんずいぶん()わったよね」と言われたことをうれしそうに桔梗ちゃんに(はな)していたそうだ。
 成人式が()わった(あと)に、(なが)かった(かみ)をだいぶ()ったというから、今はずいぶん印象(いんしょう)が変わっているだろう。最近は、話していると時々方言(ほうげん)()じるようになったそうだ。
 三月には市役所(しやくしょ)から徒歩(とほ)十分の(ところ)にアパートを()りて、一人暮(ひとりぐ)らしを(はじ)めたという。
 果林ちゃんはあいかわらずたくさんの友達(ともだち)(かこ)まれて、毎日(まいにち)にぎやかに()ごしている。
 水菜さんが(いえ)を出てからは桔梗ちゃんと二人で家事(かじ)分担(ぶんたん)しているが、果林ちゃんのとんでもない失敗(しっぱい)を、桔梗ちゃんがいちいち面白(おもしろ)おかしく報告(ほうこく)してくれる。
 そして桔梗ちゃんは、この四月から高校生になった。
 果林ちゃんの(かよ)県立(けんりつ)高校の分校(ぶんこう)ではなく、数年前に錦美町(にしみまち)開校(かいこう)した通信制(つうしんせい)高校に(かよ)うそうだ。
 桔梗ちゃんが進学すると決めてからは、水菜さんがつきっきりで勉強を見てくれたという。
 学業(がくぎょう)支障(ししょう)が出ない範囲(はんい)で、仲居(なかい)修行(しゅぎょう)(つづ)けていくつもりらしい。
 手紙の文面(ぶんめん)からは、(あたら)しい生活(せいかつ)にわくわくしている桔梗ちゃんの様子(ようす)がよく(つた)わってくる。
 彼女からの報告をひとつひとつ(よろこ)んでいる自分を発見(はっけん)してうれしくなる。
 それぞれが、それぞれのスタートを切っている。

 列車(れっしゃ)満開(まんかい)(さくら)のそばを(とお)()ぎ、窓辺(まどべ)薄紅(うすべに)色の花びらが舞う。半年前に来た時には沿線(えんせん)にこんなにたくさんの桜があるとは思いもしなかった。
()(ゆえ)によりて、()(ころ)あれば、(めずら)しきなり(註一一)……か」
 僕は(おぼ)えた『風姿花伝(ふうしかでん)』の一節(いっせつ)をつぶやいた。
 年光さんは最後(さいご)の桜の花を、どんな気持ちで(なが)めたのだろう。かすれた(こえ)(わら)ったという蘭さんの話が、今でも鮮明(せんめい)(よみがえ)る。
 四季(しき)(うつ)ろうなかで、かわるがわる咲き(つづ)ける花。
 (かれ)はきっと()んでなんかいない。今も生き生きと僕に(かた)りかけてくれているのだから。
 彼の言葉は、彼とかかわった人たちの中で、今も生き続けている。
 そして、僕もその言葉を()(わた)されたんだ。

