ビューティフル

ビューティフル

『西次郎』

 たーりら♪ たりら♪ たーりら♪

 頭の中で鳴りつづけてる音楽がある。走り出すと流れ始めるお決まりのメロディー。

 たーりら♪ たりら♪ たーりら♪

 いつどこで聞いたのか、本当にそんな曲が存在するのかわからない。僕だけのメロディー。

 たーりら♪ たりら♪ たーりら♪

 ただその1フレーズが延々と流れつづける。走っていると流れつづける。ずっとなんだかわからない。でも、走ると絶対に流れ始める。
 何か昔のCMの曲だろうか。童謡だろうか。
 友達や親に歌って聞かせても、みんな聞いたことがないと言う。

 僕には記憶が飛んでいる時期がある。10歳の2月から、11歳の4月まで。僕は小学校に通っていなかった。生まれつき体の悪い僕は、幸い家がそれなりに裕福だったこともあって、学校に通わず家に家庭教師をよんでいた。血筋もあるのか学習は進み、10歳になる前には小学校の勉強はすべて終了してい た。中学の勉強に入る前辺りから、しばらく記憶が飛んだ。次に気付いたときには高校の学習内容まですべて理解していた。僕は、11歳の時点で大学入試の全 国模試で1桁台の順位に入るくらいの学力を持っていた。周囲は天才少年だと騒ぎ、テレビにも何度か出た。クイズ番組に出たときも、なぜか大体の問題は理解 できた。なぜ自分がそんなことを知っているのだかはわからないが、なぜか理解できたのだ。
 親は、僕の記憶のない時期についてはまったく触れてこない。何度も聞いてみたが、そのたびに口をつぐむ。学力以外に、記憶が飛ぶ前と飛んだ後に大きな変化はない。身長が10センチほど伸びていたが、それは当時の成長期を考えると常識の範囲内だ。
 それ以来だ。走っているとき、必ず一定のメロディーが僕の頭の中で流れる。

