凍える夜は夢の中に君を訪ねていくよ
第一章
1 (2006年 12月24日)
「世界は愛であふれているのに、なぜ私達は恵まれないのかしら?」
ヨシコさんは二人用のテーブル席に腰をかけると、楽しげな喧噪でにぎわっている店内をぐるりと見回して言った。
「どこを向いても幸せそうなカップルばっかり。ちょっと癪に障るわね」
確かにクリスマスを数日後に控えた居酒屋は、十九時台という早い時間帯なのにも関わらず、男女二人連ればかりで賑わっていた。
「きっと僕らだって、そう見えるよ」僕は言ってみた。
「年の差が十歳以上もあるのに? キミはこんなおばさんが恋人でもいいのかしら?」
「まったく問題ないさ。こっちはデートのつもりなんだから」
ヨシコさんは『それはうれしいわね。私の方も、今夜はキミに会うから、若めで頑張ってみたのよ』と言って明るく微笑んだ。
肩までの黒髪とタイトなデニム。タイトな白のタートルネックセーターの腰に巻いたスタッズベルト。そしてよく動く大きな瞳。派手目の着こなしのせいなのか、ヨシコさんは三十四歳のはずなのに、相変わらずそんな年齢には、これっぽっちも見えなかった。
ヨシコさんはビールやつまみなんかの注文をテキパキと済ませると、傍らに置いたバックの中から、赤と緑でラッピングされた紙袋を取り出し、どこか得意げに僕に見せた。
「まずは、ありがとうって言って欲しいな」
「僕に?」
「もちろんよ。ちょっと早いけれど、メリークリスマス。開けてみて」
中には洒落たマフラーが入っていた。ベースの色合いはチャコールで、ふさふさした編み目の中に、オレンジやグリーンの細い毛糸が編み込まれていた。僕はお礼を言った。
「今、そういう柄が流行っているのよ」
ヨシコさんは僕の手からマフラーを取ると、そのままこちらの首にクルクルと巻きつけた。そして、何かの出来映えを確かめるように、自分の真正面に据えた僕の顔をじっくりと眺めた。
「なんだか微妙」ヨシコさんは吹き出すように笑った。
「キミって、素材はそんなに悪くないんだから、もう少しお洒落に気を遣った方がいいと思うけどな。美大生なんだから、センスって大事なんでしょ? そういうラフなスエットもいいけれど、たまにはカチッとした格好をしてみればいいのに」
ヨシコさんを姉に例えるのには、ちょっと年の差がありすぎる。かと言って、僕らの関係をうまく言いあてる丁度よい言葉が見つからないのだけれど、僕にとってのヨシコさんは、恩人とか先輩とか親友とか、あこがれの人とか、そんな言葉を全部合わせたような大切な存在だった。
僕らが出会ったのは九年前のことになる。その時、僕は十歳前後で、ヨシコさんは二十代中頃の看護婦だった。僕は、彼女が勤めていた大学付属病院の小児病棟に長い間、入院していたことがあり、それが縁で親しくなったのだった。
今では彼女は、私立の保育園で保母兼看護師として働いていた。
僕もポストマンバックからプレゼントを取り出して差し出した。
「こっちもメリークリスマス」
彼女は『ありがとう』と言うと楽しそうに包装紙を空け、中に入っていたものを両手で広げて見せた。
「この柄、面白いわね。茶色の生地に、白いトナカイ柄なんて初めてみたわ」
僕がヨシコさんに選んだものはエプロンだった。値段的にも安価だし、好みの色や柄をはずしてしまっても、保育園なんかでそれなりに使い道があると思ったからだった。
Webでショップ巡りをしている最中、偶然、フィンランド製の雑貨類を輸入しているところに行き当たり、モダンアートっぽい柄のエプロンを見つけたのだった。
「本当のことを言うとね、男の人に何かプレゼントしてもらうなんて、久しぶりなの」
「こっちもだよ。女子にプレゼントすることなんて、まったくないから」
「なんだか、お互いに充実した人生を歩んでいるわね」ヨシコさんは開き直ったような、暗さが微塵も感じられない笑顔を見せた。
僕らは二人とも、そんなにお酒が飲める方ではなかった。テーブルに手羽の焼鳥や刺身盛りなんかが並んだ頃合いを見て、どうも量をもてあましてしまうジョッキサイズの生ビールから、のんびり飲める焼酎のお湯割りに切りかえた。
ヨシコさんは、最近の出来事を勢いよく話し続けた。
勤める保育園では延長保育の願い出が急増して残業が増えているのに給料がまったく変わらないこと。運勢がいい日もあるのになぜか毎日不運ばかり続いていること。よい出会いがないこと。そして、切り上げると大台に乗ってしまう来年こそは本当の勝負の年になること。笑ったり、怒ったり、表情豊かに語られる彼女の話は、聞いていてとても楽しく、僕の方は、いつものように適当にあいづちを打っていればよかった。
クリスマスカラーで彩られた駅前の通りを歩いている最中、並んで歩いていたはずのヨシコさんが後ろの方で立ち止まっていることに気づいた。
「どうしたの?」僕は振り向いてたずねた。二十二時を過ぎた夜の空気は凍える程冷たく、視界の下の方に、真っ白な自分の吐息が揺らめいた。
「キミに話した方がいいのか、本当はものすごく迷ったの。でも、預かったものもあるし、やっぱり、ちゃんと話しておかないといけないわ」彼女はそう言って僕の前に立った。
「木村海美さんのお母さんのことなの」
僕はキムラアオミという名前に、まったくの無防備だった。
久しく耳にしていなかったその名前の響きは、まるでナイフのように易々と僕の心をえぐり、鋭い痛みを与えた。にぎやかだった雑踏の物音が小さくなり、警告するような鋭い金属音に変わっていった。どこか胸の深いところに、大切なものを失い、空っぽのままになってしまった場所があった。足元があやうくなっていた。
「ちょっと、大丈夫?」
気がつくと、ヨシコさんが心配そうに僕の腕を掴んでいた。
「……ああ、平気だよ」
「そんなに驚くなんて思っていなかったの。前置きがなくて、悪かったわ」
「ううん、もう大丈夫だよ」僕は息を整えて言った。「彼女のお母さんのことだったよね?」
「ええ。今、入院しているの。この前、お見舞いに行ってきたのよ」
「……入院って、悪いの?」
「癌らしいの。もう手が尽くせないそうよ」
短く冷酷に響く病名に、僕はその場にへたり込んでしまうような無力感を覚えた。
かつて僕は小児癌を患い、入院先の病院でアオミという名を持つ少女と出会った。二年近くもの入院生活の間、僕と彼女は、いつもベッドを並べ合っていた。
もちろん、彼女の母親のことは忘れる訳がなかった。お母さんが僕のことを認めてくれなければ、僕がアオミの側にいることなんて最初からできなかったのだから。
「君には言っていなかったけれど、私、一時期、アオミさんのお母さんに、特別に親切にしてもらっていたことがあるのよ。この前、久しぶりに電話があって……、本当に驚いて、悲しくなってしまったわ」
彼女はシルバーフェザーが飾られた飴色のレザーバックを開いた。
「入院する前に持ち物を整理していたら、君と一緒に写っているアオミさんの写真を見つけたそうよ」彼女は厚さのある封筒を僕に向かって差し出した。
「お母さん、君のことを懐かしがっていたわ。あの時は、最後まで、娘にやさしくしてくれてありがとうって」
僕は目の前に差し出された封筒から、目を離すことができなかった。
「ねえ、今でも、そんなにつらいの?」
僕は何も答えることができず、黙って封筒を受け取った。
「少し位は楽になったりしないの?」
「……もう平気だよ」
「嘘」
「嘘じゃないさ」
少しの間があった。やがて彼女が言った。
「ごめんなさい。少し、出しゃばりすぎちゃったわね」
「ううん。ヨシコさんが謝る必要なんか、何一つないよ」僕は首をふって言った。
ヨシコさん深いため息をついた。その口元で白い吐息が揺らめき、すぐに消えていった。
「私はね、ただキミに、もっとハッピーになって欲しいだけ。人を好きになるとか、愛されるとか、そんなことよ。何とかしてあげたいの」ヨシコさんは言い終えると、僕の頬に手を伸ばし、励ますように軽く叩いた。
「本当に、それだけなのよ」
◇◇◇
写真をめくってみるまで、記憶がこんなに曖昧なものだとは思ってもいなかった。
わずか十年にも満たないことなのに、写真の中のアオミの姿は、微妙にずれてしまった写し絵のように、僕の記憶に刻まれた姿と、ぴったりと重なり合おうとしなかった。
結局、記憶なんていうものは、どんなに大切に保管しておいたつもりでも、微生物に蝕まれてしまったアルタミラ洞窟の壁画のように、時間とともに輪郭がぼやけ、色褪せ、少しずつ確実に失われていってしまうのだろう。それなのに、まったく劣化を感じないのは、きっと追憶なんかを繰り返す度に、無意識に失われた部分を補修したり、時にはこっちの都合のよい形に塗り直したり、そんな独りよがりの作業が灰色の脳細胞のどこかで行われているせいなのだ。
実際に、写真に記録されていたオリジナルのアオミは、記憶にある姿よりもずっと痩せて見えたし、瞳や口元などの印象がだいぶ違っているように思えて、僕を戸惑わせた。
封筒の中の写真は、全部で三十枚近くあった。
ベッドに並んで腰をかけ、カメラに向かって笑顔を向ける十一歳の僕と十二歳のアオミ。小児病棟の入り口を飾ったクリスマスツリーの横に、おそろいのような医療用のニット帽をかぶって並んで立つ僕ら。僕の隣りに座って十三歳のバースデーケーキをうれしそうに指差すアオミ。中には白衣姿のヨシコさんを真ん中に、たまに散歩した病院の中庭のベンチに三人仲良く並んで座っている写真もあった。
それらには、二年分の僕らの姿が記録されていた。
小児癌の完治率は七割位で、確率で言えば、運悪く未熟な体のどこかに悪性の腫瘍が見つかったとしても、三人に二人以上が過酷な治療の現場から還ることができるはずだった。
しかし、僕らに幸運はもたらされなかった。
二つ同時に叶わなければ、意味なんてなかったのに、叶えられた願いは片方だけで、何かの気まぐれに生かされた僕にしても、それほど望んでいなかったことへの代償として、色相がごっそりと抜け落ちてしまったような、どこか現実感が足りないような日々を過ごすように強いられていた。
僕らは、一緒に過ごした二年の間に、いくつもの約束や誓いを交わし合った。それらはもう、絶対に果たされることはないのだけれど、僕の心から欠落してしまった部分は、アオミと二人で過ごしたあの病室にいまだ留まり続け、それらが約束通りに履行されることを、今も強く求めているのだった。
2
翌日の午後、僕はヨシコさんに教えてもらった病院を訪ねた。
その病院はJR中野駅から北西の方向に十分程歩いた所にあり、ガラスウォールが多用されたエントランスホールには、赤と緑のツヤツヤした二色のカラーボールだけが彩るシンプルで上品なクリスマスツリーが飾られていた。