 何気(なにげ)なく錦美川(にしみがわ)(はさ)んで走る国道(こくどう)(なが)めていると、見覚(おぼ)えのある車を見つけた。側面(そくめん)原色(げんしょく)のド派手(はで)なステッカーを()り付けたシルバーのSUV。
「あれ?」
 (わす)れるわけもない、夕介の車だ。
 僕はすぐさま携帯(けいたい)電話(でんわ)をかけた。
『もしもし?』
 少し不機嫌(ふきげん)な声で夕介が出る。
「なんでアンタがこっちにいるんだよ」
『ああ? お前今どこだ? は……なるほど、清流線(せいりゅうせん)か』
運転中(うんてんちゅう)の携帯電話は道路交通法違反(どうろこうつうほういはん)だぞ」
『バカ、ハンズフリーだ。あいかわらずよけいなことばっかり……だいたいお前こそ何でこっちに来てんだよ?』
「へへーん、僕も観桜(かんおう)(うたげ)にご招待(しょうたい)を受けたんだよ」
『はあ? (おれ)はわかるが、なんでお前が?』
「いいだろ、(べつ)に。蘭さんが招待してくれたんだから」
『ふん、まさかまた()うことになるとはな』
 半年ぶりに話す夕介は以前(いぜん)と全然変わっていない。あいかわらずの(にく)まれ口に、僕は思わずにやにやしてしまう。
 携帯から、ねえねえ(だれ)なのと(たず)ねている声が聞こえる。少し(はな)にかかったようなかん(だか)女性(じょせい)の声。
「なに今のアニメ声? 誰か一緒(いっしょ)なのか?」
『もしもーし! はじめましてぇ、わたし裕美(ゆみ)っていいまぁす、あなたは夕介(くん)のお友達(ともだち)ぃ?』
 かん高い声が(ひび)いて、僕は一瞬(いっしゅん)携帯から耳を(はな)した。
「友達じゃないけど知り合いです」
『コラ、裕美! 運転のジャマだ、どけよ。だいたいお前、俺よりも五(さい)も下なんだから、いいかげんその夕介君ってのやめろ』
『えー、夕介君は夕介君じゃない!』
 思わず苦笑(にがわら)いがもれる。あの夕介が完全(かんぜん)()(まわ)されている。
「ゆみさんはもしかして、夕介の彼女さんですか?」
『はいはーい、もしかしなくても夕介君の彼女さんでーす! 旅行(りょこう)雑誌の編集部(へんしゅうぶ)(つと)めてまぁす!』
 尋ねてもいないことにまで彼女は(いきお)いよく(こた)える。僕は(ふたた)び携帯から少し耳を離した。夕介の困惑(こんわく)している(かお)が目に()かぶようだ。
『桐葉荘は二人の思い出の場所(ばしょ)だもんねー』
『はあ? 何言ってんだお前? 俺はお前と桐葉荘に行ったことなんかないぞ』
『んふふふふー、やっぱり(わす)れてるぅ! 夕介君、わたしとは仕事(しごと)で出会ったんだと思ってるんでしょ?』
(ちが)うのかよ?』
(おし)えなーい! さー、二人の思い出の場所へ、ゴーゴー♪』
『なんだよ気になるだろ、勿体(もったい)つけずに教えろよ!』
「……まあ、二人ともお幸せにね」
 僕はあきれながら電話を切った。

 錦美川の川面(かわも)が、春の(やわ)らかな日差(ひざ)しを受けてきらきらと(かがや)いている。
 列車が桜並木(なみき)にさしかかり、車窓(しゃそう)はさっと一面(いちめん)薄紅(うすべに)色で(おお)われた。
 僕は窓に顔を付けて桜並木を見上げた。
 (あざ)やかな青空のもと、桜の花びらがはらはらと舞い落ちていく。本格的(ほんかくてき)な春は、まだまだこれからだ。
 列車は線路(せんろ)()ぎ目で軽快(けいかい)な音を立てながら、満開の桜並木の中を()()けていった。



                               了



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註一一 花傳第七 別紙口傳より(引用は岩波文庫「風姿花伝」野上豊一郎・西尾実校訂から。字体は新字体に改めた)

