去りゆく時を抱きしめて
チャプター毎に 毎週土曜日更新
2月21日 完結
その瞬間までは、いつもと変わらぬ昼休みであった。
賑やかにはしゃぐ女子生徒や、校庭で遊ぶ男子生徒の誰もが、我が目を疑った。
耳をつんざく悲鳴。
教室の窓の外。空へと続く空間を、黒い塊が落ちていく。
それが人だと気づいたのは、わずかな者だけだった。窓の外を覗き、遥か下を見て人間だとわかった者が大半だ。
血の海の中。横たわっているのは、紛れもなく女子生徒である。
多くの悲鳴と、誰何する声。
答えられる者など、いない。
次第に人が集まる中、校舎の屋上から一つの影が消えた。
作田早苗は、悲しみを通り越した憤りに、顔を歪ませていた。
朝早く担任が顔を覗かせ、机の上の花瓶を取り除くようにと、早苗に言った。
それは、一ヶ月前に屋上から転落死した早苗の親友、来生素子の席である。転入生が来るとは言え、何もこの席でなくてもいいだろうと、早苗は内心文句タラタラで、花瓶を教室の隅に持って行った。
早苗は、今でも信じられないのだ。
死んだ来生素子は早苗の一番の親友で、明るくて可愛くて、誰にでも好かれた。
その彼女がなぜ屋上から飛び降りなければならなかったのか・・・。
屋上には、滅多に生徒は上がらない。柵がさび付いていて危ないのだ。学校側も上がらないように指導している。
それなのに素子は一人でそこへ行き、片方の靴だけ残して転落した。
普段なら規則を守る真面目な素子が、出入りを止められている屋上へ上がったことと、死の数日前から彼女が少し元気がなかったことが取沙汰され、彼女の死は自殺とされた。
素子の突然の死に、誰もがショックを受け、数日は泣き暮らしたが、一ヶ月たった今では、皆すっかり忘れてしまったようで、彼女の机の上の花瓶の水を換えるのも早苗一人がやっている。
なのに、それさえもしてやれなくなるのだ。
季節はずれの転入生は、死んだ素子の代わりに、この席を埋める。早苗はまだ見ぬ転入生に、敵意を抱かずにはいられなかった。たとえそれがお門違いの感情でも・・・。
朝のホームルームが始まり、担任は一人の男子を伴って現れた。
学ランを着た彼は、どこか茫とした雰囲気で、教室の遥か後ろを見つめていた。
「今日からこのクラスに入る、山本晴臣くんだ。皆、仲良くするように」
担任の紹介にペコリと頭を下げて、「よろしく」と声優バリのよく通る声で彼が言う。
長めの前髪を無造作に下ろし、黒縁の野暮ったいメガネをかけた細身の少年は、愛想のいい笑顔で示された席に落ち着いた。
休憩時間になると、我先に転入生の相手をしようと彼の周りに人だかりができた。その連中に等分に愛想を振りまいて、転入生は一躍人気者になった。
「声がいいと思わない? 私の大好きな声優さんにそっくり」
早苗の傍で、数人の女子が賑やかに話している。
それは、早苗も思った。遠く聞こえる喧騒の中、山本晴臣と思しい声だけが、心地よい響きで皆を笑わせている。野暮ったい外見とは裏腹に、どうやら転入生は明るい人気者タイプらしい。しかも、最短距離で取り巻いているのが、皆普段あまり目立たないタイプの男子ばかりということが、山本晴臣の性質を暗黙のうちに物語っていた。
「そっか、松高から来たのか」
内田という文系タイプの男子が、どうやら一番彼に興味を抱いたらしく、しきりに話を引き出そうとしている。
山本も内田は同類と認めたようだ。口元に微笑を浮かべている。
「クラブは何をやってたの?」
内田といつもツルんでいる安岡が、横から問う。
「やっぱ、文科系かな?」
内田のフォローに、山本はうなずいた。
「美術部だったんだ。このクラスに美術部の子っているの?」
人気声優バリの声が、女子生徒の耳をすべて彼に向けさせている。
内田はうなずくと、早苗の方を示した。
「あいつ。作田早苗。あいつが確か美術部だったよ。そう言えば、死んだ来生も美術部だっけ」
「・・・死んだ?」
内田の沈んだ声に合わせるように、山本が問う。さすがに顔が曇っている。
「ん・・・。一ヶ月前、屋上から飛び降りてさ。・・・この席だったんだ」
安岡が、山本の座っている場所を示して言った。
「・・・この席だったの・・・」
山本の視線が机に落ちる。その場所にいた者たちが、山本の様子を見て、その話をしたことを後悔した。
「それで、ここでも美術部に入るのか?」
話を反らせたくて、わざと陽気な声で内田が問う。
「ウチに来ないか? ブラ・バン。初心者大歓迎」
「そりゃ、ダメだ。俺、音楽センスないから」
山本も、合わせて陽気に返した。
その場にいた者たちが、皆、山本に合わせてから笑いをした。
予鈴が鳴る。
じゃあな、と内田たちが去った後、山本の視線がまた机に注がれた。
早苗はその様子を遠く見つめながら、席までなくなってしまった親友を悲しまずにはいられなかった。
昼休み。
山本は、授業が終わるとすぐ、どこかへ行ってしまったようだ。
内田たちの所にもいなかった。
早苗はお弁当を食べると、手持ち無沙汰で教室を出た。
来生素子がいた頃は、昼休みも部室である美術室へ行っていたが、彼女が死んでからはあまりそちらには足が向かない。
もとより、素子がいたから美術部に入ったような早苗にとって、素子のいない美術室など何の魅力もなかった。
二人で楽しく食べたお弁当も、今では快いグループの末席にポツンと座って食べている。
なんとなく足は、素子が倒れていた場所へと向かう。
信じられない光景は、一ヶ月経った今でも瞳に焼き付いている。
絹を裂くような悲鳴と、窓の外を落ちていく黒い影。窓から覗いて見下ろすと、地面は赤く染まり、その上に人の身体。それが女子生徒のもので、しかも親友のものだとわかった時、どうして平静でいられようか・・・。
なぜ素子が自殺などしたのか、早苗にはまったくわからなかった。
確かに、その数日前から素子は元気がなかったが、自殺を考えているほどの深刻さは感じられなかった。
しかし、調べてみると、素子の部屋から、
「ごめんなさい」
と書かれた便箋が何枚も、丸めた状態で発見された。
警察はこれを、遺書を書きかけて躊躇ったものと断定したらしい。しかも、彼女が履いていた靴の片方が、決して彼女が行くことのないはずの屋上に残されていたのだ。
結局、彼女の死は自殺として片付けられた。
来生素子の葬儀は、多くの同窓生に見守られる中で執り行われた。誰もが、「信じられない」ともらした。
笑顔を絶やさない、小柄な女の子だった。誰にでも好かれ、誰とでも仲良くなれる、そんな子だった。
天使を模った手作りの髪飾りをとめて、コロコロ笑う彼女が好きで、葬儀に参列した男子の中には、目を腫らして顔を背ける者もいた。
しかし、それも時が過ぎるうちに忘却の彼方へと向かう。皆が一人の少女が存在したことを忘れようとしている。
それがまた、早苗を悲しくさせた。
取り留めのないことを考えながら、素子の最期の場所まで来ると、山本晴臣が一人ポツンと立っていた。
「何、しているの」
知らず知らずのうちに、声に敵意が込められていた。
「俺の席に座ってた子の死んだ場所って、ここ?」
山本は、ずっと地面を見つめたまま、そう問う。
早苗も同じように地面を見ると、素子が倒れていた所に花が供えられていた。
「そうだけど・・・。この花、あなたが持って来たの?」
訝しげに問い返す早苗に、山本が顔を上げて苦笑する。
「まさか・・・」
「そうよね。今日転入してきたばかりのあなたが、お花なんて持って来るわけないよね。でも、誰だろう。素子が一番好きなコスモスなんて置いたの・・・」
早苗は少し考えた。素子がこの花を好きだということを知っている人物に心当たりがなかった。
「それで、あなたはどうしてこんな所にいるの? 冷やかしにでも来たの?」
山本は早苗の厳しい目を苦笑して肩をすくめた。
「俺の席の子だって言うから、一応挨拶しとこうと思ってね。黙ったまま居着いちゃ悪いだろ」
「ふぅん」
早苗は少々気を良くしたようだ。どうやら山本が素子の死を面白半分に茶化しに来たわけではないらしいことは、彼の口調ではっきりした。
「キミは、彼女の友達だったの?」
山本は、また地面を見つめて、つぶやくように問う。
「友達だった、じゃないわ。今でも、友達よ」
「あぁ、ごめん、そうなの。悪かったね、考えなしで・・・」
厳しい口調に圧倒される形で、山本は申し訳なさそうに謝った。
思わず自分の感情的な態度を反省して、早苗も謝る。
「私の方こそ、ごめんなさい。つい、彼女のことを思うと・・・」
言葉は続かず、早苗はそのまま黙った。
「自殺だったって、本当?」
静かな山本の声。声だけ聞くと、まるで映画の中のヒーローにでも囁かれているような、そんな錯覚を起こしてしまうくらい素敵な声だ。
「えぇ、そういうことになってるけど、でも、本当のところはよくわからないわ」
ドキドキする胸を軽く手で押さえて、早苗は答えた。もしこの声で、前髪を整えメガネを外してくれたら、理想の男の子になりそうだと、頭の隅で考えてしまった。
山本は、長めの前髪を手でクシャリとかき上げて、小さくうなずく。
「それじゃ、自殺とは断定されてないのかい?」
「うぅん。警察は自殺ということで方を付けたわ」
「それって、何を根拠にしたの?」
「彼女が数日前から元気がなかったことと、彼女の部屋から「ごめんなさい」って書かれた手紙を丸めたものが幾つも出てきたこと・・・」
「・・・・・・」
「それから、いつもの素子なら絶対上がらない屋上に、彼女の靴が片方残されていたこと」
「片方?」
地面を見つめたまま問い返す山本は、全身で早苗の言葉を聞いているように見える。
早苗はそこから屋上を仰いで目を細めた。
四階建ての校舎は、二人に覆いかぶさるように建っている。
「もう片方は、ちゃんと履いてたの。でも結局、屋上に靴が残ってたから、そこから飛び降りたんだろうって、自殺っていう線が濃いだろうって」
「そう・・・・・・、キミも、そう思う?」
そう問われて、早苗は即座に首を横に振った。
「思わないわ。だって、そりゃあの頃、素子は元気がなかったし、あの日だって一人でどこかへ行ったりして、いつもと少し様子が違っていたけど。でも、素子は自殺するような子じゃないわ」
「・・・・・・」
