桜がよどむ川面
六作目【完結済】
1
立花夏夜と僕が知り合ったのは、身体目当てで僕が声をかけたのがきっかけだった。はじめて彼女の容姿を目にしたとき、それはまるで僕の性欲をそのまま形にしたかのような、一瞬で僕の視界を独占する強烈なものだった。背中まである黒い髪は降りしきってくる光を吸い込み、とても軽やかに風とたわむれている。肌は白く、すらりとした腕や、わずかな余分も見つけられない完成された肉体には豊富で魅力的な胸部があり、その胸の輪郭すらも文句の一つとして洩れることはなかった。彼女の容姿は僕の要求をすべて実現させていて、作りあげた妄想でもここまで完璧なものは表現できないだろうなと思うほどだった。彼女を見てしまった瞬間に、僕のなかで莫大な欲求心がはじけた音がした。彼女のような逸材を、黙って見過ごすわけがなかった。その頃には僕はとうに当時付き合っていたガールフレンドに飽きを覚えていたし、正直あたらしい女の子を求めていた。からといってその新しい女の子もどんなものでもよかったのだ。あまり我侭は述べないことにしていたのだ。それなのに、だ。それなのに、ここまで自分の望みを叶えた肉体をたずさえた女性と出会うとは。彼女に声をかける行為までに、躊躇や「これで彼女に承諾されたら浮気になってしまう」などという不安の感情はまるで湧かなかった。あの彼女の身体を自分のものにしたい、それだけの欲で僕はすでに彼女のほうへと歩みを向かわせてしまっていたのだ。後からになって付き合っていた彼女のことを思い出したが、その頃には彼女に対する愛なんて微塵となかった。
高校を卒業したあと僕は大学には進まず、ファミリーレストランでアルバイトをはじめた。大学に入学しなかったのに深い理由はない。
バイト時間が終了したので、僕は「おつかれさまでしたー」と呟きながら店内をでた。時刻は二十三時を回っていて、いささか駆け足になった。またなにか怪しまれるかもしれない、と思うと自宅のマンションに帰るのも億劫だった。けれど帰らなければならない。帰宅する時間が遅ければ遅いほど、彼女は発狂するから。なぜあのとき僕はナンパなんてしたのだろう。今更ではいくぶんと遅い後悔を、僕はここ何週間と引き摺っていた。
マンションの部屋に鍵を挿入し、なかに入るとまず今までの空気がにわかにこわばった気がした。いつもの悪寒を察知したのだ。靴を脱いだところで、彼女の声がした。「ねえ」どきりとして僕はまた後悔から溜息が洩れた。「なんだい」
扉をあけるとエアコンで冷えた部屋が僕の身を包んだ。たしかに外は夜のなかに夏を含んで肌から汗を誘ってきていたが、あまりこのエアコンの役目はありがたくなかった。すでに煩わしい熱気は喪失していたし、もう肌寒かった。小さなソファに腰掛ける立花夏夜はその艶やかな黒髪の毛先をみつめていた。「ねえ」
「今までなにしてたの?」と彼女は訊ねる。そして髪から手を離して僕のほうへと目をやった。
「バイトだよ」と僕は言った。「ちゃんと言ってから出たと思うけど」
「ねえ、すこし遅くない? いつもはもっと早いよね?」そう確認しながら僕のほうへと近寄ってくる。
「すこし遅くなっただけだよ」と僕は制服などが入った鞄をおろす。
「それは本当に? 浮気じゃないよね? ねえ、浮気じゃないよね?」と彼女は執拗に問い詰めてくる。僕は何度も違うよ、とかぶりを振る。けれど彼女は腑に落ちない様子のままだった。「それは本当に?」
「本当だよ。浮気なんてしない」と僕が言うと、彼女はようやく落ち着いた。彼女はソファへと再び座り、ひざを顎元にあげ、顔をそこに埋めた。やがて彼女がひざに顔を埋めたまま声を洩らしはじめた。「ごめんね。祐樹君」僕は彼女の隣に腰をおろした。
「いつもすぐ昂ぶったりして。私馬鹿だよね。すぐ祐樹君が実は私のこと嫌いなんじゃないか、て不安になるの。祐樹君のバイト時間が終わってから時間が経てば経つほど心配になってくる。ずっと窓から祐樹君が帰ってくる方向のところを見てる。でも帰ってくるような気配が感じられなくて、すぐ涙が出てくるの」ほんと私、馬鹿だよね。次第に彼女の声が震えているのがわかった。鼻を啜る音もした。
ちゃんと帰るよ、と僕は言った。彼女は「絶対に?」と追い打ちをかけて訊きかえしてきた。僕は肯く。強く肯けたかはわからないけれど。それから彼女がいつも見つめているという窓へと目をやった。窓にはもつれて重々しくなった夜が街へと降りていた。「ねえ。私のこと好き?」と彼女は僕の瞳を覗きこんで、そう訊ねた。「祐樹君。私は大好き。もうあなたのことで頭がいっぱいになるくらい好き。初めてできた恋人が祐樹君、あなたみたい人ってだけで私のこの人生は幸福に恵まれているわ。そしてもう祐樹君じゃないとダメなの」彼女は鼻を啜りながら震えた声でそう僕に言い、ティッシュを二、三枚引き抜いて涙をぬぐった。そして鼻を咬んだ。
「僕も好きだよ」と僕は答えた。けれど内心では僕は彼女に対し、恐怖に似たものを覚えている気がした。あの時、僕は彼女を身体でしか見ておらず、なんの躊躇もなく浅はかな思考から声をかけてしまった。そしてすぐに交際は始まった。交際が始まるとすぐに彼女は大量の荷物をたずさえて僕の住むマンションへと訪れてきた。そして当然のように上がりこんできて、気がつけば同居という形になっていた。それなのになかなかセックスはさせてもらえなかった。僕は彼女に惚れたのではなく、彼女の身体に惚れたというのに。彼女は僕にいちいち愛を確かめさせ、安心するとすぐ眠ってしまうのだ。
一度だけゴムをつけてやったことがある。けれどそのセックスは享楽より苦痛に近かった。僕が動くたびに「ねえ、私のこと好き?」と訊ねてきて、「好きだよ」と答えるたびに「ならもっと好きって何度もいってよ。本当は嫌いなんじゃないの? これがしたかっただけなんじゃないの?」と言って泣き喚いた。ようやくゴム越しに射精したけれど、そこには快楽というものはなかった。やっと終わった、という解放感のようなものが大半を占めていた。射精し終えたあとに「ねえなんでゴムつけてしたの?」と訊いてきて、「子供作りたくないの? 私は今すぐにでも祐樹君との赤ちゃんが欲しいよ」と言ってまた涙を流しながら僕の胸に手をまわしてきた。そしてまた「ねえ、本当に私のこと好きだよね? 遊びじゃないよね?」と問い詰めてきた。そして僕の精液がよどんだそれを手に取って、それを自分の性器に当て、中にたまっているものを自身の中にへと垂れ流そうとした。いそいで阻止すると、また泣き喚きはじめた。
「ほんと、気持ち悪いよね私。すぐ不安になっちゃう。祐樹君は私とじつは嫌々いるんじゃないのかって。すぐそう思えてきて、なんだか幻聴かなにか聞こえてきそうなの。祐樹君との赤ちゃんはすぐに欲しいけど、なかなかセックスしようとはならないの。なんだかセックスをし終えたら祐樹君はすぐどっか行っちゃうんじゃないかって」
そしてまた彼女は泣きはじめた。「祐樹君、私を捨てないで」とひざに顔を埋めて泣き喚いた。僕はため息をはくのを堪えて、彼女を抱き寄せた。そんなこと、できるはずないだろう?
2
心地よく風の舟は、夜の水面をわたっていた。その舟は影の代役として無数の星を引き摺っていた。ゆっくりと夜に流れていくその星は所々雲に身をひそめたりもした。雲は柔らかく、そして生地が薄い気がした。鴨田春奈はその夜の空をときどき眺めては歩道をあるいていた。隣にはいろいろな建物が並んでいたが、どれもとっくに閉まっていた。所々で明かりが点いている箇所もあった。コンビニかスナックとかだろうと思う。
道路をはしる車は数台ほどだった。自動車は退屈そうにライトを前に走らせ、静かな夜のなかを駆けて消えていった。黒色のワゴンRが鴨田春奈のとなりを通り過ぎていった。運転している化粧の濃い女は眠たそうにハンドルを握っている。横断歩道の信号は誰にも求められていないのに交互に赤と青をしめしている。その疲れた信号機の光の先に、あるファミリーレストランがあった。
そういえば夕食をなにも食べていないな、と思った春奈はそのファミレスに寄ることにした。そこはかとなく空腹も感じてきていたし。人気のない横断歩道をわたって、深夜二時まで営業しているその店へと入った。
ガラス製の扉を押すと客がきたことを知らせる鈴が鳴って、すぐ傍で退屈そうにしていた豚鼻の店員が「いらっしゃいませー」と義務的な口調でいった。春奈は指を一本たてて一名だということを店員にみせる。「一名様っすねー。こちらどうぞー」と豚鼻の店員に席を案内されてそこに座る。お冷をとん、と豚鼻の店員は置いてどこかへ消えていった。
適当にメニューを選んで店員を呼びだす。すぐにやってきた店員は先ほどの豚鼻の男ではなかった。耳元を隠すくらいの長さをした髪はいささか茶色く、一重の男だった。制服だろうと思われるシャツは首元のボタンまで閉めている。ちらりとその店員を一瞥してから「えーと」と注文を言おうとした。メニュー表に載っている料理に指をさそうとしたところで、その男をもう一度目をやった。見覚えのある男だった。それは店員も同じらしかった。「あの……」と恐縮そうな声調で店員が春奈に声をかける。「もしかして」と春奈も声がもれていた。
「春奈?」
「祐樹くん?」
その男は、高校のときの同級生だった。そして、以前の交際相手だった。
「ここでバイトしているの?」と春奈は訊ねた。なんだか気まずかった。「なんか、以外」
「まあね」と祐樹は肯いた。「春奈はー……大学だよね」
祐樹はなかなか春菜に目を合わさず、できればはやく注文を窺いたいという様子だった。二人の間に満ちる空気は渇きを拘わってしたたかに淀んでいた。重く身から離れない嫌な雰囲気に春菜は困った。祐樹も同じだろうと思う。以前の恋人同士という関係が二人に気まずさを配布してくる。
「久しぶりだね」
「そ、そうだな」
「……元気にしてた?」
「まあまあだよ」
久々の再開だというのに、拭えない気まずさがたたずんでいる。お互いがどこかぎこちない仕草だった。「バイト、案外様になってるじゃん」と褒めると、「ありがとう」とすぐに彼は返してきた。久々だというのに、別に会話することもなかった。祐樹は注文品をメモする紙をもって、春奈が料理を注文するのを待っている。春奈は適当にメニューを選んでそれを言った。祐樹はそれをメモするとすぐに厨房のほうへと足を運んでいった。
夜だとはいっても、まだ二十二時三十分を回ったところだ。まだ店内にはいくらかの客がいた。男女のカップルらしき人物らと、一人でノートパソコンを開いている男。そしてなんとなく訪れた春奈の三組だった。それでも静かだ。とてもがらんとしている。まるで空いている席を持て余しているみたいだと思った。小さく店内に流れるBGMの音楽に耳を澄ましてみる。聴いたこともないものだったが、なんだか体の奥底の隅に密かにあった動揺を落ち着かせることができた気がした。なぜ自分は動揺なんてしているのだろうと思った。やはり、広瀬祐樹と遭遇したことが原因だろうなと思った。先ほどから胸の昂ぶりが治まらない。
どうやら自分は、まだ彼のことが好きなのだと再確認した。
パスタを運んできた店員も広瀬祐樹だった。祐樹は「お持たせしました」と丁寧に言って皿を春奈のまえに置いた。春奈は小さく礼を言ってから「ねえ」と声をかけた。「そのこげ茶の髪は染めたの?」
祐樹はなんでこんなに話しかけてくるんだよ、と不思議そうに顔を顰めていた。「まあね」と祐樹は言った。やはり彼もいささかの動揺を覚えているようだった。「君も、だね」
春奈は「気づいた?」と言ってすこし髪を揺らした。「染めたついでにパーマもかけてみたの。似合ってる?」祐樹は彼女の髪を一瞥する。そして似合っているよ、と言った。お世辞だったとしても、彼女は素直にうれしかった。葉の表面をすべって落ちる雨粒のように、素直に感情が顔に洩れた。
「バイトは何時まで?」気がつけばそう彼に訊ねていた自分に驚く。やれやれ、まだ私は彼に期待しているのだなと春奈は思った。
祐樹もその質問に表情をしかめる。けれどつけていた腕時計に目をやった。「もう三十分ほどで終わるけど」腕時計をみたまま祐樹がそう言う。「どうして?」
「じゃあその時間まで待っているわ。実は私、高校卒業してから電話を替えたの。またメアドと電話番号おしえてくれない?」
どうして、と彼は言いたそうだった。眉をしかめて本当に目の前にいる人物が鴨田春奈か確かめているみたいだった。「べ、別にいいけど」
「それじゃあ二十三時くらいになったら店の外で待ってるね」
祐樹は曖昧にうなずいて、厨房のほうへと消えていった。その後ろ姿をみるのも久々だった。まさかこんなところで初恋の相手に出会えるとは思わなかった。彼が完全に姿を厨房のほうへと消えたのを確認してから、春奈はいろいろ祐樹に訊ねたいことを並べてみた。ガールフレンドはいるのだろうか、私のことをどう思っているのだろうか、様々なものが浮かんでいった。
動揺がやがて喜びへと変わっていく。気まずさが朝を迎える夜みたいに失せていく。不確かだった感情の皮は剥けていって、なににも隠れないで素直の気持ちがあらわれた。もう会えないと思っていたのに。高校を卒業して何か月と経過した今でも、私が彼を思う感情はしたたかに貼りついていた。
3
「もう私と関わらないでほしいの」と以前付き合っていた彼女から電話がきた。その彼女の声をきいてまず僕が返した言葉は「なぜだ?」だった。「たしかに君と僕は別れた。だからって関わりを無くす必要はないだろう。いったいどうして?」と僕は訊いた。ひとしきり彼女に訊ねたあとで、僕はまだ彼女に未練があるのではないだろうかと思った。そんなことはない。そう思い込む。そうじゃないときりがない。
「祐樹君、それ本気で言っているの?」と冷えた声が返ってくる。「もう嫌よ。きっぱり別れたいの。私が馬鹿だったの」そしてぶつり、と電話は粗々しい音を上げて断ち切られた。一瞬にして音から遮断され、電話の先からは張りつめた空気をともなう沈黙がこもった。
脳裏に浮かぶ人物は一人しかいなかった。彼女だ。彼女しか見当がつかない。ここまでやるとは予測できなかった。僕は頭部をがりがりと掻きむしって、バイトへと向かった。
自宅のマンションが近づけば近づくだけ体は疲労とは別の重みをおぼえていった。自転車を漕ぐ足もじょじょに鈍くなり、ため息が何度も洩れた。夜の冷たい風が肌に振りかかってきて、瞳がすぐに乾きを訴えた。まばたきを繰り返す。マンションが見えてくると、自分の部屋の窓に目をやった。明かりは当然のように点いている。そこから彼女は僕を夜越しにのぞいているのだろうか。ぞっと背中に悪寒の糸が張られ、すぐに窓の方から視線を逸らした。
部屋にはいると彼女がいた。ソファに腰を沈ませていた。僕の顔を目にすると「おかえり!」と上機嫌に言った。つよく抱きついてくる。彼女の胸が僕の身体に圧しかかってくる。柔らかいその感触を素直にたのしめなくなったのはいつからだろうと僕は感傷じみたものを感じた。「た、ただいま」
「早く帰ってきてくれたね」と彼女は明るい声調で言った。機嫌がいいのはすぐにわかった。そして僕に唇をむけて、キスを要求してきた。正直あらゆるものが疲れを心内に運んでくるので相当参っていたけれど、しかたなく僕は彼女のその柔らかな唇にキスをした。彼女の唇はやわらかく湿っていたけれど、雨上がりのアスファルトみたいに冷たかった。そのまま彼女は舌を入れてこようとしてきたが、僕はそれを受け入れずに唇を離した。