病室は、五階のナースステーションの真横にある個室で、大きなスライド式のドアには『面会はお断りします』という札がかけられていた。
ノックをしてみたものの、内側から返事はなかった。もう一度ノックを繰り返そうかためらっていた時、突然、扉が開いた。そこには、僕と同年代と思える女の子が立っていた。
彼女はまっすぐに僕を見ながら言った。
「何かご用でしょうか?」
僕は、目の前の女の子にどこか見覚えがあるような気がして、少しあわてながら見舞いに来たことを告げた。
彼女は軽く頭をさげ、自分は付き添い役の親戚の一人だと言い、あえて感情を含ませないような平坦な声で言葉を続けた。
「わざわざ来ていただいたのに申し訳ないのですが、本人は、具合が悪くなるばかりで、もう、身を起こすことも難しくなってしまいました。これ以上は、病気でやつれた姿を、みなさんにお見せしたくないという本人の強い希望もありますので、せっかくなのですが、どなたのお見舞いでも、お断りさせていただいています」
あんなにも僕に親切にしてくれたアオミのお母さんが、この扉の向こうで、娘と同じ類いの病で最後の時を迎えつつあり、しかももう、一言も感謝の言葉を伝えることができなくなってしまったことに、僕はいきどおるような深い悲しみを覚えた。
ここで僕にできることは何一つなかった。
僕は仕方なく、お土産に買ってきた果物を手渡しながら自分の名を名乗り、人づてにもらった写真のお礼や、子供の頃の親切に今もとても感謝していることを伝えて欲しいと、その女性に託した。
「わかりました。そのように伝えます」彼女は短く答えると、こちらに向かって頭をさげ、病室の中に戻っていった。
僕は親戚を名乗った女性になぜ見覚えがあるのか、記憶を探りながら下りのエレベーターに乗った。
脳細胞のどこかに手がかりが引っかかっているような落ち着かない感覚。僕のもの覚えには多少混乱した部分があるため、まれに知った顔でも思い出すのに時間がかかってしまうことがある。しかしこの時は、いくら集中しても、記憶の中に一致する顔を見つけ出すことができなかった。
病院の自動ドアを通り抜けた瞬間、口笛のような音を立てた冷たい風が体をひと薙ぎし、一瞬で暖かさを奪い去っていった。僕はタイトフィットのウールコートのジッパーを一番上まで引き上げた。
やりきれない思いが足首を掴んでいるようで、なかなか歩き出すことができなかった。
その場でヨシコさんに連絡をしようと携帯を開き、すぐにあきらめた。保育園で忙しく働いている彼女が、こんな時間に私用の電話に出られる訳がなかった。
仕方なく、中野駅に向かおうと足を踏み出した時、後ろから声をかけられた。
「すいません、待ってください」
振り返るとそこには、さっき病室で出会った女の子が立っていた。彼女が言った。
「あずかったものがあります。話を聞いてもらえますか?」
彼女は病院の一階の片隅にある、ドリンク類の自動販売機が設置された休憩コーナーに僕を誘った。僕らは樹脂製の白いテーブルに向かい合う形で腰を下ろした。
長い睫に縁取られた切れ長の大きな瞳と、肩のところで切りそろえた真っ直ぐな黒い髪。そして大人びたすらりとした容姿からは少し違和感を抱かせるような、あどけない厚めの唇。あらためて正面から目にした彼女は、どこか冷ややかな印象を抱かせるものの、かなりの美貌の持ち主だった。
「これを、あなたにと言っていました」彼女はそう言うと、手にした紙袋の中から、写真立てを取り出して僕に差し出した。
「一番気に入っていた写真らしいです」
それは僕にも見覚えがある、七歳の頃のアオミのスナップ写真だった。
水着姿の幼いアオミがカメラに向かって輝くような笑顔を浮かべていた。この写真を僕に見せてくれた時、彼女は背景に写っている海は、母親の実家があった三重県小山浦の海水浴場だと教えてくれた。僕らは、いつか一緒にそこを訪れようと約束を交わしていた。
僕は、『ついこの間、沢山写真をもらったばかりだし、こんな大切なものをもらうわけにはいかない』と断った。
手に持ってみた写真立ては、まるで何かの金属の固まりのような重量感があった。
厚い縁を飾るアールヌーボー調の蔦や花鳥。その所々に埋め込まれた、グリーン系の色調に統一された大小の天然石。古美術品の目利きにまったく縁のない僕でも、なにか特別な価値があるものだと直感できる、精巧に作り込まれたアンティークだった。
「本人の希望なのですから、遠慮はいらないと思います。もらってください」彼女は表情を変えず、どこか投げやりにも聞こえるような口調で言った。
その時、僕は、目の前の女性が誰に似ているのか、やっと気づいた。
それは驚いたことに、写真の中のアオミだった。
似ていると言っても、すべてがそっくりという訳ではないし、なによりも年齢が離れすぎていた。しかし、写真の中の七歳のアオミと、僕の記憶に刻まれている十三歳のアオミと、そして目の前に座る女の子の姿は、物腰や雰囲気が違和感なく重なり合い、まるで一つの時間軸で結ばれているように思えたのだった。
「よく似ていますね」僕は言った。
「私と、この写真の女の子ですか?」
彼女は、僕の言葉に驚かされたようで、自分自身と、アオミの写真を交互に指さした。
「ええ。そうやって見比べてみると、よくわかりますよ」僕は言った。
目の前の女性はじっとアオミの写真に目を落した。そして、聞き取ることができない程、小さな声で何事かをつぶやいた。
彼女はそのまま凍り付いたように、アオミの写真を見つめ続けていた。僕は話が途中で止まってしまったことにとまどい、彼女に訊ねた。
「何か、気に障ることがありましたか?」
彼女は首を振って言った。
「少し聞かせてください。あなたにとって、あの人はどんな存在だったのですか?」
彼女が口にした『あの人』という言葉には、どこか軽蔑を感じさせるような、否定的な響きが含まれていた。
「ええと、それは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味ですよ。いい人だったとか。それとも、悪い人だったとか……」
僕は戸惑いながらも、『子供の頃にとても親切にしてもらったし、間違いなくいい人だと思っているし、できればその時のお礼の言葉を、直接言いたかった』と答えた。
彼女は何の感情も読み取れない表情で、僕の言葉に耳を傾けていた。そして、僕の話が終わった後も、なかなかその姿勢を崩そうとしなかった。
やがて、彼女が言った。
「さっき、私はあの人の親戚だと言いましたけど、あれは嘘です」
僕は『嘘』という意味がわからず、そのまま彼女の言葉の続きを待った。
「私は、あの人の娘です」
「まさか」
「いいえ、事実です。だから私と、この写真の女の子が似ていて当たり前なんです。姉妹なのですから」
その言葉が本当なら、アオミには妹がいたことになる。
けれども彼女のところは母娘二人だけの母子家庭だったはずだし、姉妹がいるなんて話を聞いたことは一度もなかった。実際、一緒に入院していた二年もの間、彼女の父親や兄弟姉妹を名乗る人物が病室に姿を見せたことは一度もなかった。僕は混乱して訊ねた。
「ええと、それは事実なんですか?」
「私があの人の娘であることは、戸籍でも確認していますから間違いありません」
『戸籍』という言葉が、狭い病院の休憩スペースにひどく場違いに響いた。
僕が見つめていることに気づくと、彼女は、何かに挑むような冷ややかな視線をこちらに向けた。
「親しくしている親戚が、私の実の母がこの病院に入院していて、もう長くはないことを教えてくれたのです。ここに来たのは三日前ですが、ギリギリだったみたいですね。担当の先生の話では、もう、いつ逝ってしまっても不思議ではないそうですから」
◇◇◇
僕はアオミの写真を机の上に飾ってみた。
精巧なアールデコ調の写真立ては、それ自体が際立つような存在感を放っていたため、僕が借りている京王線千歳烏山駅から徒歩十分という格安賃貸物件の殺風景な六畳間には、まったく不釣り合いな代物に見えた。
実際、僕はプアーな学生だった。
美大の授業料には奨学金をあてているし、日々の生活費のためにはバイトが欠かせなかった。お金の使い方をいい加減にしていると、必ず月末のやりくりに苦労するので、日々の収支なんかをノートに書き留めていた。
とは言っても、今の生活がつらいとか逃げ出したいとか、そんな風に思ったことは一度もなかった。多少貧しくても、すべては自分でコントロールできる範囲内にあったし、本当に困り果てるようなことは一つもなかったからだった。
アオミの写真を眺めていても、ささくれ立ったような感情はなかなか落ち着かなかった。
「私の父は、あの人と結婚していた時期がありました。六年近く連れ添い、この頃に姉が生まれているはずです。離婚の原因は父の不倫で、とてもひどい別れ方をしたそうです。ところが、正式に離婚した数日後に、私の妊娠が発覚したのです。あの人は、堕ろしたりしないで私を出産しました。でも、産んだその日に、愛人と暮らしている父のところへ、私を置き去りにしたのです」
僕はアオミの妹だという彼女の話を、そのまま信じることができなかった。アオミへの深いやさしさを振り返れば、彼女の母親は、そのような残酷な行為から一番遠い所に立っている人間のはずだった。
しかし、なおも彼女は、憎悪を包み隠したような平坦な言葉で、母親の非を語った。
「最初にここに来た時、あの人は、私のことを自分の娘だとなかなか認めなかったんですよ。持っていた戸籍謄本を広げて見せるまで、『自分に娘は一人しかいない、あなたは誰なの? どうしてそんな嘘をつくの?』って言い張るだけで、私の話を信じようとしませんでした。一応は、かなりの勇気を出して会いに来た娘を、そんな態度と言葉で迎えるなんて、いくら何でも、ひどい話だと思いませんか?」
彼女はそれでも、空いている時間のほとんどは、母親に付き添っていると話した。
強い痛み止めのせいで、朦朧としている時間がますます増えているものの、たまに意識がはっきりとする時間があるらしく、その時に、どうしてこのようなことになったのか、その理由を本人からちゃんと聞き出したいのだと語った。
最後に彼女はアオミの写真が入った紙袋を僕に向かって差し出した。
「もしかしたら私の姉は、あなたにとって、初恋の人だったのですか?」
僕は『ええ』とだけ答えた。彼女はその言葉に満足したのか、小さくうなずいた。
「結局、あの人は、幸せな人生を歩んできた訳ではないようですね。それが、せめてもの救いかもしれません。私が付き添ってからお見舞いに来たのは、あなた一人だけですから」そう言って彼女は立ち上がった。
