雨ふる町で

『雨ふる街で』
結木ユウキ著
雨ふる街で


 ねぇ、私たちっていつからいっしょなのかな?
「知らない。」
「知らない。」
 あのさ、私たちはいつまでもいっしょだよね?
「うん。」
「そう思う。」
 あ、夕焼けだ。帰ろう。
「ほんとだ。」
「帰ろう、ラン。」



Season1
 お話しをしよう。決して昔のことじゃあない。
 それはまるで塵紙のように使い古された物語たち。ただ、一つ言っておかなきゃいけないのは、決して塵紙たちはお互いの個別性を理解なんかできなくて、そこには完全性を備えた我々がいて、塵紙はただの屑紙になってしまう。どちらも、紙という概念に両手を縛られたままだったが、しかし屑紙と塵紙の少しの違いは、両者を決別させるには十分なのさ。
 そして、そういう時、雨はその身を溶かすのさ。
 そう言うと、彼はページをめくった。向かいの我々懐古主義者たちは、日めくりカレンダーの一つゝを、噛みしめることなんて無かった。

 ヘンリー・オーギュストによれば、それらは、離別を認識しない一個体であるらしい。
オーギュスト「違う、ゝ。そうじゃない。まるでわかってない」
 我々は続けざまに尋ねた。
その1「それらは耽美主義や写実主義を否定するものだと言われていますが?」
 オーギュストはそれらの質問に困って頭を抱えたが、意見はまとまりつつある様子だった。
オーギュスト「まず手始めに、僕は彼らと会ったことはないんだ。もちろんさ。加えて、それらは何かを否定するものではない。否定することによっては成り立たないのさ。ただ、加えるということもしない。他者への干渉をひどく嫌う」
オーギュストは自信無さげだった。歳のせいで丸まった背中には、言葉以上の哀愁がこもっていた。
我々も、もちろんオーギュストも、互いに沈黙を禁じ得なかった。
突然、オーギュストがおもむろに立ち上がった。そして机の上に何年も置かれているであろうノルウェーの古い絵が描かれたマグカップを手に取った。
オーギュスト「このマグカップに書かれているのは……なんだっけな……イマイチ思い出せないんだが、確かマーミンとか言ったかな?   ともかく、北欧では有名な、とてもそれらに近い存在のものだ」
 いかにも老人らしい、彼が忘却の彼方に目を見張っている姿は、横殴りの雨と吹きつける風でガタガタと揺れる窓、そしてたった一つだけ光ることを許され、この部屋の視認性をただ孤独に保つ蝋燭と相まって、今から遠征に出る将軍として描かれた絵そのものに見えた。
オーギュスト「とにかく、ここに大事なメモを入れたんだ。僕がまだベッドで隣に寝ると何ができるかも知らない頃、できる限りのところまで調べた出来事だ」
 オーギュストは言うとおりに、マグカップから、なにやら古げな丸めた紙を取り出した。
その3「それは、まさか、地図でございますか?」
 我々はその声にたじろいだ。もちろん、我々全員が、その事をうっすらと感じてはいたが。
オーギュスト「いいや、なりかけだ。というのも、図なんてなくって、ただの文章の羅列だからね。   と、いっても君らをそれらのところに導いてくれるのは間違いない。申し訳ないね、総べてが私の想像として、だけれども」
 オーギュストはそういうと、我々に『地図』を手渡した。
我々は団円を作り、それをことこまやかに読んだ。
その4「えーと、『まずはカフェから歩を進めること。これは絶対である』とな」
その2「世界中にカフェなんていくらでもある!」
 まったくもってそのとおりだと思う。
その5「なになに、『そして十歩歩くと四車線の道路が通っているだろう。そのうちの車のいない車線を車の走る方向に歩け』 はて何のことだかさっぱり……」
 うんうん、僕はわかったぞ。
その1「ずいぶんと汚い字だな、『すると、橋が見えるだろう。そう、河らしく、海らしきものにかかっているそれだ! やったぞ! 君たちは彼らのもとに辿り着いた!』」
その3「なんじゃ、こりゃ」
その1「そうだな、一部理解はできるが、まるで我々を迷わせるための地図みたいだ」
 我々が呆れ返っているというのに、オーギュストのほうを見ると、とっても自慢げだった。
 突然にその3は怒り狂った。はじめに座っていた椅子の足をすべて折り、そのあとオーギュストのデスクを三周回ってから、最後にこの世の亡霊が置いて行った全ての断末魔を叫び終わったところで、ようやく足のない椅子に腰かけた。
その3「なんてことだ! このおじいさんは狂ってる! こんなことでそれらを探しには行けないさ」
 オーギュストはたじろがなかった。まるで右回りのねじ穴に左回りの釘が刺さっている機械じかけのように。
我々はその姿に畏怖すら描いた。従って、その3を担ぎ、そして表の大扉からそそくさと外に出た。
我々は大扉の前で、このように決めた。
その1「僕はカフェを探す。ただ、もちろん君たちも見つけたら教えてくれるといい」
その2「わかった。なら私はそれらにすべき質問でも考えようか」
 どしゃ降りの雨は一層強くなった。
その3「ひとまず落ち着いてくる。こんちくしょう。こんな自分じゃ迷惑だろうからね。その間、何か気づいたら言おうじゃないか」
どしゃ降りで横殴りの雨は一向に我々のコートの裾を濡らした。
その4「残っているのは……そうだ、車の走らない車線を車の走るほうに歩く方法をかんがえるか」
 最後の一人、その5が答えるまで、我々は長い間横殴りで到底傘のもちそうもない雨を受けた。
その5「この地図……を…写す」
 こうして、我々はひとまず別れ、それぞれのもとへ帰った。お互いにいつ会うかも知らないままに、我々の長い旅は初めてその姿を現した。思えば、この時から我々は、もう目的を達成していたのかもしれない。


