色の無い対峙、夜、小さな庭で

シュール。


玄関の錠は、夜中になるまでずっと下ろしてある。

外から何の音も聞こえなくなり、四本目の蝋燭が燃え尽きる頃に、
できるだけ静かに、扉を開ける。
もう、何年もこうして居るので、私の、一般に言う、
「世界」だとか「世間」というものは、そのまま、私ただ一人である。
しかし、寂しさなど、感じたことは無かった。
それというのは、私、はただ一人だが、この、欲望に溢れる、"体"という入れ物には、
"精神"という妙な、はちみつのような、涙のようなものが存在しており、
それをちょっと舐めてみるとなんとも複雑で、
どうやら、私というのは一人では無いことがすぐ理解されるからである。
孤独になればなるほどに、多くの友人が現れる。
なんの衣もつけず、ものすごく醜い姿で。しかし、これが真理なのだと思う。

今日も、できるだけ静かに扉を開いたのだが、どうもおかしい。
私の足元に、黒々としたものが這っている。
この夜中なのに、私の影が落ちている。
ぐっと首を持ち上げると、ちょうど、八十度位上空に、満月が浮いていた。
雲ひとつ無い空だが、空気の重みがずっしりと感じられるようで、
満月の周りには薄い層の様なものが見える。
それはほんのりと色を呈しており、幼い頃に眺めたしゃぼん玉のような虹色であった。
いわゆる、幻想的な、美しい姿なのだが、どうしても気に食わない。
大きなため息をついた。
すると、頭の奥に、小さな音叉がある様な、耳障りな音が現れた。
それはどんどん大きくなり、どうも、額の中心あたりから聴こえるような気がする。
眉間に皺をよせながら、もう一度八十度位上空を眺めると、
満月が五倍位の大きさになって居た。
そして、もっともっと大きくなっている。どんどんどんどん膨らんでゆく。
あまり見えなかった模様がくっきりと浮かび上がり、しゃぼんの模様もしっかりと見える。
どうやら、こっちに近づいているらしい。
これも、どうにも気に食わないのだが、驚くことはなかった。
私は、そんな気持ちなど、とっくに捨ててしまっていたらしい。
 とにかく、気に食わないので、
「おい、あまり近づきすぎてこっちにぶつかるんじゃあ、ないぞ」
 と私は低い声ではっきりと言うと、月の方も黙っては居ない。
「どうして近づいたらいけないのですか。私はいつも動いているのに。右から左へと。
 それと何が違うのですか」
 こんな屁理屈を言うものなので、私は呆れてしまった。
「月がこっちに近づくなんて、聞いた事がない。ほら、こんなに近づいたもんだから、
 ずいぶんと明るくなってしまった。しまいには鶏が鳴き出して皆、朝と勘違いして起きてしまう。
 そうなってしまったら面倒だ。私はすぐに家にはいらなくてはいけなくなるのだ」
 月はどうやら近づくのを止めたらしい。空を半分くらい埋め尽くすほどの大きさになって、
それ以上大きくならなくなったのだ。しかし、何も言わないので、
 私はなんだか苛々してきて、
「おい、なんとかいったらどうだ」
 と言ってやると、月は、
「あなたはいつもなにもしない。食事すらほとんど。それなのに、
 夜中になるとここにやってきて必ず大きなため息をつきます。
 いったいそれは何のためなのですか。
 ほら、人間は良く言っているじゃないですか。
 ため息で出て行くのは、魂と、力だけ、だなんて」
 などと言う。私は、月に毎日見られていたなんて、なんとも妙な気持ちだったが、
 まるで気にしてないようなふりをして、
「そりゃあ、生きるために決まっているだろうに。
 ほら、たくさん食事をして、力を蓄えて、
 ため息もつかずに、甘ったるい言葉を並べ、薫り高い愛を受けていれば、
 人間の中には生きるための力以外にも、
 "死ぬための力"が育っていくんだ。これが、毎日ともなれば、
 私はあっというまに、知っている中一番高い場所から、
 そうだな、お前の上にでも連れていってもらおうか、
 大きく飛び立って死ぬことを選ぶようになるだろうさ」
 ゆっくりと、月の周りのしゃぼんの模様が消えていき、月が、
「へえ。そうかい」
 と言う。全く興味なさそうに。
私はもう、どうしようも無いので、煙草を取り出して火を付けた。
そして、どういうわけか、また口が開きたくてむずむずしてきたので、
 月に背を向けて、独り言のように、
「死ぬために生きている人間が、どうして喜ぶ必要があるんだ。
 夢を描いて、それを現実にする必要が、どこにあるんだ。
 結局人間は、都合よく想像することで自分を保つことができるだけだ。
 人生は、一度きりだと言ってみたり、輪廻転生を信じたり、
 そこから抜け出すことを望む者もいれば、また、自分に生まれたいと言う者も居る。
 そんな中で、本当の喜びというべきものは無いのだ。
 だから私は、ため息をつくのだ。要らないものばかりなのだから。
 私の体の中にあるものは。……どうだい、わかってくれるだろう」
 振り返ってみると、月は、元の所に帰っていた。
また、最初と同じようにしゃぼんの模様をまとっていた。
私は、ため息をつこうと思った。しかし、やめにした。

いつも物を書く部屋に帰り、
畳に、ありったけの油を垂らした。着物にも、沢山垂らした。
そして、三本のろうそくに火をつけて、畳に落とした。
炎が一気に立ち上り、私を包んだ。熱いと言うよりは、暖かかった。
きっと、この熱はすべて、私が放棄してきた生命力なのだと思った。
全ては懐かしさに満ちており、私はその中泣いていた。
涙を流すことは出来なかったが、ありったけの力で泣き叫んでいた。
炎の隙間から、窓が見えた。
月が、また、近づいて来ているようで、窓に収まりきっていない。
 さっきと同じ、音叉の音がして、月が私に語りかけてくる。
「やはり、人間はどこまでも自由なのですね。
 なんでも、決めることができるのですね。
 私は、いろんな場面で、カミサマなどと呼ばれますが、
 人を自由するどころか、私自身すら自由にすることが出来ないのです。
 どうか、その火を、私に分けてください。
 "死ぬための力"があれば、きっと私は自由になれる気がするのです」
 私は、低い声を搾り出す。
「これはね、全部、私の物だよ」

色の無い対峙、夜、小さな庭で

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色の無い対峙、夜、小さな庭で

つきとのたいわ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2010-12-21

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