いつまで隣人か

 武蔵野の雰囲気を残した石神井公園の町は肌に合った。アパートは夢丸荘といい、木造の二階建てである。真ん中が通路になっており、部屋は相当数あった。松木昌彦の部屋は六畳一間。大家は別棟に住み、管理人はいない。監視されたり干渉されたりすることもないので気楽だった。
 隣に若い男女が引っ越してきたのはいつ頃だったか。隣同士といってもほとんど接点がなく、顔を合わせたことがない。大方同棲中の男女だろう。共用の郵便受けに山田と記されていた。
 ある夜更け、夢うつつに小犬の鳴き声が聞こえてきた。弱々しい哀れな声である。晩秋で冷え込みも厳しくなった。あまりうるさいので目が覚めてしまった。それは犬ではなく、セックスの最中の女の嬌声だった。窓の下で寒さと飢えで犬が鳴いているという夢になったわけだ。それ以来、
「また、やっているな」
 隣のエロスに夢中になった。二十七歳の松木は無関心ではいられなかった。彼は女と別れたばかりで、夜ごとに性の音に悩まされた。大団円に向かうと整理箪笥がコトコト鳴った。彼は嫋嫋とした声に興奮し、オナニーに耽った。天井に向けると、精液が一メートルほど飛ぶことがあった。妄想の相手は種々だが、中には堅物の生真面目な中年でメガネかけ、不美人だったりする。アブノーマルも多かった。
 もっとも隣の女はスマートで、丸顔で十九か二十歳、男は三十歳前後でクセのある顔つきをしている。休みの日、路地でバドミントンをしているところを見たことがある。はしゃいでいて楽しそうだが、空虚な幼稚な青春にしか見えなかった。夫婦はよく口喧嘩をした。それは土の壁を通して筒抜けだった。男は身勝手な論理で攻めて女を泣かせ、後から機嫌をとって元の鞘に納める。これがいつものパターンである。他人の家のイジメとはいえ、無知で聞くに堪えなかった。男は隣近所に迷惑をかけ、よくトラブルを起こした。松木もラジカセの馬鹿でかい音に文句を言いに行ったことがある。ドアをノックすると女が出てきた。
「音楽の音が大き過ぎますよ」
「彼に話しておきます」
「日曜日の朝っぱらからひどいなあ。旦那は?」
「トイレにいっています」
「待っているから」
「長くなりますよ」
 トイレは共同である。恐らく部屋の中にいるに違いない。諦めて自室に戻ると騒音は止んだ。あんな男にしては可愛い子だと感心した。可愛いだけで社会性はまるでなさそうだった。
 松木の勤めている会社は大手の電機会社で、新宿にあった。彼は大学の史学科を出ているが、複雑な仕事が苦手だから、倉庫の単純な事務の仕事を任された。毎日、西武池袋線と山の手線を乗り継いで通った。電車の中では大抵週刊誌を読んだ。その日、富士見台を発車してすぐに窓越しに富士山の稜線が見えた。活字から目を離し、全体的な形を見ようとして体をこごめた。瞬間、大きく揺れてよろめいた。
「ちゃんと立っていろと言うんだよ、な」
 声がした。連れの女がクスクス笑った。そのカップルがアパートの隣人であることは既に知っていた。男は彼を非難したのか、妻をからかったのか、判断しかねた。もし松木だとしたら、こんな不愉快なことはない。せっかくの富士山も台無しである。あの頃は東京から富士山がよく見えた。気を取り直してまた紙面に目をやった。車内は段々と鮨詰めになってきた。読む訳にはいかず、丸めてコートのポケットに入れた。電車は終点に近づき、やがて池袋駅のホームにすべりこんだ。停車する寸前、靴の辺にバサッと何か感じた。足もとに週刊誌を落としたようだ。「あ、いけない」彼は聞こえよがしに言ってしゃがんだ。満員の中ではかなり強引な仕種である。拾ったと同時に扉が開き、押し出された。ゆっくり歩きながら、何気なしに手にしているものを見て、ハッとした。それは彼のものではなく、『ピア』という映画雑誌だった。コートに手をやると、自分のがすっぽりと収まっている。あたかも手品師にやられたみたいだ。何故そうなったかは明白である。誰かのを拾ったのだ。顔が赤らむ思いがした。持主は彼のとっさの行為を浅ましいと思っただろう。人通りの少ない階段のかたわらに立って、どうすべきか迷っていると、話しかけられた。