「皆、そんなことも忘れて、素子が死んだことを当然のように考えて・・・」
その憤りは、誰にも向けようのないものだから、会ったばかりの茫とした少年に向けられたのかもしれない。
山本は、そんな早苗を見つめて、悲しそうに笑った。
「そんなふうに言うと、キミ自身が傷つくよ。彼女がもういないという事実は動かせないんだ。皆はそれを受け入れているだけさ」
慰めているのではない。突き放しているのでもない。どこか当たり前で、けれどどこかが嘘をついている。そんな口調だった。
「そうね。人を悪し様に言うと、死んだ素子が怒るわね」
それでも山本の声のせいか、肩の力を抜いた早苗が地面を見つめて呟いた。瞳の置くには、あの時の光景が浮かんでは消える。
山本は、そんな沈んだ空気を一掃するような大きな背伸びをして、息をついた。
「さてと。ところで作田さんは美術部なんだってね。俺、入部したいんだ。放課後付き合ってくれる?」
「付き合う??」
一瞬、彼の前髪の奥の瞳に吸い込まれそうなった。その上、聞きなれない台詞に息が止まってしまう。
「だからさ。一人じゃ行きにくいし、第一美術部がどこにあるのかわからないから、案内してくれないかって言ったの」
柔らかい口元が笑っている。
「そ、そういうことね。いいわよ、大歓迎。美術部だろうと、校内全部だろうと、案内するわ」
上ずった声で赤面しながら、早苗は答えた。思った通り、極上の笑顔が返ってくる。
予鈴が鳴る。
それじゃあ、とお互いに促して、その場を離れる。
立ち去り際、山本が一度立ち止まり、能面のような表情で素子の最期の場所を振り返ったことに、早苗は気付かなかった。
放課後の掃除を済ませて、早苗は山本を連れて美術部へ行った。
美術部は正規の部室がなく、美術室とその隣の美術準備室とを間借りしていた。活動はもっぱら美術室で行う。
「へぇ。美術室は四階にあるのか。階段がツライな」
とぼけた声で、山本が言った。
「若い者が、何を言っているの。前の学校は、何階まであったの?」
「五階」
「・・・面白いわね」
言葉とは裏腹に、まったく面白くなさそうに早苗が言った。
「それ、よく言われる」
悪びれもせず答える山本。
早苗がため息をつく。呆れたような素振りだが、顔が笑っているので、悪い気はしてないのだろう。ついでに早苗は美術室に入る前に立ち止まり、廊下の端を指差した。
「ほら、あそこに扉があるでしょう。あそこから屋上へ上がれるのよ。そして、向こうの隅から順に、被服室、被服準備室、美術室、美術準備室、それから音楽準備室、音楽室。この四階はすべて専門科目用の教室なの」
「あの屋上へ上がれる扉だけど、いつでも開いているの?」
「そうよ。だって扉のノブが錆びてるもの。鍵が閉まらない」
「へぇ・・・」
山本は一言呟いたかと思うと、ダッシュでその扉の所まで駆けた。とても文科系クラブとは思えない素早さだ。
「どうしたの?」
やっと追いついて問う早苗を無視して、山本は扉のノブを見つめている。
「これじゃ、指紋なんかとれないだろうな・・・」
錆び付いたノブに軽く触れながら、呟く。
早苗は怪訝な瞳で、この野暮ったい格好の声だけヒーローを見つめた。
「ねぇ、山本くん」
「何?」
「あなた、素子のこと調べてるの?」
山本が顔を上げて、首を横に振る。
「いや、別に」
「ウソ。やけにこだわってるじゃない」
「そうかなぁ」
「そうよ」
惚ける少年を睨んで、問いただす。
山本は、真っすぐ見つめる女の子を正面に苦笑してしまった。
「きっと親父が刑事なんてやってるから、そんなふうに見えたんだよ」
前髪を手でクシャリとかきあげて答える少年に、思わず挑むように問うてしまう。
「刑事? 本当なの?」
「冗談だよ」
憎らしいほど、惚けた答え。
「もう、何よ。バカにするなら、美術部に来なくていいわよ」
「ごめん、謝るよ。だから、連れて行ってください。お願いします」
そっぽを向いてしまった早苗にすがりつくようにして見せ、山本は笑って頭を下げた。
「まったく・・・」
踏ん反り返りながら、早苗が呟く。
前方にちょうど美術室の前で立ち止まった男女が見えた。
「こんにちは」
早苗が軽く頭を下げながら挨拶すると、見栄えのする女子の方がニコリと微笑んで、
「こんにちは、早苗ちゃん。その隣の子は、彼氏?」
と返した。
「違いますよ、入部希望者です。今日、私のクラスに転入してきた山本くん」
「そうなの」
早苗は山本を促して二人に近づくと、もう一度山本を紹介した。
美男美女という形容がピッタリの二人に、山本が軽く頭を下げると、男子の方はあまり気のない素振りで形だけの挨拶を返したが、女子の方は人懐っこい笑顔を作り、
「はじめまして。私、田渕成子です」
と言いながら、山本に手を差し出した。
「はじめまして。田渕成子さんていうと、県美展で入賞された?」
差し出された手を取って山本が問うと、成子はパッと顔を紅潮させて感嘆した。
「あら、嬉しい。知ってるの?」
「えぇ、一般展示の時は、見に行きました。とても高校生とは思えない素晴らしいものでしたよ」
山本は、説得力のある声で言う。
「そこまで言われると、困るわ」
そう言いながらも、成子の表情には賞を取って当然という驕りのようなものが微かに感じられた。
「それじゃあ、俺は行くよ」
どこかしらシラケたムードを更に圧迫させる口調で、成子の横にいた美男子が言葉を挟む。
山本がキョトンとして彼の顔を眺め、早苗がビクリと固まったのを気にも留めないで、成子は軽く彼を見上げた。
「あら、そう。帰りは迎えに来てね。今日は居残りしないつもりだから」
どこか、冷たい。
美男子は短く「わかった」と答えると、さっさとその場を離れて行った。
「いいんですか、成子先輩。湯浅さん、ちょっと可哀想」
耳打ちするように早苗が言うと、
「いいのよ。いつもこんな調子なんだから」
と、またしても冷たい口調が返ってくる。成子はそのまま美術室へと入っていった。
「作田さん。さっきのいったい誰なの」
山本は早苗の腕を引き寄せて、成子に聞こえないよう耳元でこっそりと囁いた。
早苗が間近に聞こえる美声に頬を赤らめながら、
「あれは、成子先輩の彼氏で湯浅さん。帰宅部なんだけど、毎日成子先輩の部活が終わるのを待って一緒に帰るの。でもね、成子先輩ももう少し優しくしてあげてもいいと思うのよね。だって、傍から見るとまるで、女王様と従者だもん」
もったいないとでも言いたそうだ。
山本は、意味も無く納得顔。
「そりゃ、まぁ。お互い連れて歩くにはゼッコウのアクセサリーだとは思うけどね」
早苗は、その台詞に思わず呆れてしまい、この黒縁メガネの野暮ったい少年を穴が開くほどに見つめてしまった。
美術室に入ると、成子はすでに廊下側の席に着いていたが、もう一人窓際に女子生徒が来ていた。
「こんにちは、幸美先輩。いつも早いですね」
早苗が気を取り直した明るい声で言うと、幸美と呼ばれた女子生徒はようやく聞こえるような小さな声で「こんにちは」と言っただけで、また黙ってデッサンの準備を続けた。
「彼女も、部員?」
試しに早苗に問うと、早苗は困ったような顔で肩をすくめた。
「河口幸美先輩。成子先輩と同じ二年生なんだけど、あまり仲が良くないみたいで・・・」
早苗が言いよどんで山本を見ると、彼は前髪に隠れる瞳の色を微かに変えて、どこか遠くを見つめているようだった。
次第に人が集まり、賑やかに談笑する部員の中から、早苗は部長を捕まえてきて、山本を紹介した。
「俺が部長の春日だけど、キミが入部希望の子かい?」
穏やかな笑顔の男子が問う。
山本は、「よろしくお願いします」と深深と頭を下げて挨拶した。
「すごいですね。こんなに盛況な美術部って、珍しいんじゃないですか」
「ははは、俺もそう思うよ。でも実はほとんどが、この一ヶ月の間に入部したヤツだよ。田渕さんが県美展で賞を取ったのが効いているんだろう」
春日は、にこやかに笑って、
「じゃ、今日は見学ということで、皆が描いてるのを見ててくれ。早苗ちゃんは、久しぶりに描くんだろ?」
と言いながら、早苗の顔を覗き込んだ。
早苗が空笑い。
「え・・・。描くんですか」
と問い返してくる。
春日が大きくため息をついた。
「まだ、描けないの? 素子ちゃんが死んでから、ずっとクラブ休んでただろ。心配してたんだぞ。早苗ちゃんって、思い込む方だから・・・」
春日の真剣な瞳にあって、早苗は思わず笑い飛ばした。
「嫌だなぁ、部長。大丈夫ですよ。ちょっとスランプだったんです」
その答えに、春日は少し物足りなさを感じて苦笑した。
「じゃ、早いとこスランプから抜けてくれ。特別展示会が二週間後なんだ。もちろん早苗ちゃんにも出品してもらうからね」
春日はそれだけ言って、また大勢の部員の中へ紛れた。
早苗が面倒そうにため息をつく。
「すっかり忘れてたわ。二週間後なのね」
「特別展示会って、何なの?」
山本が問う。
早苗は、隣に彼がいることを思い出し、我に返った。
「県美展に入賞した成子先輩の絵を校内で展示する際に、美術部皆の絵も出すことになったの。クラブの宣伝にもなるし、成子先輩の一枚だけじゃ、格好つかないとかで」
その展示会が近い為だろう、ほとんどの者がキャンバスに向かっている。
早苗は最初、山本の傍で皆を遠くに見ていたが、春日の強引さに負けてしぶしぶキャンバスに向かった。
山本はそれを微笑で送る。
教室の後ろに立ってみると、皆の描いているものがよく見えた。一様に黒板の前に置かれた石膏像に向かっているが、描いているものは違うようだ。
いや、ただ一人。黙々と石膏像を見つめている者がいた。河口幸美である。見れば、彼女だけがキャンバスでなく、大きなクロッキーノートに向かっていた。
山本はしばらくの間、静かに場所を変えながら、皆の絵を眺めていたが、ふいに微笑を浮かべていた彼の口元が次第に固く厳しく結ばれていく。
早苗はキャンバスに集中することができず、何気ないふりで山本を目で追った。
どうやら彼の視線は、成子の手と幸美の手に注がれているようだ。
「山本くん、どうしたの?」
小さな声で問うが、彼の耳には届かなかったようだ。
山本の目はジッと何かに注がれている。
「何をそんな恐い目で見ているの?」
あくまで小さな声で問う早苗に、山本は視線を幸美から離さず問い返す。
