GaKyuh #5 「KAC」
GaKyuh #5 「KAC」 著:■
末端系 軸60884103365291.377460285489684
目を覚ました彼女を最初に襲ったのは、喪失感でも絶望感でも恐怖感でもなかった。彼女は今、激しい吐き気と目眩に悩まされている。時間経過に従って頭痛も伴ってきた。その原因は、意識を失う前の出来事と関連性を持ってはいない。
彼女はその光景を見ながら、きっと誰かが視覚モジュールの色相数値を連続的に変化させているのだろうと、冗談混じりの妄想をしていた。ここでは物体の形状や陰影はそのままに、色相だけが目紛しく変化している。それが視界全体で実行されるため、光過敏性発作を引き起こすのだ。大抵の人間なら気絶して楽になるところだが、黒覩である彼女は少しばかり耐性が強い。
ハイスペックな自分の身体を恨みながら、彼女は眼前に映る蜃気楼のような摩天楼を目指す。触覚と聴覚だけが捉える、不可視の雨に打たれながら。
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「ただのデカブツではなさそうね。」
サングラスをした彼女の目の前では、巨大な斜塔が地面を抉りながら突き刺さっていた。至近距離からだと最早そびえ立つ壁にしか見えないが、それは円筒を基本形とする塔である。直径はキロメートル単位におよび、高さは雲の上を遥かに超えているようだ。材質は金属というより鉱物と言ったほうが適切だろう。異様な模様と輝きは、テクスチャデータにすれば、飛ぶように売れるはずだ。
しかし、彼女の興味は別のところにあった。
建造物の周囲で螺旋状を成しているそれは、サングラスのモノクロ機能を通して見ても十分に不可解であった。あるいはモノクロだからこそ気付いたのかも知れない。大小様々な立方体の陰影は、空からの光源を完全に無視していた。一つ一つの立方体の光源方向はバラバラで、互いの存在も、やはり影として反映されることはない。皆、別々の理を基準にしているとでもいうのだろうか。
途方に暮れていた心を知的好奇心で塗り籠めた彼女は、ようやく回線をアクティブにする。
「っ・・へっ? テルエ・・テルエなの!生きてたのね!今どこっ?安全なの?」
通信の向こうから聴こえるのは、少々耳に痛いくらい若々しく、活発そうな少女の声。普通の人間なら、まだ十代といったところだろうか。
「どこって、場所はそっちにも表示されてるでしょ。今のところ危険はないけど、正直長居はしたくない場所ね。」
「うそ、末端系!ってそうじゃなくて、どうして今までずっと回線切ってたのよ!」
まさか。そう心で呟いたテルエは、恐る恐る言葉を返す
「最後の通信からどれくらい経ってるの・・?」
「約一年半ね。自己ベスト更新、おめでとう。」
「今回のは睡眠じゃなくて気絶なんだけど。」
「ふふっ、今届いたバイタルグラフは、綺麗なレムとノンレムのリズムを描いてるよ。次はソンパイエとサンモスに挑んでみる?」
ソンパイエとサンモス。黒覩史上最長睡眠時間を誇る、このペアは今も尚、自分たちでその記録を更新している。確か現時点で三三〇年。いや、一年半経ったから、三三一年か。未だに時間感覚を取り戻せないことに頭を悩ませながら、テルエは話を本題に移す。
「それでリーヤ、訊きたいことがあるの。三つ。」
「うん。じゃぁ、先にマウルのことから話すね。」
リーヤはテルエの専属オペレーターである。この察しの良さは、膨大に蓄積されたテルエに関するデータの功績ではなく、彼女自身によるものだ。
「彼も無事よ。」
安堵の音を鳴らすテルエを確認しつつリーヤは続ける。
「ラインセパレートの負荷で彼も気絶していたけど、数日で意識を取り戻したわ。その後は、無質系を中心に情報を集めてるみたい。あそこの情報量なら、何かしら掴めるかもね。最も、ガセも同じくらい多いけど。」