 たーりら♪ たりら♪ たーりら♪

 ひたすら繰り返す。

 たーりら♪ たりら♪ たーりら…

『設楽健介』

「だからよ、要するに人間の運命って絶対決まってるわけだろ?」
…また始まった。うるせぇ、西。
「この世界の分子構造とまったく組成が同じ世界がもう一つあるとしたら、そのもう一つの世界はこの世界とまったく同じ動きをするわけだろ? ラプラスの悪魔だよ。この世界の全ての分子の位置と、そのエネルギーのベクトルを計測できたら、その後の未来が全部わかっちゃうわけだ。だから、この先俺が何をするの かなんてこともぜんぶ決まってるってことじゃないか。だったら、ここで俺が玉砕しようがどうしようがはなから決まってたってことで、別にここは特に躊躇したりしてもしかたなくて…」
「あーはいはい、じゃあ言ってくればいいじゃねえかよ」
と、僕。
 西は最近二週間に一度は僕の家に来て、酔っ払って女の話ばかりする。しかもどうにもこうにも運命論者で、さらに鬱陶しいほどに言い訳くさい。まったく、 自分ひとりの考えじゃ何にも出来なくて、ただたんに他人に同意を求めて失敗したときの逃げ口が欲しいだけだ。毎回毎回運命がどうだ偶然がどうだと話をして、そして次来た時にはほぼ8割の可能性で失敗して泣き言をほざく。ちなみに前回ゴーしたかった女とは無事に大失敗して気まずいらしい。
「いや、まあ待て、でもさ、最近なんか俺モテるんだよ。なんか日常の中でモテる感じがするっていうかさ、どうも周りの女が俺のこと好きなような気がするんだよね」
「ふーん…、で、できるの?」
「いや、最近はヤれるとかそういうことはどうでもいいんだ。そうじゃなくて、何ていうかな…、愛。愛だよ。好きとか好かれてるとか、そういう、感触? 人に好かれてるって感触って、何ていうか幸せじゃない? 人間って結局快楽求める生き物でしょ? ほら、一時的な快楽じゃなくて恒常的な快楽っていうかな。 やっぱ結局ヤれたって、その場の達成感のみじゃん?」
「そりゃお前がその後につなげられないからだよ」
「いやだって仕方ないじゃん、なんかつながらないんだもん…」
「下手なんだろ?」
「違う! 断じて違う!」
 いつものやりとり。西とは大学1年の頃からの付き合いだ。街で遊んでいた頃に知り合った。当時遊んでいたのはほとんど渋谷が中心だったが、今僕は池袋に引っ越している。前阿佐ヶ谷に住んでいた頃からたまに遊びに来ていたが、池袋に引っ越してきてから昔よりよく転がり込んでくるようになった。
 当時の西は髪が長くて、背が低くて華奢な体つきをしているため女の子のようだった。お互いやることがなく、街に座り込んでナンパばっかりしていた。いつ ものように渋谷にたむろしているとだんだんと顔見知りが増えてくるもので、友達つながりで西とも知り合った。たまたま同年代で学校が同じだったこともあ り、それからちょくちょく遊ぶようになった。
 西はやたらにナンパがうまかった。しかも若い子の方が好きで、大体女子高生か女子中学生に声をかけていた。一緒にたまっていると、「あ、あれいけそう」 と言ってふっと集団からはなれ、数時間後に「即りました~」と言って戻ってくる。カラオケとかでしてくるらしい。やけにテンションの上下が激しく、ノッているときの西は最強だったが、落ちているときは本当に哀れなくらい暗い顔をしていた。
「とにかく、言おう。言えばいいんだ。素直に抱きたいって言えばいいんだよな」
 あれだけナンパはうまいことやっていたくせに、それ以外の人間関係が絡むと途端にダメになるらしい。1年ちょいの付き合いで、そのあたりがだんだんわかってきた。基本的に西は他人に対して謙虚だ。人当たりもよく、男からも好かれる、というより可愛がられるタイプだ。ゲイにせまられたこともあるらしい。 もっともという気もする。その意外と謙虚な性格がわざわいし、周りに気を使ってしまい身近な女の子には上手く迫れないようだ。
 しかし、西はもうナンパに全精力を注ぐ気はあまりないらしい。僕が阿佐ヶ谷に住んでいた頃、一時期西は渋谷に住んでいた。センター街からまっすぐ奥に進んでいったところ。歩いて7分くらいのところだろうか。
 渋谷は、もともとは単なる住宅街だ。“若者の街”という触れ込みで駅前が一気に開発され、今の状態になっただけだ。センター街を抜けてちょっと歩けば、 古びた商店街もあり、閑静な住宅街となる。西はそのあたりが気に入ったらしく、ボロアパートを借りて住んでいた。本当にボロアパートで、今どき風呂無し四畳半。火をつけたら盛大に炎上しそうなアパートだった。たしか9月くらいにそのアパートを借りた西は、しばらく仲間内で「渋谷といえば」的な位置付けに なっていた。
 西の実家はもともとそこそこ裕福なため、特に金に困っていた様子はなかった。ただ、「おもろいから」と「自立したいしぃ」くらいの理由で一人暮らしをはじめたらしい。あとはナンパに便利だからだろうか。風呂がないため、駅近くのジムの会員になってそこのシャワーを利用していたようだ。元々映画マニアの西 の部屋は、プロジェクターを持ち込み、ノートパソコンにやたら立派なカメラなど、売り払えばその部屋を2年くらい借りられそうなくらいの重装備だった。 「ヒューズが飛んだぁ! 何も見えないぃぃ!」と突然電話がかかってきたこともあった。
 12月のある寒い日、西から突然電話がかかってきた。「ホームページ作りたいんだけど」。僕は大学では情報工学を専攻しているのだが、一応友達関連で WEB関係の知識も多少はあった。自宅サーバーを作ったりして遊んでいたので、ちょうど良かったといえば良かった。ただデザイン関係の知識はまったくな かったので、自分で作るホームページといえばひどいものだった。西が作りたいと言うので、電話のあった翌日にホームページ制作用のソフトや画像処理のソフ トを持ってボロ小屋へ遊びに行った。西はもともとネットのレンタル日記を借りて日記をつけており、そのリアルだか虚構だかさっぱりわからない日常を書いた日記はかなりのアクセスを集めていたようだった。ニシ、というそのままのハンドルネームで、その狭い世界では相当有名になっていた。完全に理系の僕に対し て、純文系の西は文章を書かせたら上手かった。ホームページのデザインなどもやらせたら、その日のうちに僕よりできるようになった。そのころには文字の色の変え方ひとつ知らなかったが、作れるようになったらハマりだしたようで、いつのまにかフォトショップ、イラストレーター、ドリームウィーバー、ファイア ワークス、フラッシュといったWEB制作やデザインに必要なソフトは片っ端から覚えてしまったようだ。しかも先天的にデザインのセンスがよく、素直に上手 い。西自身は、一番やりたいのは映像だと言っているが。
「あー、決めた! 絶対言う! 絶対言う! 絶対に言うからな! 居酒屋で4時間話しつづけるって、アホか俺は…。だいたいさ、おかしいだろ。普通に7時 半から飲み始めて、盛り上がってきて会話火ついて2時間。9時回っても、会話のテンションはそのままだよ。10時過ぎた。どちらも一度も席立たないんだ ぜ。お互い4、5杯目に入ってるのにトイレすら一度も行かないし。11時になった。普通にもう終電逃してホテル行くと思うじゃん? ね? 思うようね普通 ね? 会話のテンションは変化ナシ。もう周りの客が割とうちらのトーク聞いちゃう感じ。ちなみにその店、足元寒かった。ムカつく。俺足の先、先端冷え性だっちゅうのに。まあそんな感じでトーク続けるわけだよ。絶対おかしいって。相手だって俺実家遠いこと知ってるんだぜ。で、11時半ごろ『西、終電大丈夫 なの?』だよ! おいおいおいおいおいおい。ちょっと待て。たしかにさ、俺もさ、なんか話してるの自体が楽しくなってまあエッチはできればいいかな…くらいにはなってたよ。でもさ、いざ突然今日は帰るよ的なこと言われたら一気に冷めるよね? なあ健、冷めるだろ?」
 やばい、こいつ後ろ向きにハイテンションになり始めやがった。
「もう一気に冷めたですよ俺。え、明日仕事あるの?って聞いたら昼からだってさ。じゃあ明日まで一緒にいてよって言ったら、大事な仕事なんだってさ。ぬあぁぁ! ありえないって! ぜってーありえないって! はぁ…。なんなんだよ。たしかにその4時間は楽しかったですよ。そう、べつにはじめっからエッチしたくて飲み誘ったわけじゃなくって、久々に会って話したかったからだし。実際あの子と話してるとめちゃめちゃ盛り上がって楽しいし。でもさ、でもさ、 やっぱ目指すとこはそれじゃん? やっぱさ、しないとスッキリくっきりしないじゃん? あーもうめんどくせぇ! なんで性欲とかあるかね? いやなくなったらなくなったでそれはただのインポちゃんになってさびしいんだけどさ、いらないじゃん性欲って。性欲あるからムダなジェラシーとか感じなきゃいけないん じゃん。いや違う、悪いのは性欲じゃなくて独占欲じゃないの? ジェラシーとか嫉妬とか、そういうのがいらないんだよ。そうだ、これどう? 三夫七妻制。 いいじゃんこれ! 国会通そうよ。絶対楽しいって! ほら、コンピューターの電磁波の影響でなんとかかんとかで、この先男が減って女が増えるんでしょ?  だったら通るってこの制度! それだ! よし決まり、これからは三夫七妻制ね。さ・ん・ぷ・な・な・さ・い・せ・い、だよ。夫が3人、妻が7人で暮らすの。楽しくね?」
 もうだめだ、言ってることがわけがわからない。こうなってしまったら、あとは適当にあいづちでもうっておくしかない。ほっておけばそのうち自分なりに結論をつけて立ち直って寝る。これだけ内容のない話を延々と続けられるのは、ある種の才能だと思う。おかげさまで、こいつが遊びに来るとラジオもテレビもいらなくておもしろいのだが。
「まあそれは無理だとしてもだ。だから、人間から嫉妬心、グリーンアイドモンスターか? それがなくなれば、ムダに落ち込んだりする必要はなくなるわけ だ。うーん、俺が今気付いたことを16世紀に気付くとはシェークスピなんとかって人もけっこ賢いじゃんか。サルに戻ろうよ、サルに。ぼのぼ猿だよ。知ってる? いや俺も先輩から聞いたんだけどね。あ、先輩っていってもナンパの先輩ね。ってかあの人だよ。わかってるだろ?」
 もちろんわかっている。こいつが今言いたいのは、数々の伝説を残すカリスマ的なナンパ師、翔さんのことだ。翔さんも元々いろいろ深い事情があってナンパをはじめたのだが、それがすさまじく上手く、ストリートやネット上で一気に有名になり、今は雑誌にちょこちょこ出ていたり、ラジオ出演していたりする。そ れ以外にもいろいろ仕事をしているようだが、実態は良くわからない。AVを撮ったりもしているようだが、会社を作ったというウワサもある。人当たりがものすごく良いぶん、底知れない人だ。
「ぼのぼ猿ってさ、ムダな闘いしないように、乱交するわけじゃん? 共有ですよ、共有。シェアですよ。要するに必要のない独占欲みたいなのは完全に抑えるわけだ。あーやっぱ煩悩抑えないとダメだよね人間。もう仏門入っちゃおうかな俺。あ、今俺みうらじゅんの気持ちちょっとだけわかった気がする。たぶん仏像がカッコイイのってそういうとこなんだ。よし決めた。俺煩悩なくす。もう絶対欲望とか持たない。欲しいとか言わない。クールなのかっこいい。酒くれ!」
「もうないぞ」
「買ってきて」
「アホか!」
「じゃあ西友行こう」
 家の近くの西友は24時間営業している。
 どうでもいいが、自動ドアが開いたときに機械の声で「いらっしゃいませ」って言うのはいかがなものだろうか。感情ゼロの機械の声でウェルカムされたとこ ろで、それは人間が一回一回歓迎の意を表明するのを放棄しオートメーション化しただけだということで、逆にぶつけようのない、ムカつきとまではいかないなんとも言えないモヤモヤした気持ちが浮かんでくるのだが。
 西友まではエレベーターで降りて徒歩1分。すでに「あび、あび、あび」とわけのわからないことをつぶやいている西と酒を買いに行く。さすがに深夜2時をすぎると僕たち以外に客はいない。
「ビール。ビール。金色のやつ買おうよ、金色のやつ」
 たぶんこいつが言いたいのは、最近発売された本生ゴールドのことだろう。発泡酒にしてはわりとなめらかなやつだ。まだ安い。
「ちょっと待て、健よ。ヤバいぞ。ヤバい」
「どうした」
「サンシャイン通り行こう」
「なんで。こんな時間に女の子はいないぞ」
「いやいる。絶対いる。行こう。そうだ、サンシャイン通り行こう。駅前行くナリ」
「ナリってなんだ、ナリって」
「きた。ピピピきた、今。絶対家出少女とかが俺のこと待ってる。ピピピきたもん、ピピピ。本当。本当。絶対座ってるから。な、わかったよ、可愛い方先お前でいいから。行こう。サンシャインいこう。ユーアーマイサンシャインだよ」
「ぜってーホストとかしかいないと思うぞ」
「行く。いやむしろイクぅ! いいことあるって、絶対」
 結局西に押しきられ、駅前にパトロールに行くことになってしまった。いつもこの調子のような気もするが。なぜかこいつにはノせられる。昼間から飲まされていたり、気分乗っていないのに寿司食いに行かされたり。それがこの男の心地よさと言えばそうでもあるのだが。
 しかし、このときばかりは反対しておけばよかった。ざわっと嫌な予感が胸の中をよぎった。こういうネガティブな感覚だけは、なぜか的中するものだ。