「キミは、誰と一緒に帰るの?」
「えっ? 一人だけど・・・」
問いの意味もわからないまま、答える。
「じゃ、俺と帰ろう。家まで送るよ」
「はぁ?」
冷めた口調に惚けた答えが重なって、二人はその場にいる者すべての視線を一身に浴びることになった。
夕暮れ時の歩道を並んで歩きながら、早苗は頬を膨らませている。
「もう。いきなり何の脈絡もなく誘うから、驚くじゃない」
早苗はまだ皆の好奇の視線が忘れられず、ご立腹のようだ。
「俺だって、キミがあんなに大きな声を出すとは思ってなかったよ」
苦笑混じりに山本が言い返す。
二人が教室の静寂を破ってからは、ほとんどの者の絵筆が止まり、そのままお茶会になってしまった。
「春日部長が不機嫌だったわ。入部前からこれじゃ、先が思いやられるわ」
「あぁ、春日さんが不機嫌だったのは、俺がキミを誘ったからだよ。たぶん」
早苗の一歩手前を歩きながら、山本が笑う。
「え? 何よ、それ」
早苗には、山本の言っている意味がまったくわからないようだ。
「あなたって、本当に変な人ね」
早苗は正直に言った。
山本は、それに笑いかけながら、
「ところで、田渕さんって、原色好む人なの?」
と切り出した。
「成子先輩? 成子先輩は確かに原色好きよ。自分でもそう言ってたわ」
「それにしちゃ、県美展の入賞作は、パステルカラーで統一してたね」
山本が成子のどこを見て言っているのか、早苗にはわからず、ただ思った通りにうなずいた。
「そう言われれば、そうだけど。でも、それって新境地ってことじゃないの?」
しかし山本の脳裏には、今日の成子の手が原色ばかりを求めている様子が浮かんでいる。しかも彼女のキャンバスに描かれるのは、入賞作のような印象派を思わせる風景画ではなく、前衛的と言っていい無秩序な筆運びばかりが目立つ絵である。いや、もしかすると、あれは絵ではないのかもしれない。
山本は早苗の返答には何も答えず、また問うた。
「河口さんって、どういう人?」
「幸美先輩? 優しい人よ。おとなしくって。ちょっと皆から外れてるけど」
「それって、やっぱ田渕さんが関係してるワケなの?」
お茶会の風景は、笑い声をバックになんとも重苦しい雰囲気だった。明らかに成子が中心になって話しを進める中で、ただ一人河口幸美だけがその存在を認められていないかのように、教室の隅でお茶をすすっている。誰も彼女に手を差し伸べようとはしない。
この質問には、さすがに早苗も即答できず、
「どうしてそう、訊いてばかりいるの?」
と問い返す。
山本が苦笑してしまった。
「だって、入部するからには、あの方たちとも付き合うわけだから、知っておいて損はないと思ってさ」
早苗は不審そうな目で見返しながらも、
「聞いたところだと、あの二人、幼馴染らしいんだけど、成子先輩の態度が幸美先輩に対してすごく冷たいの。近頃はまだマシなんだけど、でも成子先輩に睨まれたくない子は、幸美先輩には近づかない」
そう、答えた。
「作田さんも、河口さんには近づきたくないクチかな」
「よく、わからないわ。幸美先輩ってなんだか近寄り難いし、でも成子先輩もあんまり・・・」
「そだね。それに、気が付くと春日さんが傍にいたりして」
ポツリと呟いてみたが、彼女の方には何の反応もない。山本は苦笑で誤魔化して、続けた。
「それで、河口さんは絵上手いの? 今日は、デッサンやってたけど、彼女も展示会に出品するんだろ?」
「そりゃあ、出品すると思うわよ。絵も上手いと思う。基礎がしっかりしてるから、何を描いてもすぐ自分のモノにしてしまうって、素子が言ってた」
「・・・死んだ子が?」
「そう、素子は成子先輩を押しのけてでも、幸美先輩の傍にいたから。休日なんて、幸美先輩の家に遊びに行ってたらしい。絵の勉強とかで・・・」
「キミは、行かなかったの?」
「最初は付き合ったけど、やめたの。私は二人のように真剣に絵を描いてるわけじゃないから、行っても邪魔するだけでしょ」
死んだ素子のことでも考えているのか、早苗は少し悲しそうに笑った。
山本の視線が、彼女を透かして遠くを見る。
「どうしてだろう。なぜ飛び降りたんだろう・・・。誰とでも仲良くできて、正義感の塊のような子だったのに」
震える声。
「悪いね。思い出させてしまって」
山本がうつむく。
早苗は涙が落ちるのを耐えて、笑った。
「いいの。本当はね、素子のこと話したいのよ。ただ話してると、泣いちゃいそうで・・・」
立ち止まり自分を見上げる早苗を、山本は静かに見下ろして微笑んだ。
「キミもまだ、苦しいんだね」
姿は通りすがりの脇役、声はヒーロー。
優しい音に耐え切れず、早苗はその場にうずくまり声を殺して泣いた。
この時、早苗の記憶の片隅に「キミも」と言った山本の声が鮮明に残った。
翌日、登校途中に春日と出くわした。
「どうしたの、早苗ちゃん。目が真っ赤だよ」
指摘されるまでもなく、早苗にはちゃんとわかっていた。目を開けていられないほど痛いのだ。きっとヒドイ顔をしている。
「昨日、山本とかいう奴と帰っただろ。奴と何かあったの?」
見られたくない顔を覗き込まれて、早苗は春日から退いた。
「何でもないですよ」
「何でもないって感じじゃないよ。俺には言えないこと?」
なぜ、これほどまでに春日が心配してくれるのか、まったくわからない早苗には、こういう態度の春日は苦痛だ。
「本当に、何でもないですよ。それじゃあ」
言うだけ言って、逃げるように去っていく早苗を、遠い目で見つめる春日は、切ないため息を二度もらした。
山本は、登校するなり教室にカバンを置くと、何事もない素振りで屋上へ向かった。
屋上への扉は、気のせいか少し開いていた。なんとなく気になって、気配を消して薄暗い階段を上がる。屋上へ出る扉もまた、少し開いていたが、外を覗いて見た限りでは、誰もいなかった。
気のせいか、と息をついた時、ふいに人声が背後から聞こえた。
「ダメよ。今まで通り付き合ってもらうわ」
女の声でそう聞き取れた。
どうやら声は、山本とは動力室を挟んで背中合わせらしい。
壁伝いに声のする方へ行ってみると、二人の生徒が立ち話をしているのが見えた。
美術部部員の田渕成子とその彼氏である湯浅だ。
「もういいだろう。絵が入賞して、取り巻きだって増えたじゃないか。俺が付き合ってる理由なんてなくなっただろう」
男の声は、泣き付いているとしか取れない哀れなものだった。
山本は軽く跳躍して、動力室の上に上ると、二人に見られないギリギリの所まで這っていき、息を潜めた。
「私は、付き合ってって頼んでるんじゃないわ。付き合わないって言うなら、あの写真をばら撒いてもいいのよ。私は痛くもかゆくもないけど、あなたは困るでしょう」
「・・・・・・」
「学園の模範生、女生徒の憧れ。そんなあなたが万引きの常習犯だなんてこと、学校中に知れたらどうなるかしら」
成子の声には、一かけらの情もない。
成子の言葉を湯浅がどういう顔で聞いているのかは、山本からは見えなかったが、快い笑顔でなかったことは確かだろう。
「わかったよ。じゃあ、こうしよう。俺はキミが持っている写真をネガごと買おう。キミの言い値を出すよ。だからただのクラスメイトとして付き合おう」
もう離れてしまいたいのだと、湯浅は暗に言っている。
「ダメよ」
全てを飲み干す成子の答え。
「言ってるでしょう。ハクがつくって。万引きなんてケチなことしても、あなたは顔だけはマトモだもの。アクセサリーくらいにはなるのよ。私の傍にいるのが嫌なら、そのお綺麗な顔に一生残る傷でも付けるのね」
そんなことは、とうてい出来ないでしょうと、成子は言外に言っている。
「わかった」
湯浅は、なにもかも諦めた様子で答えた。ただ・・・。
「ただ・・・。そのネガは、どこにあるんだ。まさか人目につく所じゃないだろうな」
しばらくして、やっと答えが返ってきた。成子が笑う。
「誰にもわからない所よ。私の家でもない。学校でもない。もちろん誰にも預けていない。・・・いえ、預けているとも言えるわね。とにかく、盗もうったって無理だから、考えるのはやめなさい」
「・・・そうか」
低いしわがれた声が、山本にも聞こえた。成子がコロコロと笑い返す。
「そうよ。ずっと私の言う通りにしてればいいわ。私から離れようとしたら、迷わず万引き現場を写した写真を学校中にばら撒いてやるから」
成子の笑い声が、獣の咆哮のように空に響いた。湯浅は何も言わないが、決して喜んではいないだろう。
成子はなおも小気味よく笑いながら、
「それじゃ、湯浅くん。今日もいつも通りに美術室まで迎えに来てね」
それっきり成子の声は聞こえない。
湯浅も、
「もう、嫌だ」
という言葉を最後に立ち去ったらしい。
山本はそのまま腹ばいになっていた身体を仰向けにして、頭の後ろで手を組むと目を閉じた。
青いはずの空が、白く曇っている。
白い視界に綺麗な瞳の可愛い少女が浮かんで、消える。
天使のような少女。手を差し伸べても、届かない。
「俺もまだ、苦しいんだよ」
呟く言葉の端に、涙が流れた。
「まったく。本当に心配したのよ。カバンだけ置いてどこか行ってるんだもの」
放課後の美術室で、早苗は山本を捕まえると、ひとしきり説教した。
「一時間だけならともかく、今の今までいないんだもの。内田くん達も焦ってたわ」
「悪いね。さっき、ヤツに捕まって、キミの三倍怒られたよ」
長めの前髪を片手でクシャリとかきあげて、山本は笑う。
「反省の色がないわよ」
早苗が踏ん反りかえる。
それを宥めるように山本がポンと彼女の肩を叩き、
「いやぁ、いい作品だね。キミの絵かい?」
とはぐらかす。
彼の傍にキャンバスを立てておくスペースがあり、彼はその中の一枚を引っ張り出して早苗に見せる。
早苗は腕を組み、また踏ん反りかえる。
「ヨイショしようったって、無駄よ。それは卒業生が置いていった残骸です」
「あれ、そうなの」
わざと冷たい口調にも困った様子を見せず、山本はしばらく手にした絵を眺め、ふと自分の足元を見た。
「これは・・・」
激しい語気が、早苗を驚かせる。
「何よ。どうしたの」
しかし、山本の耳には届いていない。
山本は足元の小さな天使を拾い上げ、穴が開くほど見つめた。それは親指の大きさくらいの髪飾りである。どうやら立て掛けていたキャンバスの間に挟まっていたようで、山本が一枚取り出した時に出てきたようだ。