資料編

◆参考文献一覧

『青い鳥』モーリス・メーテルリンク著 堀口大學訳 新潮文庫 新潮社(1960)
『一歩進めて能観賞 演目別にみる能装束』観世喜正・正田奈津子著 青木信二撮影 淡交社(2004)
『NHKテレビテキスト100分で名著 世阿弥 風姿花伝』土屋惠一郎 NHK出版(2014)
『お能の見方』白洲正子・吉越立雄著 新潮社(1993)
『劇場に行こう 能にアクセス』井上由理子解説 淡交社(2002)
『死後のプロデュース』金子稚子 PHP新書 PHP研究所(2013)
『死者との対話』若松英輔 トランスビュー(2013)
『自然が舞台の野外劇 薪能入門 かがり火が照らし出す幽玄の世界』婦人画報あるすぶっくす12 婦人画報社(1994)
『死とどう向き合うか』アルフォンス・デーケン NHK出版(1996)
『死とは何か さて死んだのは誰なのか』池田晶子著 わたくし、つまりNobody編 毎日新聞社(2009)
『魂にふれる 大震災と、生きている死者』若松英輔 トランスビュー(2012)
『能がわかる100のキーワード』津村禮次郎 小学館(2001)
『能の女たち』杉本苑子 文春新書 文藝春秋(2000)
『能のデザイン』井上由理子 青幻社(2009)
『能・謡曲選』松田存・西一祥編 翰林書房(1993)
『風姿花伝』世阿弥著 野上豊一郎・西尾実校訂 岩波文庫 岩波書店(1958)
『ふるさと玖西の歴史と民話』玖西青年会議所編 玖西青年会議所(1988)第一篇二章「鞍掛合戦」(pp.47-76)内田陽久著
『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』金子哲雄 小学館(2012) 
『法華経方便品・寿量品講義 上・下(普及版)』池田大作 聖教新聞社(2013)
『「喪」を生きぬく』石村博子 河出書房新社(2005)
『和の色手帖』武井邦彦監修 石田純子著 グラフィック社(2004)
(書名50音順)


◆参考映像資料

『能楽 観阿弥・世阿弥名作集』シリーズ(NHK DVD)
 宝生流『通小町』宝生九郎/観世流『自然居士』梅若六郎(玄祥)
 観世流『求塚』観世清和
 金春流『高砂』金春信高/金剛流『清経』廣田陛一
 喜多流『班女』友枝喜久夫
 観世流『砧 梓之出』関根祥六
 喜多流『融』友枝昭世


◆引用一覧

エピグラフ
「そもそも、花と云ふに、萬木千草において、四季(折節)に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に、翫ぶなり。申楽も、人の心に珍しきと知る所、即ち面白き心なり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散る故によりて、咲く比あれば、珍しきなり。能も住する所なきを、先づ、花と知るべし。」
 世阿弥『風姿花伝』(岩波文庫)p.92 花傳第七 別紙口傳

第四章 五
「人の心に珍しきと知る所、即ち面白き心なり」
 世阿弥『風姿花伝』(岩波文庫)p.92 花傳第七 別紙口傳

第四章 六
「一切の事は、謂はれを道としてこそ、萬の風情にはなるべき理なれ。謂はれを現はすは、言葉なり」
 世阿弥『風姿花伝』(岩波文庫)pp.83-84 花傳第六 花修云

第五章 六
「いづれの花か散らで残るべき。散る故によりて、咲く比あれば、珍しきなり。能も住する所なきを、先づ、花と知るべし。」
 世阿弥『風姿花伝』(岩波文庫)p.92 花傳第七 別紙口傳

第七章 一
「ずっと、ずっと大昔/人と動物がともにこの世に住んでいたとき/なりたいと思えば人が動物になれたし/動物が人にもなれた。(後略)」
 池田晶子『死とは何か さて死んだのは誰なのか』(毎日新聞社刊)所収 p.225『魔法のことば』金関寿夫訳/柚木沙弥郎絵 (初出は『伝え合う言葉 中学国語3』2006年度版 教育出版刊。初出時に池田晶子著『言葉の力』と併録されたため、訳と絵も併せて同書に採録されたものである)

「言葉と自分が一致していない人生は不幸だ。だから、本当の自分はどこにいるのかを、探し求めることになる。しかし、本当の自分とは、本当の言葉を語る自分でしかない。本当の言葉においてこそ、人は自分と一致する。言葉は道具なんかではない。言葉は、自分そのものなのだ」
 池田晶子『死とは何か さて死んだのは誰なのか』(毎日新聞社刊)所収 pp.223-224『言葉の力』より(初出は『伝え合う言葉 中学国語3』2006年度版 教育出版刊)