なるほど、実にマウルらしい行動である。彼なら、いかに良くできた虚構にも左右されることはないはずだ。
「二つ目。正直、これに関しては分からないことだらけ。ただ、ラインセパレートで回避できることが分かったのは朗報ね。逆にラインユナイトが有効なことも、この一年半で分かったの。あとは、明らかに黒覩を攻撃対象としていること、白覩よりも遥かに高い破壊力を有していることね。肝心の出所や狙い、有効な撃退方法はまだ解明されてないわ。」
「クルノワへの襲撃は?」
「まだないよ。」
黒覩を攻撃する謎の存在、現象。不老不死で生体機構上、自殺すらできない黒覩を死に追いやった不可解な力。攻撃対象こそ黒覩のみだが、有り余る力は周囲の全てを巻き込んでいく絶対的破壊存在。近年、突如出現した彼らは、各所で問題となっている。
その存在に遭遇した上で、逃げ切った最初の事例が、他ならぬテルエとマウルである。しかし、助かる手段として行った「ラインセパレート」は、よくある世界のことで言い換えると離婚に近い。番としての契約を破棄するのだ。しかも、一方方向に世界を旅する黒覩にとって、それは永遠の別れを意味する。そんな辛い現実を少しでも和らげるのは、彼らの故郷、「クルノワ」の存在だ。二人の道がどれほど違えど、互いの故郷であるクルノワの一点では、確実に繋がっているのだ。異例の帰還許可が出ている今なら、まだ望みはある。故郷の無事にテルエは、一筋の光を見出していた。
「良かった、諦めてないみたいね。」
「えぇ、でもクルノワが襲撃されてたら、ここで睡眠記録の更新に励んでいたわ。」
二人の短くも柔らかい笑みの後、三つ目の話題がはじまる。
「それで、私が今いる末端系って、あの末端系よね?」
「他に何があるって言うの?これでテルエも歴史的観測者の仲間入りね。マウルが知ったら、どんな顔するかなっ?」
「いい土産話にでもするわ。でも、歴史的観測者は言い過ぎよ。少ないけど他にも例はあるでしょ?」
「ない!貴女の目の前のそれは何よ?それに、地下が異様に騒がしいの。」
実のところ、テルエの目の前の建造物は以前にも発見例がある。しかし、いずれも“非稼働”の状態だったのだ。塔に鉱物的な輝きはなく、奇妙な立方体も無造作に散らばる、ただの岩石モニュメントのようだった。そして今、テルエの足元からは、電気が走るような音が響いている。初めは虚空に木霊するような音だったが、塔に近づくにつれ音が根元から鳴っていることが分かった。サングラスが投影するグラフは、次々と異常値を叩き出している。それが、天へと伸びる塔のことなのか、地下の地鳴りのことなのかを知るには、時間がかかりそうだ。
「そうね、これだけ状態のいいものが観測されたことはなかったわ。で、しばらくここに滞在した方がいい?」
先の発言を撤回したテルエにリーヤは頷く。
「そうしてほしいところなんだけど、滞在するには危険すぎるわ。今そこは、辛うじて安定した現状を保っている状態なの。次の瞬間にテルエは、爆散してるかも知れないし、ペタンコになっても平然と生きてるかも。自意識がなくなるほどの進化をすることもあれば、物理法則が変化して、変な方向や力量で曲がったり飛んだり変質したり流れたりもできるわ。」
「・・・なんとか生きていけそうな気もするけど、遠慮したいわ。」
「うん、それにテルエには他の調査対象があるでしょ?ここに関しては座標も掴めたから、あとはクルノワに任せてっ。」
テルエの調査対象とは、他ならぬ“奴ら”のことだ。長い眠りにつく前、名も無き存在だったそれは、言語ごとにあらゆる名が付いていた。テルエはその中で最も普及率の高い名前を検索する。出てきた名前は多言語アーカイブを持つ、義人がよくやる方法で付けられていた。単語ごとに違う言語を用い、それを合わせて簡略する。
「メリザ」悪性(英:malignant)存在(独:sein)
短くも固有性の高い名称は、能動的意識の必要もなく記憶された。
GaKyuh #5 「KAC」