「その雑誌は俺のだけど」
 名乗る人を見て二度びっくりした。その男は隣室の山田だった。
「自分のものと思って……」松木は言い訳をした。
「拾おうとしたら、そっちのほうが早くて」
「それは申しわけない」
「すごい早業だったよ」
 蔑んだような薄笑いを浮かべた。その嫌味ったらしい表情が忘れられない。
 隣人はアパートの周辺で顔を合わせても松木には何の関心もなく、だいいち、あの時と同じ人物だとは気がついていない。たとえ知っていたとしても、彼にはどうでもいいことかもしれない。
 いつの間にか性の声もマンネリ化して、日常のありふれた物音の一つでしかなかった。夫婦は八ヵ月くらいでいなくなった。

 あれから年月を経て結婚し、練馬区の団地に住むようになった。
 十階建ての建物が三棟あり、松木家は一号棟の四階である。静かな町で植栽も豊富に見られた。民家の庭にはシデやケヤキやカヤなどが茂っている。隣近所は有難いことに均質化していて、世間はあって無きがごときだった。三十三歳の松木と四つ下の妻、一人娘の三人暮らし。松木は誰かと付き合うようなことはせず、距離をおいていた。隣近所の男同士で交流するような住民はいない。
 当時はマンションブームのはしりで、次々と建設され、移る人が多かった。右隣りは数年間に二組が変わり、三度目は三人家族が引っ越してきた。細君と子供は見かけるけれど、亭主と顔を合わせたことはない。しかし、彼は新しい隣人を気にしていた。
「お隣はどんな人達なの」
 妻ののぶ子に聞いた。
「普通の人たちよ」
「嫌な家族でなければいいがね」
「それはないわ」
 大方のことはのぶ子にしてもらっているが、やがて悩ましいことに気がついた。隣の亭主が子供と遊んでいるとき至近距離で見て、どこかで会ったことがあるような気がしたのだ。うっすらとイヤな記憶が甦った。
「あいつかも……」
 間違いない。石神井公園にいた男である。中肉中背、丸顔で額が広く、人好きのしない顔つきをしている。山田姓でもある。恋人とバトンミントンをやっていたつまらない若者の姿が浮かんだ。無論細君はその時の女ではない。のぶ子に話したら、
「知らん顔をしていればいいのよ」
「奴の存在そのものが目障りだよ」
「抑えなさい」
「これから何があるか分からないぜ」
「何もないわよ」
 のぶ子は平然としている。何がなくても、かつての隣人というだけで居心地が悪い。そう考えると山田の女房までが勘に触り出した。何が楽しいのか、年中笑っていて、その声を耳にする度に神経が歪になった。日によって気にする時もしない時もあった。時には妄執のように響いてきた。どうして、こんなに神経質になるのか、自分でも分からなかった。のぶ子は夫のことをノイローゼではないかと言う。彼は元々、関係不全で必要以上に他者に敏感だった。その日も夕食を食べている時に高笑いが聞こえてきた。
 アッハハハハハ……
 アッハハハハハハハハハ……
 アッハハハハハハハ……
 それは廊下を鉄の玉が執拗に転がっていく音に似ていた。
「ああ、またか。おい、窓を閉めてくれ」
「閉めたら暑いじゃん」娘のゆかりが口を尖らせる。
「気にしなければいいのよ」
 のぶ子は仕方なさそうに立ち上がり、サッシの窓をそっと動かした。山田家とは台所がコンクリート一枚で隣合わせになっていて、両家とも窓を開け放っておくと、まともに聞こえてくる。
「みんな、鈍感だなあ。あの胸糞悪い笑い方に気分悪くならないのか」
「別に鈍感じゃないけど、いちいち腹を立てても始まらないわ」
「ゆかりはどう思う」
 松木は六歳の娘に尋ねた。
「私もオバサンが笑うの、嫌いなの」