「どうしたの? キス、嫌なの?」
「そうじゃないよ。すこしバイトで疲れたんだ。お風呂入ってもいいかな」と僕は言った。彼女は不満足そうな顔をしていたが、見ていないふりをした。「はやく上がってきてね。待ってる」そう言って彼女はベッドへと腰を降ろした。
風呂からあがると僕は疲弊を引っ張りながらベッドへと足をはこんだ。彼女は下着姿で待機していた。にこにこと不気味な微笑みをしている。「どうしたの」と僕は訊ねる。「今日はそういう気分なの」と彼女は言った。そしてすぐにブラジャーを外して僕の背中に手をまわしてきた。はたして僕の性器は動いてくれるのだろうか。なにも反応をみせない可能性のほうを考えてみる。なにをされるかわからないな。なんとしてでも僕はこのペニスを勃起させなければならない、そう思った。
僕と彼女は裸でベッドにいた。部屋はしんと静寂を拵えていた。ベッドのシーツが肌と擦れる音も繊細につたわってきた。どうだった? と彼女が僕に訊ねてきて、僕は「よかったよ」と言った。彼女は頭をそっと僕の胸部にうめてきた。細い腕は背中にまわされたままだ。彼女の肌にじんわりと滲む汗が体温とともに僕の肌に絡みつく。
「ねえ、祐樹君」
「え。もしかして満足していないの?」本音がもれてしまう。そうね全然足りないわ、なんて言われたら失神する自信があった。
「ううん。もう満足」と彼女は幸せそうに頬を僕の胸部に当ててきて目を閉じた。僕の疲れた鼓動の音に耳を澄ますみたいに。「ただ心配なことがあるの」
「いったいどんなこと?」と僕は訊いた。彼女は頬を離して僕の瞳をのぞいてきた。彼女の白い肩に魅力を感じたが、それだけだった。目をつむれば眠れるくらいに僕は疲れていた。窓は青白くなっていて、もしかすると時刻はすでに朝をむかえる寸前になっているのかもしれない。僕は現在の時刻を把握していないのだ。
彼女の視線は見据えていた僕の瞳から、だんだんと下に落ちていく。彼女のまなざしは僕の首筋をわたり、肩をなぞって胸へと伝っていく。そしてまた頭を僕の胸に寄せてきた。祐樹君、と彼女が不安そうな口調で言った。「絶対ありえないと思うけど、「あの人」とまだ話とかしてないよね? 会ったりとか、してないよね?」
「あの人」とは僕が以前付き合っていた彼女のことだろう。それならば関わっていないにきまっている。彼女があの子になにかをしたからだ。「もう私と関わらないで」というあの子からの電話。きっと彼女が何かをしたに違いないのだ。彼女があの子になにをしたのかはわからないけれど、僕とあの子がふたたび出会うことはないだろう。彼女の手によって、僕とあの子の隙間には隔たりが作られたのだ。絶対にそれは壊すこともできないし、消すこともできない。
「話してなんかないよね? ねえ、もしあの人とまだ関わっていたりするならそれって浮気だよ? 浮気になるよ」
「君がなにかしたんだろう? 昨日彼女から電話があったんだ。「もう私とは関わらないで」、って。そう言われたんだ」と僕は彼女に言った。いささか声調が上擦っていることに気づく。「あの子になにをしたの?」
「は」と彼女はあらい声をあげた。「なにそれ。祐樹君、怒ってるの?」
「怒ってなんていないよ」と僕は小さな声で言った。それでも彼女の視線は変わらなかった。しばらく彼女の瞳はそこに僕の表情をうつしだしていた。「なんでもないよ。ごめん」
彼女は僕を見つめるのをやめた。ふっと目を僕の左肩にへと逸らして「そう」と言った。その声をきいて僕は思わず安堵の息が洩れそうになった。それから僕は彼女の肩を抱き寄せた。「なにもしていないよ。あの人とは。会ってもいないし、喋ってもいない」彼女はうんうんと肯いた。それから人差し指で僕の腹から首元へかけてゆっくりとなぞっていった。
「ねえ、祐樹君」彼女がまた僕の名を言う。
「なに?」と僕は彼女の様子から機嫌をうかがいながら、言葉を返す。
「私のこと、好き?」
またそれか、と思いながら僕は彼女の頭をなでて「好きだよ」と返した。好きだよ、と。
4
バイトは週五のペースだ。そしてそのなかの三回は夜の時刻だ。店内は二十一時を回ってしばらく経ったくらいから人気が減っていき、空間に静穏が生まれてくる。テーブルを布巾で丁寧にふいて、まだ僅かにいる客にお冷のおかわりをいるか訊ねる。それからレジの会計をすまし、また皿を片付ける。頼まれたチョコレートアイスをつくってそれを運ぶ。なにもすることがなくなると、キッチンの前あたりで店内をながめた。
ドリンクバーやスープバーが並んだ場所に目をやると、僕とおなじバイト仲間の秋実ちゃんがサラダバーの補充をしていた。僕は彼女がサラダバーの量を補充している姿をなんとなく眺めていた。彼女は栗色の髪を二つに結んでいて、ほどよく肉がついている。いささか太っている、と言ってしまえばそうなのだけれど、彼女にはその体格が似合っていた。活発に表情がうごいて、よく笑う子だった。僕と同じ年なのに、なぜか後輩のような態度で接してくる子で、いつも僕に声をかけるときは敬語だった。僕がいままで交際してきた子に秋実ちゃんのような子はいただろうか。僕はこれまで付き合ってきた女性の顔を浮かべる。秋実ちゃんのように活発な性格の子……、一人だけいた。それも今では会えないのだろうけれど。
彼女はサラダを補充したあと、僕のほうをちらりと見た。僕の視線に気づいたのかもしれない。秋実ちゃんは僕をみて一瞬おどろき、そして柔らかな微笑みをした。僕もつられて微笑んだ。彼女が僕のほうへとやってくる。「することなくなったんですか?」と秋実ちゃんは僕のとなりに並んで訊ねた。ちらりと彼女の胸元に目をやる。豊かな乳房を包む制服には「中尾秋実」と記された名札がついていた。
「人が減ってきたからね」と僕は微笑んでいった。「すこし休憩だよ」
彼女は「ですね」と小さく肯いてまたにっこりと笑った。それから「……あの、前から気になっていたんですけど」と秋実ちゃんは僕の顔をしたからのぞきこんできた。そのとき制服に張り出ている強調された胸元が揺れ、僕の心をまどわしてくる。「なんでシャツの第一ボタンまで閉めてるんですか? ネクタイを締めているわけでもないのに。なんだか苦しそうです」
「癖なんだよ」と僕は言いながら、その胸のほうが制服と張りついて苦しいのではないだろうかと思った。「こうしないと落ち着かないんだ。誰でもこだわりはあるだろう?」と僕は首元を囲むシャツの襟をなぞりながら言った。こんなところまで見てるのか、とすこし照れくさかった。
彼女は僕の顔をじっと見つめていた。その無垢な印象をいだかせる丸い瞳にうつる僕はほのかに紅潮をおぼえていた。きっとどこかで秋実ちゃんに魅了されているのだろうと思う。そして、僕は気づいていた。彼女の頬も、僕とおなじように赤くなっていることを。固く閉じていた蕾が夜の隅でゆっくりと花弁を晒すみたいに。そしてさらにいえば、僕は彼女が僕に好意をよせているということにも、とうに気づいているのだった。べつに彼女に直接訊ねたわけではないけれど。僕が彼女とのコミュニケーションで感受するもののなかに、「きっとそうにちがいない」という憶測がまぎれているのだ。彼女は僕といるときだけ笑顔が本物となっていた。客や他の店員とはちがう微笑みを、僕にみせるのだ。「裕樹さん」と秋実ちゃんが僕の名をよんだ。
「これは私のただの想像なのかもしれないですけど……」
「うん?」
「最近、裕樹さん元気ない気がするんですよ」と、彼女は僕を見つめながらそう言った。それから「大丈夫ですか?」と訊かれた。なんだい急に、と僕はいささかの焦りを覚えた。夏夜の姿が脳裏によぎったのだ。彼女がどこかで僕らを見ているのではないだろうか。そんな胸騒ぎがしたのだ。「もしかして、彼女さんとうまくいっていない、とか?」
秋実ちゃんの瞳には僕の最近の様子を心配しているかたわら、どうかそうであってほしいという期待が子房から生まれたばかりの星のような輝きとなって浮かんでいた。僕は彼女のその瞳をじっと見つめて、ふっと失笑した。そうすることで皮膚の下をくぐる妙な焦燥感をも防いだ。「……いや、なんでもないよ。ありがとう」そして僕は微笑を作り、わざとに彼女に謎を残すような口調で返した。そのわからないままの状態がさらに彼女のその複雑な心情を誇張するから。僕は彼女にずっとそんな感情を抱いていてほしいと思った。秋実ちゃんは僕に好意を寄せている。だから「まあ彼女といろいろあってね」などのわかりやすいSOSのような発言は意図してひかえるのだ。
そういったテクニックを使用している自分に気がつく。やれやれ、と思った。僕はあんな恐ろしい彼女に囚われているというのに、まだ別の女性に切り替えようというゆとりが心内のどこかで残っていたのだ。性格というものは、直らないものだな、と思う。
5
いつもは肌とともに僕の心情も煽ってくるエアコンの風が今日はなかった。その悪寒がはしる風がないというのに、僕は寒気をおぼえていた。じゃあいったいどうすればこの嫌な予感から逃れられるのだろう。逃れることなんてできないのだろうな、と思った。僕は曇り空みたいな気持ちで彼女にたずねた。「ど、どうしたの?」
夏夜はソファに座ってひざを曲げていた。顔をそこに隠していて、僕はこれで何回目なのだろうとデジャヴを強く察した。夜はゆっくりと歩幅を拡張していっていた。明日が引っ張ってくる朝をつなげるために夜は雲をたなびかせて深まっていった。僕は冷や汗なのかどうか判断できないその汗をぬぐって、彼女の返事をじっと待った。しばらくして声がした。けれど顔は隠れたままで窺うことができない。「ねえ」
その声だけで僕は粟立つ。そして今日の自分の言動がとおり過ぎていく電車のように脳裏に流れていった。そして振り返ることもなく消えていった。今日は帰宅した時刻もわるくないはずだ。心当たりは――ないわけではない。一つある。でもそれが夏夜の不機嫌の原因なのか? いろいろと模索していると、やがて彼女が口を開いた。
「あの茶髪の子、好きなの?」
茶髪の子、というのが中尾秋実のことだというのはすぐに理解できた。理解した途端にしたたかな焦りと恐怖心が頭に齧りついてきた。やっぱりか。いつだ。どのときに彼女は秋実ちゃんをみたんだ。わからない。夏夜らしき女性が入店などすれば僕はその顔立ちや体格ですぐに目を奪われるはずだ。それじゃあどこかから目で追っていた? ストーキング? 昂ぶっていく胸騒ぎに襲われる。どこだ。いつ、どこでみていた。いや、もしかすると茶髪の子というのが誰を指しているのか僕は間違っているのかもしれない。自分の知り合いに茶髪の子などいくらでもいる。けれど秋実ちゃんの可能性が一番高かった。「ねえ、祐樹君」再び、彼女の声がした。僕は若干おののきながら彼女に視線をもどす。
「あの子のどこがいいの? 顔? 身体? 祐樹君があんな体格が好きなら私、努力するわ。もうすこし肉をつけるわ。それとも胸? でも胸なら私、あの子と大した差はないと思うの」と夏夜は自身の胸を僕の腕にあてて若干ふるえた声でいった。また涙が目玉を覆っていた。彼女の瞳に光があって、その光ははげしく震えた。水面に坐った月みたいに揺れていた。その震えが潤った瞳からもたらされるものなのはわかっている。鼻を啜った。
「違うよ。誤解だ。僕はあの子をべつに好きなわけじゃない」と僕はいそいで否定した。「ただのバイト仲間だ」、と。その否定が毅然なものなのかどうかは自信がなかったけれど。
彼女はまた泣き喚きはじめた。ソファの前にあるガラスのテーブルに剃刀が置いてあることに気づいて、僕はいささか混乱する。洩れてくるはずのため息が殺された。すぐに僕はその剃刀を手ではらって彼女の手がとどこない場所にへと飛ばした。そして彼女の肩を抱きかかえて、彼女の興奮がおさまっていくのをじっと待った。
どうして僕はこんな女性と出会ってしまったんだ。あのときの軽率な言動が、いまになって後悔に変わった。淡々と殺されていく溜息が固いものに変貌して喉を鋭く通っていった。
6
これはすこし積極的すぎるかもしれない。ひとしきり打ち終えた数行の文章に目をとおしたあとで、春菜は「送信」と記された箇所をじっとにらんでいた。彼はこのメールを読んで、どう思うのだろうか。祐樹がこの文面を読み終えたあと、なにを考えるのか想像してみる。きっと春菜の気持ちに感づくだろう。それは困る。いや、気づくのならそれはいいのではないだろうか。いろいろな思考が巡回し、はげしく揺れる逡巡が脳を酔わせた。もういちど自分が打ったメールの文章を読み返してみる。
内容は「休日にでもどこか夜ご飯たべにいかない?」というものだけれど、なかなかそこから送信するという行動に移せなかった。いや、その行為そのものはとても簡単なものだ。画面の「送信」としるされた箇所を指先で触れればいいだけなのだ。つい最近買い換えたばかりのスマートフォンで苦悩するのはいつものことだ。けれどこの状況はまた違ってくる。機能の複雑さで迷っているのではなく、自分の感情から煩悶しているのだ。
祐樹の顔がうかんだ。こげ茶色の髪、一重の瞳、首もとのボタンまで閉めたシャツ。彼の容姿はまばたきした瞼が開いた瞬間に世界に描かれる。とてつもなく鮮明に。そしてその蜃気楼の彼に春菜は見蕩れた。あのファミリーレストランの制服をきて、そっと晴天の空にのぼっていく煙のような微笑みをみせている。また会いたかった。今すぐにでも会いたいと思った。この部屋のドアを押してそこに彼がいるともなれば気を失ってしまうだろう。初恋の相手をいまでも私は忘れられずにいるのだ。たとえそれが一度別れた相手でも。
私はなにを躊躇しているのだろう。そう春菜は思った。いままで脳裏の空間を這っていた蔦たちが一瞬で消え去った。彼と会いたいのなら行動にしないといけない。そうためらう自身の思いを断ち切って、指先を「送信」へと赴かせた。
なんでもやってみるものだな、と春菜は自身を褒めたたえた。メールを送信したあとの返事ははやいものだった。その文面からはやはり戸惑いが所々でうかがえたけれど、結果はOKだった。ただ「夜ご飯じゃなくてお昼でもいいかな?」という条件がともなった。そんなこと、べつに構わなかった。彼といられるのなら、どの時間帯だろうと嬉しいに決まっている。大学? そんなものは知らん。
土曜日。春菜は店員にコーヒーを頼んだあと、しばし緊張に苛まれた。大学はサボった。まだ彼は姿をださない。春菜は喫茶店のテーブル席に腰をおろして自身の膝あたりを延々みつめていた。自然と指先が奇妙な動きをした。やってきたカフェの店内は木造的で、壁は大きなガラス窓が占領していた。そのガラス窓に沿うように、いくつかの木製のテーブルと椅子が並んでいた。春菜もその一席に腰を降ろしていた。祐樹の姿を求めて窓ガラスの壁をちらりと目をやるが、そこにはすたすたと歩く人たちが煙みたいに流れていく景色だけだった。その通り過ぎていく人の中に祐樹を探すが、いなかった。
運ばれてきたコーヒーにすぐ口をつけるが、味はなかった。ただ熱かった。そして緊張もほぐれることはなかった。やれやれと思った。完全にいまの自分は乙女だったのだ。高校のときにもどった気がする。私はあの時みたいに自然体で彼とはなせるだろうか。そんな不安が、突如あらわれた雨雲みたいに春菜の頭上にできた。