僕は、彼女の話と、手にした紙袋の重さにとまどいを感じながら、大切な写真を頂いたことへのお礼をお母さんに伝えて欲しいと彼女に語った。
「…何か手伝えることはありませんか?」僕は最後にたずねた。
「大丈夫です。付き添う時間も、もう長くはないはずですから」
◇◇◇
僕は携帯に出たヨシコさんに病院での出来事をすべて話した。
彼女は僕の話にとても驚いた様子で、しばらくの間、言葉を失っていた。
「アオミさんのお母さん、確かに『自分への罰』だと言っていたわ」
ヨシコさんは何かを思い出しているためなのか、感情を失した声で、つぶやくように言った。
「実は一度だけ、アオミさんの下に二歳違いの妹がいることを打ち明けられたことがあるの。その人、『自分は産み捨てられた』って本当に言っていたのかしら?」
「うん」
「それにアオミさんのお母さんは、その人のことを、なかなか自分の娘だと認めなかったのね?」
僕は『どうもそうらしい』とだけ答えた。
「…確かにひどい話だわ」彼女はそれだけ言うと、再び黙り込んでしまった。
僕はヨシコさんの言葉を待った。
やがてヨシコさんは大きなため息をつき、『長い話になるから、電話ではこれ以上のことは話せない』と語った。僕らは二日後に、再び吉祥寺で待ち合わせすることを約束し合った。
ヨシコさんは最後に言った。
「今日の話はキミにはショックな出来事だったと思うわ。でもね、大抵の人は、他人には打ち明けられない事情を一つくらいは背負っているものよ。だからもしも、アオミさんのお母さんに何か大きな非があったとしても、それだけで悪い人だとは思わないで欲しいの。できるのなら、あなたにとって、どんな人だったかで判断してあげて欲しいの」
僕はその通りにすると答えて携帯を切った。
電話を切った後も、疑問符の断片があちこちにさ迷い走り、なかなか心を落ち着かせることができなかった。
仕方がないので、僕は机の上の写真立てがちょうどよい位置に見えるよう、六畳間の中央にイーゼルを立て、三菱のBの鉛筆を手に取った。
こんな時はとにかく手を動かしていれば気が紛れる。
実際、幼いアオミの姿が飾られた写真立ては、デザインが精巧な上、真鍮や天然石など、異なる材料が組み合わされているので、静物デッサンの練習には格好の素材だった。
僕は写真立て全体シルエットを確かめ、その純粋な形だけを取り出すように心がけながら、寝かせた鉛筆をゆっくりと走らせた。
3 (1997年)
コウの場合、異変に気づいたのは小学五年の一学期が終わりかけた頃で、最初に現れた症状は、一向に直らない鼻づまりだった。
近所の小児科医は、彼の鼻の奥をちらりとのぞき込んだだけで、『鼻炎でしょう』と断言するように言い、アレルギー性鼻炎に効くという薬の処方箋を二週間分も出した。しかし、薬を飲んでも鼻づまりはひどくなる一方で、やがて彼は、微熱や体のだるさにも悩まされるようになった。
そんな症状が五日程続いたある日、さらに今度は、左目の視界の中に薄ぼんやりとした、蜘蛛の巣のような影が見えていることに気づいた。
彼の訴えに、母親は近所にある眼科を訪ねた。そこの白髪の眼科医は、彼の目を診察すると、すぐにこれは目や鼻の病気ではない恐れがあることを母親に告げ、この後、直ちに都内の大学付属病院で検査をしてもらえるように手配してくれた。
結局のところ、コウの鼻腔の奥深くに発生した悪性の肉腫が大きくなり、鼻腔やら視神経やらを圧迫していたことが鼻づまりや視覚異常の原因だった。
翌日から、彼は小児病棟に入院することになった。
荷物を持って訪れた病室は三人部屋で、そこには女の子が一人だけ入院していた。それが木村海美だった。彼女はコウよりも二日程早く、ここに入院していた。
入院した当日、挨拶を交わした際に、すぐにうち解けた様子を見せた母親同士とは異なり、コウは挨拶の言葉すら満足にアオミと交わすことができなかった。お互いに目を合わせないように注意しながら、小さくうなずき合って終わりだった。
その時、彼は一人っ子育ちの十一歳の少年で、女の子という存在がよくわからなかったし、また、一歳年上という少女に話しかけることが、何かとても難しいことのように感じていたのだった。また同室となった彼女の方も、無口な年下の男子に取っつきにくさを感じていたのかもしれなかった。
コウはアオミを見習い、付き添いが誰もいない時はベッド回りをカーテンで囲って過ごすように心がけた。そしてお互いに、余計な干渉しないように気をつけ合っていた。
翌日の午後、幼い男の子がキャスター付きのベッドに寝かされて運ばれてきた。
パジャマからのぞく青白い手足が、目をそむけたくなる程やせ細っていた。荷物を両手に持った母親がすぐ側に付き添い、何度か励ますように声をかけていた。
男の子は病室のベッドに移されると、回りの様子を確かめようとしたのか、ゆっくりと髪の毛のない顔をあげ、ベッドに身を起こしていたコウやアオミの姿を交互に見つめた。
コウの母親は、アオミの母親とすぐに親しくなったように、新しい入院仲間となった男の子の母親に何事かを話しかけ、大きくうなずき合っていた。
すぐに彼は、男の子は良樹という名で、五歳の時から半年間治療を続けている血液の病気の経過が思わしくなく、他の病院からここに移ってきたことや、症状が重い入院患者用の個室が塞がっていて、当面はこの病室に入院することになったことを母親から教えられ、何かあった時にはやさしく接するようにときつく命じられた。
この病院では、終夜の付き添いができるのは週末だけに限られていたため、ヨシキは転院してきた初日から一人で夜を過ごすことになった。
二十一時の消灯時間後、コウはヨシキのベッドから、悲しそうなすすり泣きが聞こえてくることに気づいた。
彼が様子を見てみようかと思った矢先、閉じたカーテンの合間から、起き上がったアオミがヨシキのベッドに向かう姿が見えた。
「どうしたの?大丈夫?」彼女は小さな声で話しかけていた。しかし、悲しそうな泣き声は収まろうとせず、その内、ナースコールを押した音が病室に響いた。
時を置かずに急ぎ足で誰かが病室に入って来た。
カーテンからコウが顔を出してみると、今村美子がこちらに向かって軽くうなずき、ヨシキのベッドの傍らに立つアオミに『どうしたの?』と声をかけた。
彼は看護師の中で一番最初にヨシコの名前を覚えた。
入院した翌日の朝、初めて病院で夜を過ごし、寝不足気味でぼんやりとしていたコウの元へ、検温にやって来たのが彼女だった。
『君が無口で有名なコウ君ね、隣のベッドを使っているアオミさんが、さっき、まだ君の声を聞いたことがないって言っていたわよ』と冗談っぽく笑いかけ、『あんまり眠れなかったかな?初めての夜は』と彼の顔を覗き込んだ。
そしてデジタル体温計を脇に挟むようにと言って差し出し、白衣のポケットから丸いナースウオッチを取り出して彼の手首を取った。彼女は『一分間だけ、動かないでね』と言って微笑んだ。
その時の笑みがコウの心に深く残った。
それはどこか懐かしさを覚えさせる優しい笑顔で、時計に目を落とすおだやかな表情を見ていると、なぜか彼は、気心を許した誰かが側にいる時のような、満ち足りたあたたかさを感じることができたのだった。
コウは胸のネームプレートに描かれた今村美子という名前をそらんじて覚えた。そして、次の検温の時から、彼女がやってこないかと期待するようになっていた。
ヨシコは、アオミから話を聞くと、自分のベッドに戻るように彼女を促し、ヨシキのベッドの脇に腰をかけた。そして、そのまま彼の体を抱え込むようにして、小さな声で何事かを囁き、彼の背中をゆっくりとやさしく叩き始めた。
ポンポンポンと、果てしなく続くような単調なリズムに、コウまで眠りに引き込まれそうになっていた時、ノックの音が響き、別の看護師が急ぎ足で病室に入ってきた。慌てた様子の看護師は、小さな声でヨシコに何事かを訴えていた。
看護師が再び急ぎ足で病室から出て行くと、ヨシコは再びヨシキの身体を同じリズムで叩き始めた。しかし、眠りに落ちかけたところを起こされたためなのか、彼は不機嫌そうな泣き声をあげた。
しばらくすると、再びノックの音が響き、別の看護師が入ってきて、同じことが繰り返された。
看護師が出て行くと、ベッドから起き上がったアオミが囁き声でヨシコに訊ねた。
「どうしたんですか?」
「ごめんさないね、ドタバタしてしまって。正直に言うと、今夜はお休みの人が多くて、人手が全然足りていないの。これじゃあヨシキくんどころか、あなたも寝られないわね」ヨシコは困ったように言った。
「だったら、私もお手伝いできると思いますけど」
「お手伝い?」
「はい。ヨシキくんのこと、私が代わりに寝かしつけてあげてもいいですか?」
「あなたは病人だわ。そんなことはできないのよ」
「でも、その位なら、私でも大丈夫だと思います。今なら、具合も全然悪くないし……」
「どうしてお手伝いしようなんて思うの?」
「ヨシキくんのお母さん、帰る時に付き添いができないことをすごく心配していて……。それに私、小さい子が好きなんです」
「やさしいのね」
アオミは照れたような笑顔を浮かべた。
「……確かに夜の検温で熱はなかったわね。頭痛はしない?」
「平気です」
「本当に無理をしていない?」
「はい」
「わかったわ。すぐに戻ってくるから、あなたにお願いするわ」
「はい」
アオミは嬉しそうに答えると、ヨシコと入れ替わるようにベッドに腰をかけた。
そしてヨシコは、『困った時はすぐにナースコールを押すように』と言い残し、急ぎ足で病室から出て行った。
アオミは優しい言葉で、囁くようにヨシキに話しかけた。
「大丈夫。怖くないから。泣かなくてもいいんだよ。一人じゃないよ、心配ないから」
しかし、何度も眠りを破られたせいなのか、ヨシキのすすり泣きは、まったく収まる気配がなかった。
コウがカーテンの隙間越しに様子をうかがっていると、急にこちらを振り向いたアオミと目が合ってしまった。覗き見を見つけられたようで、きまりが悪い思いをしていた彼に向かって、彼女が手招きをした。
コウがベッドから降りて傍らに行くと、彼女が囁き声でたずねた。
「キミはヨシキくんと何かお話ししたことがある?」
彼が『ない』と答えると、彼女はうなずいて言った。
「側にいるキミがどんな人かわからないと、きっと、ヨシキくんも怖いと思うの。何か話しかけてあげてくれる?」
コウはアオミに言われた通り、ヨシキの顔をのぞき込んで、『やあ』とか『大丈夫だよ』とか、何度か声をかけた。ヨシキは、泣きはらした顔で彼の顔を見上げた。
「ほら、このお兄ちゃんも、全然、怖くないでしょ?」
それからも彼女は、やさしい口調でヨシキに言葉をかけ、背中をゆっくりとしたリズムで叩き続けた。