「そうだろう、ゆかりだったら、何かを感じているはずだよ」松木は共感者を得て勢いづいた。「あれはごまかしなんだ。如何にも一家団欒をしていますと言わぬばかりだけど、無意識の演技だよ。人間の作りがマヤカシなんだ。玄関先で手ごわそうな知り合いと話しているときなんか、アハハハの連続だからな」
「でも私、お父さんほどじゃないよ」
「山田さんの奥さんは、自律心神経失調みたいよ。しようがないわ」
「弱いくせに笑い声は攻撃的なんだ」
「得てして、そんなものよ」
 松木は大抵のことには無頓着で、上の階から伝わってくるピアノも気にならない。どういうわけか、隣には敏感だった。そのせいか好ましくない感情が増幅した。亭主は言うまでもなく、息子まで気にいらなくなった。息子の純一はゆかりと同年で、同じ幼稚園に通っている。こましゃくれていて、どことなく女の子っぽい。いつだったか、ゆかりがいじめられて帰ってきた。純一は気になったのか、後から来て玄関のドアから顔を覗かせた。
「ゆかりちゃん、泣かないで、いいものを買ってあげるから、こっちにおいで」
 大人の便法を駆使して機嫌を取っている。幼稚園児の小ざかしいおためごかし。自室にいた松木はカッとなった。
「いいものを買ってあげるなんて、生意気言うな。帰れ」
 純一は恐れを成して自分の家に駆け込んだ。
 台所仕事をしていたのぶ子が、慌てて部屋に跳んできた。
「何てことを言うの。大人が向きになることはないわよ」
「俺は子供でも許せん」
「お隣と関係が悪くなったら、どうするのよ」
「それは困る」
「私だって、悩むわ」
 さすがに松木は気が咎めた。それからというもの、細君は自分から挨拶をしなくなった。純一も歩廊ですれ違うと、顔を伏せ、肩を衣紋がけのようにこわ張らせて歩いた。松木を体中で拒んでいる。
 小学校に上がるといくぶん和らいだのか、回覧板を届けるようになった。だが松木の気持ちが氷解したわけではなく、些細なことでも悪口を言わずにはいられなかった。学校の夏休みの日、玄関先で純一の声がした。
「これ」
 妻に何かを渡している。
「あら、ありがとう。どこへ行って来たの」
「タンザワ」
「丹沢に行ってきたの。楽しかったでしょう。よかったわね」
 妻が空お世辞を言っている。純一が帰ると、松木は台所に顔を出した。土産の饅頭を持ってきたようだ。
「純一に持ってこさせるなんて、エチケットを欠いているな。あの女は、まだ俺を避けているんだよ」
「それはないわ。あなたが拘っているだけよ」
「そうかなあ。それにしても俺、どうも、このところ変だ」
 残暑と仕事の疲れで怒りっぽくなっている。やっぱりノイローゼ気味なのか。次の日も様子がおかしい。帰宅してからデッキチェアに体を横たえていたら苛々してきた。その時、不意に隣から聞こえてきた。例の鉄の玉が転がるような非人間的な響き。松木はベッドに潜り込んで両耳をふさいだ。けれども笑いは魔物のようにまつわりついてくる。彼は我慢できず台所に行った。
「なんだ、あの婆は!」
 のぶ子にぶつけた。
「他人のことは、どうにもならないわ」
「俺は馬鹿にされているような気がするな、あの女に」
 彼は衝動的に食卓の上にあった饅頭の箱を床に叩きつけた。次に足を乗せ、体重をかけて押しつぶした。その上、ぺしゃんこの箱を手で力一杯ひねった。のぶ子は夫のすることを黙って見ていた。いつもと違って非難の言葉一つ口にするわけではない。そして夫に協力するように箱から中身を取り出し、始末してゴミ箱に捨てた。彼は冷静になってから尋ねた。
「きみは唖然としただろう」
「別に。それで気がすめばいいわ」
「もしかしたら、俺のしたことを肯定しているんじゃないのか」
 のぶ子は松木と違って、平衡感覚に富み、少々のことで揺らぐことはない。その妻が松木の行為を容認しているとなると却って不安である。
「のぶ子も隣が嫌いだろう」
