きみの見える窓辺で

事故で人が欠けるよりも、もっと悲しみの深い欠け方があるのではないか。そう思い立った。

 忘れもしない。これは六度目の訪問だった。
 頑なに拒み続けた彼女が涙を流しながら、憎々しげに私を睨んで道を譲ったのは、確かに六度目の訪問で、金曜日のことだ。
 つまり、君が入院して、一ヶ月と三週間が経ったころのことになる。
 病室に入った私は、テレビや電気スタンドや積み上げられた洋服よりも先に、君が横たわっているベッドが眼に入った。ベッドを囲むカーテンが小さく成りを潜めて、開け放った窓辺に慎ましい風がそよいでいる。そんな風景画の中に、君は静かに背を上げたベッドの上でまっすぐと前を見ていた。
「具合は……どうだ?」
 丸椅子をベッド脇に引き寄せるだけ寄せて、彼は腰を落とす事無く聞いた。
 キキキと床を擦る音が響いてから、君は風景画の中で小さく唇を動かした。あまりに小さく、あまりに擦れた、涙の出そうになる叫び声。
「……そうか。ゆっくりと安心できる時間が必要な時期なんだ。誰にでもある」
 問いに書かれた問題がわからないのに、数行に及ぶ解答欄に答えを論述するように私は答えた。その答えが君にどんな意味を持ってしみて言ったのかはわからない。もしかしたら、染みる事無くあふれ出てしまったのかもしれない。
 それでも……いい。
 君は溢れているべきだ。言葉という言葉を吸収し過ぎて、擦り切れたハンカチのようにボロボロになって、ついには壊れてはいけない部分が壊れてしまったのだから。
 決壊したダムを修理するのは大変な苦労が必要だと、私も思う。
 全身で吸収できる言葉の許容を超えて、言葉のダムが決壊して、何もかもが身体に染み込まなくなってしまったとしても、私は君を忘れたりしない。忘れるべきではないのだ。
 土産の品を椅子の傍らに置いて、私はやはり座る事無く君と窓辺が重なるようにまっすぐな視線を外へ向けた。美術館で絵画の中にある本当の世界を見るみたいに。
 すべての始まりと終わりが病室であるならば、君の居る世界は終わりなのだろうか。そんな自問自答が浮かんだとき、「違う、はじまりだ」と唇だけが答えていた。
 ホールデン・コールフィールドの話は病室から始まる。サリンジャーが描く世界は、とてもリアリティで、反骨的で、温かくて、素朴な匂いがする。それは君が居る病室に漂う春先の陽気にとても似ている気がした。だから、決してここで終わりではない。誰がなんと言おうと、終わりではない。そして、終わらせない。私が。
 君は頑張っていた。それは知っている。


 店員さん、あんたの店の自慢の一品を出してよ――そう言われたら、間違いなく私は君を出す。なぜなら、うちの店で自慢の一品は君だからだ。誰がなんと言おうと、うちの店でもっとも成績が良いのは――君だ。
 本社での表彰式で、新人賞をとったのは君ではなかった。悔しがっている顔をしない君が、どれだけ苦しかったかは、いまとなってはわかる。
 首都圏と地方では、拾える客の数が少ない。当然、新人賞や優秀賞を取るのは首都圏に勤めている連中だ。それは割り切っている。けれども、君は割り切らなかった。
 必死に毎日遅くまでいろいろな場所に足を運んで、地方のエースになろうと奮闘していた。失敗したことのほうが多いだろう。成功したことは少ないだろう。それでも君は働いていた。なにもかもが失われるまで、懸命に。
「だから、君は優秀だ」
 太陽の傾きがわずかにずれて、ベッドの手すりが陽だまりを反射させる。とてもまぶしい輝きが、まるで彼の拒絶を代弁しているようだった。
 総務の桜庭は君に保証金と見舞金を払って、それで終わりでいいといった。会社がすべきことはすべて行ったし、使えなくなった君よりも使える誰かを育てろとも。人事部の今野も似たような意見だ。幾度も幾度も奥さんに頭を下げて病室へ入れてもらうぐらいだったら、もっと別に頭を下げるべき顧客がいるだろうとも言っていた。
 それは違う。
 私は、また不要に頭を下げて意見を飲み込んだ。
 そして彼らの言う客に下げるべき頭を、君の奥さんに下げた。後悔なんて全くしていないし、さげるべき回数が、まだまだ足りないとも思っている。
 なんせ、私は君を殺そうとした人間なのだから。
 もう少し、注意を配っていればよかったと思う。
 穴の開いた靴下を見る機会があれば……。酒を飲むペースが格段に遅くなったことに気付けば……。いつも使い古しの汚いハンカチを持っている事に気付けば……。なにより、ほつれたスーツの内側を盗み見ていたなら……君が壊れずに、いつものように笑って営業に出かけていく後姿を見送れたかもしれない。
 悔やむべきことは多い。


「良い、天気だな」
 返答はない。客人が着たら、すぐに立ち上がって満面の笑みで、名前を間違える事無く、たとえどんなに薄い出会いでも、確実に君は名前を呼んで、あの時はお世話になりましたとか、お子様はお元気ですかとか、お母様のお加減はとか……すぐに反応した君が、いまはまっすぐに壁を見つめているだけだなんて、とても考えられない。
 逃げるように視線を下に落として、私は「なるほど」と思わず言葉を漏らした。
 そこには病室には不似合いなインテリア家具の雑誌があったのだ。ベッドの傍らに、挟まれるように乱雑な皺の寄った雑誌がひとつ。
 君にインテリアの趣味があったなんて知らなかった。
 考えてみれば君以外の部下の趣味を私は知らない。趣味を知ったところで、顧客は拾えないと本社の人間に言われた気がする。
 そうか。そうか、だから君は壊れてしまったんだ。
 入社してからの君は他の子とは違かった。とても熱心でマジメで、まるで違う世界に生きる若者だった。
 出世も早いだろう。
 成績もすぐに伸びるだろう。
 優秀な若者に間違いないだろう。
 そう思っていた矢先に、君はこれからと言うときに……。
 身の回りの世話でもなんでもしてあげたいと思う。それが罪滅ぼしになるならば。
 手繰り寄せた椅子にいつまでも腰掛けず、私は君の居る病室の風景を見つめていた。しばらくの沈黙が過ぎ去った後、病室をノックする悲しく寂れた音が聞こえた。


 奥さんの催促に私は土産物を入り口の近くに置いて、君に振り返る。
 君の見える窓辺の風景は、とても幻想的に見えた。白い風と温かい光りに包まれた君の居る情景は、とても神秘的で幻想的だった。そこはまるで現実とはかけ離れた別世界のように私は見えた。
 部屋を出て、奥さんに挨拶をしたとき、私はいくつかの事をふと思った。
 去り際の君の居る景色を思い起こして、「そうだった……」と奥さんが悲しく閉じた病室を見返す。
 君は初めから別の世界に生きていたのだね。最初から最後まで、私とは違う世界を見ていたんだ。
 そうして奥さんに頭を下げたとき、ちらりと見えた指輪に「だから君は壊れたのか」とも思った。
 エレベーターのボタンを押して、私は呟く。
「インテリアの趣味なんてない。そんな事も私はわからないのか」
 やってきたエレベーターに乗り込んで、扉が閉まるなり、静かに、そして人知れず、私は泣いた。
 君は「大丈夫ですよ、所長」と最後に本当に小さく言った。
 だけど、私は伝えられなかった。

 ――もう、所長ではないんだよ、と。



きみの見える窓辺で

きみの見える窓辺で

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-18

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