『麻倉ゆうな』

 朝の渋谷は冷める。
 明け方のセンター街は本当に庶民的で、この時と場所を支配しているのはチリトリとホウキだ。昼から夜の嘘くさい楽しさが、本当に嘘であることを見事に物語ってくれている。
 最近渋谷は警戒が厳しい。ちょっと前に、小学生4人がロリコンビジネスの人たちに拉致されるという事件があってから、妙に警官がうろうろしていたり、ただうちらがゲーセンで遊んでるだけで帰りなさいとか言われたりする。
 あたしは麻倉ゆうな。15歳。高校1年だが、行ったり行かなかったりだ。友達といるのは楽しいが、どうも学校というものには馴染めない。ただ単に楽しく ないんだ。なんで、明らかに楽しくないものにみんな従うんだかがさっぱり理解できない。先生は本当に何も知らない。いや、知らないどころの騒ぎじゃない、バカだ。人間って、ちょっと思いついただけで何もかも壊せるし、何だって言える。あたしのようなちょっと出来の悪い人間が、思ったことを口にしただけで先生たちはあたしを“たしなめる”。嫌にもなるよ、本当に…。
 ここ一週間ロクなことがない。月曜日、隣のクラスの女があたしの友達の彼氏に孕まされた。火曜日、その友達が電話先で半狂乱になって手首を切った。なぜ 止められなかったとあたしにまで被害が及んだ。水曜日、久々にナンパされたと思ったらドラッグの売人だった。木曜日、テストが返却された。呼び出された。 金曜日、彼氏とヤってるところに他の女が刃物を持って現れた。土曜日、地元の居酒屋でトイレに行ったら、真っ最中のカップルがいた。彼氏と昨日の女だった。日曜日、こないだの売人と会った。お金はなかったが、キめてヤるという条件で少し分けてくれた。気分は最悪。どろっとした内面と裏腹に、体の表面と脳の表面の感覚だけが鋭敏になって燃え上がっている自分がいる。気持ち悪い。気持ちいい。触られたくない。ヤりたい。
 頭がふらふらしたまま、ホテルを出た。もう終電はない。財布にはたしか千円も入っていなかった。道玄坂を下り、駅前に出る。人は大勢いる。たぶん座って いればいくらでも声をかけてくる奴はいるだろう。日曜の夜2時とはいえ、渋谷は渋谷だ。センター街の入り口辺りに行くと、いきなり声をかけられた。紺色の服に、腰に拳銃をつけた男。警察だった。「君、高校生じゃないの」「いえ、もう待ち合わせなんで、すいません」。適当に流してセンター街の奥へ向かった。 よく見かける外人が、タバコの自販機の前で3人でたむろしている。ちらっとこちらを一瞥して、何か笑っていた。下品で気色悪い。あいつらの汗の臭いを想像 しただけで鳥肌が立ちそうだ。さらに奥へ向かうが、微妙な奴しかいない。客を捕まえられないキャッチや酔っ払いや田舎臭いガキばかりだ。もういい。なんとか人目につかなくて時間が潰せるところに行こう。寒くて切ない気持ちになってきたが、マッチ売りの少女にしてはちょっとやさぐれすぎてるか。幸せにはなれ ないかな、こりゃ。でも酒もタバコもクサいから嫌いだし、体は健康だから長生きするかも。
 止まってると寒いから、代々木公園沿いに原宿まで歩いてみた。原宿は、夜中になるとまったく何もない。巨大なジムの前に、どっからどう見ても全身で「ゲイです」と言い張ってる白人と日本人のカップルがいた。竹下通りなんて、どっかの田舎の商店街と一緒だ。ここだけ埼玉県に指定してしまえばいいんだ、こんな道。光がともってるのは駅前の吉牛だけだ。いや、間違えた、吉豚か。夜に空いている店がないから人がいやしない。明治通り回りで渋谷に戻ろうかとも思っ たが、駅前に行ってしまうとまた警察にナンパされる、それも面倒くさい。もうすぐ5時になる。始発が動き出す頃だ。冬だから明るくはなっていないが。あたしは結局回ってきた道をゆっくり戻って、渋谷から電車に乗ることにした。
 朝の渋谷。健康的な渋谷。何てつまらない、虚飾のない街なんて、街というものの機能の9割9分9厘9毛まで失っているようなものじゃないか。サラリーマンの渋谷。部活動の渋谷。あたしはわざわざそれを見に行く。精神的Mだと言われたことがあるが、こういうところなのかもしれない。違うか。
 空が青白みはじめてきた。空気が冷たい。なんで女はミニスカートをはくんだろうか。ってゆーか、スカートってなんだ。落ち着いて考えると変なものに見えてきた。なんでこんなひらひらした布切れを腰に巻いて歩いてるんだ、あたしは。なんだこのわけのわからないグレーの格子模様は。服って、寒さを防ぐための ものじゃないのか。これ、明らかに寒さを防いでない。いやむしろ寒々しい。だんだん自分がマヌケに思えてきた。朝の毒気にやられてるんだろうか。通勤する サラリーマンがいた。もう全身全霊で「私は営業です」と絶叫しているような、教科書通り完璧なサラリーマンだ。うむ。美しい。キミは美しいよ。なんの迷い もないんだね。さあ、右足を上げたまえ。左足を上げたまえ。堂々と胸を張って、太陽の下を歩きたまえ。そしてそのセカンドバックからキミの大切なカードケースを取り出し、改札口の緑色の枠に当てたまえ。きっと道は開けるだろう。そして階段を駆け上がり、5時57分渋谷発の山手線内回りに乗りたまえ。進 め。進め。キミの前には輝かしい道が開けている。
 さてそんな美しいサラリーマンを尻目に、みすぼらしくマヌケなあたしはふらふらと住宅街を歩いていく。美容院の前はおばちゃんが掃除中だ。もちろん朝の 主人公、ホウキとチリトリがその手元で大活躍だ。おばちゃんはあたしをちょっと不信げな目でみて、関わらないようにしようと判断したのか、すっと目を伏せて掃除に戻る。すいませんね、怪しげで。はいごめんなさい、4時間前までホテルで売人とラリってセックスしてました。しかも、めちゃめちゃ感じてました。 気持ち良かったですよ、たぶんあなたの爽快な寝覚めと朝の掃除より100倍気持ちいい。いけないんですか、感じちゃ?
 あたしとタメくらいの少女が横を走り抜けた。テニスラケットを持っている。テニスラケットは、あたしがこの世でもっとも嫌いなものの一つだ。少女よ、処女かしら? キレイな髪してるね、横通ったとき、フローラルな香りがしたよ。シャンプーしてきたのね。好きな子とかいるのかな? 言ってみなさい、あなた がその子とセックスできるようにあたしが全部世話してあげるから。そんなテニスラケット握ってるようじゃ話にならないわよ。もっと握るものあるでしょ。
 なんて下品な妄想が突っ走っていた。少女はどんどん走っていって小さくなっていく。この辺りに住んでるってことはそれなりにお嬢だ。あたしもお嬢って言えばお嬢なんだけどな。なんでこんなに違うのかな。
 とぼとぼ駅に向かって住宅街を歩いていると、若い男2人とすれ違った。20くらいだろうか、こんな時間に歩いているタイプには見えない。どっちも身長170弱くらいか。高校生に見えなくもない。片方は黒髪にやや茶色がはいっており、軽く立てて流している。もう片方はほぼ金髪で、長かった。なで肩で女の 子っぽいので一瞬カップルかと思った。少なくとも朝歩いている人種とは違うのでちょっと気になったが、どうでもいいといえばどうでもよかった。ただ、なんとなく不思議な予感はした。
 二人とすれ違うとき、「桃鉄が…」とか話していた。二人とも微妙に疲れた顔をしている。推理。この二人のうち片方の家が近くにある。そして、また他の友達が近くに住んでいる。その友達の家で朝まで桃鉄をやっていた。そんなところだろう。桃鉄はたしかにおもしろいけど、あまり本気でやるゲームでもないと思 う。ザ・ひまつぶしだ。みんなヒマなんだね。
 すれ違ってしばらく歩いていると、後ろから走ってくる足音が聞こえてきた。たっ、たっ、たっ。すっと横に現れて、ぱたぱた手を振っている。
「おはよ。何してるの?」
 ナンパだよ。朝6時だぞ、おい。さすがにこの時間にナンパされたのは初めてだよ。
「えー…」
「いや、こんな朝からふらーんって歩いてるから何してるのかなって思って」
 髪の長い方だ。もう一人はちょっと離れて様子を見てるみたいだ。ざっと品定めしてみる。顔は…まぁ悪くはない。いかにも遊んでる風だし、この笑顔は、声かけ慣れてるなぁ。目の下にちょっとクマできてるな。やっぱ桃鉄か。なで肩だし、細いな。ちゃんと食ってる?
「最近、駅前警察多いしね。適当に歩いてた」
「あー、変な事件あったしね。警戒厳しいよね。高校生?」
「うん」
「まじだ。何年?」
「1年」
「へー。もちっと上に見えるね」
 やっぱ慣れてる。でもこういう時って、そういう奴の方が安心する。遊びに慣れてない奴って、適当に応対するといきなりわけわかんないこと言い出したりしてよっぽど怖い。逆ギレしたり、わけもわかんなく罵倒されたり。遊びをわかってる奴だと、逆にそのあたりはさっぱりしたものだ。無理なことや引くようなこ と言ってこないし、その場をお互い楽しくやってなんぼだと思ってる。このなで肩はそのあたりは大丈夫そうだ。
「これからどうすんの? 朝マック?」
 うわ、つまんね。
「まぁまぁまぁ、ほら、このあたりからでてるクマが気になってさ」
 あー、ストラップか。だんだん汚れてきてどうしようかと思ってるクマだ。
「クマ、おはよ。ん? 寝てる? 寝てる? あ、起きたか。どうよ、ご主人様疲れてるんじゃないの~?」
 うわー、めちゃめちゃ調子いいよこいつ。
「あはは、別にあたし疲れてないって」
「そうなん? でもちょっと寒くなかった? この奥の方ってどこまで行ってきたん。原宿とか?」
「うん。歩いてみた」
「何もなくね?」
「ないね」
「ダイソー閉まっちゃってるしね。ブックオフもたしかあそこ8時くらいに閉まるよな」
 あんたの原宿はダイソーとブックオフだけか。
「どうするのこの後? 俺部屋めっちゃ近いんだけど、ちょっと話さない? コーヒーくらいだすって。ほら、このクマも疲れたって言ってるしさ」
 この近くに住んでるのか。いいところ住んでるなぁ。朝っぱらからナンパしてきて、いきなり部屋に誘うか。いい度胸してるな。まあでも、このへんに住んでる男友達一人作っておくのも悪くはない。こいつ目はまっすぐな感じだし、髪は長いがキモい感じはない。
「いいよ」
「いいね」
「あ、あのさ。さっきすれ違ったときもう一人いなかった?」
 さっきいた黒髪の方がいつの間にかいなくなっていた。
「あー、あいつも近く住んでるんだ。てかそこだよ。そこ」
 推理ちょっと外したみたい。二人とも近く住んでたんだ。
「そだ、名前聞いてないよね」
「ゆうな」
「ゆうな、ね。ゆうな。ゆうな。どんな字書くの?」
「ひらがなだよ」
「だまされた」
「何が。キミは?」
「ん?」
「名前。教えてよ」
「次郎。西次郎。次郎ちゃんでいいよ」
 軽いなぁ、この男。次郎ちゃん。

