天に花の如く舞い
天に花の如く舞いのお話です
サイトURL http://yune-b.com
プロローグ「君の名は?」
「まるで三つ子だね!!」
連絡を受けたパパは、驚いたそうだ。
丁度、雪が降っていたから私の名前は天花(粉雪)
ニックネームはシッカ。これ、結構気に入ってるの。
何故?シッカなのかはまた今度。
パパが驚いていた頃、雪が舞う空は不思議な琥珀色をたたえ光り輝いていた。
だから、従兄弟の名前は琥珀。
そして、もう一人の従兄弟、湧泉音(ゆいね)…は?
「…こんこんと…泉のように……音が…湧き出る…」
さすが芸術家のパパ!なんて素敵なの。
「…・それは…表向き…温泉好きの父親が…かけ流しの湯に……」
「かけ流しの?お湯に…?」
「…感動……した…」
挙句?で?湧泉音??ってほんとにい~????
「…ゆいねなんて…長い…めんどくさい」
まあね、私達もつい言っちゃうよね湧音(ゆね)って……
「ゆね!ゆねったら」
シッカの半場呆れた声で目が覚める。
「そろそろ起きなさいよ」
……そうだ。ここは自分の部屋じゃない。
寝ているのは二段ベッドの上。目の前に天井がある見慣れない光景が拡がる朝。
はあ…涌泉音は深い溜息と共に横を向く。
朝風呂……行こ…
…飯…後で……
しかし、天井に向き直った湧泉音は、再びまどろみの中に入っていく。
シュガーブルースとシンクロニシティ 1「今日も…絶望的な暑さ」
熱い……息苦しい…
これは…夢?…火だ……燃えてる…
…あれは…誰だ?…助けなきゃ…
「ゆね??」
再び、シッカの声で目が覚める。
「大丈夫?うなされてたよ?熱いって」
「……うん…今日…絶望的に…暑い」
「絶望的って、何オーバーなこと言ってるのよ。」
「…ごめん…」
「夏は暑くて当たり前。しかも、ここは九州!ってゆね?どこ行くの?」
「……風呂…」
湧泉音はこちらに来てからと言うものの、朝風呂の快感を覚えたらしい。
それって、フォーンリック家のDNAなのかしら?
ちょっと気難しいけれど、日本人より温泉大好きな湧泉音のパパを思い出してしまう。
弟家族である私達がママの故郷である九州の別府に帰ることになった、あの時の湧泉音のパパの喜びようときたら。 別れを惜しむより、別府温泉の魅力について誰よりも熱く語り、九州温泉巡りの拠点が出来たと手放しで喜んでいた。 事実、引っ越しの手伝いと称して温泉を存分に楽しんで帰って行き、それ以来頻繁にここを訪れるのだから。
シュガーブルースとシンクロニシティ 2「マーマレード日和」
悪夢にうなされると思い切り脳が疲れたまま起きる。せっかくの睡眠がこれでは台無しだ。
そんな朝は特効薬のシナモントーストに限る。
普通ならたっぷりグラニュー糖をかけて、シナモンをドッサリと行きたい所だけれど、我慢、我慢。
振りかける面積はトーストの三分の一…未満。
まずゴツゴツとしたグラニュー糖の歯ざわりとその後から来るニッケの香りを堪能し、雨上がりの秋の高原のようにしっとりと艶やかなマーガリン地帯に舌の至福を感じ、おもむろにマーマレードの入った瓶を冷蔵庫から取り出す。
大瓶で買ったそれを一回りずつ小さい瓶に移し、今朝はフィナーレの儀式へといざなうトーストの食祭。
その達成感ときたら…
しばらくは、マーガリンとピーナッツバターのクランチタイプと言う2種類の選択にシナモンが加わり、この濃厚なハーモニーが脳細胞に活気を与え、創作意欲を掻きたててくれるように…
春・3月マーマレードの誘惑にいそいそと身を焦がすその日まで。
分厚く切ったトーストの面積がシナモン色に変わったと思えば、その上にキラキラとグラニュー糖が霜のように降り注いでいく。
初めは見ているこっちの口の中が甘く溶けてしまいそうで、思わずコーヒーを2杯も飲んでしまったのだけれど、1週間も見続けているとそれが当たり前になるから恐ろしい。
でも、見ているうちに気が付いたことがある。
湧泉音が唇を茶色に染めながらシナモントーストを頬張る朝は、決まって夢見が悪かった時だ。
二段ベッドの下で寝ているとそれが手に取る様にわかる。
まあ、深くは聞かないけれどね。
シュガーブルースとシンクロニシティ 3「お砂糖…5杯」
私だって忙しいとストレスが溜まってチョコレートに走るから、湧泉音が重症のシュガーブルース(砂糖中毒)だとしても人のことは言えない。
但し、私の場合は甘いものイコール体重計との睨めっこなのに…
湧泉音ときたら、厚切りでしかもあんなにたっぷりのマーガリンにたっぷりのシナモンに、グラニュー糖がのったトーストの2枚目に手を伸ばそうとしている。
「ゆね、コーヒー飲む?」
「…ミルク…いや……コーヒーも…欲しい」
1本・2本・3本スティックシュガーが、結局5本液体に溶けていった。
もうそれはコーヒーとは違う、恐らく別の飲み物なのだろう。
そんなことを思いながら見ていると、スプーンで液体をかき混ぜる湧泉音の手が止まった。
「どうしたの?」
「…ん……昔も…こんな感じで…」
「スティックシュガーを5本も入れてたの?」
「いや…じゃなくて……」
「じゃない、昔って?」
「…誰かが……同じように…」
「パパとママじゃないの?」
「…それも…違う…すべてがモノクロの…」
「モノクロの?」
「…デ・ジャ・ビュ…みたいな…」
シュガーブルースとシンクロニシティ 4「ここに居る意味」
この父親譲りの気難しさを持った従兄弟は、時々謎だ。
いきなり朝の食卓でモノクロの既視感と言われても、どう答えていいかわからない。
そう言えば初めて九州のこの街に遊びに来た時も、同じことを言っていた。
「…何だか……昔から…知ってるような…」
その時は、戦後まもなく建てられた古い住宅が多く残る場所なので、私達の知らない昭和と言う時代の匂いがそうさせるのかと思ったが、最近の湧泉音は、時折見たこともない表情でじっと虚空を見つめていたりする。
これじゃあ湧泉音ママが心配して送り付けるわけだ。
このまま行くとただの引きこもりになりかねないものね。
せめてここに居る間だけでも外に引っ張り出して、眠っている創作意欲を呼び覚ますことが出来ればいいのだけれど。
ほっとくと1日中狭い二段ベッドでゴロゴロしてるんだもの。
「シッカ…ここに…今…居る意味って…」
「はあ?」
「……何故…居るのかな…」
空になったミルクのグラスをじっと見つめて湧泉音は呟く。
「夏休みだから居るんじゃない。但し、私がこっちに帰って来なければゆねが来ることもなかったよね」
「…偶然…来た…」
「う~ん。私達家族がここに居るのはまあ必然と言うか、流れと言うか」
東京の大学を卒業して、絵を描き続けていたママと広告代理店で働いていたパパ。
つまり私の両親はママの実のママが死んで、ママのパパ、私のお祖父ちゃんが一人になったので、こちらに帰って来たのだ。
幸いなことに、ママの実家はイベント会社なので、東京でやっていたパパの仕事がそのまま役に立った。
何より、思い切りアウトドアなパパは車で30分も走れば自然が一杯なここの環境をすぐ気に入ったのだ。
もっとも、私は高校の途中で転校するはめになり、それがすごく辛かったのを覚えている。
シュガーブルースとシンクロニシティ 5「琥珀」
「今はまだ解らないけどそのうちここに来た意味、みたいなものが出で来てくると思うよ?偶然の必然ってよく言うじゃない」
「……居るべくして…居る?」
「琥珀も良く言うでしょ?無駄なことは何もないって」
「…琥珀が…」
「私だってこっちに帰らなければ、音響や照明の仕事をしようとは思わなかっただろうし」
「…そうか……」
「まあ、あまり難しいこと考えずに過ごせばいいじゃない」
「……難しい…こと…」
「ゆね。パパやママとそんな話をするの?」
「しない……めんどくさい…」
色とりどりの花に囲まれた中で、忙しく立ち働くママと温泉好きなパパの顔が浮かぶ。
でも、それ以外の湧泉音パパは…
芸術家らしい気位の高さを持ってて、合理的に物事を考えるイメージがあるから……
偶然だの必然だの、デジャビュだのと言った話にはならないのかもしれない。
「琥珀なら、ゆねの話に上手く答えられるかもしれないのにね」
「…うん……来るって…」
「来るって、何処に?まさか、ここに???」
「……夕べ…メール…入ってた」
「何で、それを早く言わないのよ!!」
「…ごめん…」
シュガーブルースとシンクロニシティ 6「空が呼ぶ」
ああ、そうだ。あの時もこんな感じだった。
琥珀は空を見上げた。
高校時代、学園祭の1ケ月前。従兄弟であるユネと演奏する新しい曲を打合せしていた時だ。
ふと見ると、ユネがぼんやりと窓の外に目をやっている。
こいつはいつもこうなんだよな。
目の前に居るのに居ない。意識だけがユネからは遠い何処か別の場所にあるかのように、ただじっとそこに佇んでいるだけに見える。
「…綺麗…だ」
「んん?何が?」
琥珀も窓の外に目をやった。
「ああ、天使の梯子ってやつな」
「…天使の…梯子」
ユネは僅かに目を細め、その眩い光の方向に手を伸ばした。
「…呼ばれてる……みたい…だ」
「はあ?何が?呼んでるんだよ」
「……空……が…」
琥珀も手を伸ばした。但し、その手はユネの額に向けて真っ直ぐ伸ばされたものだ。
「熱があるわけじゃなさそうだな」
「……ない…よ」
珍しくユネがムッとして返した。
「怒るなよ。空に呼ばれてるなんて言われたら、ああそうですかそれでは何時のフライトをご予約しましょうか?なんて言えるわけないだろ?」
「…ごめん…でも……」
「ああ?シッカと話したんだ?」
「………シッカ…いや…」
「あいつにまた詞を書いてもらったんだよ。てっきり俺より先にお前に見せたのかと」
「…いや…知らない…」
「だから、空に呼ばれるって、まっいいや」
「……ごめん…」
「もしかしたら、生まれる前の記憶ってやつかもな」
シュガーブルースとシンクロニシティ 7「シンクロニシティ」
「……生まれる…前?」
「俺たちが生まれた日って、やたらあちこちで天使の梯子が見えたらしいから」
「…見えた…」
「前世ってヤツか、胎内記憶ってヤツ?良くわかんね」
琥珀は首を振り再びピアノに向かい合った。
こんな時もう1人の従兄弟であるシッカが居たら、何と言うだろう?
そんなことより早く進路を決めろって、あいつならそう言うかもしれない。
でもな、シッカ。
今度、学園祭で演奏する曲の作詞をいつものようにお前に頼んだじゃないか。
今日送られてきた詞の内容を俺はまだユネに伝えてないんだぜ。
<空が呼ぶ>ってタイトルのことも。
僅かな雲の隙間から、光が差し込んでいる。
思えば、人生で何か大切な瞬間、大きなターニングポイントに差し掛かった時、空には天使の梯子がある。
偶然と言ってしまえばそこまでなのだが、学園祭での演奏が動画にアップされて評判になり、琥珀はとあるレーベルからスカウトされたのだ。
空が呼ぶと言ったユネ。知らずに曲のタイトルとしたシッカ。
何だっけ?何て言った?
水泳の、何とかスイミング。 えっと、そうだシンクロだ。シンクロナイズ、じゃないシンクロニシティ、偶然の必然。
それが自分の進路に何かしらの作用があったことは言うまでもない。
そして、それに手を貸してくれた大切な2人は、今、彼の側には居ない。
ここから遥か南の街。
空を見上げているうち、光の梯子が2人のいる方向へと降りて行く様に思えた。
会いに行こう。
居ても立っても居られず、知り合いのバイク屋に愛車カロンのメンテを頼んだ。
休みながら行けば3日。無理をすれば2日で行けるな。
よし、アクセル全開だ。行くぜカロン。
けたたましいエンジンの音と共に、琥珀は風に乗り走り出した。
シュガーブルースとシンクロニシティ 8「三つ子みたいに」
今朝もまた、たっぷりのシナモンにたっぷりのグラニュー糖をまぶして、口の回りを茶色に染めている湧泉音。
「……どうしたの?…」
「飽きるってことを知らないんだね。ゆねは」
「…何が?…」
「いえ。一つのことをとことん極めようとする貴方は立派だと思います」
「…ありがとう?……」
早くて明日。
遅くとも明後日には2人だけのこの静かな朝の一時が終わる。
琥珀がこちらに来ると解ってから、大急ぎで部屋を片付け、来客用の布団を実家に取りに行き、二段ベッドの下に備えた。
琥珀までもが来ると聞いて、パパもママも笑いはしたものの、さして驚きはしない。
…三つ子みたいなものだから。
とママは静かに言った。
親同志の間ではすでに了承済みで、ドイツに里帰り中の琥珀のパパとママから国際電話はかかるし、湧泉音パパにいたっては、温泉巡りのついでに琥珀に会いに来ると言う。
普通、実の子供に会いに来るものではないかと思うのだが、その話をしても湧泉音の反応は鈍い。
せっかく美大に進んだものの、休みがちな湧泉音にパパの思いは複雑なのかもしれない。
「ゆね。パパと上手くいってないの?」
「……別に…」
ゆねったら。本当に自分のパパのことになると素っ気ない。
それでなくてもだんまりなのが余計に悪化するみたいだ。
かと言ってパパとの間が険悪と言う訳ではないんだよね?
多分……
シュガーブルースとシンクロニシティ 9「二人の歌」
「ゆねパパって近寄りがたいイメージがあるけど、そんなに分からず屋でもないと思うけどなあ」
「……シッカや琥珀には優しい……特に琥珀は…」
「琥珀は?」
「…音楽の才能…あるから…」
「そりゃ、琥珀は将来作曲家?って回りの大人が期待するくらい、小さい時からピアノのセンス抜群だけど」
だけど…湧泉音。貴方は覚えてないよね。
うんと小さい頃、おもちゃのピアノで琥珀が適当に曲を奏でた時
貴方もそれに合わせて歌い出したんだよ。
その時のことを私は今も憶えてる。
凄く温かくて、凄く心地よくて、何かに包まれているようなふんわりとした優しい気持ちになれたの。
空気中を光の精が舞ってるみたいに、キラキラした何かが私の心を捉えて離さなかったの。
窓辺には沢山の鳥たちが集まって来て、大人が不思議がってたけど、全然不思議なことじゃないの。
それは貴方と琥珀の力なんだって思ったから…
2人して学園祭シーズンは引っ張りだこで、ステージに出る前
アジェ・クオド・アジス (頼むぞ)
って言い合ってたよね。
あとからそれはラテン語だってわかったけれど……
何を言っているのか?どういう意味なのか?随分長いこと教えてくれなくて、マネージャーとしては悲しかったな。
私はてっきりそのまま2人のデュオが続くものだと、勝手に思ってたんだけど。
芸術大学に進み、そこで貴方が選んだのは彫刻だった。
もっとも、その頃私は九州に引っ越してたし、琥珀は琥珀で本格的にミュージシャンを目指すことになってたし。
だから高校を卒業した私は、そのまま実家の手伝いをすることにしたんだ。
だって、琥珀のことも湧泉音のことも私なりに応援したいじゃない?
いつか、琥珀の舞台の演出を湧泉音がやって、私がオペレーターをするの。
当然、湧泉音はゲストで歌わなきゃダメだよ。
そして、幕が開くその前に2人であの言葉を交わしあうの。
その時は私も側にいるからね。
シュガーブルースとシンクロニシティ 10「温泉道???」
……って、健気に思ってる従兄弟の私のもとに!!!
何で?何で、2人して転がり込んで来るわけ????