「ちょっと、何。何を一人で見てるの」
自分の目の高さでは、その小さな髪飾りは山本の手の大きさに隠れて見えない。
なおも茫然自失の状態でいる山本の手を無理やりつかんで引き寄せて、早苗もまた息を呑んだ。
「これ、素子のじゃないの・・・」
引き取ろうとしたが、それは山本の握力に阻まれた。
「この髪飾り、その子はいつ落としたの?」
山本の声は切迫していた。早苗も自然に焦ってしまう。
「飛び降りる少し前に私が彼女を見た時は、ちゃんと髪にとめてたわよ。間違いないわ。彼女、その髪飾りをとても大切にしていて、毎日してたもの」
早苗の言葉に山本は髪飾りを握りしめ、一点を見据えた。
「落ちる直前まで、していたんだね」
念を押す声が、凄みを増す。
山本は考えた。考えながらすぐ、傍の窓の外を見た。
「まさか・・・・・・」
呟くよりも早くまどの外に身を乗り出す。眼科に来生素子が倒れていたことを示す花束があった。
「まさか・・・」
もう一度呟いて、教室を飛び出した。
「どうしたのよ、いきなり・・・」
後を追いかけた早苗が、息を切らせながら問う。山本が行き着いた所は、素子が最期にいた場所。
山本は、何かを探るように校舎を見上げた。
「考えろ・・・。考えるんだ」
低く呟きながら、そのまま後ろへ下がっていく。段々校舎の窓がよく見えるようになってくる。山本の足は四階まで見える所まできて・・・止まった。
「やはり・・・」
髪飾りを握りしめ、呟く。
「何が、やはり・・なの?」
何がなんだかわからない早苗も、山本と同じように四階を見た。
「あの窓、美術室だね」
「えぇ、そうよ。ほら、幸美先輩が覗いている」
見ると、窓枠にしがみつくようにして、河口幸美が二人を見ていた。
早苗は大きく手を振って幸美の名を呼んだが、反応はなかった。
幸美は、何か恐ろしいものでも見るように、山本を見つめている。
そして山本は、何かを厳しく問いただすような視線で幸美を見つめ返した。
「あ――ん。進まないよぉ」
早苗は描きかけのキャンバスを前に嘆いた。
隣で山本が苦笑している。
「いっそ、最初から描き直そうかな」
半ばヤケクソになって、早苗は口を尖らせて言った。
「特別展示会に間に合うなら、それでもいいよ」
早苗の後ろからニョキリと顔を出して、部長の春日が冷めた声で言う。
「そんなの、間に合うわけないですよぉ。今回はパスしちゃいけませんかぁ?」
甘い声で春日を見ると、
「駄目!」
という無情の言葉が返ってくる。
「だって、もうどうしようもないよ・・・」
早苗は半ベソでキャンバスを見つめた。自慢じゃないが、人一倍筆が遅いのだ。目一杯手抜きしても、間に合うかどうかわからない。
「居残りでも何でもして、ちゃんと仕上げるんだよ。居残りするヤツは、他にもいるからさ」
その「ヤツ」の中に春日自身も入っていることは、隣で聞いている山本にはわかった。
「え―――。嫌ですよ。それなら家に持って帰って描きます」
どうやら、早苗にはわからなかったようだ。
哀れ春日は項垂れて、自分の席に戻って行った。
「何よ。人が困ってるのを笑うなんて、悪趣味だわ」
ふて腐れて、早苗は山本に八つ当たりした。
山本は柔らかい声で、笑った。
「作田さんって、今までずっとフリーだったの?」
山本の言っている本意がわからず、早苗はムッとして目を吊り上げた。
「悪かったわね。どうせ、私はもてませんよ」
その剣幕に、山本が肩をすくめた。
「そういう意味じゃないんだけどね」
「じゃ、どういう意味よ」
早苗の怒りは収まらない。
「すぐ傍に『春』があっても、ぜんぜん気が付かないんだねって言いたいの」
「春?」
ますますわからないという顔で、早苗は問い返した。
山本が大きくため息をつく。
「そんなことより、山本くんは、特別展示会に出品するの?」
わからないことなど考えたくないのか、早苗は話を逸らせた。
二人以外は皆、無言でキャンバスに向かっている。山本も少し小さめのキャンバスを前にしているが、それにはまったく手をつけていない。
「あと二週間ないんだから、無理よね」
早苗は一人、納得して頷いた。
山本が苦笑。
「たぶん、出品するよ。間に合うと思うけど」
「え? 冗談でしょ? まだぜんぜん描いてないじゃない」
「でも、題材は決めてあるし、後は構図だけの問題だからさ。居残ってやればできるさ」
早苗は、腕を組んで踏ん反り返った。
「仲間だと思ったのに・・・」
そのボヤキを聞いて、山本はまた苦笑した。
なおもブツブツ言っていると、前の方の席から春日が視線で二人を咎め、会話はそこで途切れた。
山本は表情から全ての感情を取り去り、白いキャンバスを見つめた。脳裏に浮かぶ天使は、泣いているようであり、笑っているようでもある。
いったいどちらなのだろう。
ふと視線を上げると、数人の部員の陰から河口幸美が見えた。彼女は今日もキャンバスではなく、クロッキーノートに向かっている。
その手が流れるように動く度に、ノートの中には前方で澄ましている石膏像が克明に描写されていく。
また別の方を見ると、田渕成子の美しい横顔があった。時折隣と何か話しているが、相変わらずその綺麗な指は原色を求め、意味の無い動きでキャンバスを血の海に変えていた。
結局、早苗は居残り組に入った。
他には、部長の春日と山本。それから田渕成子が湯浅が迎えに来るのを待っていた。
「春日くん、お茶でも飲みましょう」
定時の部員が皆いなくなると、成子がそう提案した。
「そうですね。私がやります」
キャンバスから離れられるのが嬉しいのか、早苗はいそいそとお茶の準備にかかった。
春日がそれを見て、
「まったく・・・」
と呟く。
「山本くんは、どこの高校から来たの?」
成子は足を組んで、傍らの机に肩肘をつきながら問うた。
「松高です。クラブも美術部でした」
「それで、県美展なんかにも行ってたわけね」
化粧でもしているような紅い唇が微笑する。
「俺は、どっちかっていうと彫刻とか焼き物とかの方が好きなんです」
山本が穏やかに答える。
「松高って言えば、確か美術の専科があるよな。それでなんだってウチに転入してきたんだ?」
春日が、早苗の淹れてきた紅茶を受け取りながら、問うた。
山本は、苦笑する。
「ちょっと、スランプだったんですよ。それにいい加減、嫌気も差してたんで、こうなったら所を変えてみようと思って」
「スランプで嫌気が差したのに、ここでも美術部に入ったの? それって変わってない?」
コロコロ笑う成子に、山本はつられるように笑って見せ、早苗の手から紅茶を受け取った。
「成子先輩。山本くんって、本当に変わってるんですよ」
早苗が嫌味たっぷりに言ってみせた。
「茫っとしてると思ったら、いきなり血相変えたり、素子の事を調べてるのかって訊いたら、父親が刑事だって切り返してくるし・・・」
山本は眉根を寄せて、早苗を見つめた。
「刑事・・・」
そう呟いたのは、成子だ。
「素子ちゃん? 素子ちゃんの事を調べてるって、どういうこと」
そう問うたのは、春日。
山本は、早苗をチロッと睨んだ後、破顔一笑して見せた。
「だからそれは、作田さんが俺の冗談を真に受けたんですよ。俺の父親は普通のサラリーマンですし、死んだ子のことは、単に席が同じだったから、挨拶の一つもしとかないとヤバイかなと思っただけです」
「そうかしら」
早苗は不審そうな目つきで山本を見た。
「そうなんだよ」
言い含めるように山本が言い返す。
二人のやり取りを春日は苦笑で聞いていたが、成子は気味の悪い表情をして見せ、組んでいた足を解いた。
「早苗ちゃんが素子ちゃんのことにまだこだわっているのはわかるけど、でも、あまり口に出さない方がいいわ」
咎めるような視線が、正面から早苗を見つめている。
「でも・・・」
威圧的な視線に押されながらも、早苗は素直に頷けなかった。
成子が立ち上がり、キャンバスを片付け始めた。
「早苗ちゃんはかまわないだろうけど、死んだ子のことを聞かされて、いい思いをする人の方が少ないわ。あんな死に方をしたんだもの、死んだ後くらいそっとしといてあげたらどう」
「でも、まだ一ヶ月しか経ってないんですよ。忘れられるわけない・・・」
そう言う早苗の声は、小さい。
成子がそれに冷たい視線を浴びせる。
「後に残される者のことも考えず、投身自殺なんてした子よ。さっさと忘れてしまいなさい」
「でも、素子は自殺なんかする子じゃありません。過って落ちたか、さもなければ、誰かが突き飛ばしたのか・・・」
早苗は思わず叫んだ。こんなこと、いつも思っているわけではなかった。しかし言葉は自然に音となって発せられた。
成子の手元が狂って、彼女のナイフが足元に落ちる。その瞳が微かに鈍く光った。
「・・・何か、根拠があって、そんなこと言ってるの?」
声が闇に沈んでいる。
「・・・いえ」
早苗は、他に返す言葉がなかった。
成子が、容赦のない流し目を向ける。
「それなら黙っていることね。あなたの不用意な言葉で傷つく人がいるかもしれない。そんな人達に、あなたはどうやって謝るの」
まるで、成子の声に圧迫されるように、早苗は小さな手で胸を掴むと、震える唇でかろうじて、
「ごめんなさい」
と言ったきり黙った。それ以上言えば、涙が溢れる。
山本がナイフを拾って成子の右方に渡す。それに向かって成子が礼を言いながらも、
「あなたも、滅多なことは言わないようになさい。化けて出られるわよ」
と冷たく続けた。
「それはいい。俺好みなら尚更いいんだけど」
明るい声が、重苦しい空気を四散させるように笑い返しながら、山本はふと目を留めた。
「田渕さん、もしかして左利きですか?」
山本の差し出すナイフを、成子は遠い方の左手で受け取った。
「え?」
「いや、わざわざ左手で受け取るなんて、不思議に思ったんですよ。刃物なんて、利き腕でないと恐くて持てないんじゃないかと思ったもので」
成子は改めてナイフを持つ自分の左手を見て、納得した。
「あぁ、これね。私、矯正されたのよ。元は左利きで、箸や筆は右に直したんだけど、刃物は今でも左でなければ扱えないから」
早口でそれだけ言うと、タイミングよく迎えに来た湯浅に素っ気なく応じながら、成子はさっさと教室を出て行った。