『西次郎』

 力だ。力が足りない。
 生きづらい。何が個性を尊重する時代だ。認められるのはカテゴリ分けされる個性だけじゃないか。一定の範囲内で、ちょっと他人と違っている人間は「個性的」と認められる。しかし、その範囲を超したとたんに、「個性的」でなく「変」と言われだす。なるほど良くわかった。変なら変で結構。
 昔からクラスというものが苦痛だった。ただでさえ他人の目を気にし、なおかつ自分が他人と違っていると感じることに恐怖を覚える僕にとって、無理矢理に同年代の人間を詰め込んだクラスなんてものは地獄でしかない。全員が同じ物を使い、同じことを聞き、同じことをしゃべり、同じことをする。灰色だ。灰色に 見える。同一の、決められた単位の中で競争をしなくちゃならない。怖い。上手く合わせられない。違うことをすると「変」だと思われる。勉強か、スポーツ か。もしくは絵画や音楽か。どれかに突出していれば、「個性的」と認められる。どれにも大して興味はない。勉強は、はなから「別格」だ。別に何をやっても 特に失敗をすることはなかった。ただ、怖いのはやりすぎてしまうこと。自分の感覚をフル開放して感覚のままに動けば、絶対に「変」だと思われる。自分を殺 すことで精一杯だった。たまに思いっきりズレてしまうこともあった。上手く合わせられないなら殺すこと。中高6年間で学んだことはそれだった。
 高校を卒業すると、途端に楽になった。世の中の根底に流れる一つの理屈がつかめてきた。それは、力があるものが認められるということ。その力とは単純。 「人が求めるものを手に入れることが出来る力」だ。金、権力、女、人望、精神性。他人をうらやましがらせ、そして本人が快楽を得ること。快楽原則。力を持つものが絶対的な勝者なのだ。少しずつ僕の生き方が決まってきた。力の求道者になる。誰もが認める絶対的な力を持ち、永遠の快楽を得る。足りない。まだまだ足りてない。力。力が足りない。しなやかな力を。やわらかい強さを。
 まともな社会で、まともな価値観で生きる奴らを見下して、馬鹿にして、馬鹿にして、馬鹿にして笑いながら死んでやる。

 たーりら♪ たりら♪ たーりら♪

 音楽が流れてくる。ぴりぴりと頭が痛くなる。楽器の音ではない、誰かが歌っているように聞こえる。誰だ。僕は、どこで聞いた、この曲を。

『麻倉ゆうな』

「んぁ」
 やだな。
「んぅ」
 したくもないセックスなんだけどな。寝たいな。ってゆーか、セックスじゃないよ。こいつのオナニーに体貸してあげてるだけだよ、こんなの。冷めてるなぁ、あたし。外寒かったからかな。芯まで冷めちゃってる。次郎ちゃん、あんたもぶっちゃけ疲れてるでしょ? 正直、別に大してヤりたくもないでしょ、 今。とりあえずしてるだけでしょ。カウント1なんでしょ、あたし。あー冷めてる。こいつもあたしも冷めてる。目の奥に火ともってないもん、あんた。目、乾 いてるよ。ドライアイになるよ。
「あっ、んぁぁ」
 あ、そうだ。いいこと考えた。セックスすると、相手を気持ちよくさせなきゃいけないとか自分もイかなきゃいけないとか変な義務感生まれてめんどくさいじゃん? これどうかな、お互いにオナニーみせっこするの。それいいじゃん、ほら、自分の感じるとこは自分が一番良くわかってるし。絶対イけるでしょ?  それに目の前に相手いるんだから寂しかったり空しかったりしないじゃん。名案。絶対名案。恥ずかしい? バカね、そのいきり立った棒をあたしの中に突っ込 んで振ってるその変な動きの方がよっぽど恥ずかしいわよ。あ、ひょっとして最後に拭くのが恥ずかしいのかな? 了解、わかった。お互い同時にイって、その後は相手の処理をしよう。
「ぁう、ヤバい、イきそう…、イっていい?」
 しまった、くだらないこと考えてる場合じゃなかった。
「う、うん、イって、イっていいよ」
 次郎ちゃんが腰の振りを早くする。心が冷めてようが、体が気持ちいいものは気持ちいい。しかも、次郎ちゃんちょっと大き目だな。少し痛気持ちいい感じ。 髪が口の中入る。あ、やば、口あいてるからよだれが。そろそろ美容院行かなきゃな。む、けっこ強く突いてくるな。ゆるいとか思われてたらやだなぁ。そう やってさ、両手で挟んで足閉じさせて突くのってちょっと失礼くない? へぇへ、どうせゆるめですよ。くぅ~、気持ちいいんだけどさ、いつからかな、セック スしてる最中にこんな全然シラフなこと考えるようになったの。…あれ、最初からか? 最初は、よくわかんなかったしなぁ。別に痛くもなかったし。中1の時、学校の屋上でだよ。さすがに忘れないね。最初思ったのは何かな、早く終わんないかな、かな。ちょっと急ぎすぎちゃったんだよね。処女とかかっこ悪い 思ってたし。さっさと捨てたはいいけど、あたしだけ早すぎちゃった。えへ。えへじゃねっつの。あー、もうちょっとみんなみたいに恋とかトキメキとか楽しみ たかったなぁ。絶対損したよね。セックスなんて絶対、ためてためてためて、青春のイデオロギー全部ためこんで詰め込んで、到達点として経験するべきものだ よ。だから燃えるんだろうし、悦びとか感じられるんだよ。失敗、失敗。大損した。あー、あたしも大好きな彼氏とドキドキデートしてロマンティックに愛を語 り合ってムードたっぷりに抱き合って熱ぅぅいキッスを交わして、あ、あ、愛の、愛のセックスがしたいよぅー。あいらびゅー。むちゅー。…うわー、最悪に自己嫌悪。
「…はぅっ」
 あっ。イったね。次郎ちゃん、意外とちゃんとコンドーム使う人なんだね。あたしの体のこと考えてくれてるのね。優しいね。…バカじゃないの。病気怖いだけに決まってるじゃん。ふぅ、でもまあ小さくはなかったからわりと気持ちよかったよ。もう少し前戯ちゃんとやって欲しかったかな。桃鉄で疲れてるんだろう けどさ、そのへんは気遣おうよ。疲れたなぁ、今日は。なんかセックスに始まってセックスに終わる一日だったな。うん、実りある充実した一日だった。ブラ ボー、人生。人生、イズ、ビューティフル。もう、疲れた。次郎ちゃんごめんね、ちょっと半裸なんだけどさ、このまま寝るわ。あ、コンタクト。どうしよ。 うーん、めんどい。いいや。明日目痛くなってるかな。やだな。うわー、次郎ちゃんコンドーム結ぼうとして、すべってぱちんってなってる。かっこわる。指痛かったでしょ。白いのこぼさないようにね。
「ゆうな、寝る?」
「うん、寝かせて」
「おやすみ。また明日ね」
 明日、ね。どうしよっかなぁ、明日。月曜か。ってか学校は無理だな、それ以前にだるい。おやすみ。ボクはもう、疲れたよ…。ボクは、もう行くの。別のとこ。