「もう~信じらんない!!湧泉音は夏休みだから、まだいいとして…
琥珀~!!何でアンタまで追っかけて来んのよ?デビュー真近なんでしょ?こんなとこでのんびりしてる場合じゃないじゃん!」
「シッカちゃあん。なんでそう冷たいわけ?アーティストには休みも必要なんだよ。いわゆる、クールダウンってやつ!」
「ゆね!何とか言ってやってよお~」
「ユネ、温泉巡りしようぜ!お前の能書きを聞きながら、おっ?ここの温泉、メッチャ肌すべすべになんじゃん??メタボ?んん~メタなんとかがいいんだよなあとか言いながらさあ。で、シッカは案内役な!!」
「…メタケイ酸……美肌効果…」
「………」
湧泉音のパパが温泉好きなせいで、気が付いたら湯泉音もすっかりはまってしまっている。
別府は100m歩けば違う泉質だと言われる位、温泉の種類が豊富なのだ。私も知らなかったけれど、確かにこちらにきて体調がいい。
何より肌のきめが細かくなった気がする。
だけど、湧泉音のはまりかたときたら。
「………彫刻…肉体労働…肩凝る……腰痛い…」
「ゆねさん。最近は創作活動してませんでしたよね?」
「……こっちで…温泉入る…楽…」
「で?湯治にきた年寄じゃあるまいし」
「……前は…首下…石…みたい…感じ…」
「だからって、日に3回は入り過ぎだろ!!」
「…気持ち…いい…」
「朝から風呂桶持って通う近所の年寄と変わらないじゃん!!」
「…ごめん…」
湧泉音がこちらに来て以来、何度繰り返した会話だろう?終いには、温泉案内本を片手に効能を片っ端から試して回る始末。
シュガーブルースとシンクロニシティ 11「南へ」
クソ!石村のヤロー!
加速するカロンのエンジン。爆音と共に悔しさが弾けだす。
君はルックスも申し分ないねえ。
初対面で石村からそう言われた時、一体このオヤジは何を言っているのだろうと琥珀は思った。
彼の真意がその時は解らなかったのだ。
ビジュアル系だと?ふざけやがって!俺はそんなチャラチャラしたガキじゃねえよ。
チキショー早く次の曲を作って、あのクソオヤジに見せなきゃ。
見せて…どうする?信号待ちでカロンのエンジン音が静まると同時に、琥珀の怒りも静まって行く。
カロンを脇に寄せ、取り出した携帯のアドレスを手繰り彼はふと我に返った。
そっか。今、こっちに居ないんだよな、ユネの奴。
デビューが決まってからと言うものの、自分を取り巻く環境が一気に変わり、押し流されるようにただ時間だけが過ぎて行った。
同じ高校に通っている間は、ゆねと顔を合わせていられたのだが、卒業しそれぞれの道を歩き始めてからは、お互いにメールでやり取りするだけの時間が過ぎた。
途中、ユネが大学を休みがちになり、部屋に引きこもるようになって、1度だけ訪ねたことがあったが、その時もあまりゆっくり過ごすことが出来ないまま別れたのだ。
シッカにいたっては、スカウトされた時に話したきりだ。
「凄い、凄いよ琥珀。やったね。ああ何だか私まで嬉しくなっちゃった。」
受話器の向こうで本当に飛び跳ねている彼女が浮かぶ。
「私ね、こっちに無理やり帰ってきたじゃない?それもありかな?って思ったの。だって琥珀やゆねみたいな才能ないし、何やっても中途半端だし、目標もないし。でも、琥珀の話を聞いたら自分も頑張らなきゃって思える。しかも、今、私がいる環境って琥珀を応援できる最前線みたいじゃない」
最前線と言う言葉に琥珀は思わず噴き出した。
実家の仕事をそういう言葉に言い変えるシッカの言葉遊びだ。
「ごめんね。別に琥珀の夢に相乗りするわけじゃないんだよ。でももう嫌なの、何の目標もなく毎日ただ生きていくのって。漂流してるみたいでとっても損な感じだから」
「漂流ってのも凄い例えだけどさ。相乗りか、いいなそれ!」
「ありがとう琥珀。私に目標をくれて」
シッカの言葉に心がとても温かくなったのを覚えている。自分の存在が誰かに希望を与えられるなら、音楽と言う世界を選んだことを迷う必要はない。
自分がこの世に生まれたことも、大切な意味がある気がしてくる。
「何をカリカリしてんだろうな、俺は」
琥珀は手に持ったヘルメットを指ではじいた。
気が付くと雨はあがり、西の空が明るくなって幾重にも重なった光の束が地上に舞い降りる。
「天使の梯子か……」
シュガーブルースとシンクロニシティ 12「星を掴む手」
琥珀は、ううん多分、湧泉音も、自分の立ち位置が解らなくなってるんだろうな。学校と言う1つのコミューンに居る時代は、守られてたわけだから。
シッカは無邪気にじゃれあう2人を見ながら考えあぐねていた。
勉強やテストは嫌いだったけれど、あの頃は与えられたことをやっていれば取りあえず前に進めたから。
人生を深く考えるってことがどんなことなのかも知らなかった。
けれど自分って何なんだろう?とか何の為に生まれてきたんだろう?みたいな、自分探しは恐らく女の子の得意分野だろう。
将来の夢は?みたいなことを寄ると触ると言い合っていた放課後の教室。もっともそれはシッカ達のグループの話で、他のグループの子達は夕べ見たテレビのアイドルだとか、今度出たアイプチは凄いだとか、隣のクラスの何々君から告白されただとか。
あるいは、あの大学は偏差値が高いだとか、今の水準では無理だとか、そう言ったシビアな話だった。
高校を卒業して進学するか、就職するか。自分の人生をたかだか16~7でどうして決めることが出来るんだろう?
何故?誰も何も疑問に思わずいられるんだろう?
誰かに聞きたくても聞けないまま、彷徨っている時期がシッカにもあった。
ハーフと言うだけで、苛められたり偏見に晒されたりしたことが余計彼女を臆病にさせたのだ。
いつも守ってくれていた、2人とは遠く離れてしまっている。
パパとママに着いて行くか。残るか。決めたのは自分だった。
湧泉音や琥珀とずっと一緒に居たい。でもその思いが大人に近づくにつれどんどん苦しくなっていったのだ。
私には何も無い。あの2人のような才能も強さも無い。
それがとても惨めで悲しく、側に居る資格なんかないのだと思い詰めてしまっていた。
家業の手伝いもただ何となく、アルバイト感覚でしていただけだ。幸い絵を描くことは好きなので、舞台美術の仕事は率先してやってはいたのだけれど。
そんな私にパパはいつも魔法の呪文を唱える
「天花はいつか星を掴むよ」
これは私が子供の頃からのパパの口癖だ。
ただ単に手のひらにアザがあるだけだと言っても、ヨーロッパでは幸せになる象徴だと笑って流された。
手のひらをじっと見つめる癖がついたのは、自分が掴む星って何だろうと真剣に悩みだした時からだ。
ただ漠然と過ごす日々の中、湧泉音は美大に進み、琥珀は動画サイトで人気を博していた。
その時もやはり2人とは歩く道が違うのだと、勝手に決めて落ち込んでしまったのだ。
けれど、琥珀からプロデビューの電話をもらった瞬間、彼の居る世界の隅っこに、自分の居場所を見たような気がしたのだ。
相乗りするわけではないけれど、自分がやっている仕事にやっと意義を見出せたような感じだった。
もう2人を羨んだりはしない。
今居るこの場所で頑張って、一流の技術を身に着けよう。それが自分の星を掴むことだから。
ヤレヤレやっと私が自信を持てたと思ったら、次は2人の番だね。
いいよ、いいよ。好きなだけ悩みなさいよ。それが青春の痛みってやつだよきっと。見守ってるから存分にあがきなさい。
ああ、でも、チョコレート食べたい。
私も重症のシュガーブルース(砂糖中毒)だ。
忘却の河 1「小さき者の死」
どうか、この子たちが生まれ変わって、暖かく幸せな人生をおくれますように。神様、どうかお願い。私が、あげられなかった沢山の笑顔を、未来を。
お願いします。神様……
「子猫だ」
後ろに湧泉音を乗せ、ゆっくり走っていたおかげで琥珀のバイクは無理なく止まった。
僅かに後から来たシッカの目に、横たわる小さな塊が写る。
琥珀と湧泉音はバイクを降りて行くが、シッカはカラスがついばもうとしているその塊に近づくことが出来ず、ハンドルを持つ手をガタガタ震わせながら、2人が首にかけたタオルをはずしてその子猫をそっと包んでいる姿を見ていた。
「ごめんナ 汗臭いタオルで」
「……綺麗…じゃない…けど」
タオルにくるまれたそれはまだ温かい。きっと跳ねられたばかりなのだろう。
「いやあねえ 野良ネコなのに」
「汚いわ 困ったものよねえ」
近所の人達だろうか。眉をしかめて聞こえよがしに囁いている。
途端に全身から何かがほとばしるように、シッカは思わず声を荒げて叫んでいた。
「うるさい!!命を何だと思ってんのよ!汚いって何よ!人間の子供だったら大騒ぎするくせに 野良猫だからって知らん顔はないでしょ!!」
言い始めたが最後、怒りは収まらず一層全身が震えだす。
「何よ!一体何だって言うのよ」
「シッカ!!」
琥珀に腕を掴まれてもシッカは地団駄を踏み叫び続けた。叫びながら泣いた。
子猫を跳ねた運転手も許せない。見て見ぬふりする大人も許せない何故?何故、こんな小さな命が奪われるんだろう。
大人達がバツの悪そうに去って行った後もシッカ自身が驚くほどに、悲しくて悔しくてどうしようもない感情があとからあとから溢れてくる。
一通り感情を吐き出した後、琥珀がいつになくやさしい口調で呟いた。
「この子猫にとっちゃ、不幸な出来事だけど、こうやって悲しんでくれるヤツがいるだけ良かったんじゃねえの?」
「……人…猫…犬…みな同じだよ…」
「ごめんね2人とも。でも何か悲しくてやりきれなくて」
「………かわいそう…」
「こんなに小さいのに、ボロ雑巾みたいになっちゃって」
「まあ な。でも考えようじゃね?この先もうこの子は飢えることも寒さに震えることもないわけだし」
「…独りぼっち…じゃない…さみしく…ない?…」
命の重さに大小はない。だけど、生まれてたった数か月で命を落としたこの子猫は、何の為に生まれてきたんだろう。
よく新聞やニュースで幼い子供の事故死を見かけるが、人間と動物と言う違いだけだ。今、目の前にある残酷な事実に何ら変わりはない。
神様が目の前にいたら聞いてみたい。
何故?こんなことをするんですか?
忘却の河 2「秋葉神社」
実家でパパに事の成り行きを話すと、ママに内緒で明日庭の隅に埋葬してくれると言う。
ママが自治会の月例会で居なくて良かった。私以上に小さな命が奪われることに傷つき、悲しむ人だから。
「……神社?…」
家を出てすぐ、湧泉音が立ち止まり私に話しかけて来た。
「えっ?ああそうよ。秋葉神社」
鬱蒼とした鎮守の杜が道路を隔てた向こうに拡がる。
いつもだったら、そのままお参りして帰るけれど、今日は何だか参る気になれない。
秋葉神社自体は<火伏の神>いわゆる防火の神様だ。
その鳥居の手前にはお稲荷さんがあり、芸能の神様、故にうちの会社としては本来厚く信奉するべきなのだが。
何故か?この秋葉神社のことはタブーなのだと思わせる、重い雰囲気が昔からあった。
近くなのにね。秋葉は商売繁盛の神様でもあるのに。とママが言葉少なに言ったことがある。
貴女が生まれる前に行ったきりだわ。
その時はパパも一緒になって黙ってしまったので、以来、何となく1人でこっそりと行くようになった。
そのせいか、私自身とても好きな場所であるにもかかわらず、行けば必ず切ない気持ちになるのだ。
だからよけい今日はお参りなんて出来ない。
「今度、改めてお参りしようよ。ここのお稲荷さんは芸能上達の守護神だから、特に琥珀は参ったほうがいいよ」
「おいおい、俺様の実力は神頼みかよ?」
「つべこべ言わないの。霊験あらたかなんだから、有り難くお参りしなさい!」
「だってよ、ゆね」
「…秋葉…東京?…」
「はあ?何だって」
「ああ、そうよ。かの秋葉原にある神社と同じ。昔はアキバハラだったから秋葉神社になったんだって。今は街だけが、アキハバラって呼ぶようになったらしいけど」
「……詳しい…」
「シッカ!お前神社オタクかよ」
「失礼ね!自分が好きな神社の由来を調べて何が悪いのよ」
「…秋葉…あきは…」
「ゆね。あきは神社じゃないのよ。あ・き・ば神社!!」
「ハイハイ。それじゃ、あきば神社様とやら、また改めてお参りに来るんで、そん時ゃよろしくっす」
「琥珀ったら~そんなんじゃ、願いを聞いてもらえないわよ!何でもっときちんと言えないわけ?」
それから数日間は死んだ子猫のことが頭から離れず、意味もなく落ち込んでは涙が溢れた。
但し、そんな私の感情とはお構いなしに、仕事は毎日早朝から深夜まで続いた。
琥珀も湧泉音も解らないなりに現場に出て重い機材を運んでいる。
「ひょ~!キツイよなあ。でも、いい経験になるよ。自分がメジャーになったとしても、裏方の人間あってのことだって、よお~く分った。骨の髄まで刻み込むゼッ!」
琥珀にしては殊勝な意見だ。もっと真面目な言い方をすればいいのに、素直じゃないんだから。
忘却の河 3「モ・ヨ・コ」
夜は二段ベッドを2人に明け渡し、私は床に転がって寝ていた。
けれどいつの間にか湧泉音を真ん中に川の字になって、寝返りをうてないなどと互いに文句を言いつつ 、寄り添って暑い夜をやり過ごすようになった。
湧泉音と琥珀と私……
子供の頃からずっと私達は一緒だった。
生まれる前、神様が向こう側で1つの魂を3つに分けたんじゃないかって思う位、私達はお互いに似ていたし、何より理解しあっていた。だから、皆がバラバラの道を歩き始めた今でも、こうやって、ひとところに集まってしまう。
黒い砂鉄の中に強い磁石を入れたみたいに、それはとても強く確かなもの……
久しぶりに3人が揃った時、琥珀は持ってきた電子ピアノを奏で始めた。
薄いハミングが密かに寄り添って、夕闇と共に消えていく。
ああ、私はこの時間が好きなんだ。
琥珀と湧泉音が神様から送られた2人なら、こうして側にいてずっと見ていたい。
あの日、天使の梯子をつたって確かに2人は降りてきた。
私は…少し遅れて降りてきたんだろう。
2人を見失うまいとして、きっと慌てて降りてきたんだと思う。
その時、琥珀や湧泉音が持って降りた何かを私は置いてきてしまったのかもしれない。
そんな思いも忙しさにかき消されてしまい、私達は毎日汗まみれで働き、泥の様に眠る。
もっとも、湧泉音にしてみれば私の寝相の悪さと、琥珀の歯ぎしりで不眠症が益々酷くなり、時折ベランダに居る<もよこ>と、こっそり酒を酌み交わしているらしい。
まったく、未成年のくせに!!
まあ、よく働いてくれてるから大目にみてあげるけどね。
それにしても……もよこって一体、何?
