アフターダーク

午後4時45分頃

外は雪が降っているのかもしれない。玄関であるにもかかわらず、口から吐き出された息が白く目に映る。荷物はすでにまとめてあって、あとは母の迎えを待つだけだ。高校入学と同時に始まった下宿生活の9ヶ月目。5ヶ月ぶりに実家に帰る。

玄関の踊り場に体育座りでうずくまっていると、すぐ横にある食堂から味噌や、肉の脂や、醤油の臭いが鼻をかすめて、それらの味を思い出そうとしたが、うまくできなかった。最後にちゃんとご飯を食べたのはいつだろう。そもそも、食欲というものがどういうものだったかも忘れてしまった。私の体重は、この3週間ほどで10キロ近く減っている。顔からは血の気が失せ、メガネをかけていても焦点が合っていないような虚ろな目をしていた。

私の左手には幾つもの細く赤い糸が垂れている。手首から肘の内側にかけて、今にも消えそうなものからまだ鮮やかな赤を保っているものまで。右ポケットには、近所の100円ショップで買った安物のカッター。なんとかして授業に出ていた時も、体調が悪いとごまかして保健室のベッドで泣いていた時も、そして、学校に行かなくなった今も、欠かすことなくカッターを持っていた。

着ているスウェットに鼻を当てると、うっすらと灯油の臭いがした。もう何日も風呂にはいっていない。髪はボサボサで、中途半端に伸びた前髪が視界を妨げるけど、それだって別に気にしない。何日も歯を磨かなかったせいで、上下左右の奥歯は全部虫歯になっていた。

実家に帰る。それも、5ヶ月ぶりに。

不登校だったこの2ヶ月間、私は学校と下宿先のおばちゃんに嘘をつき続けていた。「親にはちゃんと話してあるから。だから、しばらく学校には行きません。」母と父は、私が学校に行っていないことを知らない。下宿先の2階にある6畳一間の私の部屋と、1階にある共同の食堂、風呂、トイレ、そして、歩いて30分ほどかかる精神病院が、この2ヶ月間の私の行動範囲だ。朝も昼もない。DVDプレーヤーに適当な映画を入れて見るともなしにずっと流し、それが終わったらまたはじめから。同じ映画をただひたすらずっと流しているうちに眠りに就き、目が覚めたらまた再生ボタンを押す。最近は「シュレック」をひたすら観て、愉快な冒険とロマンティックなエンディングに感動する反面、それらに反吐をはいていた。世の中そんなにうまくいかねーよ。

このまま一人、下宿の部屋で暮らそうとしていたのに、とうとう保健室の先生が家に連絡をいれてしまった。保健室のベッドとベッドの間を区切る薄黄色のカーテンの向こう、私の曖昧な了承を得た先生が、電話で家に簡単な説明をしているのがうっすら聞こえてきた。幸い、精神科に行っていることは隠してくれたみたいで、「体調が悪くてしばらく学校を休んでいるので、一度自宅で休養してみてはどうでしょう」と、うまく伝えてくれた。無理もない。不登校で、たまに学校に来たと思ったら授業も出ずに保健室でサボる。精神病院に通いつつも親には知らせず、家族と離れて一人下宿生活。はたから見たら腫れもの以外の何物でもない。早く家に引き取ってもらうのが一番だ。

つま先がいよいよ冷えてきた。母はまだだろうか。冷え切った携帯電話を確認するけど、誰からの連絡もない。私から電話をする気にはなれなくて、私はまた膝に顔を埋めた。誰にも会いたくない。家に帰りたくない。何も食べたくない。何も見たくない。食べ物の匂いが気持ち悪い。べたつく床も、時計の音も、全てが私の敵のように見えた。

ちらと時計を確認する。午後4時45分。母からの連絡はまだない。

午後5時3分

『会いに来たよ。会いに来たよ。君に会いに来たんだよ。』

携帯電話が鳴り出した。これは家族からの着信メロディだ。冷え切った画面に映し出される通話先が母であることを確認してから、携帯を右耳に当てる。耳に当てられた突然の冷気に体が少しびっくりした。
「もしもし?」
近くの部屋に住む下宿生に聞こえないように小声で答える。今、私の他に生徒がいる気配はないけど、それでも自分が生きていて、母と話していることを知られるのが怖い。
「着いたよ」
久しぶりに聞く母の声。感情が読み取れないような冷たい声だった。
「ん」