「だからこそ、言葉は大事にしなければならないのだ。言葉を大事にするということが、自分を大事にするということなのだ。自分の語る一言一句が、自分の人格を、自分の人生を、確実に創っているのだと、自覚しながら語ることだ。そのようにして生きることだ」
 池田晶子『死とは何か さて死んだのは誰なのか』(毎日新聞社刊)所収 p.224『言葉の力』より(初出は『伝え合う言葉 中学国語3』2006年度版 教育出版刊)

第七章 二
「先ず、童形なれば、何としたるも幽玄なり」
 世阿弥『風姿花伝』(岩波文庫)p.13 花傳第一 年来稽古條々 上

エピローグ
「散る故によりて、咲く比あれば、珍しきなり」
 世阿弥『風姿花伝』(岩波文庫)p.92 花傳第七 別紙口傳

あとがき
「自分というものが『ない』と知ることによってこそ、人は個性的な人になる。こうとしかできない自分を知る」
 池田晶子『知ることより考えること』(新潮社)所収『探すのをやめよ』より


◆出典一覧
 作中の猿楽『紫桜(しざくら)』の詞章は、現存する謡曲等から引用または改変して作者が創作した。原典のあるものを以下に明示しておく。

桜堤(さくらづつみ)
「春の雲路の旅衣 春の雲路の旅衣/宇侘(うた)の早瀬の 先へ急がん」
 『求塚(もとめづか)』 ワキ(次第)「鄙の長路の旅衣、鄙の旅路の長路の旅衣、都にいざや急がん」

「これは 石見の国より出でたる某にて候/商ひにて急ぎ参り仕らんとて/宇侘川(うたがわ)をくだり候間 美しき桜の堤にあへり」
 『求塚』 ワキ・ワキツレ「これは西国の方より出でたる僧にて候、我いまだ都を見ず候程に、只今思ひ立ち都に上り候」

「いかにこれなる人に 尋ね申す事の候/げにも美事なる桜にて候ぞ さても名にし負ふ桜にてや あらんずらん/この桜の謂われ もし存知なれば お教え候へ」
 『求塚』 ワキ「いかにこれなる人に尋ね申すべき事の候、生田とはこの辺を申し候か」

「はや花風にて舞いたると 思うほどに/花曇にかき乱れて/跡も見せずなりにけり 跡も見せずになりにけり」
 『(とおる)』 地「潮曇にかき紛れて、跡も見えずになりにけり跡をも見せずなりにけり」

「何時まで草の陰 苔の下には埋れん/さらば埋れも果てずして 苦しみはなおも離れず/あら閻浮恋しや 閻浮恋しや」
 『求塚』 地「あら閻浮恋しや」 シテ(上歌)「(中略)何時まで草の陰苔の下には埋れんさらば埋れも果てずして、苦しみは身を焼く、火宅の住処御覧ぜよ」(順序異同)

「姿形も朧となり行けば いよいよ思ひは 消え消えと/見えつ隠れつする程に 東雲の空も ほのぼのと/明け行けば跡もなく ただ櫻の花の舞うばかりとこそ/哀れなりけれ 哀れなりけれ」
 『隅田川』 地「いよいよ思ひは真澄鏡、面影も幻も、見えつ隠れつする程に東雲の空も、ほのぼのと明け行けば跡絶えて、(中略)哀れなりけれ哀れなりけれ」

寂水(じゃくすい)
「遂に巌の汀に 追われ給ふが/南無や八幡大菩薩と 心に念じ/剣を構へて 待ちかけ給へば/従者 鬼神の背より 打ちかかりて/振り向きたるを 切り払い給ふ」
 『紅葉狩』 地「(中略)南無や八幡大菩蔭と、心に念じ、剣を抜いて、待ちかけ給へば、(後略)」