モアイの頭にひよこの身体。
それが、湧泉音の鞄から出てきた時は、思わず近くにあった新聞紙を丸めて振り上げてしまい、湧泉音に慌てて止められたっけ。
湧泉音の大切な友人で理解者だって言われても……
ただの妖怪にしか見えないんだけど。
湧泉音がこっちに居る間は、それもベランダに住み着いているわけで、とにかく謎の生物なのだ。
珍しく時間が出来たので、私達は海を見に行った。
人口の砂浜続きにちょっとした広場があり、そこでは夏の終わりに市民盆踊り大会が行われる。
潮風に揺れる提灯とお囃子の響き。太鼓の音色が黄昏の空に混じり合い、それはとてつもなくノスタルジックでセンチな気分を醸し出す。
そんな話を2人にすると絶対踊りの輪に加わると息巻いているが、バカだね、その時私達は仕事だよ。
「なあ、盆踊りって死んだ人の供養だろ?賑やかにドンチャンやって魂を慰めるってことなのかな?」
「お盆の時期に帰って来る精霊を迎えてまた送り出すためのものって言うけど、踊りの輪の中に死んだ人が紛れ込んで踊ってるんだって。だから故人を見かけても決して声をかけてはいけないって」
「……かけては…駄目?…」
「せっかくあの世に行った魂をこの世に留めてしまうからかもね?良く解らないけど」
忘却の河 4「マロザラシ」
「それって、ある意味オカルトだよな」
「情緒のない言い方だね!半分は日本人でしょ?」
私達は波打ち際を歩いた 色とりどりの出店と行きかう多くの人々。
やがて、盆踊りに続いて花火大会が行われ、夜空に夏の終わりを告げる大輪の花々が咲く。
その時だけは、仕事を請け負っている者の特権で物凄く近くから花火を見ることが出来るのだけれど、あまりにも真上の花火と言うものは、首が痛くなるものだと2人に話していた時だった。
「……何か…いる!」
最初に気が付いたのは湧泉音だった。白くて小さくて丸いものが砂の上に横たわっている。
そして、それは微かに動いているのだ。波のせいではない。
「アザラシ??」
慌てて駆け寄った私達は、一斉に声を上げた。
「…いや…ねこ?」
「猫?本当だ。行き倒れの猫だ」
そっと抱え上げると弱弱しい目が真っ直ぐこちらを見つめている。
「生きてる!はっ!すげっえ!今度は命を拾ったぜ!」
「この前死んだ子猫の生まれ変わりかもね?」
「……生まれ…変わり…?」
「あいつらお人好しそうだから、もう一回生まれ変わって会いに行けって、神様がチャンスをくれたのかもな。よしよし、お前運の強い奴だな」
そう言って、2人は再び首にかけてあるタオルで子猫を包んだ。
「…汗…くさい…ごめん…」
「ほれほれ、新しい家に帰ろうな」
目の前の命は今、確かに2人の手の中にあった。
左右の瞳の色が違う、オッドアイ。
しかも、額にはまるで眉毛を掻いた様に黒い毛が生えている。
まろ眉のあざらし猫。
その子はいつしか<まろざらし>と呼ばれ会社の机やパソコンを遊具に、椅子をベッドにして育ち、社員のランチタイムを恐怖に陥れ挙句、カップラーメンが大好物と言う<もよこ>と並ぶ変な生き物になってしまったのだ。
「まろざらしお前、本当に面白い顔してるな。死んだあの子猫とは似ても似つかねえけど、本当に生まれ変わりかよ?」
「…そう…信じ…たい」
「そうよね。その方が何となく救われる気がするもん」
「だとしたら、前世の記憶とか…あるのかな?生まれて数か月で車に撥ねられて死んだなんて、そんな痛い記憶、俺なら絶対いらねえな」
「…忘却の…河…」
「忘却の河??」
忘却の河 5「忘却の河」
人は生まれ変わる時、死の谷を歩き忘却の河の水を飲む。そこで初めて前世での記憶がリセットされ、次に生まれ変わる人生を自ら選ぶそうだ。
最も,湧泉音にしても実際に見たわけではないので本の受け売りなんだけれど、でも人間がそうなら動物も同じではないかと言う。
「日本の三途の川と同じだな。」
「……河は…レーテー……渡し守も…いる…」
「渡し守?ますます三途の川みたい。」
「…カロン…って名前…」
「オイ!カロンって、俺のバイクの名前はそこから来たのかよ。渡し守かよ!お前のは確かハデスだよな」
「…冥界…王…」
「はあ~?俺のは渡し守でお前は王かよ!逆じゃね?普通」
「いいじゃない。私のだって冥府の番人の名前だよ」
「シッカのはなんつったっけ?ヘ…へ、何とかだよな」
「ヘカテ!!」
「ああ!そうそう。お前が中学の時…」
「いいの!そんな昔のこと言わなくて!!」
「…好き…だよね?…みんなこういう…の」
「私のはママのキーホルダーから取っただけだよ。さあお二人さん今日はもうこれで仕事は終わり。秋葉神社に行くよ」
「えっ?今からかよ!」
「…実家…行くんだ…」
「ハイハイ。そう言うこと!」
うちの会社の経理部門は実家の方にある。倉庫の番人兼居候の身としては、一応家賃と言うものを払わなければならない。
溜まった業務日誌を持って行くついでもある。
この前は死んだ子猫のことで動揺して行かなかったので、今日は何としてでも2人を連れてお参りに行かなければ、またしばらく行きそびれてしまうに違いない 。
神社だって縁がなければ、なかなか参れないものなのだ。
「で?本名の久慈院琥珀がいいの?えっと、こっちの、長いな、ええっと琥珀・ディートリッヒ・フォーンリック?ああ、ご両親が国際結婚だからねえ。どっちも本名になるんだ。やっぱりそうなると、K・O・H・A・K・U かなあ?ビジュアル系で売り出すならね」
目の前の石村と名乗るプロデューサーのオヤジは1人でしやべり続ける。
琥珀はいつもの癖で、無意識に膝を揺すっていた。こんな時、隣にシッカが居たら思い切り膝を叩かれるか、あの大きな瞳で睨まれるかなのだが、相変わらずオヤジの話は続く。
「ウゲエ~」
石村が去った後、琥珀は顔をしかめてうぜえと言いかけ、後ろに人の気配を感じ慌てて言葉を濁した。
振り向くと、彼をここに誘った雨池ディレクターが微笑んでいる。
「雨池さん。いつこっちに戻ったんすか?」
札幌出身の雨池ディレクターは、こちらにある本社と札幌にある支社を行き来している。
本人曰く、あまり都会が好きではないのと夏の暑さが耐えられないのとで、もっぱら支社に居る事が多い。
「久慈院君、元気そうだね。石村さんに捕まってたからいつどのタイミングで話しかけようかと思ったよ」
「はあ、芸名をどうしようかって言われて、別に俺、そんなことどうでもいいし。ビジュアル系って何すか?俺は曲で勝負したいんすよね」
「ううん。困ったね。石村さんはやり手だから、任せておけば大丈夫だと思ってたんだけどね。どうやら君を売り出す路線が、君の考えとは違うらしい」
「俺、アイドル目指してるわけじゃないっすもん」
「まあ、大人の事情ってやつだね。いきなり持ち歌で勝負するより、いわゆるアイドル路線で売り出しておいて、実は作曲も出来ますって言う意外性。石村さんはそこを狙ってるんじゃないかな?」
「意外性も何も俺は俺っすから。ただ自分の作った曲を歌うだけで何が悪いんっすか?」
困ったね、と雨池ディレクターは呟き、琥珀の肩に手を置いて軽く叩きながら去って行く。
ボンヤリと琥珀はそんな雨池の後姿を思い出していた。
天花お薦めの稲荷神社に参った所でこの問題が簡単に片付くとは思えない。
「まっ…いいか!」
自身に言い聞かせるように、琥珀はドアを開けた。
忘却の河 6「サッチン先輩」
中にはベテラン社員の草加さんと、奥さんでうちの元社員であるサッチンこと咲也先輩がいた。
「サッチン先輩。お久しぶりです」
「ああ、天ちゃん。元気そうね。あの子達が噂の従兄弟さん?」
サッチン先輩は、琥珀と湧泉音に笑顔を向けた。2人はちょっと緊張気味に首をすくめる。
初対面だろうと何だろうとサッチン先輩は遠慮がない。でも決して悪気はないのだ。
思ったことをそのままズバズバ口にする人なので、私も最初は苦手だったけれど……
けれど、言うだけじゃなく、実際に行動に移す彼女を見ているうちにそのパワフルな生命力に圧倒され、尊敬するようになった。
今では私の数少ない相談相手であり、人生の良き先輩だ。
「ええ?何~やだ、あなた私の後輩になるんだ。」
サッチン先輩がゲラゲラ笑いだす。
「あの美大って変わり者が多いのよ。こんなのとかね!」
そう言って笑いながら自分を指さし、つられて湧泉音も笑っている。
世の中って狭い。
なんと、サッチン先輩と湧泉音は大学の先輩、後輩になるのだ。
サッチン先輩の出身大学なんて、気にしたことがなかった。
私にとって彼女は、会社を辞めても忙しい時はこうやって手伝ってくれるありがたい存在であり、県下ではちょっと名の知れた舞台美術家でもある。
そんなサッチン先輩と親しくなるのに3ケ月はかかった。
それなのに、同じ大学出身と言うだけで初対面の湧泉音と先輩の垣根が、ものの5分位で一気に無くなったのだ。
私と一緒で人見知りする湧泉音にしては珍しい。
きっと彼女の裏表のない気さくさがそうさせるのだろう。
「いやあ、天ちゃんと言い2人も後輩が出来るなんて」
サッチン先輩、出来の悪い後輩でごめんなさい。
今度、先輩がやってるカフェに2人を連れていきますね。
面倒見のいい先輩にかかったら、湧泉音も琥珀もきっと今の自分に対する答えが見つかるかもしれないし。
「ああ来て来て。今うちにも困った居候がいるのよ。例の姪っ子なんだけどね」
昔から、その姪御さんと私は似たところがあると言われていたっけ。でも今は湧泉音や琥珀のことを言ってるみたい。
あっちにもこっちにも困った居候の群れ。
迷える青春ってやつだろうか?
大学を休学中のその姪御さんは、7月の頭から一足早い夏休みと称してやって来たらしいのだが。
姪っ子だからって、容赦しないのがサッチン先輩なんだよね。
「もうさあ。姉貴が手とり足とりするもんだから、大学生にもなって何一つ自分じゃ出来なくてさあ」
「じゃあ、今、姪御さんは何してるんですか?」
「家の前にあるお地蔵さんの世話と野良のボス猫、lagyu(ラグゥ)って言うんだけれど…その世話かな?あとまかない」
いかんせん、ボス猫の方がよっぽど人間が出来てるわよ。
そんなちょっと意味不明な言葉を残して、先輩は御主人の草加さんと帰って行った。
猫より劣る人間性って……?
忘却の河 7「みそっかす」
「……おもしろい…人…」
「おもしろいの一言じゃ、くくれないよサッチン先輩は 」
「すっげえ、パワフルだな。ダンナ、存在感薄いじゃん」
「我が社のナンバー2を捕まえて失礼な。草加さんはああ見えて現場ではすっごい人なんだから」
「……いい…夫婦…だよ…」
「へえ。珍しいじゃん。ユネがそんな風に言うなんて。こりゃかなりシッカに毒されてるな」
「何?その毒されるってのは?草加さんもサッチン先輩も文句なくいい人に決まってんじゃん」
「わかってるよ。奥さんはともかく草加さんは俺も一緒に現場に入ってるからさ」
「奥さんはともかくってのもムカつく!!」
「…真っ直ぐ…だから…」
「真っ直ぐって何が?」
「……うん…真っ直ぐ…目を見て…怖いくらい…ああこの人…本当に…真っ直ぐ…だって……稀有…」
そう言って湧泉音は黙り込んだ。
必死に言葉を探しているようにも見える。
サッチン先輩のあの射るような眼差しの中に、湧泉音は一体何を見たんだろう。
稀有……稀有な人と言いたかったんだろうか。
真っ直ぐに生きる、稀有な人。
傷ついても、苦しんでも、自分を信じて進む人。舞台美術に取り組んでいる時のサッチン先輩は、正にそんな感じだ。自分や周りに決して妥協を許さない。
それが職人と言うものですよ。天花、君の回りはそういう人ばかりでしょう?
パパは本当に自分の会社とそのスタッフ達に誇りを持っている。
この地方都市においても、東京に引けを取らない集団だと、前の会社の同僚から電話がかかるたびに自慢する。
みそっかすの私としては少々焦ってしまうのだ。皆の足を引っ張らずにこなすだけで精一杯だから。
ああまた落ち込んでしまいそうだ。
ちょっとブルーな気分を引きずったまま、私達は夕暮れ迫る秋葉神社にやって来た。
日暮しが1日の終わりを告げる一番好きな時間帯だ。
いつも思うけど、神社って何でこんなに背筋がピンと伸びるんだろう。本来は願い事をしに来る場所なのに。まるで罪の告白をするみたいな。
どんなにごまかしても、悪いことは全部見られてる感じの緊張感。今日みたいに自分に自信が無いことを考えさせられる日は特にだ。
まっさらな気持ちで神様に会いに来るって難しい。
「……火伏…の…神…」
「ヒブセ?ああ火を防いで消すってことか?ふうん、じゃあここら辺は神様に守られてるから、火災が少ないってか?」
「ううん。私が生まれる前にこの近所で大きな火事があってママの幼馴染が死んだって聞いたよ」
「…神は……役立たず…」
「バッカ!お前、仮にも神社の境内だろ!神様に聞こえたらどうすんだよ」
「あら、琥珀ったら。神様なんて信じないんじゃなかったの?」
「うっせ!俺は宗教が嫌いなだけなの。だから、有神論者ではある。が、無宗教ってこと」
「何か、言ってることカッコイイね」
「神は、いていいんじゃないか?そう思った方が人間救われるっつうかさあ」
「…神は……救い?…」
「まあ、神さんてのは優しくはなさそう…だけどな」
忘却の河 8「神様と同じ」
火之迦具土ノ命
そう言われれば優しくないかも。
ここに祭られているその神様はもともとイザナギとイザナミの子供として生まれた。
だが、火の神を生んだことで母イザナミは火傷を負って死んでしまうのだ。
それを怒ったイザナギは子供である迦具土を殺してしまう。
神様って案外激しいんだね。
お賽銭を入れ静かに両手を合わせながら3人で頭を下げた。
「…迦具土…湧泉音…です」
そう,ここの神様と湧泉音の名字は一緒なのだ。最初はその偶然にビックリして一人で興奮したものだった。
「ベルンシュタイン・フォーンリックも名乗っとけよ。でも神さんが混乱するかもしれねえな、ちょっと笑える」
「笑うなんて不謹慎な。神様と同じ名前って、凄いことよ」
「…いや……べつに…」
「クールだなお前!もうちょっと他にリアクションないのかよ」
「しっ!静かにして!!」
ああこんなに騒がしかったら神様も呆れてしまうよね。
お願いごとなんてて聞いてくれるわけがない。大丈夫かしら?琥珀のデビューに湧泉音の復学。そして私の未来。
「しっかし、神様ってのは人間の流行先取りだなあ?」
「…何…が?…」
立て看板で由来を読み上げながら琥珀が首を振る。
だって、神様とは言え、父親の子殺しだろ?
チチオヤノコゴロシ
何て嫌な響きなんだろう。今まで気が付きもしなかったけれど、確かにそう言うことではないか。
ズキンと胸が痛んで思わず息をのんだ。
得体のしれない恐怖感が湧き上がっては渦巻く。
怖い。何故だかしらないけれど怖いのだ。2人は何も気が付いてはいないけれど。
「確か学校で習ったよなあ。黄泉の国にイザナミを迎えに行ったイザナギが振り返ってしまう話」
「…ギリシャ神話…も…オルフェウス…エウリデーケ…」
「吟遊詩人の話か」
「…琥珀……みたい?…」
「オウッ。俺様は魂の吟遊詩人だ。今は亡き恋人の面影を胸に流離うんだよ。ああ、愛しのエウリデーケ」
琥珀ったら。そのおどけた仕草に吹き出しそうになり、さっきまでの恐怖感と不安感は消えて行った。
昔からそうだ。
私も湧泉音もすぐへこむ人間なのだが、琥珀は違う。
逆にそんな微妙な気配を察してか、いつにもまして明るくふる舞い、周りを巻き込んでいく。
自分を憐れんでる時間がもったいない、前を向けよと、言葉ではなく態度で示すのだ。
チャラチャラしたあのポーズの裏には、自分に負けるのが何より嫌いで決して揺らがない芯を持った琥珀がいる。
最もそう思われること自体、彼は好きではないのだろうけど一緒に居て救われたことも多いのは事実だ。
それから私達は一気に階段を駆け下りて、鳥居の近くまでやって来た。辺りには夕闇が迫り私達のバイクのシルエットだけが沈黙している。
忘却の河 9「月の女神」
それにしても、毎日必ず一度は鍵を探す。
いつものことだけどポケットの中、鞄の中、とありとあらゆる所を探して時間が空しく過ぎていく。
「ま~た、始まった!シッカの鍵探し」
「ウルサイ!黙ってて。ああもうどこやっちゃったんだろ」
「…ないの……?」
「事務所に置いてきたんじゃねえのか?」
「ウルサイ!ウルサイ!」
大切なキーホルダーがついたヴェスパの鍵が無い。
階段を駆け下りるときに落としたんだろうか?それとも琥珀の言う様に事務所だろうか?