「ねぇ、ラン、何をさっきから考え込んでいるらしいけど? 」
 さっきの話、私たちいつから一緒なんだってこと。
「知らない。」
 そんなことばっかりで、本当の答えがでてこないの。
「ホントの答えなんてないんじゃない? そうでしょ、ミキ。」
「そう思う。」

Season2
「落ち着いて、深呼吸するのよ」
「駄目だよレディ、どうしたってそんなことはできない。なぜなら落ち着けないんだレディ」
「どうしたっていうの。帰ってきたばっかりにこんなに興奮して」
それは……なぜだ?
「なぜだろう?」
「わかった、わかったわ。少し待ちなさい」
レディはそういうとお勝手のほうに行って、しばらくして、古びた木の盆に載せて何やらお茶を持ってきた。
「やぁ、レディ、何を盆に載せてきたんだい?」
当然、それはお茶である。
「お茶よ。お茶ですよ。きっとこころが落ち着くわ」
「こころ、かい。ずいぶんといい響きだね」
そう言って俺はお茶を飲んだ。
「おやゝ、こりゃあ、こころ、が落ち着くな」
 というわけで俺はまんまとレディに助けられた。

「私たちが初めて会ったとき、ダメよにゃーご、そんなふうに机を歩いたら、まだ私たちはこどもだったけど、今ではもうこんなふうに二人で並ぶことさえしてしまっている。それって、最近、悲しいことなんだってわかった気がするの」
 彼女にしては珍しい、我々のような言葉だった。
「やめなさい、そういう汚れ仕事をするのは、男たちの役目さレディ」
「そんなこと言って、あなたは自分のアイデンティティをなくしたくないだけなんだわ。それはきっと、あなた達を抑圧する人達にも言えること」
「あんなやつらと一緒にするんじゃない。だって、君と僕はこんなにもリリカルじゃないか」
 刹那、風が部屋に入ってきて、また紅潮した頬を冷ました。
「とにかくだ、レディ、君はそんなにも美しい。さぁ踊ろう」
 すると彼女も顔を赤らめて、そっと手を差し出した。
「君と僕はこの部屋で一緒に頭を振って、花に例えんかのように、さぁ皆さんどうしましょう、もうちょっと覚悟をしてください」
「何て素晴らしいダンスなこと! 私こんなに楽しいダンスは初めて!」
右 左 d4 2四 さぁつぎはどうしよう。もうフレーズは使い切ってしまった。
「お姫さま、これが市井というものですよ。さぁさ、踊りませふ」
「そこの者! 名をなんと申す」
二人で大きく息を吸った。あまりの狭さに息苦しくなった。
「朕は 
   

   」


「机本箱 運び出された荷物のあとは。」
本当の答えは、タンスの陰で心細げに、とでも言いたいように、スーは罠にかかったうさぎみたいにしていた。
「でも、それは誰の言葉でもないわ。最早言葉でないのよ。」
 ミキのいうとおりだ。あれもこれも、ありがとう、と言ったのに。