「好意を持っているとは言えないわ」
「そうだとしたら、俺には辛いな。妻が夫の同類だということだから」
「そんなことはないわ。それよりも、神経科にいって薬をもらって来なさい」
「ああ、そうするよ」
「あなたは幼少期の育ち方に問題があるわね」
「いきなり何だよ」
「親の愛情にむらがあるのよ。いまだに幼児性を引きずっているもの」
「同僚にも自己愛が強いって言われた。そんなことないけどな」
「当たっているわ」
 近くのクリニックで薬を処方してもらい、飲んでいるうちに少しづつ落ちついてきた。猛暑の夏が終わり、秋口になると隣の笑い声も少なくなった。もしかしたら、気にならなくなったのかもしれない。それとも彼女の神経症が改善されたのか。隣人が不幸よりも幸福のほうがいいに決まっている。回りを明るくさせるからだ。松木は昔から育ちが悪かったり、貧乏に打ちひしがれた人間を恐れた。山田の細君がいい方向に向かうのに越したことはないのだ。
 物音が少なくなったと思っていたら、隣家に異変が起こった。山田夫婦が離婚したというのである。その唐突な知らせに呆気にとられた。夫婦は子供が焼き餅を焼くほど仲がいい、笑顔の絶えない明るい家庭だと近所でも評判だった。それがどうしたことだろう。理由は亭主の女関係のようである。夫は知らない間に団地を出ていった。
「俺はあの女に問題があると思うな。あれじゃ男は愛想をつかすよ」
「違うわ。男のエゴよ」
「いや、嘘っぱちが崩壊して、実体が見えてきたのさ。だから、嫌気が差したんだろう。でも、旦那がいなくなってよかった。ホッとしたよ」
「私は、ホッとなんかしないわ」
「俺には喜ばしいことだ、しみじみホッとしたよ」
「いやねえ」
「いいことじゃないか」
 こういう事象は妻にはショックらしい。のぶ子は一ヵ月前に知ったのだが、話す気にはなれず、衝撃が薄らいでから伝えた。松木にしたら憑き物が落ちたような気分だった。
 それからは、細君のことをあまり気にしなくなった。隣人の離婚が松木家の平和をもたらし、彼はいっそう妻を愛し、子供を慈しんだ。
「ぼくは女はのぶ子一人で十分だ」
 彼はにこやかに言う。
「当たり前よ」
 月日は流れ、年齢も重ねた。ゆかりは大学を卒業すると、社会人になり、結婚して子供を儲けた。松木は出世には縁がなく、時々ストレスに負けながら、何とか切り抜けてきた。しかし松木とはいえ人並みに女に関心があり、浮気くらいはした。いつも完全犯罪だが、疑われそうになったことがある。地元のスナックで飲んでいた頃、ホステスと腕を組んで歩いているところを、山田敏江に見られた。それが妻の耳に入った。のぶ子は夫の出入りしているスナックを知っていて、十分に信頼している。松木はオドオドしながら抗弁した。
「ぼくは何もしていない」
「腕を組むなんて普通の関係じゃないわ」
「向こうで勝手に腕を回してきただけだ」
「何故、人に誤解を与えるようなことをするのよ」
「悪かった。しかし、やっていないからな。キスもしていない」
「本当ね」
「もちろんだ」
「分かったわ、目をつむるわ」
 実際は散々寝た。彼の好みのプレーは母親と息子という近親相姦ごっこだった。妻が知ったらびっくりするだろう。だが界隈では懲りた。それからは新宿の飲屋に拠点を移した。露見したことは一度もない。これからも私をお守りくださいと彼は机の上の飾り物に合掌した。それは縄文時代の勾玉を模したもので、胎児の形をしていた。
 六十二歳で定年退職し、第二の人生を子会社に迎えられた。妻はカルチャー教室に通って源氏物語や万葉集の勉強をしている。六十代の半ばになった頃、妻が隣家の情報をもたらした。
「このところ、お隣に年配の男性が来ているみたい」
「ぼくも見たことがある」
「弟さんかもしれないわね」