 夢の中だとね、鳥になれる。
 うわー、めっちゃ楽しいなこれ。どこ行ってもいいんでしょ。
 すごいスピード出して海面突っ切ってみたり。
 急上昇。おぉ、雲一つないブルースカイ。ピーカン。ありがとう。
 もう太陽ギラギラしちゃって、まぶしいなぁ。
 ゆっくりと、風を流れのままにつかんで押すようにはばたいてみる。
 すぅぅっとボクの小さな体が風にレールがあるかのように弧を描いて上昇する。
 光の結晶が斜め右上からすっと回転する。160度。
 太陽はどこいった? 目の前はひたすら青。青い空だけ。
 どこ行ってもいいんだよね? ボク、どこ行ってもいいんだよね?
 何をしてもいい。何もしなくてもいい。ただ、ただ、飛ぶだけ。
 空の青と、海の青と、太陽の光と、陸の緑と。
 ただただボクの体をふるわす、あたたかい風と。
 ばさぁぁっと大きくはばたく。あ、羽ちょっと抜けちゃった。
 風に乗る。どこも目指さずに。どこまでも、気持ちよく。
 気持ちよく飛ぶ。気持ちよく、気持ちよく…。


 …。ピアノの音がする。ピアノ? 時計? 規則的なピアノの音。ピアノと、弦を弾く音。すごく透明感のある音。少しずつ、かすれた女の人の声が聞こえてくる。え、呼んでる? あたしのこと呼んでる? 違うな、歌ってるんだ。ララー♪って。歌ってる? つぶやいてる? あえいでる? よくわからないな。な んかよくわかんないんだけど、すっごい水っぽいぞ。脳ミソの中に水流し込まれてるみたいだ。
 うっすらと目を開けてみる。視界がぼやける。目が痛い。人がいる。片足抱えて座って、あたしの顔見てる。髪の長い、色黒の男。誰だお前。
「おき、ちゃった…?」
 ウソだよ、次郎ちゃん。おはよう。今日もアンニュイな朝だね。
「誰、この曲?」
「あぁ…、カヒミ・カリィ。Trapezisteってアルバム」
 聞いたことあるな。たしかちびまるこちゃんの最後の歌歌ってた人じゃなかったっけ。少なくとも寝起きに聞く曲じゃないな。家から出たくなくなる。微妙に部屋薄暗いしさ。外は明るいみたいだな、黄色い中途半端な遮光カーテンつけてるから、こんなぼんやりした光の色になるんだよ。
「この女、絶対セックスのときマグロだよ。きっとつまんないよ」
 何言ってるんだあたしは。
「俺もそう思う」
 同意するなよ、あんたも。
「ねぇねぇ、3Pってしたことある?」
 何言い出す、何言い出すんだあたし。
「いや、ない」
 照れるなよ。照れられても困るんだよ。いや、たぶん普通に生きてればないよ。
「あんまし性欲自体には興味ないんだ、俺」
 ん? 無理してる? かっこつけてる? 「俺って性欲ない」なんて言ってるやつなんて9割9分まで「俺って他の奴と違うだろ。かっこいいだろ。だからヤらせろ」が本音だよ。性欲ないんだったら声かけるなっつの。ヤリ目的でしょ?
「ゴメン、ウソついた」
 …。何だお前。正直だな。ウソつけないんだ。何かな、なんで今のあたしたちのBGMにカヒミ・カリィ選んだのかな。このかすれた声、心地いいんだけどな んか狙いすぎな感じもしてちょっとやだなぁ。あ、カルメンじゃないこの曲? 聞いたことある。この女さぁ、絶対狙いすぎだって。なに、パリっ子なの? マグロのくせにあんまし調子乗って歌ってるんじゃないわよ。あんたのちびまるこちゃんの最後の歌、結構不評だったわよたしか。暗いって。
「今、何時?」
「えっとね…、2時過ぎたとこ」
 たぶん寝たのが朝の7時過ぎくらいだから、7時間しっかり寝てるわけか。じゃあいいや、起きよう。コンタクトが目に張り付いてちょっと気持ち悪い。いいや、こんなのは時間がたてば馴染む。
 それにしても、なんなんだこの部屋。4畳半っぽいけど、物の配置が上手いのか広く見える。たぶん家具とかに高さがないから圧迫感抑えられてて広く見える んだろうな。ベッドも置いてないし。黄色い中途半端な遮光カーテンのおかげで、部屋全体が間接照明あてたみたいなぼんやりとした光状態になってる。狙いだとしたら大した照明技術だ。床には全体にふわふわしたカーペットが敷いてある。かなり気持ちいい、これ。けっこ高いんじゃないのか。外観は超ボロボロのア パートだったのに。連れられてきたとき、正直引いたよ。ありえないだろ、このボロアパートは。まんが道か。それでも中入るとすっげー綺麗だし。秘密基地か。そこにあるの、プロジェクターじゃないの。そこから光出して、逆側の壁に当てるんだ。4畳半でプロジェクターって…、それ買う金あるんだったら風呂つ いてるもっと広い部屋に引っ越そうよ。シャワーすらないってどういうことだよ。ギャグか。
 頭ぼんやりする。ふわふわしてる。なんだよこのカヒミなんとかいう人の声、中毒性あるんじゃないの。なんでこんなに乾いて濡れた声でてんのよ。マグロのくせに。ほら次郎ちゃんこてって寝ちゃったじゃない。ネコか、この人は。なんで寝っころんでうねうね動いてんの。なんか気持ちよさそうだな。ちょっとマネ してみようかな。このまま横になって、あ、くそ、マグロ女の声が脳ミソに入り込んでくる。ええいもうめんどくさい、いいよ、開放するわよ。入ってきなさい よ勝手に。あー、なんとなくわかってきた。うねうね踊ってたのね。あ、心地いいなこれ。いいや、抵抗しない。入ってきて。同調するわ。うねうね。うねうね。次郎ちゃんと目が合った。一瞬びっくりして目が丸くなってた。きょとん、って言葉考えた人頭いいな。ちょうどそんな感じ。きょとん。きょとん。おもろ いなこの人。本当ネコっぽいな。次郎ちゃん寄ってきて、あたしの耳元から首筋まで舌を這わせた。やだ、開放しちゃってるからすごい敏感になってる。妄想で オナニーしてるときみたいにぞわぞわってなる。ぶるっ、って震える。昨日の状態のままだから、あたしまだ半裸だ。下着だけはつけたけど、肩とか太ももとか むきだしだし。そそられちゃったの、あんた? 鎖骨から胸の付け根のあたりまでぺろぺろなめてくる。ぺろぺろっていうか、ちろちろっていうか。なんか、何もしないのいやだな。なんかしたいな。動きたい。踊りたい。うねうね。胸に吸いついてくる次郎ちゃんの耳をぺろんってなめてみた。一瞬次郎ちゃんの動きが 止まる。ちらっと上目づかいでこっち見た。目、けっこ大きいよね。まっすぐな感じして良いよ。1秒ほど呼吸止めて、また舐めてきた。ちろちろ。それはどう いうこと? 続けろってこと? わかったわよ、あたしもちろちろしたげる。左耳を口で咥えこんで、軟骨に沿って舌を動かしてみた。ちろちろってか、ねちゃって感じ。なんか、手は使いたくない。今手使うのはなんとなく無粋な感じがする。舌と体全体だけで感じたい。触らないで、舌でなぞって。手はだめ。手は、欲望を示すから。今のあたしには欲望は重い。もっと、ふわっとしたもので。ちょうどいいよ、次郎ちゃん。その感じ。なんか二日酔いしてるみたいな感じ だし。二日セックス酔い。迎え酒はいらない。ホットミルクだね。キミ、ホットミルクだよ。なまぬるいなぁ。この部屋も、この光も、あんたもなまぬるい。いいね、一生なまぬるくていいね。あたしずっとあんたの耳を甘噛みしたまま、とろけてあげるよ。ちろちろ。ちろちろ。こら、下に逃げるな。いいから。セックスはしなくていいから。義務感にかられてるの? 別にいいよ、イかせようとしてくれなくて。