そのとき、扉の鈴がなった。店員たちの「いらっしゃいませー」という声も共に重なって聴こえた。木製のドアが開いて、氷がころがって触れたみたいな音がした。カランカラン、という単調な音だ。その音に春菜は過敏に反応し、そこをみる。そしてすぐに目をそらしてしまった。彼だったのだ。
「ま、待ったかな?」と祐樹はつぶやきながらこちらにやってきた。ついてきた店員に「アイスティーで」と注文して、春菜の前に座った。春菜は高校のときのような自然体を意識して、彼のほうをみる。けれどやはり緊張が絆してきて、微笑みをつくろうとした顔がゆがんだ。「ま、待ってないよ」嘘をつく。三十分ほど先にきている。
祐樹はネイビー色で白いドット柄をしたYシャツと、黒いチノパンツという服装だった。Yシャツはすべてのボタンが閉められていて、律儀にまっすぐ並んでいた。袖を折っていて、左手には使い慣れた腕時計をしていた。「なんだかー……久々だね」と彼はいった。右手を忙しなく自身の右太ももの面をさすっていた。
「そうだね」と春菜はいって、頬が佩びていく熱を冷まそうとした。できなかった。これからどうすればいいのか、わからなかった。「バイトは何時から?」
「夜の七時からなんだ。忙しいよ」そう祐樹はいった。店員がアイスティーを運んできた。
そう、と春菜はうなずいてコーヒーをまた一口呑んだ。唇を離したあとでも、春菜はコーヒーをじっと見ていた。もう二杯目のコーヒーは仄かに湯気を頭に昇らせていて、春菜の頬にやさしくまとわる。祐樹はアイスティーにガムシロップとミルクを注入していた。祐樹もどうやら春菜と同じくらい緊張と気まずさを覚えているようだった。ストローでゆっくりとかき混ぜながら祐樹がぎこちなく「大学はどう?」と訊いてきた。「楽しいの?」
「……まあ、そこそこ」と春菜もぎこちない口調でいう。後半につれて声量が減っていった。大学なんて、高校の頃と比べればつまらないに決まっている。彼のいない空間に春菜の感情をたかぶらせるものは何もないのだ。
「ここ、お洒落だね。よく来るの?」
「う、ううん。そんなことないよ」
「そ、そうなんだ。ていうか、こんだけガラス張りだと外から丸見えじゃん」
「……だね」
祐樹がなんとかしてこの空気感を和らげようとしているのは分かっている。とてもありがたいし、春菜もそうしたかった。それなのに、どうしても昔みたいになれなかった。春菜は祐樹の恋人だったときの過去を思い出すことに努める。自分から誘っといて、これじゃダメだと言い聞かせる。
「ほんと……その久しぶりだね。卒業以来じゃないかな」
「そ、そうだね。久しぶり」
祐樹はどうでもいい質問などをし続けた。春菜はそれに答えては黙った。すぐに沈黙が再来してくる。その沈黙をどうにかしようと祐樹はやはり喋ることを続けた。けれど表情はぎこちなかった。以前交際していた恋人という関係が、うまく空気を調和させなかった。祐樹は助けを求めるように外に目をやり、過ぎ去っていく景色にとりのこされながらアイスティーを一口呑んだ。それが喉を流れ終え、やがて「やっぱりなんだか気まずいね」と声を洩らした。「別れて、そんなに間もないよね。」
二人が別れたのは今年の五月ごろだ。そのとき祐樹は「ごめん、他に好きな子ができたんだ」と言葉を残してどこかへと消えてしまった。突然別れを言い残して消えた祐樹に、そのときは漠然としたままだった春菜だったが、時間が積まれていくにつれて彼に対して怒りが沸いてきたし、そしてなにより寂しかった。やりきれない思いが部屋によどんでいくにつれて、彼を忘れることが困難になっていった。彼がいなくなった部屋の窓は無情な夜を横断させ、退屈が染みでた朝を殺し、空のまばたきみたいな夕日を流していった。春菜はどこかで祐樹を待っていた。自分の左手につたわる右手の温もりを思い出しながら、待ち続けた、けれど。彼はやはり来なかった。ただただ単純に、流れる季節の糸を目で追うだけの生活がたなびいていった。
それなのに今、彼はここにいた。自分の目の前で、アイスティーを持ちながら窓の外を見ていた。二人の間には意固地な静黙とした空気がただよい続けている。カフェの天井にはあまり意味をもたない木製のシーリングファンが規則正しく回転しており、外はほのかに風が走って歩道と道路をへだてる樹木の葉をゆらしていた。コーヒーの水面は湯気をうしない、動きもみせずにそこにある。揺らめきもなく、まるで二人みたいに、そこにあるだけだった。
皮膚にくすぶるその焦燥をはらうように、春菜は声を出した。「ね、ねえ祐樹くん」そこで死んでいたコーヒーを口に含む。大丈夫だ、まだ完全に冷え切ったわけではない。春菜は、太ももの上で拳を握り、声を振り絞る。祐樹は微妙におどろきながら、「なに?」と目をこちらにやった。それからグラスをコースターへと置いて春菜に耳をたてた。
ああ、もう戻れない。春菜は覚悟を決めて、小さく息を吐く。「えっと……ね?」このチャンスを、逃すのは惜しい。この今を。私は。春菜はちらりと祐樹の顔をうかがう。うん、と祐樹は小さく肯いた。
「祐樹くん、今もその「新しくできた好きな子」といるの?」
祐樹はわずかに瞼を拡げ、そして苦い表情をみせた。春菜はから目を逸らして、「ど、どうして?」と小さな声をはいた。春菜はそんな彼の態度にじれったさを感じた。「なんとなくだよ。なんとなく」これはまだ私が彼に未練があるっていうことに気づかれたな、と思った。まあ、いいか。諦めのようなものが、すとんと腹の底に落ちた。
祐樹はしばらく沈黙をかぶっていた。その沈黙は幾分おもく感じ、春菜の頭上から押し寄せてくる。祐樹はアイスティーの氷を口にふくんで、それを噛み砕いた。春菜は目を合わすことができなかった。氷がくだかれる音がなくなると、また沈黙が寄り添った。
「まあ、ね」祐樹は春菜の顔をみずにそう言った。春菜はそれを聞いて、「そっか」と息を洩らした。べつにわかりきっていたことだった。今まで彼に恋人がいなかったことなんて一度もなかったから。高校のときも。いまでも。案の定だった結果なのに、やっぱり落胆している自分がいるのも否めない事実だった。私は所詮、「以前の恋人」なのだ。祐樹からすれば、春菜は過去なのだ。
先ほどまで沸きあがっていた彼に対する期待は、鮮明さが欠けていき輪郭が鈍くなっていった。けれど。その期待が完全に消滅することはなかった。その感情は淡くかすんだ状態のまま隅へととどまったのだ。まだ希望はあるかもしれない。そう諦めきれない気持ちがあった。断ち切ることのない感情が。拳をにぶく握ってみる。祐樹はそんな彼女の様子に目をやり、「でも」と声を洩らした。春菜はすぐに耳をとがらせた。彼はとうに飲み干したアイスティーのグラスを見つめていた。残された氷はおもむろに溶けて輪郭を変貌させていっていた。著しく穴が空いたものもあれば、水になったものもあった。「ぶっちゃけるとさ、つらいんだよね」
「え?」と春菜は声がこぼれた。つらいんだよね? 彼の言葉が脳に密室での煙みたいにこもる。「どういうこと?」
裕樹はふっと自嘲気味な失笑をもらした。「正直、参ってるんだ」水滴がグラスの面をまるでドアの隙間から差しこんでくる光みたいに垂れる。それは誰かの涙のようにも思えた。それは誰だろう、と考えてみる。それは広瀬裕樹なのだと、春菜は思った。彼は泣いているのだ。グラスをすべる滴はテーブルの上に落ちてすぐによどんだ。彼もそうにちがいない。頬を伝った一粒の涙はそのまま床におちて、そこに溜まる。
そうおもうと途端に、春菜はいままで見えなかった裕樹の表情がわかってきた。それはたしかに彼だった。広瀬裕樹という、春菜の高校時代からの友人で、初恋の相手だった。その関係に変更点はない。しかし、もう彼は彼ではなかった。春菜の初恋を捧げた広瀬裕樹と、いま彼女の目の前にいる広瀬裕樹はいくぶん、変わり果てていたのだ。なぜ気づかなかったのだろう。彼は過去とくらべて、大分やつれていた。頬は削げたように痩せていたし、肌から窺える色合いはいささか血液の量が足りていないように思えた。すこし白い。日焼けがどうとかではなく、白かった。唇ははげしく乾いていて、なんだか今まで似合っていたように思えたネイビーのドット柄のYシャツもくたびれているようにみえた。
春菜は裕樹と再会して舞い上がっていた。だから彼の著しい変化にも気づかなかったのだ。彼の瞳には以前のような血の通いがうかがえられなくて、彼女の初恋をかどわかしたあの優しくやわらかな煌めきが枯渇して代わりに哀しみが満ちていた。
いままで彼を美しく誇張させて魅せていた自身の視界が、徐々に現実をそこに取り入れていった。今まで彼を映していた視界は春菜の喜びの感情がフィルターのようなものを被せていた。それが剥がれたのだ。フィルターを剥がすと、そこには変わり果てた彼の容姿があって、彼女は幻滅のようなものを覚えた。
「裕樹くん……」と春菜はゆっくり彼に言った。彼になにがあった。どうしてこんなに変わり果てているのだ? コーヒーの面が生気を戻したみたいにたゆたい、よどませていた真っ白な光がぐるぐると回った。まるで見てられなかった。裕樹の姿はほつれて古くなった服を連想させた。こんな疲弊を隠しきれていない男に、私は心を踊らせていたのだと思った。彼のくたびれた姿はまるで――。
「生き急いでるように見えるよ」そう思った。そしてそれを声にしてしまっていた。言わずにいられなかったのである。
7
店内の制服から持参の服にきがえる最中、僕はロッカーの鏡に目をやった。鏡は薄汚くて不潔な印象しか抱かなかった。けれどそんな不潔さも口実にできないくらい、そこに映る僕の顔はひどいもののように思えた。
まず、全体的にやつれていた。店の中ではなんとか笑顔で接客しているつもりだったけれど、疲労をなにも隠しきれていないことに気がついた。他の方たちもその僕の様子から忌憚しているのかもしれないな、と思った。自分の周りにこんな男がいれば、声をかけるのもはばかってしまう。
次に、顔が青かった。血の気がまるで感じられなかったのだ。それは無機質な白い壁のようにも思えた。仄かに湿りをたくわえた壁だ。なんてひどい顔だろう。顎を触れてみると、ひげも剃れていなかった。思わず苦笑がもれた。誰もいない更衣室の空間は、その苦笑を拡散した。そしてあとを追うように溜息がこぼれた。もう一度鏡に目をやると、そこにはやはり過去のような活気を窺わせないいくぶんと瘦せた僕がいた。
自転車をこぐ足は重いし、鈍い。ハンドルを握る手も白かった。皮膚もくたびれた布のように思えてきて、骨の輪郭も露骨にみえる気がした。うっすら覗える血管もなんだか細く思えた。髪もだらしなく伸びていたけれど、床屋にいく気は湧かなかった。僕はコンビニエンスストアに立ち寄り、髭を剃るためにシェービングクリームとT字の剃刀を購入した。
シェービングクリームと剃刀がはいった袋を自転車のかごに放り投げ、またサドルに腰をおろす。ペダルに片足を置くと、彼女の顔が脳裏によぎった。いったい僕は彼女と出会って、どれだけのものを失ってきただろう。数えるのが怖かった。だからやめた。
マンションに帰ると、彼女はやはり待っていた。いつものようにソファに腰をおろして、音量がとぼしい気がするTVを見つめていた。僕が帰宅したら早々になにかを言ってくるような気配がないから、今日は機嫌がいいのだろう。それに理由も浮かんだ。
「裕樹君おかえり」と彼女はTVから目を離して僕を見つめてきた。僕はうん、と肯いた。彼女はにっこりと微笑んで「今日はあの茶髪の人と話していなかったね。嬉しい」といった。
僕はまたうなずいた。あまり声を発したくなかった。先ほど鏡に映っていた自分のあのひどい顔が浮かんで、その拭えない悲しみが夥しい疲れを運んできた。心内のかごにそれを軽々しく放り投げてきて、的確にその疲れはそのかごに吸い込まれていった。それなのに、そのかごにはいつまでも余裕があった。まだまだ入るぞ。もっと投げてこい、とでも言うように。降ってくる疲労を掴んでそれをぽい、とかごの底へと落としていくのだ。その作業の循環は実に円滑なものだった。
「でもこれが普通なんだからね? あんなの、浮気みたいなものだから。ほんとに。浮気なんてしないでね」彼女はしつこく訊いてくる。僕は彼女に背をむけていた。それは自分が歯を食いしばって涙をこらえているのが気づかれたくなかったからだ。ぐっとそそり立つ憤りをしずめようと努める。
わかったよ、と僕は小さな声でいった。「今日はバイトが忙しくて疲れたんだ。眠らせてほしい。お風呂にはいって、今日はすぐ寝たい」いままで佩びていたはずの湿潤さはもう無い。僕は洗面台のほうへ向かった。彼女もわかってくれたのか、「いいよ」と承諾してくれた。僕ははじめて彼女に感謝した。
それがファミレスの更衣室のロッカーについた薄汚い鏡だろうと、自宅の洗面台だろうと、僕の顔のひどさが変わることはなかった。やはり輪郭は痩せこけているし、いままであった顔の筋肉もいくらか削がれている。所々で死んでいた。唇はどれだけ舐めても湿りを取りもどすことはなかった。
僕の身体すべてが、血液を欲していた。それなのに現実ではその残った血液すらも没されていく。ずっと自分の顔を見つめていると、どうりで性欲も湧かないわけだ、と腑に落ちた。そして自嘲気味に苦笑をもらし、涙があふれる感触をおぼえた。なぜ涙はでるんだ、と思った。それを血に変えろ。震える声はだしたくなかったから、必死にその声量を殺した。だめだった。むせび泣く自分の姿がすぐに浮かんで、彼女にそのことが気づかれるともなればどんな億劫なことになるか。彼女はわからないのだ。自分がこの原因なのだと。ちっとも理解することはないのだ。
涙をかくすために風呂場へはいってシャワーをだした。熱をもった細かな雨は僕の頬をぬらすのだけれど、涙の余韻までを欠如させることはできなかった。また新しく溢れてくるのだろう。顔を集中的にシャワーをあてた。髪を掻きあげ、過去とくらべるといくぶん骨本来の感触にちかづいてしまった自分の顔をこすった。
湯気が空間を曖昧にしていく。ぬるい湯船につかって、じっと湯気に襲われていく天井をみている。シャワーがとまると途端に沈黙へとかわった。僕はその静寂に深く埋もれていくのがわかった。
風呂場からあがるとエアコンで冷えきった空気が寄り添ってきた。バスタオルでひとしきり拭きとり、ドライヤーで髪を乾かした。黄色いステテコパンツをはき、適当にTシャツをきた。エアコンの風がやってくるほうへと向かうと、彼女がソファに坐って泣いていた。彼女はまた膝を上げてそこに顔を埋めていた。
僕は彼女へと近寄り、「どうしたの?」と訊ねた。理由など、訊かなくてもわかっていた。どうせ浮気がうんぬんなのだ。それなのに無視は許されない。ガラスのテーブルに目をやる。剃刀はない。ほっと安堵して、僕は今日も「大丈夫だよ。大丈夫」と慰めながら彼女の頭をやさしく撫でるのだった。影と伴って引き摺っている疲弊は、影よりも濃くなっている。僕は大丈夫じゃなかった。
8
携帯電話の画面にうつる写真をみるたびに、僕は以前付き合っていたある彼女をおもいだした。彼女はいつも僕に優しい微笑みをみせてくれたけれど、内心僕はなにも興味はなかった。彼女と出逢ったのは偶然だった。そしてその出逢いにも僕はなにも感じるものはなかった。
それなのに僕は彼女と交際した。唯一理由をあげるとしたら、僕が当時付き合っていた子に飽きを覚えつつあったからだ。彼女が僕を気にして、好きになっていく過程はとてもわかりやすかった。彼女の感情はすぐに表情にあらわれ、僕がすこし落ち込んでいるような態度をとればすぐに心配そうな表情をつくった。彼女は僕が述べることすべてを鵜呑みにし、すぐに感情が芽をみせて僕にそれを告げた。その単純さに苦笑してしまいそうにもなった。