「夢か現か はやも異類となれる身の/重き罪科は 徒波の/寄辺も無き身 濁る心に逆巻きて/慕ひた父も 我が事も 憂しや思ひ出でじ/果てはみな忘れて狂ひけり みな忘れて狂ひけり」
 『藤戸』 後シテ(サシ)「憂しや思ひ出でじ、忘れんと思ふ心こそ、忘れぬよりは思ひなれ、さるにても身は徒波の定めなくとも、科に寄辺の水にこそ、濁る心の罪あらば、重き罪科もあるべきに、(後略)」

乙女淵(おとめぶち)
「花も憂し 月も憂しと 捨つる世の/鄙の旅路の墨衣 鄙の旅路の墨衣」
 『忠度(ただのり)』 ワキ(次第)「花をも憂しと捨つる身の、捨つる身の月にも雲は厭はじ」

「南無幽霊成等正覚 出離生死頓證菩提」
 『通小町(かよいこまち)』 ワキ「南無幽霊成等正覚 出離生死頓證菩提」

「折節咲く花に/折節咲く花に 散る頃あるは定めとて/猶ほ咲く頃も あるべけれ/咲かずに散るは哀れなり 咲かずに散るは 哀れなり」
 『風姿花伝』 花傳第七別紙口伝より 「そもそも、花と云ふに、萬木千草において、四季(折節)に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に、翫ぶなり(中略)いづれの花か散らで残るべき。散る故によりて、咲く比あれば、珍しきなり」

「用荘厳法身/天人所載仰龍人咸恭敬/あらありがたやの御経やな」
 『海士』 シテ「用荘厳法身」 地「天人所載仰龍人咸恭敬あらありがたやの御経やな」

「今この経の徳用にて/今この経の徳用にて あら不思議やな/淵に紫の花咲けり/紫の花の七歳咲けば/生死の大海 廻り渡りて/御恩を必ず報ずべし 御恩を必ず報ずべし」
 『海士』 シテ(ノル)「今この経の徳用にて」 地「今この経の徳用にて、天龍八部、人与非人、皆遥見彼、龍女成仏さてこそ讃州志度寺と号し(後略)」

霊山(りょうぜん)
「かくて鄙人老姥の/舞ひて御前を立つと 見えうるが/花散り曇る 櫻木に/寄るかと見せて失せにけり 寄るかと見せて失せにけり」
 『遊行柳』 地「かくて老人上人の、御十念を賜はり御前を立つと見えうるが、朽木の柳の中塚に寄るかと見えて失せにけり、寄るかと見えて失せにけり」

「草木繁る沓懸の つはものどもの今生の/残る無念は 止みもせず/物冷まじき 雨の折/幽かに聞こゆ 鬨の声/翻りゆく 旌旗見ゆ」
 『陰徳太平記』(毛利氏の記録文書)「玖珂之鞍懸城没落事」より 「今も彼の鞍掛の古城の跡には、日暮れ雨降て物冷じき折からは、山頭に旌旗翻り、鬨の声幽かに聞えて恐ろしきことども多かりけり、これ古戦場なり」

「あらあはれやな/今はこの世に 亡き跡の/さても無慙や 敗れける/父は草生ひ茂りたる かの塚の/土の下にこそありてけり」
 『隅田川』 (クドキ)「(中略)今はこの世に亡き跡の、標ばかりを見る事よ、さても無慙や死の縁とて、生所を去つて東のはての、道の傍の土となりて、春の草のみ生ひ茂りたる、この下にこそあるらめや」

「皆已具足」 法華経方便品第二より


※ 作中の「沓掛(くつかけ)合戦」にまつわる記述は、史実「鞍掛合戦」に基づくものだが、地名や人名などの固有名詞については一部を架空のものに改変している。

※ 第八章の第二節・第三節については、主として、2012年に肺カルチノイドのために死去した故・金子哲雄氏の著書『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』、及び金子哲雄氏の妻である金子稚子氏の著書『死後のプロデュース』を参考としている。金子夫妻が取り組んだ死への準備や病状の変化などについて類似する表現が少なからずあるため、ここに明示しておくこととした。

