体温

短い話です。猫が出てきます。

 晴れた冬の休日のことだった。
 その日の雑多な買い物を終え、ポリ袋をいくつかぶらさげて、男はいつもの道をぼんやりと帰っていた。マフラーを口元までまきつけ、ニット帽をかぶり、肩をちぢこめて。
 住宅街の合間の道は閑散としていた。ときどき人とすれ違った。男はすれ違うたびにその顔をながめた。ながめていると苛立ちがつのった。あるいは悲しさがつのった。いずれにせよ、すれ違う誰かの顔を見て男が元気をうけとることはなかった。
 ぶらさげたポリ袋には、牛乳の一リットルパックといくつかの惣菜のパックと半額シールの貼られた洋菓子、それと煙草の箱が入っていた。牛乳パックにおしつぶされて、惣菜や洋菓子がひしゃげるのを、男はときどき気にしていたが、結局あきらめている。一歩あるくたびに袋はかすかに揺れ、プラスチックのパックがめき、と音を立てる。
 冬の高い空を、男はにらむように見つめた。むろん空は答えない。一点もしみもない空は、圧倒的な青い扁平さで、男の視線をすいこんでいる。
 風のない気持ちのいい日のはずだった。手をつないだ男女が、楽しげに話しながら向こうからやってくる。男は顔を見なかった。代わりにすれ違ってしばらくして、道端の雑草をけっとばした。
 蹴られた雑草は、男が立ち去っていく後ろで、うんざりしたように、そのしなやかな身を起していく。

 男は道を曲がった。この道沿いには、川とも呼べないくらいの小さな川があった。両岸はきっちりとコンクリートで固められ、垂直のがけのようになっている。大人の男の胸あたりの高さのフェンスがしつらえられていて、「はいってはいけません」と書かれたプレートが等間隔にかけられている。
 濁った川の水に目をやりながら、男は空いたほうの手をジャンパーのポケットに入れて歩く。一度フェンスごしに唾を吐いた。吐かれたものは途中で霧散して、水音ひとつ立てなかった。男はため息をついて歩いていく。
 二ブロックほど歩いたところだった。男はふと立ち止まり、川の中のものにじっと目を凝らした。
 視線の先にあったのは、小さな猫だった。足をゆらゆらと動かし、汚い水のなかを漂っている。余裕ありげに遊泳しているようにも見えなくはない。
 男はしばらくその様子を、ためらったように見つめていた。立ちつくした男を見て、通りがかる人も男の視線の先に目をやる。あら猫だわ、落ちたのかな、と話す声が立った。何人か立ち止まる人もあった。
 男はもどかしげに猫を見つめていた。猫はぷかぷかと水に浮き、無表情な顔を上に向けている。鳴き声も上げない。
 意を決したように、男はポリ袋を地面に置き、フェンスに手をかけた。驚いたように、しかし無言で、周りの人は男を見た。フェンスをようやく越えると、肩で息をしながら、男は2メートルほどの高さから川に飛び降りた。あっ、という女性の声があがったと同時に、ぱしゃん、と小さな水しぶきが立った。
 川は浅かった。男はひざのあたりまで浸かって、川底のヘドロに足をとられながら、猫に近づいていった。男はかがみこむと、猫の体をひっぱり上げるようにして抱き上げた。猫は水から上げられると、失っていた重さをとりもどしたようにぐたりとした。
 しとどに濡れる猫を胸に抱いて、男は元来たところへ戻った。靴は泥にまみれ、ズボンはすっかり濡れていた。猫は男に抱かれて震えはじめていた。
 ずっとフェンスごしに様子を見ていた二人組の女が、すごい、えらいね、と言いながら男のほうをちらちら見ていた。男は何か言いたげなような、迷惑がっているような表情を浮かべたまま、買い物袋を手にとった。右腕に猫をかかえたまま、そのまま立ち去った。