「ひょっとして、お前さっき手を洗った時にさ…」
「ああ!そうかも。ハンカチをポケットから出して…」
「…あったよ…」
手水舎の方からふいに湧泉音の姿が現れた。琥珀と言い争っている間に探してくれていたのだ。
「ゆね!!どこにあったの?」
「…手…洗う……」
「ああやっぱり、ありがとう?ゆね?」
湧泉音はじっと私のキーホルダーを見ている。
「…ヘカテ…月の……女神…」
「ヘカテは冥府の番人だってシッカが言ったろ?月の女神つったら梟を従えたアルテミス。俺だって知ってるぜ?」
「…セレナもいる…同じ神…」
「なんだよ同じって、ヘカテ、アルテミス、セレ…ナ?不敵に微笑む月の女神が3人もいるのかよ?じゃあ梟も3匹か?」
琥珀が笑いかけた時、ホウホウと杜の中で梟が鳴いた。
「な、何だ!今の不気味な鳴き声は!!」
「…フクロウ?…」
「梟だって?」
「何ビビッてんの?杜の賢者が挨拶してくれたんじゃない」
「い、いや、でも梟って…今、梟の話したばかりじゃないか。聞いてたのかよ、おれたちの話」
「こんな田舎だけど珍しいよ梟の鳴き声なんて。私だって滅多に聞かないのに、わざわざ会いに来てくれたのかもね?」
「…知恵の…神…」
「幸福の使いとも言われてるし、ラッキーじゃない?」
「いや、ラッキーとか以前にシンクロ…」
「シンクロ??」
「いや、何でもない。神様っている…よな」
どの神様かは知らないけどな。
琥珀は湧泉音の持っている私のキーホルダーを手に取って独り言のように呟く。
顔を横に向けたヘカテのキーホルダー。
昔、家族兼用のクローゼットを整理していて、偶然見つけたものだった。直しこんでいる位ならお守りに持っておきたくて、どうしてもとママにせがんでやっと許してもらったのだ。
火事で亡くなった幼馴染の遺品なのだと、随分あとから教えられたのだけれど……
忘却の河 10「悪意」
キーホルダーと一緒に入っていた手紙や新聞の切り抜きは、恐らくその亡くなった幼馴染のものなのだ、と気が付いた時には箱ごとどこか別の場所にしまわれていた。
やがてそれすらも忘れかけていた頃、こちらに引っ越して来て倉庫の片隅に置かれているのを見つけたが、そのままにしてある。
ヘカテは元々安産の神様だ。
妊婦のもとに寄り添い、分娩を助ける。
けれどあまりにも強い霊力を持つが為に、それが人間に伝わることを恐れた、他の神々から冥府へと落とされ、死と再生を司る番人となった。
祈りを捧げる者には限りなく優しい、清めと贖罪の神でもある。
「…力……故…」
「神様とやらの世界も妬みや裏切りが横行したわけか。俺様も気をつけよう。才能の有る奴は足を引っ張られた上に、悪意に晒されるからな」
「ちょっと、そこで何で私を見るのよ」
「見てないって。自意識過剰だよお前、俺はただ単に例えを言っただけだよ。た・と・え」
「そんなことない。絶対、私のこと言ったよ。ねえ、ゆね??」
「…悪意…晒される…」
「ゆね?どうしたの…誰かに苛められたの?」
「…いや……」
「俺たちは見てくれからして違うからな。そこからして一般の人間の心の物差しに当てはまらない。で勝手な憶測でものを言われる。髪の毛が長すぎるだの、性格が派手だの、不良に決まってるだの」
「……うん?……」
「要するに、存在自体が知らず知らずのうちに周りに不快感を与えちまうのさ。不快=排除の図式。それが悪意…違うか?」
「ゆねはともかく、琥珀の場合はその口の悪さのせいじゃない?もっと優しい言い方すれば誤解されることも無いと思うけど?」
「じゃあシッカは、誤解も偏見も無く居られたか?いつもニコニコしてりゃ攻撃されなかったのか?」
「…攻撃……」
「見かけは外国人のくせに英語が…俺たちの場合はドイツ語だけどな。喋れない変なヤツって言われ続けたじゃないか?幾ら俺たちが普通に振舞おうと努力しても…な」
「そりゃ宇宙人とか随分ひどいこと言われたけど」
「怖いから憎むんだきっと。狭い子供の世界の中では、俺達は未知の人間なんだよ。髪の色や目の色が違うってだけでな。だったらいっそ関わらずにいるか、憎悪の対象にするかだ。」
「確かに、私達って友達少ないよね」
「…憎まれる……悪意…」
「そんなんで落ち込むなって。自分が自分らしく振舞えない相手なら友達とは言えねえだろ?それとも平気なのかよ?そんな偽りの関係でも・・・?」
「昔はね、自分ってこんなんじゃないのになんて思いながら演じてる部分があった。仲間はずれが嫌だったから」
「…そう?…なんだ…」
「1人って怖いし、吐きそうなくらい嫌だったもん」
「ワリイ!何か小難しい話になっちまった。ヘカテにしろここの迦具土の神さんにしろ不遇な連中ってところから、俺らに似てんのかなって思ってさ」
「神様と同列はだめでしょ。罰当たりな…それにそんなに不幸じゃないと思うよ。今の私達は」
「まあな。少なくとも今はな。自分で選んだそれぞれの道を歩いてるわけだから」
湧泉音はさっきからずっと黙り込んでいる。
忘却の河 11「海を目指して」
私達3人が揃うと琥珀がいつも1人で喋っては自己完結していく。
それに時折私が反論するのもいつものことで、湧泉音が口をはさむことはあまりない。
転校しそんな2人と居る居心地の良さを捨ててから、一層孤独になりはしたが、自分のことを誰も知らないと言う自由さに何処かホッとしたのも事実だ。
幼稚園から高校の途中まで一貫教育の学校に居た時は、お互いに知っている安心感もあった。しかし、同時に周りがイメージした自分の枠をはみ出ることも出来なかった。
もどかしいと心のどこかで思っていた。
では、どうしたかったのか?と問われても答えは出ない。
だから、湧泉音が空になったミルクのグラスを回しながら、何故ここに居るのか?と言う疑問を私に投げかけた時、かつて自分自身がいた深い心理の海の底に今、湧泉音がいるのかもしれないと思ったのだ。
何のために生まれたのか?と言う自身への問いだ。
「シッカ、あんまり悩むなって!今を生きろよ精一杯」
ぐずぐずと思い悩んでいる私を見かねて琥珀がそんな言葉を私に投げかけてきた時がある。
「お前の人生を誰も代わりに生きていくことは出来ないんだぜ。でも助けることは出来る」
ただ助けに行って、一緒に溺れるわけにはいかないから、まず泳ぐ前にきちんと準備運動しておいてくれよ、とも。
琥珀なりの優しさと人生訓だ。
カナヅチだから、はなから海には入らないと答えた私に、浮き輪でも舟でも使ってとにかく海に入れよ、と言い放った。
「半径1キロ以内の人生で終わるなよ。つまらねえだろ、せっかく生まれて来たってのに!海を目指せ!指切りげんまんな!」
琥珀の言う海とは人生のことだ。
浮き輪や舟は生きていく方法と言うこと。
そんな琥珀とのやり取りは私が無事に高校を卒業するまで続いた。
海を目指す約束を守れたかどうかは解らないけれど、デビューが決まって直ぐに電話をくれたのは、琥珀自身が自分の言った言葉に責任を持とうとしていたのかもしれない。
そのおかげで、海に漕ぎ出す方法を見つけた私は、何とか今のところは遭難も難破もせずにいられる。
但し、たった一人の航海は、物凄く辛くて心がすくむ。
時折くじけそうになる、そんな自分との戦いなのだけれど。
琥珀がしてくれたように、湧泉音に対して私も出来ることがあるだろうか?
そんなことを琥珀に聞いたら、自分の舟に乗せてひっくり返るのがオチだと言われるかもしれない。
ゆねはせいぜい泳げて25mだと、笑うだろうか。
湧泉音は相変わらず黙ったまま、杜を見つめている。
「帰ろうぜ。腹減ったよ。ほら」
握りしめていたキーホルダーを琥珀は私に差し出し、少し怒ったような眼差しを向けた。
「お前、これにインスピレーションを得て中学の時、絵を描いてたよな?まだ完成してないのか?」
「うん…まだ。何かが足りない」
「その何かが足りないって言う絵に題名はあるのか?」
「ヘカテの…翼」
ヘカテの翼 1「翔子」
茅乃へ
辛いことがあると貴女に会いたくなる。
貴女なら何も言わなくても解ってくれるから、私の悪い癖ね。
私は、ずっと自分の名前が嫌いだった。
翔子なんて、一度も飛べなかった人間なのに。
子供の時から翼があればと恋焦がれていたくせに、いつの間にか飛ぶことを忘れてしまった。
いえ、もしかしたら自分で翼をたたんでしまったのか、生まれた時から折れていたのかもしれないけれど。
貴女の名前は植物が好きなお母さんがつけたのよね。
じゃあ将来、貴女が結婚して、ベビーが出来たら同じようにするのかしら?
私もせめて人から愛されるように、子供には花の名前をつけたいと思っていたのですが……実は2人目が出来ました。
これで少しは夫も変わってくれるといいなと空しい期待をしています。
でも正直、生むのが怖いです、中絶する勇気もありませんが。
なんだかとりとめもない文になって、何を言いたかったのか?
ほとんど愚痴になってしまってごめんなさい。
また、手紙を書きます。 翔子
深い溜息と共に翔子はペンを置いた。
傍らには小さなあどけない寝顔がこちらを向いている。
翔子はそっと毛布を掛けなおすと、わずかに膨らんだ自らのお腹に痣だらけの手を置き、少しためらいがちに部屋の灯りを消した。
その哀しみに満ちた横顔にも、凄まじいまでの殴打の痕が浮かび上がってはいるが、それよりも深い夜の闇が覆い隠していった。
「んんん?ニッケだっけ?ハッカじゃねえのなこれ」
琥珀もいつの間にかこちらに来てからの朝食は、シナモントーストになっている。
「俺はやっぱ、ピーナツバターのクランチタイプだな」
「…うん……それ…琥珀に…教わった」
「まあこれもいけてるよ。シナモンは無かったけど昔、おふくろがグラニュー糖じゃなくって普通の砂糖……ん?違うなおふくろじゃない…自分か?」
そう言いながら琥珀は自分の頭に手をやった。
「これって、既視感だよな。デジャヴってやつ」
「はああ~」
「何だよ。変なこと言ったかよ」
「そうじゃなくって、ゆねも同じこと言ったの。」
「ユネ?が?」
2人は1人黙々と口を動かす湧泉音の言葉を待った。
「…モノクロの……デジャビュ……」
「何でモノクロなんだよ?」
「…色がない…世界…」
「色がないって?モノクロ写真か?」
「…色が…見えない…」
「見えないって?」
「ちょっと待ってよ。琥珀は?琥珀のはどんな感じなの?ゆねのと違って色がついてるの?」
「俺のは…何か近くて遠いって言うのかぼんやりしてる。ユネのがモノクロなら、俺のはフィルターをかけた写真みたいな感じかなあ」
3人は黙り込んだ。
何なんだろう。湧泉音と琥珀の2人が同じ光景に記憶があると言いだすなんて……
いや、この場合記憶ではないのかもしれない?
ヘカテの翼 2「神の見えざる手」
茅乃へ。
突然こんな手紙を書いてごめんなさい。
結婚 おめでとう。…なんて遅いよね今頃。
実は子供2人を連れて別府に帰ろうと思っています。
恐らく夫とは別れるでしょう。貴女の言った通りになっちゃった。でも仕方がないわね、これが私の人生だから。
実家の母は相変わらずです。父は倒れた時から寝たきりで私のこともあまり解っていません。あれだけ私に酷いことをしたのにね。
何も覚えてないのよ、都合がいいよね。
母のことも許していないけど、結局、私も同じような男を選んでしまったわけだから、似た者同士かもしれません。
だからせめて子供達だけは私が守ってやりたいの。でも私がこんなだから上の子がね、ものすごく私に気を使うの、まだ小さいのに可哀そうよね。
いつかはきちんと話し合うつもりですが、今はとにかく夫から逃げることが先かなって……
しっかりしなくちゃいけないなって思います。
また、結果は報告しますね。 翔子
湧泉音と琥珀に共通する記憶のようなもの。
あの朝、3人で黙り込んで以来、漠然とした何かを追い求めるかのように自然と足は秋葉神社に向かっていた。
3人で訪れるのはこれでもう5回目だ。
「初めてここに来た時、神様はいるって琥珀は言ったよね?」
「ああ、言ったさ。もっともこうやって地上に生きてる俺達が知る術はないけど…多分……」
「……多分…見えない…だけ?」
「そうだね。神様の存在を知りたいって思っても、そんなの無理だし・・・でも、人って何か困ったり迷ったりして、答えや助けが欲しい時は祈るじゃない?」
「あ~俺も進級テストの前、初詣で必死に祈ったワ!」
「琥珀ったら…祈るだけで何もしない人には神様は振り向いてくれないと思うよ。祈りも大事だけど、やっぱり毎日一生懸命努力して生きることが大切で、そんな人には……」
「……人には………?」
「神さんは何らかのサインを送ってくれると思うぜ。まあ、俺の勝手な解釈だけどな」
「ちゃんと解ってるんだ。でも琥珀はミュージシャンを目指していることに迷いはないんでしょう?」
「ん?いや迷うぜ。迷ってばかりだと思う。今のレーベルでいいのか?とかデビュー曲は何がいいのか?とかな。」
「えっ?レコード会社を変えるの?そんなこといまさら…」
「変えるかどうかはまだ解んねえって。ただ、自分が音楽の道を目指すことに迷いはない。そこがぶれない限りは大丈夫だと思う」
「…ぶれない………」
「琥珀みたいにぶれないでいられるには、どうしたらいいんだろう?今自分がやってることとか、進んでる道が間違ってないって、どうやったら思えるんだろう?」
「逆に、一杯悩むことじゃね?迷うって言うよりこれでいいのかって思う自分とこれっきゃないって、思う自分とのせめぎ合いつうか」
「自信家の琥珀さんからそんな言葉を聞くとはね。傍から見てたら疑いようがないのに、それでも悩むんだ。」
「こう見えて謙虚なのよ、俺様は……まあ、努力して生きてりゃ神の見えざる手ってやつが働くんじゃねえの?」
ヘカテの翼 3「偶然の必然」
「見えざる手って、サインってこと?」
「うんまあな。それが俺にとってはシンクロニシティってやつなんだけどな」
「………しん……くろ?………」
「ああ、オリンピックとかで、ほら、水泳のやつ?2人とか団体で泳ぐの・・・あれ?」
「シッカも考えることは一緒か、まあそう言うことでもあるな。意味のある偶然の一致ってやつだから」
「意味のある?偶然?」
「……一致?…」
「偶然の必然ってよく言うだろ?物事が起こるには必ず理由があるって……宇宙の法則だっけ?何故起きたか?その理由を探すことが大事なんじゃね?」
「それは…いいことも悪いこともってこと?」
「ああ多分両方だと思う。いいことばっかに意識を向けて悪いことは見て見ぬふりなんて、そんな都合のいいようには世の中出来てないんだろうしな」
「物事に意味なんてない!って人もいるんじゃないかな?ほらよく言う自分探しは無駄だって言うのと同じで」
「そう思う奴はそれでいいんじゃねえの?俺はやっぱり生まれて来た意味を知りたいし。何のために音楽やってんだろう?って常に考えて、がんじがらめになっちまったこともあったけどな。自己表現って……この言葉は好きじゃないけど、その唯一の方法が俺にとっては音楽だから」
「それが青春って言うんだって、サッチン先輩が言ってた。大人になったらそんなことすら忘れて生きてるって」
「あの人がそう言ったのか?」
「うん。でも先輩だって初めからそんなんじゃないって。私達の年頃にはあがいて、もがいて必死になって自分が生きる意味を探してたって。大人になってどこかで諦めがついたとも言ってた」
「それはあの人が、いや、草加女史が若い時やるだけやったからそう言えるのかもしれないぜ?」
「そうだろうね。ある程度の年齢になったら想いを手放すことが出来たって言ってたもん。諦めとか開き直りともまた違うって。ただ、先輩も生まれて来た意味なんか探してどうするの?って聞かれたことがあったらしいよ」
「へえ。で女史は何て答えたって?」
「そんなもの死ぬまで解らないと思うって」
「そう答えたのか?」
「だって、笑ってた。解らなくても考えて生きるのとそうじゃないのとでは充実度が違うんだって。ただ生きてそこに在るってことが大切に思える様になったともね」
「ただ生きてそこに在るか……禅問答みたいだな?いや哲学的ってのか?」
「自己表現って言葉も今ならバカみたいに思えるって」
「左様ですか。まあそうだよな、音楽やってる時やバイク乗ってる時は、そんなこと一々考えないしな」
「青春の特権ってヤツだからせいぜい苦しめ!っていわれたよ」
「ああ女史の言いそうなセリフだぜ」
「ちょっと、さっきから女史、女史って嫌味なんだから」
「嫌味じゃないって、尊敬の念を込めて言ってんだぜ」
「どうだか」
「ああ言うどんと構えてる人もそんな時代があったのかって、ちょっと不思議なんだよ。じゃあ俺らもあれくらいの齢になったら何にも悩んでないみたいに振舞えるのかな?って」
「琥珀は無理なんじゃない?年取っても変わらずガツガツしてると思うな」
「何だよ。そのガツガツってのは?」
「生きることに貪欲って意味よ」
「それは生命力があるってことだな。よしよし」
「それにしても、何なんだろうね?ゆねも琥珀も同じような光景に覚えがあるって……」
ヘカテの翼 4「胎内の記憶」
「…ここも……」
今まで黙って話を聞いていた湧泉音が、ぐるりと周りを見渡しながら呟いた。
琥珀はふと学園祭前の、あの放課後の教室に思いを馳せた。
今、目の前に居る湧泉音の瞳は、空に手を伸ばし呼ばれていると言ったあの時と同じだ。
生まれる前の記憶。
胎内の記憶。 確かに琥珀自身がそう言ったのだ。
既視感に襲われた3人でテーブルを囲むあの風景は、記憶の片隅にある幼いころの自分達とも違う。
今とは別の時代の別の景色だと、どこかでそう思えた。
それではいつ?どこで?