春日は心配そうに声をかける。
「気にすることないよ。早苗ちゃん」
しかし、そう言ったところで、成子の言葉を一身に受けてしまっている早苗は、小さく俯いて震えるだけだ。
「作田さん、気にしないほうがいいよ」
山本もそう口を添えたが、それに向かって早苗は今にも泣き出しそうな笑顔を見せ、
「でも、成子先輩の言ってることも一理あると思う。誰もがいつまでも死んだ人のことを生きていた時と同じように思っているわけじゃないんだ。私が素子のことを覚えていることさえ、いけないことなのかもしれない」
小さな声。
椅子の倒れる大きな音が重なる。
「そうじゃないよ、早苗ちゃん。そうじゃないんだ」
春日が苦痛を押さえた表情で立ち上がり、叫んだ。
「キミが、素子ちゃんを思う気持ちは間違ってない。どんなに変わり果てた姿になろうと、大切なものは大切にしていいんだ。忘れたくないものは、忘れなくていいんだ」
勢い込んで、柄にもなく熱くなっている春日。
早苗はまるで、助けを求めるような瞳で山本を見た。
春日は、山本の遠い視線を横顔に感じながら、なおも言わずにいられなかった。
「早苗ちゃんは思い込む方だから、素子ちゃんの後を追って行きそうで、正直恐いよ。だけど、そのことと素子ちゃんのことを忘れる忘れないは別の話だ。田渕が何を言おうと、早苗ちゃんは早苗ちゃんの心を止めてはいけない。早苗ちゃんは、素子ちゃんを忘れちゃいけないんだ」
早苗の瞳が潤んでいる。山本が、その視線を真っすぐに受け止めて、笑った。
「作田さんが思うようにすればいい。作田さんが大切だと思うものを信じればいい。死んだ素子さんも、きっとそう思っているよ」
柔らかい美声が、重苦しい空気を静かに清めていく。
「ありがとう。少し考えてみる」
無理に笑顔を浮かべ、消え入りそうな声で答えると、早苗は帰り支度を始めた。
「送っていくよ」
春日が申し出ると、一人で帰りたいからと、言うか言わずのうちに早苗は出て行った。
しばらくは、春日も山本も無言で座っていた。時折、春日の大きなため息が聞こえる。
「彼女、死んだ子のことになると、いつもあんな調子なんですか?」
山本は、早苗の去っていった方を見つめながら問うた。
春日の落ち込んだ表情と大きなため息。心なしか、広い肩も落ち込んで見える。
「仲良かったからね。死んだ素子ちゃんの方が大人しくて、いつも早苗ちゃんが守ってるって感じだったけど、実際は早苗ちゃんの方が素子ちゃんにベッタリだったんじゃないかな。素子ちゃんが死んだ時も、絶対自殺じゃないって、大人達に食って掛かってた・・・」
その時のことでも思い出しているのか、春日は小さく首を横に振る。
山本は、冷めた紅茶で口を湿らせながら、視線を教室の隅の石膏像に向けた。
「春日さんは、田渕さんや河口さんとは同級でしょう?」
「あぁ、そうだけど」
「田渕さんって、どんな人なんですか」
あぁ、そのことかと小さく呟いて、春日は机に頬杖をついた。
「どうも、田渕は天動説らしい。自分が中心でないと気が済まないタイプらしいんだ。女子の間じゃ、かなり恐がられていて、あいつに睨まれたら最後なんだそうだ」
「河口さんとか・・・」
この問いには、さすがに春日の表情が歪む。
「河口ね・・・。あれは、惨いよな」
耐えられないというように、首を横に振り、春日は深いため息をついた。春日の口調に込められるものを、山本は探るように続けた。
「むごいって?」
「ん。とにかく田渕は、河口を粗略に扱い過ぎるんだ。まぁ、幼馴染っていうこともあるとは思うけどさ。誰も咎めないのをいいことに、まるっきり人権を無視しているよ」
春日は言外に、止めたって聞かないと言っている。
「先の県美展も、本当は河口も出品する予定だったのを、田渕が無理やり止めたらしいんだ。まだ無理だとかなんとか言って・・・」
すこぶる歯切れの悪い口調を聞きながら、山本は石膏像を見つめた。
「俺の見た感じだと、河口さんの方が田渕さんよりも上手いようだけど」
「俺だって、そう思うよ。だから田渕が出品するなら河口も出品してみろって、何度も言ったんだけど、河口のヤツがどうしても嫌だって言うからさ」
どうやら裏で成子が幸美の出品を許さなかったらしい。
結局、春日は女同士の争いごとには首を突っ込む気もないので、そのまま放っておいたという。
「県美展の一般展示があってすぐ、素子ちゃんが死んでゴタゴタしたし、河口は相変わらず田渕の顔色ばっか見てるしさ・・・」
「おまけに、作田さんは春日さんの気持ちにまったく気付かない」
山本が畳み掛けるように言うと、春日は真っ赤になって詰め寄った。
「なっ、なんでわかるんだよ」
「あそこまで熱弁をふるえば、誰だってわかりますよ。春日さん、正直だから態度で示してしまうんですね。気付くと作田さんの傍にいるでしょう。美術部員全員わかってますよ。わかってないのは、作田さん本人くらいです」
当然至極の答え。
「そうか・・・。バレてるのか」
早々に観念したのか、春日は踏ん反り返った。
「打ち明けたらどうですか。はっきり好きだって言わない限り、彼女は絶対に気付きませんよ」
「絶対」を強調して山本が笑う。春日の冷たい視線。
「目下のところ、お前が最大のライバルだとは気付いてないようだな。彼女、お前みたいなのが好みらしい」
「それは、彼女の思い違いですよ」
「・・・どういうことだよ」
ワケがわからず、春日は大きな身体を丸めて問うた。
山本が、野暮ったい少年には不似合いな澄ました微笑を浮かべる。
「作田さんには、春日さんがピッタリだって言いたいんですよ」
春日は、一瞬目を丸くして、山本の顔を凝視した。
山本が言った言葉に対してではない。山本の姿に、ある少女がダブって見えたからである。
早苗は一人、ポツリと家路につきながらも、心はどこか遠くへ飛んでいた。
親友の突然の死から一ヶ月。辛うじて抑えていたものが、胸の奥から込み上げてくるような気がした。
多くの人々を取り残して逝った素子を、悲しむ以上に憎く思ったことがなかったわけではない。彼女を愛した人々が、今尚泣き暮らしているのを見て、素子の墓前へ行き、何故死んでしまったのかと叱りつけたことさえある。
しかし、そのことと、彼女を忘れる忘れないは別問題だと思っていた。
春日の言うように。
だが、自分が素子を覚えているということ自体が罪だったのか・・・。
早苗の傍を通り過ぎる車のライトが、時折零れそうになる涙を照らしていた。
ふと、視線を馴染みの美術店に向けると、ウィンドウの前に幸美がいた。
カバンを右手に持ち、大きめのスケッチブックを左脇に抱えて、幸美はウィンドウの中に飾ってある絵を見つめていた。その絵は、キャンバス全体を空色に染め、ただ一羽の白い鳥が飛んでいる。
早苗は軽く目頭を拭うと、
「何をしているんですか」
気を遣いながら、小さな声で話しかけたが、幸美は一つ叫ぶと、その場を飛び退いて早苗の顔を凝視する。
「どうかしたんですか」
目を丸くして、早苗は訝しむ。
幸美が震えているようにも見えたからだ。
「邪魔してごめんなさい。驚かすつもりはなかったんです」
無言で見つめあう時間が苦痛で、早苗は深々と謝った。
やっと幸美に顔色が戻る。
「ちょっと考え事をしていたものだから」
「いつからその絵を見ていたんですか? 幸美先輩が美術部を出て、大分経ちますよ」
「早苗ちゃんこそ、どうしたの。確か居残り組に入ってたでしょう」
幸美の何気ない問いに、早苗は詰まってしまった。
「どうしたの? 春日くんと何かあったの?」
「は? 別に何もありませんよ。ただ、成子先輩と、ちょっと・・・」
早苗が口の中でモゴモゴ言うと、幸美の顔が強張った。
「成子?」
「ちょっと・・・私が悪かったんです」
早苗は、成子との会話を大雑把に話した。
「・・・そう」
早苗の話が終わると、幸美は一つ息をついてまたウィンドウの中の絵に視線を戻す。
「成子はきっと、素子ちゃんのこと思い出したくないのよ。それを素直に言っただけ。私だって同じ。死んでしまった人のことを考えるのは嫌よ」
「どうしてですか? 素子は幸美先輩のこと、すごく好きで、幸美先輩のような素敵な絵が描きたいっていつも言ってたわ」
幸美だけは言わないと思っていた言葉が、早苗の心を凍らせた。
幸美が早苗に背を向け、俯いて呟いた。
「どんなに手を伸ばしても、もう届かないのよ。一度手を離してしまえば、もう二度とつかまえることはできない」
青い空に羽ばたく小さな白い鳥。
まるでその鳥を追い求めるような瞳で見る幸美を一人残し、早苗は別れの言葉も言わず、その場を去った。
特別展示会は、近づいてくる。
成子の県美展入賞以来、美術部員は確実に増えているため、特別展示会は美術室より広い大会議室を使うことになった。
皆、特別展示会に向けて自分の作品を仕上げていくが、進み具合の悪い者の中には、休み時間を利用して美術室に詰める者もいた。
昼休み。
山本は、美術室に行く途中、ふと物陰の声につられて立ち止まった。
田渕成子と、見知らぬ男子生徒が一人。
「あなたには、関係ないでしょ」
と、成子が澄ましている。
「まだ、湯浅を追っかけてるのか。いい加減にしろよ」
「どうしてあなたはいつも私に意見ばかりしてくるのよ。彼から離れろとか、幸美にもっと優しくしろとか。聞きたくないわ、そんなこと」
「お前、幸美がどんな思いをしてるか考えたことあるのか。湯浅がどれだけ迷惑がってるか、知らないはずないだろう」
男子生徒は必死に訴える。幸美のためではない、湯浅のためではない。成子のためだ。
しかし、成子には理解できない。
「うるさいって言ってるでしょう。あなたに付きまとわれる方が迷惑よ」
美しい顔を歪ませて、成子は言った。
男子生徒の諦めにも似た表情。
「お前、いつか後悔する時がくるぞ」
その台詞を聞くか聞かずで、成子はその場を離れたようだ。
山本も、聞くに堪えないという顔で、気配を消したまま足を美術室へと進めた。
「おい、山本。美術室に行くのか?」
北側の渡り廊下を歩いていると、春日に大きな声で呼び止められた。
「特別展示会の準備をしたいんだが、人手が足りないんだ。お前、手伝え」
「そういうことは、作田さんにでも言ったらどうですか。彼女、今日は朝から塞ぎ込んでて、手のつけようがないんですよ」