 アパートに着き、部屋のカギを開けて中に入る。男が住んでいるのはアパートの一階の角部屋だった。暴れる元気もない猫は、目を見開いたまま男のダウンジャケットの腕の中でじいっとしている。しずくがぽたぽたと三和土に落ちる。男はどうしたものやらと放心したかのように靴も脱がずに立ちつくしていたが、やがて靴と靴下を脱ぐと、猫をそっと足元に寝かし、部屋に上がっていった。猫の眼がその後ろ姿をじっと追った。
 ほどなくして、パンツ一枚の姿で、男がバスタオルを持ってやってきた。猫を抱き上げると、バスタオルで全身をつつみこみ、そのまま風呂場へ連れていく。脇に猫を置くと、シャワーの水を出し、左手で温度を確かめながら温まるのを待つ。
 男は一度シャワーを止めると、着ていたセーターとシャツを脱いで風呂の外に投げ捨て、猫を抱きかかえた。バスタオルを外してこれも投げ捨てると、シャワーのお湯を弱めに出し、猫の体を洗う。猫はくすぐったそうにもぞもぞしていたが、温かさが心地よいのかしばらくするとおとなしくなり、男になされるがままになった。
 ひとしきり猫の体を洗うと、男は濡れた肌着とパンツを脱ぎ、洗濯機に放りこんだ。新しいタオルを出してきて、自分の体をざっと拭いてから、猫の体をくまなく拭いた。部屋着に着がえると、髪も乾かさないまま、猫を狭い部屋へと抱きかかえていく。

 男の部屋は狭いけれど小ぎれいだった。本棚にならんだ本はレーベルごとにきちんと配置されていたし、服も脱ぎっぱなしにされずにハンガーにかけられていた。
 男は猫をベッドに置くと、ヒーターのスイッチを入れた。買い物袋から牛乳をとりだし、台所に戻った。平らな皿を一枚選び、牛乳を注ぐと、電子レンジに入れた。
 猫はベッドの上で体を固くしていた。危機を脱したことをさとり落ち着きを取り戻したと同時に、徐々に自分が置かれた新しい状況に気づきつつあるようだった。見知らぬ何かに連れられ、知らない匂いのする場所に連れてこられたことに、警戒の色を見せていた。
 それでも、男が床に牛乳の皿をそっと置くと、猫は空腹を思い出したかのように、その皿をじっと見つめた。男は猫を抱きかかえ、皿の前に座らせた。猫は少しためらったのち、皿に顔をつっこんで、しぶきを散らしながら牛乳をむさぼった。
 男はベッドに腰を下ろし、その様子をながめた。笑おうか笑うまいか困ったような表情で。カーテンの隙間から射す西日を、無言でぼんやりと眺めている。
 猫が牛乳をなめる音がやんで、男は視線を猫のほうに戻した。男はティッシュペーパーを何枚かとって、猫が散らした白い飛沫をぬぐった。皿を台所に持っていき、水で軽く流した。
 それから男は再びベッドに腰を下ろし、猫を改めて見つめる。空腹を満たして元気をとりもどしたのか、猫は慎重な足取りで男の部屋を歩き回った。
 男は立ち上がり、窓際に立つと、鍵を開けて窓をわずかに開けた。冷たい空気が部屋に流れこんだ。男は、カーテンの、開けた窓の側だけをひもでくくった。
 いつでも、出ていきたいときに、出ていけばいいんだ。
 歩き回り、あちこちの匂いをかぎ、そこここを見回す猫を見ながら、男はつぶやいた。猫は当然、男の言ったことなど意に介さない。
 ますます冷えていく部屋の中で、ヒーターの電熱線が、逆らうように赤く燃えている。
 男はベッドに入り、明かりを少し暗くした。数分たつころ、小さな寝息だけが部屋をみたした。

 三時間ほどして男が目を覚ますと、すっかり窓の外は暗くなっていた。部屋は冷え切っていた。男は身を起そうとして、ふと隣にぬくみを感じた。猫が体を丸めて目を閉じていた。
 枕元のスタンドライトを点け、猫の寝顔をじっと見つめる。よくよく見ると、きれいな顔立ちをしている。
 その視線に気づいたのか、猫はパッと目を覚まし、男を見た。ニャア、と一度泣くと、猫は男にすりよった。当惑しながら、男は猫の体をそっとなでる。猫は心地よさそうに喉を鳴らし、体の力を抜いた。
 うちじゃ飼えないんだけどな、と独り言ち、男はやれやれというように笑った。
 男は体を起こし、一度ぐっと手足をのばす。あちらこちらがポキポキと音を立てた。
「 しばらく預かるくらいなら……まあ、いいよな。」
 男はそうつぶやくと、財布を手にし、ダウンのジャンパーを羽織った。窓を閉めるのを忘れたまま、部屋、を出ていった。猫は閉められたドアのほうを見つめて、一度、ニャアと鳴いた。

