黄昏の水平線
序章
二〇一三年三月下旬。人類は新たな脅威と対峙する。
深海棲艦。水底に棲まう異形の怪物。生命かどうかも分からないそれは、人類から海を奪った。
海底を走るパイプラインやケーブルはそのことごとくを破壊され、彼らの発する瘴気と呼ぶにふさわしい毒性物質は強力なジャミングと化し、グローバル社会と呼ばれた世界は戦前の、いや、それよりも前の世界への後退を余儀なくされた。
軍事力と呼ばれるものもまた、彼らの前には無力に等しい。陸海空から発射される各種ミサイル、魚雷など誘導兵器は瘴気の前に失速し、そもその瘴気の壁により、戦闘機や艦など有人兵器もまた、その力を十二分に活かせずにいた。また、相互の意思疎通もままならぬ中で、組織的な動きができない連合国軍は、有効的な作戦を実施できずに駆逐され、その存在を失った。
国際的なつながりを失い、もはや孤立した国々を抱えることになった地球という星で、人類は未だ、生命を燃やしていた。
一章
「うっ……!」
暗い路地に苦悶の声が響く。続いて、どすの利いた野太い声が支配する。
「どうした!自衛官さまってのはずいぶんと貧弱じゃあねぇか!」
路地には人影が三つ、四つ。一つはうずくまり、大柄な影を真中に、扇形に三つの影が並ぶ。
「もうヤだろ?士官服のぼんぼんさんよ。それとも上官様の鉄拳ってのはもっと痛いのかな?」
「…………」
「ちっ、だんまりかよ。このっ」
抵抗らしい抵抗をしない影に、大柄な影とその取り巻きは、殴る蹴るの暴行を続ける。
しばらくして気がすんだのか、胸倉を探って金品をあさる。
「しけてんなぁ。小銭じゃねえか。ははぁ、カードがあら」
「アニキ!缶詰だ!パイン缶!桃缶もある!」
「三つもありやすぜ!」
深海棲艦というものが出てきてから二年が過ぎた。貿易国たる日本において、海路も空路もたたれ、交易というものがほぼほぼなくなってしまった状況で、物不足という問題が一般市民に浸透するのにそう時間は必要なかった。戦中のような配給制にも限界があり、戦後の闇市が横行し、甘味や贅沢品などはあまり流通しなくなり、人々の生活水準は見る間に下がって行く。このような環境下で、現金よりもモノに目が行くのは至極当然のことだ。
「へへっ。親からの仕送りかい?おれっちも鬼じゃあねぇ。一缶だけ置いてってやる。今後、デカい顔をするんじゃあねぇぞぉ!」
「アニキ優しい。あでっ」
「うるせぇ!いくぞぉ」
遠ざかる足音。意識ははっきりとしていた。殴られたりした部位がじんじんと痛むだけだ。冷たいコンクリートの地面が火照る体に心地よい。痛む節々をさすりながらゆっくりと身を起こす。真新しい真白の士官服が台無しだ。上官に見つかったらどやされるだろうか。
着任地であるはずの呉に着いてからすぐ、道に迷ってしまったのも悪いが、鎮守府の置いてある地域でもこうまで治安が悪いのもいかがなものか。
散らばった所持品をかき集めてザックに放り込む。取られたものは、現金数千円と、食料缶詰、ご丁寧に乾パンの袋も持って行かれてしまった。しばらく口が寂しくなる。
桂一は徴集兵である。理由は言えないが、とある適正があるため、自衛隊へ参加せよ。おおむねそういった文面であった。過去の大戦時のような強制力のあるものではない。あくまで任意のものである。生活状況のよろしくない家庭で、親はしぶったが、行くと言った自分を強くは止めなかった。大きな荷物や必需品は先に呉に送った後、出立の直前に持たせてくれた缶だったが、まぁ、くれてやってもよかったろう。これから自分はたらふく食える身なのだから。
「おい、アンタ」
突然の闖入者に完全に意識を緩めていた桂は飛び上がった。カツアゲをされた人間を狙ってカツアゲをする人間もいる。そういう類かと身構えたが、現れた人物は飛びかかろうとかどうしてやろうかという感じではなく、むしろ心配するようなそぶり。しかもその声は女のものだ。
「さっきの連中にかっぱらわれたってのはアンタのことでいいのか?」
先ほどの三人組が消えた路地の方を乱暴に親指で指す女の手には、銀の缶詰。
「ふん、よさそうだな。オラ、これアンタのだろ」
そういって、折られた紙幣と乾パンの袋、缶詰の一つを投げてよこす。
「一つは駄賃にもらってく。悪く思うなよ。……ん?」
ぽんぽんと空いた手で桃缶を弾ませていた手がふと止まった。そして、のしのしと近づいてじろじろと桂を検める。近づいたことで、女の風貌や服装が多少なりとも認められた。思ったより若い。女と言うより少女と言った方がいいだろう。暗い中でもわかるほど整った目鼻立ちと、凛々しいと言って差し支えないきっと鋭い眼。その左目の上下のまぶたには縦一文字の切り傷。真黒のパーカーに身を包み、下も暗い色のジャージのようだ。
「おいおい!アンタ身内じゃん!何やってんだか!舐められたもんだくそっ」
がしがしと頭を掻く少女は呆れたように喚き散らす。
「見たとこ新兵だな。所属は?つっても呉だろうな。なんでこんなとこにいる?駅から鎮守府と真逆だぞここは」
合点なるほど。迷うわけだ。知らない土地というものは怖いものである。
「申し訳ない。初めての土地で迷ってしまったもので。桂一といいます。しかし、さっきの三人を貴女一人で?」
