プライスレス

序幕

目を開けると黒猫がいた。黒猫は振り返り長い尻尾をくねらせ、青緑の目でこちらをまっすぐ見ている。
「初めまして!」不意に声が聞こえた。声の主は紛れもなく目の前の黒猫である。
「動揺してますか?でしょうね、話す猫は初めてでしょう?でも驚くのもそれくらいにして本題にいきましょう!」
聞きたいことが幾つかあったが、尋ねようとしても声が出ない。
「今の僕は只の案内役ですから、説明とか苦手なんで手短かに済ませますね」黒猫は続ける。「直に話せる様になるとは思いますけど、まだ無理だと思いますよ」
必死で声を出そうとするこちらの様子をみて黒猫は言った。
「まあ、目を閉じて下さい」言われるがままに目を閉じると眠気が襲ってきた。
「目が覚めたら、あなたの一番大切なものと、一番捨てたいものの両方を処分してもらいます 燃やすなどといった破壊行為は認められません」黒猫は話し続ける。
「終わればまたここに自動的に戻ってきます、そのとき感想を聞きますんでちゃんと頭の中で整理しておいてください」
「それでは、いってらっしゃい」黒猫が額に前足を当てた。
遠のく意識の中ひねり出した言葉は「君は何者?」だった。
黒猫は不敵に笑い「追い追いわかるでしょうよ」と言った。
額を押され、そこで目の前が真っ暗になった。

第一幕

目が覚める。僕は布団にくるまっていた。
(変わった夢だったな、珍しく内容もはっきり覚えているし・・・)
佐野 翼はさっきまで見ていた夢の内容を整理してみた。
(まず話す猫がいた 黒猫だったよな、 それから一番大切なものと捨てたいものを処分しろって言われたな・・・)
しかし、所詮夢は夢だ。現実の生活には何ら影響はない。深層心理の暗示だろうがどうでもいい。
(・・・それに現実の生活が、僕の生活がどうなろうが世界に不都合な事もない)
翼は胸に渦巻く鬱々としたものに顔を顰めた。胃のあたりがキリキリと痛む。
それでも彼の体調、精神状態を気にかける存在も今はもう、いない。
「夢の中でも眠気に襲われることもあるんだな」
翼は呟き、軽く笑った。眠りの中で眠気に襲われるなんて可笑しくてたまらなかった。ついには声をあげ笑い、笑い転げた。大笑いが落ち着いた後で虚しくなって、虚しさのあまり泣いた、声をあげ泣いた。笑った時間より長く、ずうっと長く泣いた。
(一緒に笑ったり、泣いたり、とにかく感情を少しでも共有できる人はもういないんだ)
ふと、部屋の隅で点滅する光に気付いた。携帯電話の光だ。青く点滅する光は翼の体を硬直させた。
彼にとってはあり得ない事だったのだ。ひと月以上充電していないから電源も切れているはず。何より携帯電話は先週解約したのだ。着信があるはずなどない。翼は恐怖を感じた。
「あなたの一番大切なものと捨てたいものを処分してください。自棄になって色々壊すなんてことはくれぐれもしないように。処分といってもあなた自身が納得出来るような決着をつければ良いだけです。時間制限はありませんがさっさとやっちゃって下さい。」 差出人不明のメールだった。圏外で残りバッテリー0%の携帯電話。
話す黒猫。謎の指令。夢であろうがなかろうが、現実の生活に影響を及ぼしていたのだ。

第一幕 中

僕が産まれた年、空港が出来たことでこの辺りは少しの間色めき立っていたらしい。
商業施設も多く並び、当時は誰もが浮かれていたのだろう。
「将来広い世界で活躍できるように逞しく」と願いを込めてつけられた翼という名も空港の開港も理由の一つとして大きい。つまり両親も浮かれていた部分はあったのだ。
しかし、父はその反面、堅実でもあった。
「浮かれている、ということは後で沈むことにもつながる」景気の良さに任せ金遣いが荒くなるようなことはなかった。
そして、やはり父は正しかった。それでも空港が物理的に沈むとは思っていなかっただろう。一転して地獄に堕とされた我が育ちの地が連日ニュースやワイドショーで取り上げられた時には僕は10歳を少し超えていたと思う。
滑走路が一本、海の底に沈んだ。
前兆がどうだとか責任者の会見だとか小学生だった僕には何のことか分からなかった。いや、正直なところは今になっても誰もがよく分かってはいない、原因不明なところが多いらしい。
動揺する世間をよそに、父は開港当時から貯めていた金をやはり堅実に生活費の足しに充てた。収入が半分以下になっても我が家は何も変わらなかった。父は偉大だった。
母の「なるようになるし、なるようにしかならないのよ」という、時代の流れに上手く身を委ねられる大らかな性格の凄さも今ではよく分かる。両親が大好きだった。