 山田敏子に独身の弟がいると聞いている。何日かしたら、妻が近所の主婦から聞いた話をした。敏子が男と手をつないで歩いているのを見たという。弟ではなさそうである。彼女は毎日働きに出ているから、恋人ができてもおかしくない。
 だが弟でも恋人でもなかった。のぶ子は敏子に近所で行き合った時に打ち明けられた。亭主が博多から戻ってきたというのである。夫は再婚した女性と別れ、晩年は元妻と過ごそうというのである。息子の純一は結婚して家を出ている。松木は神経を尖らせた。自分達の平和を乱されるかもしれないからだ。均衡が崩れなければいい。彼はとかく大げさに考えるたちだった。依然として関係不全症候群でもある。圭角的な性格も多分にそなえている。
 確かによく見ると元亭主である。三十年近く経っており、山田は当時の面影が薄れて年老いた。人間的に丸みを帯びてきたと言うなら歓迎である。だが実際はどうなのか分からない。そのうち、のぶ子が界隈で山田と行き合った。
「奥さん、お世話になります。旦那によろしく」
 挨拶をしたそうである。何となく目線が高く、一段と見下しているようなニュアンスが感じられた。あんな奴に舐められてたまるか、闘争心を掻き立てられた。彼らは共働きで朝早くから別々の時間帯に出かけていく。亭主は時々、遅い時間に歩廊でタバコを吸っている。煙の臭いが漂ってくるが、松木は特に気にしなかった。これといったことのない日々が続いた。ある日、妻と界隈の川沿いを散歩していた時、
「この辺の建物は高い所がないね。先日、新聞に二十七階に火災があって老人が怪我をしたという記事があったけど、高層に住んでみたいね」
「私は高所恐怖症だから絶対にイヤ」
「ぼくは五十階でもいい。憧れているよ」
 妻は溜め息をついた。けれども、そんな資金の余裕がないので住めそうもない。

 一年後、隣家に不幸が生じた。細君が突然心不全で亡くなった。葬儀には妻が参列した。山田はそれをきっかけに勤めなくなり、何かの趣味を楽しむということもなかった。毎日、掃除、洗濯、料理はこなしているようである。時にはコンビニで弁当を買ってくる姿を見かけた。彼は衰えたのか歩くのが辛そうである。
 いつの間にか、杖を突くようになった。松木よりも、いくつか上だから七十にはなっている。一人暮らしの身では大変だろうと同情した。が、それ以上のものではない。今後とも深入りしないようにのぶ子には言い含めておいた。その日、いつもの遊歩道を歩いて帰宅した。
「お隣から買物を頼まれちゃった」
 のぶ子がきまり悪そうな顔をした。松木は眉間に皺を寄せて機嫌を悪くした。
「そんなこと、断ればいいんだ」
「足が悪くて、しかも風邪を引いているのよ」
「向こうの事情など知ったことか」
「今回だけよ」
「次から断れよ」
「いちいち指図しないでよ」
「この際、自分達を守ることが大事だ」
「でも、あんた、うるさいわよ」
 隣近所とは挨拶だけで十分で、それ以上はかかわりたくない。ましてや山田などとは没交渉でいたかった。しかし彼は強引なところがあった。松木はそういう性格に過敏に反応した。個人の領域に侵入されること自体、プライドが損なわれたも同然だった。家族がいなくて、いくら体が不自由でも突き放すしかない。
「でも、少しくらいは仕方ないわ」
「少しでも駄目だ。ヘルパーさんにやってもらえばいい」
 ヘルパーは週一度来るのだが、それだけでは用は足せない。息子夫婦は母を捨てた父親を認めていない。しかも入院しなければならない容体だと聞いている。足は内蔵疾患からきていて、日々悪化している。季節は二月で寒さのピークである。山田は松木の留守に頼みにくるらしい。
「断り切れないのよ」
「困ったなあ」
 松木は妻の立場を考えて半ば黙認した。もうすぐ桜が咲き出す頃で、いい陽気が続いていると思ったら寒暖が激しくなった。ドアホンで玄関に出ると、松葉杖を手にした山田が立っていた。
「奥さんは在宅かね」
「いないよ」
「ちょっとお伺いしたいけど、おたく、ツタヤに出入りしているかね」