「やだ…」
 あ。しまった、ちょっとNGワードだったかな。一瞬びくっとした。違うよ、べつに次郎ちゃんを拒否ってるわけじゃないって。別にセックスしなくていいだけだって。大丈夫かな。大丈夫かな。ほら、そんな小動物な目しないでよ。顔のぞきこまないの。あ、ころんってなった。こら、人の胸借りて寝るな。起きろ。 肉布団か。肉布団かあたしは。かなりおっぱい星人だねあんた。はっは、魅惑のFカップ。美巨乳美巨乳。よく育ったなおまえ。どうしようこれ。この駄ネコ。 うーん、いいや、放置。ほら、どきなさい。寝てる? 寝てる? よい、しょ。
「ん~ん~…」
 甘えた声出さないの、おっぱい好きだねあんた。つかむなこら、つかむなこら。そのまま寝てなさい。ちょっとあたしは調べなきゃいけないから。お仕事お仕事。携帯開いて、いくつかのサイトにアクセスする。
「何してるの?」
「エン探してる」
「エン? …あ、援交か」
 援交もどんどん相場が下がっちゃってる。どっかのバカがバンバン安売りするからだ。バカだよね、自分を大切にしなさい。安売りしたら相場が下がるで しょ。あたしが中2の頃は20万ふっかけても払う奴いたけどね。最近はダメだ。全然ダメだ。買うオヤジたちにもネットワークや知恵がついてきたのか、買い 叩かれる。基本的な相場は、あたしたち女子高生で本番までして3万。3万ならまだいい方だ。ブスだったりすると1万以下でやる子もいるみたいだ。迷惑。本当に迷惑。処女で中学生以下で相当可愛くないと、10万はとれない。2000年代援交ショックだ。
「麻婆ハルサメが食べたい」
 いきなり何言い出すかなこの子は。
「麻婆ハルサメか、ジャージャー麺が食べたい。買って来て。つけ麺でもいいよ。つけ麺は甘めのやつね。メンマが食べたい」
 わけわかんない。人間、思い付きをすべて口にしていいかと言われれば、それはちょっと違うと思うよ。まあ麻婆ハルサメくらいなら実害なくていいけど。
「まーぼー、まーぼー」
 手ばたばた振るなって。あんたいくつだ。あたしには20くらいには見えるんだが。
「ハルサメとザーサイってどう違うの?」
 知るか。
「昔さ、家庭科の実習のとき、ハルサメとザーサイ間違えたんだよ。今でも違いがよくわからなくて。糸こんにゃくとの違いはなんとかわかるんだけど。糸こんにゃくとしらたきっていっしょだよね? 俺、家庭科全部失敗した。一度も成功しなかった。たしか通知表は2だったと思う。えっとね、シチュー作ろうとした とき、なんか出来上がってフタあけたら茶色くなってたんだよね。びっくりした。ビーフシチューになってるんだもん。バターロール返品して食パンにしようかと思った。炊き込みごはん作ったときも、フタあけたら白かったんだ、ごはん。たぶんしょう油入れ忘れたんだよね。しかたないから、みんなでしょう油かけて食べたよ。米残したら怒られるじゃん」
 いや、こんなところでそんな微妙なつらい過去を語られても。
「ザーサイとザーメンってノリが似てるよね」
 …ノリ? 根本的に別物だっつの。
「しかたないから、その次からは毎回もう狙いで間違うことにした。皿とか、明らかに大きさ勘違いしてたりとかね。どんぶりにこんにゃくゼリーおとしてデザートって言い張ったりした。ごはんの上にセロリ立てたりとか。食べたよ、ちゃんと全部」
 で、何が言いたい、何が。
「麻婆ハルサメ食べたい。今ここではっきりさせたい。ハルサメってなんだ。植物か。キクラゲとはまた違うのか。あの時さあ、班分けとか明らかにおかしかっ たんだよね。出席番号の1番からそのまま6人ずつ区切って班作っていったんだ。出席番号、あいうえお順で前半が男子で後半が女子なんだよ。で、男子はたしか27人だったんだ、そのクラス。要するに、男子の最後の3人は、女子の最初の3人といっしょの班になるわけ。渡辺だか綿貫だか忘れたけど、その辺の奴ら は明らかに楽してるんだよ。女の子がほとんどやってくれるから。もうふざけんなって思ったね。なんだこのムチャクチャな差別は。明らかな作業労力の格差 は。許せなかった。救いは、有田さんも伊藤さんも井上さんも、全員ブスだったことかな。これで誰か一人でも可愛かった日には、作りかけの熱々スープぶちま けて暴れるとこだった。だから俺は今でも料理がさっぱりできない。限界は卵焼きだ。こないだ突然食べたくなって冷やし中華作ってみたんだけど、冷やすの忘れた。きゅうりとかカニカマとかトマトのっけて気づいたんだけど、湯気立ってたんだ。冷やし中華から。わかるか、そのときの俺の絶望感が。奈落の底に突き 落とされた気分だ。言辞矛盾だ。冷やし中華が冷えてないんだぞ。前提の時点で間違ってるんだぞ。論外、そう、まさに論外の冷やし中華を作っちまったんだよ 俺は」
 そうか大変だったな。そんなに大変か?
「この前友達の家で鍋やったんだよ。とりあえずビール飲んでて、わりと調子良かった。俺は鍋の作り方とか全然わからないから、皿並べたり食材運んだり買出し行ったりしてたんだ。で、豆腐切ったんだよ。それくらいならまぁなんとかできる。手の上に乗っけて、上手いこと8つに切ったんだ。で、あまりにもきれい に等分に切れたんで、ちょっとノっちゃって歌ってたんだよ。『おっとうふ、おっとうふ、おっと、ウフ♪』って作詞作曲俺の即興ソング歌っちゃってたんだ。 で、それが完全に聞かれてた。後ろ振り向いたら、みんな苦笑いだよ。わかるか、そのときの俺の絶望感が。一番聞かれたくないものを聞かれちまったんだ。絶望だよ。もうバイク盗んでどこまでも走りたかったよ」
 はぁ。で、それと料理とどんな関係が。ぶっちゃけ関係ないよね。ってか、即興ソングて。コントか。コントか、あんたの日常は。
「俺は二度と料理はしない。絶対に包丁は握らない。怖いからな。ネギだって刻むもんか。猫手にしてれば大丈夫なんてウソだね。俺は、猫手で切ってて中指と人差し指の第二関節の上ざっくりやった。全治2週間だよ。痛いぞ、傷口にネギの汁が入ってね。どれだけ自分を恨んだか。こんな思いをするくらいなら、一生 料理はしないと先祖代々と俺の心底に誓ったよ。だから頼む、俺のためにジャージャー麺を、ジャージャー麺を。つけ麺でもいい。この際だ、ハルサメでもい い」
「あのさ、まぁハルサメはよくわかった。でもなんで自分でコンビニ行かないの?」
 きょとん、とした。あたしにパシらせる気だったのか。本当に自分で行くことまったく考えてなかったのか。どういう神経だ。
「そうか、それはまったく考えてなかった。たしかにそうだ。自分で行きゃいいんだ。賢いね、ゆうな」
 ヤバい、こいつ本気の目だ。悪気とかまったくなしか。考えてなかったって、考える順番おかしいだろそれ。
「あのさ、」
 今度は何だ。
「煮たまごが食べたい」