 二時間ほどして、ホームセンターの袋を持って男は部屋に戻った。
 猫など飼ったことがなかったから、店員に必要なものを訊いて、餌と猫用のトイレと砂を買った。重い袋を抱えた男は、部屋の寒さに思わず身をふるわせた。いそいそと靴を脱ぎ、部屋の明かりを点ける。
 男ははたと立ちつくした。猫の姿が見えなかった。
 ベッドの掛け布団をめくりあげても、風呂場を見ても、どこにもいない。開いた窓から外も見た。ベランダはいつもどおり空っぽだった。
 男は抱えた袋を床にどさりと置くと、ベッドに腰かけてため息をついた。思い出したように窓際に寄り、窓を閉めようとして、ためらう。しばらくそうしてから、窓をほんの少しだけ閉めて、猫一匹がぎりぎり入れる隙間だけを残した。相変わらず冷たい空気がそこから入りこんだ。
 部屋の真ん中に放り置かれたホームセンターの袋を、男は部屋の隅に押しやった。それから部屋の明かりを消し、ベッドにもぐりこんだ。

 翌日も、翌々日も、猫は戻ってこなかった。男は窓を開けておくのをやめた。
 それから再び、部屋に誰も、猫一匹さえも訪れない日々が戻った。男はもともとずっと一人だった。友達がいないわけではなかった。しかし、何もない日に部屋に招いたり、用事がなくても会いに行けたりする友達が、男には一人もいなかった。
 平日は仕事をして、ときどき外で酒を飲んで帰った。寝つきはきまって良くなかった。翌日が早いとわかっているときも、眠りにつくのはいつも夜半を過ぎてからだった。
 窓を開けておくのをやめたとき、猫のことは忘れてしまおう、と男は思った。今頃きっとどこかで元気にやっている。それならそれでいいではないか。
 そう思ったのに、男はその夜もなかなか眠りにつけなかった。

 それから二週間後の週末だった。
 男は午前中から起きだしていた。寝つきは悪かったが、寝起きは休日でもそれなりに良かった。
 朝から洗濯機を回し、平日にためこんだ汚れ物をまとめて洗う。二週間前と同じような、抜けるような冬晴れの日だった。脳裏に猫のことがよぎって、そんなこともあったな、と男は頭の中で独り言ちた。
 ベランダの物干しに、洗濯物をならべていく。西を向いているので、朝は日が入らなくていっそう寒いが、男は淡々とシャツや下着を干していく。
 ほどなくして洗濯物を干し終えたとき、男はニャア、という声を聞いた。
 はっとして、男は洗濯物を押しのけ、ベランダの下を覗きこむ。そこには声の主の姿は見当たらない。
 再び、ニャアと声がする。どうやら左のほうから聞こえるらしかった。隣の部屋のベランダだろうか。いぶかりながら、わずかにベランダに身を乗りだすようにして、そちらを覗きこむ。
 はたして、声の主はいた。たしかに男が二週間前に助けた猫だった。姿はよく見えなかった、かいま見える背中の模様は、確かにあの日の猫のものだった。
 どういうことかと思っていると、隣の部屋の窓がカラカラと開く。まあ、今日も来たのね、と女の声が聞こえた。猫はニャアニャアと声を上げた。ちょっと待っててね、いまご飯あげるからね。
 やりとりを聞くのにたえられなくなって、男は部屋に入り、そっと窓を閉めた。
 奪われたなどと思うつもりはなかった。出ていきたいときに出ていけばいい。そう考えて、男は窓を開けていたのだ。そしてまさしく男の願ったとおり、猫は自分の思ったタイミングで、部屋を立ち去っていったのである。
 これでいいはずなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろうと、窓を閉め切られ音を失った部屋に立ちつくして男は考えた。今日も来たのね、という隣人の言葉が思い出される。猫はおそらく、今日より前から、何度も男の部屋ではなく、隣の部屋を訪れていたのだろう。
 ひどく暗い気持ちになって、男はベッドに倒れこんだ。とんだ週末の始まりだ、と男は無理やり笑おうとしたが、余計に疲れた気持ちになる。