もしそれが、生まれる前のものだとしたら……?
「んなわけ…ねえよな」
琥珀は1人で首を振った。
「何?どうしたの?ゆねも琥珀も…」
シッカの不安げな顔は今にも泣きだしそうになっていた。
「何でもねえよ。ユネが変なこと言い出すからだよ」
「……でも…初めて来た……時から…」
「ガキの頃ここに来たんじゃねえのか?シッカのおやじさんか誰かに連れられて…?」
「それはない」
今度はシッカが首を振りながら答えた。
「だって子供の頃、ゆねも一緒にこっちに遊びに来たことなんてなかったもん。ママはおばあちゃんの看病しに頻繁に帰って来てたけど、私はたいていパパと留守番してたから」
「……ごめん……」
「あやまることじゃないし」
「なあ、取りあえず謎解きはおいとこうぜ。3人でこうやって久しぶりにつるんでるから、子供の頃の思い出がごちゃ混ぜになってるのかもしれないし」
「そうじゃなかったら?子供の頃の思い出じゃなかったら?」
「その時は……」
言いかけて琥珀は2人に視線を向けなおした。
妙な既視感と言い、シンクロニシティと言い、こちらに来てから続けざまに感じるのは気のせいだろうか?
3人を取り巻く微妙であいまいで不確かな気配。彼自身それが何かは解らないにせよこのまま収まるとは思えない。
むしろもっと大きくハッキリ事が見えた時……
俺はともかく、こいつらは大丈夫だろうか?
「お前ら、この先何があってもその答えを受け止める覚悟はあるんだろうな?」
「…覚悟……?」
「琥珀。怖いよその言い方。何があるって言うの?」
「俺も解らん。ただ知ってしまったらもう後戻りできないような今までの自分じゃいられないような、そんな気もする。」
ヘカテの翼 5「ノラネコ」
「……いいよ…」
「出来れば……傷つきたくない。苦しい思いや辛い思いはしたくない」
「そりゃな。でも逃げたって何も変わらねえし、自分が同じところにいるだけで成長しねえじゃん。生きるって確かに辛いことの方が多いだろうさ。でも、一歩進んだその先に光があると思いたい。もしかしたら、それがさっき言った神のサインってものかもしれねえし」
「どうすればいいんだろう、解らなくなっちゃった。」
「目の前にあることに囚われて、がんじがらめにならなきゃいいんじゃねえのかな?」
「でも、もっと辛いことが起きるかもしれないんでしょ?」
「シッカ…人間ってさ勝手なもんで、過去の苦しみに比べたら今、目の前にあることなんて大したことないって、頭じゃ解っててもさ、心が否定するんだよ今の方が辛いって…よく言うだろ?喉元過ぎれば熱さ忘れるって」
「それって……?でも本当に過去の苦しみより、目の前のモノの方が大きかったら?乗り越えられなかったら?」
「生きてりゃ何とかなるって。とにかく頑張れよそれしかねえだろ?」
「頑張るってどう頑張ればいいの?」
私が不登校になりかけた頃みたいだ。
毎晩、琥珀にメールして今みたいなやりとりをしていたっけ。
そのまま高校に行き続けることに意味を見いだせず、かと言って何がしたいわけでもなく、毎日心が漂流しているようだった。
今は少なくとも目標がある。生きていく道しるべとも言うべきものを手にしている。
あの時の空っぽな状態に比べたら、今のほうがはるかに充実しているのは解っているけれど…
「普通に生活することが大事なんじゃね?辛いことや苦しいことが通り過ぎるまで、淡々といつもの暮らしをする。これが案外難しかったりするんだよ」
「琥珀は……そうやって乗り越えた経験あるんだ」
「まあな。毎日精一杯働いてそんな中で人に出会ったり、別れたりって言う単純なことの繰り返しでいいんじゃねえの?とにかく自分が頑張れることをすりゃいいさ。」
「それが一番難しいと思う」
「ムリをしない。フリをしない。自分らしく。そう言った意味じゃユネが一番自然体かもしれねえけど」
「……そうかな……」
「野良猫みたいなとこあるじゃん。傷ついたらじっとうずくまって治るのを待つみたいなさ」
「…ノラ……ネコ……?」
「ゆねがそんなにシャープなものかな?」
「シャープ?つうより本能?何か野生の感で動いてるみたいじゃん。ユネって」
「……よく…わからない……」
「上手く言えないんだけどな。臆病なくせに大胆つうか好奇心旺盛つうか…でもめんどくさがりだしな」
「それの何処が野良猫なのよ?」
「なんとなくさ。マイペースなところかな?」
「どっちかって言うと飼い猫っぽい気がするけど…」
「…人間……だけど……」
「そうかあ?尻尾生えてんじゃねえの?お前」
ヘカテの翼 6「ささやかな約束」
茅乃へ
元気にしてますか?
おばさんの具合があまりよくないんですって?こっちとそっちを行ったり来たりだっておじさんに聞いたわ 無理しないでね。
ヘカテのキーホルダー、覚えてる?
私が結婚する時に貴女がくれたものよ。
貰ったものを返すのは失礼かとも思ったけれど、今は貴女に持っていてもらいたので同封します。
早く貴女にも小さな天使が訪れるように祈ってます。
もし、私に何かあっても悲しまないでね。
自分で選んだ道だから。
あの時、貴女から反対されてもお腹の中の新しい命を考えると引き返すことは出来なかった。
でも、それすらも言い訳よね。弱かったの。
強くならなければと思います。
近々帰って来るんですってね。
続きはその時また話します。 翔子
「お母さん。パン食べていい?」
琥貴が食パンの袋をおずおずと翔子に差し出した。
「こうちゃん、どうしても我慢出来ない?これ食べちゃうとね…」
言いかけて翔子は言葉をのみこんだ。
育ちざかりの男の子にそれは酷なことだろう。
「そのままでいい?マーガリンまだちょっと残ってるはずだから。そうだ、うんと奮発してお砂糖かけちゃおうか?」
「ほんとに?いいの?」
「いいわよ。インスタントコーヒーも飲む?お砂糖入れてううんと甘くして」
「やったあ。こおひいものんでいいんだ。ぼく、おさとう、ううんといれる」
空き瓶に入った砂糖は湿気てごつごつとした石の塊のようになっている。
それでも琥貴にとっては甘い誘惑に満ちた真っ白な世界だ。
シャリシャリとアルミのスプーンで器用に削りながら、カップにそれを運んでいく。
「いち、にい、さん……」
「凄いねえこうちゃん。5杯もお砂糖入れるの?」
「うん。いっぱいあまくするんだ。そうしたら、いずみものめるよね?おかあさん」
琥貴はスプーンで液体を混ぜながら、小さな泉を覗き込んで無邪気に笑った。
「あらあらこうちゃん。優しいのね。でもいいちゃんはまだ飲めないのよ」
「ううんとあまくしても?」
「そうね。いいちゃんにはまだ無理ね。」
「じゃあいつになったらのめるの?」
「そうねえ。今みたいに雪の降る寒い季節があと5回くらい来たらね……」
言いながら果たして、この子らにその季節が巡りくるのか?翔子は不安になるのだった。
もうすぐ夫がこちらにやってくる。
ちゃんと話さなければ、未来すら手に入れることが出来ない気がする。だが、話して解る相手でもない。
また、暴力に訴えられたらどうすればいいのだろう?
「…か……あさん?」
琥貴が不思議そうな顔をする。
「ゆきって?さむいの?もうはるじゃないの?」
「ああそうね。もう3月だから春と言えば春よね。今年は寒いからまだ雪が降るらしいけど」
「さむいのきらい」
「お空も泣いてるわね。でもね、もう少ししたら暖かくなってお花がいっぱい咲いて、そうだお弁当もって川べりに行こうか?」
「うんいく。いいちゃんとおかあさんと……おとうさんは?いかないの?」
「こうちゃん。お父さんにいてほしい?お父さんがいないと寂しいのかな?」
「ううん。いいの。おとうさんはいつもおこるから、おかあさんがかわいそうだもん。いいちゃんと3人でいい」
小さな唇をぎゅっと噛みしめた琥貴は、小指を突き出し指切りげんまんと笑った。
「解った。指切りげんまんね」
「うん。うそついたらはりせんぼんの~ます」
ささやかな約束。
ヘカテの翼 7「羽」
誰も知らない翔子と琥貴だけの指切り。
大丈夫だと翔子は思った。
どんなに暴力を振るわれても夫と別れなかったのは、1人で子供を抱えて生きて行く自信がなったからだ。
自分の足で立って生きる、と言うことをしたことがなかったのだ。
翔子を虐げた後の夫は優しい。
その優しさが3日と続きはしないことも解っている。
解っていても尚、1人で生きる孤独や不安よりはましだ、と自分をごまかし続けていた。
しかし、それが琥貴や生まれたばかりの泉にまで及びそうになった時、初めて彼女は夫に逆らった。
逆らった挙句殴られて気を失い、束の間の優しさに慰めを見出し、そしてまた殴られる日々の繰り返しの中で、何度死の誘惑に駆られたことだろう。
いつにもまして激しい暴力を受け、気を失っている間、翔子は不思議な夢を見た。
けたたましく泉の泣き声がする。
同時に夫の苛ついた怒声も響いた。
泉が危ない。
そう思っても体は動かずただ泣き声だけが耳に入る。
夫が泉に手を挙げた瞬間、琥貴が割って入りそのまま殴られて倒れるのが感じられた。
「琥貴!!やめて!!」
声にならない声で翔子は叫ぶ。
とその時、2人を包む白く大きな何かが彼女の目に飛び込んできたのだった。
「羽?…天使……?」
目が覚めると夫の姿はなく、子供たちも眠りについていた。
慌てて抱き寄せると眠そうな目をこすりながら翔子に甘えてくる。
生きてる。
神様……ありがとうございます。
この時ほど命の重みを感じたことはなかった。私はこの子達を守らなければならない。
そう私は母親なのだから。
以来、翔子は夫の手から逃れる方法を探し続けた。
逃げようと思っていることを悟られてはならない。
終わることのない暴力は、彼女から生きる気力を奪い取っていく。
しかし、何度目かの死の誘惑に駆られてぼんやりと陸橋から下を覗いていた時、再びそれは訪れたのだった。
ここから身を投げたら死ねるかしら。
傍らでは琥貴が不安げに見上げている。
「こうちゃん。お母さんと別の世界に行く?」
「べつのせかいってどこ?」
「ここからううんと遠い所かな」
「とおいってどれくらいとおいの?あしたはかえってこれるの?」
「いいえ。帰ってはこれないわ」
「……やだ。あしたはれなちゃんのたんじょうびだもん」
「そっか。玲奈ちゃんのお誕生会だったわね」
「あっ!おかあさんきれいなはね。れなちゃんにあげたい」
「羽?」
ふと翔子の頬に触れる何かがあった。目を上げると白いそれが風と共に舞っている。
手を伸ばして掴めそうになった瞬間、するりと空に軌跡を描きながら還っていく。
それは決して手に入れる事の出来ない未来のようにも思えた。
「あの時の羽?いえ、そんなばかな」
もう一度目を凝らして見ても、空にはもう何も舞ってはいない。
「おかあさん。みてみてあそこ!きれい」
琥貴の小さな指が示す方を見ると、雲間から幾筋もの光の束が地上へと伸びている。
「まあ本当に綺麗ね」
「おかあさん。あれはなに?」
「さあ何かしら?お母さんにも解らないけど、天国のカーテンみたいね。」
「てんごくのかあてん?」
「きっと天使さんたちが隠れんぼしてるのよ」
「てんしさんのかくれんぼ?いいなあ」
「こうちゃんも天使さんと隠れんぼしたい?」
「うん。したい!」
そう?でももう少しあとにしようか。天使さんもきっと待っててくれるから」
「てんしさん、あそびにきてくれるかな」
「ええ。きっとまた会えるわ」
その後も白い羽は翔子に寄り添うように現れては消えた。
幻を見ているのかもしれない。
そう思いながらも、心のどこかで羽が自分を見守ってくれていると信じたかったのだ。
逃げる様に別府に帰り生活が少し落ち着いた頃、翔子はやっと手紙を書く気持ちになれた。
実家にも居場所はないと知りつつ、自立するまでの期間は親子3人で肩を寄せ合い、孫がもう使わなくなったからと近所の人から貰った2段ベッドが世界のすべてだった。
それでも琥貴は天井に空の写真を貼りめぐらせ、高い所で眠ることに喜びを隠せずにいた。
時折、下の段で眠る翔子と泉をじっと見下ろし、安心してまた自分の布団に潜り込む、いつしかそれが琥貴の日課のようになった頃、彼が興奮したように上の段から降りて来て叫んだ。
「おかあさん。てんしさんがきたよ」
「こうちゃん?天使さんがどこに来たの?」
「ここだよ。ぼくのすぐそばまで、てんしさんがきたよ」
「どうして天使さんって解ったの?」
「まっしろなはね。いつかおかあさんとみたはねだよ」
「羽が……見えたの?」
「うん。はねをつけたひとがそばにいたんだよ」
「羽を着けた人?」
「てんじょうのおそらをとんできてくれたんだよ」
「そう…天井のお空をね」
翔子は琥貴が天井に貼った空の写真を見ながらふと思った。
もしかしたら、これのお蔭だったのかも……
取り出したキーホルダーに幼馴染の顔が重なる。
琥貴が出来た時、安産のお守りとして茅乃がくれたものだ。女神の横顔のそれはヘカテと言う名だった。
私はもう十分守られました。神様、今度は私の大切な友人をどうかお守りください。
そう祈ると茅乃宛ての手紙にそっと入れ込んで窓の外を見た。
いつか見た空だ……
幾重にも重なった光の梯子が伸びて、雲間からの木漏れ日が部屋の中を明るく照らす。眩しさに思わず翔子は目を細めた。
ヘカテの翼 8「天に咲く花」
けたたましいサイレンの響きと集まった野次馬の中で茅乃は必死に友の名を呼び続ける。
しかしそれは消防士の怒号と放水の音にかき消され、紅蓮の炎に呑み込まれていく。
時折上がる火柱からパチパチと火の粉があがり、赤い哀しみの花にも似たそれは暗闇を一層明るく照らしていた。
いつものように茅乃へと始まる手紙を読み終えて、激しく動揺する自分を止めることが出来ず帰郷の便を早めてはみたが、その間も湧き上がる不安を拭うことが出来なかった。
一刻も早く友に会い無事な顔を見るまでは、このどうしようもない不安が消えることはない。
生憎と最終便にしかキャンセルがなく、別府の街に着いた頃にはもうすでに日も落ちていた。
あと少し、もう少しで友に会える。
茅乃は自分の生家から僅かに離れた、神社の裏手にある翔子の家を目指した。
しかし子供の頃2人でよく遊んだ境内は、夜の静けさに包まれたいつもの様相とは逆に殺気立っていた。
3月と言うのに真冬のような寒さだった。
一晩あけた神社の境内はいつもの様に穏やかで、何事もなかったかのように見える。
子供の頃学校の帰り道に翔子と2人、拝殿の石段に鞄を置いたまま毎日遊んだ。
何がそんなに楽しかったのかは思い出せないが、難しい家庭環境にいる翔子もその時だけはよく笑った。
こんなにも足繁く通うのだから、何があってもきっとここの神様が守ってくれるだろうと、そんなたわいもない話をしては笑い転げていた。
茅乃はともかくあの時すでに翔子は、世の中が理不尽で不公平であることを知っていた。
何のために生まれて来たのだろうと、膝を抱えて泣いたこともある。
そんな彼女を無駄に励ましていただけではなかったのか?