そう聞くと、春日の方が塞いでしまう。
「そうか・・・。俺の言葉より、田渕の言葉の方が重いんだな」
投げやりな答えが、山本を笑わせた。
「愚痴なんて、春日さんには似合いませんよ。作田さんのような女の子は、単刀直入に言って丸め込むのが一番です」
前髪を片手でかきあげて言う美声の主を、春日はしばし見つめた。
「お前って、死んだ素子ちゃんと同じこと言うんだな」
「え・・・」
「いや、昨日もそう思ったんだけどさ。彼女も、俺の気持ち見抜いてて、よくそんな風にハッパかけてくれたんだ」
「そうですか・・・。それじゃ、尚更頑張ってくださいよ。応援してるヤツが一人でもいるんですから」
山本の笑顔が、春日を苦笑させる。
「そう言われて告白できれば、いいんだけどな。そこまで単純にはいかないよ」
「これまた春日さんらしくない言葉。複雑に考えたからって、告白しない限り作田さんは振り向きませんよ」
「それって、俺が複雑に考えちゃ可笑しいって言ってるのか」
思わず眉間にシワを寄せた春日を、山本は片手で制し、一人の男子生徒を視線で示した。
先程、成子と話をしていたヤツだ。
「春日さん、あの人、知ってますか?」
何気なく問うと、春日があぁと答えて、
「橋塚ね。俺と同じ学年だよ。確か田渕や河口と中学が一緒で、噂じゃ田渕に惚れてるとか。そのせいかどうかは知らないけど、よくあの二人の仲裁に入ってる」
やめておけばいいのにな、とでも言いたそうだ。
「お前って、何にでも興味があるんだな」
春日が呆れたように、山本を見返すと、
「好奇心は、芸術家の武器ですから」
と山本がそれに答える。
「そうだな。・・・。それじゃ、俺はおとなしく教室へ戻ろう」
「あれ、展示の準備に行くんじゃなかったんですか」
春日が片手を挙げるのを見て、山本が問う。
「準備は、放課後にするよ」
不自然なリアクションに山本が春日の視線を追うと、南側の渡り廊下を作田早苗が元気のない様子で歩いて行く。
春日が目を細め、誰にも向けようのない苛立ちを自らの拳に込めた。
山本は、前髪を片手でクシャリとさせると、何も見ないふりでその場を離れた。
山本が美術室に入ると、河口幸美が一人キャンバスに向かっていた。
「こんにちは」
声をかけると、小さな声で、
「こんにちは」
と返ってくる。
「特別展示回の出品作ですか」
人懐っこい笑顔で近づく山本に、幸美は少し怯えたような素振りを見せて頷いた。
「もう、あまり日数がありませんね。俺も段々焦ってるんですよ、内心」
そんな軽口を言いながら、山本の瞳が鋭き幸美のキャンバスに注がれた。古ぼけた時計の音ばかりが耳につく中で、山本は幸美の後ろに立ち、しばらく眺めていたが、幸美の怯えたような表情と出合って、・・・小さく唸る。
「そんなに手を抜いて描いてて、楽しいですか」
声にはわずかながら怒気が含まれている。
それに返す言葉もないのか、幸美はすぐに背を向けて震えた。
山本もまた、答えなど最初から望んでいないように、彼女に背を向けて教室を出た。
そして翌日。
美術室の片隅で、田渕成子が手首を切って死んでいるのが発見された。
一ヶ月前の来生素子の時と同じく、学校は物々しい雰囲気に包まれた。
田渕成子の死因は出血多量。傷は、彼女の左手首を切り落とさんばかりに深かった。
昨日の放課後、湯浅が部活の終わった田渕成子を美術室まで迎えに来たことは、他の美術部部員が証言した。湯浅と成子はその後、二人で美術室に残っていたらしい。
警察は、美術部部員が皆帰った後のことを湯浅に問いただした。
湯浅は、成子が一人になりたいと言ったので、そのまま別れて真っすぐ帰宅した。美術室を出た時、廊下で河口幸美と一緒になったが、彼女とは校門まで歩いただけだという。
その証言を裏付けるため、河口幸美も事情聴取されたが、それは湯浅の言葉をそっくり模したものだった。二人が美術室を後にする時、確かに成子が生きていたことは、幸美の口からはっきりと断言された。
成子が自殺したのは、その直後ということになろう。
「素子のことがあったばかりなのに・・・」
特別展示会の会場のなるはずの大会議室の片隅で、早苗は泣いていた。
ガランとした部屋の脇に、幾つかのキャンバスが立て掛けてある。すでに完成している部員の絵だ。その中に、成子の県美展入賞作品もあった。
春日も山本もやり切れない表情で、ジッとそれらを見つめていた。
「県美展に入賞した田渕の絵が返ってきたっていうのにな。特別展示会は、おそらく追悼ということになるだろう」
山本は黙って隣に座っている春日の言葉を聞いていた。
「本当に信じられない」
早苗は何度となく呟いた。視線が時折、山本の横顔に向けられる。
山本の瞳は、一つのキャンバスに釘付けになっている。
「驚くよな。昨日、帰り際に見た田渕は、いつもより明るかったし、湯浅もどっちかって言うと、生き生きしてたもんな。目が血走るくらい」
春日が気のない様子でぼやく。
「でも成子先輩、お家だと、この一ヶ月くらい元気がなかったって。何かひどく怯えたり、急に泣き出したりしてたって」
「あぁ、女子がそんなこと噂してたっけ」
春日はそう返しながら、早苗の泣き顔を心配そうに見つめた。
素子の時ほど取り乱してはいないが、成子の左手首から流れ出した血溜まりを見ていたら、平気ではいられまい。第一発見者が早苗でなかったことだけが、春日の救いであった。
第一発見者は、橋塚である。
成子が学校から戻らないと聞いて探し回った末、美術室へ辿り着いた。彼も警察の事情聴取を受けたが、ただ一言『天罰だ』とだけ呟いて、黙り込んでしまったそうだ。
「春日さん、田渕さんの入賞作、見せていただきますね」
それまで無言でいた山本が、ふいに立ち上がり、大きなキャンバスに近づいた。
この部屋に入って以来、山本が見つめていた、ただ一つのもの。
成子の絵がそんなに気に入ってるのかと、春日も、また涙を拭う早苗も密かに訝しんでいた。
「やけにこだわるんだな、山本って」
そう言いながら、春日も入賞作に近づいた。
包んである布を外すと、部屋全体に春風が吹く。色調は全体的にパステルで、印象派を思わせる手法でのどかな風景が描かれている。
「何かあるの?」
早苗が山本を見た。思わずそう問わねばならないような厳しい表情が、山本にあったからだ。
「新境地ってヤツかな。田渕のこれまでの絵とはまるで違う手法だ。色も構図もすべて新しい」
感嘆しながら講釈する春日。成子にではなく、この絵に魅せられている。
「本当、別人みたい・・・」
早苗が、ため息混じりに呟いた。
山本の失笑。
「別人なんだよ」
「え?」
早苗と春日が目を丸くして山本の横顔を凝視した。
山本は、嘲笑うように肩を震わせた。
「田渕さんの技量じゃ、こんな絵を描くのは無理なんだ。それに誰も気付かない方がおかしい」
「そんな馬鹿な。まさか田渕が他人の絵を盗んで、自分の作品として出品したとでも言うのか」
春日が声を荒げる。いくら成子でも、そんな芸術家の風上にも置けぬことをするとは思えない。思いたくなかった。
しかし、山本は当然のように頷いた。
「盗んだかどうかは、わかりませんよ。でも、明らかにこの絵は、田渕さんのものじゃない」
「じゃあ、いったい、これは誰が描いたの?」
早苗の問いに、答えはない。
「・・・まさか」
春日が絶句した。
山本が静かに頷いて、絵に手をかけて大きな額縁を音もたてずに外す。キャンバスと額との隙間から薄い紙袋が出てきた。
中に入っていたのは、ネガ。
「これが、田渕さんが殺された理由です」
美声が部屋に響く。
「殺された?」
どちらからともなく呟く声に、山本は頷いた。
「もし田渕さんが自殺したなら、彼女の傷は右手首にできるはずだ」
「右手? でも成子先輩は右利きよ」
早苗が右手で絵筆を持つ成子を思い返し、自分でも右手にナイフを持つ格好をして左手首に添えてみる。
しかし、春日は別の記憶を辿った。
「そうか。山本が言っているのは、彼女が矯正された右利きだということだな」
「矯正?」
「そうだよ、早苗ちゃん。キミもいただろ。あの時、山本からナイフを受け取った時、田渕は言ったじゃないか。箸や絵筆は右手で持つけど、刃物は左手だって」
早苗も思い出した。
「それじゃ・・・」
殺人という言葉が頭に浮かび、彼女を震わせた。
「誰かが嘘をついていることになる」
山本の視線が、ゆっくりと移動する。
いつからそこにいたのか・・・。
湯浅が戸口に立ち尽くしていた。
山本は、湯浅にネガを見せて言った。
「湯浅さん、これですね。あなたが、田渕成子と付き合っていた理由」
「・・・・・・」
「そして、殺した理由」
揺ぎ無い声が、湯浅の反論する余地を与えない。
「あなたは昨日、皆が帰った後の美術室で田渕成子を殺害した。彼女との会話から、あなたはこのネガの隠し場所の検討をつけた。もう、彼女の言いなりになる必要はない。まして、彼女が死ねば、あなたが万引きしたことを知る人間もいなくなる。だが、このネガを見る限りでは、田渕成子は真実あなたを想っていたようですね。これ全部、あなたを写したものだ。彼女はただ、脅迫という形をとってでも、あなたを傍に置きたかったんだ。それは、彼女の身勝手な想いでしょう。あなたの知ったことじゃない。しかし、それでもあなたは人を殺すということに何の罪悪感も持たなかったんですか」
抑揚のない声は、湯浅を責めてはいない。ただ、問うている。
湯浅は失笑した。渇いた笑い声が虚しく響く。
「なかったよ。あいつが俺に与えた苦痛を、俺は単に形にして、あいつに返しただけだ」
「そうですか。あなたが犯した罪がどれほどのものか決めるのは、俺じゃない。俺が興味のあるのは、ただ一つ」
山本は、口を挟もうとする春日を片手で制す。
「来生素子が転落死した時、田渕成子がいったいどこにいたのか」
「そんな、まさか・・・」
早苗の表情が強張り、春日に寄りかかるようにして山本から視線を背けた。春日が、その細い肩を抱きとめる。
感情などまったくなかった湯浅の顔が、ふいに歪んだ。
「そういうことだったのか。あの事件以来、成子は何かに怯えていた。病的なほどに一人になることを恐がっていた」
「それで?」
「あの日、成子は美術室にいたはずだ。死んだ子に呼び出されてね」
