北極圏での出来事
電話口の声を聞いて、あれ、と思ったのと、相手が電話を切ったのが同時だった。
何かが頭の奥にちかちかと瞬いている、船の上から灯台の明かりを眺めるみたいに、時折光っては消えてを繰り返している。そのくせ、肝心の光は靄がかかったみたいにぼんやりして輪郭を掴むことが出来ない。
相手は、――Sは、何て言ってたんだっけ。
そうだ、オーロラを見に行こうと言っていたんだ。今の季節は北極圏の近くに行けばかなりの確率で見られるらしい、それを目的とした観光地まであると言っていた。それはまだいい。彼ならばやりそうなことだ。いきなり何の挨拶も無く、やあ久しぶり、調子はどうだと聞くことも無く、こちらが電話口に出た途端にオーロラに興味ないか、なんて。話の内容がさっぱり分からなくて戸惑ったが、そんなことにはお構いなしで喋り続ける。オーロラの美しさだの、現地の食事が美味いだの、写真を撮りたいだの。まったくSらしい。突拍子も無いことを平気でやってのける。
そして僕は、――うん、行こう、と頷いた。
これも、いつものことだ。あいつがいきなり何かを思いついて、僕に持ち掛ける。僕は、多かれ少なかれ考えて、結局はうん、と頷く。あいつに従う。あいつが提案したことで、面白くなかったことは無い。今回もいつもの思い付きだろう、しかし、オーロラを見に行くとはまた大変なことを考えたものだ。準備もあるし、今から衣類をそろえなければならない、食料だってある程度は必要だろう。旅の途中に読む文庫本も持っていこうか、――頭の中で様々なことが動き出す。あいつが何かを提案すると、いつも頭が待ってましたとばかりに張り切ってエンジンをかける。その感覚が心地よい。はた迷惑な奴だと思いながら、あいつと縁が切れない理由がそこにある。
がちゃり、と乱暴に電話が切れた後でも、妙な具合で何かが頭の奥に瞬き続けているのが分かった。
――あいつの声、何かが違わなかったか?
電話でした会話を頭の中でもう一度辿ってみる、あいつが何を話して、どんな喋り方で、僕と話したか。変わったところは何も無かったように思う。
何がおかしいんだろう。
慎重に瞬きの方へ意識を伸ばしていくが、まるで手ごたえが無い。ぐるぐると渦のように回り始める、何が、何がおかしい、いや、そんなもの最初から無かったんじゃないか。あいつはいつものように僕に無茶な提案を持ちかけてきただけじゃないのか。
しかしその瞬きも、一分後に宅急便の配達員がインターホンを鳴らしたときにはすでに掻き消えていた。
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H空港の2番ロビーに朝8時に待ち合わせして、夕方には着くはずだという。
椅子にはもうSが座っていた。
僕を見つけると、ぶっきらぼうに、よう、変わらないなお前、とぼそぼそ呟く。もう3年ぶりになるはずだ、なのにSの態度の方が何一つ変わらないことに少し安心する。
今度はまた何をやらかすつもりなんだ、と聞いた。この男は言葉が分かるわけでもないのによく旅に出る、金も少ししか持たず、衣服もほとんど持たず、時には向こうで生活費を稼いでようやく日本へ戻ってくる。死にかけたことすらあるらしいが、本当のところは良く分からない。
Sは、説明したとおりだ、オーロラを見に行くんだとこちらの顔をも見ないで言った。――いつもどおりだ、電話で感じた違和感を裏付けるようなものは何処にも感じられない。やはり自分の思い違いだったんだろうか。
一週間、向こうにいる予定だった。オーロラだけではなく、動物や、雪や、山を撮りに行くんだとSは飛行機の中で言っていた。運がよければ白熊も見えるかもしれない、と。この男なりに言葉数が多いのは、それだけはしゃいでいる、ということなんだろうと思った。とりあえず、重たい機材を抱えた髭と髪がぼさぼさの宗教家みたいな奴と並んでいたくは無かったから、お前はまず向こうに着いたら髭を剃れ、とだけ言っておいた。
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ホテルを予約してあたりを散策するものの、あまりの寒さに僕は早々にあきらめた。
Sは気にも留めない様子で、お前弱っちいな、と言いながらホテルの周りを歩き回っていた。
オーロラが見える場所というのはここから結構な距離があり、明日になったら移動してまた宿を取るつもりだった。早ければ明後日には見られるだろう、とSは言う。
ストーブを借りて、その上にやかんを置いて湯を沸かし、コーヒーを淹れる。
外が酷く寒い所為か、部屋の中ですするコーヒーはいつもより美味かった。Sはまだ帰ってこない。彼は本当に写真を撮るつもりで、オーロラを見るつもりで僕を誘ったのだ、何も不思議がることは無いのだ。だんだんと、Sが帰ってこないんじゃないかという馬鹿馬鹿しい考えが頭をもたげ始める。ストーブの上にまたやかんを置く。水が沸騰するしゅんしゅんという音が聞こえる。
僕の考えを裏切って、Sは間も無く帰ってきた。