Season3
この世で一番博識なのは、オウムだと相場が決まっている。ポリネシアではないけれど、それらは大体言語を分かち合うものだ。
また、オウムは体のあちこちを失くした船長にだってアイデンティティがある。ただし、一般的にそう認識されているものは、インコ、我々は両者の違いを明らかにすることはできない、の可能性もある。
その代表的な例として、引っ越しとお漏らしの英文学的位相があげられる。これは我々が、恐らく最も容易に触れることができるので、一度は理解の試みをして頂きたいが、ここで簡単な説明をすれば、それは中を指し示すである。
オウムのもつ含蓄はこれらだけではない。古代サンスクリット語では、宇宙を創る神を意味する『A』、宇宙を守る神を意味する『U』、宇宙を壊す神を意味する『M』、の三つを繋げ、オウム、というヒンズー教の神を意味する単語があった。これは後の宗教団体にも使われた。
また、オウム自体はオウム目オウム科に属するが、そもそもこのオウム科というのはっきりしないもので、したがってオウムは不確定事象の象徴でもある。
オウムを漢字にすると鸚鵡となるが、見覚えのある者も多いだろう。というのも、我々の常備する本の一つこそ、フロベールの鸚鵡、であり、それらの中でもっとも一般的な本だからだ。
はてさて、何故こんな話になったのかというと、今(ちょうど)横でハンドルを握っている男の肩には、いかにも古典的なオウムが載っかっているのだ。ただでさえ狭っ苦しい車内なのに、羽根をバタバタするものだから、いっこうに質問を考える気になりやしないのだ。私は先ほど、一応、オウムにその羽根のバタバタをやめるように言ったのだが、しかしそれは我々にくしゃみをするなというようなもので、オウムは再び申し訳なさそうに羽根をバタバタさせるのだ。それで、なにかオウムを黙らせることは出来ないものかと、そもそもの所から試考していた次第なのだ。
最後に、本日はねこの日である。次の日記は、おそらくオウムの日になるだろう。


あら、こんなところにオウムが堕ちているわ。
「あらら、羽根がとても小さい。小鳥かしら。」
「きっと、堕ちているのではなくて、飛ぼうとしなくて、羽根がきらいをつけたのよ。」
 かわいそうだわ、どうにかして、飛ばしてあげられないかしら。
「いけないわ、ラン。彼が、自らのために、飛ぼうとしなければ。」
 大人になる、ということね。


Season4
 あの男、今日も来ている。
 決まって55番のラックの前で、恐らく何かを書き留めている。
 いいえ、男じゃないわ。あれはきっと、レシートのようなものよ。
 レシートのようなもの。
 一体それが何だというのか。
 つまり、取って捨てられるような存在、ということよ。
 はて、かいもく見当がつかない。探してみて、あったかい?
 いいえ、ないわ。
 ということは、君の自我ということになる。
 ちがうわ、ただそれがあなたが失くしたもののうち、わたしが失くしていないものだからよ。
 それこそ自我というものである。
 そう、望んでいたいのでしょう?
 違う、彼を見たまえ。一つの乱れもなく、一心に何かを書き留めている。
 きっと、自我がないのだわ。
 そうだ。君はそういうものからかけ離れている。
 24番のラックでしたね。
 あぁ。
 ご主人、ちょっと。
 なんだね。君はあの男じゃないか。
 そうでございます。先ほど、私めの写しているものが、取って捨てられるような存在だと仰いましたが、それは違います。 
 では何だと?
 ご覧になってください。
 これはくしゃくしゃになったレシートである。
 それが違うのでございます。これは地図なのでございます。
 これが地図なんてありえないわ。
 君か、もう持ってきたのか。
 こんなのは地図じゃないわ。
 君よ、地図というのはね、道標ではないのである。
 わたしが間違っていたというのですか。
 いいや、私は嬉しい。
 それこそ自我というものである。
 それこそ自我というものである。
 それこそ自我というものである。


あれから、いろんな人と別れてきて、その時は泣かなかったけれど。
「寂しくなんてないわ。」
「ごめんなさいはいったもの。」
きっと、ふつうの女の子になれたのかな。


Season5
 日が沈み始め、次第に「フランクリンバーガー」と書かれた看板が、空と見分けがつかなくなっていった。いつもは気にしない夕焼けが、この店のキッチン越しに見る時だけは綺麗に見えるのだった。

カウンター式の厨房であるのに、至る所に野菜やソースが散らばっている。どうかとは思うが、これでも人が来るんだから片付けることもない。
ドア横のボックス席では、お得意のおじいさんがチーズバーガーをパクついている。あのおじいさんは週二日ほどここにチーズバーガーをパクつきにくる。先代のオーナーの時から来ているらしい。間違いなく糖尿病だ。じき死んでしまうだろう。(糖尿病でなくともじき死ぬのかもしれないが。)こんな時間にこの店にくるのはこの老人くらいなものなので、ただただすることがない。散らばっている野菜をワンバックフォーメーションに変えてみたりするのだが。
すると、いかにもランニング中といったご婦人がやってきた。そして、不健康なハリウッド女優に憧れているのかわからんが、パストラーミサンドをレジ係に申し付けた。レジ係がこっちをむいてうなずくと同時に、カウンター下からバンズのセットを取り出した。まず、マスタードを下のバンズに塗りたくる。レタスを一・二枚のっけたらパストラーミビーフ二枚を載せ、最後にこれでもかとばかりに野菜類をのっける。上のバンズをのっけると、既に野菜はこぼれ始めていた。後ろから皿を取り、パストラーミサンドをのっけると、ご婦人は横からそれをかっさらっていった。ご婦人は重そうな尻を振り、野菜のはみ出たパストラーミサンドの載った皿を片手に向かいのボックス席に座って行った。
その尻に軽く唾を吐き、また少しつまらなくなった今を悔やんだ。
 