電話を切り、荷物を詰めたバッグに手をかけながら、母に会う覚悟をつけていた。もともと母とはうまくいっておらず、私が下宿するように手配したのは全て母だった。出て行けと言われたようなものだ。共働きで家にあまりおらず、私に興味なんて見せないようで、少し前に下宿代を受け取ったついでにお昼を一緒に食べた時に、思い切って「私、鬱病かもしれない」と告白したのを鼻で笑っていた。

私を見て、お母さんはいったいどう思うんだろう。こんなにも青白く、死んだ魚の目をした私を見て驚くかな。それとも面倒くさそうな顔をするのかな。でも、まあ、そんなのどうだっていいや。

私の両手が荷物でいっぱいになった時、玄関のドアが開けられた。母だ。お母さんだ。
「荷物はそれで全部?」
やはり冷たく、表情のない声でお母さんは私に聞く。玄関の電気が付いていないせいで、表情はよく分からない。私は黙って頷きすっと顔を伏せる。何も見たくない。下を向いて靴を履くと、じんわりと視界が曇った。帰りたくない。こんな姿、誰にも見せたくない。それでもぐっと荷物を担ぎ直し、玄関の外に出る。母も無言で荷物を運ぶのを手伝ってくれた。私の荷物はあっという間に玄関の目の前に駐めた赤いパッソに詰め込まれた。

やっぱり外は雪が降っていた。この季節のこの時間帯の空はもう薄暗くて、今日は曇りのせいかよけいにどんよりして見える。

母の顔をまだ見ていない。荷物を運ぶ最中もずっと顔を伏せていた。会話もなく、私たちは車に乗り込んだ。どんどん日が落ちていく。

午後5時30分頃

車内は静まり返っている。車のオーディオでCDも聴けるはずなのに、私たちはお互いになにもセットしなかった。会話という会話もない。どのくらい学校に行っていないのか、私に何があったのか、これからどうするつもりなのか。母は私に何も聞かない。私も相変わらず母を直視していない。リクライニングシートを倒して、右腕で顔を隠す。私を見ないで。無言で訴える。エアコンは車内の空気を乾燥させる。下宿から持ってきたペットボトルの水を口に含み、すぐに吐きそうになった。生暖かい上に、なぜか水の味がしない。もともと水は無味だが、それにしてもここまでだっただろうか。口に含んだ分だけはなんとか飲み込み、あとはもう飲まなかった。

外は完全に暗くなった。車は山道を越え、殺風景な交差点で信号が赤に変わるのを待っている。エンジンの音だけが車内に響く。家にたどり着くまで寝てしまおうと目を閉じるが、もう一人の私が遠くから冷めた目で私を見ているのに気付く。遠くにいるはずなのに、耳元でささやきが聞こえる。なんて情けない。なんてくだらない。お前なんて死んでしまえばいい。恥さらし。誰もお前を受け入れないよ。死んでしまえ。死んでしまえ。死んでしまえ。

薄く目を開け、ポケットのカッターに軽く指を走らせる。指先から安心感が伝わり、肩から力が抜けて行く。ふと窓から外を見ると、街灯に照らされた雪が目に入った。信号はまだ赤のまま。車なんて私たちの他に一台もないのに、母は進もうとしない。ポケットから腕をずらし、再び顔を覆った。気付かれないように視線を腕で隠しながら、母のほうをちらと見た。

母は外から車内に入ってくる街灯の光に照らされながら、まっすぐ前を見つめていた。背筋をピンと伸ばし、ただひたすら前だけを見ていた。最後に家であった時よりいくらか痩せたように見える。両手でしっかりとハンドルを握っている。母の表情を見たとき、その美しさに私は涙ぐんだ。母は今にも泣き出しそうな顔をしていた。眉間に軽く寄った皺を、街灯が落とす濃い影がよけいに強調している。唇をキッと引き結び、嗚咽を抑えているようにさえ思えた。

母からパッと目を逸らした。左腕の傷が痛む。それ以上に喉が詰まって息ができない。視界は完全に潤んで両目を開けておくことができなかった。母は私の姿を見て悲しみ、それでも必死に平然を取り繕うとしている。そういえば私は母が泣いている姿を今まで一度も見たことがなかった。まぶたを閉じても今さっき見た母の顔が脳裏に浮かぶ。やめて。泣かないでよお母さん。ごめんなさい。こんな思いさせてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。私なんて生まれてこなければよかった。

信号が青に変わった。それからしばらく長い間、私は母の顔をちゃんと見ることができなかった。

アフターダーク

アフターダーク

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-20

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY
  1. 午後4時45分頃
  2. 午後5時3分
  3. 午後5時30分頃