『設楽健介』

「わっふぅ」
 アホ、くるくる回りながら車道出るな。僕が恥ずいから。
「さあ来い、さあ来いプチ家出少女、オア、キャバ嬢。あ、スウェットはNGだ。俺が嫌いだからな」
 西友を出て5分ほど歩くと大きな道に出て、渡ってしばらく右に行くとサンシャインのそばにでる。大通りに出る前に左手にでかい看板がある。そのうちの一つなんだが、7~10歳くらいの女の子をフューチャーしたCDや写真集の宣伝がある。一体何をターゲットに考えてこんなでかでかとした看板ぶち立ててるん だろうか。べつにテレビとか出てる有名な子、というわけでもないだろうし、どっかのしょーもない制作会社が勝手にユニットとか作ってるみたいだ。こないだテレビで性犯罪者の情報を公開するだとか追跡調査するだとか討論番組やってたけど、まずこれ撤去した方がいいんじゃないか。明らかにそれ狙いじゃん、こ れ。
 1月なのでかなり寒い。なんで西はあんなに元気なんだ。いつ見てもなんかニヤニヤしてる。なにが嬉しい。今の西は昔と違い、髪を切ってある程度さっぱりしている。それでも長めなのだが。前は「いかにも」な感じだったが、だいぶ真人間っぽくはなった。髪はかなり明るく染めていて、顔は地黒らしい。自分ではジャニ系と言い張っているが、どちらかというとただのギャル男だ。黒い、ボアつきのフードのついたダウンジャケットのポケットに両手をつっこんで、前に手 を回してぷらぷら歩いている。なんか、いつ見てもこんな感じな気がする。僕はちょっと薄着で出すぎた。ジャケットとマフラーだけでは少し寒すぎだ。西友行くだけだったらこれで十分だと思ったが、西の迷惑な思いつきのせいで、僕は今かなり後悔している。
「なあ、絶対いないと思うぞ。寒いし」
「いーるーのー。なんかおもろいことあるの、絶対。ダメだったらダメでしかたないじゃん、ラーメン食って煮たまご食って帰ろう」
 なんで煮たまご。たしかに煮たまごは素晴らしい。わずか100円の追加でラーメンのランクは3段階は上がる。煮たまごのレベルでそのラーメンのレベルが決定すると言っても過言ではないくらいだ。
「踊ろう。いっしょに煮たまごサンバを踊ろう」
 やめろ。やめてくれ。僕が恥ずかしい。頼むから路上で踊るな。何かの宗教かと思われる。なんだその変な動きは。たぶん思うに、それ神主さんがひらひらついた棒を振ってる動きをアレンジしただろ、おまえの頭の中で。かしこみかしこみしてるだろ。歩きながらかしこみするな。煮たまごを崇拝するな、頼むから。 なんだ、両手広げたな。今度はマラカスか。そういやこいつ、サンバdeアミーゴやシャカシャカタンバリンは異常に上手かったな。シューティングとか格闘は最初の面で死ぬくせに。
「煮たまごボマー」
「はっ」
 西が手を振りかぶって何かを投げるフリをした。ついつい反射的に防御してしまった。
「馬鹿め、煮たまご様を投げるなんてそんな畏れ多いことが出来るか」
 言って突然全力で走り出した。
「ウェンディーズ前で待ってるぞ!」
 そのまま一気に走っていく。待ってるぞて…、帰るぞ、おい。寒いんだよ、僕は。お前と違って今の彼女と上手くいってるんだよ。はぁ…。空は思い切った満月だ。何かがあると言うよりは、藍色の空に穴があいてそこから光が漏れてるみたいだ。雲の切れ端みたいなのが数筋流れている。今の彼女とは今のところ1ヶ 月半ほどの付き合いだ。クリスマス前の合コンラッシュで知り合い、そのまま付き合うことになってクリスマス、正月といっしょに過ごした。たまに合コンをする近所の女子大の2年生。歳は2コ下で、英文科らしい。料理もすごい上手だし、話も合う。ちょっと胸はないが、相性も悪くない。可愛いし性格いいし、全然不満はない。できればこのまま長く付き合っていきたいし、今は彼女を裏切りたくないのでナンパをする気はまったくない。だが明らかにツッコミ待ちの西を ほって帰ってしまっては後で何を言われるかわからない。あいつのボケのパターンは大体もう読めている。しかも、的確に正確な間で正しくツッコまないと、それだけで理不尽に不機嫌になるので扱いは気をつける必要がある。
 西は酔うと運命だ哲学だ語りだすので、もう三度くらい聞かされている。
「健、失礼の定義を言ってみろ」
「失礼? 態度が悪いとかか」
「違う」
「言葉遣いとかか」
「違う」
「気を遣えなかったり、マナーがなってないってことだろ」
「そりゃそうだが、誰もそんな一般論は聞いてない。失礼ってな、要するに相手に不快を与えるってことだろ。人間なんて根っこの部分にあるのは自分が快か不快かなんだから、その根っこの部分に流れる不快なとこに触れちゃだめってことだ。言葉遣いやマナーや態度なんて、育ってきた環境や相手との関係やその時々 の状況で変わる。そんなことはどうでもいい。もともとこんなに敬語が発達してるのは日本だけだ。マナーに関してはフランスがやたらうるさいな。ビジネス関連ではアメリカか。その国、その地域で何を重要視してるかで、礼儀の軽重のつけ具合が変わってくる。だが根っこに流れてることは一つだけ。相手に不快感を与えない。特に初対面の場合は、ひたすら相手に快感を与えること。ただそれだけだ。くだらんプライドは押し込めろ。言葉やマナーなんて後付けだ。竹を割っ たような性格、と言われるような奴なら、いきなりでかい態度でこられてもまったくむかつかないだろ。礼ってのは、型通りにすれば済むほど単純なもんじゃない。相手との関係は? 相手の気分は? 場の空気は? 時と場所は? お互いの立場は? 周りにいるほかの人は? 今の会話のモードは? それに応じて的確に対処する必要がある。自分の声のトーンは? 表情は? 雰囲気は? 発声の間は? メールなら文面は? 送るタイミングは? 読むしかない。他人のこ とは絶対にわからない、ひたすらに読むしかない。脳ミソフル回転して考える。相手と場の空気をとにかく読む。型にはめるんじゃない、すべてを感じ取って、ひたすらに不快を与えないよう考えるんだ」
「そうか」
「要するに俺が言いたいのはだ。人がボケたら的確に正確無比にツッコめ。それが礼儀だ。くだらんツッコみづらいボケなら黙殺していいが、てめ、さっきの俺の渾身のボケを潰しやがって。許さん」
 …そんな会話もあった。言う割にはお前も他人のボケを潰すじゃないか。
 とにかく、このまま西をほっておくわけにはいかない。帰ったりしたら後で頭からハルサメをかけられるかもしれない。満月とラーメンと煮たまごと、そしてきっちり礼を尽くすため、僕はしぶしぶ西の後を追うことにした。

『西次郎』

 最近睡眠時間が長くなっている。以前は5時間も寝れば十分だったが、最近は9時間10時間普通に寝る。しかも、現実に近いリアルな夢を見て、目が覚めた後もまだ夢の中であったことが夢なのか記憶なのかはっきりしない。そして、夢の量も濃度も、日増しに増している。
 今朝も多くの夢を見た。はっきりと記憶に残っている。