コウはその側に立っていた。
薄暗い病室の中でアオミが囁く言葉は、まるで眠りに引き込む呪文のように思えた。
彼はそんな風に、一人の女の子の横顔をじっと見つめたことなど一度もなかった。
彼女の睫はとても長く、笑顔を浮かべた時に小さなえくぼができることがわかった。コウが通っている学校のクラスメートの中には、目の前の少女のように、はっとさせるような可愛らしさを持った女子は一人もいなかった。
彼は不思議な感覚を覚えた。それは何か胸がせつなくなるような、憧れにも似た感情のうねりだった。
やがてヨシキは泣きやみ、同時に眠りに落ちていた。
彼女は身を起こすと、コウが近くにいたことに気づき、驚いた様子をみせた。
「ずっとそこで見ていたの?」。
彼はうなずいた。
「恥ずかしいでしょ」彼女は責めるように言った。
コウが『ごめん』という言葉を口ごもっている間に、彼女は静かにベッドから降りてスリッパを履き、彼の目の前に立った。
「一応、言っておくからね。キミも側に来てくれて、ありがとう」
アオミは言い捨てるようにして、自分のベッドに戻っていった。
すぐにヨシコが音を立てないように扉を開け、病室に戻ってきた。彼女は眠り込んだヨシキの様子を確認すると、ベッドに身を起こしたアオミをそのまま両腕で抱きしめ、感謝の気持ちを伝えるように左右にゆっくりと揺すった。
「ありがとう。今夜はすっかりあなたに助けられちゃったわね」
「そんなの、大げさです」
「謙遜しなくてもいいのよ。このお礼はちゃんとするから、楽しみにしていてね」
ヨシコがそう言って出て行った後も、コウは目が冴えてしまい、なかなか寝付くことができなかった。閉じたまぶたの裏には、やさしく囁くアオミの横顔がいつまでもちらついていた。
4
翌朝、アオミは目覚めるとすぐにヨシキの傍らに行って声をかけていた。
『昨日は眠れた?』、『変な夢とか、見なかった?』、『どこか具合が悪くない?』、午前の面会時間と同時に、心配そうな様子の母親が病室に入ってきた頃には、ヨシキはすっかり彼女になつき、小さな笑顔さえ浮かべるようになっていた。
母親は、そんな二人の姿に驚いた様子を見せ、『やさしいお姉さんが一緒でよかったわね』と彼に笑顔で話しかけ、アオミに何度も『仲良くしてくれてありがとう』と感謝の言葉を繰り返していた。
しかし、午後に入ってヨシキの容体が急変した。突然のけいれんだった。
あわててナースコールを押し、助けを求めた母親の悲鳴のような声に、数人の看護師が病室に駆け込んできた。彼はのけぞりながら白目をむき、激しく手足をふるわせていた。少し遅れてやってきた医師は、小さな肩を押さえながら胸を触診すると、看護師に薬を用意させ、素早く注射を打った。
ヨシキは意識を失していた。
母親は、涙ぐみながら、医師の説明に何度か小さくうなずいていた。やがて彼はキャスター付きのベッドにぐったりとした身体を移され、どこかへと運ばれていった。
コウがアオミの様子を伺うと、彼女は表情が抜け落ちたような真っ青な顔で、ヨシキが去ったベッドを見つめていた。
皺だらけの白いシーツには、絵本やミニカーが乱暴に放り出されたままになっていた。
翌日、コウが午前中の検査を終えて部屋に戻ると、はじめて顔を見せた年配の看護師がヨシキの荷物を整理していた。ベッドの横に紙袋を置き、持ち物の玩具や着替えなどを丁寧にしまっていた。ベッドに身を起こしたアオミがその様子をじっと見つめていた。
「退院ですって」彼女がつぶやくように言った。
片付けを終えた看護師が荷物を抱えて病室を出て行くと、彼女がコウに向かって言った。
「キミはどう思う?本当に退院したと思う?」
最初コウは、アオミの言っている意味がまったくわからなかった。
「あんなに具合が悪そうだったのに、すぐに退院だなんて、変だと思わない?」彼女が少し怒ったように言った。
言われてみれば確かに変だった。しかし、答えを迫られたコウは、それを認めてしまうことがひどく誤ったことのように思えて、何も口にすることができなかった。
アオミは質問を繰り返した。「ねえ、お母さんが荷物を取りに来なかったことって、ものすごく変だと思わない?」
やはり彼には、何も答えられなかった。
やがて、彼女が親指の爪を噛みながらつぶやいた。「……怖いな」
この時、コウは、自分の病気の恐ろしさを、はじめて真横にある現実として意識した。
入院する前、彼は自分の両親から、罹っている病気が『小児癌』で、適切な治療をしなければ命に危険が及ぶことを正直に伝えられていた。
子供だからといって病気を隠すことは治療を難しくするだけだし、家族全員で病気に向き合う方が良い結果につながると、両親が医師から強く勧められた上での告知だった。
告知を受けた際も、彼は癌という病気に、それ程の恐怖を覚えることはなかった。自覚症状が重い訳ではなかったし、その病名の響きにまるで現実感がなく、他人事のように思えていたからだった。
ヨシキが寝ていたベッドは、新しい入院患者を待つように綺麗に整えられていた。
その真っ白なシーツのよそよそしさに、コウは冷たい恐怖を覚えた。あのシーツは確かに皺だらけになり、彼のミニカーや絵本が放り出されていたのだ。何か大変なことが起こったはずなのに、まるであっけなかった。ここでは、きっとそれがあたり前のことなのだった。
アオミも同じように感じていたのか、白いシーツのどこかを、不安そうに見つめていた。
この時からコウとアオミは、今までのよそよそしさが嘘のように思える程、急速に親しくなっていった。ある種の連帯感のようなものが二人の間に生まれはじめていた。
彼女はすぐにコウのことを呼び捨てにし、一人遊びに飽きると、おやつやジュースを携えて彼のベッドを訪ねて来るようになった。
「コウは年下なんだから、少しくらい、私の話につき合ってくれてもいいよね?」
仲良くなってみると彼女はとてもお喋りで、一旦話に夢中になると、なかなかそれが止まらないことがわかった。
長話をうわの空で聞き流していると、最後の方で『今の話、どう思った?』と感想を聞いてくることがあったので、コウは油断をしていることもできなかった。とは言っても、年上の女の子のお喋りは、彼女に借りて読んだ少女コミックのように、何かの秘密を盗み見てしまった時のような驚きがあり、コウはいつもアオミの話に耳を傾けていた。
彼女も自分を蝕む病気が脳腫瘍であることを知っていた。
朝目覚めて、ひどい頭痛がすると思った瞬間、断ち切られるように意識を失ったことがあり、この病院で検査を受けた結果、脳組織の表面に小さな腫瘍が発見されたのだという。
彼女は高円寺にあるマンションで、母親と二人暮らしをしていると語った。
「ママは、お母さんって言うよりも、何でも打ち明けられる親友みたいな感じかも。ちょっと位、さみしい時があっても、パパがいたらとか余計なことは考えないようにして、二人で力を合わせて頑張ろうって約束してきたんだよ。だから、うちではお料理も、お掃除も、お洗濯も、みんな当番制なの。ママが仕事で忙しいから、私が手伝ってあげているの。偉いでしょ?」
コウが『料理ができるなんてすごい』と言って褒めると、アオミは、『本当は、私がお当番の日は、パスタかカレーか、電子レンジなの』と言って舌を出し、スーパーに行けば沢山のレンジ食品が並んでいて、十日位は毎日違う夕食が食べられることを彼に教えた。
彼女の母親は、土日にも仕事がある様子で、いつも夜八時過ぎに紺色のビジネススーツ姿で面会にやってきた。アオミの具合が悪そうで、終夜の付き添いができる週末は、ベッドの下に収納されている簡易ベッドを引き出し、そこで一夜を過ごしていた。
「ママは雑誌の取材を受けたことがあるんだよ」彼女は得意そうに言った。
彼女の母親は、女性用の下着類をカタログ通販する会社を経営していて、有名な経済誌にも、新進気鋭の女性経営者の一人として取り上げられていたことがあるという。実際にコウの父親もその会社名を知っていて、しきりに感心していた。
彼女はそんな母親が自慢のようで、『早くママに心配かけないようにしなくちゃ、きっと家の掃除もおろそかになっているから、早く家に帰ってあげないとね』と彼に語った。
何かの時、コウは『お母さんが帰ってくるまで、一人で家で待っていて寂しくない?』と聞いたことがあった。彼女は不思議そうな顔つきで、『全然ないよ。毎日、忙しいんだから』と、当然のように答えた。
コウは生まれ育った国分寺市にある公立の小学校に通っていた。一方、アオミは、毎朝満員電車で、土曜日も授業がある私立の女子校に通っていた。放課後には、学習塾、英話塾、水泳教室と、週に四回の習い事があり、これに学校や塾の宿題に家事の手伝いを加えると、寂しく感じる程の時間はまったく残らないのだという。
週末になると、クラスメート達がお見舞いにやって来た。
コウの場合は大抵が男子で、母親に持たされた果物やらケーキやらを差し出すと、身動きが制限されるような病院の居心地の悪さに、どうにも我慢できなくなってしまうのか、誰もが三十分も経たないうちに、『じゃあ』とか『また』とか、言葉を濁すようにして帰って行ってしまった。
アオミの場合は逆だった。見舞客のほとんどが二人組の女の子で、彼女達は顔を寄せ合うようにして、何時間もずっとお喋りを続けていた。
彼女は友達がやってくると、まるで別人のような姿を見せた。
口数が極端に少なくなり、笑う時には手をあてて口元を隠した。何か話す時でも、落ち着いた様子で確かめるようにゆっくりと言葉を口にし、静かな微笑みを浮かべ続けていた。
そんなアオミの姿はコウを戸惑わせた。
「コウには、全然気をつかわなくていいから、こういうしゃべり方になるのかな。私みたいなタイプは、結構、回りから誤解されやすいの。気をつけていないと、思ったことを、すぐに口にしちゃうから、ちゃんと一呼吸置いてしゃべるようにしているの。コウにはわからないだろうけど、女子だけの学校って、結構、大変なんだから。ちょっとしたことで嫌われちゃうし、すぐに仲間はずれがはじまるし。だから学校って、本当はあんまり好きじゃないかな。きっとコウが思っているよりも、女子って面倒で怖いんだよ」
アオミは時おり、ひどい頭痛に苦しめられていた。彼女はそれを「電源スイッチみたいな頭痛」と言った。ズキンと思ったらスイッチがONで、次の瞬間には、もう頭全部が割れる程痛み、それが一時間程続く。しかし今度は、治ってきたかな?と感じると、逆にスイッチがOFFになり、わずかな数分で痛みがすべて消え去って、嘘のように頭痛が治ってしまうのだという。