「今ではよく分かる」今は亡き母の凄さ。「偉大だった」その父も死んでからもうすぐ2ヶ月になる。
沈んだのは滑走路だけではなかった。当然といえば当然だが、空港が突然機能しなくなってから地元の会社はことごとく潰れた。そして、景気だけでなく人々の心も沈んでいった。好景気に任せ豪遊した成金が暴徒化した。
地元に昔から根付く人達は、団結して成金暴徒を抑え込んだ。もともと港町だったこの地で産まれ育った人達、腕っぷしの強い漁師や、商売上手な商店街のおじさん達の団結力は凄かった。この町が大好きだった。

それでも年月が経つに連れ、皆疲れていったのだろう。
滑走路沈没事件から10年、21歳になった僕は疲弊しきった人々が、この町が憎くて堪らなくなった。大好きだった町で生まれ育った地元の人間が暴徒と化した。そして彼らに両親は殺された。変わり果てた両親の亡骸を見て、両親までも憎くなった。
親の遺産があれば別の場所で新しい生活も出来た。
しかし相続の手続きのために一番近く一番大きい都市に出たときに残酷な真実を知った。我が町のパニックは外の町には全く広がっていなかった。
パニックはこの町の中だけで勝手に起こり、そして政府、警察部隊、各方面からの働きかけにより、封殺されていた。この事実を知ったとき、僕が壊れた。

事実を知らなかった自分、大好きだったはずの町を憎み、大好きだった両親を恨み、しかしその両親の財産で安穏と暮らそうと考えた自分が醜く思えた。

相続の代わりに携帯電話の解約をして、頑丈なロープや刃物、練炭、大量の入浴剤と洗剤を買い込んだ。

つまり僕は自殺の準備を始めたのだ。

そして準備を整えたまま踏み切れずにいたのだ。僕はこの後に及んで死ぬことをためらっている。
おそらく、本当に死にたい訳ではないのだろう。心の底で分かっている自分がいるのだと思う。
死にたくなるだけで死なない僕を冷めた目で見ている僕、全てを憎み死を望む僕の全てを見透かしたような僕。
町と同じように沈む僕を、ただただ見ている僕。沈んだ滑走路と暴れまわる人々を思えば、滑走路の方がずっと落ち着いている。
(ああ、海の底に沈んだ滑走路は冷めた目でずっと、この町を見ているんだ)

どんな国へも飛び立てる道を示し、埋め立て工事が不十分だった滑走路。
この町を浮かれさせ、地獄に堕とした空港。

この町の浮き沈み、空港の浮き沈み、人々の浮き沈み、僕の浮き沈み。
全てはシンクロしているのだ。

「一番大切なものと捨てたいものか・・・」
捨てたいものはすぐに結論が出た。「今の自分」だ。それでも壊せない以上、別の方法で僕は僕と決別しなければならない。

大切なものは・・・正直まだ分からない。ないのかもしれない。
ただ、知りたいことはあった。 町が浮き沈みしている中、唯一変わらなかった人が二人いた。
彼らが本当に、何も変わらなかったのか?実は不安で押し潰されそうではなかったのか?僕には見えない所ではどう過ごしていたのか?

僕が大好きだった二人は、死ぬまで僕を大好きでいてくれたのか?

「父さん、母さん」 両親の真実を確かめるべきだと思った。
死ぬのはその後で良い。

**

産まれて初めて父の書斎に入った。
禁止されていたわけではなかったが入ってはいけないと感じていた。
理由もなく、その部屋からは近寄り難い重圧を放っていたのだ。
理由がなかったからこそ、その重圧が怖かった。いや、今でもなお怖い。

しかし部屋の中には簡素な机、椅子、本棚、テーブルライト、時計、重圧を感じさせる物などは何もない。

両親の真実を知るための鍵がここにあると、僕は確信していた。
理由もなく、その部屋には父だけでなく母の真実もあると感じていた。
だから、一番最初に迷わずこの部屋を検めることにしたのだ。

一見変わったものは無かった。机にはメモ用紙とボールペンだけで、本棚には国語辞典、和英辞典、英和辞典、六法全書など書斎にありそうなお堅い本だらけだった。

それでも僕は部屋の中をいろいろ探した。探して探して、何もないのかもと疑うこともなく、探して探し続けた。

しばらくして、一息つこうと思い居間に行く。コーヒーを淹れようと思ったが胃が痛いのでホットミルクを飲むことにした。賞味期限はとっくに切れているが問題ないだろう。
(書斎で調べていないところはあとどこだ?)
考えを巡らせたが思い当たる節はない、机の引き出しも全部確認した、本棚の本も全部引き出したが変わったところは無かった・・・いや、待て、違和感があった。