そんな彼女と、僕は桜を見にいったことがあった。桜自体に僕はあまり興味はないのだけれど、彼女はその華やかな景色を感銘そうに見つめていた。確かに桜は綺麗だった。並んだ樹木はうすい桃色に優しく包まれていて、空気を柔らかくその色に染めていく花びらはおもむろに地に落ちていった。限りなく白に近いピンクの桜の雨は、僕の肌に触れてふっとまた離れた。乾いた地面をふむ雑踏の足音と、それに並んだ屋台と風の糸。そしてはためく花びらは舞って僕の視界に流れていく。雲の切れ端みたいに、だ。
舞い散る花びらは一枚一枚が瑞々しい美しさをたずさえて急峻な坂をように注意深く、ぎこちない歩みで空気を舐めている。彼女はデジタルカメラで何枚か写真をとっていた。僕はそんな彼女のそばをゆらゆらと揺れながら空気と遊ぶ一枚の花びらを見つめていた。それはゆっくりと僕をよこぎり、せせらぎが静かに聴こえる方へとむかっていった。僕もそれを目で追った。そして気がつけば携帯電話のカメラ機能にしている自分に気がついた。その景色は、桜の木よりも美しく桜の群集をたたえていた。
おびただしい数の桜の花弁がよどんだ川面は、その桜とおなじ色彩を得ていた。ゆっくり花弁の集いを流していくせせらぎは仄かに僕の瞳もその色へと染めた。そして僕はそのなにかを言っているような景色をそのカメラにおさめた。
「綺麗ですねこれ」と秋実ちゃんは後ろから写真をのぞいて僕に言った。「これ、どこかの川なんですか?」
「そうだよ」と僕は言った。「前に桜を見にいったんだ。それでその散った花弁がその川に落ちるんだよ。それが積まれていって、川がもはやピンク色になるんだ」
彼女はその写真をじっと見つめていた。すぐ視線のとなりで彼女の豊富な胸をかんじた。僕は写真がうつった携帯電話をテーブルに置いて、すこし彼女から距離をとる。三十分ほどの休憩時間をもうけた僕はただなにもせずにいた。休憩室はがらんとしていて、細長いテーブルとパイプ椅子がいくらか並んでいるだけだった。
彼女は写真をひとしきり見終えると「いいですねえ」と言いながら、僕にその携帯をかえした。そして僕のとなりへと坐った。多分、彼女はいま勇気をふりしぼっただろうと思う。僕のとなりに椅子をもってきて腰をおろした秋実ちゃんは、頬がいささか赤く染まっていた。そして嬉しそうでもあった。それを僕に気づかれないように表情をこらえている。
「それでこの桜、誰と見にいったんですか?」と彼女は僕にたずねる。それから「もしかして彼女さんですかー?」と続けた。彼女の表情は不安定にゆれていた。不安そうでもあったし、そうだろうなという諦めのようなものも窺えた。
「まあ、元カノだよ。元カノ」と僕は正直にいった。それからなんだかそれだと僕が昔の女を引き摺っているみたいだな、と語弊があるような言い方になってしまったと思った。
彼女は軽く落胆した表情をみせ、すぐに微笑みをつくった。「やっぱりー」とわざとらしく誇った口調で言った。「ということは今カノがいるんですね?」彼女が僕に抱いている感情をしっている自分は、先ほどからしてくる彼女の質問すべての意図を見抜いていた。積極的だなと思う。たしかに休憩時間に僕と秋実ちゃん二人きりだということはあまりない機会だったけれど。
彼女は僕と二人でいるこの状況に緊張を隠せていなかった。こわばった頬が引っ張って表情も満足にうごいていなかった。ずっと手の平を太ももにそえて、視線をそこへと落としていた。「あの」と小さく彼女は言った。「もう一ついいですか?」
「どうぞ」と僕は言った。
「……その彼女さんはどんな人だったんですか?」
なにを。なにをそんなに僕の以前交際していた女性のことが気になるのだろうか。僕には不思議だった。僕ならまず現在交際している異性のことについて訊ねるのに。もう別れてしまった相手のことも知りたいものなのだろうか。彼女に目をやると、彼女は僕に目をあわせたりすぐに逸らしたり、と繰り返していた。せわしなく変更される視界に僕の顔は映ったり映らなかったりしている。それから僕はできるかぎり以前交際していたあの子のことを思い出してみた。
彼女と付き合ったきっかけなど僕の不純な思惑からはじまったことだった。けれど、今思い返してみれば彼女はとても付き合いやすい女だった。顔つきも身体も僕の好みとはすこし反してはいたが、同じ時間を過ごしているととても落ち着くことができた。居心地のよさを彼女には感じていたのだ。
彼女はどんなデート場所だろうと、楽しそうに僕に振舞ってくれた。とても熱心に僕の話もきいてくれた。そして露骨にそれにおぼえた感情を表情に投影した。よく笑う子で、僕もつられてよく笑みをこぼしたのを憶えている。彼女と過ごした歩幅の記憶が、忘れかけていた空白から滲んで描かれていった。僕の心内にのびていた蔦に感傷じみた雨粒がしたたり、やがて後悔にかわった。
馬鹿なことをしたな、と今更になって僕は彼女の重要さに気づいた。それから立花夏夜という女の存在に憎しみのようなものを抱いた。あのとき、偶然出逢ってしまったのが糸口だったんだ。僕があのとき彼女を見てしまったから。立花、夏夜。どうしてしまったんだろう。僕は。なぜ僕は今あんな女と同居しているのだろう? 彼女のその容姿に見蕩れてしまってから、どれくらいの過程でこの様になってしまったのだろう。戻りたい、と思って後悔してもやはり僕の隣には立花夏夜の存在しかいなかった。もう。あの子は帰ってこないんだ。もう会えない。会えたとしても、気まずさが僕を襲うだろうと思う。
9
どうやら私は裕樹くんのことになると、ついつい自身の想像が加入して大げさに考えてしまうらしい。足の爪をきりながら、春菜はそのことに気づいた。裕樹と別れて、何時間か経過した。とっくに外は夜がこぼれ落ちてきていた。陸にまで垂れおちた夜はそのまま街を鵜呑みし、静謐な空気感を仕上げた。
足の爪をきることに深い意味はなかった。空で憔悴した雲が埋もれて雨が降るみたいに。ただただ気まぐれな思考からもたらされただけだ。爪でも切るか、そう思っただけだ。けれど、あえて理由を述べるとしたら自分を広瀬裕樹という存在から気を紛らわしたかったのだ。
喫茶店での裕樹の顔つきを春菜はおもいだす。頬はこけていて、幾分くたびれているような気がした。しかし、それが正確かどうかは漠然としていた。彼がしたたかに疲れているように自分が勝手に想像して見ているだけかもしれない、と思えてきたのだ。誇張した表現なのかもしれない、と。春菜は裕樹のことになると視界が真実だけを映しているものとは限らなくなる。きっとどこかに自身の望みなどが侵入してしまっているのだ。自分が裕樹を求めているという感情が揺れて。
爪を切る仕草がとまる。それから春菜は自分の底の隅あたりに現れている邪気に気づいて失笑した。どうやら私は、どうか裕樹くんが現在のガールフレンドとうまくいっていないで欲しい、と期待しているらしかった。彼の隣には私の知らない女ではなく、私本人がいい。そう願ってしまっていた。やはり春菜は裕樹のことを忘れることができなかったのだ。高校時代から春菜の感情はまるで変わっていない。広瀬裕樹が関わっている記憶はどれも鮮明に、まるでたった今生まれたみたいに残っている。このもどかしく揺れる思いを、この足の爪のように簡単には断ち切ることはできない。
祐樹のメールアドレスと電話番号を獲得した春菜は、気恥ずかしさを携えながらも何度かメールでやり取りをしていた。電話はさすがに無理だった。それはまるで高校時代のときに戻ったみたいで、春菜は返信が届くまでの空白にじれったさを覚えた。メールを送って返事が帰ってくるまでの間隔はいつも春菜に焦燥感をあたえる。すぐに様々な葛藤や煩悶に蝕まされてその空白が延びれば延びるほどそれは募っていった。返信が気になってじっとスマートフォンを見つめることもあった。やれやれ、と何度も溜息がでた。これじゃまるで初恋にもだえる女子中学生じゃないか。大学生だぞ自分は。思わず笑みがこぼれた。
そしてひとりでに携帯電話が震えだすと、春菜はすぐにそれを手に取った。新着メール一件、と表示されている。春菜はその文字列だけで激しく高揚した。裕樹にとってはメールの返事など、どうでもよいのかもしれない。けれどその他愛もない文面だけで、春菜は世界がきらめいて弾んだような喜びと緊張をおぼえるのだ。その返事をまた思索する。電話の画面を空白が占領する。募って埋もれていく言葉から一つ摘みとり、白紙にならべる。そしてすぐに消した。高校のときでもここまでメールの返事で懊悩したことはないだろうと思う。前はもっと気楽に話せていたはずなのに。以前の鴨田春菜という人物は過去の夜にすがったまま喪失したのだ。高校時代の終りを告げた夜に、その自分自身もとどまってしまったのだ。今では自宅のマンションのベッドで壁に背をあずけて、ただひたすら巡回する思考とみつめあっている。
思いつく言葉をただ打ってみる。けれどすぐに消してしまう。なるべく会話を続けるために質問などをするのだけれど、その質問の内容はどれもこれも異性のことばかりだったのだ。現在のガールフレンドとはどう知り合ったのか、だとか。その人はどういう性格で、どういう容姿なのかだとか。すぐ彼が現在交際している恋人のことになってしまうのだった。裕樹はもう春菜が自分のことに恋心を抱いていることを洞察しているのだろうか。もう気づいているのだろうな、と思った。高校のときの記憶を辿って彼という人間の詳細を思いだしていくと、すぐに確信できた。彼はとても鋭かったし、すぐに人の感情も見破っていた。
ならいっそそれでいいじゃないか、と開き直って春菜は自分が訊きたいことをそこに並べた。読み返すとわかりやすく自分が彼のことを好きなのだとわかったけれど、もうそれでよかった。そのまま目を瞑って「送信」の箇所を指でつついた。それから「あーあ」と声が洩れた。送っちゃった。まだ文面を打っていた指がこわばっている。見えない鎖で拘束されているみたいだ。その呪縛から離れたくて、携帯電話を床になげた。枕に顔をうめた。すこし横に顔をむけると、全体の部屋の模様がみれた。白い壁にかかったコルクボードとカレンダー。小さな液晶テレビと赤い置時計。丸いテーブルとクッション。なにの面白みもない部屋だった。この部屋に裕樹がいたら、という妄想が勝手にながれる。頬が熱をおびた。
夜はおもむろに深みを増していき、まだ僅かな白みのある底も侵食していった。街も雲もその色に染まっていく。そんな夜のいそしみを見ながら、電話が震動するときを待った。
粗い軋み音のようなものを放ちながら、電話が床をうごめいた。春菜はすぐにベッドから身を起こして、それを手に取った。そして新着メール一件、を確認した。裕樹からだった。それだけで奥底から高揚がせり上がってくる感覚があった。そして春菜は一瞬、冷静さを失った。その文面にちらりと見えた「好き」という言葉が、春菜の思考をかき乱した。
「もしかして、僕のこと好きなの?」短く、そう書いてあった。なにも絵文字はなかった。その整然とならんだ言葉に飾ったものはなかった。ただ、その一行だけを何もない空白が語っていた。どう返答すればいい? と自身に問う。それにしても祐樹くんも大胆な賭けに出た内容のメールを送ってくるものだ。高校のときと変わらない。自分と交際していた頃の祐樹くんと。それからまた返信の文面について頭を抱える。どうすればいい? 「うん、そうだよ」と言えばいいのか? 彼はなにを考えている? 一つの線がいくつにも裂けて分かれて混乱をよんだ。
いささかだけ、冷静になる。それから文章を考えようとしてみる。違う。春菜はその電話の画面へと目を落とす。うん、好き。そう書いてしまっていたのだ。そう文章を完成させてしまっていたのだ。指が震えている気がする。それでも送信に赴いているのが理解できた。このもどかしさから断ち切らないといけない。
電話をまた床に投げてから、しばらく春菜は窓から夜をみていた。夜は更けていき、樹から落っこちた孤独な林檎のような月を浮かばせていた。この月が、静かに。静かに夜を語りだすのを春菜は待った。
彼からのメールの返事は早かった。ありがとう、という礼が冒頭にあって、二文目には「助けて」という言葉が見えた。
10
ゆっくりと手を伸ばした新しい朝が、窓をすり抜けて服の袖を掴んできたような気がして、僕はゆっくりと瞼を持ち上げた。カーテンの隙間から忍びこんだ光は幾何学的な模様をベッドの布団に描いていた。時計を見ると、時刻はまだ七時に到達してすぐの頃だった。それから指先が何かに触れて、それを確認すると彼女だった。彼女はまだ僕の隣で小さな寝息をたてて眠っていた。それでいい。そのままでいいのに、と図らず洩れた思想をかき消すように僕は彼女の寝顔から目を逸らした。
朝はまだ未熟で、子供のようだった。カーテンからそっと外を覗く。遠くで鳥の鳴く声が舞っていて、空は翳んだ白みが全体を覆っていた。その白く伸びた霞みのほつれた箇所から窺える青は克明とした輪郭を得ていた。そんな空をみて、僕はあの日を思い出した。あの時もこんな天気だった。そして、彼女の顔が――鴨田春菜の顔が脳裏で燻りつづける煙の中から現れた。その煙は次第に色彩を手にしていく。その色は鮮やかな桃色だ。燻る僕の心は、桜の花弁なのだと思った。水面に触れ落ちるまで、あとどれくらいだろう。
鴨田春菜は、高校時代の最後をしめた恋人だった。夏夜と出会ったのはその次だ。僕は正直、鴨田春菜という人物にそれほど興味はなかった。けれど恋人の関係を持った。理由は僕が当時付き合っていた女に飽きを感じていた頃だったからだ。当時僕と共にいた彼女はいろいろと性格も合わない箇所が判明してきていて、告白してしまえば一緒にいる時間が億劫に思えるほどだった。しかしなかなか別れを告げることができないまま未来を減らしているのだった。そんな時に、鴨田春菜と出会ったのだ。
鴨田春菜と交際をはじめた後も、実はいうとその彼女とは別れられずにいた。要するに浮気だ。それが僕の初の浮気だった。そのことを鴨田春菜は承知してくれた。「それでもいい」と春菜は僕に言ってそっと肩に寄り添ってきた。そのときの彼女の声を今でも僕は覚えている。春菜の声は、その彼女に対する罪悪感と仄かな喜び、そして淋しさの水が含まれていた。けれど彼女はそれを我慢して、僕の手をぎゅっと握っていた。そんな春菜の様子をみて僕はその彼女に別れを告げようと決意したのだ。
結末は、僕が罪深い男のままで終了した。その彼女は「そう」と弱く悲しそうな声調でそう告げて、僕の隣からふっと消えた。喪失した自分の隣には虚空な空気とそよそよとした弱輩の風だけが残った。その様を、じっと僕は見つめていた。僕の隣には、鴨田春菜が幸せそうに立ち黙っていた。
それから僕の歩幅は鴨田春菜の足幅に合わさるようになった。いままで曖昧に輪郭すらも携えていなかったものが、遂に形を持ったのだった。僕はいつまでも心に薄汚く残った泥のよどみをその足元に引き摺らせながら歩み続けた。
そんな僕らにも、季節は振り返らず時間を縫い合わせていった。降り落ちていく雪は、花びらに変わった。桜が咲いて、春の季節が僕らを巻き込んで立ち止まったのだった。春が冷ややかな季節の隙間から溢れだした様を春菜は肌で把握して、「桜を見に行きましょ」と僕を誘った。「私ね、季節のなかで一番春が好きなの」と窓を見ながら彼女は言った。「どうしてだと思う?」