頭痛が始まるとアオミはうつぶせになって枕を抱きしめ、そのままじっと耐え続けていた。そういう時、コウは声をかけられず、ただ黙ってその姿を見守っているしかなかった。
平日の午前中、珍しくアオミの母親が付き添いにやってきたことがあった。
その時、アオミは何かの検査に呼ばれていて、病室に残っていたのはコウ一人だけだった。彼女の母親は持ってきた大きな荷物をベッドの傍らに降ろすと、コウに笑顔を向けながら『こんにちは』と言った。
コウは挨拶を返した後に、『アオミさんは検査です』とつけ加えて言った。
「あら、そうなの。ありがとう」
コウがアオミから聞いたところでは、彼女の母親は三十七歳で、三十九歳の誕生日に大きなため息ついていた自分の母親とは二歳しか年齢が離れていないはずだった。それなのに、アオミの母親はすべての動作が活き活きとしていたし、身に着けているものの色合いも鮮やかで若々しく、彼にはもっと年の差があるように感じられた。
アオミの母親はベッドの上で着替えの整理を始めた。
コウは母親が図書館から借りてきた本の続きを読み始めた。人に飼われていたシマリスが本当の住み処を目指すファンタジーで、彼はいつの間にか物語に引き込まれていた。
ふと、切りのよいところで顔をあげてみると、こちらの方に目を向けていたアオミの母親と視線が合った。彼女は、コウを待っていたかのように微笑みながら言った。
「少しだけ、読書のお邪魔をしてもいいかしら?」
彼は少しとまどいながらうなずいた。
彼女は、コウのベッドの傍らに立つと、『いつも娘と仲良くしてくれて、ありがとう』と礼を言い、言葉を続けた。
「あの子に『一日中ベッドにいたら退屈でしょう?』って聞いたら、あなたが側にいるから、ちっとも退屈していないって言うのよ。あの子ったら、嫌になる程のお喋りでしょう?迷惑していないかしら?」
彼はそんな風に多少は思ったこともあるけれど、『迷惑じゃないです』と答えた。
「そう言ってくれるのはありがたいけれど、本当にうるさくて迷惑していたら、正直に言ってもらって構わないのよ?」彼女は念を押すように言った。
コウは、『ちっとも迷惑じゃないです』と繰り返した。『面白い話をいっぱいしてくれるので……』、そこまで言った後、後の言葉が続かずに黙り込んでしまった。彼は自分が口下手なことを恥ずかしく思い、顔を赤らめた。
彼女はコウに笑顔を向けて言った。
「ごめんなさいね、そう言えばあの子が言っていたわ。コウくんは少し無口だけど、とてもやさしい男の子だって」
母親にとってもアオミのお喋りは、時には頭痛の種になるらしく、楽しみにしていたテレビドラマなどを見ている時でもお構いなしに話しかけてくるので、それが原因で、何度も口喧嘩をしているのだという。
そのうち会話が途切れてしまった。しかしコウは、どこか居心地が悪くなるような間の悪さは感じなかった。少し話をしてみて、アオミの母親から好意のようなものを感じ取ることができたからだった。
「話が続かなくて、ごめんなさいね。おばさんのところは娘しかいないから、男の子のことがよくわからないのよ」彼女は困ったような笑顔を見せた。
「そうだ、果物を持ってきたんだったわ」彼女は思いついたように言うと、アオミのベッドに戻り、傍らに置いた荷物の中から保冷用の小さなバッグを取り出した。中には透明なタッパが入っていた。
「どうぞ召し上がって」
差し出されたタッパの中には、一口サイズに切り分けられたメロンが入っていた。メロンは冷えていて、とてもおいしかった。コウはお礼を言った。
「病気で大変な時だけど、あの子はお友達ができて本当に喜んでいるのよ」
アオミの母親は、少しこわばったような表情を浮かべていた。その口調は、まるでアオミには誰も友達がいないと告げているようで、コウは強い違和感を覚えた。実際、彼女の元には友達が見舞いにやって来ているからだった。
彼の不思議そうな表情に気付いたのか、彼女は言葉を続けた。
「本当のあの子はとても臆病なの。だから、あまり他の人に心を開かないのよ」アオミの母親はそう言うと、コウの視線から逃れるように顔を伏せた。再び顔をあげた時には、元の笑顔に戻っていた。
「あなたとは、とても気が合うみたいだから、これからもあの子と仲良くして欲しいの。お願いしてもいいかしら?」
コウは『はい』と返事をした。母親からそう言われなくても、コウはもっとアオミと親しくなりたいと思っていたし、そう努力するつもりだった。
彼女はコウの肩に手を置いて言った。
「難しい病気だから、時間がかかるかもしれないけれど、絶対に大丈夫よ。あなた達が治らない訳がないわ。そんなこと、あるはずがないもの」
5
コウの癌は横紋筋肉腫で、筋肉の元になる細胞が腫瘍化したものだった。
現在は十五ミリ程の大きさで、このまま放置し続けると、数ヶ月後には治療困難な大きさまでに腫瘍化し、重度の視覚障害や脳障害を引き起こすことが予見された。
本来は早期に手術を行うことが望ましいものの、肉腫が発生した部位には、視神経などの神経組織が集中しており、外科的な処置が難しいため、まずは抗がん剤を使った化学療法を先行させ、その後に放射線療法や最後に造血幹細胞移植を行うという。すべての治療が順調に進んだとしても、彼は一年もの入院生活を覚悟しなければならなかった。
コウの母親は、主治医から聞いたのか、『抗ガン剤は小児癌に効きやすく、それだけで完治した例も少なくないらしい』、と期待を持たせるようにコウに話した。しかし、すでに彼は、自分の癌はそんなに簡単に治りそうもないことに気づいていた。
小児病棟の病室の入り口には、入院患者の名前が書かれた札が掲げられていて、その真横には、担当する診療科がどこなのか一目でわかるように小さな丸いシールが貼ってあった。シールが赤の場合は外科、青の場合は内科、そのようになっていた。
コウの名前の横には、七つもの色違いのシールが貼ってあった。小児腫瘍科、脳神経外科、小児外科、耳鼻咽頭科、眼科、血液内科、放射線科。こんなに沢山のシールが貼られているのは、小児病棟に入院している患者の中で彼だけだった。シールの意味を看護師に教えてもらった時、コウとアオミは退屈しのぎを兼ねて、二人で小児病棟中を回って確かめてみたことがあったからだった。
アオミは、『シールの多さなんて絶対に関係ないよ。私だって二番目に多い四つなんだよ』と言って彼を慰めた。
八月の上旬、コウとアオミは、同じ日に初めて抗がん剤の投与を受けた。
実際、抗ガン剤の点滴投与は一時間程度しかかからない。しかし、点滴が終わったわずか数時間後に副作用が襲ってくる。まずは強烈な吐き気で、二人は繰り返し胃液を吐いた。吐き気止めなどの薬が処方されていたものの、効果はほとんどなかった。
アオミは、吐き気が我慢できなくなると、コウや付き添いの母親につらくあたった。
特に食事が運ばれてくる時の匂いが吐き気を増幅させてしまうようで、食事時はトイレに逃げ込んで何も口にしようとしなくなり、母親や看護師を困らせていた。コウが何か話しかけようとしても、彼女は『私に話しかけないで』、『放っておいて』と強く拒絶し、ベッドの回りをカーテンで覆ってしまった。
彼は回診にやって来た主治医に『吐き気を何とかして欲しい』と訴えた。
糊のきいた白衣の胸にポケモンの缶バッジをつけた主治医は、ひどい副作用は、抗がん剤がガン細胞だけではなく、ガン細胞と同じように早いペースで増殖する骨髄や小腸、さらには毛根や爪などの細胞を無差別に攻撃してしまうことが原因で、吐き気止めなどの薬があまり効かないことを申し訳なさそうに彼に伝えた。つまりは、ただじっと我慢するしかないと言うことだった。
抗ガン剤の投与から三日程経つと、やっと胃液を吐くような激しい吐き気が軽くなり、みぞおちのあたりに居座るむかつき程度に変わっていった。
ある朝、コウのベッドをアオミが訪れた。
「この前、コウにとてもひどいこと言ったでしょ?ごめんね」
彼は『気にしていないよ』と答えた。
アオミの顔色はとても青白く、少し頬がこけたせいか、まるで一回り小さくなったように見えた。彼女はコウのベッドの傍らにある丸椅子に座ると、ここ数日間のひどい気持ち悪さや、これも副作用でできた大きな口内炎について長々と文句を連ね、今朝はやっと少しだけ朝食が食べられたと語った。彼は再びアオミとうち解けた話ができることがうれしく、黙って何度も彼女の話にうなずいていた。
「ねえ、どうしてコウは平気なの?」
「平気じゃないよ」彼は抗ガン剤を初めて体に打ち込まれた日の夜は、吐き気でほとんど眠れなかったことや、気持ち悪い悪寒に襲われて震えていたことをアオミに打ち明けた。
「ふうん、コウも大変だったんだ。なんか平気っぽく見えたから、コウの副作用はずっと軽いんだって思ってた。コウって、見かけよりも我慢強いんだね」
「そんなことないよ」
「じゃあ、苦しかったら、苦しいって言えばいいじゃない?」
いくら副作用が苦しいからと言っても、密かに憧れている女の子のすぐ隣で泣き言を口にするなんて出来る訳がなかった。彼は『泣いたりしたら、みっともないよ』とだけアオミに答えた。
「ふうん」彼女は首をかしげるようにして、不満そうな様子を見せた。そして、とても深いため息をついた。
「でも、来週になったら、私達、また抗ガン剤を打たなきゃいけないんだよ?」
コウはうなずいた。この苦しみがまた繰り返されるのかと思うと、本当にうんざりさせられた。
「私、我慢できる自信が全然ないよ。苦しくなったら、またコウにあたり散らしちゃうって思うもの」
「別に、そうしてもいいよ」
「私の方が年上なのに、情けないよね」アオミは丸椅子から立ち上がると、ベッドに腰掛ける彼の目をのぞき込むようにしながら言った。
「ねえ、私のこと、嫌いになって無視したりしない?」
コウは、アオミの顔がすぐ近くにあることに、せつなくなるような胸の高鳴りを覚えた。
彼は慌てながら『そんなことしないよ』と答えた。
「本当?」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと誓って。『絶対に嫌いになりません』って」
彼が言う通りに誓うと、彼女はしばらくぶりに楽しそうな笑顔を見せた。
「コウはやさしいんだね」
彼はアオミの言葉がひどく照れ臭くて、強く首を振った。
「もうこれからは、私がどんなにひどいことを言っても、コウは許してくれないといけないんだよ?」
彼は『わかってる』とだけ答えた。自分がアオミのことを嫌いになって無視している姿なんてまったく想像できなかった。そんなことできる訳がないと思った。
アオミはコウの言葉に満足した様子でうなずくと、パタパタというスリッパの音を立てて、自分のベッドに帰って行った。
◇◇◇