 僕は電車に乗っていた。ほかに乗客はいない、夕暮れ時の電車。強い西日がさしている。僕を含め、5人が横に並んで座っていた。僕の右に座っているのは、おそらく健か誰かだ。親しみを感じる。
 左に座っているのは、ついこの間死んだはずの中島らもだ。上下黒革の服を着て、つばの広いハットをかぶっている。間違いない、らもさんだ。らもさん、たしか身長170弱じゃなかったでしたっけ。異様に大きく見える。
 らもさんの奥に、もう2人座っている。
 僕は、らもさんの気を引きたいのかしきりに何かを話している。内容については全然覚えていない。らもさんは、あまり反応していない。たまにうん、うんとうなづくだけだ。そのぎょろっとした目と結んだ口からは、何を考えているのかさっぱり読めない。
 駅についたのか、電車はスピードを緩め、停止する。
 らもさんは立ち上がり、奥にいる2人もついて立ち上がった。2人の顔は良く見えない。片一方は、僕に良く似た背格好をしている。もう一方はやや背が高く、眼鏡をかけているように見える。
 僕に似たほうが、ちらりとこちらを見た。顔は、西日で逆光になって良く見えない。僕と似ている。だが決定的に違う。男のようだ。そいつは、白かった。肌が白いというか、全体的に色素が薄いようだ。髪の色も灰色に近い感じがする。目があまりにも印象的だ。そいつの瞳は明るい黄色、というよりは、金色に光っ ていた。
 ぷしゅー、とドアが開き、らもさんと2人はドアの方へ向かう。ドアから出る直前で、らもさんは振り返って一言だけ発した。
「出会えや、おまえら」
 そのまま振り返って、出て行った。2人も続いて出て行く。僕は、動くこともできなかった。
 らもさん、誰なんですかそいつら。僕らを置いていかないでくださいよ、動けないですよ。らもさん! 教えてください、誰ですかそいつは。誰ですか!?
 動けない。声も出せない。横にいる健らしき男も何も言わない。
 らもさん!
 ぷるるるるる、と発車ベルがなり、ぷしゅー、とドアが閉まる。車内にアナウンスが流れる。もう3人の背中しか見えない。電車は動き出す。ごとん、ごとんと徐々にスピードを上げていく。最後に顔を確認しようと3人の方を見るが、逆光でまぶしくて影にしか見えない。
 らもさん! 教えてください、誰ですか!?
 僕は、どうすればいいんですか、らもさん! らもさん!!

 …そこで、目が覚めた。

『設楽健介』

 サンシャイン通りは、いつものようにホストやキャッチがぱらぱらといるだけだった。こんな時間にこのあたりをうろうろしてる時点でロクな人種じゃない。いるだけで気分はやさぐれる。汚い街だ。なんで池袋って街はどうしても垢抜けないんだろう。何ていうか、テレビとかの情報に流されやすい田舎者がか たまって一つの文化圏を作り上げた街、という感じがする。東京に憧れる人々が心の中で作り上げた東京、といったところだろうか。そのあたりが居心地がいい といえばいいのだが。がんばらなくても大丈夫。ジャージだろうとスウェットだろうと誰も気にしない感はある。
 サンシャイン通りの中ほどにウェンディーズがある。ぶらぶら歩いて着いたはいいが、西の姿は見えない。どこへいってしまったんだろうか。基本的に西は待 ち合わせには確実だ。けっこう前に約束してて、忘れてるんじゃないかと思ってても意外と時間は覚えている。たまに思いっきりすっぽかしかましてくれるが。 2度ほど土下座されたことがある。こんな時間に一人歩きしている女の子というのも考えづらいが、かわいい子でも通ったのかもしれない。
 携帯コールしてみる。10回ほどコールするが、出ない。本当にナンパに動いてしまったんだろうか。僕はどうすりゃいい。帰るぞ、もぅ。とりあえず少し歩いて探してみる。この時間だと、カラオケ館の前辺りならば人は多い。ただほとんどが団体なので、その辺りに行っても意味はない。ぶらぶら歩いてみる。東口 からビッグカメラを通り過ぎて左の方に入っていくと、この時間でも明るい風俗街がある。ピンサロの看板や風俗案内所、ゲーセンやラーメン屋がひしめいてい る。いかにも中国人が仕切っていますな臭いがぷんぷんする。西はこのそばにある新文芸座という名画座が好きでちょくちょく足を運んでいるようだ。以前、土 曜夜のオールナイト企画で「ファーストガンダムナイト」があるから行こうと誘われ、付き合わされた。なるほどこれはたしかに男しか誘えない。夜通しファーストガンダムを見せられた。2時間40分×3部作。おもしろいことは確かなのだが、まとめてはちょっとした地獄だった。消化不良で胃がおかしくなった。西 は、第3部が始まってからはずっと隣でぶつぶつ「とろろそばが食べたい」とつぶやいていた。終わってすぐに富士そばに駆け込んだ。新文芸座を通り過ぎると 線路に当たり、その線路沿いの緑道にはダンサーやスケーターやただのヤンキーがよくたまっている。できれば行きたくはないが、ざっと見渡してみる。西の姿は見えない。
 ふたたび駅前に戻る。ヒマそうなタクシーの運転手たちが立ち話している。不況のあおりをもろにくっている感じだ。何ていうか、素直にかわいそうだ。こんな時代だからこそタクシーは運転手一人一人の意識から改革していかなくてはいけないと思うのだが、これまでに気持ちのいいタクシー運転手には一回しかあっ たことがない。その運転手は、乗ったらいきなり「よろしくお願いします。日の丸交通の伊藤と申します。私が最後までお届けさせていただきます」と丁寧極ま りないあいさつをくれた。しかも、乗った瞬間にただよう軽いレモンの芳香。静かに流れるクラシック。アメのおすすめ。ハイヤー並みのサービスをいただいた。うん、そこまで丁寧にこられるとさすがに少し引いた。タクシーの運転手は多少客をうざがるくらいでちょうどいいかもしれない。
 西はいない。もう一度電話するが、つながらない。どこまで走っていってしまったんだ。仕方がないから僕はメールして帰ることにした。
「連れ出し成功か? 帰るぞゴルァ」
 送信しようとしたその時だった。
「のおぉぁぁぁ!!」
 外人か? 違う、知ってる叫び声だ。こんなに必要以上に大げさでわかりやすい叫び声をあげるやつは一人しか思い浮かばない。ってゆーか西だ。
 西が走り抜けていった。目の前の信号、僕の進行方向は赤。僕が止まっているところを、向こう側の道を左から右へ思いっきり走り抜けていった。かなり必死の顔。横断歩道を駆け抜け、そのまま一気に路地に走りこんでいった。
「西!? おい待て、電話でろって」
 呼び止めようとしたが、まったく僕には気付かない様子だった。何があった、ヤバい女にでも声かけてカラまれたか。そんなことを考えていた矢先だった。ごう、と風が揺らぎ、周囲の雰囲気が一変した。かっ、と黒が白に、緑が赤に、灰が極彩色に変化した。まるでサーモグラフィーでもつけてるように景色が異様な 色に見え、一瞬で時間空間温度などの感覚が全身から削ぎ落とされた。フィルムのネガでも見ているようだ。だが三次元だ。いや、現実だ。くらっと脳内に奇妙 な分泌物があふれでるような感覚がし、時間の流れが急速に緩慢になった。音が、光が狂う。異様な光の筋が中空を走り抜ける。ぐわぁんぐわぁんと低い音が腹 に響く。耳が引きちぎれる。なまぬるい風が僕の四肢を叩きつける。脳を直接つかまれ、ぐるりと回転させられたような恐怖が全身をおおった。ばっと汗が吹き出し、目にじゅんと涙がたまる。腰をハンマーで殴り抜かれたような感触。頭から爪先まで総毛立った。
 それは、一瞬だった。一瞬の後に、僕は正常に戻った。何があったのかわからない、僕の身に。ただ、とてつもない恐怖だった。裏、そう、裏を見たような。 この世界の裏を見たような恐怖。今、西は何かに追われている。絶対に関わってはならない何かに追われている。関わりたくない。僕は関わりたくない。だが、 そういうわけにもいかない。見て見ぬフリなんかしたらそれこそ後で何を言われるか。
「読むしかない。他人のことは絶対にわからない、ひたすらに読むしかない。脳ミソフル回転して考える。相手と場の空気をとにかく読む。型にはめるんじゃない」
 だな。何度も言われてることだ。怖い。絶対に嫌な予感がする。だが、西は友達だ。友達には最大限の礼儀を払わなくちゃならない。
 僕は、後を追うことにした。昔からケンカもろくにしたことがないが。一応スキーサークルで鍛えさせられてるから体は丈夫だ。普通の人間なら、バトルになっても1対1なら大丈夫だと思うが。できれば暴力沙汰はイヤだな。

ビューティフル

続く!!!!!!

ビューティフル

西二郎は欠けている。 麻倉ゆうなは渇いている。 設楽健介は流される。 冷め切った主体のないモラトリアム。 「大切」のない世界で、浅く軽く饒舌な悪ガキたちの青春は続いていく。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 『西次郎』
  2. 『設楽健介』
  3. 『麻倉ゆうな』
  4. 『西次郎』
  5. 『麻倉ゆうな』
  6. 『設楽健介』
  7. 『西次郎』
  8. 『設楽健介』