「どうして?」と僕は訊ねた。
「名前に春という文字があるから」そう言って春菜は僕に振り向き、楽しそうに笑った。
そして僕らは桜を観賞しにいった。丁度その頃は実ったばかりの桜が豊かに姿をみせていて、絶好の期間だった。花見会場は豊潤に色づいた桜の森が完成していて、地面に降り落ちた花弁が深まって足元を彩っていた。春菜は黒タイツにネイビーのショートパンツを履き、白いニットセーターを着ていた。その上から深緑色のモッズコートを羽織っていた。僕はブーツに黒のスキニーパンツを履いて、ネイビーのパーカーの上に黒のチェスターコートを羽織っていた。春菜は白いデジタルカメラを持参してきて、行き交う桜の群集をそこに収めていた。とても楽しそうに写真を撮るものだから、僕もなんだか嬉しくなった。
僕は「綺麗だね」と呟きながら、それぞれの桜の樹をひたすら眺めていた。流れていく花弁と、優しく揺れる桜は、僕の視界を一色に染めあげる。他にもいる人たちも同じように写真を撮ったり、屋台で買った食べ物などをつまんでいる。僕もなにか食べようと思った。コートのポケットから財布を取り出しながら、桜と共に並ぶ屋台の種類をながめる。いろいろなものがあった。
どこかで手を振る風が吹きかけた桜はそれに従って揺れて、そこからまた新しく散った花弁に別れを告げた。散れた花弁は独りになって、ゆらゆらと宙を彷徨っていた。僕はその花弁を見てた。目的も見つけられず流離い続ける花弁は、あと少しで自分も眼下に埋もれる屍の束の一部になることを理解しているようだ。するとなんだか僕は悲しい気分に誘われた。美しく散った花弁はそこで終わったのだ。死んだ。そして折り重なった屍の隙間に埋まって眠るのだ。花弁の生気をかどわかしていく空気はまだ冬の心残りが含まれていて肌寒い。散り続ける花弁を僕は目で追う。ゆらりと気まぐれに泳いで僅かな余生を持て余している。花びらはなんだか僕のように思えた。
流れていく桜と花弁の隙間に、ふと幻想的な川面がちらりと覗いた。僕は湖なんてあったのか、と気づいてその花が舞う水辺のほうへと向かった。桜の森をくぐりぬけ、その水面に散乱する桜たちの舞踏を魅せられる。
その川面は、散れた花弁に埋もれていた。弱くやわらかい風が水面に薫った凪の表面をなぞり、そこによどんだ花弁は小さく動作をうかがわせる。乱れ落ちた桜たちは、静かにそこに満ちていた。風紋にゆだねて揺れ続ける水と桜が僕の視界で踊りつづけた。
僕はそれを見ていた。ただただ見つめていた。僕は感銘を受けていたのかもしれない。しばらく、その景色に耽っていた。その花弁は一枚一枚が僕にみえたのだ。そしてなんだか悲しい気分が、忘れかけていた感情の隅から夜を抜けてやってきた。僕はコートのポケットから携帯電話をとりだして、写真を何枚か撮った。景色の写真を撮るなんて初めてのことに思えた。流れる花が僕の背後で舞っていて、音もなく、こわばってしまった感情の頬をくすぐった。
「綺麗だね、ここ」と声がした。振りむくと春菜がカメラを構えながらそこに立っていた。「これぞ桜の醍醐味ね」と嬉しそうに呟きながらシャッターを何度も押していた。
そうだね、と僕は肯いて微笑んだ。その微笑みは自然とうまれた。そんな自分に、すこしだけ安堵した。まだ僕は動くのだと思った。手放してしまいそうだった大儀的なものを、なんとか気づけたのだ。桜はずっと僕の中で踊りつづけていて、暗示的な春を拵えていた。
春菜も僕の隣でその川面をながめていた。川面の上をすべる凪にあやかり、我々は様々な思想にもつれていった。
ねえ、と春菜が視線をかえずに口を開いた。すぐに僕は「なに?」と訊き返した。
「祐樹くん、一つだけ、約束してもいい?」優しい風の糸は空から垂れて、ぷつりと途切れていた。
「それはどんな約束?」と僕は訊く。降っていた花弁が円弧を描く。彼女が僕の手を掴んできた。
「もし、祐樹くんが私じゃない他の女の子を好きになったとしても、私は絶対来年もここに二人できて、この川面を眺めるわ」
「どんなことがあっても?」
「うん」と春菜はすこし肯く。「祐樹くんが私に興味がなくなったとしても、私は絶対に来年もここにくる。そして今みたいに祐樹くんとこうやって手を繋いで、桜を見るの」
ひとしきり彼女が話し終えたあと、僕はいささかの気持ち悪さを春菜に覚えつついた。僕の右手を握りしめている彼女の手は強く、じっと離すことは無かった。そのとき僕は、目を閉じた。
コップに注いだ水を呑み干したのに、僕は乾いたままだった。彼女はまだそこで眠っていて、ベッドのシーツは彼女の肌をやわらかく包んで隠している。僕は、約束に答えられるのだろうか。飲み干した水が一緒に連れて流れていってしまう前に、花弁に訊ねておく。知らない。僕は、僕のことをなにも知らないのだ。だから桜に訊くのだ。だから、川面に問うのだ。
11
あの部屋が脳裏によぎると、すぐ僕に嫌悪感がよりそってきた。夏夜はあの部屋に、いつものようにいるのだろう。ソファか、ベッド。どちらかに腰をおろして僕の帰りをじっと待ち焦がれているのだろう。そう思うだけで、僕の皮膚を悪寒が指先でそっと撫でてきた。更衣室の鏡には変哲なく僕のくたびれた顔がうつり、不健康さが染みでた醜いものが視界にあらわれる。バックを手に持って、更衣室をでる。どれだけ祈っても、バイト時間に終わりはきてしまう。どれだけ祈っても、あの部屋には彼女がたたずんでいる。ある日ふと目を覚ますと彼女の姿は消えている、なんてことは絶対に無いのだ。
いやだ。帰りたくなかった。いつからか、自分のくつろぐ場所は僕を苦しめる空間へと変貌してしまった。
部屋には、音量の小さいテレビが虚ろな光を放っていて、足を三角に曲げてそれをじっと見つめている女の黒い長髪がかかった後ろ姿がぽつんとある。その女は涙を流している。僕は夜の隅にそっと蹲って、遠くの女から視線を逸らして震えている。がたがたと歯を粗く鳴らしながら、泣きつづける女に怯えている。
逃げこんだ夜の隅に、一枚の花弁があった。それを抓まんでみると、その花弁は桜だった。それはまじまじと僕を凝視し、なにか声を発している。なにを語っているのだ? 僕は桜に問いかける。知らない。後ろからも、声がする。その声に僕は。
「祐樹さん?」その声に僕はびっくりして肩をはずませた。後ろを向くと、秋実ちゃんがすこし下から僕を見ていた。「祐樹さん?」
「ん、ん?」急いで僕は声をかえした。「どうしたの秋実ちゃん」
「あの祐樹さん、これからなにかありますか? 用事とか」
その質問に僕はおもわず「何も無い」と答えてしまった。この流れはこの後なにか誘われる、というパターンだ。そんなことになってしまえば僕を待っている彼女が大変なことになる。僕はそこまで推測できた。それなのに、僕はこう答えてしまったのだ。
「な、なら」と秋実ちゃんは視線を落とした。「これから、夜ご飯とか……どうですか?」
そのお誘いに秋実ちゃんはどれだけの勇気を搾り出したのだろうと、僕はふと考えた。彼女の頬は逡巡する感情の昂ぶりが色彩に変更されて滲んでいた。だけど表情は神妙なもので、僕の返す言葉をじっと待っているようだった。それから、それとなく零れた咳払いを夜に捨てて、秋実ちゃんを一瞥した。秋実ちゃんと目が合う。その繋がれた瞳の間を埋めるものは子房から生まれたばかりのような沈黙と、口の奥でよどむ生唾だった。それが喉に流し込まれるとき、僕は埋もれて見えなくなっていたものを、思い出した。
僕は揺れていた。忘れていたことを思い出せた気がして、嬉しくなった。最近の僕は忘れていた気がする。僕の足元からせり上がってくる若いいきりを受けいれ、高揚した。
あの部屋で、彼女は僕を待っているだろう。けれどそんなこと僕は知らない。僕はそっと目を閉じる。桜の川面からも、彼女からも。僕は耳を塞ぐ。あの約束からも、彼女の束縛からも。そのとき、僕を占めるものは単純な性欲だった。しばらく欠落していた自分の欠片を、僕は拾い、代わりにそこに疲れを置いた。本能が僕の袖をひっぱって前進する。それにならって僕も足を踏み出そうとしていた。ファミレスをでると、夜が僕を待っていた。
「じゃあ、いこうか」どうにでもなれ、と脳裏に浮かんだ言葉は心強いものだった。秋実ちゃんが差し出す右手を、僕はつかんだ。
僕らはたまたま通りかかった焼き鳥店へと入った。自動ドアがひらき足を踏み入れると、まず階段があった。どうやら店は二階のようで、僕と秋実ちゃんはその空間からほのめかされる案内に従って階段をのぼった。短い階段を上りきると、すぐにタレを被って焼かれる芳しい匂いが鼻腔をなでてきた。厨房にうっすらと煙が漂っていた。秋実ちゃんは「い、いい匂いですね」と緊張混じりの声で僕に言ってきて、そうだねと僕が笑みを返したときに「いらっしゃいませー」と愛想のいい笑顔をした女性の店員がやってきた。僕は指を二本たて、二人だということを知らせた。それをみて店員は「二名様ですねーこちらどうぞー」と席に案内をしてくれた。僕らはその女の後を追った。
店の中はなんだか漫画喫茶を彷彿とさせる構造だった。一本の通り道をはさんで、薄い仕切りで分けられた空間が左右にいくらか並んでいた。僕らは指名された席に座って鞄をとなりに置いた。「注文決まりましたらお呼び下さい」とだけ店員は述べてさっさと踵を返していった。
「なに呑む?」と僕はメニュー表をひろげて彼女にみせ、訊ねた。ドリンク一覧のページにして彼女にむける。それから秋実ちゃんの表情に目をやると、どこかまだ緊張している様子だった。太ももに手を添えてもじもじしている。僕は「緊張しなくていいよ」と微笑んでから、「僕はどうしようかな」と並んだドリンクの種類をながめた。
「あの」と秋実ちゃんが僕に視線を合わせたのはその時だった。「本当に、いいんですか?」
「ん、なにが?」
「その……彼女さん、いるじゃないですか?」
「ああ、そうだね。大丈夫だよ」と僕は無理して笑みをつくり、「さ、選んで選んで!」と秋実ちゃんに注文を促した。秋実ちゃんはぎこちなく肯き、メニュー表に視線を落とした。大丈夫なはずがなかった。夏夜への不安心は去ることなく僕の懐にただよっていた。考えちゃだめだ、と振り切ろうとしてもやはり恐怖がシミとなって僕のシャツに滲みついていた。僕はその払いきれない邪気をなるべく隅の方へと押し込んで、秋実ちゃんに意識を向けようと努めた。
それから「それにもう遅いしね」と秋実ちゃんに言って大丈夫だよ、と笑みを作った。それに彼女が安堵したかはわからないけれど、これでいいと僕は自身に何度かうなずいた。「ほんとはこういうの、ダメなんだろうけど。今は秋実ちゃんといたいから」そう言うと秋実ちゃんは頬を真っ赤にしてはにかんだ。
秋実ちゃんのジンジャーエールと僕のマンゴージュースが届き、僕らは乾杯した。それから淡々と注文した料理が運ばれてきた。テーブルの中央に置かれていた焼き鳥用鉄板の下の着火剤に火をつけ、そこにいろいろ並べた。僕はそこから、ねぎまを一本手にとってそれを口に運んだ。秋実ちゃんもハラミを頬張った。それから頬をなでた栗色の髪を耳のうしろへ追いやった。僕はそんな彼女を覗きこんで、「おいしい?」と訊ねた。
「はい、おいしいです」と秋実ちゃんは言った。
「あのさ」と僕は新たにつくねを一本齧ってから言った。「前から思ってたんだけどさ、なんでいつも敬語なの? 同じ年なのに、不思議だなと思って」
「ですよねー」と秋実ちゃんは若干笑いながら言った。「自分も変だと思うんですけど、なんだか祐樹さん、先輩に思えちゃうんです。まあ単にバイト歴が私のほうが短い、というのもあるんですけどね」えへへ、と彼女は頬をぽりぽりと指先で掻いた。
「かわいいね、それ」と僕は微笑みながら彼女をゆるく見据え、すぐに目をドリンクのグラスへと逸らした。「でもため口がいいな、僕は。同年齢だし」
「ですよねー」また秋実ちゃんは同じ返答をし、そのまま二人で笑った。「じゃ、じゃあ」
「うん?」
「今からため口、でいいですか?」
「全然いいよ。むしろよろこんでー」僕は両手をひろげてウェルカムのしぐさをする。
「ありがとー」と秋実ちゃんは早速僕と親しそうな口調にかえて言った。「……どうですか?」
「いいねいいね」僕は親指をたてる。「じゃ、今からため口ってことでー」
「じゃあもう一個お願いしていい?」と秋実ちゃんは指を一本たてながら訊ねてきた。どうぞどうぞ、と僕はまた両手を左右にひろげてウェルカムの姿勢をする。その仕草にはハグしたい、という僕の下心も含まれている。それを彼女は察することはないだろうけれど。
「祐樹、君……って呼んでも、いいですか?」すこし声調にやわらかみが増した声で彼女は僕に頼んできた。その声が僕の股間を指先でつついてくる。股間にふくらみが佩びはじめていることに僕は気づいた。平常心を装いながら、静かに高揚しだしている自身の性欲に苦笑した。
「むしろそうしてほしいなあ」と僕は白菜キムチをつまみながら言った。「あと敬語直ってますよー」ついでに指摘もしといた。あっ、と彼女はまた可愛らしい声を洩らして照れ笑いをした。それから互いに笑った。「じゃあ祐樹君、てことで」
「はいはーい。よろしゅー」暢気な口調で返事し、何気なく僕は自分の着ているシャツに目をやった。シャツにしがみつくシミは、まだ頑なにそこに佇んでいた。どれだけ逃げようと、この汚れが落ちることは無かった。
これからどうしよっか、と僕はチョコレートパフェを頬張る秋実ちゃんに訊ねた。彼女は持ち手がながいスプーンの先をぱくっと咥えながら「ん」と声を洩らして僕に目をやった。そしてスプーンを口から離した。「これからって……?」きょとんとした顔で首を傾げる。僕はすこしだけ笑って「これからって、これからだよ」と意地悪っぽく言った。
やがて秋実ちゃんの頬が紅くなっていく。「え、え」と戸惑いながらパフェを頬張る回数を増やす。それから残り僅かなジンジャーエールを飲み干して「どうするんですか?」と真っ赤な顔で訊きかえしてきた。
じゃあ解散しようか、と言うと彼女はすぐに「え」と声をこぼして嫌そうな顔をした。じゃあどうする? とまた訊くと頬が赤くなる。それに僕はわかりやすいなあ、と微笑した。秋実ちゃんはそんな僕を見て「もーからかわないで!」と熱がこもった頬を膨らませて言った。ごめんごめん、と僕は笑って、「じゃあ、行こうか」そう言って財布を取り出した。僕のペニスは既にチノパンツ越しからでも分かるほどに勃起していた。彼女がパフェを食べ終えるのを待ちながら、どこか安いホテルはないか思索していた。
秋実ちゃんは白いカバーに包まれたキングベッドの隅に小さく坐って、どきまぎとした表情で視界を空間内で泳がしていた。僕は部屋に設置されてる自動販売機で缶コーラを買い、秋実ちゃんのその様子を眺めながら呑んだ。「緊張してる?」と僕はコーラを片手に持ちながら訊ねた。
「そ、それはもちろん」と秋実ちゃんはベッドの角辺りを指でなぞりながら篭った声で言った。
焼き鳥店をでた僕らは近くの安いラブホテルへと立ち寄った。僕はそこで四千二百円の六時間コースをえらび、空いている部屋へと向かった。ドアを開け、電気を点ける。部屋にはこれといって派手なものはなく、非常に落ち着いた色合いだった。フローリングの床にガラステーブルと白い革ソファが置かれて、すこし間を空けて白いカバーのキングサイズベッドが一台あった。ベッドの頭には部屋の照明をちょうせつできるパネルとフロントにつながる電話、それと二つの照明器具が並んでいた。