化学療法が二サイクル目に進んだ頃、コウとアオミはそろって髪の毛を失った。
コウの手足の爪は、いつの間にか、ゆがんだセルロイドのようにペラペラになっていた。睫がないとすぐに目にゴミが入ってしまうことも知った。全身がひどいかゆみに襲われてじっとしていられない時もあったし、手指の震えが半日以上治まらないこともあった。
それでも二人は抗ガン剤の投与が休憩期間に入り、吐き気や体の震えが治まった体調の良い日は、学校の担任教師が見舞いついでに持ってきたプリントや学習ドリルを開き、少しでも勉強が遅れないように努めていた。
小児病棟には、入院中の子供達が出席できる院内学校のような学習時間が設けられていたものの、最初から二人はそこに参加することができなかった。抗がん剤の副作用で免疫力が低下しているため感染症にかかりやすく、また重傷化しやすい恐れがあるためだった。
アオミは算数が得意で、コウには問題文の意味さえもわからないような中学校レベルの幾何や代数の問題を易々と解いて見せた。コウが解けない問題に突きあたって悩んでいると、アオミは『私のこと、先生って呼んだら教えてあげる』と話しかけ、何かと口うるさい家庭教師の役を引き受けていた。
ある日、コウの母親がスケッチブックを何冊かまとめて買って来たことがきっかけとなり、どちらが絵が上手なのか、二人で描き比べてみた時があった。
アオミは自分の絵とコウの絵を見比べ『なんでこんなに上手なの? すっごく意外なんだけど?』と驚きの声をあげた。
コウは幼い頃から、いつも絵だけは上手だとほめられていた。
絵画教室などには一度も通ったことがないものの、小学四年の時に描いた風景画が都主催の絵画コンクールに入選し、その作品が都立の美術館にしばらく飾られていたことがあった。
「私だって、絵には少し自信があったんだけどな。コウには全然敵わないや」アオミはそう言うと、思いつくものを言葉にして、それをコウに描かせた。コウは彼女に言われる通り、犬や猫や、コミック漫画のキャラクターなどを描いて見せた。
「勉強が全然できない男子はポイント低いけど、こんな特技があったらセーフかな」
アオミはコウのスケッチブックに目を落としながら満足そうな笑みを見せた。
6
ある真夜中、コウアは何かの気配を感じて目覚めた。
締め切ったカーテンの向こう側を覗き見てみると、アオミの背中姿が目に入った。
彼女はカーティガンを羽織り、窓の近くに置いた丸椅子に腰かけていた。
「どうしたの?」
コウはカーテンを開けて訪ねた。壁の時計に目をやると、時刻は四時を過ぎたばかりだった。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「大丈夫だよ」コウは言った。そしてスリッパを履いてベッドから降りた。
「どうしたの?」
「うん、今日は手術の日だからね。……本当はちょっと怖いんだ」
抗ガン剤の治療サイクルを予定通り終えたアオミは、腫瘍を摘出する手術を受けることになっていた。入院からおよそ三ヶ月半が経った頃だった。
「アオちゃんは、大丈夫だよ」
「ありがとう」彼女は微笑んだ。
コウも丸椅子を持ってきて、アオミの隣で一緒に外を眺めた。空はいまだに真っ黒いままだった。
「手術が上手くいったら、私、すぐに退院しちゃうんだよ。コウは寂しい?」
彼はうなずいた。
「本当?」
「本当だよ」
「それじゃあ、もしかしたら、手術が上手くいかない方がいいって思ってる?」彼女はコウをじっとにらんだ。
「そんなこと、思っていないよ」彼はあわてて否定した。
「嘘だよ。からかってみただけ」アオミはすぐに笑顔になって言った。「私も本当のことを言うと、退院するのが寂しいんだよ。コウとは不思議な位、仲良くなれたからね」
コウは何度もアオミの横顔を盗み見た。
ふと目が合ってしまった時、彼女はやさしげな笑みを見せた。その時、コウは、アオミへの想いをはっきりと意識した。自分は胸に痛みを覚える程、目の前の少女のことが大好なのだった。本当のことを言えば、退院なんかして欲しくなかった。
いつの間にか窓の外が深い藍色に変わっていた。どこからか、微かに小鳥のさえずりが聞こえいた。
やがてアオミが何かの体操をするかのように大きく体を伸ばした。
「あーあ。朝になっちゃった」
「ずっと眠れなかったの?」
「ううん。二時過ぎに目が覚めて、それから眠れなくなったの」
「手術、絶対に大丈夫だよ」彼は言った。
「うん。私が先に退院しても、ちゃんとお見舞いに来てあげるからね」彼女はコウに向かって微笑んだ。
アオミは午前九時ちょうどに病室で予備麻酔の注射を打たれると、そのままストレッチャーに寝かされて手術室へ運ばれていった。
彼女の手術は半日にも及んだ。術後はそのまま別階にあるICUに運び込まれてしまったので、コウはアオミを見舞うことができなかった。
アオミがいなくなってしまった三人部屋の病室は、やたらと物音が大きく響き、何か自分が小さくなってしまったような錯覚さえ覚えた。コウはカーテンを閉め切ってベッドに横たわり、微熱と吐き気に耐えながら、じっと時間の経過だけを待っていた。
やがてノックの音が響いて、誰かが病室に入ってきた。
「コウくん、起きてる?」声はヨシコのものだった。
彼がカーテンから顔を出すと、彼女はスヌーピーが描かれたレターセットを差し出した。
「アオミさんに届けてあげるから、なにかメッセージを書いてみたら?すっかり仲良くなったんでしょ?彼女も喜ぶと思うわよ」
長い文章は避けた方がいいというヨシコのアドバイス通り、コウは『アオちゃんが早く元気になることを願っています』という短い言葉を記し、残りの余白に少女コミック風にかわいらしくデフォルメしたアオミの似顔絵を描いた。
二日後に彼女から返事があった。同じスヌーピーの便せんには、『手紙ありがとう。早くそっちの病室に帰りたい』と大きく記されていた。
手術から一週間目の午後、アオミは母親が後ろを押す車椅子に座って病室に戻ってきた。
頭部にはシャンプーハットのような保護帽がかぶせられ、青白い腕からは点滴につながるチューブが二本伸びていた。
青白い顔。目の下の影。その姿にコウは胸に突き刺さるような痛みを覚えた。
それから数日の間、アオミは頭がフラフラして体に力が入らないと言い、ベッドからどこかへ移動する際は車椅子を使った。しかし、それでも口だけは普段通りに元気がよく、何か手伝いが必要な際には、遠慮なくコウの名前を呼んだ。
『食事が終わったからトレイをさげてきて』、『車椅子に乗るから手を貸して』、『水差しの水をもっと冷たくして来て』、『暇だから側に来て話し相手になって』、そんな時、コウはいつでもアオミの言葉に従った。
何かの検査から部屋に戻る途中だった。
上りのエレベーターの前が混み合っていたので、コウが仕方なく階段をのぼっていた時、踊り場でアオミの母親と鉢合わせしてしまったことがあった。
彼女はうつむきながら壁によりかかっていた。手にはレース飾りのハンカチがあった。
「あら、変なところを見られてしまったわね」
アオミの母親はコウに気づくと力のない笑みを見せた。目尻には涙の名残りがあった。
「手術の後の検査でね、悪い部分が取りきれていないってわかってしまったの。さっき、あの娘にも伝えたのよ」アオミの母親はため息をつき、言葉を続けた。「あなたはまた、あの娘のしつこいおしゃべりに付き合わされてしまうわね?」
コウは何も答えることができなかった。
「こういうことは、決して少なくないらしいのよ。でも、また、最初からやり直しだと思うと、あの娘がかわいそうになってしまって……。あなたも、ずっとつらいことを我慢しているから、わかるでしょ?」
コウはうなずいた。
「余計な心配かけたくないから、私がべそをかいていたって、あの娘に言わないでね」
コウは再びうなずいた。
「今日は忙しくて、この後どうしても付き添いが出来ないの。もし、あの娘が落ち込んでいたら、励ましてあげて欲しいの。あなたなら、お願いできるわね」彼女はそう言うと、コウの背中を軽く押すようにして、踊り場から出て行くようにうながした。
病室に戻ると、アオミは起こしたベッドの背もたれに深くよりかかり、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「今、そこでお母さんに会ったよ」コウは彼女のベッドの傍らに立って言った。
アオミはつまらなそうに彼の姿を一瞥すると、視線を再び窓の外に戻した。
「ママ、何か言っていた?」
「アオちゃんが落ち込んでいたら、励ましてあげてって。よくあることだし、退院がちょっと延びただけだから気にしないようにって言っていたよ」
「ふうん……、コウはもう、私の手術がうまくいかなかったこと、聞いているんだ?」
「うん」
彼女は深いため息をついた。「退院、延びちゃったな……」
「大丈夫だよ、きっと、すぐに退院できるよ」
「大丈夫?どうしてコウはそんなことがわかるの?」
アオミは皮肉っぽく言い放ち、コウは顔を赤らめた。
「病院で寝て起きるのなんて、もう本当に嫌。検査も注射も先生も、みんな、全部大嫌い。ねえ、私のことなら『大丈夫』だよ。だから、放っておいてくれる?」
「放っておけないよ」コウは食いさがった。
アオミはコウのことをにらみつけた。
「ふうん、年下のくせに口ごたえするんだ? 生意気」アオミはそう言うと、素早く身を起こしてカーテンを乱暴に引き、中に籠もるようにベッド回りを囲ってしまった。
アオミは息を潜めているようで、何の気配も感じさせなかった。コウは仕方なく自分のベッドに戻った。
それからアオミは、ずっとカーテンの中で過ごし続けた。
コウが何か話しかけても、『具合が悪いの』、『後にしてくれる?』と言って会話を避け、必要な時以外は、カーテンを開けようとしなかった。
そんな日々が数日間続いたある日、コウは白血球減少症と診断された。抗ガン剤によって骨髄の造血細胞がダメージを受け、血液中の白血球の数が著しく少なくなってしまったのだった。確かにコウは少し前から体がだるくなり、微熱にも悩まされていた。
彼は個室あつらえの無菌室に移り、白血球の値が正常値に回復するまで外に出ないでじっと寝ているように命じられた。
看護師に付き添われてコウが部屋を出て行く時も、アオミは彼の視線を避けた。
その日の夜、コウは高熱を出して意識を失った。
付き添いの母親が持ち運んできたものなのか、どこからか小児病棟に入り込んだインフルエンザウイルスが抵抗する術を持たない彼の体の内部に侵入していたのだった。
その後、ICUで治療を受けていた数日間は意識が混濁していて、切れ切れの記憶しかコウは覚えていなかった。
