急げや急げ

 そこは、テーブル席が二つとカウンターだけの小さな喫茶店だった。表にはまだ『準備中』と書かれた札が下がっている。店内では、店長らしいチョビ髭の男が若い男に何か話していた。
「吉田君はこういう仕事は初めてなんだって」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「うーん、そうかあ。前のバイトが急に辞めちゃって、わたし一人でやってるから、ゆっくり教えてやる余裕がないんだ。すまないが、やりながら仕事を覚えてくれ」
「はい、頑張ります」
「返事はいいな。とにかく、開店まで三十分しかない。色々準備をしなきゃならんが、何かやってる途中でも、わたしが『これを急いで』と言ったら、それを優先してやるように。いいね」
「はい」
「えーと、まずは、そうだな。わたしが朝イチで作ったサンドイッチがあるから、乾燥しないように、一人分ずつこの透明な袋に詰めて、シールを貼ってくれ。但し、素手で触るんじゃないぞ。ちゃんとこのビニール手袋をするんだ」
「ええと、急ぎますか」
「もちろんだ。だが、雑にやるなよ。丁寧かつ素早くだ」
 吉田は見るからに不器用だった。
 のっけからビニール手袋をするのに手間取り、さらに手袋が中途半端なために袋の口がうまく開けられず、なかなかサンドイッチが入らない。
「おい、急げよ」
「あ、はい」
 せかされてあせった吉田は、あろうことかサンドイッチを口にくわえ、両手で袋の口を開いて入れようとしている。
「何やってんだ!」
「えっ」
 吉田が返事をした瞬間、サンドイッチは口から離れ、ポトリと床に落ちた。
「ばかやろう!素手でさえダメなものをくわえるヤツがあるか!もう、いい。それはわたしがやるから、他の事をやれ」
「あの、この落ちたサンドイッチは」
「捨てるに決まってるだろ。まったくもう。ええと、そうだな。忙しくなったらやってもらうかもしれんから、ソフトクリームを巻く練習をしてくれ」
「急ぎますか」
「いや、急がなくていいから、わたしがサンドイッチの袋詰めを終わるまでやってくれ。いいか、この商品出口と書いてある穴の真下に、手に持ったコーンをあてがう。足でペダルを踏むとソフトクリームが出てくるから、コーンのふちに来るまでは動かさずにじっと待つ。クリームがコーンのふちまで来たら、ゆっくり回す。最後はペダルから足を離すのと同時に、コーンをスッと抜く。出来栄えを確認したら、クリームは捨てたり食べたりせずに上の原液タンクに戻す。いいな」
「ええと、ええと、はい」
 吉田は言われた通りにやり始めたが、止めるタイミングがわからないらしく、どんどんてんこ盛りにソフトクリームを出し続けている。
「おいおい、もういい、離すんだ!」
「あ、はい」
 吉田は、パッと手を離した。
 落ちたコーンの上に、さらにニュルニュルとソフトクリームが降り注いでいる。
「あああ、足だ足だ、ばかやろう!ペダルを離せ!」
「はいはい」
「はい、一回でいい!」
 およそ四五人分のソフトクリームが小山のようになっていた。
「ええと、これタンクに戻しますか」
「戻せるかよっ!ああ、もう触るな触るな。ここはわたしが片付ける。お前はもういいから、ホールのテーブルチェックでもやってくれ。ゴミが落ちていないか、テーブルクロスがズレたり曲がったりしてないか、テーブルの上のおすすめメニュー・紙ナプキン・シュガーポットなどがそろっているか、そういう確認だ。できるな」
「で、できます」
 吉田はホールに出てテーブルを見た。
 メニューやナプキンはそろっている。だが、テーブルクロスは微妙にズレていた。
 少し右に引いてみる。
 引きすぎた。
 今度は左に。
 もっとズレた。
 何度やってもうまく行かない。
「おい、急いでやれよ」
「はいっ!」
 驚いて大きな返事をした瞬間、思い切りクロスを引いてしまった。
 テレビなどではテーブルクロスだけを引く芸人がいるが、そうはならなかった。
 がらがっしゃん、すってんころころ。
「あれれっ」
 吉田は、飛んでいくメニューやナプキンを押さえようとしたが、勢いあまって無事な方のテーブルや椅子を押し倒した。
 どん、がらがら、どすん。
「何やってんだ。ばかやろう!」
「ああ、ああ、すい、ません」
「もう、いいっ!時間がないから、わたしが片付ける。そこをどけっ!」
「あのあの、何をしましょう」
「何もするな。じっとしてろ」
「でも、でも、何かさせて、ください」
「ふうーっ。それじゃあな、カウンターの中の冷蔵庫に、今朝絞ったオレンジジュースが入った大きなボトルがある。果汁が沈殿してると思うから、よく振っといてくれ」
「えーっと、急ぎますか」
「少し急げ。開店前に充分振って置けば、オーダーが入った時に軽く振ればいいからな」
「はいっ、わかりました」
 吉田は冷蔵庫から大きなボトルを出したが、中身は透明だった。
 それを激しく上下に振り始めた。
「あ、ばか、それは炭酸水だ。色でわかるだろっ!」
「え」
 ポーンと大きな音がしてキャップが弾け飛び、ものすごい勢いで炭酸水が噴き出した。
 どどどっ、じゃばじゃばじゃばっ。
「ああっ、早く拭けっ。布巾がその辺にあるだろっ!」
「はいーっ」
 吉田はボトルを放り出し、布巾を探そうとカウンターの上のコーヒーサイフォンをなぎ倒し、やっと見つけた布巾で飛び散った炭酸水を拭き始めたが、コーヒーカップもグラスもお構いなく、次々にカウンターから叩き落として行った。
 どん、がらがらがらっ、がしゃんがしゃん。
「あ、ああ、あああーっ」
 店長が言葉を失っている間に、さらに後の食器棚を拭き出したが、もはや、拭いているのか壊しているのかわからない。
 がちゃがちゃ、がちゃん、めきっ、ぼきっ、どすん、がらがら、ばきっ、ばらばらっ、ごん。
「もういいっ、もういいっ!やめろ、やめてくれーっ!」
「あ、はい」
 店内は、どんな大惨事がこの店で起こったのだろうかと目を覆いたくなるような有様になっていた。
「ああーっ、もう、もう、今日は閉店だあ」
「ええと、閉店は急ぎますか」
(おわり)

急げや急げ

急げや急げ

そこは、テーブル席が二つとカウンターだけの小さな喫茶店だった。表にはまだ『準備中』と書かれた札が…

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-25

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