「祐樹君はこういうところ、よくくるの?」と秋実ちゃんは乏しい声量で僕にたずねた。自身の太ももの間に指をすべて挟んで僕の返答を待っている。
「いや、あまり来たことないな」
「のわりには結構慣れてると思うけど……」
「そうかな?」たしかに初めてではないけれど、と僕は声にださずに呟いた。
「ねえ祐樹君」と秋実ちゃんは窓ガラスにいささか寄りかかり、僕の名を呼んだ。「祐樹君はいいの? 彼女さん、本当に怒らないの?」
「怒らない」と僕は嘘をつく。「怒らないよ」
「嘘だあ」と秋実ちゃんは不安そうな声をこぼす。「ここまでして怒らない彼女さんなんていないもん」
その発した言葉の尻尾を掴んできたみたいに「ありえない」と続けて呟いた。僕は缶コーラを流し台に置き、Yシャツにこびりつくシミを見据えた。シミはまだそこに毅然とした翳をたずさえていて、指の腹でこすろうとしても消えることは無かった。僕はホテルの部屋の空気を十分に吸い、同じくらいの量を吐きだした。視界が揺れている。あのときの花弁みたいだ。水面に拡張していく波紋みたいだ。僕を動かす感情の裏側で静かに座り込んだ影が、僕をこねくり回しているんだ。そう思った。彼女の言葉はただしく僕を苦しめようとしてくる。その煩瑣した声は鬱陶しく僕の耳にすり寄り、夜を語る。新しい夜を古びかせていく。それなのに。
それなのに僕の足はすくまず、じっと頑なな意思で地を踏みしめていた。まるで廃れた夜の向こうで眠っていた感情が、僕の胸を叩くようだった。使い捨てられていく夜の一つくらい掻い摘んで、僕の感情に添えても誰も何も言わない。僕はベッドに坐る彼女をみて、唾を呑みこむ。そう、今の僕を支配しているのは性欲だった。それは僕の本能であり、僕そのものだった。「……でも」と僕は声をしぼる。
「……でも?」
「僕は、秋実ちゃんが好きなんだ」彼女よりも、と僕は言う。
秋実ちゃんは「え」と声を洩らし、それから目を逸らした。逸らした先には長い枕があった。僕は蛇口をひねる。彼女は「そんなの」と言葉をつなげる。蛇口から水がこぼれだす。秋実ちゃんが瞼でその水を掬う。ちらりと僕をみて、すぐに逸らす。頬を染めて肩をこわばらす。「そんなの、」
「……ずるいですよ」
耐え切れなくなった僕は気づけば秋実ちゃんの目の前に立っていた。そして僕は秋実ちゃんの肩を抱き、そのままベッドへと促した。「ちょ、ちょっと」と秋実ちゃんは弱い声をもらしつつ僕の誘惑に従っていた。口の隅から荒い息がこぼれた。我慢の領土から性欲が誇張され、僕は自然と秋実ちゃんの胸元に手がのびていた。
秋実ちゃんは「ちょっと待って」と聴こえない声で僕を落ち着かせようとしてくるが、身体から発する抵抗は何一つとして無かった。その状況を受け入れ、これから自分が経験するであろうことに腑に落ちているようだった。僕は秋実ちゃんの胸を服越しに触れ、太ももを撫でながら唇を彼女に近づけた。ダメ、と言葉だけで反抗しようとしてくる彼女を無視し、僕は多少強引にキスをした。そのまま舌を潜らせる。目を閉じ、その味をゆっくりと深く搾る。太ももを撫でていた手で自分のYシャツのボタンを外していく。それを不確かな動作で外していきながら、もう片手でその豊かな乳房を揉み、足を絡めて秋実ちゃんの上辺だけの抵抗を遮った。秋実ちゃんは所々で声をもらしながら、僕の背中へと両手を回してお互いの距離をさらに詰めた。
僕は脱いだシャツをどこかへ放り投げる。脱ぎ捨てられたシャツにはシミがある。そのシミは消えず、疲れた夜を繕う月みたいにシャツの隅で蹲っていた。僕はベッドへと彼女を身体で押しつけ、舌を這わせた。彼女の服に手をかけ、その豊満な体をはだけさせていった。ブラジャーを上へずらし、露になった乳房を手で撫でた。
僕は無我夢中に彼女と身体をからめた。何度も口に舌を忍ばせ、彼女の下着の中に手をいれ、湿りを佩びつつあるそれに優しく触れた。お互いの唾液が糸引き、それをたぐり合わすようにまた唇を重ねた。やわらかく喘ぐ彼女の声に僕は興奮し、夜の中核で激しく肌を交わした。
遠くで暁が暗渠を流れて外にとび出し、夜を砕いていくのがホテル部屋の窓から見えた。ベッドの枕もとに腰を預けて僕らはその夜の折り返し地点の最後方をガラス窓越しにながめていた。もうすこしで六時間コースも終了だ。そのぎりぎりまで僕と秋実ちゃんは肌を重ねていた。不確かになっていく夜の頭には懇々として映える月が厳かな顔をして吊られていた。月はまるで一切の動きも窺わせなかった。夜が塵芥となっていく過程を無視してじっとそこに坐る月は古びて殺されていく街になにかを語りかけるように風を歩ませた。
彼女は僕の左手に乳房をあてながら寄りかかり、まだ心内にのこっている余白に足先を浸らせていた。僕はそんな秋実ちゃんを抱き寄せて、さらに互いを密着させた。そして二人で、あの月を眺めた。あの月は僕の中心で死んだみたいに欠けた箇所に嵌っていた。
「あの月は、僕ら二人にしか見えないものだと思う」と僕は言った。
彼女は静かに僕を見て、「どういうこと?」と訊ねた。僕はじっと月を見据えたまま、削った言葉をはいた。
「あの動かない月は、僕なんだ」
「あの動かない月が?」
「そう」、と僕は肯いた。強く空にこびりついていた夜は色褪せていくのに、月は孤独のまま失せずに存在している。あの月が消えることは無かった。秋実ちゃんは僕の肩に顔をのせ、重なった腕のお互いの指を絡めた。「ねえ祐樹君」、「うん?」、「祐樹君の眼って、綺麗だね」
「そんなことないよ」と僕はかぶりを振った。「綺麗なものか」
「奥行きがあるの。冬が溶解したあとの青空をくりとったみたいな」そう言って彼女は人差し指で僕の胸辺りをなぞった。そして優しくそこにキスをした。
「僕の眼に、奥行きなんて無いよ」僕はそう言って、彼女の頭をなでた。僕の瞳には確かに奥行きなんて無かった。上辺だけで、浅はかに世界を映しているだけだ。何度かがみを見ても、僕の瞳に、奥行きなんてなかった。
「ねえ祐樹君」秋実ちゃんが僕の胸に頬をあて、瞼を下ろしながら言う。「私のこと好き? 今の彼女さんより」
「好きだよ」今まで月に寄りつかなかった雲が、ひとりでに蠢きだす。
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
ほつれたような雲が東雲の空にたなびき、月の上辺に流れた。
「嬉しい。なら、祐樹君。私が祐樹君を助けてあげるね」
12
「こうやってデートするのも、久しぶりなことに思えるな」と祐樹は春菜の手をとって言った。
「でもまだ一年も経ってないのよ。たったの数ヶ月ほど。それだけの間に、祐樹くんは違う女の子と一緒になって、私に助けを求めてきたの」
祐樹と春菜は駅前のデパートをくぐりぬけ、結構有名なパスタ専門店へと足を運んでいた。大型のデパートの右の壁面にはりついた石畳の階段があり、その階段は一旦区切りをつけるように段差がなくなるところがある。そこからだとデパートは二階から入れる。その二階入り口の自動ドアの隣に、そのパスタ屋はある。様々な輪郭のものを積みかさねた石垣の外壁で、雨宿りほどの緑の屋根が蓋をしている。なお店の半分はデパートの中と合体していて、その店から直接デパートにもいけるようになっている。
春菜と祐樹はそこへ入店し、すぐにレジに向かった。食べたいパスタをメニュー表から選び、それをレジの店員に教える。そして会計を済ませてから、ようやくテーブル席へと案内された。「少々お待ちください」と白いYシャツにブラウンのエプロンをつけた店員が愛想よく述べて、厨房へと踵をかえしていった。春菜はパスタを待っていることを知らせる札をちらりと見て、次に向き合いにいる祐樹の顔をみた。祐樹も春菜のほうへ顔をむけ、「パスタきたら一口頂戴」と言って笑った。春菜もその笑みかけに釣られて頬が緩んだ。けれどまだどこかで不安な気持ちがただよっていた。
「ね、ねえ祐樹くん?」
「ん、どうしたの」
「ほんとに……いいの? こんなこと」
祐樹の表情にまだ微かに残っていた笑みの余韻すら、消えた。そして彼は目を一度逸らしてから「大丈夫だよ」と言った。「本当に?」と春菜が咎めると、うんうんと肯きをした。彼の瞳はどこか急峻とした場所をたどたどしく歩くような動作をしていて、後ろめたさがその瞳の影となって紛れていた。それからセルフサービスの冷水を一口喉に流し、「ほんと久しぶりだね、こういうの」と言って話題の変更をしてきた。久しぶりだと思うのは、そのとおりだった。
あれから春菜と祐樹は再び恋人関係になった。メールの「助けて」の意味を訊ねると彼は今交際しているガールフレンドにうんざりしていて、精神も肉体にも疲弊を覚えているということだった。その恋人は祐樹の日常をやすりに変形させ、ゆっくりと彼を削がしていく。春菜には彼の背景を飾るその環境がそういう風にみえた。
随分と削げ落ちてしまった彼の顔はくたびれた草木みたいで、健康そうだとはお世辞でも言えなかった。生き急いでるように見えるよ。あの時図らずも彼にはいてしまったその言葉がまた春菜の頭に落ちる。彼の中から私が消えてから、暫くもしない内にこの変貌ぶりだ。軋み音が飾られた木板の階段のようになってしまった彼の足元にはそれまでの過去が屍の束となって、台となっていた。その屍の隙間から花が茂り、殺し積まれていく彼を静かに囲んだ。
疚しさから目を伏せるみたいに彼は水を呑む。春菜はそんな祐樹を見つめる、じっと見つめた。横をみれば窓ガラスが並んでいて、そこからはすこし俯瞰した所からの街が見渡せた。歩道をながれる多数の足と、青空をガラスにすべらしながら走る自動車が雲をかかえて隠れて見えなくなった。
やがて店員がパスタを運んできた。白い皿に盛られたカルボナーラは春菜の前へと置かれ、もう一つのミートソーススパゲティは祐樹のほうへと寄せられた。ミートソーススパゲティは黄色い麺の上に重々しくミートソースが被り、そのトマト風味の薫りを二人の間に浮かばせていた。カルボナーラも綺麗な色をして厚切りのベーコンを散りばめたクリームに十分に絡まり、照明からの光で艶を佩びて仄かな湯気をただよわせていた。その鼻腔をくすぐる匂いにはブラックペッパーとバルメザンチーズの風味が紛れていて、芳ばしく空気をおよいでいた。「美味しそうだね」と祐樹は言いながらフォークを取り、パスタとソースを慎重に混ぜはじめた。春菜もスプーンで掬ってフォークでそれをくるくると回してから頬張った。
「前もこうして一緒にパスタを食べた気がする」と祐樹はフォークを回しながら言った。
「だよね。その時も、きっと今と変わらない環境だったと思う」春菜は皮肉まじりにそう返し、笑みをつくった。
今と変わらない環境、と祐樹はその言葉を反芻した。「そう、今と変わらない環境」と春菜もあきれたような表情をわざと作って言い返した。「あの時も祐樹くんには恋人がいて、その恋人に辟易としていたよね。そのときくらいに私と出会って、だんだん祐樹くんは私を好きにさせたの。私は祐樹くんのことが好きで堪らなくなって、たとえそれが浮気だったとしてもいいから、ってお願いして付き合ったのよね」
たしかに似てる、と祐樹は微笑した。それから「でも「似てる」だけで、今は違う」
「祐樹くんのメール、読んだとき私正直うれしかったの。祐樹くんがだんだん私の方に戻ってきてる実感がして。「助けて」って、助けを求められるくらいの関係にまで帰ってきてるって。そう思えてとても嬉しかった」
「僕は馬鹿だった、って気づいたんだ。春菜と別れてからも、僕は春菜のことを忘れられなかった。なんて馬鹿なことをしたんだ、と思って後悔した。けれどまた出会って、お互いにまた関係を修復していくにつれて僕も耐えられなくなってきたんだ。僕には、春菜が必要なんだって思った」
春菜はすこし頬を赤くし、「なにそれ」と照れながら言った。「照れるからやめて」水を呑みこんで自分の頬に手を当てる。それから祐樹のほうをちらりと見て、またはにかんだ。「とっても嬉しかった今の。惚れ直す勢いよ」もう惚れ直してるけれど、と続けて声にださずに呟いた。
そのあとは目的もなく静かな街を歩いた。二人の靴から流れる歩幅は、道端のほんのりと色づく紅色をしたコスモスをくぐり、その風が揺らした色を頬で拾った。まるでたった今風呂敷から取り出したような日光は、季節の敷居をまたぐ一歩手前で立ち止まって街と二人の隙間にしずかに寄り添い、ゆっくりと笑った。
「ねえ」「ん?」「いま、私まるで夢見てるみたい」「僕もだよ。なんだか忘れていたものを見つけ出した気分だ」「爽快?」「うん、爽快」
木板のベンチにおろした腰の隣でよこたわる春菜の手の平に、祐樹はさりげなく手の平を重ねた。
「彼女のこと、今でも好き?」春菜は遠くに見える煙突から旅立ってゆく煙を見送る風のような声で、彼にたずねる。
「ううん、好きじゃない」
「じゃあ、誰が好きなの?」
「春菜だよ」と彼は言った。そして息をひそめて顔を覗かせていた疚しさを心臓の裏に隠そうとした。彼の表情からは、そんな苦みが窺えた。春菜はそんな横顔を気にし、「そう」と声をこぼした。
丁寧に白紙を黒く塗りつぶしていく一日は、昼を抜けて夕方へとすり寄っていった。その合間を繋げる糸は月だった。青空の奥に滲んだシミのような半透明な月がそこから見えた。
「早起きした月だ」と祐樹は言葉をもらした。「月だ」
そうだね。春菜もその月を見つめ、あの月の殻の中に閉じこもる自分を想像した。月の内面はひんやりとしていて、一つとして音の無いその静寂を音にしていた。そこに一つだけ、音を加えることができるのなら。それは彼が私の名前を呼ぶ声だと思う。忘れたくないものを忘れないように、月の中にそっとそれを置くのだ。
「春菜」祐樹は彼女の名をいった。
「なに?」
「君のことが、好きだよ」うん、と春菜はうなずく。そして「私も」と声を返すと祐樹が月から目を離した。「だから、春菜」
「うん?」、と私は月から逃れた彼の瞳をみつめた。遠くで鳥が流れた気がした。鳥が向かった先はあの月のほうだと思った。
「助けて」彼は確かに、私にそう言った。
13
僕がマンションへと足を向かわせる頃には、空は夜を抜け出して静かに藍色の肌をみせていた。まだ街灯は光を忘れてはいないけれど、その光は弱り切っていた。道路にはしる自動車はまだ少なく、歩道をあるく僕を通り過ぎればしばらく風の音が残った。歩道と道路をへだてる樹木は不確かな朝にゆれていた。没した夜を悼む鳥の声が、まだ染まりきらない今日に囁いていた。
このまま僕がマンションへ帰宅したとして、僕はどうなるのだろう? 彼女の姿が、やはり浮かんだ。夜が過ぎ去った場所にのこる月はまだ消えず、いつまでも僕の頭にたたずんでいた。
僕は自転車をおしながら歩いていた。マンションのあの部屋へは、帰りたくなかった。僕はどうなるのだろう。わからない。けれど、それはきっと僕の想像を超えるものとなるだろう。虚ろに回る自転車のタイヤは嫋々とした無情の音をこぼしている。その音を朝の街が飲み干して、僕の中で吐きだした。
もうすぐ着く。目の前にみえる未来は、目を閉じても見えた。