謡(うたい)

 ブログを書き続けて四年目に入ったというのに、未だに記事数が二百に届かない。遅筆なのか不精なのか、或いはその両方か。いずれにしても、甚だ遅い更新速度であると言わざるを得ない。なので、私の書いた記事が衆目を集めたことなど、ただの一度もない。多くの人が関心を寄せそうな事柄、興味を惹きそうな事象について、敢えて言及を避けているためでもある。

 こんな過疎ブログであっても、ぽつぽつと更新していれば読んでくれる人が現れ、顔も名前も知らないまま親しくなることもある。
 私がブログを通じて最初に親しくなったのは、そんな男性である。同県人の近しさもあって、少しずつ言葉を交わすようになった。彼は西の端、私は東の端。直接会うことなく、言葉の切れ端を互いにやり取りするだけであったが、どこか通じるものを感じた。
 私の父とそう変わらぬ歳の彼は、病を得、自身のブログに自らの生命をじっと見つめる文章を綴っていた。齢六十、昔ならいざ知らず、今の世ではまだまだ現役の壮年である。彼は己に残された時が短いことを知り、文章を綴ることでその貴重な時間の中で何を大切にすべきなのかを、ずっと考えつづけていた。その真摯さに私は心打たれた。
 私が彼と言葉をやり取りしたのはほんの数ヶ月間に過ぎない。彼は体調の悪化から、ブログという場から自ら去ることを選んだ。「清流をゆっくりと下る」と、彼は私に告げた。去り際には、彼よりもだいぶ年若い私を友と呼んでくれ、丁重なお別れの挨拶まで頂戴した。
 その後の彼の消息は、一切わからない。

 ブログを始めてからしばらくして、若松英輔氏の著書『魂にふれる 大震災と、生きている死者』を通じて、池田晶子という哲学者を知った。歯に衣着せぬ物言いで、深淵に目を向けようともしない衆生に対して、哲学の辻説法。私はそんな彼女の真直ぐな言葉に魅せられた。
 私が彼女を知ったとき、彼女は既に鬼籍に入った後であった。しかし、彼女は紙面から私の眼前に立ち上がり、私に生き生きと語りかけてくる。
「自分というものが『ない』と知ることによってこそ、人は個性的な人になる。こうとしかできない自分を知る」(註)と、彼女は私に告げた。それからの私は「こうとしかできない自分」とは何かを考えつづけた。
 やりたかったことは何か。やり残したことは何か。
 それに気づいたとき私は、なけなしの勇気を、ありったけ奮い起こすことにした。

 言葉と出会うことは、人と出会うことだ。
 普段の何気ない繋がりが、ある時突然、大きな意味を持って立ち上がることがある。一度も会ったことのない人から、自分の人生を変えるような大きな影響を受けることがある。それを「縁」と呼んでもいいかもしれない。
 誰かが残した言葉によって、私の心に小さな漣が立つ。私がブログで書き続けてきたあぶくのような言葉であっても、それが誰かに届けば漣を立てることがある。そんな小さな漣が重なり合って、大きな波になることもある。

 この『謡』という作品は、まさにそのような営みの中で生まれたものだ。

 嘗て頓挫してそのままになっていた作品に、もう一度新たな命を与えたい。世に出ることなくずっと眠っていたこのキャラクターたちを、改めて生きさせてやることはできないだろうか。
 突然湧き上がってきた甚だ身勝手なこんな願いに、幾つもの偶然が重なりあい、いつの間にか大きなうねりとなって、今、一つの物語としてようやく結実した。
 この物語は、確かに私を「通り抜けて」生まれたものではあるが、「私が」書いたものだとは、どうしても思えない。奇妙なことだが、何かもっと大きなものが、たまたま私の身体を使って書かせたのだと、そう思われてならない。
 傍らで、一度も会うことなく別れた彼が、今も穏やかに微笑しているのを感じる。
 池田某が、向こうからじっと見つめているのを感じる。