 老人がチーズバーガーをパクついた。
 加えて男子学生もチーズバーガーをパクついた。
 いや、考えられるすべてがそうだった。
 けれど、あのご婦人はそのへんで、「パストラーミサンド」をパクついたのであった。
「パストラーミサンド」は抵抗もできず、ただただパクつかれたのだった。
 最初の二千年はそんなことが繰り返された。もう“パクついた”という言葉は疲弊していたし。
すると、突然、「パクつかれたパストラーミサンド」が現れた。
こいつのおかげで、“パクつかれた”が救われた。
「パクつかれたパストラーミサンド」はまず最初にあのご婦人をパクついた。ただ、二千年の食事から救われたあのご婦人はどこか嬉しそうでさえあった。
「パクつかれたパストラーミサンド」の生い立ちは少々複雑だ。
まず、「パクつかれたパストラーミサンド」と「パストラーミサンド」の概念的性質は全く違う。それは特に段階性において顕著だったのだが、もう「パストラーミサンド」が存在しない現在では、これら性質の違いについての討論はほとんど無用だと言えるだろう。
「パストラーミサンド」と「パクつかれたパストラーミサンド」の相違性は置いておいて、それらの関係性は、例えばかたつむりのカタチをしたパズルとそれを高層ビルにしたときのそれとほぼ同義であると言っていい。
ここで、「パクつかれたパストラーミサンド」は、「パストラーミサンド」から生まれたものだと勘違いする者がいる。はっきりいって理解力不足としか言いようがないが、あえて説明を加えるとすれば、林家ペーと伊藤四朗の関係とよく似ているということだ。
以上が「パクつかれたパストラーミサンド」の生い立ちだ。わかった者もいれば、そうでない者もいるだろう。けれど、生い立ちなんてのはあんまり関係ないので気にしなくてもよい。
「パクつかれたパストラーミサンド」はその後一万年の間、世界の平穏を保った。
しかし、最初に老人がチーズバーガーをパクついてから一万と二千二日目、「パクつかれたパストラーミサンド」はふと疑問に思った。
いったい自分は誰にパクつかれたのだろうと。
「パクつかれたパストラーミサンド」は自答した。
自分はもとからパクつかれていたのに、何故も誰もないじゃないか。
ここで「パクつかれたパストラーミサンド」は気づいた。いやパクつかれたも何もないのだ。自分は「パクつかれたパストラーミサンド」であり、パクつかれた「パストラーミサンド」ではない。
そこで、「パクつかれたパストラーミサンド」は「パストラーミサンド」を創造した。
そしてそれをパクついてみた。パクつかれた「パストラーミサンド」が出来た。「パクつかれたパストラーミサンド」は「パクつかれたパストラーミサンド」が出来なかったことに落胆したが、同時に気づいた。いや、まてよ。さっきまで曖昧だった“パクつかれた”という概念は今ここに確かに存在する。ということは、自分が「パクつかれたパストラーミサンド」である根拠は無い。パクつかれた「パストラーミサンド」なのかもしれないのだ。それなら自分は目の前のパクつかれた「パストラーミサンド」と同じ存在だということだ。自分が自分自身を創造できてしまうのなら、自分の存在に個別的価値はない。
翌日、老人が初めてチーズバーガーをパクついてから一万と二千三日目「パクつかれたパストラーミサンド」は世界から「パストラーミサンド」という存在を抹消した。彼は“パクつかれた”になったのだった。