 男は週末を、まるで時間を黒く塗りつぶすようにして過ごした。せめて人と会えば気がまぎれるかとも思ったが、自分の気まぐれに誰かをつきあわせるのも嫌だった。うんざりして、日曜日の夜はいつもよりずっと早く部屋の明かりを落とした。もちろんそう都合よく眠りに落ちるわけもなかった。
 いつもどおり夜半過ぎに眠りにつき、いつもどおり目覚めた。朝食もとらず、男は部屋を出る。家からそう遠くない職場まで、原付を走らせる。
 デスクに着くと、パソコンを立ち上げ、缶コーヒーを一口飲む。椅子に腰を下ろそうとしたとき、つかつかと上司が男のほうに寄ってきた。
「おい、山本。」
 声ははっきりと怒りをあらわにしていた。男はうろたえながら、なんでしょうか、と返す。
「先週頼んだ発注だけどな、個数間違ってたぞ。さっき先方から連絡があった。」
 男の顔がさっと青くなる。本当ですか、と聞き返しそうになるが、本当に決まっているから何も言えない。
「お前、もう四年目だよな。こんな初歩的で、一番やっちゃいけないミスを、どうして今になってまでできるんだよ。」
 すみません、と声が小さくなる。真正面からにらみつける上司の目を、男は直視できない。
「すみませんで済むならいいよ。でももう納品まで終わってるんだよ。すみませんだけじゃしょうがないところまで話進んじゃってんだよ。なあ。」
 周りの目がちらちらと、男と上司のやりとりに向けられる。無言で向けられる視線を、男は背中にいくつも感じていた。
「……先方と相談して、それが済んだら報告しろ。」
 上司はそう言い残して立ち去った。はい、と男は小さく返事をして、ひっそりと椅子に腰を下ろす。口が渇ききっていた。ぬるくなったコーヒーを一口飲み、男は額をおおってため息をついた。

 結局、取引先に平謝りして、男はなんとか事の収拾をつけた。
 それでもその日はうんざりした気分が終始ぬぐえず、男は一人で酒を飲んだ。なじみの店の店主は、月曜からなんて珍しいですね、と声をかけた。ちょっとやらかしちゃって、とごまかして、男はビールとウイスキーを一杯ずつ飲んだ。
 結局、仕事でミスをしたことは話さなかった。話してしまえたらと思っているうちに、隣の席に客がやってきて、つまらない話をべらべらとまくしたてた。相槌を打つのにも疲れた男は、翌日に響かないようにと早めに店を出た。
 帰り道、男はふと、あのとき猫なんて助けなければ、と思った。多少酔いが回った頭で、夜空を見上げる。明るい星だけが、街灯のある空でもきちんと光って見えた。

 部屋に帰って、明かりもつけずにベランダに出て、男は煙草に火をつけた。
 今日も隣に猫は来ているのだろうか、と男は思った。俺をすりぬけるようにして去っていった猫。思わず男は笑った。
 一本吸い終わって、どうしても物足りない気がして、もう一本を口にくわえたとき、左隣で声がした。
「ねえ、あんまり危ないマネしちゃだめだよ。せっかく拾ってもらった命なんだからさ。」
 何の話だろうかと、男は耳をそばだてる。
 猫の鳴き声が一つした。
 男はライターを持ち上げかけた右手をとめる。
「あのとき川から拾ってくれたお兄さんのおかげで、きみは生きていられてるんだから。ちゃんと感謝して、しっかり生きなきゃいけないんですよ。」
 男が息をのんでいると、猫の鳴き声がまた一つした。すると隣で、あ、こら、と叱るような声がする。男は思わず左のほうを覗きこんだ。
 二週間前に助けた猫が、ベランダの縁にすっくと立って、まん丸い目で男を見つめている。その目を離さず、すたすたと男のほうに歩み寄ってくる。
 言ったそばから危ないことして、という女の声がしたと思うと、ベランダから顔がのぞいた。男はどきりとして顔をひっこめようとしたが、それより前に、
「あ、あのときの!」
 と、のぞいた顔が声を上げる。男はおずおずと頭を下げる。
 猫がそっと男にすりよる。二週間前、午睡のまどろみの覚めやらないなかで感じた確かなぬくもりを、男は思い出す。
「お隣さんだったなんて。」
 隣人がにこりとほほえむ。男も思わずつられて笑った。
「あのときのすごくかっこよかった、お兄さん。」
 そんなんじゃないんだ、と男は心の中で思う。全然かっこよくなんかないんだ。
 でも、なぜだか笑えてきて、それでもいいと男は思った。 
「よかったら、その子に会いに行っていいですか。今から。」
 隣人が楽しげに言った。男はもちろん、と笑った。猫がまた一つニャアと鳴いた。

体温

体温

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-19

Copyrighted
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