 私は、彼らに少しでも報いることができただろうか。
 今でも私は問いつづけ、そして問われつづけている。

   二〇一五年四月 不波 流 拝


謝辞。
 まずは、原案の同人ゲームとは全く異なる物語になることを承知した上で、小説化を快諾してくれた原案者・田代裕氏に。遅々として進まぬ執筆を二九〇日もの間辛抱強く待ち続けてくれた第一の読者としての貴兄の寛容がなければ、この作品は到底完成しえなかった。
 原案の同人ゲームでキャラクターデザインを務めた日向悠二氏へ。とかく重苦しくなりがちなこの物語を軽やかに飛翔させてくれたのは、間違いなく貴兄の手になるキャラクター造形の力である。僭越ながら、今後の更なるご活躍をご祈念申し上げる。
 嘗て『謡』に携わり、或いは風聞を耳にして期待されていた総ての皆様へ。私どもの未熟により多大なご迷惑をお掛けしたことを謹んでお詫びするとともに、往時のご尽力に改めて感謝したい。この作品が何らかの形で貴方に届いたのであれば、これほど嬉しいことはない。
 ご多忙中にもかかわらず私の無理を聞いて快く下読みをお引き受け下さったren様。第三者の目を交えずに創作を続けることは極めて難しく、客観的で的確なご指摘によってこの作品は大きく前進することができた。お力添えに心より感謝申し上げたい。
 故・池田晶子氏の著作権を管理する「わたくし、つまりNobody」事務局様。同氏の著作を本作に引用するにあたって問い合わせたところ、引用の要件について懇切にご教示頂いた。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
 私のような素人に作品公開の機会を与えてくれている「星空文庫」様、「小説家になろう」様。簡便に作品を発表できる場が与えられていることは、表現を志す者にとって力強い翼となる。陰の労苦に心より御礼申し上げる。
 ブログを機縁として私と出会ってくれた人たちに。あなたたちが私の心に起こした漣が、いつの間にかこのような形に結実した。ぽつぽつと泡の如く言葉を吐き出す私に、懲りずにおつきあいいただいていることを、心から嬉しく思う。
 それから、まだ一度もこの作品を読んでいない、私の妻に。自由奔放な貴女がいなければ、この小説のキャラクターたちがこんなにも好き勝手に動き回ることはなかった。台詞の中には貴女の言葉から頂戴しているものも少なくない。随分と迷惑も掛けたが、寛容な目で見守ってくれたことに深謝したい。
 最後に、この作品を読んでくださった総ての皆様に。物語は読み手に届いた時に初めて完結する。その意味で、読み手こそが作り手を生み出すのだと私は考えている。このような荒削りな作品に最後までおつきあいいただき、本当に感謝に堪えない。
 願わくば、あなたの心にも小さな漣が立たんことを。

────────────────────
註 池田晶子『知ることより考えること』(新潮社刊)所収『探すのをやめよ』より


【全面改稿版 あとがき】

 言葉という風が、私の身体を吹き抜けていった。
 本作の初稿を脱稿してのち、私は大きな喪失感に覆われた。およそ三〇〇日もの間、私の傍らで賑やかに喚いたりそっと囁いたりしていた彼らが、すっといなくなったと感じた。
 私と苦楽を共にしてくれた彼らは、私の許にはもう居ない。
 彼らは私に貴重な時間を与え、そして旅立っていった。
 私がそれを受け止めることができるようになるには、およそ一年の時間を要した。それは、私にとって、服喪の時間であったのかもしれない。
 彼らはいま、この拙い物語を読んでくれたそれぞれの読者達の処にいるだろう。
 喪は明けたのだ。
 ようやく、彼らを笑顔で見送ることができそうだ。