 ふと気づくと、辺りには夜のとばりが降りていた。店内の光がガラスに反射して外は見えず、辛うじて看板のネオンを確認できる。どうやら、相当な時間寝ていたらしい。一瞬、からっきし人が来ないこの店に感謝し、すぐ忘れた。
 僕はしばらく明るすぎる店内に目が慣れなかったが、時計の秒針が見えるようになった頃、まだあの老人がいることに気づいた。
老人は相変わらず、ただ座って虚空を見つめていた。
 僕は、声を掛けようとした。自分がどのくらい寝ていたかとか、オーナーは来たかとか。けれど、その老人は僕が息を呑んだところで突然立ち上がり、バタバタとでていったのだ。  老人は沿いの国道を歩いて行ったらしかった。
 面白い、というよりか、気味悪さを感じた僕は、当然外に出て見に行くことはなければ、その老人を目で追うことすら避けた。
 でも、しようがなくなって、つい、窓の外に視線を向けると、二つのライトが、その周りに、ぼやけ、を作りながら迫っていた。珍しいことだ、こんな夜中に車が通るなんて。
 車が近づいてくるにつれ、それが、幼いころにアメフトボールが転がったのを追っかけて轢かれた、マクラーレン650sであることに気づいた。
 すると、さっきまでいなかったあの老人が、店のすぐそこでマクラーレン650sと同じ車線に立ちすくんでいるではないか。
 ぼやけ、はだんだんと大きくなっていた。
 僕はカウンターをジャッキーチェンばりに乗り越えた。
 正確に言えば、あの時僕は轢かれてはいなかった。何故なら、僕はアメフトボールを抱えたまま無傷だったからだ。
 僕はあの老人めがけてアメフトボールを放った。おそらく30ヤードはあった。
 マクラーレン650sは、ぼやけ、の塊だった。
 しばらくそれが続いて、ようやくぼやけがなくなった頃、ようやく、しっかりと、あの老人を確認することが出来た。


 なんだか不安げな空だった、鏡は人の心は写さないのに、空は人の形を写さない。
「珍しいわね。こんな空はまるであの時みたいだわ。」
「スーはあの時、下を向いてばかりだったくせに。」
「上を向こうとしていたわ。けれど、理想はあくまで理想なの。私は、その場の感情に打ちひしがれるしかなかった。」
私たちは、今まで、今も、多くのものを背負いすぎていたのよ。抱え込んでいたのよ。
群青はステージと共に、何か起きそうな予感を孕んでいた。
私達はまるで、誰かを待っているかのように、そこに立ち尽くした。


Season6
「とりとめもない、恋、なんてのはどうかな?」
僕は片手で頬杖をついて、片手で万年筆を持って、多年用手帳にそれを書き殴りながら言った。
「駄目ですね」マスターは古げなスプーンをまじまじと見ながら言った。
「そりゃあ何でさ?」
「お天気しだい」マスターはスプーンを置いて、また続けた。
「女性というものは、お天気のようなもので、だからこそ我々男性は、例えば女性が笑えば、まるで雨が上がった後に雲が音もなく割れて、そこから最初の光がこぼれてくるように感じたり、女性が泣けば、我々は大きく育ちすぎた夏野菜を見たときのような気持ちになるのです。だから、今あなたが考えるべきなのは、どんな天気にだって耐えうる傘を持つコトバです」
「なるほど」僕は言った。
「なら、傘をつけてやればいいんだね」
「とても難しいことですよ」
 マスターはそう言うと、後ろのラックからワイングラスを持ち出して、まだ目新しい食器拭きでそのフチをぐるぐると磨いた。
 僕は多年用手帳からそのページを破り取って細く巻き、そして机の端っこの隙間に差し入れた。
 もしかしたら、ねずみたちが旅に出るときに、船着き場までの地図を覚え書きするために使われてしまったかもしれない。

 昔から、僕は暗闇が怖い。今だって、昼だというのに、店の奥の木製の本棚のちょっとした陰に怯えている。しかし、常にそうなのではなく、それを意識した瞬間、無意識のそれが意識されるものに変わる。ただし、僕はそれが無意識に変わる瞬間を知らなければ、そのすべも知らない。

「そもそもただの文章を送るというのが間違いではないのでは?」
マスターは永久にワイングラスのフチをぐるぐると拭いていた。
「けれど、彼らは僕がカフェを見つけたということを知らないんだ。これを知らせなければ、そもそもフレーズを考える意味もないというものだ」
「しかし、あなたはそんな連絡の手紙の文章ですら手こずっている。それなら、文章以外にそれを伝えるすべを使うべきだと言っているんですよ」
 マスターの言っていることは至極正しいことだったが、しかし、僕はそんなことをしたことも考えようとしたこともなかったので、暫く黙り込んだ。
 多年用手帳から切り取られたその紙を、僕はじっと見つめた。しわくちゃになったその紙の背景で、デ・モクラシーが揺れていた。デ・モクラシーはひっそりと影を垂らしたまま、そこで踊っているように見えた。 
 デ・モクラシーが言うには、彼は女の子、そう、このくらいの背だが、とスキップしてる。すると突然その女の子が立ち止って、僕は腕を惹かれた。女の子はなんにも言わずに、そこに立ち止ったままなのさ。デ・モクラシーは悲しそうだった。
 その姿は、どこかで見たことがあった。
 うずくまるでも、泣き崩れるでも、感情をこらえ震えるでもなく、ただ、己の存在というものを、まるで想像力の枠を思い切り蹴り飛ばしたみたいに、俯瞰しているのみだった。
 しわくちゃの紙の背景には、まるで自分がいた。
「どうされたのですか?」
 マスターは僕のなにかが震えているのに気づいたらしかった。
「コーヒーをお入れしましたから」
 いつのまにか、マスターはワイングラスを拭くのを止め、その手はコーヒーカップの皿に添えられていた。
「いいや、昔のことを思い出した気がしたんだ。僕が我々になった時のことをね」
「ありがとう、頂くよ」僕は言った。
 マスターは、白いひげを蓄えて見えにくい、口元をすこし綻ばせたように見えた。
僕は、そっとコーヒーに唇をつけた。
「おいしいよ、マスター。こんなにおいしいコーヒーは、久しぶりだ」
「なにせ、ここはカフェですから」マスターの表情は、変わらなかった。
「チェットをかけてくれないかい?いかにもカフェらしくて、そしたらきっと何か書けるはずなんだ」
「もちろんですとも。なにせ、ここはカフェで、チェット・ベイカーが一つや二つかかっているものなのですから」
そういうとマスターはカウンターから出て、店の奥の暗がりのほうに置いてあるジュークボックスに硬貨を入れ、曲選択のボタンを押した。