「・・・呼び出した内容は?」
この問いに、湯浅は首を横に振った。
「さぁな。ところで、そのネガ、どうするつもりだ」
「あぁ、返しますよ。こんなもの持ってると、命が幾つあっても足りない」
山本の冷めた言葉は、ネガと共に湯浅の胸元に投げつけられた。
「所詮、キミにはわからないだろうな。俺の気持ちなんて」
自嘲的な笑いを浮かべ、湯浅は手に取ったネガを見つめた。どうしても成子の手から奪い返したかったものがやっと手に入ったのだ。
春日は何かやり切れない表情で湯浅の横顔を見た。
山本の低い笑い声。
「わかりませんよ。人殺しの気持ちなんて」
山本は呟くように言うと、絵を大切そうに布に包み、さっさと出て行った。
春日も、早苗を抱えるようにして部屋を出る間際、立ち止まった。
「お前って、恵まれてると思ってたけど、本当は可哀想なヤツだったんだな」
哀しみと嫌悪の込められた言葉を背中に聞き、湯浅は一人肩を震わせ笑いながら、その頬に流れるものを止めることはできなかった。
「信じられない」
早苗は力なく呟いた。
山本と春日と三人で屋上にいる。
素子の忘れていった片方の靴は、今、山本が立っている場所にあった。
「湯浅さん、これからどうするんだろう」
風にもてあそばれる髪を撫でる早苗。落ち着いたようだ。
春日が傍らに立ち、少し小さくなっている少女を見守る。
「さぁ、知らないよ。俺には関係ないさ」
山本は足元を見つめて、素っ気なく答えた。山本が立っている所から真っすぐ数歩前へ進むと、素子が倒れていた場所へと行き着く。初めて言葉を交わした場所に立っていた時と同じ哀しさが、彼を包んでいた。
メガネにかかる前髪に隠れて瞳は見えない。広い背中を見つめていると、何故か彼が泣いているように思えて、早苗は胸を詰まらせた。
春日もまた、重い石でも飲み込んだような苦しさに無言で堪えていた。
「やっぱり、素子のこと・・・」
言いかけた早苗を、山本は視線で制す。
「作田さんは、ここにあったという靴が、どんな風に置かれていたか知ってるの?」
「えぇ、知ってるけど」
「じゃ、置いてみてくれるかな」
そう言いながら、山本は自分の靴を片方脱いで手渡した。
早苗が受け取って、山本の前に置く。
その靴は、山本の視線に垂直になるように置かれた。山本の前方を目指していない。山本の後方を目指しているのでもない。
それはまるで、どちらを選べばいいのかわからないように、真っすぐ横を向いていた。
「この靴、倒れてたり歪んでたりしてなかったの?」
「そうよ。真っすぐ向こうを向いていたわ」
早苗はそう答えて、山本の右方遥か遠くを指差した。
山本も、自分の肩越しにその方角を見る。長い校舎の端の向こうは確かに空だが、そこへ辿り着くまでには、かなりの距離があった。
もう一度俯いて靴を見つめた。どうしてこんな風にここにあったのか、山本は不思議と想像できた。
「作田さん、頼まれてくれないかな」
静かな声に早苗は頷くと、無言でその場を離れた。
山本が、自分の手のひらを見つめ、呟いた。
「春日さん、彼女のこと頼みます」
ポケットから取り出した天使の髪飾りが、そう伝えているように思えた。
「頼みます」
その一言だけが、精一杯であった。
二人は視線を合わせ、お互いが微かに揺れる瞳の中に一つの思いを込めた。
特別展示会が近いが、美術室は閑散としていた。
出品作の仕上げは、自宅でするように部長の春日が部員全員に伝えていた。成子の死から数日しか経っておらず、敢えて美術室に残って作業をしようという部員はいなかった。
その教室に一人、河口幸美が佇んでいた。教室の隅から窓辺を見つめている。
脳裏には、あの日の映像が繰り返されている。言い争う声と断末魔の叫び。もぎ取られた天使の片足が、腕の中に残った。
心が凍っていく。瞳は曇り、指は動かず、描きたいものがなくなってしまった。
もう、何も見えない。
「幸美先輩、ごめんなさい。呼び出したりして」
早苗が入ってきて頭を下げた。
「いいのよ、そんなこと。それで、何が聞きたいの?」
優しい声が震えている。
早苗は頭の中でシナリオを読むように、幸美から視線を逸らせて、始めた。
「一ヶ月前、素子が屋上から飛び降りたでしょう。その時、幸美先輩が何を見てたのか、話して欲しいんです」
「・・・どうしてそんなこと訊くの」
「幸美先輩のクラスの人に聞いたの。あの時、幸美先輩は美術室に行ったって。素子も成子先輩も、その時一緒だったはずなの。そうでしょう?」
「・・・・・・」
「そうなんでしょう? 入賞作は、幸美先輩が描いたものなんでしょう? 成子先輩にあの絵を奪われて、そのことを知った素子を、成子先輩がそこの窓から突き落とした。だから、湯浅さんが成子先輩を殺したことを知った時も、庇ったんでしょう?」
「・・・誰に聞いたの」
「湯浅さん。成子先輩に脅迫されてたから、殺したって」
「・・・そうなの・・・」
幸美の顔は、諦めを表す。
「彼も長い間苦しんでいたわ。成子は自分勝手で、そのくせ一人でいられない子だったから、彼のこと、どんな手段を使ってでも引き留めておきたかったのよ。でも、彼にとっては拷問にかけられてるのと同じ。私もそうだった。成子の傍にいると、自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなる」
「それで、湯浅さんに協力したの?」
「協力? 違うわ。私はただ通りかかっただけ。湯浅さんが成子を殺したことを黙っていただけだわ」
「それじゃ、素子がこの美術室の窓から成子先輩に突き落とされた時も、ただ見ていただけなんですか」
「・・・素子ちゃんは、屋上から落ちたんでしょう。それともあの窓から落ちたという証拠でもあるの?」
「えぇ、ここにありますよ。河口さん」
辛い表情で春日が姿を見せ、続いて山本が現れ、手に握りしめた天使の髪飾りを幸美に突きつけた。
「この髪飾りを、あの窓際のキャンバスの間から見つけました。これは、彼女のものですよ」
幸美は何の反論もしない。ただ、目前の野暮ったい少年を穴が開くほどに見つめた。
山本は静かに語り始めた。
「ことの起こりはおそらく、田渕成子があなたから奪った絵を自分のものと偽り、県美展に出品したことだと思います。それを知った来生素子は、おそらくあなたを問い詰めたんだ。何故、あの絵が田渕さんのものになっているのか・・・と」
幸美は口元を歪め、罵る様に叫んだ。
「あの絵は、成子が私の家に来た時、強引に持って帰ったもので、そのことは素子ちゃんしか知らなかった」
「そう。そして、あの絵が彼女を死に追いやった」
山本は変わらぬ口調で続けた。
「彼女は、田渕成子と一緒にあなたをこの教室に呼び出して問い詰めた。そして、本当のことを公表するように言ったんだ。怒った田渕さんは、彼女に掴みかかった。いや、もっと酷いことをしたのかもしれない。そして、この髪飾りがこの教室に残った」
山本の瞳が、メガネの奥で鈍く光った。
「答えは簡単だ。来生素子は屋上から落ちたのではなく、この教室の窓から落ちた―――もしくは、突き落とされた」
幸美が激しく首を振り、震える肩を抱きしめる。恐怖が彼女を包んでいた。
早苗と春日は、この光景を遠く見つめている。
幸美の声が、掠れた。
「あの日、素子ちゃんに呼び出されて、この教室まで来ると、素子ちゃんはすぐあの絵のことを私に訊いたの。成子が強引に持って行って、まさか県美展に出品するとは思わなかったと答えたら、素子ちゃんはすぐに本当のことを皆に言おうと、私を急き立てたわ」
「・・・・・・」
「でも、私は成子が恐くて、黙っておけばいいって答えたの。素子ちゃんは、そんな私のために直接成子にかけあってくれて、それで・・・成子が怒って」
成子は素子の話を最後まで聞かず、そんなことをしたら承知しないと声を荒げたという。
「私はただ、震えて見ていることしかできなかった」
日頃の成子に対する恐怖心は、抑えようがなかったのだろう。そして、成子の不用意の一突きで、素子の足元が揺らぎ、窓の外へ倒れた。
「いやぁぁぁ!」
それまで堪え続けていた早苗が、悲鳴をあげて顔を覆う。
脳裏に浮かぶのは血の海に横たわる親友の身体。
春日が後ろから肩を支えた。
幸美も顔を背ける。
「とっさに素子ちゃんの片足を掴んだけれど、どうしようもなかった。気が付くと、手に彼女の靴が残っていたの」
山本は、窓辺に歩み寄り、外を見た。
「それで?」
「成子はすぐに、その靴をこの真上に持って行くように言ったの。逆らうこともできず、私は言われる通りにしたわ。それがどういう意味なのか、考えることすらできなかった」
「そして、田渕さんはあなたを脅した。殺人の共犯だと言って・・・。あなたが足を持たなければ、助かったかもしれない、と」
山本の言葉に、幸美は頷いた。
「河口。お前、一ヶ月前から絵を描かなくなっただろう。それって、やっぱ素子ちゃんが原因なのか?」
春日の問い。幸美は答えられなかった。あれ以来、デッサンしかしないのは、自分の中に何もないからだ。偽りに偽りを重ねていくうちに辿り着いたのは、混沌とした闇であった。
もう・・・何も見えないのだ。
「湯浅は、罪悪感はないと言っていた。河口は、どうなんだ」
答えなど求めていないかのような問い。
「もう、忘れたいのよ」
と、小さな声が返ってくる。
「そうか」
一つ呟いて、春日は早苗を促した。
「俺たちは、素子ちゃんが存在したってことだけを覚えておくよ」
春日の視線が山本を捉える。無言の別れ。
山本は早苗に笑いかけた。その笑顔もまた、別れを告げていた。
山本に駆け寄ろうとする早苗を強引に引き止め、春日はそのまま早苗と共に美術室を出た。
一瞬、抜け落ちた緊張に促されるように、幸美もまた扉へ向かう。
「河口幸美さん。あなたに一つだけ訊きたいことがある。あなたが来生素子の足を掴んだ時、彼女がいなくなればいいとは、思いませんでしたか?」
幸美の足が硬直した。顔色は無くなり、その瞳は恐怖に怯えている。その表情の中に、山本は真実を見つけた。
前髪に隠れる瞳は鋭く光り、容赦なく幸美を見据えた。
ガタガタと震える幸美の足が後ずさり、窓際まで下がった。