 さあ、顔を上げて歩きだそう。本格的な春は、まだまだこれからだ。


   二〇一六年四月一〇日   不波 流 拝

謡(うたい)

七年に一度、宇侘(うた)八幡宮で奉納される猿楽(さるがく)『紫桜(しざくら)』。 大学生の僕・森崎浩司は、この珍しい伝統芸能に心惹かれて山間の温泉郷・深津峡(ふかつきょう)を訪れた。朗らかな女将(おかみ)の蘭さんと、その娘で責任感の強い水菜さん、天真爛漫な果林ちゃん、そして白装束に身を包んだ桔梗さんという個性的な三姉妹と出会った僕は、いけすかない写真家・妹尾(せのお)夕介に振り回されつつ、猿楽『紫桜』上演に立ち合う。 そして僕は、決して出会うはずのなかったある人物と出会うことになったんだ──。 ──幽玄のしらべに少女たちの物語が響き合い、此岸と彼岸が接するとき、止まっていた時が静かに動き始める── 山深い温泉郷を舞台に、薪能(たきぎのう)をモチーフとして展開する、長編青春小説! 【2016年2月15日全面改稿出来】 ※ 縦書き閲読推奨。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-26

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND
  1.  
  2. プロローグ
  3. 第一章 桐葉荘(とうようそう) 〈一〉
  4. 第一章 桐葉荘(とうようそう) 〈二〉
  5. 第一章 桐葉荘(とうようそう) 〈三〉
  6. 第一章 桐葉荘(とうようそう) 〈四〉
  7. 第一章 桐葉荘(とうようそう) 〈五〉
  8. 第二章 桜姫(おうひめ) 〈一〉
  9. 第二章 桜姫(おうひめ) 〈二〉
  10. 第二章 桜姫(おうひめ) 〈三〉
  11. 第二章 桜姫(おうひめ) 〈四〉
  12. 第二章 桜姫(おうひめ) 〈五〉
  13. 第三章 ネンコーさん 〈一〉
  14. 第三章 ネンコーさん 〈二〉
  15. 第三章 ネンコーさん 〈三〉
  16. 第三章 ネンコーさん 〈四〉
  17. 第三章 ネンコーさん 〈五〉
  18. 第四章 呪い 〈一〉
  19. 第四章 呪い 〈二〉
  20. 第四章 呪い 〈三〉
  21. 第四章 呪い 〈四〉
  22. 第四章 呪い 〈五〉
  23. 第四章 呪い 〈六〉
  24. 第五章 紫桜(しざくら) 〈一〉
  25. 第五章 紫桜(しざくら) 〈二〉
  26. 第五章 紫桜(しざくら) 〈三〉
  27. 第五章 紫桜(しざくら) 〈四〉
  28. 第五章 紫桜(しざくら) 〈五〉
  29. 第六章 雨 〈一〉
  30. 第六章 雨 〈二〉
  31. 第六章 雨 〈三〉
  32. 第六章 雨 〈四〉
  33. 第六章 雨 〈五〉
  34. 第六章 雨 〈六〉
  35. 第七章 霊山(りょうぜん) 〈一〉
  36. 第七章 霊山(りょうぜん) 〈二〉
  37. 第七章 霊山(りょうぜん) 〈三〉
  38. 第七章 霊山(りょうぜん) 〈四〉
  39. 第七章 霊山(りょうぜん) 〈五〉
  40. 第七章 霊山(りょうぜん) 〈六〉
  41. 第八章 はじまりの朝 〈一〉
  42. 第八章 はじまりの朝 〈二〉
  43. 第八章 はじまりの朝 〈三〉
  44. 第八章 はじまりの朝 〈四〉
  45. 第八章 はじまりの朝 〈五〉
  46. 第八章 はじまりの朝 〈六〉
  47. エピローグ
  48. 資料編