My funny valentine
Sweet comic valentine
You make me smile with my heart
Your looks are laughable
Unphotographable
Yet you're my favorite work of art

あんまり、こういう悲しげな曲は、カフェには似合わない。けれど、あの時のことが甦って、我々が何を目指してるのか、自認し続けることができた。

Is your Figure less than Greek?
Is your mouth a little weak?
When you open it to speak
Are you smart?

僕にはきっと、文章を書くには、それが足りなかったのだと気づいた。そして今、僕にはそれが備わっていて、無意識にペンを持っていた。

But don't change your hair for me
Not if you care for me
Stay little valentine stay
Each day is Valentines day

皆様へ
私事ですが、この度文章を書きました。
さて、皆様とのお約束だったカフェを見つけることが出来ました。ここにご報告いたします。
後記の所定の場所に、気の向くままにお越しください。それらは逃げ出すことはありませんから。
但し、それはもちろんそれぞれが抱えている問題を解決してからです。加えて、私は既に済ましておりますが、親しいものとの別れも惜しまずなさってください。そうでなければ、それらとの接触は一層難しいものになるでしょう。
最後に、皆様の旅の安全をお祈りしております。

Is your figure less than Greek
Is your mouth a little weak
When you open it to Speak
Are you smart

カフェの所在地
霞みがかった灰色の塔が見える丘のてっぺんに、きっと男の子と女の子がジェラシーのキャッチボールをしていることでしょう。いかにも詩的なボールと夕暮れが重なった時、そこから零れ落ちる真っ赤な光に怯えてはいけません。それがこの世で唯一射し降ろす、一段高いところにあるアーミュネーションの向かってすぐ右隣、古びた木製の扉を押してください。そこで、私は待っています。


But don't change your hair for me
Not if you care for me
Stay little valentine stay
Each day is valentines day



僕が手紙を四人に出して、何度もクールが空を回った。

最初に門戸を叩いたのは、すっかり落ち着きを取り戻したその3だった。彼はまるで賢人のようにしっとりとカウンター席に座っては、まるで老人のようにそこにすわっているのみだった。朝焼け時のことである。
続いたのは、その四だった。
「ずいぶんと急じゃあないか。おかげで僕はパストラーミサンドの一つも食べられはしなかった」
「そうかい。けれど、手紙というのはそういうものさ」
 その4はいぶかしげだった。
 最後にやってきたのはその2だった。彼はカフェで終始「まるで尻が新品の棺桶の中にいるみたいだ」と呟いていた。そして、彼の肩に乗っている頭二つ分はある鳥が、羽根をパタパタさせながら、(カンオケ・カンオケ)なんて言い続けるもんだから、彼はある日その鳥にちり紙一枚持たせただけで空に放った。きっと、その塵紙で涙を拭くことは無かっただろうに。
 その5に関して、彼はいつ来たのかわからない。もしかしたら、最初からここに、僕の所に、存在していたのかもしれない。とにかく、彼の写したしわくちゃの地図らしきものがそこにあった。
 その中で、この場所に迷ったものはいなかった。
 こうして、我々は一堂に介し、我々の長い旅は、終わりに近づいていた。
 その時、チェットは嗚咽を響かせるだけだった。


 僕は木扉のノブに手を添えた。案外そいつは冷たくって、僕の足の運びを止めるには十分だった。決して、躊躇ったわけではない。それはしないと決めたのだ。どちらかと言えば、これはそれへの一瞬の同情で、そして悲哀でもあった。
ふとマスターのほうを振り返った。ここ幾分か、彼だけが僕にとっての現在だった。マスターは、今日ばかりは、いつもせわしなく動いている両手を後ろに組んで、まるで主人の険しい船出を見守る執事のようにしていた。
「マスター、さようなら」
 思いがけず出た言葉だった。もしかしたら、そう仕組まれていたのかもしれないほどに。
「えぇ、そうすることにしましょう」
 僕はそっと手に力を入れて、ノブを回した。もう既に、僕の心は、その外にあった。