「俺は知っているんですよ。あの入賞作品は、田渕成子のものでも、あなたのものでもない。あれは死んだ来生素子のものだ。それをあなたは隠し通そうとした。彼女を殺してまで・・・」
あの日。
この教室で、成子と素子は辻褄の合わないまま口論となった。
成子はあの絵を幸美に貰ったのだと言った。
素子はあの絵を成子が奪ったのだと言った。
激しいやり取りを繰り返す二人を、幸美が傍観していた。
成子は、素子に言い負かされて必ず暴力を振るうだろう。場所は、お誂えの窓際。あとは、タイミングだけ。
「田渕は手加減を忘れ、来生素子を殴りつけた。その時、バランスを崩した彼女を、あなたは助けようと思う反面、来生素子がいなくなればいいと思った。そして、片足を払いのけ彼女を窓の外へ投げ出した」
支えを失った素子の身体は、はるか下の地面に吸い込まれるように落ちていった。
後に残ったのは、自分が突き落としたのだと思い込んだ成子と、素子の靴が片方。
「あなたと田渕は、初めて対等の立場で話しをした。いや、あなたの方が有利だったかもしれない。あなたは田渕を庇うことで、自分の保身を図った。そして田渕は屋上に上がり、残っていた片方の靴を置いた。もしあなたがあの靴を置いていたのだとすれば、間違いなくあの靴は、校舎の縁に向かって置かれたはずだ。それほどにあなたの言動には迷いがない。しかし、あの靴は、縁には向かわず、また縁に背を向けることもできないで、真横に置かれていた」
「・・・・・・」
「進むこともできず、後戻りもできない。それが田渕の迷いだった。以来、田渕は絵が描けなくなる。そして、あなたもまた、絵が描けなくなった」
脳裏に浮かぶ成子の絵は、血の海を想わせる紅と死を表す黒の二色が、完全無秩序で塗りたくられているだけである。
「何も知らないくせに、いい加減なことを言わないで」
幸美の抗い。
山本の失笑。
「すべては長い間蓄積された憎悪によって引き起こされた。あなたは、田渕を恨むうち、いつしか善と悪の見分けもつかなくなった。いや、もしかすると、あなたを大切に想う来生素子の心まで疎んじるようになっていたのかもしれない。だから、自分の保身のために、来生素子の命を使った」
「作り話もそこまでいくと、ご立派ね」
すでに幸美の顔からは、優しさの欠片さえ見出せない。あるのは醜い偽善者の顔だ。
山本は、おもむろにメガネを外し、片手で前髪をかきあげた。初めて見せた瞳は、男らしい切れ長で、鋭い光りと哀しい色に染まっていた。
「あなたにとっては、目障りな絵だったのかもしれない。自分と同じ手法を用い、それでいて自分よりも上手い絵が。だが、あの絵は、素子がとても大切に描きあげたものだ。あなたの絵に似ていることさえ、彼女の自慢だった。それをあなたは、土足で踏みにじり、あの絵を彼女の遺作にしてしまった。今はもう、素子があなたを慕っていたことさえ憎い」
「まさか・・・、あなた・・・、コハク・・・」
幸美は絶句した。その瞳は、この世の何も映しはしない。
それを一瞥して、山本は美術室を出た。
幸美は窓枠にしがみつき、遥か下の地面を見つめた。素子が横たわっていた場所が、小さく見える。浮かんでは消える天使は、哀しい微笑をたたえている。
「私は、あなたが嫌いだった。あなたが私を庇うと、決まって成子が私に辛くあたったわ。あなたは私のためだと思っていたんでしょうけど、私はあなたの助けも、あなたの気持ちも要らなかった。ただ、成子に睨まれたくなかった。あなたの傍になど、いたくなかったのよ」
あの日。
自分の絵が成子の作品として県美展で入賞していることを問いただす素子を、幸美は必死に宥め、黙っておいてくれと頼んだ。成子に嘘をついたと知れれば、どんな仕打ちを受けるかわからない。
しかし、素子は成子に真実を突きつける。
成子の当惑が、幸美に対する怒りに変わろうとした時、成子に押しのけられた素子の身体が大きく揺れて、窓辺に倒れこむ。
チャンスだと思った。
これで成子の怒りから逃れられると思った。他のことなど何も考えられなかった。人が死ぬということさえ、感じなかった。ただ、成子が恐かった。
そして、素子がいなくなればいいと思った。
「もう、何も見えないのよ」
震える声が、最後であった。
多くの喧騒が聞こえる。
また一つ、命が消えた。
遠い場所で、早苗は春日にすがって泣いた。
真実が、彼女を責めた。何と無力なのだろう。どんなに慕っても、誰一人救えない。心がすり抜けていく。
春日は早苗の小さな身体を抱き締めて、呟いた。
「もう、憎しみも恨みもない。だからせめて、俺たちだけは覚えておこう。精一杯人を大切にした天使と、天使を愛した男がいたことを・・・」
それ以来、山本晴臣は学校に現れなかった。
涼しい風が吹く墓地に、一人の丈高い少年が立っていた。
まだ真新しい墓碑を見つめて、立ち尽くしている。
表情には悲愴さはなかった。すっきりとした髪型と切れ長の瞳。端整な顔立ちが人目を引く。
「山本晴臣くん」
柔らかい声が、彼にかかる。
顔を上げると、作田早苗が立っていた。
「やっぱり、ここだったのね」
そう言いながら近づいて、同じように墓碑を見た。来生と彫られた文字の下に、花束が置いてある。
「あの時のコスモスも、あなただったのね」
早苗が、花束を見て笑った。
「内田くんが怒ってた。さよならくらい言って行けって。成子先輩も幸美先輩も、結局自殺ということになったわ。それから・・・湯浅さんは、転校したわ」
「俺には、関係ないよ」
「・・・・・・」
「どこへ行ったって、犯した罪からは逃れられない」
山本は、素っ気なく言った。
早苗は、そうねと呟く。
涼しい風が吹く。直に北風に変わるだろう。
山本は、ポケットから天使の髪飾りを取り出した。
「これは、俺が彼女に贈ったんだ」
早苗は無言で、彼の端整な横顔を見つめた。
「彼女が死ぬ三日前、俺たちは覚えてもいないような些細なことで喧嘩したんだ。なんとなく気まずくて、三日後にやっと謝ろうと電話をしたら、彼女はもういないと告げられた」
「じゃ、素子の部屋から出て来た『ごめんなさい』という書きかけの手紙は、あなたに宛てたものだったの」
山本が頷いた。
「だから、確かめたかったんだ。彼女が何故死んだのか」
そう思い、転入してくるまでの一ヶ月間、彼がどれほど苦しんだのか、早苗にはわかるような気がした。今、目前に立っているこざっぱりとした好男子からは、初めて彼を見た時の野暮ったい雰囲気は感じられない。それは決して、長かった前髪や黒縁メガネのせいだけではないだろう。
早苗は静かに微笑んだ。
「これを持って行って」
そう言って渡された紙袋から、色紙大の額が出てくる。
「これは・・・」
山本の声が震えた。その絵は、確かに自分をモデルにした騎士像だった。琥珀色一色で描かれていたその姿は、鮮やかな夕日に溶け込むように、優しく笑っている。
「あれから素子の仏前にお参りに行ったら、ご両親から形見分けをって言われて」
遺品の中に、その絵があった。生前素子が部屋のよく見える所に飾っていたものだという。
「とても大切にしていたって、理想の彼だって。あなたのことを話したら、あなたに持っていて欲しいって、ご両親から託されたの。素子もきっと喜ぶわ」
「・・・・・・」
「返すなんて言わないでね」
山本が苦笑する。
「ありがとう」
美声が心地よい。
「素子とは、あまり会わないようにしていた。お互い噂になるのが嫌だったし、会わなくても充分気持ちは通じ合えると思っていたからね。だけど、後悔してるんだ。もっと傍にいるんだったって」
「素子が美術部に入ったのも、あなたの影響なの?」
何気ない問いに、山本は自嘲気味に笑った。
「それも後悔してる。彼女に絵を教えたのも、俺」
「すんごく仲良かったんだ」
早苗が笑った。
「でも、なんで素子ってば、あなたのこと私に黙ってたのかな」
山本は、この時初めて心から笑った。
墓前の花を揺らす涼しい風と同じ、澄んだ笑い声だ。
「素子は気付いていたよ。春日さんがキミを好きなことも、キミが春日さんに魅かれる時がくることも。だから」
「あら、私があなたたち二人のことを知ると、僻むと思ってたの? ちゃんと言ってくれれば、幾らでも祝福したわよ」
少し意地悪っぽく言い返す。
山本は一層、屈託無く笑った。
「ほらね、素子。作田さんは、お前を独り占めしようとする俺にも寛大だよ。さっさと白状して、見せ付ければ良かったって思わないか?」
楽しそうに墓碑に向かって話しかける。秋の陽の穏やかさが、早苗を包む。
「もう、会えないのかな?」
静かに、問う。
「もう、会わないよ」
静かに、答える。
早苗は一呼吸おいて、山本の方を見つめた。
「一つ、お願い」
「?」
「あの特別展示会に出品した山本くんの絵、もらっていいかな?」
特別展示会は、主役なしの美術展として、予定通り行われていた。その会場の片隅の一枚の絵。
山本は少し俯いて考えた後、
「いいよ」
と短く答えた。
早苗が笑顔で、
「ありがとう」
と返す。
「それじゃ、行くよ」
山本は、早苗に言った後、もう一度素子の墓碑を見つめて、心の内で別れを告げた。
「元気でね、山本くん」
笑って見送ると、笑顔が返ってくる。
真っすぐ前を見つめて立ち去る少年の背に、早苗が大きく呼びかけた。
「私、春日さんの気持ち、受け取ったから。私、素子のこと、絶対忘れないから」
遠く小さくなっていく少年が、振り返って大きく手を振る。
早苗も大きく手を振り返した。頬を涙が流れる。彼女は笑顔のまま、泣いていた。
少年の姿をなおも追いながら、早苗は傍に佇む墓碑に素子の影を重ねる。
「素子がどうして彼を紹介してくれなかったか、わかるわ。もっと以前に出会ってたら、自分の気持ちに気付く前に、私、彼を好きになっていた」
素子が笑ったような気がした。
早苗も、笑った。
「もう、苦しくないわ」
展示会場の片隅で、その絵は人々の足を止めさせた。
紫紺一色の森の中で、小さな天使が寂しそうに細い腕で肩を抱きしめていた。
しかし、その天使は、照らし出される光りが、自分を包むものしかなく、辺りには誰も何もないのに、それなのに・・・。
その天使は穏やかに優しい微笑を浮かべていた。
まるで救いを彼女自身の中に見出したかのように。
完
去りゆく時を抱きしめて
ご覧いただき、ありがとうございます
母に代わりまして、お礼申し上げます