喉の奥に、まるで神経がむき出しになったような激しい痛みを覚え、唾を飲み込んでみた瞬間、あまりの激痛に気を失ってしまったこと。頭痛の疼きと酸素吸入器のコンプレッサー音と自分の鼓動が重なり合い、軋むような騒音となって鼓膜を叩き続けていたこと。そして、シルエットになった人影が、影絵の芝居のように自分の回りで動き回っていたこと。それらの光景は、前後のつながりがまったくなく、質の悪い夢のように思えた。
意識を取り戻した際、コウは腫れぼったい目をした母親が、自分のことを心配そうに見つめていることに気づいた。その後、自分が急性肺炎を患い、数日間、危篤状態にあったことをはじめて知ったのだった。
車椅子に座らされ、ICUから再び無菌室に運ばれる際、コウはヨシコから手紙の束を受け取った。
「キミへのメッセージよ。アオミさんに『かわいいレターセットをいっぱい買ってきて』って頼まれたの。アオミさん、キミのことをとても心配していたのよ。もう少し元気になったら、返事を書いてあげてね」
アオミは、彼がICUで治療を受けていた五日の間に、二十通近い手紙を書いていた。
無菌室に着いて一人になると、コウはすぐに手紙を開いた。
『年上なのにコウに甘えていてごめん。許してくれるよね?』、『コウがよくなるように、毎日ずっとお祈りしているからね』、『これからは、もっとやさしくするって誓うからね』、『一人ぼっちは寂しいです。早くここに帰ってきて』
手紙を開けていくと、ボールペンで書かれていたメッセージの文字が、そのうちカラフルなマジックペンで飾られるようになった。最後の手紙には『私の想いがコウに届きますように』と書かれていた。
7
小春日和に恵まれたある日の正午前、ヨシコがコウとアオミを散歩に誘った。
散歩といっても、実際に出歩けるのは周囲を病棟に囲まれた五十メートルプールサイズ程の中庭でしかなかった。しかし、そんな狭いところでも、ついこの前まで無菌室での生活を強いられていたコウにとっては、十分な気分転換になった。
中庭から見あげてみると、建物の縁に四角く切り取られた空間のはるか上に、濁らない冬の青空があった。
アオミはヨシコと手をつないで歩き、コウはその後ろに従った。
「足元は大丈夫?疲れたら、休んでいいのよ」ヨシコが振り向いて言った。
彼は『平気です』と答え、細い歩道に敷き詰められた玉砂利の上をゆっくりと歩いた。
コウが十日ぶりに病室に戻ってきた時、アオミはベッドの上で微笑みながら、『お帰り』と言ってコウを迎えた。
コウは彼女のベッドの前で数秒の間、立ちつくした。アオミの気持ちは手紙でわかっていたし、久しぶりに見せてくれたやさしい笑顔が懐かしく、ただ見入ってしまったからだった。耳に響いてくる程、鼓動が高鳴っていた。
「うん」コウはうなずいて答えた。
二人はそれだけのやりとりで、仲違いする前の親しい関係に戻っていた。
やがて彼らは、背の低いポプラの下に置かれた木製のベンチに並んで腰掛けた。
アオミはヨシコとの恋話に夢中になり、落ち着きなく質問を繰り出していた。
「本当に、今でも好きなんですか?その人のことが」
「そうよ」
「だって、中学二年の時の同級生なんですよね?そんなに何年も同じ人のことを、想い続けられるんですか?」
「思い続けられるわよ。これは私の場合だけどね」
「でも、他に好きな人ができたりしなかったんですか?」
「ええ。できなかったわ」
「どうして?」
「どうしてかしらね。たまに気になる人ができても、結局は、その人と比べてしまうからかな。笑い方とか、仕草とか、色々ね。一番好きな人がいるのに、他の誰かが敵う訳ないじゃない?」
「でも、ずっと片思いって、なんだかつらくないですか?」
「そうねえ、確かにつらいわね。でもね、こればかりは仕方ないのよ。心の中だけは、自分でもどうにもできないもの。好きとか嫌いとかを、何かのスイッチみたいに自由に切り替えられれば楽なのにね」
「…なんか、かなりのショックかも。イマムラさんみたいなルックスの持ち主で優しかったら、絶対に素敵な彼氏がいると思っていたのに。そんなのって、絶対に変だと思うな」
「あら、ありがとう。お世辞でも、うれしいわよ」
「その人に、告白したんですか?」
「ごめんなさい、それは内緒なの」
「……じゃあ、どんな感じの人なのか、聞いてもいいですか?」
「そうねえ……、そう言えば、少しだけど、コウくんに感じが似ているかな」
「えっ?」アオミは驚いた顔をコウに向け、そして言った。
「本当ですか?そんなこと言うと、イマムラさんも趣味が悪いって思われちゃいますよ?」
ヨシコは楽しそうな声をあげて笑った。アオミも一緒になって笑っていた。
「二人で笑ったりしてごめんなさいね、悪い意味はないのよ」笑顔のままヨシコが謝った。
彼はただうなずいて、視線を真正面に建つ病棟のどこかにさ迷わせた。自分のことが話題になっているものの、それ程喜べる類の話ではないらしく、聞こえないふりをしていた方がよいように思えたからだった。
「コウくんみたいな男の子は、きっと一途だから、彼氏にするにはもってこいのタイプだと思うな」ヨシコさんが言った。
「そうなんですか?」
「うん。私の勘よ」
「ふうん、コウってそういうタイプなのかな?」アオミは彼の顔をまじまじと見つめた。
「本当のことを言うと、私の勘って、あんまり当てにならなのよ」
アオミとヨシコは再び笑い声をあげた。
「私も勘が全然当たらないし、変なところが似ていますね」アオミが言った。
「本当にそうね。特に、好みなんかが似ているかもね」
二人は増々楽しそうに盛り上がっていた。コウは見当違いな方向に顔を向けて、笑い声
が耳に入らないふりをしていた。
◇◇◇
アオミは放射線療法を受けることになった。
一日に一回の放射線を、途中に休みを織り交ぜながら四十回以上患部に照射するらしく、すべての治療スケジュールを完了させるのに二ヶ月以上かかるのだという。
彼女は放射線を浴びる際、頭部の固定用に被らせられるお面のような器具が窮屈で痛くて嫌だと言った。
一方、コウの方は、インフルエンザで抗ガン剤の投与が中断したことがきっかけとなり、治療方法が最初から見直されることになった。ここ数回のサイクルで腫瘍マーカーの数値が思うように下がらなくなっていたためだった。
クリスマスが近づいて来ると、小児病棟の入り口には大きめツリーが飾られた。
二人は年末年始の短い間だけは、家に帰って過ごすことが許された。
時おり、コウとアオミの病室には、白血病や悪性リンパ腫などを患う子供達が入院してきた。
同じ年頃の男子が入院してきた時は、コミックを借り合ったり、コウには禁じられていたポータブル系のゲームを少々貸してもらったりして確かに親しくなった。しかし、アオミ以上に親密になることはなかった。同じベッドから運ばれていったヨシキのことを思い出してしまい、どこかでブレーキを踏んでしまうためだった。
三歳の女の子が三週間程入院していた時、アオミは笑顔で世話を焼きながらも、『本当は仲良くなってしまうのがとても怖いの』とコウに打ち明けた。
しかし、ヨシキのようなことが繰り返されることはなかった。症状が重い子供の場合は、すぐにナースステーションの隣にある個室に移されていったし、同室になった子供のほとんどは、一ヶ月以内の入院で退院していったからだった。コウは、そうした子供達の名を一人も覚えていられなかった。
ある土曜日の午後、病室の扉の前で見舞いに来た友達を見送ったコウを、ベッドの縁に腰をかけたアオミがからかって言った。
「コウは学校で人気者だったのかな?」
「そんなこと、全然ないよ」
実際、コウは見舞いにやって来るクラスメート達とそれ程親しい訳ではなかった。母親同士が仲がよいとか、家が近所だとか、そんなことが自分を見舞う理由だと思っていた。
そう言えば、久しくアオミの友人を見ていないことに彼は気づいた。
『いつからだろう?』振り返ってみると、年をまたいだここ数ヶ月の間、彼女の方は一人の友人も見舞いに来ていないはずだった。
「私は大丈夫だよ。中途半端な友達なんかいらないって、そう気がついたから」
「中途半端?」コウはアオミの言葉の意味がわからずに繰り返した。
「そう、本当に中途半端。はっきり言ってしまうと、私って、みんなに嫌われていたの。しゃべり方とか、笑い方が気持ち悪いんだって。いじめられてはいなかったけど、仲間はずれにされていたから、似たような感じかな。だから、みんなに好かれようと思って色々気を遣っていたの。だけど、そんなのって、もう沢山。結局、意味がないってわかったもの。みんな、私のことなんか忘れちゃってる。だったら、もうそれでOKって感じ」
言い終えたアオミは頬をほてらせていた。少し、涙ぐんでいるようにも見えた。
「こんなこと打ち明けるの、コウがはじめてなんだよ。『かわいそうだったんだね』とか、『頑張ってたんだね』とか、その位のこと、言えないの?」彼女は怒ったように言った。
「ごめん」コウは少し驚いて答えた。
アオミは悔しそうに唇を固く結び、膝の上に置いた自分の腕を見つめていた。彼もいつの間にか怒りのようなものを覚えていた。
「もうアオちゃんが頑張ることなんかないよ。みんな、何も知らないんだよ。それに……、僕は、アオちゃんの友達だから」
彼女の表情から力が抜け、驚きに変わった。
「いきなりそんなこと言うなんて、コウはずるいよ」
「ごめん」
「なんか怒る気なくなっちゃった。って言うか、なんで私、怒っていたんだろ?」アオミは首を傾けて、言葉を続けた。「……でも、コウからそんなこと言ってくれるなんて、思わなかったな」
彼は少し首を振った。口には出してみたものの、友達という言葉は、どこか物足りなかった。自分の想いを全部伝え切れていない気がしたからだった。
一方、アオミはじっと何かを考えている様子をみせた。そして、コウを真っ直ぐに見ながら言った。
「ねえ、コウは、私が友達でいいの?」
「えっ?」
「ちゃんと言って」
「……うん」彼は戸惑いながら答えた。
「本当に、それでいいの?」彼女が繰り返した。
「うん、それでいいと思うけど……」コウは口ごもってしまった。彼は正直に自分の気持ちを伝える術など持っていなかった。
「ふうん、わかった」アオミは急に彼をにらんで、きつい調子で言った。
「私って、わがままで嫌な奴だけど、コウの友達なんだから、よろしく頼むからね」
それからしばらくの間、アオミはコウに対して、どこか怒ったような態度をとり続けた。
8 (2006年 12月)
クリスマスイブの当日、大学では年内最後の講義があった。
この日、学友達の何人かは、デッサンやら造形物やら、年内中に締め切りがある提出物を大急ぎで仕上げるため、講義をさぼって朝から制作室にこもりっきりになっていた。