と強くあの男との結婚に反対するべきではなかったのか?
神様…何故?翔子は死ななければならなかったのですか?
こんなにも世界は美しいのに………
冷たく澄んだ空気の中、空からの白い使者が舞い降りる。
無残な焼跡を覆い尽くすかのように降る雪は、ただ静かに沈黙し何も語ることはない。
夕方からやがて雨に変わるだろうと、天気予報は告げていた。
雪は天から降る花、そう何かの本で読んだことがある。
天上に咲く花。
翔子と2人の幼子をやすらかに包む花。
その一片がこぼれ落ちて、今、地上にいる茅乃のもとに届いていると信じたい。
突き上げる哀しみとこみ上げる痛みを、ただ身じろぎもせず受け止める以外なす術もなく、慟哭というのはこのことを言うのだと思った。
あの火事の後、自分の中に新しい命が宿っていることを知り、喜びよりむしろ今のこの耐えがたい苦しみが、胎内にどれほどの影響を与えるのか、目に見えぬ暗い影に怯えた。
「ごめんね」
茅乃は呟いたが、それはお腹の中の子供に対してなのか、翔子に対してなのかは、解らなかった。
神様…どうかお願いします。薄れ行く意識の中で、それでも彼女は祈り続けた。
羽?炎と共に舞う白い羽根……いや翼……
それが彼女の瞳に映った最後のものだった。
「まただ」
しばらく見なかったのに、疲れているせいかこのところ立て続けに火事の夢を見る。
あの女性はどうなったのだろう?傍らに倒れていた2人の子供は助かったのだろうか?
赤い炎に閉ざされた夢は、白く暖かな何かにふわりと包まれてそこで必ず目が覚めるのだ。
湧泉音も琥珀も起きる気配がない。
シッカはそっと起き上がり階下の倉庫に降りた。
片隅に置かれたイーゼルの布を恐る恐るはずすと、宙を舞う埃を気にもせず描きかけのその絵をじっと見つめた。
そのうち夢の中で包まれる白い何かはこれではないか?と思えて 中学の時から描いては消しの繰り返しで、未だ完成しないこの絵をそもそも何故?描きだしたのか思い出そうとした。
思えばあの頃から火事の夢を見始めたのだ。
そして見始めたきっかけは……?
シッカは同じように埃を被った小さな箱を探し出すと、覚悟を決めて中にある手紙を取り出した。
紅鶴 茅乃 様
あの時、母に宛てた手紙の中からキーホルダーを見つけ出し、その図柄に強く惹かれたのである。
<ヘカテ>安産の神、旅人の守り神、そして他者によって殺められた者の魂を天国へと運ぶ、清めと贖罪の神。
母の字だろう。走り書きのメモにあの時は気が付かなかった。
母はシッカに手渡す時、安産の神様だからまだ貴女には早いわよ。そう寂しく笑って言っただけではないか。
殺められた者とは?この手紙の差出人と何らかの関係があるのだろうか?
一瞬の罪悪感の後、シッカは封筒から便箋を引き出して広げた。しかし、そこにある華奢な文字よりも、先に手からこぼれ落ちた新聞の切り抜きに目が行ったのだ。
放火殺人……
黒字の大きな見出し、そして残酷な真実。
二段ベッドの宇宙 1「同じ夢」
「…嫌な……夢…」
「ユネ?大丈夫か?」
「……起きてた?……」
「わりい!ビックリさせたか?眠れなくてな、シッカも下に行っちまうし。何か…こう、夢見が悪いつうかさ」
「……夢…見?……」
「ああガキの頃からちょくちょく見る嫌な夢だ。最近はあまり見なくなってたんだけどな」
「……嫌な…夢?…」
「熱くて、苦しくて、息が出来ない。必死になって目の前の女の人に助けを求めるんだけど……」
「……女の人?……」
「動かねえんだよその人。泣いてんのかなんだか知らねえけどさ。ゆね、お前は?お前も嫌な夢、見たんだろ?」
「…悲しい…夢…」
「悲しいのか?何が?」
「…同じ……琥珀と…」
「同じって、俺のは悲しくないぜ?」
「……熱くて…苦しくて……自分は多分……物凄い子供で…もう1人…側に…」
「もう1人って女の人とは違うのか?」
「……違う……男の子………泣き叫んでる」
「それって、同じ夢なんじゃないか?俺達、同じ夢を見てるような気がする。ユネ、お前はいつからその夢を見てるんだ?」
「…子供の頃?……ずっと繰り返し……その続きを見るのが…怖くて…寝ない日も……」
湧泉音は窓の外にいるもよこを見つめて手招きした。
「おい。ユネ……アイツ」
「…もよこ…入って……いいよ」
「イヤ、そいつ、暑苦しいし。まあいいけどお前を心配してるみたいだし」
「……うん…気にして…くれてる」
「だけどあれだぞ、もよこお前さあ、窓に顔くっつけてジッと覗き込むのはやめろよ。怖いぞ!逆に」
「……傷つき…やすいのに…もよこは」
「冬はなあ、純毛100%だからいいけど、ああでも上は冷たくて気持ちいいよな。顔だけよこせ!こっちに!!」
「……嫌がってる…」
「ウッセえつべこべ言うな」
「…もよこ…口は悪いけど…琥珀…本当は……やさしい……奴…」
「ああ何だって?」
「……いや…べつに……」
「ふん。こうやって2段ベッドなんかに寝てるから、同じような夢を見るのかもしれねえな。シンクロか?これも」
「……でも……いい感じ…」
「そうだなこんな狭い所に寝ると、何かガキに戻ったようなちょっと安心するつうかさ」
「…安心で……安全…温かい」
「ああ?温かいって暑いの間違いじゃねえの?それとも気持ちのことか?」
「……気持ち……うん…心…」
「心が温かいか」
二段ベッドの宇宙 2「二段ベッドのソラ」
琥珀は上段に登り横たわったまま両手を伸ばした。
「おっ!すげえ!何か宇宙に手が届くって感じ?何で天井にこんな写真貼ってるのかと思ったけど、そっか、二段ベッドの上ってこんなんなんだな。」
「……二段ベッドの…宇宙(ソラ)…」
「あっいいなそれ!詩的表現だ……なあ、ユネ。引き際って何だろう?潮時とも言うか」
「…まだ……何も……始まってないのに?」
「俺様は潔さが信条だからな。まっ、クセだよ癖!始まりの時に終わりを考える。ガキの頃から、今日は遊園地だ楽しいなと思う自分と、同時に遊び終わった時のことを考える自分がいる。3人でいるこの夏休みだってそうだ。ユネはそんなことないか?」
「……始まりの時に……終わる…」
「物事って必ず終わりがあるだろ?人生もそうだ。確かに俺達はまだ若い。何十年も生きてる大人からするとクソのつくガキだ。でもいつか終わりは来る。だったら思いきりこの人生をエンジョイして堪能したい。で、ある日終わる。全てがだ」
「……ミュージシャンとして?……引退…終わり?」
「ステージの上で死にたいなんて、そんなキザでカッコイイこと俺は言わない。そうだな、ひっそりと人知れず……いや、人の中に紛れ込むみたいな感じで、最後は無名の俺でいい。ミュージシャンだとか、アーティストだとか、フォーンリック家の人間だとか、関係なく、無だな。その覚悟が出来るか?ってこと」
「…無から生まれ…無に…還る」
「そっ。手ぶらで生まれて来たんだから、手ぶらであの世とやらに還らなきゃな。もっとも、生まれる前の記憶とか言う土産を持ってた場合は別かもな」
「……どう……別なわけ?……」
「折り合い、イヤ決着か?」
「…決着…?」
「もしもだ。忘却の河とやらを渡らず、前の人生の記憶を持ったまま生まれて来たとしたら、多分、やり残したことがあってのことじゃないかって思う」
「……それを……やるための…今の人生?」
「うんまあな。でもそれじゃ俺やお前の人生、乗っ取られたみたいになるじゃん。」
「……それは…嫌だな……」
「だから、今の俺たちの人生を精一杯生きて、同時に自分の中の前世の記憶の持ち主がそれで満足してくれると一番いいんだけどな」
「……いつか…そうなるかも…」
「そうだな。俺もそう思いたい」
「…楽しまなきゃ……損…」
「楽しいことって、あっと言う間だからな」
「……傷つかない為に…終わりを考える…瞬く間に過ぎる時間……気持ちがついていかない…楽しめないまま終わる…だから」
「だから?」
「……始まる前から…終わった時の……寂しさとか悲しさとか…予行練習?………準備運動?……辛い感情に…慣れておく……人を好きになって…相手の気持ちを知るより……自分が失恋した時…を……考える」
「ヒュウ。ユネの口から失恋なんて言葉が出るとはね。今夜は良くしゃべるじゃん。よし!シッカもいねえし飲むか?」
「……飲んでも…いいけど……」
「なあ、生まれ変わりってあると思うか?」
「……思う……死ぬのは…怖い…でも……ただ漠然と生きるのは……もっと…怖い」
「シッカも似たようなこと言ってたな。俺なんかそんなこと考えもしなかった。今が楽しけりゃいいじゃんって。自分の人生なんだから自己責任だろ?ってな。でも、この人生がもしも誰かの生まれ変わりなんだとしたら、ちゃんと生きなきゃいけないような気がするんだよな」
「……それは……生きる希望…になると……思う…」
「希望か?そうだな。よっしゃ、酒出せ、酒!飲むぞ」
なんでもよこが私の布団で寝てるわけ?
シッカは二人の間に転がる空き缶ともよこを交互に見比べ、夕べは恐らく湧泉音も琥珀も眠れなかったのだと思った。
だからと言って、もよこも加えて宴会になるのは如何なものだろうか?
明け方の冷ややかな空気が、やがてむっとした夏独特の濃さをまとい始めてくる。
シッカは勢いよくカーテンを開けた。
二段ベッドの宇宙 3「契約の子」
眩しい光を感じて茅乃は思わず横を向く。そこには愛らしい娘の寝顔があり思わず笑みがもれた。
しかしその子が伸びをして手のひらを広げた時、再び忌まわしく悲しい記憶が彼女を捉えた。
「茅乃、この子は星を掴むよ。手のひらの痣は幸運の印だ」
夫はそう言って私を慰めてくれる。
でも違う。私のせいだ。この子がお腹にいる時、火事を見てしまった私のせい。
生またばかりの赤ん坊の手のひらを見て動揺する茅乃に、そんなものは迷信ですよ、と助産師は言った。
それともこれは罰なんだろうか?
翔子を救えなかったことを忘れるな、と神様に言われているのだろうか?
大切な幼馴染を助けられなかった自分に、この子を育てる資格があるのだろうか?
生まれたばかりの我が子を抱きしめる喜びより、雪の中で感じたあの見えない影が今にも伸びてきて、赤ん坊を連れ去るのではないか?と言う不安に怯えてしまう。
「茅乃、眩しかったかい?すまない。でも、窓の外を見てごらん」
夫に言われるままに目をやると、カナリアの羽色に輝く空には幾つもの天使の梯子が伸びている。
「1日の間に命が続けて誕生するなんて、従兄弟と言うよりまるで3つ子だね。しかも今日はずっとヤコブの梯子が空に架かっているなんて…」
「ヤコブの梯子と言うの?」
「ああ、だからこの子達は契約の子だよ」
「契約の子?」
「見よ。一つの梯子が地に向け立てられている、その頂は天に届き見よ、神の使い達がその梯子を上り下りしている」
「聖書…ね。…ヤコブ…主からこの地を約束された神の子」
「そうだ。茅乃、この子達も神が遣わしたんだよ。何を契約してこの世に誕生したかは解らないけれど、少なくとも君と僕を親に選んでくれたんだ。たくさんの笑顔と幸せをこの子にあげよう」
「そう…ね」
茅乃は改めて目の前にある小さな存在を愛しく思った。
「貴方はまるで天から梯子を使って降りて来たみたいね」
二段ベッドの宇宙 4「天花とシッカ」
「やあ~いシッカロール!!天花粉!!変な名前!あっち行けよ!外国語しゃべれない外国人~」 「天花だもん!!天花粉じゃないもん!!」
「へえ~何か言ってるぜこいつ。聞こえねえよ。あっ、お前の仲間が来たぞ。や~い、ヘンテコトリオ!!」
「うっせえな」
「…琥珀…石……投げちゃダメ…」
「大丈夫か?天花?ケガしてないか?」
「うん。大丈夫!!あんな奴らになんか負けないもん。ただ悔しいだけよ。シッカロールとか天花粉とか!!」
「俺だってこないだの社会科の時間から、化石男とかいわれるんだぜ!ったく。」
「……雪?…だよね?…天花って…」
「ゆね、すごいね。ママの話覚えてるんだ?」
「…うん…天花粉も…雪のこと……だから」
「もう~そこで傷をえぐらないでよ~天花粉もシッカロールもムカつく~」
「じゃあ、シッカでいいじゃん」
「シッカ~???何それ??」
「……いい……かも…」
「よしっ!決まり!俺達3人だけの秘密だ」
そうやって指切りげんまんしたっけ。昔から琥珀は何か約束するたびに指切りげんまんをしたがる。
「あの頃は琥珀のこと女の子みたいだって思ったよ」
「そうか?指切りげんまんが、か?ずうっと昔からそうだからな」
「それも面白い話よね」
「んん?何かこう果たせなかった約束とかあったら嫌じゃん。俺口約束嫌いだし…不安になるんだろうな」
「何が?不安なの?」
「約束することにかな?誰かと何かを約束するって凄く重く感じるんだよな。元々束縛されるのが好きじゃないし、その約束を守る為に自分の時間とかエネルギーを使うわけじゃん?」
「何だか我がままに聞こえるよ。それって自分の為にしか時間もエネルギーも使いたくないってことになるよ?」
「そういう意味じゃないんだけどな」
このところ、シッカは夜遅くまで創作している。これ幸いと2階では毎晩、琥珀やもよこ、そしてシッカが上がってくるまで眠そうに待っているまろざらしと宴会になってしまうのだ。
但し、シッカにきつくお灸を据えられて以来ノンアルコールで盛り上がるのだが。
……妖怪大集合…だ…
睡眠不足で少々痛い頭を抱えながら湧泉音は、それでも毎日が今まで感じたことのない充実感に満たされていると思った。
毎晩琥珀と語り合い、日中は汗まみれになって働き、休み時間にはシッカの傍らで、彼女の邪魔にならないよう創作を見ている。
ここでは皆優しい。
ハーフだからと言って苛められたり、遠巻きに噂されたり、何かを無理強いされることもない。
たまに、シッカから大学はどうするのか?とか何故?彫刻を選んだんだ?とか昔の様に歌えばいいのに?とか言われるけれど。
それ以上、追求されることはない。
シッカなりに気を使ってくれているのだ。
それにしても、自分はいつから歌わなくなったのだろう?