辞書類が多すぎる?いや違う、本棚の大きさ。いくら辞書が大きくてもあの本棚の形がおかしい。

「奥行きか・・・」そうだ。あの辞書の列の奥にもう一列辞書の列があってもおかしくない程だった。しかし辞書を引き出した向こう側に何もなかった。
おそらくあの板の向こう側にまだ何かある。 ホットミルクを飲み干して書斎に走った。

予想は正しかった。前面の辞書を引っ張り出し棚をよく見ると、本来裏板であるはずの板が不安定だった。
板にガムテープを貼り、ゆっくりと引き抜く。引き抜けた。
「やっぱりこの部屋で間違いなかったんだ」と心が躍った。
しかし中身は予想外だった。鍵付きの金庫と、ドラゴンボール単行本、全42巻。
隠された真実には似つかわしくない。金庫はともかく、漫画。1巻を手に取り開いたがやはり、悟空がブルマとともに7つのドラゴンボールを探す旅を始める、紛れもなくドラゴンボールだ。

「でもこれしか手掛かりはないし、金庫の鍵を探すのはまた明日にしよう」として、手に取ったドラゴンボールを読み進めていくことにした。
亀仙人、ヤムチャ、レッドリボン軍。
桃白白、クリリン、天下一武道会、鶴仙人、天津飯、餃子。

「父さん、よっぽどドラゴンボールが好きだったんだな」
傷みが激しい、何度もドラゴンボールを読む父の姿を思い浮かべようとしたがどうにも上手くいかない。冗談も時々言う父ではあったが誠実で堅実なイメージと「強えヤツと戦うと思うとオラ、ワクワクすっぞ」なんて言う悟空とが結びつかない。 それでも僕には読み進めるしかなかった。

実は悟空はサイヤ人という宇宙人で、ベジータ達と戦い、ナメック星でフリーザ達と戦い、スーパーサイヤ人として覚醒、その後地球で人造人間とセルが暴れまわり、悟飯がセルを倒して・・・。魔導師バビディとダーブラ、そして魔人ブウ。ゴテンクス。ポタラ合体ベジット。ミスターサタンの呼びかけに応じた地球人から分けてもらったエネルギーでの悟空の元気玉。
読み終えるのに1日もかからなかった。
そして実は最終巻を手に取ったとき、鍵が挟まっているのに気付いていた。
金庫の鍵だろうと思ったが、金庫を開ける前に最終巻を読むべきだと思った。父への敬意も少なからずあったと思う。単純にドラゴンボールを読み終えたかったのも事実。

読み終えた後、鍵に手を伸ばし金庫の鍵穴に刺した。鍵を回すとやはり金庫が開いた。
僕は中身を確認する前にもう一度ドラゴンボールを1巻から読み始めた。
「でぇじょうぶだ、ドラゴンボールで元通りになる」

僕は何かを元に戻したかったのだと思う。

***

金庫の中には一冊のノートがあるだけだった。
ごく普通のノート、ただ少し古いのか色褪せている部分もあった。

隠し方を考えると日記ではないのは確かだ。そして、最初に発見する人物が僕である可能性が高い以上、これに記されている事こそが知りたい事だと直感した。

表紙をめくる。
「翼へ、 父と母より
このノートが見つかったということは私たちは二人とも死んでいるはずだ 願わくばお前に見つけてもらいたい
とはいえ、お前が望むような事は書いていないと思う」
父の字で始まったそのメッセージの下に日付けが書かれていた。
「9年以上前から・・・」
どうやら父は暴動が起こり始めた頃すでに、この町が酷くなることなど分かっていたようだ。
『父さんはなんでも知っている』
父が僕にモノを教えるときいつも言っていたのを思い出した。
答えを知らないときは『父さんは、知らないってことを知っている』なんて苦笑いしていた。

ページをめくると次は母の字で書かれていた。
「翼へ この町から飛行機が飛ぶことは無くなったけど、あなたはどこへでも飛んで行けるの。 飛行機なんかよりもっと軽やかに飛んで行ける。 だって飛行機は羽ばたかないでしょう?」
いきなり胸を刺す文言があるではないか。 そうだ。母は大らかな一方で間の抜けた感じで、言葉のチョイスに父が時々冷や汗を書いていたのを思い出した。
母のメッセージは8年前の日付けが記されている。