いつもなら僕はエレベーターを利用するのだけれど、今日は階段にした。僅かでも時間を減らしたかった。しかし時間が減ることは無いのだということにも、気づいていた。僕はなんらかの形で彼女に償いをすることになるのだろう。その償いに要される時間は、どれだけ僕が足取りを重くしようと、変わらないのだ。彼女が、許してくれるはずがない。だけれど、覚悟ができなかった。階段をのぼる足取りはとてつもなく鈍重で、それを踏み切るたびに僕は口実や言い訳などを探してしまっていた。
なにをしようと無駄なのだ。無謀なことなのだ。それは分かってるのに、分かっているのに。部屋が近づいてくる。僕は、ふと「あの子」から訪れた別れの電話を思いだした。あれから「あの子」はどうなってしまったのだろう。すべて僕のせいだ。僕が悪いのだ。
階段をのぼり終え、廊下をすすむ。廊下の壁にはそれぞれの部屋のドアが並んでいて、傍らの方は月を浮かばす空がみえる。僕は部屋の鍵を手にとり、自分の部屋の前に立った。挿しこんだ鍵からは乾いた音がした。
ドアを引くとき、僕は彼女が言ってくれた「助けてあげる」という言葉を頭に叩き出した。そしてその「助けてあげる」という言葉を信じ、願い、祈った。僕は救われる。そう望む、望み込んだ。
14
鍵が外れたドアを引くと、そこは外とはまた異なる静寂となっていた。靴を脱ぎ、フローリングの床に足を忍ばせる。リビングに繋がるドアは閉まっていて、その向こうからテレビの音は聞こえない。そして、そこからは彼女の気配すら感じない。夜の中に置き去りにされたような沈黙がその空間を腹の中へと流し込んでしまっていた。
ドアをゆっくりと引いてリビングに足を踏み入れると、また空気が変わった気がした。その部屋は変わらず僕の部屋だけれど、そこにある空気は僕の知らないものだった。その空気からは、僕以外の人の気配がいささか欠けていたのだ。彼女は眠っているのかもしれない。僕はそのまま忍び足でリビングにあがり、もう一度その部屋を見渡した。
テレビは点いておらず、僕の呼吸だけがその朝の先端で洩れていた。ゆっくりと僕は音を立てずにソファに座ろうとした。鞄から携帯電話と財布をとりだしてテーブルの上に置き、そのままソファに座ろうとする。ベッドがある部屋のドアが閉まっていることから、彼女はいま眠っているのだと思った。そのことに僕はとりあえず安堵した。やはり、僕は救われるのだ。そんなことからの、安堵だ。
「祐樹君」
声がした。僕の背後から。その声は紛れもなく彼女の――間違いなく立花夏夜の――声で、そして静かな怒りと哀しさをこねくり回して固まったような声だった。僕はソファに腰を沈みきらずに、そっと後ろを振り向いた。
「ねえ、なんで?」
僕が振り向くまで待てずに発した夏夜の言葉は、僕に恐怖を与えるのには十分すぎた。え、と僕は声をこぼして、座りかけていた腰を起こした。そして夏夜と向き合った。
「ありえないよ、祐樹君。ねえ、誰といたの? あの茶髪の子なんでしょ? それしかありえないよね? ねえ、なんであの子といたの? なんで、なんでなの。なんで? ねえ、なんで浮気なんてしたの。なんで、ねえ、なんで。なんで!」
なんで、としたたかに問い詰めてくる彼女の声に、僕は「違う、違う」と闇雲で嘘をついていた。無駄なことはわかっていた。どうして僕はそんな馬鹿な嘘をついているのだろう、と自分に訊ねたくもなった。夏夜はそんな僕の否定も一蹴して怒鳴りはじめる。僕は彼女の睨みから目をそらして、それでも「違う、違う」と述べ続けていた。「違う」と声にしている裏で「どうして」と僕に訊いていた。どうして、そんなに場を凌ごうとしているのだ。無茶だ、そんなの。
夏夜の声は徐々に毅然さを増していき、そして震えも強めていった。無情な朝はそんな部屋の窓を通り過ぎていくばかりだった。彼女の涙は、彼女の声に寄り添いながら滞りを知らずに流れた。床に落ち、僕を掴む袖にも落ちた。
「なんでなの! なんで帰ってこなかったの! なんで浮気したの! なんであの子と一緒にいたの! なんで! 私を捨てたの? ねえ、なんで!」
彼女は腕を振り回し、僕を何度も叩いては殴った。僕に弁解する余地なんて無かった。それなのに「違うよ、違うよ」と空気でしか無いような軽い嘘ばかり吐いていた。そんな僕に彼女はますます憤って、そして言語でも何でもない叫び声をあげた。彼女は僕を虐げるのをやめずに発狂していた。
「ありえない! どうして私じゃダメだったの! どうしてあの子がいいの! 祐樹君はあの子が好きって言うの!? そんな許さない! どうしてそんなことするの!」
ふと僕はテーブルに置かれていたI字の剃刀を思い出した。そしてすぐに僕に振りかぶってくる彼女の拳をみた。手首には傷は無かった。そのことに安堵し、そしてすぐに何でもいいから、と言葉を模索した。
「とりあえず落ち着いて!」
「落ち着けるわけないでしょ! 祐樹君がそんなことするから! 浮気なんてするからでしょ!」
「だから違う!」
「どこが! こんなの浮気! 許さない! ほんっとに、許さない!」
彼女は近くにあったTVのリモコンを手に持ち乱暴な動作で僕を叩きつけてきた。僕は顔を手で覆い、じっと蹲るみたいな姿勢をとった。彼女は近くにあるものを何でもと僕に投げたり、叩きつけたりし続けた。カーペットはめくりあがり、テーブルに置いてあった物は倒れている。彼女はずっと泣いていた。そしてひたすら叫んで僕を罵倒した。TVのリモコンを何度も振り落とし、その角が僕の肘に直撃して単純な痛みが馳せた。なんで、なんで! ねえ! なんで! 彼女の荒げた声が続く。どれもするりと僕の管を流れて、重さを増しながら底にすとんと落ちた。その言葉は夕日を潰す夜のように重く、僕にひどい幻滅や失望した感情が織り交ざって構成されていた。抵抗する僕の視界がはげしく揺れ、部屋の天井と彼女の表情が悖ってみえた。
先ほどまで空っぽで筒抜けていた朝に、たくさんのものが詰め込まれていくような気がした。彼女の発狂はやんだが、威力は弱まりながらも僕を叩きつける腕は何度も振り落とされていた。気がつけば僕の口から洩れている言葉は「違う」から「ごめん」へと変わっていた。
「ごめん。本当にごめん」
先ほどまで絶叫めいた声を放っていた夏夜だったが、今はただただ押し黙っていた。なにも言わず、ただ僕を殴っていた。鼻を啜る音と、嗚咽だけが聞こえた。涙は延々と流れていた。こぼれ落ちていく涙は床のカーペットに染み込んだ。
「ごめん、一度話そう。とりあえずさ、話さない?」
「話すことなんて何もないでしょ。祐樹君」
確かにそうだった。ここで僕が話し合うことを持ち掛けたところで、意味は無かった。むしろそれは新しい怒号を彼女に賦与してしまうことになるだろうと思った。僕は、ただひたすら謝り続けた。謝ることだけをした。「ごめん。本当に。僕が悪い。本当に、ごめん」そう言いながら彼女の腕をとめ、抱き寄せた。
「僕が許されないことをしたのは本当だ。謝るだけじゃ、なにも意味なんて無いとも分かってる」
「じゃあ謝んないで」
夏夜は僕を拒むようにすこし離れ、座り込んでいた足を持ち上げた。ふらふらとなりながら、僕を俯瞰的に見つめた。「ねえ、祐樹君」
僕は彼女のほうに視線をやった。次はなんだろうと思った。殺されてもおかしくない、そう脳裏に浮かんで震えた。
「祐樹君。でも私、あなたとは離れられない。浮気は許さない。でも、祐樹君は私のものなの。ずっと」
僕はなにも言わないまま、彼女が言葉を継げるのを待った。なにか、希望が差し込んだ気がしたのだ。僕はすこし口元が緩んだ。許してもらえる。
「だから、祐樹君」と夏夜は言った。僕を見下ろしながら、命令するように言った。「脱いで」
「え?」僕が発した声はそれだけだった。僕は彼女がしてきた要求の意図を、うまく掴むことができなかった。なぜ、脱がなければならない? 僕は自分の着ている服に目をやった。そこにはまだシミがあった。そしてすぐに彼女へと踵を返した。「それは、どういうこと」
「もう祐樹君が他の女の子と浮気なんてしないように、私が忘れられないようにするの」
「忘れられないように」僕はその言葉を反芻した。すると彼女はうん、と小さく肯き、もう一度要求した。「だから脱いで」
「私が満足するまで、中に出して。私が忘れられなくなるまで。中に出して。中以外はだめ。絶対に、中に出して」
そう言うと彼女はゆっくりと自分の着ていた服に手をかけはじめた。
15
「大丈夫よ。祐樹くん、安心して。私は祐樹くんを助けるわ。絶対に」
彼の瞼から降りた涙はまるで瞳の蔦のようだった。春菜はそんな顕著に伝った涙を一瞥し、そっと祐樹に顔を近づけた。「もう、安心して。祐樹くんは誰が好きなの?」
「春菜だよ」、と彼は確かな声で言った。「僕は春菜が好きなんだ。彼女じゃない。春菜なんだ」
「それでいいわ。私も祐樹くんが好き。そしてもう二人は恋人なの。恋人が彼氏の涙を無視するわけないじゃない。祐樹くんが、私に頼んできたから。「助けて」って。それを知らないふりするわけ無いじゃない」それに、と春菜は乾涸びたような瞳になってしまった彼に続けて言葉をかけた。「あの「約束」もあるの」祐樹くんは、私のものよ。そう彼に伝えて、そっと微笑んだ。
遠くを舞った鳥が、あの月を目隠しした。春菜はそれに目をやって、一度肯く。それはある決心だった。「助けてあげる。祐樹くん。だからもう、泣かないで」
祐樹は「ダサいなあ、僕」と涙を拭いながら自分を自嘲した。それから「ありがとう」と春菜に言って笑った。「春菜と出逢えて本当によかった」やめてよ、と春菜ははにかみながら彼の肩を弱く叩いた。やがて朝の裏から雲がすり寄りはじめ、鳥が消えたあとの月に手袋をさせた。青い透明の衣を羽織っていた月はみえなくなって、祐樹の涙も止まった。
「祐樹くん」と春菜は彼の手を握りながら話し出した。なんだい、と祐樹は耳を傾けて彼女の話を待った。「今から私の話すことを聴いて」私のいうようにして。
うん、と彼は神妙な顔つきで肯いた。その頬には乾いた涙の筋が痕跡を残していた。それは彼のあかく膨れた瞼にも、その記憶が留まっていた。
「……まず。今からマンションに帰って、祐樹くんは彼女に問い詰められるはず。それは間違いない。もしかすると多少の暴行もされるかもしれない。それは我慢して。私的には祐樹くんがそんな目に遭うのは見たくもないし、想像もしたくないけれど、それは仕方ないから。祐樹くん、私はあなたのことが確かに大好きだけど、この件はあなたが招いたことには変わりないの」
そのとおりだ。彼はすこし悲しそうに言った。「確かに僕が招いた事態で、僕が悪い。多少の報いは受けなければならない」
「そう。でも私は祐樹くんを助けるの。自分が招いた事態で傷ついてしまったあなたを救うの。だから安心して。私が助けるから」
「それで」と祐樹は声をすべりこませた。「僕はどうすれば」
春菜は一度こくりと肯いて、「だから彼女さんがすこし落ち着いたときを見計って、私に連絡を頂戴。そしたら私がそこに向かうから、その後はもう言及しないで。私はきっと彼女に酷いことを言ったりすると思う。この事態は祐樹くんが悪いけど、それでも私は彼女にとてつもない怒りを覚えてしまうと思う。だから、私がそこから彼女にどうするか、なんてことは訊いてこないで」
祐樹はいささかの沈黙に自ら隠れた。「……わかったよ」そうだけ言って、また黙った。彼は彼なりに、それなりの反省を覚えているのだと思った。どこかでは報いを受けなければならない、と自分に言い聞かせているようだった。そうであってほしい、と春菜は願った。「都合のいい女に惚れられているから、自分はなにも受けずに助かる」などと、性悪で綽々とした気分になっていない、と。祐樹くんはそういう人間でない、と懇願した。彼はいま、「こうなってしまったのは自分のせいだ」と自らを責めているのだと、そう思い込んだ。
「それと」と春菜は祐樹にいった。「一つ約束して」
「なんだい?」
「もう、その彼女から連絡か何かが来たとしても、無視して。絶対に。もう、私だけを見て。私はあなたを助ける。だから、もう前みたいにどこかに行ったりしないで」これは私の本心そのものだった。それだけがまだ心の隅で残っていて、彼から剥がれない僅かな怪訝に思う感情の正体だった。私はまだ、彼を信用しきれていないのかもしれない。そう思想してしまう自分に、嫌気が差して何度も「私は祐樹くんのことが好き」と言った。
「わかったよ」祐樹くんは確かにそういった。私に向かって、そう言ってくれた。「約束する。もうどこにも行かない」そう言って。
そう言って、私から目を逸らした気がした。
視界の彼女の姿がみるみる凋んでいくのを見つめながら、僕はまだ薄っぺらい布のようなその淡い朝をめくりあげて、その隙間へと忍んでいった。離れていく彼女の姿はまだそこに明晰とした輪郭を掴んでいて、まるで服のシミみたいに街の隅っこで残っていた。春菜はたしかに僕に「助けてあげる」と言ってくれた。その言葉に僕は希望を貰ったのはそのとおりだ。けれどまだ、僕のなかで捉えきれないわだかまりがビルの背からしゃがみ込んでいるのも確かだった。
なにだ? なにに僕はこの漠然としない感情を供えている? 僕にはそれがわからなかった。めくりあげた朝の布がまた降り落ちてくる前に、僕はマンションに戻ろうとした。そんな自分に、なんだか既視感を覚えた。デジャヴだ。僕はおなじ過ちを繰り返しているのだ。僕はまたしても流れそうになる涙を手の甲でぬぐう。あれは去年の秋のことだったかな、と過去が僕の視界の裏で描写される。
僕は前にも、今日みたいに彼女に助けられた。その時の朝も、こんな風に虚ろな凪を拵えていた記憶がある。
16
閉じていないカーテンが指先に触れたことで揺れて、窓からは子房から生まれたばかりの若々しい日差しが朝を満たしていた。そこには雲もなく、月も消えていて、穏やかな風の隙間を小鳥が足跡を残していった。それなのに僕の意識は、おぼろげな月光だけが漂う真夜中のように曖昧となっていた。その街の手や足などが、どれも与えられた輪郭を手放していた。まるで煙が充満しているようだ。その煙のなかで白い肌のほんのりと肉のついた体格の女が腹をさすりながら愉快気に笑っていた。彼女は幸せそうだった。虚空な状態の僕に、「どう? どうだった?」と何度も訊ねていた。
僕はなにも言葉を吐けなかった。それどころか、その場を判断する感情や思想などがどれも干乾びてしまっていた。僕の気力は、このたったの数時間で磨耗され尽くしたのだ。もうなにも出ない、もうなにも動かない。
辛うじてよろめいた瞳が、自分の陰部をうつしていた。息を切らしてよこたわってしまった僕のペニスは、ようやく取り戻したかのように思えた性欲も投げ捨ててしまっていて、まるで放課後の教室に放置された帚のようだった。「祐樹君どうだった? これで私を忘れられなくなったでしょ? 何回したかなあ」
指をゆっくりと折っていきながら行為した回数を数える彼女の声が僕の耳にじんわりと忍び込んでいき、その苦痛をまた思い出させた。干乾びた感情と思想の合間を歩いていた涙が、また瞼をすり抜けて頬をすべった。「今度こんなことしたら、これだけじゃ済まないからね。祐樹君」
僕はなにも言わない。ただベッドに倒れていた。
「祐樹君。祐樹君はずっと私のもの。ね、「あの子」にもこうやってされたんでしょ? それと同じことを私もしてあげたの。「あの子」のときよりも多かったかな?」