「はん。あんなチンピラぐらいひとなでさ。ま、とりあえず、山側はちょっとばかり治安が悪い。気を付けるこった」
「ありがとう。失礼。不躾で悪いんですが、鎮守府の方へ案内頼めますか」
「あん?もちろんそのつもりだ。俺は天野龍海」
こんこんと左手で耳を叩きながら、右手をひらひらさせる天野。どうやらインカムのような装備をしているらしい。よく見ればのど元に黒いパッチのようなものが貼り付けてあるのも見えた。
「曾良、聞いてたな。首尾は?」
<そっちに向かってる。たく世話の焼ける>
新しい声が路地に響く。けだるげな中に凛とした響きのある女声。
「スピーカーモードだ。聞こえてっぞ」
<てめ……!龍海にゃろ>
「あーあーうるせぇ、切っぞ」
<…………!>
ぶち
「すぐに迎えが来る。そいつでアンタを送ってやる」
ぽんぽんとまた缶詰をお手玉し始めた天野だったが、すぐにやめてこちらに差し出してきた。
「身内とわかりゃ、こいつは返す。貸しはまた今度でいいぜ」
受け取ろうと思ったが、やめておく。
「いや、差し上げますよ。親切にしてくださったお礼とでも」
「はっは。そいつは儲けた。いいぜ、もらっといてやる」
天野はにんまりしたり顔でまたお手玉を再開した。
「おせーぞ曾良」
迎えの車は天野の同僚だという曾良女史の運転でやってきた。車内灯の明かりのもとで、ようやく天野の風貌を正確に確認できた。天野の美貌と美しい緑髪はただ見惚れるような美しさで、もはや人ならざるものを感じざるを得ない。そして、暗がりと大きめのパーカーで分からなかったのだが、非常に豊かな胸の所持者であった。
「うるせぇ。よぉ桂一殿。木之本曾良だ。片目だが心配ご無用。より安全運転に努めるってもんさ」
木之本もまた、天野に負けず劣らず、とても美しい女性だった。やはり切れ長の目だが、天野に比べると若干柔らかい印象を受ける目元だったが、その右目には黒い眼帯をしていた。水兵帽を斜めにかぶり、こちらもきれいな緑髪である。
二人とも言葉は乱暴だが、差し引いても美しい。
「世話になります」
「はっは。かてぇなぁ。まさに新兵って感じだ」
車内の時計を見ると、すでに十九時を回っている。着任予定は十七時、最悪の出だしというよりほかない。
「桂殿、貴公出身は」
黙り込んでいる自分に気を遣ってか、木之本が話を振ってくる。
「あ、はい。明石の出身です。しがない郊外の田舎者ですよ」
「明石。明石の浦の明石か。まあ田舎かもしれんが、呉も似たり寄ったりよ。なぁ」
「確かに。でかい軍港と、資料館だなんだとあるだけの小都市さ」
「そういうことだ。肩肘張らずに行こうぜ」
かっかっかと笑う二人は、どちらも自分とほぼほぼ同世代だろうに、どこか女性というよりは、女傑といったところだろうか。なにかが決定的に自分と違うということは分かる。それは経験からくる自信だろうか。いや、もっと違ったなにかだ。おそらく。たぶん。
「では、お二人の出身は?」
「あん?俺は横須賀の出だ」
「俺は長崎。まーだからなんだってわけじゃねぇ。出身なんざどうでもいいことよ。ところで桂殿、所属はどこなんだい」
「いえ、それがまだ。呉鎮守府所属であることは確かなんですが、あとは現地でってことで」
途端、緩やかだった車内の温度が数度下がったような気がした。
「そいつはおかしい」
木之元がつぶやく。
「えっ、なぜです」
「ふつう、異動やら何やらってのは、どこのどこどこ所属ってのが前もって通達されてるもんだ」
後を継ぐように天野が問う。
「それがアンタの場合、『呉に来い』だけってことになってる。そうだな?」
「ええ、はい。そうですね。そのように書類には」
なにやら不穏な空気に、若干どもりながらザックから召集令状とその他もろもろの書類を引っ張り出す。
「ちょっと見せろ」
とは助手席の天野だ。
「うん?げっ、召集令状!?」
「なんだと!?」
安全運転に努めると言っていた女傑はどこへ。一瞬だが右へ左へと蛇行する。
「なっ、何か問題でも!?」
桂は揺れる車内でもがきながら前席へ意見する。
「あたりまえだ!こんな時代に召集令状ってお前!」
「おい天龍!」
「なんだ!ってシャバでその名で呼ぶな、ばか!」
「ああ悪い、じゃない!さっきの緊急入電の内容ちゃんと見たか!?」
「あん?なんだよってこれか」
「見てねーのかよ!くそっ。や、おれもだが」
がんっ、とハンドルを叩く木之本。ああ先ほどの見目麗しい美女はどこへ。
そうこうといううちに、天野がタッチパネル式の携帯端末で緊急入電とやらを開く。
「あー、発艦隊司令部、ってーのは飛ばして……ここだ」
「早く読め」
「急かすな。えーと、本日付で着任の新任提督の安否が不明である。呉に到着していることは明白であるが、その後の動向がつかめていない。常勤、非常勤を含め、この入電を見られた者は即刻行動せよ。名:桂一、写真添付」
「えっ自分ですか」
「かー……」
「はー……」
あんぐりと大口を開ける天野と木之本。呉鎮守府の門扉はすぐ目の前に迫っていた。
「おお、やはり立派なものですね」
先ほどの不安はどこへやら、表情を明るくさせる桂。
『……姉御に殺される』
反面、心なしか色素の抜けているような気のする、天野と木之本であった。
黄昏の水平線