 一歩目、我々は一直線に並んだ。それが最善の策だった。
 
二歩目、我々はそれぞれを確認した。それは己の存在を、執着を、孤独を確かめるためだった。
 
 三歩目、我々は自分の荷物を確認した。例えば僕は『フロベールの鸚鵡』だ。
 
 四歩目、道の両脇には、「動物王国」が広がっていた。かつての開拓者達が、たった一丁の銃と多くの黒んぼを引き連れて、この地にやってきた証拠だった。
 
 五歩目、五人は揃っていた。なにもかも。
 
 六歩目、道指し者が居た。あぐらをかいて、そっと道を指し示していた。そいつは長い間、道を指していたにも関わらず、それにひどく飽きていた。道指し者は、ただうつむくだけだった。
 
 七歩目、後ろのほうで、誰かがアクビをした。そういえば、ここ何日か床に着いていなかった。
 
八歩目、埃が動きを止め、稲穂は揺れをしなくなった。全ては固まった粘土のようだった。

九歩目、ふと目覚めると、いつのまにか知らぬ地に居た時のような感情が我々を襲った。それは、四車線の道路が近いということを我々に教えた。

十歩目、ようやく我々は足を止めた。それは喜びでもあり、同時に我々が殺人者の狂気を最後に感じた瞬間だった目の前には四車線の道路が横たわっていた。

列の後ろから、その4が名乗り出て、道路に入ってしまうくらいに前に出た。
彼は木綿のバッグからアメフトボールを取り出して、「ついてきたまえ」と言ってアメフトボールを拳上した。彼が道路に一歩踏み出して、我々は唾を呑み、三歩かまた踏み出して何も無いと知って、ようやく彼について行った。我々が歩いたのは、確かに車がいない車線だった。
拳上されたアメフトボールは、まるで退屈そうだった。
なぜなら、この車線には車はいなく、恐らくそれが使われるであろう車と対峙する瞬間は絶対に訪れなかった。もしかしたら、それを拳上することに意味があったのかもしれないが、いや、それは橋に着いた時の彼の浮かない顔が、そういうことなのだとわからせた。

我々は横一直線になった。
そういうのが、あからさまなイメージだった。
河らしき、海らしき、我々の目の前に横たわるそれは、何年もその役割を辞めていた。かといってその役割が何であったかは理解できず、それは入江だったのかもしれない。つまり、我々の間に一種の不気味さを共通させたそれは、それまでに起こったことなどどうでもいいと、思わせてしまうような一種の魔力があった。
我々、正確に言えば僕のその時の姿は、さっきのカフェでドアノブを回すのを躊躇していた僕のそれと、限りなく近く、外から見ればそれは全く差異は無かったが、しかし、僕が一歩を踏み出しようもなかったという点において違った。
とても道程らしい、それはつまり試練で、あくまでこれが長い旅だと、再確認させるものであった。
そしてやはり旅というものは、友に助けられるもので、落ち着きを取り戻したその3が、落ち着きがないというのではなく、勇ましく、足早に、橋を渡って行った。その時、橋はただの道になって、いままでそうしてきた時のように、たんたんと、歩いた。
長い旅は、終わりに近づいた気がした。