二段ベッドの宇宙 5「絵の中の翼」
シッカに問われるまで自身、気にもとめていなかった。
ただ何となく周りが受験体制になっていき、同時に琥珀の曲が動画で評判を呼んだことからデビューが決まり「迦具土(かぐつち)はどうするのか?」と担任から聞かれた時、思わず美大を受けると答えてしまったのだ。
琥珀から一緒にやらないか?と誘われたけれど、人前に出ることが嫌いな自分には考えられない事だと思った。
琥珀の歌声にそっとかぶさるように、決して邪魔しないように寄り添いながら歌うからこそ、学園祭程度ならやることが出来たのだ。
美大の受験は思った以上に大変で、それらに追われるうちに何時しか歌を忘れ、琥珀とも会う時間が少なくなっていった。
それでも卒業するまでは互いに行き来すれば、顔を合わせていられたのだが、遠く離れたシッカといい琥珀といい、それぞれが自分の道を模索し歩きはじめる時期だった。
とにかく、自分より大きくて重くて大変な作業がしてみたい。
無精者の自分にしては大冒険だと思えるくらいの選択で、彫刻科を選び、物言わぬ石や粘土や木と言った素材と格闘することが意外と自分に合っていることに気が付いた。
素材にもそれぞれの個性があり性格もある。
何より素材自身が言葉を語り謳うのだと教授から聞かされた時は、何だか自分達3人のことを言っているようだと思った。
木の温かみはシッカであり、粘土のしなやかさは琥珀であり、テラコッタの脆さは自分だと言い聞かせ、まるで2人が側にいるかのように会話をしながら制作に取り組んでいた。
そんな湧泉音独自のやり方が教授に一目置かれると同時に、反発する同級生も出て来た。
「おい、これお前だろ?」
ある日数人の学生が湧泉音を取り囲み、琥珀と僅かに映る自分の動画を指し示した。
「何だよ、このチャラチャラした奴は?従兄弟か。じゃあお前も芸能界デビューすりゃいいんじゃないか何でこんなとこでお高くとまってんだよ?」
あからさまな悪意というものに直接、晒されたのはこれが初めてかもしれない。
子供の時から何かあってもシッカや琥珀が跳ね返してくれていた。 嫌な夢を再び見る様になったのはその時からだ。
どっこいしょ。
湧泉音が後ろの椅子に腰かけたのが解る。
まったくいちいちどっこいしょって言わなきゃ行動できないのかね?年寄じゃないんだから…
筆を持ったままシッカは湧泉音を睨みつけた。
「……何?…」
「別に、ただ年寄くさいって思っただけ」
「……ごめん…」
「いいよ」
シッカは再びカンバスに向き合い筆を動かし始めた。
その動きを見ているうちに、何処かでこの絵と同じものをみたような気がして、悪いとは思いながらもシッカに話しかけていた。
「……羽…だよね…ヘカテの?……」
「うん。まあね、ヘカテの翼って言うタイトルではあるけど、見る人によって違う解釈があるといいなって」
「……違う…解釈…」
「琥珀は、またデジャブだとかなんとか騒いでたけど、この絵にじゃなくて絵の中の翼に何か見覚えがあるって」
「…見覚え?……」
二段ベッドの宇宙 6「空の影」
「だから言ってやったのよ。昔書き始めた時にずっと見てたじゃない?って。その続きなんだから当たり前でしょ?って」
「…いや……多分……そうじゃなくて…」
「ゆねはどう思うの?」
「…魂の…翼?…人は自由じゃない……だから自由になりたいって…翼を…って……そうも取れる…かな?」
「そうだね。生きるって色んな柵の中でもがいてるようなもんだからね。でも、自由って不自由だと思わない?」
「……琥珀も…言うよ……それ」
「だって学校を卒業したら、誰からも何も言われなくなるじゃない?パパとママは別よ。親だからね。でもあとはもう自分の好きにしていいわけじゃない?するとそれに対する責任も自分で取らなきゃいけないわけでしょ?そう考えたら、子供の頃,大人達が作ったルールの範囲で遊んでた方がよっぽど楽しかったなって 」
「……琥珀は…自分の足で……立ってて」
「うん。誰も代わりに自分の人生を生きちゃくれないぜって」
「……言うよね…」
見る者、聴く者に委ねる点ではシッカの絵も琥珀の歌も似ていると思った。
ただ純粋に俺の歌を聴いてくれればいい。
何て感じるかはその人の自由だし、少なくともその時だけは心を自由にして翼が生えてどこにでも飛んで行けるように。
誰も束縛は出来ないけれど、責任も負えない。羽ばたく翼を持ったとしても強くなければ飛べないし、目的が無ければ迷うだけ。
「…いつまでも……仲良しこよしじゃ…いられない」
「えっ?何ていったの?」
聞き返すシッカの問いには答えずに湧泉音はその場を離れた。
俺達3人はいつまでも仲良しこよしじゃいられないさ。でもな心は魂はいつも一緒だよ。当然、別々の人生を生きてるし、代わりに生きて行くことは出来ない、でも手助けは出来る。だからちゃんと自分の足で立ってくれないと一緒に溺れるわけにはいかないだろ?
そうだ。琥珀はそう言ったんだ。
何故?今まで忘れていたんだろう。
いつも3人で離れたことがないまま高校まで一緒だった。
やがて、シッカが九州に帰り、卒業すると琥珀とも中々時間が取れず、1人家のアトリエに籠ることが多くなった。
いつしか口癖のように仲良しこよしじゃいられないと呟きだしたのは、自戒を込めてのことだったのだ。
外に出た瞬間、不意に夏の陽射しが湧泉音を捉えた。上空を影がよぎり、バサリと羽音が聞こえたような気がした。
「すげえ!デカイな!ん?ユネどうした?幽霊でも見たような顔してるぞ」
「……鳥?…」
「ああ、鳶か鷹か何かは知らねえけどデカイ翼だった」
「…ヘカテ……翼…」
「えっ?ああシッカの絵か。何かさあ、あの絵の中に人は描かれてないのに自分がいるような感じがするんだよな」
「……琥珀も…思うんだ…」
「ってことはユネ?お前もそう感じるわけ?」
「………自分であって…ない……あの嫌な…夢の続き……みたいな……でも…」
「でも?」
「…すごく……安らかな…」
二段ベッドの宇宙 7「強くありたい」
魂はいつも一緒だと琥珀がそう言ったのさえ忘れた頃、悪夢が再び訪れた。
そのせいで大学も休みがちになり、心配した母親に追い出される形でここに来たのだ。
ここに来た意味は……魂の欠片を集めるため?
それは琥珀も同じかもしれない。
それでは、シッカは何故あの絵を描きだしたのだろう。
琥珀に言った足りない何かを見つけたのだろうか?それとも見つける為に再び筆を執ったのだろうか?
まだ聞いてはいけないような雰囲気が、シッカの横顔に浮かんでいる。
その背景に似た空の写真を二段ベッドの天井に貼り足してみよう。
横たわりながら湧泉音はじっと天井を見つめた。相変わらず妖怪大宴会が行われてはいたが、その騒がしささえ今の湧泉音には心地良く思われる。
…独りじゃないよ……寂しくないよ……
二段ベッドの空から天使が舞い降りてくる。
湧泉音は白い翼が自分を包み込むような気がしていた。
仰向けになり考え込んでいるようにも、眠っているようにも見える湧泉音を琥珀はそっと仰ぎ見た。
もよことまろざらしと言う人ならぬ者達との宴も、ここに居る限り自然に思える。最近では、彼らの友達だかなんだか知らないけれど酒の肴目当てに、ベランダには近所中の猫達が集まっている。
サファリパークか?ここは……
そう言いながらも琥珀自身は楽しくて仕方がなかった。
石村プロデューサーに対する怒りも、デビューに対する悩みもどうでもよく思えた。ただ一つ夢のことを覗けば…
湧泉音が創作活動を休んでいるように、自身も新しい曲のイメージすらない。
シッカだけは一歩前に進もうとするかのように、毎日、毎晩カンバスに向かい続けている。
1人孤独に、何かと戦うように。
今までの泣き虫で甘えん坊の彼女とは少し違う。いや、湧泉音もそうかもしれない。
「止まってるのは俺様か…」
ノンアルコールのビールがやけに苦い。
小さなころからピアノを奏でるのが好きだった。
即興で作った曲に湧泉音が即興でハミングしてくる。俺達の観客はいつもシッカ、そして窓辺に集まって来る鳥たち。
何も恐れず、何も望まず、あれ程自由だった心は今目に見えない色んな枷をつけてもがいている。
薦められるまま音大に在学していれば、まだ呑気に過ごす時間の猶予があったかもしれない。
しかし、両親の望む姿は自分がなりたいそれではないのだ。
ではどうしたいのか?と自問しても答えは出ない。
俺がここに来たのは……?
3人でいたあの頃の自分を取り戻す為なのか?
シッカとは離れていても繋がっている自信があった。湧泉音とは繋がっていて当たり前だと思っていた。けれどあの時、湧泉音が側にいないことで自分の中のバランスが崩れたような気がした。
要はあの2人と一緒にいたいのだ。従兄弟離れ出来ていないのは、自分も同じだと少し可笑しくなった。
強くありたい。自由を手に入れる為には、誰にも何も言わせないくらいの圧倒的強さが無ければならないと思った。
二段ベッドの宇宙 8「狐火行列」
白い翼は少し汚れた方がいいのかもしれない。
シッカはふと筆を動かす手を止めた。翼を白くすればするほど違和感があり、そこだけが妙に浮いてしまうのだ。
真っ白で穢れのない翼こそ女神に相応しいとは解っているが、天界の神々の恐れを受け冥府に落とされても尚、気高く凛々しいヘカテには、汚れてボロボロの翼の方が似合うのではないだろうか?
ヘカテさんごめんなさい、怒らないでね。
シッカは違う筆を取り出すとパレットで色を作り始めた。
ヘカテが安産の女神だけだと思っていた時は、翼の色など考えもしなかった。神は案外と人間臭いのかもしれない。
泣いたり笑ったり怒ったり、果ては妬み嫉みと忙しい。
妊婦の守り神から一転、魔女達の守り神になったり、冥府の番人だったり、そして殺められた者の魂を救い上げたりと、ヘカテの翼はどれだけ酷使されたのだろうか?
ケアする暇もないくらいだったに違いない。ましてや美しく着飾って優雅に過ごすことなど、この女神に限ってはあり得ないのではないかと思った。
今はただずっと描きつづけたこの翼がとても愛おしい。
「お盆すぎるとさすがに少し秋っぽいな」
「まあね。光や風に透明感が出て来るもんね。気温は相変わらず高いけどね」
「……いつまで…暑いの?…」
「う~ん?下手すると10月迄暑いかなあ?」
「ゲッ!!マジかよ!たまんねえな、さすが九州。ところで秋祭りってのはあるのか?」
「ハイ!よくぞ聞いてくれました」
「何だ?その白いマスク、いや、お面って言うべきか?」
「…狐?……」
9月に入ってすぐ神社の秋祭りが行われる。
長いこと絶えていた秋葉神社のお祭りを復活させたのは、氏子でもあるおじいちゃんだ。
ただの祭りでは面白くないと、パパが社長になってからイベント性を持たせることになり、せっかく稲荷神社もあるのだからと狐のお面を被り提灯行列を行うことになった。
それが評判を呼び今では狐火行列が祭りのメインとなって、幻想的夜行が繰り広げられる。
但し、その分準備も大変で狐のお面一つ一つに手書きで表情を加えていかなければならない。
初めの頃はママの役割で、次にサッチン先輩、そして今は私が引き受けている。
「今年は2人が手伝ってくれるから助かるわ!!年々参加者が増えて大変だから」
「ちょっと待て。何で俺達が手伝わなきゃいけないんだよ?ユネはともかく俺は絵心なんかないんだぞ」
「……琥珀は…無理…かも」
「四の五の言わないでさっさと手伝いなさいよ ここのところ夏のイベントが一段落してダラケきってるでしょ?2人とも、まだまだ仕事はたくさんあるのよ」
相変わらず暑いけれど確実に夏は過ぎようとしている。渋々承諾した2人は、いつまでこっちに居るのだろう?
出来ればずっと続けたい3人の夏休み。
それが叶わない夢だとして、せめて狐火行列だけでも一緒に出来るといいのに。
「わかったよ。手伝うよ。」
シッカの想いが伝わるかのように琥珀が真顔で返事をする。
「で?いつまでやるんだこいつは?俺様に描かせたらそのうちプレミアが点くかもしれねえな。裏にサインしとくか?」
「……琥珀…」
「その狐火行列とやらに参加出来るのか?結局この前の盆踊り大会はマイクスタンド運びで終わったし、まあ花火は真上に上がったけどな…それが終わったら俺は東京に帰るから」
「そう……だよね。いつまでも琥珀はこっちにいるわけにいかないもんね。ゆねは?一緒に帰る?」
「……解らない…」
「お~い。湿気た面するのは辞めだ。さっさとお面に色付けちまおうぜ。まだ半月あるっつってもこれだけの量だからな」
「…うん……」
下を向いて作業に取り掛かるフリをした。何かしていないとふいに涙がこぼれ落ちそうになったからだ。
琥珀が帰り、そして遠からず湧泉音も東京に戻るだろう。
いつまでも一緒に居られるわけではないと、解っていてもいざ琥珀の口から聞いてしまうと動揺してしまう。
二段ベッドの宇宙 9「真実」
ぼんやりしていると遠くからサイレンの音が鳴り響いた。
「煙だ!!窓を閉めろ!」
琥珀の声で弾かれるように窓を閉め、慌てて外を見ると100m程先に黒煙が見えた。
風向きでこんなにも煙が流れてくるなんて。
熱くて、苦しくて、息が出来ない。
咳き込みながら3人はそれぞれが同じ思いを感じていた。
この光景は、夢と同じ、これと同じことを知っている!
同時に口を開きかけた瞬間、電話の音で我に返った。
「天花!火事は近くですか?」
倉庫の方向に消防車やパトカーが走って行ったので、ママが驚いて、とにかく電話をして無事を確認してと言うものだからね。
珍しくパパが上ずった声で喋っている。
「廃屋で不審火みたい。物凄い煙で燻されちゃったけど大丈夫よ」
努めて明るくシッカは答えた。
パパの様子からママがどれだけ心配したかが解る。火事で失った親友を思い出してしまうのだろう。
夕方、顔を出した時ママは少し落ち着いていた。
逆に私達はザワザワした気持ちのまま、それを気づかれないようにするのが精一杯で、まともにママの顔を見ることが出来なかった。
そんな気持ちを察したのか、ママはポツリポツリと亡くなった友人は子供の頃から不幸な生い立ちで、結婚しても夫の暴力に悩んでいた、と言うことを話してくれた。
こちらに帰ってから、子供たちを連れて良く秋葉神社に散歩に行くとも話していたらしい。
一番不思議だったのは、戻って来る少し前から白い羽を見かけるようになり気持ちが落ち着いた、と言っていたことだそうだ。
ヘカテのお守りを私に託して……
そこまで言うと後は涙で言葉にならなかったのだけれど、全て聞かなくても私は知っている。
話し合いにやって来た夫の手によって、ママの友人翔子さんは家に火を放たれ子供2人と共に殺されたのだ。
湧泉音も琥珀も沈痛な面持ちでママの話を聞いている。
どんなに苦しかっただろう。どんなに辛かっただろう。
そして、どんなに生きたかっただろう。
皆が沈んだ気持ちになりかけたので、今度の狐火行列を湧泉音と琥珀が手伝ってくれる話を切り出した。
パパもおじいちやんもそれを聞いてことのほか喜んで、ママはちょっと複雑な顔をしたけれど、それでも3人一緒で仲のいいことだと微笑み交じりに呟いた。
本当に君たちは魂の三つ子だね。
パパが帰り際に話した言葉が頭から離れない。
私達は魂の三つ子。
「なあシッカ……」
沈黙を破ったのは琥珀だった。
「お前ももしかして、火事の夢……見るんじゃないか?」
「お前もって…琥珀もなの?」
「ユネも……な」
3人の間に再び沈黙が流れた。
同じ夢を見るけれど、それぞれが別の角度から別の見知らぬ人を眺めている。
終わりのない悪夢なのかそれとも救いはあるのか?