一杯写真が取れた、ほらいいだろうこれ、雪を頭と肩に積もらせながらSはカメラの画面を指差す。映し出されたのは白と樹木に囲まれた世界だ。夕日を浴びてオレンジが柔らかく画面を彩っている。へえなかなかいいじゃないか、と僕はよく分かりもしないのに相槌を打った。彼の撮った写真は綺麗だと思った。見た目とは裏腹に、この男は美しい写真をいくつも撮る。
明後日はオーロラを撮るんだ、と嬉しそうにSが呟く。
見られたらいいな、と僕も笑って言う。Sは少しの沈黙の後、唇をゆがめた。
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Sの宣言どおり、二日後の夜に外へ繰り出した。
あまりにも寒すぎて、もはや身体が痛みを引き起こしている。ひりひりと顔が痛い。風が吹くたびに、鋭利な刃物で頬を撫でられているような気分になる。吐く息は真っ白に凍って雪の中へと落ちていった。何もかもが白へと帰っていくのだ。
Sは入念にカメラの準備をしている。集中しているらしいから、声はかけない。
彼の両の目が大きく見開かれているのを見た。息がいつもより荒くなっているのにも気づいた。もうすぐおもちゃが手に入る子供のようだ。彼自体、子供なんだろうけども。
三十分くらい待って、それはやってきた。
真っ暗な空の彼方から、最初は薄い靄のようなものが見えはじめて、目を凝らしているとSが、来た!と小さく叫んで、急いでカメラをセットし始めた。それを見てもう一度空に目を戻すと、頭上に緑と青の光が一杯に波打っていた。砕け散ってはまた生まれ出る、幾重にも薄い布を重ねたような、柔らかく滑らかな光だった。
言葉が出てこなかった。Sはかしゃかしゃと何回もシャッターを切った。それでも目の前でゆらゆらと加減を変える光の美しさは写真では表せないだろうと思った。切り取ってしまってはならないのではないかとさえ思った。僕はシャッターを切るSの手を掴んだ。彼はそれで理解したらしかった。
二人とも黙って空を見上げていた。耳がきんきんと痛んで、首が疲れてくる。
立っていられなくなったのか、いきなりSが後ろの雪へ倒れこんだ。僕もそれに習って後ろへと体重を掛ける。ぼふっと音がして、身体を乗せた雪はふかふかと布団のようだった。
――なあ、聞こえてるか、と声がして、僕はSの方に顔を向けた。Sもこちらをも見ていた。
嬉しくてたまらないというような顔をしていた。眉が八の字に下がって、泣きそうな顔にも見えた。嬉しすぎて泣きそうなんだろうか、でもこれを見たら仕方ないだろう。
綺麗だな、本当に綺麗だな、Sが小さく呟く。僕も、うん、と頷く。
俺、綺麗なものが好きだ、だから、これを撮れて良かった、ここにこれて良かった、僕はまた頷く。
とうとうSの目から涙が溢れ出した。
俺さ、これまで生きてきて、汚いもの一杯見てきた、もう疲れた、だから、行くとしたらここだ、ってずっと前から決めてた、お前を誘うのも、決めてた、綺麗なものが見たかった、綺麗なものを撮って、ずっと残しておきたかった、なあ、ここの気候ってすごく厳しいんだ、厳しくて、すごくすごく美しいんだ、オーロラが見える季節になったら、夜に火を焚いていないで雪ん中に入ったらもう終わりなんだ、それが最後なんだ、それでもいいって思ったんだ、なあ、お前、ここに来れて、良かったか。
彼は泣いていた。涙声で、ほとんど何を言っているか聞き取れなかった。それでも、僕は頷いた。うん、うん良かったよ、と頷き続けた。
頭の中に瞬いていた光が、眩いくらいに僕の頭上を覆っていた。
ようやく僕は理解した、Sが一体何を考えていたのか、何をする目的でここへ来たのか、何故僕を誘ったのか。指の感覚はとうに無くなり、足はもう冷え固まって動かせなくなっていた。
焚き火は風に吹かれて弱弱しく揺れている。Sは死ぬつもりだったのだ、僕と一緒に。あの声を聞いて、おかしいと思ったのは、Sの声が妙に落ち着きすぎていたからだったのだ。まったく、僕が彼から聞いた中で1番無茶な提案だった。何の前置きも無く、言ってのけるところがまたSらしい。はた迷惑な奴だ、死ぬときすら僕を巻き込むとは。
僕は笑った、それも悪くないなと思った。思ってから自分で驚いた。確かに、僕にはもう親も居ない、家族も作っていない、仕事はあったけど、金もたまったけど、どうでも良かった。あのオーロラを見て、そこから戻る気はもう無かった。あの美しさを見て、またいつもの日常を生きる強さは、僕には無かったのだ。Sの言う、汚いもの、の中で生きる強さは、僕には無かったのだ。そして結局僕は、Sの提案に従う。
世界に膜が張る、透明な、あたたかい歪みの中に、僕とSとこの空とが全部溶け出していく。溶け出して、溢れ出て、一筋の流れが白くなる。何もかもが白へと帰っていくのだ。
Sの声が聞こえる。
なあ、お前、俺と一緒に、―――。
Sの声が最後まで言う前に、僕は目を閉じた。
焚き火が掻き消え、オーロラが空の向こうへと遠ざかっていった。
北極圏での出来事