 Season7
 橋を超えると、街があった。
 すっかり禿げた街路樹に、ショウ・ウィンドウにはきらびやかにモノが並び、右往左往する人々が、まるでふと見たときの秒針のように歩いていた。それらはミニチェアの街のそれとさほど変わり映えはしなかったが、唯一、我々はそれらの中に閉じ込められているというのが違った。
 我々は誰一人として歩を進めることは出来なかった。それは、恐怖のそれに限りなく近かった。
やっとステージを見ることが出来るのに、通路を通っている時の僕は、まるで常闇からはじまりの火の陰にでたような気分だった。無機質に光る街灯は彼女達の事を悲しんでいるように感じれた。もしかしたら、通路そのものが悲しみだったのかもしれない。
 街はその時、渦を巻いていた。自然と、もしかしたら恣意的に、その渦の中心、それは舗装された道路に限りなく近かった、を見つめた。渦はだんだんとその動きを止め、我々は彼女達の存在に気づいた。
そこには矛盾があった
今からスタンドで見てしまう光景は、悲しみそのものであり、僕はそれから逃げるためにここに居るハズなのだ。最早僕には居場所はなかった。
 彼女達は、まるで当然のように驚くこともなく、そこに居た。
本質的に彼女達はまるで変わっていないようで、現に僕はあの時のことを夢想していた。
 僕、そして我々は、彼女達に尋ねることを辞めた。我々は、彼女達が変わっていないという事実によって、それまでの我々の行動が、変えられることのない静寂の過去を、懐古主義者であるのに、まるで一筋の風も無い湖に小石を投げた時のその面のようにしようとしていたことに気づいた。執着というものを捨ててきたハズなのに、我々は今を変えようとする現在への執着を、生まれながらにして孕んでいたのだった。
 だから、我々、そして僕は、あの時の別れが、別れでなくなった事への喜びを、ただその身に一身に受け入れた。
我々は、目的を達成したに違いなかった。しかし、その時それはメタファー的でなかった。
僕は結局手を叩いていた。いつもと変わらずに、変わっているのは心持だけで。
 でも彼女達は違った。泣きながら、時々の嗚咽を挟みながら、あの我々との団結のしるしを、歌い続けた。
 笑っている者もいた。叫び声を枯らす者もいた。何一つ動かない者もいた。泣いている者はとても多かった。けれど、我々も、彼女達も、なにもかも、全てが一つだった。幸福だった。
 何故だろう、街なみには人々が溢れているというのに、彼女達は孤独そうだった。
 ミキの被った青いシルクハットは、それこそ孤独というものであったし、スーの履いている緑色の靴は彼女が浮いているように見えさせていた。
「あなた達がここに居るということは、相当な努力をされたのでしょう。それは、とても嬉しいことです」
 彼女達はやはり、浮かない顔だった。
「それなら、何故あなた達はそんな顔をしているのですか」
「私達、どうすればいいか。私達は、それをここでずっと考えているのです」
ランは感情を露わにしていた。
「孤独から、手を放すことは許されない。たとえ、あなた達がここに来ようとも」
「我々はあなた達の事を常に思い、あなた達は孤独なんかではありません」
ランはまるで悲しそうだった。街の人々はみんなそれを帯びていて、太陽は、その多くは雲に隠されていた。
「そういって、私達は旅立った。飛び立った。けれど、その時から、いいえ、きっと私達が生まれた時から孤独を決めつけられていた」
 雲はうっそうと広がっていった。最早、街で歩いている人々はいない。全てがスローモーションで、そしてはっきりとしたものは何もなかった。
 彼女達は我々と同じだったのだ。
 そしてその希求の薄さが、彼女達だけが取り残されたままで、我々は既にそのほとんどを終えていたのだと気づかせた。
 その時、僕のその時の全てが終わろうとしていた。彼女達の言葉は耳に入るわけもなかった。歓声とともに光の灯った文字は、冷静に、僕に終わりを告げた。少しづつ消えていく、彼女達。もう取り戻すことは出来なかった。
 しかし、それは出来事として、ずっと僕の心に、一つの季節を作り続けたままだった。
 我々のすべきことは一つだった。それはもちろん自分達の完全な希求の昇華のためだけでなく、第一に彼女達のためだった。
 きっと、小さな窓から雨をじっと眺める子供の気持ちのように、十字架を背負い続けているのだと。
 僕はそのためにできることを考えた。しかし、僕はそれについて語ることは出来ないと感じた。なぜなら、我々の場合、それはいつの間にか、意識しないうちになされていたのだから。
 僕はしばらくして、つまり伝えるべきなのはそのこと自体だと気づいた。それをすることで彼女達は今の我々のようになれる。それが結果的な完全につながるものなのだ。
「たとえそうだとしても、」僕は重重しく口を開いた。
「孤独に最も近い別れというものを、あの時の別れを、今あなた達は、かつて我々は克服した。それは、きっともう、孤独があなた達の手を握るのを緩めたに違いないのですよ」
街路樹がかさかさと音を立てた。それだけが彼女達の存在を支えていた。
 彼女達は泣いていた。
 しっとりと。けなげに。
 ようやく街に雨が降った。
 我々はそんな雨を前にも浴びていた。
それは我々の身と心を祝福するように溶かし、雨音は聞こえず、彼女達の涙が滴り落ちる音だけが響いた。
「本当に、今までの孤独ではないのですかね。またあの時のように、偽りの羽ばたきが続いてしまうのではないのですね」
 彼女達は、我々と同じになった。
 雨が降っているのに、街はやけに明るかった。
 街の人々は、まるでスキップしているようだった。
 我々は手を叩いた。まるであの時のように。
 すると彼女達は笑い出した。まるであの時のことを知る由もない頃のように。
 彼女達はお互いに頷くと、こちらを向いて、あの時、嗚咽交じりで歌った、あの曲を歌いだした。
 我々は手を叩いた。
全てが一つだった。
 けれどあの時とは違い、ずっと。
 彼女達は笑っていた。我々は笑っていた。

あめだ。

 アメだ。

  
 
 

雨ふる町で

雨ふる町で

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-24

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