そら
本当の私は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
あの日、あの時の私は自由だった。
何も考えず、ただ、好きなように飛び回っていた私。
好きなことを、好きなだけ楽しんでいた私。
あんなに楽しかった日常が、今じゃ夢のように思えてくる。
私は、どこで間違えてしまったのだろう。
『あの時、ああしておけば…』
そんな考えを巡らせていたら、いつしか一年になろうとしていた。
この一年は、私にとって、何年にも、何十年にも感じた。
あの日、私は、この檻に閉じ込められてしまった。
いきなり後ろからつかまれたと思ったら、一瞬で目の前が真っ暗になり、気がついたときには、この檻の中だった。
それから数日は、必死で檻から出ようともがいてみたが、どうやっても出ることができず、いつしか諦めてしまった。
それから時は流れ、一年が経った。
檻に入って一つわかったことがあった。
私は、空に恋してしまったのだ。
いつもは、当たり前に空に触れていたのに、檻に閉じ込められて、当たり前が、当たり前じゃなくなって、はじめて私は気付いた。
『こんなにも彼が好きだったんだ』
それからというもの、私は苦しくてたまらなかった。
檻の隙間から見える空は霞んでいて、檻は狭くて、一年も経つと、息が詰まるほどだった。
あのころ見ていた空は、もっと綺麗だった。
いつから彼は変わってしまったのだろう。
違う、変わってしまったのは私だ。
あれから一年で、私の眼は曇ってしまった。
このままでは、きっと彼が見えなくなってしまう。
不安が焦りを呼び、私は、何も考えず、再び脱走を試みた。
一日に、檻は三度だけ、食事を入れるのに開けられる。
私は、その檻が開く瞬間をねらって、脱走することに決めた。
朝、早くに目を覚ました私は、今か今かと、檻が開くのを待っていた。すると、廊下の奥から、足音が近づいてくるのが聞こえた。
みるみる足音は、私を閉じ込めている檻に近付いてきて、私の目の前には、小さなお盆を手にした大柄な男が一人、姿を現した。
「さあ、ご飯だぞ。」
男は、見た目とは裏腹に、優しく話しかけながら手にしていたお盆を入れようと檻の扉をあける。
「今だ!」
私は、扉が開かれるのと同時に、扉に向かって走り出す。
「あともう少し。」
扉までは、もうあと少し、ほんの眼と鼻の先の距離まで駆け寄る。
男は、不意を突かれたため、遅れて私を取り押さえようと、私に手を伸ばす。
しかし、時すでに遅し、私は扉を抜け、男の脇をくぐりぬけ、見事檻からの脱出に成功した。
「やったわ。これでやっと自由になれる。やっと彼に会える。」
長い廊下の向こうには、彼の輝きが見えた。
「こらー!勝手に逃げ出すんじゃない!」
しかし、そう簡単に自由にさせてはくれなかった。先ほどの大柄な男が、今朝とは違い、荒く激しい足音を立てながら私に迫ってくる。
私は、必死に飛んだ。男から逃げるべく、全力で。そして気付くと、先ほどまで小さかった彼の輝きが、もう目の前まで迫っていた。
「待っていてね。今行くから。」
私は、胸の中でその光に叫び、最後の力を振り絞る。
しかし、その瞬間、先ほどまできらびやかに輝いていた光が曇りだしたかと思うと、私はいつしか失速し、そして、目の前が真っ暗になった。
気がつくと、私は、また、あの忌々しい檻の中に倒れていた。
「ああ、また戻ってきてしまった。」
檻の中で俯きながら、私は一人、後悔と絶望に浸っていた。
廊下の奥からは、雨粒のはじける音が響いていた。私は思った。きっと、あの時、彼は私を見放したのだと。
ふと、上を見上げれば、吹き抜けの窓を通して、雨雲が見える。そこには、いつもの青く澄み切った彼の姿はなかった。
ああ、空よ。あなたは、私の楽しかった時、うれしかった時、そのどんな時にも私のそばにいてくれました。
しかし、私の苦しかった時、悲しくて泣いてしまった時。私が一番必要としていたときに、
なぜ、あなたは私を見捨てたのですか。
なぜ、そばにいてくれなかったのですか。
なぜ、助けてはくれなかったのですか。
なぜ…なぜ…なぜ………
気づけば、次の日の朝にいなっていた。
じめじめと、カビ臭い檻の中に、冷たく、湿った空気が、風に乗って吹き抜ける。
再び、上を見上げると、そこには、あこがれの彼が、吹き抜けの窓を通して、霞んで映っていた。
不思議なことに、あんなに昨日、彼に絶望したというのに、やっぱり彼のことを、私はまだ、好きなままだった。
「もう、疲れたわ。」
私は、彼を見上げたまま、あおむけに倒れる。ずっと彼を見ていると、そのうち、目の霞が濃くなっていくのがわかった。
「目が疲れてしまったのね。」
そう言って、私は眼をそっと閉じる。
すると、まぶたの裏には、これまでの私の人生が、走馬灯のようにぐるぐると、映し出される。
「待っていてね、今行くから。」
最後に映し出されたのは、本当の私の姿と、ずっとずっと憧れていた、私の思い人だった。
彼の美しすぎる青が、私を埋め尽くし、そして、私は、やっとのことで彼に出会った。
約一年ぶりの再会は、私と彼の最後の再会となった。
「私は、ずっと、あなたのことが好きでした。」
それからは、いつでも、どんな時でも、彼女と彼は、離れることなく、時は流れていくのだった。
Fin
そら