帰り際、僕は年末年始を故郷に帰らず東京で過ごす何人かと、どこかで連絡を取り合って飲みに行く約束を交わし、バイト先へと向かった。
僕は先月から特殊美術造形の会社で働いていた。
そこは調布市にある映画撮影スタジオの仕事をメインに引き受けているところで、貸倉庫や食品工場などが建ち並ぶ、多摩川沿いの殺風景な一角に広い作業場を持っていた。僕は自宅から二十分程のんびりと自転車を走らせて、週に五日程、そこに通っていた。
更衣室で作業服に着替え、映画やTVドラマ用の書き割りなどが壁際に雑然と置かれた作業室に出て行くと、この会社の社員で、僕の面接を担当したヤスダさんがエアーブラシで塗料を吹き付ける作業を止め、明るく声をかけてくれた。
「よお。イブにバイトなんて、相変わらずさえない学生生活だな」
ヤスダさんは、ある市町村に新設される科学館用の巨大な展示物の制作を手がけていた。それはソーラーパネルや宇宙船を配した月面基地の精巧なパノラマ模型で、僕は、その背景に設置する宇宙空間の書き割りを描くように命じられていた。
「寂しい夜は、バイトに限りますね」僕は言った。
「一応言っておくけど、俺の方はデートがあるから残業はなしだぞ。六時にはきっちり帰るからな」
「それは、ものすごく意外ですね」
「こら。人は見かけによらないんだよ」
ヤスダさんはここに社員として勤めながら彫刻家として活動を続けていた。名のある展覧会で入選を果たした経験が何度かあり、作品を気に入ってくれた画商から個展を開かないかと誘われていて、プライベートな時間はその制作活動に励んでいた。
三十三歳で独身。ぎょろっとした大きな瞳の持ち主で、正円に近い顔の形に、長めのあご髭をはやしているせいなのか、妙に人懐っこい愛嬌があった。
アルバイトの面接の時、ヤスダさんは僕が持参したスケッチブックをめくり終えると、何よりも最初に、好きな画家は誰なのかと尋ねてきた。
「ええと……、強いて言えば、レオナルドです」
僕はそんな質問をされるとは予想していなかったので、少し慌てて答えた。実際、思わずレオナルド・ダ・ビンチの名前を口にしてしまった時は、自分でもその答えに驚いてしまった。好きな画家はそれこそ数え切れない程いたし、その中でレオナルドがNo.1だなんて一度も思ったことがなかったからだった。
「ふうん、最重要のオールドマスターか。でも、学生さんのマイ・フェイバリットなアーティストにしては、ちょっと古典過ぎるんじゃないか?」
「言われてみれば確かにそうですね。でも、高校生の頃、生で見たことがあったので……」
「へえ、どんな絵?」
「白貂を抱く貴婦人です」
「ああ、あれか。確かに何年か前に来日していたな。俺の方は、見忘れてしまったけれど」
『白貂を抱く貴婦人』は、レオナルド・ダ・ビンチが十二号にも満たない小さなカンバスに描いたある少女の肖像画だった。
美大への進学を真剣に考え始めていた高校二年の頃、僕は頻繁にあちこちの美術館を巡っていた時期があって、ちょうどその頃、とあるレオナルドの作品が初来日することを知り、横浜の美術館に出かけていったのだった。
パンフレットには『白貂を抱く貴婦人』は戦禍のヨーロッパを転々としたため保存状態があまりよくはなく、度々修復が行われてきたことが解説されていた。しかし、その文章の中では、その作業があまりにもお粗末で稚拙だったことには一切触れられていなかった。
オリジナルでは灰青色だったという背景が、艶のある無機質な黒一色で塗りつぶされていたり、さらには、レオナルドの繊細な表現を台無しにする『加筆』があったり、何度か繰り返されたという修復作業は、いずれも、原画へのリスペクトがまったく感じられない乱暴な仕上げに終始していたのだった。
僕は世界の美術遺産がそのような扱いを受け得ることに大きな衝撃を受けた。逆にそんな状態だったからこそ、強烈に印象に残ってしまったのかもしれなかった。
ヤスダさんは美大生だった頃、一年間の休学届けを出して、イタリア中を放浪したことがあると語った。
「とにかく彫刻を志すなら、まずはイタリアに行ってみようと思ってな。ルネッサンスも始まったし、ミケランジェロも生まれたし。まあ、どの街に行っても誇りっぽくてゴミだらけで、やたらとうんざりさせられたけれど、とにかく人物像はすごかったよ。小さな美術館に行っても、ローマ・ギリシャ時代の傑作がゴロゴロしているんだぜ。この時期の芸術は『模倣と技術』だけだって声もあるけど、ある種の理想を人の肉体に求めようとした純粋美の極致ってやつには、何度も感動させられたよ」
この時、彼が語りだしたイタリア放浪の逸話は、残りの面接時間のほぼすべてを占めてしまった。美術館で知り合ったというジャポネーゼ文化ファンのイタリア乙女との恋話やら、サッカーの試合結果を端に発した大暴動に巻き込まれてしまった時の冒険談やら、長々とした話を興味深く聞いていた僕を気に入ってくれたのか、『うちの仕事はレオナルドのような写実系を好む学生に向いている』と言い、その場で僕の採用を決めてくれた。
写実とは言うけれど、宇宙空間を描けと命じられた際、ヤスダさんが僕に貸し与えた資料は、表紙がボロボロになった『宇宙』という子供向けの学習図鑑だけだった。そこに挿入されている写真やらイラストやらを参考にして、月面基地模型の後ろに立てかけても違和感のない書き割りを描きあげろということだった。
ヤスダさんが帰った後の作業場では、僕の他にも数人が黙々と様々な造形物に取り組んでいた。クリスマスイブの夜、僕は、『もう今夜は作業場を閉めるよ』と言われるまで、黙々と宇宙空間を描き続けた。
◇◇◇
ヨシコさんは、待合わせ場所の駅前交番の真横に僕を見つけると、思い詰めたような表情を浮かべて駆け寄ってきて、『お腹がペコペコ』と訴えた。そして、保母仲間に聞いた評判のラーメン屋が近くにあるから、とにかく今すぐ食べに行こうと僕の腕を引っ張った。
僕らは駅前から北へ真っ直ぐに伸びる商店街の中を早足で歩いた。目当てのラーメン店は行列が目印になっていたので、すぐに見つけることができた。
「お願いだから、当たりますように」ヨシコさんは祈るように手を合わせ、飛び込むようにして行列の最後に並んだ。
寒々とした夜に初めて訪れる店の長々とした行列の最後尾に並ぶなんて、かなりのギャンブルだとは思ったけれど、他にいい案もなかったので、僕も彼女の決心に従った。
ヨシコさんは『今年の年末年始は久しぶりに青森の実家に帰る』と語った。『ここ数年は色々な理由をつけて帰らないようにしていたのだけれども、両親が飛行機のチケットを送りつけて来たので、ついに逃れられなくなってしまった、でも、ひとたび実家に戻ればしつこくお見合いを勧められるし、派手な髪型を責められるし、それに田舎はやたら兄弟親戚が多いから甥や姪などに配るお年玉代だけでも馬鹿にならないし、憂鬱な気分で新しい一年を迎えることになりそう』、そうつらつらと愚痴をこぼした。
彼女は背中を丸め、胸の前で組んだ腕を細かくさすりながら訊ねてきた。
「冬休みの間、やっぱり君は、一人ぼっちなの?」
「もちろんだよ。気楽に一人でやってるさ」僕も両手をジーンズのポケットに突っ込み、体を揺らしながら答えた。
そう言えば、去年の大晦日、僕らは二人で年明けを迎えたのだった。
確か夜の十時位だったと思う。ヨシコさんは、一人でぼんやりしていた僕の携帯を鳴らし、『今夜は朝まで電車が動いているから、これから一緒にどこかのお寺に行って、除夜の鐘を聞こう』と誘い出してくれたのだ。僕らは急いで京王線の明大前駅で待ち合わせると、日野市にある高幡不動尊に出かけた。そして、かじかみそうな手を甘酒で暖めながら、とても長く響く鐘の音をライブで聞き、おみくじを引いたのだった。
「今、うちの保育園に彼氏募集中の女の子がいるの。とってもいい子よ。でもキミは、紹介なんてノーサンキューなのよね?」
「まあね」
「本当に寂しくないの?」
「慣れているから平気だよ。それよりも、年明けのイベントの方が憂鬱だよ」今度は僕の方が愚痴った。
僕の両親は二年前に離婚していた。
数年前から父と母にはそれぞれ別のパートナーがいたらしく、僕の大学合格が決まり、大きな節目がついたことを踏まえての円満離婚だった。僕の前で両親が言い争いをすることはなかったけれど、いつからか、二人の間に冷めたような雰囲気を感じ取っていたため、僕はまったく驚かずにその話を受け入れた。
父と母がそれぞれのパートナーとどこか他の場所に移り住み、新しい生活をスタートさせたように、僕も無理なく大学に通える範囲内に見つけた格安の賃貸物件で一人暮らしを始めた。ただ、この時に両親と交わした約束事がひとつあって、毎年、新年の三が日が終わった一月四日だけは親子三人が顔を揃え、食事会を開くことになっていた。
「去年の第一回は、確か、シティホテルでディナーだったわよね?」
僕はうなずいて言った。「いまさら家族ごっこなんか、馬鹿みたいだよ」
「キミにとっての家族は、お父さんとお母さんと、それにキミの三人で間違いないでしょ?年に一回位、家族全員が顔を合わせるイベントって、そんなに悪くはないと思うけどな」
「なんか嘘くさいし、時間の無駄のような気がするよ」僕はため息をついて言った。
「きっと、キミがそんな風にイライラしているのは、ちゃんとした理由があるからなのよ」
ヨシコさんは人差し指でこわばった僕の頬を軽く突っついた。
「ずっと煮え切らないみたいだから、はっきり言ってしまっていい?」
「どうぞ」
「両親の離婚は、自分のせいだっていう負い目ね」
僕はため息をついた。
「言葉にされるとかなり痛いなあ。まあ確かに、相当、面倒をかけたからね」
「キミは仕方がなかったのよ。もうこれからは、自分が悪いとか、そう思うことを止めなさい」彼女はそう言うと、僕の腕を取って自分の腕をからめた。
「悪いと思っていたら、食事会では大人しくして、『こんなの止めよう』とか『うんざりだよ』とか、和やかな場が凍りつくようなことを口にしたらいけないのよ。まあ、キミのことだから、結局は、ちゃんといい子にしているはずだって思っているけどね」
僕は苦笑して言った。
「なんか心の準備ができた気がするよ。ヨシコさんがはっきり言ってくれたから」
彼女は微笑みを返した。
寒空の下で待ち続けた甲斐があり、ラーメンは大当たりだった。
鶏ガラと豚骨、そこに魚介を加えて何時間も煮込んだというスープには濃厚な旨みがあって、固めにゆでられた中太の麺と絶妙なマッチングを誇っていた。僕らは無言でラーメンに集中し、最後は器に直に口をつけて、一滴も残さないよう極上のスープを飲み干した。
凍える夜は夢の中に君を訪ねていくよ