次は父だった。
「このノートを読んでいるということはドラゴンボールも読んでくれていると思う。母さんの言う通り色んなところへ飛んでドラゴンボールを7つ集めるのもいいんじゃないか」と書かれていた。
僕の知っている父はジョークが得意ではなかった。両親が死んだ息子に向けるには笑えない冗談だったが、思い出通りの父を思い出して吹き出してしまった。
これが7年前。

「1年ごとに交代で書いていたのか・・・・」
町が荒れていく中、こんな遊び心を真剣に息子に遺す呑気な両親に呆れながらも、想像すると笑顔になった。

それからも1年交代で両親は他愛のない事や僕との思い出、僕ですら覚えていないことを書き連ねていた。
そのノートだけはこの町はおろか、まるで別の世界で書かれたような変わらない2人の姿があった。
親にとって子は天使のようだと形容されることは多いが僕にとって親が天使のように愛おしいものであり続けてくれた。

ノートには一つだけ僕の知り得ない思い出が綴られていた、僕が生まれる前の話だ。
「お前が生まれる前に母さんが猫を連れて帰ったことがあった 拾ってきたのかと思ったがどうやら勝手についてきたらしい。家の周りはいるが中には決して入らず、餌を庭に置くとどこからともなくやってきて 食うだけ食って隠れるっていう贅沢な奴だった。」
ここで字が母のものに変わった。
「餌といっても出汁を取った後の煮干しとか魚の身のちょっとした残りだけだったけど、それだけで満足してくれたの。でも一度だけ高価なキャットフードを置いた事があったんだけど、全然食べようとしなかった。しばらくしてから家の周りでも見なくなったけど。何故かあの猫のことは忘れられないのよ。」
(キャットフードが気に入らなかったんだろう・・・)と思いながらページをめくると、父の字で「あの猫にとって出汁の出涸らしが精一杯の贅沢だったんだろうと思う。猫が金を気にするはずがないし好みじゃなかっただけだと思うが余計な贅沢は不要だったんだろう」と書かれていた。
「翼、世の中の事を教えてやる程偉くはなかった親だけどお前の親だから分かることがある。生きろ。お前のためと思って金も貯めてはいるが無理に使う必要はない。金がなくてもなるようになるんだ。母さんの口癖を思い出せ。」

僕は涙をこぼしながら読んでいた。
「なんで父さんはこんなことまで分かるんだよ・・・」と呻いた。
『父さんはなんでも知っている』という声が聞こえた気がした。

「ごめんなさい、どうすればいいか分からなくなったよ 」
ノートにはもう新しいメッセージはない。
「一番大切なものと、一番捨てたいもの一緒になっちゃった」
忘れたくない思い出と、乗り越えるべき思い出。
泣き疲れて、ノートを抱いたまま眠った。

目が覚めると目の前に黒猫がいた。
「いらっしゃい、いや、おかえりなさい、がいいですか?」
当たり前のように話す黒猫に驚きはしない。
「あー、あー」翼は声が出ることを確認して。
「君さ、もしかして・・・」
「違いますよ、僕はあなたのご両親のところに現れた猫とは違います」
「そっか」聞き終わる前に答えられたので苦笑いするしかなかった。

翼は息を整えて話し始めた。
「僕は君からの言い付けを守れなかったのにここに戻ってきたのか」
「いいえ!とんでもない!あなたはしっかり一番大切なものと、一番捨てたいものをしっかり処分しました!文句無しですよ」

どういうことか分かっていない僕に黒猫は説明する「えーっとですね、処分とか決着とかはまぁ建前というか、なんというかでですね あなたずーっとうじうじしてたでしょう? 死にたくなるだけで死なないっていう感じで」
(本当に説明が苦手なんだな、この猫)
翼は初めて彼と会った時のことを思い出していた。
「要するに!うじうじした生活から抜け出してもらうためには心の整理!それをして欲しかった、幸いあなたには良いご両親がいたから話が早かった」
黒猫は強引に話をまとめた。
「おかげさまで、両親の深い心にあらためて感謝してるよ」


「どうして僕を選んだの?」
「あまりにもカッコ悪かったからです、もー見てられなかった!」
「で、これから僕はどうなるの?」
「まだこの世にはあなたみたいにずーっとうじうじしたまま悩んでる人がいます
彼らの心の整理をする手伝いをしてもらいたい」黒猫の顔は真剣だった。

「あなたに一つアドバイスです、喜びのない贅沢は只の無駄、ということです せっかく生きる決心をしたのなら時間は楽しく使って下さい」

始まりはここから、僕と黒猫は「自分の価値が分からない人に自身の価値を知らしめる者」となる。

「結局、君は何者?」
「それは追い追いわかるでしょうよ」

プライスレス

プライスレス

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-20

Copyrighted
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Copyrighted
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  2. 第一幕
  3. 第一幕 中
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