「ああ、けっこう、いくよ」
「それなら、お願いがるんだ。『タイタニック』を借りてきてほしんだけど」
「え、何んだって」
 松木のカードで借りてDVDを観ようというのか。たいした根性である。彼は韓国で発生した海難事故に触発されたに違いない。客船が沈没して三百人近い乗客が閉じ込められている。
「頼むよ。足が不自由なんだから」
「あんたねえ、今の時代、自助努力で生きていくしかないないよ。こんなこと他人様にやってもらうことかね」
「自分も長くないので、今のうちにあの時の感動をもう一度味わってみたいんだ」
松木は感動もクソあるかと、冷淡にこう言い放った。
「私の知ったことじゃない」
「そう言わないでよ」
「どうあろうとも、自立して生きていくんだね」
「限界がある」
「ヘルパーさんは、どうなの」
 店に登録していないらしい。とにかく映画を観て気持ちを引き立てたいからだと言い張った。松木はじれてきて、
「断る。帰ってよ!」
 強い口調で拒んだ。山田は渋々引き返した。彼がいなくなると、隣人がどんな状況だろうと、そこまで親切にする必要はないと自らに言い聞かせた。それ以上に、厚かましい山田への嫌悪感があった。
 二時間ほどして妻が外出から戻ってきた。途中で山田と行き合った。やっぱり要望した。あまりにも気の毒だから『タイタニック』と『アルマゲドン』の二本を借りてきた。
「なんだい、そのアルマゲドンというのは」
「自爆する映画だって」
「なんだか知らないけど、奴も自爆でもしたほうがいいよ」
 そう言いながら山田のような無粋な人間がこの種の映画を観ることに意外性を感じた。そして『ぴあ』という雑誌を思い出した。彼は若い頃から映画が好きだったのだろう。
 十日後、妻と娘の家に出かけた。ゆかり達は上北沢に住んでいる。松木は孫と遊んでいるうちに、柱にぶつかって鼻血を出して泣かせてしまった。高齢出産の子で、一歳を過ぎたばかりである。彼は慣れていないが妻に急かされて抱いた。妻もゆかりも笑いながら松木を軽く咎めた。
 車で帰る途中、松木は運転しながら不満を口にした。
「俺は二度と孫なんから抱かないからな」
「気をつければ大丈夫よ」
「無理やり抱かせるからいけないよ」
「だって、あなたはおじいちゃんよ、当然でしょう」
「おじいちゃんなんて言うな。俺はその呼称が大嫌いだ」
「じゃあ、何と呼べばいいのよ」
「仇名とか名前がいいだろう。ゆかりに、そう仕付けるように話してくれよ」
「一応言っておくわ」
「とにかく、俺は年寄り扱いにされたくないよ」
「私はどうなの」
「ババでよければ、それでいいさ」
 そんな話をしながら家に帰ると、近所で大騒ぎをしていた。松木家のある四階でボヤがあった。一軒おいた隣、つまり山田家の隣家である。しかも体の不自由な山田が一役買ったというのである。若い母が子供を連れ出し、山田が八十三歳の老人を助け出した。消防車と救急車が駆けつけ、火事は消し止められた。かなりの煙と炎が出た模様だ。後で聞くと、老人は誰の手も借りずに逃げ出せたが、むしろ山田がモタモタして煙を吸った。しかも転んで腰を打って救急車で運ばれた。
「立派なことをしたみたいだけど……」
「身勝手なだけだよ」
「自己顕示欲が強そうな人ね」
 そんな会話を交わした翌日、山田はあっさりとあの世に逝った。余計なことをしたと却って悪口を叩かれた。しかし、天敵がいなくなってよかった。長い縁だった。松木は彼の顔は二度と見たくない。
「永遠の眠りを!」心底から祈った。

いつまで隣人か

いつまで隣人か

幼児的でやや病的な隣人同士の関係

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-24

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