あの子、と僕はその人物に関する記憶を散らかってしまった部屋から引っ張り出していく。あの子、僕は彼女をおもいだす。するとまた、涙が頬を綱渡りした。「あの子」についての記憶が、欠けていた人形の目玉を縫いつけるように複合されていった。その紡ぎ痕をなぞるみたいに流れた涙が、朝に滲んだ光に紛れてベッドのシーツに染みこんだ。
「祐樹君、泣いているの?」と彼女は僕を揶揄するような声調でたずねた。「泣いても、悪いのは祐樹君なんだから私は謝んないよ。本当は泣きたいのは私の方なんだから、祐樹君が泣かれても困るの。むしろ私が悪いことをしたのかな、と思えるからやめて」
「……ごめん」僕は一言あやまり、涙を瞳の奥へとさかのぼらせようとした。けれどそれはできなかった。僕の涙は、やはり僕の縫い口を舐めていくのだった。「これは僕が悪いんだ。君のいうとおりだ。僕が悪い」
「うん。祐樹君が百、いや二百パーセント悪いの。悪者は祐樹君」
ごめん、と僕はもう一度あやまって、枯れ果てた身体を包み隠すように服をきた。ネイビーのパーカーを着て、黒いスキニーチノパンツを履いた。「すこしだけ、外に出てもいいかな」と僕は彼女の許可を得るために訊ねた。
「逃げたりしないよね」彼女はつよく僕に確認をし、「五分後には帰ってきて」と条件を出した。わかったよ。僕はそう了解して、携帯電話をポケットに挿入してマンションの外にでた。
五分、それだけの時間で僕は彼女に電話をとらなければならない。部屋のドアをしめて前をむくと、まだ静けさをもて余す朝の街と空があった。マンションの近くにある公園には子供をつれた母親がベンチに座っているのがみえた。僕はそれを高くから見下ろし、そしてエレベーターの方へと向かった。エレベーターはすぐに上昇してきて、僕の前で重々しく扉を開けた。僕はその空間に身をおさめ、そこに閉じ込められていきながら携帯電話の通帳から「春菜」の名前を探した。通話ボタンをおして電話を耳にあてると、すぐに彼女の声が聞こえた。
『もしもし』という春菜の声。
「もしもし」僕はくたびれた声帯から乾いた声をせり上げて、喉から吐きだした。
その声から彼女はすぐに僕の状態を悟ったようだった。『疲れているわね。だいじょうぶ祐樹君?』
「対価、なのかはわからないけれど、それなりの償いはしたと思う」と僕は弱りきった声で言った。「この声からわかるように、僕はもう死ぬ寸前のような状態だよ」
『何発したの?』
「やめてくれ。数えきれない。数えたくもないよ」
そう、ならいいわ。と春菜は言った。『じゃあこれで私が、その子に何しようといいわね。安心して、祐樹くん。祐樹くんは私のもので、私は祐樹くんのものよ』
そして通話は切れた。電話の向こうからは静黙な空気だけとなった。それから表示されている時刻に目をやると、間もなく条件の五分間が経とうとしていた。僕はまたエレベーターに乗りこみ、僕の部屋がある階まで上昇した。緩慢な動きが仄かな浮遊感を空間にあたえて、ふわりと足元がすくむような感覚になった。
これでよかったのか、と僕はポケットに電話を戻して思った。これでいいんだ。そうじゃないと、ダメなんだ。僕は小さく肯いて、息をした。エレベーターが扉をあける。広がっていく隙間からまた見えた空はまだ新しい今日で、朝だ。つい先ほどまで種子に過ぎなかった光だ。まだ気高く吼えているようで、静かに青く盛る朝だ。
僕は、ほんの数時間前のまだ実ったばかりの空で離れていくにつれて縮んでいく春菜の姿を思い出した。そのとき僕を見つめていた彼女は、彼女のその瞳は、僕がよく知る彼女「たち」とよく似ていた。そんなこと、ないよな。
17
適等な嘘をついて外になんとか逃げだした僕はマンションの近所にあるコンビニエンスストアにて、秋実ちゃんと待ち合わせをした。窓から彼女に見られるとまずいので、秋実ちゃんが到着するまではそのコンビニエンスストアの中で待つことにした。
規則正しく開いた自動ドアをくぐって室内に入ると、眠たそうな男の店員が「いらっしゃいませー」とまるで呪文か何かのような口振りで言ってきた。そこにはゴールドの線が引かれた黒いジャージを着た白髪まじり頭をした男が缶コーヒーを眺めていた。そこには僕を含めて三人しか存在していなかった。僕は雑誌コーナーの方へと向かって、適等な週刊誌を手にとってそれを読みはじめた。くだらない記事ばかりであまり僕は週刊誌なんてものには興味ないけれど、顔を隠すには丁度いい大きさをしている。僕はそこから目元だけを覗かせて秋実ちゃんの姿を待った。
秋実ちゃんがやってきたのは、それから暫くもしない内だった。あれから秋実ちゃんは一度ホテルから自宅へと戻り、服装なども変えてきていた。グレーのニットのベレー帽を頭にかざり、真ん丸の縁をしたべっ甲眼鏡をかけていた。結んでいた栗色の髪はおろしていて、顎元をなぞるように内側へとウェーブしていた。青と白の入り混じった身丈の長いチェック柄のシャツに白のシフォンスカート、足元にはコンバースのスニーカー、という服装だった。
秋実ちゃんは僕の顔を見るやいなや、頬を引き攣らせた。「さっきぶりだね、祐樹君」この短時間で随分と削がれ落ちてしまった顔の豹変ぶりに、さすがに秋実ちゃんもすこし身の毛を立たせているようだった。「それと、すごい顔……」
「……ああ、うん」と僕は彼女から一度目をふせて、「そうかな」とかえす言葉も見当たらずそう言った。
「秋実ちゃん、」と僕は彼女の名を呼んだ。もう磨耗された僕の顔は筋肉がうまく機能せず、呂律すらも十分に回らないようだ。「秋実ちゃん、」
「祐樹君、無理しないで。彼女さん、になにされたの? 私と別れてから、まだ三時間ほどしか経っていない。いったい、どんなことをされれば、そんな顔になっちゃうの?」
「言いたくない、もう、思い出したくないんだ」瘦せこけた僕の頬は震えていた。先ほどのまでの記憶がふたたび足を踏み出して脳の先頭に立とうとすると、無意識に僕の指先や視界が痙攣したのだ。あれから自分の今の姿をみていない。見なくとも、それが甚だしいほどの無残な残虐の痕が刻まれた酷い顔だということは明確なほどに想像できたからだ。きっとあの時、ファミレスの更衣室で見つめた自分よりも酷く汚れて、醜い顔にちがいない。
秋実ちゃんはやりきれなさそうな眼差しを僕にささげ、そっと僕の肩を抱いてくれた。「とてもおぞましい事をされたんだね。私もそのおどろおどろしい行為を想像できないし、想像したくない」祐樹君、辛かったね。そう言って秋実ちゃんは僕の目元にたまる涙を親指の腹で拭ってくれた。
「もう泣かないで。祐樹君」
「秋実ちゃん」
「ん、なに?」秋実ちゃんはもう一度、僕の目元をぬぐう。
「助けて」
それは、私を選ぶってことでいいんだね。秋実ちゃんは僕に確認する。僕は釈然とうなずいて、「僕は秋実ちゃんが好きなんだよ」と言った。すると「もー照れるからやめて」と彼女が僕の肩を優しく突き、うれしそうに笑った。私も祐樹君が好き。そう彼女は言って、「だから私が助けてあげる」と頼もしい声で言ってくれた。「でも、一つだけ約束して」
「ん?」と僕はその約束の内容に耳をかたむける。
「私が祐樹君を助けたあと、もう祐樹君はあの彼女さんとは関わらないで。いい? 一切の関係もダメ。出逢って話すのはもちろん、電話もメールもダメ」
わかった、と僕は生唾をゆっくり呑みこんで言った。「そうするよ」でも、僕は率直に思った疑問をたずねる。「僕とあの彼女を離れさせることができるの?」
「できるよ、そんなの。私は祐樹君が大好きなんだよ?」軽々しく秋実ちゃんは言い、そっと余裕そうに微笑んだ。「だから祐樹君は安心して。ただ私との約束を守ってくれれば、それだけでいいの。なにも不安になることはないし、心配しなくていい。私を信じて? 祐樹君の好きな子は誰なの?」
「君だよ」と僕は言った。「秋実ちゃんだよ」
「それでいいの。もう見えなくなったけど、月もそう言ってる。私と祐樹君しか見えなかった月も」
僕はホテルの窓から差し込んだ月の顔をおもいだした。僕は彼女の話にうなずく。「ごめん、僕のせいで」
「そんなこと言わないで」秋実ちゃんは僕の顔をのぞきこんで、指を二本交わらせて「ダメ」と仕草をした。「私が祐樹君を助けたいからするの。私が祐樹君のことが大大大好きだから、こんなことをやるの」
それからしばらく経過すると、きっと彼女さんから「もう私とは関わらないで」という電話かなにかが来るはずだから、祐樹君はそれにそれっぽい返事だけをしてすぐに切って。そして通帳から彼女のアドレスと電話番号を削除してね。秋実ちゃんはそう僕に説明した。その説明を聴きながら、「果たして夏夜のような相手にそんなこと可能なのだろうか」と不安にならざるを得なかった。僕は立花夏夜という女について、よく知っているのだ。秋実ちゃんがどんな事を彼女に企んでいるのかは見当もつかないけれど、そんな簡単に彼女から直々の別れを告げる電話が来るとは思えなかった。
そのとおりに訊ねると秋実ちゃんは「絶対にそうさせる。だから心配しないで。祐樹君は私との約束を守っていればいいの」と言って、「大丈夫」と親指を胸を張って立てた。それでも僕の訝りが消滅することは無かったが、それでも彼女のその自信のありさまを見つめていると、大丈夫かもしれないとも思えた。
「それじゃあ祐樹君」と秋実ちゃんと僕は再度見つめあって、抱き合った。「大丈夫だから。安心して。だいじょーぶ、だいじょーぶ」彼女はそう僕の耳の傍でささやくように言っていたが、それはなんだか自分に言い聞かせているようにも解釈できてやはり多少の不安感は去らなかった。
やがて僕のマンションのほうへと消えていく秋実ちゃんの背中を見据えながら、僕は夏夜との思い出――とは言い難いが、過去――を振り返っていた。するとまた足が竦んで痙攣を起こしそうになったけれど、僕は夏夜との過去を思い出していく作業をやめなかった。どうしてかは自身でも理解できずにいた。歩幅にともなって揺れる秋実ちゃんの栗色の髪を目で追いながら、脳では夏夜を追いかけているのだ。逡巡しながらも彼女へとまだ意識が向いている僕に、風は何かをそそのかすように流れた。その歩む風が揺らした葉の擦れる音が、遠くで聴こえる。
僕はまるで一本の樹木だ。朝の凪の中核でただようように生きる幹で、枝で、葉だ。僕は風が目の前を通り過ぎるだけで、自分も揺れるのだ。簡単に、単純に。静かな朝の凪の中核で、そんな風がただようように生きる僕の目の前で通り過ぎていった。
18
再び、春だ。街が奏でた風から降りた季節は、しばらくそこに居座る。また次の風が迎えにくるまで、まるでプラットホームで列車を待つ乗客みたいに大人しく息をする。春の呼吸が蕾にやわからな仕草で触れて、その蕾に微笑みながら開かせてゆく。僕はそんな静かな春の性格が好きで、四季の空気のなかで一番自分に馴染むような感覚を覚えるのだ。君の街がゆっくりとピンク色になっていくよ。空がそんな風に僕に言っているような天気は雲がない晴天だ。
マンションの隣にある公園の一部を覆うクローバーの地は、その流れる青空の日向を葉の表面で掬って、自分の芯へと潜らせていく。そのクローバーたちは遠くからでも僕の視界の隅で笑っている。僕はマンションを降りて、その公園へと足を運ぶ。そして誰もいない日差しに充ちるそこのブランコに腰を降ろして、青空を退屈そうに見上げている滑り台や、雲逓などを眺めた。そしてその遊具の背景で膨らみつつある桜の樹に目をやった。
その桜が咲くと、僕はまたあの場所へ向かっていた。もちろん彼女も一緒だった。僕の歩幅にまた一つ、歩幅が重なった。広がった桜の喧騒に僕らは紛れると、空がピンク色になった。春菜は最近買い換えたばかりの小型のデジタルカメラを瞳と桜の隙間にはさみ、その重なり連なって空を隠す花たちの顔を切り取っていた。桜の花弁はまるで水に薄めた紅色をぬり伸ばしたような色彩をしており、それにあやかった空気が僕らまでも染めるようだった。
樹木はそんな培った富をふんだんに溢れ出させて、季節のあゆむ足跡に花を散らしてゆく。それを僕らは追うように歩いた。川面がみえてくるはずだ。あの花弁が降りしきる川面が。
その景色を僕はまた見ることができた。そこには春菜もいて、僕もいる。たゆたう水面によこたわる桜の砕片は水に抱かれたまま、行き交う雲たちの生活を見つめているようだ。水面の隣り合わせに空がある。そこによどむ桜と、そこに流れる雲の関係を僕は知らない。僕と春菜の手は繋がったままだった。これでいいんだ、と僕は自分に言う。君は僕から目を合わせようとせずに、小さく肯くだけだ。
「ね?」と春菜は胸を張るように僕をみて言った。「またこれたでしょ? 約束は絶対なのよ。「なにがあっても」来年もここに来る、て」
「すごいな」と僕はふっと関心の声をもらした。「本当だった。本当にいろいろあったし、本当に君とまたこれた」
「当たり前よ」
「これはあまり春菜に話すことじゃないと思うのだけれど、一つ、僕のわだかまりを吐いてもいいかな」僕は彼女に訊ねた。彼女はいいよ、と承諾した。
「これで本当によかったのかなって思ってる僕もいるんだ」
「だと思ったよ」と春菜はすこし笑って言った。「祐樹くんはそういう人だってことくらい、分かってる」
「怒らないの?」
「怒りたいけど、私も祐樹くんと同じ立場だったらそう考えちゃうと思うもん」
二人の隙間から割り込んできた沈黙がその川面の前でとまった。その静寂の欠如した穴から風がすり抜けて僕の前髪を揺らした。煩瑣する桜の束から僅かに見える空には小さな鳥が回っていた。
やがて春菜が口を開いた。「でも、もういいの。祐樹くんがどんなことを思っても」そう平然と言った。
「どうして?」僕は純粋に知りたいそれを訊ねた。
季節は僕の前で黙った。彼女はまた口を噤んだ。どうしたのだ。その時ふと僕は今、どこにいるのだろう、という疑問が浮かんだ。僕は今どこにいるのだろう? どこに立って、何を見ていて、何に触れているのだろう? そこには満開の桜に囲まれた川面がある。空では鳥が鳴いている。そして、何だろう。彼女がいる。春菜が、いる。去年と同じ景色で、同じ場所で、同じ彼女、彼女の声。僕はいつからか消えていた雑踏の声を思い出す。
「ねえ祐樹くん」と彼女は僕の名を呼んだ。その口調はあの彼女たちを思い出させるようで、僕はいささか悪寒を覚えた。まさか、と僕は瞳から入り込んできたその何かに困惑し、恐怖心が滲んでいく自分の意思を落ち着かせようとした。
僕は息を呑む。ごくり、と。息を呑む。
彼女は言った。「ホテルに行きましょう。私を忘れられなくしてあげなきゃ。そうしないと祐樹くん、またどこかに行っちゃうようだから」 END
桜がよどむ川面
今更ですが、新年明けましておめでとうございます。今作のこの「桜がよどむ川面」は、前作の「夜更けの森」が完結した直後あたりから執筆を開始したのですが、この作品は一話ごとに更新していくスタイルだとダメな気がして、こういった一気に公開、というスタイルを使わせていただきました。
この作品は、自分の中では結構なチャレンジをしていて、書いている途中に「ああ難しいな」と自分で思いながら書いていた記憶があります。そして所々できわどいシーンになりますので、まだ十五歳の僕がこんなものを書いてもいいのかとも思いました。ですが、このように無事完結できたことに嬉しく思います。
次回作も、是非。次回作のタイトルは「僕は霧を抜け夜の向こうへ(仮)」というものです。読者の皆様の感情、解釈にまかせて、それぞれ別の読み取りができるような作品になっています。また暫く執筆にもぐりますが、公開するときは是非。