二段ベッドの宇宙 10「慈悲深き女神」
「シッカ…絵を見せてくれ」
琥珀がそう言った時、何かの……ずっと自分の中で引っかかっていた何かの扉が開いたような気がしていた。
昼間の火事と同じで、絵に描いた翼にも確かに記憶がある。
カンバスの前に立ち折れそうなその翼を見た時、シッカ自身も気が付かなかった感情が溢れ出し、気が付いたら泣いていた。
「何で泣くんだよ。ったく泣き虫だなあお前は」
「うるさい!勝手に涙が出て来るんだからどうしょうもないじゃない」
「…琥珀も……」
「うっせえ。俺は泣いてなんかねえよ。あれ?可笑しいな、なんで目から水が出て来るんだ」
「ゆねもほらタオル、タオル」
「……うん…いや…違う……自分の中で……別の自分が…泣いてる…感じ…」
「そうだな。別に悲しいわけじゃないのに、勝手に涙が出て来るんだよな。自分と切り離した所で感情だけが波立ってる感じがするんだよ」
「…前世の……記憶…?」
「前世の記憶って?今の私達が生まれる前ってこと?」
「……琥珀が…昔…言った」
「私達3人ともこの翼、ううん、これに似た翼に記憶があってそれが生まれる前のものってこと?」
「火の海の中で最後に翼を見たんだ」
「誰が?最後に誰が見たの?」
「…ここにいる…皆……」
「俺達、一緒にいたんだ……そして一緒に火事にあって死んだ。でも死ぬ間際に見たんだよ、翼が俺達を迎えに来たのを…夢の中で温かくてふんわりとした何かに包まれたのはそれだ」
「ヘカテの翼」
「……ヘカテの…翼…?」
「他者によって殺められた者の魂を天国へ導き運ぶ。ヘカテはそんな一面も持ち合わせているってママがメモしてた。」
「他者によって、あやめられたって……」
「………殺された……ってこと……だよ……ね…」
「ヘカテは慈悲深い神様ってわけだ。怖いイメージしかないけどな」
「……旅人の…守り神……だけじゃない…」
「ママがヘカテのキーホルダーを翔子さんに渡したのはただの偶然なの?それとも偶然の必然ってことなの?」
三月の約束 1「世界のバランス」
防災サイレンに続いて、けたたましく消防車が行き過ぎる。
すれ違いざま茅乃は、それが天花達のいる倉庫の方角であることに気が付いた。
どうしよう……
茅乃の様子を察したのか、夫がすぐさま天花に電話をかけて無事を確認している。
「100m程先の廃屋で不審火騒ぎみたいだよ…茅乃?」
茅乃の中であの日の空が蘇る。
春とは名ばかりの重い冬の色を湛えた3月の空。
翔子 琥貴 泉
3人の尊い命を奪った紅蓮の炎。そしてその火を放った男は逮捕後獄中で何を考えたのだろうか?
入院中の父親を見舞いに行って不在だった母親は生き残り、茅乃の大切な友はこの世を去った。
娘の死を嘆くより、自分の住まいが消失したことへの怒りが先に立つ母親に、茅乃は不快感を覚えたものだ。
不意に訪れる愛しいものの死。
普通ならその喪失感に呑み込まれてしまうのではないだろうか?
茅乃が会ったことのない翔子の2人の子供は、生きていれば天花達より少し上だ。
神は時に無慈悲な行いをする。但しそれは人間の勝手な了見で、生きると言う最大の苦しみから、穢れなき魂を救い上げているのかもしれない。
そうやって世界のバランスをとっているのだろう。
ある日、夫が言った言葉だ。
善い行いをする者だけでは世界は成り立たない。
悪い行いをする者だけでも然りだ。
あまりにも清く美しい魂は悪魔も目ざとく見つけ出すから、手折られぬうちに神の手で摘まれてしまうのではないか?と。
遺された者の嘆きと自責と悔恨の念。
そんなものにはお構いなしに、召し上げられた魂は永遠の安息を得られるのかもしれない。
それでも今この時に、娘が突然目の前から永遠に姿を消してしまったら……
茅乃は小さく身震いをした。
三月の約束 2「私達の答え」
「ゲッ!まだあと100枚も残ってんのかよ」
「…あと1週間……」
「はあい。お疲れ様。コーヒーどうぞ」
「今週末は最後の夏祭りで・・・まず制作は不可能だから、今日と明日が勝負だな…おっサンキュ」
「はい。ゆね用にお砂糖たっぷり持ってきたよ」
「……ありがとう…」
「1杯、2杯、3杯……って、ユネ…おまえ5杯も砂糖入れるのかよ!そりゃもうコーヒーとは別の飲み物だぞ」
「琥珀ったら、今頃気がついたの?もう慣れちゃったよ私なんか」
「…ごめん……」
「良く混ぜろよ。混ぜ方が足りないと底の方でこうザラっとさあ…いや、それは俺か?俺が…か?」
「俺がって……琥珀はブラックじゃない?」
「いや、だから…砂糖を入れてさ、こうスプーンでくるくる回して……って俺じゃない俺なのか?」
「俺じゃない俺って?」
「……生まれ変わる……前の琥珀…」
あの日以来、私達は努めて明るく振舞い、努めてその話を避けてきた。
私達は死んだママの幼馴染である翔子さんと、その子供2人の生まれ変わりではないか?と……
3人でずっとモヤモヤしていた気持ちに対する答えがそれだった。
だからと言って確証はない。
私の描くヘカテの翼と湧泉音が砂糖を5杯も入れるコーヒーと、そして琥珀のデジャブ。
あとはこの前の火事で思い出した共通の記憶と、炎に対する恐怖。
それだけから導き出した微かな答えだ。
そんなことあるわけがないと否定されたらそこまでのものだし、またそれ以上突き詰めてもハッキリした答えが出るはずもない。
だから忙しさにかまけてそのままになっていたのだ。
琥珀はもうそれ以上知らなくてもいいと言っている。
知りたくないわけではないが、だからと言ってそれに囚われて人生を生きて行くのは馬鹿馬鹿しいと。
「俺は自分を信じちゃいるけど、この先の俺の人生を信じてるわけじゃないんだ」
弱い人間だから、生まれ変わりと言う事実がこの先影を落とさないとも限らない。
そうも言った。
琥珀が自分を弱いと言ったのは初めてかもしれない。
影と言うのはどう言うことなのか、と聞きかけて止めた。
聞けば恐らくこう言うだろう……
だから上手くいかないんだと、全てをそのせいにして言い訳ばかりになりそうだと。
三月の約束 3「人生の罰ゲーム」
「ゲッ!まだあと100枚も残ってんのかよ」
「…あと1週間……」
「はあい。お疲れ様。コーヒーどうぞ」
「今週末は最後の夏祭りで・・・まず制作は不可能だから、今日と明日が勝負だな…おっサンキュ」
「はい。ゆね用にお砂糖たっぷり持ってきたよ」
「……ありがとう…」
「1杯、2杯、3杯……って、ユネ…おまえ5杯も砂糖入れるのかよ!そりゃもうコーヒーとは別の飲み物だぞ」
「琥珀ったら、今頃気がついたの?もう慣れちゃったよ私なんか」
「…ごめん……」
「良く混ぜろよ。混ぜ方が足りないと底の方でこうザラっとさあ…いや、それは俺か?俺が…か?」
「俺がって……琥珀はブラックじゃない?」
「いや、だから…砂糖を入れてさ、こうスプーンでくるくる回して……って俺じゃない俺なのか?」
「俺じゃない俺って?」
「……生まれ変わる……前の琥珀…」
あの日以来、私達は努めて明るく振舞い、努めてその話を避けてきた。
私達は死んだママの幼馴染である翔子さんと、その子供2人の生まれ変わりではないか?と……
3人でずっとモヤモヤしていた気持ちに対する答えがそれだった。
だからと言って確証はない。
私の描くヘカテの翼と湧泉音が砂糖を5杯も入れるコーヒーと、そして琥珀のデジャブ。
あとはこの前の火事で思い出した共通の記憶と、炎に対する恐怖。
それだけから導き出した微かな答えだ。
そんなことあるわけがないと否定されたらそこまでのものだし、またそれ以上突き詰めてもハッキリした答えが出るはずもない。
だから忙しさにかまけてそのままになっていたのだ。
琥珀はもうそれ以上知らなくてもいいと言っている。
知りたくないわけではないが、だからと言ってそれに囚われて人生を生きて行くのは馬鹿馬鹿しいと。
「俺は自分を信じちゃいるけど、この先の俺の人生を信じてるわけじゃないんだ」
弱い人間だから、生まれ変わりと言う事実がこの先影を落とさないとも限らない。
そうも言った。
琥珀が自分を弱いと言ったのは初めてかもしれない。
影と言うのはどう言うことなのか、と聞きかけて止めた。
聞けば恐らくこう言うだろう……
だから上手くいかないんだと、全てをそのせいにして言い訳ばかりになりそうだと。
三月の約束 4「思い出と痛みを分け合い」
「琥珀……知らないの?お天気雨のことよ」
「ああ、晴れてるのに雨が降る……あれか?でも何で狐が嫁入りするんだ?」
「晴れてるのに雨が降るのはおかしなことだから、狐に化かされてると思ったのが始まりだったか?昔は夕暮れ時から嫁入りしてたから、行列の灯りをそう呼んだからだとか……?」
「……山の上の……嫁入り行列を……人が……気が付かないように……狐が……降らせる……」
「ゆね!凄い!それって一理あるよね」
「おまえ……ほんとに妙なことに詳しいよな」
「…ごめん……」
「お面もあと少しだね。何だか本当に夏が終わるって感じがする」
「でもまだ死ぬほど暑いじゃないか」
「そりゃ暦が9月に変わった途端、涼しくなることはないけど」
「……けど?……」
「日中聞こえてた子供達の声が、まずしなくなるでしょ?ああ学校が始まったんだ。夏休みが終わったんだなって」
「子供の頃、夏休みって一番楽しかったよな。今考えたら何がそんなに楽しかったのか思い出せないけどな」
「夏が終わるとね……何だか大きな忘れ物をして来たような気分になるのよね」
「……海に……行かなかった……とか?……」
「カナズチだから泳がないけど、まあそんな所かな?もっと夏って感じでめいいっぱい堪能すれば良かったなっていつも思う」
「俺は今年の夏は色んな意味で堪能したけどな。永遠の夏休みなんてないから……刹那の時ってやつだな」
「琥珀が言うように子供の頃の夏休みって凄く楽しかった気がする。終業式が終わって第1日目が始まる朝のあの昂揚感。全てがキラキラしてたな」
「ああ~大人になっちまうってのは、そんなキラキラに遭遇することが少なくなるってことだよな。感動が薄れるつうか」
「……気持ち……だけは……」
「気持ち?だけって?」
「……凄く……辛い時……夏休みの初日の……あの気分……思い出して……朝……起きる……」
「自分を暗示にかけるってやつだな?それをやったら朝起きられるってのか?」
「……うん……それと……勢い……」
「勢い???」
「ゆねらしいね。発想が何て言うか……夏休みの初日の気分って……どんなだったっけ?」
「思い出せないってことは、そこからしてもう大人なんだよ。悲しいかな、前を向いて歩いて行くしかないってこと」
「琥珀は大人の端くれに差し掛かっても青春真っ只中?」
「そういうこと!大人ってのは矛盾を抱えた生き物なんだよ」
「それを言うなら人間がってことじゃない?」
「……2人とも……手が……動いてない……」
「ワリイ!口ばっかり動いちまった。ほらほらシッカもユネ見習ってちゃんとしろよ」
「琥珀に言われたくな~い」
「……2人とも……」
湧泉音や琥珀はどうなんだろう?気持ちばかりが焦っている。
夏の終わりはいつもこうだ。特に今年は三分の一の夏だったから余計にそう思うのかもしれない。
思い出も痛みも何もかも3人で1つを分け合った夏。
三月の約束 5「夢の続き」
湧泉音やシッカには黙っているが、火事で焼け死んだ子供の生まれ変わりかもしれないと考え出して以来、夢の続きを見るようになった。
自分は5歳位の男の子で猛烈な炎と煙が迫りくる中、必死になって倒れている母親を起こそうとし、側に居る赤ん坊を抱きかかえて叫んでいる。
子供の頃から見る嫌な夢の続きは、ボンヤリとした中でも生きようともがいて母親達を救おうとする、少年の切実な気持ちが手に取る様に解った。
数日間そこで夢は終わり、泣きながら目覚める朝。
何度目かの繰り返しの中もう駄目だと思ったその瞬間、身体がすっと軽くなり気が付いたら空を飛んでいるのだ。
無論、自力で飛んでいる訳ではなく大きな羽に抱えられるようにして飛んでいるのを感じる。
その空は、シッカの絵の中のようでもあり、二段ベッドに貼った写真のようでもあり、湧泉音が呼ばれると言ったあの空でもあった。
これは俺の願望が現れているのかもな。
自分の中に見知らぬもう1人の少年がいる。
それは少し居心地の悪いソファに座っているような、妙に落ち着かない気分にさせたが、決して不快な感情では無かった。
秋葉神社で湧泉音とシッカを前に、真実を知った時、後戻りできなくなるのでは?とおののく自分もいたが、今はむしろ淡々と受け止めていると言った方がいいのかもしれない。
案外と大したことないのかもな……。
それが正直な気持ちだった。
もし自分がその不幸な少年の生まれ変わりだとしても、自分の生き方を変えるつもりはない。
むしろ2人分の人生と言うものを思い切り生き抜いていこうとさえ思うのだ。
今までと何も変わらない。俺は俺だ。
ただ言えるのは、これまで以上に責任を持って生きて行かなければならないことだろう。
誰のせいでもない、自分が選んだ道を行く以上喜びも苦しみもそして哀しみも、1人で引き受けなければならない。
但し、時折自分の中の少年には問いかけるに違いない。
この人生で良かったか?と。
三月の約束 6「生きてる、生きて行く」
琥珀やシッカはどう思っているのだろう?
今日また不意に前世の記憶が琥珀の中で蘇ったわけだが、それらについて深く話したことはない。
意図的に避けているようでそうではなく、今までと何かが変わったかと言われれば何も変わってはいないと思う。
あれ以来悪い夢は見なくなった。
変わりに暗い闇の中でじっとしている感覚に襲われるのだが、突然眩い光が射しこんで終わる。
日々その夢が変化し、最近は光に導かれる方向へ歩き出して、そこで目が覚めるのだ。
心の準備が出来ないまま、急に扉が開いて中に入ってしまったような戸惑い。
或は、まだ開いていない扉のノブに恐る恐る手をかけたような感じだろうか?
安定した地をまるで崖を這うように進むバランスの悪さを、心の中に仕舞い込んだまま時が過ぎる。
けれど、焦燥感は全くない。
むしろ、もっとじっくりこの状態の自分に向き合っていたいような気がするのだ。
9月になれば琥珀は東京に戻ると言った。
けれど自分はもう少しここにいて、翔子達親子の軌跡をたどってみたいと思った。
無論、火事で焼けた家は跡形もなくなっているが、秋葉神社の近くに行くと感じるあの懐かしさを、もっと自分の胸に刻み込んでいたいのだ。
それは自分自身が思うのか?
自分の中の他人が思うのか?
そう自問自答する一方で、どちらでもいいのだと考えてもいる。
大学に戻るかどうかはまだ決められない。
けれど創作と言うものはどこにいても出来るものだと信じている。
あの夏休み第一日目のワクワクした気持ちを、もう一度心から感じてみたい。
人生は楽しいものだと思いたい。
生きている、そして生きて行く。
その積み重ねの上に何を得て、何を失うにしても決して後悔をしないように。
天に花の如く舞い